第7話 『聖像破壊皇帝』レオーン3世とコンスタンティノス5世
この第7話で取り上げる皇帝レオーン3世と,その息子コンスタンティノス5世は,ビザンツ帝国の混乱状態を収束させ,帝国を再生に導いた偉大な業績の持ち主であるにもかかわらず,いわゆる『聖像破壊運動』(イコノクラスム)を推進したことから,後世のビザンツ人からは非常に評判が悪い皇帝となった。この第7話では,この2人の皇帝の治世について概観するとともに,『聖像破壊運動』が起こった背景とその経緯についても概観していく。
(1)『帝国を救った獅子帝』レオーン3世
レオーン3世の生い立ち
皇帝レオーン3世は,イサウリア地方の出身者であることを示す「イサウロス」のあだ名がつけられており,彼を創始者とする王朝も「イサウリア朝」と呼ばれていた。もっとも,彼をイサウリア地方の出身とするのは9世紀に生まれた誤伝であり,実際にはシリアとキリキア地方の境界に位置するゲルマニケイア(現在のカフラマンマラシュ)の出身であることが判明しているため,近年ではレオーン3世を始祖とする王朝を「イサウリア朝」ではなく「北シリア朝」と呼ぶこともある。
レオーン3世は,元々の名前はコノンと言う。彼とその一家は,ユスティニアノス2世の治世下でトラキア地方へ移住させられた。彼らを含むゲルマニケイアの民衆は,地理的にイスラム帝国の攻撃を受ける可能性が高く防衛困難という理由で,スラヴ人から取り戻したばかりのトラキア地方へ集団で移住させられたのである。コノンは705年,軍を率いて復位を目指す元皇帝ユスティニアノス2世に500頭の羊を贈り,支援に感激したユスティニアノス2世は,復位すると直ちにコノンを取り立てた。
もっとも,その後の経歴については不明な点が多く,9世紀に成立した『テオファネス年代記』によるとユスティニアノス2世に疑念を持たれて辺境のコーカサス地方へと左遷させられ,後代の史書によると帰還を果たしたのはアナスタシオス2世の時代であるとされている一方,同じく9世紀の年代記著者ゲオルギオスによると,南イタリアに艦隊司令官として派遣されていたという。その他,印章資料の分析により,この時期のコノンがテマの何らかの官職に就いていた可能性も指摘されている。
彼の経歴がはっきりしているのは,アナスタシオス2世によってテマ・アナトリコンの長官に任命されて以降である。当時のウマイヤ朝イスラム帝国は中興の英主とされる第5代のアブド・アルマリク(在位685~705年)によって第2次の内戦期を脱し,息子のワリード1世(在位705~715年)の治世下で全盛期を迎えていた。
イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼすなどイスラム帝国の更なる拡大を図っていたワリード1世は715年に亡くなり,弟のスライマーンが第7代カリフ(在位715~717年)に就任する。スライマーンは弟のマスラマを総大将とする大軍を小アジアに派遣し,首都コンスタンティノポリスを陥落させてビザンツ帝国を完全に征服しようと目論んでいた。
マスラマ率いるイスラム軍がテマ・アナトリコンの中心地であるアモリオンに接近すると,コノンは計略を用いてイスラム軍を一時後退させ,時間を稼ぐ。その一方,コノンは危機対処能力のない時の皇帝テオドシオス3世に見切りをつけ,盟友でありテマ・アルメニアコンの長官であったアルタヴァスドスと共に,自ら帝位に就くべくコンスタンティノポリスへと進軍した。
コノンの率いる軍が首都対岸のクリュソポリスに到達すると,コンスタンティノポリス総主教のゲルマノス1世らが両者の仲介に乗り出した。結局,テオドシオス3世は自らの身の安全を条件に退位することになり,コノンが皇帝に即位した。軍事的才能に恵まれていたコノンは,皇帝になる以前から「レオーン」(獅子)のあだ名で呼ばれていたが,コノンは即位にあたり,このあだ名を自分の正式な名前とし,皇帝レオーン3世(在位717~741年)となった。
レオーン3世の治世
レオーン3世が即位して間もなく,マスラマ率いるイスラム軍がコンスタンティノポリスを包囲した。670年代に行われた前回の包囲は,イスラムの海軍が戦っている間陸軍は小アジア側に留まり大した働きもできず,陸側の城壁から首都に補給物資が輸送されてくるのをただ座視しているなど,イスラム側の作戦にもかなり問題があったため失敗に終わった。今回の包囲ではその反省を踏まえ,陸軍を船でヨーロッパ側に輸送して陸側の城壁前を封鎖し,海軍による封鎖と併せて首都を兵糧攻めで降伏させようとする作戦が取られた。
レオーン3世は,金角湾の入り口を鎖で封鎖する一方,海から反撃の機会を窺っていた。陸軍への補給のためマルマラ海を上ってきたイスラム海軍が,ボスフォラス海峡からの潮に流されて身動きが取れなくなっている好機を捉え,自ら艦隊を率いて「ギリシアの火」で敵船を焼き払った。この勝利によって直ちに封鎖が解除されることはなかったが,包囲に備えて3年分の食料と十分な水を備蓄していたビザンツ側に対し,イスラム軍は補給が滞ったままで冬の悪天候を迎えることになった。飢えに苦しんだイスラム軍は運搬用のロバやラクダを食べざるを得ず,それらを食べつくすと木の根や葉をかじるはめになった。
翌718年の春になり,補給のためイスラムの大船団がエジプトから到着したが,奴隷として使われていたキリスト教徒の漕ぎ手が脱走して補給船の位置をビザンツ側に教えた。直ちにビザンツ艦隊がイスラムの補給船を襲撃し,イスラム側の船団は大打撃を受けた上に補給はまたも失敗に終わった。さらに,この頃ビザンツ側と同盟を結んだブルガール人が背後からイスラム軍に襲い掛かり,数千人の死傷者を出した。
その後もしばらく包囲は続いたものの,もはやイスラム側に勝利の見込みはないことは明らかであり,カリフのスライマーンが亡くなりウマル2世が即位したとの報をきっかけに,イスラム軍は撤退した。これ以降オスマン帝国の時代まで,イスラム軍によって首都が包囲されることはなかった。
イスラム軍を首尾よく撃退したレオーン3世は,テマ・シチリアにおける反乱や,719年に起きた元皇帝アナスタシオス2世の陰謀などもあったものの,徐々に政権を安定させていった。レオーン3世は,盟友のアルタヴァスドスをそれまで陰謀の中心になっていたテマ・オプシキオンの長官に任じて,小アジアのテマを把握する体制を整えた。
なお,かつてはレオーン3世の時代にテマ・アナトリコンからテマ・トラケシオンが分割されたと考えられていたが,現在ではこの見解はほぼ否定されている(テマ・トラケシオンは,遅くともユスティニアノス2世時代に成立したと考えられている)。陸のテマには手を付けなかったものの,オプシキオンと同じく陰謀の温床となっていた帝国艦隊の分割は実行し,小アジア南部にテマ・キビュライオタイが設置されている。外交面でも,イスラムを共通の敵とするハザールと同盟を結び,733年には息子コンスタンティノス(後のコンスタンティノス5世)の妻にハザールの王女チチャク(結婚に伴いエイレーネーに改名)を迎え,両国の関係を強化した。
このように,レオーン3世の優れた手腕によってビザンツ帝国側の体制が整備されていく一方,ウマイヤ朝は短命のカリフが相次ぎ徐々に衰退していった。730年代以降は,イスラム軍の小アジア侵攻も大きな成果を生まなくなって行き,740年にはアクロイノンでイスラム軍から決定的な勝利を奪い,以後イスラム軍の小アジアへの侵攻は激減した。
一方,イタリア方面ではシチリア島で艦隊の強化を進め,チュニスから襲来するイスラム艦隊に対抗するも,イタリアで重税を課したこともあってイタリア北中部での統治力は揺らぐことになる。732年頃には,一時ラヴェンナがランゴバルド王国のリュートプランド王によって制圧されてしまったこともあった。
内政面では,『エクロゲー』(法の抜粋)と呼ばれる法律集を発行した(発行年については726年説と741年説がある)ほか,新しい銀貨ミリアレシオンの発行も行っている。
聖像破壊運動の始まり
レオーン3世が長期にわたる治世を全うした英主であり,ビザンツ帝国再生の第一走者であることは疑いないが,彼はその一方で,帝国の全キリスト教徒を揺るがす聖像破壊運動(イコノクラスム)の第一走者でもあった。
古代ローマからの流れを汲むイコン崇拝は,ビザンツ帝国のキリスト教において不可欠の要素となっていたが,キリスト教とイスラム教に共通する規範である「モーゼの十戒」第2項に照らすと,キリストや聖母マリアなどの聖像を崇拝することは「偶像崇拝の禁止」に抵触するのではないか,という疑義があった。
このような疑義は,別にレオーン3世の時代に初めて生じたわけではない。初期のキリスト教会は,その内部が樹木や草花を描いた田園風景で飾られていたが,キリスト教の国教化に伴い異教徒からの改宗者が多くなると,異教時代の風習が抜けない多くのローマ人たちは,やがてこうした当たり障りのないものではなく,教会の装飾は何らかの霊的ないし教訓的なもの,すなわち信仰のために命を捧げた殉教者の姿,キリストの奇蹟や教え,イエスの十字架刑や復活といった福音書の物語を図像に描くべきだと主張する者が多くなり,次第にこうした図像を描く教会が主流となった。
しかし,このような考え方に対しては偶像崇拝の疑いがある,異教神殿を飾る神々の像を想起させるという反対意見も相当数あった。例えば4世紀末,キプロス島のサラミス主教エピファニオスは,ある教会に掛けられた幕に描かれたキリスト像を見て,ぞっとするような衝撃を受けた。怒りのあまり彼は,その幕を引きずり降ろし破り捨てたが,後に彼は信徒たちから,自分たちの幕がそんなに気に入らないのなら,せめてお前の費用で別のものと取り換えるべきだという不満と要求を突き付けられ,エピファニオスはその要求に屈するしかなかった。
こうして,教会の図像が偶像崇拝にあたる,異教色が強いなどとする批判は信者の大多数により一蹴され,そうした信者たちの声を受けて,むしろ教会の図像はキリスト教信仰にとって必要不可欠であるなどとする図像擁護論が唱えられ,ビザンツ帝国で普及したイコン崇拝も,そのような理論的基礎によって正当化されていた。国策によってキリスト教に入信するよう誘導され,または半強制的に入信させられた元異教徒たちにとっては,偶像崇拝にあたるか否かなどはどうでも良く,むしろ自分たちにとって馴染み深い異教的色彩の残る教会の在り方を支持したのかも知れない。
しかし,ムハンマドの創始したイスラム教では偶像崇拝の禁止が徹底されており,アッラーや預言者ムハンマドの姿を絵や像にすることは一切禁止されていた。8世紀初めになると,イスラム世界における偶像崇拝の禁止はさらに徹底され,モスク内部における生物を描いた画像はすべて撤去され,イスラム芸術は模様や文様文字(カリグラフィー)に限られるようになった。短期間ではあったが,イスラム帝国の支配地域にあるキリスト教の教会にもカリフから画像撤去の命令が下されたこともあった。
そのようなイスラム帝国が,キリスト教徒の軍を次々と破って領土をどんどん拡大していくことに影響され,ビザンツ帝国内でも従来の図像やイコンに頼った信仰の在り方に疑問を呈する者が現れ始めたのである。
小アジアでイスラム軍に包囲されたキリスト教の町では,霊験あらたかなイコンを必死に崇拝して奇蹟を願ったものの,当然奇蹟など起こらず,町はイスラム軍によって占領・略奪されることが少なからずあった。そのため,ナコレイアのコンスタンティノス,クラウディオポリスのトマスといった主教たちはイコンの効用を疑問視し,イコンへの過度な依存は危険であると警告するようになっていた。
レオーン3世も,イスラム軍によるコンスタンティノポリス攻撃こそ撃退したものの,イスラム軍が小アジアに侵入して領地を略奪していくのを完全に阻止することはできず,テマ軍団のゲリラ戦術により必死に抵抗し,何とか撤退させるといった戦いを続けていた。
初期のイスラム軍は,冬が近づけば暖かいシリアに撤退するという戦い方を続けていたが,タウロス山脈のすぐ南に位置するタルソス,そして山脈の西にあるメリテネを確保すると,イスラム軍は遠征期間が終わってもシリアへ戻らずメリテネで冬越しできるようになり,攻撃はさらに激しくなった。726年と翌727年にはカリフ自ら率いる軍が小アジアに侵入してカエサレイアを占領し,別働隊は小アジアの奥深く攻め入って略奪を繰り返し,ニケーアまで攻撃の対象となった。ビザンツ軍は正面からイスラム軍と戦っても勝ち目がなかったので,戦利品を持って撤退するイスラム軍を追跡し,隊列から外れた者を狙い撃ちして,奪われたものをいくらかでも取り返すといった戦い方をするしかなかった。
レオーン3世の治世終盤にあたり740年,ビザンツ軍はアクロイノンでイスラム軍に「決定的勝利」を収めたと伝えられているが,その勝利なるものは,イスラムの大略奪部隊が小アジアを蹂躙し,莫大な戦利品を持って東へと撤退していく際,ビザンツ軍の司令官は主力軍の撤退をそのまま見逃しつつ,後衛のやや小規模な2部隊を上手く本隊から切り離して殲滅したというにとどまるものであった。これを決定的勝利と喧伝したのは,自軍の兵士たちを勇気づけるための作戦である。
逆に言えば,740年以前のビザンツ軍はその程度の部分的勝利すら掴み取れなかったのである。神の力によって勝利がもたらされると信じていたビザンツ人たちは,神が自分たちではなく不信仰の徒であるイスラム教徒たちに続けて勝利を与えられるのは,自分たちの信仰が間違っているせいではないかと疑念を持つに至った。このような疑念は,実際にイスラム軍と戦っている皇帝や将兵たちについて特に顕著に見られた。
そして,ビザンツ人はイスラム教徒が自分たちの信仰を「偶像崇拝の民の宗教のようだ」と批判していることも知っており,正しいのはイスラム教徒の方なのではないか,自分たちは誤った偶像崇拝により神に罰せられているのではないか,といった疑念に囚われることになった。そして,仮にその疑念が正しいのであれば,ビザンツ帝国を勝利に導く責任がある皇帝レオーン3世としては,イスラム教徒に勝利するため誤った偶像崇拝を早急に排除しなければならなかった。
こうして,レオーン3世もイコン崇拝に反対を表明する主教たちの考えに共鳴するようになり,726年の秋にテラ島(現在のサントリーニ島)の火山が噴火すると,この噴火は偶像崇拝に対する神の怒りだと理解するようになった。こうしてレオーン3世の聖像嫌いは確定的なものとなり,宮廷内の聖像の撤去を命じたほか,イコン崇拝に反対する聖職者を総主教に任命した。
もっとも,レオーン3世は宗教に関する個人の見解を臣下に押し付けることは危険過ぎると警告されたこともあり,各教会からイコンを撤去させたり,イコン崇拝を禁止したり,聖像崇拝派を処罰したりすることはなかった。そのため,後世の聖職者たちから「サラセン魂」などと非難され,コンスタンティノポリス防衛の成功も彼の力ではなく「神の母」マリアの加護によるものと伝えられることはあったが,息子のコンスタンティノス5世と異なり,後世のビザンツ人から記録抹殺刑とでも言うべき強烈な断罪を受ける事態は免れた。
<幕間7>ギリシアの火
レオーン3世は,ビザンツ帝国の新兵器である「ギリシアの火」を有効に活用して,イスラム帝国による首都包囲の危機を見事に切り抜けた。この「ギリシアの火」とは,一体どのような兵器だったのであろうか。
ビザンツ帝国の秘密兵器とされる「ギリシアの火」は,シリア地方の出身であるカリニコスという人物によって考案されたものといわれている。彼は674~678年に行われたコンスタンティノポリス包囲の直前に首都へやって来て,この兵器の威力を披露した。高度な技術を擁するこの秘密兵器は,海戦で敵の船を焼き払うために使われたほか,陸戦で都市を攻撃する際,この秘密兵器により液体の火炎が胸壁に放たれることもあった。1204年の十字軍による首都包囲の際には,風を利用して無人の火船が敵側に送り込まれることもあった。
「ギリシアの火」の実態は,未だ謎に包まれている。ビザンツ帝国は「ギリシアの火」の製造方法や使用方法を最重要の国家機密と位置づけ,その秘密を守ったまま滅亡したため,正確な記録が残っていないからである。「ギリシアの火」は一種の火炎放射器であり,おそらくクリミア半島の油井から得られた原油に樹脂を混ぜて作られたものと考えられているが,具体的に混ぜられた物質の種類やその正確な配合比率,液体を発射する圧力装置などについては,依然としてよく分かっていない。
もっとも,若干の手掛りはある。テオファネス年代記の後を引き継いで,813年から1077年までの歴史を記したヨハネス・スキュリツゼスの有名な挿絵入り年代記には,「ギリシアの火」の仕組みが生き生きと描かれている。漕ぎ手が操る小型帆船が敵艦に向かって進み,熱せられた液体が長い管から発射される。液体は双方の船の間の海上で燃え,炎が敵艦を包み込むことになる。
2006年,ジョン・ハルドンは「ギリシアの火」の実物とその発射を再現した実験に関する論文を公刊した。ハルドンは記録に残るわずかな手掛かりから,ビザンツ人の用いた「ギリシアの火」を可能な限り忠実に再現しようと試みたのである。論文に添付された写真は,加熱された液体が細い管から発射され,轟音とともに黒煙を上げて燃える様子を目の当たりに見せてくれる。復元された噴射装置とクリミア産の原油による炎は10メートルないし15メートルにも達し,あまりにも激しい炎はわずか数秒のうちに標的の小舟を焼き尽くすほどであった。
「ギリシアの火」による攻撃は敵に大いなる恐怖と破壊をもたらし,941年の戦闘で「ギリシアの火」による攻撃を受けたロシア人は,これを「天上からの稲妻」と呼んで大いに恐れたと伝えられているが,現代に生きる我々はハルドンによる実験のおかげで,中世の戦闘で「ギリシアの火」がいかなる恐怖や混乱をもたらしたか,リアルに理解できるようになったのである。
もっとも,イスラム帝国も早くから「ギリシアの火」に類似する兵器を開発しており,「ギリシアの火」があたかもビザンツ帝国の独占物であったかのような理解は誤りであるが,ブルガリア軍がビザンツの都市を占領し「ギリシアの火」の原材料とそれを発射する筒を捕獲することに成功したものの,使用方法が分からなかったために全く活用されなかった旨を伝える記事は,「ギリシアの火」をビザンツ帝国の重要な国家機密とすることに一定の意義があったことを理解させてくれる。
(2)『偉大過ぎる聖像破壊皇帝』コンスタンティノス5世
741年にレオーン3世が亡くなると,息子のコンスタンティノス5世(在位741~775年)が皇帝に即位した。しかし,即位後間もなく,亡父レオーン3世の盟友で,コンスタンティノスとも義兄弟の関係にあったテマ・オプキシオンの長官アルタヴァストスに反乱を起こされ,742年には一時帝位を追われることになる。アルタヴァストスは首都を抑えると,もはやイコン崇拝が宮廷で否認されることはないと宣言して,イコン崇拝派の支持を集めようとした。アルタヴァストスの反乱は翌年に鎮圧され,コンスタンティノス5世は復位することが出来たものの,この一連の出来事によって,コンスタンティノス5世はイコン崇拝派を,神学的な誤りに加えて大逆罪をも犯している者とみなすようになり,父と違って聖像破壊を国家の政策として採用するようになる。
コンスタンティノス5世の業績
もっとも,ここではコンスタンティノス5世の実施した聖像破壊政策について述べる前に,その軍事的・政治的業績について概説する。コンスタンティノスは軍事に優れた手腕を発揮し,746年にはウマイヤ朝の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め,父祖の地ゲルマニケイアを一時奪回した。またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し,東方で主導権を握ることに成功した。さらに帝国北西部でたびたび国境を侵していたブルガリアに9度も親征を行ない,多くの勝利を収めた。特に,763年のアンキアロスの戦いでは丸一日にわたる戦いでブルガリア軍を完全に殲滅し,首都ではこの勝利を祝って,ヘラクレイオス帝以来となる久方ぶりの凱旋式が挙行された。
コンスタンティノスは単に戦争に強かったというだけでなく,兵士たちに配慮を示すことで,兵士たちの忠誠心を粘り強く育んだ。例えば,773年のブルガリア遠征では,自軍の死傷者がごくわずかだったので,『崇高な戦い』であったと宣言した。別の遠征において何隻かの船が黒海沿岸で難破したとき,コンスタンティノスは網で底引漁をさせて,できる限り多くの遺体を収容し,丁寧に埋葬するまで現場を立ち去ろうとはしなかったという。
なお,先帝レオーン3世の時代にはイスラム帝国にほとんど勝てなかったのに,コンスタンティノスの時代になるとイスラムにも勝てるようになった理由は,彼自身の軍事的才能もあるが,彼の在位中にウマイヤ朝が750年に滅亡してアッバース朝に取って代わられており,イスラム帝国が権力移行期間中の混乱期にあったことも影響していると考えられる。
ただし,コンスタンティノスの関心は東方とブルガリアに集中せざるを得ず,彼自身ほぼ休むことなくこれらの地域に遠征を繰り返していたため,帝国領の北部イタリアは見捨てられる形となった。
父帝以前の時代から,北イタリアではランゴバルド王国が次第に優勢となり,この方面におけるビザンツ帝国の支配領域は縮小する一方だったが,コンスタンティノス5世の治世下にあった751年には,北イタリアにおける最後の帝国領・ラヴェンナをランゴバルド王に占領された。コンスタンティノスがラヴェンナの奪回を断念したことによって,イタリアにおけるビザンツ帝国の支配は,アドリア海北部の人工島群であるヴェネツィアと,ギリシア系住民の多い南部やシチリア島に限られることになり,ローマ教皇とヴェネツィアは次第にビザンツ帝国から離反ないし自立する道を選ぶことになる。
内政面では,父帝治世の末期に大地震が起こり,首都が大きな被害を受けていたことから,コンスタンティノス5世は城壁の修復を完成させたほか,干ばつによって貯水槽が干上がったときには,626年にアヴァール人の攻撃で破壊されていたウァレンスの水道を復旧し,水道施設を全面的に復旧させている。747年の伝染病により首都の人口が減少すると,コンスタンティノスは人口を回復させるためギリシアの島々から住民を移住させた。
コンスタンティノス5世は,先帝たちの政策を引き継いで国境防衛上重要な地域に多くの住民を移住させ防衛力を整備する政策を行っており,小アジア北西部のアルタナス川流域に20万人余りのスラヴ人を定住させ,トラキア地方のブルガリア国境沿いにある要塞にも,約20万人のキリスト教徒シリア人・アルメニア人を定住させている。イスラム帝国をけん制するためにハザールとの同盟を継続することも怠っていない。ハザール汗国は,ウマイヤ朝からアッバース朝に交替した後の760年代にイスラム帝国へ侵攻しており,これによってビザンツ帝国は大きな利益を得ることになった。
コンスタンティノスは,さらに租税の金納化を実現して国家財政も改善させたが,彼に悪意を持つ後世の史家からは「ミダス王の生まれ変わり」として非難されることになった。なお,ミダス王とはギリシア神話に登場する王で,強欲なことで知られている。
テマ長官による反乱を防止するため,テマ・オプキシオンを小さな単位に分割したほか,皇帝の直接指揮下に置かれる中央軍団(タグマタ)を創設したのもコンスタンティノス5世の業績である。中央軍団はテマ軍団と異なり,皇帝から給料を支払われる常設の精鋭部隊であり,皇帝の遠征にも付き従って,数々の軍事的勝利の原動力となった。彼は兵士たちに手厚い配慮を示し,前述のとおり自ら東西に遠征し多くの勝利を収めることで,兵士たちの忠誠や民衆からの敬愛を不動のものとした。その他,首都に皇后専用の緋産室を設け,皇帝の嫡子を『緋産室の生まれ』(ポルヒュロゲネトス)と位置付けることにより,帝位継承の円滑化も図っている。
コンスタンティノスの人物像については史料が少なく判然としないが,優れた軍人であるのみならず博学で教養もあり,13にのぼる神学作品を残したほか,フランク王に外交上の贈り物としてオルガンを贈っていることから,どうやら音楽も好きだったらしいと考えられている。
コンスタンティノス5世の宗教政策
客観的に見れば,コンスタンティノス5世は歴代ビザンツ皇帝の中でも屈指の有能な皇帝であり,ビザンツ帝国中興の英主と称えられて然るべき業績を残した人物であった。しかし,後世のビザンツ人史家は,このようなコンスタンティノス5世の業績を全くといってよいほど無視し,彼を悪魔の手先,キリストの敵などと非難してやまなかった。
彼に与えられたあだ名は「コプロニュモス」(糞)という不名誉極まりないものであるが,そのあだ名の由来は,コンスタンティノスが生まれて洗礼を受けるときに洗礼盤の中に便をしてしまい,司祭がこれに気付かぬまま儀式を続行した結果,赤子の頭に汚れた水が注がれたことに由来するという。仮に百歩譲ってそのようなエピソードが事実であったとしても,彼の人格や皇帝としての業績には何の関係もないことである。
おそらく,歴史上存在したどの国のいかなる君主を見渡しても,コンスタンティノス5世ほど優れた業績を上げながら,後世の同国人から全くその業績を評価されず不当に非難され続けた他の人物を挙げることはほとんど不可能であろう。このような世界史上類例を見ない珍現象が起こった原因は,彼の行った宗教政策にある。
コンスタンティノス5世が,前述したような経緯でイコン崇拝派を異端者かつ反逆者とみなし憎んでいたであろうことは察せられるが,それでも彼は慎重に事を進めており,754年に行われたヒエレイアの教会会議で,イコン崇拝及び崇拝を擁護する者を非難する一連の決議が採択され,今後イコンを製作する者は厳罰に処するものとされた。
もっとも,こうして聖像破壊が正式に国の政策として採用された後も,コンスタンティノスは各地の教会にあるすべてのイコンや画像を撤去ないし破壊するといった過激な政策を採ることはなく,イコンの除去は,教会などの建物が修復される際などに少しずつ行われていった。コンスタンティノスの宗教的思想は彼の著した『審問(ペウセイス)』という書籍で表明されていたと推測されるが,残念ながらこの書籍は後年聖像崇拝派によってすべて焼かれてしまい,現在では書名と断片的な内容だけが辛うじて伝えられているだけである。
ただ,彼によって作り替えられた教会の装飾は,初期のビザンツ教会のように樹木,花,鳥といった自然界の場面を描いた素朴なものであり,彼の目指した宗教的方向性は,豪奢を排し昔日の純粋な信仰に戻ろうというものだったのではないかという想像は可能である。
もっとも,コンスタンティノス5世の攻撃はイコン崇拝だけでなく,これと並んでビザンツ宗教の重要な特徴となっていた聖者に対しても行われ,むしろ聖者に対する攻撃の方が苛烈かつ過激であった。ビザンツ教会では,俗世を離れて禁欲的な生活を送る世捨て人や修道士を聖者として崇拝する慣行があり,歴代皇帝の多くもこのような修道士たちにはかなりの敬意を払ってきた。
例えば,エルサレム近郊の砂漠に住む修道士共同体の指導者である隠修士サヴァスは,アナスタシウス帝の治世下に首都を訪問したところ,門番がボロボロの衣服をまとったサヴァスを見て単なる乞食の類だと勘違いしたため,サヴァスは門番に追い返されて皇帝に面会できず,これによってアナスタシウスはその優れた政治手腕にもかかわらず,敬虔なキリスト教徒から非難を浴びることになった。
その後,530年にサヴァスは再度首都を訪問したが,時の皇帝ユスティニアヌス1世はこのような失敗を繰り返さないよう,サヴァス一行が乗った船を護衛するためわざわざ帝国の戦艦を派遣し,船が首都の埠頭に着くと彼の一行は大宮殿に宿を提供された。一行が謁見の間に招き入れられると,ユスティニアヌス1世は玉座から飛び出してサヴァスの許に駆け寄り,頬に涙を流しながら口づけをした。そしてエルサレムに病院と聖母教会を建てることを約束して,聖者サヴァスから祝福を受けた(ただし,単性論に共感する皇后テオドラは祝福を拒否されている)。
筆者のような現代人の発想では考えられない光景だが,キリスト教を国教としたローマ帝国やビザンツ帝国では,聖者として敬われる修道士は,このように皇帝からも最大級の敬意と待遇を受けるのがむしろ普通だったのである。
しかし,コンスタンティノス5世はこうした修道士たちに敬意を示すことなく,むしろ邪険に扱った。彼の進めてきた聖像破壊政策を最も公然と非難したのはこうした修道士たちであり,コンスタンティノス5世は自身の政策に反対する修道士たちを容赦なく殺した。コンスタンティノス5世を異教皇帝ユリアヌスやアリウス派の皇帝ウァレンス(4世紀の皇帝ヴァレンティニアヌスの弟で,帝国東方の統治を担当し,378年にハドリアノポリスの戦いでゴート族に破れ戦死した人物である)に擬えて公然と非難したアンドレアス・カリュヴィテスは,鞭打たれて殺された。小アジアの山に住んでいた修道者の小ステファノスは逮捕されて首都に連行され,中央軍団の兵士により足に綱を結ばれ,死ぬまで町の通りを引きずり回された。
もっとも,コンスタンティノス5世による修道士迫害は,このような反対者に対する処罰にとどまらなかった。ビザンツを嫌悪する歴史家や思想家の間では,前述のように修道士たちが異様なまでの影響力を持っていることに対する強い違和感を表明する者が多く,筆者自身も同様の違和感を持っているので,本稿でもビザンツの修道士たちに関する記述は必要最小限度にとどめているのだが,どうやらコンスタンティノス5世もこれらと同様の違和感を持っていたらしく,彼は修道士の衣装を「暗闇の衣装」と呼んだと伝えられている。
コンスタンティノス5世の修道士に対する処罰の内容は,彼の政策を非難する修道士の排除にとどまらず,修道士という特定の集団自体を侮辱し,信頼を失わせる目的と考えられるものが多かった。皇帝の命令によって,修道士たちは腕に女性を抱いた状態で競馬場内を引き回され群衆から嘲りの声を浴びせられた。修道士たちの髭を剃る刑も彼のお気に入りだった。ビザンツ人にとって髭は男の男たる象徴であり,髭を剃られることは大変な恥辱であった。修道院の建物を接収し兵舎など他の目的に転用することも多かった。
もっとも,コンスタンティノス5世がこのような修道士弾圧を行った理由は,正確にはよく分からない。彼自身や彼と同様に聖像破壊を唱える論者の文献は後年すべて焼き捨てられ,現存する史料はすべて彼を非難する教会側の視点から書かれたものであるため,彼の宗教政策が何を目指していたのかは,当時の状況や彼自身の言動から推測するしかない。
俗世から距離を置いているが故に,国際政治の現実など見ようともしない無知な修道士が皇帝を公然と非難できるほどビザンツ社会に大きな影響力を持っているのは異常であり,帝国にとって有害な存在になりかねないと判断したのかも知れないし,帝国防衛のため人的資源を有効に活用しようと考えていた彼にとって,宗教生活の道を選んで軍役に就こうとしない多数の修道士たちは許し難い兵役忌避者であり,修道士の社会的地位を貶めることで修道士の数を抑制すべきだと考えたのかも知れない。
また,コンスタンティノス5世は,ヒエレイアの教会会議に反対したローマ教皇に対しては,シチリアや南イタリアの管轄権を取り上げることで対抗しているほか,聖像破壊運動に反対した修道院の土地も大量に没収し,これらは皇帝領になっている。一説によると,ビザンツ帝国は耕地の3分の1が教会や修道院の領地だったという時代もあり,これらの資産没収によって皇帝権力が大幅に強化されたことから,こうした領地没収等による修道院勢力の弱体化と皇帝権力の強化こそが,コンスタンティノス5世による聖像破壊政策の主な目的だったのではないか,と推測する研究者もいる。
そのような宗教政策を行いながらも,人生の大半を国防のための遠征に費やしてきたコンスタンティノス5世は,775年にブルガリアへの遠征中陣没した。彼の死に様は,後の世代に生きた聖像崇拝派の修道士たちによって特に念入りに,悪意を込めて書かれることになる。彼が臨終の際に「私は消えることのない火に生きたまま放り込まれた」と叫んだと嬉しそうに述べ,彼の治世を「古の暴君のように悪の極みに達した」と結論付ける年代記作家もいた。
もっとも,同時代のビザンツ人にとって,帝国に数々の勝利をもたらしたコンスタンティノス5世は偉大な皇帝であり,その死は彼を尊敬する軍人や民衆によって深く悼まれた。彼の遺体は皇帝に相応しく,聖使徒教会の立派な大理石の石棺に埋葬された。彼に対する扱いが皇帝に対するものとは思えないほど邪険になるのはもっと後になってからの話なので,そうした経緯は第8話ないし第10話で改めて触れる。
<幕間8>カール大帝とハールーン・アル=ラシード
コンスタンティノス5世が活躍していた時代,ビザンツ帝国の東西では世界史上に名を残す偉大な君主が次第に頭角を現し,次世代のビザンツ帝国を脅かす強力なライバルとなった。
そのうちの一人は,ドイツ語読みでカール大帝,フランス語読みでシャルルマーニュと呼ばれるが,本稿では便宜上「カール大帝」で統一する。フランク王国は,カトリックを受容したクローヴィス1世によって建国され,彼の血族であるメロヴィング朝による支配が長く続いていたが,7世紀後半頃から王国の行財政を取り仕切る宮宰に実権が移り,732年には宮宰カール・マルテルが,イスラム帝国の軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで退け,751年にはその子ピピン3世が,ローマ教皇の支持を得て自らフランク王に即位した。このピピン3世に始まる王朝はカロリング朝と呼ばれ,カール大帝は742年にピピン3世の子として生まれた。
カール大帝の在位期間は,フランク王としては768~814年という46年間もの長きにわたり,生涯53回もの遠征を行うなど,その治世の大半は征服行で占められている。774年にはランゴバルド王国を滅ぼして北イタリアを支配し,804年にはドイツ北部のザクセン族を服属させ,スペインのイスラム帝国とも戦って領土をバルセロナまで広げた。
カール大帝は北のフリース族とも戦い,西ではブルターニュを鎮圧し,東方ではバイエルン族を制圧し,更にアヴァール族を壊滅させた。カール大帝の領土は現在のフランス,ベルギー,オランダ,スイス,オーストリアなどの全土,ドイツの大部分,南部を除くイタリア,及びスペイン・チェコ・スロバキア・ハンガリー・クロアチアの各一部にまで広がり,西欧世界に大帝国を築き上げた。
800年には,次の第8話で述べるとおり,ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠され,神聖ローマ帝国の初代皇帝ともされている(ただし,962年に戴冠されたオットー1世を初代皇帝とする見解もある。神聖ローマ帝国の国号が正式に使用されたのは1254年以降のことで,それ以前は「ローマ帝国」ないし「帝国」と呼ばれていた)。もっとも,フランク王国は分割相続制であったため,カール大帝の死後は代替わりの度に領土が分割され,内紛も起こり次第に弱体化した。
なお,ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは,「マホメット(ムハンマド)なくしてカールなし」という有名なテーゼを提唱して物議を醸したが,未だその当否については明確な結論が出ていない。ビザンツ関連史家の間では,このテーゼはヨーロッパ世界の成立におけるビザンツ帝国の役割を軽視しているという類の批判が強いようである。
もう一人は,アッバース朝イスラム帝国の5代目カリフ,ハールーン・アル=ラシードである。アッバース朝は,イスラム帝国をウマイヤ家の私物と化していたウマイヤ朝の支配を廃して750年に成立し,イスラム教徒間の平等を実現してイスラム帝国の最盛期を現出し,首都のバグダードはイスラム世界の中心地として大いに栄えた。
『千夜一夜物語』の登場人物としても知られるハールーンは,第3代カリフマフディーの次男として763年に生まれている。兄の急死に伴い786年にカリフとなったが,当初政治の実権は宰相ヤフヤーをはじめとするバルマク家の一族に握られていた。ハールーンは3度にわたるビザンツ帝国への遠征をいずれも成功させ,803年には権勢を振るっていたバルマク家の排除に成功してカリフによる直接統治体制を確立し,アッバース朝の最盛期を築いた。
もっとも,西はスペイン,東は中央アジアにまで及ぶあまりにも広大な領土は次第に統治が追いつかなくなり,スペインや北アフリカでは,ハールーンの時代においても既に事実上の独立政権となっていた。809年にハールーンが亡くなると領土は二人の息子に分割され,その後のアッバース朝は地方政権の自立,反乱の頻発と内紛に悩まされ,カリフの地位は事実上形骸化していった。
カール大帝のフランク王国,ハールーンのイスラム帝国のいずれも覇権は長く続かなかったが,ビザンツ帝国が生き残るには,このような偉人たちの挑戦にも耐えなければならなかったのである。