第1話前編 駄目過ぎる帝国・ビザンティン

第1話前編 駄目過ぎる帝国・ビザンティン

第1章 邂逅


 眼を開けると、僕は小宇宙の中にいた。

 いや、一体何を言っているのかと聞かれても、そうとでも表現するしかないんだ。
 周囲は暗闇の中、たくさんの輝く星が瞬いている。まるでプラネタリウムの中にいるみたいだけど、頭の上だけでなく下の方を見ても、ずっと同じような世界が広がっている。自分の身体は浮いているわけではなく地面に付いているみたいだけど、地面らしきものは見えない。まさに、宇宙空間の中に立っているような光景が眼の前に広がっているのだ。
 一体ここは何処なのだろう? 一体僕はなんでこんなところに居るのだろう?
 当然湧いてくる疑問に僕が混乱していると、やがてある方角から太陽らしきものが昇ってきた。目には見えないけど一応地平線らしきものがあるらしく、太陽らしきものは朝日が昇るように徐々に姿を現し、それと共に周囲は次第に明るくなっていく。
 そして、その太陽らしきものを背景にして、一人の少女が僕に近づいてきた。見たところ、年齢は僕と同じ15歳か16歳前後、見事な金髪と碧い瞳をした輝くほどの美少女で、宝石や金の刺繍を惜しみなく使った、何となくオリエント風の高価そうなドレスを纏い、気品のある所作で歩いてくるその美少女は、どこかの国の皇女様であるかのように思われた。
 ・・・・・・太陽の皇女様。何となく僕の脳裏にそんなフレーズが浮かんだ。とりあえず、僕はこの美少女をこの名前で呼ぶことにした。
 太陽の皇女様は、近づいてくると何やら僕に話しかけてきたが、全く聞いたことのない言葉なので意味が全く分からない。僕も日本語で「君は誰なの?」と問いかけてみたが、やはり通じないようだ。太陽の皇女様は,やがて意を決したように、さらに僕の方へ近づいてきた。同じ年頃の美少女に至近距離まで迫られるという、これまで経験したことのない事態に僕の心臓は高鳴り、一体何が起こるのかと戸惑っていると、太陽の皇女様はそのまま僕に唇を重ねてきた。初めて経験する女の子の甘い感触と共に、皇女様の唇から電流のようなものが走り、僕は意識を失った・・・。

 次に眼を開けたとき、僕は宮殿の一室のような部屋にいた。部屋の真ん中には、どこかの有名RPGでよく見る、大きなクリスタルらしきものが飾られている。部屋の中にいるのは、僕と例の「太陽の皇女様」、そして黒いローブに眼鏡をかけた銀髪の少年がいた。僕より背が低く顔立ちの整った少年は、見た感じ皇女様の従者のようだった。
「あんた、あたしの言葉分かる?」
 太陽の皇女様が僕に話し掛けてきた。相変わらず聞いたことのない言語だったが、今回は不思議なことに意味を理解できた。
「分かるけど、君は一体誰?」
 僕がそう問い返すと、彼女にも意味は理解できたようだった。太陽の皇女様は満足そうな笑みを浮かべて、「うんうん、どうやら『意思疎通』の呪法は成功のようね」といまいち意味の分からない独り言を呟いた後、僕に向かって話し掛けてきた。


「偉大なる栄光のローマ帝国にようこそ! あたしは、あんたの主人にして、偉大なるローマ人の皇帝イサキオス・アンゲロス・コムネノスの第18皇女、帝国で最も偉大なる神聖術の使い手にして、最も高貴なる緋産室の生まれ、テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様よ。よく覚えておきなさい。あたしのアンゲロス家はね・・・・・・」

 テオドラ何とかと名乗った皇女様の話は、あまり聞いたことのないアンゲロス家とやらの家柄自慢が延々と続きそうだったので、僕は彼女の話を聞き流しつつ、頭の中で状況を整理することにした。
 ・・・僕は平凡な日本の一高校生であり、間違ってもこんな異世界っぽいところに連れて来られる立場ではない。ただ、僕はお父さんの影響で昔から歴史系のゲームが好きで、歴史の本も色々読んでいるのでローマ帝国のこともある程度は知っている。イサキオス・アンゲロス・コムネノスというのは,たぶん12世紀末の皇帝イサキオス2世のことであり、そうであれば彼女のいう『ローマ帝国』というのは地中海世界に覇権を築いた古代ローマ帝国ではなく、通称『ビザンツ帝国』『ビザンティン帝国』などと呼ばれる中世ローマ帝国のことだろう。
 そして僕は、トラックに轢かれそうになったりした覚えはないが、学校から帰って宿題を終えパソコンを起動したとき、新作オンラインゲームの広告らしき画面が現れ、目の前の皇女様に似た美少女のイラストと「一緒にローマ帝国を再興し、歴史の旅を楽しみませんか?」というキャッチフレーズに惹かれ、お試しでやってみようと思い「ゲーム開始」のボタンをクリックし、続いて全く意味の分からない言語で書かれた利用規約らしき画面が表示され、促されるままに「同意する」ボタンをクリックしたところまでは覚えているものの、その後の記憶はない・・・。

 知識と記憶を整理した結果、この世界はおそらく、中世ビザンツ帝国を舞台にした、噂に聞くVR(バーチャルリアリティ)型のオンラインゲームであり、僕はその世界にログインしたのだろうと結論付けた。ちょうど皇女様の話も終わり、「どう、分かった?」と尋ねてきたところだったので、僕はこう答えた。


「大体察しはついたけど、僕は課金しない主義なんで、あんまり活躍は出来ないと思うよ」

 すると皇女様は、訝し気な顔をして「課金って何よ?」と聞き返してきたので、僕は更に続けた。
「とぼけたって無駄だよ。オンラインゲームって基本無料を謳いつつ、ゲームが進んでくると次第に課金しなきゃ先に進みずらい設計になっていて、はまっちゃうと借金してまで何百万円も注ぎ込んじゃうような仕組みになってるんでしょ? 僕はその手には乗らないよ。」
 すると皇女様は、妙に憐れんだような顔をして答えた。
「オンラインゲームとやらはよく知らないけど、あんたの国ってそんな詐欺まがいみたいな商法が流行ってるのね。安心しなさい。この世界はあんたの言うオンラインゲームとやらの世界じゃないから、あんたの国のお金は一切取らないわ。むしろ、この世界できちんと仕事をして成功すれば、信じられないくらいのお金持ちになることも不可能じゃないわよ。どう? すんごい魅力的でしょ?」
「まあ魅力的だとは思うけど、僕の仕事って何?」


「あんたの仕事はね、帝国摂政であるあたしの奴隷として、国の政治とか戦争とかいろいろ面倒くさいことをやって、あたしにご奉仕することよ」

「奴隷!?」
 僕の抗議めいた叫びを完全にスルーして、皇女様は状況説明を続けた。
「イレニオス、分かりやすいように地図を開いてあげて」
 イレニオスと呼ばれた少年が杖をかざし,聞き取れない程の早口で呪文らしきものを唱えると、それまで何もなかった空間に画面が現れ、何やら地図らしきものが表示された。地形は、何となく現在のギリシアとトルコあたりに似ており、海峡を隔てて東西に分かれた2つの大きな陸地と、大小の島々が表示されていた。
「ここが、私たちの聖なる都よ。でも今は、野蛮で不信心な『十字軍』を名乗るラテン人共たちに占拠されているわ」
 皇女様は、地図上に表示された赤い丸を指さしつつ、そのように説明した。その場所は2つの大陸を挟む海峡の近くにあり、地形と状況からすればおそらくコンスタンティノープルのことだろう。僕は、あの広告画面が出て来なければ、僕は最近始めた英語版の歴史ストラテジーゲームで、今頃ビザンツ帝国を再建しローマ帝国復活を目指すプレイを続けていただろう。そんなわけで、ビザンツに関する知識はそれなりにあるのだ。
「そして、あたしたちの現在地が、ここニケーア」
 皇女様は、続いて表示された緑の丸を指さしてそう説明した。ニケーアと呼ばれた場所は、聖なる都から海峡を隔てた反対側にあり、距離的にはあまり離れていないようであった。それに続けて、
「現在、あたしたちの兵力は約2千人。これに対して、ラテン人のブロワ伯ルイ率いる約5千人の軍勢がニケーアに向かっているとの情報があります。これをちゃちゃっと撃退して、聖なる都をちゃちゃっと奪還して、偉大なるローマ帝国を復活させるのがあんたの仕事よ。分かった?」
 いかにも軽いノリでとんでもないことを口走る皇女様に、僕は思わず抗議した。
「その状況って、どう考えても滅亡寸前だよね!? しかも、僕は戦争なんてゲームでやったことがあるだけで、本物の戦争なんてやったこともないし、どう考えたって無理だよ! 日本に帰してよ!」
 ゲーム的に考えても、『ランペルール』のシナリオ5や、垓下に追い詰められた『項劉記』シナリオ4の項羽に匹敵する難易度だ。一応どちらもクリアしたことはあるが、僕はナポレオンや項羽のような名将などでは全く無く、リアルの戦争に関しては素人である。どう考えたって無理ゲーだ。

「そういうわけには行かないわ。あたしたちだってこの状況を乗り切れるかは死活問題だし、あんただって、もう奴隷契約書に同意してるから、この契約に拘束されるわよ」
「奴隷契約書って何!? 僕、そんなものにサインした覚えはないんだけど!?」


「何言ってんのよ。あんた、こっちの言葉で書かれた奴隷契約書をろくに読みもしないで、ここをクリックしてねって書かれた『同意する』ボタンをクリックしたじゃない」


 僕は思わず戦慄した。確かに、パソコン上でそんなボタンをクリックしてしまった覚えはあったが、まさかそんな恐ろしいことが書かれているとは考えもしなかった。
「そうすると、僕はローマ帝国再興とやらの目標を果たすまで、日本には帰れないんですか?」
「そんなこと無いわ。あんたの国には時々帰してあげるわよ。あんたの国で1日過ごして、眠りに付いたらこっちへ帰ってくる感じね。その代わり、ローマ帝国再興のミッションを放棄してこっちには戻ってこないと言うのであれば、奴隷契約書に基づき重大なペナルティが発生するわよ」
「どんな?」


「ペナルティとして、あんたの『男の子にとって一番大切なところ』をちょん切っちゃうわよ♪」

 僕は事態の恐ろしさに戦慄した。一応、そんな契約は公序良俗違反で無効になるはずだと反論してみたが、側にいたイレニオスに「この世界では、あなたの国の民法は適用されない」と切り返されただけだった。もはや反抗する術を思いつかなかった僕は、「分かりました。微力を尽くします」と答えるしかなかった。
「そういえば、あんたの名前を聞いてなかったわね」
 皇女様にそう言われたので、僕が名前を告げたところ「なによそれ。かっこ悪いし呼びにくいわ」と言われた。誰が聞いても、皇女様の名前の方が覚えにくいだろうに。ここまで読んでくれた読者さんの中でも、テオドラ何とかという皇女様の名前をフルネームで覚えている人が一体何人いるだろうか。
 そんな僕の思いをスルーして、皇女様は僕にこう言い放った。

「いいわ。あんたにはいい名前を付けてあげる。ミカエル・パレオロゴス、これが今日からあんたの名前よ。由緒ある名門貴族の格好良い名前なんだから、大事にしなさい」

「格好良いかどうかは知らないけど,そんなに呼びやすい名前ではないような・・・」
「じゃあ、普段はあんたのこと『みかっち』て呼ぶことにするわ」
 勝手に名前を付けられた上に、さらに略された!
 もっとも、僕は皇女様の奴隷にさせられた身分である。僕の『男の子にとって一番大切なところ』を守るためには、もはや何を言われても皇女様の命令に従う以外に選択の余地はなかった。
「分かりました。ミカエル・パレオロゴスの御名、有難く頂戴いたします。皇女様」
「ああ、あたしの呼び方はテオドラでいいわよ」
 傲慢不遜な割に、結構フレンドリーな皇女様だった。

 そこから先の手続きは、訳も分からないうちに進められていった。僕は宮廷のメイドさんたちにこの世界の礼服に着替えさせられ、テオドラの父親であるイサキオス帝に謁見を許された。
「父上、件の『神の遣い』として復活した、ミカエル・パレオロゴスを連れてまいりました。」
 テオドラが、イサキオス帝に僕のことをそう紹介した。「神の遣い」とか「復活」ってどういうことだと聞きたいところではあったが、仮にも皇帝陛下の御前でそんな質問をするわけにもいかない。
「神の遣い殿は、どんな姿をしておいでかな」
「黒髪黒眼で、とても美しい容貌をしておられます」
 イサキオス帝が、側近らしき女性とそんな問答をしていた。この国で皇帝に拝謁する際の作法である跪拝礼を終えてイサキオス帝のご尊顔を拝見したところ、既に老齢で眼が見えないようだった。しかも眼の傷跡を見る限り、病気で眼が見えなくになったのではなく、何らかの刑罰を受けて盲目にされたようであった。いずれにせよ、盲目では皇帝自ら政務を執るのが不可能なので、娘のテオドラが摂政を務めているということは分かった。なお、「とても美しい容貌」というのはたぶんリップサービスだと思う。僕は、「男の子なのに可愛い」などと言われて内心傷ついたことはあるが、とても美しいなどと言われたことはない。
 そんな儀式を経て、僕はイサキオス帝から摂政補佐に任じられた。その後イレニオスから「軍事面についてはマヌエル・ラスカリス将軍に、政務面についてはゲルマノス総主教に聞くといい」と助言され、2人を紹介された。ラスカリス将軍は40代くらいの、いかにも老練の軍人らしい頑強そうな身体と容貌の持ち主で、ゲルマノス総主教は見た目20代ないし30代くらいと意外に若く、温厚そうな感じの人だった。精神的に疲れ切った僕は、食事を取ってすぐさま眠りについた。何を食べたかは覚えていない。


第2章 初陣


 翌日の朝、僕はラスカリス将軍にニケーアの街を案内された。なお、発音は「ニカイア」「ニケア」とも聞き取れるが、面倒なので「ニケーア」で統一することにする。ニケーアの街は広いとは言えなかったが、結構立派な宮殿と教会があり、頑丈そうな城壁で囲まれていた。狭い街の中に結構な数の市民たちが暮らしており、ラテン人の侵攻を心配して何やら色々と噂している様子だった。人々の姿は国際色豊かで、金髪の白人もいれば黒人もおり、アジア系と思われる黒髪黒目の人もいた。そのため、黒髪黒目の日本人である僕が特に目立つことはなかった。
 城壁の上に昇ってみると、西側には結構大きな湖があり、水は澄んでおり眺めは絶景だった。
「これがニケーア湖です。この湖のおかげで水の供給に困らないのが、この街の大きな利点ですな」
 ラスカリス将軍がそう説明してくれた。ちなみにニケーアという街の由来は勝利の女神ニケにちなむものであり、「勝利の街」を意味する縁起の良い名前であるらしい。街の防衛に使える戦力は、ヴァリャーグ近衛隊と呼ばれる精鋭の皇帝親衛隊が1千人強、ニケーア守備隊の軽騎兵約200騎、歩兵約800人とのことであり、城壁外で行われている訓練の様子も見せてもらった。城壁外にも結構な数の人が住んでおり、聖なる都から逃げてきたという人々の貧民街も形成されていた。戦争になった場合、城壁外に住んでいる人々を全て城壁内に逃げ込ませるのは難しそうだった。
「この様子だと、籠城戦というのは難しそうですね」
 僕がそう言うと、ラスカリス将軍は来るべき戦いについて助言してくれた。
「恐れることはありません。現在ニケーアに向かっているブロワ伯ルイ率いる軍勢は、総数こそ5千人という報告が来ておりますが、この数は敵側が触れ回っている数字であり、実数はそれより少ないでしょう。それに、聖なる都を占領したラテン人はもともと1万人に満たず、ブロワ伯配下の騎士は500人程度に過ぎません。残りはおそらく、現地徴募した農民兵でしょう」
「なるほど。将軍には何か策があるのですか?」
「私も聖なる都でラテン人と戦ってきましたが、ブロワ伯ルイは十字軍諸将の中でも、いわゆる武勇だけが取り柄の男です。彼を挑発して深追いさせ、主力の騎士隊と後方の農民兵を切り離し、森の中に伏兵を置いて騎士隊を撃滅すれば、残りの兵士たちは恐れるに足りないでしょう。」
 僕は実戦経験こそないが、ラスカリス将軍の策は合理的なものであり、その策なら勝てるような気がした。
「だったら、その策で行けばいいじゃないですか」
「そう出来れば良いのですが、問題はそれで軍議がまとまるかどうかです。特に皇女様を納得させられるかどうかが問題でしてな・・・・・・」
「どういうことですか?」
「明日軍議がありますので、それに出席して頂ければ分かります」
 ラスカリス将軍がそれ以上は答えにくい様子だったので、僕はそれ以上追及せず、城壁を降りて宮殿に戻ることにした。
 すると、ある黒髪黒目の少女が僕に駆け寄ってきた。


「あ、あなたが『神の遣い』様なのですか?」


 答えにくい質問だった。どうやら自分が『神の遣い』ということにされているらしいことは分かっているが、もちろん自分はそんな大それたものではないし、どうして自分がそんなものにされているのかという説明も受けていない。
「う、うん、どうやらそういうことにされているみたいだけど」
 僕は曖昧な答えで誤魔化したが、その少女は
「が、頑張ってください、なのです」
と言って、おずおずと僕に向かって綺麗な青い花を差し出してきた。
「あ、ありがとう」
 花を受け取った僕がそうお礼を言うと、顔を真っ赤にしたその少女はそのまま走り去ってしまった。名前を聞くのを忘れてしまったが、顔も声もすごく可愛らしい少女だった。そんな光景を見ていたラスカリス将軍がどう思ったかは、当時の僕には考える余裕も無かった。ちなみに、もらった花は宮殿のメイドさんに頼んで、僕の部屋に花瓶を置いて飾ってもらった。

 その翌日、宮殿で軍議が開かれた。議長は摂政のテオドラで、例の杖を持って眼鏡を掛けた魔導士らしき少年イレニオスと、テオドラの側近と思しき何人かの女官もなぜか参加していた。男性の参加者は僕の他にマヌエル・ラスカリス将軍とその息子テオドロス・ラスカリス、ニケーア守備隊長官バルダス・アスパイテスその他数名であった。テオドロス・ラスカリスは先日も姿を見掛けたが、堂々たる体躯を持ち巨大な戦闘斧を軽々と使いこなす彼は三国志の徐晃を思わせる豪傑で、軍の中では彼が一番の強者とされているようだった。
 テオドラ以外の出席者は予定時間までに集合していたが、議長のテオドラがなかなか来ないため、軍議を始められない。1時間くらい待たされ、出席者たちがさすがに苛立ってきた頃になって、ようやくテオドラは現れた。ようやく軍議が始まるのかと思いきや、テオドラは遅れてきたことの言い訳すらせず、女官たちと「このオフェリアが入れた紅茶は美味しいわね」「この菓子まずーい」「ニケーア湖のほとりに綺麗な花が咲いていたけど、あたしの美しさには敵わないわね」「昨日、貧民街に変なおじさんがいたわよ。誰かを呪っているのかしら」云々といった無意味な雑談を、およそ2時間にわたり延々と繰り返した。僕はそれでも辛抱を続けていたが、昼頃になりテオドラが「あ、そろそろ入浴の時間だからあたし帰るわね」と言い出したところで、僕の堪忍袋の緒はついに切れた。

「真面目にやれ~!!!!」

「何よ、みかっち。そんなに大声出して。怒ると健康と美容に悪いわよ」
「テオドラ、これが何の会議だか分かってるのか! 敵軍が迫っているからそれを迎え撃つための軍議なんだぞ! ここにいる全員の命が懸ってる会議なんだぞ! やる気あるのか!?」
「もう分かったわよ、みかっちがうるさいから、さっさと始めてさくっと終わらせましょ。はい誰か意見あるひと~」
 こんな調子ではあったが、ようやく軍議らしきものが始まり、最初に発言したのはテオドロス・ラスカリスであった。
「作戦なんて必要ねえよ。このビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリスが先頭に立って突っ込めば、ラテン人なんて敵じゃねえな」
 敵将ブロワ伯ルイとやらも猪武者らしいが、どうやらこのテオドロスも同類らしかった。テオドロスの発言に僕が反論しようとしたところ、先に口を出したのはテオドラであった。
「何がビザンティオンの聖戦士よ。所詮はヴァリャーキー、斧を振り回すしか能のない連中ね。もっと頭を使いなさいよ」
 そう言われると、テオドロスも押し黙ってしまった。剛勇の持ち主である彼も、主君には逆らえないという風であった。ちなみに「ヴァリャーキー」というのは、いわゆる北欧出身のヴァイキングと同じような意味で、野蛮人という意味も含まれている。
「じゃあ、テオドラに何か策はあるの?」
 僕が尋ねると、テオドラは結構大きな胸を大きく張り出して、自信満々にこう言い放った。
「もちろんあるわよ。この天才神聖術士テオドラ様が編み出した秘術・メテオストライクを最大威力で繰り出せば、ラテン人なんてこの世界ごと吹き飛ばして見せるわ!」
「テオドロスよりもっと酷いじゃないか! 世界ごと吹き飛ばしてどうするんだよ!」
 ちなみに、テオドラのいう秘術の正確な名称はギリシア語読みの「メテオロロギーキ・アペルギア」であるが、呼びにくいし面倒なので英語読みのメテオストライクと訳しておく。どうせ役に立たないネタ魔法の類だろうし。
「じゃあどうしろって言うのよ」
 ようやく僕に発言の機会が回ってきたので、前日ラスカリス将軍を打ち合わせていたとおり、
「では発言させて頂きます。敵軍の数は我が軍より優っていますが、主力は500騎程度と推測されるラテン人の騎士隊であり、騎士隊と後続の歩兵隊を引き離せば勝機はあると考えられ・・・」
「そんな地味でつまらない話やだ~! みかっち、もっと面白い話しなさいよ」
話を進めようと思ったら、テオドラに話を遮られた。昨日ラスカリス将軍が心配していたのは、テオドラのこういう反応だったのか。
「テオドラ、軍議ってのはこういうものだから。軍議に面白さを期待しちゃダメだから。そもそも摂政というのはだね、・・・・・・」
 僕がテオドラに説教を始めると、
「何よつまんない。あたし入浴の時間だから帰るわね。後はあんた達で勝手にやんなさい」
 テオドラは、そう言い残して議場を去ってしまった。テオドラと一緒に、お付きの女官たちも帰っていった。
「・・・今の皇女様のご発言は、ミカエル殿に白紙委任されたと解して宜しいのですかな?」
「面倒くさいからそういうことにしておきましょう」
 ラスカリス将軍と僕がそう発言したことで、ようやくまともな軍議が始まり、ラスカリス将軍考案の作戦で決まりかけたが、テオドロスはなおも正面突撃作戦にこだわり不平を言っていた。これに決着を付けたのは、今まで黙っていたイレニオスであった。


「摂政代理ミカエル・パレオロゴスと、マヌエル・ラスカリス将軍の作戦を是とする」


 彼がそう発言しただけで、なぜかテオドロスも沈黙して議場は静まり返ってしまい、無事作戦案は決まった。問題は、ブロワ伯ルイをおびき出す囮役を誰がやるかであったが、これは僕が引き受けた。ラスカリス将軍からは危険ですと止められたが、今後摂政代理として軍を率いて行くには、このくらいの危険は自ら引き受けなければならないと思ったのだ。

 もっとも、実際には「言うは易し行うは難し」であった。僕は200騎の軽騎兵隊を率いて囮になる役であったが、そもそも馬に乗るのは今回が生まれて初めてであった。何度も落馬し、その度治癒の術を使えるらしいイリニオスに傷を治してもらった挙句、馬丁さんに一番大人しい馬を選んでもらい何とか馬に乗れるようになったものの、逃げる途中で落馬したら一巻の終わりなので、念のため本番では身体を馬の鞍に縛り付けてもらうことにした。
 さらに、鎖帷子の鎧を着ようとしたら、もやしっ子である僕は重すぎて動けなくなってしまったので、軽装の革鎧で妥協するしかなかった。一応短めの剣も携帯したが剣術など習ったこともなく、形ばかりの気休めにしかならなかった。ラスカリス将軍には何度も止められたが、それでも僕はやることにした。自分は大将として軍の信頼を得ているとはとても言えず、後方の安全な場所でじっとしているだけではそんな状態から抜け出せないと思ったからだ。
 僕は三河武士の末裔、例えこの地で死ぬとしても武士らしく死んでやる。僕は絶えず自分にそう言い聞かせて恐怖心を抑えながら、この危険な任務に臨んだ。

 そんな紆余曲折を経て、僕はペトロスという騎兵隊長に補佐されて、軽騎兵200騎を率い、ニケーア湖畔の街道でブロワ伯ルイ率いるラテン軍と対峙した。騎士隊はラスカリス将軍の予想どおり500人程度、その後に続く歩兵隊は、2千人ないし3千人程度。ただし、ルイは見た感じテオドロスにも劣らないほどの強そうな武将であった。そして配下の騎士たちも巨漢の強者揃いで、しかも馬に至るまで重武装の鎖帷子に身を包み、馬上槍で武装している。西欧の騎士はよく「中世の戦車」と表現されるけど、その名に恥じない異様だった。あんな部隊が一斉突撃を掛けたら、本当に10倍の敵でも蹴散らしてしまうかも知れない。
 僕のそんな思いをよそに、ルイは僕を見るとこんな名乗りを挙げ始めた。


「我こそは、誇り高き十字軍戦士ブロワ家の末裔にして、母方はフランス王ルイ7世とエレオノール・ダキテーヌに連なり、イングランドのリチャード獅子心王、フランスのフィリップ2世・オーギュストをも祖父の従兄弟に持つ、最も高貴なるブロワ伯ルイであるぞ!」

「「「うう、ご立派です、ルイ様!!」」」
 ブロワ伯ルイの名乗りに合わせて、お付きの騎士たちが感涙にむせび泣き始めた。どこかの本で、この時代の騎士はやたらと感涙にむせび泣く癖があると聞いたことがあるけど、これでは単なる茶番劇だ。ルイの挙げた人物はいずれも西欧史上の有名人だけど、遠い親戚にリチャード1世やフィリップ2世がいるから何だというのか。そんな僕の思いをよそに、ルイの名乗りはさらに続く。
「我は遠くブロワの地より出でて……」
 それから小一時間ほど、ブロワ伯ルイの十字軍遠征に関する苦労話と、その話に共感する騎士たちのむせび泣きが続いた。面倒なので話の詳細は割愛する。
「・・・・・・そして我は、惰弱なローマ人に取って代わった東帝国の皇帝ボードワン陛下よりニケーア伯に任じられ、ニケーアの地を接収しに参った。そこの名も知れぬ若造よ、我の威光にひれ伏すがよい。さもなくば、我が槍の錆にしてくれようぞ!」
「「「選べ若造! 降伏か、それとも死か!」」」
 ルイの叫びに合わせて、騎士たちも一斉に唱和する。・・・・・・やっと終わったか。
 茶番劇が長く続いたおかげで、僕も心の平静を取り戻し、ルイへの返答も考え終わっていた。僕はあくまで冷静に、頭の中で用意しておいた台詞を読み上げた。


「ブロワ伯ルイとやら、あなたは十字軍戦士を名乗っておきながら、本来向かうべきエルサレムやエジプトへ向かうことなく、物欲と領土欲に負けて同じキリスト教徒であるローマ人の地を劫略した、偉大な先祖たちの名を穢す下衆野郎であることを大声で自慢するためにこの地へいらっしゃったのですね。そんなにニケーアの地が欲しいなら・・・」


「ほざいたな!! 全軍突撃、あの生意気な小僧を串刺しにしてやれ!!」
 僕が用意した台詞を言い終わらないうちに、ブロワ伯と騎士たちが激昂して突撃してきた。僕と騎兵隊は慌てて退却する。
「逃げるか、小僧! 生意気なのは口だけか!」
 ルイと騎士たちが追いかけてくる。あんなのとまともに戦ったら即死確定なので、逃げるのも必死だ。特に、ルイが投げたと思われる短剣が僕の頬をかすめたときは、本当に死ぬかと思った。恐怖のあまり全力で逃げようとする僕を、補佐役のペトロスが制止する。
「ミカエル様、逃げるのが速すぎです。騎士隊は重武装のせいで動きが鈍いですから、敵の速さに合わせませんと」
 ペトロスにそう言われて後ろを見ると、確かに騎士隊の速度は遅く、馬に乗っている割には人間でも追いつけそうな速度であった。しかも敵には明らかに疲れが見え始めていた。敵が追撃を諦めて態勢を立て直されては、せっかくの囮作戦が台無しである。
「ほーら、鈍足のルイさん、ここまでおいで。来れるものならね」
「おのれ小僧、まだ我を愚弄するか! 正々堂々勝負しろ!」
 適当にルイを挑発しながら、僕と騎兵隊は逃走を続ける。そんな中、
「ところでミカエル様」
「何?」
「ミカエル様は、あのフランク人たちの言葉を理解できるのですか?」
 ペトロスがそんな質問をしてきた。
「全部は分からないけど、ルイがイングランド王やフランス王の親戚だとか言ってるのは分かった」
「さすが『神の遣い』ですね。我々の言葉だけではなく、フランク人の言葉まで理解できるとは」
 ペトロスに妙なことで感心されてしまった。たぶん、テオドラに掛けられた『意思疎通』という呪法とやらの効果だろうが、あれは相手の言語に関係なく、誰とでも意思疎通が可能になる術らしい。仮にそうだとしたら、地味だけど凄い効果の魔法である。なお、「ラテン人」と「フランク人」はどちらもかなり曖昧な概念で、どちらも西方からやってきた外国人を指すらしく、特に意識して使い分けているわけではないようなので、両者の違いについては気にしないであげてください。
 そんなやり取りを続けているうちに、ラスカリス将軍たちが待ち伏せている地点まで到着した。ルイと騎士隊は、疲労で荒い息を吐きながらまだこちらを追ってきている。敵の歩兵隊ははるか後方にいるらしく、姿は見えない。どうやら作戦は成功らしい。
 作戦どおり、大きな鬨の声と共に、林の中で待ち伏せていたラスカリス将軍率いるヴァリャーグ近衛隊とニケーア守備隊の歩兵たちが騎士たちに襲い掛かった。なお、この作戦では僕の発案で、味方の数を多く見せるためニケーアの住民たちにも協力してもらっている。住民たちは林の中で鐘を鳴らしたり大声を出したりしているだけだが、それでも効果はあり、ルイは大軍が現れたと勘違いして明らかに怯んでいた。
 そして、味方の中でも特にラスカリス将軍率いるヴァリャーグ近衛隊の活躍は目覚ましく、馬に乗ったテオドロスは大きな戦闘斧で騎士たちを鎧ごと次々と真っ二つにしていった。騎士たちの重装備も、どうやら重い斧の一撃には耐えられないらしく、ヴァリャーグ近衛隊の斧の前に次々と倒れていった。アスパイテス率いるニケーア守備隊の歩兵たちも、棍棒で馬の足を叩いて転倒させ、落馬した騎士を袋叩きにするというあまり格好の良くない戦い方ではあったが、それなりに活躍していた。後は、どうやらラスカリス将軍たちに任せておいて大丈夫そうだ。
「ブロワ伯ルイ! ビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリスと尋常に勝負しろ!」
 騎士隊が壊滅する中、テオドロスがルイに一騎討ちを挑んだ。
「むう、あのテオドロスか。相手にとって不足なし。いざ勝負!」
 ルイもこれに応じた。事情はよく分からないが、テオドロスはラテン人の間では広く知られている存在らしい。
 もっとも、2人の一騎討ちはルイの疲労もあり、わずか4合くらいでテオドロスがルイの槍を振り飛ばし、敗北を察したルイが一目散に逃げ出したことで決着が付いた。ようやく追いついてきた敵の歩兵隊たちは、騎士隊が壊滅し総大将のブロワ伯ルイが味方を見捨てて逃走したことを知ると、戦わずに白旗を挙げて降伏した。
 かくして、後に「ニケーア湖畔の戦い」と呼ばれることになる僕の初陣は大勝利に終わったのだが、後方で戦いぶりを見物してきたテオドラからは思い切り笑われることになった。
「チョー面白かった! 小便漏らしながら泣き顔で逃げ回る神の遣いとかマジ受けるwww たしかにあのみかっちが罠だとは誰も思わないわよねwww ああ、笑い過ぎでお腹痛い」
 確かに、敵から短剣を投げつけられた時あたりに、恐怖のあまりおしっこを漏らしてしまったのはそのとおりだけど、何もそんなに笑わなくてもいいじゃないか・・・。

 初めての戦いで疲れ果てた僕が眠りにつき、目覚めると僕は日本での日常生活に戻っていた。あんなのは夢であって欲しいと思っていたが、僕の頬に残っていた傷跡が単なる夢ではないことを雄弁に物語っていた。とは言え、こんな荒唐無稽な話を誰かに話したところで、信じてもらえるどころか精神病院に入れられるのがオチだ。
 そして今までの話からも察してもらえるだろうが、僕は一種のオタクである。それも、よくある漫画、アニメ、アイドルなどのオタクではなく、最近ではレアな存在になってしまったという歴史シミュレーションゲーム(SLG)オタクである。この趣味はお父さんの影響だが、お父さんの話だと一昔前は、僕の好きな歴史SLGも色々な種類のものが発売され、そんなにマイナーな分野ではなかったらしい。しかし、日本で発売される歴史ゲームは次第に『信長の野望』や『三国志』シリーズだけになって次第に飽きられ、よくあるRPGなどに比べて複雑でとっつきにくいとされて敬遠され、すっかりマイナーなジャンルになってしまった。
 もっとも、こうした傾向は日本だけのものらしく、欧米では本格的な歴史ゲームが今でも多く作られている。僕自身も含めて、日本の歴史ゲームに飽きた歴史ゲーマーは、こうした欧米発ゲームの日本語版を遊ぶようになり、日本語版が発売停止になると英語版に手を出すようになった。こんなマイナー趣味を持っている僕が他の子供と話が合うはずもなく、僕には友達と呼べる存在は小さい頃からほとんどいなかった。
 高校に入学した今でも、僕の友達といえる存在はほとんどおらず、作ろうともしていない。僕は、高校ではなるべく悪目立ちせず地味に生きようと心に決めている。中学時代、ふとしたことがきっかけで『永久欠番』なんて変なあだ名を付けられ、散々からかわれたりいじめられたりしたが、あんな思いは二度と御免だ。友達がいないと言うと不幸な人のように思われがちだが、僕は小さい頃からそんな状況に慣れ切っているし、僕をいじめる人さえいなければ特に不幸だとは思わない。それに友達がいないおかげで、今のところ頬に出来た傷跡のことを尋ねてくる人はいない。
 泣いても喚いても、おそらく眠りに就いたら、またあの世界での戦いが待っている。僕は学校から帰ると、日本でしか出来ない諸々の用事を済ませ、再び眠りに就いた。


第3章 共同執政官として


 ニケーア湖畔の戦いに勝利した僕は、イサキオス帝から任期1年の執政官という肩書を与えられ、セバストスという爵位も与えられた。執政官という肩書に関する、ゲルマノス総主教の説明はこんな感じであった。
「執政官というのは、共和制時代から設けられていたローマ帝国の古い役職で、共和制時代は2人の執政官が帝国を統治することになっていました。帝政に入ってから、執政官という役職は形骸化し、ここ数百年は任命されることも無かったのですが、今回特別に復活させることになりました」
「どうして?」
「ミカエル様に帝国の統治をして頂くための肩書として、イサキオス帝とミカエル様に共同の執政官に就任して頂くことで、ミカエル様はイサキオス帝との連名という形で勅令を出して頂き、それによって帝国を治めることが出来ます。これによって、摂政のテオドラ様にサインして頂く必要がなくなります」
 ゲルマノスが妙に安堵したような口調でそんなことを言い出すので、僕はふと尋ねてみた。
「テオドラに署名してもらうのはそんなに大変だったの?」
「それはもう」
 ゲルマノス総主教は、急にしゅんとした表情でうなずいた。
「皇女様は非常に気まぐれなお方でして、必要な勅令にサインして頂くときはいつも、『今日はそんな気分じゃないわ』などと駄々をこねられたり、『あたしの前で四つん這いになって3回回ってワンと鳴いたらサインしてあげるわ』とか、『パントマイム劇であたしを笑わせたらサインしてあげるわ』などと言われたり、それはもう大変でした・・・。」
 ・・・。ちなみにパントマイム劇というのは、台詞が無くおかしな動作だけで観客を笑わせる劇のことである。普通、どう考えても総主教様にやらせるものではない。
「その犬の真似とか、パントマイム劇とかって、本当にやったの!?」
「やらされました。他にもそれはもう色々と・・・。最近は皇女様の要求がエスカレートしてきて、どうやって皇女様を満足させるかに頭を使わなければならない始末で。ミカエル様のおかげで、二度とあんな真似をせずに済むようになりました」
「・・・テオドラって、ちょっと頭のおかしい子なんじゃないの?」
「私の口から多くを申し上げるわけには行きませんが、皇女様の性格には、複雑な生い立ちも影響しているのではないかと思われます」
 テオドラの「複雑な生い立ち」とやらが気になったが、「全部ご説明申し上げると、おそらく丸一日かかってしまいます」との答えに、僕はそれ以上聞くのを諦めた。

 一方、セバストスという爵位については、そのテオドラが説明してくれた。
「セバストスっていうのは、貴族の中で一番下の爵位ね。一応、セバストス以上の爵位を持っていれば、元老院に議席を与えられる貴族として認められるのよ」
「セバストスの上にはどんな爵位があるの?」
「一番上はたしかセバストクラトールで、その下は忘れちゃったけど、セバストスはたしか上から6番目の爵位ね。もっと上を目指したければ、せいぜい頑張りなさい、みかっち」
 どうやら聞く相手を間違えたようだった。まあ、必要になったら後でゲルマノス総主教にでも聞くことにしよう。
「ああそれとみかっち。あんたに一つ忠告しておいてあげる」
「何?」
「あのヴァリャーキー、あんまり信用しない方がいいわよ」
「そのヴァリャーキーというのは、マヌエル・ラスカリス将軍の方? それとも息子のテオドロス?」
「両方よ」
「どうして?」
 今のニケーア軍の中では、むしろ一番頼りになる存在だろうに。
「あのヴァリャーキーの親父の方は、裏切り者なのよ。息子の斧バカも、裏では何を考えてるか分からないわ」
 テオドラはそんな気になる言葉を残して去っていった。

「よう大将、セバストスに昇進したんだってな。おめでとさん」
 初対面のときには僕を小馬鹿にしていた感じのあったテオドロス・ラスカリスも、ニケーア湖畔の戦いで僕が危険な囮役を無事に成功させて以来、僕のことを「大将」と呼んでくれるようになった。
「正直なところ、俺は最初に大将を見たとき、何か頼りなさそうな奴が来たと思ってたんだが、大将の活躍を見て感動したぜ。うん、大将はいずれローマ人の皇帝になれる器だ。この俺が保障する」
「ありがとう、テオドロス。でも僕は、イサキオス帝を差し置いて皇帝になる気まではないけどね」
 僕がそう返答すると、テオドロスは急に小声になり、僕の耳元で囁き始めた。
「あまり大きな声じゃ言えねえんだが、大将、あのテオドラって女どう思う?」
「正直に言うと、あまり皇女様らしくない皇女様だね。少なくとも統治者の器ではないというか」
「大将もそう思うか。親父や俺は皇帝陛下に雇われている身だから表向きは逆らえないんだが、あのテオドラは、陰では『爆裂皇女』って言われてるんだ」
「爆裂皇女?」
「何か爆発する系の魔法をよく使うってのと、頭が爆裂してるってことから爆裂皇女様。聖なる都にいた頃から、あの女はいろんな暴力事件を起こしたりして、悪い意味で色々と有名だったからな」
「そ、そうなんだ」
「それとイサキオス帝なんだが、一度皇帝失格ってことで廃位されて目を潰されたことがあってな、正直言うと死んでくれていた方が都合が良かったくらいなんだ。俺が親父と一緒に聖なる都から逃げてきたとき、イサキオス帝は死んだと思っていたから、俺の親父をニケーアで皇帝に擁立するつもりだったんだ」
「そんなこと出来るの?」
「親父も、一応アンドロニコス帝の娘婿だったから、他に候補がいなければ皇帝を名乗る資格はあるんだよ。ところが、いざニケーアに着いてみたら、死んだと思っていたイサキオス帝がテオドラ皇女様に救出されてまだ生きていたから、俺たちも引き続きイサキオス帝に仕えるしかなくなったってわけさ。しかも盲目のイサキオス帝に代わって政治の実権を握るのがあの爆裂皇女様と聞いて、正直俺は幻滅したね」
「ああ、なんかきな臭い話になってきたね」
「今の俺たちにとっては、いまや大将だけが生きる望みだ。あの皇女様に向かって説教できるような男は大将くらいしかいないからな。むしろ、大将が皇帝になってくれた方が俺たちには都合が良いくらいなんだよ」
 ・・・テオドラが「何を考えているか分からない」と言っていたのは、こういうことだったのか。
「まあ、今の話は心の片隅にでも置いといてくれ。それと、武芸の練習がしたいなら俺が付き合ってやるぜ。これでも俺は、聖なる都の攻防戦でラテン人相手に暴れ回って、奴らにも名前を知られてる武芸自慢だからな。それじゃあ大将、あばよ」
 テオドロスはそう言い残して去っていった。まだ全貌を把握しきれてはいないけど、この国には色々と複雑な事情があり、テオドラとラスカリス父子の関係もしっくり行っていないらしい。

「ミカエル様、セバストス叙任おめでとうございます」
 自室に戻った僕にそう言って出迎えてくれたのは、侍従長のオフェリアさん。見た目20代ないし30代くらいで、落ち着いた物腰の結構な美人さんである。
「これでミカエル様も貴族の仲間入りということになりましたので、専属で身の回りの世話をする者を付けることになるのですが、まずその件についてご相談したいことがあります」
「何でしょうか?」
「身の回りの世話をする者なのですが、宮廷では現在男手が不足しておりまして、失礼ながら女性でも宜しいでしょうか?」
 何で失礼なのか意味が分からなかったが、とりあえず断る理由はない。
「それでいいよ」
「それでは、候補の娘たちを連れて参りますから、その中からお選びください」
 オフェリアさんがそう言うと、10人くらいの若い女の子たちが部屋に入ってきた。しかも皆結構な美人さんなので、つい目移りしてしまう。
 そんな中、緊張した感じでうつむいている黒髪黒目の少女に目が留まった。この娘、以前僕に青い花を持ってきてくれた女の子じゃない? 僕がひとそんなことを考えていると、
「ミカエル様の世話をする者は、マリアで宜しゅうございますか?」
 オフェリアさんがそう訊ねてきた。僕はマリアというのがこの黒髪黒目の少女であることを確認すると、「う、うん、マリアさんでお願いします」と答えた。その後、マリアと比較的仲が良いという理由で、マーヤという女の子が僕担当の副主任として付けられることになり、選ばれなかった他の女の子たちは、何やら残念そうな顔をして去っていった。
 オフェリアさんの話はさらに続いた。
「ミカエル様は、ローマ帝国の貴族に叙されたのみならず、コンスタンティノス大帝と神の母マリア、聖霊によって復活を遂げた『神の遣い』ということになっております。そこで、『神の遣い』としての品位を損なうことのないよう、私生活上の注意点をいくつか申し上げます。」
 オフェリアさんから告げられた注意事項は、主に次のようなものだった。

<『神の遣い』としての主な注意事項>
● 入浴は基本的に宮殿内の浴場で行い、市井の風呂屋には基本的に入らないこと。
● 娼館、劇場その他いかがわしい場所に出入りしないこと。
● 街の女やその他身分の定かでない女性に手を出さないこと。
● 同性愛行為に手を染めないこと。
● 獣姦や自瀆行為を決して行わないこと。

「ちょっと待って。最後の項目はさすがに厳しくない?」
「おや、ミカエル様は獣姦の趣味がおありなのですか?」
「そうじゃなくて! 自瀆行為っていうのは、いわゆるオナニーとかマスターベーションとかのことだよね。そういうの一切禁止なの?」
「はい。そういう行為は一切禁止です♪」
 なぜかニコニコ顔で答えるオフェリアさん。僕は反対に蒼ざめた。僕みたいな思春期の男子にとって、オナニーするなというのはトイレに行くなと言うようなものだ。しかも僕は、日本では基本的に、大きな声では言えないけど毎日する派で、ただでさえこの世界ではする場所がなくて欲求不満気味なのに。
「あの、僕だって年頃の男ですし、・・・当然我慢できないときだってあるんですが、そういうときはどうすればいいんでしょうか?」
 僕がおずおずとそう訊ねると、オフェリアさんはまるでその質問を待っていたかのように、とんでもないことを言ってきた。


「我慢できなくなっちゃったときは、このメイドちゃんたちと子作りしちゃってください♪」


「はあ!?」
 僕は思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。何その荒唐無稽すぎるルール。
 僕が一体どこから突っ込もうかしばらく考えていると、オフェリアさんが逆に尋ねてきた。
「ミカエル様は、何か腑に落ちない点がおありのようですね。どこが納得できないのでしょうか?」
「オナニーが絶対禁止で、メイドさんに手を出すのはいいっていうのはどう考えてもおかしいよ。普通は逆じゃないの?」
「なるほど、そこですか。ではご説明致しましょう」
 オフェリアさんは、一度姿勢を正して咳ばらいをし、講師っぽい所作に入った。
「ミカエル様は、『モーセの十戒』をご存知ですか?」
「詳しくは知らないけど、名前だけは聞いたことある」
 確か、古代イスラエルの予言者モーセが残した律法で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する規律と聞いたような気がする。内容については知らないけど。
「『モーセの十戒』第7項には、『汝、姦淫するなかれ』という規律があります。ここでいう姦淫には、不倫や同性愛のほか、配偶者以外の者に対し性的関心を抱くこと、自瀆行為などが含まれます」
「それが根拠だと言うなら、結婚していないメイドさんと子作りをするのもダメだと思うんだけど」
「ミカエル様、話は最後までお聞きください。同じ姦淫でも、罪の重い姦淫と比較的罪の軽い姦淫というものがありまして」
「どう違うの?」
「姦淫の罪に関する考え方は色々あるのですが、基本的には合法的な配偶者との間の子作りから離れる行為ほど罪は重くなります」
「はあ」
「殿方が、肉欲を持て余した挙句配偶者以外の女性と子作りをしてしまうのはよくあることですし、一応は子作りですので、姦淫の中では軽い罪と考えられています。これを処罰する帝国法もありませんし、後に聴罪司祭の前で罪を告白し懺悔すれば赦される程度のものです」
「それじゃあ、自瀆行為の方はどうなの?」
「自瀆行為は、子供を作ることなく徒に快楽を貪る行為ですから、懺悔だけでは済まされない、地獄に落ちる大罪と考えられています。帝国法上も、自瀆行為には罰金刑が定められています」
「でも、嫌がるメイドさんを無理やり襲ったりすれば、罰金刑くらいじゃ済まないと思うんだけど」
「別に嫌がったりはしませんよ。若い貴族の殿方に若い女性のメイドがお仕えするということは、当然そういうこともあるということは承知の上ですから。分かっていますよね、マリア、マーヤ」
 オフェリアさんの言葉に、2人とも緊張した様子ながらこくんと頷いた。
 ・・・どうしよう。
 いくら同意があるからと言って、女の子とろくに手を繋いだこともない僕が、いきなり子作りなんて出来るわけがない。それに、初体験は好きな相手とするものだし、権力に物を言わせてメイドさんを手籠めにするというのが初体験なんていうのは嫌だ。とはいえ、それがこの国の法だというのであれば、従う以外に方法はない。
「とりあえず、そういうルールであることは分かりました」
「よろしい。あと補足ですが、娼婦や街の女に手を出すのは、法のほかに性病防止や世間体の問題もありますから控えてくださいね。宮殿のメイドちゃんは安全な女の子を選んでありますし、世間にも関係を秘密にできますから、遊ぶのは宮殿のメイドちゃん相手にしてください」
 そう言い残して、オフェリアさんは僕の部屋から去っていった。

「マ、マリアと申します。ふ、不束者ですが、よろしくお願い致します、なのです」
 その日の夜、マリアが緊張しまくった様子で、なぜか三つ指をついてお辞儀をしながらそう挨拶してきた。もっとも、緊張しまくっているのは僕とて同じである。何しろ、マリアはベッドこそ別にあるが、今夜からは同じ部屋で寝ることになる関係である。その上オフェリアさんにあんなことを言われてしまった後では、いきなりマリアと子作りをする度胸なんて無いけど、身体の一部がどうしてもエッチな展開を期待して疼いてしまう。
 それにしてもこのマリア、見た目も声もしゃべり方も非常に可愛らしいのは良いんだけど、その顔立ちはどこかで見たような気がする。しかも所作もどこか日本人っぽいし、一体どういうことなのだろう。
 そんなことを内心考えつつ、僕はマリアにどう声を掛けようか迷った挙句、ようやくのことで声を絞り出した。
「よろしく、マリア。そ、そんなにかしこまらなくていいよ」
「は、はい。ご主人様、分かりました、なのです」
 まさかのご主人様呼び! しかも、こんな可愛い女の子に! 今、メイド喫茶にハマる人たちの気持ちが分かったような気がした。そのとき、僕はふとあることに気が付き、マリアに質問した。
「マリアは、先日僕に青い花を持ってきてくれた子だよね?」
「はい、なのです」
「マリアって、あの時から宮廷に仕えていたの?」
「いいえ、なのです。あのときは、孤児院でお世話になっていたのですが、あの後偉い将軍様に、宮廷に入ってご主人様にお仕えしないかと誘われたのです」
「将軍様って、マヌエル・ラスカリス将軍のこと?」
「は、はい。たぶんそう、なのです」
 なるほど、ラスカリス将軍が妙なところで気を利かせてくれたのか。
「そ、それで、ご主人様、今夜は、こ、子作りなさいますなのですか?」
 いきなり直球の質問! 微妙に日本語になってないところは、まあ可愛いから許すけど。
「き、今日はしないよ。別に、我慢できないって状態じゃないから」
 そんなことないという下半身の猛抗議を必死に我慢しながら、僕がそう答えると、マリアは安堵したように「わかりました。ではご主人様、おやすみなさいなのです」と僕に挨拶してきた。
 ・・・まあ、これで良かったんだよね。でも今夜眠れるかなあ?
 内心一抹の不安を抱えつつも、僕は自分のベッドに入り眠りに就いた。

 その夜、僕はとても幸せな夢を見たような気がする。内容ははっきり覚えていないけど、たしかマリアが「ご主人様、愛しています。わたしと子作りしてください、なのです」とか言って僕に抱き付いてきて、2人が恋に落ちるような夢だったと思う。その後の詳しいことはよく覚えていない。
 ただ、はっきりしているのは翌朝目が覚めた時、僕のベッドがぐちゃぐちゃに濡れていたことである。どうやら、僕はマリアとエッチなことをする夢を見て、いわゆる夢精をしてしまったらしい。どうしよう。正直に言うのはとても恥ずかしい。でも、どう考えても言い逃れをする余地は無かったので、結局のところ正直に申告するしかなかった。
「ご主人様、おはようございます、なのです。・・・どうなさったのですか?」
「ごめん、マリア。眠ってる間に、お漏らし・・・しちゃった」
 僕がそう言うと、マリアは別に怒ることも無く、他のメイドさんたちを呼んでシーツを交換してくれたが、後でオフェリアさんにこんなことを言われた。
「ミカエル様、夢精をされるのは基本的に姦淫ではありませんが、夢精するまで我慢されるくらいなら、別に子作りなさって構わないのですよ?」

 ニケーア宮殿での生活は、決して快適なものではなかった。
 テオドラ皇女様は、どうやら健康と美容のため朝の遠乗りを日課にしているらしく、朝の6時を知らせる鐘が鳴った頃になると、強引に僕を引っ張り出し、朝の遠乗りに連れまわすのだ。しかも、馬に乗っているテオドラに対し、僕は徒歩。ついて行くだけでもヘトヘトになる。しかも僕が遅れ気味になると、テオドラは「みかっち、おそーい!」などと言って、容赦なく僕を鞭で叩く。まさに奴隷の生活だ。
「・・・テオドラ、なんでこんなことやるの?」
「セバストスになっても、あくまでみかっちはあたしの奴隷。それを思い知らせてやるためよ」
 ・・・さいですか。
 逆らう余地も無い僕は、必死になってテオドラに付いて走っていく。頑張れ僕。辛いときは、中島みゆき様の教えを思い出すんだ。そう、大きな力にいつも従わされても、僕の心は笑っている。力だけで心まで縛れはしないんだ。
 そのうち、テオドラは「ちょっと休憩」と言って、水筒に入った飲み物をゴクゴクと飲み始めた。いいなあ。僕も喉がカラカラだよ。僕がそんなことを考えていると、
「みかっち、あんたも飲む?」
 そう言って、僕に水筒を差し出してきた。間接キスになってしまうのではないかと一瞬思ったが、水分を求める生存本能が悲鳴を上げている状態だったので、有難く頂戴することにした。飲んでみると、ただの水ではなく、牛乳を少し酸っぱくして少し塩気が入ったような感じの飲み物だった。
「おいしいでしょ。その飲み物、アリアニって言うのよ。運動の後には最適よね」
 内心、日本にはもっと美味しい飲み物がいくらでもあると思っていたが、皇女様のご機嫌を損ねてはまずいので、ここは「そうだね」と頷いておく。
「アリアニはね、トルコ人から伝わった飲み物なのよ。聖なる都でも『オクスガラ』っていう似たような飲み物が売ってたんだけど、アリアニの方が美味しいわ」
 オクスガラとは「酸っぱい水」という意味らしいけど、飲んだことが無いのでどちらが美味しいかという話にはついて行けない。
 そのうち、朝の遠乗りが終わってテオドラは宮殿の浴場へ入浴に行ったが、僕はその後ゲルマノス総主教に補佐されて政務をこなし、昼食の後はテオドロスの許で武術の鍛錬。その後夕食を食べて就寝。これがニケーアでの基本的な日課だが、食べ物はどれもあんまり美味しくないし、ベッドも日本にある僕の部屋にあるものの方がずっと快適である。
 そんな中でも、最も困るのがトイレだった。宮殿内には、日本で言うようなトイレがなく、宮殿内で「トイレに行きたい」と言うと、メイドさんがおまるらしきものを持ってくる。そのおまるで用を足せというのだ。そしてマリアが僕付きのメイドになると、僕はマリアの側で用を足さなければならなくなり、それだけでも十分恥ずかしいが、マリアが僕と同じ部屋で生活しているので、マリアが偶然おまるで用を足しているところに出くわしてしまったり、マリアが着替え中のときに出くわしてしまったりすることも結構ある。しかも、この世界ではブラジャーやパンツといった類の女性用下着はないらしく、日本でいうキャミソールに似た感じの肌着の下には何もつけていない。そのため、女性の下着姿はほとんど裸同然なのだ。
 ラッキースケベなどというなかれ。この世界はオナニー禁止なのだ。ベッドでも基本的にマリアと同じ部屋なので、毎日が生殺し状態である。ニケーアでこんな生活を続けるくらいなら、いっそ戦争に行っていた方がマシではないかと思えるくらいだ。

 明日作戦会議を開くことを決めて軍事行動を起こそうと決意して眠りに就くと、また僕は日本に戻っていた。学校にいったとき、僕はマリアから感じた不思議な既視感の正体に気付いた。
 僕のクラスメイトに、湯川美沙さんという女子がいる。僕の通っている江南高校は公立共学の進学校で、なぜか男子より女子の方が若干多く、当然綺麗な女子生徒も結構いるのだが、湯川さんはその中でも白眉の存在である。念のため言っておくけど、別に眉毛が白いわけではなく、他の女子に比べても見た目が一番可愛いという意味である。その湯川さんの顔が、なんとマリアにそっくりだったのだ。
 湯川さんとは、別に話をしたこともなく、どんな性格なのかは分からない。ただ、見た感じはあまり活発そうではなく、大人しそうな感じの女子である。僕は、これまで別に湯川さんのことが好きだったわけではなく、単にちょっと「可愛い子だなあ」と思っていただけだったが、向こうの世界であんなことが起きると、どうしても湯川さんのことも意識してしまう。
 湯川さんを熱心に観察し過ぎたせいか、湯川さんと目が合ってしまった。変な人だと思われては困るので、僕は慌てて目を逸らした。結局その後もほとんど湯川さんのことで頭が一杯になったまま、その日の授業は終了した。
 これで、いよいよ僕はあの世界のことを他人に話すことは出来なくなった。クラスメイトの中で一番可愛い女の子が別の世界で僕付きのメイドとして仕えているなんて、普通に考えたら単なる僕の変態的な妄想である。また、我慢するのを止めてマリアに手を出すという選択肢も無くなった。そんなことをしたら、たぶん湯川さんのこともエッチな目で見てしまい、日本での日常生活に支障を来たすことになってしまう。
 いっそのこと、あの世界のことは単なる僕の性的妄想であって欲しい。そう思いながら僕は眠りに就いたが、次に目が覚めたときには、メイドのマリアが向日葵のような笑顔を浮かべて「ご主人様、おはようございます、なのです」と挨拶し、その後間もなく、僕はテオドラによって朝の遠乗りに引っ張り出された。残念ながら、この世界は単なる僕の妄想では無いようだった。


第4章 『神の遣い』

 予定どおり、今後の方針について話し合う作戦会議が開かれ、その冒頭、元ブロワ伯ルイの部下で歩兵隊の隊長を務めていたネアルコスという青年が発言した。
「俺の知る限り、ラテン人の大半はギリシア方面の制圧に向かっていて、アジア方面の制圧に向かっていたのはブロワ伯ルイだけです。そのルイが敗れたことで、アジア方面は勢力の空白地帯になっているはずです。今、ブロワ伯を破った『神の遣い』ミカエル様が軍を率いて南に向かえば、アジアの地はたやすく手に入ると思われます」
 ネアルコスの意見に、テオドロスを始め多くの軍幹部が賛同したが、ラスカリス将軍がこれに慎重意見を唱えた。
「ニケーアの東方にあるタルシアを中心に、バシレイオス・コーザスという男が15年ほど前から帝国の支配に従わず、独立勢力を築いています。今、ニケーアを空にして南方へと向かえばコーザスに背後を突かれるおそれがあります故、先にコーザス討伐を優先すべきでしょうな」
 この一言がきっかけで、まず僕は軍を率いてコーザス討伐に向かうことになったのだが、この戦いはあっけなく決着が付いた。「あたしにも見せ場を作りなさいよ」と言い出したテオドラがこの戦いに従軍し、迎撃してきた約1500人のコーザス軍に向かって巨大な火炎球を放つ魔法を放ち、ラテン人の傭兵中心だったコーザス軍はその威力に怖れをなして逃げ出してしまい、コーザスはそれ以上抵抗することなく降伏してきた。
 コーザスは40代くらいの男で、かつてイサキオス帝の許でタルシア地方の代官を務めていたが、イサキオス帝の掛けた重税に対する民衆たちの反感に押され、15年ほど前から帝国の支配に服さずタルシアを中心に独立勢力を築いていたという。もっとも、コーザスは皇帝を僭称することはなく、民衆からも慕われており統治能力はなかなかのものであったようなので、僕はコーザスを許しそのままタルシアの統治官に任命することにした。

 その後、僕はバシレイオス・コーザスの息子マヌエル・コーザス率いる1000人ほどの軍を配下に加え、ニケーアにはバルダス・アスパイテスと守備隊を残し、残りの軍を率いて南方制圧に向かうことにした。
 歴史SLGゲーマーの中には、大きく分けて次々と戦争を仕掛け、速攻で領土を広げるプレイを好む戦争重視型のプレイヤーと、内政で十分に国力を整え、余裕が出来てから領土拡大に乗り出す内政重視型のプレイヤーがいるが、僕は後者の部類に属する。ただし、それもゲームシステムと状況によりけりで、ゲームの中には開始当初に多くの空白地が広がっており、先に多くの空白地を押さえた方がその後の展開が有利になるというケースもある。僕もそういう場合は、多少無理をしても多くの空白地を押さえに向かうことにしている。
 むろん、この世界はゲームでは無いが、自勢力もラテン人勢力も旧帝国領を完全に掌握しておらず、勢力の空白地帯が多いという状況は、前述したゲームの状況に近い。そんなわけで、僕はニケーアに最低限の兵力を残し、勢力の空白地と考えられる南方の旧帝国領を押さえに掛かったという次第である。
 ネアルコスの意見どおり、北から順にプルサ、キジコス、スミルナ、エフェソスといった都市が、戦うことなく城門を開いた。ニケーア湖畔の戦いにおける僕たちの勝利は既に住民たちの耳にも届いていたらしく、僕はラテン人から帝国を救う「解放者」として、行く先々で民衆の歓呼を受けた。
 民衆たちの多くは、僕を本当に『神の遣い』だと信じているらしく、僕に向かって祈っている人たちまでいた。僕としては『神の遣い』を自称するのはいまいち気分が乗らなかったが、征服事業を円滑に進めるためには、民衆たちの期待に応え『神の遣い』を演じるしかなかった。
 一方、ローマ教皇から派遣されてきたというラテン人の司教たちは総じて評判が悪く、同じキリスト教徒でもローマ人のものとは違う自分たちの教義を一方的に押し付け、それに従わない者を火あぶりの刑に処したり、聖職者のくせに修道女や民間の女性を手籠めにしたり、やりたい放題のことをやっていた。こうしたラテン人の聖職者については片っ端から逮捕し、街中で十字架に括りつけて処罰は住民たちに委ねた。司教たちのその後の運命については、僕の知ったことじゃありません。
 ただ、『神の遣い』を演じるにあたり一番困惑させられたことは、何というか、その、エッチな誘惑がやたらと多いことだった。例えば、真っ先に帰参してきたプルサ総督ヨハネス・カンタクゼノスの屋敷で歓迎を受けたときのこと。
「ミカエル様、ご武勲は聞き及んでおりますぞ。何でも、あのブロワ伯ルイを相手に大勝し、しかも味方の死者はゼロだったとか」
「ええ、まあ」
 事実ではあるが、味方の死傷者がゼロだったのはイレニオスのお陰である。あの少年術士は、テオドラと違って無口で目立とうとしないが、治療の術に関しては凄い腕前で、敵の攻撃で致命傷を負った兵士すら即座に一瞬で治療してしまうのだ。治療以外にも様々な術を使えるらしく、何でも聖なる都の陥落をいち早く予言し警告したという理由で、イレニオスは「預言者」と呼ばれ崇められているらしい。
「ところで、そんなミカエル様にご紹介したい娘がいるのですが」
 カンタクゼノスはそう言って、一人の少女を僕の前に連れてきた。
「ミカエル様、この者が私の娘、テオドラ・カンタクゼネです」
 そのテオドラという娘は、まだ10代前半くらいの少女だった。ちなみにカンタクゼノスは見た目30代くらいで、恰幅の良い貴族らしき男である。
「ラスカリス将軍、テオドラって皇女様以外にもいるの?」
 僕は、側にいたラスカリス将軍にそう耳打ちした。
「たくさんおりますぞ。テオドラというのは、皇后を何人も出した縁起の良い名前ですから。帝国内では、マリア、イレーネに次いで多いくらいですな」
 ヨーロッパでは名前のバリエーションが少ないので同じ名前が多いとは聞いていたが、この国もそうなのか。内心ややこしいことになりそうだなと思いつつ、僕はテオドラと名乗る少女に挨拶した。なお、この国には家門名、日本でいう名字を持つ人と持たない人がいるが、名前だけでなく家門名にも男性型と女性型があり、カンタクゼノス家の場合、男性はカンタクゼノス、女性はカンタクゼネと名乗るものらしい。
「よろしく、テオドラさん」
「お初にお目にかかります、ミカエル・パレオロゴス様」
 いかにも貴族の娘らしい上品な所作で、丁寧にお辞儀をする少女。同じテオドラでも、宮殿の廊下で全力ダッシュするどこかの皇女様とは大違いである。少女が退出した後、
「いかがでしょう、うちのテオドラは」
 カンタクゼノスが僕に感想を求めてきた。
「綺麗な良い娘さんですね」
 僕は正直にそう答えた。
「お気に召されたのであれば、是非ミカエル様にお仕えさせ、遠征にも同行させたいのですが」
「僕に仕えさせてどうしろと?」
 そもそも、あんな年端も行かない少女を遠征に同行させて何の役に立つというのだ。凄腕の術士だとでもいうなら話は別だが。
「私には娘は何人もおりますが、どうも息子に恵まれません。もし、ミカエル様とテオドラとの間に男の子が生まれましたら、その子をカンタクゼノス家の跡取りにしたいのです。いえ、別にお妃にして頂かなくても結構ですから。ミカエル様は、おそらく他の女性からも引くてあまたでしょうからな」
 思いっきりエッチなお誘いだった!
「そういうのは良いですから! それに、あの娘はどう見ても、まだそんな年齢じゃないでしょう!?」
「テオドラは12歳ですから、別におかしな事ではないと思いますが」
「充分おかしいですよ!」
 僕が怒りだしたとき、ラスカリス将軍に引き留められた。
「何をお怒りなのです? この世界では普通のことですぞ」
「12歳の娘を相手に子作りするのが普通なの? そもそも、この国では何歳からが大人なの?」
「はっきり決まってはおりませんが、初潮を迎えた女性はもう立派な大人です」
 ・・・そういう世界なのか。
「すみません、取り乱しました」
 僕はカンタクゼノスに謝ったが、テオドラを仕えさせるという件については、「もう心に決めた人がいますから」などと適当な理由を付けて、丁重にお断りした。

 その後もこの種のお誘いは何度かあり、中には10代前半くらいの女の子が自ら「神の遣い様、わたしの処女をもらってください」と頼んでくるケースまであった。もちろん、全部丁重にお断りしたが、「いいじゃん、美味しく頂いちゃえよ」と唆す下半身の悪魔を押さえつけながらお断りするのは、精神的にものすごく疲れた。僕はげんなりして、ある日ラスカリス将軍に尋ねた。
「ラスカリス将軍、なんでこの種のお誘いがこんなにも多いんでしょうか?」
「ミカエル様の世界は違うのかも知れませんが、この世界では貴族の娘ならともかく、庶民の娘なら12~13歳で初体験を済ませるのが普通で、また初体験の相手は高貴な男性ほど望ましいとされておりますからな」
「どうしてですか?」
「色々理由はありますが、特に庶民の娘にとって、初体験の相手が高貴な男性というのは大きなステータスなのですよ。特に初体験の相手が皇帝陛下となれば、それだけで良い女と評判になり、裕福な地主や商人との良縁に恵まれたりしますからな」
「僕は皇帝じゃなくて、まだ貴族下っ端のセバストスだけど」
「それだけミカエル様への民衆の期待が強いということです。更に出世して帝位継承者候補ともなれば、更に大勢の女性が押し寄せて参りますぞ」
 将軍が、僕をからかうような様子でそんなことを言ってきた。
「押し寄せて来られても困るんだけど・・・。まだ、女性を抱いたことすらないのに」
「おや、例のマリアはお気に召しませんでしたかな?」
 やっぱりラスカリス将軍の差し金だったのか。
「お気に召さなかったわけじゃないけど、メイドさん相手にそういうことをするのはちょっと・・・」
「ですが、子作りの練習相手をさせるには、身近なメイドが最適ですぞ。男子たるもの、子作りをつつがなくこなせるようにするには、ある程度の練習が必要ですからな。ニケーアに戻ったら、将来に備えて子作りの練習に励んでくださいませ」
 だから、そういう訳には行かないんだってば・・・。

 僕の悩みは、こういうピンク色的なものばかりではなかった。
 悩みの1つは、帝国から免税特権を受けているという貴族や教会、修道院の数があまりに多く、帝国に残された直轄領はわずかしかないため、支配領域が大きく広がった割には税収があまり増えなかったことである。それでも貴族は、戦争となれば兵力を提供してくれるからまだいい。問題は教会や修道院で、彼らは教会法により武器を取って戦うことを禁じられていることを理由に、戦争になっても協力することはなく、税金も支払わないので本当に何の役にも立たないのだ。
 それだけでなく、一部の聖職者たちは、神に対する敬虔さの証として更なる領地や特権を要求し、僕が国家の非常事態を理由にこれを断ると、僕のことを背教者などと罵って退出していくのだった。僕がこれに腹を立てると、ラスカリス将軍に「教会の勢力は強大だから敵に回さない方が良い」と宥められたが、日本人でしかもキリスト教嫌いの僕としては、何の役にも立たない教会や聖職者、修道士などが大きな影響力を持っているというこの国の実情自体に違和感を覚えずにはいられなかった。
 そしてもう1つの悩みは、戦闘が無いので自分の見せ場がないことに、テオドラ皇女様が不満を唱えておられることである。以下は、トロイア戦争があったことで有名な、トロイの遺跡が見える丘の上で皇女様と話したときのやり取りである。

「なんでどの町も、戦わずに降伏、降伏、降伏なのよ! あたしの強力な神聖術で、反抗的な町をドッカーンって破壊してやるつもりだったのに! これじゃあたしの見せ場がないじゃないの」
「活躍の場ならあったじゃない。バシレイオス・コーザスの軍と戦ったときにテオドラが使った例の爆発する魔法、あれ一発で戦争の決着がついたし」
「何言ってるのよみかっち、神聖術と魔法は違うのよ!」
「どう違うの?」
「いい? 神聖術っていうのは、正しくは『コンスタンティノス大帝と神の母マリアと聖霊の力によってもたらされた父なる神の御業』っていうの。世界暦6182年、聖なる都がサラセン人に包囲されたときに現れた聖者カリニコスが、神聖術の力で邪悪なサラセン人の船を焼き払い帝国を救って以来、ローマ帝国の最高機密として守り伝えられてきた術なの。悪魔の力によってもたらされた魔法とか魔術とかとは本質的に違うものなのよ」
「・・・神聖術と魔法はどう区別されるの?」
 内心「正式名称があまりにも長すぎる」と思いつつ、一応話に付き合う。
「神聖術は、悪魔の力によってもたらされた魔法と区別するため,父なる神に対する感謝と祈りの呪文を唱えて、神の恵みであるマナの力で発動する術よ。神聖術と魔法を混同するなんて、神様に対する冒涜になっちゃうわよ」
「でもテオドラ、例の爆発する魔法・・・じゃなかった、神聖術を使うとき、呪文なんて唱えてる様子は見えなかったけど」


「ちっちっち、あたしは並みの神聖術士とは違って、帝国史上最強の神聖術適性95を誇る偉大な天才術士なのよ。天才たるあたしは、別に面倒な呪文なんか唱えなくったって神聖術を使えることを発見しちゃったのよ」


「それって、呪文を省略するのはまずいんじゃないかって気がするけど。あと、神聖術適性って何?」
「みかっちは術士じゃないから詳しいことは教えられないけど、この数値が高い程強力な神聖術を使えるのよ。神聖術適性の数値は一生変わらないから、この数値が術士としての才能を表してるってわけ。ところでみかっち、あの聖なる都は一体いつになったら取り戻せるの?」
 そう言ってテオドラが指を指した先には、海を隔てて一つの都市が見えた。おそらくあれが聖なる都だろうが、こんな遠くから見えるということは、とてつもなく大きな都市に違いない。ニケーアなんぞとはおそらく比べものにならない。
「いつと言われても、少なくとも海を隔てているから、海軍が無いと取り戻せそうにないね。テオドラ、帝国海軍ってないの?」
「ないわよ」
 重大なことをさらっと言い放つ皇女様。領土が海を隔てて大きく2つに分かれ、それ以外の小さな島もたくさんあり、地勢から考えて明らかに海軍がなければ治められないような国に、海軍そのものが無いとはどういうことなのか。
「なんで!?」
「伯父上が皇帝だったときに、お金が足りないからって戦艦とか全部競売にかけちゃったから、もう無いと思うわ」
 一体この国で何があったんだと内心思いつつ、僕は話を続ける。
「そうなると海軍の再建から始める必要があるから、少なく見積もっても10年くらいはかかりそうな気がする」
「何で10年もかかるのよ!? あたしにニケーアの狭いお風呂で10年も我慢しろって言うの? せめて1年くらいにまけてよ」
「海軍は一朝一夕に出来るものじゃないから、まけられるとかそういう問題じゃないよ。それとニケーア宮殿の浴場は、僕も入ったことあるけど十分に広いと思うよ」
「聖なる都の大浴場は、あんなちっぽけなものとは訳が違うのよ! あー、なんかむしゃくしゃしてきたから、あたし魔法であそこにあるトロイの遺跡ぶっ壊してくるわね」
「貴重な古代ギリシアの遺跡をぶっ壊しちゃダメだって! あとさっきの説明どこ行った!」

 こういうテオドラの性格も問題だが、この国は神聖術と魔法の区別に限らず、色々とややこしいことが多すぎる。普通の漫画やライトノベルなんかに出てくる異世界ファンタジーものなら、国の名前と首都名なんて『○○帝国の首都××』と説明するだけで終わりだろう。ところがこの国ではそうは行かない。
 僕がテオドラに掛けられた「意思疎通」の呪法、神聖術と何が違うのかは知らないけど、どうやらこの呪法の効果は、相手の発する言葉が何語であっても僕はその言葉の意味やニュアンスを理解することが出来、僕の発する言葉は日本語が通じない相手にもその意味を理解させることが出来る、というものらしい。その効果自体は有難いものだけど、外国語で聞いた話を日本語で文章化しようとするときに様々な問題が生じてしまう。
 例えばこの国の首都とされる都市の名前。以前ゲルマノス総主教に聞いた話だと、この都市は世界暦4755年にビュザスという人物により創建され、創健者の名を取ってビザンティオンと名付けられた。この都市は長らく、ギリシアでは辺境の小さな町に過ぎなかったが、世界暦5838年にローマ帝国のコンスタンティノス大帝(ラテン語読みではコンスタンティヌス)がこの町を大幅に拡大してローマ帝国の新たな首都に定め、それ以来この都市の正式名称は「コンスタンティヌーポリ」になった。ちなみにラテン語読みだと「コンスタンティノポリス」になり、英語読みだと「コンスタンティノープル」になる。
 ただし、正式名称が長いこともあって様々な別名が考案され、「ビザンティオン」も首都名または首都の中心にある旧市街を表す名称として広く使われているほか、神の母(テオトコス)であるマリアに守護されている町を意味する「テオトクーポリ」、「あの町へ」を意味する「エスティンポリ」という呼び方もあり、他にも色々な異称で呼ばれているという。さらに横着なテオドラなんかは、単に「ポリ」(都市)というだけでこの首都を表す言葉として使っていたりする。僕が普段使っている『聖なる都』という通称は、苦心の末に考え付いた僕の意訳である。
 そしてこの国の名前は、正式名称こそ『ローマ帝国』であり、その領土となっている土地は「ロマーニア」と呼ばれており、その国の皇帝や住民は「ローマ人」を自称しているが、国名の由来であるかつての首都ローマはとっくの昔に支配下から離れており、現在ではローマ教皇の支配下にある。帝国の公用語もローマで使われているラテン語ではなく、ギリシア語である。
 また、西方にあるフランク人、ネミツォイ人などと呼ばれる人々、おそらくはドイツ人による別の国もローマ教皇から皇帝として戴冠を受けたという理由から同じく『ローマ帝国』を名乗っており、これと区別するため東ローマ帝国、ギリシア帝国、あるいは首都の旧名からビザンティオン帝国、ビザンツ帝国、ビザンティン帝国と呼ばれることもある。もっとも、現在は聖なる都を敵に奪われてニケーアに本拠地を置いており、聖なる都を占拠しているラテン人の国もどうやら東ローマ帝国(ロマーニア帝国)を自称しているようなので、ニケーア帝国とでも呼ぶべきであろうか。
 ところで、この国に由来する英語のビザンティン(byzantine)という形容詞には、建築様式の一種である「ビザンツ風の」という意味のほかに、「複雑で分かりにくい」という意味があり、現代のイギリスでもEUの複雑な法規制を批判するために使われていたりする。首都名と国名の説明だけでこれだけの行数を費やしてしまう複雑で分かりにくい国、ビザンティン。よく考えてみれば、この国を形容するのにこれほど相応しい名前は他にない。そんなわけで僕は、この国をその実態にかかわらず、地の文では『ビザンティン帝国』と呼ぶことにする。表向きは『ローマ帝国』と呼ばないと怒られるので台詞にはしないけどね。
 なお、テオドラ皇女様によるトロイの遺跡爆破は、僕が必死に引き留めた結果何とか未遂に終わった。もっとも、その過程で誤って皇女様の大きな胸を思い切り揉んでしまい、皇女様にグーで殴られることになってしまった。とても痛かったけど、テオドラの胸はとても弾力があって、認めたくはないが触り心地はとても良かった。

 明日、スミルナで今後の方針について話し合うため作戦会議を開くという話になって、明日に備えて眠りに就いたところ、またしても日本に戻ってきた。
 湯川さんやマリアのことはなるべく考えないようにしていたが、高校入学後初めてとなる数学の確認テストで赤点を取ってしまってへこんだ。それも、100点満点中50点以下は追試というテストで、きっかり50点を取ってしまったのだ。僕は中学時代の成績こそ良かったものの、やはり江南は厳しい。しっかり勉強しないと付いていけなくなりそうだ。
 帰宅後、僕は追試に備えて数学の復習をした後、日記を付けることにした。日本で前日何があったか、どんな宿題を出されたかといったことを記録しておかないと、次に日本へ戻ってきたときに忘れてしまって困るといったことが起こりかねないからだ。
 その後、テオドラの話にあった『カリニコス』と『世界暦』についてパソコンでググってみた。まずカリニコスという人物は、史実ではビザンティン帝国に『ギリシアの火』という秘密兵器をもたらした人物であるが、「ギリシアの火」の製造方法や使用方法については、現在でも謎に包まれているという。ただし、「ギリシアの火」は一種の火炎放射器であると考えられており、さすがに魔法の類ではないだろう。また、カリニコスも史実では特に聖者などとは扱われていない。
 一方、『世界暦』について調べてみたところ、ビザンティン帝国で実際に使われていた世界創造紀元、あるいは天地開闢紀元と呼ばれているものに近いことが分かった。この世界創造紀元は、旧約聖書のギリシア語70人訳の旧約聖書に基づく世界創造の年を元年としており、世界暦がこれと同じものだとすれば、世界暦を西暦に換算するには5508ないし5509を引けば良いらしい。
 テオドラは、カリニコスが現れたのは世界暦6182年と言っていた。この数字から5508を引くと西暦684年になり、ちょうど史実でイスラム帝国の軍勢がコンスタンティノープルを包囲し、ギリシアの火が最初に使われた年と一致する。
 もっとも、僕が署名した勅令には世界暦6753年と書かれており、これを西暦に換算すると概ね1245年。史実でコンスタンティノープルが第4回十字軍によって陥落させられたのは西暦1204年のことだから約40年のずれがあり、しかも史実のイサキオス2世は同じ年に亡くなっており、ニケーアに亡命した事実はない。どうやらあの世界の歴史は、僕たちの世界と全く同じように進んでいるわけではないようだ。
 謎は解明されるどころかますます深まるばかりであったが、とりあえず僕はその時代のビザンツ史について可能な限り調べ、疲れたところで眠りに就いた。


第5章 山賊討伐


 港町スミルナ。小アジア地域最大とされる港町で、今日も多くの市民や商人たちで賑わっている。地理については僕の知っている史実とあまり変わらないようなので、現在のトルコ共和国にあるイズミルと説明して差し支えないだろう。なお、現在の仮首都であるニケーアは、現在のトルコ共和国ではイズニクと呼ばれている町である。 
 僕たちは、そんなスミルナにある総督の屋敷で、今後の方針に関する作戦会議を開いていた。出席者は僕とテオドラ、イレニオス、マヌエル・ラスカリス将軍とその息子テオドロス、ネアルコス、マヌエル・コーザス、そしてスミルナ総督のアレクシオス・ローレスである。
「帝国領のうち、陸路で行けるアジア側の領土は概ね回復を果たしました。アジア側の主だった貴族で帝国への帰順を拒否している者は、フィラデルフィアの総督テオドロス・マンカファースくらいです。それ以外の領土は、トルコのスルタンが領有する土地になります」
 ラスカリス将軍がそう報告する。
「それなら、まずはマンカファースをぶっ潰しましょ!」
 テオドラが軽いノリで予想どおりのことを言い出すが、ラスカリス将軍は渋い表情で続けた。
「事はそう簡単ではないのです。マンカファースは、以前にも皇帝を名乗ってイサキオス帝に反旗を翻したことがあり、そのとき彼の勢力を完全には鎮圧できず、帝号を放棄させる代わりにそのままフィラデルフィアの支配権を認めざるを得なかった経緯があり、侮れない軍事力を持っています。さらに彼は、トルコのスルタン、カイ=クバードと同盟を結んでおり、そのため我々に対しても強気の態度を取っています。無闇にマンカファースを敵に回せば、強力なトルコのスルタンをも併せて敵に回すおそれがあります。」
「我々の主敵はラテン人ですから、トルコのスルタンまで敵に回すことは避けたいですね。マンカファースの討伐は後回しにして、スルタンには同盟の締結を打診することにして、我々はひとまずニケーアに帰還しましょうか」
 僕が応じると、テオドラが案の定噛みついてきた。
「何で異教徒と同盟を結ぶのよ! マンカファースもカイ=クバードとかもまとめて吹っ飛ばしてやればいいじゃないの!」
「それが出来るなら苦労はないよ。それに、僕たちがトルコ人と戦っている間にラテン人が背後から攻めてきたら、それこそ僕たちの運命はお終いだよ」
「何よ。このヘタレ!」
 テオドラが毒づくが、いちいちこの皇女様に構ってはいられない。僕たちを取り巻く状況は依然として厳しいのだ。それに、テオドラが摂政の仕事を真面目にやらなかった結果、最終決定権はテオドラではなく共同執政官の僕に移っている。
 そこへ、ローレスが挙手して発言を求めてきた。
「ローレスさん、どうぞ」
 僕が発言を促すと、ローレスは申し訳なさそうに発言を始めた。
「実は、近年の治安悪化に伴い、スミルナの近郊では盗賊団や山賊団の類が増えております。特に、サルディスの近郊に城塞を作り、『青い兄弟団』と自称している山賊団は強力で、付近を通行する商人や旅人を襲撃したり、時には農村を荒したりして、我々も対応に手を焼いております。討伐しようにも、スミルナとその近辺の守備隊のみでは兵力が足りません。出来ますれば、ニケーアへお帰りになる前に、『青い兄弟団』だけでも何とかして頂ければと・・・」
「それよ!」
 テオドラが真っ先にその話に食いついた。
「人々を懲らしめる悪の山賊団、これを討伐してこそ正義の味方じゃない! そしてあたしも活躍できるし、一石二鳥じゃない。みかっちも、これには反対しないわよね?」
「反対はしないけど、『青い兄弟団』は相当強力な山賊団みたいだから、討伐するのであればきちんと作戦を練らないといけないだろうね」
 『青い兄弟団』の討伐自体に反対する出席者はいなかったので、僕たちはローレスから『青い兄弟団』に関する詳細な情報を聞き出し、討伐の作戦を練ることにした。その一方、僕はテオドラには内緒でニケーアのゲルマノス総主教に手紙を書き、誰か適当な人物をカイ=クバードというトルコのスルタンに使節として派遣し、領土欲に塗れたラテン人たちの野望はきりがなく、我々を討伐した後はスルタンの領土も狙っているとして、共通の敵ラテン人に対する攻守同盟の締結を打診するよう指示した。
 『青い兄弟団』の討伐に動員できる兵力は、スミルナやその近郊の守備隊を入れても約4000人。これに対し、『青い兄弟団』の戦力になる山賊たちは推定約2000人。また、彼らの城塞は山地にある天然の要害であり、正攻法では大きな被害は避けられないほか、そもそも討伐できるかどうかも微妙なところだった。
 そこで、最終的に僕の採った作戦は、ローレス総督の名義で彼らに贈り物を送って懐柔し、僕たちはローレス総督が慰安のために送った旅芸人の一座と称して『青い兄弟団』の城塞に乗り込み、山賊たちに痺れ薬入りの酒を飲ませ、酔っぱらって動けなくなったところで、ラスカリス将軍率いる本隊を城塞に引き入れ、山賊たちを制圧するというものになった。
 笛や太鼓が得意だというマヌエル・コーザスと、ふざけた踊りを披露して兵士たちを笑わせるのが得意だというテオドロス・ラスカリスは芸人の一人に化けてもらい、僕とネアルコスは兵士たちと一緒に酒を配る係となった。こうして作戦と役割は概ね決まったが、
「ねえ、あたしの出番は?」
 例によってテオドラがごねてきた。なお、他のメンバーはそれぞれ自分の準備に取り掛かっているのでこの場にはいない。
「テオドラは、イレニオスやラスカリス将軍と一緒に城外で待機。さすがに、皇女様に芸人のふりをさせるわけには行かないでしょ」
「それじゃああたしの出番が少ないじゃない! あたしも芸人の一座に混ぜなさい!」
「芸人って、テオドラは何か芸が出来るの?」
「あたしはね、聖なる都では『伝説の踊り子テオドラ』って呼ばれてて、その美貌と踊りはもはや芸術の域に達しているって、結構有名だったのよ。このあたしに任せなさい!」
「はあ・・・」
 僕は一抹の不安を感じつつも、テオドラがやると言って聞かないので、仕方なく彼女に踊り子役を任せることにした。そもそも踊り子って、現代でこそちゃんとした職業として成立しているけど、この時代では娼婦とほぼ同義とみなされていて、間違っても皇女様がやるようなことではないはずなのだが。

「「「おお~! 伝説の踊り子テオドラちゃんがキタ~!!」」」
 踊りと称して火炎弾でも撃ちまくり暴れまくるのではないかという僕の予想は完全に外れ、テオドラは極めて露出度の高い服装で現れ、観客である山賊たちを熱狂させていた。驚いたことに、『伝説の踊り子テオドラ』の名前は、聖なる都から遠く離れた地に住んでいる、『青い兄弟団』を自称する山賊たちの間でも知られているらしい。テオドラも、普段の傍若無人な皇女様とはまるで別人であるかのように、愛想よく山賊たちに手を振っている。
 そして、作戦に協力してもらった本職の旅芸人一座(その中にマヌエル・コーザスも入っている)の音楽が始まると、テオドラがそれに合わせて踊り始めた。
 ・・・・・・。
 僕は、テオドラの踊りを表現する言葉が咄嗟に思い付かなかった。
 踊りについては全く詳しくない僕でも、テオドラの踊りがそれだけでもお金を取れる、芸術的な素晴らしいものであるということは理解できた。テオドラは音楽のイメージに合わせて、完璧な動作で悲しみ、怒り、そして喜びの感情を踊りによって表現していた。
 芸術の神とされるアポロンでさえも、おそらくテオドラには敵わないのではないだろうか。
 もっとも、山賊たちの多くは踊りの芸術性など理解しておらず、テオドラの踊り子衣装が揺れるたびに、「おおお、アフロディーテ様が~!!」などと叫んで興奮していた。この「アフロディーテ様」の意味については、あまりに下品なので説明したくないのだが、日本語の古い表現で「観音様」と言ったりするのと同じようなニュアンスですということで、意味については察してください。
 山賊たちがテオドラの踊りに熱狂する中で、僕は兵士たちと共に商人姿に変装して山賊たちに酒を振舞っていたのだが、その途中で山賊たちに何度もお尻を触られた。山賊の首領らしき人には「にいちゃん、俺と一発やらないか」などと声を掛けられた。どうやら僕は、山賊たちから同性愛の対象とみなされているようだった。
 確かに、テオドラの踊りはその芸術性とは別に、何しろ顔もスタイルも抜群の若い女の子が、限りなく裸に近い踊り子の衣装で激しく動き回っているのだから、男は見ているだけで興奮してしまう。そして曲の合間には、テオドラはまるでアイドルのように「みんなありがと~!」などと愛想よく振る舞っている。その姿をずっと見ていたら、僕ですら普段の傍若無人な態度を忘れ、彼女に惚れてしまいかねなかった。テオドラがしくじった場合に備え、本職の踊り子さんを他に2人呼んでいたのだが、彼女たちはテオドラの後に登場するのをためらったらしく、結局出て来なかった。
 僕は観客たちにちやほやされて機嫌の良さそうなテオドラとは対照的に、山賊たちから尻を触られたりする屈辱と怒り、そして不覚にもテオドラの姿に反応してしまった下半身の疼きに耐えながら、宴会がお開きになるのを待った。

 宴会が終わって山賊たちが眠った頃、僕たちは戦闘用の服に着替え、ラスカリス将軍率いる本隊を城塞内に迎え入れた。ちなみにテオドラも踊り子服ではなく、白を基調にした戦場用の魔導士衣装に着替えている。
「作戦実行。山賊どもを全員殲滅せよ」
 僕の命令に兵士たちは一瞬戸惑ったが、結局言われたとおりに城塞の制圧を実行した。山賊たちの中に起きている者はほとんどおらず、作戦は完璧に成功するかと思われた。しかし、
「向こうに一人手強い奴がいます!」
 兵士たちの報告に、僕はテオドラ、イレニオス、テオドロスらと共に現場へ急行した。その現場では、山賊の一人と思われる若い剣士が孤軍奮闘しており、味方の何人かが彼の手で倒されていた。
「貴様、なかなかやるな。ビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリス様が相手をしてやる」
「相手にとって不足なし。我が名はアレクシオス・ストラテゴプルス、いざ参る!」
 僕が指示する暇も無く、アレクシオス・ストラテゴプルスと名乗った剣士とテオドロスの一騎討ちが始まった。その間に、イレニオスは倒された兵士たちの治療を行い、他の兵士たちは他の場所の制圧にあたらせた。
 テオドロスが、戦闘斧を振るい力で勝負するタイプの戦士であるのに対し、アレクシオスは長剣を振るいスピードで勝負するタイプらしく、2人の勝負はなかなか決着が付かなかった。その間に、ラスカリス将軍が「他の箇所は全て制圧致しました。残っている敵はあの者だけです」と報告してきた。
 テオドラは「あたしの魔法で片付けちゃおうか?」と言ってきたが、僕はそれを制止し、テオドロスにも一旦下がるように命じて、アレクシオスに声を掛けた。
「アレクシオス・ストラテゴプルス。そなたの奮闘は見事である。だが、この城塞は既に我が手中にあり、残っているのはそなたのみ。これ以上の抵抗は無益である。降伏し我が配下に加わるのであれば、命を助けよう」
「お前がミカエル・パレオロゴスか」
「そのとおりだ」
 僕がそう答えると、アレクシオスは僕を値踏みするように見回した後、
「ミカエル殿に1つ提案がある。俺をこの場で解放すれば、俺は知り合いの山賊たちに声を掛け、1か月後にサルディスの町に赴き、ミカエル殿の配下に加わろう。俺が声を掛けて回れば、ざっと2千か3千の数が集まるだろう。ミカエル殿は戦わずして他の山賊たちを制圧することが出来、俺も一兵卒ではなく将としてミカエル殿に仕えることが出来る。どうだ?」
 僕は重大な選択を迫られた。ゲーム的に表現すれば、こんな感じだ。


(どちらを選びますか?)
A アレクシオス・ストラテゴプルスを解放する。
B アレクシオス・ストラテゴプルスを解放しない。


 僕は暫く考えた後にAを選択し、アレクシオスにこう答えた。
「よかろう。貴殿を解放する。1か月後にサルディスで待っている」
「かしこまりました。では退散させて頂きます」
 アレクシオスは僕に一礼して、そのまま素早く城塞を去っていった。
「みかっち、あんな山賊信用していいの?」
 アレクシオスが去った後、テオドラが僕の決断に不満を示した。ラスカリス将軍やテオドロスをはじめ、配下の将兵たちも僕の決断に不満そうであったため、僕はこう説明した。
「彼はきっとやってくる。彼が約束どおり配下を率いてやって来るならば、僕は1人の勇将と数千の兵士を手に入れ、さらに他の山賊たちを戦わずして制圧し、この地域における治安を一挙に回復させることができる。万一彼が来ず再び僕に歯向かったとしても、その時はテオドラの魔法で始末すれば良い。どちらの結果に転んだとしても、少なくとも僕に損はない」
「だから魔法じゃなくて神聖術。一体何回言ったら分かるのよ!」
「テオドラ、さっき自分で『魔法』って言ってたよね!?」


第6章 預言者イレニオス


 その後、僕は軍を率いて一旦スミルナに戻り、ローレス総督に『青い兄弟団』討伐の成功を報告すると、アレクシオスを待つためサルディスの郊外に陣を張った。サルディスはかつてアケメネス朝ペルシア帝国の前線都市として栄えた町のはずだが、現在ではスミルナよりだいぶ小さな町になっており、全軍を収容するには若干無理があったのだ。
 もっともその間、僕はテオドラに非難を受け続けた。
「みかっち、あの作戦は何よ!」
「何って、普通にやったら相当苦戦しそうな『青の兄弟団』討伐に成功し、こちらの死者はアレクシオスにやられた兵士3人だけ。テオドラも十分に見せ場があったし、上出来な結果だと思うけど」
「あたしが言ってるのは、結果じゃなくて手段よ! 山賊たちに酒を飲ませて動けなくなったところを一方的に皆殺しって、正義の味方たる『神の遣い』がやることじゃないわよ! しかもあんた、率先して動けない山賊たちにとどめを刺しまくって、特に親玉みたいな奴にはなんか恨みでもあるみたいにめった刺しにしてたじゃない! あれは殺人鬼の所業よ!」
 ああ、そのことか。山賊たちから同性愛の相手にされそうになったことに腹を立て、ついやってしまった事だが。今から考えればちょっとやり過ぎだったかも知れない。でも、尻を触られたりして腹が立ったなどと言えば、そのことをネタにからかわれそうなので、正直には言えない。その結果、


「悪人に人権は無い。逆らう者は皆殺し。それが僕のやり方だよ。文句ある?」


 物凄い鬼畜な答えになってしまった。
「あ、悪魔だわ。みかっちは本当の悪魔だわ・・・」

 他の将兵たちも、表立って僕を非難することはしなかったものの、内心ではテオドラと似たような感想を抱いているようだった。また、僕がアレクシオスを解放した件についても、マヌエル・コーザスが次のような意見を述べた。
「あの男が再び敵に回った場合、おそらく同じ作戦は二度と通用しません。他の者が皆欺かれていた中で、あの男だけは酒を飲まなかったところを見ると、剣の腕だけでなく頭も相当切れる男です。我々は虎を野に放ってしまったのではないでしょうか」
「そのときはまた別の計略を考えればいい」
 僕はそう返したが、内心では僕も不安だった。あの男が他の山賊団の頭目になって僕に抵抗を続けるなら、強敵になるのは間違いない。

 僕はサルディスで、今まで結構お世話になってきたものの、ほとんど話したことのないイレニオスの許を訪れ、2人きりで話す機会を得た。
「イレニオス、君は僕がやったことを非難しないの?」
「貴方の行動について、特に非難すべき理由はない」
 イレニオスは男性のはずだけど、顔立ちや声は中性的で、僕の問いに対する答え方も何となく事務的な感じだった。表情を見せることもなく、色々な意味で不思議な男の子だった。
「君は聖なる都の陥落を予想して、『預言者』って言われているんだよね?」
「それは第三者がそう言っているだけ。私は預言者ではない。聖なる都の陥落は、私が状況を分析し、予想される結果を皇帝に告げたに過ぎない」
「では、君の状況分析で、アレクシオス・ストラテゴプルスが約束どおり僕の許へやってくるかを判断してくれない?」
「あの者は約束どおりあなたの許へやってくる。何も心配する必要はない」
 イレニオスから保証されたことで、僕は少し安心した。もし「来ない」と言われたら、僕はますます動揺しただろう。話のついでに、僕はいくつか質問するすることにした。
「イレニオスに、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「私に答えられる範囲の質問であれば答える」
「まずはこの世界のことなんだけど、僕の知っているローマ帝国とは若干違うような気がするんだよね。この世界と、僕が住んでいる世界との関係はどうなっているの?」
「あなたの住んでいる世界と、この世界では『位相』が異なる」
「『位相』って何?」
 なんか重要キーワードみたいなのが出て来たぞ。
「未来は1つではない。時代の鍵を握る人物の重要な決断によって、世界の流れは大きく変化する」
「重要な決断って?」
「様々なものがある。あなたがアレクシオス・ストラテゴプルスを解放するか否かを判断したのも、重要な決断の1つ。そうした決断によって世界の流れは分岐し、同じ時間軸にありながら異なる流れを辿る複数の世界が成立する」
「つまり、この世界は、選択肢を選ぶ形のアドベンチャーゲームみたいなものってこと?」
「若干語弊があるが、概ねあなたの考えるように理解して差し支えない。あなたの住む世界の未来も、重要な選択の組み合わせによって様々な未来が成立する」
「例えばどんな?」
「あなたの国が再び経済大国として栄える未来もあれば、核爆発によって人が住めない地になる未来もある。また、人間ではなく猫の支配する地になる未来もある」
「そんな未来もあるの!?」
「ある。ただし、あくまで多数の重要な決断による結果の一つ。確定的な未来ではない」
 猫の支配する未来とやらについて詳しく聞いてみたい気もするが、それは別の機会に回すことにして、当面重要なことから先に聞くことにしよう。
「つまり、僕の住む世界とこの世界は、過去において誰かが「重要な決断」で異なる選択をし、それによって異なる経過を辿った世界だってこと? 位相が異なるっていうのはそういう意味?」
「そのとおり。あなたの世界とこの世界を隔てる重要な決断を行ったのは、ローマ帝国の皇帝レオーン・イサウロス。あなたの世界ではレオーン3世と呼ばれている」
「ごめん、僕その人知らない」
「レオーン・イサウロスは、世界暦6225年から6249年まで在位し、聖なる都を包囲したサラセン人の軍を撃退し、混迷を深め滅亡に瀕していたローマ帝国に再建の道筋を付けた皇帝。詳しいことはあなた自身で調べてほしい」
「分かった。それで、そのレオーン・イサウロスが、どういう『重要な決断』をしたの?」
「この世界では、それまで魔術と評されていたカリニコスのもたらした技術に、神に嘉された『神聖術』として特別な保護を与え、帝国の最高機密技術として密かに研究が進められた。逆に、あなたの住む世界では、カリニコスのもたらした技術に特別な保護は与えられず、その技術は他国に知られることのないままローマ帝国は滅亡し、その技術は単なる火炎放射器のようなものと理解されるようになった」
「つまり、カリニコスの技術が『神聖術』になったか『ギリシアの火』になったかで、世界の流れが変わったということ?」
「あなたは理解が早い。ただし、神聖術が積極的に活用され、世界の流れに大きな影響を与えるようになったのは、マヌエル帝の時代以降のこと。それ以前における世界の流れは、あなたの世界とこの世界とで顕著な差はみられない」
「そんなことまで分かるということは、君は一種の超能力者か何かなの?」
「その質問に答えることは、今の私には許可されていない」
 いわゆる「禁則事項です」ってやつか。
「じゃあ質問を変えるけど、僕はどうしてこの世界に召喚されたの?」
「その質問に対する答えには、なぜ私が「新たな人物」をこの世界に召喚することに決めたか、その「新たな人物」になぜあなたが選ばれたかという2つの答えがある。あなたの聞きたい答えはどちら?」
「出来れば両方聞きたいんだけど」
「申し訳ないが、今日は時間が押しているので、どちらか一つを選んでほしい。もう一つは、また別の機会に説明する」
 もう時間が夕方近くだからか。悩ましい決断だけど、ここは前者を選んでおこう。
「じゃあ、なぜ君が「新たな人物」を召喚したかについて教えて」
「了解した」
 イレニオスはそう答えると、少し沈痛な面持ちになって話を続けた。
「あなたの住む国には、将来滅亡する未来もあるが、存続できる未来もある。しかし、私の国にはもはやどのような選択をしても、遠からぬうちに滅亡する未来しか残されていなかった」
 ゲームオーバー確定の未来ってことか。確かに今まで聞いた感じだと、この世界のビザンティン帝国はむしろ滅亡するのが当たり前って感じだし。
「私は、そのような未来を受け容れることがどうしても出来なかった。そのため、かなり大きな問題が起こる可能性を承知の上で、本来使用することを許されていない禁断の召喚術を使って、あなたを召喚することを決めた」
「・・・つまり、僕は滅亡寸前のローマ帝国を再生する力がある人物ということでこの世界に召喚されたの?」
「正確には、再生させる可能性がある人物。もっとも、この国の再生はあなたにとっても容易なことではない。仮に再生しても、あなたは多くの人々から非難を受け、悪人として世界に名を残してしまうかも知れない」
 ・・・。僕が答えられずにいると、イレニオスは更に話を続ける。
「あなたには、本当に申し訳ないことをしたと思っている。私に出来ることであれば、どのようなことであってもあなたに協力する覚悟は出来ている」
「いいんだよ、イレニオス。僕だって、日本が近い将来必ず滅亡するという事態になれば、思い余って君と同じようなことをしてしまうかも知れない。僕にどれだけのことが出来るか分からないけど、やれる限りのことはするよ」
 そう言って、僕は友情を確認するつもりでイレニオスの手を握ったのだが、そのとき不思議な感覚に襲われた。何というか、男性ではない人の手に触れてしまったような感じというか。
 イレニオスも驚いたような感じで、ちょっと動揺したような声で「感謝する」と答えただけで、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。

 その後数日、僕はイレニオスのことが気になって仕方なかった。彼からかなり重要な話を聞かされたにもかかわらず、気になるのはなぜか「イレニオスは本当に男なのか」ということばかりだった。色々考えた末、僕はイレニオスが「宦官」なのではないかという仮説を立てるに至った。
 ビザンティン帝国は、東の中国やイスラム諸国に並ぶ、世界史上屈指の宦官大国としても知られており、多くの宦官が官僚や聖職者、時には将軍としても活躍している。この世界のビザンティン帝国に宦官がいても全くおかしくはない。それによく考えてみれば、もしイレニオスが完全な男であれば、テオドラ皇女様の従者として仕えられるはずがない。ニケーア宮殿で入浴の時間割をみたときも、イレニオスは1人だけで入浴するものとされていたが、彼が宦官であればその説明も付く。たしか、幼少期に去勢手術を受けた宦官は、第二次性徴が起こらない結果、容姿や声が女性に近いものになると聞いたことがあるし、中性的なイレニオスの姿もそれで説明が付く。ただし、僕は本物の宦官を見たことがないので、この仮説が正しいかどうかは分からない。
 そして僕は、イレニオスがある日の夕方、サルディスの近くにあるヘルムス川へ1人で水浴びへ行くと聞き、心の中で彼に謝りつつも、真相を確かめるためにイレニオスの後を付けていった。サルディスには小規模でしかも混浴だけど風呂屋があり、敢えて4キロくらいも歩いて一人水浴びに行くというのはいかにも怪しい。もっとも、イレニオスが本物の宦官であれば、相手が男でも女でも他人に裸を見られたくないはずなので、これが悪いことだとは僕も承知していた。それでも、僕は何としても真相を確かめなければ、なぜか気になって夜も眠れない状態になってしまっていたのだ。
 そして僕は、ヘルムス川で生まれたままの姿になり水浴びをしているイレニオスの姿を見た。既に夜になっていたが、月の光に照らされてイレニオスの姿はよく見えた。
 ・・・・・・!!!
 月の光に照らされたイレニオスの姿は、まるで妖精のように美しかった。その身体には傷一つなく、去勢手術を受けたような跡は見当たらない。胸はよく見ると微かに膨らんでおり、そして男性のシンボルらしきものは見当たらない。


 すなわち、イレニオスは宦官ではなく女の子だった。しかも、実はとんでもない美少女だった。


 あまりの驚愕の事実に、僕が隠れることも忘れて呆然としていると、イレニオスに見つかってしまった。近づいてくるイレニオスに、僕が「ご、ごめん、まさか君が女の子だとは思わなかったんだ」と言い訳すると、別にイレニオスは怒る様子も見せず、僕にこう頼んできた。
「私が女性であることは、他の人には内緒にしてほしい」
「うん、わ、分かった」
「その代わり、私の裸が見たいのであれば、いつでも好きな時に見て構わない」
「な、なんで!?」
「私に協力できることは、何でもするとあなたに誓っている」
「い、いや別に、君にそういう協力をお願いするつもりはないから!」
 僕はそう言い残して、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。

 その数日後。アレクシオス・ストラテゴプルスは、まさにイレニオスが言っていたとおり、多くの山賊兵たちを引き連れてサルディスの地にやってきた。
「アレクシオス・ストラテゴプルス、只今参上致しました。以後3158名の兵と共に、『神の遣い』ミカエル・パレオロゴス様に忠誠を誓います」
「承知した。今後の忠勤を期待する」
 僕がそう返答すると、僕の横にいたテオドラが口を挟んだ。
「まあ、約束どおり来たのであれば受け容れてもいいけど、その長い名前なんとかならない?」
「えーと、すみません。ストラテゴプルスという家門名は先祖から受け継がれたもので、今まで山賊などしておりましたが、一応父はローマ帝国の軍人でありまして・・・」
「そんなの関係ないわよ。あたしがあんたにいい名前を付けてあげる。そうね、あんたは結構強かったから、戦いの神アレスの名前にちなんで、以後アレスと名乗りなさい!」
 そんな乱暴な! と思ったものの、
「承りました、皇女様。アレスの名、有難く頂戴いたします」
 アレクシオスは何の文句も言わず、アレスという新しい名を受け取った。確かに、あのテオドロスと互角に戦った腕の持ち主ならば、戦いの神アレスを名乗ってもおかしくはない。他の将兵たちもそう思ったのか、アレスという命名に不服を唱えるものはいなかった。
 こうして、アレクシオス・ストラテゴプルスは、本名はそのままであるものの、以後「アレス」の通称で呼ばれ、僕に付き従うことになった。


第7章 ヴェネツィアとジェノヴァ


「うーん・・・・・・」
「どしたのみかっち? 便秘?」
「違うよ! 兵士たちに支払う給料をどうしようかで悩んでいるんだよ!」
 僕たちは、アレス一行を配下に加え、ニケーアに戻っていた。
 アレスが3千人余りと、予想を上回る人数を引き連れて配下に加わってくれたのは有難いことであったが、それによる新たな悩みも発生した。貴族領や教会領などが多いビザンティン帝国は税収が少なく、人数の増えた兵士たちを養うにはお金が足りないのだ。
 自国の国力を考えず、いたずらに軍備増強へ走ればかえって国は滅びる。これは歴史SLGの常識であり世界の常識でもある。自国の財政事情や食料自給率なども考えず、単に高価な新兵器を次々発注し憲法を改正すれば国を守れるなどと考えているどこかの国の政治家さんたちには、歴史SLGで少しは勉強しろと言いたい。
 それはともかく、このままでは兵士たちに給料を支払えなくなり早晩国が自滅することは明らかなので、精鋭の兵士だけを残し、残りは除隊させて休耕地に屯田させるのもやむを得ないかなどと考えていたとき、ラスカリス将軍が入ってきた。
「ミカエル様、ジェノヴァ人のフルコーネ・ザッカリアと申す者が参りまして、閣下にお目通りを願っておりますが、いかが致しましょうか?」
「ジェノヴァ人?」
「はい。閣下はまだご存じないかも知れませんが、この世界の海ではイタリアの海洋都市国家が幅を利かせておりまして、その中でもヴェネツィア人とジェノヴァ人が交易の覇権を巡って、以前から熾烈な争いを繰り広げております。ラテン人共が聖なる都を征服してきたのも、実際にはこれに協力したヴェネツィア人の力によるところが大きいのです。おそらくは、それに関係する用件かと」
「敵の敵は味方、というわけか・・・?」
「みかっち、商人どもなんかに会う必要ないわよ。ヴェネツィア人もジェノヴァ人も、金儲けのことしか頭になくて、奴隷貿易にまで手を染めている連中よ。あいつらに関わったら絶対とんでもないことになるわよ!」
「いや、とりあえず話だけは聞いてみよう」
 テオドラの反対意見も気にはなったが、一応会ってみることにした。

「ジェノヴァ共和国の使節として参りました、フルコーネ・ザッカリアでございます。ミカエル様の勇名は私めも聞き及んでおります」
 フルコーネ・ザッカリアは30代くらいの男性で、いかにも裕福な商人らしい豪奢な衣装を身にまとっている。ただし、身体は戦士らしく引き締まっており、単なる商人ではなく勇敢な海の男という印象も感じる。
「ザッカリア殿。余計な挨拶やお世辞は結構です。ご用件をどうぞ」
 僕がそう促すと、ザッカリアは「それでは早速本題に入らせて頂きます」と前置きして、次のような話を始めた。
「ヴェネツィア人による聖なる都の劫略は、まさしく神に対する冒涜です。敬虔で善良なるジェノヴァ人は、ヴェネツィア人の瀆神行為に激しく憤っております」
 本心からの発言とは思えなかったが、僕は黙って話を聞き続けた。
「そこで、我々ジェノヴァ共和国政府は、ミカエル様による聖なる都の奪還を支援させて頂きたいと考えております」
「どのような支援をして頂けるのですかな?」
「まずは、軍を増強するための資金援助。そして、船が必要になった場合の渡航に関する援助です」
 そう言って、ザッカリアが提示した資金援助の年額は、かなりの巨額であった。これだけあれば、今いる兵士たちを十分養っていけるだけでなく、新たに数千人単位の傭兵を雇うことすら出来そうだった。すぐにでもこの話に飛びつきたいところではあったが、相手は商人である。何らかの見返りを求められるのは分かり切っている。
「それだけの支援となると、当然何らかの見返りが必要になりますね?」
「ご明察痛み入ります。私どものご提案は、貴国との対等な攻守同盟です。第一に、我々は邪悪なヴェネツィア人共と各地で争っております。船乗りとしての腕についてはヴェネツィア人に負けるつもりはありませんが、あいにくヴェネツィア人は数が多く、当方は人手が不足しております。こちらの帝国付近でヴェネツィア人との戦う際には、貴国にも兵を出して頂きたいのです。その際に必要な食料、兵士たちへの給料といった維持費は、すべてこちら持ちとさせて頂きます」
「それは構いませんが、第一ということは、当然第二以降もあるわけですね?」
「後はもう1つだけでございます。仮に、ミカエル様が聖なる都の奪還を果たされた暁には、ラテン人の皇帝ボードワンめがヴェネツィア人に与えた特権を剥奪し、代わりにその特権を我々に与えて頂きたいのです」
「ボードワン!? ラテン人の皇帝は、モンフェラート侯ボニファッチョではないのですか?」
 マヌエル・ラスカリス将軍が、そう口を挟んできた。ラテン人の皇帝がボードワンという名前であることは、僕もブロワ伯ルイから聞いている。何をそんなに驚くのだろう。
「たしか、貴殿は令名高きラスカリス将軍でしたかな? そのとおり、邪悪で狡猾なヴェネツィア人どもは、ラテン人の帝国に恩を売って自らの傀儡とするために、十字軍の総大将モンフェラート侯ボニファッチョではなく、野心と蛮勇だけが取り柄のフランドル伯ボードワンを敢えて支持し、その結果ボードワンが皇帝に選出されたのです」
「そうなのでしたか」
 ラスカリス将軍が納得した。重要な話らしいが、知らないことが多すぎて今の僕にはまだ付いて行けない。後で詳しく聞くことにしよう。僕は別のことを尋ねた。
「それで、ボードワンがヴェネツィア人に与えた特権とはどのようなものなのですか?」
「はい。強欲なヴェネツィア人共は、ボードワンから多くの特権を勝ち取りました。
 第一に、黒海へと通じる海峡の独占的航行権。
 第二に、聖なる都の対岸ガラタに専用の居留地を置く特権。
 第三に、聖なる都の内部にヴェネツィア人専用の居留地を置く特権。
 第四に、両居留地における租税の完全免除と完全な治外法権。
 第五に、聖なる都の交易と船舶の航行に対する関税の完全免除。
以上でございます」
 この世界の事情にまだ詳しくない僕でも、かなり問題のある内容であることは分かった。明治時代の日本が治外法権の撤廃と関税自主権の回復にどれだけ苦労したかは知っているし、そんな特権を認めたら、聖なる都で行われる交易活動からはほとんど税を取れないことになりかねない。
「・・・ジェノヴァ共和国としては、それらの特権を全部認めよと求められるお積もりですかな?」
「全部とまでは申しません。聖なる都の奪還に至るまでにはまだ相当の年月もかかりましょうし、その間に状況が変わる可能性もございます。具体的な特権の内容については、聖なる都の奪還が現実味を帯びた段階で、改めてご相談させて頂きたく存じます」
「分かりました。ご提案の内容はわが国においても重大なものですので、3日後に改めて回答を差し上げるという形でも宜しいですか?」
「承知致しました。良きご回答をお待ちしております」
 そう言ってフルコーネ・ザッカリアは、不敵な笑みを浮かべた。

 ザッカリアを下がらせた後、僕は緊急で会議を招集した。出席者はマヌエル・ラスカリス将軍、ゲルマノス総主教、先日僕の政治顧問兼家庭教師として採用したばかりのニケフォロス・プレミュデス、ニケーア総督バルダス・アスパイテス、将校のテオドロス・ラスカリス、アレス、ネアルコス、そして預言者イレニオス。テオドラ皇女様は邪魔になりそうなので呼ばなかったのだが、「あたしを呼ばないとはどういうことよ!」と怒って会場に乱入し暴れ出しそうになったので、仕方なく出席者に加えた。
「本日お集り頂いた会議の目的は、ジェノヴァ共和国から申し出のあった攻守同盟の可否について皆さんのご意見を窺うことですが、本題に入る前に、ラスカリス将軍には先刻話のあった、モンフェラート侯ボニファッチョという人物についてご説明頂けないでしょうか」
「承りました。ボニファッチョを含め、十字軍とヴェネツィア人の陣容について、私めの知っていることをお話致します」
 ラスカリス将軍がそう応じて、説明が始まった。
「聖なる都に攻め込んできた軍勢は、十字軍がおよそ1万人弱、ヴェネツィア人が7千人余りでございました。十字軍側の総大将は、モンフェラート侯ボニファッチョ。十字軍の幹部としては、他にフランドル伯ボードワン、その弟エノー伯アンリ、ブロワ伯ルイ、シャンパーニュの家令ジョフロワ・ド・ヴィラルドワン、サン・ポル伯ユーグ、ペルシュ伯エティエンヌ、マチウ・ド・モンモランシー、シモン・ド・モンフォール・・・・・・」
「そんなにたくさん覚えられないわよ!」
 テオドラが、ちょうど僕の言いたかったことを代弁してくれた。
「皇女様、覚えるのはアンリとヴィラルドワンだけで結構でございます。あとは雑魚です」
 なんというぶっちゃけた説明!
「私めが見た限り、十字軍幹部のうちアンリとヴィラルドワンは頭も切れ、それなりに学問もあり、かなりの強敵です。しかし、家柄から考えてこの2人が皇帝になるとは考えにくく、それ以外の将は武勇と家柄だけが自慢の、ブロワ伯ルイと大して変わらないような連中です。あの面々の中であれば、十字軍の総大将であったボニファッチョが皇帝になるものと、私だけでなくおそらく多くのローマ人が考えていたと思います。それなのに、明らかな小物のボードワンが皇帝になったと聞いて驚いたのです」
「宜しいですかな」
 ラスカリス将軍の説明に続けて、プレミュデスが発言の機会を求めた。プレミュデスは既に50歳近い初老の男性だが、ゲルマノス総主教によると医学をはじめ哲学、数学、数学、天文学、論理学、修辞学に秀でた碩学として有名な学者で、総主教にはこの国について分からないことがあればとりあえず彼に聞いてくれと言われている。とりあえず、僕は先生と呼ぶことにしている。
「プレミュデス先生、どうぞ」
「商人や難民たちから聞いた情報ですが、ボードワンが帝位に就いたことで、ラテン人たちの間では早くも問題が生じているようですぞ。特に、自分が皇帝になるつもりでいたボニファッチョは、テッサロニケの王に封じられたものの、ボードワンの皇帝即位に納得しておらず、早くも2人の関係は内戦になりかねないほど悪化しているとか」
「それは朗報だね。敵同士で争ってくれればそれに越したことは無い」
「もっとも、真の敵は、ボニファッチョやボードワンではありません。ヴェネツィア人の元首、エンリコ・ダンドロです」
「左様ですな」
 プレミュデスの発言に、ラスカリス将軍も同意した。・・・エンリコ・ダンドロは、第4回十字軍の黒幕として有名な、僕も名前を知っている人物である。
「ドンドロとかがどうしたのよ」
「皇女様、ドンドロではなくて『ダンドロ』です。ダンドロは、既に90歳を過ぎた盲目の身でありながら、ヴェネツィア海軍を率いて海側の城壁から聖なる都を落とした、恐るべき奸智に長けた男ですぞ。そもそもラテン人の十字軍がエジプトではなく聖なる都にやってきたのも、この男の差し金と言われております」
 プレミュデスが、テオドラにそう説明する。うん、僕の知っているダンドロとほぼ同じ人物のようだ。
「じゃあ、そのダンドロをぶっ倒せば聖なる都を奪還できるわけね!」


「・・・ダンドロについては、とりあえず寿命で死ぬのを待とう」


 ずたーん!!!
 そんな僕の発言に、なぜかテオドラの他、テオドロスやアレス、ネアルコスまでが盛大にずっこけた。

「何? 僕、そんなにおかしな事言った?」
 年老いた強敵が寿命で死ぬのを待つのは、武田信玄も織田信長も徳川家康もやっていることである。ゲームでも、例えば1570年頃になって毛利家と境を接したら、よほど自信がない限りは毛利元就と戦うより、寿命で元就が死ぬのを待つだろう。エンリコ・ダンドロは、日本で言えばまさに毛利元就クラスの知謀に長けた強敵なのだ。
「何よその超弱気発言! みかっちは動けない山賊にとどめを刺すしか能がないの!?」
「俺も、盲目の老人にそこまでびびる必要はねえと思うな」
 テオドラとテオドロスがそう発言し、アレスとネアルコスもそれに同意する。僕はどうしようかと思ったが、
「ミカエル殿のご意見は正しいですぞ。どちらにせよ、聖なる都を取り戻すのに必要な艦隊が今のわが国にはありませぬ。しばらく様子を見ながら準備を整えているうちに、いずれダンドロも亡くなるでしょう。無理をする必要はありませぬ」
「彼の見解は正しい」
 ラスカリス将軍とイレニオスが同意してくれたことで、ようやくテオドラたちも黙った。
「艦隊の話になったところで、そろそろ本題に入って宜しいですかな?」
「分かりました。プレミュデス先生、ご意見があればどうぞ」
「このプレミュデスは、ジェノヴァ人との同盟に賛成いたしますぞ。ロマーニアの海を制する力があるのはヴェネツィアとジェノヴァのみ。少なくともそのいずれかを味方に付けなければ、聖なる都の奪回は叶いませぬ」
 プレミュデスに続いて、他の出席者も発言する。
「私バルダス・アスパイテスも賛成です。今の帝国財政は逼迫しており、ニケーアの貧民街に住む難民たちを救済することもままならない状況です。ジェノヴァの資金援助があれば、彼らを経済的に自立させる道も開けます」
「私マヌエル・ラスカリスは、同盟に反対いたします。確かにジェノヴァ人との同盟は魅力的ですが、彼らが求めている貿易特権は明らかに過大なものであり、わが国自体がジェノヴァの属国になってしまいかねませぬ」
「あたしもはんたーい! ジェノヴァ人なんて信用できないわ」
「私ゲルマノスは賛成です。ジェノヴァ人の援助を断った場合、わが国の税収で養える直轄軍はせいぜい4千人が限度であり、今いる兵士たちのうち約2千人を解雇しなければなりません。兵を集めて頂いたアレス殿の努力も無駄になりますし、元山賊の兵士を解雇すれば、彼らはまた山賊になってしまいかねず、治安上も重大な問題が生じます」
 僕が言うつもりだったことを、ゲルマノス総主教が代弁してくれた。テオドロスやアレス、ネアルコスまで会議に呼んだのは、彼らにジェノヴァ人との同盟を納得させるためなのだ。一瞬場が静まり返った後、アレスとネアルコスが相次いで発言した。
「それでは、初めから断るという選択はあり得ないような気がしますが」
「とりあえず同盟を結んでおいて、最大限にジェノヴァ人を利用する。それ以外にないと思うぜ」
 これで結論が出たかと思ったら、まだ反対者はいた。
「俺、ビザンティオンの聖戦士テオドロス・ラスカリス様は反対だ! 解雇する以外にも何か方法があるだろ」
「金が無いっていうなら、あたし錬金術の開発するわ。金さえあればいいんでしょ」
「そんなこと出来るの?」
「一応伝説としては伝わってるから、天才術士のあたしが研究すれば出来ないことはないと思うわ。10年もあれば実用化できると思うけど」
「それじゃ遅すぎるよ!」
 その後も賛否両論が相次ぎ収拾がつかなくなったため、会議は翌日に持ち越しとした。

「ご主人様、お帰りなさいなのです」
 疲れ果てて自室に戻ってきた僕を、マリアが迎えてくれた。彼女は殺伐としたこの世界で、僕にとって唯一の心の癒しである。どうやら、マリアは僕の部屋を掃除している最中だったらしい。
「ただいま、マリア。今日は疲れたよ」
「どうしたのですか?」
「ジェノヴァとの同盟に応じるかどうかで揉めちゃって」
「・・・わたしは、難しいことは分かりませんけど、きっとご主人様が正しいのです! 頑張ってくださいなのです!」
「ありがとう、マリア」
 根拠も何もない発言だけど、マリアに励まされると救われるような気がした。
「あとはこの棚をお掃除して終わりです、ってきゃああああ!?」
 マリアの悲鳴に何事かと振り返ると、マリアは転倒して棚の上にある花瓶を割ってしまったらしい。
「大丈夫マリア!? 怪我はない?」
「ケガはないですけど、ご主人様の大切なお花が・・・。うう、マリアはダメな子なのです・・・」
 そう言いながら泣き出してしまった。
「別に花なんて、そんな大事なものじゃないから! この花を持っていればいずれマリアに会えるかも知れないと思って、飾らせておいただけの花だから! 花よりマリアの方がずっと大事だから、もう泣かないで元気を出して」
「そ、そうなのですか・・・?」
 勢いのあまり、結構恥ずかしいことを言ってしまった気がした。僕もマリアも一瞬赤面したが、またしてもマリアの悲鳴が。今度は何?
「あうあう、ご主人様、見ないでくださいです・・・」
 そう言われても、見なければ何が起きたのか分からない。マリアの身体を見渡すと、なぜかマリアのスカートがばらばらになっており、しかも例によってスカートの下にパンツを履いていないので、マリアは下半身ほぼ裸のあられもない姿を晒す大惨事になっていた。
「・・・・・・!!!」
 僕は慌ててマリアの下半身から目を逸らした。確かに見てはいけない光景だった。僕は助けを呼び、やってきたマーヤと数人のメイドさんたちが後始末をし、ようやく事無きを得た。

 その後、僕が侍従長のオフェリアさんに、マリアの服は仕立てが悪いんじゃないかと苦情を言いに行ったところ、オフェリアさんの答えは意外なものだった。
「ミカエル様、マリアの服はそういう仕様なのですよ」
「どういうこと?」
「ミカエル様が我慢できなくなってマリアを押し倒したとき、マリアの服を脱がせやすいよう、強い力で引っ張るとバラバラになるように仕立ててあるのです」
「!!!」
「他にも、マリアの服には子作りしやすいように色んな仕掛けがしてあるのですが、お聞きになりますか?」
「いいです!」
 オフェリアさんは、理由こそ分からないが、むしろ僕とマリアに間違いを起こさせたいらしい。オフェリアさんとこれ以上話をしても意味が無いので、今度はプレミュデス先生のところへ向かった。

「先生、遅いところ申し訳ありません」
「どうなさいましたかな、ミカエル様」
「この国のルールについて、お尋ねしたいことがあるのですが」
 僕はそう言って、以前オフェリアさんに言われたルールについて話し、これは本当に正しいのかと尋ねた。
「概ね間違ってはおりませんぞ。ただ一点補足すれば、配偶者以外の者との子作りについては、聖職者の中でも意見が分かれておりまして、地獄に落ちる罪だと主張する厳しい者もいれば、それほど大した罪ではないとする者もおります。数としては、前者はかなりの少数派ですが」


「でも、この国の人って、獣姦とか自瀆行為とか、結構当たり前のようにやっているんですが」


 僕は遠征中、他のことも色々観察していたが、オフェリアさんの言っていたルールが本当に正しいのかについても見ていたのだ。ある日、行軍途中で見かけたある農民の若い男は、下半身裸になって雌牛のお尻に向けて腰を振っていた。つまり、家畜の女性器を一種のアダルトグッズの代わりに使っているわけだ。僕はあれが獣姦かと思わず納得してしまったが、僕はその後も似たような光景を何度も見た。
 自瀆行為についても、結構大っぴらにやっていた。兵士たちについては軍属の娼婦や町の娼館を利用している人もいたけど、ある日若い数人の兵士たちが下半身裸になって横一列に並んでいるのを見て、僕は最初立ち小便をしているのかと思ったが、妙に時間がかかるのでおかしいと思ったら、実はその・・・いわゆる精液を誰が一番遠くまで飛ばせるかの勝負をしていたのだ。
 ・・・なお、僕がこの問題にこだわる理由は、以前からこのルールについてはおかしいと思っていたことに加え、さっきマリアのあられもない姿を見てしまったからです。あとは察してください。
 僕がそういうエピソードの数々を先生に話すと、先生はこう答えた。
「確かに、そういう下々の者たちについては、そういう下品なことをする者もおります。自瀆行為に関する罰則はありますが、実際に処罰されるのは街中で公然と自瀆行為をするような輩くらいです。しかしミカエル様、あなた様は立派な帝国貴族で、しかも『神の遣い』とされているお方です。そのように高貴なお方が、そのような下品な行為に手を染めていては、帝国の威信に関わりますぞ」
「はあ」
 僕は、もうバレなければいいと思って、遠征中は時々一兵卒の姿に変装してやっちゃってたけど、やっぱりまずいのか。
「ニケーアにいるときは、お付きのメイドたちに相手をさせればよいですし、セバストスであれば軍に専属の娼婦を1人同行させることも認められております。もし、ご自分でそのような命令を出すのが恥ずかしいと仰るのであれば、私めがオフェリア殿に話をつけて手配して差し上げますぞ」
「・・・結構です」
 どうやら、今夜また夢精してしまうことは避けられないようだった。うう、誰も僕の悩みを理解してくれないよう。

 ジェノヴァとの同盟についてはまだ揉めたものの、同盟に反対するラスカリス父子らも良い対案は浮かばなかったらしく、僕が「同盟は締結する。ただし、聖なる都の奪回まで同盟を維持するかどうかは、別の話だ」と決断を出したことによりようやく決着し、約束の3日後にはイサキオス帝の承認も得て、フルコーネ・ザッカリアに同盟承諾の返答をすることが出来た。
「ジェノヴァからの資金援助を当てにするならば、最大で約4千人の傭兵を雇うことが可能になりますが、早速お雇いになりますか?」
 内政面での宰相を兼ねているゲルマノス総主教からの問いに、僕はこう答えた。
「傭兵を雇うのは、実際に最初の資金が届いてからでいい。あと、雇うのは2千人を目途にして、ラスカリス将軍と相談して一番費用対効果の高そうな傭兵たちを雇う。それ以外の資金は内政に回す」
「内政と言いますと?」
「帝国の領土には、人がいなくなって休耕地になっている土地がたくさんある。そうした地へ難民たちを入植させ、その地を帝国の直轄地にする。上手く行けば難民たちの生活も改善されるし、数年後には帝国の財政も改善されると思う」
 僕の提案に、ゲルマノス総主教は顔をしかめた。
「良いお考えだとは思いますが、あいにく私は総主教の仕事と帝国の内政を兼務している状態で、そうした新たな政策を担当する余裕はありません。ニケーア近辺の土地についてはアスパイテス総督に任せることも出来ますが、全国規模でやるとなると、それを指揮できる有能な人材が新たに必要となります」
「この仕事ができそうな有能な人材に心当たりは?」
「無くはありませんが、簡単な仕事ではありませんので、しばらくお時間を戴きたく存じます。私も今の仕事でほとんど手一杯ですので」
「ご苦労をお掛けしますが、宜しくお願いします」
 内政一つをやるにも一朝一夕には行かない。やはりゲームの世界と現実は違う。


第8章 真相


 軍政については、ラスカリス将軍と協議した結果、次のような方針が決まった。

<軍政に関する方針>
● 現在いる直属軍の兵士約6千人のうち、ヴァリャーグ近衛隊以外の兵士たちについては、あまり兵士に向かない者たちもいるので、希望する者には除隊を許し、集団で休耕地に入植させる。
● 残った兵士たちのうち、騎乗に優れた者は軽騎兵として、弓の扱いに優れた者は弓兵として訓練し、それ以外の者は集団戦向けの長槍兵として訓練する。長槍兵は、マケドニア王アレクサンドロス3世時代の兵士たちにちなみ「ファランクス」と命名するが、武装についてはこの時代の騎士対策を念頭に改良を加える。
● ジェノヴァからの資金援助は同盟締結後すぐに送られてきたので、除隊した兵士たちの穴埋めを兼ねて、傭兵を雇って合計8千人を目途に直轄軍を増強する。雇用する傭兵については、これまでの実績に照らし北欧、イングランド、南イタリアなどから来たノルマン人(ヴァリャーグ人)が一番勇猛かつ信頼できるので、ノルマン人を中心に雇用する。新たに雇用した傭兵はヴァリャーグ近衛隊に編入する。
● 兵士たちの訓練については、ラスカリス将軍とテオドロス、アレス、ネアルコスに指揮させる。アレスとネアルコスには将軍としての素質があるので、ラスカリス将軍に軍人としての教育をしてもらう。

 その結果、3月になり戦闘に適した季節になった頃には、僕の率いる直轄軍はヴァリャーグ近衛兵約3千人、ファランクス兵約4千人、弓兵と軽騎兵が各約500人という陣容になった。なお、新たに雇ったヴァリャーグ近衛兵の大半は、聖なる都の陥落後ラテン人の国に仕官しようとして断られ、ニケーアにやってきた者たちだったので、ラスカリス父子や既存の近衛兵たちとも知った仲であり、特にトラブルが起きることも無かった。
 しかし、戦闘に適した季節になったということは、敵も動き出すということも意味する。ラテン人はブルガリア人との戦いに向かったとの報告が入ったが、問題は次の2つの報告であった。
「申し訳ございません。トルコのスルタン、カイ=クバードとの交渉は失敗に終わりました」
 そう報告してきたのは、僕の指令により使節として派遣されていたテオドロス・イレニコス。ゲルマノス総主教の人選によるものだが、彼は以前帝国宰相を務めたこともある人物だという。
「失敗自体は仕方ない。一体何が問題になったのか聞かせてもらいたい」
 相手はかなりの年長者であり顔なじみの相手でも無いので、僕の言葉も固くなる。
「イコニオンにあるスルタンの宮廷に出向いたところ、かつての主君であるアレクシオス帝がかの地に亡命しておりました。アレクシオス帝は、スルタンに自分と同盟すればロマーニアの地の半分を割譲するとの条件を提示し、スルタンは我々よりもアレクシオス帝との同盟に前向きなようです」
「アレクシオス帝とは何者か?」
「イサキオス帝の兄君にあたる御方です」
 この報告を聞いて、僕はだんだん訳が分からなくなってきた。

 これと同じ頃、更に訳の分からない報告が届いた。
「トレビゾンドの地から、大コムネノス家を称するダヴィド・コムネノスが軍を率い、聖なる都を奪還すると称して西へ進軍中です」
 この報せに、ラスカリス将軍もゲルマノス総主教も大慌てした。ダヴィドが聖なる都を奪還するようなことがあれば、我々はお終いだと言い出したのだ。僕は、同じローマ人であれば同盟を結んで共にラテン人と戦えばいいのではないかと言ってみたのだが、そういう訳には行かないのだという。2人に事情説明を求めたところ、ここ数十年にわたる帝国の歴史を説明しなければこの事態は理解できないというので、僕はプレミュデス先生から、帝国の歴史に関して急ぎダイジェスト版で講義を受けることになった。
「ミカエル様は、ローマ帝国の歴史についてどこまでご存じですかな?」
「ユスティニアヌス大帝の時代あたりまではいくらか知っていますが、その先が曖昧です」
「分かりました。ではそのあたりから簡潔にお教えしましょう」
 先生はそう前置きし、話を始めた。
「ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人からイタリアや北アフリカの地を奪還されましたが、その死後帝国は衰退に向かい、イタリアはランゴバルド人の手に奪われ、更にムハンマドなる者を預言者と称する不信仰の徒であるサラセン人が砂漠の地より現れ、シリア、エジプト、パレスティナ、更には北アフリカの地まで奪われました」
 サラセン人というのは、要するにアラブ人、イスラム教徒のことである。
「帝国はもはや滅亡するかと思われましたが、ローマ人は聖なる都とアジアの地を拠点として必死に抵抗を続け、やがてレオーン・イサウロス帝の時代から徐々に勢力を盛り返し、『ブルガリア人殺し』小バシレイオス帝の時代には、帝国は再び最盛期を迎えました」
 帝国に再び最盛期をもらたしたという「小バシレイオス」という皇帝のことを詳しく知りたいと思ったが、ダイジェスト版なので今回は我慢した。
「しかし、小バシレイオス帝の死後帝国は急速に衰退し、一時はこのニケーアまでトルコ人の手に奪われ帝国は再び滅亡の危機を迎えました。その危機を救ったのが大アレクシオス・コムネノス帝であり、以後の帝国はコムネノス家の血を引く者が帝位に就くようになりました」
「イサキオス帝もコムネノス家の血を引いているの?」
「母方ですが血を引いています。大アレクシオス帝の後、カロヨハネス帝、マヌエル帝の3代にわたって帝国は再び栄えましたが、マヌエル帝の死後はその孫にあたる小アレクシオス帝が幼少の身で即位し、間もなく小アレクシオス帝はクーデターによって殺され、コムネノス家の傍系にあたるアンドロニコス帝が即位しました」
「正統な血を引く皇帝がクーデターで殺されちゃったの?」
「この国では結構よくあることなのです。アンドロニコス帝は約20年にわたり帝国を統治し、様々な改革を行い傾いた帝国の再建に努められましたが、晩年には貴族たちを弾圧しようとして反感を買い、最後にはクーデターによって帝位を追われ、殺されてしまいました。その後を継いだのが、ミカエル様もご存じのイサキオス・アンゲロス帝です」
「母方の傍系に過ぎないイサキオス帝が帝位に就いたということは、コムネノス家の生き残りはもういなかったの?」
「たくさんいたのですが、イサキオス帝は率直に申し上げますと、美男だけが取り柄で政治に関心が無く操りやすいということで、一部の貴族たちにより皇帝に祭り上げられたのです」
 だんだん話が嫌な感じになってきた。
「イサキオス帝は10年間にわたり帝国を統治しましたが、その治世下で10を超える数の反乱が続発し、帝国の支配下にあったブルガリアもイサキオス帝の時代に独立してしまいました。イサキオス帝は血統的な正統性も乏しく、イサキオス帝自身の統治もあまり芳しからぬものであったため、最後には軍部が揃ってイサキオス帝の兄アレクシオスを皇帝に擁立し、イサキオス帝を廃位して逮捕し、2度と帝位に就けないよう盲目刑に処してしまいました」
 前にテオドロスもそんなことを言っていたような気がする。あと、テオドラもラスカリス将軍を「裏切り者」とか言っていたな。
「軍部が揃ってということは、ラスカリス将軍もクーデターに参加していたの?」
「参加しておりましたぞ。将軍は、呑気に狩猟へ出かけていたイサキオス帝を逮捕する役目を率先して果たしておりましたな」
 それであれば、テオドラに裏切り者呼ばわりされること自体は仕方ない。
「確認したいんだけど、イサキオス帝の統治って、そんなにひどかったの?」
「・・・私の口からあまり批判めいたことは申せませんが、分かりやすい例を1つ挙げましょう。アンドロニコス帝の時代、古くからの軍事貴族の家系に属するアレクシオス・ブラナスという将軍がおりまして、当時では最も令名高い武将でした。ブラナスはイサキオス帝にも仕えましたが、イサキオス帝は彼の忠誠心を疑って将軍職を解任し、追い詰められたブラナスは本当に反乱を起こしてしまいました」
「その反乱はどうなったの?」
「当時の帝国に、ブラナスに抵抗できる将軍はおらず、イサキオス帝は聖なる都の大城壁に籠城しておりました。ちょうどその頃、コンラドと申す勇猛なラテン人がイサキオス帝の姉君であるテオドラ様、いやもちろんあの皇女様とは別人ですが、とにかくその姫君と結婚するため聖なる都に来ておりまして、コンラドは城壁内に篭っているイサキオス帝を惰弱だなどと一喝し、自ら軍を率いて出撃し、一騎討ちでブラナスを殺し反乱を鎮圧しました。しかし、当時の帝国には、イサキオス帝の奢侈や相次ぐ反乱などが原因でコンラドに与えられる報酬が無かったため、結局イサキオス帝がコンラドに与えた『報酬』は、都周辺の農地や村に対する略奪許可でありました。それでもコンラドは報酬が少ないなどと不満を言い、結婚したばかりの姫君を置いて帝国を去り、エルサレム王国へ旅立ってしまったのです」
 ・・・なんだそりゃ。
「イサキオス帝には、その種のダメなエピソードが他にもあると考えていいんですか?」
「時間がかかってしまいますが、聞きたいと仰るならまだまだありますぞ。ラスカリス将軍も、事あるたびにイサキオス帝の尻拭いに付き合わされ、嘆息して時々アンドロニコス帝のことを懐かしんでおりましたからな」
「・・・もういいです。次の話に入ってください」
「こうして、イサキオス帝の兄アレクシオス帝が即位して8年間統治され・・・」
「ちょっと待ってください。これで、アレクシオスっていう名前の皇帝がもう3人も出てきて、非常に紛らわしいんですが」
「確かに紛らわしいですが、残念ながらあと2人出てきますぞ」
「正直言って頭が混乱してくるので、アレクシオス3世とか呼んではいけないのですか?」
「いけないということはありませんが、わが国には皇帝陛下の名前に数字を付ける習慣はございません。歴史書を書く際、同じ名前の皇帝が複数いるときは、それぞれにあだ名を付けるのが一般的ですな」
「それぞれ、どんなあだ名が付いているんですか?」
「残念ながら、3人目と4人目のあだ名は未定でございます。1人目は大アレクシオス、2人目は小アレクシオス、5人目はムルズフルスと呼ばれているのですが」
「・・・それなら、申し訳ありませんがアレクシオス3世、4世といった形で説明してください」
「まあ、やむを得ませんな。では、そのアレクシオス3世陛下は8年間にわたり帝国を統治され、自分が女系でコムネノス王朝の血を引いていることを強調するために、アレクシオス・アンゲロス・コムネノスと名乗るようになりました。その後、アンゲロス家の他の者も、多くはこれに倣うようになりました」
 ああ、それでテオドラの本名も、アンゲロス・コムネノスの女性型を付けて「テオドラ・アンゲリナ・コムネナ」になるわけか。
「・・・しかし、アレクシオス3世陛下の皇帝としての力量は、残念ながらイサキオス帝と大差ないというのが実情でありまして、反乱も数多く発生しましたし、モンゴル軍への貢納を送る資金が足りないため歴代皇帝の陵墓を暴かれたり、資金不足で海軍の戦艦やその艤装品を競売に掛けてしまったり、救いようのないような金策でその場しのぎをされておりました。そうした金策の多くを発案してイサキオス帝やアレクシオス3世陛下に取り入っていたのが、ゲオルギオス・ムザロンという下賤の輩でしてな・・・」
「ゲオルギオス・ムザロン?」
「失礼、ムザロンの話は余談でございました。そのうち、廃位され修道院で幽閉生活を送られていましたイサキオス帝の長男アレクシオス皇子が、密かに脱出してイタリアに向かわれまして、エジプトへ向かっている十字軍の許へ赴き、自分の帝位奪還に協力してくれと申し出たのでございます。その結果、モンフェラート侯ボニファッチョ率いる十字軍とエンリコ・ダンドロ率いるヴェネツィア人が聖なる都へ攻め寄せてきたわけでございます」
「それだと、ラテン人たちは勝手に攻め寄せてきたわけではなく、アレクシオス皇子の呼び掛けに応じてやってきたわけですね」
「建前上はそうです。ただし、アレクシオス皇子がイタリアへ脱出出来たこと自体に不審な点が多く、むしろダンドロが裏で糸を引いていた結果ではないかと多くの者が噂しております。それはともかく、十字軍は兵士数が少ないので最初はアレクシオス3世陛下もなめてかかっており、十字軍によって聖なる都が落とされると主張されたのは陛下の息子イレニオス様だけでございましたが、十字軍とヴェネツィア人の攻撃が始まると、わずか数日でアレクシオス3世陛下は参ってしまい、最愛の皇女プルケリア様だけを連れ、他の者は家族すらも見捨て、夜陰に紛れて聖なる都から脱出してしまわれたのでございます」
「イレニオスって、アレクシオス3世の子供だったのですか!?」
「正妻の子ではなく、パメラとか申す占い師との間に生まれた庶子ですので帝位継承権はございませんが、確かに陛下のご子息であらせられます」
 ・・・本当は娘だけどね。でもイレニオスとの約束だから、口に出すわけには行かない。
「あと、アレクシオス3世はどうして逃亡してしまったのですか?」
「詳しくは私も存じません。ただ、あの皇帝陛下は臆病なご性格で、しかも兵士たちの士気が低く、都の住民たちも防衛に非協力的でありましたので、それに絶望されたのではないかと思われます。残された重臣たちは協議の結果、廃位されたイサキオス帝を復位させ、更に十字軍の連れてきたアレクシオス皇子をイサキオス帝と対等の皇帝に即位させることで、とりあえず十字軍との和解を図ったのでございます。こうして即位されたのがアレクシオス4世陛下です」
「そうなると、逃亡したアレクシオス3世はどういう扱いになるんですか?」
「この国には、聖なる都を捨てて逃亡した皇帝は退位したものとみなすという、昔からの不文律がございます」
「なるほど。でも、現状から察するに、十字軍との和解には至らなかったのでしょうね」
「そのとおりです。アレクシオス4世陛下は、十字軍に協力の報酬として、詳しくは存じ上げませんがかなり多額の報酬と、エジプトへの援軍派遣、正教会のラテン派への従属などを約束しておりまして、いずれも実現不可能なものばかりでございました」
 ラテン派というのは、いわゆるローマ・カトリックのことである。ローマ人の間では、自分たちの正教こそが正しく、ローマ教皇率いるカトリックを異端だと考えられているので、正教神学に詳しいプレミュデス先生としては、カトリック(普遍的)などとは死んでも呼びたくないのだ。他の人たちも「カトリック」とは呼ばず、ラテン派、フランク派、アジュミタイ派、異端者などと呼んで忌み嫌っていた。
「それでも、アレクシオス4世陛下は、何とか十字軍に報酬の金だけでも支払おうとして、聖なる都の民衆に重税を掛け、教会財産の没収まで致しましたが、それでもまだ金は足りませんでした。また、正教会のラテン派への従属についても、市民や聖職者たちの猛反発により話を進められなくなってしまいました。そのうち、陛下に対する民衆の不満は高まり、聖なる都の民衆は抗議デモを行い、元老院はもっとましな人物を皇帝に選ぶべきだと訴えるようになり、やがてニコラス・カナブスという人物を皇帝に擁立する暴動が起き、アレクシオス4世陛下は帝位の維持自体にラテン人の力を必要とするようになり、それが更に市民たちの反発を呼ぶことになりました」
「それで、結局どうなったんですか?」
「その結果、アレクシオス4世陛下は、即位からわずか半年余りで、何者かに暗殺されました。イサキオス帝も同じく殺害されたものと思われていたのですが、実際にはテオドラ皇女様とその一派が、イサキオス帝を救出してニケーアへ落ち延びられていたのでございます。その後皇帝に即位したのが、アレクシオス3世陛下の娘婿であるアレクシオス・ドゥーカスという男で、左右がひっついたひどく濃い眉毛の持ち主であったことから、ムルズフルスのあだ名で呼ばれておりました。ミカエル様の呼び方に従うならば、この者がアレクシオス5世陛下ということになります」
「その人は何をやったの?」
「アレクシオス5世陛下は、ラテン人との交渉を中断して徹底抗戦の道を選び、少なくとも義父のアレクシオス3世陛下に比べれば、ラテン人に対し果敢に抗戦されておられました。しかし、約3か月にわたり小競り合いが続いた後、十字軍の総攻撃が始まると、陸の城壁からの攻撃はラスカリス将軍などが何とか防いでいたのですが、ヴェネツィア人が守りの薄い海側の城壁を突破することに成功し、アレクシオス5世陛下もまた、抗戦を諦めて逃亡されました。それを知ったラスカリス将軍も、もはやこれまでと抗戦を諦め、聖なる都を捨てて部下たちと共にニケーアへと落ち延びて行かれたのでございます。それからが惨劇の始まりでございました」
「惨劇?」


「十字軍とヴェネツィア人どもは、聖なる都を徹底的に劫略して多くの者を殺し、若い女とみれば修道女さえも容赦なく凌辱しました。恐れ多くも、ラテン人たちは教会までも容赦なく略奪、破壊し、聖なる都に飾られていた多くの貴重な彫像までも無造作に破壊しました。さらに市内には火が放たれ、わずか3日間の間に、聖なる都は大いなる廃墟のような姿になってしまったのでございます。市民たちも、まさか異端とはいえ同じキリスト教徒が、聖なる都に対しここまでの蛮行を働くとは、ただ1人イレニオス様を除いては、誰も予想しておりませんでした。多くのローマ人は、不信仰の徒であるトルコ人でさえもここまで酷いことはしない、ラテン人は何たる瀆神の徒かと深く憎むようになった一方、ただ1人この惨劇を予言されていたイレニオス様を、『預言者』として崇めるようになったのでございます」


 イレニオスは、単なる陥落だけではなくそこまで予想していたから、『預言者』として崇められる存在になったのか。だが、だとすると・・・?

「念のためお聞きしますが、聖なる都にある宮殿の浴場がどうなったか分かりますか?」
 僕の質問に、先生は「は?」というような怪訝な顔をして答えた。
大宮殿の浴場であれば、略奪され金銀の装飾を剥ぎ取られ、その後の火事で廃墟になってしまいましたが、なぜそのようなことに関心をお持ちで?」
「いや、テオドラが早く聖なる都に帰って大浴場に入りたいと駄々をこねているので、念のため確認しておきたかったのです。仮に聖なる都を奪還しても、当分は無理という事ですね」
「皇女様はそんなことをおっしゃっているのですか。ミカエル様も大変ですなあ」
僕とプレミュデス先生は、揃ってため息をついた。

「若干話が逸れましたが、ダヴィド・コムネノスというのは何者なのです?」
「アンドロニコス帝の孫にあたる方で、アレクシオスという兄がおります。この兄弟は、母の出身であるグルジア王家の力を借りて、聖なる都を自らの手で奪還しようと企んでおります。この兄弟はイサキオス帝と異なり、コムネノス家のれっきとした男系子孫であり、血筋を考えればイサキオス帝より帝位継承順位は上ということになります。従いまして、もしダヴィドが聖なる都の奪還に成功すれば、ローマの正統な皇帝はダヴィドということになり、この国にはイサキオス帝の居場所はなくなります。そうなれば、イサキオス帝に従っている我々もただでは済まないということになります」
「なんかもう頭が痛くなってきたんですが、今の話だと、イサキオス帝は色んな意味で皇帝失格な上に、正統な皇帝であるとさえ言えないということになりそうな気がするんですが」
「まさにそうなのです。実のところ、ミカエル様を『神の遣い』ということにしたのは、イサキオス帝では帝国再興の旗印としてはあまりにも弱いので、イレニオス様の召喚した人物を、帝国再興のため神様に遣わされた者として祭り上げることにし、これに正教の聖職者たちも協力し、ミカエル様を神の遣いだと民衆に触れて回っていたとゲルマノス総主教から聞き及んでおります」
「僕ってそういう役割だったの!?」
「はい。かくなる上は、ラテン人と戦うより前に、ミカエル様の手でダヴィド・コムネノスと、トルコ人の力を借りようとしているアレクシオス3世を打ち負かして頂き、イサキオス帝とミカエル様こそ、ローマ帝国再興の真なる旗頭であることを多くのローマ人たちに納得させて頂く必要があるのです。また、アレクシオス5世は既にラテン人に捕まって処刑されましたが、今後皇族の血を引く何者かが新たに帝位を狙って挙兵した場合、その者も打ち負かして頂く必要がございます。遠い異国から参られたというミカエル様には、大変ご迷惑なお話であることは重々承知しておりますが、何卒帝国のために力を貸して下さいませ」
「僕にそんなことが出来るというのは、明らかな買い被りじゃないかと思うんですけど」
「そのようなことはございません。むしろ私めは、ミカエル様のご見識とご活躍ぶりを見る限り、ローマ帝国をこの惨状から立ち直らせることが出来るのはミカエル様のみであると考えております。アレクシオス3世は言うに及ばず、アレクシオスとダヴィドの兄弟も、強みは家柄だけでとても皇帝の器ではございません。ですから私めは、ミカエル様の家庭教師役をお引き受けしたのです。その代わりと言っては難ですが」
「その代わりって?」
 僕が問うと、プレミュデス先生は僕に耳打ちした。
「ミカエル様にあまりにも申し訳ないので、少なくとも女子について不自由はさせないという話になっております。ミカエル様の好みに合う女子は、お申し付けあれば可能な限り用意しますので、宮殿内では好きなだけお楽しみくださいませ。我々に出来ることはそのくらいしかございませんので」
 みんな寄ってたかって女の子を薦めてくるのは、そういう事情だったのか・・・。
「ご教授頂きありがとうございました。しばらく考えさせてください」
 プレミュデス先生にそう告げて、僕は自室へと戻り、精神的に疲れ果てた状態で床に就いた。この日マリアはお休みで、僕の世話係をしていたのは副主任のマーヤだった。マーヤは大人しい子で、マリアみたいなドジはしないけど、マリアみたいに特別可愛らしいというわけではない。でも、今日みたいにマリアのことを忘れて考え事に集中したいときには、むしろ丁度良かった。僕はマーヤに「ご主人様、お休みなさいませ」と挨拶されて、そのまま眠りに就いた。


第9章 決意


 僕は、次に目が覚めたときには日本に戻っていた。
 ・・・ファンタジーの世界では、平和だった国がある日突然悪い奴らに侵略されて、国を奪還するために主人公が立ち向かうという話が多く、むしろそういう話の方が定番だろう。しかし、リアルの世界ではまずそんなことはない。敵に攻められて滅びる国というのは、大抵何らかの重大な欠陥があり、滅びるべくして滅びるものだ。あのビザンティン帝国はその最たるもので、普通に考えればむしろ滅びるのが自然な流れだろう。
 イレニオスは、そんな未来を強引に変えさせるため僕を呼んだというが、話の一部を聞いただけで愚帝と分かるイサキオス帝や、あのわがまま皇女様を権力の座に就けるのが本当に正しいのか。機会を見てイサキオス帝を排除し僕自身が皇帝になるという選択肢も無くはないが、そうなれば僕は完全な悪人だ。
 女の子に興味がないわけではないが、女の子を勧められるのも僕にとってはむしろ迷惑だ。僕はハーレムを作りたいわけではなく、女の子は理想のお嫁さんが1人いればいい。初めては好きな子としたい。そして、最低限のことをやり終えたら日本での生活に戻りたい。この線だけは絶対譲れない。
 向こうの世界で初体験をするとなれば、相手として思い浮かぶのはまずマリアだけど、マリアと一線を越えてしまったら、マリアにそっくりの湯川さんにも同じことを期待するようになってしまいそうで怖い。僕としてはイレニオスでも悪くは無いけど、イレニオスは皇帝の娘で、しかも預言者様として崇められている存在だ。さすがにイレニオスは駄目と言われるだろうし、それに詳しい事情は分からないけど、イレニオスは表向き男性として振る舞っている。結局イレニオスも除外。他に思い付く候補はいないので、結局向こうの世界で初めてを済ませるというわけには行かない。それに、僕は日本ではまだ高校生だし、そういうことをするのは早すぎると思う。・・・うちのお父さんは変わり者で、早く彼女を作れと僕に急かしてくるけれども。
 でも、途中であの世界での仕事を放棄したら、ペナルティとして『男の子として一番大切なもの』をちょん切られてしまう。それは絶対に避けたい。出来る限り早く仕事を済ませ日本での生活に返してもらうというのが理想だが、あのグダグダな国を立て直す仕事は、10年や20年では終わらないだろう。一生かけて終わらない可能性もあり得る。もちろん途中で死んでしまう可能性も十分あり得る。それに1年や2年くらいならともかく、一生エッチな誘惑に耐え続けるというのも馬鹿げた話だ。

 授業中にも、考えが堂々巡りになっていまいち集中できない。こういう時は気分を変えよう。
 ・・・ミカエル・パレオロゴス。
 僕があの世界でもらった名前。あの名前に、何かヒントが隠されているかも知れない。家に帰ったら、該当する人物について調べてみよう。それまでは授業に集中しよう。僕はそう決めた。
 そして帰宅後、ググってみたら該当しそうな人物はすぐに見つかった。
 ビザンティン皇帝、ミカエル8世パレオロゴス(パライオロゴス)。たぶんこの人の名前だろう。僕もミカエル8世についてある程度のことは知っていた。某レトロSLGで、この人を選択してプレイしたこともある。たしか、ラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還し、シチリアの晩鐘事件を引き起こし、策略に長け「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれている皇帝である。しかし、ウィキペディアでこの人の生涯を追っていくと、表面的な業績については分かるけど、具体的な人物像がいまいち掴めない。
 こういう時は、一番詳しい人に聞くに限る。
「お父さん、ビザンツの皇帝ミカエル8世って人について詳しく聞きたいんだけど」
「・・・どうした、急に?」
 僕は、予め考えておいた言い訳を口にする。
「高校の世界史で、自分が興味を持った人物について調べてレポートを書くっていう課題があって、ミカエル8世について書こうと思っているんだけど、いまいち詳しい資料がなくて困ってるんだ」
 もちろん嘘であるが、お父さんは特に疑うこともなく説明してくれた。
「最近はそういう課題もあるのか。そうだな、ミカエル8世っていうのはまず一言でいうと、『最も狡猾なギリシア人』にして、世界史に名を残した大悪人だな」
「大悪人!?」
「もともとビザンツ人は、西欧の人々から『狡猾なギリシア人』と呼ばれて嫌悪されていたんだが、その中でもミカエル8世は『最も狡猾なギリシア人』と評され、西欧では猛烈な悪評を受けている」
「なぜに」
「ビザンツ人は、正面から戦っても勝ち目のないアラブ人、ブルガリア人などを相手に生き残らなければならなかった。だから、生き残るためにはどんな汚い策略でも使った。必要であれば、異教徒と同盟を結ぶこともためらわなかった。そうしたビザンツ人は、カトリック一色に染まっていた西欧人には理解し難い存在だった。これが1つ」
「うん」
「そして、ミカエル8世は、主君テオドロス2世の死後、よりによって先帝追悼のミサの最中、自分の仕業とは分からない方法で、政敵であるゲオルギオス・ムザロンを暗殺して帝国の実権を握り、さらに総主教アルセニオスを脅迫して「自分はムザロンのようにはなりたくない」とまで言ってのけ、共同皇帝になった。そして運良くコンスタンティノープル奪還を果たすと、本来の主君であるテオドロス2世の息子、幼帝ヨハネス4世の目を潰して追放し、ラスカリス家から帝国を乗っ取ってしまった」
「・・・・・・」
「その後、フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューに帝国を狙われると、正面から戦っても勝ち目のないミカエル8世は、生き残るために策略の限りを尽くした。十字軍の発動を阻止するため、ローマ教皇に出来もしない東西教会の合同を約束して時間を稼ぎ、その一方でシチリア島に工作員を送って反乱を扇動して「シチリアの晩鐘」事件を起こし、アラゴン王ペドロ3世に金を贈ってシチリア島を占領させ、シャルル・ダンジューはビザンツ侵攻どころでは無くなった。結果的にこの策略でビザンツ帝国は救われたが、西欧ではビザンツ人の中でも最も汚い男として猛烈に非難された」
「西欧ではそうでも、当のビザンツでは国を救ったんだから、救国の英雄なんじゃないの?」
「とんでもない。阿漕な帝位簒奪のかどで、総主教アルセニオスから破門され、6年間にわたり許されなかった。その間、ミカエル8世は真摯に謝罪するどころか、自分を赦さないならローマ教皇に赦しを求めるなどと言って、逆に聖職者たちを脅迫した。さらに、国内では大不評だった東西教会の合同を強行し、反対する人々を自分の家族に至るまで次々と投獄し、ときには殺した。その結果、ミカエル8世は正しい信仰を捨てた者として、死後は皇帝に相応しい葬儀もしてもらえなかった。後を継いだアンドロニコス2世は父の行為を全否定することにより、ようやく国内で受け容れられた」
「そこまで悪いというか、報われない人だったんだ・・・」
「まあ、現代の視点では、彼のような人物が皇帝になっていなければ、おそらくビザンツ帝国はシャルル・ダンジューの手に落ちていただろうと評価する人もいるけど、後の世代に悪い影響も少なからず残しているので、必ずしも名君とは評価されていない。この人物についてレポートを書くのであれば、彼が生き残るために、なぜこれほどまでの悪行を繰り返さなければならなかったのかという視点で書いてみると面白いんじゃないか?」
「あ、ありがとうお父さん、参考になったよ」 
「それと、ビザンツ史の本でミカエル8世について載っているやつを何冊か持ってるから、必要なら参考にするといい。ビザンツ史に関する日本語の文献はあまり多くないがね」

 お父さんから借りた本は数冊にのぼり、とても1日で読み切れるものではなかった。お父さんは歴史SLGマニアでもあるが、リアルの歴史マニアでもある。僕もお父さんにはまだまだ勝てる気がしない。でも、僕があの世界でそんなミカエル・パレオロゴスの名をもらったということは、僕はあの世界で大悪人になれということなのか・・・?
 いや違う、むしろ大悪人になればいいんだ。僕が摂政とかではなく、わざわざ臨時で復活させた任期1年の共同執政官に任命されたということは、この1年間が試用期間みたいなものなのだろう。僕の共同執政官としての任期は、たしかあと半年くらいだ。もともと、僕はあの世界での仕事をやりたいわけではないのだから、わざわざ正式採用されるような働き方をする必要はない。むしろ残りの期間、わざと正式採用されないような働き方をすればいいんだ。
 もっとも、仕事をさぼったり手抜きをするような働き方では、任期が終わる前に帝国が滅び、僕の命も失いかねない。だから、真面目に働きはするが、敢えてテオドラも驚愕するような大悪人ぶりを見せつけて、『神の遣い』として祭り上げるにはあまりにもやばい人間だと思わせればいいんだ。
 別に、僕は特別な能力を持った人間ではない。異なる位相とやらの世界を含めて探しまくるなら、僕の代わりになる人間くらいいくらでもいるだろう。あと半年あれば、聖なる都の奪回までは到底無理だが、いくらか状況を改善するくらいのことは出来る。僕は悪名だけを背負い、お役御免となってあの世界から消えていく。そして、僕の後任となる誰かが、僕よりはいくらか恵まれた状況からスタートしてあの帝国を再建すれば、イレニオスも、マリアも、他の人々も救われる。僕も救われる。
 よし、それで行こう!
 僕はそう決意して、やるべきことを済ませた後、満足して眠りに就いた。
 次に目が覚めたとき。
「おはようございます、ご主人様、なのです」
 案の定マリアが、可愛い笑顔で僕を迎えてくれた。僕はそんなマリアを見て、心の中で念じた。
 ・・・マリア。君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる!

(第1話後編に続く)


<前編後書き>


「この物語を読んで頂き、ありがとうございます。この物語の主人公、ミカエル・パレオロゴスです」
「あたしがこの物語のメインヒロイン、テオドラ・アンゲリナ・コムネナよ。覚えときなさい」
「テオドラ、読者様に向かってそんな上から目線はないでしょ。それに、まだ君がメインヒロインと決まっているわけじゃないよ」
「何よそれ! 世界一美しい皇女様であるあたしがメインヒロインじゃないなんて、そんな物語あるわけないじゃない!」
「世の中には、物語の最初に登場する女神様が単なるネタキャラで、ヒロイン扱いされないっていう某有名作品もあるくらいなんだから、君も油断はできないよ」
「ああ、ちょうどみかっちみたいに、主人公が物凄く面白い死に方をして、異世界に転生する話ね」
「僕は死んでないから! 時々日本に戻って、いつも通りの高校生活も続けなきゃいけないんだから! むしろそのせいで色々苦労してるんだから!」
「ふうん。じゃあ、もしあんたが本当に異世界転生してたら、オフェリアたちの勧めるがままに好き放題メイドに手を出すつもりだったわけ?」
「そ、それは・・・。やっぱり恋愛には順序というものが・・・」
「つまり、みかっちは自分のヘタレぶりを、日本との二重生活のせいにしてるってだけね」
「うう、早く日本で普通の生活に戻りたい・・・」
「日本へ戻って、このあたしをオカズに思う存分オナニーしたいの?」
「誰がするか! 何を間違っても、君だけはそういう対象にするつもりはない!」
「あたしだけはってことは、イレニオスとか、マリアとかいうバカメイドとかは、もうオカズにしちゃってるわけね?」
「うう、それは男の子だから、仕方ないんです・・・」
「日本に帰ったときは1日何回くらいしてるの?」
「さすがにそこまで答える必要はないと思うんだけど!?」
「夜寝る前に『するべきこと』っていうのは、当然オナニーも含まれているわけね?」
「やめて! それ以上その話題を振るのはやめて!」
「オナニー大好きなみかっちをいじるのはこのくらいにして、あんた、何か良からぬことを企んでいるようね」
「何のことかな?」
「本編の最後のことよ。なんか、上手く理由を付けてあたしの奴隷からバックレようとしている気配がするんだけど」
「記憶にございません」
「まあ、みかっちの悪企みが成功するかどうかは後編の話として、後編はいつ出るの?」
「それは大丈夫。作者さんがこの後書きを書いている段階で、既に後編の本文は書き上がっているから、遅くとも翌日くらいには出るんじゃないかな」
「じゃあすぐね。読者の皆さん、シーユーレイター~!」
「こんなしょうもない作品ですが、長らくお付き合い頂けると幸いです」

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