第3話前編 聖王の影

第3話前編 聖王の影

主な登場人物(男性編)

 登場人物がかなり増えてきたので、第3話開始時点における主要な登場人物の紹介をここで行っておきます。ここでは男性編。女性キャラクターの紹介については、中編の前書きで行う予定です。

<ビザンティン帝国に属する人物>

● ミカエル・パレオロゴス
 本編の主人公。元の名は榊原雅史といい、歴史と歴史SLGをこよなく愛するオタクの高校1年生であるが、滅亡に瀕したビザンティン帝国を救うための『神の遣い』に選ばれ、イサキオス帝の摂政として事実上帝国の統治にあたる。狡猾な計略を悪いことだとは思っておらず、必要と判断すれば酷い残虐行為も平気で行うが、その一方で女の子や猫には弱い。宗教上の理由でオナニーを禁止されたため、仕方なく女の子のエッチなご奉仕を受け容れているが、日本での高校生活も続いているため、現在のところ子作りは頑なに拒否している。現在の神聖術適性は81。
● イサキオス帝
 本名はイサキオス・アンゲロス・コムネノスで、テオドラなどの父親。ビザンティン帝国の皇帝で一応主人公の主君であるが、老齢かつ盲目であるため自ら政務を執ることはできない。若い頃、皇帝としての統治実績があまりに悪かったため、実の兄アレクシオスにクーデターを起こされ廃位され、目を潰された前歴がある。
● マヌエル・ラスカリス
 ビザンティン帝国の精鋭部隊、ヴァリャーグ近衛隊の司令官。主人公からは「ラスカリス将軍」と呼ばれている。老練な軍人であり、主人公に軍事の基礎を教えている。息子にテオドロス、イサキオス、アレクシオス、娘にルミーナがいる。
● テオドロス・ラスカリス
 マヌエル・ラスカリスの息子。『ビザンティオンの聖戦士』を自称し、その武名は国の内外で結構知られている。卓越した武勇の持ち主で、ビザンティン帝国における武勇第一を自認しているが、馬上槍試合ではティエリに敗れている。一方、勉強は大の苦手で、文字は自分の名前しか書けない。巨乳のプルケリアに憧れている。
● アレス
 本名はアレクシオス・ストラテゴプルスであるが、長いので戦いの神アレスの通称で呼ばれている。テオドロスに匹敵する武勇の持ち主で、主人公に仕え軍の司令官を務めている。女性に人気があり、多くの女性と浮名を流している。
● ネアルコス
 ギリシア人商人の息子で、主人公に仕え軍の司令官を務めている。卓越した武勇の持ち主ではないが、軍の指揮官としての才能はあり、ビザンティン帝国の将としては珍しく海戦の経験もある。
● ゲルマノス総主教
 ニケーア総主教座の総主教で、総主教としての仕事の傍ら主人公の政務も補佐しているので、非常に忙しい。防御系の神聖術も使える。
● ニケフォロス・プレミュデス
 主人公の顧問兼家庭教師。本業は医師であるが、神学などの諸学問に通じた知識人でもある。主人公からはプレミュデス先生と呼ばれている。
● ゲオルギオス・アクロポリテス
 諸学問に通じた若手の知識人。主人公から三顧の礼をもって迎えられ、帝国の内宰相に任じられた。帝国を発展させるため、主人公から内政に関する全権を委任され、各地を飛び回って活動中。
● ゲオルギオス・パキュメレス
 アクロポリテスの弟子。まだ10歳を過ぎたばかりの少年であるが、学問には秀でている。主人公の側近として仕えつつ、学問と政治の現実を学んでいる。
● ティエリ・ド・ルース
 元は、ビザンティン帝国に敵対する十字軍戦士の一人であったが、愛妻の影響もあって主人公に寝返り、騎士隊の司令官を務めている。テオドロスに匹敵する武勇の持ち主で、得意の馬上槍試合ではテオドロスを破ったが、ギリシア語はまだ苦手。
● シルギアネス
 クマン人弓騎兵隊の副司令官。族長であるダフネの育ての親でもある。軍人としてはなかなかの能力の持ち主。
● メンテシェ
 トルコ人の武将。主人公の調略によりビザンティン帝国に帰順した。
● ジャラール
 最後のホラズム王で、モンゴル軍の侵攻に果敢に抵抗したジャラールの息子。主人公に寝返ってビザンティン帝国の将となった。

<それ以外の人物>

● アンリ・ド・エノー
 聖なる都を占拠しているラテン人の皇帝。ラテン人の中では珍しく頭の切れる有能な人物であり、現在ビザンティン帝国とは不可侵条約を結んでいるが、主人公は密かに彼を陥れようと企んでいる。
● カロヤン
 ブルガリアの王。ラテン人の軍と戦ってアンリの兄ボードワンを破ったが、自ら『ローマ人殺し』を自称し、ビザンティン帝国の人々に対しても暴虐の限りを尽くしているため、間接的にラテン人を助けてしまっている。
● エンリコ・ダンドロ
 ヴェネツィア共和国の元首で、十字軍による聖なる都の劫略を陰で操った策士。ただし、第3話開始時点では既に亡くなっており、彼亡き後のヴェネツィアは混乱状態にある。
● フルコーネ・ザッカリア
 ジェノヴァ共和国の軍人、政治家かつ大商人で、ジェノヴァ本国政府とビザンティン帝国との連絡係を務めている。
● バイジュ・ノヤン
 モンゴル帝国の軍人で、チンギス=ハーンに仕えた名将ジェベの同族にあたる。大軍を率いてトルコ人の国、すなわちルーム・セルジューク朝に攻め込み、同国を属国化した。モンゴル恐怖症の主人公は、彼とは決して戦いたくないと思っている。

 

第1章 ヒエラポリスにて

 アフロディスアスの戦いに勝利した後、僕たちはその近くにあるヒエラポリスという町で、ちょっとした余暇を過ごしていた。次なる戦略目標は、一旦遠征を中止していたロードス島であるが、スミルナのローレス総督を通じて、僕たちの軍勢を支援するためのジェノヴァ艦隊が集結するのにしばらく時間がかかるという連絡があったこと、ヒエラポリスには世界的にも珍しい石灰棚があり、温泉もあるので是非行ってみる価値があると、ヴァタツェス将軍に勧められたことから、ちょっと寄ってみることにしたのである。
 ロードス島へ遠征するには、その対岸にあるアルマリスという町へ行く必要があるが、ヒエラポリスにもアルマリスにも移動拠点を設置してあるので、2日もあれば全軍を移動させることが出来る。多少寄り道して息抜きをしても、大した時間の空費にはならない。

 こうしてやってきたヒエラポリスだが、この町にある石灰棚はこれまで見たことのない絶景だった。石灰石で出来できるという岩棚はまるで雪のように白く、青い温泉水と見事なコントラストを成している。僕は大人しくこの絶景を鑑賞していたが、テオドラはこの絶景を見てまるで子供のようにはしゃぎ、裸足になって石灰岩の上を走り出した。
「待ってテオドラ、そんなことしたら危ないよ!」
「ほーらみかっち、あたしを捕まえてごらんなさ・・・ヒィヤッ!?」
 テオドラは、見事なまでに石灰岩の上でステーンと転び、そのまま滑って温泉の湯へと転落した。それはもう見事な転び方だった。僕は言うまでもなく、普段は謹厳なラスカリス将軍やヴァタツェス将軍まで笑いを堪えきれないでいる。
「何よみかっち、皇女様の不幸を笑ってんじゃないわよ!」
「・・・いやだって、そんな見事な転び方を見たら笑わずにはいられないよ! さすがテオドラ、エンタメというものをよく分かっているね!」
「別に笑わせるために転んだんじゃないわよ! 奴隷のくせに、あたしの許可もなく勝手に笑うんじゃないわよ!」
「いくら皇女様のご命令でも、笑いを堪えるのは無理でございます。テオドラ様」
 そんな僕とテオドラのやり取りに、その場にいた幹部たちの全員が笑っていた。
 ・・・なお、この石灰棚は、現在でもトルコ共和国のパムッカレという場所で見ることが出来ますが、景観保護の観点から石灰棚への立ち入りは原則禁止されているそうです。間違っても、テオドラのような真似はしないでください。

 その後は温泉タイム。一応、勅令によって男女混浴は解禁してしまったけれど、さすがに嫁入り前の皇女様たちが男たちの前で肌を晒すわけにも行かないので、テオドラ、イレーネ、プルケリアやその取り巻きたち、ダフネといった女性陣が最初に温泉へ入り、次に僕と帝国軍の幹部たちが温泉に入った。若い男たちが温泉に入ると、話題はどうしても下ネタになってしまう。
 最初に、誰のプリアポス様が一番大きいかという話になり、恥ずかしいことに全員一致で一番大きいと判定されたのが僕のものだった。
「さすが、殿下の王笏は見事なものでございますなあ。大きさだけでなく、元気も一杯でいらっしゃる。これでは殿下専用の娼婦が、少なくとも5人くらいは必要でございますなあ」とラスカリス将軍。
「なんてことだ。このビザンティンの聖戦士、テオドロス・ラスカリス様の大槍が、大将の足許にも及ばないとは・・・」とテオドロス。ちなみに彼は、温泉に入る前は自分のものが一番大きいと自慢していたが、実際にはむしろ平均より小さいくらいだった。
「俺は大きさには結構自信があったのに、もっと上がいたとは・・・」と悔しがるのは、帰順してきたばかりのジャラールである。僕から見た分には、僕よりジャラールのものの方が大きく見えるけど、どうやら自分のものは、見る角度の関係で小さく見えるらしい。
「僕、こんな小さなもので、将来お婿に行けるのでしょうか・・・」とパキュメレス。そろそろ11歳になるという彼のものは、明らかにこの中で最小だった。
「パキュメレス、君はまだ子供だから、これからもっと大きくなるよ」
「でも僕、同じ年のコンスタンティノス・アスパイテスさんや、一つ年上のユダさんにもかなり負けてるんですけど・・・」
「パキュメレス、いくら勉強が出来ても、そんなんじゃ子孫を残せないぞ」とユダがからかう。
 そう、この中にはアレスに従って訓練を積んでいるユダもいる。当初ユダは人見知りが激しかったが、徐々に軍の仲間内に溶け込んできており、剣術などの腕も上がってきている。いずれユダには重要な任務をこなしてもらわなければならないけど、出来れば生きて帰ってきて欲しいな。
「パキュメレス君、男は大きさだけで決まるものではありませんよ。むしろ、大切なのは優しさとテクニックです」とアレス。プレイボーイとして名を馳せているが、その引き締まった体格とは裏腹に、大きさは中くらいだ。
「いや、アレスさん、男は大きさこそ力でしょう」とメンテシェ。ジャラールもそうだが、どうやらイスラム勢は大きさにこだわる傾向が強いらしく、プリアポスの大きさに関するしょうもない議論がしばらく続いた。その後話題が変わり、女性陣の中で誰が一番魅力的かという話になった。
「俺としては、やっぱりプルケリア様が一押しだな! あの見事なおっぱい! 俺はプルケリア様と結婚して、あの豊満なおっぱいにしゃぶりつきたいぜ」
 そう語るのは、下品な欲望を隠そうともしないテオドロスだった。
「それで殿下は、あのテオドラ皇女様とご結婚されるのですかな?」とラスカリス将軍。僕は、慌てて言い返した。
「冗談じゃないよ! あのテオドラと結婚するくらいなら、イレーネと結婚した方がまだ良いよ!」
 その瞬間、僕は周囲の全員から突然白い目で見られた。
「大将は、あの眼鏡をかけたチンチクリンが好みなのか?」テオドロスが怪訝な声で訊いてくる。
「チンチクリンって、イレーネはあの眼鏡を取ってそれなりの衣装を着れば、絶世の美少女なんだよ。テオドロスも1回見たことあるでしょ?」

「「「絶世の美少女!?」」」

 周囲に驚きの声が上がった。
「失礼ながら殿下、私は確かにイレーネ様のドレス姿を一度拝見致しましたが、ただの子供にしか見えませんでした。殿下にはあのイレーネ様が絶世の美少女に見えられるのですか?」とアレス。
「まあ百歩譲って、顔はそれなりに綺麗かも知れねえけどよ、あの為りじゃおっぱいはほとんど無えだろ。大将はあれを女として見られるのか?」
「十分見られるよ。僕の生まれた国には、『貧乳はステータスだ、希少価値だ!』って言葉もあるくらいだし・・・」
 その言葉に、周囲からは再び驚きの声が上がる。どうしよう、だんだん自分の墓穴を掘ってしまっているような気がする。
「そうするとよ、大将。大将はあのイレーネ様の裸を見て、そのプリアポス様を大きくしてイレーネ様と子作りする気になれるっていうのか?」とテオドロス。
「他人を変態みたいに言わないでよ! 最近は普段着姿のイレーネを見ただけでも興奮しちゃうくらいで・・・」
 僕は慌てて口を塞いだ。最近続いているイレーネとのエッチな関係は、周囲には秘密なのだ。イレーネの裸を何度も見ているとか、毎日『ごしごし』してもらって裸で一緒に寝てるとか、ましてや今日もイレーネに早く『ごしごし』してもらいたくて身体が疼いてるなんて、言えるわけがない。
「・・・まあ、殿下には殿下の好みがあるってことで」とネアルコス。
「大将がそういう好みであれば、プルケリア様をめぐって大将と争いになることはなさそうだから、俺様としてはむしろ良いわけだな」とテオドロス。
「イレーネ様が殿下の熱い想いに応えて頂けるといいですね」とパキュメレス。
 ・・・ああ、みんな僕のことを変態だと思ってるのが手に取るように分かる。
「そう言えば、あの伝説の踊り子テオドラちゃんは、今度いつ来られるのでしょうね」
 ネアルコスが突然変なことを言いだした。
「え、テオドラだったらいつもいるじゃない。さっきも石灰棚の上で盛大に転んでたし」
「いや、ネアルコスの言っているのは、同じテオドラでもあの爆裂皇女様じゃない。聖なる都でも人気だった、伝説の踊り子テオドラちゃんのことだ」とテオドロス。
「殿下、テオドラという名前の女性はいくらでもおります。いくら何でもあの皇女様と、伝説の踊り子テオドラちゃんを一緒にするのは、テオドラちゃんに失礼と言うものです」とアレス。
「いやだって、どう見ても同一人物でしょ? 確かに、踊ってるときの性格は別人みたいだったけど」
 僕がなおも反論すると、テオドロスが僕の肩に手を置いて、こう諭してきた。
「大将。『別人みたい』じゃなくて、本当に別人なんだ。考えても見ろ。一応にせよ皇女様が、舞台の上で卑しい踊り子の服を着て踊るはずがないだろ。しかもあんなに美しく愛想良く。あの傲慢不遜でやりたい放題の爆裂皇女様とは明らかに別人だろう?」
 ・・・どうやら、僕以外の人の間では、テオドラ皇女様と「伝説の踊り子テオドラちゃん」は別人だと認識されているようだった。

「僕の認識の方が間違っていたのかなあ・・・」
 僕は夜になってイレーネと寝室で二人きりになったとき、先程のことをイレーネに話した。
「あなたの認識自体は間違っていない。彼女は、幼少の頃から踊り子として現れるとき、敢えて別人を装ってきた。同一人物だと知っているのは、私とあなた、オフェリアくらいしかいない」
「そうなんだ。でも性格を変えただけで、みんな簡単に別人だって信じるものなんだね」
「あなたは、最初から同一人物であると知ってから彼女の踊りを見た。仮にその前提知識がなければ、あなたも同一人物であるとは考えなかったはず」
「そういうものなのかな・・・?」
 イレーネの答えを聞いて、僕はため息をついた。
 ちなみに、僕がイレーネと一緒に過ごす時間は、単にエッチなことをしてもらうためのものではない。常識では考えられないことだが、これも僕が神聖術を習得する修士課程の一環なのだ。僕が国の仕事と学校の勉強に忙しくて、神聖術の学習に回す時間が取れない、なんとか時間を作っても、イレーネと2人きりでいるとエッチなことを期待してしまって学習に集中出来ないと分かると、イレーネは彼女にしか使えないという特殊な術を使って、僕に神聖術とそれに関連する知識や技能を伝授してくれるようになった。
 その伝授方法というのは、要するにイレーネと裸で身体を合わせれば、神聖術に必要な知識と技能を自動的に伝えてくれるというもので、一緒にくっついている時間が長いほど効果が高いのだという。最初は、単にイレーネが長時間自分とくっつきたいだけの方便ではないかと思っていたが、確かに習った覚えのない知識がいつの間にかどんどん身に付いている。そのおかげで間もなく、緑学派の修士課程も修了できそうだ。
 そんなわけで、僕は自分からも、出来る限り長い間イレーネと身体を合わせるようにしている。もっとも、イレーネによれば一緒に子作りをすればさらに高い効果を得られるとのことだが、さすがにそれは今のところ我慢して遠慮している。今の状態でさえ相当に危ないのに、イレーネとの子作りにまで手を染めてしまったら、おそらく僕はイレーネの思惑どおり、日本へ帰れなくなってしまうだろう。
 本当にイレーネはずるい。二重三重の手段で僕をイレーネに依存させてしまうなんて。その一方でイレーネは、僕以外の男に女性だと見られるようにすることには全く関心を示さないので、僕がイレーネに心を奪われる程、僕は周囲から変態扱いされてしまう。でも、僕以外の男には見向きもせず、僕と2人きりのときだけ甘えてくるそんなイレーネも、僕にとっては可愛くて仕方がない。イレーネを誰にも渡したくない。
 イレーネとくっついていたいという気持ちと、何とか彼女と距離をおかなければという気持ちが、いつも僕の心の中でせめぎあっていて、しかも後者の気持ちが少しずつ弱くなっているのだ。僕はそのうち、可愛いイレーネによって完全に攻略され、しかもそれを幸福に感じ日本に帰ることも忘れてしまう日が来てしまうのかも知れない。そんな自分が怖くて仕方なかった。

第2章 聖王ルイ9世とフリードリヒ2世

 ヒエラポリスでちょっとした余暇を過ごした後、僕は軍をアルマリスへ移動させ、ジェノヴァ側が用意していた船でロードス島へと渡航した。ヴェネツィアと同盟してロードス島を治めていたローマ人貴族ヨハネス・ガバラスは、突如として現れた2万を超える軍の侵入に驚き、戦うことなく降伏した。ヴェネツィア人と結んで莫大な富を築いていたガバラスをそのままロードス島に置くことは危険に感じられたので、ロードス島は直轄領として別の人物を代官に置き、ガバラスは廷臣の一人として仕えさせ、相応の俸給を与えることにした。ロードス島にも移動拠点を設置したことは言うまでもない。
 占領したばかりのロードス島で、僕はジェノヴァ海軍の司令官である、お馴染みのフルコーネ・ザッカリアと会談した。
「これは殿下、お久しゅうございます。私めも、まさか1年もしないうちにロードス島の攻略が実現するとは考えておりませんでした。しかも、アフロディスアスでは10万のトルコ軍を相手に大勝利を収め、味方の死者はただ1人だったとか。素晴らしいお働きにございます」
 10万というのはパキュメレスに広めさせた誇張の数字であるが、それを正直に口にするほど僕は馬鹿ではない。
「お世辞は結構です。それより、ヴェネツィア人の動きはどうですか?」
「ロードス島は、ヴェネツィア人にとっても重要な拠点。おそらく、全力で取り返しにくるでしょう。ロードス島の領有を確実なものに出来るかどうかは、むしろこれからが正念場です。おそらく海戦になりますので、あの強力な術士様たちの救援をよろしくお願い致します」
「分かりました。こちらも援護できるよう準備しておきましょう」

 こうして、僕たちはジェノヴァ海軍を援護する準備を整えていたのだが、やがてラニエリ・ダンドロという人物が率いるヴェネツィア艦隊が接近してきたものの、お互いに戦端を開こうとしない。その理由について、フルコーネは「ちょっと事情が変わりまして、ヴェネツィアとは和平交渉に入ることになったのでございます」としか言わない。これは一体どうしたことかと僕が頭を悩ませていると、内宰相のアクロポリテス先生が、移動拠点を使ってロードス島にやってきた。
「お久しぶりでございます、殿下。領地開発の方は極めて順調に進んでおります。あと5年もすれば、新しい入植地からも税収が入るようになりますので、帝国の歳入は爆発的に増えることになるでしょう」
「アクロポリテス先生、ご足労感謝します。でも、先生がわざわざロードス島まで来られたのは、そうした報告だけが目的ではないでしょう。先程、ジェノヴァ人のフルコーネ・ザッカリアから、これまで敵対を続けていたジェノヴァとヴェネツィアが和平交渉に入るといるという話を聞いたのですが、この件について先生が何かご存じのことはありませんか?」
「殿下、実は私もその件でこちらに参上したのです。ヴェネツィアとジェノヴァが突然和平交渉に乗り出したのは、どうやらフランシアの聖王、ルイ9世の働きかけによるものらしいのです」
「ルイ9世?」
 僕は問い返したが、名前自体は聞き覚えがあった。ギリシア語だとフランスのことを「フランシア」と呼ぶので、アクロポリテス先生の言うルイ9世とは、おそらくフランス王ルイ9世のことで間違いないだろう。ルイ9世は、とても敬虔で生前から聖人としての誉れ高く、ヨーロッパでは諸国間の調停者として活躍する一方、史実ではエジプトに向かった第7回十字軍、チュニスに向かった第8回十字軍を起こしたことでも有名である。もっとも、この世界では歴史の流れが若干異なるので、僕の歴史知識がどこまで役立つかは分からないけれど。
「ルイ9世は、国王にしては珍しく、15歳でご結婚されたマルグリット王妃ととても仲が良く、愛人を持つこともない品行方正なご性格で、争いを好まず高潔で敬虔な人格から、理想のキリスト教国王との誉れ高く、かの王の許でフランシアの地は大いに繁栄しているとのことでございます。そのルイ9世が、ヴェネツィアとジェノヴァとの調停に乗り出したのでございます」
「なるほど。でもそれは、争いを好まないルイ9世が単に争いを止めさせたいってこと? それとも、何か別の目的があるの?」
「目的はございます。ルイ9世は、エジプトに向けて近く大規模な十字軍を発動する予定であり、軍隊の輸送にはヴェネツィア人やジェノヴァ人の艦船を利用する必要があるため、両国が争っていては不都合なのです。そのため、ルイ9世はヴェネツィアとジェノヴァに使者を送り、直ちに講和せよ、さもなければフランシアにいるヴェネツィアとジェノヴァの商人全員を捕らえて殺すと、両国にかなり強硬な圧力を掛けたそうでございまして、これを受けて両国とも慌てて和平交渉に乗り出したという次第でございます」
「そういうことか。でも何でまた、ルイ9世はこの時期に十字軍を発動しようとしているの?」
「はい。ラテン人にとっての聖地エルサレムは、十数年前に西ローマの皇帝フェデリコス2世が無血で奪還され、それによりラテン人が十字軍を発動する大義名分は一旦失われたのですが、5年ほど前にそのエルサレムが再度サラセン人の手に奪われまして、ローマ教皇によりエルサレムを奪還するための十字軍が呼び掛けられたのでございます。もっとも、当時ルイ9世は重病にかかっており動きが取れず、またフェデリコス2世はローマ教皇と対立していたため、結局モンフェラート侯ボニファッチョを総大将とする、諸侯たちの連合軍による十字軍が結成されたのでございます」
「その十字軍って、聖なる都を占領した十字軍のことだよね? ボニファッチョって、元十字軍の総大将で、たしか今はテッサロニケの王になっているんだったっけ?」
「仰るとおりでございます。その後ルイ9世は、一時は死も覚悟されたという重病から奇跡的に回復され、これを神のご加護による奇跡である、自らの手で聖地エルサレムを奪還することが自らの使命であるとお考えのようです。これに加え、先立って出発したボニファッチョ率いる十字軍が、本来の目的地であるエジプトに向かわず、よりによって同じキリスト教国であるわが国を攻撃し、聖なる都を劫略したのみならず、現在の皇帝アンリはローマ人に対しラテン派への改宗を求めもせず、むしろ自らローマ人に迎合して、ローマ人の正教に改宗しようとしているとの報に大変ご立腹のようでございまして、自らの手で正しい十字軍精神を取り戻すとの使命感にも燃えておられるようでございます」
 そういうことか。ちなみに、アンリが正教に改宗しようとしているというのは事実ではなく、アンリを陥れるため、僕やソフィアがジェノヴァ人の協力を得て熱心に広めているデマである。でも、先生の話だと分からないことがいくつかある。
「先生、いくつか質問していいですか?」
「何なりと、私のお答え出来る範囲であればお答えいたします」
「まず、十字軍の目的は、パレスティナの地にある聖地エルサレムを奪還するなのに、どうして攻略目標がエジプトなんですか?」
「それはですな、第3回の十字軍を率いて、サラセン人の王サラディンと激戦を繰り広げたイングランドのリチャード獅子心王が、戦いの教訓として、非常に多くの兵を動員することができるサラセン人から聖地エルサレムを奪還するには、まずサラセン人の本拠地であり、人口も多く経済的にも繁栄しているエジプトを占領する必要があるとの見解を残されまして、それ以降の十字軍はその教訓に従い、エジプトを攻略目標とするのが慣例となっております。もっとも、フェデリコス2世は例外でございますが」
「分かりました。次に、ラテン人の十字軍というのは、これまで何回発動されているのですか?」
「過去6回発動されております。第1回は、大アレクシオス・コムネノス帝の時代に発動されまして、アレクシオス帝は聖地エルサレムの奪回など成功するはずがないと思われていたようなのですが、当時エルサレムの地を治めておりましたトルコ人が内紛で分裂していたこともありまして、首尾よくエルサレムの地を奪取し、かの地にエルサレム王国を建設致しました。なお、この十字軍はトルコ人たちを撃破しながらアジアの内陸部を通過いたしましたので、アレクシオス帝はこれに乗じて、トルコ人に奪われていたアジアの西部を奪還されております」
 これは、僕が知っている史実の第1回十字軍とほぼ同じのようだ。
「第2回は?」
「第2回は、マヌエル帝の時代に、フランシアの王ルイ7世と、西ローマの皇帝コンラート3世が率いる十字軍でありまして、勢いを盛り返したトルコ人からエルサレムを守り、エルサレム王国の領土を拡大しその守りを盤石なものとすることを目的としておりましたが、第1回の時と異なりトルコ人は結束を取り戻しておりまして、ラテン人騎士との戦いにも既に慣れておりましたことから、いたずらに兵を損なうだけで何の成果もなく引き揚げて行きました」
 これも、ほぼ史実の第2回十字軍と同じのようである。
「第3回は?」
「第3回は、同じマヌエル帝の治世晩年の頃、聖地エルサレムがサラセン人の王サラディンに奪われたことから、西ローマの皇帝フェデリコス1世、フランシアの王フィリップ2世オーギュスト、そしてイングランドの王リチャード獅子心王が、それぞれ大軍を率いてエルサレム奪還に動きましたが、実際にサラディンと戦ったのはリチャード獅子心王の軍勢のみでございまして、リチャード王はサラディンを相手になかなかの善戦を繰り広げたものの、先に帰国したフィリップ2世オーギュストが自国の領土を狙っているとの報を受け、撤退を余儀なくされたと聞き及んでおります」
 第3回は、時の皇帝がイサキオス2世ではなくマヌエル帝であること、西の皇帝がフェデリコスという知らない名前の人であること以外は、ほぼ史実の第3回に近いようだ。なお、アクロポリテス先生のいう西ローマというのは、たぶん僕の世界でいうドイツ人の国、すなわち神聖ローマ帝国のことだろう。
「分かりました。第4回以降は?」
「第4回は、アンドロニコス帝の時代に、パンノニアの王アンドラーシュ2世らが、サラセン人の手からエジプトを奪取するために、海路でエジプトへ侵攻したものの、ナイル川の洪水に遭うなどして失敗に終わったと聞いております。第5回は、イサキオス帝が即位された後、西ローマの皇帝フェデリコス2世が、サラセン人のスルタン、アル=カーミルと交渉し、一戦も交えることなくエルサレムを譲り受けることに成功致しました。そして第6回は、よりによって我らの聖なる都を劫略した、例の許し難い連中です。そのため、聖王ルイ9世の十字軍が発動されれば、これが第7回ということになります」
 どうやら、第4回以降は順番が入れ替わっており、史実の第4回十字軍に相当するものがこの世界では第6回になり、史実の第5回に相当するものが第4回になり、史実の第6回に相当するものが第5回になっているらしい。たぶん、神聖術の影響でマヌエル帝とアンドロニコス帝が史実以上に長生きし、特にこの世界のアンドロニコス帝は史実のアンドロニコス帝とは別人らしく、20年以上帝国を治めかなり活躍したと聞いているから、その影響で歴史の流れが変わったのだろう。なお、パンノニアというのは、日本人の間ではハンガリーと呼ばれている国のことらしい。
「その、フェデリコス2世とやらがどんな策を使ったのかは知らないけど、戦わずにエルサレムを取り戻せたのであれば、他のラテン人たちはどうしてそのやり方を真似しようとしないのですか?」
「我々であればそういう考え方もあり得ますが、ラテン派の聖職者たちは、聖地エルサレムは異教徒と勇敢に戦って、大勢の異教徒を殺した上で奪取しなければ意味がないと考えているようです。そのため、フェデリコス2世はエルサレム奪還という目的を達成したにもかかわらず、ラテン派の聖職者たちからはひどく非難されて破門まで宣告され、ラテン人の間でもフェデリコスの行いには賛否が分かれているようでございます」
「・・・その、さっきから出てくるフェデリコス2世って、一体何者?」
「西ローマの皇帝でございまして、かの者にイサキオス帝の娘イレーネ様が嫁いでいることもあって、わが国とは友好的な関係にあります。母方がノルマンの王の娘でございまして、北方にあるフランク人の土地のほか、かつてノルマン人が治めておりました、南イタリアの地とシチリア島も領有しており、シチリア島のパレルモを本拠地とされているようです。性格は、聖王ルイ9世とはほぼ正反対でございまして、キリストの教えに対する敬虔さはかけらもなく、サラセン人の文化や習俗を好み、異教徒のサラセン人を数多く召し抱え、自らもサラセン人のように多くの女を近づけてハーレムを作っているそうです。また、聖地エルサレムを取り戻した際には、聖墳墓教会だけではなく、サラセン人の礼拝堂まで見学されたそうで、キリスト教国の皇帝としては大変な変わり者、無神論者であると噂されております」
「でも、何か面白そうな人だね。友好国の皇帝であれば一度会ってみたい気もする」
「なお、名前につきましては、多くの地を治めている関係で、様々な名前で呼ばれております。我々はギリシア人の風習に倣いフェデリコスと呼んでおりますが、イタリアの地ではフェデリーコと呼ばれており、確かネミツォイ人たちはフリードリッヒとか呼んでおりましたな」


「・・・それってつまり、皇帝フリードリヒ2世!?」

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世。「玉座の最初の近代人」「300年早いルネッサンス人」などと呼ばれ、世界初の憲法とされるメルフィ憲章の発布をはじめ、近代ヨーロッパの基礎となる様々な先進的改革を行った人物である。彼の改革はあまりに進歩的であったため、その業績が正当に評価されるようになったのは、その死後約300年を経てからのことになってしまったが、中世のヨーロッパにおいては最も天才的な君主の1人である。某ゲームでは、なんと世界最高の知謀100を誇る、序盤では間違っても敵に回したくない君主の1人として登場していた。なお、史実のフリードリヒ2世については、塩野七生さんの歴史エッセイ『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』上下巻で詳しく描かれている。
「確かにそういう呼び方もございますが、どうされたのですか殿下、急に興奮なされて?」
「皇帝フリードリヒ2世といえば、僕の生まれた世界でも結構有名な人なんだよ。僕もその人のファンなんで、会えたら是非サインをもらいたい!」
「・・・左様でございますか。謁見してサインを頂けるかどうかの話は後にして、そろそろ本題の方に戻っても宜しいでしょうか?」
「そうでしたね。すみません、話の続きをお願いします」
「・・・とにかく、聖王ルイ9世の圧力により、ヴェネツィア人とジェノヴァ人が和平を結ぶことになったからには、わが国もそれに乗らないわけには参りません。聖王は、ボニファッチョやボードワンのような輩とは違って、十字軍を称しながらわが国を標的にするようなことはなさらないでしょうが、わが国が和平の障害になっているとなれば、容赦なく懲罰攻撃を仕掛けてくることも考えられます。したがって、わが国もジェノヴァ側としてヴェネツィア人との和平に応じ、かつ可能な限り我が国に有利な条件で講和を結ぶ必要があります」
「確かに。それで、現在ヴェネツィアの情勢はどうなっているんですか? 聖なる都を拠点にして黒海方面の交易を独占し、ますます強大化しているんですか?」
「必ずしもそうではないようです。聖なる都を奪取した元首エンリコ・ダンドロは、昨年大往生を遂げられまして、その長男で父を補佐していたラニエリ・ダンドロが次の元首になるかと思われていたのですが、国内では元首の座が事実上ダンドロ家の世襲になることに対する反発の声が強く、結局ラニエリは自ら元首候補を辞退し、結局ダンドロ家に並ぶ名門の出身である、ヤコポ・ティエポロという人物が新しい元首に選ばれました。しかし、ティエポロには亡きエンリコ・ダンドロほどの才能は無く、ヴェネツィア人が直面している様々な苦境に対し手を焼いているそうです」
「苦境?」
「まず、ラテン人の帝国に、黒海方面への独占的交易権を認めさせたまでは良いものの、これに反発したジェノヴァ人やピサ人は、海賊と化して徹底的にヴェネツィアの商船を襲い、これによってヴェネツィア人は相当大きな被害を受けているそうです。ティエポロはこれに対抗するため、エジプト方面へ向かう商船団を1つにまとめ、護衛の大艦隊を付けて送り出したのですが、その大船団がこのロードス島の近海で謎の全滅を遂げてしまい、これによりヴェネツィア人はとてつもない経済的損害を出したようなのです」
「謎の全滅?」
「はい。ロードス島で状況を目撃していた者の話によりますと、大船団は別に敵艦隊に遭遇したわけでもないのに、猛火を浴びて次々と燃え上がり、結局一隻残らず沈没してしまったそうです。生存者もいないため、あの大船団に一体何が起きたのか誰にも分からないそうです」
「・・・それ、たぶんテオドラの仕業だと思う」
「そうなのですか!?」
「ミラスの周辺を占領したとき、ちょっと事情があってテオドラの機嫌が悪かったんで、ちょうど近くにいたヴェネツィアの大船団を見て、あれなら敵だからいくらでも攻撃しても良いよって僕が言ったら、テオドラが気絶するまで術を使いまくって、大船団を一隻残らず撃沈したことがあって。その大船団がいたのがちょうどこの島の近海だから、まず間違いなくそれだ」
「・・・そうだったのですか。とにかく、その大船団が沈没したことで、ヴェネツィア人は甚大な被害を受け海軍力も激減したのみならず、エジプト行きの積み荷が残らず海に沈んてしまったことで破産に至った商人たちも数知れず、しかも殿下によるロードス島の奪取も阻止できなかったことでヴェネツィアの国威は低下し、ヴェネツィア領となったエーゲ海の島々ではヴェネツィアの支配に対する地元ローマ人の反乱が相次ぎ、国内では元首ティエポロの責任論まで浮上し、それはもう大変な騒ぎになっているとか」
「単なるテオドラの気まぐれで、ヴェネツィアの国内はそんな酷いことになっていたのか。テオドラの仕業だってことは、一応黙っていた方が良いのかな?」
「いえ、むしろ積極的に公にするべきでしょう。我がローマ帝国には、その気になれば1人でヴェネツィア人の大船団を殲滅するほどの強力な術士がいるということになれば、ヴェネツィア人にとっては大変な恐怖となります。これを交渉材料として使えば、私が考えていた以上に交渉で大きな譲歩を勝ち取れそうです」

第3章 ロードスの和約

 こうして、帝国領となったばかりのロードス島、正確に言えば島の中心地ロードスの町で、ローマ帝国ことビザンティン帝国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国の代表による三者会談が開かれた。ローマ帝国側の代表は僕で、内宰相のアクロポリテス先生が交渉を補佐する。ヴェネツィア共和国の全権大使はラニエリ・ダンドロ、ジェノヴァ側の全権大使はフルコーネ・ザッカリアで、それぞれ数人の随行員が付いている。
 僕は、アクロポリテス先生の助言に従い、ヴェネツィアの大船団を殲滅したのはテオドラであることを明らかにする一方、ヴェネツィア共和国がローマ帝国領であるエーゲ海の島々や拠点を勝手に占領し、ヴェネツィアの元首が『東ローマ帝国の四分の一と八分の一の主権者』という称号を名乗っているのはローマ帝国に対する重大な外交的侮辱であると主張し、講和の条件として当該称号の放棄と、クレタ島やネグロポンテをはじめとする、ヴェネツィアがラテン人から分配を受けた全領土の返還を要求した。僕としては、現時点でそこまで要求する気は無かったが、これは交渉を有利に進めるためのはったりである。
 ジェノヴァ側のヴェネツィアに対する要求は、聖なる都やラテン人が占領している他の都市における交易をジェノヴァ人にも開放し、現時点ではヴェネツィア人が独占している、黒海方面への商船通過も認めることだった。なお、ジェノヴァと反ヴェネツィアの同盟関係にあるピサ共和国からも代表が出席しており、ピサ側の要求もジェノヴァ側と同様であった。
 一方、ヴェネツィア側の要求は、ビザンティン帝国から奪ったエーゲ海諸島のうち、他の島は返還に応じるが、重要な拠点であるモドーネとコローネ、クレタ島とネグロポンテだけは引き続き使わせて欲しい、称号の全面放棄だけは勘弁してほしい、ロードス島についても年貢金を支払うから交易拠点として使わせて欲しい、帝国領であるスミルナやニコメディアなどの港町についても交易を認めて欲しいというものだった。
 会談の初日は、参加国がそれぞれの要求を出し合い、論点を整理するまでで終わり、各国が要求に対する対応をそれぞれ協議して、翌日再び会談するということで終わった。

「アクロポリテス先生、ヴェネツィア側の要求はどうしましょう。ロードス島を含む帝国領の港町を関税なしで使わせるというのは、かなり過大な要求であり、僕としては蹴った方が良いように思うのですが。重要なスポンサーである同盟国ジェノヴァの意向もありますし」
「ですが殿下、ヴェネツィア側の要求は、わが国にとっても、必ずしも悪い話ではございません。ヴェネツィア人の商業網は広く、ヴェネツィア商人がわが国の港に来るようになれば、わが国で生産された農産品などの販路も広がります。商業の発展という面からは、むしろ関税無しの方が都合が良いのです。もちろん、関税を取らない代わりに、ヴェネツィアから取る年貢金の額は可能な限り吊り上げるというのが前提ですが」
「じゃあ、その方向でザッカリアさんと協議してみますか」
 しかし、交渉の障害となったのはジェノヴァ側の意向ではなく、自分に無断で交渉を進めていることに怒ったテオドラだった。
「なんでヴェネツィアなんかと和平を結ぶのよ! ヴェネツィア船なんかあたしの術でいくらでも沈められるんだから、ヴェネツィア人の全面降伏以外は絶対認めないわ!」
 テオドラは、聖王ルイ9世の十字軍がもうすぐやって来るので、その関係でも和平自体は必要なのだといくら言い聞かせても、聞く耳を持たなかった。功労者でもあるテオドラの意向を無視するわけにも行かないので、ヴェネツィア側には、テオドラが和平に反対している限り、交渉はしばらく続けられないと連絡した。

 それでも、一応2日目の会談は行われ、ジェノヴァ側としては、ラテン帝国領や黒海方面での貿易が認められるのであれば、ローマ帝国領におけるヴェネツィア商人の出入りについても容認する、和平締結後もビザンティン帝国に対する経済援助は従来どおり継続するとの意向が伝えられた。ヴェネツィア側もラテン帝国に対する経済援助をしているので、ビザンティン帝国とラテン帝国の争いについては双方ともに関知しない旨が合意された。これによってヴェネツィアとジェノヴァの交渉は概ね妥結の方向に進んだが、問題はうちのテオドラだった。
 2日目の会談を終えると、前日とは打って変わり、テオドラは殊の外上機嫌だった。
「どうしたの?」
「あのラニエリとかいうヴェネツィア人、なかなか見どころがあるじゃないの。あたしのことを『世界一美しい太陽の皇女様』って絶賛して、贈り物もたくさんくれたわ」
「・・・じゃあ、ヴェネツィア人との和平交渉は進めてもいいの?」
「いいわ。みかっちの好きにしなさい。これで念願の、新しいドレスもたくさん新調できるわね♪」
 ・・・思いっきりヴェネツィア人に懐柔されていた。

 とは言え、このおかげで3日目の交渉は順調に進み、ヴェネツィア側の要求を呑む代わりに支払わせる年貢金の額に関する交渉が行われ、交渉4日目で通称『ロードスの和約』と称される和平条約が締結された。世界暦6755年10月3日付けで締結された和平条約の内容は、要旨以下のとおりとなった。

● ローマ帝国ことビザンティン帝国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ピサ共和国の4か国は互いに5年間の休戦協定を締結するものとし、協定の有効期間中は、互いに相手国の軍隊、艦船、港湾その他の施設を攻撃しない。
● ヴェネツィア共和国は、ラテン人の帝国領内における、ビザンティン帝国、ジェノヴァ共和国及びピサ共和国の商業活動を認め、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通過や、黒海方面における商業活動も同様に認める。
● ビザンティン帝国は、毎年一定額の貢納金と引き換えに、ロードス、スミルナ、ニコメディアを含む帝国内におけるヴェネツィア商人の自由な商業活動を認め、交易に対する関税は徴収しない。また、貢納金と引き換えに、ロードス島の港をヴェネツィアの商船及び海軍の基地として使用することを認める。
● ヴェネツィアがビザンティン帝国から奪った領土のうち、ペロポネソス半島の先端にあるモドーネとコローネの港とその周辺、クレタ島及びネグロポンテについては、ヴェネツィアがビザンティン帝国の宗主権を認めること、住民にラテン派への改宗を強要しないこと、帝国に毎年一定額の貢納金を支払うことを条件に、引き続きヴェネツィア人による領有を認める。ヴェネツィアの元首は、『東ローマ帝国の四分の一と八分の一の主権者』という称号を放棄し、その代わりとしてビザンティン帝国から『クレタとネグロポンテのデスポテース』の称号を受けるものとする。なお、デスポテースとは日本語で「専制公」と訳されることが多いが、単に「主人」という意味であり、帝国内では皇帝に次ぐ称号とされている。
● ヴェネツィアが領有していたその他の島々、すなわちチェリゴット諸島、ミロス、パロス、ナクソス、ミコノス、スタンバりア、ティノス、アンドロスといったエーゲ海の島々は、ビザンティン帝国に返還される。ただし、これらの島々についても、貢納金と引き換えにヴェネツィア船の寄港や自由な商業活動を認める。

 なお、以上の和約によって、ヴェネツィア共和国から毎年贈られてくる貢納金の額は、今までジェノヴァ共和国から受けていた経済援助額の2倍をやや上回るほどになり、これで苦しかった帝国の財政は一気に潤うことになった。それにしても、毎年そんな金額を支払える金が一体どこにあるのだろう。交易活動というのはそんなに儲かるものなのだろうか。
 もっとも、条約の締結が済んだ後、ラニエリ・ダンドロは「おそらく、ティエポロ元首や要職にある者たちの総辞職は避けられないでしょうな・・・」などとこぼしていたが、そんなヴェネツィア人たちの内部事情については、僕の知ったことではない。

「ご主人様、お帰りなさいませなのです~!」
 和平条約の締結が済んだ後、僕は移動拠点を使ってニケーアに帰還した。久しぶりに再会したマリアとは、感極まってその場でキスをして抱きしめてしまった。イレーネも可愛いけど、やっぱり僕としてはマリアが一番癒される。見た目などは一緒でも、湯川さん相手にキスしたり抱きしめたりはとても出来ないので、マリアとこういうことが出来るのはとても嬉しい。
 そして僕の部屋では、ネズミ対策に飼っていた猫のバーネットが、合計5匹の子猫を産んでいた。
「この子たちは、2か月前に生まれたばかりなのです。この子がジュリーちゃん、この子がハリーちゃん、この子がミーシャちゃん、この子がシェリーちゃん、この子がイーリスちゃんなのです。ジュリーちゃんとハリーちゃんがオスで、ミーシャちゃんとシェリーちゃん、イーリスちゃんがメスなのです」
 マリアがそう説明してくれるが、みんな同じような外見の子猫なので全然見分けが付かない。それと、全体的に英語名みたいな名前が多いのはなぜだろうと若干気になったが、マリアと子猫たちの可愛さの前には、そんなことは些細な問題にしか思えなかった。
 他の兵士たちは移動拠点を使ってまだ順次帰還中だし、明日からはまた忙しい政務が待っているが、今日くらいはマリアとゆっくり過ごそう。

第4章 政務と謀略

 ヴェネツィアとは和平条約を締結し、ラテン人との休戦条約は継続中、東のトルコ人はアフロディスアスの戦いで壊滅的な打撃を与えたので、戦闘に適さない冬に新たな戦争が起きる心配はあまりないが、この冬の間にも色々なことがあった。まずは真面目な話から順に語って行こう。

 その1。僕はトルコ人とヴェネツィア人相手の戦勝を称えられ、皇帝に次ぐ地位であるデスポテースの称号を贈られ、スミルナの町と建設中のニュンフェイオン、及びそれ以南の領土は全て僕の私領として与えられることになった。以下は、僕がその話を聞いたときのやり取りである。
「ゲルマノス総主教、デスポテースの称号はともかく、これほどの領地は、僕の私領としてはいくら何でも、もらい過ぎなんじゃないかという気がするのですが」
「いえ殿下、むしろ貪欲に私領を受け取って、評判を落とすくらいが丁度良いのです。殿下は並外れた功績で評判を高める一方、国内に多くの敵を作っています。いざというときに殿下の身を守るためにも、これは必要な措置なのです」とゲルマノス総主教。
「殿下、私も総主教と同意見でございます。それに、新しく獲得した領土は、イスラム教徒が多く住んでおります。帝国の直轄領となると聖職者たちが色々口を挟んでくる可能性がありますが、殿下の私領であれば聖職者たちも口を出せません。ここは是非受け取っておいて下さいませ」とアクロポリテス先生。
 政務面における僕の重要な補佐役である2人に揃って勧められたので、僕はゲルマノス総主教が手配したとおりに、デスポテースの称号と私領を受け取ることにした。もっとも、僕が帝国摂政である以上、帝国の直轄地であっても僕の私領であっても僕が統治することに変わりはないので、統治の仕組み自体は以前と特に変わらない。

 その2。僕はニケーアに帰還した直後、緑学派の修士号取得試験を受け、イレーネから緑学派修士の学位を受け取った。試験の内容は筆記試験だったが、イレーネから必要な知識の内容は例の特殊な方法により授けられているので、特に苦労はなかった。移動拠点の度重なる増設に加え、今後様々な場面で神聖術士の大幅な需要拡大が見込まれたので、僕は術士の規制を緩和し、ビザンティン帝国に仕える者で希望する者には、基本的に誰にでも神聖術の習得を認めることにした。
 新たに誕生した神聖術士のうち、特筆に値するのはダフネで、彼女は適性が85あり、軍の移動速度を高められるなど便利な術が多いという話に惹かれて、青学派を選択した。それ以外にもネアルコス、ジャラール、メンテシェなどを含む何人かの将軍たち、学者や官僚たちの多くも術士となった。
 新参の家臣たちにギリシア語や神聖術を教えるために必要ということで、政務官候補としては採用しなかったニケタス・コニアテスやその他の学者たちも、講師として採用し相応の俸給を与えることになり、ニケタスは講師としての仕事の傍ら、ライフワークである歴史書の執筆を続けることになった。

 その3。トルコ人の捕虜たちによって新しい技術がもたらされ、新しい産業が興されることになった。ニケーア付近で採れる粘土は陶磁器の生産に適していることが分かり、陶磁器の生産が試行されることになった。また、ビザンティン帝国ではこれまで羊皮紙が主に使われていたが、トルコ人の捕虜から紙の生産技術が伝えられ、帝国でもニケーアやスミルナを中心とする各地で、紙の生産が始まることになった。
また、建設中のニュンフェイオンには、宮殿に快適なイスラム風の建築様式を一部取り入れることになり、トルコ人の建築家が具体的な設計や施工を担当した。捕虜となったイスラムの法学者チャンダルル・ハリルという人物も、イスラム教徒たちの統治に必要な有識者なので、僕の政治顧問の一人として雇うことになった。
 ニケーアは一層手狭になり、城壁外にも次々と建物が出来て城壁が意味をなさなくなったので、新市街を囲む新しい城壁を建設することになった一方、ニュンフェイオンへの本拠地移転も予定より早め、必要最低限の建物が出来上がったらすぐにでも引っ越しを行うことにした。なお、ニュンフェイオンは新たな統治の拠点として、数万人に及ぶ直轄軍の兵士たちとその家族たちも城壁内に住めるよう、ニケーアやスミルナよりかなり広い面積を確保している。

 その4。イスラム教徒の兵士たちは、弓騎兵はともかく、歩兵については個人での戦闘力があまり強くないことが判明したため、ファランクス隊と同様に長槍を使う訓練など、集団戦向けの訓練を行わせることにした。もっとも、ファランクス隊という部隊名はギリシア人向けなので、イスラム教徒であるトルコ人たちの部隊はムハンマド常勝隊という名前を付け、ファランクス隊とは別の部隊とした。
 その他、ヴェネツィアからの貢納金や領土の拡大により雇用可能な兵士数が大幅に増える一方、ビザンティン帝国の軍は他国より待遇が良く、規律は厳しいが給料の遅配なども無く、何より死亡率が低いということで、国の内外を問わず入隊希望者が続出した。希望者の選抜については、基本的にラスカリス将軍に一任し、将軍たちは兵士たちの編成や訓練に大忙しとなった。新しい軍の陣容については、現時点ではまだ流動的なので、今度本格的な戦争を行うときに改めて説明することにする。
 また、兵士たちの士気を高めるためには、功績のあった兵士たちを称える勲章制度が必要だと感じたので、『コンスタンティノス勲章』と名付けたビザンティン帝国の勲章制度を創設した。勲章をもらった将兵は、所定の額の金貨を与えられると共に、将兵たちの前でその功績を称えられ、勲章を持つ者は昇進の際にも有利に働くことになる。単に報酬として金品を与えるよりも、こういう制度を作った方が、兵士たちの戦意は明らかに高まるのだ。

 その5。スミルナで、捕獲したガレー船20隻の修理が終わり、船を動かすための水夫も募集され、いよいよビザンティン帝国海軍が本格的に始動することになった。海軍の提督にはネアルコスを任命し、ジェノヴァ人のフルコーネ・ザッカリアなどに技術指導をお願いしたが、アクロポリテス先生の献策で、艦隊の航海訓練も兼ねてエジプトとの交易を行うことになった。交易船団は来年の春に出発し、ジェノヴァ艦隊と行動を共にすることになったが、安全のために誰か優秀な術士を1人付けてくれとネアルコスやザッカリアに頼まれたので、熟慮の結果プルケリアに交易船団へ同乗してもらうことにした。イレーネはいろんな意味で僕の傍から手放せないし、テオドラは何をするか分からない危険人物だからである。
 エジプトに運ぶ交易品については、アクロポリテス先生の主導で選定が進み、帝国内で産出しないがエジプトでは高く売れるという交易品については、聖なる都やスミルナなどで買い付けが進められている。また、交易品を運ぶための帆船などの建造も進められ、ジェノヴァ船を参考にした新たな戦艦も、新たに20隻建造することになった。
 なお、こうした事業の数々により、帝国は史上空前の好景気に沸き、多くの人々が外国から移住してきたが、その中には結構な数のユダヤ人やボゴミール派がいた。どちらも、他の国では宗教的な迫害に苦しめられており、ビザンティン帝国ではそうした迫害が無いという噂を聞いてやってきた人々である。ユダヤ人は、都市部に固まって住む傾向があり、商業活動を得意としているほか、高度な知識や技術を持っている人も多い。ボゴミール派は都市部に住みたがる人も、土地をもらって農村部に住みたがる人もいるが、働くことを美徳としているらしく、結構働き者が多い。
 どちらも帝国の発展のためには有難い存在であるが、ユダヤ人もボゴミール派も内部では結構色々な宗派に分かれているようで、異なる宗派間の紛争も散見されるようになった。基本的には同じ宗派同士のグループで別々に住んでもらうという解決策を採り、なるべく紛争が起こらないようにはしているが、異なる宗教間・宗派間の争いを解決する法制度や裁判制度の整備も今後の課題となりそうだ。
 ちなみに、ヴェネツィア共和国から返還を受けた島々については、特に問題が起こらない限り、住民たちの代表者を代官に任命し、その自治に委ねている。ヴェネツィアとしても住民の反乱を気にすることなく、これらの島々を商業拠点として利用できるし、住民側もヴェネツィアに加えジェノヴァやピサの商船が寄港するようになり、彼らとの取引により経済的にも潤うので、ほぼ理想的と言ってよい共存関係が生まれている。

 その6。僕はソフィアから、ラテン人の帝国に関する動向の報告を受けた。
「殿下が遠征に出られている間に、ヨーロッパ側では様々な動きがありましたので、順にご報告させて頂きます」
「うん、頼む」
「まず、アルタで独立政権を築いていたミカエル・コムネノス・ドゥーカスは何者かに暗殺され、異母弟にあたるテオドロス・コムネノス・ドゥーカスという人物が跡を継いだようです」
「そのテオドロスというのはどんな人?」
「詳細はまだ未知数ですが、兄に比べると、かなり有能で野心的な人物のようです。最近は、ラテン人の支配下から脱し、エピロスの地に独立国家を作る動きを見せています。また、テオドロスはヴェネツィアからの支援も取り付けたようです」
「ヴェネツィアが、なぜテオドロスを支援するの? ヴェネツィアは皇帝アンリ率いるラテン人たちの同盟者だったはずでは?」
「はっきりとした理由は分かりませんが、アドリア海出口の安全を確保するのが主な目的のようです。また、ヴェネツィアの元首は、最近ヤコポ・ティエポロからマリーノ・モロシーニという人物に代わったのですが、新体制に代わったヴェネツィア政府は、アジア地域における殿下の台頭に怖れをなし、ヨーロッパ側でも同じような強国が生まれることが無いよう、小国同士で嚙み合わせることを狙っているのではないかと思われます。また、ラテン人たちの統治能力に見切りを付けたという可能性もあります」
「アンリのところで何かあったの?」
「まず、ラテン人の間ではアンリに次ぐ有力者である、テッサロニケ王ボニファッチョが、ブルガリア王カロヤンとの戦いで戦死致しました。原因は、敗走するブルガリア兵を深追いし過ぎて罠にはまったということのようです」
「また待ち伏せ作戦にはまったのか。ボードワンといい、ブロワ伯ルイといい、ラテン人の将は学習能力のない奴らばかりだな」
「そのようですね。とにかく、ボニファッチョの戦死により、その跡継ぎはまだ幼児のデメトリオとなったのですが、ウンベルト・デ・ビアンドラーテという人物が率いるラテン人の一派は、デメトリオではなくその異母兄グリエルモをテッサロニケの王に擁立し、皇帝アンリは幼いデメトリオの後見と、内戦の収拾に追われているようです」
「もうぐちゃぐちゃだね。確かにそんな状態では、ヴェネツィア人に見切りを付けられたとしてもおかしくはないね」
「問題はそれだけではありません。我々の行った情報工作が功を奏しまして、ローマ教皇インノケンティウス4世が特使オットボノ・フィエスキという人物を聖なる都に派遣しました。フィエスキは、噂どおりローマ人の改宗が一向に進んでいないのに立腹し、ヴェネツィア人の総主教トマソ・モロシーニを解任して、自ら総主教に就任しました。その上で、皇帝アンリに対し破門をちらつかせて、ローマ人の強制改宗を再開するよう強硬に要求し、アンリもその要求を受け容れざるを得なくなり、そのためアンリは支配下のローマ人から憎まれるようになったそうです」
「ほお、ソフィアの考えた計略が上手く行ったね」

 ちなみに、ソフィアの献策により僕が行った情報工作とは、例えばローマ教皇に対し、イサキオス帝の名前で次のような文面の手紙を送ったりしたことである。

『最も偉大なるローマ人の皇帝イサキオス・アンゲロス・コムネノスより、ローマ教皇インノケンティウスに告ぐ。野蛮なるフランク人のアンリ・ド・エノーは、ローマ人に迎合してそなたの支配下を離れ、ローマ人の正教に改宗し我こそ正統なローマ人の皇帝と自称しているようであるが、神に嘉された真なるローマ人の皇帝は朕のみである。アンリは不信仰の徒であるトルコ人と同盟を結んで朕の国を挟撃しようとしたが、父なる神より遣わされた朕の共同執政官ミカエル・パレオロゴスは、マイアンドロス河畔の戦いで数に優るトルコ人とラテン人を大いに打ち破り、呪われたトルコ人のスルタン、カイ=クバードと、似非正教徒アンリの部下ブロワ伯ルイを共に戦死させ、しかも味方には1人の死者も出さなかった。この一事をもってしても、神に嘉された真なるローマ人の皇帝が、アンリではなく朕であることは誰の目にも明らかである。十字軍の名を騙って、聖なる都を劫略した瀆神の徒に対しては、そなた自身を含めていずれ神罰が下るであろう』

 こんな感じで、戦勝を自慢する手紙の文面の中に、さらりとアンリが「カトリックの教えを捨てて正教に改宗した」という趣旨の文言を入れているわけである。文面は違うが、ルイ9世やフリードリヒ2世、その他西欧の君主や高位聖職者たちに送った手紙にも、似たような趣旨の文言が入っている。さらに、フルコーネ・ザッカリアを通じて、ジェノヴァ商人にも「アンリはローマ人に迎合するため、自らカトリックの教えを捨てて正教に改宗したようだ」という噂を流してもらっている。
 こうした噂を見聞きして、さすがにローマ教皇もその真偽を確かめずにはいられなくなり、特使フィエスキを聖なる都に派遣したところ、アンリ自身は正教への改宗などしていないと主張したものの、確かに噂どおりローマ人のカトリックへの改宗は全く進んでいなかったので、特使のお怒りを招いたというわけである。

「なお、新しい総主教フィエスキの許で、フランク人は教会の儀式はもとより、医療までフランク人のやり方を強要するようになり、アンリの支配下にいるローマ人たちは怖れおののいているとのことでございます」
「医療のやり方に怖れおののくって、どういうこと? フランク人の医療というのは、一体どういうものなの?」
 ちなみに、ラテン人とフランク人は、共に西欧から来た人々を意味する曖昧な概念であるが、古代に存在した蛮族の名称に由来する「フランク人」の方が、かなり軽蔑的な意味合いが強い。
「これは、ラテン人の国から最近わが国へ逃げてきた、あるローマ人の医者から聞いた話でございます。ある日、その医者はあるローマ人の兵士と女を診療し、兵士の方は足が化膿していたので、患部を切開して膿を出し、患部には膏薬を塗り、これによって兵士の症状は見る間に改善しました。そして女には、熱を下げる処置を施した上で、何を食べるべきかを列記して渡し、栄養を取るように勧めたそうです」
「まあ、妥当なやり方だね」
 ちなみに、イレーネの神聖術を使えばどちらも簡単に治せるだろうと思われがちだが、この国では神聖術を使った治療は一般にはまだ普及しておらず、神聖術を使った治療は僕の配下にいる兵士たちを除けば、貴族くらいしか受けられない。また、神聖術は怪我人に対しては物凄い効力を発揮するが、体力が弱っている病人の治療はそう簡単ではないので、神聖術とは別に医師としての知識や技術も必要になる。
 また、神聖術の中で死者を生き返らせる術は、推奨適性90の『蘇生』の術しかなく、これを実際に仕える術士は現在のところイレーネしかいない。しかもその術は、死者の死後24時間以内でなければ効果が無く、しかも『自爆』と同様に術者の全生命力と魔力を消費し、術者本人は死亡してしまうという術なので、そのような術の発動方法について研究がなされているだけで、実際に使われた例はまだ無い。また、大切なイレーネにそんな術を使わせるわけにも行かないので、神聖術で死者を生き返らせることはできないと考えた方が良いだろう。
 若干話が逸れたが、引き続きソフィアの話を聞こう。
「ところが、そこへフランク人の医師が入ってきて、『お前は本当の医術を知らない。医術というのはこうやるのだ!』と叫び、まず兵士に対してはもの凄い形相で、『どちらかを選べ。片足でも生きるか、それとも両足で死ぬか』と告げたそうです。恐れおののいた兵士は、片足でも生きる方がよいと答えたところ、そのフランク人の医師は、いきなり斧で丸太でも切るように、兵士の化膿した側の足を二度までも斬りつけ、その兵士の足は骨髄までが四方八方に飛び散り、気が付けばその兵士は既に息絶えていたそうでございます」
「何それ、間違ってもまともな医師のやることじゃないよ!」
「そして、フランク人の医師は、熱のせいではなくあまりに凄惨な光景を見せられたことで震えている女に向かって、『お前の頭には悪魔が棲みついている』と診断し、その女を悪魔と対決させるため、従者に命じて女の髪を全部剃らせる一方、女にはにんにくととうがらしを無理やりに食べさせたそうです。そして、そのフランク人の医師は、剃り上がった頭皮をメスで、十字型に骨に達するまで深く切り裂き、その傷口に塩を刷り込み、その女はうめき声も上げずに死んでしまったそうです」
「そこまで酷い話だと、さすがに本当の話なのかって気がしてくるんだけど」
「私もそう思ったのですが、私にこの話をしてくれたローマ人の医師は、神に誓って本当のことだと申しておりました。そしてそのフランク人の医師が『これが正しい神の教えによる本物の医療だ。よく覚えておけ』と言い残してその場を去った後、そのローマ人医師は仲間からも似たような話を聞かされ、もはやこのような国に我々の居場所はないと悟って、一緒にニケーアへ亡命することを決めたそうです」
「ラテン人の医師って、そんなろくでもない連中しかいないの!?」
「いえ、同じラテン人でも、例えばサレルノの医学校を卒業した医師ならばまともな治療をしてくれるそうですが、サレルノの医学校は宗教的には中立で、ユダヤ人やサラセン人まで入学を受け容れているそうでございます。他方、ラテン派の宗教に深く染まっている医師には、そういうろくでもない者が多いそうです。あるティエリの部下に話を聞いたところ、ローマ人の医師は素晴らしい、フランク人の地では医師に殺される王侯貴族も珍しくないと申しておりました」
「・・・まあ、そこまで裏付けが取れているのであれば、一応事実であると信じるしかないね」
「そのようなことも重なって、皇帝アンリは一旦手なずけたローマ人たちの信望を急速に失い、数少ないラテン人とヴェネツィア人の味方に頼るしかなくなっているそうです。このように、アンリは次第に追い詰められてきたようですが、この先の方針はいかがなさいましょうか?」
「最終的には、アンリの暗殺を狙う。アンリさえ始末してしまえば、もはやラテン人は大した敵ではなくなるだろう。その後、軍を率いて海峡を渡り、横暴なラテン人からローマ人たちを解放する」 
「しかし、一人の武将や聖職者を暗殺するというならともかく、皇帝アンリを暗殺するのは相当に困難です。かなり腕利きの暗殺者を用意しても、そう簡単に成功は望めないかと」
「腕利きの暗殺者は、余の方で用意している。そなたは、暗殺が成功しやすくなるよう、アンリの配下や側近などで暗殺に協力してくれそうな者を密かに探しておいてくれ」
「承りました。既にガリポリの領主、コンスタンティノス・パレオロゴス様は、カンタクゼノスを通じて交渉を進めた結果、既に内通を約束してきています。協力者を探すにあたっては、コンスタンティノス様にも尽力して頂きましょう」
「よろしく頼む」
「あと、ラテン人と北方で境を接しているブルガリア王カロヤンとの関係はどう致しますか? 『ローマ人殺し』を自称する、残虐なカロヤンとの同盟はかなり難しいかと思われますが」
「・・・ラテン人とブルガリアの双方を相手にしたくはない。難しいとは思うが、同盟締結の打診だけはしてみよう」
「承知致しました。ところで殿下、政務や謀略に励まれるのも結構ですが、少しはライアンを見習っては如何でしょうか」
「ライアン?」
 ライアンというのは、僕の部屋で飼っているネズミ捕り用の猫で、オスの方である。勘の良い読者さんは既に気付いているかも知れないが、名前の由来は独特の投法から和製ライアンなどと呼ばれている、東京ヤクルトスワローズの小川泰弘投手のあだ名である。メスのバーネットも、ヤクルトの優勝に貢献した外国人投手の名前から取っている。榊原家は父子揃ってのヤクルトファンなのだ。
「ライアンは、同じ部屋で飼われているバーネットが妊娠すると、他の部屋で飼われている雌猫とも次々と交尾し、たくさんの子猫を産ませています。宮殿内には他にもオス猫はいるのですが、どうやらライアンが一番強いらしく、この宮殿内ではボス猫のようになっています。帝国の統治を進めるためには、殿下の子供は多ければ多い程政略上も有利でございますから、殿下もライアンを見習って子作りに励んでくださいませ」
 またソフィアの子作り説教が始まった。ソフィアはいつもこんな風に、色々理屈をつけて僕に子作りをせよと説教してくる。僕はこの世界で子作りをする気はないが、そもそもこんな風に説教されて子作りをしようとする気になる男性が、果たしてどれほどいるだろうか。ソフィアは賢くて役に立つ女性だが、こういう所だけは困った存在である。

 若干話が脇道に逸れたが、その7。僕は、ニケーアに戻ってきたニケフォロス・スグーロスから、ある人物を紹介された。
「殿下。この者は、トルコのスルタンに仕えていたギリシア人で、名をヨハネス・コムネノス・マウロゾメスと申します。殿下にお仕えしたいと申しますので、連れて参りました」
「承知した。マウロゾメスとやら、なぜトルコのスルタンを見限って、余に仕えたいと申すのか?」
 見た感じ、マウロゾメスは40歳前後。名前はギリシア風だが、服装はトルコ人である。
「ではお話させて頂きます。私、ヨハネス・コムネノス・マウロゾメスは、祖先はコムネノス一門に属する帝国の貴族でございましたが、私の祖父がトルコ人に敗れて捕虜となり、それ以来代々トルコのスルタンに仕えてきたものでございます。イコニオンの宮廷ではギリシア人相手の通訳を務め、ギリシア語やトルコ語はもちろん、ペルシア語やアラビア語などにも自信があり、トルコの要人たちにも伝手がございます。きっと殿下のお役に立てることと存じます」
「それは分かったが、余はそなたが、どうしてトルコのスルタンを見限る気になったのかを聞きたいのだ」
「失礼致しました。トルコ人の国は、カイ=クバードがスルタンであった時代には安泰でございましたが、カイ=クバードが殿下の軍に敗れて戦死されてからは凋落する一方で、その後間もなく、トルコはバイジュ・ノヤンの率いるモンゴル軍に敗れてその属国化を余儀なくされ、跡を継いだカイ=ホスローも殿下の軍に敗れて戦死されました。その後は、カイ=ホスローの息子でまだ20歳にも満たないカイ=カーウスが一応スルタンの座に就いたのですが、政治の実権はモンゴルよりアジアの代官として派遣されたペルシア人のシャムス・アッディーン・ムハンマド・イスファハーニーという者が握っております。イスファハーニーは、モンゴル軍の力を傘に着て横暴の限りを尽くしており、トルコ人の高官たちは、皆イスファハーニーに嫌気が差しております。そのような中、カイ=カーウスの弟であるクルチ=アルスラーンやカイ=クバードもスルタンの位を狙って互いに争っており、私はもはやこのような国に未来はないと考えて、私に接触してきたニケフォロス・スグーロス殿に、出来ることならばローマ帝国に亡命させて頂きたいと申し出たのです」
 マウロゾメスの説明が終わった後、スグーロスからの報告が続いた。
「ご命令のあったスルタンとの交渉の件ですが、わが国に帰順したトルコ人たちの妻子を呼び寄せる件については、許可を頂いたというより、誰もそんなことに関心は無い、好きにしろという感じでございました。実際、トルコ人の国では国外への亡命者が増えており、誰もそれを取り締まる様子はないようですので、妻子の呼び寄せも順調に進んでおり、遅くとも今年末までには全員の妻子を呼び寄せられるでしょう。そして、亡きカイ=ホスローの妃と娘たちですが、身代金についてはイスファハーニーから金貨10枚しか出せない、不服があるなら好きにしろ、との回答でございました。こちらが、イスファハーニーから渡された金貨でございます」
 僕は、スグーロスからその金貨と称するものを見せられたが、その金貨はあまりにも薄い上に、銀の上に薄い金メッキが施してあるだけと一見して分かる代物で、とても金貨と呼べるものでは無かった。
「申し訳ございませんが、身代金に関する交渉については、失敗と申すほかございません。その代わり、このような惨状であれば、わが国との国境を守っているトルコ人の君侯たちや、イコニオンの宮廷に仕えている官人たちで殿下のお役にたちそうな者たちを、調略により寝返らせることが可能ではないかと考え、その任務で殿下のお役に立てそうなマウロゾメスをお連れしたという次第でございます」
「スグーロス、そなたの考えは分かった。マウロゾメスの仕官を許そう。そなたはマウロゾメスと共に、まずは帝国との国境地帯を守っている君侯たちの調略を進めてくれ。モンゴル軍も、余が軍を率いてイコニオンを攻撃してきたというならともかく、辺境の君侯たちが数人寝返ったくらいのことでは、いちいち兵を出してくることはあるまい」
「心得ました。では、捕らえてあるカイ=ホスローの妃や娘たちはいかがなさいますか?」
「もう役に立たないし、可哀そうだから全員解放し、イコニオンのスルタンの許に送り届けてやれ」
 もっとも、件の妃や娘たちは、マウロゾメスの話を聞くと「もうそんな国には戻りたくない」と言い出し、結局ビザンティン帝国で第二の人生を送ることになった。幸いにも結婚相手はすぐに見つかり、妃は妻を亡くしていた政治顧問のチャンダルル・ハリルと再婚し、4人の娘たちはそれぞれジャラールやメンテシェなど、トルコ人の若い将軍や官人の許へ嫁いで行った。
 僕は、イスファハーニーから届けられた金貨もどきを眺めながら、もはや未来がない国の悲哀とはこのようなものか、僕の生まれ故郷である日本も、このビザンティン帝国も、一歩間違えればこのような国になってしまうのかと、何とも表現しようのない寂寥感のようなものを感じていた。

 その8。僕はある日、ゲルマノス総主教からある相談を受けた。
「殿下、ラテン人の修道士、ジョヴァンニ・ダ・パルマと申す者に率いられた一団がお目通りを願っているのですが、いかが致しましょう?」
「ラテン人の修道士が何の用だ? ラテン派に改宗しろとか言ってくる連中なら追い返せ」
「いえ、そういう一団ではございません。彼らはフランチェスコ会と呼ばれる托鉢修道士の一団でありまして、ラテン派の教義を一方的に押し付けるのではなく、東西教会の分裂を深刻な事態として憂慮しており、平和裡にこの問題を解決したいと申しております。態度も謙虚で、修道士らしく清貧の生活を送っており、殿下の御嫌いな修道士たちとは明らかに違う者たちです」
「分かった。一応会ってみることにしよう」

「ミカエル・パレオロゴス殿下、本日は御目通りをお許し頂き、恐悦至極でございます」
 僕に謁見したジョヴァンニは、確かに他のラテン人のような傲慢さは見られない。みずぼらしい服を着ているが、確かに徳のある立派な修道士という感じがする。
「それで、余に何の用か」
「私どもは、同じキリスト教徒である我々とロマーニアの人々が、互いにいがみあっている現状を非常に痛ましく思っております。このような現状を打開するため、是非とも話し合いの機会を設けて頂きたいのです」
「そういうことであれば、余としても断る理由は無い。話し合いの機会を設けよう」
 こうして、ニケーアの宮殿内でラテン派の托鉢修道士たちと、正教の聖職者たちとの間で宗教会議が開催されることになった。宗教会議には僕も臨席し、正教側の代表はゲルマノス総主教。プレミュデス先生も聖職者ではないが、正教神学について造詣が深いということで出席者に加え、正教側で最も活躍したのはゲルマノス総主教や他の聖職者たちではなくプレミュデス先生であり、先生はラテン派の教義を鋭く批判していた。
 僕は、正教とラテン派、すなわちカトリックの違いについて「単になんとなく違う」くらいの認識しか持っていなかったが、その議論を聞いているうちに、正教とカトリックとの間には、主要なものだけで次のような違いのあることが分かった。
 第1は、教会の意思決定システムに関する違いである。
 カトリックの考え方では、ローマ教皇が第一の権威であり、カトリック教会はローマ教皇を頂点とするピラミッド構造の組織になっている。これに対し、正教会はカルケドン公会議という、800年くらい前に開催された古い公会議決定を根拠に、教会組織の頂点に立つのは上から順に聖なる都、ローマ、エジプトのアレクサンドリア、シリアのアンティオキア、そしてエルサレムの五大総主教座であるという考え方を維持している。もっとも、聖なる都はラテン人に奪われているので、現在はニケーアの総主教座がそれに代わるものとなっている。
 さらに、各総主教座にはかなり高度の独立性が認められており、各総主教座においても総主教が絶対的な権力を持っているわけでは無く、重要な事項については主要な高位聖職者を集めた教会会議で決めなければならないことになっている。正教の意思決定システムは、カトリックと異なりある意味民主的なシステムなのだ。プレミュデス先生は、ローマ教皇の絶対的首位権を主張するカトリックの考え方について、カルケドン公会議の決定に違反するものであり、異端の考え方であると熱弁していた。

 第2は、神の在り方に関する解釈の違いである。
 キリスト教では、父なる神と子たるキリスト、そして様々な奇跡を起こすという聖霊は三位一体の関係にあり、三者は実体こそ1つであるが、その性質ないし本質は異なるという考え方を採っている。ここまでは正教もカトリックも同じなのだが、三者の関係について解釈に違いがある。正教の考え方では、聖霊は父なる神から発し、子たるキリストは媒介者としての役割を果たすという教義が古くから確立しているが、カトリックの考え方では、聖霊は父なる神と子たるキリストの両方から発するのだという。
 こうした解釈の違いは、コンスタンティヌス大帝の時代に決められたニケーア信条の文言に端を発するもので、ギリシア語で書かれたニケーア信条の正文には、「聖霊は父なる神から発する」とはっきり書かれているのに対し、ラテン語で書かれたニケーア信条には、「聖霊は父なる神から、子からもまた発する」と書かれている。この『子からもまた』という文言はラテン語でフィリオクエというのだが、プレミュデス先生によると、このフィリオクエという文言が採用された事実はローマ帝国側の資料からは一切確認できず、フィリオクエの文言は何者かが勝手に付け加えたものであり、プレミュデス先生や他の聖職者たちは、聖霊の発出に関するカトリック側の解釈は異端であると激しく熱弁していた。

 第3は、聖職者の規律に関する違いである。
 正教の考え方では、聖職者は武器を持って戦ってはならないとされている一方、下級の司祭に関しては結婚することが許されており、宦官でも聖職者になることが出来る。これに対し、カトリックの考え方では、聖職者が武器を取って戦うことも容認されており、そのため世俗の騎士と戦う聖職者は、外見ではほとんど見分けが付かない。一方、聖職者になるには完全な男でなければならないとされ、宦官が聖職者になることは、基本的に認められていない一方、聖職者の結婚は全面的に禁止されている。
 もっとも、プレミュデス先生によれば、カトリックの聖職者なる者は、武器を持って人を殺す聖職者にあるまじき野蛮な連中であり、しかも高位聖職者のほとんどは公然と愛人を囲っているため、カトリックの聖職者に関する規律は全く意味が無いと熱弁していた。

 第4は、聖体拝領の儀式に関する違いである。
 正教の考え方では、聖体拝領の際信者に渡されるパンは、酵母が入った普通のパンでなければならないものとされているが、カトリックの聖体拝領では、酵母の入っていないパン、むしろパンというよりは餅に近いような食べ物が渡されるという。どちらのやり方が正しいのか議論の応酬となったが、この点に関しては双方ともに古い神学者の論文などを引用しており、それぞれに深い神学的根拠があるらしい。プレミュデス先生は、ラテン人のやり方はユダヤ人の影響を受けていると非難していた。

 両者の違いは他にもあるようで、宗教会議は3日間にわたり延々と続いたが、どうせ結論の出る見込みは無いと悟った僕は、業務多忙を理由に途中で退席し、後は聖職者たちとプレミュデス先生に任せることにした。僕としては、正教徒だけではなくイスラム教、ユダヤ教、ボゴミール派、クマン人の異教など、帝国に害を及ぼさなければどんな宗教でも公認しているので、こんな宗教論争に興味は無く、こんな論争に熱中する聖職者やプレミュデス先生の発想は理解できなかった。
 そして、3日間に及ぶ宗教会議が終わった後、ジョヴァンニ率いる托鉢修道士の一団はもう諦めて帰るだろうと思っていたが、あれほど激しい宗教論争を終えた後にもかかわらず、礼儀正しく僕に別れの挨拶をし、また来ると言っていた。一応、ローマ教皇側との外交交渉が必要になったら彼らの存在も役に立ちそうに思われたので僕も丁重に見送ったが、あんな不毛な論争を続けても懲りない彼らの発想も正直理解できない。
 僕は、今後こうした問題には二度と深入りしないと心に決めた。

 その9。僕は宗教会議の後、プレミュデス先生とこんな相談をした。
「プレミュデス先生は、確か医学が一番のご専門でしたよね?」
「左様でございます。現在も時々医師の仕事をしておりますからな」
「そんな先生を見込んでの相談なのですが、ニュンフェイオンへの本拠地移転が実現したら、ニュンフェイオンに医学校を設立したいのです」
「医学校ですか? それはまたどのようなお考えで」
「この国の医療水準は、フランク人に比べればかなりましですが、それでも緑学派の神聖術を用いた医療はまだ普及していません。僕としては、この国の医療水準を高めるために、緑学派の神聖術と医術の両方を学べる医学校を開設して多くの優秀な医師を育て、将来的には一般の庶民でも神聖術を用いた医療を受けられるようにしたいのです。高度な医療の普及は、この帝国の人口増加、帝国の発展にも大きく寄与すると考えられます」
「なるほど。このプレミュデスとしては、悪くないお考えかと存じますぞ」
「そこで、高名な医師であり緑学派の博士でもあるプレミュデス先生に、ニュンフェイオンで新設する医学校の初代校長を務めて頂きたいのです」
「この私めがでございますか?」
「はい。僕も緑学派の神聖術はある程度習って修士号までは取得しましたが、医学校の開設や運営にあたりどのような施設や教員を揃えれば良いのか、そういった専門的な知識まではありません。そのため、開設の準備を含め、プレミュデス先生にこの仕事をお願いしたいのです」
「まあ、私めも医師として多くの弟子を育ててきましたから、不可能ではありませんが、新しい医学校の募集要項はどのようなものになりましょうかな?」
「ローマ帝国に忠誠を誓い、この国で医師として働く意思のある者は、宗教や宗派の別を問わず、原則として誰でも受け容れます。医学校の運営費は国費から出しますので、授業料は無料。生活が苦しい学生に対しては、生活費も支援します。入学が許可された者に対しては、緑学派の神聖術習得も同時に許可します。卒業生に対しては、帝国の医官として5年以上勤務するか、または帝国の病院に5年以上勤務してもらい、その後の進路は本人の自由とします」
「それほどの厚遇であれば、入学志望者が殺到するおそれがありますが、志望者が定員を超えた場合の取り扱いはどう致しましょうか?」
「その場合は、医師としての適性と学ぶ意志の高いものを優先します。選抜の具体的な方法については先生に一任します」
「また、入学者に神聖術を学ばせるとなると、それを通じて外国に神聖術の秘密が漏れる可能性も高くなりますが、その点はどうお考えなのですかな?」
「神聖術の秘密は、少なくともヴェネツィアなど一部の外国には既に漏れています。特に、進取の精神に富んだヴェネツィアは、ひょっとしたら我々より先に同じようなことをやっているかも知れません。そうなる前に、神聖術を積極的に活用し研究も続け、神聖術の第一人者としての優位性を維持し続ける。それが僕の考え方です」
「そういうお考えであれば、このプレミュデスとしても異存はございません。ただ、殿下のお考えは、どうやら一から医学を学ぶ者を前提とされているようですが、この国には既に医師として相当程度の技能を持ち、ただ神聖術は習得していないという者も多数おります。そうした者が入学を希望してきた場合はどのように致しましょうか?」
「・・・基本的に、そのような入学希望者も受け容れてあげてください。既に医師としての知識や技能を持っており、新たに学ぶことがほぼ神聖術のみという学生については、卒業後直ちに医師として元の仕事へ戻ることも許可します。詳細については先生にお任せします」
「分かりました。これはかなりの大仕事になりそうですが、財政的には問題ございませんのですか?」
「ロードスの和約で、毎年ヴェネツィアから物凄い金額の貢納金が入ることになったので、全く問題はありません。医学校の設立は、貢納金を有効活用するための政策の一環です。せっかく多額の貢納金が入っても、使い道が無くただ金庫に眠らせておくのでは意味がありませんから」
「なるほど。ではこのプレミュデスは、殿下の側近としてはお役御免ということですかな?」
「そうではありません。普段は医学校の経営をして頂きますが、医学校は僕の転居先であるニュンフェイオンに作りますので、先生にも度々ご相談に乗って頂く機会はあると思います。特に、あの托鉢修道士の一団がまた来た時には、またプレミュデス先生にご活躍して頂くことになりそうなので」
「心得ました」
「それにしても、この国には聖職者や修道士がたくさんいるのに、神学について一番お詳しいのが俗人であるプレミュデス先生というのは、一体どういうことなのですか? 専業の聖職者や修道士たちは、一体何をしているのでしょう?」
「それはちょっと難しいご質問ですが、わが国ではラテン人と違って、神学は聖職者たちの独占物ではないのでございます。内宰相のアクロポリテス殿も、神学に関しては並みの聖職者よりはるかに詳しいほどでございます。そしてこの国で若いうちから聖職者になろうとする者は、低い身分から聖職界で成り上がろうとしたゲルマノス総主教のような者は別として、神学を熱心に勉強するというより、むしろひたすら瞑想を続けて神に近づく修行を好むものが多く、聖職者や修道士たちの学問水準は、一部を除きあまり高くはございません。特に、高貴な身分の生まれで早くから聖職界に送り込まれる者は、臆病なので軍人も駄目、学問が不得手なので官僚も駄目という者が多いのでございます。ラテン派の聖職者や修道士には頭脳派が多いのに対し、正教の聖職者や修道士に無学な者が多いというのは、わが国の正教が抱えている悩みの1つなのでございます」
「なるほど。ご教授ありがとうございます」
 それで、この国の聖職者や修道士には頭の悪い連中が多いのか。そんな連中が権勢を振るい、国政にまで口を挟むことは絶対に間違っている。プレミュデス先生には悪いけど、この国を建て直すには、正教の影響力を低下させ、聖職者や修道士たちの発言力を低下させることがどうしても必要になりそうだ。

 その10。僕はかねてから、孤児の少年を宦官にしてしまうという恐ろしい孤児院の実態を何とかしたいと考え、その対策について内宰相のアクロポリテス先生に相談した。
「殿下、お話は分かりましたが、教会運営の孤児院については殿下の権限でも手を出すことは出来ませぬので、別途国営の孤児院を作るほかに対策はございません。また、国営の孤児院を作るということであれば、娼館の取り締まりも同時に考えなければなりません」
「なぜその2つが結びつくのですか?」
「私の知る限り、孤児院に入る子供のうち相当数が、娼婦の産んだ子供だからです。また、国営の孤児院を運営するのであれば、娼館の経営者から税を取り、それを運営費の一部に充てるのが合理的でありましょう。また、聖なる都の陥落に伴い、劣悪な暮らしを強いられている娼婦も増えており、そうした者への救済策も考える必要がありましょう」
「なるほど」
「ただし、現在の法では、建前上は売春自体が禁止されておりまして、娼館から税金を取るとなると、娼館の運営を合法化することになってしまいます。特に、潔癖な者や聖職者たちからの反発は避けられないでしょう。いかがなさいますか?」
 どうすればいいんだろう。しかも、まだ10代で童貞の僕が、売春を合法化するかどうかなんて重大な決断をしなければいけないのか・・・?

(どちらを選びますか?)
A 現状のまま放置する。
B 売春を合法化した上で、娼館から税を徴収し福祉対策に充てる。

 少し悩んだ末、僕はBを選んだ。
「建前上は禁止されていると言っても、実際娼館なんてどこの町にもあるんだし、意味のない法は撤廃しよう。その上で、娼館の主には帳簿を作成させ、客から受け取った額の2割を税として徴収し、少なくとも4割を娼婦本人の収入にすることを義務付ける。それと並行して、国営孤児院の設置にも着手しよう」
 こうして、僕の考えに基づく新法による娼館の取り締まりが始まったが、僕もこの国の役人も娼館の実態をよく把握していなかったために様々な問題が生じ、僕の許へ役人たちから次々と質問が寄せられてきた。

「殿下、娼館ではなく、劇場や浴場で売春をしている娼婦や、個人で勝手に身体を売っている娼婦についてはいかがなさいますか?」
「・・・娼館ではなくても、店主による管理のもとで売春をさせている店については同じ規制を適用する。個人で勝手に身体を売っている娼婦については、適用の対象としない」

「殿下、浴場で売春をしている娼婦について、女が個人で勝手に売春をしているだけだと主張し、区別がつきにくい事例があったのですが、どのように判断すれば宜しいのですか?」
「・・・その娼婦に事情を聴いて、客から受け取った金が全額その女に入っているのであれば、個人娼婦とみなし適用対象としない。店主らしき者が少しでも上前をはねているのであれば、適用の対象とする」

「殿下、女ではなく若い少年に客の相手をさせている娼館があったのですが、その取扱いはいかが致しましょう?」
「そんな店があるの!?」
「私も知らなかったのですが、世の中には同性愛の需要というものもあるらしく・・・。そもそも、同性愛行為自体が違法であり、本来は処罰の対象にしなければならないのですが」
「・・・そういう店も、娼館に準じるものとして取り扱う。同性愛を禁止する法律は、当面の間施行停止にする」
「そこまでやってしまわれるんですか!?」
「そんな店があるということは、同性愛を規制する法律もどうせ機能してないんでしょ。建前だけの法律を残しておく意味は無いよ」

 こんな感じで、僕はしばらく頭の痛くなるような質問に対する回答を余儀なくされ、最初の1年くらいは混乱が続いたが、やがて娼館の実態把握と取り締まりに対するノウハウが身に付き、女性たちを奴隷のように搾取する悪質な売春業者に対する効果的な取り締まりも可能となり、国営孤児院の運営や、娼婦として食べて行けなくなった女性や、娼婦を辞めたい女性などへの対策なども次第に進んでいった。また、罰則だけでは規制を守るインセンティブにならないという指摘があったため、定期的な娼婦たちの性病検査や健康診断も含め、規制をきちんと守っている娼館に対しては、帝国公認の優良店と認定し、その旨を示す専用の紋章を掲示することを認めることになった。
 ・・・もっとも、こうした政策を進めたことにより、僕自身は男女混浴に続き、売春や同性愛まで合法化した極めて好色な統治者だという、あらぬ誤解を受けることになった。

第5章 皇女様への性教育

 ニケーアへ戻って半月ほど過ぎたある朝。僕が目を覚ましたところ、メイドのマリアはまだ僕の横ですやすやと眠っている。珍しいな、いつもはマリアの方が先に起きて僕を起こしてくれるのに。
 仕方ないので、僕は優しくマリアの肩を叩いて、起こすことにした。
「マリア、もう朝だよ。そろそろ起きないと」
 僕に起こされたマリアは驚いて、
「ふえっ!? ご主人様!? ふわわわわわ、どうしよう、なのです・・・」
 何やらワタワタと慌てるマリア。
「どうしたの?」
「メイドは、ご主人様より先に起きて、ご主人様を起こすのがお仕事なのです。ご主人様が先に起きてしまっては、メイドのお仕事が出来ないのです・・・」
「そんなこと言われても」
「すみません、ご主人様。・・・やり直しをお願いできないでしょうか、なのです」
「やり直し? まあいいけど、何するの?」
 僕がそう答えると、僕はマリアによって再びベッドに寝かしつけられ、その後衣服を整えたマリアに、再び起こされた。
「ご主人様、おはようございます、なのです!」
 向日葵のような笑顔で、いつも通りおはようの挨拶をしてくるマリア。その姿自体はとても可愛らしいのだが・・・一体何なんだ、この茶番劇。
 その後、マリアは一転してしゅんとなり、僕に謝ってきた。
「ご主人様、私のお仕事にお付き合い頂き、ありがとうございました、なのです。・・・あと、申し訳ありません、なのです」
「まあ、別に謝るほどのことではないからいいけど」

 その後、僕は侍従長のオフェリアさんに、僕付きのメイドは僕より先に起きて、僕を起こさないとお仕置きでもされるルールがあるのかと尋ねたところ、別にそんなルールはないという。そこでオフェリアさんに今朝起きた出来事を話したところ、オフェリアさんはこう答えてきた。
「マリアはドジすが真面目な子ですから、おそらく決められたとおりに仕事をやらないと、気が済まないのでしょう。あと、マリアは最近寝不足気味のようなので、労わってあげてくださいませ」
 そうなのか。マリア、どこか体調が悪いのかな。

 それと同じ日。僕は再び、テオドラの異母妹で侍女扱いされているソーマちゃんの来訪を受けた。
「ソーマです。殿下にはお忙しいところ、申し訳ございません」
「いらっしゃい、ソーマちゃん」
「いらっしゃいませ、ソーマちゃん、なのです」
 ソーマちゃんの来訪に、僕とマリアが対応する。詳しい事情はよく分からないが、この宮殿では「ソーマちゃんのことはちゃん付けで呼ばなければならない」という謎のルールが存在する。マリアもそのように教わっているようなので、一応従っておいたほうが無難だ。それに十分可愛いし。
「殿下、本当にお忙しいところ、申し訳ないのですが・・・。再び、皇女様のお部屋に来て頂けないでしょうか?」
「また何かの悪戯?」
「いえ、今回は、皇女様の新作ドレスが完成したので、それを殿下にお見せしたいとのことです。そんなにお時間はおかけしないと思いますので・・・」
「分かった、行くよ」
 こうして、僕はソーマちゃんに案内されて、テオドラの部屋を訪問することになった。なんで僕が、テオドラの新作ドレス披露会に付き合わされなきゃいけないんだという思いはあったが、お使いのソーマちゃんを責めるわけにも行かない。
 僕がソーマちゃんと一緒に、テオドラの部屋へ入ったその瞬間。一匹の猫がどさくさに紛れてテオドラの部屋へ侵入した。
「こら、何よこの馬鹿猫、うちのレオーネに何やってんのよ!」
 テオドラが猫に向かって怒っている。見ると、僕の部屋のライアンが、レオーネと交尾していた。あちこちの雌猫に手を出しているという噂は聞いていたが、こんなところにまで遠征に来ていたのか。もっとも、猫が実際に交尾している瞬間を見たのは、僕も今回が初めてだった。
「この猫は、邪悪な妖気に満ち溢れています。この聖女テオファノが、妖気を打ち払いましょう」
 テオドラの妹で聖女ごっこの大好きなテオファノが、交尾中のレオーネに向かって何やらお祓いのようなことをやっているが、実際にテオファノが出来たことは、素早く事を終えたライアンを部屋の外に追い出すことくらいだった。本当に適性91の術士なのか、この子。
「あの馬鹿猫、一体何しにきたのよ!?」
 僕は、怒るテオドラを宥めようとして、
「何って、どう見ても交尾じゃない・・・ってテオドラ、一体何、その格好!?」
 ライアンとレオーネの交尾を見たせいで気付くのが遅れてしまったが、テオドラはもの凄く過激なファッションのドレスを着ていた。やたらと宝石や装飾が付いて派手なのはいつもと変わらないが、胸元が思いっきり開いており、ほとんど乳首が見えるか見えないかという程だった。気が付けばお付きのルミーナも、テオドラと似たような格好をしている。
「ふふふ、みかっちがあんなに動揺しているわ。どうやらこの新作ドレスは、成功だったようね」
「ええと、話が全然見えないんだけど、一体何が成功なの?」
 僕は、テオドラの胸をできるだけ見ないようにしようと思ったが、テオドラと話す以上彼女の方に向かないわけにも行かず、テオドラを見ると際どいドレスで半分ほど剥き出しになった、テオドラの見事なロケットおっぱいにどうしても目が行ってしまう。
「あたしはね、みかっちの反応を見て、やっぱり世界一美しいあたしの魅力を引き立てるものは、あたし自身しかないってことに気が付いたのよ」
「・・・ごめんテオドラ、もう少し分かるように説明してくれない?」
「つまり、みかっちはあたしの裸とか、胸と腰を隠しただけの格好とかを見たときには動揺するけど、華麗なドレス姿やローブ姿を見ても全然動揺しないじゃない?」
「まあ、確かに以前、そんなことを言ったような覚えはあるけど」
「そこであたしは考えたのよ。あたしの魅力を最大限に引き立て、みかっちを動揺させるような新しいドレスはないものかって。そして町を歩いていた時、町の繁華街を歩いている女たちの姿を見て閃いたのよ。これだっ!!って感じにね」
 僕はようやく事態を理解できたが、同時に頭を抱えた。テオドラが言っている女たちというのは、娼婦たちのことである。この国の娼婦さんたちは、客引きの際に胸が見えるか見えないかくらいの際どい格好をしており、規制当局も同性愛と区別するには必要とかいう訳の分からない理屈を付けて、そうした格好を黙認しているのだ。ちなみに、時系列的には僕が売春合法化を決断する少し前の出来事である。
「テオドラ、その格好はね、娼婦さんのする格好だから、それを真似するのはまずいよ」
「娼婦って何よ?」
「娼婦っていうのは、お金をもらって、お客さんと子作りの相手をする人たちのことで・・・」
「ふうん。だから何っていうのよ?」
「だから、皇女様ともあろうお方が、よりによって娼婦の真似事をするというのはけしからんというか、そういう非難を受けることは避けられないというか・・・」
「でも、みかっち、あたしのこの格好見て、明らかに喜んでるじゃない。さっきからあたしの胸チラチラ見てるし」
「そうですよ。殿下は時々ルミーナの胸もチラチラ見てますよ。ほら殿下、この格好気に入ったって白状しちゃってくださいよ。そうすればルミーナが楽にしてあげますよ」
 その後も、僕はテオドラに何とかその格好を止めさせようと説得を試みたが、テオドラとルミーナにダブルでからかわれ続け、ついに説得を断念した。
「・・・もういいです。好きにしてください」
「じゃあ、この新作ドレスは正式採用ってことにするわ。ところでみかっち、さっき言ってた『交尾』って何?」
「交尾っていうのは、いわゆる子作りのことで、あれをやると子供が出来るんだよ」
「ということは、そのうちレオーネが子猫を産むってこと?」
「100%産まれるかどうかは分からないけど、そのうち産むかも知れないね」
 僕はそう答えながら、レオーネの方を見た。レオーネは満足そうな顔をして休んでいる。
「それじゃあさっきの馬鹿猫は、レオーネと子作りするために来たってこと?」
「そういうこと。ちなみにあの猫は、僕の部屋のライアン」
「なんで、あんたの部屋の猫が、あたしの部屋にまで子作りしに来るのよ」
「メス猫って、交尾したくなったときはオス猫を誘うような鳴き方をするから、たぶんその声を聞きつけてやってきたんじゃないかと思うけど」
「そう言われれば、最近レオーネって変な鳴き方するからおかしいとは思ってたのよね。あれ、子作りしたいって意味だったのね。猫と人間の子作りって、ずいぶん違うものなのね」
 そう言ってテオドラは首をかしげていたが、どうやら用事は済んだらしいので僕はテオドラの部屋を退散し、自室に戻った。

 その3日後。僕が午後の日課を終え、自室に戻ったとき。
「あ、ご主人様、お、お帰りなさい、なのです・・・」
「ただいま、マリアって、一体何、その格好!?」
 ただでさえ、ノーパンミニスカで際どい格好をしているマリアが、胸もテオドラと同様半開きになっている服を着ていた。ソフィアもその場におり、マリアと同じような格好をしている。
「殿下、私たち殿下付きのメイドは、皇女様を見習って服装をリニューアルすることに致しました」
 ソフィアがそう説明する。
「テオドラを見習ってといっても、君ならそれ、娼婦さんの格好だってこと知ってるよね!?」
「だからこそです。皇女様のみならず、あのルミーナまであんな格好を始めた以上、私たちも負けるわけには行きません。私どもは、いわば殿下専用の娼婦でございます。娼婦である以上、娼婦らしい格好をするのはむしろ当然のことでございます」
 僕は頭を抱えつつ、以前から抱いていた疑問をソフィアにぶつけた。
「ソフィアって、何かにつけルミーナと張り合ってるイメージがあるけど、何か因縁でもあるの?」
「私とルミーナは同じ年で、共にラスカリス将軍の家で育てられました。ラスカリス将軍やアマリア様は私にも比較的優しくして頂きましたが、ルミーナは小さい頃から、事あるごとに私のことを娼婦の娘だとか、色気が無いとか、首から下は役に立たない頭でっかちの女だとか、大して勉強もできないくせに私のことを散々馬鹿にしてきたのです。本当にルミーナは・・・」
「もういい。今の話で大体分かった」
 どうやら、ソフィアとルミーナは、子供のころから犬猿の仲だったらしい。

 余談になるが、テオドラによる新作ドレスの影響は、マリアやソフィア、マーヤといった僕付きのメイドさんたちにとどまらず、間もなく宮殿中に流行し、侍従長のオフェリアさん、まだ子供のソーマちゃんや真面目なプルケリアまで似たような服を着るようになった。宮殿に住んでいる主だった女性陣で影響を受けなかったのは、服装に独自のこだわりがあるイレーネとテオファノくらいだった。
 さらに、テオドラが件の新作ドレスを着て平然と町を闊歩するようになると、なぜか他の女性たちもテオドラの真似をするようになり、胸元が極端に大きく開いたファッションは、やがて帝国中の流行となってしまった。規制しようにも、テオドラ皇女様がやっている服装だからと言われたら男たちも反論のしようがない。こうして僕や帝国の高官たちは、新たな悩みの種を抱えることになってしまった。

 また別のある日。僕はテオドロス・ラスカリスから、武術の訓練を受けていた。
「大将も、そこそこは出来るようになってきたな。俺様ほどではないが、剣も弓も、軍の司令官としてはまずまずの腕になってきたとは思うぜ」
 テオドロスに太鼓判を押してもらった僕が、武術訓練の中で最近はまっているのは、ナイフなどを投げる投擲術だ。僕はサイドスローでナイフを投げるのだが、結構命中率が高い。そして僕は、神聖術を応用して投げナイフの速度と威力を更に高められないか実験してみたところ、これが意外なほど上手く行き、僕は1キロメートルほど離れた的でも、ナイフで正確に射貫けるようになった。
 その威力を見たテオドロスは感嘆した。
「これはすげえな。こんな威力でナイフを投げられたら、俺でも防げる自信ねえぜ」
 神聖術の博士号を取得するには、既存の術を使えるだけでは駄目で、何らかの応用力を示さなければならない。僕が博士号を取るための応用術は、このナイフ投げにしよう。
「良かったら、テオドロスも神聖術習ってみない? 結構便利だよ」
「俺はやめとく。神聖術って、結構色々勉強しなきゃいけねえんだろ?」
「まあ、本とか読める必要はあるね」
「俺様は、本なんて読むのはまっぴら御免だ。本なんて、全部燃えちまえばいいんだ!」
・・・テオドロスの学問嫌いは、相変わらずのようだった。

 そして、武術の訓練が終わった後のこと。
「ところで大将、もうすぐ、劇場で伝説の踊り子テオドラちゃんの舞台公演が始まるんだが、一緒に見に行かねえか?」
 伝説の踊り子テオドラちゃんとは、例の爆裂皇女テオドラと同一人物であるが、その正体は僕やイレーネなどごく限られた人物しか知らない。一度テオドラの舞台を見たことがあるが、普段のテオドラとは別人のように可愛らしく愛想を振りまいているので、テオドロスを含めほとんどの者は、「伝説の踊り子テオドラちゃん」と「テオドラ皇女」は別人だと思い込んでいる。
「・・・遠慮しとく」
「でも大将、テオドラちゃん本当に可愛いぞ! 踊りも凄く上手いし、一度見る価値はあるぜ」
「・・・もう見たことあるからいい」
 僕は、テオドロスの誘いを断って、そのまま宮殿に戻った。テオドラの暴走や傍若無人な振舞いにはしょっちゅう悩まされているけど、見た目は確かにとんでもない美少女で、しかもテオドラの言動は僕に構って欲しいという面もあるらしく、彼女なりに僕に好意を抱いているような節もある。でも、そんなテオドラに惚れてしまうというのは、僕のプライドが許さない。
 おかしな話だと思われるかも知れないが、僕の頭の中では、テオドラはあくまで「黙っていれば美少女」というだけのわがまま女でなければならないのだ。あの可愛らしく客たちに媚を売っている踊り子姿のテオドラを再び見てしまったら、僕の中でそんなテオドラのイメージが崩れ、僕はテオドラに惚れてしまうかも知れない。それはあの爆裂皇女様に、僕の心も身体も屈服してしまうことを意味する。それだけは絶対に嫌だ。

 やがて、僕の入浴時間が来たので僕が1人で風呂に入っていると、テオドラがまた裸で風呂に乗り込んで来た。一体これで何度目だろう。心の中では嫌だと思っているのに、身体はテオドラの裸にしっかり反応してしまう。僕が心の中で自己嫌悪に陥っていると、
「みかっち! なんであんた、あたしの舞台に来ないのよ!?」
 テオドラが、自分の踊りを見に来なかったことに文句を言ってきた。
「何でって、僕は特に呼ばれてないし」
「呼ばれてなくても、今日あたしが舞台に出るって噂くらいは聞いてたでしょ? あたしが出るって知っていたら、あたしの忠実な奴隷として、あたしの晴れ姿を見に来るのは当然のことじゃないの!」
「何それ?」
 相変わらず、テオドラの言うことは理不尽極まりない。
「何それじゃないわよ! せっかく、あたしがみんなの前でみかっちにあたしの美しさを見せつけて、みかっちを完全に屈服させるつもりだったのに、肝心のみかっちが来ないんじゃ意味がないじゃない!」
「今日、テオドラが劇場へ踊りに行ったのは、僕に見せるのが目的だったの?」
 もしそうだったら、せめて自分で来るなりソーマちゃんを寄越すなりして一声来いって言えよ。来いとはっきり言われれば、僕だってさすがに行く・・・というか、行かざるを得なかったのに。
「そうよ。あたしの世界一美しい姿にみかっちも魅了され、そのうち自分からあたしにひれ伏して『世界一美しい太陽の皇女様、私めは皇女様の忠実な奴隷として生涯お仕え致します』って言うようになるわ。私の美しい踊り子姿を見に来ないんじゃ、あたしの完璧な計画が台無しじゃない!」
 全裸姿のままぷんぷん怒るテオドラの言葉に、僕は何か違和感を感じた。
「それ、僕の心を操る神聖術でも使う気?」
「そんなの使わないわよ。あたしの世界一美しい姿を連日目にしていれば、男の子は自然とそうなるに決まっているじゃない!」
 なんだそりゃ。僕は、その後も続くテオドラの意味不明なお説教を聞き流しつつ、何かを根本的に勘違いしているテオドラをどうやって説得しようかと悩んでいると、テオドラの指に、宝石の付いた綺麗な指輪がはめられているのに気が付いた。
「テオドラ、その指輪って何?」
「この指輪はね、『皇女の指輪』っていうの。ローマ帝国の正統な皇女たる証なのよ。この指輪はね、結婚するまでは入浴中でも外しちゃいけないことになっていて、あたしにも外せないのよ」
「その指輪って、何か神聖術でも掛けられているの?」
「この指輪にはね、『貞操の術』ってのが掛けられているの。この指輪の効果で、あたし自身を含めて、あたしのお股には誰にも触ることができないの。触るとビリビリ来ちゃうのよ。でも、こんな術に一体何の意味があるのかしらね?」
 そんなもの僕にでも分かる。どう考えても、皇女様に結婚するまで処女を守らせるのが目的だろう。貞操帯と似たようなものだ。
「別に、充分意味はあると思うけど」
「何でよ。こんなもの、何の意味もないじゃない!」
 僕の違和感はますます強くなった。そこで僕は、テオドラにこんな質問をしてみた。
「そもそもテオドラ、君はどうやったら子供が出来るか知っているの?」
「もちろん知ってるわよ!」
 僕を指差しながら胸を張る、いつもの台詞と決めポーズ。さて、今度はどんなボケが来るのだろうか。


「キスすれば出来るんでしょ?」


「はあ?」
 僕は、思わず間抜けな声を挙げてしまった。
「男の人とキスをすると、赤ちゃんの種が口からあたしの身体の中に入ってきて、あたしの身体の中でだんだん大きくなって、最後はあたしのお股にある赤ちゃんの穴から出てくるのよ。完璧でしょ! みかっちに『意思疎通』の術をかけるとき、キスで赤ちゃんが出来ちゃうんじゃないかってとても心配してたけど、出来なくて安心したわ」
 ・・・一体どこで習ったんだ、その詳しい割に肝心なところが間違っている性知識。
「・・・それって誰から教わったの?」
「誰にも教わってないわ。誰に聞いても『皇女様にはまだ早いです』とか言われて教えてくれないから、あたしなりに推理したのよ」
「そうなんだ。・・・結論だけ先に言うと、後半はだいたい合ってるけど、入口のところが完全に間違ってる」
「一体、あたしの完璧な推理のどこが間違っているっていうのよ!」
 僕は心の中でため息をつき、こうなったらこの皇女様に正しい性知識を教えるしかないと心に決めた。

 ・・・なお、僕がこのときテオドラに教えた「正しい子供の作り方」の内容については、詳細に書くと18禁になってしまうおそれがあるので、ここでは大幅に割愛させて頂きます。ここでは、テオドラが意味を知らなかった「インポテンツ」や「娼館」などについても、かなり具体的に説明しました。

「子作りって、そ、そんなに痛いことするの!?」
 僕の説明を聞き終わったテオドラが怯えている。
「そう。特に最初は物凄い痛いらしいよ。何回もやっていると、次第に慣れてくるらしいけど」
 皇女様が子作りに関心を持ってはまずいので、次第に気持ち良くなるとは敢えて言わない。
「そんな痛いことを、何回もしなきゃいけないの!?」
「そうだよ。子供ってそう簡単に出来るものじゃないから、若い夫婦が1年くらい毎日のように子作りして、やっと一人子供が出来れば良い方って感じ」
「毎日そんな痛いことをするの!?」
「そうだよ。それにお腹の中に子供が出来てからも、体調が悪くなったりするし、出産のときも凄く痛いらしいし」
「子作りって怖い。まさに拷問だわ」
 テオドラが良い感じに怯えてる。
「そう。まさに拷問だよ。そしてさっきも説明したけど、男の人は女性の裸を見ると魅了されてひれ伏すのではなくて、子作りの準備が出来てしまって、子作りをしたい強烈な衝動に駆られてしまうんだ。テオドラの場合、『皇女の指輪』があるから子作りされる危険は低いと思うけど、それでも男の人の前で女性が裸を晒すことは、その男の人に押し倒されて無理やり子作りをさせられてしまう可能性が高い、とても危険な行為なんだ。今後は止めた方がいいよ」
「・・・そうだったのね。これからは気を付けるわ」
 テオドラも納得してくれたようだ。これでもう裸を見せつけられることは無くなるだろう。
「でも、みかっちの話だとちょっとおかしいことがあるわ」
「何?」
「うちのルミーナがね、時々みかっちと子作りしたいって言ってるんだけど、あの子なんで、そんな拷問みたいなことをしたがるのかしら?」
 ・・・あのルミーナ、日頃からそんなこと言ってるのか。
「たぶん家のためだと思うよ。ルミーナはラスカリス将軍の娘で、ラスカリス将軍は娘たちを宮殿に仕えさせて僕に取り入ろうとしているから。僕に仕えている将軍の養女ソフィアも、僕に子作りしてくださいって連日せがんでるし」
「ああ、あの変態メイドね。そっちの方はよく知らないけど、その割には喜んで子作りしたがってるような気がするのよね・・・。まあ、これからルミーナに聞けばいいか。じゃあみかっち、またね」
 そう言い残して、テオドラは浴場から出て行った。しかし「変態メイド」ってソフィアのことらしいけど、一体何のことだ?
 長話のせいで、僕の残り時間はわずかだ。次はイレーネの番だから、早く入浴を済ませないと。
 僕が急いで身体を洗っていると、早くもイレーネが裸になって、浴場に入ってきてしまった。
「ご、ごめん、イレーネ。すぐに出るから」
 慌てて浴場を出ようとしたところ、イレーネに抱き付かれて止められてしまった。
「出なくていい。私と一緒に入ればいい」
 イレーネの言いたいことはすぐに分かった。遠征中は、毎晩イレーネと裸で肌を重ね合って寝ていたのに、ニケーアに戻ってからは会う機会が激減して、イレーネとしては寂しいのだ。
「でも、遠征中ならともかく、ニケーアの宮殿でこんなことをしたら、他の人にばれるかも」
「ばれてもいい。私はあなたの性奴隷。あなたにご奉仕するのが私の使命であり、喜び」
・・・イレーネに甘えられてしまった僕は逆らえず、結局イレーネの持ち時間ぎりぎりまで、イレーネとエッチな入浴時間を過ごすことになった。

第6章 皇女の指輪

 イレーネとの入浴を済ませ、夕食後自室に戻った僕は、ソフィアに迎えられた。今日はマリアがお休みなので、ソフィアが代役を務めることになっている。
「お帰りなさいませ、殿下。ずいぶん遅くなられたようですね」
「ああ、途中でテオドラが入ってきて、『皇女の指輪』の話なんかで長くなっちゃったんだ。イレーネにも迷惑かけちゃったね」
「そうなのですか。具体的にどんな話を?」
「まあ、『皇女の指輪』がなんであるのか分からない、っていうような話」
 僕が適当な答えでソフィアからの質問をはぐらかしていると、ソフィアは真面目な顔でこう問いかけてきた。
「殿下は、『皇女の指輪』についてご存じないのですか?」
「知らない。指輪の存在自体、今日テオドラから聞いて初めて知った」
「左様でございますか。『皇女の指輪』は帝国にとって結構重要なものですから、少々話が長くなりますが、今夜私の方からご説明させて頂いても宜しいですか?」
「それじゃあ、お願いするよ」
 長話と言っても、今夜はどうせソフィアと一緒に一夜を過ごすのだ。枕話のついでに長話の1つくらい聞いてもいいだろう。
 ・・・以下、僕とソフィアの長い会話が始まるが、2人がどんな格好で、何をしながら話しているかについては、読者の皆さんのご想像にお任せします。
「『皇女の指輪』についてご説明するには、まず大アレクシオス・コムネノス帝の治世についてお話しする必要がございます。大アレクシオス帝は、世界暦6589年から6626年まで帝国を統治され、このニケーアまでトルコ人に奪われ、滅亡寸前にあった帝国に政権の道筋を付けられた方でございます」
「今年が世界暦6755年だから、今から150年くらい前の人か」
 西暦に換算すると、西暦1081年から1118年。たぶん、僕の世界におけるアレクシオス1世に該当する人物だ。この世界には神聖術という要素があるので、史実のアレクシオス1世と事績が全く同じとは限らないけれど。
「はい。即位当初の大アレクシオス帝は、帝国自体も危機的な状況にありましたが、ご自身の帝位自体も極めて危ういものでございました。大アレクシオス帝は、短期間ながら皇帝も輩出したことがある軍事貴族の家門、コムネノス家の次男としてお生まれになり、若い頃から有能な将軍として頭角を現されておりましたが、大アレクシオス帝が帝位に就くことが出来たのは、当時何人かの皇帝を輩出し最も有力な軍事家門の1つであった、ドゥーカス家の娘イレーネ・ドゥーカイナ様を妻に迎えており、ドゥーカス家の強い支持を得て帝位簒奪のクーデターに成功したからに他なりません。そのため、皇帝とはいえ奥様の実家であるドゥーカス家の意向に逆らうことは出来ず、また自らの兄であるイサキオス・コムネノスとも微妙な関係にありました」
「まあ、自分を差し置いて弟が皇帝になれば、当然兄としては面白くないだろうね」
「さらに、大アレクシオス帝が即位された直後、ニケフォロス・メリセノスという軍事貴族が、大アレクシオス帝と同じくクーデターを起こして帝位に就くべく、聖なる都に攻めて参りました。メリセノスは、大アレクシオス帝にとっては姉エウドキア様の夫にあたり、しかもその当時、大アレクシオス帝はメリセノスよりほんの少し早く聖なる都に入って帝位を簒奪したというだけで、メリセノスに対し自らこそが正統なローマ人の皇帝であると主張できる根拠を何一つ持っておられなかったのでございます。しかも、メリセノスも相当な数の軍を率いておりましたので、ここで内戦にでもなれば、まさしく帝国の崩壊は避けられないという事態に直面されたのでございます」
「・・・それは大変な危機だね。それを大アレクシオス帝はどうやって克服したの?」
「大アレクシオス帝は、メリセノスに当時は副皇帝を意味する最高の爵位であった、カイサルの爵位を与え、帝国第二の都市であったテッサロニケの統治権を委ねることで、何とかメリセノスに武器を置かせることに成功致しました。メリセノスは、カイサルになった以上は自分が次の皇帝になれると淡い期待を抱いて、テッサロニケへ向かったのですが、その後間もなく大アレクシオス帝は、カイサルの上にセバストクラトールという爵位を新設し、自分の兄イサキオスに与えました。また、メリセノスと同じく大アレクシオス帝の姉君マリア様の夫にあたるミカエル・タロニテスという軍事貴族も不満を唱えておりましたので、大アレクシオス帝はカイサルとほぼ同格の、パンヒュベルセバストスという爵位を新設し、タロニテスに与えたのでございます。これによって、大アレクシオス帝はメリセノスとの約束を破ることなく、メリセノスを帝位継承者ではなく、単なる皇族の一員に埋没させたのでございます。やがて、大アレクシオス帝と皇后イレーネ様との間に、長男ヨハネス皇子が誕生されると、ヨハネス皇子には帝位継承者を意味するデスポテースという称号を新設してお与えになり、ヨハネス皇子の帝位継承権を確実なものとされたのでございます」
 話が分かりにくいので整理すると、大アレクシオス帝はこういう序列を新しく作ったことになる。

  嫡男ヨハネス皇子・・・デスポテース(新設、帝位継承者の意味)
  兄イサキオス・・・・・セバストクラトール(新設)
  義兄メリセノス・・・・カイサル(既存、元は副皇帝の意味)
  義兄タロニテス・・・・パンヒュベルセバストス(新設、カイサルとほぼ同格)

「セバストクラトールとか、パンヒュベルセバストスとか、帝国にわけのわからない爵位が出来たのは、そういう経緯だったのか。それにしてもせこい手段と言うか、何というか」
 新設された爵位や称号の名前についても、元は「主人」を意味するデスポテースはまだ良いとして、セバストクラトールはどちらも元は皇帝の称号である「セバストス」と「アウトクラトール」を掛け合わせた造語だし、パンビュベルセバストスというのは「いとも至高なるセバストス」という変な意味で、しかも以前僕が就いていた第6位の「セバストス」との間に、第4位の「セバストヒュベルタトス」、第5位の「プロートセバストス」という爵位まであるものだから、これらはうまく日本語に訳せない。大アレクシオス帝は、新しい爵位の名前を考えるにも、相当苦労したのだろう。

「左様でございます。大アレクシオス帝は他の場面でも、いつも曖昧なことを言っては、うまく他人を誑かせることで何とか危機を乗り越え、在位中数多くの反乱や陰謀に悩まされながらも、何とかお亡くなりになるまで帝位を維持し、再建した帝国の帝位を実の息子であるヨハネス様、通称カロヨハネス帝に継がせることに成功されました。それも全く問題なくというわけには参りませんでしたが、ローマ帝国の帝位が父から息子へ継承されたのは、帝国の歴史上、実に約160年ぶりという珍事でございました」
「約160年ぶりって、そこまでこの帝国は、帝位簒奪のクーデターがしょっちゅう起きてるの!?」
「それはもう。実際、近年でも大アレクシオス帝の孫にあたるマヌエル帝を最後に、お亡くなりになるまで平穏無事に帝位を全うされた皇帝陛下はおられませんし、父から息子へと平穏に帝位が継承された例もございません。大アレクシオス帝、カロヨハネス帝、マヌエル帝と父子3代にわたりコムネノス家出身の皇帝陛下がその治世を全うされ、お三方ともお亡くなりになるまでその治世を全うされ、その間帝国が安定し繁栄を享受できたのは、千年以上にわたる長い帝国の歴史上でもあまり例のないことであり、聖なる都を失い再び混乱の時代に陥った今の帝国では『コムネノスの奇蹟』などとして語り継がれております」
「・・・・・・」
 なんていう国だ。間違ってもこんな国の皇帝になんかなりたくない。
 余談になるが、カロヨハネス帝というのは史実のヨハネス2世、マヌエル帝というのは史実のマヌエル1世に該当する。カロヨハネスというのは「心優しきヨハネス」という意味で、皇帝を代数で呼ぶ慣習のないこの国では、同じ名前の皇帝が2人以上いるときには、あだ名を付けて区別することになっている。マヌエル帝にあだ名が無いのは、史実でもマヌエルという名前のビザンティン皇帝は2人しかおらず、しかも史実のマヌエル2世は帝国末期の皇帝なので、この世界ではマヌエルという皇帝はまだ1人しかいないからだ。史実でも、アレクシオス1世、ヨハネス2世、マヌエル1世は、ビザンティン帝国に「コムネノスの中興」と呼ばれる繁栄期をもたらした名君とされている。
 さらに余談。史実で歴代ローマ皇帝・ビザンティン皇帝に代数を付けたのは、ビザンティン帝国が滅亡したかなり後になって、『ローマ帝国衰亡史』という本を書いたイギリスの歴史家、エドワード・ギボンだそうです。

「話を大アレクシオス帝に戻させて頂きますが、大アレクシオス帝は皇帝と言えども、自らの自由にできる兵力は大したものではなく、自らの帝位を維持して帝国を再建するには、多くの私兵を擁する有力な軍事貴族との同盟が必要不可欠でございました。幸い、大アレクシオス帝の母君アンナ・ダラセナ様も、皇后イレーネ様も非常に子沢山で、多くの姉妹や娘たちに恵まれておりましたので、大アレクシオス帝はその後も有力な軍事貴族たちに、自分の妹君や娘たちを次々と嫁がせ、いわば政略結婚による血の繋がりによって帝国をまとめ上げ、帝国再建の基礎を築き上げられたのでございます。従いまして、大アレクシオス帝の時代以降、帝室の政略結婚は帝国を維持するのに必要不可欠なものになったのでございます」
「それで、『皇女の指輪』が出来たってこと?」
「背景としてはそういう事情があるのですが、直接の契機は、大アレクシオス帝の娘の1人テオドラ・コムネナ様が、父帝陛下の決められた相手との政略結婚を嫌がり、特に有力な軍事貴族の生まれでもなく、軍人として優秀というわけでもなく、ただ美男だけが取り柄のコンスタンティノス・アンゲロスという将校と駆け落ち結婚されてしまわれたことでございます。大アレクシオス帝はテオドラ様の結婚相手になる予定だった貴族に、すぐさま別の娘を嫁がせるなどして、何とかこの事態を乗り切られましたが、これにより大アレクシオス帝の婚姻政策は修正を迫られ、一歩間違えればテオドラ皇女様の勝手な行動により、帝国そのものが崩壊するところでございました。このような事態の再発を防止するため、以後すべての皇女様には、ご結婚に至るまで『皇女の指輪』を付けることが義務付けられたのでございます」
「そうなんだ。でも、その駆け落ちした将校のアンゲロスって家門名、イサキオス帝と一緒だよね? まさか、その将校とテオドラ皇女が、今いるイサキオス帝のご先祖様なの?」
「まさにそのとおりでございます。テオドラ・コムネナ様の駆け落ち事件は、この帝国の歴史上も重要な事件でございますから、多くの者が知っております。そして、殿下がご存じのテオドラ・アンゲリナ・コムネナ皇女様は、身勝手な駆け落ちで帝国を崩壊の危機に陥れたテオドラ・コムネナ皇女様の末裔であり、名前も同じテオドラ。多くの者はこれを偶然のこととは考えず、テオドラ・アンゲリナ・コムネナ皇女様は、ご先祖のテオドラ・コムネナ皇女様と同じく、身勝手な行動で帝国に災いをもたらすであろうと噂されております。テオドラ皇女様が『爆裂皇女』などと呼ばれ悪名高いのは、むろんご本人の言動によるところも大きいのですが、そうした先祖からの因縁もあるのです。テオドラ様が何か問題を起こすたびに、臣民たちの多くは『やはりあのテオドラの末裔だから、血は争えない』などと噂し合ったものでございます。もっとも、あの爆裂皇女様の言動のひどさは、同名のご先祖様の比ではありませんが」
「テオドラって名前には、そういう悪い因縁もあったのか」
 ・・・読者の皆さんには、同じ名前の人物が何人も出てきて申し訳ありません。テオドラもイレーネも、アレクシオスもイサキオスも、この国ではよく使われる名前なんですよ。

 ソフィアの話には、まだ続きがあった。
「それで、この『皇女の指輪』を付けるべき皇女の範囲なのですが、本来は皇帝陛下の嫡出の娘、基本的には皇帝陛下と皇后様との間に生まれた娘のみが正式な皇女とされ、皇帝陛下が愛人などに産ませた娘は皇女とはみなされません」
「・・・愛人『など』っていうのは何?」
「それはですね、例えば私が殿下のお部屋をお掃除していたとしましょう。そうしたら殿下が私の姿を見て、いきなり私に襲い掛かってくるのです」

「ああ、殿下、急に私のお尻を触られて、一体何をなさいますのですか!?」
「何をなさいますではない。ソフィアよ、こんなみだらなケツを余の前に晒しておいて、どうせ余を誘っておるのであろう。この淫売め」
「そんな、淫売だなんて、どうかおやめください殿下、お尻のみならず、私の大事なところまで。どうかお許しくださいませ」
「ふっふっふ。そんなことを申して、そなたの大事なところもしっかり濡れておるではないか。どうせそなたも、余の王笏が欲しいのであろう。ならばくれてやろう」
「そんな、お戯れを・・・ああ、殿下、私の中に、殿下の熱いものが、ああああああ~!!!」

 ・・・念のためお断りしておきますが、「ああ、殿下」以下の台詞は、全部ソフィアの一人芝居です。僕は間違ってもこんな台詞は言いません。
「そして私は、殿下に容赦なく種付けされた後、衣服を正して何事も無かったかのように掃除を続け、最後に『失礼致しました』と殿下に御挨拶して、部屋を立ち去らなければならないのです」
「僕は、そんなことやるキャラじゃないよ!」
「皇帝陛下やこれに準じる高貴な御方であれば、メイドに対してそのくらいやるのが当然なのです。ですから、皇帝陛下の愛人と呼べるほどの女ではなくても、皇帝陛下に種付けされてその子供を産む女性は大勢いるのです。殿下も、少なくとも私やマリア、マーヤなどが相手であれば、いくらでもこのようなことをなさって大丈夫なのですよ。そろそろ『ごしごし』から卒業されて、本格的に子作りの練習に取り組んでくださいませ」
「その話は分かったから、そろそろ本題に戻して!」
「失礼致しました。アンドロニコス帝の時代までは、皇帝陛下の嫡出の娘のみが皇女とされ、愛人やその他の女性が産んだ娘は皇女扱いされなかったのですが、イサキオス帝の時代に入ってから大きな変化が起こりました」
「どんな?」
「ゲオルギオス・ムザロンという者の献策により、こうした庶出の娘たちについても、皇后様の養子という形にして、皇女として嫁がせることが行われるようになったのです」
「・・・嫡出の娘だけでは政略結婚の駒が足りなくなったの?」
「政略結婚というよりは、一種の金策です。国内の有力貴族に対しては、庶出の娘では相手にされませんが、例えばヴェネツィアやジェノヴァの商人といった、金持ちでも身分の低い者たちにとっては、庶出であっても皇帝の娘を嫁にもらいたいという需要はあるのです。そこで、希望者に対し帝国に多額の金を贈らせるのと引き換えに、大勢いるイサキオス帝の庶出の娘を皇女に仕立て上げ、そうした金持ちの家に嫁がせるということが何度か行われました。こうした皇女は、嫡出の娘である皇女と区別するため、準皇女とか、口の悪い者には偽装皇女などと呼ばれることもあります」
「・・・そうなると、皇女といっても単に売られていくだけの存在だね」
 そう言いながら、僕はあのテオドラが、ドナドナを歌いながら首輪を付けられて売られていく姿を想像した。
「そうですね。ちなみに殿下がご存じのテオドラ様も、皇后様の娘ではありませんので、この準皇女に該当します。テオドラ様は、十字軍の侵攻に伴いイサキオス帝が復位され、イサキオス帝の息子アレクシオス皇子と共同で帝位に就かれたとき、兄君アレクシオス4世帝の意向により、マルギト皇后の養子となる手続きが行われて準皇女となり、『皇女の指輪』もその時に付けられました。そして、アレクシオス帝の帝位を盤石なものとすべく、コムネノス家に並ぶ古くからの名門貴族の御曹司である、ミカエル・パレオロゴスとの婚約が取り決められたのでございます」
「ちょっと待って! その婚約って、かなり問題があるんじゃない!? テオドラは嫡出の娘ではないわけだから、本来有力貴族には相手にされない存在なわけだし、しかもテオドラは僕が知っているだけでも、下町で喧嘩をしたときに神聖術を使って火事を起こしたり、聖なる都の大城壁にエクスプロージョンを撃ちまくって何人もの死傷者を出して住民にも大迷惑を掛けたり、ものすごく下品で乱暴な手段で赤学派博士の称号を強奪したり、メテオストライクの発動実験で小バシレイオス帝の霊廟があるヘプドモン修道院の建物を大破させたりして、その当時既に爆裂皇女のあだ名を付けられていたわけでしょ? そんな婚約に相手は納得したわけ?」
「まさに殿下の仰るとおりです。どうやらテオドラ様の兄君アレクシオス4世帝は、長く父帝と共に幽閉生活を送られ、その後は国外へ亡命されておられたので、テオドラ様の行状をほとんどご存じなかったらしく、テオドラ様の見た目だけを見て、これなら相手も喜んでくれるだろうと、テオドラ様とミカエル様の婚約をお決めになったのです。一応皇帝陛下のお決めになったことですから、表立って不満を口にすることはございませんでしたが、実際はテオドラ様、ミカエル様の双方とも、内心ではかなりの不満を抱かれていたようでございます」
「・・・そりゃそうだろうね」
 僕だって、あんなテオドラと結婚するなんて絶対嫌だ。
「そんなわけで、現在この宮殿に住まわれている皇族の娘たちの中で、正式な皇女とされ『皇女の指輪』を付けていらっしゃるのは、テオドラ様とアレクシオス3世帝の嫡出の娘であるプルケリア様のみでございます」
 なお、ソフィア自身はアレクシオス3世、4世などと言っているわけでは無いが、あまりにも分かりにくいので、話を分かりやすくするために僕の方で勝手に付け加えている。アレクシオス3世の方はイサキオス帝の兄、アレクシオス4世の方はイサキオス帝の息子である。
「他の子は?」
「同じイサキオス帝の娘でも、例えばソーマちゃんやテオファノ様は、皇后様の養子になる手続きが取られていませんので、皇女とはみなされておりません。またイレーネ様については、殿下のご命令で女性に戻られる時、オフェリア様の方から皇女になるかお伺いを立ててみたところ、なぜか断固として拒否なさいました」
「まあそれは、皇女になっても良いことばかりじゃないからじゃない?」
 僕はそう言いつつも、イレーネが皇女になることを断固拒否した理由について大体察しが付いていた。おそらく僕以外の人はほとんど知らない秘密だが、ああ見えてもイレーネは、僕と2人きりのとき、しょっちゅうオナニーをしているエッチな女の子なのだ。たぶん1人のときもしているだろう。皇女の指輪を付けられたらオナニーできなくなるから、断固として拒否したに違いない。

「私から、『皇女の指輪』についてご説明することは以上でございますが、何かご質問はございますか?」
「・・・1つだけ。皇女の方は分かったけど、皇后様以外の女性から産まれた男の子はどうなるの?」
「基本的には、表向きは帝室とは無関係の人間として、男子のいない貴族の家や、修道院などで育てられるのが一般的です。仮に庶子として認知してしまった場合、わが国ではその庶子が帝位を狙うことを未然に防止するため、子供のうちに去勢手術を行って宦官にしてしまう風習がございますので、宦官が重用されなくなった大アレクシオス帝の時代以降は、宦官にしてしまうくらいなら帝室とは無関係の人間にした方が良いということで、このような取り扱いが一般化しています」
「・・・庶子とはいえ、自分の子供を宦官にしてしまうなんて、怖い風習だね」
「そうしなければならないほど、この国では帝位をめぐる争いが絶えなかったのでございます。なお、イサキオス帝には嫡出の男子が3名おられましたが、長男のアレクシオス4世陛下と次男のマヌエル皇子は既に亡くなられており、三男のヨハネス皇子は正確には行方不明でございますが、おそらく聖なる都が劫略された際ラテン人に殺されたものと考えられております。庶出の男子については、帝位継承権が認められないこともあって誰も記録しておりませんので、その人数については分かりません」
「大体分かった。ソフィア、長い説明ありがとう」
「では、最後に私から一つだけご忠告申し上げます。大アレクシオス帝の時代から続く婚姻政策により、コムネノスの家門名を持つ貴族は、現在ではおそらく100名前後に達しております。これに対し、殿下はご兄弟もいらっしゃいません。そのため、殿下がコムネノス家に代わる新しい王朝を作られるにあたっては、コムネノス一族に対抗するためにも、たくさんお子様を作ってくださいませ。少なくとも男女合わせて50人以上を目標にお願い致します」
「別に、僕は皇帝なんかになる気は無いよ! この国の皇帝なんて、ほとんど死と隣り合わせの仕事じゃないか!」
「しかし、イサキオス帝が亡くなられた後、この国の皇帝が務まるのは殿下しかおられません。このソフィアも全力で補佐致しますので、是非とも皇帝になって、子作りに励んでくださいませ」
 ・・・その後、僕はソフィアと不毛な子作り問答の末、疲れて眠りに就いた。

 その2日後。僕が目を覚ますと、僕はいつもと違う場所にいた。ここは日本ではない。ビザンティン世界における僕の部屋でもない。・・・よく見てみると、この部屋には見覚えがある。確かテオドラの部屋だ。なぜ僕が、自分の部屋ではなくテオドラの部屋で寝ていたのか疑問に思いつつ、部屋に置いてあった鏡につい目を向けた。そこには自分の姿ではなく、テオドラの姿が映っていた。
 僕は慌てて自分の姿を確認すると、衣装はいかにもテオドラが着そうな女の子っぽい豪華な寝間着姿になっており、胸には大きくて結構重いロケットおっぱいが付いており、そして股間には、男の子にとって一番大事なものが付いていなかった。


 僕、テオドラの姿になっちゃったの・・・!?

(中編に続く)

<前編後書き>


「・・・最後まで読んで頂き、ありがとうございます。本編の主人公、榊原雅史ことミカエル・パレオロゴスです」
「みんなのアイドル、伝説の踊り子テオドラちゃんで~す! みんな元気してた?」
「今回は踊り子モードなんだね」
「本編でみかっちが観に来てくれなかったから、こちらで登場してま~す! どうしたの、みかっち? なんか元気ないよ? 下痢?」
「本編の最後で、いきなりテオドラの姿にさせられて、元気なんか出せないよ。あとテオドラ、踊り子モードって言っても、何となく地が出てない?」
「そんなことないよ~! みかっち、もっと元気出して行きましょう! 真相は、次の中編で間もなく明らかになるんだから、この物語にしては良い方でしょう?」
「この物語にしては、っていうのはどういう意味?」
「この物語、作者さんの必要以上に細かい性格のせいで、舞台設定がやたらと細かいからね~。例えば、みかっちのことを『お兄ちゃん』と呼ぶ謎の声の正体は、物語の後半くらいになってやっと分かる予定だし~、イレーネちゃんの正体なんか、物語の終盤まで引っ張る予定になってるし~、そういうのに比べればましってこと!」
「・・・とりあえず、とんでもない設定じゃないことを祈ろう。それにしても、今回サブタイトルが『聖王の影』になってるけど、このタイトルが当てはまるのは前半部分くらいだね。後半はほとんど関係ないし」
「そうね~。今回は作者さんも良いサブタイトルが思い付かなかったみたいね」
「中編と後編は何をやる予定なの?」
「えーとね、作者さんのメモだと、みかっちにはあたしの姿で散々弄られてもらって、オフェリアさんに性教育を受けてもらって、ドラゴン退治に行ってもらって、あたしと一緒に海水浴に行ってもらって、あたしに日本の説明をしてもらって、その後フリードリヒ2世さんに会ってサインを貰いに行く予定になっているわね。ちなみに、聖王ルイ9世さんとのご対面は第4話ね」
「ちょっと聞き捨てならない話が色々混ざってるんだけど、特にドラゴン退治って何!? この世界にドラゴンっているの?」
「そもそも、神聖術なんてファンタジー要素があるくらいなんだから、ドラゴンくらい居たっておかしくないでしょ? みかっちには~、あたしやイレーネちゃんの壁役になってドラゴンと戦ってもらうから、覚悟しておいてね♪」
「そんなの嫌だ~!」
「じゃあ皆さ~ん、今度は中編でお会いしましょうね! 中編は作者さんの都合もあって時間がかかるみたいだから、気長に待ってあげてくださ~い! 以上、みんなのアイドル、伝説の踊り子テオドラちゃんがお送りしました~!」
「・・・テオドラのかわい子ぶりっこって、本当に気持ち悪い」

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