第10話 聖像破壊運動の復活と終焉
(1)第2次聖像破壊運動を推進した歴代皇帝
『聖像破壊運動の復活者』レオーン5世アルメニオス
レオーン5世(在位813~820年)は,そのあだ名「アルメニオス」が示すとおり,アルメニア地方の出身者である。パトリキオスの爵位を持っていたバルダスなる人物の息子で,青年期にはミカエル(後のミカエル2世)らとともに小アジアのテマ長官バルダネス・トゥルコスの幕僚を務めていたが,803年にバルダネスが反乱を起こすとニケフォロス1世の側に寝返った。しかし,彼は後にニケフォロス1世によって追放され,ミカエル1世によって呼び戻されテマ・アナトリコンの長官に任じられたが,ミカエル1世がクルム率いるブルガリア軍に敗れると,ミカエル1世から譲位を受け皇帝に即位した。
レオーン5世の治世下,クルム率いるブルガリア軍はコンスタンティノポリスの城壁にまで迫った。しかし,首都での籠城策を取るビザンツ軍に対し,クルムも難攻不落の大城壁に阻まれてそれ以上は進めず,首都の郊外を略奪するだけで満足せざるを得なかった。
814年,クルムは1万頭の牛に曳かせた膨大な数の攻城兵器と投石機を用意して,「ギリシアの火」に対する防火対策も万全の備えをして首都攻略に取り掛かったが,クルムが攻城準備中に脳出血を起こして急死したため,ブルガリア軍は攻城戦を行うことなく撤退した。レオーン5世は,クルムの跡を継いだオルムタグと30年間の和約を締結し,その後ブルガリアとは数十年にわたり平和な関係が続いた。
ところで,プリスカでの歴史的大敗は,前述のように皇帝が次々と交代するなど大きな政治的混乱をもたらしたのみならず,短期的には聖像破壊運動の再燃をもたらした。813年にメセンブリアが占領されると,首都の住民は聖像破壊皇帝コンスタンティノス5世がブルガリア人相手に数々の勝利を収めていたことを思い出し,彼の墓に跪いて「偉大なる皇帝陛下,起き上がってもう一度敵に立ち向かってください」などと懇願した。
聖像破壊皇帝コンスタンティノス5世はブルガリアもイスラム帝国も見事に抑え込んでいたのに,彼の政策を否定して聖像崇拝を復活させたエイレーネーは短期間で破滅し,その後を継いだニケフォロス1世もブルガリアとの戦いで戦死し,帝国は危機的状況を迎えていた。このような状況に直面した兵士や民衆たちの中から,やはりコンスタンティノス5世は正しかったのではないか,自分たちは誤った信仰のために神の怒りを受け罰せられているのでないかと恐れる者が現れるのも,迷信深いビザンツ人の心情を考えれば無理からぬことであろう。
レオーン5世もそのように考えた者の一人であり,彼は815年に聖像破壊運動を復活させ,これに反対するコンスタンティノポリス総主教ニケフォロスを解任した。もっとも,彼の聖像破壊運動は当然ながら,聖職者などを中心とする根強い反対運動に遭った。
一方,レオーン5世は青年期からの親友であるミカエルを近衛部隊長官に取り立てていたが,次第にミカエルと対立するようになり,820年12月,レオーン5世はついにミカエルを逮捕した。しかし,クリスマスが近づいているとの理由で皇后テオドシアがミカエルの処刑に反対し,ミカエルの処刑は1日延期されることになった。この延期がレオーン5世にとって致命傷となり,レオーン5世はミカエルの支持者によって暗殺されてしまう。こうして,ミカエル2世が次の皇帝となった。
『吃音の簒奪者』ミカエル2世
ミカエル2世,テオフィロス,ミカエル3世の3代にわたって続いた王朝は,始祖のミカエル2世(在位820~829年)が小アジア内陸部の中心都市アモリオンの出身であったことから,歴史上アモリア朝と呼ばれることになる。吃音者であったことを示す「トラウオス」のあだ名で呼ばれるミカエル2世の生い立ちについては,レオーン5世の項目で概ね既に述べたので,ここでは割愛する。
ミカエル2世が即位して間もなく,スラヴ人トマスの反乱が勃発する。トマスは,青年期からレオーン5世やミカエル2世の親友で行動をともにした人物であり,トマスは海のテマであるキビュライオタイを味方に付けたため鎮圧に手間取り,ミカエル2世はブルガリア軍の力も借りて824年にようやくこの反乱を鎮圧する。なお,スラヴ人トマスの反乱は,ビザンツ帝国の歴史上最後の大規模なテマ反乱として記憶されることになる。
この反乱によってビザンツ艦隊の戦力は大幅に低下し,その間隙を縫って海上からイスラム勢力の侵入を受けることになった。827年にシチリア島で反乱が起きると,これに乗じて北アフリカのアグラブ朝がシチリア島の攻略を開始する。同じ頃,クレタ島もアレクサンドリアからイスラム勢力の侵略を受けている。
なお,当時のイスラム世界においてアッバース朝カリフはまだ健在であったが,イベリア半島や北アフリカなどでは事実上の独立政権が次々と誕生し,カリフの支配権はこれらの地域にはほとんど及ばなくなっていた。その後もアッバース朝の勢力は弱体化・形骸化する一方であったため,もはや「イスラム帝国」と表記するのは不適当であり,以後は単に「イスラム勢力」ないし王朝名など適宜の表現を用いるものとする。
ミカエル2世は,妻テクラとの間に息子テオフィロスをもうけていたが,テクラが亡くなると権威づけのため,修道院に隠棲していたコンスタンティノス6世の娘エウフロシュネーを探し出して彼女と再婚した。なお,彼はレオーン5世の聖像破壊運動を継承したが,過激な弾圧は行っていない。
『公正を好んだ者』テオフィロス
829年にミカエル2世が亡くなると,息子のテオフィロス(在位829~842年)が後を継いだ。テオフィロスの即位直後,一時的に継母のエウフロシュネーが摂政となるが,エウフロシュネーは830年頃皇妃選定コンテストを開き,テオドラがテオフィロスの妃に選ばれたのを見届けると,自ら修道院の隠棲生活に戻った。なお,前述した皇妃選定コンテストの項目において,このテオドラはエビッサ村の出身と紹介したが,テマ・アナトリコンの長官などを歴任した軍の高官マヌエルの姪であるとも伝えられている。
テオフィロスは公正を好む人物で,エウフロシュネーが摂政となっていた時代にはまだ16歳頃であったが,政務には積極的に参加していた。父が没して間もなく,父に味方してレオーン5世を暗殺した人々を捕らえて,首都の馬車競技場で処刑したほか,自ら毎週首都の街中へ出て直接市民の意見を聞いたとも伝えられている。
このようなテオフィロスに関する有名なエピソードがある。あるとき一人の未亡人が,首都長官に馬を騙し取られたとテオフィロスに訴え,彼女の弁では,まさにその馬に皇帝が乗っているというのである。テオフィロスは調査を命じ,その結果彼女の話は本当であり,彼女から馬を取りあげた首都長官はそれを皇帝に献上していたことが分かった。テオフィロスは直ちに馬を本来の持ち主に返し,当の首都長官を処罰させた。
また,テオフィロスは学問や演劇・建築活動などにも深い関心があった。数学者レオーンを抜擢してコンスタンティノポリスのマグナウラ宮殿で高等教育を行わせたほか,小アジア半島のコンスタンティノポリス近郊にブリュアス離宮を建てさせたりしている。この離宮はイスラム風の意匠が採り入れられていたという。テオフィロスのこうした文化的活動は,後のマケドニア朝ルネサンスの礎となった。さらに,彼の時代以降,地中海交易などが再び活性化していたこともあって帝国の経済活動も盛んになり,7世紀以来となる銅貨の大量発行などが進められた。
外交面では,黒海・カスピ海付近のハザールとの関係を強化した。その背景には,伝統的なイスラム勢力に対する共闘という目的のほかに,この頃から黒海付近で活動が盛んになっていたヴァイキング(ビザンツ人は彼らのことをヴァリャーキーと呼び,後に彼らはキエフを拠点としてロシア人の祖となった)への対応があったと考えられている。
軍事面では,テオフィロスはテマの反乱を防止するため小アジアなどでテマの分割・再編を行ったほか,イスラム勢力の侵攻に対し様々な方策を講じたが,その多くは成果を結んでおらず,むしろ散々な結果に終わった。
父帝の時代から行われていたシチリア島・クレタ島への侵攻に対しては効果的な方策が取れず,アグラブ朝の軍勢は831年にパレルモを征服し,以後ここを拠点にシチリア島の征服を進めていった。クレタ島も,テオフィロスの治世下でほぼイスラムの手中に落ちた。海軍の重要拠点であったシチリア島の支配が不安定になったため,テオフィロスは海軍を再編してエーゲ海域にテマを設置し,コンスタンティノポリスを拠点とする中央海軍を創設した。
テオフィロスは,衰退が始まっていた東のアッバース朝に対し何度か遠征を行うが,大きな成果を挙げることはできず,838年には第8代カリフのムウタフィム自ら率いるイスラム軍に小アジアへ逆侵攻され,皇帝一族の故郷であるアモリオンやアンキュラ(現在のアンカラ)を破壊されるという屈辱的な敗北を喫した。なお,イスラム史におけるムウタフィムは,ビザンツ軍に対するこの戦勝がほぼ唯一の業績として知られている人物である。
テオフィロスはこの戦いにも自ら参戦していたが,一時首都では彼の消息が不明と伝えられ,宮廷内で混乱が起きた。また,テオフィロスは帝国に降伏してきたクルド人のテオフォボス(ナスル)という人物を将軍に起用していたが,この人物にも一時反旗を翻されている(後に帰参するが暗殺された)。
宗教面では,レオーン5世時代からの聖像破壊運動を継承した。もっとも,目立った方策をとらなかった父帝とは異なり,テオフィロスはコンスタンティノポリスを中心に反抗的な修道士や主教の追放を行い,修道士の額に「異端を蔓延させた者」という警告の刺青を入れるなど,強圧的な手法をとった。これには彼の師で,837年に総主教に任命した文法家ヨハネス(数学者レオーンの従兄弟,またおそらくはフォティオスの叔父)の影響があった。
しかし,彼の聖像破壊運動も全国的な広がりを示すことはなく,むしろ根強い反対に遭った。レオーン4世の妃であったエイレーネーが隠れ聖像崇拝者であったのと同様,テオフィロスの妃テオドラも隠れ聖像崇拝者であり,寝室でイコンに向かって祈っていたところを宮廷の道化師に見つかり,お人形と遊んでいただけと言いくるめて何とか告発を免れたとのエピソードが伝わっている。
テオフィロスの死後に聖像崇拝を復活させたのはこのテオドラであり,テオフィロスは上記のとおり過激な聖像破壊運動を行ったにもかかわらず,テオドラの計らいで(後述するコンスタンティノス5世のような)死後の断罪は免れた。
テオフィロスとテオドラの間には,なかなか後継者となる男子が生まれなかったため,一時アレクシオス・ムセレという人物を婿としてカイサル(副皇帝)に任じていたが,840年に次男(長男は夭折)のミカエルが誕生する。しかし,テオフィロスはその成長を見届けることなく,842年に没した。幼い後継者ミカエル3世の将来を心配したテオフィロスは,死に臨んで数多くの側近や高官たちを枕元に集め,後事を託したという。
<幕間12>ビザンツにおける学問の復興
本文中でも述べたとおり,テオフィロスは数学者レオーンを重用するなど,学問の復興に努めた皇帝であった。ここでは,この時代におけるビザンツ文化の状況について,簡潔にまとめておくことにする。
ビザンツ帝国の暗黒時代と称された7~8世紀は,文化面においても暗黒時代であった。後のビザンツ人に最も親しまれ,読み書きのできるようになった子供が次に勉強するホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』でさえも,この時期にはほとんど忘れられていたらしい。
しかし,9世紀になるとビザンツの文化も復興の兆しを見せ始める。宮殿の大学で文法を教えていたコメタスという人物は,ホメロスの書物が朽ち果て,大文字だけで句読点はおろか単語の区切りも打たれていない(古代のギリシア語やラテン語はそれが普通だったが,9世紀頃のビザンツ帝国では,学問の発展や書物の需要増大に伴い,速く書ける小文字が普及していた)のを見て,自分が読みやすいように区切りを入れて小文字体で書き直すのと同時に,当時のビザンツ人には意味をなさない不用な記述を削除し,注釈を書き加えたという趣旨の詩を書き残している。
そして,9世紀における学問復興の先頭に立ったとされる人物が,「数学者」のあだ名で呼ばれたレオーンである。信心深いビザンツ人としては珍しく宗教にはほとんど関心を示さず,自然科学を中心とする学問に没頭したので,ヘレネス(異教徒)とも呼ばれている。
レオーンは貧しい学校教師であったが,彼の生徒がイスラム軍の捕虜となり,カリフの宮廷に連れて行かれた。その生徒はカリフの前でユークリッド幾何学の知識を披露し,自国の幾何学者も及ばないその学識に驚いたカリフは,その知識をどこで学んだのかと尋ねた。
「レオーン先生からです」との答えを聞いたカリフは,さっそくレオーンに手紙を書き,自分の許へ教師として招聘しようとした。レオーンは,カリフからの手紙を皇帝テオフィロスに見せたところ,学問好きなテオフィロスは,教室を提供し給料を与えることを約束してレオーンを引き留めた。それを知ったカリフは,直接皇帝テオフィロスに手紙を書き,短期間でよいからレオーンを貸してほしいと頼んだが,テオフィロスは「ローマ人がすべての民から驚嘆され,称えられる理由の一つであるこの世の事柄にかんする知識を,不信心な者に伝えるのは馬鹿げている」と言って,この申し出を断ったとされる(ただし,数学者レオーンに関する以上のエピソードは,おそらく後世の創作と考えられている)。
皇帝に取り立てられたレオーンは,宮殿の謁見の間に黄金の吠えるライオン,さえずる鳥,さらに上下する玉座の仕掛けを作った。荘重な響きを出す大きなオルガンも作ったことも知られている。数学者レオーンの知識は,ローマ人がすべての民から驚嘆されること,すなわち皇帝の権威を誇示することにまず用いられたのである。
レオーンは,実用的な仕掛けも作った。小アジア東南部のキリキア門と呼ばれる峠からイスラム軍が侵入してくると,峠の北にあるルーロンの要塞で狼煙が上げられ,次々と中継されて首都まで連絡される仕組みになっていたが,レオーンはルーロンとコンスタンティノポリスに同一の水時計を置き,連絡時刻にも意味を持たせて,イスラム軍の侵入に関する詳細な情報を伝達できるようにしたのである。
もっとも,この通信設備は後に忘れ去られてしまった。伝承では,テオフィロスの後を継いだ「飲んだくれ」のミカエル3世が,競馬を楽しんでいる最中に緊急連絡が入るのは困るといってこの通信設備を働かせなくしてしまったとされているが,実際には帝国の発展に伴い東方の国境にスコライ軍団という常設の精鋭軍団が置かれ,マケドニア王朝時代の東方戦線は逆に攻勢に転じるようになっていったので,イスラム軍侵入の報を首都に伝える機会自体が無くなり,レオーンの作った通信設備も次第に忘れ去られたというのが真相のようである。
今日の日本で言えば理系学問復興の先頭を切ったのが数学者レオーンであったのに対し,文系学問復興の先頭を切ったのは,後にコンスタンティノポリス総主教となったフォティオスである。
若き日のフォティオスは,独学で勉強し古典に関する広い教養を身に付けた。彼は暗黒時代に散逸した古典の写本を探して一種の読書ノートを作り,当時ほとんど忘れ去られていた作品や珍しい作品については詳しい抜き書きを残している。この読書ノートは後に,386冊の書物を紹介した『文庫』(ビブリオテーケー)という書籍にまとめられた。なお,日本語では『文庫』のほか『図書総覧』と訳されることもある。
ギリシア古典に対するフォティオスの関心は主に文体や用語にあったようで,『文庫』には書物の存在状況(原書を発見できたか否か)や内容の抜き書きのみならず,これらの書物に対するフォティオス自身の評価も書き加えられていた。フォティオスは,キリスト教徒であるキジコスのエウノミオス(393年没)について,「魅力的な着想も文体の優雅さもない」とか,「もったいぶった大言壮語と醜い響き」を漂わせていると非難する一方,アレクサンドロス大王の歴史を記したアッリアノスや,アレクサンドロスの同時代人であるイソクラテスの弁論を愛した。
彼もレオーンと同様に狂信とは全く無縁の人物であったようで,同じ古典でも帝国がキリスト教化するはるか以前の,ギリシア人が活力を持っていた古代ギリシア時代の古典作品に強く魅せられたようである。フォティオスに対しては,ユダヤ人の魔術師が信仰を捨てることと引き換えに知識を与え,この世での成功を保証したなどという伝説も伝えられたが,このようなフォティオスの価値観は後のビザンツ人にも引き継がれ,ビザンツの知識人はキリスト教徒でありながら,キリスト教色に全く染まっていない異教時代の古代ギリシア人が著した作品に深く傾倒するという,やや矛盾のあるアイデンティティを抱えることになった。
今日では,『文庫』のみによってその存在を知られている古典作品も少なくないほか,『文庫』に記された現存しない作品の詳しい抜粋には計り知れない価値がある。なお,フォティオスが個人で行ったギリシア古典の収集は,学問好きで知られたコンスタンティノス7世の時代になると,国家事業として行われるようになった。
ミカエル3世の治世下で政治の実権を握ったバルダスは,後述するとおり首都の宮殿に大学を設置したが,この大学ではコメタスの担当した文学,数学者レオーンの担当した哲学,そして幾何学と天文学という4つの講座が開かれた(ビザンツの知識人は,現代日本人のように文系と理系に区分されていたわけではないので,数学者レオーンが哲学を担当しても何ら問題はなく,レオーンは数学者のみならず哲学者としても知られていた)。幾何学と天文学は,土地の測量や暦の作成に関わる実用的な学問として重視されていたのである。
フォティオスはこの大学の設置には関わらなかったが,867年に総主教を辞任すると彼も大学で教えたようである。後述する聖像破壊派の元大主教が幾何学講師に任命されたというエピソードも含め,ビザンツ帝国では知識人と官僚と教会人が,分かち難い三位一体のような関係にあったことが分かる。
(2)『貶められた愚者』ミカエル3世
テオフィロスの死後,わずか2歳で帝位を継いだミカエル3世(在位842~867年)には,メテュソス(「飲んだくれ」または「酔っ払い」)というあだ名が付けられている。彼は幼少時のみならず,成人に達しても友人たちと戦車競走や宴会などで遊び呆けていた皇帝であり,総じて政治に深い関心を寄せることはあまりなかったので,彼の時代に政治の実権を握っていたのは母のテオドラや歴代の側近たちであり,ミカエル3世の業績とされるものは事実上これらの者たちの業績であった。
摂政テオドラと「正教の勝利」
ミカエル3世の幼少時に政権を取り仕切ったのは,摂政である母のテオドラと宦官のテオクフィストスである。テオドラは843年に教会会議を招集し,かつてエイレーネー主導で行われた787年の第2ニケーア公会議を復活させている。この時期には聖像破壊派はかなり劣勢となっていたようであり,聖像崇拝の復活に反対したのは軍隊の指揮官数名やテオドラの男性親族程度であった。テオドラは主席宦官のテオクティストスに率いられた宮廷の高官や,追放から戻った聖像崇拝派の修道士たちを味方に付け,エイレーネーと異なり夫の死後速やかに行動を起こすことができた。
843年の教会会議において,レオーン3世から始まる聖像破壊派の歴代皇帝たちが断罪されたが,テオドラの意向で前皇帝テオフィロスは弾劾の対象から外された。これはテオドラが亡き夫を愛していたからというわけではなく,幼い息子が異端との関りを一切問われないようにするための配慮であった。
もっとも,聖像破壊派にとって象徴的な存在であり,数々の戦勝によって信仰の対象になっていたコンスタンティノス5世の記憶をそのままにしておくことは,将来聖像破壊派の再復活を招く危険があった。そのため,コンスタンティノス5世に対する弾劾は他の皇帝よりも徹底的に行われ,聖像崇拝の復活決議に伴い,コンスタンティノス5世の石棺は聖使徒教会から持ち出され,はるか昔に死んだ皇帝の遺体が取り出されて首都の大広間で焼かれた。彼が再度信仰の対象になることを防ぐ措置である。
そして,後世のビザンツ人史家はコンスタンティノス5世の偉大な世俗的業績を完全に無視し,彼にコプロニュモス(糞)というあだ名を付け,彼に関する記述を罰当たりな聖像破壊行為や聖者に対する迫害行為の数々と,彼の生まれと死に関する悪趣味な罵倒で埋め尽くした。コンスタンティノス5世は一種の記録抹殺刑に処されたわけだが,カリグラやネロといった古代ローマ時代の暴君とは異なり,コンスタンティノス5世は聖像破壊皇帝としては偉大過ぎる業績を残しており,聖像破壊派から神聖視されていたことが原因で,徹底した記録抹殺刑に処されたのである。これは,ビザンツ帝国のために戦い続け,帝国に安定をもたらした名君に対する措置としては不当極まりないものであり,世界史上他に類を見ない汚点である。
843年の教会会議はキリスト教会史上「正教の勝利」と呼ばれており,この会議を最後にビザンツ帝国における聖像破壊運動は事実上終わりを告げたが,宗教的対立自体が終わったわけではなかった。勝者である聖像崇拝派がかつての聖像破壊派,特に主教をどう扱うべきかをめぐって意見の対立が生じた。総主教や穏健派は主教座から追放するだけでよいと考えたのに対し,厳格派は実刑に処すべしと主張した。摂政テオドラは事を急ぐあまり,エイレーネーのような政治的配慮を怠った結果,聖像破壊問題に代わる新たな教義論争を引き起こしてしまったのである。
摂政テオドラの見るべき業績は,以上に述べた聖像崇拝の復活にほぼ尽きており,その後は概ね地道な緊縮財政による統治が行われたようである。彼女は夫の治世下で失われたクレタ島の回復も目指したが,めぼしい成果は挙がらなかった。
副皇帝バルダスの時代
ミカエル3世が15歳に達すると,彼は母に政治の実権を握られていることに不満を持ち始める。エイレーネーの時代にも見られた母子対立の再来であったが,ミカエル3世は明らかに暗愚な人物であったにもかかわらず,今回の母子対立に勝利したのは彼であった。
摂政テオドラの弟バルダスは,テオドラの信任篤い宦官テオクティストスと対立し追放されていたが,ミカエル3世が母に不満を持っているのを知って彼に接近し,855年,自分の党派を率いて閣議の場から出てきたテオクフィストスを捕らえ,地下牢で抹殺してしまったのである。最大の側近を失ったテオドラは,もはや宮廷内における自身の立場を維持するのは不可能と悟り,翌856年の春,廷臣会議を開いて自分が帝国を良心的に切り盛りしてきた証拠となる一連の財務明細書を引き渡すと,政治の表舞台を去って修道院に隠棲したのである。
この政変によりミカエル3世の親政が始まったが,彼は政変の立役者であるバルダスを重用し,864年にはカイサル(副皇帝)に任じた。この政変以降におけるミカエル3世の見るべき業績は,実質的にはバルダスとその一派によるものと見るべきであろう。
バルダスは芸術の保護者であり,ファロスの聖母教会修復や聖ソフィア教会のモザイク復元事業に着手したのは彼である。ファロスの聖母教会は,首都にある岬の突端の灯台近くにあったのでファロス(灯台)の名が付いたのだが,建造物の外観はとりたてて壮大なものではなかった。864年頃の献堂式典で見る者を驚かせたのはその内部装飾であり,床は白い大理石造り,円蓋を支える柱は碧玉と斑岩,すなわち皇帝専用とされた珍しい緋紫色の大理石で造られており,扉という扉は銀が張られていた。
この小さな聖堂は,歴代皇帝の最も大切な財産である聖遺物の収蔵庫とされたので,とりわけ立派に飾られたのである。聖遺物の中には,ヘラクレイオス帝がシリアから撤退する際に持ち帰った真の十字架の一部,キリストの衣,茨の冠,キリストの脇腹を百人隊長が刺した槍,キリストの血を収めた小瓶,処女マリアの衣の切れ端,洗礼者ヨハネの頭などがあり,すべて本物だと信じられていた。
ファロス聖堂の装飾は高価というだけでなく,画像に対する新しい考え方に基づき,教会の聖なる空間をふたつの大きなモザイク像が見下ろす構造になっていた。ひとつははるか奥の後陣に描かれた,腕を伸ばした聖母マリア像,もうひとつは天蓋の中央から身廊を見下ろすイエス・キリストである。両者とも巨大なイコンであって,その他の壁面を覆う多数の使徒・聖人・殉教者像とともに,教会で執り行われる祈祷に人々を誘うよう工夫されていた。当時のビザンツ帝国は治安が回復し,商業が盛んになって税収も増加していたので,このような建築事業に費用を注ぎこむ余裕が出来ていたのである。
バルダスは,ギリシア古典の研究に基づく高等教育の支援者でもあり,首都の大学を再興したのも彼であった。もっとも,彼は聖像破壊派に属していた元テッサロニケ大主教を大学の幾何学講師に任命したことから,首都の総主教イグナティオス(前述したミカエル1世の息子)と対立した。これは,聖像破壊問題の後始末を巡る,前述した融和派と厳格派の対立でもある。
イグナティオスは,バルダスが妻でない女性と大っぴらに同棲しているなどその私生活についても公然と非難したことから,バルダスは858年11月,ついにイグナティオスを逮捕した。さすがにイグナティオスを殺すわけにはいかなかったが,親衛隊に命じてとことん痛めつけ,さらに冬の凍えるような寒さの中,聖使徒教会の外にあった空の石棺(かつてコンスタンティノス5世の遺体が収容されていたもの)の中で一晩放置した後,レスボス島へ追放した。
代わりの総主教には,バルダス派の有能な行政官で知識人でもあったが当時俗人だった,前述のフォティオスが任命された。彼はわずか4日間のうちに総主教就任に必要な叙階を済ませ,クリスマスの日に総主教に就任した。バルダスの無慈悲で乱暴な政治手法と,文化や芸術のパトロンとしての姿は,少なくとも彼の中では全く矛盾するものではなかったのである。
860年,ロシア人のヴァイキングが船団で首都に迫り,首都近郊の村々を荒し回って去っていった。ビザンツ側はこの襲撃を全く予想しておらず,軍隊もイスラム勢力と戦うため首都を出払っていたので,城壁に守られていない村々をヴァイキングの手から救う手立ては何もなかったのである。これによって,ビザンツ帝国は東西のみならず北にも敵を持つことになってしまい,防衛戦略の練り直しを迫られることになった。
総主教としてヴァイキングの襲撃を目の当たりにしたフォティオスは,スラヴ人やロシア人が文字を持たず文明が欠如していることに目を付け,彼らにキリスト教を受容させビザンツ文明に同化させることが最善の方法であると結論付けた。このような手法は当然ながら即効性はなかったが,その後長きにわたってビザンツ帝国の国策となり,ロシア語を表記するためのキリル文字がビザンツ人の手で発明され,やがて11世紀のロシア人キリスト教改宗へと結びつくのである。
862年には,スラヴ人国家モラヴィアの要請に応じ,フォティオスの弟子であるキュリロスとメトディオスという2人の兄弟を宣教師として送り込んだ。なお,モラヴィアとはチェコの東部地域を指す地名であるが,当時の大モラヴィア国は現在のチェコ,スロバキア,ポーランド南部,及びオーストリアの一部を含む大国であった(この国は10世紀初頭,マジャル人によって滅ぼされている)。
もっとも,モラヴィア宣教は言語の違いやフランク王国との対立などもあってうまく行かず,宣教師たちは退去を余儀なくされたが,このときの失敗を糧として,ビザンツ帝国のスラヴ諸民族に対するキリスト教布教活動はその後も根気よく続けられ,ブルガリアは870年に,セルビアも9世紀のうちにキリスト教(ギリシア正教)を受け容れ,ロシアもバシレイオス2世の時代にキリスト教を受容するなど,大きな成果を挙げることになる。
なお,キュリロスとメトディオスの兄弟は,スラヴ人へのキリスト教布教に貢献した人物として聖人に叙せられており,ビザンツ史のみならずスラヴ史においても非常に知名度が高い。キュリロスはスラヴ人に対する布教を効果的に行うため,スラヴ語を表記するためのグラゴール文字を作成し,古教会スラヴ語というスラヴ語圏全体で用いられることになる文語を作り上げたが,グラゴール文字はその後間もなく,ブルガリアにおけるキリスト教布教で活躍したビザンツ人修道士クレメントが作成したキリル文字に取って代わられており,彼らの業績は若干過大評価されている節がある。
バルダスが実権を握っていた時期には,キリスト教会の主導権をめぐってローマ教会との対立も起きた。ローマ教皇は俗人であったフォティオスの総主教就任を無効だと主張して,前総主教のイグナティオスを支持した。もっとも,ビザンツ帝国ではかつてエイレーネーが俗人であるタラシオスを総主教に任命したように,俗人を総主教に任命した例は以前から存在し,これにローマ教皇が異を唱えた形跡は以前には無かった。
ローマ教皇がフォティオスの総主教就任を無効だと主張したのは,単なる政治的野心に基づく言い掛かりか,あるいは異教的なギリシア古典を愛好するフォティオスの思想を問題にしたのかも知れない。一方ビザンツ側は,867年の教会会議でローマ教会の「フィリオクエ」に関する教義を異端として退け,両者の対立が鮮明となった。この時期における両教会の対立は,歴史上「フォティオスの分離」と呼ばれる。
イスラム勢力との関係では,863年にバルダスの弟ペトロナスが,ポソンの戦いでメリテネの総督が率いるイスラム軍に圧勝し(この戦いではミカエル3世も参戦しており,戦後ミカエル3世は勝利者として民衆の歓呼を受けている),その勢いでメリテネの地方君主を殺しその配下軍団を全滅させた。これによってメリテネが完全にビザンツ側に戻ったわけではないが,以後小アジア東部ではビザンツ側が攻勢に転じることになる。
もっとも,シチリア島でじわじわと勢力を広げるイスラム勢力に対して有効な対策が取られることは無く,また小アジアではパウロ派と呼ばれる異端派が勢力を拡大しており,これらにも効果的な対策を行うことが出来なかった。なお,パウロ派はアルメニアに端を発し,7世紀以降小アジアに広まった異端信仰であり,善悪二元論の立場に立つため新マニ教とも呼ばれる。旧約聖書を排し,キリスト教の受肉を否認するなど,正統キリスト教とは相容れない教義を持つが,コンスタンティノス5世が対ブルガリア戦のために多数のパウロ派教徒をトラキアに移住させたことから,後にはブルガリアなどバルカン地域にも広がっていくことになった。
866年4月,ミカエル3世の側近として重用されるようになっていたバシレイオスが,バルダスを謀殺。そのわずか1か月後には,バシレイオスはミカエル3世の養子となり,共同皇帝となった。そして867年9月,ミカエル3世は聖ママスの宮殿で酔って寝ているところをバシレイオスの手の者によって殺害され,バシレイオス1世が皇帝に即位した。
なお,ミカエル3世に関する伝承は,バシレイオス1世による帝位簒奪を正当化するため,意図的に暗愚な皇帝として悪く書かれた可能性が高い。「メテュソス」(飲んだくれ)という不名誉なあだ名もマケドニア朝時代に付けられたものであり,彼が小アジアで整備されていた烽火による通信網を「戦車競走に集中できない」という理由で使えなくしてしまったという前述のエピソードは,ほぼ確実に後世の創作であろう。彼は前述のイスラム軍を破ったポソンの戦いを含め,何度か自ら戦争のために出陣しており,皇帝としての責務を完全に放擲するほど暗愚な人物ではなかった。
ただし,20世紀における東ローマ帝国(ビザンツ帝国)史研究の権威であるオストロゴロスキーは,ミカエル3世について「後世で不当に貶められているが,かといって反動で偉大な皇帝とみてもいけない。この時代の真の支配者は彼の叔父のバルダスだった」と述べている。彼は自分の支持者であるバルダスに頼りすぎ,いつの間にか臣民たちからバルダスの傀儡とみなされていたことに気付けない,皇帝としてかなり思慮に欠ける人物だったことは確かであろう。
(3)「キリスト」は勝利したのか?
第2部の第7話からこの第10話にかけて,レオーン3世の即位からミカエル3世の暗殺に至る約150年間を概観したが,賢明な読者諸氏は,6世紀までの不寛容なキリスト教政策と,9世紀におけるビザンツ社会の実態とのギャップに違和感を覚えられるかもしれない。
ビザンツ人と,異教文化や異教徒との共存
テオドシウス1世によってキリスト教がローマ帝国の国教となった後も,優れたギリシアの古典作品は教養として尊重し,異教や異端にも寛容な姿勢を示すという伝統派の路線と,キリスト教徒は聖書や教父たちの著作を読めばよく,異教や異端は断固排斥するという強硬派の路線対立があり,特にテオドシウス1世やユスティニアヌス1世は強硬派に近い路線を採ったが,暗黒時代を経て復活したビザンツ帝国は,結局伝統派に近い路線を採用したのである。
ビザンツ帝国はキリスト教国ではあったが,総主教フォティオスに見られるように,キリスト教徒の古典作品よりも異教時代の古代ギリシア人による作品を愛好し,ギリシア古典の収集と編纂はビザンツ帝国の国家事業となった。首都コンスタンティノポリスが地中海商業の中心地として再興すると,首都にはユダヤ人やアラブ人などの居住区が設けられ,ビザンツ人と概ね平和的に共存した。
もっとも,ユダヤ人に対しては7世紀のヘラクレイオス時代,8世紀のレオーン3世時代,そして9世紀末のレオーン6世時代に,キリスト教の洗礼を受けるよう強制する政策が採られたが,迫害に慣れているユダヤ人はこれをやり過ごす術を心得ており,意に反して洗礼を施されたユダヤ人は,その後に自分たちの受洗を洗い流し,満腹の状態で聖体拝領に与り信仰を穢し,何時の間にかユダヤ教徒に戻ったという。
その後は,何かの災厄が起きるたびにユダヤ人のせいにされるといった類の迫害は散発的に起きたものの,ユダヤ人が首都の居留区から追放される,虐殺されるといった大規模な迫害は見られなくなり,レオーン6世の政策を最後に政府当局によるユダヤ人迫害政策も見られなくなった。ユダヤ人は商人,銀行家,金貸し,絹織物職人などの分野で活躍し,かなり高水準の生活を享受している者も多かった。ユダヤ人追放を唱えるキリスト教の聖職者が全くいなかったわけではないが,もはや彼らの声が多数派となることはなかった。
ビザンツ人は,当初敵として現れたイスラム勢力とも,戦争が一段落すると平和的な外交を行った。フォティオスは総主教に任命される前に,外交使節としてアッバース朝カリフ国へ派遣され,バグダード在住中には信仰の壁を越えて,多くのイスラム教徒と堅い友情をとり結んだと伝えられている。
ビザンツ人とイスラム教徒の間には,同じような源を持つ一神教信仰,大都市,文芸文化,ギリシア古典文学への称賛という多くの共通点があり,しかもイスラム教徒の相当数は,かつてローマ帝国の民だったギリシア人だった。キリスト教の教義では,父なる神と子たるキリスト,そして聖霊は三位一体とされていたが,イスラム教の教義では,キリストやムハンマドを含む歴代預言者は,神から発せられた聖霊とされており,それぞれ独自に精緻な神学理論を構築していた。立場の違いはあったが,ビザンツ人にとってイスラム教徒は,同じキリスト教徒であるラテン人(西欧人)以上に分かり合える存在だった。
ビザンツ人にとって,ブルガリア人やロシア人といった北方諸民族に共感することは,イスラム教徒を理解することより難しかった。例えば,キリスト教化する以前のキエフでは,戦いの神ペルーン(稲妻を操る主神で,ギリシア神話のゼウスにやや近い),太陽の神ホルスとダジモグ,風の神ストリボグ,豊穣の神シマリグルと豊穣の女神モコシといった神々が信仰され,これらの神々に捧げた巨大な木造の神殿があり,それぞれの神は木に刻まれた偶像として表現されていた。キリスト教と共通点がまるで無い上に,文明が明らかに欠如しており,身の回りは不潔で,死者は持ち物すべてとともに船で火葬に付される慣習があった。この火葬される「持ち物」には,なんと奴隷の少女も含まれていたという。
ビザンツ人はこうした北方諸民族に対しても,軽蔑に終始するのではなく,キリスト教と自らの文明を伝えることで脅威を緩和し,平和的に共存する道を模索した。帝国の規模が以前よりかなり縮小し,四方に敵国ないし潜在的脅威を抱えたビザンツ人には,異教や異端の排斥に国力を浪費する贅沢は許されなかったのである。
キリスト教会から「大帝」の称号を贈られた3人の皇帝のうち,コンスタンティヌス1世と,テオドシウス1世・ユスティニアヌス1世との間には明確な違いがあった。後二者が異教や異端を弾圧し,異教文明を破壊することに熱心であったのに対し,コンスタンティヌス1世は自らの名を冠した新しい首都に,異教の神や女神の大理石像をそのまま飾ったほか,首都の中央広場に飾る自分の像を作らせるにあたっては,新規に作らせるのではなく,小アジアの神殿から盗み取った太陽神アポロンの像を,頭から出ている七本の光背を外して再利用した。
テオドシウス1世あたりの治世では異教時代の像が無惨に破壊されることもあったが,ビザンツ人たちは結局コンスタンティヌス1世の路線を引き継ぎ,異教の美しい芸術作品を残すことにいささかも躊躇しなかった。3人の「大帝」のうち,ビザンツ帝国の開祖として尊敬されたのはコンスタンティヌス1世であり,これは歴代皇帝のうちコンスタンティヌス(コンスタンティノス)の名を持つ者が11人もいるのに対し,テオドシウス(テオドシオス)は3人,ユスティニアヌス(ユスティニアノス)は2人に過ぎないという事実からも明らかである。
「正教の勝利」の内実
そして,ビザンツ人が聖像破壊運動を経て最終的に選択したイコン崇拝は,かつて異教と断罪された古代ローマの伝統的な宗教慣習とあまり変わらなかった。イコンは接吻して崇拝され,その前に香とともに蝋燭やランプが灯され,描かれた聖なる人物に祈りが向けられたが,これらの慣習は多神教時代の古代ローマで行われていたものと同一であった。
ビザンツ人のキリスト教は,要するに信仰の対象が異教の神々からキリスト,「神の母」マリアや聖人たちに代わり,供物として羊などを焼く習慣などが無くなっただけであった。古代ギリシアの神々をモチーフとした異教的な芸術作品は,相変わらず民間で愛好されたのみならず,学問のみならず絵画も好んだ後の皇帝コンスタンティノス7世時代になると,なんと皇帝自らこの種の芸術作品を奨励するようになった。ユダヤ人が歴代皇帝による迫害をやり過ごしたのと同様,ビザンツ人もキリスト教の国教化という波を巧みにやり過ごしたのである。
聖書では,「あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり,それらに仕えたりしてはならない」という戒律が繰り返し強調されている。この聖書を素直に読むならば,聖像破壊派の「偶像を作ったり拝んだりするようなあらゆる習慣も軽蔑する。厭うべき偶像芸術は異教が先導者にして考案者なのである」という主張が,キリスト教本来の教義に照らし正しいことは明らかである。
しかし,ビザンツ人は最終的にこの主張を採用せず,イコンに対する崇敬と神に対する崇拝は全く異なるものであり,かつイコンを崇敬することによってのみ神に向けた真の崇拝をなすことができると強引に結論付けた。このような屁理屈は筆者のような非キリスト教徒には全く理解できないが,20世紀以降に独立した国家の歴史学者たちが自国の歴史を権威付けよという政治的使命に基づき,無理を承知で我田引水的な主張を繰り広げているのと似たようなものだと考えるならば,一応同情の余地はある。
ビザンツ人が正しいキリスト教信仰の勝利と考えた「正教の勝利」は,実際にはキリスト教の仮面を被った異教的崇拝の勝利に他ならなかった。少なくともビザンツ人の間では,キリストは表面的ないし部分的な「勝利」しか勝ち取れなかったのである。
もっとも,イコン崇拝をめぐる問題がこれで完全に決着したわけでは無かった。聖像破壊派の再来を恐れた総主教フォティオスは,イコンを受け入れることによってのみ聖書と受肉の真理を受け入れることができる,聖像破壊を引き起こした者どもはアラブ人と運命を共にしてしまい,「ローマ人」どころかキリスト教徒ですらないという説教を行っているが,聖像崇拝を否定する信仰は,その後も形を変えて生き残ることになる。
既にミカエル3世時代から出現していたパウロ派は,現存していないためその詳しい教義は不明であるが,旧約聖書を排しキリストの受肉を否定したと伝えられていることから,聖像崇拝にも否定的だったと考えられる。パウロ派に代わって出現したボゴミール派は,ブルガリア発祥の異端であるがビザンツ帝国にも広まり,福音書を重視し清貧の生活を説いたため「中世最大のピューリタン」とも称されるが,彼らは聖像どころか十字架,ミサ,聖職者制度をも否定した。そして,ビザンツ帝国滅亡後の16世紀に出現したプロテスタント諸派は,宗教的画像に批判的な立場から,細部に至るまでビザンツの聖像破壊派と同じテキストや概念を引用している。
また,西方教会でもローマ教皇庁からある程度独立した立場にあったフランクの神学者たちは,787年の公会議決議を誤訳で読んだため,崇拝派によるイコン擁護に偶像崇拝の様相を見出して衝撃を受けたという。聖書で固く禁じられている偶像崇拝と,キリスト教的な聖画像への崇敬の区別をどう説明するかは,その後も長きにわたりキリスト教神学の大きな課題となったのである。
ビザンツ人と西欧人の違い
ところで,同じキリスト教でも,ビザンツ人と西欧人では相当に考え方が違っていた。ローマ教皇庁は聖像崇拝を肯定していたものの,西方キリスト教世界におけるイコン崇拝はビザンツ人ほど広く一般的に行われていたわけではなく,またビザンツ人と異なりイスラム教徒との接触が少なかったため,イコンの製作に当たり厳格に定められた様式を守る必要性も理解できなかった。また住民の識字率が高いビザンツ人は,キリスト教の典礼は信者たちが理解できる言語で行わなければ意味がないと考えていたので,典礼の方法などを定めた教会法をスラヴ語や他の言語に翻訳し,外国人に自分たちの言語でキリスト教の典礼を行わせるのに何ら躊躇しなかった。
一方,ローマ・カトリック教会では長きにわたり,全能の神に呼び掛ける典礼に用いる言語はラテン語,ギリシア語,ヘブライ語のみであるとの態度を貫き,実際にはラテン語が使用されたが,中世のラテン語は教会人の手によって極めて複雑難解なものに変わっていった。西方教会には典礼に用いる言語を信者たちに理解させるという発想自体が無く,むしろ聖職者以外の者には「依らしむべし,知らしむべからず」というのが西方教会の発想であったため,ビザンツ人が布教で用いていたスラヴ語による典礼を西方教会は認めなかった。ローマ・カトリックがこうした態度をようやく改め,各国語による典礼を認めるようになったのは,なんと1965年の第2バチカン公会議以降である。
また,西欧ではビザンツと異なり,異教時代の美しい神像など残っておらず,十字軍時代に至るまで強力なイスラム教徒と直接的に対峙することがほとんど無かったので,ビザンツ人がやや曖昧に「ラテン人」と呼んだ西欧人は,異教時代の神像を芸術作品として尊重し,イスラム教の異国と外交関係を結ぶ機会も無かったため,このような行動を取るビザンツ人の考え方を理解できなかった。
話のついでに,「フォティオスの分離」で論点となったフィリオクエ問題についても若干説明しておく。フィリオクエ問題は,東西教会分裂の一因となった重要な宗教問題であると同時に,ビザンツ帝国をその滅亡に至るまで大いに悩ませた重要な政治問題であり,ビザンツ帝国の歴史を語る上で避けて通れない話題である。
「フィリオクエ」とは,ラテン語で「また子より」を意味する文言である。もともと,ビザンツ帝国をはじめとする東方教会ではギリシア語が,ローマ教皇傘下の西方教会ではラテン語が主に使用されていたが,父なる神と子たるキリスト,そして聖霊は三位一体であるという教義を確認したニケーア信条では,聖霊は「父より発出した」と明記されていた。つまり,父なる神から子たるキリストが発出し,聖霊は子たるキリストを通じて父から発出すると理解されており,「また子より」という文言は入っていなかった。
ところが,7世紀にスペイン地方でニケーア信条に「フィリオクエ」の文言を追加し,聖霊は父と子の両方から発するとの見解が唱えられ,この見解はセビリアのイシドルスなる神学者の権威に裏付けられて他の西方教会にも拡大し,9世紀になるとローマ教会もこの見解に傾くようになった。東方教会は当然,このような「フィリオクエ」を含む信条は異端だと主張したが,西方教会ではむしろ「フィリオクエ」を含む信条が標準的な儀式として定着してしまったため,11世紀に入るとローマ教皇は「フィリオクエ」を含む信条を正式に採用するに至った。これにより,東西教会では三位一体たる父と子と聖霊の関係という重要な教義に大きな違いが生じることになってしまった。
その後,ローマ教皇庁は「フィリオクエ」を加えたものが正文であると主張して譲らず,コンスタンティノポリス教会は「フィリオクエ」を加えた信条は異端であると主張して譲らなかったため,この教義問題は東西教会が決裂する一因になった。もっとも,ローマ教皇庁では「フィリオクエ」と含む正文が787年の公会議で採択されたものと何世紀にもわたり誤認しており,この誤認は15世紀にビザンツの哲学者プレトンによって暴露されることになる。
もっとも,東西教会の対立要因は「フィリオクエ」問題だけではなく,むしろローマ教皇庁とコンスタンティノポリス総主教との順位関係が最大の争点であり,他にも前述したスラヴ語による典礼の可否,下級聖職者の結婚の可否,聖職者が武装して戦う事の可否,聖体拝領の際に用いるべきパンの種類,典礼の方式の差異など問題点は多岐にわたっていた。そして1204年のコンスタンティノポリス劫略以後,西方教会の聖職者が自らの教義や慣習を武力によりビザンツ人に強制し,これにビザンツ人が猛反発したことから,東西教会の対立は今日においても解消の目途がつかない,もはや決定的なものとなったのである。