第9話 『悪名高い経済人皇帝』ニケフォロス1世

第9話 『悪名高い経済人皇帝』ニケフォロス1世

(1)ニケフォロス1世の『十大悪政』

 クーデターにより帝位に就いたニケフォロス1世(在位802~811年)は,エイレーネーの時代に税務長官を務めていたことが知られているものの,それ以前の経歴や生い立ちは知られていない。皇帝となったニケフォロスは,内政,外交,軍事のあらゆる面において,前任者エイレーネーの残した負の遺産を清算しなければならなかった。税務官僚出身であったニケフォロスはそのキャリアを活かして改革(主に財政改革)に取り組んでいる。
 彼の行った改革は,『テオファネス年代記』で「十大悪政」と評され殊更に悪く書かれているが,現代の研究者はむしろ彼の業績を高く評価しており,その財政改革の内容も,当時におけるビザンツ帝国の実情を知る手掛かりとして研究の対象とされている。
 ニケフォロス1世の「第一悪政」は,人々をスラヴ人の土地へ強制的に移住させたというものである。彼の治世下ではギリシア地方の再征服が進んでおり,新たにペロポネソス,ケファロニア,テッサロニケ,デュラキオンの各テマが新設されている。ニケフォロスはスラヴ人から奪ったこれらの地域の支配を確実なものとするため,後述する税務調査で発見された浮浪民,土地台帳に記載されていない者たち,さらに犯罪者をも移住者として送り込んだが,それでも足りなかったため,後に各地の農民を強制的に移住させている。
 こうした植民政策は,スラヴ人の土地となっていたギリシアの地をビザンツ帝国の手に戻すにはやむを得ぬ措置であったが,この政策は「敵の捕虜になるようなものだ」などとひどく嫌われた。もっとも,これらの政策はニケフォロス1世によって始められたものではなく,おそらくユスティニアノス2世の時代あたりから繰り返し行われていた。
 バルカン半島に定着したスラヴ人は自らの国家を建設するという発想がなく,小集団で定住し農耕生活を送る傾向にあったので,ビザンツ帝国は対イスラム戦争が一段落すると,まとまりのないスラヴ人たちを各個撃破して捕らえて小アジアに移住させ,バルカンの征服地や戦略上の要地にギリシア人を移住させるといった政策を繰り返した。こうした政策はレオーン3世,コンスタンティノス5世,そして聖職者たちが聖人として称賛するエイレーネーの治世下でも引き続き行われ,またバルカン半島の再征服は850年頃までに完了したと考えられていることから,ニケフォロス1世以降の諸帝もこのような政策を継続したはずである。
 このような政策が続けられたことにより,ビザンツ帝国は小アジアではスラヴ語が多く使われ,トラキア地方ではアルメニア語が話されるといった感じの多民族国家になっていた。彼の治世下では再征服が順調に進んだので移住させられた者の数も多かったのだろうが,歴代皇帝によって継続された移住政策をニケフォロス1世の「悪政」に数え上げるのはいささか無理があろう。
 「第二悪政」は,貧民を軍隊に入れ,その貧民の装備を他の村人の負担で整えるよう命じ,村に連帯責任を負わせたというものである。ビザンツ帝国では,7世紀末ないし8世紀前半頃に編纂された「農民法」と呼ばれる法令集があり,その時代から村には納税上の連帯責任が課されていたが,ニケフォロスはこれを兵役にも適用したのである。これは,エイレーネーの治世下で弱体化した軍事力を再建するにはやむを得ぬ措置だったのだろうが,新しい兵役制度が嫌われるのもまたやむを得ないことである。
 「第三悪政」は,財産調査を行って増税し手数料も徴収したというものであり,「第四悪政」は,要するにエイレーネー治世下になされた免税措置の取消しである。暗黒時代のビザンツ帝国は村を単位とした大雑把な課税しか出来ておらず,その後レオーン3世が課税台帳の整備を試みたが,それも部分的なものにとどまっていた。
 このような現状を改めるため,807年,ニケフォロスは全国に査定官を派遣して大規模な税務調査を実施し,きちんとした課税台帳を作り厳密な課税を実施したのである。ビザンツ帝国の統治基盤を整備するには必要な措置であった。ニケフォロスは税務調査と合わせて皇太子妃の候補者募集(前述した「皇妃選定コンテスト」のことである)を行うなど不満を逸らす工夫もしていたが,彼の治世下ではエイレーネーが人気取りのために実施した減税政策も財政再建のため撤回するしかなく,増税と課税強化が民衆から怨嗟の対象となったのはやむを得ないことである。
 「第五悪政」は,教会や修道院,慈善施設への課税であり,どうやら教会等の土地で働く小作農の人数に応じた税を課したようである。財政再建と公平な課税のためには,教会も課税の聖域とするわけにはいかないとの配慮があったのだろうが,聖職者が歴代皇帝の評価を決めるビザンツ帝国で敢えて教会等への課税を実施したニケフォロスは,もはや悪評を受けることなど覚悟の上,と腹を括るしかなかったであろう。
 「第六悪政」は,急に豊かになった者を宝の発見者として課税した,「第七悪政」は,過去20年以内に壺や容器を発見したものに課税した,というものである。
これは異民族の侵入が続いた時代,貴重品を壺に入れて地下に埋めるといったことがしばしば行われていたところ,この時代には平和が回復して人々が無人の地となっていたかつての町や村に戻り,地下に隠されていた壺などを発見して急に豊かになったものが続出したところ,ニケフォロスはこうした現象にも目を付けて抜かりなく課税したということである。
 「第八悪政」は,過去20年以内に遺産を相続した者に相続税を課税し,テマ・アビュドス以外で取引された家内奴隷にも課税したというものである。これは富裕層への課税強化であろうが,貧富の差の拡大を防止するためには,たとえ悪評を浴びても富裕層への課税をしっかり行うことは不可欠である。後に述べる末期のビザンツ帝国は,貧しい庶民には重税を課す一方,富裕層への課税がほとんどできない状態に陥っており,これが滅亡の一因になっていることを考えると,ニケフォロスの政策はビザンツ帝国の存続に大きく貢献したと言えよう。これが非難の対象になったのは,要するに聖職者たちが富裕層の味方だからである。
 「第九悪政」は,小アジアの沿岸に住む船主たちに対し,土地を強制的に割り当てて課税したというものである。この政策の目的については学会でも意見が分かれており,彼らに土地を与えることでテマの海軍に入れた軍事政策という説と,海上交易を営む者に安定した収入源を与えたという説があるという。いずれにせよ,ニケフォロスがこうした船主たちの経済力に目を付け,何らかの形で国家に貢献させようと目論んだことは確かであろう。なお,後の皇帝コンスタンティノス7世時代にも,これと同様の法律が発布されているという。
 「第十悪政」は,首都の有力船主に無理やり金を貸し付けて,年率16.67%の利息を取ったというものである。これは,国家の剰余金を有効活用するとともに,強制的な手段に訴えてでも商売を拡大させ,商業を振興させようとしたものであろう。暗黒時代を脱して平和が回復しつつあったこの時期,ニケフォロスは国家の投資を受け容れる余力が民間にあるのを見抜いていたと考えられる。なお,年率16.67%という利率は,当時の金融業者による利率に比べると相当に高く,利息が実質的な税金とみなされ悪政と非難されたのもやむを得ぬことである。

(2)ニケフォロス1世の外政とプリスカの惨敗

 これらの「悪政」は,税務官僚としてのキャリアを歩んできたニケフォロスの優れた経済感覚と知識に加え,帝国の再建に必要なことなら悪評も覚悟の上で断固やり抜くという,統治者としての強い使命感を感じられるものであり,高い評価に値する。しかしニケフォロスは皇帝であり,彼の専門分野ではない外交や軍事の分野における課題も待ち受けていた。ビザンツ皇帝にとって最大の責務は帝国の防衛であり,外政面でもニケフォロス(勝利をもたらす者)の名に恥じない働きを見せなければ,ニケフォロス1世は皇帝として合格とは言えないのである。
 まず,カール大帝がローマ教皇から戴冠された称号については,803年にニケフォリの和約を結び一応の妥結を図ったが,その具体的内容はよく分かっていない。また,この和約によりフランク王国との外交問題が完全に決着したわけではなかった。
 軍事面では,ニケフォロス1世は帝国の東西で軍事遠征を繰り返し行っているが,戦争はあまり得意でなかったのか,あまりめぼしい成果は挙がっていない。イスラム帝国のカリフ・ハールーンは,803年と806年にも自ら軍を率いてビザンツ帝国に侵攻し,彼に敗れたニケフォロスは,貢納金を支払う条件で和約を結ばざるを得なかった。
 ニケフォロス1世の時代には,クルム・ハーンの治世下でブルガリアが勢力を拡大しており,ブルガリアに対しても何度か派兵したほか,809年には反乱を起こしたヴェネツィアにも艦隊を派遣している。
 苦労しながらも何とか帝国を維持しようとしていたニケフォロス1世を最終的に破滅させたのは,811年に自ら大軍を率いて親征したブルガリア遠征である。圧倒的な数のビザンツ軍を迎えて,クルムは和平を求める使節を送ったが,勝利を確信していたニケフォロスは申し入れを即座に拒絶。そのままブルガリアの首都プリスカに侵攻し,守備隊を虐殺して宮殿を焼き払った。そこまでは良かったが,ブルガリアに奪われた都市セルディカの奪回に向かう途中,バルカン山脈の峡谷でブルガリア軍の待ち伏せに遭い,包囲されたビザンツ軍は大打撃を受けて壊滅した(プリスカの戦い)。ニケフォロス1世もこの戦いで戦死し,彼の遺体すらも発見することができなかった。
 ニケフォロス1世は聖像破壊論者ではなかったが,おそらくは教会等への課税を強行したために,その最期についても後世の史家から必要以上に悪く書かれることになった。ニケフォロス1世がクルムの前に引き出された,ニケフォロス1世の頭蓋骨が金箔を貼られクルム所有の髑髏盃にされたといった類の伝承がそれであるが,これらはすべて後世の創作である。
 ローマ皇帝の戦死は,ハドリアノポリスの戦いでウァレンス帝が戦死して以来の大事件であり,帝国内には大きな動揺が広がった。首都の民衆は,かつてブルガリアを相手に多くの戦勝を収めたコンスタンティノス5世の墓の前に集まり,どうかもう一度生き返ってブルガリア人たちを打ち破ってくださいと懇願したという。また,ニケフォロスの息子スタウラキオスは何とか戦場を逃れ,首都に戻って帝位に就くも,既に瀕死の重傷を負っており政務を取ることは出来なかった。彼の皇帝在位期間はわずか2か月ほどであり,当然ながら特筆すべき業績もなく,翌812年には死去した。

<幕間10>ビザンツ人の経済活動

 歴代皇帝に関する伝記の合間を縫って,ビザンツ人の経済活動に関し言及するとするならば,ビザンツ随一の経済人皇帝たるニケフォロス1世の項目に付け加えるのがおそらく最適であろう。
 ビザンツ人は,商売は自由人にはふさわしくない活動とみなす蔑視間をローマ人から引き継いでおり,商業活動がビザンツ人たる年代記作家の関心を惹くのは稀であった。商取引に関する数少ない史料の一つとして,テオファネス年代記はエフェソスで行われた聖ヨハネの祝日に行われた定期市について言及している。
 同年代記は,皇帝コンスタンティノス6世がイスラム軍に勝利した後,エフェソスで聖ヨハネの祝日たる5月8日に行われる祝典に参加するため,自らエフェソスに立ち寄り,福音史家ヨハネに捧げられたバジリカ教会で祈りを捧げた旨を伝えている。宗教的な祭典と商業活動は一見無縁なものに見えるが,聖人逝去の記念日には当然多くの人が集まるので商売をするには最適であった。
 記念日は祭日市で祝われるのが一般的になり,祭日市にはしばしば遠隔地からも商人が訪れ,商人たちから教会に寄進される金額もかなりのものにのぼった。こうして,多くの巡礼を引き付ける重要な聖遺物を蔵する教会と,その巡礼たちを相手に商売をする定期市とは緊密な結びつきをもつに至ったのである。
ビザンツ帝国では,あらゆる商業取引に対し10%の取引税(コンメルキオン)と呼ばれる関税が課され,この関税はコンメルキアオリスと呼ばれる通商官吏が徴収した。この通商官吏の任務は,税関を通過するすべての商品に関し税金を徴収することであり,商品の袋には官吏の鉛印章を取り付けて,税が支払い済みである旨を示した。
 コンスタンティノポリスは商業の中心地でもあるが,その南北からの入り口となるアビュドスとヒエロンに主要な税関が置かれ,官吏たちは海峡を横断する船舶を監視し,首都への食料供給にも意を用いた。エジプトがペルシア人ないしアラブ人に征服された後は,首都への穀物供給地はトラキアと小アジア西部に代わり,商人たちと通商官吏たちは,首都への食料供給を確保するために重要な役割を果たした。コンメルキアオリスは関税を徴収する公的任務の他に,個人の資格で商取引をすることも認められていたため,ビザンツ帝国の官僚たちにとっても美味しい役職であったろう。
 コンスタンティノポリスは北と南,西と東を結ぶ陸海の交易ルートの中継地点に位置しており,ビザンツ帝国の全時代を通じて,外国から多くの商人がやってきた。アラブの商人は香辛料・香料・絨毯・磁器・宝石・ガラス製品をもたらし,イタリア商人は木材・金・毛織物を,ロシアの商人は蠟・蜂蜜・琥珀・刀剣・毛皮,ブルガリア人は亜麻や蜂蜜を持参した。絹織物は西欧で,毛皮はイスラム諸国で,それぞれ法外な値段で売れたという。
 7世紀ないし8世紀には『ロードス海法』と呼ばれる海事契約の規定集がまとめられ,これによれば現地の商人は商品の輸送を依頼した船主から,損害や遺失が出たときに一定額の補償を受けられることになっていた。金融業者による通常の利率は4.17%から6%の間と定められていたが,皇帝ニケフォロス1世は,首都の主要な船主層が非常に裕福なのを見て,彼らに対し各々金12ポンドを強制的に貸し付け,年率16.67%の利息を徴収したのは同帝の項目で述べたとおりである。
 商業に欠かせないのは信頼のおける通貨であるが,ビザンツの歴代皇帝は誰のものか分かるように,銘文付きで自らの肖像を刻んだ金,銀,銅の貨幣を発行した。基軸通貨となる金貨は,312年のコンスタンティヌス1世が発行した最初のソリドゥス金貨から,1020年代にバシレイオス2世が出した金貨に至るまで,金の法定成分が変わることなく維持された。その後の混乱期には大きく質を落とすことになるが,これほどの長期間にわたって信頼できる通貨を供給し続けたのは歴史上稀に見る偉業であり,ビザンツ帝国のノミスマ金貨が「中世のドル」と称される由縁はここにある。
 ただし,7世紀の暗黒時代やその後の聖像破壊をめぐる混乱期における貨幣の出土量は地方では極めて少なく,そのためこの時代には貨幣が首都以外ではほとんど流通せず,地方では一時的に物々交換経済へと退化していたと主張する歴史家もいるが,異論もありこの点については定説を見ていない。
 ここまでは商業を中心に述べてきたが,ビザンツ帝国の財政上,交易からの収入はほんのわずかな部分に過ぎず,地租や人頭税からの収入の方がはるかに多かった。ミカエル3世の摂政テオドラが残した財務明細書によると,国家の歳入3,300ノミスマのうち商業税によるものは150ノミスマに過ぎず,土地税1,125ノミスマ,かまど税と呼ばれる世帯税1,250ノミスマの方がはるかに重要な財源であったことは明らかである。
 ビザンツ帝国の財政は,土地とそこに住む住民に対し金貨などで納税させ,官僚や軍人への給料を金貨などで支払うというのが基本であったが,その他帝国の各地には皇帝の直轄領があり,家畜を飼育する大規模な牧場,御用林,桑園,葡萄園,オリーブ園などが役人によって管理されていた。歴代皇帝はしばしば,功績のあった将軍や行政官,教会人に恩賞として土地を贈与しており,それが後に有力家門の支配する広大な所領の中核となった可能性もある。個人に対する贈与は比較的容易に取り戻すことが出来,支配者たちが政敵を追放するにあたっては,その財産や所領を没収するのが常であった。
 支配者たちは,おそらく霊的な恩賞に与ろうとして修道院に土地を寄進し,修道院は莫大な資産を集積していたにもかかわらず免税特権を受けていた。こうした土地を取り戻すのは難しく,ニケフォロス1世は慈善施設に属していた所領を皇帝の財産に移管したが,これが悪政の一つに挙げられたのは既に述べたとおりである。歴代皇帝の大半は教会人たちの非難を恐れ,教会や修道院の土地や財産に手を付けようとすらしなかった。
 元老院議員といったビザンツ社会のエリートたちは,伝統的に土地に対する投資を好み,土地財産と宮廷内の地位を自らの社会的ステータスとした。国家年金の付いた宮廷の爵位も投資の対象とされたが,爵位は相続できず投資した元金が払い戻されることもなかったので,どちらかというと国家年金よりは名誉とステータスが購入の動機付けになっていたと思われる。
 商業に従事する者は,しばしば国際交易で多くの利益を上げていたにもかかわらず,その職業故に平民であり汚れていると貶められた。皇帝テオフィロスの妃テオドラは,船舶交易に関与しているのを皇帝に知られると,皇后たる者そんな汚れた仕事に手を染めるべきでないということで,船荷すべてを焼却させられたと伝えられる。
 ただし,商売で金を稼ぐ卑しい人間にも,多額の支払いと引き換えに爵位保有者のエリート集団に加わることを認めた皇帝もいた。いかなる出自や方法によったにせよ,立派な爵位を得た者は,宮廷で然るべき装束をまとうことが許され,こうした栄誉はいかなる経済的利得よりずっと重要なものであった。例えば髭のあるプロートスパタリオスは,宝石の付いた黄金のカラーと金で縁取りした赤いマントをまとっており,髭のない(宦官の)プロートスパタリオスは,白色の衣装に金の装飾をした白いマントをまとった。
 ビザンツ帝国では,廷臣に対する俸給の支払いも一種の儀式と化していた。廷臣たちは年に一度,復活祭の1週間前の日曜日から3日間にかけて皇帝から俸給が与えられたが,爵位の高い者から順に金貨の詰まった袋が与えられ,特に俸給の高い廷臣は,自分に与えられた金貨の袋を手に抱えてではなく,肩に担いで運んでいくのが常であった。俸給の支払いにおいて他の者より早く呼ばれ,多くの金貨を受け取るのも大きな栄誉であった。
 こうした仕組みは,あらゆる文武の高級官職者,さらには外国人をも首都の宮廷に引き付け,ひいては彼らを帝国の統治システムに組み込むのに役立った。後年,フランスの太陽王ルイ14世は,壮麗かつ豪奢なヴェルサイユ宮殿に居住し,貴族たちを宮殿で栄誉ある地位を得るため互いに競争するよう仕向けることで,それまで自己の利益を優先しばらばらに行動していたフランスの貴族たちをまとめ国内を統合することに成功したが,ビザンツの宮廷はこれと似たような役割を果たしていたことになる。
 若干余談になるが,実際にルイ14世は専制君主の統治を称える手段としてビザンツを利用しており,フランスの啓蒙思想家であるモンテスキューやヴォルテールがビザンツを徹底的に非難したのも,ルイ14世の専制支配に対する反発がその背景にあったと指摘されている。フランスの誇る太陽王ルイ14世の統治は,多分にビザンツ型統治の模倣という要素を含んでいたのである。
 他方,商業を軽視するビザンツ人の価値観を反映して,交易に対するビザンツ帝国の政策は概して保守的であった。国家にとって必要な物資,敵国を利する可能性のある物資の輸出は一切禁じられた。輸出が禁じられていた品目には,「ギリシアの火」は勿論,金,塩,鉄,造船用の木材,そして紫貝から作られた本物の紫染料で染めた絹製品も含まれていた。最後の絹製品は,皇室の構成員のみが用いるものとされていたためである。
 製造に関しても規制的で,皇帝レオーン6世のものとされる『首都長官の書』では,首都における商工業者の同業組合が規制の対象となり,高価な絹製品や貴金属製品のみならず,蝋燭,石鹸,魚,公証人の記録文書といったものに至るまで,国家がその生産を管理しようと意図したことが窺われる(なお,絹織物は中国発祥であるが,ユスティニアヌス1世の時代頃にその製法を盗み取ることに成功し,以後ビザンツ帝国でも国産の絹織物や絹製品が製作されるようになったようである)。
 ビザンツ帝国が,このように商業を卑しい仕事とみなし,商業に対して諸々の規制や統制を掛け,ビザンツ人も商業よりは土地や爵位への投資を好み,商売で富を築いた者もやがては安定した資本として土地に投資し,爵位にも投資して栄誉に与ることを夢見るという気風が根付いたことで,ビザンツ人は商業に対する進取の精神が抑えられ,やがてアラブ人やヴェネツィア人の商業活動が活発化してくると,ビザンツ人の商人はこれらの外国商人とまともに競争できなくなり,次第に商圏を狭められ駆逐されていく。
 しかし,商業の主役がヴェネツィア人など外国人に取って代わられた後においても,コンスタンティノポリスは地中海商業の中心地であり続けた。金製品や絹製品は外国人の商人たちを引き付け,学校は多くの学生を引き付け,教会や聖遺物,イコンはさらに多くの巡礼たちを引き付けた。帝国の行政機構は多くの仕事を生み出し,人々が混合するその社会は,地中海世界におけるどの町よりも成功の機会を多く提供した。外国人の集団たちは首都のうち特定の地区に居留し,アラブ人の貿易業者は自分たちのモスクで,ユダヤ人の商人は自前のシナゴーグで,そして西欧の商人たちは彼ら自身の教会で礼拝したが,彼らは皆首都長官の監督下にあり,その下で法と秩序が維持されていた。コンスタンティノポリスは,まさしく中世における最大級の国際都市として繁栄したのである。

(3)『カール大帝を誤魔化した者』ミカエル1世ランガベ

 スタウラキオスの後を継いだのは,ニケフォロス1世の娘プロコピアと結婚し,スタウラキオスの義弟となっていたミカエル1世ランガベ(在位811~813年)である。ミカエル1世は,エーゲ海地区の艦隊司令官を務めていたテオフュラクトス・ランガベの息子であり,自らもクーロパラテースの爵位を与えられていた名門貴族の出身である。なお,自らの家門名を持つビザンツ皇帝は,ミカエル1世が最初の例となる。
 ミカエル1世の即位はクーデターによるものではなく,帝国の危機にあって重傷のため政務を取れないスタウラキオスが自発的に譲位したことによるものである。その際,ミカエル1世は息子のテオフュラクトスを共同皇帝としている。
 ミカエル1世の即位当時,プリスカの戦いでビザンツ軍に大勝したクルムは,その勢いでビザンツ帝国に侵攻しており,ローマ皇帝の称号をめぐるフランク王国との外交問題も決着しておらず,また先帝スラウラキオスの皇后テオファノも女帝即位を画策するなど,帝国は危機的な状況にあった。そのため,ミカエル1世は政権基盤の強化のため,ニケフォロス1世と対立していたストゥディオス修道院長テオドロスらとの妥協や,皇帝称号をめぐって交渉が続いていたフランク王国との妥協を迫られた。
 フランク王国に対し,ミカエル1世はカール大帝を「バシレウス」として承認した。しかし,ミカエル1世はその後すぐ、ビザンツ皇帝の称号を「バシレウス・オブ・ロマーヌス」(ローマ人の皇帝)に改め,カール大帝に認めた称号との区別を図った。
 「皇帝」ないし「王」を意味するバシレウスであっても,長い栄光の歴史を誇るローマ人の「バシレウス」と,蛮族上がりの新興国家であるフランク人の「バシレウス」とでは,その権威に格段の差がある。カール大帝はこれに気付くと,当然ながら自らを「ローマ人のバシレウス」と認めるよう要求したが,ビザンツ側は「我々はカールを,フランク人のバシレウスと認めただけだ。ローマ人のバシレウスと認めたことはない」として拒否した。
 このような一種のトリックにより,ビザンツ帝国のみがローマ帝国の正統なる継承者であるとする建前を何とか死守することは出来たが,当然ながらフランク王国との外交問題が完全に解決したわけではなく,またこの出来事は,ビザンツ人が西欧人から「狡猾なギリシア人」との悪評を受ける初期のきっかけを作ることになった。
 813年,ミカエル1世は軍を率いてクルムとペルシニキアで対戦するが,テマ・アナトリコンの長官であるレオーン(後の皇帝レオーン5世)の非協力的態度もあって敗北してしまう。その直後,ミカエル1世はレオーンへの譲位を余儀なくされ,修道士として余生を過ごした。なお,ミカエル1世の息子の1人ニケタスは去勢された上で修道士とされイグナティオスと名乗り,後のミカエル3世及びバシレイオス1世の治世下でコンスタンティノポリス総主教を務めた。
 ニケフォロス1世からミカエル1世までの3代にわたり血縁による皇位継承が行われたため,歴史上この王朝は「ニケフォロス朝」と呼ばれている。

<幕間11>ビザンツ人の家門名

 ビザンツ皇帝の中で初めて自らの家門名を持ったミカエル1世ランガベに因み,ビザンツ人の家門名とその特徴についてここで触れておく。
 古代ローマ人は自らの家門名を持っていた。例えば,ローマ帝政の実質的創始者とされるガイウス・ユリウス・カエサルは,「ガイウス」が個人名,「ユリウス」が氏族名,「カエサル」が家門名であり,「ユリウス氏族に属するカエサル家のガイウス」という意味になる。
 ところが,帝政期に入った後は時代が下るにつれて,家門名の知られる人物は徐々に少なくなって行き,特にキリスト教が国教化された5世紀以後はほぼ見られなくなる。もっともその原因については,聖職者を名前でしか記録しないキリスト教の影響を受けたのか,皇帝の奴隷たる者家門名を名乗るべきでないという価値観が生まれたのか,いまいち判然としない。
 「ランガベ」の家門名を名乗ったミカエル1世はかなりの先行例であるが,10世紀に入った頃になると,裕福な貴族層を中心に家門名を名乗るビザンツ人が多くなる。初期に登場する家門名としては,軍事貴族たるドゥーカス家,フォカス家,クルクアス家,文官で知られるブリンガス家,レオーン6世の治世下で権勢を誇ったザウツェス家,成り上がり者ながら皇帝を輩出したレカペノス家などが挙げられる。
 ビザンツ人の家門名に見られる特徴としては,まず女性も家門名を名乗り,その際には家門名も女性形に変化することである。例えば,11世紀末に即位した皇帝アレクシオス1世の妃エイレーネーは,名門軍事貴族ドゥーカス家の出身であるため,エイレーネー・ドゥーカイナと名乗った。古代のローマ人女性は名門貴族出身であっても個人名のみで呼ばれるのが通常であったため,これはローマ人とビザンツ人の重要な相違点である。
 ビザンツ人の家門名は自然発生的に登場したものであり,家門名の継承等に関する明確なルールは無かった。女性は結婚しても従来の家門名を名乗り続けるのが一般的であったが,結婚にあたり夫の家門名に改める場合もあった。子供は父親の家門名を名乗るのが一般的であったが,諸事情により母親の家門名を名乗ることもあった。また,アレクシオス3世アンゲロス・コムネノスや,ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスのように,諸事情により2つの家門名を付して名乗る場合もあった。
 家門名の話からは少し逸れるが,ビザンツ帝国では爵位にも女性形があり,文武の官職者が爵位を受けるときには,彼らの妻たちもその爵位の女性形を授けられた。例えば夫が皇帝のカンディダトスになると,妻もカンディダティッサの称号を正式に授与され,夫と同様に正装して宮廷に参内し儀式に参列したほか,自らの称号を帯びた印章を押して文書を発給することもあった。爵位の女性形を授けられた女性たちがどのような役割を果たしたかは必ずしも明らかでないが,少なくとも宮廷儀礼では重要な役割を果たしていたようである。
 ビザンツ帝国では,江戸時代の日本で徳川氏を名乗る者がごく限られた者に限定されていたような,特定の家門名を高貴な生まれに属する者の独占物とする発想は生まれず,皇帝の家門名がその家臣たちに授与されることも稀では無かった。特に帝国末期のパレオロゴス王朝時代になると,皇帝一家と血縁関係も無いのにパレオロゴスの家門名を名乗る人物が歴史上次々と現れることになる。例えば,14世紀に反乱を起こしてテッサロニケを支配した「熱心党」の指導者には,水夫ギルドの指導者アンドレアス・パレオロゴス,執政官ミカエル・パレオロゴスといった人物の名前が伝わっており,どの程度の身分であれば家門名を名乗ってよいといったルールも特に無かったようである。
 このようなビザンツ人の伝統を受け継いだ現代のギリシア共和国では,夫婦別姓が原則であるが,社会的な関係においては,配偶者の同意を得て配偶者の姓を名乗る,あるいは配偶者の姓に自らの姓を付加して名乗ることも認められており,選択の幅が広い制度になっている。

 

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