第6話 暗黒時代

第6話 暗黒時代

(1)はじめに

 第6話で取り扱うのは,641年に即位したコンスタンティノス3世(ヘラクレイオス帝の息子)から717年に退位したテオドシオス3世までの治世であるが,この時代に関する史料は極めて少なく,ビザンツ帝国の歴史上この期間は「暗黒時代」と呼ばれている。
 この時代におけるビザンツ帝国は,南及び東からイスラム勢力に攻められ,バルカン半島の領地はほとんどスラヴ人に奪われ,非常に苦しい状態にあったことは分かっているが,この時代について残存する史料は少なく,この時代について記した年代記も記述が少なく,中には1年分の記述が1行しかない年もある。この時代には皇帝もごく短期間で入れ替わることが多く,また比較的長期間の治世に恵まれた皇帝でさえも,詳しいことはほとんど分からないという人物もいる。
 この時代の研究にあたっては史料のみならず考古学的な研究成果も参照されるが,考古学者の関心はこの時代より古代ギリシアに向けられることが多く,結局考古学的成果からこの時代に関する何らかの結論を出すことは難しい。
 そのため,第6話における歴代皇帝の記述は非常に薄いものとならざるを得ず,記述の内容も推測にとどまるものが多くならざるを得ないことを予めお断りしておく。

(2)ヘラクレイオスの後継者たち

 ヘラクレイオスに始まり,ユスティニアノス2世に終わるビザンツ帝国の王朝を歴史上「ヘラクレイオス朝」と呼ぶが,この項目ではヘラクレイオスとユスティニアノス2世を除くヘラクレイオス朝歴代皇帝の治世をまとめて取り扱う。

マルティナとヘラクロナスの失脚

 ヘラクレイオスが亡くなった当時,最初の妻エウドキアとの間に長男コンスタンティノス,二番目の妻マルティナとの間に次男ヘラクロナスがいた。マルティナはヘラクレイオスとの間に10人近い子供を産んだが,そのうち生存し帝位継承者候補となり得る男子はこのヘラクロナスしかいなかった。
 マルティナによって公表されたヘラクレイオスの遺言状には,「コンスタンティノス3世とヘラクロナスが等しい権限を持つ皇帝となる。そして妻マルティナが二人から母にして女帝として尊敬される」と書かれていたという。ただし,既に成人の皇帝がいるのに,女性のマルティナが両名を差し置いて女帝という最高の地位を占めるというのは明らかに不自然である。遺言書の内容に言及している『簡約歴史』は,マルティナを殊更に悪く書くため彼女が遺言書を捏造して女帝の地位を要求したという話にした可能性が高く,実際には女帝ではなく単にアウグスタ(皇太后)として尊敬されるという意味であろう。
 この遺言書は,マルティナが捏造したのではなくヘラクレイオス自身が遺したという前提で考えるならば,コンスタンティノス3世が若干29歳の身ながら明らかな病身であったほか,市民に評判の悪いマルティナとヘラクロナスの地位を守ろうとする配慮から書かれたものと推測されるが,結果としてこの遺言は新たな政争を生み帝国再建の妨げとなっただけでなく,やがてマルティナとヘラクロナスをも破滅させることになった。
 市民たちは遺言書の執行に強く反対し,年長のコンスタンティノスが皇帝になるべしと主張した。こうしてコンスタンティノス3世が帝位に就いたが,彼は在位わずか4か月で父の後を追った。継母であるマルティナに毒を盛られたとの噂が広がり,ビザンツ人の書いた年代記はマルティナがコンスタンティノス3世を毒殺したものと断定しているが,コンスタンティノス3世は病弱だったため自然死の可能性もあり,真相は分からない。
 その後,ヘラクロナスが帝位を継ぎマルティナを摂政とする新体制が一旦は発足したが,コンスタンティノス3世には9歳になる息子コンスタンスがおり,軍の司令官や民衆たちもコンスタンスを支持したため,マルティナとヘラクロナスは,コンスタンスを共同皇帝とすることに同意せざるを得なかった。
 翌642年に政変が起き,マルティナとヘラクロナスは逮捕された。どのような経緯で発生した政変なのかはよく分からない。分かっているのは,両名はヘラクレイオスの遺言を捏造したという罪を着せられ,ヘラクロナスは鼻を削がれ,マルティナは舌を切られ,両名はロードス島の修道院に幽閉され,コンスタンスが単独皇帝になったという結果だけである。両名に関するその後の記録は残っていないが,マルティナは稀代の悪女とされビザンツの歴史家から徹底的に嫌われている。マルティナに関するビザンツ史家の記述は,相当割り引いて読む必要があるだろう。

コンスタンス2世の治世

 642年の政変により単独皇帝となったコンスタンス2世(在位641~668年)の本名はフラビオス・ヘラクレイオスといい,後にコンスタンティノスと改めたが,同名の父と区別するためコンスタンス(小さなコンスタンティノス)と呼ばれるようになった。そのため,彼をコンスタンス2世ではなくコンスタンティノス4世と呼び,以後にコンスタンティノスを名乗った皇帝の代数を順次繰り下げ,最後の皇帝をコンスタンティノス12世と呼ぶべきであるとする説,更に1204年の一夜皇帝コンスタンティノス・ラスカリスをも数に入れて最後の皇帝をコンスタンティノス13世と呼ぶべきとする説もあるが,これらの説を採用すると無用の混乱を招くため,本稿では通説的な表記に従う。なお,歴代ビザンツ皇帝の代数表記は,ビザンツ帝国で実際に使われていたものではなく,ビザンツ帝国の滅亡後,『ローマ帝国衰亡史』を著したエドワード・ギボンが初めて採用したものとされている。
 まだ幼少であったコンスタンス2世の治世下で,政治の実権を握っていたのは,旧アルメニア王家の出身であるヴァレンティノスであったと推測されている。彼はマルティナとヘラクロナスを追放した政変の黒幕であり,彼は自分の娘をコンスタンス2世に嫁がせている。
 誰が実権者であったかはともかく,コンスタンス2世の治世下になって,遅ればせながらイスラムへの反撃が試みられた。この時期のイスラム教団は,ビザンツ帝国からシリア,パレスティナ,エジプトを奪ったほか,651年にはササン朝ペルシアを完全に滅亡させ,もはや単なる教団ではなく「イスラム帝国」と呼ぶべき一大勢力に発展していた。
 なお,ビザンツ帝国との戦いと内戦等で弱体化していたササン朝ペルシアは,イスラムの波に抵抗する術を持たず,637年には首都のクテシフォンがイスラムの前に陥落し,642年にはクテシフォン奪還を目指したペルシア軍がニハーヴァンドの戦いで敗れ,651年に最後の王ヤズデギルド3世が暗殺され,これをもってササン朝ペルシアは滅亡したとされる。一部のササン朝王族は中国の唐へ逃れササン朝の再興を目指すが,実際には唐の将軍として戦うにとどまり,彼らの子孫はやがて歴史の表舞台から姿を消した。
 ビザンツに話を戻すが,644年にはビザンツ艦隊がシリア沿岸の一部都市,645年にはアレクサンドリアを一時奪回した。しかし,これはイスラム側が未だ大規模な守備隊を置いていなかった隙を突いての戦果に過ぎず,イスラム側が反撃に出ると,これらの都市はたちまち奪い返された。その後,エジプトが二度とビザンツ帝国の支配下に戻ることは無く,シリアもその後約300年間にわたり,ビザンツ帝国の支配が及ばない地域となった。
 一方,イスラム帝国のシリア総督であったムアーウィヤは649年にイスラム艦隊を創設し,キプロス島を攻撃するなどし,ビザンツ帝国は海からもイスラム帝国の激しい攻勢を受けることになった。砂漠の民であった当時のアラブ人に航海の技術はおそらくなかったので,この艦隊創設はほぼ間違いなく,イスラム帝国の支配下に入ったギリシア人たちの力を借りて行われたものである。よってこの艦隊を「アラブ艦隊」「サラセン艦隊」などと呼ぶのは適当でなく,「イスラム艦隊」と呼ぶことにする。
 なお,このときのイスラム艦隊は,征服というより海賊行為を主たる目的とするものであり,ビザンツ帝国の沿岸部諸都市は船でやってきたイスラム軍によって次々と略奪・破壊されていった。場合によっては,イスラム艦隊というより「イスラムの海賊」と書いた方が適切かも知れない。
 創設されたばかりのイスラム艦隊は,649年にキプロス島を攻撃し,古代にはサラミスと呼ばれたコンスタンティアの町を占領・破壊した。数年後にはロードス島に上陸し,この島にあったコロッスス,つまり太陽の神ヘリオスのブロンズ像を持ち去った。この像は32メートルもの高さをもち,世界の七不思議にも数えられていたが,紀元前228年の地震で倒れた後,何世紀にもわたって地面に横たえられたままで放置されていた。イスラム軍はこの像を切断し,船で運び出して金屑として売り払ったのである。イスラム軍はカルケドンを占領し,ボスフォラス海峡を越えてコンスタンティノポリスを攻撃する準備をしていたが,このときは実行に移す前に,嵐によって艦隊が四散してしまった。
 コンスタンス2世は,成人すると自ら軍を率いて遠征をするようになり,655年には自ら艦隊を率いてイスラム艦隊に決戦を挑んだが(リュキア沖海戦),コンスタンス2世は大敗し,自らの帝衣と外套を別人に与えて命からがら逃亡した。
 イスラムとの戦争は,翌656年,ムアーウィヤとアリー(第4代のカリフで,ムハンマドの従弟にあたる)との間でカリフ位をめぐる内戦が勃発し,ビザンツ帝国とムアーウィヤとの間に和平が成立したため,一時鎮静化した。コンスタンス2世はこの状況を西方での状況改善に生かそうとし,658年にはバルカン半島のスラヴ人居住地域に遠征を行い,捕虜にしたスラヴ人を小アジアに移住させた。
 663年になると,コンスタンス2世は南イタリアに上陸し,ローマに赴いて教皇ウィタリアヌスと会見するなどした後,シチリア島のシラクサに入って艦隊の新設に取り組んだ。コンスタンス2世は,元老院の反対を押し切り,子供たちを首都に置いたままシラクサに拠点を移したことは分かっているが,その意図が何であったかは判然とせず,主に次のような説が唱えられている。
 第一の説は,ムアーウィヤによって661年に再統一されたイスラム帝国(ウマイヤ朝)がアフリカ属州への攻勢を強めていたことから,海上からアフリカ属州(北アフリカ)への侵攻阻止を企てたというものである。エジプトからアフリカ属州までの進路は何もない砂漠の土地が続くため,制海権を保持し補給を海から遮断すれば,比較的少数の兵でも侵攻を防ぐことが可能であった。実際,イスラム帝国は620年代にエジプトを手中に収めておきながら,北アフリカ属州にまで勢力を広げるのは670年代に入ってからであり,行軍に相当難渋したことが窺われる。
 第二の説は,イスラムの海賊による被害を防ぐため地中海の制海権維持を図ったとするものである。この時期,イスラムの海賊によりバルカンや小アジアにあるビザンツ領の都市は著しい被害を受けており,確かに海賊対策は当時のビザンツ帝国にとって切実な課題であった。
 第三の説は,コンスタンス2世が息子の帝位を確実にするため弟テオドシオスを殺害したことから「第二のカイン」との非難を浴びており,更にコンスタンス2世が主張していた単意論寄りの教義に反発したローマ教皇マルティヌス1世をケルソンに追放したり,高名なカトリックの聖職者たちを拷問にかけたり追放したりしたことから評判が悪くなり,首都におけるこうした非難に耐えられなくなったことからシラクサに遷都したという。
 このうち第三の説は,テオファネス年代記の記述に基づくものであり,第一の説と第二の説は同年代記の記述に疑問を持った後世の研究者による異説である。ただし,以上の三説はいずれも理屈としては両立可能であり,あるいはこの全部という可能性もあるが,決定的材料がないので断定的な判断は避ける。
 だがいずれにせよ,イスラム帝国の攻勢はアフリカのみならず小アジアなどでも強まっており,そのためコンスタンス2世のシチリア遷都は大不評であった。コンスタンスがシラクサへ連れてきた軍の中にも不満が高まっており,668年,コンスタンス2世は入浴中に暗殺者の襲撃を受け,その2日後に死亡した。シチリアでは,アルメニア人のミシジオスという人物が皇帝に擁立された。
 コンスタンス2世は,まだ東方属州奪回の希望を捨てておらず,648年には単意論などに配慮した「テュポス」という宗教的な勅令が発布され,ローマ教皇との対立の原因となっている。また,小アジアではイスラムに対する防衛組織が整備され,これが後のテマ(軍管区)制へと発展していくことになった。

コンスタンティノス4世の治世

 コンスタンス2世の後を継いだのは,息子のコンスタンティノス4世(在位668~685年)である。父がシチリア島へ向かった後も首都にとどまっていたコンスタンティヌス4世は,自ら艦隊を率いてシチリア島の反乱を鎮圧し,皇帝を名乗っていたミシジオスや父を殺した犯人を処刑したほか,テマ・アルメニアコンの長官サボリオスが起こした反乱も鎮圧している。
 一方,コンスタンス2世の治世中から再開されていたイスラム帝国の攻勢はますます強くなり,674年から678年にかけて,首都のコンスタンティノポリスもイスラム帝国の包囲を受けた。イスラム軍は夏季に攻撃を掛けて首都の攻略を試みたが,首都を完全に包囲できなかったこともあって,攻略は失敗に終わっている。なお,この戦いで「ギリシアの火」が初めて実戦で利用された模様であり,8世紀以降,ギリシアの火はビザンツ帝国軍の秘密兵器となる。
 イスラム帝国の征服戦争を主導していたのは,アリーの暗殺に伴いウマイヤ朝初代カリフとなったムアーウィヤである。野心家である彼はムハンマドの預言にあるコンスタンティノポリス征服を自らの手で実現しようとしていたが,長期間にわたる大作戦はウマイヤ朝にとっても大きな負担となっており,エジプトではビザンツ人による反乱も発生していた。
 680年にムアーウィヤが没すると,後継者となったヤズィード1世との間に和約が成立した。その後,683年にヤズィード1世が没するとイスラム帝国内で内紛が発生したため,イスラムとの戦いは一時沈静化した。
 一方,バルカン半島ではブルガール人の進出が進んでおり,コンスタンティノス4世は自ら遠征してアスパルフ率いるブルガール人と対決するも敗北し,681年にはブルガール人にドナウ川下流の土地を与え,植民も認めざるを得なくなった。これによりバルカン地方に第1次ブルガリア王国が成立することになる。また,イタリアに成立したランゴバルド王国とも,680年に和約を結んでいる。
 コンスタンティノス4世の治世下では,彼の二人の弟も共同皇帝の地位に就いていたが,681年,コンスタンティノスは2人の弟から共同皇帝の地位を剥奪し,再び帝位に就くことができないよう二人の鼻を削いだ。2人いた息子を共同皇帝にすることもなく,その後コンスタンティノス4世は死ぬまでただ一人の皇帝として君臨した。詳しい事情は明らかでないが,コンスタンティノスは帝位をめぐる陰謀に晒され,相当な疑心暗鬼に陥っていたものと推測される。
 宗教面では,680~681年に第3コンスタンティノポリス公会議を開催している。この時代には,もはや東方属州の回復は絶望的な状況となったため,逆にオリエントの単性論や単意論に配慮する必要がなくなり,同会議ではそれらを断罪している。

<幕間5>考古学の語る暗黒時代
 前述のとおり,この暗黒時代は文字で書かれた史料が極めて乏しいため,イスラム軍の侵入による首都や地方の変化といった事情を語るには,考古学的研究の成果も借りる必要がある。
 まず首都のコンスタンティノポリスであるが,エジプト失陥により穀物の配給制度が廃止された上に,敵の攻囲を迎え撃つにあたり防衛に役立たない者は退去を命じられ,626年の攻囲でヴァレンスの水道が破壊されたことなどもあり,人口はユスティニアヌス1世などの時代に比べると数分の一程度にまで激減していた。
 かつてユスティニアヌス1世は,ニカの乱で焼け落ちた競馬場やそれに隣接したゼウクシッポス浴場,劇場の修復にも努めたが,浴場は水の供給が途絶えたため機能しなくなり,8世紀初めには装飾も剥ぎ取られ,間もなく兵舎と牢獄に転用された。競馬もかつては年間100日以上競技が開催されていたが,7世紀にはすっかりさびれてしまい,以後は皇帝の即位記念日,開都記念日など国家の祭日に行われる儀式と化した。
 キリスト教化されたばかりの古代ローマでは,聖職者の競馬観戦を禁じる法が定められ,この法自体はその後も長く残ったが,このように競馬自体の性質が大きく変化したため,かなり後になると聖職者の間でも,現在の競馬はおそらく古のものと大きく異なり何の害も無いので,観戦を禁止する必要はないのではないかという意見が出るほどであった。
 次に,古代の七不思議の一つアルテミス神殿があったことでも知られるエフェソスの町は,7世紀に南部の市域が放棄され,北部のみが城壁で囲まれたほか,大浴場も破壊されてその跡には小家屋が建ち並ぶようになったこと,市内を貫くアルカディアネ大通りも家屋群に占拠されてしまったこと,水道が機能しなくなったため貯水槽が建設されたことが発掘調査の結果分かっている。
 その他,小アジア中央部にあった古代都市マグネシア(現在のマニサ)は,たった300×250メートルほどの面積に縮小されてしまった。それでも存続できたならまだ良い方で,715年にアラブ軍の攻撃で占領・破壊されたペルガモンは,今日でも見られる一連の廃墟となり果て,その他旧来の行政組織を支えていた小アジアの豊かな古代都市はほとんど姿を消してしまった。
 小アジアの南部にあるミュラという町は,6世紀には東地中海における海上交通の要衝として栄えており,町の郊外にはシオン修道院があった。ところが,1963年にこの町から少し東の海岸で,多数の銀製品が発見された。この銀製品は6世紀にコンスタンティノポリスで作られたと推定され,シオン修道院への奉納の銘文があることから「シオンの宝物」と名付けられた。これらの銀製品は平たく伸ばされて重ねられており,正確な時期は不明だがシオンの町とシオン修道院はイスラム軍により占領・破壊され,修道院にあった銀製品は運びやすい形にして海岸まで持ち出されたが,何らかの理由により船に積み込まれず遺棄されたものと考えられている。
 また,ミュラの町から少し西にあるゲミレル島の遺跡は,大阪大学の調査で聖ニコラオスの教会跡と判明した。聖ニコラオスはサンタクロースの基となった4世紀の聖人で航海の守護神でもあるが,いつか無人島となり教会も荒れ果ててしまったのである。エーゲ海のキオス島にある城塞都市でも660年頃火災の跡が見られ,これもイスラム勢力による破壊が原因とみられている。
 このように,小アジアの西部や南部にあった沿岸都市の荒廃は,6世紀頃までは機能していたコンスタンティノポリスから小アジアの西岸,南岸の都市を経てシリアやエジプトに至る交通路が,7世紀中盤以降には途絶してしまったことを意味している。この事象は,コンスタンティノス5世時代の746~747年に発生したペストの感染経路からも窺われ,このペストはシリア・エジプトから北アフリカへと広がり,シチリア島から南ギリシアを経てコンスタンティノポリスへ感染している。
 ユスティニアヌス1世時代に発生したペストが,シリアから小アジアを経てコンスタンティノポリスへ広がったのと比較すると,暗黒時代の小アジアはイスラム教世界とビザンツ世界を隔てる障壁となり,小アジアを経由した両世界の交流は全くと言ってよいほど無かったことが分かる。
 その一方で,古代都市サルディスは名前こそ残ったものの,平野部にあり防御設備を持たなかった旧市街は放棄されて,城砦の建設された丘の周りに新しい町が成長した。城砦にはとても険しい道がただ一本通じているだけで,四方は切り立った崖であり,出入り口には稜堡が設けられて,城壁に近づこうとする攻め手を隠し狭間から射ることができた。
 また,古代には定住者がいなかったと考えられているペロポネソス半島東沖のモネンヴェシア島(現在のモネンバシア)には,583年に市街地と要塞が築かれ,スラヴ人やアヴァール人の侵攻から逃れてきた人々が定住した。モネンヴェシアは島の大部分が高地であり道も狭いが,敵から攻められにくい要害の地であり,ビザンツ帝国時代に交易と海事の拠点として発展した。1453年にビザンツ帝国を滅亡させたメフメト2世もこの町だけは落とすことが出来ず,その後もヴェネツィアの支配下で存続し,この町がオスマン帝国の支配下に入ったのはようやく1540年に入ってからのことであった。
 暗黒時代にはかつての古代都市に代わり,こうした防衛機能を重視した新しい町が生まれ,これらはカストロン(城砦)と呼ばれたが,その中でも特に奇妙なのは,小アジア中央部のカッパドキアに見られるものであろう。住民はこの地方特有の柔らかい火山岩を掘り下げて居住区を造り,そこには危機が迫ったときに逃げ場ともなる地下の礼拝堂や穀物倉も備えられていた。
 古代ローマ帝国における五大都市の一つであったカルタゴについては,ユネスコの後援による発掘調査が行われ,ヴァンダル王国の支配下においてもこの都市は繁栄し,地中海東部から多くの陶器を輸入していたが,ユスティニアヌス1世による征服を受けた後こうした交易は衰退に向かっていたことが判明している。 698年にイスラム帝国がこの都市を占領したとき,この町にかつての面影はどこにもなかった。北アフリカの中心都市は,イスラム帝国によって建設されたカイラワーンや,チュニスの近郊でベルベル人が支配していた町カヘナをイスラム帝国が再開発したチュニスに取って代わられることになる。
 ギリシアでも580年頃から都市の破壊が始まっており,コリントでは火事の跡が発見され,アテネでも難を避けるための貨幣埋蔵が見られる。これらはスラヴ人の侵入によるものである。異民族の侵入が無かった地方でも,川の土砂で港が埋まってしまう現象がこの時期に多くみられる。これは地中海の気候のために生じる現象で古くから見られたが,暗黒時代には特に顕著で,古代ローマ帝国時代に存在した経済システムの崩壊により,港を整備する余力も失われてしまったことを示唆している。

(3)ユスティニアノス2世の時代

ユスティニアノス2世の第一次治世

 コンスタンティノス4世の息子で,父の死後帝位を継いだユスティニアノス2世(在位685~695年,705~711年)は,ヘラクレイオス朝最後の皇帝であり,「鼻無し」を意味する「リトノメトス」のあだ名が付けられている。彼は,同名の大帝ユスティニアヌス1世(ギリシア語読みではユスティニアノス)を深く尊敬しており,皇帝に即位するとユスティニアヌス大帝の偉業に倣い,自ら積極的な軍事行動に乗り出すことになった。
 ユスティニアノス2世は,ウマイヤ朝イスラム帝国で内戦が続いていることに着目し,若干の反攻を試みている。レバノン山地にいたキリスト教徒原住民のマルダイテス人を利用してシリアでゲリラ活動を行わせたほか,688年にはキレナイカ地方のバルカをビザンツ艦隊が急襲してイスラム軍の指揮官を殺戮している。
 これらに苦慮したウマイヤ朝のカリフ・アブドゥルマリクは,688年にユスティニアノス2世と和睦を結んだ。その際,マルダイテス人の多くは小アジア半島南部へ移住させられたほか,キプロスは以後ビザンツ帝国とイスラム帝国の共有地となる。この状態はバシレイオス1世時代の一時期を除いて10世紀後半まで続いた。
 イスラムとの関係が安定すると,ユスティニアノス2世はバルカン半島のテッサロニケに遠征する。もっとも,この軍事行動の成果はスラヴ人を捕虜にして軍隊に組み入れた程度のものに過ぎず,しかも帰途にはブルガール人の襲撃を受け,辛くも逃走する破目になった。
 691~692年,ユスティニアノス2世はトゥルロの公会議を開催している。「トゥルロ」とはかたつむりという意味であり,この公会議は,首都の宮殿内にあるトゥルロの間で行われたため,この名で呼ばれるようになった。この公会議は,父帝の開催した第3コンスタンティノポリス公会議の補遺を目的としたもので,古代ギリシア的な信仰や慣習の禁止,イコン崇拝の承認などが決定されている。もっとも,この公会議決定には東教会を主とするなどの内容が含まれていたことから,ローマ教皇セルギウス1世はこの議決に反対し,ユスティニアノス2世と反目することになった。
 なお,この公会議で禁止された「古代ギリシア的な信仰や慣習」には,カレンダエ(新年)の祝い,劇場用の仮面を付け,男性の服を着た女性たちが公衆の面前で踊る3月1日の祝祭,葡萄を踏みつけるディオニュシオスの祈り,熊などの動物による占い,あるいは幸運や運命,家系を予告するとうそぶく雲追い者,魔術師,魔除け調達人,占い師たちによる将来の予言といった,キリスト教に先立つ数多くの行事や行為が含まれている。キリスト教が国教とされて約300年が経過した当時においても,どうやら古い伝統を消し去ることは難しかったようである。
 話が若干逸れたが,ユスティニアノス2世はトゥルロの公会議を主催した後,再びウマイヤ朝と戦端を開いた。ビザンツ軍は692年にセパストポリスでイスラム軍と戦うが,スラヴ人部隊の寝返りにより惨敗する。これ以降,小アジアにおけるイスラム帝国の攻撃が激化し,民衆は戦費調達のための重税に苦しめられたほか,ユスティニアノスは大帝に倣って建築事業にも力を入れ,首都の大宮殿がモスクワのクレムリンを思わせる要塞宮殿となったのも彼の治世下であるが,これによって民衆の不満は大いに高まった。
 同名のユスティニアヌス1世は臣下や民衆の怨嗟を買いながらも何とか逃げ切りに成功したが,ユスティニアノス2世は大宮殿を要塞化して自身の守りを固めたにもかかわらず,逃げ切ることはできなかった。695年,ユスティニアノスは自ら投獄していた軍人レオンティオスを,新設したテマ・ヘラスの長官に任じた。しかしレオンティオスはサーカス党派の力を借りてクーデターを起こし,ユスティニアノス2世を捕らえてその鼻を削いで舌を切り,クリミア半島のケルソンに追放すると,自ら皇帝に即位した。

レオンティオスとティベリオス3世の治世

 レオンティオス(在位695~698年)が即位した頃,北アフリカの拠点カルタゴがイスラム帝国の手に落ちた。レオンティオスは艦隊を送り,697年に一旦カルタゴを奪還するも,翌年の戦いでカルタゴは再びイスラム帝国に奪われる。クレタ島まで撤退してきた艦隊は,テマ・キビュライオタイの指揮官アプシマロスを擁して反乱を起こし,サーカス党派の呼応もあって首都は反乱軍の前に開城したため,レオンティオスは廃位され投獄された。
 レオンティオスを打倒したアブシマロスは帝位に就き,ティベリオス3世(在位698~705年)を名乗った。彼の治世中にはイスラム帝国の攻勢が激化し,ティベリオスは自らの兄弟にあたるヘラクレイオスを複数のテマ長官に任命して対応させた。ヘラクレイオスはアルメニア方面では苦戦するものの,イスラム軍に対し決定的な敗北を喫することはなく,防衛の任務をよく果たしていた。
 ティベリオス3世の命取りになったのは,廃位されケルソンに追放されていたユスティニアノス2世であった。彼は廃位により鼻を削がれ舌を切られても帝位への復帰を諦めず,黄金製の付け鼻をつけて会話にはスポークスマンを使用し,帝位への復帰を公然と表明したのである。703年にケルソンを脱出したユスティニアノス2世はハザール汗国に亡命し,そこで可汗の姉妹と結婚する。ユスティニアノス2世は新しい妻に,大帝の妃にちなんでテオドラと名乗らせた。
 さらに,第1次ブルガリア王国のテルヴェル王もユスティニアノス2世の復位を支援し,それらの力を背景にしたユスティニアノス2世は705年,秘密の通路を通ってコンスタンティノポリスへの入城を果たし,レオンティオスとティベリオス3世を処刑して復位を果たした。その際,ユスティニアノスは息子のティベリオスを共同皇帝に任命している。

ユスティニアノス2世の第二次治世

 復位後のユスティニアノス2世は,ランゴバルド王国やローマ教皇とは良好な関係を築き,711年には教皇コンスタンティヌスがコンスタンティノポリスを訪問している。また復位を支援してもらったブルガリアとも良好な関係を保持していた。
 しかし,イスラム帝国との戦いは小アジア南東部の要衝テュアナを708年に制圧されて以降,完全に守勢に立つこととなり,さらにはブルガール人(第1次ブルガリア王国には属していない集団)とも対立することになる。
 その一方で,復位後のユスティニアノス2世は異常なほど猜疑心が強くなり、多くの人々を粛清した。710年にはユスティニアノスに反抗的だった北イタリアのラヴェンナへ遠征軍を送って掠奪させ,711年には自身の流刑地だったケルソンにも艦隊を派遣して復讐しようとした。これに怒ったケルソンの住民が反乱を起こすと,ユスティニアノスが送った艦隊も反乱に追随し,艦隊に同乗していた帝国の高官フィリピコス・バルダネスを皇帝に推挙した。反乱軍はハザール族の支援も受けて首都に迫り,首都はあっけなく開城。ユスティニアノスは小アジアに逃亡したが捕らえられて殺され,共同皇帝の息子ティベリオスも,コンスタンティノポリスで処刑された。これにより,ヘラクレイオス王朝は断絶した。
 ユスティニアノス2世の政治的業績は,戦争と異教規制,建築事業に明け暮れるユスティニアヌス的な政治姿勢が悪政であることをビザンツ人に再認識させたことにほぼ尽きる。彼の死後,ビザンツ帝国にユスティニアノスを名乗る皇帝は二度と現れなかった。

<幕間6>ビザンツ帝国における身体刑

 7世紀に入った頃から,ビザンツ帝国では舌を切る,鼻を削ぐ,目を潰すといった身体刑が目立つようになる。このような身体刑は今日では野蛮な刑罰のように思われるが,身体刑は死刑に代わる刑罰として導入されたものであり,死刑を出来る限り減らすという意味では人道主義的な考え方に基づくものである。なお,同じ7世紀に成立したイスラム教でも盗人は手首を切り落とすといった身体刑が導入されており,この時代には宗教の別に関係なくこうした刑罰の考え方が普及していたようである。
 身体刑は,例えば窃盗犯は腕を切り落とされ,嘘をついた者は舌を切るといった具合に,犯した罪に関連する刑罰を選択するのが通常であり,レオーン3世の制定したエクロゲー法典により,こうした身体刑は法の明文によって定められることになった。
 もっとも,ヘラクロナスやユスティニアノス2世のように帝位を追われた人物に対する身体刑には,特別な意味があった。洋の東西や宗教の別を問わず,君主は一般に五体満足な者でなければならないという思想がみられるが,ビザンツ帝国ではこの思想を逆利用し,帝位を追われた者,帝位簒奪を企てた者,あるいは帝位を狙う危険性のある皇帝の息子に対し,帝位に就くことが出来ないようにするため身体刑を施す措置がしばしば行われた。
 こうした身体刑の中で最も効果的なものはいわゆる去勢手術であり,皇帝には後継者を作ることが期待されたため,去勢手術を受けた宦官が君主の座に就けないというのは,古今東西一度も破られた例の見当たらない不文律であった。ビザンツ帝国において,帝位に就くことを防ぐ趣旨で去勢手術が行われた例としては,9世紀のミカエル1世ランガベやレオーン5世の若い息子たち,コンスタンティノス4世に反乱を起こした人物の息子ゲルマノスなどが挙げられる。マウリキウス帝の子供たちは簒奪者フォカスによって全員処刑されたとする文献が多いが,実は去勢手術を施されただけで命は助けられたと説明するものもある。
 ただし,去勢手術は身体刑の中では最も厳しいものであり,また既に息子のいる成人の皇帝に去勢手術を行っても効果は薄いため,去勢手術は帝位を狙う可能性のある少年の男子に対し行われるのが通例であり,廃位された成年の皇帝に対し去勢手術が行われた例は見当たらない。
 廃位された皇帝に対する処刑以外の処罰は,ヘラクロナスに対する鼻削ぎの刑が最初で,ユスティニアノス2世に対しては鼻削ぎに加え舌の切断刑も施されたが,同帝の項目で述べたとおり彼は身体刑を施されたにもかかわらず帝位に復帰し暴君となったため,結局は処刑された。
 ユスティニアノス2世の例により,鼻削ぎや舌切りでは再び帝位に就くことを防止するには不十分であることが証明されたので,以後の廃位された皇帝に対する身体刑は,目潰しの刑が主流となった。フィリッピコス・バルダネス(713年),コンスタンティノス6世(797年),ロマノス4世(1072年),イサキオス2世(1195年),ヨハネス4世ラスカリス(1261年)がその主な例である。このうちイサキオス2世は後に復位したが,彼の復位は息子アレクシオス4世の正統性を補完するための名目的なものであり,自ら政務を執ることはほとんど出来なかったと思われる。

(4)ヘラクレイオス王朝断絶後の混乱期

 ヘラクレイオス王朝が断絶すると,その後に即位した3人の皇帝はいずれも2年ほどしか在位できず,帝国は混乱期を迎えた。
 まず,ユスティニアノス2世を倒して帝位に就いたフィリピコス・バルダネス(在位711~713年)は,単意論を支持して第3コンスタンティノポリス公会議の決議を破棄し多くの人々の恨みを買ったほか,イスラム帝国やブルガリア帝国の侵攻にもうまく対応することが出来ず,713年には書記局長菅アルテミオスの陰謀により,首都の市民たちと会食後休憩しているところをテマの兵やサーカス党派の人々に襲撃され,馬車競技場に幽閉されて盲目にされ,これによってフィリピコスは廃位された。
 その翌日,アルテミオスが帝位に就き,アナスタシオス2世(在位713~715年)を名乗った。アナスタシオス2世は賢明な人物であり,多くの有能な人材を抜擢した。このとき抜擢された人材の中には,後の皇帝レオーン3世も含まれている。また,ウマイヤ朝によるコンスタンティノポリス包囲を予期して,城壁の補修や食料の備蓄,艦隊の軍備増強などに務めたほか,フィリピコスが一旦破棄した第3コンスタンティノポリス公会議の決議を復活させている。
 715年にイスラム帝国の艦隊が小アジア南部に進出してくると,アナスタシオス2世はテマ・オプシキオンの軍を派遣した。だがオプシキオン軍はロードス島で反乱を起こし,テオドシオス3世を皇帝に擁立してコンスタンティノポリスに押し寄せた。アナスタシオス2世の軍と反乱軍は半年あまり内戦を繰り広げたが,最後にはアナスタシオス2世が降伏した。
 彼は退位して修道士となり,テッサロニケに隠退した。なお,レオーン3世の時代になると,アナスタシオス2世はブルガリア帝国と謀って復位を画策するが,イスラム軍の撃退に成功し権威の高まっていたレオーン3世に反抗しようとする者は少なく,ブルガリアも彼に味方しなかったため,陰謀は完全な失敗に終わった。彼は719年,ブルガリアのテルヴェル王に捕らえられ,処刑された。
 アナスタシオス2世に代わり即位したテオドシオス3世(在位715~717年)は,皇帝に擁立される前は一介の徴税役人に過ぎなかった人物であり,しかも本人は帝位に就くのを嫌がっていた。彼がなぜ無理やり皇帝に推戴されたのか長年疑問視されていたが,現在では彼がかつての皇帝ティベリオス3世の息子であったというのが有力な見解となっている。
 いずれにせよ,テマ軍団の暴走によって即位させられたテオドシオス3世の権力基盤は極めて脆弱であり,他のテマや官僚たちの支持を十分に得られなかったばかりか,迫りくるイスラム帝国の侵攻に対処できる軍事的才能も持ち合わせていなかった。
 717年,テマ・アナトリコンの長官レオーンに反乱を起こされ退位を迫られると,テオドシオス3世は身の安全を保障するという条件で退位し,修道士として余勢を全うした。こうしてレオーン3世の即位が実現した。

(5)テマ制の発足と「ビザンツ人」の萌芽

 第6話では,以上のとおりヘラクレイオス1世の死後からレオーン3世即位までの経緯を概観してきたが,次々と皇帝が入れ替わる中で,次第に「テマ」という用語が頻繁に登場してくる。一般に「軍管区」と訳されるテマとはどのような組織であり,どのように出現したのであろうか。
 テマ制が史料の少ない暗黒時代に出現したということもあって,この問いに対し明確な答えを示してくれるような史料は存在しない。特にテマ制の起源については,当のビザンツ人にとっても謎であったらしく,学究肌で知られる後の皇帝コンスタンティノス7世は『テマ(の起源)について』という論文を著しているし,現在でもテマ制の起源については学会で議論の対象となっている。

テマ制の特徴

 ビザンツ帝国をイスラムの猛攻から立ち直らせる原動力となった「テマ制」の特徴を簡潔に要約すると,概ね「兵農一致」と「軍官一致」の二点に集約される。
 ディオクレティアヌス帝以後のローマ帝国では,軍人は戦うことに専念し,農民は農奴(コロヌス)となって,大土地所有者の下で土地に縛り付けられ農作業に専念させられていた。しかし,6世紀以降の東ローマ帝国では,長引く戦乱等の影響により農奴たちの逃亡が相次いでいた。コンスタンティヌス大帝の後継者であるユスティヌス朝の歴代皇帝は,農奴の移動を禁じる勅令を繰り返し発令しているが,この事実はむしろ農奴の逃亡が相次ぎ社会問題化していたことを推測させる。政府により同内容の禁令が何度も出されるのは,実際の社会ではその禁令が守られていないときであり,禁令がきちんと守られているのに同内容の禁令を何度も出す必要はないからである。
 そして7世紀になると,農奴の逃亡により耕作者のいない土地が増加して大土地所有制度は事実上崩壊に向かい,さらに穀倉地帯であるエジプトを失ったことで,帝国全土は深刻な食糧危機に見舞われていた。さらに帝国の財政難も顕著で,イスラムなど外敵からの防衛に必要な数の職業軍人に対し国費で十分な額の給料を支払う余裕もなくなっていた。
 このような中,ストラテイオスと呼ばれる屯田兵が各地に入植し,平時は農耕に従事しつつ,有事にはテマ長官の招集に応じて国土の防衛にあたる,という兵農一致の体制が作られたのである。自分たちの土地を守ろうという屯田兵たちの士気は高く,また常備軍ではないため,屯田兵たちに支払う給料も従来の軍隊よりは安上がりで済んだ。なお,屯田兵に「与えられた」土地についても,所有権はなお国家の手に留保されており,屯田兵たちはその土地で農業を営み収穫物を自分のものに出来るというだけで,与えられた土地を売買の対象とすることは認められていなかった。
 他方,屯田兵以外の農民についても,概ね7世紀以降には従来のような大土地所有者が次第に姿を消し,中小の農民たちによる互助的な社会制度が自然発生的に成立したものと考えられており,7世紀末ないし8世紀初頭頃には,そうした農村社会の慣習法を成文化した,全85条から成る『農民法』が編纂されている。
 もっとも,テマ制による屯田兵たちも,イスラム勢力と正面から戦って撃退するほどの力があったわけではない。各テマの拠点はイスラム勢力等との国境線沿いではなく小アジア全土に分散して置かれ,イスラム軍が侵入してくると各テマの軍勢はこれを正面から迎え撃つのではなく,小アジアの複雑な地形を利用したいわゆるゲリラ戦術で執拗に抵抗した。
 テマ軍団による執拗な抵抗を受けたイスラム軍は,やがて補給が尽きる,冬の到来が近づくなどなどの理由から撤退を余儀なくされる。そして,撤退するイスラム軍に奇襲を掛けて,捕虜となったビザンツ人や略奪品を幾らかでも取り戻すというのが,この時期の小アジアにおけるビザンツ軍とイスラム軍との戦いの実態だったようである。イスラム軍の捕虜になったビザンツ人と,ビザンツ軍によって捕らえられたイスラム軍兵士との捕虜交換もしばしば行われた。
 草創期に確認されている小アジアのテマは,オプキシオン,トラケシオイ,アナトリコン,キビュライオタイ,アルメニアコンといったものであるが,例えばアルメニアに由来する名称のテマ・アルメニアコンが(アルメニアではなく)小アジア北東部に置かれているなど,これらのテマは名称と所在地がずれているものが多い。こうした現象は,既に存在していた軍団がイスラム軍の侵攻に対応するため小アジアに移動し,実際の所在地に関係なく従来の軍団名がそのままテマの名称となった故に生じたものと考えられている。
 イスラム側も,小アジアにおけるビザンツ軍の執拗なゲリラ戦術に懲りたのか,首都を落とすことでビザンツ帝国との戦いを一気に決着させようと何度か試みるが,そのような試みは首都の鉄壁ともいえる防御に阻まれて悉く失敗した。一方,前述したユスティニアノス2世のようにビザンツ側が正面決戦を挑んだ例もあったが,その結果は無残な敗北であった。
 こうした戦いの経験故か,ビザンツ人には後の西欧人のような「勇敢に正々堂々と戦う」ことを美徳とする騎士道精神は生まれず,伏兵や敵の補給を断つといったゲリラ戦術,あるいは敵の敵を煽動し敵の背後を突かせるといった外交戦略が重視され,逆に正面決戦はできるだけ避けるべしという考え方が,ビザンツ人の伝統的な価値観として定着するようになった。
 7世紀に編纂されたとみられる,著者不明の戦術に関する手引書は,このようなビザンツ人の考え方を端的に示している。この手引書では,軍事力のみで勝つより戦略や策略で敵を破る方が良いとか,敵の陣営に偽りの報告や噂を撒き散らせ,それによって敵の士気を挫くのが良いとか,別の戦闘でのちょっとした勝利を潤色して兵士を勇気づけるのがよいとか,もし兵士が脱走したら,奴らは工作員であるとほのめかす手紙が敵の手に入るようにせよとか,そもそも正面戦争を避けるのが最良の策であるなどと助言している。
 このようなビザンツ人の価値観は,正面戦争ではとても対抗できないイスラム勢力との戦いを通じて形成されたものであり,西欧の十字軍的な魅力には欠けるが,キリスト教国を守るという大義は正しく,そのためならどんな手段でも正当化されたのである。このようなビザンツ人は,後の西欧人から「卑怯で狡猾な臆病者」などと非難されるようになるが,西欧人と異なりほぼ常に強敵に囲まれていたビザンツ人は,むしろ狡猾でなければ生き残れなかったのである。
 そして,従来は軍事のみを担当していた軍司令官は,配下の兵士たちの多くが屯田兵となったことで,徴税権や司法権といった各種の行政権も掌握するようになった。ここでも,ディオクレティアヌス帝以来の国策であった官僚(シビリアン)と軍人(ミリタリー)の分離という原則は破られ,軍司令官が行政権も掌握するという軍官一致制度が生まれたのである。
 軍事権と行政権の両方を手中にしたテマ長官(ストラテーゴス)は,イスラム軍など敵の襲来を察知するや,首都に援軍や指示を要請したりすることなしに,独自の判断で動きイスラム軍に抵抗した。いちいち首都の判断を仰いでいては迎撃が遅れてしまうし,そもそも当時の皇帝や帝国政府は頼りにならなかったので,そうせざるを得なかったのである。

「テマ制」はどのようにして生まれたか?

 問題は,このような「テマ制」を何者が考案し導入したかということである。かつては,ヘラクレイオス王朝時代に,皇帝の命令で計画的に導入されたという見方が強く,歴代皇帝の中でこのような大改革をやれそうな人物がヘラクレイオス以外見当たらないことから,テマ制の創始者はヘラクレイオスではないか,いやテマの成立時期から考えればコンスタンス2世かコンスタンティノス4世ではないか,などと議論されてきた。
 しかし,ヘラクレイオスないし他の皇帝がテマ制の導入を指示したなどとする史料は存在しておらず,むしろテマに関する初期の記録は,テマ長官の反乱に関するものばかりである。
 そのため,近年ではテマ制が皇帝主導によって創設されたとする前提自体が誤りであり,各地の軍司令官たちが生き残りのため自発的に取った措置を,皇帝や帝国政府も追認せざるを得なくなった結果,自然発生的に「テマ制」が発足したとする見解が有力になっている。もっとも,このような見解も種々の状況証拠から導き出された推測に過ぎず,確たる史料的根拠が存在するわけではない。
 なお,イギリスの歴史学者アーノルド・ジョゼフ・トインビーは,著書『歴史の研究』の中で,テマ制の発足に関し上記のような自然発生説を前提とした上で,「間に合わせに作った軍団地区制(テマ制)が属州制度に取って代わる間,なすところなく傍観していなければならなかったコンスタンティノープルのいわゆる帝国政府は,その言葉の本当の意味において,真の政府とは見做しえないのである」と述べている。
 トインビーの見解を基に極論すれば,なし崩し的なテマ制の発足を黙認せざるを得なかったローマ帝国はヘラクレイオス朝及びその後の混乱期において実質的な滅亡状態にあり,第7話で言及するレオーン3世とその後継者たち(イサウリア朝ないし北シリア朝)によって,テマ連合政権としての「ビザンツ帝国」が成立したと見做すことも可能ということになる。
 ここまで極論することの当否はともかく,少なくとも設立当初のテマは,帝国政府の統治権が限定的にしか及ばない半独立の地方政権であり,歴代皇帝は各テマの長官に一応の宗主権を認めさせることで満足するしかなく,テマが独自の皇帝を擁立するなどして「一応の宗主権」さえ認めない状態になると反乱として扱われたというのが,この時代におけるビザンツ帝国の実態であったと考えられる。そのような状態を脱却し,ビザンツ帝国が各テマを統制して再び「帝国」と呼ぶに相応しい実体を整えるに至るには,レオーン3世の登場を待たなければならなかった。

初期ビザンツ人の文化と宗教

 なお,大衆浴場や劇場,戦車競走などに代表される古代ローマの大衆文化は,この時代になると相次ぐ戦乱の影響でほとんど消滅してしまった。古代ローマ時代から続く都市は大幅に規模を縮小して外敵からの防衛に特化した構造に変わったり,場所自体が快適な生活より防衛に適した要害の地に移転されたりして,その役割も平時の住居ではなく戦時に住民が逃げ込む避難所に代わり,もはや「都市」ではなく「城砦」(カストロン)と呼ばれるようになった。単に「ポリ」(都市)と言うだけでコンスタンティノポリスを指すという用語の使用例がみられるようになったのも,もはや都市の名に値する存在が首都のコンスタンティノポリスしかなくなってしまったことに由来するようである。
 最後に,初期ビザンツ人を語る上で欠かせないのが宗教である。既にみたとおり,テオドシウス1世によるキリスト教の強引な国教化と相次ぐ内戦が,ローマ帝国から広大な西方領土を失わせた要因であり,またシリアやエジプトなどの属州を抱えていた頃の東ローマ帝国においては,国教であるキリスト教はカトリックと単性論に分かれて深刻な地域別対立を生み出し,それがヘラクレイオス1世時代における東方属州失陥の要因となった。
 仮に,このままビザンツ帝国がイスラム勢力の波に抵抗できず早期に滅亡したのであれば,ローマ帝国滅亡の原因はキリスト教という独善的で厄介な宗教を国教にしたことであり,このような宗教政策を推進したコンスタンティヌス1世,テオドシウス1世やユスティニアヌス1世の判断は全くの誤りであったと簡単に結論付けられることになる。また仮にそうなっていれば,筆者もこんな愚かな国のために『ビザンツ人の物語』を書こうとは考えなかったであろう。
 しかし,現実のビザンツ帝国はそのような結末にはならなかった。単性論者の多いシリアやエジプトといった東方属州がイスラム勢力に奪われ,ビザンツ帝国における主な宗教がカルケドン信条すなわちカトリックのキリスト教のみになると,キリスト教はイスラム勢力に対する抵抗の強力な精神的支柱となった。敬虔なキリスト教徒は,自らの純粋な信仰が汚されるくらいなら死を選ぶというほどその信仰に固執する傾向にあるが,カトリックで一枚岩になったキリスト教は,暗黒時代の危機的状況に置かれたビザンツ帝国においてはプラスに作用した。
 帝国から異端視されていたシリアやエジプトの単性論者たちと異なり,カトリック教徒の多くは,イスラムの軍門に降ってジズヤを支払い自らの信仰を認めてもらうという安易な道を選択せず,自らの宗教を守るため徹底抗戦する道を選んだ。その際,苦難に満ちた抵抗戦の中でビザンツ人が信仰の拠り所としたのがキリストや聖母マリア,聖人たちの聖像(イコン)であり,イコン崇拝は後にギリシア正教と呼ばれるようになった「ビザンツ人のキリスト教」にとって不可欠の存在となっていく。
 ビザンツ帝国は,「ビザンツ人のキリスト教」を精神的支柱として絶望的な暗黒時代を生き抜き,そこから不死鳥のように復活し,やがて東地中海の強国としての地位を取り戻すという驚くべき生命力を発揮する。もっとも,様々な教理論争とこれに起因する政治的な内部対立は後を絶たず,これは帝国滅亡に至るまでビザンツ帝国の悩みの種であり続けるのだが,その模様については第2部,第7話以下で述べることになる。

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