第8話 『聖像崇敬の復活者』女帝エイレーネー

第8話 『聖像崇敬の復活者』女帝エイレーネー

(1)レオーン4世の短い治世と摂政エイレーネー

 コンスタンティノス5世の死後,後を継いだのは息子のレオーン4世(在位775~780年)である。母親のエイレーネーがハザール族出身であったため「ハザロス」のあだ名で呼ばれている。このあだ名に「蛮族の血を引く者」といった趣旨の侮蔑的な意味合いが込められていることはほぼ確実であろう。
 レオーン4世は父の聖像破壊政策を継承するが,病弱だったためか聖像崇拝派に対する過激な弾圧は行っておらず,在位わずか5年,30歳の若さで死去してしまう。残された息子のコンスタンティノス6世(在位780~798年)が即位時わずか9歳と幼少であったため,レオーン4世の皇后であったエイレーネー(ハザール族出身のエイレーネーとは別人)が,摂政として政治の実権を握ることになった。
 ビザンツ帝国の摂政となり,後に帝国初の女帝となったエイレーネーはアテネの出身であり,故に「アテナイア」のあだ名が付けられている。その生い立ちについての資料は残されていないが,テオファネス年代記では,孤児であったとエイレーネーが自ら告白したと書かれている。
 エイレーネーが生まれ育ったアテネは,スラヴ人のバルカン支配にもかかわらずビザンツ領に留まっていた町であり,大半が聖像崇拝派だったと考えられている。エイレーネー自身も聖像を崇拝していたが,夫となったレオーン4世が父の見解を踏襲していたため,エイレーネーは宮廷の中で「隠れ聖像崇拝派」とならざるを得なかった。例えばある日,レオーン4世は妃の寝室で一対のイコンが枕の下に隠されているのを見つけた。夫に問い詰められたエイレーネーは,イコンについては何も知らない,誰かがそこに置いていったに違いないと言い張ったらしく,結局エイレーネーは夫の厳しい叱責だけで難を逃れた。
 当時のビザンツ帝国では,エイレーネーに限らず,宮廷内においても聖像を支持する雰囲気が広汎に漂っており,コンスタンティノス5世の聖像破壊政策にかかわらず,聖像崇拝派が多数派である現実は変わらなかった。
 コンスタンティノス5世が対外遠征に取り組み,ブルガリア問題こそ未解決だったものの数々の勝利を挙げてきたおかげで,レオーン4世や摂政エイレーネーの治世初期には深刻な対外問題は存在しなかった。そのような中,聖像破壊派のレオーン4世が死去し,聖像崇拝派のエイレーネーが摂政となったことで,聖像崇拝派に巻き返しの動きが発生することは必然的な流れであった。
 もっとも,エイレーネーが摂政会議の議長に就任したといっても,熱心な聖像破壊派であるレオーン4世の弟たちは健在であり,実際コンスタンティノス6世の即位後間もない781年の春には,テマ・シチリアの長官がレオーン4世の弟ニケフォロスを皇帝に擁立して反乱を起こしており,エイレーネーは長官を追放するため艦隊を派遣しなければならなかった。このような中で聖像崇拝禁止という国の政策を大転換するには,慎重に事を進めなければならなかった。

摂政エイレーネーによる『聖像崇敬』の復活

 784年ないし785年頃,エイレーネーは教会分裂に終止符を打つべく,首都の聖使徒教会で主教会議を開催しようとした。数あるキリスト教国家のうち,聖像破壊を国の政策として採用したのはビザンツ帝国だけであり,ローマ教皇は断固たる聖像崇拝派であったため,聖像破壊政策は東西教会の分裂要因となっていた。また,イスラム帝国の支配下で存続していたアレクサンドリア・アンティオキア・エルサレムのカトリック総主教たちも,揃って聖像破壊には反対していた。
 こうした聖像崇拝派にとって心強い「理論武装」を提供したのが,ダマスカスのヨハネスと呼ばれる人物で,彼はキリスト教徒でありながらカリフの宮廷で高官の地位にあり,後にエルサレム近郊のマル・サバ修道院に入った人物であり,彼が730年代に書いた3通のイコン崇拝擁護論は,極めて大きな影響力をもつことになった。
 ヨハネスのイコン崇拝擁護論をできるだけ簡潔に要約すると,次の2点に集約される。

(1)イコンは描かれたものの象徴ないし仲介者であり,イコン自体と描かれた人物は区別されるべきである。崇拝者の祈りが向けられるのはイコンの素材である木ではなく,その向こうにいるキリストや聖人たちなのであるから,イコンは偶像ではなく,イコンを用いた崇拝は偶像崇拝にはあたらない。

(2)キリストの受肉,すなわち三位一体のうち子なる神がナザレのイエスという人間の形で現れたという歴史的真実は,イコンを認めることによってのみ可能であり,キリストを木と絵具によって描くことはできないと主張する者(聖像破壊派)は,キリストが人間として存在しうることを否定する者である。イコン崇拝は間違っていないばかりか,正統なキリスト教信仰において不可欠のものである。以上がヨハネスの主張するところである。


 キリスト教徒でない筆者の視点からみれば,このようなヨハネスの主張は全くの屁理屈に過ぎない。①については,例えば日本の仏教でも,仏像を拝む者は仏像の素材となっている木を崇拝しているのではなく,仏像によって象徴された仏を拝んでいることは言うまでもあるまい。他の宗教も概ね同様であろうから,このような論法が許されるのであれば,偶像崇拝の禁止という規律は全くの空文と化す。②については,神がイエスという人間の姿で現れ,人々がイエスの前で拝んだという故事があるからといって,これによってただの人間がイエスを真似て神の像を作ることを神がお許しになった,むしろ聖像を使って拝むことが正しい信仰に不可欠だなどと主張するのは,どう考えても論理の飛躍がある。ヨハネスの主張を聞いたムスリムたちも,おそらくは彼の主張に納得したのではなく,あまりの屁理屈ぶりに呆れてこれ以上議論する気を失っただけではないかと思われる。
 もっとも,ビザンツ人のイコン崇拝は,既にみたとおりローマ人の伝統的異教崇拝が転化したものであり,ビザンツ人の信仰として深く根付いていた。キリスト教の歴代教父たちもその多くは,聖書の教えに反するとしてこうした崇拝を斥けるのではなく,もはや止めようもないイコン崇拝をどうやってキリスト教の教えと適合させるかに腐心してきた。
 このような歴史の下で,キリスト教の聖職者たちもいつの間にかイコン崇拝こそ正しい信仰の在り方であると錯覚するようになっており,イコン崇拝が聖書の教えに照らし正しいかどうかを判断するのではなく,自分たちが正しいと信じているイコン崇拝をどうやって聖書の教えと両立させるかという方向に議論が向いてしまうのは,ある意味無理からぬところであった。
 話が大きく逸れたが,エイレーネーが開催しようとした公会議は,前述したダマスカスのヨハネスによる論文も含め,これまでの歴代教父たちが説いてきたイコン崇拝擁護論を理論的根拠にイコン崇拝を正当化し,聖像崇拝派であったローマ教皇やイスラム帝国下の主教たちの使節も招いて,聖像破壊運動によって生じていたカトリック教会の分裂に終止符を打つことを意図したものであった。しかし,コンスタンティノス5世の熱心な信奉者であった中央軍団が剣を抜いて教会に殺到し,自分たちの信じる正統信仰を邪魔する者は総主教であれ誰であれ殺すと脅し,退去を命じたエイレーネーの命令にも従わなかったため,会議はその目的を達しないまま解散となった。
 戦争に参加しない聖職者や女性たちは,聖像破壊運動を推し進めるコンスタンティノス5世の考えを理解できなかったが,彼と共に戦い彼に深く心酔していた軍の将兵たちは,彼の正しい信仰こそがビザンツ帝国に数々の勝利をもたらしてきたと確信しており,断固たる聖像破壊派の支持者であった。エイレーネーは聖像破壊派が軍の強い支持を受けていることを見落としていたのである。
 この失敗を受けたエイレーネーは,聖像破壊派である強力な中央軍団を骨抜きにする策を講じた。彼女はイスラム軍の侵入が迫っているという嘘の発表をし,イスラム軍を迎撃するという名目で中央軍団を東方に派遣し,現地で軍団を解散させた。首都ではエイレーネーに忠実な将校が指揮する新たな部隊が徴募され編成された。
 それでも,首都では聖像破壊派による示威行為が行われる懸念がまだあったので,エイレーネーは787年,ニケーアで公会議を開催した(第2ニケーア公会議,または第7回公会議と呼ばれる)。前述したヨハネスの論文も討議に付されたが,聖像崇拝が決して新奇な考え方ではないことを強調するため,聖像崇拝を肯定する古い神学的著作の数々を集め,その著作に改変が加えられていないことを確認するなど入念な討議と作業を経て,最後には首都に戻って行われた公会議決定は聖像崇拝の復活を宣言し,神聖にして敬うべきイコンを崇拝しない者,あるいは偶像とみなす者は誰であれ呪われると宣言した。
 ところで,この第2ニケーア公会議を推進したエイレーネーは,摂政としてイコン崇拝の復活に大きな役割を果たしたが,狂信的な人物では全く無かった。聖像崇拝の復活に向けた布石として,エイレーネーは784年にタラシオスという人物を総主教に任命したが,彼は聖職者ではなく,エイレーネーの腹心の官僚たる俗人であった。公会議では,これまで聖像破壊派であったが,形勢不利と見て公会議の直前に聖像崇拝派に転向した聖職者に対する処遇をどうするかも問題となったが,教会の統一を重視するエイレーネーの意向で一部修道士たちの強硬論を抑え,そうした転向者も教会に迎え入れられることになった。聖像崇拝をめぐる問題が政治的問題であることをエイレーネーは見抜いていたのである。
 なお,以後の正教会では,おそらく偶像崇拝との批判を回避するために徹底した理論武装が行われ,イコンや聖人に対し「崇拝」ではなく「崇敬」という用語を用いることとされ,イコンの様式についても細かい規則が定められた。もっとも,ビザンツ帝国滅亡後の16世紀に発生したプロテスタントの教義では,崇拝と崇敬の区別は不可能であり,イコン崇敬なるものは偶像崇拝に他ならないとしている。筆者はキリスト教徒ではなく,また正教側の説明は単なる屁理屈であり,崇拝と崇敬の区別はやはり不可能と思われるので,以後も基本的に「崇拝」の用語を用いることにする。

(2)コンスタンティノス6世の失脚と女帝エイレーネー

 しかし,聖像崇拝をめぐる問題はこれだけでは終わらなかった。エイレーネーの息子であるコンスタンティノス6世は,自分が成年に達しても母のエイレーネーが政治の実権を手放そうとしなかったため母と不仲になり,巻き返しを図る聖像破壊派と結びついて母と対立した。こうして宗教問題は母子間の政治的対立と結びつき,実の息子である皇帝は,エイレーネーにとって最大の政敵になってしまったのである。
 790年1月ないし2月頃,コンスタンティノス6世はエイレーネーとその片腕たる大臣を排除するクーデターを企んだが,このクーデターは息子の身辺にスパイを置いていたエイレーネーによって早くも露見し,コンスタンティノス6世の支持者たちは宮廷を追われた。このときエイレーネーは,「生意気なことをするんじゃありません」と,人々の前で皇帝を叱り飛ばしたという。
 さらにエイレーネーは,宮廷の実権を完全に掌握しようと企み,帝国の公文書に皇帝より自分の名を先に書くべしと宣言し,さらに従来から自分に批判的であった軍隊から,「エイレーネーが生きている限り,コンスタンティノス6世を皇帝とは認めない」という誓約を取り付けようとした。しかしこれは行き過ぎであった。エイレーネーに反感を持っていた地方の軍団は反乱を起こし,コンスタンティノスは首都を脱出して反乱軍に合流し,軍隊の支持を得たコンスタンティノスは意気揚々と首都へ戻り,エイレーネーは宮殿の奥へ幽閉された。
 もっとも,皇帝コンスタンティノス6世の政治能力は,母のエイレーネーに遠く及ばなかった。エイレーネーと対決する上で最大の支持基盤となりうる聖像破壊派とも対立してしまった上に,祖父に倣って自ら親征した792年のブルガリア遠征でも,恐怖のあまり戦わずして逃走するという失態を演じ,軍部や政府高官の支持も失った。自信を失ったコンスタンティノスは,エイレーネーを釈放し相談相手として頼るようになった。
 さらに,コンスタンティノスは,皇妃選定コンテストで選んだ妃マリアを次第に嫌うようになり,795年にはマリアが自分を毒殺しようとしているという罪をでっち上げ,彼女を修道院に押し込めて離婚し,愛人であった宮廷の女官テオドテーと再婚した。教会法に反する強引な離婚・再婚劇に教会人は猛反発し,コンスタンティノスが自らを非難する修道士テオドロスを追放すると,コンスタンティノスは暴君呼ばわりされるようになった。
 これを好機と捉えたエイレーネーは,797年に軍を動かしてコンスタンティノス6世を逮捕して退位させ,自ら皇帝エイレーネー(在位797~802年)として戴冠した。そしてエイレーネーは,退位させた息子が二度と帝位に就けないよう,宮廷の緋産室で彼の目をくり抜いて追放してしまう。コンスタンティノス6世はその後間もなく死んだとも,首都の片隅でひっそりと暮らしていたとも伝えられるが,正確なところは明らかでない。
 こうしてビザンツ帝国史上初の女帝となったエイレーネーは,息子の摂政として長く政治経験を積んできており自らの政治力に自信があったことから,自分なら皇帝も務まると考えたのであろう。しかし,現実はそう甘くなかった。
 地方のテマはエイレーネーを皇帝と認めず反乱を起こし,彼女に忠実な将校たちで固めたはずの中央軍団でさえ,彼女の皇帝即位には批判的であった。エイレーネーは人望を得ようとして大幅な減税政策,教会や修道院への援助,貧民への慈善事業などを行ったが,結果は帝国財政の破綻を招いただけだった。
 また,ビザンツ帝国の軍部は,未だに亡きコンスタンティノス5世の影響で聖像破壊派の勢力が強かったが,聖像崇拝派であるエイレーネーは聖像破壊派であるテマ長官を解任するなど,聖像破壊派を徹底的に弾圧する政策を採った。これによりエイレーネーは軍部を敵に回し,さらに帝国の軍事力を弱体化させることになった。
 当時,東方におけるビザンツ帝国の敵はアッバース朝イスラム帝国であったが,エイレーネーが即位した当時のカリフは,アッバース朝の最盛期を築いた第5代カリフ,ハールーン・アル・ラシード(在位786~809年)であった。一般にアッバース朝の首都として知られるのはバグダードであるが,ハールーンは796年に自らの宮廷を,ビザンツとの国境に近いユーフラテス川中流のラッカに移しており,残りの治世をラッカで過ごしている。
 これは,エイレーネーによるビザンツ軍の弱体化を好機として,積極的にビザンツ帝国への侵略戦争を行う準備に他ならなかった。エイレーネーが即位した797年,ハールーンは自ら軍を率いてビザンツ帝国に侵攻した。ビザンツ軍はイスラム帝国軍の前に敗北を喫し,東方の領土は縮小に向かった。
 さらに,ローマ教皇は女性であるエイレーネーの皇帝即位を無効だと主張し,800年にはコンスタンティノス6世の正統な後継者たるローマ皇帝(アウグストゥス)として,フランク王国の国王カール1世(カール大帝,シャルルマーニュ)を戴冠させた。
 ローマ教皇の戴冠を受けたカールは,ビザンツ帝国に使節を送り,自らの帝位を承認するよう求めた。カールとの交渉に臨んだエイレーネーは,自らとカールとの結婚を提案し,カールもこの提案は好意的に受け止めていたという。しかし,自らの失政によりエイレーネー自身の求心力が低下していた上に,ビザンツ人は蛮族の王であるカールが自分たちの皇帝とされかねないこの結婚に強く反発した。
 802年,財務長官ニケフォロスによるクーデターが発生し,皇帝直属の中央軍団までがニケフォロスに味方したため,エイレーネーは為す術もなく退位しレスボス島に追放され,その地で翌年に死去した。ニケフォロスは自ら帝位に就き,皇帝ニケフォロス1世となった。
 このように,摂政時代はともかく皇帝としての業績には明らかな落第点を付けざるを得ない上に,自ら帝位に就くため実の息子の目をくり抜くという残虐な悪行を働いたエイレーネーは,暴君ないし暗君として後世に名を遺してもおかしくない存在だったが,後世のビザンツ人からは聖人として扱われ,後代の史家は息子コンスタンティノス6世の目をくり抜かせたという歴史的事実さえも「エイレーネーはその事実を知らなかった」などと歪曲し,「聖人」エイレーネーの業績を大幅に美化している。
 エイレーネーが聖人とされた理由は,その後ビザンツ人の信仰として完全に定着した聖像崇拝を復活させたことのほぼ一点に尽きる。ビザンツ帝国の歴史家はその大半が修道士であり,そうでない者も敬虔なキリスト教徒であった。彼らが歴代皇帝を評価する第一の基準は教会にとって善きことをしたか否かであり,世俗の分野における業績の有無や良し悪しはほとんど関係ないのである。

<幕間9>皇妃選定コンテスト

 エイレーネーの項目で若干言及したが,彼女は息子コンスタンティノス6世の最初の妃マリアを選ぶにあたって,ビザンツの歴史上初めて「皇妃選定コンテスト」を実施し,これはビザンツ帝国の伝統たる儀式として代々受け継がれることになる(なお,この制度の呼び名は一定しておらず,文献によって「美人コンテスト」「皇妃コンクール」など様々な名前で呼ばれているが,意味することは同じである)。
 皇帝や皇太子の妃を「皇妃選定コンテスト」で選ぶことが決定されると,皇妃候補の娘を探すため全国に使節が派遣される。候補者の第一条件は美貌であり,使節には理想の皇妃の似顔絵が渡され,このような娘を探して首都に連れてくるようにとの命令が下された。
 容貌の他にも,年齢や身長といったいくつかの条件が決められており,使節は候補者の伸長を測るため,特別製の物差しを携えていた。足の大きさも決められており,使節は足の大きさを測るための靴も渡されていた。使節たちは条件に合いそうな美人の娘を見つけると,身長と足の大きさを測り,合格と判断された娘たちは首都に送られた。
 皇妃候補者には様々な条件があったが,ビザンツ帝国の民であれば身分や家柄,財産は一切問わないものとされていたので,首都にはかなりの人数の娘が集まった。宮殿で行われる第二次審査は個人面接のほか,ゆっくり歩く動作の審査も行われた。ビザンツ帝国の皇妃たる者は,諸々の儀式にあたり優雅な所作を示すことが求められるからである。
 ほとんどの娘は,「あなたは美しい,けれどもローマ人の皇帝の妃には相応しくない」と言われて下がらされたが,最終選考に残った娘たちは残るよう命じられ,宮殿の広間で皇帝(皇太子)の登場を待った。
 皇帝(皇太子)は,母親や大勢の高官たちに伴われて広場に入場する。彼は黄金の林檎を持っていた。自分の一番気に入った娘にその林檎を渡し,林檎を渡された娘が自分の妃となるのである。自分の運命を大きく変える決断に皇帝(皇太子)はさぞ緊張したであろう。選ばれた娘たちは皆美しい女性であるが,見た目だけではその性格までは分からない。
初めて皇妃選定コンテストで選ばれたコンスタンティノス6世の妃マリア(小アジアの没落地主の娘と伝えられる)は,結局夫とうまく行かず,修道院に入れられて実質離婚することになった。自分の一生を左右する妃選びを,皇帝(皇太子)はかなりの短時間で行わなければならないのである。
選ばれる方の娘たちはもっと緊張した。自分が皇妃として選ばれるか否かで,自分のみならず自分の家族たちの運命も大きく変わるのである。娘たちは,皇帝(皇太子)の些細な言動にも一喜一憂した。
 以下は,後述する皇帝テオフィロスが皇后を決める際に行われた「皇妃選定コンテスト」の最終選考に関するエピソードである(ただし,おそらく後世の創作とされている)。娘たちの間を歩いていたテオフィロスは,他の少女たちより少し年上で,知的な美しさをたたえたカッシアという娘の姿に目がとまり,彼女の前に立ち止まった。それだけで,会場からは「運の良い御方だこと!」と,秘かなささやきが聞こえた。
 ところがテオフィロスは,カッシアのあまりの美しさにとまどったのか,林檎を持ったまま,わざとぶっきらぼうに「女から悪が生じたのだ」と呟いた。キリスト教の教えでは,美しいイヴが人類から楽園を追い出したものとされており,美しく男を惑わせる女は悪しき者と考えられていたのである。
 知的なカッシアは,落ち着いたまま「善きこともまた女から生じたのです」と答えた。神キリストは聖母マリアからお生まれになり,皇帝テオフィロス自身も,当然ながら母テクラから生まれたのである。
 すっかり一本取られた形になったテオフィロスだが,彼はカッシアを皇后に選ばなかった。大半の男性がそうであるように,テオフィロスも自分を言い負かしてしまう,頭が良く気の強い女性を妻にすることを好まなかったのである。
テオフィロスは,たまたまカッシアの傍で,ひたすら祈るように下を向いて立っていたテオドラという少女に目がとまった。いかにも慎ましやかそうなこの少女であれば,カッシアのように自分が言い負かされるようなことは無いであろう。テオフィロスがそのように考えたのかは定かでないが,結局テオフィロスは,何も言わずテオドラに林檎を渡した。
 こうして,小アジア西北部のエビッサ村に住んでいた少女テオドラは,単なる美しい田舎娘から一躍してビザンツ帝国の皇后となったというのである。『シンデレラ』の物語は,王妃も家柄で決まる西欧諸国では全くの夢物語に過ぎないが,ビザンツ帝国では現実にあり得る話であった。
 もともとビザンツ帝国の歴代皇后には,劇場で売春を含むいかがわしい商売をしていたユスティニアヌス1世の妃テオドラ,アテネの孤児であった女帝エイレーネーといった,美しくても氏素性のはっきりしない者が多い。皇帝すらも下層民からの成り上がり者が少なくなかった。そのようなビザンツ帝国の伝統が,世界的にも珍しいこのような「皇妃選定コンテスト」を可能としたのである。
 余談になるが,ビザンツ帝国の歴代皇后や帝室関係者の女性たちは,「テオドラ」,「エイレーネー」,「エウドキア」といった名を持つ者が極めて多い。「テオドラ」は「神の恩寵」を意味する名前であり,「エイレーネー」(短縮して「イレーネ」などと表記されることもある)は古代ギリシア神話に登場する平和を司る女神の名前であり,転じて「平和」を意味する。「エウドキア」は「神の恵み」を意味する名前である。
 戯れに,コンスタンティヌス1世以降における歴代ローマ・ビザンツ皇后(皇帝即位前の妻,結婚しなかった女帝を含む)に代数を付してみたところ,最多はエイレーネー(イレーネーを含む)の11人,2位がエウドキアの9人,3位がテオドラの8人,同数4位がアンナとマリアの各6人という結果となった。もっとも,氏名不詳の皇后もおり,数え方にも様々な問題があることから,この数字はあくまで参考程度と考えてもらいたい。
 皇帝やその一族の娘として生まれた女性たちは,おそらく生まれたときからこれらの名前を付けられていただろうが,ビザンツ帝国の皇后として選ばれた女性は,結婚の時点で上記のような,ビザンツ帝国の皇后に相応しい名前に改名される場合が多かった。
このうち,他国の王家などから嫁いできた女性については改名前の名前も知られているが,皇妃選定コンテストで選ばれた女性を含め,国内の下層民出身ないし素性不明の皇后たちは改名前の名前がほとんど記録に残っていない。例外は,テオドシウス2世の妃エウドキアが結婚前はアテナイスという名前であったこと,ロマノス2世の皇后となったテオファノ(これも「神の輝き」を意味する佳名である)が結婚前はアナスタソという名前だったと知られている程度である。そのため,テオフィロスの皇后となった前述のテオドラを含め,「テオドラ」「エイレーネー」「エウドキア」などの名を持つ歴代皇后の多くも,結婚前には別の名前で呼ばれていた可能性があるが,史料的根拠が無いため断定はできない。
このような「皇妃選定コンテスト」は,全国のビザンツ人から皇妃を選ぶことで,皇帝の権威を帝国全土に知らしめるとともに,国民にビザンツ帝国への親近感を抱かせる役割を果たしたと考えられるが,実際に「皇妃選定コンテスト」で皇妃が選ばれた例はそれほど多くなく,このような風習の意義をさほど重要視すべきではないとする見解もある。
時代が下るにつれて,ビザンツ帝国も諸外国や国内有力貴族との政略結婚を重視せざるを得なくなり,特に12世紀のコムネノス王朝以後になると,このような「皇妃選定コンテスト」が行われた形跡は全く見られなくなる。
もっとも,このような「皇妃選定コンテスト」の風習は,ビザンツ帝国から宗教面及び文化面で大きな影響を受け,ビザンツ帝国の後継者を称したロシアにも受け継がれた。ただし,ロシアの皇妃選定コンテストは,貴族ないしそれなりの家柄の娘から候補者が選ばれたため,ビザンツ帝国のように下層民の娘がいきなり皇后になる例はさほど多くなかった。

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