第11話 マケドニア王朝の成立(バシレイオス1世とレオーン6世)
(1)「マケドニア王朝の創始者」バシレイオス1世
生い立ちから皇帝即位まで
バシレイオス1世(在位867~886年)は,テマ・マケドニア(現在のエディルネ近郊)で,アルメニア系農民の子として811年頃に生まれた。彼の孫コンスタンティノス7世が書いた『バシレイオス1世伝』によると,バシレイオス1世の父は古代アルメニアのアルサケス朝(パルティア王家の分家)の子孫,母はコンスタンティヌス1世の末裔という噂があると書かれているが,おそらくは皇帝になってから権威付けのため意図的に流された噂であろう。もっとも,彼の両親は繁忙期には季節労働を利用していたことが窺われるので,全くの貧農というわけでもなかったようである。
バシレイオスは当初地元のテマ長官ツァンツェスに仕えるが,やがて一旗揚げようと首都へ上り,バルダスの近親者であるテオフィロスの屋敷に奉公するようになり,馬丁長の地位に登った。ある夜,バルダスとテオフィロスがブルガリアの使節を饗応していたとき,バシレイオスは給仕役を務めていた。使節が自分たちはブルガリアで最も強い力士を連れてきたと自慢すると,テオフィロスも負けずに,自分の従者バシレイオスはもっと強いと言い返した。食卓を片付けて両者が取っ組み合ったところ,バシレイオスは大男のブルガリア人を持ち上げて食卓の上に投げ落とし,見ていた者たちを驚かせた。
こうしたバシレイオスの「武勇伝」は間もなく皇帝ミカエル3世の耳に入り,ミカエル3世とテオフィロスが揃って狩りに出かけたとき,急に駆け出した皇帝の馬をバシレイオスは首尾よく取り押さえた。バシレイオスの才能に感心したミカエル3世は,バシレイオスを自らの警護役に雇うことにし,どこへ行くにも同行させるようになった。バシレイオスはミカエル3世のお気に入りとなり,バシレイオスは皇帝に反抗的な者を腕力で容赦なくぶちのめしたという。
ミカエル3世は,865年にバシレイオスを皇帝の寝室管理長官(本来は宦官でなければ就けない役職である)に抜擢したほか,自分の愛人だったエウドキア・インゲリナを妻として与えた。もっとも,バシレイオスには既にマリアという妻がいたが,マリアは離縁され故郷のテマ・マケドニアへ送り返された。
力自慢だけではなく世渡り上手でもあったらしいバシレイオスは,皇帝に上手く取り入る一方で,当時の宮廷における実力者だったバルダスに反感を抱く者たちをまとめ上げ,反バルダス党派の指導者となった。そして866年春,バルダスがイスラム勢力からクレタ島を奪回すべく,ミカエル3世とともに艦隊を率いてエーゲ海を南下し,野営のためある地に上陸したとき,バシレイオス率いる陰謀集団が皇帝用の天幕に突入し,財務監査の仕事をしていたバルダスを切り殺した。
最も信頼していた側近を突然失ったミカエル3世は,バシレイオス一党の言いなりになるしか無く,翌月にはバシレイオスを自らの養子とし,聖ソフィア教会で壮麗な儀式を行って共同皇帝に戴冠させた。もっとも,明らかな成り上がり者であるバシレイオスとその支持者たちは,ミカエル3世を除かない限り自分たちの地位も安泰ではないことをよく承知していた。
そして翌867年9月のある夜,ミカエル3世が聖ママスの宮殿で酔って寝ていたところ,陰謀者たちが押し入り,寝ていた皇帝を殺した。その翌朝バシレイオスは皇帝と宣言されて大宮殿から姿を現し,歩きながら群衆に金貨をばら撒いた。こうして歴史の表舞台に登場したのが,皇帝バシレイオス1世である。
ビザンツ帝国において,一介の下層民から皇帝にまで登り詰めた例自体はそう珍しくないし,皇帝になる前の経歴がほとんど不明という人物もいるが,特に軍人や官僚としてキャリアを積んだわけでもなく,知られている特技は馬の調教とレスラーという男が,皇帝のお気に入りとして突如宮廷内で頭角を現し,極めて短期間のうちに皇帝になってしまったという経歴は,やはり異色のものである。
上京したばかりのバシレイオスという農民上がりの大男を見た人々が,仮にこの男は近いうちに皇帝になるとの予言を聞いたとしてもおそらく誰も信じなかっただろうし,バシレイオスが反バルダス派の指導者になった時点でも,まさかこの男が早晩バルダスの後釜に座るだけでなく,わずか2年後に皇帝になるとまで予想していた宮廷人はほとんどいなかったであろう。また,突如皇帝として姿を現したバシレイオスを見て,こんな成り上がり者の簒奪者はどうせ長続きしないだろうと考えた者も少なくなかったと思われる。
しかし,バシレイオス1世は皇帝として20年近い治世を全うしただけでなく,彼を始祖とするマケドニア王朝は,実に200年近くの長きにわたり,直接または間接にビザンツ帝国を統治することになるのである。
バシレイオス1世の治世
単独皇帝となったバシレイオス1世は,まずローマ教皇との融和を図るため,摩擦の原因となっていた総主教フォティオスを解任して修道院に押し込め,前総主教イグナティオスを復帰させた。869年から870年にかけて,第4コンスタンティノポリス公会議が行われ,フォティオスの追放などが決議されたが,この決議では五大総主教座の中でローマが単独首位とされるなどビザンツ側には受け容れられない内容が含まれており,バシレイオスが期待したローマ教皇側からの政治的譲歩も無かったため,ビザンツ側の東方正教会はこの決議を受け入れなかった。
一方,バシレイオスはフォティオスが進めていたスラヴ人の改宗政策を継承し,870年にはブルガリア王ボリスがキリスト教に改宗し,877年にはブルガリアをコンスタンティノポリス総主教の管轄下に組み入れることに成功した。
フォティオス自身も,バシレイオス1世の即位当時は彼を皇帝として受け容れず,皇帝ミカエル3世を殺害した咎でバシレイオスを非難しており,これも総主教解任の原因になっていたのだが,フォティオスは後にバシレイオスを皇帝と認め,872年頃にフォティオスは赦免されて,バシレイオス1世の息子たちの家庭教師になった。さらに,第4コンスタンティノポリス公会議決定を承認しないことが決まると,宗教界におけるフォティオスの名誉も回復され,877年にイグナティオスが死去するとフォティオスが総主教の座に復帰した。その後879年から880年にかけての教会会議では,ローマ教皇の特使もフォティオスの復権を認め,これにより「フォティオスの分離」は終結した。
バシレイオス1世は自ら軍を率いて戦い,軍事面でも様々な功績を残している。まずミカエル3世時代から小アジアで大きな勢力を誇っていたパウロ派に対しては何度も遠征軍を送り,当初は苦戦するものの,879年までには彼らの勢力を撃滅することに成功した。ただし,バシレイオス1世はパウロ派を皆殺しにしたわけではなく,降伏したパウロ派の一部をバルカン半島へ移住させたので,彼らは後にボゴミール派として再登場することになった。
また,正確な時期は不明であるが,当時イスラム勢力との共有地になっていたキプロス島を7年間支配下に収めることに成功した。ダルマティア地方に対して帝国の宗主権を認めさせることにも成功している。
イタリア半島においては,中フランク王国のルートヴィヒ2世(ルイ2世)と連絡を取りつつイスラム勢力の駆逐を進め,885年には名将ニケフォロス・フォカス(後の皇帝ニケフォロス2世の祖父)を南イタリアに派遣し再征服を行った。以来南イタリアは,11世紀まで帝国領にとどまることになる。
一方,シチリア島ではアグラブ朝の攻勢を押しとどめることができず,878年に帝国最大の拠点であったシラクサを失った。また,海上ではニケタス・オオリュファス率いる艦隊がコリント湾(コリンティアコス湾)でイスラム艦隊に勝利を収めるなどの戦果はあったものの,クレタ島やシチリア島,北アフリカなどを拠点とするイスラム艦隊の活動を完全に封じ込めるには至らなかった。
バシレイオス1世は,コンスタンティノポリスなどで数多くの建築物を造営・修復したことでも知られており,特にカイヌルギオン宮殿とネア・エクレシア(「新教会」の意味)は有名である。ネア・エクレシアも,ファロス聖母教会と同様に外観は単純で質素であるが,内部空間はすべて聖画壁とよばれる図像で覆われていた。この教会は実質的に天国そのものを描いた図像となり,真の信者が死後に体験するはずの世界をあらかじめ語っていた。
またフォティオスらに命じて『プロケイロン(法律便覧)』『エイサゴゲ(法律序説)』(一般には『エパナゴゲ』という名称で知られる)と呼ばれる法律書を編纂させた。これは彼の在位中には完成しなかったが,息子のレオーン6世の代に『バシリカ法典』として完成している。
成り上がり者の簒奪者ながら,皇帝に相応しい器量と政治感覚の持ち主であることを証明することに成功したバシレイオス1世に残された課題は,後継者対策であった。彼は,当初マリアとの間に生まれた長男のコンスタンティノスを後継者候補と考えていたが,彼は879年に夭折したため,次男でエウドキア・インゲリナとの間に生まれたレオーンが後継者となった。
しかし,882年頃にエウドキア・インゲリナが没した後,バシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして883年にはフォティオスの側近だったテオドロス・サンタバレノスがレオーンを陰謀の疑いで告発したため,レオーンを宮殿内の一室に幽閉した。レオーンは3年あまり後継者の地位を剥奪されていたが,886年7月に赦免されて後継者の地位に戻っている。
その直後,バシレイオス1世は狩猟中に負傷し,9日後の8月29日に死亡した。もっとも,彼の死因には不審な点も多く,暗殺説もある。
<幕間13>北イタリアとシチリア島の失陥
歴代皇帝の記述で度々触れたとおり,ビザンツ帝国領だった北イタリアは,概ね6世紀の末頃からランゴバルド族の侵入を受け,751年のラヴェンナ陥落により,ビザンツ帝国は南部を除くイタリアの支配権を喪失した。また,同じくシチリア島は,ミカエル2世時代の827年頃から北アフリカのアグラブ朝による侵攻を受け,バシレイオス1世時代の878年に最大の都市パレルモを喪失し,続くレオーン6世時代の902年にタオルミーナを喪失したことで,ビザンツ帝国の支配下から離れた。
塩野七生著の『ローマ亡き後の地中海世界』では,こうしたビザンツ帝国のイタリア喪失とシチリア島喪失について言及されており,こうした側面だけを切り取られると,ビザンツ帝国はいかにも駄目な国だったかのような印象を受けてしまう。以下,このような反ビザンツ史観に対する弁明も兼ねて,こうした領土喪失の事情についてまとめておく。
北イタリアに侵入したランゴバルド族は,イタリアを征服した宦官ナルセスによって,武器の使い方や貨幣経済を教えられ,一人前の戦士に仕立て上げられた男たちであり,彼らの北イタリア侵入は,ある意味でビザンツ帝国が自ら招いた災禍であった。
もっとも,ユスティニアヌス1世が執拗にこだわったイタリア征服は,当時の東ローマ帝国の国力に照らして明らかに無理があり,イタリアを維持することには更に無理があった。そのため,ユスティニアヌス1世の後を継いだ歴代皇帝たちはイタリアの維持に執着せず,マウリキウス帝はイタリアに援助を送らない代わりに,ラヴェンナに総督府を置いてイタリア防衛の全権を委任し,イタリアの運命を総督に委ねた。
ランゴバルド族の侵入は大規模なものではなく,ランゴバルド族はユスティヌス2世の時代に,アルボイン王に率いられてパヴィアやミラノなど北イタリアの大部分を占領し,パヴィアを首都としてランゴバルド王国を建国するも,その後ラヴェンナを拠点として北イタリアの一部を保持するビザンツ軍との戦いは膠着状態が続いた。
ランゴバルド王国は,7世紀にキリスト教を受容するなど国家としての基盤を整備していったが,もともとこの王国は30人以上もいる諸公の力が強く,また王位をめぐる内紛も絶えなかったため,ビザンツ帝国がイスラムの侵入に苦しむ7世紀の暗黒時代においても,ビザンツ勢力をイタリアから完全に駆逐するには至らなかった。
もっとも,712年にリウトプランドという強力な王が即位すると状況は一変し,彼はビザンツ帝国の内紛に乗じて領土を拡大した。彼は730年頃に一時ラヴェンナを奪取し,ビザンツ帝国は734年にヴェネツィアの協力を得てラヴェンナを奪還するも,レオーン3世が進めていた聖像破壊運動の影響でローマ教皇がビザンツの敵に回り,対イスラム戦争のため重税を課されたイタリア諸都市もビザンツに反抗したため,北イタリアにおけるビザンツ勢力の衰勢は止めようがなかった。
リウトプランドが744年に亡くなるとしばらく短命な王が続いたが,749年に即位したアイストゥルフ王の許で,ランゴバルド軍は751年にラヴェンナを奪取し,コンスタンティノス5世がこの奪還を諦めたことで,ギリシア系住民の多い南部を除き,ビザンツ帝国はイタリアを放棄することになった。
なお,ランゴバルド王国は774年,フランク王国のカール大帝により征服されて滅亡し,ランゴバルド人は地元住民と次第に同化されその言語や特質を失い,イタリア北部を指すロンバルディア地方の語源となるにとどまった。
一方,シチリア島への侵攻は827年頃,シチリアで発生したユーフェミウスの反乱を契機としてアグラブ朝によって行われ,831年にパレルモが陥落した。これに伴いシチリア島の西側約3分の1はイスラムの支配下に落ちたが,シチリアのイスラム勢力はシチリア首長国として半ばアグラブ朝から自立し,シチリア首長国による征服は地元の兵力だけで少しずつ行われた。シチリア島の征服が行われていた期間の大部分はビザンツ帝国の混乱期にあり,しかも当時の帝国は東西のみならず北からも新たな脅威に晒されていたので,シチリア島における小規模な侵攻への対応は後回しにされてしまった。
その結果,シチリア島のイスラム勢力は,首都からの救援が来ないことに絶望したキリスト教徒たちを味方に引き入れて次第に強大となり,バシレイオス1世が即位した当時には既に手遅れとなっていた。バシレイオス1世はシラクサ包囲の報を聞いて援軍を派遣したが,878年にシラクサはイスラム勢力の前に陥落し,援軍は間に合わなかった。
そして902年,イスラム勢力はシチリアにおけるビザンツ帝国最後の拠点タオルミーナを陥落させてシチリア島を平定するが,北アフリカのアグラブ朝は909年にファーティマ朝の攻撃を受けて滅亡し,その前後にシチリア首長国はバグダードのカリフから直接アミール(総督)の称号を受けて自立し,1072年にロベール・ギスカール率いるノルマン人に征服されるまでシチリア島を統治した。シチリア島のキリスト教徒はイスラム支配下でもその信仰を保障され,シチリア島は13世紀にシャルル・ダンジューの征服を受けるまでキリスト教徒とイスラム教徒が混在する地域となった。
むろん,こうした北イタリアやシチリア島の喪失も歴史的事実であり,北イタリアの喪失はローマ教皇とヴェネツィアの自立を許す結果に繋がり,シチリア島の喪失はイタリアやビザンツ帝国の領土をイスラム海賊の深刻な脅威に晒す結果に繋がり,どちらもビザンツ帝国にとっては痛い損失となったため,これが大きな失点であることは否定できない。
しかし,四方を敵に囲まれたビザンツ帝国は主要な防衛の対象も絞り込む必要があり,帝国にとって一番重要な領土は首都のあるバルカン半島と,首都の対岸にある小アジアの地であった。絶えず厳しい環境に置かれたビザンツ帝国が生き残るには,時には守り切れない領土を諦めることも必要だったのである。
(2)「四婚問題を起こした哲学者」レオーン6世
レオーン6世(在位886~912年)は,866年にバシレイオス1世とエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし,エウドキア・インゲリナは867年にミカエル3世が死ぬまで彼の愛人であり続けたため,レオーンが実はミカエル3世の子だったという可能性も否定できない。こうした噂は彼の出生時から広く流布していたようである。
レオーン6世には,「ソフォス」(賢者)ないし「フィロソフォス」(哲学者)というあだ名が付けられている。少年時代にフォティオスの教えを受けて多方面にわたる学識を身に付け,多くの典礼詩,世俗詩,演説などを遺したことに由来するものであろう。
レオーン6世は870年に共同皇帝とされていたものの,次男であったため当初は後継者候補とみなされていなかったが,879年に異母兄のコンスタンティノスが夭折すると,父から後継者に指名される。もっとも,前述のとおり父との仲が一時急速に悪化して幽閉されその後復権を果たしているが,それらの原因について定説はない。886年に復権を果たした直後にバシレイオス1世が死去すると,皇帝として即位した。
レオーン6世の治世
レオーン6世は皇帝に即位すると,直ちに総主教フォティオスを罷免して追放し,自分の弟ステファノスを総主教に任命した。かつての家庭教師に対するこのような仕打ちの原因もよく分からない。レオーンが一時後継者の地位を剥奪され幽閉されていたとき,フォティオスやその一派が父のバシレイオス1世に加担していたためレオーンから憎まれていたと考えるのが自然であろうが,こうした事情について語る史料がないため,以上はあくまで推測の域を出ない(レオーンのフォティオス追放については,単純に恩知らずなどと批評する文献も散見されるが,こうした即位前の経緯を考慮しないで非難するのはいささか早計と思われる)。
なお,レオーン6世は即位にあたり,父バシレイオス1世によって殺されたミカエル3世について荘厳な葬儀を行い,聖使徒教会に改装している。こうしたレオーンの行為は,レオーンの実の父親はミカエル3世だった(少なくとも,レオーン自体はそのように信じていた)のではないかとの疑いを広めることに貢献した。
レオーン6世の治世前半は,レオーンの復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を握っていたとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親でもあり,レオーンはバシレオパトル(「皇帝の父」または「宮廷の長」を意味する)の地位を創設してステュリアノスに与えている。ただし最近の研究によると,ステュリアノスの権力は,従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。
899年にステュリアノスが没すると,ザウツェス一族は失脚した。その後はザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握ったが,彼は当時イスラム軍を相手に目覚ましい軍功を挙げ,ビザンツ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥーカスと対立した。アンドロニコス・ドゥーカスはバグダードに亡命したが,この事件にはサモナスが関与していたとされている。なお,アンドロニコスの息子コンスタンティノス・ドゥーカスは後に復帰し,レオーン6世死後の913年に反乱を起こして死亡している。
レオーンは父の法典編纂事業を受け継ぎ,首都の商工業者の組合に関する法令集『首都長官の書』や,全60巻から成る法典全集『バシリカ法典』などを発布している。また,レオーンは役人の綱紀粛正についても熱心で,次のようなエピソードが残っている。
レオーンは,都の角辻に立つ歩哨の勤務ぶりを試そうとして,ある夜こっそり街に出て,わざと怪しげな素振りをしてみせた。危うく牢に放り込まれそうになったので,金貨を出したところ,その歩哨はあっさり放免してくれた。次の辻でも同じように金を払って見逃してもらった。その次のところでは買収がうまく行かず,レオーンは鞭打ちされた挙句,一晩牢屋に閉じ込められてしまった。翌朝,宮殿に戻ったレオーンは,賄賂をもらって自分を見逃した歩哨たちを厳罰に処し,自分を鞭打って一晩牢屋に入れた歩哨に褒美を与えたという。
内政面・文化面では一定の功績を残したレオーン6世だったが,軍事面では失敗が多かった。レオーンは893年,ブルガリアのシメオン1世と開戦した。レオーンの考えた作戦は,当時ドナウ川北岸にいたマジャル人と同盟してブルガリアを挟撃するというものであったが,そのマジャル人はブルガリアとその働きかけを受けた東方のペチェネグ人に挟撃されて敗走してしまい,ビザンツ軍も896年にブルガロフュゴンの戦いでブルガリアに敗北し,結局レオーンは毎年貢納金を支払う条件で和平を結ばざるを得なかった。なお,その後のマジャル人はペチェネグ人の追撃を逃れて西方に進出し,東欧の諸国や諸勢力を荒し回った後パンノニアの地に定住し,その地で自らの王国を建国することになる。
西方の領域でも敗北が続いた。888年にはミラッツォ沖でイスラム艦隊に敗北を喫した。902年にはシチリア島で事実上最後の拠点であったタオルミーナが陥落した。シチリア島という地中海の重要拠点を完全に手中に収めたイスラム艦隊は,エーゲ海の奥深くにまで侵入して各地を荒らし,904年には帝国第二の都市テッサロニケが襲撃され,多くの犠牲者を出した。レオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて,イスラム艦隊に対する反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが,911年のクレタ島遠征は完全な失敗に終わった。
さらに北方からは,907年にキエフ公オレーグ率いるロシア人のヴァイキング艦隊が南下し,首都周辺の教会や修道院,集落を焼き払った。各方面に敵を抱えるビザンツ帝国にはロシアに軍を向ける余裕はなく,911年にはロシア商人の関税を全額免除するという,ロシア側に極めて有利な通商条約を締結して懐柔することを余儀なくされた。
そんな中,当時のビザンツ帝国が唯一軍事的優勢を確保していたのは東方戦線であり,帝国の領域をユーフラテス川の東側にまで拡大し,テマ・メソポタミアを設置している。当時東方戦線のみが優勢だったのは独自の理由がある。バグダードのアッバース朝は衰退期に入り,カリフ自ら軍を率いてビザンツ領内に攻め込んでくるのは過去の話となっていた。
当時のアッバース朝では,対立関係にある国内の諸党派が次々とカリフを廃立するようになり,カリフとなった者は自らの地位を守るため,中央アジア出身のトルコ人奴隷から成る宮殿親衛隊を頼みとしていた。トルコ人はあくまでもカリフに忠実で,しばしば暗殺や廃位からカリフを守ったものの,彼らはアラブ人,ギリシア人,ペルシア人などから成るイスラム社会の中では新参の少数派であり,給料や生計を全面的にカリフに頼っていたので,トルコ人奴隷たちもまた,自分たちに好意的で,自分たちに配慮してくれる人物がカリフの座に就くよう努めた。こうしてカリフの地位は諸勢力の意向に左右される極めて不安定なものとなり,廃立が相次いだ。
しかも,869年から883年にかけて,カリフのお膝元であるメソポタミア地方の灌漑システムを機能させていたアフリカ出身の労働者が反乱(ザンジュの乱)を起こし,その蜂起に対処するため大軍を動員する必要があり,この反乱で灌漑システムとそれに依存していた農業は大きな打撃を受け,後の930年代に入ると,アッバース朝カリフは事実上の破産状態となり,軍隊に給料を支払うこともできなくなってしまった。
こうした中央での混乱は,必然的に周辺地域の分離主義を引き起こし,カリフから任命されていた各地の地方長官は事実上の独立勢力と化し,当時のイスラム勢力は日本の戦国時代のような様相を呈していた。ビザンツ帝国の東方で国境防衛の任にあたっていた軍人たちは,こうしたイスラム勢力の分裂と弱体化に乗じ,イスラム諸勢力の領土に侵入して略奪攻撃を行ったり,さらにはイスラム勢力の領土を奪ったりして,自らの富と名声を高めていき,こうして実力を蓄えた軍人たちは次第に「軍事貴族」と呼ばれるようになった。
前述したアンドロニコス・ドゥーカスは,このような東方イスラム勢力との戦いで実力を付けた軍事貴族の第一走者というべき人物であり,彼は904年にゲルマニケイアを包囲したイスラム軍を寡兵で破って名声を高め,ビザンツ帝国の軍部で重きを成していたのである。なお,こうした軍事貴族の台頭は,レオーン6世の次世代以降になると,ビザンツの中央政界にも大きな影響力を及ぼすことになる。
レオーン6世が引き起こした「四婚問題」
「賢帝」とも呼ばれるレオーン6世だが,彼は悪い意味でも有名な皇帝になってしまっている。その理由はブルガリア,イスラム勢力やロシア人に敗れたからではなく,私生活上の問題で「四婚問題」を引き起こしたからである。彼はおそらく教会側の主張を容れて,自ら三度目の結婚を禁止する法律を発布していたが,長い間自身の後継者となる男子に恵まれなかったためトラブルを起こした。
レオーンは最初の妻テオファノが897年頃に病死すると,898年に年来の愛人ゾエ・ザウツァイナと結婚したが,ゾエは翌年病死。いずれの結婚でも子供に恵まれなかった。そこでレオーンは教会の反対を押し切って,3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが,901年にはエウドキアも,出産のとき母子共に死去してしまった。
同じキリスト教でも,西方教会では再婚回数の制限は特になく,例えば生涯に6回結婚した16世紀のイングランド王ヘンリー8世もその再婚回数自体が非難されることは無かったが,東方教会の教えでは,4度目の結婚など獣のすることであり,人間のすることではないなどと忌み嫌われていた。
そのため,レオーンはエウドキアの死後,ゾエ・カルボノプシナ(カルボノプシナは「黒い瞳」を意味するあだ名で,彼女は海将ヒメリオスの一族に属する女性である。)を自分の愛人にしていたが,再婚回数の制限があるため結婚は思いとどまっていた。
しかし,ゾエが妊娠しやがて産気付くと,レオーンはどうしても自分の子供たる世継ぎが欲しいとの思いを我慢できなくなり,まだ愛人であるゾエを本来皇后しか使用できないはずの緋産室に移動させ,ゾエは905年,息子のコンスタンティノス(のちのコンスタンティノス7世)を緋産室で産んだ。レオーンは教会の猛反対を押し切り,ある司祭を買収して4回目になるゾエとの結婚を強行した。
レオーンの側近で学友でもあった総主教のニコラオス1世ミュスティコスは,当初コンスタンティノスの認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが,ローマ帝国ではキリスト教化する以前から,正式な結婚によって生まれた子供(嫡出子)のみに相続権が認められるという法が定着しており,非嫡出子が皇帝の後継ぎとなった前例はなかった。
ニコラオス1世が主張するようにコンスタンティノスを認知するだけでは,彼は非嫡出子ということになってしまい,帝位後継者となる資格は認められない。結局レオーンが愛する我が子を帝位継承者に据えるには,教会のいかなる反対や非難を押し切ってでも,ゾエとの正式な結婚を強行する以外の選択肢はなかったのである。
この結婚強行でニコラオス1世は態度を硬化させ,906年のクリスマスおよび翌年の神現祭では,四度目の結婚という信仰上の重罪を犯したレオーンに対し,聖ソフィア教会への立ち入りを禁じた。レオーンはニコラオス1世を解任し,自身の信任する修道士エウテュミオスを後任としたが,この解任劇はニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起し,新たな宗教問題まで生んでしまったのである。
さらに,レオーンは四度目の結婚を認めてもらうため,ローマ教皇にも救済を求めた。西方教会の教義では再婚回数の制限はなかったため,ローマ教皇は何らの異議も唱えずレオーンの再婚を認めた。この問題により,またしても東西教会の分裂が発生してしまい,920年までこの分裂は解消されなかった。
レオーン6世は912年5月11日に病死した。息子のコンスタンティノス7世がまだ幼かったため,バシレイオス1世の時代から共同皇帝の地位にあった弟のアレクサンドロスが後継者となった。
<幕間14>ビザンツ帝国の法体系
ビザンツ帝国の法体系に関する事項は,良くも悪くもビザンツの法制度に大きな影響を残した,レオーン6世の項目に付記するのがおそらく最も適切であろう。
古代ローマ帝国時代の法
「法の民」と称される古代ローマ人は異様なほどの法律好きで,彼らの発明したローマ法は,日本を含む諸国で採用された近代法の重要な基礎とされている。もっとも,共和制期のローマにおける裁判は陪審制が採用されており,理論より情実が重視されることもしばしばあったようである。帝政が確立すると皇帝が唯一の法制定者になり,陪審制も次第に消滅していったが,過去の法については著名な5人の初期ローマ法学者,すなわちパピアニウス,パウルス,ガイウス,ウルピアヌス,モデストスによる注釈も,実質的な法源(法的判断の根拠として引用されるもの)として機能していた。
帝政時代のローマでは法律学の専門化が進み,各地に法学校が設立され,スコラスティコイと呼ばれる特殊な法律家集団が出現した。法律集の編纂も個人の資格で進められ,完成された法律集は作者の名前で知られていた。
5世紀に入ると,これまで民間人の手に委ねられていた法の営みについて国営化の動きが進んだ。テオドシウス2世は425年,首都に国立法学校を設置した。また,明らかに矛盾した内容の勅令や解釈上の疑義をもたらすような勅令を整理する必要があったため,テオドシウス2世は429年,法の専門家を集めてコンスタンティヌス1世時代以降に発布されたすべての勅令を並べ直して一冊の法典に編纂するよう命じた。
こうして完成した『テオドシウス法典』は437年11月に主要な帝国官僚に提示され,翌年の元日から施行された。その写本は西ローマの宮廷にも送られて元老院議員に提示された。『テオドシウス法典』は313年から437年までの間に発布された法資料2500点以上を収めており,最後の部分にはキリスト教関連の法律も含んでいる。これにより法の矛盾や混乱は解消され,簡素化された法制度が確立した。
この法は帝国の東西いずれにも適用されるものとされたものの,西方では帝国の支配権自体が大幅に縮小していたため,法学校は専ら帝国の東方に集中した。もっとも,このテオドシウス法典はローマ帝国の領土を征服した諸蛮族が次第に国家を形成するにあたり,これらの国家の法典に大きな影響を与えた。
ユスティニアヌス1世の法制改革
6世紀にユスティニアヌス1世が帝位に就くと,彼は直ちに法の更なる改革に着手した。528年,彼は主席法務官トリボニアヌスの指揮下に,10人の経験豊富な法律家から成る委員会を設置し,なお効力をもつすべての勅令を分類して並べ直し,条文を6世紀の状況に適合させるよう命じた。こうして529年に『旧勅令集』が発布され,そこに入れられなかった法は無効とされた。
続いて,530年から534年にかけて行われた第二段階の法制改革が行われ,皇帝は16人の法律家に,過去の著名な法学者の注釈群を整理するよう命じた。この時期には相矛盾した内容の学説が濫立し,収拾のつかない状態になっていたのである。更に,法律を学ぶ学生への指導向けに,ローマ法の基本事項をまとめた『法学提要』が作成され,ユスティニアヌス自身の手による新たな勅令も数多く発布された。ユスティニアヌスがこのように大規模な法制改革を行ったのは,おそらく彼自身が若い頃法学を学んでおり,「現状のローマ法は複雑で学びにくい」という強い問題意識を持っていたことに由来するものであろう。
534年に完成された『ローマ法大全』は,こうした法制改革事業の集大成であり,これは四部構成となっている。一つは,529年の旧勅令集を12巻本に再編集した『勅令集』(コデックス・ユスティニアヌス),一つは法学者の注釈群を50巻本に整理した『学説彙纂』(ラテン語でディゲスタ,ギリシア語でパンデクタエ)であり,これに採用されなかった注釈書はすべて破棄された。一つは前述の『法学提要』(インスティトゥーテス),残る一つはユスティニアヌス1世自身が新たに発布した新法をまとめた『新勅令集』である。
日本では誤解されている向きが多いが,この『ローマ法大全』は直ちにギリシア語に翻訳され,その後にユスティニアヌス1世が発布した勅令はすべてギリシア語でなされたので,言語の壁によって『ローマ法大全』がビザンツ帝国で活用されなかったとする説明は誤りである。
なお,『法学提要』を手引きとして用いた法学校の法学教育は5年間で行われ,法の専門職に就くには,教師の納得する成績を修めなければならなかった。ここでいう法の専門職には,弁護士や公証人,法を司る各種の役人が含まれる。
後の歴代皇帝は更に自身の発布した新法を加えていったが,『ローマ法大全』自体はビザンツ帝国が滅亡するまで有効な法として機能していた。一方,西方世界では『ローマ法大全』の知識が7世紀の初頭になると忘れ去られてしまい,11世紀の末になってようやく写本が発見されて,イタリアでもボローニャ大学でローマ法の研究が進められるようになった。
市民法と教会法
ローマ法の特徴は,自由人と奴隷双方の個人に関する法律,特に婚姻法,財産法,契約法や相続法に注意を払っていたことにあり,刑罰法規や訴訟手続きに関する法も整備されていた。現代の日本でいえば民法,刑法,民事訴訟法,刑事訴訟法に該当する法分野が発達していたことになるが,後述する教会法と区別するため,以下これを「市民法」と呼ぶことにする。
一方,6世紀には教会関係の規定もかなりの分量にのぼっており,公会議の決議や属州教会会議の決議,総主教への請願に対する回答がそれに該当するが,キリスト教を国教としたローマ帝国(ビザンツ帝国)では,こうした教会法を整理することも重要であった。コンスタンティノポリスやアンティオキアでは580年頃にこうした教会法の集成がなされ,『ノモカノン』という表題が与えられた。このうち最も重要なものは,おそらくヘラクレイオス1世時代に集約された『14の表題から成るノモカノン』であり,6世紀の総主教による著作を援用している。
なお,こうした教会法の集成は西方でも行われていたが,ローマ教皇庁は教皇の訓令や書簡も教会法に含めており,これにより東西の教会法が次第に大きく異なるようになり,後に東西教会の不和ひいては分裂へと繋がっていく。
ビザンツ帝国時代の法整備
7世紀から8世紀にかけての暗黒時代には,司法権が軍事をも統括するテマ長官に委ねられ,地方でも7世紀末から8世紀前半頃に編纂された『農民法』に象徴される村落共同体の自然法が発生した。
『農民法』には,他人の葡萄畑やいちじく畑に入った者は,自分で食べるためなら罰せられないが,盗みのためなら鞭打たれ,衣を剥ぎ取られるといった規定や,自分の土地に他人が家を建てたり木を植えたりしても,土地の持ち主はそれを勝手に倒したり引き抜いたりしてはいけない,といった規定がある。租税に関しては村単位できちんと納税するよう求めているだけで,国家の影は薄いほか,所有権を重視するローマ法と異なり,農民たちの互助意識を重視した法になっているのが特徴である。このような法が成立し,一時期ローマ法は忘れ去られたかのような時期もあったが,暗黒時代を脱すると,新たな法典が編纂されるようになった。
740年にレオーン3世が公布した『エクロゲー法典』は全18章の小型法典であり,婚姻に関しキリスト教の影響を強く受けた内容となっているほか,死刑に代わって身体切断刑を導入している。9世紀になり帝国の経済力が復活してくるとローマ法に対する関心も復活し,バシレイオス1世は新しい法典の編纂事業を命じた。
まず,882年ないし883年にノモカノンの第2版が公布され,総主教フォティオスがその前言を書いている。第二版は諸版以降に発布された教会法をすべて含んでおり,直ちにスラヴ語に翻訳され,誕生したばかりのブルガリア教会にも利用された。
次に,市民法の集大成である『バシリカ法典』が,レオーン6世の治世下である9世紀末にようやく完成した。この法典は帝国法を主題と年代順に60巻で整理し6分冊で刊行したもので,『勅令集』や『新勅令集』の各条項の前に,『学説彙纂』の関連部分を記載することで,ローマ法を参照しやすいように整理したものである。
『ローマ法大全』のように膨大な量の勅令と学説が別冊になっていると,関連する勅令と学説がどこに載っているのか探すのに大変な労力を要し,関連部分の見落としにより誤った法的判断がなされる可能性も皆無とは言えない。『バシリカ法典』はローマ法を否定したのではなく,ローマ法をより活用しやすい形に整理したのである。
レオーン6世は,『バシリカ法典』の発布に合わせて,古いローマ法を当時の社会に適合させるための新法を多く定めており,その中にはローマ時代の市参事会制度を廃止するという法も含まれている。とっくの昔に実効性を失っていた法が,新法典編纂の機会に整理されたのであろう。
ビザンツ帝国における法の運用と発展
法に実効性を持たせる手段としては,訴訟のほか,一般に「上訴」と訳される請願が大きな役割を果たしていた。帝国には諸々の請願を処理する請願局長官(エピ・トン・デセニオン)という役職が7世紀に設けられ,これも法律の専門職とされた。テオフィロス帝のように皇帝自ら請願を受け付けることもあったし,後述するバシレイオス2世は住民の請願に応えて,不法に土地を取得したフィロカレスなる人物の邸宅を自ら破壊して土地を住民に返還している(なお,「上訴」は法律用語で,下級裁判所の判決や決定に対し上級裁判所に不服申立てをする手続きの総称であり,実質的には請願と解されるこれらの手続きに「上訴」の訳語を充てることは,誤解を招き不適切と考えられる)。
10世紀のコンスタンティノス7世ないしその前後の時期になると,テマ長官は軍事のみを担当するようになり,司法は官僚である判事職に委ねられることになり,軍事官職であった職名が文官職に変化する事象も見られた。これは軍事貴族の台頭を防止するという意味もあるが,法律に詳しくない軍人に司法を担当させることはもはや不適当という判断もあったものと考えられる。
『バシリカ法典』により成文法やその注釈が整備されても,実際の事件においてその解釈や適用に関し様々な問題が生じるのは必然であり,知的な裁判官が創造的な法解釈を示すこともあった。11世紀初頭に宮廷裁判所の判事職を務めたエウスタティオス・ローマイオスは,多くの判決と意見書,特別な法学研究論文を著している。
例えば,彼は略取誘拐があったという理由で婚姻の解消を求める訴訟を審理していたとき,担当判事の間でも意見が分かれていたのに対して,元々の訴えには強姦の問題が言及されておらず,後に「産婆たち」が当該少女の処女性を確認していることから,結婚を非合法とする強姦自体が存在しなかったのは明らかであると指摘した。もっとも,帝国には「女性は証人になれない」といった趣旨の法があったらしく,原告からは女性の証言能力に対する疑義が出されたが,エウスタティオスはこうした問題について男性が証人になれないことを理由に疑義を斥け,法の例外を認めて「産婆たち」の証言を採用し,この結婚は完全に合法であると結論付け,婚姻解消の請求を棄却した。
(このような問題は,法文に囚われずに常識で考えれば簡単に解決できるが,法の明文により一部の人間の証言能力が否定されると,これを悪用して不当な訴訟を起こす者も現れ大問題になってしまうのである。筆者が異教徒や異端者の証言能力を否定する法を発布したユスティニアヌス1世を徹底的に非難しているのも,このような法が測り知れない弊害をもたらすことを知っているからである。)
エウスタティオスの書籍群は彼の同僚や学生によって編集され,『ペイラ』(経験)という教科書にまとめられた。『ペイラ』は成文法の弊害を解釈論によって克服する新たな法理論を確立し,ローマ法の遺産を維持しながらこれを柔軟に適用しようとする事例の典型であり,その後の著作でもしばしば引用された。
11世紀のコンスタンティノス9世は首都に法学,哲学を専門とする2つの国立学校を設立したが,新しい法律学校は公証人(ノタリオス)と法曹家(シュネゴロイ)という二つのタイプの法律家を養成することを目的としており,いずれも同業組合を組織していた。『バシリカ法典』に続く国家事業としての法典編纂事業は行われなかったが,11世紀末にはパツェスという裁判官の著作と推定される『ティプケイトス』(どこに何があるか)が著された。これは『バシリカ法典』に索引を伏し,そこへ11世紀の法律への言及と前述したエウスタティオスの法解釈を付け加えたものである。
教会法については1089年ないし1090年に第3版,1177年には第4版のノモカノンが編集され,注釈が書かれた。教会問題では俗人も主教も彼らの係争事件を,コンスタンティノポリスの総主教座に持ち込むようになり,総主教座にはこうした問題を処理する機関もあった。彼らによって持ち込まれた問題には以下のようなものもあった。
トルコ人の小アジア侵入によりイスラム統治下で暮らす主教たちが増えると,彼らは正統信仰を持つシリア人やアルメニア人が,ギリシア語ではなく彼ら自身の言葉で典礼を行ってもよいのかという疑問を呈するようになった。第4版のノモカノンを編集した著名な教会人であるテオドロス・バルサモンは,1194年にこうした疑問に対する法回答書を出し,地元の言語で典礼を行うこと自体は許されるが,その際には必ず裁可されたギリシア語手本を翻訳したもので行うよう強調し,コンスタンティノポリスとのより一層の調和を求めた。
1204年のコンスタンティノポリス劫略は,法的にも様々な混乱を引き起こした。ビザンツの教会法では,聖職者や修道士は自ら武器を取ることや,軍事活動に従事することを禁じられていたが,西方教会ではこのような規制は無く,十字軍の聖職者たちは世俗の騎士たちと同様に武器を取って戦い,外見では両者の見分けがつけ難い程であった。十字軍士は武器を取らないビザンツ人聖職者を臆病とみなして非難し,ビザンツ人は武器を取って戦う西欧の聖職者を教会法に反する野蛮人と非難した。
ビザンツの亡命政権であるニケーア帝国やエピロス専制公国などでは,後述のミカエル8世に関するエピソードで見られるように西欧流の野蛮な決闘裁判や神明裁判が持ち込まれることもあったが,そのような中でもビザンツ法学の高い水準は維持された。13世紀のエピロス専制公国で出された判決として有名なものは,窃盗を働き片腕を切断された女奴隷がまたも窃盗を働いたことから,その主人から手の切断を求める訴えが出されたところ,両手を失うと人間は生きていけないという理由で却下したというものであり,ビザンツ法学では次第に人道主義的な考え方が広まっていたことが分かる。
14世紀にも優れた法律家が輩出しており,特にコンスタンティノス・ハルメノプロスは1354年に『プロケイオン・ノモン』(法の手引)を著した。彼の研究は六冊の本になったので『ヘクサビブロス』とも呼ばれ,中世法を発展させた最も重要な業績とされている。『ヘクサビブロス』は直ちにセルビア語に翻訳されたほか,ビザンツ帝国が滅亡したはるか後の1821年,ギリシア独立戦争でギリシア王国が成立した際にも,この『ヘクサビブロス』を時代に合わせたものが新国家の法典の基礎とされた。
なお,ビザンツ帝国における市民法と教会法との関係は,例えばイギリスにおけるコモンローとエクイティとの関係とは全く異なる。中世の西欧諸国における世俗の王侯と教会は互いに主導権争いを繰り広げ,イギリスでもコモンローが適用される領主の法廷とエクイティが適用される教会の法廷において,同一内容の紛争に関し真逆の結論が出されるといったことも珍しくなかったが,ビザンツ帝国では教会の独自性を尊重しつつも,総主教は皇帝により任命され,世俗の法律家と聖職の法律家は同一の知識人層から輩出され,かつ市民法と教会法との調和が図られていたため,西欧諸国のように深刻な主導権争いは起きなかった。
ビザンツ人は,自国における市民法と教会法の関係,ひいては皇帝権力と教会権力の関係を「ビザンティン・ハーモニー」と称し,世俗の王侯と争いを続ける西方教会に対する東方教会の優越性を示す伝統として強調したが,逆に西欧諸国は皇帝が総主教を任命し,東西教会の合同について話し合う公会議の場でも多くの俗人が出席し皇帝が主導権を発揮するのを見て,ビザンツ教会の在り方を「皇帝教皇主義」と呼び,東方教会の聖職者たちは自らの教義を自律的に定める力もないとして非難した。