第2話中編 新しい出会い

第2話中編 新しい出会い

第9章 治療

「陛下、何をなさっておいでなのですか?」
 ソフィアの声だ。まずい。ここは何とか誤魔化さないと。
「・・・単におしっこをしているだけだから。すぐ済むから、ちょっとあっちで待ってて」
「失礼ですが、殿下。小用の割には、ずいぶん時間がかかっておいでのようですが。それに、殿方が単に用を足すにあたり、そのようにプリアポス様を何度もこする必要はないはずです」
 駄目だ、完全にバレてる! 誤魔化すことを諦めた僕は、作戦を変えることにした。
「ソフィア~、お願いだから今回だけは見逃して! もう我慢できないんだ!」
「そうは参りません。下賤の者であればともかく、ローマ帝国のカイサルにして軍総司令官、そして『神の遣い』ともあろうお方が、よりによって自瀆行為など、決してあってはならないことです。さあ殿下、宮殿にお戻り頂きます」
 ソフィアはそう言って、僕に下着とズボンを履かせようとするが、なかなか上手く行かない。
「痛い痛い! ソフィア、男には女の子にはないものが付いてるから、そのやり方じゃズボンは履けないから!無理に引っ張らないで!」
「畏まりました。・・・殿下、そのプリアポス様はちょっと大きすぎてズボンに収まりきらないと思われるのですが、もう少し小さくして頂くことはできませんでしょうか?」
「簡単にできれば苦労はしないよ! それに、小さくするように鎮めようとしていたのを君が駄目だというんだから、どうしようもないよ!」
 ・・・そんなどうしようもないやり取りを経た後、僕はソフィアに宮殿内へ連行された。なお、僕はソフィアによって上半身を縄で縛られている。
「オフェリア様。ミカエル・パレオロゴス殿下を、自瀆行為の現行犯で逮捕致しました」
 ソフィアは、オフェリアさんと他のメイドさんたちがいる中で、そう報告した。そんな罪名を女の子たちの前で告げられるのは、物凄く恥ずかしい。それを受けて、オフェリアさんの尋問が始まった。
「殿下、一体どうしてそのようなことをなさったのですか?」
「辛くて辛くて、もう我慢できなかったんです」
「そういうときは、自瀆行為をするのではなく、メイドさんと子作りをしてくださいと殿下には何度も申し上げたはずです。どうして子作りをそこまで拒否なさるのですか?」
 ・・・僕はどう説明しようかと思い悩んだ挙句、単刀直入にこう答えた。
「女の子に、そんな恥ずかしい命令できるわけないじゃないですか!」
「具体的にどこが恥ずかしいのですか? 自分と子作りせよと命令するのが恥ずかしいのですか? それともご自分の裸を女の子に見せるのが恥ずかしいのですか?」
「・・・両方です」


「分かりました。殿下は心因性のインポテンツなのですね」

 オフェリアさんに、そんな酷いことを言われた。

「それってインポテンツって言うの!?」
「身体上の理由であろうが、精神上の理由であろうが、子作りのできない男は全てインポテンツです。そのような殿下に、いきなり子作りをしてくださいと申し上げるのは無理がありましたね。まずは、インポテンツの治療をして頂かないと」
 オフェリアさんが、ため息をつきながらそんなことを言ってきた。
「・・・どんな治療をするつもりなんですか?」
「まずは、女の子に慣れる治療をして頂きましょう。具体的には、もう殿下が我慢できないということなので、女の子に鎮めてもらうことに慣れて頂きます」
「鎮めてもらうって、具体的にはどういう事?」
「以前私が、殿下の診断をさせて頂いたときと同じ方法です」
 詳しく描写すると18禁になってしまう世界の話なので詳細は割愛するが、要するに大事なところにオリーブオイルを塗って手でこすったり、口で舐めたりする行為である。
「それって、この国の法律上やってもいいことなの?」
「本来は、姦淫の禁止を定めたモーセの戒律の趣旨に反するものとして教会法により禁止されているのですが、殿下の性的不能を治療するためにはやむを得ないとして、既にゲルマノス総主教から特赦状を頂いております。よって、法的には何ら問題はありません」
 あの人、総主教という割に、そういう問題に関してはやたら物分かりがいいな!
「・・・それで、またオフェリアさんがしてくれるの?」
「いえ、本日以降はマリアが主に担当致します。マリア、私が教えたとおりにやって差し上げるのですよ。分かっていますね?」
「はい! 頑張ります、なのです」
 マリアが、やたら張り切った様子で答えた。
「マリアにやらせるの!?」
「はい、マリアにとっては初仕事になりますが、こういうことは実践をさせないと上手くなりませんから、殿下もマリアの練習相手になってくださいませ」
 どうしよう。よりによって、一番恥ずかしい相手が指名されてしまった。毎日のように顔を合わせている、歩く萌え要素とも言うべき可愛い女の子のマリアにそんなことをさせること自体恥ずかしいし、マリアにそんなことをさせることに慣れてしまったら、日本でもマリアそっくりの湯川さんを見ただけで、今まで以上に激しく反応してしまうだろう。僕の頭は必死に、「マリアと湯川さんは別の人だから!」と必死に言い聞かせているが、逆に僕の下半身は、マリアと湯川さんを同一人物だと認識してしまっているのだ。さあどうする?

(どちらを選びますか?)
A このままマリアに任せる
B 断固として拒否する

 僕はBを選んだ。
「無理無理無理! よりによってマリアにそんなことさせるだなんて、そんな恥ずかしいこと僕には出来ないから!」
 僕の返答に、しかしオフェリアさんはにっこりと笑って、僕にこう告げた。
「では、殿下には自瀆行為の罪に対する罰として、『お気に入りの可愛いマリアちゃんに、ズボンと下着を脱がされて恥ずかしいところをたっぷりと見られた挙句、服を脱いで裸になったマリアちゃんに殿下の大事なところをたっぷりといじられて、何度も発射させられてしまう刑』を受けて頂きます」
 どっちを選んでも同じことだった!
 ・・・僕は両脇を他のメイドさんに押さえられた挙句、文字どおりの内容の刑を受けることになってしまった。マリアがやる気になっているので言葉で強く拒否することも出来ず、僕は顔を真っ赤にさせながら、気持ちよくさせられるたびに時々情けない悲鳴を上げることしか出来なかった。
 それ以来、僕は毎晩この刑を受けるのが日課になった。刑を執行するのは主にマリアだが、マーヤやソフィアが代役を務めることもあった。オフェリアさんからは、「殿下がお休みになる前に、殿下のものが大きくなっていたら、殿下の御意思に関係なく刑を執行させて頂きます。ただし、両手を縛るのはやめますから、女の子の身体のどこを触っても結構です。その気になられたら、もちろんその場で押し倒して子作りの練習に入られても結構ですよ、うふふ♪」などと言われたが、僕はマリアたちの身体を触ることに関しては自粛した。そこまでやるようになってしまったら、本当に取り返しのつかないことになってしまいそうだったからだ。
 もちろん、僕の大事なものが寝る前に大きくなっていなければ刑は執行されないわけだが、僕の下半身は気持ち良い刑の執行に味を占めてしまい、毎日夜が近づくと激しく疼くようになってしまい、僕も一度覚えてしまった快感を拒否することは出来ず、刑の執行を止めることは出来なかった。特に、イレーネから下半身に強力な『育成』の術を掛けられてしまってからは、この刑は僕にとって欠かせないものになってしまい、ついには自分から刑の執行をおねだりするようになってしまった。

第10章 モンゴル軍の噂

 ようやく、できれば話したくなかった恥ずかしい話が終わり、まじめな話に戻ることが出来る。
 世界暦6754年12月。僕はこれまでに、ラテン人の皇帝アンリ・ド・エノーと5年間の休戦協定を締結し、ゲオルギオス・アクロポリテスを登用して帝国の内宰相に任命し、その弟子パキュメレスとソフィア・ブラニアを僕の側近に加え、神聖術の学士号を習得し緑学派に入門し、そして秘密の行為がバレて毎日刑の執行を受けることになった。
 もっとも、この2か月間で僕が行ったことは以上にとどまるわけではなく、まず家臣たちの子弟で未だ成人に達していない者たちを集め、彼らと一緒に教え学ぶことにした。将来、自分に忠実な帝国の幹部候補生として育てるためである。
 集まったメンバーは、まずマヌエル・ラスカリス将軍の次男にして、あの『ビザンティオンの聖戦士』を自称するテオドロスの弟、イサキオス・ラスカリス。年は15歳、この国ではそろそろ初陣を迎えようかという年齢である。兄のテオドロスとは6歳離れているが、兄に劣らぬ屈強の戦士に育ちそうである。なお、文字を「あんなミミズがのたくったようなものに何の意味があるんだ」と言って憚らない兄テオドロスと異なり、文字の読み書きはひととおり出来、性格も兄よりは冷静。兄と違ってそんなにキャラは立たないと思うが、戦力としては計算に入れられる。数年後には1部隊の長を任せられるだろう。
 ラスカリス家からはもう1人、三男のアレクシオス・ラスカリスも来ている。アレクシオスの年は12歳。武勇は兄達より劣るものの学問が好きらしく、将来は総督職なども務まるバランス型の人材に育ちそうである。なお、ラスカリス家には今年で18歳になるルミーナ・ラスカリナという娘もおり、彼女はテオドラの側近として仕えているらしい。まだ会ったことはないので、どんな女性かは分からない。
 次に、スミルナの総督アレクシオス・ローレスの息子、ヨハネス・ペトラリファス。正式な名乗りは、血縁関係のある名家の家門名を全部くっつけて、「ヨハネス・コムネノス・ローレス・ドゥーカス・アンゲロス・ペトラリファス」と言うらしいが、あまりに長いので普段はペトラリファスと呼ぶことにしている。なお、ペトラリファスは母方の姓で、父方のローレス家より家格は上らしい。ペトラリファスは今年15歳。遊び好きで早くも愛人がいるそうだが、頭は切れる。軍人や政治家も務まりそうだが、参謀の一人として活躍が期待できそうである。
 ニケーア総督バルダス・アスパイテスの息子、コンスタンティノス・アスパイテスもいる。コンスタンティノスは今年10歳。兵学に強い関心があり、将来は軍人志望とのことである。なお、彼と同名の祖父は優秀な軍人であったが、イサキオス帝に反旗を翻して盲目刑にされたらしい。父のバルダスは家を守るためひたすら大人しくイサキオス帝に仕えているが、コンスタンティノスの方はイサキオス帝への忠誠心はほとんど無く、まだ少年の身ながら、僕が皇帝になるべきだと言ってきたりするので、他所ではそういうことを言わないようにと注意している。
 こうした年少組の最後を飾るのは、アクロポリテス先生の弟子ゲオルギオス・パキュメレス。テッサロニケに住んでいる有力者の子供らしい。こちらもまだ10歳で、何となく臆病な性格で武術こそあまり得意ではないが、学問の出来は年長者を差し置いて断トツのトップ。特に法学の出来は、招聘した法律学の教師も驚くほどである。アクロポリテス先生の後継者筆頭候補と考えてよいだろう。
 僕はそんなパキュメレスに、摂政としての権限で特別に許可を出し、神聖術も習得させることにした。適性は75で、青学派選択を考えているとのこと。これは、ゲルマノス総主教の負担を将来的に減らしてあげたい僕の要望もあるが、相変わらずテオドラを怖がっているパキュメレス自身も、万一テオドラにいじめられた場合に備え、攻撃されても身を守れる防御系の神聖術を極めたいとのこと。テオドラの暴れ振りが余程トラウマになっているみたいだ。
 年少組の紹介は以上になるが、別にパキュメレス以外は、現段階ではいちいち名前を覚えなくてもいいですよ。今後彼らが物語上の重要キャラになるかどうかは分からないし、一応こういう政策もやっているということで名前を出しただけですから。

 そして、軍事面では軍の再編成を行い、僕の率いる直轄軍の内訳は以下のようになった。
 戦闘斧と剣で戦う、勇猛なヴァリャーグ近衛隊が約3000人。長槍で戦う集団戦向けの訓練を施したファランクス隊が約4400人。弓兵隊が約900人、軽騎兵隊が約700騎。アンドロニコス・ギドスの率いてきた兵士たちを直属軍に編入したことから、兵数が若干増えているほか、ファランクス隊も状況に応じて長槍以外にも様々な武器を使えるよう、勇猛さではラテン人より落ちるが多目的に使える部隊として、マヌエル・ラスカリス将軍の指揮下で訓練が続けられている。
 これに加え、投降してきたラテン人ティエリ・ド・ルース率いる約300騎の騎士隊と、約700人の従士隊も僕の直属軍に加えることになった。騎士隊といっても、実際には必要に応じて馬を降り勇敢な歩兵隊としても戦える、多目的精鋭部隊である。ラテン人歩兵の従士隊は言語や習慣の関係から、ファランクス隊とは別の部隊とし、基本的に騎士隊とセットで使うことにしている。
 なお、ティエリには当初帝国南方の領地を与える予定だったが、ラテン人でギリシア語が不得手のティエリに、ギリシア語を母語とするローマ人の土地を統治させるには無理のあることが分かったため、結局ア与える予定だった土地の税収をティエリとその部下たちに俸給として与えるという形になった。
 ちょうど、帝国にとって重要な同盟者であり資金面でのスポンサーでもある、ジェノヴァ共和国の使者フルコーネ・ザッカリアが今年分の援助金を持って挨拶にやってきたので、今後の軍備拡大に関する方向性について、僕とマヌエル・ラスカリス将軍、ゲルマノス総主教、ザッカリアの4人で協議することにした。
「再編成の結果、いつでも動かせる殿下の直属軍は約1万人となりましたな」
 ラスカリス将軍がそう報告する。
「ゲルマノス総主教、現在の財政状況に照らし、維持できる常備軍の限界はどのくらいになりますか?」
 僕が総主教に質問すると、あらかじめ回答を準備していた総主教は早速報告してくれた。
「直轄地がだいぶ増えました結果、ジェノヴァからの援助なしで維持できる兵数は約8千人、ジェノヴァからの援助を含めますと約1万4千人が限界となります。内政面に回す資金を考慮しても、若干増強する余裕はありますな」
「でも微妙なところだね。僕としては、軽騎兵の数が若干物足りないので、増強するなら軽騎兵、出来れば弓騎兵隊を雇いたいんだよね。それに、将来聖なる都の奪回を目指す以上は、そろそろ帝国海軍の再建にも着手しなければならないし」
「しかし、陸軍と違って海軍は相当費用がかかりますぞ。造船所の建設費と維持費、艦船の建造費と維持費、船の漕ぎ手に支払う給料などもかかります。しかも艦隊を新設したところで、海の専門家であるヴェネツィア人やジェノヴァ人の艦隊には到底太刀打ちできません。アレクシオス帝の時代に帝国海軍が事実上解体されたのも、費用対効果に照らし維持する意味がないと判断されたのが大きな理由でありました。領地がほぼニケーア周辺のみだった時代に比べれば状況は大幅に改善したものの、現段階で海軍の再建は難しゅうございますぞ」とラスカリス将軍。
「ゲルマノス総主教、難民の入植政策については順調そうですか?」
「その政策については、アクロポリテス内宰相が本格的な計画に着手しておりますが、現時点でもニケーア周辺での入植は順調に進んでおります。また、ニケーアとプルサのほぼ中間あたりに、入植者たちの新しい町テオドラーノポリが建設される運びとなっておりますが、本格的な税収増を期待するには少なくともなお数年を要するでしょうな」
「ちょっと待って! テオドラーノポリって、本当に作るつもりなの!? あれってたぶん、テオドラがその場の思い付きで喋っただけで、おそらく言った本人も今頃忘れてると思うよ?」
 ちなみにテオドラについては、会議に来られても邪魔になるだけなので、『今日はザッカリアと一緒に数学と幾何学についての討論をするけど、来る?』と話を振ってみたところ、テオドラは『そんなもの興味ないわよ』と言い残して、馬で散歩に行ってしまった。そのため乱入のおそれはない。
「私もおそらくそうだろうとは思うのですが、万一覚えているという可能性もありますからな。それに、私とアスパイテス総督の間で協議した結果、あの焼け跡はニケーア湖に面しており水利も良く、森に戻すよりも入植地として活用した方がよいという結論になりまして、かなり広い土地なので住民たちが暮らすための新しい町も必要になります。今まで何もない森林でしたので、新しい町に名前を付けようにも他の目ぼしい候補は無く、結局皇女様の仰るとおりにされた方が無難という話に収まりました」とゲルマノス総主教。
「そういう事情であれば僕も反対する理由は無いけど、相変わらず懐具合は寒いね」
 僕がため息をつくと、今まで黙って話を聞いていたザッカリアが発言した。
「今までのお話で、帝国をめぐる状況は概ね把握させて頂きました。殿下の御要望としては、まず弓騎兵隊を増強したい、海軍の再建に着手したいというお考えで宜しゅうございますかな?」
「そうだけど」
「その件、いずれも了解致しました。本国政府とも協議の上、海軍再建のための資金援助や技術援助を検討させて頂きます。弓騎兵隊につきましても、私の伝手で雇用可能な傭兵を探して参りましょう」
「そのようなことをお願いして構わないのですか?」
「私共は商人でございます。商人が最も恐れるのは、投資が無駄になる事態です。昨年に提示致しました貴国への援助は、貴国がまだ潰されるかも知れないとの考慮の下、いわゆるお試しの金額に済みませぬ。しかし、この1年間にわたるご活躍ぶりをお聞きした結果、殿下の国は将来性が極めて有望であると判断させて頂きました。それゆえ、わが国としては憎きヴェネツィア人と戦うため、貴国への援助を更に増額させて頂き、また貴国に新しい仕事をお願いしたいと考えております」
「援助の増額は有難いお話ですが、新しい仕事とは具体的にどのようなお話でしょう?」
「従来貴国の領土でありながら、現在はヨハネス・ガバラスという者が憎きヴェネツィア人の影響下で半独立勢力を築いている、ロードス島を奪取して頂きたいのです」
「「「ロードス島?」」」
 僕とラスカリス将軍、ゲルマノス総主教の声がハモった。
 ロードス島は、帝国領の南端からトルコ人の領地を隔てた南方にあるそこそこ大きな島で、世界史上は中東の聖地を追われた病院騎士団が本拠地を置いていたことで有名な島である。なお、日本で知られている『ロードス島戦記』とは全くの無関係らしい。
「ロードス島は、地中海における海上交易の要所でございまして、憎きヴェネツィア人はここに拠点を構築して交易網を築き、交易の独占体制を作ろうと目論んでおります。無論、我々もそのような企みを阻止すべく努力しておりますが、陸軍のないわが国だけでロードス島を奪取するのは無理があります。わが国の同盟国である貴国がロードス島を奪取して頂ければ、憎きヴェネツィア人の構築している、シリア及びエジプト方面への交易網は寸断され、ヴェネツィア人は大きな打撃を受けることになり、一方我々は交易上の重要拠点を得られるというわけです。我々がヴェネツィア人に代わりロードス島を使えるようになれば、その利益は計り知れないほどのものとなり、そのために貴国への援助を大幅に増額する価値は十分にあるのです」
 その話に、ラスカリス将軍が異論を唱えた。
「事情は分かりましたが、ロードス島は元帝国領としていずれ奪回する必要があるものの、現在の領地からはかなり離れております。ジェノヴァとしては、未だ海軍もないわが国に、防衛の困難な飛び地を作れと仰るのですかな?」
「そうではありません。貴国には、トルコのスルタン、カイ=クバードを倒された勢いでそのまま南方に勢力を広げ、ついでにロードス島も攻め取って頂きたいのです。ヴェネツィア人の交易網を寸断するには、ロードス島だけでなく、その対岸にある土地も攻め取って頂いた方が効果が高まります」
 確かにカイ=クバードは倒したけど、あれは偶然の要素が大きかったからなあ。東方の大国であるトルコ人の国、いわゆるルーム=セルジューク朝と正面から戦うのはリスクが大きいような気がする。もっとも、対外的にはマイアンドロス河畔の戦いは、ローマ帝国のトルコ人とラテン人に対する偉大な勝利であると喧伝しているので、そのことを正面から口にするわけにも行かない。その代わりに、僕はこのように聞いてみた。
「ザッカリア殿は、わが国の国力で、トルコ人を正面から打ち破って更に領土を広げられるとお考えなのですか?」
「そう考えているからご提案しているのです。カイ=クバードの死後、その息子で跡を継いだスルタンのカイ=ホスローはかなり凡庸な人物で、しかもバイジュ・ノヤンと申すタタールの軍勢が国内に攻め入った影響で、トルコ人の国は現在かなり混乱しているようです。トルコ人から領土を切り取るなら、むしろ今が好機ですぞ」
「バイジュ・ノヤン?」
 タタールというのはモンゴル軍のことだろうけど、そういう名前の将軍については聞いたことがない。
「私も詳しくは存じませんが、タタール人の中でもかなりの勇将で、トルコ人の国は彼の軍勢に対し全く為す術が無いそうです。意味はよく分かりませんが、バイジュ・ノヤンは何でも『ジェベ』の一族に属する者だそうで」
「ジェベ!?」
 ザッカリアの言葉に、僕は思わず大声を出してしまった。
「殿下、ジェベなるものについて何かご存じなのですか?」
 ラスカリス将軍が僕に聞いてくる。将軍もゲルマノス総主教も、ジェベのことは知らないらしい。でも、ここでは歴史の流れが僕の知っているものと微妙に違っているし、僕の知っている知識をそのまま垂れ流しちゃっていいのかとも思ったが、一応説明することにした。
「タタール人、僕の生まれ故郷ではモンゴル人と呼んでいるけれども、そのモンゴル人を1つにまとめ、大帝国を築き上げたのがチンギス=ハーン」
「その者の名は、確かに私も耳にしております」とザッカリアが応じた。それならば、僕の知っているとおり説明したとしても、少なくとも大筋では間違っていないだろう。
「そのチンギス=ハーンには、四頭の馬、四頭の狗と称される優れた将たちが仕えていた。四頭の馬はすなわちボオルチュ、ムカリ、チラウン、ボロクル。四頭の狗はすなわちスブタイ、クビライ、ジェルメ、そしてジェベ。四頭の狗と言われるこの4人は、いずれも戦いでは先頭に立ち、モンゴル人の敵たちはその名を聞いただけで震え上がったと言われている猛将だよ」
「殿下、何となく声が震えておられますぞ。大丈夫でございますか?」
 ラスカリス将軍に心配されてしまった。ここは何とか取り繕わないと。
「左様でございますか。殿下はタタール人のことについてかなりお詳しいようですな。私めは、ムスリムの商人たちから『ジェベ』なるものの噂を聞いて、ジェベとは悪魔の類なのかと思っておりました」
 ザッカリアがこちらの様子を気にしつつ、感心したというような答えを返しておく。これ以上話を長引かせるのは危険だ。
「とりあえずザッカリアさん、ロードス島攻略の件については、わが国の方でも検討させて頂きます。申し訳ありませんが、僕はちょっと体調が優れませんので、これで失礼させて頂きます」
「左様でございますか。大切なお身体ですから、どうぞご自愛くださいませ。とりあえず、私ザッカリアも、ご要望の件につき急ぎ取り計らいますので、今回はこれにて失礼させて頂きます」

 こうして、この日の会談は終わった。その後僕は、ゲルマノス総主教とソフィアに、トルコ人の情勢、特にロードス島の対岸にあたる地方の情勢について調査を進めるよう指示を出したが、その間も僕の脳内は「モンゴル軍」「ジェベ」に対する恐怖で一杯だった。
 ジェベは、日本製の某ゲームには名前が登場する。戦闘力90台の猛将で、日本人の武将で彼に対抗できるのは源義経くらいしかいない。中世ヨーロッパを舞台にした欧米発のゲームでは、ジェベの名前が出てくることはまず無いものの、モンゴル軍は13世紀になると突如東方から現れ、チート級の強さで攻めてくる。以前、ある欧米発のゲームをビザンツ帝国でプレイしていたら、モンゴル軍の襲撃をもろに受けてゲームオーバーになってしまったことがあり、それ以後はモンゴル軍に対する恐怖のあまり、モンゴルから一番遠いスペインのアラゴン王国などを選ぶことが多くなってしまった。
 自ら発した「モンゴル軍」「ジェベ」のキーワードで、僕はゲームによって植え付けられたモンゴル恐怖症を一気に発症してしまったのである。確か、史実のビザンティン帝国は、幸いにしてモンゴル軍と直接対決することはあまり無かったものの、たしか史実のミカエル8世は娘をモンゴルのハーンに嫁がせるなどして、モンゴル軍との戦いを徹底的に避けていた。この世界でも、少しボタンを掛け違えれば、モンゴル軍との直接対決という事態に陥ってしまうか分からない。しかも、ゲームならゲームオーバーになるだけで済むが、この世界でモンゴル軍と直接対決するようなことがあれば、その時点でこの国と僕の命はお終いだ。

「ご主人様、お帰りなさいませ、なのです。・・・どこか御具合でも悪いのですか?」
 部屋に戻った僕を出迎えてくれたマリアも、どこか心配そうだ。
「具合が悪いというわけじゃないんだけど・・・。そう、ものすごく怖い話を聞いて、ものすごく怖いことを思い出しちゃったんだ」
「えーと、それでご主人様は震えていらっしゃるのですね・・・。ご主人様のものも、いつもと違って大きくなってないのです。それでも、その、何か私に出来ることがあったら、何でもおっしゃってください、なのです」
「マリア、悪いんだけど、出来れば今夜僕と添い寝してくれる? それで、マリアのこと、思い切り抱きしめてもいい? その、エッチなことがしたいわけじゃなくて、単に怖いだけだから」
 僕がそう言うと、マリアは頬を赤らめて、
「そ、そのくらいなら、もちろん大丈夫、なのです。えっ、ご、ご主人様!?」
 僕はマリアから許可をもらうと、その勢いでマリアをベッドに押し倒してしまった。子作りをしたくなったわけではない。ただあまりに怖くて、何かにすがりたかっただけなのである。マリアは最初驚いていたが、
「ご主人様、すごく怖いことを思い出してしまったのですね・・・。怖いの、怖いの、飛んでけー、なのです」
 服は着たままであるが、マリアの柔らかくて暖かい身体を抱きしめながらそんな声を聞いていると、次第に恐怖心が和らいできた。すごく暖かくて気持ちいい。今日はこのまま寝て・・・
「あ、ご主人様のが、だんだん大きくなって私に当たってるのです。いつもの『ごしごし』をしなきゃいけないのです」
 ・・・というわけには行かなかった。ちなみに、僕とマリアの間では、件の刑のことを『ごしごし』と呼ぶようになっている。マリアとしては、別にいやらしいことをしているのではなく、僕の大事なものを真剣に洗っているつもりらしい。

 マリアのおかげで僕が安らかな眠りに就くと、次の日には日本で目が覚めた。
 日本での高校生活は、本用に平凡で何もない。学園もののライトノベルだと、生徒会が異様な力を持っていたりとか、信じられないような美少女とのラブロマンスがあったりするが、大体そういう物語の舞台は私立高校である。これに対して、僕が通っている高校は公立の進学校であり、生徒会も実態はよく知らないけど大した権限を持っておらず、生徒の中には1年生の段階から大学進学に向けて塾通いをしている生徒もいるため部活動も活発ではなく、生徒の約半数が僕と同じ帰宅部であり、先生の話だと自分の殻に閉じこもっているような生徒が多いのだという。僕のような友達のいない「ぼっち」でも気にする必要のない、まさしく「ぼっち天国」のような学校であるが、あの理不尽さと難解さと謎に満ちているビザンティン世界ならともかく、この学校を舞台にした物語など成り立つ余地は現在のところないし、これからも無いだろう。
 そんなわけで、今日も平凡で何事もない高校生活が終わるかと思われたのだが、授業終了後のホームルームで、クラス委員長の中崎凛香さんから連絡事項があった。なお、中崎さんは真面目で上品な、育ちの良いお嬢様風の女子で、眼鏡をかけているが結構な美人である。たぶん、クラス内でも人気があるんだろうな。
「突然のお話になりますが、1年2組のクラスの皆さんには、席替えを行って頂くことになりました。このクラスでは、他のクラスに比べてもクラスメイト間の交流が少なく、担任の宍戸先生も心配されているため、今回の席替えはクラスメイト間の交流を活発化させることが主な目的になります」
 迷惑な話だなあ。僕のようなぼっち天国を謳歌している人間には、今のままで問題ないのに。
「新しい席は原則としてクジによって決めますが、どうしても今隣にいるクラスメイトさんと離れたくない、あるいは誰かさんと隣の席になりたいといったご希望のある方は、今用紙を配りますので、本日中に自分の名前と希望事項を書いて、私に提出してください。席替えは、明日授業終了後のにホームルームで行うことを予定していますが、調整の結果ご希望に沿えない場合もありますので、その点はご了承ください」
 そうして、中崎さんからクラス全員に『要望届』と題された用紙が配られた。どうやらこの用紙に自分の名前と、要望事項を書けばいいらしい。僕が要望を出すとしたら、出来れば湯川さんの隣にして欲しいということくらいしか思いつかない。僕は用紙に自分の名前と、「できれば湯川美沙さんの隣にしてください」という要望事項を書いてみたが、これを提出するのはあまりにも恥ずかしい。少なくとも中崎さんには見られてしまうわけだし、本当に湯川さんの隣になってしまったら、何が起こるか分からないという怖さもある。
 僕が用紙を提出するかどうか悩んでいると、どこかから不思議な声が聞こえたような気がした。


「これは、お兄ちゃんには一生に一度しかないチャンスだよ! 頑張って、お兄ちゃん!」


 実は、僕にとってこういう現象は今回が初めてではない。僕は1人っ子なので当然妹などいないのだが、なぜか僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ不思議な声が、落ち込んでいる時や悩んでいるときに聞こえてくることがある。そして、その声に言われたとおりにすると、なぜか何事も上手く行ったり、平穏無事に解決したりするのだ。僕には、何か守護霊のようなものが憑いているのかも知れない。
 結局、僕は謎の声が命じるままに、中崎さんに要望届を提出した。僕の他にも要望届を出した生徒は何人かおり、その中には湯川さんの姿もあった。まあ、あまり深くは考えないことにしよう。湯川さんが他の男子の隣にしてほしいとか、あるいは僕の隣だけは嫌ですといった要望を出している可能性もあるのだから、湯川さんが僕の隣にならなくても、その時は「湯川さんとはご縁がありませんでした」と割り切れば良いのだ。
 帰宅後、僕は日記を書いて宿題と勉強と、その他やるべきことを済ませて眠りに就いた。

 翌朝。僕はマリアの声で目が覚めた。
「お目覚めになりましたか、ご主人様。おはようございます、なのです」
 そう挨拶してくれたマリアは、一糸纏わぬ姿だった。僕も裸だった。その姿を見て、この世界では昨晩、よりによって湯川さんそっくりの美少女マリアと、裸で抱き合いキスなどしながら、僕の大事なものを『ごしごし』してもらうとか、すごくイケナイことをたくさんしてもらってしまったことを思い出した。子作りをしたり、マリアのエッチな場所を触ったりすることだけは何とか自粛したが、傍から見れば昨晩子作りを済ませたカップルのようにしか見えない。
 モンゴル軍への恐怖心はどこかへ消え去ってしまっていたが、この一晩でマリアとの関係を一気に進めてしまった。日本では絶対できないようなことが、この世界では僕さえその気になれば、いとも簡単に許されてしまうのが怖い。僕が強い自制心を発揮しないと、僕はマリアを通じてこの世界に取り込まれてしまいそうだ。モンゴル軍よりむしろ、そのことの方が怖くなった。

第11章 冬の出来事

 この世界では、冬は色々な意味で戦闘に適さないので、余程のことが無い限り冬に軍事行動を起こす国はあまりない。一方、春になれば何らかの軍事行動を起こすことが予想されるので、僕はこの冬の間に、公私にわたる諸課題を出来る限り片付けることにした。

 課題その1。神聖術の初級講座で習った移動拠点について、僕はゲルマノス総主教に、ニケーア以外の支配下都市にも設置できないかと相談したところ、北から順にシノーペ、アマセイア、ニコメディア、プルサ、キジコス、スミルナ、エフェソスの7都市については、アンドロニコス帝の時代に設置された魔法陣がまだ残っており、拠点管理官の務まる術士もいるので、連絡すればすぐにでも稼働可能という答えだった。僕は直ちに稼働を命じた。その他、貴族や教会などが領有している地域の町や村については、領主の判断により移動拠点を設けることを認めた。その結果、サバス・アシデノスの本拠地であるミレトス、ヨハネス・ヴァタツェス将軍の本拠地であるペルガモンなどにも移動拠点が築かれた。
 一方、有力な貴族であるテオドロス・マンカファースの本拠地であるフィラデルフィア、アレクシオス・コムネノスの本拠地であるトレビゾンドについては、立地的に移動拠点があった方が便利ではないかと思ったが、あまり乗り気ではないようだったので強制はしなかった。その他には、移動拠点を置く必要性のありそうな都市は特に見当たらなかったので、移動拠点の新設は先送りとした。

 課題その2。最近、なぜか日本へ戻る回数が急激に減っていて、このままでは高校の勉強がおそろかになりそうだったので、イレーネに高校の教科書やノートをこちらへ取り寄せられないかと相談してみたところ、「可能」との返事だったので、早速取り寄せてもらった。正確には、取り寄せるというより日本にある教科書やノートをこちらの世界でも使えるようにするといった方が近く、こちらの世界へ来たはずの教科書やノートは、日本に戻るとそのままの状態で置いてある。それでいて、ビザンティンの世界で書いたノートへの書き込みは、日本のノートにもきちんと反映されている。さらに、必要であれば教科書以外の本などについても同様に取り寄せ可能とのことだったので、適宜利用させてもらうことにした。
 ・・・念のため言っておきますが、別にエッチな本とかは取り寄せてもらってないですよ。
 そして、僕が隙間時間を見つけて自室で数学の勉強をしていると、ソフィアがそれに関心を示した。
「それが、殿下の国で使われている教科書なのですか?」
「そうだよ。これは数学の教科書。問題を解く練習をしていないと、すぐに解き方を忘れてしまうんだ」
「少しだけ、拝見させて頂いても宜しいですか?」
「別にいいけど」
 そうして、数学の教科書をソフィアに見せたところ、
「文字のところは私には分かりませんが、殿下の国ではアラビア数字を使った、かなり高度な数学が発達しておられるのですね」
「ソフィア、アラビア数字って分かるの?」
「私は以前、アクロポリテス様のところへ一時弟子入りさせて頂いたことがありまして、その時に若干習ったことがございます。アラビア数字は、異教徒の文字とされわが国では公式に使用されておりませんが、計算上非常に便利であり、アクロポリテス様は、これからはアラビア数字の時代になるだろうと仰っておられました。ヴェネツィア人やジェノヴァ人は、商売上の必要からいち早くアラビア数字を導入しており、わが国における商業活動の遅れは、アラビア数字が使われていないことが原因の一端にあるとも仰っておられました」
「アクロポリテス様って、僕が最近連れてきて内宰相に任命した、あのゲオルギオス・アクロポリテスのこと?」
「説明不足で申し訳ございません。私が弟子入りしたのは、正確には内宰相様の父上にあたる、コンスタンティノス・アクロポリテス様です。当然、内宰相様とも面識はございましたが」
「そのコンスタンティノスさんは、今どうしているの?」
「残念ながら、聖なる都が陥落したとき、ラテン人に殺されたと聞いております。内宰相様は、イサキオス帝が復位なされたとき、もしかしたらイレーネ様の予言が的中するのではないかと不安になり、職を辞してアトス山の麓に隠遁されておりましたので、難を逃れたのでございます」
 アクロポリテス先生がわざわざ隠遁生活を送っていたのは、そういう事情もあったのか。
「しかし、この国が数学で後れを取っているというのは問題だね。そのくせ、勅令なんかに使う用語はやたら複雑で分かりにくいのに。もっと分かりやすい用語で書いては駄目なの?」
「この国の言語はギリシア語と呼ばれておりますが、古典ギリシア語と一般民衆が用いる俗語に大きく分かれており、勅令などに用いる用語は、帝国の権威と格式が求められるため、原則として古典ギリシア語を用いるのが伝統になっています。一方、一般庶民や外国人などが学んでいるギリシア語は、いわゆる俗語です」
「それじゃあ、一般の民衆は、僕が公布した勅令の内容を読めないってこと?」
「はい。古典ギリシア語を理解できるのは一部の知識人や聖職者のみですので、一般民衆の多くはそうした者たちから勅令の内容を教えてもらうことになります。この国で聖職者が重要な存在になっている原因の1つに、地方では古典ギリシア語を読める者がほとんど聖職者しかいない、という事情もございます」
「それは、かなり問題だと思うんだけど。むしろ、僕としては勅令は、誰にでも読める言語で書かなければ意味がないと思うんだけど」
「過去にも、おそらくそのようなお考えから、勅令を分かりやすい言語で書けと命じられた皇帝陛下がおられないわけではありません。しかし、そのような方法を取られると、宮廷に仕える知識人や聖職者にとっては自分の仕事が無くなってしまい困りますので、その皇帝陛下が亡くなられると、たちまち以前と同じ方式に戻ってしまったと聞き及んでおります」
「その皇帝って誰?」
「特に有名なのは、最近『ブルガリア人殺し』の名で呼ばれている、小バシレイオス帝です。伝統的な古典の教養を重んじる知識人や聖職者としては、自分たちを軽んじた小バシレイオス帝を独裁者として悪く書きたいようですが、小バシレイオス帝がブルガリアの併合をはじめあまりにも輝かしい業績を収め、民衆や軍人にも広く尊敬されていたため、極端に悪く書くことも出来ないというジレンマに陥っているようです。もっとも、亡きコンスタンティノス・アクロポリテス様は、あまり古典の伝統にとらわれるべきでないという知識人の中でも改革主義的なお考えの持ち主でいらっしゃいまして、私を含めアクロポリテス様の門下生は、帝国知識人層の中では『改革派』などと呼ばれており、伝統を重んじる知識人たちからは悪く言われております」
 術士だけではなく、知識人の間にも派閥争いや方向性の違いなんかがあったりするのか。それはともかくとして、ならば僕も取るべき道は1つだ。
「決めた。僕は小バシレイオス帝に倣い、これからの勅令は誰にでも読める俗語で書くことにする。それから、アラビア数字をこの国の勅令や公文書で正式に採用し、アラビア数字に基づく数学教育を民衆にも普及させ、文官の採用にはアラビア数字に基づく計算能力を求めることにする」

 そして、ゲルマノス総主教にもその方針を伝えたところ、総主教に強く止められた。
「個人的には、私もコンスタンティノス・アクロポリテスの門下生でありますので、殿下のお考えに賛成したいところではあるのですが、そのようなことをすれば知識人や聖職者の猛反発を買いますぞ。特にアラビア数字は、異教徒の文字として教会から公式に異端と認定されており、私も個人的な作業でこっそり使うことしか出来ないのです」
 僕はしばらく考えた後、総主教に答えた。
「ならばこうする。アラビア数字の1と7は、乱暴な手書きだと混同されることがあるので、7の数字に横線を入れる。これを新ローマ数字と名付けて公式に採用する。これ以上の妥協はしない。文句を言う知識人や聖職者には、不敬罪を適用して百叩きの刑に処し、公職からも追放する」
「殿下がそこまで仰るなら、もはや止めても無駄でしょうし、私としても政務の負担が軽くなるので宜しいのですが、そうした規律は教会で定める教会法や典礼などにも適用されるのですか?」
「教会内部の問題については、僕の知ったことじゃない。好きなようにすればいい」
 こうして、帝国ではアラビア文字ならぬ新ローマ数字が採用され、以後の勅令は誰にでも読める俗語で書かれることになった。この決定に対し、少なくとも表立って反対の声は上がらなかった。なお、5年間の猶予期間を経た後、帝国文官の登用資格には新ローマ数字に基づく数学の知識を必須とすることが決まり、僕自身もその普及活動に努めることになった。日本では高校レベルの数学でも、この国では最先端に近い知識なのだ。

 課題その3。各地を飛び回っていた内宰相のアクロポリテス先生が、ある日僕を訪ねて来た。
「先生、お疲れ様です。僕に何か御用ですか?」
「私は殿下より、農業及び商工業の発展に関する政策については全権の委任を戴きましたが、2点ほど殿下のご裁断を仰ぎたいことがございます」
「どんなことですか?」
「1つは、スミルナの近郊にあるニュンフェイオンの村に新たな軍事拠点を築き、これが完成した後殿下はこのニュンフェイオンに移っていただき、その地を拠点に帝国を統治されては如何かということです」
「理由は?」
「まず、ここニケーアは聖なる都から逃れてきた移民などが多くなり、城壁外にも多くの人が住むようになり、手狭になっております。次に、ニケーアは海に面しておりませんが、ニュンフェイオンからであれば造船所もある大きな港町スミルナのすぐ近くにありますので、艦隊が発足すれば軍をスミルナから出航させることが出来、将来ヨーロッパ側へ進出する際には便利です。ロードス島やアジア南西部への進出する際にも、ニュンフェイオンの方が有利です。さらに、ニュンフェイオンの周辺には肥沃な農地が多いため、軍の規模が拡大しても食料の供給が容易であり、帝国統治の拠点としてはニケーアより適していると考えられます」
「なるほど。予算については?」
「同盟国のジェノヴァ共和国が、殿下との連絡にあたりスミルナ付近に本拠地のあった方が便利だとの見解を示しており、建設費用はジェノヴァ側で負担して頂けますので、こちらの経済的負担は特にございません」
「ジェノヴァ人は、何やらずいぶんと気前が良いですね。ならば反対する理由はありません。その方向で進めてください。なお、完成までにはどの程度の時間がかかる見込みですか?」
「2年前後を予定しております」
「分かりました。それでもう1つは何ですか?」
「農業の振興にあたり、神聖術を用いてよいかというご相談です」
「そんなもの、僕に聞くまでもなく好きなだけ使ってくれて構わないけど?」
「そう簡単ではないのです。私は神聖術を農業に活用する可能性について論文を書いたことがあるのですが、これに対しては教会からの反発が強く、実行を提案することすらできなかった経緯がありまして」
「ああ、神聖術の乱用とか騒ぐ連中がいるって件ね。ちょっと待ってて」
 僕は直ちにソフィアを呼んで、『帝国摂政ミカエル・パレオロゴスは、内宰相ゲオルギオス・アクロポリテスに対し、ローマ帝国の発展に資するため、その職務に関連する事項に関し、神聖術の使用を無制限に許可する。この件に関し内宰相から協力を求められた術士は、可能な限り内宰相に協力すること。なお、余の決定に異論を唱える者は、それが聖職者でも修道士でも他の何者であっても、舌を引き抜いた上で串刺しの刑に処す。刑の執行については内宰相に一任する』という趣旨の勅令を起草させ、署名して公布の手続きを執らせ、その写し1通をアクロポリテスに手渡した。もちろん、文面は誰にでも読める俗語である。
「・・・ここまでやってしまわれるのですか?」
「神聖術の秘密は、既にヴェネツィア人など一部の外国人には漏れている。今は秘密を守るとかどうとか言っていられる時代ではなく、神聖術を最大限に活用してライバルを出し抜かなければならない時代だ。反対する者を丁寧に説得する時間的余裕はない」
「殿下がそこまでの御覚悟を決めておられるのであれば、異論を唱える余地はございません。私は全力を挙げて、この帝国を豊かな国にしてみせましょう」

 課題その4。僕は、かねてから考えていた勅令案をゲルマノス総主教に提示した。その概要は、「帝国の領内に済みその支配を受け容れている者は、生まれや人種、宗教の別に関係なく、すべてローマ人であり、皇帝の臣民である。同じローマ人に対し、その生まれや人種、宗教などを理由とする差別的、侮辱的発言をしてはならない。このような行為を繰り返し行う者や煽動する者は、罰としてその舌を引き抜く」というものである。トルコ人の領土には結構な数のイスラム教徒が住んでいると推測されるので、そうした異教徒たちをスムーズに支配下へ組み入れるための配慮だ。
 これを見たゲルマノス総主教は、勅令案の趣旨に理解を示しつつも、こう意見を述べてきた。
「生まれや人種についてはまだ分かるのですが、宗教についてはかなり問題がございます。この勅令案ですと、ユダヤ人や異端者を非難することも処罰の対象になるのですか?」
「もちろん対象になるよ」
「正教の重要な教義の1つに、ユダヤ人たちはキリストの死に責任がある呪われた民族だとするものがありまして、そのような主張を烈火のように唱えたヨハネス・クリュソストモスという有名な聖人もおります。正教会は、ラテン人ほどにはユダヤ人を強く迫害しているわけではありませんが、それでも何か疫病や災害などが起こると、ユダヤ人のせいだと主張する聖職者などもおります。ユダヤ人への非難を慎むようにという程度ならともかく、ユダヤ人を非難すること自体を全面的に禁止し刑罰の対象にするというのは、正教会を敵に回すことにもなりかねませんぞ」
「何それ。もう正教会じゃなくて、邪教会とでも改名した方がいいんじゃない? あと、ヨハネスなんとかという奴は、聖人認定を取り消すべきだと思う」
「申し訳ありませんが、それは教会内部の問題ですので、いくら殿下のご意向でも教会に強制することはできません。それ以外にも問題がございます」
「どんな?」
「あと、帝国内にはボゴミール派という異端がおりまして、結構な数の信者がおります。彼らは武器を取って反乱を起こすことこそ無いものの、正教の重要な教義や聖職者制度をも批判しております。正教を国教とする我が国の立場としては到底容認できないものなのですが、殿下はボゴミール派の信仰も容認してしまわれるということなのですか?」
「反乱を起こすわけでもなく、税金もきちんと払うというのであれば、むろん容認する。そもそも、そんな宗派が広まること自体、この国の聖職者が相当堕落している証拠じゃないの? 僕の目的はローマ帝国を再興することであって、堕落した聖職者を擁護することではない」
「そう仰られると返す言葉も無いのですが、あとマンカファース派の扱いはどうなるのですか?」
「何それ?」
 ユダヤ人とボゴミール派は、僕が読んだビザンツ史の本でその存在を知っていたが、そんな宗派は聞いたことが無い。たぶん、こちらの世界にしかいない宗派だろう。
「マンカファース派というのは、フィラデルフィアとその周辺で広まっている独自の宗派です。もともと、フィラデルフィアは正教への信仰心が非常に強いことで知られている町だったのですが、テオドロス・マンカファースがあの町の支配者になると、なぜかマンカファースをキリストの再来として神のごとく崇めるようになりました。彼らは敬虔な正教徒を自称してはいるのですが、教会法に反して聖職者までが武器を取り、マンカファースのためなら死をも厭わない、恐ろしく狂信的な集団と化しています」
「具体的にどう恐ろしいの?」
「まるでラテン人の如く、異教徒は殺せと唱える連中であり、トルコ人でさえも恐れてあの町には近寄りません。マンカファースは以前皇帝を名乗って帝国に反旗を翻したことがあり、ヨハネス・ヴァタツェス将軍がその鎮圧に向かったのですが、ヴァタツェス将軍も彼らの狂信性には手を焼き、完全鎮圧を断念しマンカファースに皇帝を名乗ることだけは止めさせることで満足するしかありませんでした。帝国内では、彼らがトルコ人に対する防波堤になっていることもあり、正教の教えに照らせば明らかな異端ではあるものの、腫れ物には触らないというような扱いになっております。他の者がマンカファース派を非難するなという命令は受け容れられるでしょうが、マンカファース派に異教徒を非難するなという命令を出すのは、まず確実にフィラデルフィア全体を敵に回すことになるかと思われます」
 日本で言えば、織田信長を苦しめた一向宗に似たような存在なのか。
「・・・そんな宗派がどうして出来たの?」
「我々にもよく分かりません。フィラデルフィアの町には、最近は旅人や商人たちも恐れて近寄らないようになり、実情があまり伝わってこないのです。マンカファースは緑学派の神聖術士でもあるので、術を悪用して住民たちを洗脳したのではないか、あるいは大麻を使わせたのではないかなど色々な説がありますが、真相は未だに謎のままです」
 それは対応が難しいな。この国にそんな宗派がいるとは想定していなかった。
「・・・そもそも、マンカファース派はともかく、一般の正教徒はイスラム教徒をそこまで敵視しているわけではございませんので、ここまで過激な内容の勅令は必要ないかと思われます。それに、殿下のお気持ちは有難いのですが、私は田舎者呼ばわりされるのにはもう慣れておりますので」
 ゲルマノス総主教の諫言で自信を失くした僕は、結局原案どおりの施行は諦め、イスラム教徒やユダヤ教徒、ボゴミール派その他の異教徒に対する迫害を禁止する、ただし罰則については明記しないという勅令を出すことでお茶を濁した。それでも、国内のユダヤ人やボゴミール派は大喜びし、彼らは僕にとって重要な支持基盤の一つになった。

 課題その5。僕はある日、かねてからの疑問をゲルマノス総主教にぶつけた。
「この国の風呂というのは、男女混浴が当然なのですか? 実際僕が行ってみた各地の風呂屋は、どこも当然のように男女混浴だったのですが」
 僕の問いに、ゲルマノス総主教は顔を若干しかめて、こう説明してくれた。
「建前としては、男女混浴は法により禁止されております。しかし、風呂屋を経営する側としては、混浴の方が客の入りが良いので、あの手この手で禁令逃れをするのです。例えば、店内に小さく「午前は男性用、午後は女性用」という看板をつけておいて、取り締まりの役人が来ると『当店は禁令をきちんと守っている。客の方が守っていないだけだ』と主張したりするのです。歴代皇帝の中でも、男女混浴の取り締まりに積極的な方と積極的でない方がおられまして、たしか取り締まりに積極的だった最後の皇帝陛下は、100年以上前のカロヨハネス帝でしたな。それ以降の皇帝陛下は、この問題についてはほとんど放置されています」
「じゃあ、事実上男女混浴が黙認されているってこと?」
「限りなく黙認に近いのですが、定期的に男女別浴の定めがなされているかどうか、取り締まりだけは行われています。なお、教会側としては、事実上男女混浴の風呂屋における堕落を防止するため、風呂は身体を浄めるところであって快楽を貪るところではない、可能な限り風呂に入るべきではないと呼び掛けています」
 なんじゃそりゃ。日本にも意味のない規制とかは時々あったりするけど、この国のやっている規制はもっと意味が分からない。
「それって、風呂に入らなかったら汚いじゃない。疫病の心配もあるし」
「色々議論の余地はあると思いますが、現在帝国の実質的な統治者は殿下ですので、方針は殿下に決めて頂くしかございません」
 僕がどうするか決めなきゃいけないのか。疫病対策の問題があるので、入浴自体を止めさせるという方針は問題外として、具体的にどうするかな・・・。

(どれを選びますか?)

A 現状のまま放置する。
B 男女混浴の取り締まりを徹底した上で、入浴を奨励する。
C 思い切って男女混浴を正式に解禁した上で、入浴を奨励する。

 僕は少し悩んだ末に、結局Cを選択した。風呂でイレーネの裸を時々覗き見している人間に、男女混浴を取り締まる資格があるとは思えないし、現代日本と違い誰もが男女混浴を当たり前だと思っている世界において、そのような風習を是正するのは容易なことではない。
「誰も守る気がないのであれば、男女混浴を禁止する法はすべて廃止するものとし、男女混浴とするか別浴とするかは、各風呂屋の判断に委ねることにする。その上で、すべての帝国臣民は公衆衛生上の観点から、可能であれば毎日、最低でも週1回は風呂に入るか、風呂がない場合には水浴びその他の方法で身体を浄めるようにすること。違反に対する罰則は特に定めないが、注意書きとして正当な理由なく長期間風呂に入らず身体を不潔にしている者を発見した役人は、そのような者を注意すること、違反の甚だしい者については、帝国に疫病をばら撒く陰謀を企んでいる者とみなし、火あぶりの刑に処すことがある。他人に対し風呂に入らないよう呼びかける者についても同様である、と書き加えること」
 僕の決定を聞いた総主教は驚愕した。
「そ、そこまでやってしまわれるのですか・・・?」
「この方法が一番コストがかからない。無意味な取り締まりなんて止めてしまえ。僕は、国内の風紀を正すことなどに関心は無い。疫病発生の方がずっと怖い」
 ゲームでも疫病が発生すると、今までの内政が台無しになってしまうほどの重大な被害を受けることが結構あるのだ。疫病はある意味敵より怖い。
「分かりました。そのように致します・・・」
 僕としては正しい決断をしたつもりだったが、この決定は後に、僕が好色な人物だという評判を残す1つのきっかけになってしまった。なお、入浴料を払えない貧民への対策はどうしようかという問題も考えたが、ほとんどの風呂屋には有力者などの寄附に基づく無料入浴日があるということなので、対策はこれを補う小規模なもので済んだ。

課題その6。神聖術の修士課程に進んだ僕は、以前被害に遭ったスリとの決着を付けることにした。
 ニケーアの治安維持を担当するアスパイテス総督から話を聞いたところ、件のスリはニケーアでも有名な男で、非常にすばしこいため兵士たちが追いかけてもなかなか捕まえられないのだという。これを聞いた僕は、一庶民の格好でニケーアの町に出て、財布をこれ見よがしにチラ付かせながら歩いた。
 案の定、件のスリが僕の財布を持ち去っていったので、僕はそのスリを追いかけた。以前被害に遭った時は取り逃がしてしまったが、今の僕には神聖術がある。今ならあのスリは、神聖術の射程範囲内にいる。あのスリをどうしようか・・・?

(どちらを選びますか?)

A 「氷の弾」の術を放って、スリを一撃で殺す。
B 最近イレーネに教わった、推奨適性60の「麻痺」の術で、スリを動けなくする。

 僕はBを選択した。殺すことはいつでも出来るし、スリがどんな人物か見てみたくなったのだ。
 僕はスリに向かって、最近覚えたばかりの『麻痺』の術を発動し、スリは動けなくなってその場で転んだ。僕はすかさず、用意していた縄でそのスリを縛り、逃げられないようにした。作戦は大成功だったのだが、その男はよく見ると、見た感じ10歳前後の少年でしかなかった。術を解除して口を利けるようにしてやると、その子供は僕に向かって叫んだ。
「てめえ、汚い手使いやがって! お前何者だ!?」
「僕は、この国の摂政、ミカエル・パレオロゴスだ。名前くらいは聞いたことあるだろう」
 僕がそう言うと、その少年は急に怯えて、
「・・・お前が、あの犯罪者には血も涙もないって噂の魔王か!? 俺を殺す気なのか?」
 覚悟はしていたが、僕は町の人からそんな風に思われているのか。
「君を直ちに殺す気は無いが、殺されたくなければいくつか質問に答えてもらおう。まず君の名前は?」
「俺の名前はユダだ」
 キリストを裏切ったというあのユダか。悪趣味な名前だな。名前を付けたのはたぶん親だから、本人の責任ではないだろうけど。
「君の年齢は?」
「11歳だ」
「そんな年齢で、どうして今までスリなどやっていたの?」
「スリをやらなければ、俺と8歳の妹が食べて行けないからだ」
「君の両親はどうした?」
「親父とおかんは、とっくに病気で死んだ」
「孤児であれば、スリなどしなくても教会の孤児院に行けばいいんじゃない?」
「知らないのかお前!? 教会の孤児院へ送られた男の子供は、宦官にさせられるんだぞ! そんなところに行きたくねえよ!」
 何それ。この件については後でゲルマノス総主教に問い詰めるとして、法に基づいて処罰すれば、この子は右腕を斬り落とされる。しかし、この子供の生い立ちを聞くと同情の余地もあるし、この並外れた敏捷性、何か使い道はないかな・・・?
「大体事情は分かった、ユダ。法に従えば、君は窃盗の罰として右腕を斬り落とされることになるが、その刑を免除する機会を与えよう。君にはある仕事をしてもらいたい」
「どんな仕事だ?」
「ある人物を殺害する、とても危険な仕事だ。ただし、この仕事に成功したら、僕は君を家臣として召し抱え、スリなどしなくても、妹共々充分生活していける給料を与えよう。その後の働き次第では更なる出世も望める。仮に失敗し君が殺されたとしても、君の妹の生活は、僕が責任をもって面倒を見てやる」
「俺は、スリは得意だが、人殺しなんてやったことねえぞ。武器を触ったこともねえ」
「武器の使い方や戦闘術は、僕の部下に命じて君に教えさせる。訓練期間中、君と妹の生活については、僕が面倒を見てやる。その間、君の生活について心配する必要は無い」
「その訓練期間っていうのはどのくらいだ?」
「君の才能次第だが、大体2~3年を考えている。万一仕事に必要なレベルの武術が身に付かなかった場合でも、一兵卒としては雇ってやる」
「俺は、軍隊に入るってガラじゃないな。それで、俺がその暗殺に成功したら、いくらぐらいもらえるんだ?」
「一時金としてジェノヴァ金貨10枚」
「金貨10枚!?」
 ユダが驚くのも無理はない。現代の日本円に換算するのは無理だが、一庶民にとっては一生遊んで暮らせるほどの金額だ。帝国摂政である僕からすれば、ポケットマネーで十分出せる金額だけど。
「暗殺に成功しても君が生きて帰れなかったときは、代わりに君の妹にくれてやる。成功し戻ってきた場合、家臣としての最初の待遇は百人隊長クラスだ。妻を娶って家族を養うくらいのことは十分出来るぞ」
「それほどの金額を出すということは、相手はとてつもない大物なんだな?」
「そのとおり。名前は任務を与える時まで言えないが、とてつもない大物だ。腕も立つ」
「面白れな。その話乗ってやる。どのみち、腕を斬り落とされるのはまっぴら御免だからな」
 こうして、スリの常習犯ユダは、僕が教師として指名したアレスの指導下で、剣術や弓、短剣投げなどの訓練を受けることになった。僕の指示を受けたアレスは当初怪訝な顔をしていたが、間もなく「この子は規律の必要な軍隊にはあまり向かないが、武術の素質とやる気は十分ある」と報告してきた。8歳になるというユダの妹マルティナについては、オフェリアさんに預けて将来将軍や貴族のところへも嫁に行けるよう、十分な教育を与えるよう指示した。ユダが僕にとって使い捨ての駒になるか、それとも僕の右腕になるかは、彼の努力と運次第だ。

 後日談。ゲルマノス総主教に、この国の孤児院では本当に孤児を宦官にしているのか尋ねたところ、恐ろしい答えが返ってきた。
「確かに、そのようなことは度々行われております。わが国で宦官が多く使われていた時代も、孤児院は宦官の供給源の一つでした。近年では宮廷で宦官が高位の官職に就く例はほとんど無くなりましたが、教会では、例えば尼僧院の聴罪司祭は宦官でなければならないなど、宦官に対する一定の需要があります。昔のように栄達を望んで自ら宦官になる者が少なくなったことから、今の孤児院は昔以上に、宦官の重要な供給源になっているのです」
 あまりのことに、僕は返す言葉が見つからなかった。この国のあまりにも非人道的な風習をやめさせるには、やはりアトス山焼き討ちくらいの改革がどうしても必要になるらしい。

課題その7。ある日、僕は周囲から女の子として見られていないイレーネに、せめてその眼鏡だけでも取って街中を歩く訓練をしてみないかと薦めてみた。するとイレーネはこう答えた。
「これは眼鏡ではない」
「眼鏡じゃないっていうなら、その眼鏡みたいな形をしたそれは何?」
「これはビブリオケーテー。この世界に関するあらゆる知識と情報が内蔵されている」
 また新しい謎が出て来た。なお、ビブリオケーテーというのはギリシア語で『図書総覧』というような意味である。
「このビブリオケーテーは、言葉を発することも出来る。私がイレニオスと名乗っていた頃は、このビブリオケーテーに発言させていた」
 そう言われれば、以前のイレーネは今より声が低かったような気がする。
「まあ、そのビブリオケーテーに関する話は別途聞くとして、今のイレーネは僕以外の人には女の子に見えないらしいから、せめてそのビブリオケーテーを外してニケーアの町を歩く訓練をしてみない?」
「私は、別にあなた以外の男女にどう思われても私は気にしない。でも、あなたがどうしても私にその訓練をさせたいというのであれば、あなたの意思に従う」
 ・・・あんまりやりたくなさそうな雰囲気だが、イレーネがどんな反応を示すか興味があったので、ここは敢えて押してみることにした。
「どうしてもイレーネに訓練を受けて欲しいから、是非付き合って」

 こうして、イレーネは眼鏡もといビブリオケーテーを外した状態で、僕と一緒にニケーアの外れにある神聖術の専門店まで行くことになった。なお、ビブリオケーテーはイレーネが着ているローブのポケットに仕舞ってある。
「今から行く店は、神聖術の発動に必要な神具や、その材料の製造・販売を取り扱っている。店の歴代店主は、帝国からヘパイストスの家門名を授けられ、特権を与えられてその技術を代々受け継いでいる」
「へえ、かなり由緒ある店なんだ」
 イレーネが店について説明してくれるが、僕は話の内容よりも、イレーネが僕の腕にしっかりとしがみついて離れないことの方が気になっている。言葉は平静を装っているが、内心ではかなり緊張しているらしく、僕の腕にも心臓の激しい鼓動が伝わってくる。胸の膨らみはほとんど無いが、むしろ余計な脂肪がないせいで、イレーネの緊張ぶりはよりダイレクトに伝わってくる。イレーネの綺麗な素顔と女の子らしい甘い匂いは、僕をおかしな気分にさせてしまう。道を行く人の多くも、イレーネの美しい素顔に目を惹かれている。イレーネは、ちょっと磨けば光るダイヤモンドのような美少女なのだ。
 イレーネと2人で、物凄く長いようで短い時間を過ごした後、件の専門店に付いた。するとイレーネは素早くビブリオケーテーを掛け、僕の腕から離れて店員らしい娘の方へ向かった。
「いらっしゃいませイレーネ様、本日はどのようなご用命でいらっしゃいますか?」
 するとイレーネは無言で、棚に陳列されている商品のいくつかを指し示した。
「はいイレーネ様、このアメジストで男性用のネックレスをお造りすれば宜しいのですね。承りました。10分ほどで完成いたしますので、しばらくお待ちくださいませ」
 そう言って店員の娘は、材料を持って店の奥へと立ち去って行った。凄い。あの合図だけで注文の意味が分かるんだ。その後店の奥では、
「ほら店長、イレーネ様から仕事が来ましたよ! いつも店長がぐうたらで働かないから、この店潰れる寸前なんですよ! もう少しちゃんとしてください!」
 その後、店長らしき男が娘にお仕置きされて悲鳴を上げるなどのやり取りが繰り返された。どちらにせよ、ちょっと時間がかかりそうだったので、僕はイレーネと世間話をすることにした。
「イレーネ、この店ってよく来るの?」
「少なくとも月1度は来る」
「この店って、昔からニケーアにあったの?」
「以前は聖なる都の一角にあった。聖なる都の陥落に伴い、店長とあの娘が聖なる都を脱出してここに店を移した」
「あの娘って店長の奥さんか何かなの?」
「あの娘はただの使用人」
「ただの使用人の割には、店長さん以上に頑張ってお店を仕切ってるね」
 それ以上この店について聞きたいことも特に無かったので、僕は話題を変えた。
「ところでイレーネ、前に言っていた、僕の国が猫の支配する国に変わるって、具体的にどういう世界になるの?」
「その未来では、猫がそれまでの人間に入れ替わって、その国の住人になる。その猫は従来の人間より高い知性を持っているが、人間の持っているような悪徳は持たない。猫なので、寒い日は皆こたつの中で丸くなっている。そのような日は交通機関も役所もすべて休みになるが、誰も文句を言わない」
「なんか、すごくのどかな世界だね」
「確かに争いはない。のどかな世界」
「その世界では、人間はどうなっているの?」
「人間はいない。既に絶滅している」
 そう言われると、一転して何か怖い世界に思えてきた。
「一体どのような選択をすると、僕の国はそういう世界になるの?」
「詳細に説明すると長くなるが、根本的な原因は猫を単純に可愛いものと思い込み、可愛がり過ぎたことが原因」
 僕がもう少し突っ込んだ質問をしようとしたところ、店員の娘がネックレスを抱えて戻ってきた。
「イレーネ様、お待たせいたしました! ご注文のネックレスでございます」
 イレーネが無言で料金を支払うと、店員の娘は実に愛想よく挨拶した。
「いつも当店のご利用ありがとうございます。またのご利用を心よりお待ちしております」

 イレーネは店を出るとき、再びビブリオケーテーを外し、僕の腕にしがみついてきた。また物凄く緊張している。店内にいるときは平静そのものだったのに、素顔になるとそんなにも不安なのかな。僕はイレーネと一緒に帰り道を歩きながら、声を掛けてみた。
「イレーネ、素顔だとそんなにも不安なの?」
 するとイレーネは顔を赤く染めながら、ぷるぷると首を横に振った。違うらしい。普段は某宇宙人みたいに無表情を貫いていることの多いイレーネが、こんな可愛い素振りを見せるのは初めて見た。可能であれば写真でも撮っておきたい。
 不安でないのであれば、どうしてイレーネが物凄く緊張しながら僕の腕にしがみつき、まるで自分の胸を僕に押し付けるかのようにしているのか、僕には全く理解できなかった。イレーネはその正体も行動原理も、本当に謎だらけである。
 宮殿の前まで付くと、イレーネは再びビブリオケーテーを掛け、いつもの平静無表情スタイルに戻った。そして、その場でネックレスに、まだ僕が教わっていない神聖術らしきものを掛けた。
「それは?」
「アメジストをはじめとする宝石や貴金属には、恒久的な効力を発揮する神聖術の力を籠めることができる。今、このアメジストに掛けた神聖術は、装備した者に高度の物理防御力と魔法防御力をもたらす。このネックレスを装備していれば、通常の人間や術士の攻撃では傷一つ付けることができない」
「凄い効力があるんだね」
 僕が相槌を打つと、イレーネは無言でそのネックレスを僕に差し出した。
「僕にくれるの?」
「このネックレスはあなたの護身用。あなたに万一のことがあったらこの帝国は滅びる。耐水性もあるので、入浴時や就寝時も含め常時付けておくことを推奨する。この帝国には、入浴時や就寝時、更には用便中に殺害された皇帝もいる」
 怖い世界だな。特に用を足している最中に殺害されるなんて、そんなみっともない死に方は嫌だ。
「ありがとう、イレーネ。特訓に無理やり付き合わせてしまった上に、こんなプレゼントまでくれて」
 僕がそうお礼を言うと、突然何やら男っぽい声が聞こえてきた。


「分かってねえな、あんちゃん。この初心な娘っ子は、あんちゃんと子作りしたいんだぜ。お礼は言葉じゃなく、身体でするのが礼儀ってもんでさあああああ、何をする~、暴力反対~!」


 イレーネは、急に顔を真っ赤にして、ビブリオケーテーを外しお仕置きとばかりに踏みつけ始めた。どうやら、あの下卑た男っぽい声は、あのビブリオケーテーが発した声らしい。それに、あそこまで感情をむき出しにしたイレーネも初めて見た。あまりの事態にどう対応してよいか分からなくなった僕は、黙ってネックレスを装備してその場を離れた。ビブリオケーテーの発言については、とりあえず聞かなかったことにしよう。

 その後、僕がソフィアと打ち合わせをしていると、何やら走る音が聞こえてきた。宮殿内の廊下を全力ダッシュする躾のなっていない人間は、この宮殿内には例のテオドラしかいない。こうやってテオドラが僕の部屋に飛び込んでくる時、彼女はご挨拶とばかりに意味もなく物理攻撃を仕掛けてくることが多いので、僕は身構えた。
「みかっち、あんた可愛い男の子とあぎゃああああああ!?」
 テオドラが、僕にエルボー技を掛けようとしたところ、ネックレスに攻撃を弾き返されて腕を骨折してしまったらしい。僕は素早くテオドラに『治療』の術を掛けた。
「ありがと、みかっちって、一体なんなのよ今のは! どこでそんな反則技身に付けたのよ!?」
「これはイレーネにもらった護身具の効果だよ。反則技なのは、むしろテオドラの方じゃない?」
「なんでイレーネがあんたに、そんな強力な護身具渡すのよ!?」
「いや、僕が暗殺されたり万一のことがあったら大変だからとか言って、作ってその場でくれた」
「まあいいわ。それよりみかっち、あんたさっき、可愛い男の子と一緒に町を歩いていたんだって?」
 僕にそう聞くテオドラは、なぜか目を輝かせている。僕は可愛い男の子とやらに心当たりがなかったので、とりあえずこう答えた。
「僕はさっき、イレーネと一緒に買い物に行ってきたんだけど。ひょっとしたら、それを見た人がイレーネと男の子と勘違いしたんじゃない?」
「なんだ、イレーネか、つまんない~。まあいいわ」
 そう言ってテオドラは帰っていった・・・と思いきや、全力ダッシュで再び戻ってきた。さすがに、あの骨折は応えたらしく、今度は物理攻撃らしきことはしてこない。
「って良くないわよ! みかっち、なんであんた、勝手にイレーネとデートしてるのよ!?」
 あれはデートなのか? 何となくそれっぽい雰囲気もあったが、あまりにも奇妙なことが多すぎて、あまりデートという感じはしなかった。むしろ、ひらすら奇妙な世界を体験させられたという感じだ。
「別にデートというわけじゃなくて、単に一緒に買い物に行っただけだって」
「それをデートっていうのよ! そういうのはまずあたしと一緒に行きなさいよね! 最近、みかっちはあたしの奴隷だってことを忘れてるんじゃないかと思うわ」
 テオドラはそれだけ言って、ぷんすか怒りながら帰っていった。

 結局のところ、僕がイレーネを女の子らしく見せようという作戦は失敗に終わった。僕以外の人間には、素顔になったイレーネがなぜか「可愛い男の子」に見えてしまうらしい。どうやら、問題はビブリオケーテーではなく、あの黒いローブにあるらしいが、あのローブに代えて可愛い服を着せると、おそらくイレーネはまた気絶してしまう。困ったもんだ。
 そして僕には、結局整理できない不可解な思い出と、超強力な護身用のネックレスだけが残った。

課題その8。ある日、僕が午前の政務を終えて部屋に戻ったところ、マーヤが出迎えてくれた。今日はマリアがお休みの日ではないはずだ。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「マーヤ、マリアはどうしたの?」
「マリアは、買い物からまだ戻っていません。あの子のことですから、また迷子にでもなったのではないでしょうか」
「またって、マリアはそんなにしょっちゅう迷子になるの!?」
 このニケーアの町は、城壁内に狭い道が入り組んでいる区域があるものの、面積は狭く、それほど迷子になるような場所とは思えない。
「はい。あの子は宮廷内では「ドジっ子マリア」と呼ばれておりまして、外に行きますと、いつも信じられないような場所で迷子になって泣いているのです。服装から宮殿仕えのメイドだということは分かりますから、放置しておけば誰かが宮殿に連れて来るなり通報するなりしてくれます。最近はいちいち探しに行くのも面倒なので、勝手に戻ってくるまで放置することになっています」
 僕はその話を聞くや否や、急いで宮殿から飛び出しマリアを探しに行った。捜索にはある程度時間がかかると思っていたが、最初の小道に入ったあたりで女の子がしくしく泣いている声がした。あれは間違いない、マリアの声だ。僕が泣き声の聞こえる方向へ進んでいくと、案の定マリアだった。
「マリア、こんなところでどうしたの?」
「ご主人様!? うう、帰り道が分からなくなってしまったのです~」
 こんな、宮殿から大して離れていない場所で迷子になるとは、ある意味凄い迷子スキルだ。
「マリア、帰り道が分からなくなったときはね、こんな狭いところじゃなくて、広い通りに出ればいいんだよ。広い通りに出れば、宮殿の建物が見えるから、そこに向かって帰ってこればいいんだから」
「・・・そうなのですか?」
「そうだよ。僕に付いておいで」
 僕はマリアを連れ、数分もしないうちに宮殿の入口までたどり着いた。
「ほらね」
「ううう、やっぱりマリアは駄目な子なのです・・・。こんな道さえも覚えられなくて、買い物さえも満足に出来なくて、ご主人様にも迷惑をかけてしまうのです・・・」
 マリアはそんなことを言いながら、また泣いて落ち込んでしまった。

 マリアはその後仕事に戻ったが、明らかに自信喪失状態になっているマリアを何とかしたいと思い、オフェリアさんのところへ相談に行った。
「マリアはいつもあんな感じなんですよ。頑張ろうという気持ちだけはあるのですが、その気持ちだけが先走って結果が付いてこないんです。買い物もマリアには向かないと止めているのですが、買い物くらい頑張ってこなせるようになってみせるのですなどと言って、その度に迷子になるのですよ。もう、みんな呆れ返っています」
「・・・僕に何か出来ることはないでしょうか」
「一番有効な方法が1つありますわよ」
「どんな方法ですか?」
「今夜からでも、マリアと子作りの練習を始められることです」
「・・・なんでそうなるんですか?」
「マリアは、殿下付きの主任メイドです。当然、メイドが若い殿方にお仕えすれば、性欲を持て余したご主人様にあーんなことやこーんなことを一杯されて子供も出来てしまうので、主任メイドには他の者より高い給金を出しているのです。でも、マリアはその仕事を全然果たせていないので、周囲から白い目で見られて落ち込んでいるのです」
「・・・別に、そっちの方面もちゃんと仕事をしてくれていると思いますけど」
「あんなのは仕事のうちに入りません! あの刑だって、私が頑張って後押ししてようやくそこまで漕ぎつけたんですから。殿下をその気にさせるためにエッチなマッサージをして差し上げなさいとアドバイスしたら、頑張って普通のマッサージをして仕事をした気になってしまいますし、一緒に裸になって添い寝して差し上げなさいと言っても自分からは出来ませんし、一緒にお風呂に入るのも恥ずかしくて出来ないと言いますし・・・」
 僕の知らないうちに、そんなやり取りが続いていたのか。
「別に、女の子として僕の前で裸になるのが恥ずかしいというのは、普通のことじゃないかと思うんですけど・・・?」
「普通じゃないですよ。大体の女の子は、その気になれば処女でもさりげなく裸になって『私と気持ちいいことしませんか?』くらいの誘惑は出来ます。マリアだけでなく、マーヤもソフィアもそういう方面は苦手のようで、他の子の中には『マリアが殿下を誘惑できないなら、私が殿下の主任をやりたいです』と言い出す子もいます。殿下はマリアがお気に入りのようなので、そういう声は私の方で抑えているのですが、これ以上子作りが遅れるようだと、もっと積極的な娘に主任を代えることも考えなければなりません」
「僕の子作りって、そんなに急がなければいけないことなんですか!? 僕はまだ16歳ですよ!?」
 正確には、日本では16歳の誕生日まであと1か月ちょっとあるのでまだ15歳だが、この世界に来て1年以上経っているので、実質的には17歳という考え方もあり得る。自分が何歳なのか考えていると面倒になるので、ここではその問題は措いておく。
「まだ、じゃありませんよ。普通、子作りの練習は、殿方が15歳になったらすぐに始めるものです。むしろ、15歳まで我慢できずに始めてしまう殿方もおられます。殿下は深刻な心因性インポテンツのようなのですぐに子作りを始めろとまでは申しませんが、せめてもう少し積極的になってくださいませ」
 ・・・僕に子作りさせることしか考えていないオフェリアさんにこれ以上相談しても無駄そうだったので、僕はマリアのいる自室に戻った。
「あ、ご主人様、お帰りなさいなのです!」
 マリアがいつもの笑顔で迎えてくれる。マリアと子作りをするわけには行かないが、決して手放したくはない。何か、マリアに取り柄があり、他のメイドたちを納得させることが出来れば、この子も自信が付くと思うのだが・・・?
「マリア、突然で悪いけど、君の得意なことって何かある?」
「私の得意なことですか? ・・・得意というほどではないですけど、お料理を作ることは割と好きなのです。でも、この宮殿ではお料理を作るのは専門のシェフさんの仕事なので、私にはやらせてもらえないのです」
 そうなのか。専門のシェフという割には、この宮殿の料理はまずくて、僕は「どうせまずい食べ物しかないならいっそのこと兵士たちと同じ食事を出してくれ」と注文を出したため、最近この宮殿の料理は食べていない。
「それなら、僕が特別に許可を出すから、マリアの料理を僕や皆に食べさせてくれない?」

 こうして、その日の夕方、僕はマリアが作った手料理を食べることになった。・・・美味しい。特に贅沢な素材を使っているわけではなく、日本でもあるような普通の肉や魚、野菜を使った料理だけど、絶妙な味付けの加減というものがちゃんと分かっている。贅沢な素材を使って、高価な調味料をたくさん使いさえすればいいと思っている、いつものシェフとはえらい違いだ。僕はこの世界に来て、初めて「美味しい」と思える食べ物を食べることが出来た。
「・・・ご主人様、私の料理はどうですか? やっぱり美味しくないですか?」
「そんなことないよ! むしろ、マリアの料理は今まで食べた中で一番美味しい!」
 オフェリアさんや他のメイドさんたちも、マリアの料理には感銘を受けたようで、以後僕の料理は主にマリアが作るようになった。これにより、マリアの立場と、この世界における僕の食環境は大幅に改善されることになった。

第12章 テオドラの招待

 この冬にあった出来事はまだある。ある日、僕の部屋にまだ10代前半くらいの少女が訪ねて来た。いつものメイドさんとは服装も違うし、初めて見る顔だ。
「殿下、お初にお目にかかります。私、侍従長オフェリアの娘で、ソーマと申します。テオドラ皇女様付きの女官を務めております。よろしくお見知りおきくださいませ」
 ソーマと名乗った娘は、まだ年頃ではないが、十分に可愛い子だった。
「よろしく、ソーマ。オフェリアさんにこんな可愛い子がいるなんて知らなかったよ」
「そ、そんな、可愛いだなんて、私には過ぎたるお言葉です」
 そう言って謙遜するソーマだが、見た目だけでなく礼儀も正しく、万人受けするタイプの可愛らしさである。僕基準で見ても、マリアとイレーネの次くらいには可愛い。
「それでソーマ、テオドラ付きの女官なのに僕のところへ来たということは、何か用?」
「はい、テオドラ皇女様から、殿下を皇女様の部屋にご招待したいとの言伝をお伝えに参りました。本日午後になりましたら、皇女様のお部屋へ来て頂いても宜しいですか?」
「分かった。テオドラには午後になったら行くと伝えておいて」
 僕がそう答えると、ソーマは丁寧にお辞儀をして去っていった。

 僕がこの世界で暮らし始めて1年を過ぎているが、宮殿のうちテオドラが居住している区画の方には行ったことが無い。それにあのテオドラのことだ、僕を普通に招待するはずがない。爆裂皇女とあだ名されるテオドラの性格から考えれば、例えば途中に毒の沼地とか落とし穴とかが仕掛けてあったとしても、何ら不思議ではないのだ。
 何となく気味が悪くなった僕は、ソフィアに相談した。
「テオドラ様のお部屋へご招待されたのですか? それならば私がご案内申し上げますが、皇女様は悪戯好きなのでご注意くださいませ。現在、この宮殿でお暮しの高貴な方はイサキオス帝と殿下、テオドラ皇女様とイレーネ様、プルケリア様ですが、テオドラ様付きの仕事が一番大変で、他の担当に代えてくれと泣きつく女官たちが後を絶ちません」
「そんなに大変なんだ。ちなみに他の人の担当はどんな感じなの?」
「今のところ、プルケリア様の担当が一番楽だと言われています。プルケリア様は常識的なお方で、女官たちにもお優しくて人気があります。他は一癖も二癖もある御方ばかりですから」
「どう大変なの?」
「まずイサキオス陛下ですが、眼がお見えにならないため生活全般にわたって介護が必要です。その上、すでに子作りをする力はないのに性欲だけは残っておられるらしく、目も見えないのに女官たちの胸やお尻を触ろうとしてきます。陛下付きの女官は、わざわざ陛下の手を導いて触らせてあげなければならないのです」
「それは確かに嫌な仕事だね」
「次にイレーネ様ですが、あの方は普段一言も喋ろうとはなさいません。指示は指をちょこっと動かすだけです。イレーネ様担当の女官には、イレーネ様の指でなさる指示を的確に読み取り、素早く対応する能力が必要です」
「イレーネは、僕の前ではちゃんと喋ってくれるけど?」
「おそらく、イレーネ様にとって殿下は特別な存在なのですよ。女官たちのほとんどは、まともにイレーネ様の声を聞いたこともございません」
 あの専門店で、イレーネは無言で注文を出していたけど、普段はいつもあんな感じなのか。アイゼナッハさんみたいな人なのか、イレーネは。
「それで僕の担当は、どういう風に評価されているの?」
「殿下の担当は、女官たちからすれば一番の出世コースなので非常に人気があるのですが、イサキオス陛下とは反対に、まさに子作り適齢期で精力も旺盛なのになぜか子作りを嫌がられ、女官たちの胸やお尻を触ることもなさいませんので、どうやって殿下をその気にさせれば良いのか、皆気を揉んでおります。一晩だけ殿下とマリアがいい感じにくっついたかと思ったら、裸で一晩ベッドを共にしたのに子作りどころかエッチな悪戯さえもなされず、次の日以降はまた元に戻ってしまわれましたし、私も殿下のお側にいるくせに手を付けて頂けないのは私に魅力がないせいだとか、他の女官たちから嫌味を言われたりします。私としては政務のお手伝いもさせて頂いておりますのでやりがいはございますが、結構大変なお仕事でございますよ」
「・・・結局その話に行きつくわけね」

 その日の午後、僕はソフィアに案内されてテオドラの部屋へ向かったが、ある角を曲がった瞬間、何者かに思いっきりぶつかり、僕はぶつかった勢いで押し倒されて、顔に柔らかい何かを押し付けられて呼吸ができなくなった。僕とぶつかったのは女の子らしく、何やらキャーキャーと喚いているが、僕の眼前にあるものは、たぶんその娘のお尻だ。だとすると僕の目の前にある赤いものは・・・?
 僕がもがきながら動揺していると、ようやくその娘は腰を上げ、僕と対面することになった。その娘は、見た目はそこそこ良かったが、何となくわざとらしい演技で、僕にこんなことを言ってきた。
「で、殿下ですね? 殿下はルミーナの、大事なところを見ちゃったのですか? く、くれぐれもルミーナに変な気を起こさないでくださいね? 殿下にその気を起こされたら、ルミーナは抵抗せず言われるがままにいやらしいことをされるしかないんですからね? それでは殿下、ルミーナは殿下がお越しになりましたと皇女様にお伝えしてきます」
 勝手に言いたいことを言って、ルミーナは行き先の方向に走り去っていった。思わぬ形で、女の子の大事なところを物凄い至近距離で見てしまったが、一体今のはどういう事故だったのだろう?
「殿下、大丈夫でございますか? あのルミーナは魔性の女です! 殿下もお気をつけ下さいませ」
 ソフィアが駆け寄って来た。魔性の女ってどういうことなんだろう。
「ルミーナってどんな子なの?」
「ラスカリス将軍の娘で、年齢は私と同じなのですが、淫乱で下品で、かつ目的の為なら手段を選ばない女です。テオドラ皇女様とはなぜか気が合うらしく、現在皇女様付きの主任女官を務めているのですが、まさか出会い頭にあんな破廉恥なことをしてくるとは」
「破廉恥って、僕は今の事故で何が起こったかいまいちよく分からないんだけど」
「殿下、今のは事故ではございません。あの女の策略です。私は殿下の少し後ろで見ておりましたが、あの女は殿下が来るのを見計らって、偶然を装ってわざと殿下にぶつかり、殿下を押し倒した挙句に自分のスカートをたくし上げて殿下の顔に自分の尻を押し付け、わざとらしく悲鳴を上げながら殿下を誘惑していたのです。私はあまりのことに、声を挙げることすらできませんでした」
「そ、そんなことをして、あの娘に一体何の得があるっていうの!?」
「殿下の初めては、私を含めてどの女官も欲しいですからね。一般に若い貴族の殿方は、見境なく女性に手を出すのが当然ですが、大体最初に子作りの相手を務めた者は『お嫁さん』と呼ばれ、例外もありますが特別な寵愛を受ける場合が多く、運が良ければ結婚相手に選ばれることもあります。ルミーナは両親の意向もあって殿下のご寵愛を狙っておりますから、数少ないチャンスにああいうとんでもないことを平気でやってくるのです。殿下は、テオドラ皇女様、イレーネ様以外の者であれば誰に手をお付けになっても許される立場にありますが、あのルミーナだけはお勧めできません。あのような女を殿下の側に置くようなことがあれば、きっと後悔なされます」
 ソフィアが、なぜルミーナをそこまで悪く言うのか僕には理解できなかったが、ソフィアの説明には恐怖を感じた。僕の貞操って、そんな物凄い勢いで狙われているの?
「ということは、他の子も機会があればあんなことをしてくる可能性があるの?」
「あると思ってくださいませ。殿下の前では、大半の女の子は淫売になってしまうのです。特に尼僧院などに行かれたら大変なことになりますよ」
「尼僧さんって、会ったことあるけど、僕には普通に親切にしてくれたよ? それに、あの人たちは神に貞潔を捧げた身だから、そういうことには興味ないんじゃないの?」
「尼僧を侮ってはいけません。彼女たちは、神と結婚した身であるとして、男性と関係を持つことを禁じられていますが、必ずしも自分の意思で尼僧院に入った者ばかりではございません。持参金節約のためとか、一族に霊的恩恵を与えるためとか、あるいは他に生活できる場所がないなどの理由で、不本意ながら尼僧院に入った娘も少なくありません。また、自分の意思で尼僧院に入った娘であっても、身体が成熟してくることは抑えられません。彼女たちの大半は、自らの肉欲を持て余しているのです」
「はあ」
「尼僧院に男が入ってくるのは、普段は聴罪司祭くらいなのですが、司祭に完全な男を入れてしまうと、尼僧院はたちまち、その男のハーレムになってしまいます。また、殿下のような国を治める立場の者は神様と同様ですから、そのような御方と関係を持っても処罰されません。若くて可愛らしく、その上『神の遣い』とされている殿下が尼僧院に参られることなど、狼の群れに羊を放つようなものです。くれぐれも尼僧院に行かれることはなさいませんよう」
「・・・そんなこと言われても、僕はもう尼僧院の常連さんだよ? 今更行くなと言われたって、とても我慢できないよ!」
「そ、そうなのですか!? 殿下はもう、私たちも知らない間に、ニケーアの尼僧院をご自分のハーレムにされてしまっていたのですか? ですから私たちに興味を持たれないのですか!?」
「・・・何を言っているんだよ、ソフィア。君は重大な勘違いをしているよ」
「どう勘違いをしていると仰せですか?」
「僕が尼僧院に行っているのは、尼僧院のオルガンを弾かせてもらうため。僕はエレクトーン・・・といっても分からないか、僕の国のオルガンに似た楽器の演奏を小さい頃から習っているから、最低でも週に1回はオルガンを弾きに行かないと、指が悲鳴を上げるんだよ。ちなみにこの前行ったときはオルガンの弾き歌いをしてね、順に『時代』『わかれうた』『うらみ・ます』『世情』『夜を往け』『やまねこ』『ダイアモンド・ケイジ』の夜会バージョン、『命の別名』『後悔』『夜行』『銀の龍の背に乗って』『ピアニシモ』『真夜中の動物園』『人生の素人』、最後は『慕情』で締めて、久々に憂さ晴らしが出来たよ」
 なお、全部中島みゆき様の歌なのは、単なる僕の趣味です。気にしないでください。
「・・・よく分かりませんが、単にオルガンを弾いて歌を歌われていただけなのですか?」
「そうだよ。オルガンのある教会や修道院に行っても断られるけど、尼僧院だけはなぜか好きなだけ使ってくださいと言ってくれるんで」
「そういうことだったのですね。まあ、殿下ですとその問題はなさそうですが、彼女たちの下心は隙あらば殿下と子作りに及びたいので、親切にしてくれるということです。私どもがミニスカートまで履いて陛下を誘惑しているのにあまり効果が無いのですから、黒い修道服を着なければならない尼僧たちに勝機はございませんわね」
 ・・・効果はあるよ。毎日ミニスカートで誘惑され続けている上に、最近は裸で『ごしごし』までされているんだから、僕の理性はもう陥落寸前だよ。ソフィアには口に出しては言わないけど。

 ソフィアとそんなことを話しつつテオドラの部屋へ向かっていると、今度は別の女の子に出会った。顔立ちはテオドラに何となく似ているけど、年齢は10代前半くらい。服装は白を基調とした、ファンタジー世界に出てくる女僧侶みたいな感じ。胸に十字架のネックレスを下げている。
「ソフィア、あれも尼僧さん?」
「いえ、あれは尼僧の服装ではありませんね。本物の尼僧は白ではなく、黒い修道服を着なければならないはずです」
 そんなことを話しているうちに、その少女は僕に話し掛けてきた。
「貴方が、大魔王ミカエル・パレオロゴス様ですね? あなたの身体は、禍々しい妖気に満ちています。この聖女テオファノが、貴方の妖気を打ち払って差し上げましょう」
 そう言うと、テオファノと名乗った少女は、何やら意味ありげに腕を振り上げ、何やら呪文らしきものを唱え始めた。僕に神聖術をかけるつもりなのかと思ったが、最後に「えいっ!」と声を挙げた後、僕の身体には何の効果も発揮しなかった。イレーネにもらったネックレスのせいではなく、そもそも神聖術ですらなく、何やらそれっぽい振りをしているだけのようだった。
「邪悪な妖気は去ったようですね。それでは失礼致します」
 テオファノはそれだけ言い残して、静かに立ち去って行った。
「・・・何、あの子?」
「テオファノ様は、たしかテオドラ皇女様の妹君です。私も、お会いするのは今回が初めてですが」
「言動も変だけど、名前も縁起が良くないね」
 テオファノという名前は、本来『神の輝き』を意味する良い名前なのだが、皇帝ニケフォロス・フォカスの暗殺に関与したビザンティン帝国史上稀代の悪女・テオファノ皇后が出て以来、テオファノという名前はあまり使われなくなっている。共和制時代のローマには、『勇敢な者』を意味するネロという名前の人物が何人も出てくるが、帝政時代に入って稀代の暴君ネロを出して以来、ネロという名前が急に使われなくなったのと同様の現象である。敢えてそんな縁起の悪い名前を付けること自体、誰だか知らないが命名者の悪意を感じる。
 テオファノが一体何をしに来たのかよく分からなかったが、ようやくテオドラの部屋の前までたどり着いた。
「殿下、テオドラ様のことですから絶対何かありますわよ。気を付けてくださいませ」
「分かった。気を付ける」
 僕は何があっても驚かないようにと覚悟を決めて、テオドラの部屋にノックをした。
「ミカエル・パレオロゴスです。入っても宜しいでしょうか」
「ああ、みかっちね。入っていいわよ」
 テオドラの声に促されて僕がドアを開けると、

「ウオオオオオオオオン!!!」
なんと目の前に大きな雄ライオンがいて、大きな咆哮を上げていた! あまりのことに僕が腰を抜かしてしまうと、
「あははははは、ドッキリ大成功! ただの猫に驚いて腰を抜かしてるみかっちの間抜けな顔、久しぶりに笑ったわ!」
 そんなことを言って大笑いしているテオドラ。僕は、目の前のライオンに襲ってくる意思がなさそうなことを見て取ると、テオドラに抗議した。
「どこがただの猫だよ! どう見てもライオンじゃないか!」
「よく見なさい。ただの猫よ」
 テオドラがちょっと腕を振ると、ライオンの身体はみるみる小さくなった。毛並みは何となくライオンっぽい感じがする、これまで見たことのない種類ではあるが、これは確かにただの猫だ。
「その猫はね、レオーネっていうの。可愛いでしょう?」
「まあ、こうしてみると確かに。でも、今のは神聖術の一種?」
「そうよ。あたしが独自に開発した、『変化』の術。凄いでしょう?」
「確かに凄いけど、確か君の学派って、攻撃以外の目的で神聖術を使うのは邪道なんじゃ」
「みかっち、細かいことを気にする男って、女の子にもてないわよ」
 テオドラに僕の突っ込みを遮られた。そうだった、テオドラの辞書に『一貫性』の言葉は存在しないんだった。突っ込んでも無意味である。
 その後、ルミーナ、ソーマ、テオファノが部屋に入ってきて、それぞれ僕に挨拶した。中でもソーマは非常に申し訳なさそうに、「殿下を皇女様の悪戯に付き合わせてしまい、大変申し訳ございません」と謝ってきたので、僕は「ソーマ、別に気にしなくていいよ」と答えたところ、テオドラから妙な注意を受けた。
「みかっち、ソーマちゃんに対する礼儀がなってないわ! ソーマちゃんのことは、しっかりちゃん付けで呼びなさい。いいわね?」
「分かったけど何、その謎ルール!?」
 その後、僕とテオドラ、ソフィア、ルミーナ、ソーマちゃん、テオファノを交えて談笑が始まったが、理由こそ分からないものの、みんなきちんと「ソーマちゃん」と呼んでいる。確かにソーマちゃんはこの中で一番可愛いから、ちゃん付けで呼ぶこと自体にあまり抵抗はないけど、なぜそういうルールになったのかはちょっと気になる。
 『女三人寄れば姦しい』という言葉があるけど、女の子が5人もいるなかで男が僕1人では、姦し過ぎてとても会話について行けない。特にルミーナとソフィアは仲が悪いらしく、ルミーナがソフィアを「頭でっかちで、首から下は役に立たない女」などと馬鹿にし、ソフィアがそれに反論したりしていた。僕は会話に混ざるのを諦めて、膝に乗ってきたレオーネの頭を撫でていた。ふとしたことで僕が撫でるのを止めると、レオーネは僕に向かって抗議の鳴き声を上げ、僕にもっと撫でろと要求してきた。・・・いや、僕に猫の言葉が分かる特殊能力があるわけじゃなくて、長年猫を飼っていると、そのくらいのことは雰囲気で分かるようになるんです。
 その様子を見て、テオドラが大笑いした。
「見て、レオーネは、みかっちより自分の方が上だと思ってるのよ! この国で一番偉いのはあたし、次いでレオーネ、その間に越えられない壁があって、そのはるか下にあたしの奴隷のみかっちがいるってわけね。ああおかしい」
 テオドラに笑われて僕が微妙な気分になっていると、部屋の中にネズミが現れた。この宮殿ではよくあることなので、僕も含め誰も驚かない。レオーネは直ちにネズミを追いかけ、見事に捕食した。
「この国の猫って凄いね。ちゃんとネズミを捕れるんだね」
 僕がレオーネに感心していると、テオドラが怪訝な様子で尋ねて来た。
「何言ってんのよみかっち。猫がネズミを捕れるのは当たり前じゃないの。ネズミくらい捕れなくて一体何のための猫なのよ?」
「いや、僕の飼っている猫はウランって言うんだけど、ウランはネズミを捕るどころか、ネズミを見ると怖がって逃げ出しちゃんだよ」
 ちなみに、ウランはこの世界ではなく、日本で僕が飼っている猫である。この宮殿にある僕やマリアの部屋にもネズミ捕り用の猫が2匹おり、雄猫の方はライアン、雌猫の方はバーネットと名付けているが、もちろんライアンやバーネットはきちんとネズミを捕ってくれる。
「何、その使えない猫? 何のために飼ってるのよ」
「・・・一応愛玩動物というか、家族というか、そんな存在だけど」
「みかっちはそんなんだから、猫に甘いのね。猫っていうのはこういう風に躾けるのよ」
 そう言うと、テオドラはネズミを食べ終わったばかりであるレオーネの首を引っ掴み、いきなりベッドに向かって投げ飛ばした。ベッドに叩きつけられたレオーネは尻尾を大きくして「シャーーー!」と威嚇の声を挙げるが、その後もテオドラの容赦ない猫いじめは続き、ついにレオーネもテオドラへの抵抗を諦めて屈服した。酷いことやるなあ。そこで僕はふとあることに気が付いて、
「ところで、今日テオドラが僕をこの部屋に呼んだ理由って何?」
「ああそれね。みかっちをからかうためという理由もあるけど、1つはこの子たちの紹介。みんなあたしの弟子で、テオファノは適性91、ルミーナは適性87、ソーマちゃんも適性が85あるの。あと数年もすれば、みんなきっと立派な赤学派の術士に育つわ。あと2人揃えれば、あたしを支える四天王が揃うわね」
「もう3人いるんだから、あと1人でいいんじゃない?」
「何言ってるのよ。テオファノはあたしにとってたった1人の妹だから、別格よ」
「・・・イサキオス帝の娘って、テオドラを含めて24人いるんじゃなかったっけ?」
 僕がそう疑問を呈すると、テオドラに代わってソーマちゃんが説明してくれた。
「テオファノ様は、テオドラ皇女様と同じカタリナ様の産んだ子なので、別格扱いなんです。私も一応イサキオス帝の娘ではありますけど、母のオフェリアはカタリナ様より身分が低かったので、同じ皇女でも扱いは違うんですよ。ちなみにテオドラ様の数え方に従いますと、私が第23皇女、テオファノ様が第24皇女になります」
「ああ、そういうことね」
 一応皇女を名乗れる立場にありながら、テオドラ付きの女官という地位に甘んじているソーマちゃん、実に健気だ。確かにちゃん付けで呼ばれるくらいの特典はあってもいいような気はする。
「要するに、テオドラの側近になる将来の女性術士たちの紹介ってわけね。名前は覚えておくよ。それで、もう1つの用事は何?」
「あたしはね、新作小説の執筆を始めたのよ。それをみかっちに読ませてあげようと思ってね」
 テオドラから渡された本には、『聖なる愛の物語』という題名が付されていた。俗語で書かれているので、僕でも一応読める。どうやら僕を主人公にした小説らしく、僕が『神の遣い』としてニケーアに降臨した後、最初の戦いで僕が泣き顔になりながら危険な囮役の任務をなんとか果たした後、僕はテオドロス・ラスカリスに慰められ、僕はその場でテオドロスに押し倒されて彼の愛を受け止め・・・って、
「これって、要するに僕たちをネタにしたBL小説だよね!? テオドラってそういう趣味もあったの!?」
 考えてみれば、僕とパキュメレスの仲を聞いてきたり、僕が可愛い男の子と一緒に歩いているという話を聞いて飛びついてきたり、今までもそういう兆候はあったけど・・・。
「そういう趣味とは何よ。これはあたしの立派な芸術作品。みかっちにも文句は言わせないわ」
 ただでさえ手に負えないテオドラに、腐女子の趣味まであったのか。僕は読んでいるだけで気持ち悪くなるBL小説を読むのを止め、夕方が近づいたので自分の部屋に帰ることにした。なお、テオファノの奇妙なファッションや言動については、「テオファノって小さい頃から聖女ごっこが好きなのよ」という情報しか得られなかった。要するにテオファノは、聖女系の中二病娘らしい。

 後日談。どうやらルミーナと仲が悪いらしいソフィアに、適性87の術士であるルミーナに対抗させようと思って、僕の権限で神聖術の適性検査を受けさせたところ、残念なことにソフィアの適性は65しかなく、ソフィアは更に落ち込むことになった。その後、ソフィアは僕と同じ緑学派を選択し、仕事の傍らで神聖術の勉強と修行も行うようになった。戦力としてはあまり期待できないが勉強は出来る子なので、ソフィアと一緒に学ぶことで、僕の神聖術の勉強も捗るようになった。

第13章 天才少女と初めての海戦

 そんな色々を経て、3月に近づいたある日。僕はスミルナのローレス総督から、ジェノヴァ人に依頼していた弓騎兵について相談案件があるのですぐに来て欲しいとの連絡を受けた。僕は例の移動拠点を利用して、速やかにスミルナへ移動した。軍事に関する案件なので、ラスカリス将軍をはじめとする軍幹部やテオドラ、イレーネ、そしてプルケリアも同行している。
 僕たちはスミルナに着くと、例のジェノヴァ人フルコーネ・ザッカリアから挨拶を受けた。
「これはこれは殿下、わざわざお呼び立てして申し訳ございません」
「お願いしていた弓騎兵に関する件ということですが、具体的にどういったお話でしょうか?」
「普通にご紹介できる弓騎兵の傭兵もいるのですが、その前にちょっと売り物にならない奴隷がおりまして、可能でありますれば殿下の国で引き取って頂けないかというご相談です」
「どういう意味で売り物にならないのかにもよりますが、詳しく事情を教えて頂けますか?」
「はい。クマン人の一派であるオルブリリク族の残党でございまして、人数としては戦闘員として使える弓騎兵が約2千人、その家族を含めますと約5千人の集団になります。彼らは非常に結束が強く、一族をまとめて引き取ってくれる主人を強く希望しております」
 家族も含めて5千人くらいなら、引き取れない人数ではない。それに、現在の帝国は人口も不足しているので、軍備増強と人口増加を一度に行うことができ一挙両得である。
「それがどうして使い物にならないのですか? 兵士として弱いのですか?」
「いえ、弓騎兵としては、むしろタタール人にも劣らない精鋭でございます。オルブリリク族の長であったバチュマンという男は、タタール人の侵入に対し他の部族が為す術もなく敗れていく中、唯一自らの部族を率いてタタール人の軍に頑強に抵抗したことで知られておりまして、タタール人によって住処を奪われ四散したクマン人の間では、現在でも英雄視されております。バチュマンは、結局モンケというタタール人に敗れて処刑されてしまいましたが、そのバチュマンが率いていたオルブリリク族の残党を、あるヴェネツィア人が奴隷として高く売れると思って買い取ったのです」
「それほどの部族が、どうして売り物にならないの?」
「部族の長に問題があるのです。そのヴェネツィア人が売り先に困っているのを見て、私が使い物になると思って捨て値で買い取ったのですが、重大な判断ミスでございました。あれでは確かに買い手が付きません」
「その部族の長というのは、そんなに問題のある人物なのですか?」
「実際にその者を見て頂ければ分かります」
 僕はその話を聞いて、よほど見た目が醜く素行の悪そうな男が来るのだろうと覚悟していたのだが、ザッカリアに連れられてやって来たのは、何と10歳くらいの少女であった。髪は赤く、顔立ちは結構整っている。服装からは男の子のようにも見えるが、僕の勘は間違いなく女の子だと告げていた。
「・・・この子が族長なの?」
「お前、このキズラルバスを馬鹿にするのか? 俺は女でも、騎射の腕なら誰にも負けないぞ!」
 かなり気が強く口の悪い女の子のようだったが、僕はとりあえずキズラルバスと名乗った少女の騎射を見せてもらうことにした。

 僕たちはスミルナ郊外の平原で、キズラルバスの騎射を見て皆目を見張った。彼女は200メートルほど離れた的を正確に射貫くなど朝飯前、空を飛ぶ鳥も当然のように一発で次々と撃ち落として見せた。
「すげえ。あんなの初めて見たぜ」とテオドロス・ラスカリス。
「私も騎射はある程度出来ますが、彼女に勝てる自信はちょっとありません」とアレス。
「大の男でも、あそこまで出来る者は多くありませんな」とマヌエル・ラスカリス将軍。
「大したものね。でも、あたしだって神聖術を使えばあのくらい出来るわよ」とテオドラ。
 そして、ザッカリアからキズラルバスが、亡きバチュマンが残した子供のうち唯一の生き残りであり、そのため彼女を育てたバチュマンの元部下シルギアネスを含め、オルブリリク族の全員が彼女に忠誠を誓っているという話を聞かされると、キズラルバスが族長であることを僕を含めて誰もが納得した。
「・・・それで、あの子の何が問題なの?」
「問題だらけでございます! 殿下はお分かりにならないのですか?」
 僕の質問に、ザッカリアは半ば怒るように答えた。
「まず、イスラム教国では、女が馬に乗って戦うなど論外とされていますから、まず売り物にはなりません。キリスト教国では絶対駄目というわけではございませんが、馬の乗り方に問題がございます」
「どこが? 充分上手く乗りこなせていると思うけど」
「乗りこなせているかの問題ではありません! 仮にも女とあろう者が、あのように大きく股を開いて馬に乗るなど、下品の極みでございます! 普通、女が馬に乗るときは、両足を鞍の両側に揃えて慎ましく乗るものなのですよ」
「うちの皇女様は、いつもあの乗り方で毎日遠乗りに出掛けているけど? しかも胸と腰を隠しただけの際どい衣装で」
「問題はそれだけではございません。あの赤い髪を見てくださいませ。あの髪は、両親が身を慎まなかった罪の証しでございます!」
 話の前提として、キリスト教では女性の生理中に子作りをすることは禁止されており、赤い髪の子供は両親がそのルールを守らず、生理中に子作りをしてしまった罪の証であると信じられており、一般的に忌み嫌われている。以前プレミュデス先生にそう教えられたことがある。
「そんなの迷信でしょ。それに、百歩譲ってそのとおりであったとしても、本人には何の責任もないことだし、そもそもクマン人はキリスト教徒ではなく異教徒だし」
「・・・では殿下としては、キズラルバスを買い取られることに何の抵抗もないということでございますか?」
「抵抗するどころか、あれほどの天才少女であれば是非とも欲しいくらいだけど」
 僕やテオドラに慣れている他の幹部たちも、キズラルバスを受け入れることに異論を唱える者は1人もいなかった。
 念のため、副将のシルギアネスや他の兵士たちの腕も見せてもらった。シルギアネスは30代くらいの軍人で、指揮能力も騎射の腕も全く問題はなさそうだった。他の兵士たちもかなりの腕前で、個人の技術のみならず集団戦向けの訓練もよく為されており、特に小隊別の一斉射撃は見事なものだった。
「是非、うちで買い取らせてください! お代はいくらですか?」
「・・・殿下は変わり者と聞き及んでおりましたから、もしかしたらと思って連れてきたのですが、そこまでお気に召されるとは考えておりませんでした。お代は結構なのですが、その代わり我々の戦いに兵を提供して頂きたいと思っておりまして」
「戦い? ヴェネツィア人との戦いであれば条約の範囲内だから、兵は提供しますけど」
「敵はヴェネツィア人ではございません。最近このスミルナ方面に勢力を伸ばしてきた、ヴェネツィア人より憎きグリマルディ一族との戦いでございます」

 若干感情的になっているザッカリアの説明と、ラスカリス将軍による補足説明を総合すると、ジェノヴァ人は昔からドーリア家・スピノラ家を中心とする一派と、フィエスキ家・グリマルディ家とに分かれて争いを続けており、両者の争いが内戦に発展することもしばしばあるという。なお、ザッカリアはドーリア家と縁戚関係にあるので、ドーリア派と見做されている。現在のジェノヴァ共和国は、ドーリア派が政権を握っており、いわゆる「野党」に転落してジェノヴァを追放されたグリマルディ派は、各地で勢力を維持しつつ、ドーリア派と激しく争っているのだという。
「なんで、同じ国の中でそんなに激しく争っているの?」
「そもそも、ドーリア家とグリマルディ家は過去200年にも及ぶ確執の歴史がございます。昔、ドーリア家の当主アンドレア・ドーリア様と、グリマルディ家の当主フランチェスコ・グリマルディは、チェチリアと申す美しい娘を巡って争いました。その結果、アンドレア様が見事チェチリア様の心を射止めたのですが、これに腹を立てたフランチェスコは、事もあろうに結婚式場へ大量のネズミや蛇を放ち、大切な結婚式を台無しにしたのでございます」
「はあ」
 なんか、ろくでもない歴史を聞かされるような予感がしてきたぞ。
「結婚式を台無しにされたドーリア様は、報復のためグリマルディ家所有の商船に密かに穴を開け、これによりその商船は沈没致しました。しかし、フランチェスコは積み荷を台無しにされたと腹を立て、事もあろうに一族を率いてドーリア家の屋敷に放火したのでございます。ドーリア様はその報復として、憎きフランチェスコの屋敷を襲撃し・・・」
「もういいです。とにかく両派が長年にわたり争っているということは分かりました。それだけ分かれば十分です。それで、グリマルディ家との戦いに兵力を提供すればいいんですね。必要な兵数はどのくらいですか?」
「3千人ほどお願い致します。海戦になりますので、なるべく海の戦いに慣れている者が望ましいところです」

 こうして、僕は直属軍の中から比較的海に慣れている者を選抜して、自ら3千の兵を率いて参戦することになった。副将にはテオドロス、アレス、ネアルコスの3人を指名し、ラスカリス将軍には万一のときがあった場合に備え、残りの将兵と共に留守番役を任せた。テオドラ、イレーネ、プルケリアの3人にも来てもらっている。
 陸戦は何度かやったことがあるが、海戦は今回が全くの初めてである。船に乗ったこと自体はあるが、揺れる船の上で戦ったことはなく、歴戦の強者であるテオドロスやアレスでさえも、海の上では本来の実力を発揮できそうになかった。もっとも、将の中ではただ1人、ネアルコスだけは平気そうだった。
「ネアルコス、君は海戦の経験があるの?」
「俺は、親が商人だったんで船にはよく乗ってましたぜ。海賊と戦ったこともあるっすよ。俺の名前も、アレクサンドロス大王の許で活躍した海将ネアルコスにちなんで名づけてもらったんでさあ」
 なるほど。帝国海軍再建が成った折には、初代海軍提督はネアルコスで決まりだな。
 連れてきた兵士たちも、ヴァリャーグ近衛隊の兵士たちはヴァイキングなのに意外と船に慣れていないものが多く、3千人の内訳はヴァリャーグ近衛隊からは約千人、それ以外のローマ人兵士から約2千人となった。ティエリ率いるラテン人部隊はもっと海が苦手らしく、志願者はゼロ。連れてきた兵士たちも、船の上で本来の実力を発揮できそうな者は少なく、これでは僕を含めて援軍どころか足手まといになりかねなかった。
 いずれにせよ、味方の総指揮はフルコーネ・ザッカリアが執るということなので、僕はザッカリアから海戦の基礎を色々と教えてもらう一方、戦闘では見学に徹することにした。この戦いは、普通の戦いと若干異なり、スミルナ周辺の交易権を賭けたジェノヴァ商人たちの決闘という性格が強いらしく、戦う前に戦後の取り扱いについていくつかの取り決めがなされているようだった。味方の兵力は約7千人、船の数は約70隻。敵の兵力は約5500人、船の数は約60隻。数では味方が多いものの、僕が連れてきた3千の援軍は海戦での練度がかなり低いので、実質的にはほぼ互角の戦いになりそうだった。

 ・・・と思った僕の予想は完全に外れ、戦いは味方の大勝利に終わった。むしろ、まともな戦いにすらならなかったというのが正確な表現だろう。僕の知らない『浮遊』という神聖術を使って少し宙に浮いていたテオドラとプルケリアは、海戦でもその実力を遺憾なく発揮した。開戦一番、テオドラが水上火炎の術で敵船10隻ほどをまとめて焼き、プルケリアは勝ち誇るテオドラに対抗して、敵船団の真ん中に巨大な氷の岩を生み出し、これを避け切れなかった敵船団は次々と座礁し、大混乱に陥った。
 プルケリアの挑発に怒ったテオドラが、残った敵船に向かって次々と火炎弾を放ち、プルケリアがこれに対抗して、突撃してきた敵船に向かって機関銃のように氷の弾を撃ちまくり、これにより敵の総大将が戦死したことで、残った敵は降伏して戦いらしきものは終わった。ザッカリアや兵士たちはもちろんのこと、同じく『浮遊』の術で宙に浮いていたイレーネすらも、味方の怪我人が全くいなかったので出番は無かった。
 戦いらしきものが終わった後、プルケリアの術で炎上中の船の消火が行われ、その結果捕獲した敵ガレー船のうち20隻は、ザッカリアの見立てにより修理すれば戦艦としてまだ使用可能と判断された。それ以外の敵船は、破損がひどいため海に沈められた。
「・・・私は、神聖術というものを初めて見ましたが、まさかここまで強力なものだとは思っておりませんでした。貴重なご援軍、感謝いたします」
 そう僕に礼を述べたザッカリアだが、その態度はあまりの光景に呆然自失という感じだった。
「2人ともわが国ではエース級の術士ですから。上手くコントロールさえ出来れば、1人で兵1万人くらいの働きは出来ると思いますよ」
 そう答える僕の傍らでは、テオドラとプルケリアが、今回の戦いにおけるMVPがどちらであるか不毛な言い争いを続けていた。ザッカリアから特別報酬金をもらえたので、2人にはその中から同額の報奨金を与えた。捕獲した敵ガレー船も報酬としてもらえることになり、これをスミルナの造船所で修理して、帝国海軍の戦艦に使用することにした。
 ところで、まだ習っていない『浮遊』の術についてイレーネに尋ねたところ、青学派に属する推奨適性80の術で、習得後も制御に相当の熟練を要し、『浮遊』の術を使いながら他の術を問題なく併用するには90近い適性が必要とのことだった。少なくとも、当面の僕には縁のない術だ。

 経過はどうあれ、結果はめでたしめでたしかと思われたが、海戦を終えスミルナに戻った直後、アビュドス伯モンモランシーというラテン人が、約8千の兵で帝国領キジコスへ向けて進軍中との報が入った。
 僕は、移動拠点を使って直ちに直轄軍全軍をキジコスに集め、軍議を開いた。
「アンリとは休戦条約を締結したばかりなのに、あいつは早くも協定を破る気なのか?」
「殿下、既にテオドロス・イレニコスを詰問の使者として送っているのですが、アンリの返答は、モンモランシーの軍事行動は自分の命令ではなく彼の独断によるものである、帝国の封臣には、年間40日の軍役奉仕をする義務があるだけで、それ以外の行動は皇帝であっても制約できないので、残念ながら自分にも彼を止める力は無い、ご存分に対処されたしというものであったそうです」
 ラスカリス将軍の報告に、僕も迎撃の覚悟を決めざるを得なかった。
「イレーネ、敵の戦力は?」
「ラテン人騎士隊455騎、従士隊1922人、ヴァリャーグ人傭兵隊1255人、ローマ人歩兵隊4346人。敵の戦闘員総数は合計7978人」
「イレーネ、ローマ人歩兵隊というのは具体的にどのような軍隊なの?」
「現地の農民を兵士として強制的に徴募しただけ。訓練は全く受けておらず、装備も槍を持っている程度に過ぎない」
「ということは、ローマ人歩兵隊は要するにただの農民兵、雑魚ですな。例によって囮作戦で騎士隊を引き離して包囲殲滅すれば、勝利することはさほど難しくないかと」
 ラスカリス将軍の言葉に、配下に加わったばかりのキズラルバスが、小さな身体で大きく手を振った。
「囮作戦なら、このキズラルバスに任せるのだ! 偽装退却で敵をおびき出すのは、我々の最も得意とするところだぞ!」
「では、囮作戦は君に任せる。具体的な作戦はこれから指示するが、全軍、敵は一兵たりとも逃がさず、殺すか生かして捕らえること。功を焦っての無理な攻撃はしないこと。目標は勝利ではなく、味方の戦死者ゼロ、敵の逃亡者ゼロの完全勝利である。モンモランシーが何を考えて攻めてきたのかは知らないが、完全勝利を収めてこそ、アンリと他のラテン人に対する強力な抑止力となる。心せよ」
 本当の目的は神聖結晶を手に入れることだが、それを口に出すわけには行かない。

 僕の率いる軍勢は、アドラミティオンと呼ばれる海岸沿いの小さな町付近で、モンモランシー率いる軍を迎え撃つことになった。見通しは良いので、キズラルバスとその一党の戦いぶりも遠くから見ることが出来る。
「これで、有名なパルティアン・アタックが見られるぞ」
「へえ、何だか凄そうな名前ね。あたしも見ようっと」
 ワクワクしている僕を見て、テオドラも僕の横で見物していた。
 戦闘は、例によって長々と名乗りを上げている敵将モンモランシーを前にして、キズラルバスとその配下2千の弓騎兵が、一斉に矢を放つことで始まった。これに怒ったモンモランシーはキズラルバスの軍に突撃を掛けたが、弓騎兵の逃げ足は速く、2部隊に分かれた弓騎兵隊は、入れ替わっては矢を放ち、また逃げてを繰り返している。
「・・・これがパルティアン・アタック?」
「そうだよ。遊牧民弓騎兵隊の得意とする戦い方だけど、キズラルバスとシルギアネスの指揮能力も大したものだね。あれほど見事に戦うとは思っていなかった」
「これじゃあ、みかっちのやってることと大して変わらないじゃない! 正々堂々と戦う凄い攻撃じゃなかったの?」
「逃げながらも、矢を放って着実に敵にダメージを与えているところが、僕のやり方とは違うよ」
「ふーん。でも、キズなんとかって名前あんまり呼びにくくない? あんまり女の子っぽくもないし」
「まあ、確かにそうだね。あの子も納得するいい名前があればいいんだけど」
「あたしも考えとくわ」
 弓騎兵隊の戦いぶりに全く問題がないことを見届けると、僕とテオドラも持ち場に戻った。
 アドラミティオンの地は平原であり、伏兵戦術は使いにくい。そのため、騎士隊の突撃を防ぐための防御柵や杭を随所に建て、モンモランシー率いる騎士隊は、戦闘に適さない白い長衣を着て、羽扇を振りながら椅子に座っている僕の姿を見て怒り、僕に向かって猛突撃を掛けてきたが、防御柵などに足を取られて多くの騎士が転倒した。今回はちょっと諸葛孔明を気取ってみたのだが、思ったより効果あるなあ、この服装。
「一斉射撃、用意。撃て!」
 僕の指示で、騎士隊に矢の雨とテオドラ、プルケリアの攻撃術が炸裂する。神聖術で弓隊の威力を強化できるアンドロニコス・ギドスの率いる弓隊はもちろん、アレスとネアルコスの率いるファランクス隊も敵が近づくまでは石弓で敵を攻撃した。これだけで騎士隊は壊滅状態になり、続いてやってきた従士隊やヴァリャーグ傭兵隊も弓や神聖術の攻撃を受け、さらに主力の騎士隊が壊滅状態になっているのを動揺し、退却を始めた。
「騎兵隊、総員敵を追撃せよ! ヴァリャーグ近衛隊は、残っている敵を捕獲せよ!」
 僕の合図で、ティエリ率いる重騎兵隊、マヌエル・コーザス率いる軽騎兵隊、そしてキズラルバス率いる弓騎兵隊が一斉に敵を追撃する。テオドロス・ラスカリス率いるヴァリャーグ近衛隊と、ファランクス隊は負傷した敵兵を次々と捕獲していった。農民兵のほとんどは戦わずして降伏した。夕刻までには戦いは終わり、敵を追撃していた騎兵たちも戻ってきた。我が軍の勝利自体は明らかだが、果たして結果はどうだ・・・?
「イレーネ、敵味方の被害は?」
「味方の死者はゼロ。敵軍の死者1622名、捕虜及び投降者6356名。逃亡に成功した敵兵はゼロ」
「皆の者、聞いたか! 我が軍の完全勝利だ!」
 皆で勝鬨を挙げ、この日の戦いは終了した。捕虜のうち、農民兵は今後モンモランシーに協力しないことを条件にそのまま解放し、ヴァリャーグ人傭兵の捕虜については、降伏を拒絶する者はいなかったので軍に加えた。捕虜になったモンモランシーと騎士隊、従士隊の生き残りについての処遇は、後日に回すことにした。
 文句無しの戦功第一であるキズラルバスについては、僕が一通り戦功を称賛した後、テオドラが彼女に質問した。
「あんたのキズなんとかって名前、どういう意味なのよ?」
「キズラルバスだ。俺の名前は、『もう女の子は十分』という意味なのだ。親父は、女の子ではなく男の子が欲しかったのだ」
 この子、一応ギリシア語は話せるらしい。しかし、それにしてもひどい名前の付け方だな。この子が生れ落ちて最初に、聞いた声は落胆のため息だったんだろうな。テオドラも僕と同じ感想を抱いたらしく、
「ひどい名前の付け方ね。せっかく女の子に生まれたんだから、もっと女の子らしい名前を名乗って、もっと女の子らしい喋り方をした方がいいわよ。あたしが、あんたにとっておきの良い名前を付けてあげるわ!」
「どんな名前なのだ?」
「ダフネ。私たちの国の神話に登場する、芸術の神アポロンに求愛されて逃げ回り、最後には月桂樹に姿を変えた精霊の名前よ。敵を挑発しながら上手く逃げ回る、あんたにぴったりの名前だわ。これからはダフネと名乗りなさい!」
「・・・分かったのだ! これからはダフネと名乗るのだ!」
 彼女も気に入ったらしい。確かにダフネなら女の子らしくて良い名前だし、ダフネのイメージにも合う。テオドラって、ネーミングのセンスは結構あるな。
「殿下! 私はこれからダフネと名乗って、殿下にお仕えするのだ。でも、その前に殿下に言っておきたいことがあるのだ!」
「何だい?」
 僕が尋ねると、ダフネと名を改めたばかりの少女は、にっこりと笑顔を浮かべた。
「神話のダフネはアポロンとかいう神から逃げたが、私は殿下から逃げないぞ。ダフネは殿下に買われちゃったのだ。しかも、是非とも欲しいと言われて買われちゃったのだから、ダフネは大人になったら殿下の子を産むぞ! ダフネは、族長の跡取り息子を産まなければならないのだ!」
「なんでそうなるのよ! 誰か適当な男と結婚でも何でもすればいいじゃないの!」
 ダフネの爆弾発言にテオドラが突っ込むが、
「誰でもいいという訳には行かないのだ。父上の跡を継がせる以上、一番立派な男の種をもらわなければならないのだ!」
 ・・・このマセガキめ。まあ、まだ子供だから大人になったら考えも変わるだろう。
 こうして、まだ10歳の身ながら弓騎兵隊を率いる天才少女ダフネがここに誕生した。そして、ダフネには肥沃ながら度々戦場となるため無人の地となっていたマイアンドロス河畔の地を与え、ダフネの配下であるオルブリリク族は、この新天地で遊牧生活を送ることになった。

 その夜。僕は天幕の中で、2人だけでイレーネに会った。
「本日の奇跡により、神聖結晶が1個あなたに届いている。早速使用する」
 イレーネの持っていた神聖結晶が僕の目の前で砕け散り、僕の身体が淡く光った。これで僕の適性は、80の大台に乗ることになった。
 翌日、僕は軍を率いてモンモランシーの本拠地アビュドスに向かい、アビュドスは領主のモンモランシーが捕らえられたことを知ると、戦わずに城門を開いた。アビュドスは、狭いダーダネルス海峡を隔ててヨーロッパ側へ渡れる、対ラテン人の最前線であり戦略上の要地である。この地の総督には、プルサ総督のヨハネス・カンタクゼノスを転任させ、この地の統治基盤を固めさせる一方、対岸にあるガリポリの領主・コンスタンティノスとの交渉を進めさせることにした。プルサの総督には、サバス・アシデノスを横滑りで赴任させ、アシデノスが領有していた対トルコの最前線となるミレトスは直轄領とし、代官を置いた。こうして既成事実を作った上で、アンリにはテオドロス・イレニコスを使者として送り、アビュドス地方の領有を認めさせた。これによって、アジア大陸に残るラテン人の領土は無くなった。
 一方、僕は占領したばかりのアビュドスで、捕虜にしたモンモランシーを尋問した。
「そなたは、主君の皇帝アンリが我々と不可侵条約を締結しているのを承知の上で、なぜわが国に攻め込んできた?」
「大した理由は無い。貴様がスミルナでジェノヴァ人に混じって戦うと聞き、領土拡大の好機と考えただけだ」
「それだけのことか。ティエリのように余に降伏して正教に改宗するなら、命を助けてやらぬこともないが、どうするかは貴様が選べ」
「降伏などするものか! それに我は高貴な貴族であるぞ、解放する代わりに高額な身代金が取れるぞ。我に貴族として相応しい処遇をせぬか、この何処から来たとも知れぬ下郎め」
「そうか。だが余は、第六天魔王ミカエル・パレオロゴスと呼ばれる男だ。身代金のために貴様を厚遇するような甘い男ではないぞ。余を愚弄した愚かな貴様に相応しい処遇をくれてやる」
 捕虜のくせに生意気なモンモランシーには、町の中心にある広場の中で十字架で磔にした上で、手足の指を一本ずつ切り取らせ、性器を切り取らせ、目を潰させ、腕と足を切り取らせ、死なないように適宜神聖術で生命力だけを回復させてから、最後にかつてのダヴィド・コムネノスと同様の串刺し刑に処した。僕はこの刑を「五刑」と名付け、帝国法上最も厳しい極刑の1つとして定めた。なお、例によってモンモランシーの首は塩漬けにして、アンリの許へ送りつけるよう命じている。
 最初のうちは、モンモランシーと一緒に死ぬ覚悟をしていたらしい、捕虜となっていた他の騎士や従士たちも、あまりにもおぞましいモンモランシーの処刑を見せられて震え上がってしまい、その多くは降伏を選んだ。降伏した騎士や従士はティエリの配下に加えた。
 その光景を見ていた、まだ子供のパキュメレスは、恐る恐る僕に尋ねた。
「ど、どうして、このようにおぞましい刑を命じられるのですか・・・?」
「パキュメレス。あのモンモランシー1人を敢えてなぶり殺しにしたことで、本来死ぬつもりであった約千名ものラテン人が、翻意して僕に降伏することを選んだ。これによって千人もの命が助かり、僕は千名もの勇敢な兵士を得た。そして、アビュドスの住民たちは、僕に逆らったらどのような運命に遭うかを、その目で思い知ることになり、余程のことがない限り僕に反旗を翻そうとは思わないだろう。まさに一石三鳥だ。素晴らしいことだと思わないか?」
 僕の答えに、パキュメレスが何も答えられないでいると、僕は更に続けた。
「パキュメレス。僕も好きでこんなことをやっているわけじゃない。戦争とはこういうものだ。敵を人間だと思っていたら、戦争なんてやっていられないんだよ」

第14章 イレーネの決意

 少し時系列が遡ってしまうが、僕がスミルナでグリマルディ一族との海戦に臨もうとしていた頃、夜になってイレーネが僕の部屋を訪ねて来た。僕の部屋と言っても、スミルナのローレス総督から僕に割り当てられた部屋なので、マリアとかメイドさんとかはいない。いや、正確に言うと、ローレス総督は「殿下には必要でしょう」と言って、僕に夜のお相手をさせるためのメイドさんを宛がおうとしてきたのだが、僕がそういうのは結構ですと言って丁重にお断りした。そんなわけで、今の僕は寝室の中でイレーネと2人きりという状況である。
「イレーネ、こんな遅くに何の用?」
「あなたに話したいことがある」
「どんな話?」
「・・・本題に入る前に、以前私が答えなかったあなたの質問、すなわち、なぜあなたが『神の遣い』に選ばれたか、その経緯について説明したい」
 そう言えば、色々忙しくてまだ聞いてなかったな。
「是非聞かせて」
「あなたを選んだ経緯については、当時の記録映像が残っている。まずこれを観てもらいたい」
 イレーネはそう言って、何もなかったところに大きなスクリーンを発生させた。画面の中には、テオドラとイレーネが映っている。場所は、ニケーアにある例のクリスタルの間のようだ。
 以下は、記録映像の中における、テオドラとイレーネのやり取りである。

「・・・つまり、これからイレーネの選んだ候補から、『神の遣い』になる人物をあたしが選べばいいわけね?」
「そう。私の術で、『神の遣い』の任務に耐え得る能力の持ち主をリストアップする。その中からあなたに選んでもらう。ではリストアップを開始する」
 画面の中のイレーネが呪文らしきものを唱えると、画面には歳の頃30代くらいの大男が表示された。
「彼は身体屈強で、学問は無いが頭脳は明晰。自ら軍を率いるには最適の逸材。大バシレイオス帝並みの働きは期待できる」
「こんな髭面のオジさんなんて嫌よ! パスよパス! 次のにして」
 イレーネがまた呪文を唱える。大男の姿は消え、今度は何か凄い不気味な顔をした人物が現れた。
「彼は優れた軍事的才能を有し、極めて敬虔。ニケフォロス・フォカス帝並みの活躍を期待できる」
「さっきよりもっと悪化してるじゃないの! これもパス! 次のにして」
 イレーネがまた呪文を唱える。不気味な様相の顔は消え、今度は明らかに人間ではない、どこかのゲームに出てくる宇宙人みたいな顔が現れた。
「彼の才能は極めて優秀。軍事、政治共に素晴らしい活躍を期待できる」
「ちょっといい加減にしてよ、イレーネ! なんで、こんなひどい外見の男ばかり出てくるのよ!?」
「『神の遣い』は極めて困難な仕事。外見より能力や才能が大事」
「イレーネ、あたしの立場も考えてよ! 新しい『神の遣い』には、あたしの婚約者だったミカエル・パレオロゴスの名前を与えて、あたしの婚約者にするのよ! あたしの好みも反映してよ!」
「では、どのような外見であれば、あなたの好みに合致するのか聞かせて欲しい」
「年齢はあたしと同じくらいで~、すっごく可愛い子がいいわね。そうでなきゃ、あたしオーケー出さないわよ!」
「あなたの外見的嗜好に合致し、かつ『神の遣い』の任務に耐えられる者を探すのはかなり困難」
「いいからやりなさい!」
 イレーネが、しょうがないといった感じで再び呪文を唱え、今度は少々時間がかかった後、何となく中性的な顔立ちをした若い男の子の顔が出て来た。・・・というか、明らかに僕の顔だ。
「この子可愛い~! ねえイレーネ、この子にしましょう?」
「彼は、非常に高い知性と強い精神力を持っているが、政治や軍事の経験はないため、基礎教育を施す必要がある。基礎体力にも問題がある。好奇心は旺盛で、わが国の歴史についても若干の知識を有しているが、わが国とは全く異なる文化を有する国で成長したため、正教の教えを理解するどころか、反発する可能性が高い。また、ギリシア語を解さないため、彼を『神の遣い』とするには、私かあなたが意思疎通の呪法を掛ける必要がある」
「そんなの大した問題じゃないわ! 見た目こそが何より大事よ! 意思疎通と、基礎体力を付けるのはあたしがやるわ。基礎教育はあのヴァリャーキーと田舎者の主教にでもやらせればいいし。あたし決めた! この子にするわ! この子で決定!」
「・・・では、彼を『神の遣い』として召喚することにする」
 映像はそこで終了した。・・・なんかもう、どこから突っ込んでいいか分からない。

「イレーネ、色々理解できないところがあるんだけど、聞いてもいい?」
「質問は受け付ける」
「さっき、婚約者とかいう話が出て来たけど、それどういうこと?」
「彼女は、兄アレクシオス4世帝の意向により、皇后マルギトの養女になって正式な皇女になり、ミカエル・パレオロゴスという貴族と婚約した。『神の遣い』を召喚するにあたっては、被召喚者を戦死したミカエル・パレオロゴスの復活した者とみなし、同人の法的地位を包括的に承継することが予定されていたため、『神の遣い』として召喚された者は、自動的に彼女の婚約者となる」
「・・・まさかとは思うけど、僕って勝手にテオドラの婚約者にされているの?」
「法的には現在そのようになっている」
「冗談じゃないよ! そんな婚約、すぐに解消してよ!」
「あなたの帝国摂政としての地位は、これまでの功績だけでなく、イサキオス帝の娘婿予定者であることが前提になっている。解消することはできない」
「・・・なんか物凄く腑に落ちないんだけど、じゃあ次の質問。『意思疎通』の効果については知ってるけど、あの呪法を掛けるには何か特別なことをやる必要があるの?」
「『意思疎通』は一種の呪い。術の効果を永続させるには、術者に生涯消えない犠牲が必要となる。具体的な方法としては、術者の身体に一生消えない傷を付ける方法のほか、女性術士の場合、相手にファースト・キスを捧げる、相手に処女を捧げるといった方法がある」
「・・・そうすると、僕はテオドラにファースト・キスを捧げられて『意思疎通』の呪法を掛けられたから、この世界の人とも普通に会話できているというわけ?」
「そのとおり。『意思疎通』の呪法は、使用する言語に関係なく相手との意思疎通を永続的に可能とする効果がある」
「・・・あと、まさかとは思うけど、テオドラが毎日朝の遠乗りに僕を連れ回しているのは、僕に基礎体力を付けさせるためだと言いたいわけ?」
「おそらく、彼女本人はそのつもりでやっているはず」
 僕は頭を抱えた。なんかもう、思考の整理が追い付かない。
「本題はここから。私があなたを『神の遣い』候補に選定したのは、映像内の会話に出て来た理由のほか、あなたの国の社会で、あなたが友人も恋人もおらず孤立しているという点も考慮している」
「・・・僕がぼっちだってことが、『神の遣い』として相応しい理由なの?」
「あなたは現在、この世界とあなたの世界の二重生活を送っている。しかし、これはあくまであなたをこの世界に定着させるための暫定措置。あなたが、この世界での生活に満足し、あなたの世界における生活に未練がなくなった時、あなたは元いた世界から消滅し、完全にこの世界の人間になる。あなたが、生まれ故郷の世界において恋人や友人がいないことは、あなたをこの世界に定着させることが容易であることを意味している」
「友達や恋人は確かにいないけど、僕にはお父さんがいるよ」
「いずれ子は父から離れるもの。それにあなたの父親は、将来的にはあなたに外国への移住を勧める意向を持っている。あなたが第二の故郷へ移り住むことにも反対はしないはず」
 ・・・確かに、うちのお父さんは、今どきの日本の若者には外国に移住するか拳銃自殺するしかないと言われている程未来が無いから、将来的は外国に住むことも考えろとか言っていた。
「まあそれは良いとして、どうやって僕をこの世界に定着させるつもりなの?」
「男性を異国の地に定着させるには、女性を与えるのが一番の方法。その好例として、あなたに仕えているラテン人の将ティエリ・ド・ルースは、ロマーニアの地で結婚したマリア・ランバルディナを溺愛し、彼女の影響により現在では正教に改宗して、ローマ人の社会に溶け込もうとしている」
「・・・僕はテオドラと結婚させられるんじゃないの? 僕は、テオドラと結婚するなんてむしろ悪夢だし、テオドラに満足して日本での生活を捨てるなんて考えられないんだけど」
「この国の男性は結婚しても、妻に貞操を尽す義務はない。大抵の皇帝や貴族は、正式な妻とは別に『お嫁さん』と呼ばれる最愛の女性を、1人または複数抱えている。あなたの好みに合う女性を『お嫁さん』にして、あなたの性的欲求を完全に満足させれば、あなたはこの世界に満足し、日本に対する未練は次第に薄れていく」
「もしかして、僕にやたら女の子をけしかけてくるのは、そういう目的もあるわけ!?」
「他の目的もあるが、確かにそのような目的もある。実際、あなたがニケーアで自瀆行為をしないで済むようになってから、あなたの日本への郷愁感情は低下し、日本での生活に戻る回数も減っている」
「日本での生活に戻る頻度って、僕の感情に左右されるシステムなの!?」
「そう。あなたはこの世界に来た時、この世界の女性との子作りを嫌がる一方、性的な欲求不満を自瀆行為によって解消するため日本へ戻ることを強く望んでいた。私はこの事態を憂慮し、強制的な手段を使ってでも、あなたにこの世界で充実した性生活を送れるように取り計らうようオフェリアに指示した」
 イレーネはそう言いながら、自分からビブリオケーテーを外し、黒いローブを脱いだ。ローブの下には何も着ておらず、イレーネは生まれたままの姿になった。
「・・・どうして、そこでいきなり裸になるの!?」
「私は、自分の感情を伝えることを得意としていない。この姿になった方が、私の言いたいことがあなたに伝わりやすいと判断した」
「はあ・・・」
 女の子が、わざわざ自ら裸になって伝えたいことって何だ? もしかして、この場で愛の告白でもされてしまうのか?
「私は、自分の身体に女性としての価値はないと考えていた。しかし、これまでにおけるあなたの言動に照らし、私の身体はあなたの性的嗜好に合致しており、私の身体でもあなたの性的欲求を満足させる役に立つと判断した」
「それはまあ、確かにイレーネは綺麗で可愛いと思うけど・・・」
「よって、私は今日から、あなたの性奴隷になることを決意した」
「性奴隷!?」
「そう。私はあなたの性奴隷として、あなたの性的欲求を満たすためにはどんなことでもする。子作りはもとより、あなたが望むならどのようなプレイでも引き受ける。私は性交渉の経験はないが、人体に関する知識はある。あなたをきっと満足させて見せる」
「ち、ちょっと待って、イレーネ!? 君は帝室の出身で、しかも預言者様なんでしょ!? もっと自分を大切にしなきゃ駄目なんじゃないの?」
「預言者というのは、第三者が勝手に言っていることに過ぎない。私のことは私の意思で決める。そしてあなたも、明らかに私の性的奉仕を望んでいる」
 そう言うイレーネの目線は、僕の股間に注がれていた。
「ちょっと待って、これは女の子の裸を見せられたら自然にこうなってしまうというだけであって、君にそういうことをして欲しいわけでは・・・」

 僕の反論はそれ以上受け付けてもらえず、イレーネは有無を言わさず僕のズボンと下着を降ろし、僕にご奉仕を始めてしまった。その内容は、マリアにしてもらっている『ごしごし』と基本的には同じだけど、イレーネはかなり積極的で、僕にご奉仕しながら自分でも自らの股間をいじる痴態を見せ、僕をさらに興奮させてしまうのだ。
 それだけでなく、イレーネは僕のものが鎮まった後でも、自分の部屋に帰るのではなく、裸のまま僕のベッドに入り込み、僕の身体にくっついて無言のまま甘えてきたり、僕の身体にひっついて僕の匂いを嗅ぎながら自分でしていたりする。言葉とは裏腹に、イレーネは義務感からこんなことをやっているのではなく、明らかに僕のことが好きだからこんなことを始めたのだと悟らざるを得なかった。これでは、僕を日本の世界から引き離す策略の一環だと分かっていても、拒むことすらできない。
 この日以後、イレーネはニケーアにいるとき以外、毎晩当然のように僕の部屋へ来て僕にエッチなご奉仕をし、裸で僕と一緒に朝まで過ごすようになった。そして、朝になると何事もなかったように、ビブリオケーテーを掛けてローブを着て、いつものイレーネに戻るのだ。イレーネは優秀な術士としてだけではなく、女の子としても僕にとって不可欠な存在になってしまった。
 その一方で、僕はイレーネの普段着姿を見るだけで興奮するようになってしまい、僕の性欲は日に日に高まる一方。イレーネと子作りをしたり、エッチな場所を触ったりすることは頑張って自粛しているけれど、一体この状態がいつまで保つか、僕にも自信はない。僕だけしかその魅力を知らない、妖精のように綺麗で可愛くてエッチな美少女と毎晩ベッドを共にしていたら、いつかはこの子と一線を越えてしまうだろう。そのとき僕は、イレーネの言うように、自分から日本へなど帰りたくないと思うようになってしまうのだろうか。もはや自分自身が怖くて仕方なかった。

第15章 南へ!


 僕は、アビュドスでの戦後処理を済ませた後、ニケーアには戻らす、イレーネに作ってもらった移動拠点を使って、直属軍を帝国最南端のミレトスへ移動させた。戦闘員だけで合計1万4千に及ぶ軍の移動は、わずか2日で完了した。やっぱり神聖術って便利。普通に行軍して移動したら、おそらく2か月前後はかかることだろう。
 ニケーアの留守居役は従来どおりゲルマノス総主教に任せ、ソフィアも内政面で総主教を補佐している。アクロポリテス先生は相変わらず各地を飛び回って精力的に活動しているが、何かあれば『通話』の術でいつでも連絡が取れる。貴族たちにも動員令を掛けてミレトスに軍を集結させたのは、ジェノヴァと約束していた、ロードス島の対岸にあるトルコ領を切り取るためである。
 貴族たちのうち、最も頼れるヨハネス・ヴァタツェス将軍は、約1000人の私兵を率い、移動拠点を使って真っ先に駆け付けてくれたが、他の貴族たちは合計約5000人の私兵を率いて参陣する予定であるものの、到着はしばらく遅れる予定。特に、テオドロス・マンカファース率いる約1000人の兵は、距離的には近い割に準備が遅れており、しかも「異教徒は殺せ」などと連呼するやばい狂信者集団の兵士たちらしいので、少なくともマンカファースの到着まで出陣を待つ積もりは無い。なお、遠隔地のトレビゾンドにいるアレクシオス・コムネノスに対しては、兵士の提供に代えて軍役免除税を支払わせることにしている。
 僕は出陣の前に、人数の増えた直属軍の再編成を行うことにした。
 戦闘斧と剣で戦う、勇猛なヴァリャーグ近衛隊については、モンモランシーの雇ったヴァリャーグ人を降伏させて編入したので、人数が約4000人に増えた。僕はこれをいくつかの部隊に分け、第1部隊はマヌエル・ラスカリス将軍自ら率いる約1000人で、これが僕を守る近衛部隊となる。第2部隊はラスカリス将軍の長男、ビザンティオンの聖戦士ことテオドロス・ラスカリス率いる約1000人で、そろそろ成人を迎えるテオドロスの弟イサキオス・ラスカリスも、副将として初陣を経験させる。第2部隊はいざというときの突撃部隊である。もちろん、戦況によっては第1部隊も戦線に投入することはあり得るけれど。
 残りの兵士たちは約500人ずつの小隊に分け、隊長はバルダス、その弟ベッコス、イングランド出身のジョフロワ、ノルマンディー出身のギヨームが務める。バルダスとベッコスは、聖なる都が陥落する以前から将軍に仕えていた古参の軍人だが、ジョフロワとギヨームはモンモランシーに雇われていた傭兵隊の隊長である。
 ファランクス隊の約4400人は変化なし。これを2隊に分け、それぞれアレスとネアルコスが率いる。ファランクス隊は集団戦を前提とした部隊なので、あまり細かく分かる意味は無いのだ。アンドロニコス・ギドスの率いる弓兵隊約900人、マヌエル・コーザスの率いる軽騎兵隊約700騎も以前から変化はない。もっとも、ダフネとシルギアネスが率いるクマン人弓騎兵隊約2000人が加わったため、軽騎兵隊の存在感は従来より低下している。
 ティエリ・ド・ルース率いる騎士隊は、降伏してきたモンモランシーの元部下を加えて、約600人とほぼ倍増した。騎士たちに従う従士隊も約1400人にまで倍増し、従士隊の隊長はティエリの腹心であるティボーが務める。以上が僕の直属軍、約14,000人の内訳である。領地が若干増えた上に、ジェノヴァからの援助も大幅に増額されたため、当面維持費の心配はない。
 また、『三傑』と評されるテオドラ、イレーネ、プルケリアはもちろん随行させており、彼女たちの世話をする女官たちも軍に加わっている。その中には例のルミーナ、テオファノ、ソーマちゃんもいる。パキュメレスをはじめとする年少組も、戦い方を実地で学ばせるため軍に加えており、今年15歳になるヨハネス・ペトラリファスについては、軽騎兵隊の副将として初陣を経験させる予定。アレスの許で戦闘訓練を続けている、例の少年ユダも軍に加わっている。その他、食料や予備の武器と防具、投石器などの攻城兵器を運ぶ輸送隊、従軍娼婦などの非戦闘員は合計約3千人にのぼる。
 なお、従軍娼婦といっても、彼女たちは従軍者として正式に給料をもらっている存在であり、炊事や衣類の裁縫なども行う。金をとって兵士たちの夜のお相手をするのは、彼女たちの仕事の一部に過ぎない。この世界では扱いこそ違えど、大体どこの国の軍隊にもいる存在である。

「いよいよあたしの出番ね。あたしの神聖術で、トルコ人のスルタンを華麗にバーンってなぎ倒して、アジア全土をトルコ人の手から取り戻すのよ!」
 何か異様に張り切っているのは、ある意味マンカファース一党よりやばい、お馴染みの爆裂皇女テオドラである。ちなみに、テオドラが言っている『アジア』とは、現在のトルコ共和国あたりを意味する小アジアのことであり、小アジアは昔から長いことローマ帝国の領土だったものの、百年以上前にトルコ人の侵入を受けて一時はそのほぼ全土を失い、その後のローマ帝国はトルコ人と小アジアの領有をめぐって争い続けてきた歴史がある。間違っても、インドや中国までを含む広義のアジア大陸全土を征服するという意味ではない・・・と思う。
「テオドラ、張り切っているところ悪いけど、今回はそれほど大きな戦争にはならないと思うよ」
「なんでよ!?」
 テオドラが文句を言う。
「今回の戦いは、トルコ人の国がモンゴル軍の侵入を受けて弱体化した隙を突いて、ロードス島の対岸へと続くアジアの南西部を切り取るためのもの。本格的なトルコ軍の反撃は無いと思うけど、トルコ人の国を一気に滅ぼすほどの兵力はまだ無いし、トルコのスルタンはモンゴルに敗れてその属国になったという報せが入っている。バイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍は他の敵と戦うために東の地へ去って行ったようだけど、属国のトルコが滅びそうだということになったら、強力なモンゴル軍が援軍として戻ってくる可能性が高い。トルコとの全面戦争は勝ち目が薄く、あまりに危険だ」
「何よ。1万を超える兵とこのあたしがいれば十分でしょ。みかっちも弱腰ねえ」
「マヌエル帝は、今から70年ほど前にトルコ人の首都イコニオンを一気に攻め落とそうとして、同盟軍を合わせて2万5千もの軍を率いて自ら出陣したけど、ミュリオケファロンの戦いで多くの将兵を失って惨敗しているんだよ。知らないの?」
「・・・ふん、別に知らないわけじゃあないわよ。帝国最強の天才術士であるあたしが、たかがその程度のこと知らないわけないじゃない」
 テオドラは強がっているが、この態度は「そんなの知らなかった」って顔だ。間違いない。
「これから戦う敵は、ミラスの町とその近くにあるベチンの城を拠点に、アジアの南西部一帯に勢力を築いている、スルタンの部下フィルズ・ベイ。噂だと、彼には1万を超える兵を動員する力があるらしい。今回の戦いはこのフィルズ・ベイを倒して、近隣の小豪族を服属させてロードス島対岸までの領地を獲得するのが主な狙い。貴族たちの軍を含めても2万に満たない今の勢力だと、そのあたりを狙うのが精一杯なんだよ」
「ふーん。じゃあ、これからフィルズ・ベイと決戦に及ぶわけね」
「もっとも、フィルズの家にはよくある内輪争いがあってね。フィルズの父親は早くに亡くなったので、フィルズの叔父にあたるイブラヒムという人物が長らく実権を握っていたんだけど、フィルズが成人すると、フィルズとイブラヒムとの間で主導権争いが起こるようになったんだ。僕は冬の間、両者の対立をけしかけて、当主のフィルズと対立しているイブラヒムに内応の約束を取り付けることに成功した。イブラヒムが約束通り僕に寝返ってくれれば、フィルズの軍勢はあっという間に瓦解し、ミラスは簡単に僕の手に落ちるという段取りになってる」
「何よ! あたしの知らない間に、なんで姑息な内応工作なんかしてるのよ! これだからみかっちは、ヒーローとしての戦い方というものを知らないのね。いいこと? ヒーローというものは、姑息な謀略なんか使わずに、強敵と正々堂々と勝負して勝ってこそのヒーローなのよ。そしてヒーローを生み出す戦いこそが、真のエンタメを作り出すのよ!」
「だから、ヒーローとかエンタメとかにこだわって、味方に多くの死傷者が出たら元も子もないだろ。僕たちの戦いはこれで終わりじゃないし、むしろ聖なる都を取り戻してからもっと先もあるんだし、兵力は可能な限り温存しながら戦わないと、勝っても『ピュロスの勝利』になって詰んじゃうんだよ」
「何よ、その『ピュロスの勝利』って?」
「詳細な説明は省略するけど、要するに戦いには何回か勝っても、その度に兵力を失い、最後には目的を達成できずに撤退を余儀なくされてしまう勝利のこと。ピュロスっていう昔の人は、ローマ人を相手に何度も勝利を収めながら、多くの兵を失って結局撤退を余儀なくされたから、そういう諺が出来ているんだよ」

 統治者としての心得が全くなっていないテオドラに、僕はこうやって懇切丁寧に最低限の心得を教えていたつもりだったが、結局テオドラは納得してくれなかった。
「やっぱり気に食わないわ! こうなったらあたし、ミラスの人たちにイブラヒムがみかっちに内応してるって知らせてくる! その上で正々堂々フィルズと対決し、あたしの力で盛大な勝利を収めてやるんだからね!」
「待って! そんなことをされたら、今まで僕が苦労して続けてきた調略が台無しになっちゃうよ! テオドラは今の話ちゃんと聞いてたの!?」
 僕が止める暇もなく、テオドラは『浮遊』の神聖術を使って、ミラスの方面にすっ飛んで行ってしまった。どうしよう・・・。

(後編に続く)

<中編後書き>


「相変わらず長い本文を最後まで読んで頂いて、まことにありがとうございます。本編の主人公、ミカエル・パレオロゴスです」
「テオドラよ。なんかみかっち、妙にスッキリしたって顔してるわね」
「そう?」
「あの『ごしごし』がそんなに気持ち良かったの?」
「そのことは言わないで! あんまり詳しく描写すると18禁になっちゃう世界だから!」
「18禁と言えば、あの悶々とかいう貴族の処刑もひどかったわねえ」
「モンモランシーだから! 悶々じゃ読者さんも分からないから!」
「それと、あのユダって子は何に使うの?」
「・・・それは、察しの良い読者さんなら言わなくても分かると思うんだけど」
「最近思うんだけどね、みかっちは色々細かいことをやり過ぎなのよ。それだから異様に本文が長くなるのよ。あたしが、国の統治者としての心得を教えてあげるわ」
「どんな心得だよ」
「君主たる者は、面倒なことは家臣たちに任せて、ドーンと構えていればいいのよ。分かった?」
「それは明らかに駄目な心得だよ!」
「でも、あたしの父上も伯父上も、大体そんな感じだったわよ」
「2人とも君主としては駄目な人の例だから、真似しちゃダメ! それに僕は摂政ではあっても君主ではないから、むしろ君の父上、イサキオス帝に代わっていろんなことをしなきゃいけないんだよ。それ以外にアクロポリテス先生も、物語の裏で熱心に動いて帝国の発展に尽くしているんだから」
「あれだけ長い本文があって、さらに裏があるの!?」
「もちろんあるよ。各地のテマを統治する総督だって、あまり重要でない人物は、敢えて本文中に名前を出してないし」
「テマって何よ」
「日本で言う『県』みたいなもの。本当はニケーアの総督、プルサの総督とかいうんじゃなくて、帝国の各地方はテマ・トラケシオンとか、そういう行政単位で区切られています。もっとも、実際のビザンティン帝国で使われていたテマの名称は、その名称と所在地が大きくずれていたり、どの地域がどのような名称で呼ばれていたか正確に分からなかったりするので、この物語ではテマの総督という呼び方はせず、話を分かりやすくするため、各テマの中心都市を治める総督という呼び方をしています」
「中心都市といっても、地図が載っていないから、読者さんには分かりにくいと思うんだけど」
「以下に、大雑把だけど参考地図を用意しました。各都市間の位置関係について正確に知りたい読者さんは、トルコ近辺の地図を参照してください。首都のニケーアが現在のイズニク、ニコメディアが現在のイズミット、聖なる都が現在のイスタンブール、東へ行ってアマセイアが現在のアマスラ、シノーペが現在のスィノップ、トレビゾンドが現在のトラブゾンです。イスタンブールから南に行ってガリポリが現在のゲリボル、アビュドスが現在のチャナッカレ、プルサが現在のブルサ、キジコスが現在のバルケスィル近辺、ペルガモンが現在のベルガマ、スミルナが現在のイズミル、エフェソスが現在のエフェス、ミレトスが現在のミレト。これから攻めに行くミラスはそのままの名前で呼ばれています」
「地理の設定は本物と原則同じなのに、どうして名前がそんなにも変わってるのよ?」
「本物のビザンティン帝国は、オスマン帝国に滅ぼされてしまい、町の名前もギリシア語からトルコ語の読み方に変わってしまったためです。話が進んでヨーロッパ方面が主な舞台になってくると、現在のギリシア共和国では呼び方がほとんど同じなので、もう少し分かりやすくなるんだけどね」

<参考地図>


「本当に、大雑把でへたくそな地図ねえ」

「それでも無いよりはましでしょ。緑の丸で表示されているのがビザンティン帝国の支配下にある町、赤い丸で表示されているのがラテン人に占領されている町、紫の丸で表示されているのがルーム・セルジューク朝こと、トルコ人の国の支配下にある町です。ラテン帝国領は、地図外のもっと西の方に大きく広がっています。なお、トルコ領のミラスは同じく地図外で、南端のミレトスよりもっと南にあり、ロードス島はミラスよりもっと南にあります」

「トルコ人の町はイコニオンとミラスしかないの?」

「もちろん、他にもいっぱいあるよ。まだ話に出てこないから、今回は省略しただけで」

「まあいいわ。今回は要するに新たなヒロイン、ルミーナとテオファノ、ソーマちゃん、そしてダフネが加わった回ってことね。あと、あんた日本では相変わらず名無しの権兵衛さんのままなんだけど」
「僕の日本での名前は後編に出て来るよ!」
「あとみかっち、本編の最後であたしに計略を台無しにされた割には、妙に落ち着いているわね」
「そんなことないですよ。ああどうしようって内心では慌てまくっていますよ」
「なんか台詞が棒読みっぽくて怪しいわね」
「では続きは後編にて。色々事情があって長くなってしまった第2話が、次回でようやく完結します。8月中にはアップできるかと思いますので、しばらくお待ちください」
「ちょっとみかっち! 絶対あんた何か企んでるでしょ! 大人しく吐きなさい!!」

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