第1話後編 帝国を救う「大悪人」

第1話後編 帝国を救う「大悪人」

第10章 戦争とは


 僕は、再編成った直属軍を率い、ニケーアの北東にあるサカリア川の河畔で、ダヴィドの軍を待ち受けた。僕の軍はまだ訓練不足ではあるが約8千、敵兵は約6千。他の誰にも教えていないが、ダヴィドにはテオドロス・イレニコスを使者に送り、イサキオス帝の名で「我々はダヴィド様に恭順致します」という手紙を送っている。そのせいもあってか、案の定ダヴィドは全くの無警戒で、サカリア川を渡航し始めた。兵士の半分くらいが渡航したあたりで、
「テオドラ、攻撃頼む」
「行くわよ!」
 テオドラ得意の神聖術、正確に表現すると敵に向かって大きな火炎球を撃ち込み、その火炎球は敵に当たると爆発するという感じの術なのだが、この一撃で敵は大混乱に陥った。続いて弓兵隊の一斉射撃で更に敵を怯ませる。
「全軍突撃!」
 僕の合図で、ラスカリス父子率いるヴァリャーグ近衛隊と、アレスとネアルコスが率いるファランクス隊が突撃を掛ける。敵は完全に戦意を失っており、ファランクスの槍と近衛隊の斧によって次々と倒されていった。逃げようとする敵を、ペトロス率いる軽騎兵隊が追いかけて次々と斬り殺していく。わずかに抵抗する敵もいるが、イレニオスが負傷兵に治療術をかけてくれるので、味方の死者が出る気配はない。
 僕も初陣の時には、人間の死を見る恐怖感、人を殺したことへの罪悪感といったものを感じたが、今はもう慣れてしまい、何も感じなくなってしまった。逃げ道の無い戦いの日々は、人の感性を痺れさせてしまうのだろうか。ダヴィド本人は真っ先に逃げてしまったが、敵にはかなりの損害を与えたはずだ。
「敵にどのくらいの損害を与えられたかな?」
 戦闘が一段落した後で僕がそう呟くと、イレニオスが杖をかざして答えた。
「敵の死者3303人、生存者2785人」
「そんな細かい数字まで分かるの!?」
 僕が驚くと、テオドラが当たり前のように「イレニオスならそのくらい出来るわよ」と言ってのけた。
 知らなかった。これからは何事もまずイレニオスに聞いてみることにしよう。
「ダヴィド本人は取り逃がしましたが、これだけ被害を与えれば、彼だけで聖なる都を奪回することはまずあり得ないでしょうな」
 ラスカリス将軍の発言に、他の将たちも頷く。作戦は成功と言ってよいだろう。この戦いは僕の大勝利に終わった「サカリア河畔の戦い」として記録されることになったが、実態は兵士たちの実戦訓練を兼ねた、ただの騙し討ちである。とりあえず目的を達したので、僕は兵を率いてニケーアへ帰還することにした。
 その途中。
「テオドラ、君にちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
「何? あたしのスリーサイズが聞きたいの? みかっちってスケベね~」
「そんなこと一言も言ってない! さっき、君の使ってた爆発する神聖術、なんて名前なの?」
 テオドラは時々「魔法」と言ったりするけど、僕から聞くときは「神聖術」と言っておいた方が無難だ。僕はこれまでの経験からそう学習していた。あとこの世界にスリーサイズって概念あるのか。
「特に無いわよ」
「無いの!? なんか他の術にはメテオストライクとか名前付けてたのに」
「あれはあたしの開発した必殺魔法だから、ちゃんと名前付けてるけど、あんなしょぼい術にいちいち名前なんか付けないわよ。あんなの、小さなやつなら適性70台のヘボ術士でも撃てるわ。それに、魔法は効果を細かくアレンジできるの。その1つ1つにいちいち名前なんか付けてられないわ」
「分かった」
 仕方ないので、ありきたりだけど僕の方で『エクスプロージョン(仮)』と命名しておくことにした。

 ニケーアに戻った後、テオドラが僕のところに駆け込んできた。
「みかっち! あんた、ダヴィドに恭順するって手紙を送ってたの!?」
「何を言ってるんだテオドラ。送ったのは僕ではなく、イサキオス帝だよ」
「指示したのはあんたでしょ!」
 激昂するテオドラに、僕はダヴィドへ送った手紙を見せて、
「テオドラ、この手紙の署名をちゃんと見て。共同執政官イサキオス・アンゲロス・コムネノスという名前はあるけど、僕の名前はないでしょ。つまり、恭順の意思を示したのは共同統治者の1人であるイサキオス帝だけであって、僕がダヴィドに恭順の意思を示したことは無い。したがって、僕はダヴィドに何ら嘘をついていない」
「明らかな詭弁じゃないの! 完全な騙し討ちじゃない! この卑怯者!!」
 テオドラが僕の悪口をまくし立てるが、この程度のことは想定の範囲内だ。
「テオドラは戦争というものが分かってないね」
「どう分かってないというのよ?」
「僕の世界では、『戦争とは、敵を欺くことである』という有名な兵法家の言葉があるよ」
 ちなみに、正確には『孫氏』の「兵は詭道なり」。
「・・・・・・あんたの世界では、戦争では敵を騙し討ちにするのが当然だって言うの?」
「そのとおり。戦争とは騙し合い、騙されて負ける方が悪い。どんな手を使おうとも、勝った方が正義、「卑怯者」は負け犬の遠吠えに過ぎない。もう1つ、『戦う者は卑怯者と言われようが、悪魔と罵られようが、とにかく勝つことが本分である』という言葉もあるよ」
 これは朝倉宗滴話記の「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」を、テオドラにも分かるよう若干言い換えたものだが、本質的な意味は特に変わらない。
「あんたには正々堂々と戦って勝つという発想はないの!?」
「ない!」
 僕がそう言い切ると、さすがのテオドラもこれ以上言葉が思い付かなかったのか、「この悪魔、あんたきっと地獄に墜ちるわよ!」と捨て台詞を吐いて去っていった。既に悪になる覚悟を決めていた僕にこの程度のことは何でも無かったが、間もなく来たゲルマノス総主教の報告は僕の想像を超えていた。
「ミカエル様、斥候から相次いで重大な報告が来ているのですが、まとめてお伝えしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ、お願いします」
 ビザンティン帝国では、有難いことにもともと優秀なスパイ網の伝統があり、整備を命じる必要がないほどだった。ただ、イサキオス帝やアレクシオス3世の時代には、集まった情報を使いこなせる人間がいなかったのだ。
「第1に、ラテン人の皇帝ボードワンは、アドリアヌーポリでブルガリア王カロヤンの軍と戦い、敵の偽退却作戦にかかって大敗を喫したそうです。ボードワン自身は辛うじて逃げ延びたものの、主だった騎士の多くが戦死したとか」
「それは良い知らせですね」
「ただし、残り2つは良くない知らせです。我が軍の攻撃を受けたダヴィドは、敗残の軍を率いてニコメディアに入り、あろうことかラテン人と同盟を結んだそうです」
「なんだと!?」
「ニコメディアは、ラテン人のティエリ・ド・ルースという者が占領していたのですが、ダヴィドはミカエル様が約束を守らない、血も涙もない悪魔のような男だと言い立て、ミカエル様を共通の敵とする同盟をティエリに提案し、ティエリを通じてボードワンもその話に乗ったとか」
「そういうことか。残り1つの知らせは?」
「ボードワンが、自ら軍を率いてこのニケーアに向かっているそうです」
「敵の兵力は?」
「約6千とのことです。敗戦直後のため、それほど多くの兵は集められなかったようです」
「進路は?」
「前のブロワ伯ルイとほぼ同じ、プルサ方面から侵攻してくるようです」
「それと同時に、ニコメディアからもダヴィドの軍が進撃してくるの?」
「その気配はありません。ダヴィドはミカエル様を恐れ、自分で戦う気はないようです」
「6千の内訳は? 皇帝自らだから、騎士隊がかなり多かったりするの?」
「騎士隊約1千、歩兵の従士約2千、現地徴募の歩兵約3千。確かに前回よりは強敵です」
「・・・敵の思考回路が読めないんだけど。それで勝てる積もりなのか?」

 取りあえず、僕はボードワンの軍を迎え撃つため、軍議を開いた。
「イレニオス、まず敵軍の数と進路を調べてくれる?」
 神聖術か何かで敵の情報を正確に掴めるのであれば、それを使わない手はない。
「騎士1010騎、その歩兵従士2108人、新たに徴募されたフランク人、ロンバルディア人の傭兵2850人。予想進路は、先にブロワ伯ルイが通ったものと同様」
 僕は内心平静を装っているが、最近イレニオスを見るとあの妖精のように綺麗な姿が忘れられず、雑念を振り払うのに結構苦労している。
「他の軍が動く気配は?」
「現在のところ感じられない」
「ほぼ、ゲルマノス総主教の報告どおりだね。一体敵はどうやって我々に勝つ気なのか」
 僕がそう呟くと、ラスカリス将軍が僕を宥めるように発言した。
「ミカエル様、閣下は頭が良すぎるのです。そのため、頭が悪い者の思考を理解できないのです」
「どういうことですか?」
「ミカエル様は、そんな兵力と作戦で敵が我々に勝てると考えるはずがない、何か裏があるに違いないとお考えなのでしょう?」
「確かに、そんな気がしているんだけど」
「ボードワンは、我々ローマ人を徹底的になめてかかっているのです。敵兵の中にローマ人がいないのが何よりの証拠です。ブルガリア人には負けても、惰弱なローマ人相手なら勝てる、我々に勝って敗北の雪辱を果たそう、おそらくその程度のことしか考えていません」
「となると、採るべき作戦はどうなるだろう」
「前回とほぼ同じで構わないのではありませんか? 今回は、歩兵が現地徴募のローマ人ではないので戦わずに降伏してくることはないでしょうが、ラテン人の主力はあくまで騎兵隊です。騎兵隊の壊滅を知れば、残りの敵は勝手に退くでしょう」
「とりあえずそうしよう。ところで、ボードワンって子供はいる?」
「あの者はまだ独身ですので、少なくとも嫡出の子はいないはずですが」
「というのとは、ボードワンが戦死した場合、跡継ぎは弟のアンリということになるわけか」
「さようになりますな。正直申しまして、有能なアンリが皇帝になれば、ラテン人の帝国はかなり手強い相手になる可能性がございます」
「諸君」
 僕は他の出席者、テオドロス、アレス、ネアルコスといった面々に向かって告げた。
「聞いたとおりだ。今回の戦いにおいて、敵を破っても敵将ボードワンは逃げるに任せるか、生かして捕らえること。間違っても、討ち取ってしまうことのないように」
 その場にいたほぼ全員が納得したが、一人だけ文句を言う女がいた。その女が誰かは、敢えて言うまでもないだろう。
「なんでよ、みかっち! 敵将を討ち取れば勝てるのが戦争でしょ? 生かして捕らえる、あるいは逃げるに任せるなんてどう考えても非常識よ」
「テオドラ、今の話を聞いてただろ! 敵将ボードワンを殺してしまうと、有能な弟のアンリが次の皇帝になって、かえって敵が強くなっちゃうんだよ!」
「みかっちは弱気ねえ。強い敵を敢えて打ち破ってこその英雄じゃない」
 この女、戦争というものをまるで分かってない。
「戦争っていうのは、英雄になることが目的じゃないの。勝つことが目的なの。目先のことにこだわって、聖なる都の奪回が遅くなってもいいの?」
「良くないわよ。それまでニケーアの狭いお風呂で我慢しなきゃいけないじゃない」
 この女、お風呂のことしか頭にないのか。プレミュデス先生によれば、聖なる都の大宮殿にあるという大浴場は既に廃墟になっているという話だけど、それを言うとやる気を失くしそうだから今は黙っておこう。テオドラも術士としては大事な戦力なのだ。
「分かったら、敵将ボードワンだけは殺さないこと。それ以外の敵はいくら吹っ飛ばしても構わないから。いいね?」
「はあい」
 テオドラも渋々ながら納得した。
 それでも、何となく不安を感じたので、行軍中も僕は何度かテオドラに「ボードワンだけは殺さないでね」と念を押し、その度テオドラの「はいはい」という生返事が返ってきた。大丈夫かな・・・。

「我こそはロマーニアの皇帝にして、フランドル伯兼エノー伯ボードワン、祖先は・・・」
 前回と同じように、僕は囮役を引き受けた。もう馬の乗り方にも慣れたし、ボードワンもブロワ伯ルイと同類の人物のようだ。僕は彼の名乗りを最後まで聞くことなく、
「ボードワン陛下のことは存じておりますよ。先日ブルガール人に完膚無きまでにぼろ負けした、無抵抗の市民を凌辱することと逃げることしか能がなく、封臣たちにも支持されていないヴェネツィア商人のおもちゃさんですね」
 敵を挑発する時には、相手のトラウマに乗じるのが非常に有効である。
「おのれ! 全軍突撃! あの小僧を八つ裂きにしてくれる!」
 僕は軽騎兵と一緒に逃げる。既に2回目なのでノウハウは学習済みだ。敵と程よく距離を置きながら、「あなた足遅いですね。そんなんでよく逃げられましたね」とか、「あなたの先祖って大した人いませんね。ブロワ伯ルイの方がまだましでしたよ」とか、適当に相手を挑発しながら逃走を続ける。一時は同じ戦法が二度も通じるのかと不安もあったが、ラスカリス将軍の言っていたとおり、ボードワンは本当に頭の足りない猪武者らしく、こちらの作戦に見事なまでに引っかかっており、自分と配下の騎士たちが疲れ切っても追撃をやめようとしない。もちろん、休もうとする度に僕が悪口でボードワンを怒らせているという理由もあるけど。
 やがて伏兵の待ち受けている地点に到着し、相手の疲れに乗じてラスカリス将軍の合図で奇襲攻撃を掛けると思われたその時、突然ボードワンの身体が爆炎で吹き飛ばされ、先刻までボードワンだったものは単なる黒焦げのバラバラ死体になった。これは明らかに例のエクスプロージョン(仮)である。犯人は言うまでもなく、


「敵将ボードワン、この天才術士テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様が討ち取ったり~!!」


 テオドラの仕業だった。あれほどボードワンは討ち取るなと言ったのに!
 戦闘自体は、その後総大将を失った上に疲労していた騎士隊たちがヴァリャーグ近衛兵とファランクスの餌食になり、後から騎士隊の後を必死に追いかけてやってきた敵の歩兵たちも、ボードワンの戦死と騎士隊の壊滅を知ると、浮足立って我先にと撤退していった。そしてテオドラ皇女様は、なんと自ら馬に跨って騎兵隊の先頭に立って突撃し、神聖術で発現させたと思われる炎の剣を振り回し、逃げる兵士たちを片端からなぎ倒して行った。その暴れぶりは、武勇自慢のテオドロスやアレスでさえも、存在感がかすんでしまうほどであった。
 「第2次ニケーア湖畔の戦い」と呼ばれるようになったこの戦闘自体は、味方の死者ゼロ、イレニオスによると敵の生存者は歩兵533人、騎兵ゼロということなので、ほぼ完全に近い勝利である。ただし、テオドラが火炎剣を振り回したことで森林火災が発生し、結構広い地域の森が燃えてしまった。もっとも、それ以上に問題なのは、テオドラが敵の皇帝ボードワンを討ち取ってしまった結果、有能とされるアンリの帝位継承を促進してしまったことである。

「今回の戦功第一は、間違いなくこのあたし、テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様ね!」
 そう胸を張るテオドラに、僕は激昂した。
「むしろ戦功マイナス第一だよ! テオドラ、僕はボードワンだけは殺さないようにって何度も注意したよね!? 君は聞いてなかったの!?」
「分かってないわねえ、みかっち。みかっちは戦争というものをまるで分かってないわ」
「・・・どう分かってないと言うつもりなの?」
「戦争とは、敵を欺くものなのよ。そして敵を欺くには、まず味方からよ!」
 確かに、『孫氏』にはそういう記述もあるけれど・・・。
「それで、僕を欺いてどうするつもりだったと?」
 テオドラには、彼女なりに深い考えがあったというのだろうか。
「みかっちがあれだけ殺すな殺すなって言うのは、逆に『殺せ』っていうフリでしょ。いわゆるお約束というやつよ」
「戦争と漫才を一緒にするな! あと、まさかたったそれだけの理由!?」
「それだけじゃないわ。あたし、やっぱり敵は倒すものだと思うのよね。いちいち先のことをあれこれ考えて、あの敵は殺すな、生かしておけなんて姑息なことを考えるものじゃないわ。アンリだかヘンリだか知らないけど、そんなのはボードワンと同じようにぶっ倒しちゃえばいいのよ。これで聖なる都への道が一歩近づいたわね。あたしが聖なる都の美しい大浴場で、また思う存分湯浴みをできる日も近いわ」
 どうやら違ったようだ。結局のところ、テオドラはほとんど何も考えていなかったらしい。
「むしろ遠ざかったよ! アンリはボードワンと違って頭が切れるから、ボードワンと同じようには行かないって話をしてたのに! それと、君のいう大浴場だけど、プレミュデス先生に聞いた話だと、ラテン人に略奪された上に火災に遭って、今では廃墟になっちゃったらしいよ」
「ええっ!?」
 テオドラが悲鳴を上げた。ニケーアでも1日3回は入浴し、遠征中でもお付きの女官にしょっちゅう身体を洗わせているお風呂大好きのテオドラは、再び聖なる都の大浴場に入れることをとても楽しみにしていたらしい。戦争前も気にしていたし。
「それじゃ、聖なる都を奪回しても、あの大浴場にはもう入れないってこと?」
「そのとおり。ラテン人の皇帝がアンリに代わったことで、おそらく聖なる都の奪回は相当手こずることになるだろうし、奪回した後も復興は国の財政事情を見ながら、城壁とか実用的な部分を最優先にせざるを得ないから、たぶん君が生きているうちに大浴場を再建するのは難しいだろうね」
「嘘、何よそれ。冗談じゃないわ・・・」
 テオドラが明らかに絶望したような顔色を浮かべ、しくしくと涙を流しながら、しょんぼりとして立ち去ってしまった。悪いのは明らかにテオドラ自身だけど、そこまで落ち込まれると、なんか僕の方がいじめてしまったみたいだ。普段の言動はあんなだけど、見た目は超がつくほどの美少女なだけに。
 テオドラが会議室を去った後、僕はラスカリス将軍にこう呟いた。
「ラスカリス将軍、僕は将軍の言うとおり間違いを犯していたようです」
「と仰いますと?」
「僕は、どうやら頭の悪い人の思考を理解できないようです。まさか味方の中に、敵将ボードワン以上のアホの子がいて、こんなアホなことを考えているとは想像もしていませんでした」
「・・・心中お察し申し上げます」
 ラスカリス将軍も、イサキオス帝とかアレクシオス3世とか4世とかテオドラとか、頭の悪い主君に仕え続けて相当苦労してきたらしい。
「ですが、あれだけ多くの被害を蒙れば、いかに有能なアンリといえども、すぐには態勢を立て直せますまい。少なくとも、こちらが勢力を拡大するまでの時間稼ぎにはなりましょう。今回のことをそれほど気に病まれることはございませんかと」
「そうだといいんですけどねえ・・・・・・」
 ちなみに、僕がまだ会ったこともないアンリを警戒している理由について、若干説明しておく。
 日本にいるときに調べたところ、ラテン帝国第2代皇帝アンリ・ド・エノーという人物は、僕の本来住んでいる世界すなわち史実でも実在する人物であり、初代皇帝ボードワンを含めろくな人がいなかった歴代ラテン皇帝の中で、唯一有能な皇帝と評価されている。史実でも、ニケーアなどでビザンツ人は亡命政権を作りラテン人に抵抗したけど、皇帝アンリが生きている間は手を出せなかったらしい。
 この世界では、史実とはいくらか歴史の流れがずれているけど、十字軍絡みではあまり史実と変わらないようなので、アンリが史実と同じように有能な人物で、しかも10年間も帝位に居座られたら、聖なる都を奪回できるのはたいぶ先の話になってしまう。だから、ボードワンを殺してアンリが帝位に就く事態は、なんとしても避けたかったのだ。今となっては、もうどうしようもないけど。


第11章 テオドラの過去


「ミカエル様、少しお願いしたいことがあるのですが?」
 その日の夕方、オフェリアさんが僕と訪ねてきた。
「なんでしょうか?」
「テオドラ皇女様が非常に落ち込んでいらっしゃいますので、慰めてあげて頂けないでしょうか」
「テオドラなら、たぶん放っておけば明日には元気になるんじゃないの? それに、別に僕が慰めに行ってもしょうがないんじゃ。別に僕はカウンセラーとかじゃないし」
 うちのお父さんは産業カウンセラーとかいう資格も持っていて、そういう関係の話もちょっと聞いたことはあるけど、僕自身はそっち方面の専門的な勉強なんかしていない。ましてや、女の子の悩みに僕が役に立つとは思えない。
「そんな程度の問題では無いのです。実際にテオドラ様の様子を見て頂ければお分かりになると思いますが、落ち込まれ方が尋常ではないのです。それに、私や他の侍女たちが行ってもテオドラ様は口も利いてくださりません。やはり、ミカエル様でないと難しいと思うのです」
「だから、何で僕でないと駄目なの?」
「ミカエル様は、テオドロス・ラスカリス様とマリアに励まされるのと、どちらがよろしいですか?」
 オフェリアさんが、悪戯っぽくそんなことを聞き返してきた。
「・・・むろんマリアの方がいいけど」
「そのとおり。落ち込んでいる男の子を励ますには、同じ年頃の可愛い女の子が一番です。それと同じように、落ち込んでいる女の子を励ますには、同じ年頃の可愛い男の子が一番なのですよ」
「・・・僕がその可愛い男の子だと?」
「はい、テオドラ様も日頃から『みかっち可愛い!』とか仰られていましたし」
 僕は複雑な気分になった。女の子にとって「可愛い」はたぶん誉め言葉だろうけど、男の子にとって「可愛い」と言われるのは、自分が男であることを否定されているような気がして、何となく傷つくのだ。褒めるつもりならむしろ「かっこいい」とか言って欲しい。
「・・・分かりました。とりあえず僕が行けばいいんですね」
 これ以上ごねても仕方ないので、僕はオフェリアさんの後に付いていき、テオドラが引き篭もっているという場所に向かった。

 テオドラが篭っているという場所は、彼女の自室などではなく、なんと宮殿内の塔にある地下牢だった。自分から牢屋に篭るというのは、確かに尋常ではない。
 僕は1人でテオドラに近づき、そっと声を掛けてみる。
「テオドラ、大丈夫?」
「ああ、みかっちね」
 テオドラが力なく返事した。とりあえず僕とは話をしてくれるようだ。
 しかし、その姿を一目見ただけでも、テオドラの落ち込み方が尋常ではないことが分かる。本来犯罪者の入る場所である地下牢に自ら入るというだけでも十分異常だが、服装も明らかに安物と分かるボロボロの服でしかない。
 普段テオドラが着る服といえば、宮殿内にいるときは宝石や金銀の装飾がじゃらじゃら付いた絹製の高級ドレス、戦場に出る時には若干動きやすい感じの白魔導士っぽいローブ(ただし、宝石や金銀の装飾がたくさん付いているのは変わらない)。一方、馬で遠乗りに出る時には胸と腰回りを隠しただけの、宝石や装飾こそ付いているがやたら露出度の高い服を着る。先日、テオドラが戦場で馬に乗った時には、ローブを脱ぎ捨ててその下に付けていた遠乗り用の服で馬に乗っていた。下が隠れていないので、テオドラが馬に乗るときは、目を逸らしていないとお尻とか大事なところが丸見えになってしまう。それ以外で見たことがあるのは、山賊退治の際に着ていた極めて露出度の高い、装飾が付いて最小限の場所こそ隠れてはいるが、9割方裸同然の踊り子衣装。
 つまり、テオドラが普段着る衣装は、やたら高価そうな衣装か、やたら露出度の高い衣装のどちらかなのだ。とにかく目立ちたがりのテオドラは、普段人目を惹かない地味な服を着ることは無い。そんなテオドラが敢えて難民か貧民の着るようなボロボロの服を着ているというのは、それ自体極めて異常なことなのだ。ただし、下半身の服が超ミニスカート並みに短く、体育座りのような格好になっているテオドラの綺麗な生足は丸見えで、たぶん例によってパンツとかは履いていないだろうから、ある意味目のやり場に困る姿ではある。
 そんなわけで、僕はテオドラの方をなるべく見ないようにしながら、話を続ける。
「どうしてこんなところにいるの?」
「ここにいると落ち着くのよ」
「なんで?」
「以前、伯父上に、アネマスの塔に閉じ込められたときのことを思い出すのよ」
 アネマスの塔というのは、ニュアンスからして聖なる都にある塔の牢獄らしい。
「伯父上っていうと、アレクシオス帝のこと?」
「そうよ」
「何か悪い事でもしたの?」
 テオドラのことだから、何か暴れすぎて大事な物か何かを壊し、お仕置きで牢屋に閉じ込められたことが何度かあったとしても何ら不思議ではない。
「ううん。あたしは何も、悪いことをした覚えはないわ」
「じゃあどうして」
「もう2年くらい前のことになるかしらね。十字軍とヴェネツィア人が聖なる都に攻め寄せてきたときにね、あたしは聖なる都で一番の神聖術士だから、当然迎撃を命じられたの。それで、ヴェネツィア人の艦隊に火炎の術を一発浴びせたんだけど、ヴェネツィア艦隊には全然効かなかったの」
「なぜに」
「ヴェネツィア人の艦隊はね、たぶん神聖術の攻撃に備えるためだと思うんだけど、全部の戦艦をミスリル銀で覆っていたの。ミスリル銀はとても高価だから、あんなこと出来るのヴェネツィア人くらいしかいないと思うわ」
「ミスリル銀って?」
「簡単に言うと、普通の銀を特殊な神聖術で更に加工した特殊な金属よ。軽くて丈夫で、魔法に対する耐性もとても高いから、例えばミスリル銀で出来た防具で全身武装した相手には、並の魔法じゃ傷一つ付けられないわね。そのかわり、とても高価だから帝国でもそんな装備を付けられるのは皇帝くらいだけど」
「帝国とヴェネツィア人になんでそこまで経済力の差があるとか、ヴェネツィアにも実は神聖術の技術が漏れてるんじゃないか、っていう問題はあるけど、どちらにせよテオドラの神聖術が効かなかったのは、君のせいじゃないと思うんだけど」


「そう思うでしょ!?」


 テオドラが、急に物凄い勢いで僕に同意を求めてきた。
「うん」
「でもね、伯父上はそう考えなかったの。あたしが父上、つまりイサキオス帝の娘であることを思い出して、あたしが十字軍を連れてきた兄上と裏で通じているから、わざと手加減したんじゃないかって言いだして、あたしはその場で捕まって、アネマスの塔に投獄されたの」
 兄上というのは、たぶん既に殺されたアレクシオス4世のことである。
「本当にそんなことやってたの?」
「やってないわよ! あたしは兄上の顔なんかほとんど見たことないし、あたしは6歳の頃から伯父上のもとで育てられたから、あの頃はむしろ伯父上のことを父上のように思っていたわ」
「6歳のときって、父のイサキオス帝が目を潰されて廃位されたってとき?」
「そうよ。その後もあたしは伯父上に許されて宮殿の中で育てられたから、伯父上には信用されていると思っていたわ。でも違ったのね。そのときあたしの父上は、本物の父上しかないと思ったわ」
「・・・それで、その牢獄からはいつ解放されたの?」
「伯父上が、聖なる都を捨てて逃げ出したときよ。父上と兄上が共同の皇帝になって、あたしは兄上の命令で政略結婚させられることになって、そして結婚が実現する前に兄上は殺されたの。それで、あたしはオフェリアやイレーネの力を借りて、殺されそうになっていた父上を助け出してニケーアに脱出したのよ。なぜだか分かる?」
「・・・お父さんを助けるため?」
「違うわ。あたしはもう、他人に振り回されて生きていくのは嫌だったの。だから、生きていくために父上を利用したの。それに、父上ってひどいのよ!?」
「どうひどいの?」
「せっかく助けてあげたのに、あたしのこと覚えてなかったのよ! あたしが『あたしよ! 娘のテオドラよ!』って呼び掛けても、父上は『誰の事じゃ? 姉上のことか?』なんて感じであたしのこと全然覚えてなくて、オフェリアが『陛下、あのカタリナが産んだ娘の姉の方ですよ』って説明して、やっと分かったくらいなのよ。酷いでしょう!?」
「・・・まあ酷いとは思うけど、イサキオス帝は目も見えないし、たしかテオドラは第18皇女とか言ってたよね。イサキオス帝の娘って全部で何人いるの?」
「あたしを入れて24人よ」
「それで、君のお母さん、たしかカタリナって言ったっけ、そのカタリナがイサキオス帝の皇后様だったの?」
「皇后様じゃなかったけど、オフェリアから聞いた話だと、凄く美しい踊り子で踊りも凄い上手で、父上からも気に入られていたって聞いているわ」
「聞いているって、自分ではお母さんのことあんまり覚えてないの?」
「しょうがないじゃない。母上は、あたしが5歳のとき、妹を産んですぐ亡くなっちゃったのよ。でも、母上は皇后様になりたいって言っていて、あたしの名前も皇后様になれるようにテオドラって付けてくれたから、あたしは母上の遺志を継いで皇后様になれるように一生懸命頑張ったのよ!」
 そういうことか。僕も9歳のときにお母さんを交通事故で亡くしているから、気持ちは何となくわかなくもない。
「それで、踊りがあんなに上手いわけね」
「そゆこと。あたしは世界一の美人だし~、踊りも上手だし~、神聖術の天才だし~、誰が見ても次の皇后様に相応しいわね!!」
 喋っているうちに、だんだんいつものテオドラに戻ってきたようだ。普段なら「頑張る方向性が激しく違う」って突っ込むところだけど、今回は自粛することにする。
「それはともかく、娘が24人もいて、しかも正室の子じゃないし目も見えないというんじゃ、イサキオス帝がテオドラのことを覚えていなかったこと自体は責められないような気がする。僕も、仮にイサキオス帝と同じ状況だとしたら、覚えていられる自信ないし」
「なんでよ。実の娘なのよ!?」
「実の娘って言っても、イサキオス帝ってたぶん他にも愛人がたくさんいたんでしょ?」
「まあね。オフェリアも元は父上の愛人の1人だし」
「男の人は、正妻の他に愛人も子供も一杯いるって状況だと、子供の数が多すぎて覚えていられないってこともあり得ると思う。しかも、イサキオス帝は君が6歳の時に目を潰されて、君の顔を見る機会もあまりなかったわけだから、尚更だよ。こればかりはどうしようもないと思う」
「そういうものなのかしら」
 テオドラが、不満げな顔を浮かべながらも一応納得する。
「それで、さっき君イレーネとか言ってたけど、それ誰のこと?」
「え、あたしイレーネって言ってた? イレニオスじゃなくて?」
「確かにイレーネって言ってたよ」
「そっか。これはトップシークレットなんだけど、言っちゃったものはしょうがないわね。みかっち、あんたに衝撃の事実を教えてあげるわ!!」
 テオドラが、物凄いドヤ顔をして僕を指差してくるが、残念ながら僕には既にその内容が概ね予想できた。長い小説をここまで読んでくれた読者の皆さんも大半は察しが付くだろう。
「イレーネっていうのは、あんたも知ってる『預言者』イレニオスの本名よ。つまり、あのイレニオスの正体は、女の子だったのよ!!!」
 そうか、イレニオスの本名はイレーネっていうのか。これからは、地の文と2人きりのときはイレーネって呼ぶことにしよう。
「・・・みかっち、なんか全然驚かないわね?」
 しまった。僕も建前上は、イレーネが女の子だとは知らないことになっているんだった。しかも正体を知った理由が、イレーネが宦官じゃないかと思って裸を覗き見したなんてとても言えない! ここは適当に誤魔化すしかない。
「いや何というか、以前から何となく女の子じゃないかという気はしていたんだよ。顔立ちも女の子っぽいし、2人で話していると何となく女の子っぽい香りがしてくるし」
「ふーん、みかっちって見た目じゃなくて匂いで男と女を判別するんだ。変態ね」
「誰が変態だよ! あと、どうしてイレーネは女の子なのに、男のふりをしているの?」
「ああ、それはね・・・」
 僕は少し安堵した。変態呼ばわりはされたものの、話題を逸らしたことで何とか追及をかわせた。あと、本当に聞きたい秘密はむしろここからなのだ。
「話の前提として、神聖術士には学士・修士・博士っていう3つのランクがあるのよ」
「なんか大学みたいだね」
「そうね、神聖術の業界は実戦じゃなくて研究重視の世界なのよ。それで、女性の術士については学士と修士にはなれるけど、博士にはなれないってルールがあってね」
「どうして?」
「詳しくは知らないけど、何十年か前にそう決まったみたい。それ以前は女性術士なんて魔女に他ならないとかいう理由で、女性が神聖術士になること自体禁止されていたんだって」
「へえ」
 たしかキリスト教の教えには、「魔女は生かしておくべきではない」とかいうものがあって、中世ヨーロッパの魔女狩りもそれを根拠にして行われていたから、たぶんそのあたりが理由なんだろう。
「それで、イレーネは研究好きだからどうしても博士になりたいって言って、6歳のときに伯父上の許可を得て自ら男として生きることを決意したの。それで、11歳のときに神聖術の博士号を取って、天才ってもてはやされたわ」
「博士って、そこまでしてなりたいものなの?」
「そうね、みかっちは術士じゃないから詳しいことは教えられないんだけど、神聖術の業界には博士になってやっと一人前ってところがあってね。それに、博士にならないとアクセスできない禁断の魔術とかも色々あって、神聖術を本格的にやるなら博士号は是非取っておきたいところね」
「でも、テオドラは女性だから、博士にはなれないわけだね。修士止まりってこと?」
「何言ってんのよみかっち、あたしはれっきとした赤学派の博士様よ」
「赤学派って?」
「神聖術には赤、白、青、緑の学派があって、イレーネは緑学派の博士。そしてあたしは赤学派の博士様。ああ、それぞれの学派にどういう違いがあるかってことは、術士じゃないみかっちには教えられないからね」
 なんか秘密が多いなあ。
「話が逸れたけど、女性は博士にはなれないルールなんじゃなかったの?」
「そうだけど、あたしは適性95の飛び抜けた天才術士だから、イレーネみたいに姑息な手段を使うことなく、実力で女性初の博士になることを認めさせたのよ! 凄いでしょ!」
「どうやって?」
 その後もテオドラの説明は続いたが、なんかテオドラの圧倒的な実力に他の術士たちがひれ伏したとかいう自慢話が延々と続き、僕にはいまいち理解できなかった。
「よーし、すっきりしたところで今夜はお風呂に入って寝よっと。またね、みかっち」
 自慢話を終えたテオドラはそう言って、僕がまだ下に居るのも構わず、梯子を昇って自室に帰ってしまった。僕は下からテオドラのスカートの下を覗きたい衝動を辛うじて抑え、何だかわからないけどテオドラを慰めるという目的は達成できたようなので、僕も自室に帰って寝ることにした。長話のせいで、時間はすっかり夜になっていた。
 テオドラが博士号を取得したという話については、今日は遅いので後日プレミュデス先生にでも聞いて裏付けを取ることにしよう。


第12章 おしゃれと中身


 翌日。僕はラスカリス将軍とゲルマノス総主教、そしてイレーネを呼んで、ニコメディアの攻略について意見交換を行った。出席者を最低限に絞ったのは、機密を要する問題が含まれていたからである。
「お二人とも忙しいところ申し訳ありません。僕としては、皇帝ボードワンの戦死でラテン人たちが動揺している隙に、ニコメディアを攻略したいと考えています」
 ちなみにニコメディアとは、ニケーアの北方にあるそこそこ大きな港町で、ニケーアと聖なる都の間にある交通の要所でもある。このニコメディアを押さえておけば、ラテン人のアジア方面進出を食い止めることが出来るし、こちらから聖なる都を攻める場合の拠点にもなる。
 ただし、ヴェネツィア海軍の後援を受けているラテン人は、ニコメディアを経由しなくてもマルマラ海を渡ってプルサの北方に上陸し、直接ニケーアを攻撃することも可能であり、実際ブロワ伯ルイとボードワンはこのルートで攻めてきたから、ニコメディアを奪取してもニケーアがそれほど安全になるわけではない。また、ニコメディアと聖なる都との間にはボスフォラス海峡という狭い海峡があるので、ニコメディアを取っても海軍がないと、こちらから聖なる都を攻めることはまだ出来ない。
「私としては賛成ですな。ラテン人とダヴィドの手にあるニコメディアを奪取できれば、少なくともニケーアが南北から挟撃される危険はなくなります。ラテン人が2度の大敗から態勢を立て直すには時間がかかるでしょうし、攻めるなら現在が好機かと」
「ラスカリス将軍は賛成ですか。ゲルマノス総主教は?」
「私も賛成ですが、ニコメディアを占拠しているティエリ・ド・ルースという者について探りを入れてみたところ、少々面白い事実が判明いたしまして」
「というと?」
「ティエリは、ローマ帝国軍人の娘であるマリア・ランバルディナという女性を妻に迎えておりまして、この美しい新妻にとても惚れ込んでいるそうです。このマリアという女性は、美しい上に我々のギリシア語も、ラテン人の言葉も話せる賢い女性で、どうやらこの妻の影響で、ティエリはラテン人にしては、ローマ人の文化や宗教にも理解を示すようになったそうです。また、ダヴィドとラテン人の同盟についても、この妻が間に入って交渉を取り持ったそうです」
「何やら重要そうな人物が出てきましたね」と僕。
「だが、そもそもティエリとは何者なのですか? 少なくとも私の知っている十字軍幹部の中にそのような者は聞いたことがないのですが」
 そんなラスカリス将軍の疑問に、それまで沈黙を守っていたイレーネ(イレニオス)が答えた。
「ティエリ・ド・ルース。ルース伯爵家の次男で、シャンパーニュの家令ジョフロワ・ド・ヴィラルドワンの甥にあたる。自分の相続できる土地が無いので、自らの居場所を求め十字軍に参加し、ヴィラルドワンの許で隊長として活躍し、戦功により皇帝ボードワンによりニコメディアを与えられた。現在は、主君戦死の報を聞いて動揺している」
「イレニオス様、ご説明有難うございます」
 ラスカリス将軍が答える。やっぱり、イレーネを呼んでおいてよかった。
「そうであれば、そのマリア夫人と通じてティエリを調略すれば、労せずしてニコメディアを手に入れられる可能性もありそうですね。総主教、そのマリア夫人と接触を試みることは出来ませんか?」
「出来なくはないと思いますが、ラテン人を味方に付けるというのですか? 仮に味方に付いたところで、元十字軍戦士のラテン人を味方として信用できるかという問題があると思うのですが」
「失礼ながら、私もそのように思いますが」
 ゲルマノス総主教とラスカリス将軍が揃って反対意見を口にするが、そのとき廊下を走る乱暴な足音が聞こえてきた。たぶんテオドラだ。
「今日はここまで。総主教、とりあえず接触の件は進めておいてください」
「・・・承知致しました」
 ちょうどそれと同じタイミングで、案の定テオドラが会議室に突入してきた。
「このあたしを置いて何をひそひそ話しているのよ! 会議があるならちゃんとあたしを呼びなさい!」
 どうやら完全に復活したらしいテオドラが、そんなことを言ってくる。事を正直に話すわけにはいかない。ラテン人を調略し味方に付けるなど、テオドラが聞いたら猛反対するのみならず、話自体をぶち壊しにしかねない。
「別に会議というほどのものじゃないよ。単に、テオドラが焼き払った森の跡地をどうしようかという相談をしていただけで」
 僕がそう誤魔化すと、テオドラは勝手なことを言いだした。
「そうなの。それならその跡地にあたしの戦勝を記念して、テオドラーノポリという町を建てなさい。町が出来たら、あたしをその町の守護聖人にして、町の真ん中にあたしの美しい銅像を建てて記念碑にするのよ。そんなことよりみかっち」
「何?」
「あたしのローブを新調したいのよ。お金出しなさい!」
「何で!? それに、今は資金の余裕なんてないよ!」
 テオドラのローブが一着いくらかかるかは知らないが、見た目からして相当根が張るのは間違いない。こんな我儘に付き合っていたら、正直お金がいくらあっても足りない。
「お金なら、ジェノヴァ人からたくさん送られてきたじゃないの。それにあたしのローブ、前の戦いで脱ぎ捨てて汚れちゃったから、新しいのが欲しいのよ!」
「破れたとかいうならともかく、汚れたんなら単に洗えばいいと思うけど」
「洗っても完全には元通りにはならないのよ! それにね、あたしのローブ今5着しかないのよ! 本来なら10着は必要なんだから」
「普通に考えれば、5着もあれば十分だと思うけど」
「みかっちは、おしゃれというものが分かってないのよ! 5着といっても、それぞれデザインや装飾にはこだわりがあるんだかからね! 世界一美しいこのあたしをもっと際立たせるには、もっといろんなドレスや衣装を揃える必要があるのよ! 今あるものだけじゃ全然足りないのよ!」
 その後も、僕とテオドラの口喧嘩は続き、テオドラの要求は喋るたびにどんどんエスカレートしていき、終いには自分は戦功第一なのだから、1年分の国家予算に相当する金額を自分の衣装を揃えるために寄越せとまで言ってきた。
 こんなことになるなら、むしろテオドラをあの牢屋の中で放置し、出られないように梯子も外しておくべきだったと内心思いつつ、僕の怒りも我慢の限界を超えてしまった。
「おしゃれが何だって言うんだ! そもそもおしゃれっていうのは、中身のない人間が外見で中身を誤魔化すためにするようなもので、本当に中身のある人間はおしゃれなんてする必要はないんだ! テオドラ、君の要求をいちいち聞いていたら、この帝国は本当に滅亡するぞ! ローマ帝国はローマ人のためではなく、君のくだらないおしゃれのためにあるとでも言うのか!」
「なんですって~!? あたしの奴隷の分際で、このあたしの崇高なおしゃれをよりによって『くだらない』とかいうわけ? みかっちは、まさかあたしのこの上ない美しいドレス姿を見ても何も感じないっていうの?」
「うん。別に何も感じない。どんなドレスを着てようが、ああテオドラがいるなって感じるだけ。そんなものに帝国の大事な資金を費やす必要性を、僕は全く感じないね」
「このドケチ! ミダス王の生まれ変わり! こうなったら、あたしの本当の美しさというものをみかっちに思い知らせてやるんだから!」
 そう捨て台詞を吐いて、テオドラは乱暴にドアを蹴り飛ばして、不機嫌そうに立ち去ってしまった。

 会議はそのまま流会となり、僕は他の政務をこなした後、午後はテオドロスから日課となっている戦闘訓練を受けていた。その訓練が終わったときのこと。
「まあ、大将も最初の頃よりは様になってきたな。一応、一兵卒くらいには戦えるかな」
「今日もありがとう、テオドロス」
 ちなみに、廷臣の中にテオドロスと名の付く人物は今のところ2人いるが、今話している相手はビザンティオンの聖戦士を自称している勇将テオドロス・ラスカリスのことである。もう1人、アレクシオス3世時代に宰相を務めていたというテオドロス・イレニコスという人物もいるが、彼は特に可もなく不可もなくといった感じの人で、一応元宰相なので下っ端の仕事をさせるわけにも行かず、任せられる仕事はあまり重要でない外交使節と儀礼関係の仕事くらいしかない。そのため、僕が単にテオドロスというときは、こちらのテオドロス・ラスカリスの方だと思ってください。
「ところでテオドロス、皇女様が女性初の神聖術博士になったって話、知ってる?」
 文字は自分の名前しか書けず、神聖術など縁のなさそうなテオドロスにあまり期待はしておらず、僕としては単なる世間話のつもりで話を振ってみたのだが、思わぬ意外な情報が得られた。
「ああ、知ってるぜ。何しろ聖なる都では有名な話だったからな」
「どうやって博士号を取ったの?」
「それがな、あの皇女様はイレニオスが博士号を取ってちやほやされているのに嫉妬して、自分にも博士号を寄越せと最高評議会に要求して、女は博士号を取得できないってルールがあるから当然それは一蹴されたんだが、皇女様はそれでも諦めずアレクシオス帝にも掛け合って、それでも駄目と分かると、最高評議会のある聖ソフィア教会の前で、連日物凄い勢いで術士たちを罵倒したんだ。話題になったんで俺も聞いてみたんだが、インポテンツとか糞とか、およそ皇女様とは思えない下品な言葉を連発して、止めようとした兵士たちを術で吹っ飛ばしたりして、それはもう偉い騒ぎになったんだよ」
「はあ」
 ちなみに、テオドロスの話に出てくる「アレクシオス帝」は、時系列からしてたぶんテオドラの伯父、アレクシオス3世のことである。
「そのうち市民たちも面白がって、皇女様にチャンスを与えてやれとか、なぜか皇女様に味方する奴まで現れ始めて、収拾がつかなくなってな。それでアレクシオス帝が、ある条件を呑んでそれをクリアしたら博士号の取得を認めるということに決めた」
「どんな条件?」
「聖なる都の競馬場で最強の神聖術博士12人と勝負して、その全員に勝ったら博士の称号を認めてやる。ただし、1回でも負けたら皇族の身分を剥奪して宮殿から追放した挙句、勝者の慰み者にする」
 ・・・慰み者になるということは、要するに勝った男に思う存分エッチなこと、日本では18禁のことをされてしまうということである。
「テオドラはそんな条件を呑んだの!?」
「ああ、即答で呑んだ。そして、競馬場に胸と腰を隠しただけの姿で現れ、男の博士たちを例の爆発する魔法で簡単にぶちのめした。滅多にない面白い見世物だから俺も観戦していたんだが、観客の数が物凄くて、皇女様が勝つ度に喚声が起きてたな。ちなみにな、皇女様にぶちのめされた術士の中には、あのゲルマノス総主教もいたんだぜ。たしか7人目くらいだったかな」
「はあ・・・」
 あの人も術士だったんだ。知らなかった。
「そして最後の相手、テオドロス・ブラナスと戦うことになったとき、今までの戦いぶりを見て勝ち目が無いと悟ったブラナスは、戦わずに負けを認めた。こうして最高評議会も、皇女様に約束どおり博士号を与えざるを得なくなり、まさしく女性初の神聖術博士になったってわけさ。ちなみに、前にも言った『爆裂皇女』ってあだ名が付いたのは、この事件のときからだ」
「・・・なんという乱暴なことを」
「でもなあ、俺としては、あの爆裂皇女様に博士号が認められるなら、プルケリア様にも博士号が認められて然るべきだと思うんだけどな」
「プルケリア様って?」
「アレクシオス帝の皇女様だよ。しかもあのなんちゃって皇女様とは違って、皇后エウフロシュネ様から産まれた正真正銘の皇女様で、魔法の腕もたぶん、あの爆裂皇女様と対等に張り合えるだろうって言われてる。十字軍が攻めてくる直前の聖なる都では、爆裂皇女様とイレニオス、そしてプルケリア様が術士の『三傑』って言われてたんだよ。そして何より、プルケリア様はおっぱいがすげーでかいんだぜ」
「テオドラも十分大きいと思うけど、あれよりも大きいの?」
「爆裂皇女様なんてデカいうちに入らないぜ。まさに爆乳、中身が違うぜ。俺憧れるなあ、プルケリア様。今頃どこにいるんだろうな」
「・・・プルケリアは確か、アレクシオス帝と一緒に聖なる都を脱出して、そのアレクシオス帝はトルコのスルタンのところに亡命しているから、たぶんアレクシオス帝と一緒にいるんじゃない?」
「そうなのか。だとするとトルコのスルタンとの戦いになったときは、爆裂皇女様とプルケリア様の直接対決が見られるわけか。それは楽しみだな」
 そんな話をして、テオドロスとは別れた。胸の大きさとかはどうでもいいけど、トルコのスルタンと戦う場合、敵側にそんな術士がいるとなると厄介だな。それでも、こちらには『三傑』のうち2人がいるわけだから、まだ勝算はあると思うけど。

 その後、僕は戦闘訓練の汗を流すため、1人でニケーア宮殿の浴場に入っていた。テオドラほどではないが、僕も日本人なのでお風呂は好きだ。この世界の飯はまずいが、ニケーア宮殿の浴場はそれなりに立派なものだ。テオドラは一体何が不服なのだろうと考えていると、
「やっほー、みかっち、元気?」
 なんとテオドラが浴場に入ってきた。しかも全裸で。
「・・・あの、テオドラ皇女様、ひょっとして僕、入浴時間を間違えました?」
 内心冷や汗をかきながら、僕はおずおずと皇女様に尋ねる。
「別に間違えてないわよ。あたしはみかっちの入浴時間を見計らって入ってきたんだから」
「なぜに」
「みかっちに、あたしは中身のある女だって見せつけてやろうと思ったのよ」
 さっきの仕返しだったのか! テオドロスの話のせいで忘れていたが、確かに見せ付けてやるとか何とか言っていた。
 しかし何という仕返しか。際どい踊り子姿のテオドラは見たことがあるけど、正真正銘の全裸姿を見るのは初めてである。認めたくはないが、確かに皇女様の身体は全身輝くように美しい。イレーネもそうだったけど、アンダーヘアは無く、下はツルツルである。僕は、テオドロスと違って特におっぱい好きではないが、それでも大きく前に張りだしたテオドラの見事なロケットおっぱいには、思わず目が行ってしまう。
 人によっては、そんなの仕返しどころかむしろご褒美だろとか言われるかも知れないけど、今の僕にとってはこれ以上ないきつい仕返しである。むしろ積極的にお役御免になるという方針を決めてから、オナニー禁止なんているふざけたルールは適当に無視することにはしているのだが、小用のついでに済ませられる遠征中ならともかく、ニケーアにいるときはする場所が無い。そんな中で、テオドラの裸を長時間見せ付けられたら、よりによってテオドラの目の前で暴発するという情けない姿を晒すことになってしまう。それだけは絶対に避けたい。僕はさりげなく湯船を出て退散しようかと考えたが、既に僕の身体の一部は大変なことになってしまっている。これでは湯船から出ることもできない!
 僕は仕方なく、下手に出てお引き取り願うことにした。
「テ、テオドラ皇女様、さっきは僕が悪かったから、テオドラは服を着ていなくても中身のある美しい女性だってことは十分に分かったから、もう勘弁して頂けないでしょうか」
「そうは行かないわよ。あたしの身体を全部見せてあげたんだから、今度はあんたの身体も全部見せなさい」
 ええっ!?
「ほら、早く湯船から出なさい」
 僕は無理矢理に、テオドラによって湯船から引っ張り出された。
「何で前を隠してるのよ。手をどけなさい」
「皇女様、待って。さすがにそれだけは・・・」
 僕の哀願も空しく、テオドラは僕の両手を引っ張り上げ、僕の大きく膨れ上がった『男の子にとって一番大事なもの』はテオドラの前に晒されることになってしまった。

 その後の詳細は大人の事情で割愛するが、皇女様は男の子にだけ付いているものを今まで見たことがないらしく、僕の入浴中に乗り込んで来たのもそれを見るのが一つの目的だったらしい。さらに皇女様は僕の大事なものに触ろうとし、僕は「触ると爆発する」などと言って何とかそれだけは阻止したものの、皇女様から恥ずかしい質問責めに遭い、僕は適当な答えではぐらかすのが精一杯だった。
 数少ない救いは、テオドラにまともな性知識がないため、僕のものが大きくなっていることが何を意味するか理解していなかったことと、テオドラの目の前で暴発するという事態は辛うじて避けられたことくらいである。・・・その後、どうやって処理したのかは聞かないでください。
 それにしても、テオドラといいイレーネといい、プリンセスは裸を見られても平気という僕が都市伝説だと思っていたものは、本当だったのか。


第13章 魔王


 テオドラの浴室乱入事件があった数日後。
 僕は8千の直属軍を率い、ニコメディアへ出陣していた。イレーネの言っていたとおり、ティエリはボードワン敗死の報を聞いてかなり動揺しており、マリア夫人と通じて連絡を取った結果、ニコメディアの代わりに妻と郎党たちの暮らせる土地を与えてくれるのであれば降伏するとの意向を伝えてきた。もともと、ニコメディアの住民は大半がローマ人であり、ティエリとその配下の騎士たちが降伏するというのであれば、僕の軍に敢えて抵抗しようとする者はいなかった。
 ちなみに、テオドラのローブ新調の件については、僕がテオドラに「今の帝国にはお金が無いんです。どうか許してください」と土下座して謝り、オフェリアさんも「汚れたローブについては可能な限り新品同様になるまで修復しますから」と取りなしてくれたことで、何とかテオドラも納得し一応の解決を見た。また、テオドラに裸でお風呂に乗り込んで来られてはたまったものではない。
 ニコメディアで孤立無援となったダヴィドとその配下の軍に対しては、護身のために必要最低限のものを除いては武器をすべて置いて行くことを条件に、ニコメディアからの退去を示した。ニコメディアの総督にはバシレイオス・コーザスを入れ、コーザスが治めていたタルソスとその周辺の領土は直轄領に加えて、現地採用の代官たちに統治させた。降伏したばかりのコーザスを敢えて起用したのは、彼と地元住民を切り離して再度の反乱を防ぐ、一種の国替え措置であるが、小さな町に過ぎないタルシアの統治官よりは帝国有数の大都市であるニコメディア総督への異動は明らかな栄転なので、コーザスから不満の声は出なかった。
 投降してきたティエリには、帝国領の最南端であるエフェソス南方の土地を与え、対トルコの防波堤としての役割を与えることにした。彼の裏切りを心配する意見もあったが、僕としては自分の任期終了まで忠実に仕えてくれれば問題は無いので、そうした意見の一切を僕は無視した。

 さてと。
「みかっち、こんなところで何をするの?」
「本拠地のシノーペへ戻っていくダヴィドとその軍をここで待ち伏せて壊滅させ、ダヴィドをひっ捕らえる」
 ちなみに、僕たちがいるのはニコメディアの東方にある、サカリア川を渡った少し東あたりにある森林地帯で、伏兵を置いてダヴィドを迎え撃つには絶好の場所である。
「ダヴィドとは講和したんじゃなかったの?」
「何を言ってるんだ、テオドラ。僕はダヴィドに、ニコメディアからの退去を許すといっただけで、彼がシノーペに戻るまで攻撃しないなんて一言も言ってないよ」
「相変わらずやることが鬼畜ねえ」
 テオドラに嫌味を言われたが、僕の目的はむしろヤバい奴だと思わせて平穏にお役御免となることなのだ。むしろ鬼畜と言われるくらいが丁度良い。結果は詳しく書くまでもない。武器は護身用のナイフくらいしか携帯していないダヴィドの軍は抵抗する術もなく壊滅し、逃げようとするダヴィドもアレスが無事捕らえた。他の敵兵たちについては、今回は逃げるに任せた。
 そして、ダヴィドの処遇を決めるにあたり、ラスカリス将軍がこう発言した。
「ダヴィド・コムネノスは、アンドロニコス帝の血を引く高貴な貴族ですから、殺すわけには参りません。当分の間、ニケーアに軟禁しておくのが無難なところでしょう」
「ラテン人に寝返った裏切り者なのに?」
 僕が問うと、ラスカリス将軍はさらに続けた。
「帝国の法では、一般の兵士や下級将校程度であれば、敵に寝返った者や逃亡した者は死刑にできますが、帝室の血を引く高位貴族の場合、例え反乱を起こした場合でも流刑程度にとどまるのが普通で、死刑が許されるのは帝位簒奪や皇帝暗殺を目論んだときくらいです」
 ふーん。この世界に来たばかりの僕であれば、ラスカリス将軍の進言に大人しく従っただろうが、僕は無事日本へ帰るために、敢えて評判の悪い大悪人にならなければならないのである。むしろ、これは僕の悪人ぶりを見せつける絶好のチャンスである。


「決めた。帝国共同執政官、ミカエル・パレオゴロスの名において命じる。ラテン人と手を組み帝位簒奪を目論んだダヴィド・コムネノスを、串刺しの刑に処する」


「串刺しの刑ですと!? それは、身分の低い強盗犯や殺人犯に科す処罰であって、間違っても貴族に処してよい処罰ではございませんぞ!」
「もう決めたことだ。ラスカリス将軍と言えども文句は言わせない」
「みかっち、いくらなんでもそれはまずいわよ。相手は皇族よ。皇族には処罰に対してもそれなりの配慮が必要なのよ。分かってるの?」
 テオドラまで僕に反対してくる。ならばますます効果絶大ということだ。
「皇族だろうが知ったことか。余はローマ帝国の悪しき慣習を正し、帝国の再建を神に命じられた者である。余に逆らう者は、たとえ皇族であれ何であれ、もっとも不名誉な極刑に処される。それが余の決めた新しい掟だ」
「しかし、それはいくら何でも・・・」


「さっさとやれと言っとんのが分からんかコラ~~!!!」


 なおも抗弁しようとするラスカリス将軍を、僕は大声で一喝した。普段の僕は大人しそうに振る舞っているけど、その気になれば周囲が震え上がるほどの怒鳴り声を上げることも出来るのだ。ラスカリス将軍はもちろん、テオドラでさえも僕にそれ以上抗議しようとはしなかった。

 串刺しの刑を執行するため十字架に張り付けられたダヴィド・コムネノスが、僕に向かって何やらほざいてきた。
「み、ミカエル・パレオゴロス。この神聖にして高貴なる大コムネノス家の一門に連なる、我ダヴィド・コムネノスを一体どうしようというのだ」
 ダヴィドは精一杯虚勢を張ろうとするが、その声は僕のただならぬ雰囲気を察し、微かに震えている。
「貴様は、余のことを約束を守らぬ、血も涙もない悪魔のような男だと申したそうだな」
「確かに言ったが、それがどうしたのだ」
「いかにも。余は第六天魔王ミカエル・パレオロゴス。腐った古きローマ帝国を滅ぼし、自らの手で新しきローマ帝国を再建するために神から遣わされた者である。そのことを、そなたの身体をもって示してやろうというだけのことだ」
 そして、僕は串刺し用の杭を用意している兵士にも注文を付けた。
「杭の先端が尖り過ぎだ。むしろ丸くするように」
「なぜでございますか?」
「そんな尖った杭を刺せば、ダヴィドはすぐに絶命してしまうだろう。それでは面白くない。ダヴィドが死ぬまでなるべく長時間悶え苦しみ、余とイサキオス帝に逆らったことを後悔する時間を与えなければならぬ」

 かくして、テオドラを含め周囲の皆がドン引きしている中で、ダヴィド・コムネノスの処刑は執行された。僕は、人間の生き血に見えるような飲み物(実際はただのぶどうジュースの一種)を飲みながら、その処刑を見物した。尻の穴に杭を刺され悶絶するダヴィドを見ながら、僕は横で蒼ざめているテオドラに向かって、敢えてこう言ってのけた。
「見よ、テオドラ。あやつの姿は何と美しいことか」
「・・・あたし、もうみかっちの感性が分からないわ」
 作戦は成功だ。正直言うと、僕もこんな光景は単におぞましいとしか思わないのだが、僕が無事に日本での生活に戻るためには、テオドラを含む周囲に「統治者にさせたらヤバい奴」だと思わせなければならないのである。ちなみに、今回やっているのは、吸血鬼ドラキュラのモデルになったワラキアの君主ヴラド・ツェペシュの真似事であるが、実際にやってみると、こんな光景を楽しめるなんてヴラドって本当にやばい人だったんだなあ、などと思ったりする。
 そして、数時間悶え苦しんだ挙句にダヴィドが絶命すると、僕は新たな命令を出した。
「ダヴィドの首を切り取り塩漬けにして、テオドロス・イレニコスに、トレビゾンドにいる兄のアレクシオス・コムネノスの許に届けさせよ。アレクシオスには、余とイサキオス帝に服属するか、それともダヴィドと同じ目に遭うか、どちらか好きな方を選べと言ってやれ」
 その後、僕は軍を率いてダヴィドの本拠地であるシノーペへ向かって進軍したが、ダヴィド処刑の報に震え上がったダヴィドの家臣たちは戦わずして僕に服属を表明し、どうやら遠いシノーペまで行く必要もなさそうだったので、黒海に面するアマセイアという町で、シノーペから来た服属の使者を謁見し、ひとまずニケーアへ引き返した。黒海沿岸は風光明媚な土地が多く、時間があれば観光に来たいなと思うような場所も多かったが、生憎そんな暇はなかった。
 ニケーアへ帰った後も、僕は敢えて狂人めいた演技を繰り返した。この国における政務の仕事は、その半分くらいが裁判のような仕事である。逮捕した強盗団の一味に対しては、首領格の男に対しては「逆磔鋸引」(さかさはりつけのこぎりびき)という刑に処し、それ以外の者は例のダヴィドと同様に串刺しの刑に処した。ちなみに逆磔鋸引の刑というのは、織田信長が武田軍の敵将秋山信友を処刑するときに行った刑罰として有名なものだが、あまりにおぞましい内容なので詳細な説明は割愛する。
 ある殺人犯に対しては、罰としてアレスとの決闘を命じ、アレスに勝てれば命は助けてやると言ったものの、ただの殺人犯が剣の達人であるアレスに勝てるはずもない。殺人犯は民衆の見ている前で、アレスによってなぶり殺しにされた。あらかじめ、アレスには一思いに殺すことなく、じわじわと嬲り殺しにするよう命じておいた。当初アレスは嫌そうな顔をしたが、結局は僕の命令に従った。ちなみにこの刑は、ローマ帝国最初の暴君とされるカリギュラ帝が発案したものとされる。
 また、ある窃盗犯は、以前にも窃盗を働き罰として右腕を斬り落とされたが(これは僕が命令したものではなく、もともと帝国法に定められていた刑である)、またしても窃盗を働いて逮捕されたので、帝国法に基づきその左腕を斬り落とすべきかどうかが問題になった。ゲルマノス総主教は、人間は両腕を失ったら生きていけないからという理由で刑の執行に反対したが、僕はどうせ生きていけないというのであればいっそのこと腕ではなく首をを刎ねよと命令し、そのとおりに執行させた。
 なお、うちのお父さんは死刑廃止論に断固反対の立場で、現代で世界一の死刑大国とされる中国をむしろ称賛している。その影響を受けた僕も、基本的に同様の立場である。

 一方、誰もいない休耕地への入植を認める勅令を出したところ、ある男が片端から「この土地は自分の所有地である」という札を立て、これによって他の者が入植できないという事件が発生した。その後直ちに所有できる土地の面積を制限する勅令を出したが、この男はその勅令が出される前に所有権を取得したのだから自分の所有権は有効だと言って聞かなかった。植民政策を主導したニケーア総督のバルダス・アスパイテスも、ゲルマノス総主教も手に負えないというので、僕が自らこの問題を処理することになった。
 僕は、法廷でこの男の言い分を一通り聞いた後、こう答えた。
「確かに、そなたが申すとおり、余が出した当初の勅令には、1人あたり取得できる土地の面積に制限を設けるとは書いていない。ただし、土地を取得した者に税を課さぬとは書いていないぞ」
「へ?」
「入植者に対しては、すぐに収穫を得ることはできないであろうから、最初の5年間は租税を免除し、また農耕に必要な種もみなどを援助する予定であった。しかし、そなたのように度が過ぎた強欲者に対してはその限りではない。そなたに対しては、本年から取得した土地の面積に応じた税を、原則どおり徴収するものとする」
「そ、そんな! 払えるわけないじゃありませんか!」
「支払えないのであれば、租税の滞納処分としてそなたの全財産を差し押さえ、そなたとその家族も全員奴隷として売り払う。それでも自分の取った土地に執着するか、後の勅令で命じた取得面積の制限に従うか。どちらか好きな方を選べ」
 この男は、あっけなく屈服した。

 一方、僕を『神の遣い』に祭り上げた報酬として土地や特権を寄越せと言ってくるうるさい聖職者や修道士の類はまだいたが、僕はお役御免になることが目的なので、こうした連中を全員門前払いにした。そして、追い払われた聖職者や修道士たちが、僕のことを「背教者」とか「糞」とか罵っているのを確認すると、直ちにそれらの者を逮捕し、不敬罪を適用して鞭で百叩きの刑に処した。刑を受けた聖職者たちの約半分は息絶え、生き残った者もしばらくは動くことさえ出来なかった。こうして教会勢力を僕の敵に回しておけば、僕がお払い箱になるのはほぼ確実だろう。
 なお、「背教者」「糞」というのは単なる悪口ではなく、キリスト教の聖職者に嫌われている昔の皇帝のあだ名である。「背教者」と呼ばれているのはユリアヌス、「糞」と呼ばれているのはコンスタンティノス5世という皇帝であるが、冗長になるし話の本筋からも外れるので、この2人のローマ皇帝についての説明は割愛する。どうしても気になるという人はググってください。

 こんな感じで、僕はニケーアで恐怖政治を敷き、敵味方から「魔王」とまで呼ばれ恐れられるようになった。トレビゾンドのアレクシオス・コムネノスは届けられた弟の首に卒倒して恭順の意向を示し、彼の家柄に配慮して皇帝に次ぐ地位とされる「デスポテース」という爵位を授けたが、実態はトレビゾンドの総督に過ぎない。
 僕の任期はあと2か月。これだけやっておけば、誰かは知らないけど僕の後任者は相当楽になるだろうし、僕に任期終了後も共同執政官か何かをやってくれなどと言われることもないだろう。僕があまりにおぞましい刑罰を次々と課したせいで、最近は治安が良くなってしまい凶悪犯の件数も減り、残虐さを見せつける機会が減ってしまったという問題もあるが、おそらく支障はあるまい。このまま逃げ切れるだろうと思っていたものの、残念ながらそうは問屋さんが卸してくれなかった。


第14章 危機


 ある日、ゲルマノス総主教の緊急要請を受け、僕は会議を開いた。出席者は僕のほか、テオドラ、イレーネ(イリニオス)、ラスカリス将軍、テオドロス、アレス、ネアルコス、プレミュデス先生、アスパイテスといった面々である。
「ミカエル様、悪い知らせが2つ届きました」
「順に聞こうか」
「1つは、ラテン人の動向についての報告です。ラテン人の帝国は、新しい皇帝アンリ・ド・エノーの許で、急速に勢力を盛り返しているそうです」
「なんでよ! あたしがあれだけとっちめてやったのに!」
 テオドラが、総主教の報告に腹を立てるが、総主教は淡々と説明を続けた。
「勢力を盛り返した理由はいくつかあります。第一に、前皇帝ボードワンは、テッサロニケの王ボニファッチョと絶えず対立し、協力するどころか武力衝突寸前の状態にありましたが、アンリはボニファッチョと婚姻同盟を結び、両者の和睦に成功したとのことです」
 やはり、この世界でもアンリは有能な人物のようだ。
「第二に、前皇帝ボードワンは徹底的にローマ人を見下しており、ローマ人を兵士として登用するなど考えもしませんでしたが、アンリは逆にローマ人を自らの臣下として積極的に登用し、ラテン派への改宗を求めもしないそうです」
「それで、アンリに仕えるローマ人が増えたってこと?」
 僕がそう問うと、総主教は頷きながらも説明を続けた。
「そうなのですが、それには第三の原因もあるのです。北方のブルガリア王カロヤンは、ローマ人がかつてブルガリアを征服した小バシレイオス帝のことを「ブルガリア人殺し」と呼んでいると聞くと、それに対抗して「ローマ人殺し」と自称し、ローマ人に対し暴虐行為の限りを尽くしています。これに怖れをなした多くのローマ人貴族が、保護を求めてアンリに忠誠を誓ったのです。アンリに仕えたローマ人の中には、何人かの術士も含まれています」
「どうするのよみかっち! ラテン人にも術士がいるとなると、今までみたいにあたしの魔法でどっかーんってわけには行かなくなるわよ! どう責任取るのよ」
「全部君の責任だろうが! あれほどボードワンだけは討ち取るなと言ったのに!」
 僕とテオドラが不毛な口論をしている中、ラスカリス将軍が総主教に尋ねた。
「アンリの配下に加わったローマ人には、果たしてどのような者たちがおるのですか?」
「一番の大物としては、あのテオドロス・ブラナスが挙げられます」
 その名前に、脳筋の2人が相次いで反応する。
「ああ、あの皇女様相手に戦わないで逃げた奴か。あんな奴大したことねえよ。このビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリス様の敵じゃねえな」
「別に、あの程度の相手なら、あたしの魔法で吹っ飛ばせるわね」
 しかし、ラスカリス将軍はそんな2人の意見を制した。
「テオドロス・ブラナスは、名将アレクシオス・ブラナスの息子で、イサキオス帝廃位のクーデターを実質的に主導した男です。たしかに個人的な戦闘力は我が愚息や皇女様には及びませんが、その将才は侮れないものがあります。彼の存在を軽視するべきではありませんぞ」
「それで、そのラテン人がまた攻めてくる様子なの?」
 そう僕が尋ねると、ゲルマノス総主教が嫌な答えを返してくれた。
「そこがもう1つの悪い知らせと絡んでくるのです。トルコのスルタン、カイ=クバードがついに動き出し、亡命していたアレクシオス帝と共に我が国への軍事行動を始めました。その数およそ2万、敵の中にはあのプルケリア皇女もおられるとのことです。アンリはこれと連携し、我が軍の背後を突こうと企んでいる模様です」
 ・・・まさに最悪の知らせだった。
「どうするのよ、みかっち」
「どうもこうもない。我が軍の総力を挙げてトルコ軍を迎撃する。皆の者、出陣の準備をせよ」
 僕はそう告げたが、この事態を打開できる自信は僕にも無かった。

 更に、会議を終えて夕方近くなった頃、オフェリアさんが僕の所へ駈け込んできた。
「大変です! イレニオス様が、置手紙を残して家出をされてしまいました」
「ええっ!?」
 僕は思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。ただでさえ深刻な危機なのに、有能な術士であるイレーネまでいなくなってしまっては、勝算はますます薄くなってしまう。
「手紙には、『実の父と戦うことは出来ない。探さないで欲しい』と書かれていました。イレニオス様の許には、アレクシオス帝から実の子をいたわる丁寧な内容の手紙が届いており、イレニオス様はその手紙に心を動かされたようです」
 なんてことだ。これまで聞いたアレクシオス帝の言動から察するに、そんなの単なる口だけだろうに。
「馬を用意して。僕がイレニオスを追いかけて、何とか説得する!」
 この1年で、僕も馬の乗り方には結構慣れていた。一方、幸いにもイレーネは馬に乗っておらず、ただ1人徒歩で南へ向かっており、イレーネにはすぐに追いついた。
「イレーネ! 待って、僕の話を聞いて!」
 僕の言葉に、イレーネは立ち止まって咎めるように僕を見つめた。
「私の名前、誰から聞いたの?」
「テオドラが教えてくれた。でも安心して、他の人には誰にも教えていないから」
「そう」
「ねえイレーネ、教えて。一体何が不満で出て行くの? 僕の何が不満なの?」
「あなたに対する不満は特にない」
 ・・・そう言われても、結果的に僕の許を離れるという事は、僕に対する何らかの不満があったとしか考えられない。僕は思いつく限りのことを挙げてみることにした。
「ひょっとして、僕のやった数々の残虐行為が不満だったの?」
「そのような不満はない。その是非について議論の余地はあるが、少なくともあなたは、無実の人間を理由なく殺すようなことはしていない。その件であなたを咎める積もりは全く無い」
「じゃあ、僕が調子に乗ってイレーネの裸を何度も見ちゃったことが本当は嫌だったの? それだったら御免! 本当に謝るから!」
 実は、僕がイレーネの裸を見たのはサルディスでの一件だけではない。あのとき、見たいならいくらでも見て構わないなどと言われてしまったお陰で、イレーネの妖精のような裸をもう一度見たいとの欲望を抑えられなくなり、もう一度イレーネの水浴び姿を覗いてしまった。そのときも僕はイレーネに見つかったが、イレーネは僕を咎めるどころか、わざわざ僕が見やすいところへ移動してくれた。
 その後、僕はイレーネの裸を覗くのが癖になってしまい、他に誰もいないときには、イレーネの裸を見ながら、その・・・この国では本来やってはいけないことまで何度もやってしまった。イレーネがあまりにも協力的なのでつい甘えてしまったが、考えてみれば普通の女の子にとっては嫌なことに違いない。
「別に嫌がったことはない。私は自分の意思であなたに協力しただけ」
「それじゃあ、一体何で・・・?」
「あなたはどうして、私を追いかけてきたの? 私が術士として便利な存在だから?」
 イレーネから質問を返された。僕は暫し考えてから、答えを返した。
「それも無くはないけど、イレーネは僕にとって大切な仲間だからだよ」
「私は、あなたの仲間としてどんな価値があるの?」
「どんなって、それはもう測り知れないほど価値はあると思うけど」
「仮に、私が全く術を使えなくなって、戦いで役に立たなくなっても、それでも価値はある?」
「・・・何でそんなことを聞いてくるの?」
「私は、人々から役に立つ道具だとしか思われていない。たぶんあなたも同じ」
 イレーネがそんなことを言いだした。咄嗟に「そんなことはない」と反論しようかとも思ったが、何となく今は、先にイレーネの言いたいことを聞いておくべきだという気がした。
「私は、神聖術の博士になるため、女を捨てた。そして博士の学位を得た。ある時は、人々は私を天才だともてはやし、ある時は気が触れた狂人だと貶め、ある時はまた私を預言者と呼んでもてはやした」
 ・・・。たぶん、聖なる都の陥落を予言して信じてもらえなかった時期、狂人だとか言われたことがあるんだろうな。
「人々が私に求めるものは、術士としての才能だけ。それも自分たちに都合の良い時だけもてはやし、都合の悪い時には私を貶める。私に残されたものは、肉親の愛情だけ」
「ちょっと待って! だから実の父親であるアレクシオス帝の許へ行くっていうの? 話は色々聞いたけど、アレクシオス帝が本当に君への愛情を持っていると思っているの?」
「どういうこと?」
「アレクシオス帝って、実の息子である君を放置して、君のお姉さんか妹かは知らないけど、プルケリアって人だけを連れて聖なる都を捨てて逃げ出した人でしょう?」
「プルケリアは私の異母姉にあたる人。そして父からは、その件に関して詫びる手紙が来た。それでも私にとって父はただ一人の肉親。父と戦うことはできない」
 僕は言葉に詰まった。確かに肉親と戦いたくないという気持ちは分かる。これ以上イレーネをどうやって説得すればいいんだろう。
「あなたが私を追ってきたのは、単に父との戦いで私の力が必要なだけ。あなたにとって、私にそれ以外の価値はない」
「それは断じて違う!」
「では、私にどのような価値があるの?」
 僕は言葉に詰まった。僕自身は、イレーネに術士以外の価値が無いなんて思ってはいない。でも、それをどんな言葉で表現すればいいんだろう。どんな言葉でイレーネを説得すれば、彼女の頑なな心を溶かすことが出来るんだろう。僕が悩んでいると、イレーネが黙って去って行こうとしたので、僕は咄嗟にイレーネの手を取り、その眼鏡を取ってしまった。
 イレーネの透き通ったような美しい素顔が露わになる。僕はそのイレーネに向かって、


「君は、こんなにも可愛いじゃないか!!」


 思わず叫んでしまった。僕はその勢いで、考えもせず彼女にまくし立てた。
「サルディスで君の裸を見てしまったときから、僕はイレーネを可愛い女の子としてしか見られなくなってしまった。イレーネは預言者様で僕の仲間だ、女の子として見ては駄目だと何度も心に言い聞かせても、無駄だった。僕は可愛いイレーネを、他の誰にも渡したくない。実の父親と戦いたくないなら、術なんか使わなくってもいいから、僕の側にいて欲しい!」
 僕としては、愛の告白と誤解されることも構わず、精一杯のことを言ったつもりだったが、イレーネは僕の言葉には一切答えず、
「それ、返して」
「ごめん、はい」
 僕がイレーネに眼鏡を返すと、イレーネは何やら慌てるように眼鏡をかけ、何も言わず僕の許から走り去ってしまった。
「待って、イレーネ!」
 僕はイレーネにそう呼び掛けたものの、彼女が立ち止まる様子はない。僕には馬があるので更に彼女を追いかけることも出来たが、これ以上イレーネを説得する言葉は思いつかない。しかもだんだん冷静になるにつれ、自分はなんて恥ずかしい台詞を口走ってしまったのか、イレーネに嫌われるのも当然だと自己嫌悪に陥ってしまい、僕はこれ以上の追跡を諦め、ニケーアに戻ってしまった。
「みかっち、どうだった?」
 宮殿に着くなり、心配していたらしいテオドラが僕に尋ねてきた。
「駄目だった。イレーネは、自分は術士であること以外何の価値も無いと思われてる、実の父親と戦うことは出来ないって言い張るだけで、取り付く島もなかった。いくら説得しても無駄で、最後には僕から逃げるように走り去ってしまったよ」
「そうなんだ・・・」
 テオドラも悄然としていた。イレーネとは幼少時からの友人であるはずの彼女にも、名案らしきものは思い浮かばなかったらしい。どうやら、
イレーネ抜きでこの危機を乗り越える以外に方法はないらしい。


第15章 決戦を前に


 僕は、今回の出陣にあたり可能な限りの兵力をかき集めた。直属軍だけでなく地方の総督たちにも、最低限の守備兵を残してニケーアに参集するよう命じ、配下の貴族たちにも私兵を率いて参陣するよう命じた。貴族の中には、日和見を決め込んで兵士を送ってこないというふざけた奴もいたので、僕はテオドラを連れて軽騎兵だけでその貴族の領地に向かい、その邸宅を焼き払ってそのふざけた貴族を一族皆殺しにし、全ての財産と領地を没収したところ、他の貴族たちは大人しく兵力を送ってきた。
 その結果、集まった軍勢は約1万5千。それでも、トルコ軍の2万には数で及ばないし、後方からはラテン人の兵が来る可能性も高い。術士も『三傑』のうち僕の側に居るのはテオドラだけ。正直言って勝ち目は薄いが、この危機を何とか乗り越えなければ、僕は日本での生活に戻るどころか、下手をすれば生き残ることさえ出来ない。
「・・・ご主人様、大丈夫なのですか?」
 僕の着替えを手伝ってくれたメイドのマリアが、不安げな表情で僕を見つめてくる。マリアには詳しい事情を説明していないが、僕の内心は彼女にも察しが付くらしい。
「大丈夫、とまでは言えない。君と会えるのも、今回が最後になるかも知れない」
 僕は正直に答えた。僕が負ければもちろん、勝ったとしてもニケーアに戻る頃には執政官としての任期が切れて、僕はお役御免になってこの世界を去る身なのだ。むしろ、最後になる可能性の方が高いというべきだろう。
「ご主人様、わたしご主人様に何もご奉仕できなくて、申し訳ないのです。・・・ご主人様、ちょっとだけ目を瞑っていて頂けますか?」
「いいよ」
 怪訝に思いながら僕が目を瞑ると、僕の頬に何やら熱くて柔らかい感触がした。
「・・・マリア?」
「ご主人様、ごめんなさいなのです。こんな駄目でドジなメイドに、ご主人様はいつも優しくしてくれたのに、私に出来ることって考えたら、このくらいしか思いつかなかったのです。ご主人様が無事に戻ってきたら、私もご主人様にもっと一杯ご奉仕できるよう頑張りますから、ご主人様も頑張ってくださいなのです」
 つたない口調でそう話すマリアの顔には、涙が浮かんでいた。
「マリア、ありがとう。頑張ってくるよ」
 僕はマリアにそれだけ言い残して、自室を出た。
 ・・・もったいない。あれがマリアでなく湯川さんだったらどんなに良かっただろう。
 逐一触れてはいないが、僕は悪人になると決意した後も時々日本の生活に戻っており、数学の追試は何とかクリアしたものの、相変わらず湯川さんとは一言も会話したことがない。その一方で、湯川さんと目を合わせる機会は明らかに増えており、どうやら湯川さんの方も僕の方を時々見ているらしい。僕が湯川さんの方をちらちら見て、マリアとどこか違うところはないかと観察したりしているので、たぶん湯川さんには変な人だと思われているのだろう。
 なにしろ、マリアのドジっ子ぶりは相変わらずで、何もないところで転んでスカートがバラバラになったり、僕にマッサージをしてくれるというので頼んだら、次第に服がはだけて僕が気付いたときには裸同然の状態になっていたり、その他色々とエッチなハプニングが何度もあって、そのせいで僕は次第にマリアを見るだけで欲情するようになり、マリアに顔のそっくりな湯川さんを見たときにも身体が同じような反応を起こすようになり、日本での日常生活にかなりの悪影響が出ている。湯川さんから変な人だと思われているのも、たぶんそのせいだ。
 湯川さんとの関係をこれ以上悪化させないためにも、この変なビザンティン世界との縁は、マリアごと断ち切る必要があるのだ。もっとも、この危機を何とか乗り越えることが前提だが。
 ニケーアの城外に集まった1万5千の将兵の前で、僕は声を振り絞って演説した。
「戦友諸君! 我々は今試練の時に直面している。我らの前に立ちはだかっている危機は、神が我々に与えられた試練なのだ。この試練を乗り越えれば、我々はラテン人から約束の地を取り戻す機会を神より与えられるであろう。我と共にこの試練を乗り越え、あの町を取り戻そう!」
「エスティンポリ! エスティンポリ!」
 兵士たちが一斉に唱和する。ちなみに、あの町とはもちろん聖なる都のこと。「エスティンポリ」という掛け声は「あの町へ」という意味である。演説の内容は事前にラスカリス将軍と相談して決めていたもので、この世界では神に与えられた試練だと呼び掛けた方が、兵士たちの士気は上がると助言されたので、このような内容になった次第である。

 カイ=クバード率いるトルコ軍とは、マイアンドロス川の河畔で対峙することになった。マイアンドロス川は、スミルナの南方にある蛇のように曲がりくねった川で、地勢上、ローマ帝国とトルコ軍との会戦はこの川付近で行われることが多いのだという。僕は、トルコ軍が大軍の優位を活かせないよう、マイアンドロス川を前にした狭い場所に陣を張り、軍議を開いた。
 出席者はかなり多い。ラスカリス将軍とテオドロス、アレス、ネアルコスはもちろん、マヌエル・コーザス、ヨハネス・カンタクゼノスも来ている。ティエリ・ド・ルースも配下のラテン人騎士隊と共に参陣しており、更には防御系の術を得意とする術士ということで、ゲルマノス総主教にも無理を言って参陣してもらっている。老齢のプレミュデス先生も、緑学派の術士でいくらか治療の術も使え、医術も得意ということなので、やはり付いてきてもらった。
 そして、自前の兵士たちを動員してきた貴族たちも多数来ているが、その代表格といえる人物がヨハネス・ヴァタツェス将軍である。ヴァタツェス将軍は既に50歳を過ぎている老将だが、強力な私兵を持つ軍事貴族で、アンドロニコス帝の時代から令名高い将軍として知られているという。ラスカリス将軍によると、ヴァタツェス将軍の令名や軍才は、ラスカリス将軍自身よりはるかに上だという。
「カイ=クバード率いるトルコ軍は、案の定遊牧民の弓騎兵が主力を占めております。これに対抗するには、パラタクシス陣形を敷くのが宜しいでしょう」
 ヴァタツェス将軍がそう提案する。ちなみにパラタクシス陣形とは、トルコ人の弓騎兵軍団に対抗するため編み出された防御重視の陣形であり、盾で防御を固めてトルコ兵の弓攻撃から身を守り、敵が息切れした時点で反撃に転じるのだという。僕もその辺については詳しくないし、他に対案もないので、ここは将軍の提案に乗るしかない。
「陣形については、令名高きヴァタツェス将軍にお任せします。問題は、術士がこの戦闘にどう絡んでくるかですが・・・」
「それについては、私も展開が読めませんな」
 プレミュデス先生から教わった話によると、これまで神聖術士が戦場で大きな役割を果たした戦いは、意外にもあまり多くなかったのだという。神聖術は、術者の適性値によって大きく威力が変わり、男性の術者しかいなかった時代は、適性値は高い者でも70台止まりで、このくらいの術者だと一撃で船の2~3隻を焼くくらいが精一杯で、術者になれる人も限られているので神聖術が戦争の主力になることはあり得なかった。
 しかし、マヌエル帝時代の晩年に女性の神聖術士が、反対意見に配慮して「博士号の取得は認めない」という限定付きで認められた後は、適性値が80を超える女性の神聖術士が何人も現れ、マヌエル帝の死後に帝位を簒奪したアンドロニコス帝は、女性神聖術士を積極的に活用して大きな戦果を挙げたが、女性に博士号の取得を認めるという改革は聖職者たちの反対に遭い実現できなかったという。
 そして現在、神聖術適性が最も高い術士は適性95のテオドラ、次いで適性93のプルケリア、適性91のイレーネ(イレニオス)で、この3人が帝国内で『三傑』とされている。これまで、適性90を超える術士などほとんどいなかったため、適性90台の術士同士が戦場で戦うという事態は帝国史上前代未聞の話であり、そのためどういう展開になるのか、僕やヴァタツェス将軍を含め誰も予想が付かないのだ。ちなみに、適性90以上の術士が全力で攻撃術を発動すれば、計算上は一撃で国1つを滅ぼせるほどの威力になってしまうという。
「何よ、このあたしがあんな乳牛に負けるとでもいうの? あたしに任せなさい、あたしこそが帝国最強の術士だということを明日証明してあげるわ!」
 一方、テオドラはこのとおり自信満々だ。だからこそ展開が読めない。一番怖いのは、テオドラがド派手な神聖術を撃ちまくって、それに敵味方の兵士たちが巻き込まれて大きな被害を受けることである。今までの話を聞く限り、仮にテオドラが本気を出したら、敵味方共に全滅という事態すらあり得る。そして敵将のカイ=クバードはかなり有能なスルタンらしく、家臣たちもしっかり掌握しており、調略も試みたが付け入る隙が無かった。敵がプルケリアを利用して何か奇策を仕掛けてくる可能性もある。ちなみに、テオドラのいう「乳牛」というのは、プルケリアのことである。
「ゲルマノス総主教、あなたの術で味方全軍を守る結界か何かを張ることはできますか?」
「一応出来ますが、私は適性73の術士でしかありませんから、それほど大したことは出来ません。発動準備に約1時間、術の効果を維持できるのは長くて3時間程度ですが、それでも宜しいでしょうか?」
「構いません。僕の指示に合わせて発動をお願いします」
 とりあえず、明日の戦闘は様子見。パラタクシス陣形で守りを固め、テオドラとプルケリアが戦い始めた場合にはゲルマノス総主教の術で味方を守るということで軍議はまとまった。どこにいるか分からないイレーネがどういう形で敵に参戦してくるか、アンリ率いるラテン人の軍がどう動いてくるかを含めて、先の展開は全く読めないが、こうなったら運を天に任せる以外に方法は無かった。


第16章 マイアンドロス河畔の戦い


 決戦当日。僕の率いるビザンティン帝国軍とトルコ軍は、マイアンドロス川を隔てて対峙した。この川は、幅が狭い割に水深が深いという特徴があり、歩いて川を渡航することは不可能、川を渡るには小舟しかないという特徴がある。一応、こちらも川を渡る場合に備えて相当数の小舟は用意してあるが、小舟で渡ろうとすれば、当然その間に敵の集中攻撃を受ける。神聖術という不確定要素が無ければ、焦って先に攻めた方が負けという戦いになりそうだ。
 そんな中、敵中から何人かのお供を連れて現れてきたのは、皇帝らしい緋色の衣に、たぶんミスリル銀で出来た銀色の甲冑に身を固めた人物。おそらくカイ=クバードではなく、イレーネの父であるアレクシオス3世と見て良いだろう。
「朕こそは、ローマ人の皇帝アレクシオス・アンゲロス・コムネノスである。総大将のミカエル・パレオロゴス殿は何処におられるか」
 ご指名なので、僕も緋色の衣に甲冑を付けた姿で、前に進み出る。
「余がミカエル・パレオロゴスである。自ら聖なる都を捨てた元皇帝殿が余に何用か」
「ほお、そなたがミカエル・パレオロゴス殿か。その若さで、我が愚弟を補佐して多くの戦功を立てるとは、大したものよのう。どうじゃ、臆病でろくでなしのイサキオスなど見捨てて、朕に仕えぬか? 朕に仕えれば、褒美としてロマーニアの半分をそなたにやろう」
 そういう話か。どこかの竜王じゃあるまいし、そんな策に乗るか。それに、カイ=クバードも同じような条件で味方に付けたというし、こんな奴の言うことは信用できない。そもそも、僕の目的はさっさとお役御免になって日本での通常生活に戻ることであり、別にローマ帝国の領土など要らないのだ。
「問題外であるな。この『神の遣い』たるミカエル・パレオロゴスがそなたのような売国奴ごときに仕えると思うか。恥を知るがよい」
「むむむ、ほざいたな、若造! 我が愛娘プルケリアよ、奴を始末してしまえ!」
 アレクシオス3世が退いて、プルケリアと呼ばれた女性が前に進み出る。こちらも僕は退いて、代わりにテオドラが前に進み出た。僕はテオドラに耳打ちする。
「テオドラ、ゲルマノス総主教が結界を張る準備に1時間かかるって言うから、それまで時間を稼いで」
「オーケー、みかっち」
 ゲルマノス総主教が呪文の詠唱を始める。僕は後方に下がってプルケリアという女性を観察してみたが、まず事前に聞いていたとおり、規格外と言ってよい程の爆乳の持ち主である。この世界にブラジャーは無いみたいだが、日本の基準で言えば何カップくらいになるんだろう。おそらくKカップとか、特別仕様のブラジャーが必要になるんじゃないか。あと、テオドラより若干年長みたいだが、顔立ちは結構整っていて、衣装はテオドラのものと大差ない豪華なローブ姿。それなりに気品もあり、あまりに大きすぎる胸が僕の好みに合わないことを除けば、まず美人と言ってよい。
「久しぶりね、乳牛(ちちうし)。そんな身体でよく動けるわね。いっそのこと、術士なんかやめて牛になっちゃえば? いい牛乳が取れると思うわよ」
「相変わらず下品な口を叩く女ね、テオドラ。あんたも一応とは言え正式な皇女になったんだから、少しは口の利き方を考えたらどうなの?」
「一応とは何よ! あたしは最高に強くて最高の美しい、誰もが認める最高の皇女様よ! あんたなんて、正室の子に産まれたのと胸がでかいだけしか取り柄が無い馬鹿女じゃないの!」
 誰がおまえを最高の皇女様と認めたんだと内心突っ込みたかったが、二人の言い争いはさらに続く。
「馬鹿とは失礼ね、むしろあなたの方じゃないの?」
「ふん、あたしは帝国歴代最強の適性95を誇る、赤学派の博士様。あんたは適性93しかない、単なる白学派の修士。どう見たってあんたの方が馬鹿じゃないの」
「あんな暴力的な方法で、強引に取った博士号に何の意味があるもんですか。爆裂皇女テオドラと言えば、聖なる都で最も悪名高い術士として、知らない者はいないわよ」
 確かに僕も知っている。他の将兵たちもみんな知っている。この国で『爆裂皇女テオドラ』の名を知らない者はモグリだ。
「爆裂皇女ですって!? 誰よ、そんなあだ名をあたしに付けたのは」
「聖なる都では、みんなあんたのことをそう呼んでたわよ」
「ほざいたわね! じゃああたしもあんたに名前つけてあげる。乳牛皇女とかどうかしら?」
「そんなあだ名要らないわよ。さすがは踊り子の娘、品がないわね」
「品がないとはどういうことよ!」
 ・・・その後も、テオドラとプルケリアの言い争いは延々と続いた。もう、ゲルマノス総主教の呪文詠唱は終わったので、僕はテオドラに「もういいよ」と小声でささやき掛けたが、テオドラはプルケリアとの話に夢中になって、こっちの言葉なんか聞いちゃいない。いつの間にか、2人の会話は言い争いというより世間話とでも言うべきものに変わっており、テオドラが飼っているレオーネとかいう猫の話とか、アリアニやこの国の食べ物や飲み物の話とか、聖なる都にいたイケメン貴族の話とか、敵も味方もうんざりするような長話がおそらく2時間くらいは続いた後、テオドラの「そろそろ決着を付けましょうか、乳牛」という発言がきっかけとなって、両者の戦いが始まった。それに合わせて、ゲルマノス総主教が味方を守る結界を発動する。

 テオドラは「術士じゃない人には教えられない」と言っていたが、2人の戦いを観ているうちに各学派の特性が何となく分かってきた。どうやら、テオドラの赤学派は火炎系や爆発系の攻撃術を得意とするらしく、プルケリアの白学派は氷や吹雪などによる冷気系の攻撃術を得意とするらしい。緑学派のイレーネは治療の術を得意としていたので、そういう方面が専門なのだろう。青学派のゲルマノス総主教は、防御系の術が得意と言っていたので、たぶん青学派もそういう方面が専門なのだろう。
 ところで、皆さんは温帯低気圧が起こるメカニズムをご存じだろうか。温帯低気圧は、冷たい空気と暖かい空気が混ざり合うことで、空気が渦を巻いて激しい暴風雨が発生する。そして僕の目の前では、テオドラとプルケリアが互いを罵倒しながら、炎の魔法と冷気の魔法を駆使して戦っている。問題。これによってどんな現象が発生するでしょうか?
 答え。戦場では、巨大台風の直撃を受けたくらいの凄まじい暴風雨が発生している。僕と味方の兵士たちは、ゲルマノス総主教の結界に護られているから今のところ安全だけど、敵側がどうなっているのかはよく分からない。テオドラとプルケリアの戦いぶりも、よく見えないので詳細はよく分からない。唯一分かるのは、プルケリアが主にテオドラ一人を狙った攻撃術を連続で放っているのに対し、テオドラの攻撃は例のエクスプロージョン(仮)など無差別攻撃型のものが多く、互いに相手の攻撃をかわしたり、炎の壁や氷の壁といった防御術で防いだりしている。
 僕はそれを見て、近くにいるプレミュデス先生に話し掛けた。
「なんか、テオドラの方が魔力の無駄遣いが多いような気がするんですが」
「そうですな。テオドラ様の方が魔力は約4倍あるはずなのですが、その優位を活かしきれておりません。お二人の戦いは、今のところ互角といったところですな」
 ちなみに、魔力というのは通称で、某RPGに出てくる「MP」の概念に近い。例によって、やたらと長ったらしい正式名称もあるらしいが、面倒なので「魔力」で統一する。
「ところで、術士が魔力を使い果たすとどうなるんですか?」
「気絶いたします。気絶するまで魔力を使い果たした場合、完全に回復するには約3日間の安静療養が必要になりますな」
「・・・まずいですね。イレーネが出てくる前にテオドラがプルケリアを倒してくれないと、こちらに勝算は無いのに」
 僕のそんな懸念をよそに、やがて二人の戦いが中断した。どうやらテオドラもプルケリアもほとんどの魔力を使い果たしたらしく、二人とも見るからに疲れ切っていた。そのとき、どこからか二人の前に姿を現したのは、眼鏡をかけて黒いローブを纏った少女、つまりイレーネ!
 僕が死を覚悟したそのとき、アレクシオス帝がイレーネに話し掛けた。
「おお、イレニオスよ、よく来てくれた。さあ、お前の力で、あの憎きテオドラとミカエル・パレオロゴス、そしてその軍を叩きのめしてやってくれ」
「断る。私は、あなたに味方するためにやってきたのではない」
 え?
「イレニオスよ、そなたは実の父に刃を向けるというのか」
「そうは言っていない。でも、あなたは私のことを道具としか見ていない。私の本来の姿でさえも覚えていない」
「何のことじゃ?」
「あなたは、手紙の中で私を、あなたの嫡男にして帝位を継がせたいと書いていた。私が本来どのような者であるか覚えていれば、そのようなことは不可能であることは分かるはず」
 確かに、イレーネは女の子だからね。男になって帝位を継ぐのは確かに不可能だよね。アレクシオス帝はそんなミスをやっちゃったわけだ。
「でも、あの人は違う。あの人は私のあるがままの姿を全て肯定し、本来の私を称賛してくれた。術が仕えなくてもいいから、私に側にいて欲しいとまで言ってくれた。そんなあの人を、私が裏切ることは出来ない」
 イレーネはそれだけ言って、テオドラとプルケリアに何かの術を掛けて気絶させ、そのままこの場を立ち去ってしまった。ちなみにイレーネのいう「あの人」とは、言うまでもなく僕のことである。あの説得、僕は失敗だと思い込んでいたけど、実は効果があったらしい。
「ミカエル殿、今が総攻撃の好機ですぞ」
 プレミュデス先生にそう言われて、イレーネの方を見ていた僕は改めて敵軍の様子を見た。こちらはゲルマノス総主教の結界で身を守っていたが、どうやらトルコ軍はそうした対策を全く欠いていたらしく、見事なまでに壊滅状態になっていた。戦場に立っているのは、見たところアレクシオスとその取り巻き数名のみである。
「全軍に告ぐ。直ちに川を渡り、アレクシオスとその一党を捕らえよ」
 後は簡単だった。味方は1万5千、敵は5人くらい。これでは戦闘にすらならない。アレクシオスは慌てて逃げようとしたが、周囲を取り囲まれると諦めて降伏してきた。その後、トルコ人の生き残りがいないかどうか周辺を探索させたが、トルコ兵は既に暴風雨やテオドラの魔法で吹き飛ばされたか、逃げ去ったかのどちらかで、生きている残存兵は一人もいなかった。
 スルタンのカイ=クバードについては、それらしき豪華な衣装を着込んだ将の死体が見つかったので、捕らえたアレクシオスとその従者たちに確認させたところ、全員確かにカイ=クバードの死体だと答えたので、死亡が確認された。死因は死体の状況から見て、暴風雨に馬ごと吹き飛ばされて、大木に頭部を強打し、首の骨を折って死んだものと推定された。
 カイ=クバードと言えば、史実ではルーム=セルジューク朝でも名君として名の知られたスルタンの一人で、こちらの世界でもかなりの名君という評判だった。そんな人物が、台詞の1つすら無しでこのように無惨な最期を遂げてしまった現実に、僕は世間の無常を感じずにはいられなかった。僕は思わず、無念の死を遂げたカイ=クバードの前で手を合わせ、黙祷を捧げた。
 そして、いずこかへ立ち去ったと思っていたイレーネは、いつの間にか戻ってきていた。イレーネは如何にも申し訳なさそうな顔で、僕にこう告げた。
「申し訳ない。私を許してもらえるなら、もう二度とあなたの側を離れることはない」
「分かったよ。君を許すよ、イレー・・・じゃなかった、イレニオス」
 本当は「ずっと側にいてね」と続けたいところだったが、生憎僕は間もなくお役御免になってこの世界を離れる身である。その言葉を口に出すわけには行かなかった。あと、他人の目もあるので、この場でイレーネと呼び掛けるわけにも行かなかった。
「ミカエル様、捕らえたアレクシオス帝とその一党の処遇はいかが致しましょう?」
 ラスカリス将軍にそう問われて、僕はアレクシオス帝に向かってこう告げた。
「アレクシオス・アンゲロス・コムネノス。そなたは利敵通謀の罪により本来なら串刺し刑に処すべきところであるが、イレニオスに免じて命だけは助けよう。ニケーア郊外の修道院で快適な余生を過ごされるがよい。他の者については、罪は不問とする」
「・・・ミカエル殿、もしその修道院を脱走したりしたら、朕はどうなりますかの?」
「修道院を一歩でも出たら、その瞬間にあなたの首と胴は離れるものと思ってください」
 僕が厳かにそう告げると、アレクシオスはそれ以上何も言わなくなった。


第17章 終幕


 僕と将兵たちが、いまいち後味の悪い戦勝気分に包まれていると、イレーネがこう告げてきた。
「戦いはまだ終わりではない。ブロワ伯ルイ率いる、騎士477人と歩兵4255人から成る軍勢がこちらに近づいている。あと3日でこの地に到着する」
「望むどころだ! このビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリス様の武勇を見せてやるぜ!」
 テオドロス以外の将兵も、自分たちの出番がほとんど無かったことに内心不満を募らせていたので、敵接近の報はむしろ朗報だった。僕は、降伏したばかりのアレクシオス帝の従者2人、すなわちバシレイオス・ドゥーカス・カマテロスという老貴族と、ニケフォロス・スグーロスという若者をブロワ伯ルイの許へ使者として送り、アレクシオス帝の名で、首尾よくミカエル・パレオロゴスを討ち取りその軍も既に壊滅させたので、その首実検に来て欲しいと言わせることにし、その一方で迎撃の準備をさせることにした。
 僕たちの軍が伏兵の準備を済ませたところ、使者に送った2人が戻ってきた。
「首尾の方はどうであったか?」
「大成功です! ブロワ伯ルイとその兵士たちはすっかり戦勝気分になり、ミカエル様の首を見て宴会をすることしか考えておりません!」
 ニケフォロス・スグーロスの方がそう告げてきた。見たところ、この若者は聡明で使い物になりそうだ。もっとも、彼をどう使うか決めるのは、おそらく僕ではなく別の位相から来た後任者だろうが。
 テオドラはまだお休み中だが、すっかり油断していたブロワ伯ルイの軍は、もともと兵力的に劣勢だったこともあり、奇襲攻撃を受けてあっけなく壊滅した。敵の騎士隊はブロワ伯ルイを除いて全滅、歩兵隊もティエリ率いるこちらの騎士隊と軽騎兵隊が追いかけ回している。
 僕の仕事もおそらくこれが最後になる。ここで最後の仕上げだ。
「ブロワ伯ルイ、このビザンティオンの聖戦士、テオドロス・ラスカリス様がとどめを刺してやろう」
「待って。あんな奴、君が出るまでもない。ここでは、ファランクス隊の訓練の成果を見たい」
 僕は、そう言ってテオドロスを制すると、ネアルコス率いるファランクス隊にルイを倒すよう命じた。ファランクス隊は訓練されていたとおり、長い槍でブロワ伯ルイの馬を倒し、落馬したルイを取り囲んで槍で刺したり叩いたりしてめった打ちにし、ルイが完全に息絶えているのを確認して、ようやく攻撃を止めた。ルイの遺体は目も潰され、全身傷だらけでもはや人としての原型を留めていない。
「ブロワ伯ルイの首を切って塩漬けにし、アンリの許へ送ってやれ。これがミカエル・パレオロゴスからの贈り物だと言ってやるのだ」
 こうして、マイアンドロス河畔の戦いはその幕を閉じた。イレーネの報告によると、味方の死者はゼロ、ラテン人側の生存者もゼロ。我が軍の完全勝利だった。

 あの戦いの後、僕は天幕の中で眠りに就き、次に目が覚めたときは日本に戻っていた。最初の1日は、次の日にはまたビザンティン世界に戻されるのではないかと内心びくびくしていたが、幸い次の日も日本で目を覚ますことになった。どうやら、僕のお役御免作戦は無事に成功したらしい。
 あんな世界はもう二度と御免だと思っていたが、終わってみればあの世界での出来事もいい思い出だ。爆裂皇女テオドラ、預言者イレーネ、そしてマリアも、おそらくは新しい指導者の下で幸せに暮らしているだろう。ラスカリス将軍、その息子のテオドロス、勇将アレス、ネアルコス。ゲルマノス総主教、プレミュデス先生、その他あの世界では色々な人にお世話になった。
 今にして思えば、あの世界での1年は、ある意味僕の人生の中で最も充実した日々だったかも知れない。禁欲生活の中で女の子の裸やあられもない姿を何度も見せ付けられるのは拷問のようなものだったが、それももうお終い。今日からはあの世界での思い出を大事にしつつ、日本で普通の高校生としての生活に戻るのだ。
 上機嫌になった僕は学校の授業もしっかりこなし、帰って宿題を済ませると久しぶりにゲームをプレイし、楽しいけどあの世界に比べるといまいちリアリティが足りないなどと思いつつ、久方ぶりに安心して眠りに就いた。

 次に目が覚めたとき、僕は天幕の中にいた。天幕の中にはテオドラをはじめとする見慣れた面々が揃っていた。テオドラが僕に声を掛けてくる。
「やっほー、みかっち。元気してた?」
 ・・・・・・なぜ!?


<後編後書き>


「・・・どうも、この物語の主人公、ミカエル・パレオロゴスです」
「テオドラよ。みかっち、なんか元気ないわね」
「そりゃあ元気も出ないよ! せっかく上手く行ったと思ったのに、なんでビザンティンの世界に戻って来ちゃうんだよ!」
「当たり前よ。あんたが日本の生活に戻っちゃったら、この物語終わっちゃうじゃない」
「だとすると、僕はあとどのくらい、あの世界で暮らしていけばいいの?」
「うーん、それはこの先の展開のネタバレになっちゃうから、正確なことは教えられないわ。でも、現時点の構想でいいならちょっとだけ教えてあげる。あくまで作者の作った設定資料集に書かれている構想だから、実際にそのとおりになるとは限らないけどね」
「それでいいからちょっとだけ教えて」
「みかっちは、世界暦6753年から6799年まで、多少の中断はあるけどローマ帝国を統治し続けることになっているわ。ちなみに、西暦に換算すると1245年から1291年までね」
「そんなに!?」
「その間に、みかっちは子供どころか孫まで作っちゃいます」
「僕がおじいちゃんになるまでやるの? でも、それだけ長ければ、日本でも僕はちゃんと大人になっているんだよね?」
「残念でした。この物語では、日本よりビザンティン世界の方が、時間の流れは相当に速いのよ。みかっちがビザンティン世界での役割を終えるとき、日本での名無しの権兵衛さんはやっと高校を卒業するあたりです」
「何その無茶振り設定!? そんなことが可能なの?」
「イレーネなら不可能じゃないと思うわ」
「そもそもイレーネって何者なのさ。なんかただならぬ能力の持ち主だってことは分かるけど」
「それは物語後半の重要なテーマになる話だから、今の段階では教えられないわ」
「あと、高校生の段階で子持ちとか、色々倫理上の問題とか出て来るんじゃない?」
「それでみかっちが色々悩むのが面白いのよ。何の障害もなく子作り出来たら逆に面白くないじゃない」
「あと名無しの権兵衛さんって何? 僕、日本でもちゃんと名前あるよ?」
「でも、本編であんたの名前出て来ないじゃない」
「えーと、それは第1話の話が長くなり過ぎるため、僕の日本での話は主に第2話以降に回すという作者さんの方針がありまして。僕の日本人としての名前は第2話に登場する予定です。それもこれも、僕が出てくる前の経緯がややこしすぎるからだよ。アレクシオス3世とか4世とか5世とかいっぱい出てきて」
「でも、それは歴史上実際にあった話をベースにしてるから仕方ないわね。あたしのお父さんのイサキオス2世からアレクシオス5世までは、登場する時系列は史実とずれてるけど、8割方は本当にあった話よ。本当の話じゃないのは、あたしやイレーネに関係する話くらいね」
「じゃあ、君のお父さんつまりイサキオス2世が、ブラナスって将軍を追い詰めた挙句反乱を起こされて、反乱を鎮圧したコンラドっていうラテン人に報酬として略奪許可を与えたとかいう超情けない話も、歴史上本当にあった話なの?」
「超情けないって表現は気に食わないけど、本当にあった話らしいわね。ビザンツ史の本にもちゃんと書いてあるわ。まあそれはともかく、みかっちは主人公といっても、1人じゃ何もできない雑魚キャラだから、名前は後回しでいいってわけね」
「それでも成長はするだろうし、前編の前書きからすると僕は皇帝になるんでしょ? しかもそれだけ長く統治するっていうことは、皇后様は自分で選べるんだよね。間違っても、君を皇后様にはしないから」
「何でよ! それじゃあたしが皇后様になれないじゃないの!」
「むしろ、どこに君を皇后様に選ばなきゃいけない理由があるんだよ。今までに出て来た女の子の中から選ぶのであれば、普通の人はむしろイレーネかマリアを選ぶと思うけど」
「抵抗しても無駄よみかっち、あんたにはあたしを皇后様に選ばなきゃいけない理由が既にあるんだからね。運命からは逃れられないのよ♪」
「・・・なんか怖いのでその話は置いといて、僕はなんで続投になっちゃったの? あれだけ頑張って酷い事やったのに」
「それは第2話の最初に出てくる話になるわね」
「第2話はいつ出るの?」
「まだプロットしか書いてないっていうから、しばらく先になると思うわね」
「それでは皆さん、いつになるかは確約できませんが、第2話で再びお会いできれば幸いです。こんな作品ですが、宜しければ末永くお付き合いください。・・・はあ、あと45年もあんな生活が続くのか」
「それは大丈夫よみかっち。いつまでも禁欲生活が続くわけじゃないから。したければいつでも子作りできるから。我慢していても、そのうち強制的に子作りを覚えさせられるから」
「ええっ!?」
「それで子作りの味を覚えてしまったみかっちは、欲望を抑えられなくなってクラスメイトの湯川美沙ちゃんを襲ってしまい、高校を退学処分になった挙句少年刑務所に送られて、お父さんにも勘当されて日本にいられなくなり、結局自分からビザンティン世界に永住することを選ぶのよ」
「それって嘘設定だよね!? 僕ちゃんと高校を卒業できるんだよね!?」


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