第12話 コンスンタンティノス7世とロマノス1世

第12話 コンスンタンティノス7世とロマノス1世

(1)「緋産室の生まれ」コンスタンティノス7世の第1次治世

 コンスタンティノス7世(在位913~920年,945~959年)は,「ポルフュロゲネトス」(緋産室の生まれ)というあだ名を持っている。首都の宮廷にあった緋色の産室は歴代皇后のみに使用を許されてきた場所であり,緋産室で生まれたということは皇帝の嫡子として生まれたことを意味する。そのため,歴代皇帝の多くも「ポルフュロゲネトス」と名乗っており,この称号がコンスタンティノス7世の独占物というわけではない。
 しかし,コンスタンティノス7世は,皇帝レオーン6世の長男として生まれたため,生まれながらにして将来皇帝となることが約束された人物のはずであったが,その生涯はこれから述べるとおり波乱に満ちたものであり,「緋産室の生まれ」であることを唯一の武器として激動の時代を生き抜き,民衆からの敬意を勝ち取ったことから,特にこのようなあだ名で呼ばれることになったのである。

コンスタンティノス7世の幼少期

 コンスタンティノスの父レオーン6世は,前話で述べたとおり912年に亡くなったが,コンスタンティノスがまだ幼少であったため,帝位はコンスタンティノスの叔父にあたるアレクサンドロス(在位912~913年)に受け継がれた。しかし,この叔父はわずか在位1年余りで没してしまっただけでなく,その短い在位期間に余計なことばかりしてくれた。
 兄のレオーン6世と仲が悪く実務からも長く遠ざけられていたアレクサンドロスは,総主教のエウテュミオスを罷免して,ニコラオス1世を復位させた。コンスタンティノスやその母ゾエ・カルボノプシナにとっては政敵にあたる人物をわざわざ呼び戻したのである。ゾエの一族にあたる海将ヒメリオスも,イスラム艦隊に敗れて撤退したことを理由に更迭・投獄した。さらに,ブルガリアとの和約を破棄して貢納金を打ち切り,ブルガリアを再び敵に回してしまったのである。
 アレクサンドロスは子のないまま亡くなり,他に適当な皇族男子もいなかったので,コンスタンティノス7世が後を継いで即位した。彼は当時8歳頃とまだ幼少だったので摂政会議が国政を担当したが,その長となったのはゾエではなく,総主教のニコラオス1世であった。慣例に従えば皇帝の母親が摂政会議の長となるはずだったが,前述のとおりゾエはレオーン6世の4番目の妃だったため,ニコラオス1世はこの結婚を無効とみなし,ゾエを摂政会議に参加させなかったのである。
 なお,ニコラオス1世はコンスタンティノス7世の帝位を承認したが,『統一の書』において今後四度目の結婚は一切認められない旨を規定した。これにより,三度目の結婚は原則として不可,四度目の結婚は絶対に不可という東方教会の法が確立したのである。
 もっとも,国内にはゾエや前総主教エウテュミオスを支持する一派もあり,総主教ニコラオス1世は,高名な軍事貴族であるコンスタンティノス・ドゥーカスを自らの協力者として期待していた。ところが,913年にこのコンスタンティノス・ドゥーカスは,軍を率いて首都に上り,帝位簒奪を企てたのである。
 市内の支持者に導かれて,夜間に城壁を通って首都に入ったコンスタンティヌス派の兵士たちは,「コンスタンティノス皇帝万歳!」と歓呼の声を挙げていた。しかし,この簒奪者は宮殿守備隊の激しい抵抗に遭った。大城壁を突破できても,ユスティニアノス2世時代に要塞化された大宮殿を制圧できなければ,帝位を手中にすることは出来ないのである。
 コンスタンティノスは馬を走らせ軍団を叱咤して回っていたが,彼は首都の地面が戦い慣れたアナトリアの平原とは違うことを忘れていた。馬が玉石に足を滑らせたため彼は地面に振り落とされてしまい,意識を失って倒れたコンスタンティノスはたちまち首を切り落とされ,指導者を失った反乱はたちまち鎮圧された。

ブルガリア王シメオンの脅威

 幼いコンスタンティノスの帝位は,首都の滑りやすい地面のおかげで辛くも維持されたが,これによってニコラオス1世は強力な同盟者を失うことになった。しかも,ブルガリア王シメオンはこうした混乱の機を逃さず,アレクサンドロスが行った貢納停止を理由に,ビザンツ帝国に攻勢を掛けてきた。
 先代レオーン6世の時代から名前が出てくるこのシメオン1世は,ビザンツ帝国と敵対してきた過去の歴代ブルガリア王と異なり,蛮族の王というべき人物では全くない。シメオンはキリスト教を受け容れたボリス王の三男で,父の命によってコンスタンティノポリスへ送られて修道士となるべく教育を受けていた。将来ブルガリア教会の指導者とするためであったが,その過程でギリシア語を学びビザンツ帝国の儀礼や見世物を直接体験した人物であり,当然キリスト教徒でもあった。
 その後,父に代わって王位に就いた長兄のウラディミルが,貴族層の突き上げでキリスト教排撃・異教復活を唱えてビザンツと断交すると,修道院に隠棲していたボリスが再び首都に現れ,ウラディミルを罰してその目を潰し,893年にシメオンを呼び戻してブルガリアの王位に就けたのである。このような経緯でブルガリア王となったシメオンは,異教勢力の強い首都のプリスカを放棄して,コンスタンティノポリスを模倣した新しい首都プレスラフを建設させていた。つまり,宗教及び文化面ではビザンツに同化されたブルガリア王であった。
 もっとも,シメオンが父ボリス王と異なり反ビザンツ路線を採ったのは,貿易関係のこじれが直接の原因ではあるが,コンスタンティノポリスにいた頃の彼はビザンツ文化に深く傾倒し「エミアルゴス」(半ギリシア人)と呼ばれており,その呼び方に何となくブルガリア人への蔑視を感じた彼は,ビザンツ人に報復し劣等感を克服したいとの思いが強かったようである。
 当時のビザンツ帝国が内政面で混乱していたこともあり,シメオン1世率いるブルガリア軍は,ほとんど抵抗を受けることなく首都の城壁にまで迫った。もはや講和しか道はないと考えた総主教ニコラオス1世はシメオンとの交渉にあたったが,シメオンからの要求はビザンツ帝国にとっては思いもよらないものであった。シメオンは領土や財宝ではなく,コンスタンティノス7世とシメオンの娘を婚約させること,シメオン自身を総主教の手で皇帝として戴冠させることであった。ビザンツ人にとっては極めて屈辱的な内容であったが,ニコラウス1世にはこれを受け容れる以外の選択肢は無かった。
 こうして913年,シメオン1世は「ローマ人とブルガリア人のバシレウス」として,コンスタンティノポリスの城壁外で総主教の戴冠を受けたのである。シメオン1世はブルガリア国内でも,代々受け継がれてきた「ハーン」という称号を捨て,「カエサル」から派生したスラヴ語である「ツァー」と名乗るようになり,印章でもバシレウスの用語を用いた。
 一方,シメオンの要求をすべて受け容れてしまったニコラオス1世は,その数か月後,幼いコンスタンティノス7世が母を恋しがっていることから,ゾエに宮殿へ戻ることを許した。このままではシメオンに帝国を乗っ取られてしまうとの危機感を持った一派はゾエをその頭領として担ぎ出し,瞬く間のうちに総主教ニコラオス1世を追放し,ゾエが摂政会議の長になるという本来の形式に戻した。
 摂政となったゾエが最初に行ったのはシメオンとの合意事項の全面破棄であり,ニコラオス1世が行った皇帝戴冠についても,戴冠は無効であったという噂がゾエの一派によって流布された。その噂によると,シメオンが戴冠を受けるためうやうやしく跪いている間に,総主教は帝冠を脇に置いて自分の聖職冠をシメオンの頭に乗せており,シメオンはそのすり替えに気付かなかったというのである。
 コンスタンティノポリスの雰囲気は今や強硬論一色となり,ゾエはシメオンの要求にきっぱりと決着をつけるべく軍事的対決を決意した。こうして917年の夏,ビザンツ軍とブルガリア軍は黒海沿岸のアンキアロス付近で戦ったが,結果はビザンツ軍の壊滅的な大敗北であった。その原因は,同盟軍のペチェネグ人部隊を前線に輸送する船団の船長たちがいさかいを起こし,結局ペチェネグ人部隊が戦場に到着できなかったこと,また司令官を殺されたとの誤報を聞いただけでビザンツ軍が大混乱に陥り,散り散りになって敗走してしまったことであった。どうやらシメオンはビザンツの宗教や文化だけでなく,ビザンツ人の得意とする権謀術数をも学んでいたようである。
 一方,この大勝で更に自信を深めたシメオンは,ほぼコリントス湾に至るバルカン半島の全域を支配下に収め,もはや誰にも憚ることなく,今後自分はローマ人とブルガリア人の皇帝である,ブルガリア大主教は(コンスタンティノポリス総主教と同格の)総主教であると宣言した。
 なお,全盛期においてもバルカンの一地方王国に過ぎないブルガリア王国がしばしば「ブルガリア帝国」と表記され,ブルガリア王が「ブルガリア皇帝」と表記されるのは,シメオンが短期間ながらビザンツ帝国に,ブルガリア王がビザンツ皇帝と対等の地位にあることを認めさせたことに由来する。もっとも,筆者はそのような形式論ではなく,ヨーロッパの君主を王と呼ぶか皇帝と呼ぶかは,実質的に中国の皇帝と同等と見做せるほどの勢力と権威を備えていたか否かで判断すべきとの見解を採っているので,ブルガリア王を皇帝と呼ぶことはしない。

(2)ロマノス1世レカペノスの即位と治世

 アンキアロスの大敗でゾエの権威が失墜すると,919年3月には帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスが宮殿を占領し,ゾエを修道院に隠棲させて政治の実権を握った。もっとも,ロマノスは単なる摂政の立場では満足せず,コンスタンティノス7世を自身の娘ヘレネと結婚させて,皇帝の義父及び共同皇帝となった。
 さらに920年には,ロマノスが正帝ロマノス1世レカペノスとして戴冠し,ロマノスの長男クリストフォロスが序列第2位の共同皇帝となり,これまでの正帝だったコンスタンティノス7世は,序列第3位の共同皇帝に格下げされてしまった。もっとも,ビザンツ帝国の長い歴史上,帝位を奪われた挙句無残に殺されたり,二度と帝位に就けないよう目潰しなどの身体刑を施され修道院に追放されたりした皇帝も少なくないことを考えれば,共同皇帝の地位に留まれたコンスタンティノス7世の処遇はまだ良かった方であるとも言える。
 このようにして帝位に就いたロマノスであるが,彼はドゥーカス家のような軍事貴族の出身ではなく,アルメニア農民の息子という成り上がり者であった。しかし,歴代帝位簒奪者の中ではかなり賢明な人物であったロマノスは,成り上がり者である自分が性急にマケドニア王朝の正統皇帝を殺してビザンツ皇帝を名乗ることは,臣民たちの反感を買い危険であることを自覚していた。
 ロマノスは,少年皇帝コンスタンティノス7世を保護する共同統治者としての体裁を保ちつつ,自らが皇帝に相応しい実績を示し続けることで,マケドニア王朝ではなくレカペノス家こそが正統な皇帝の家系であると,時間をかけて臣民に納得させようとする道を選んだのである。以後,ロマノス1世による統治は24年間にわたって続き,もともと父以上の学究肌だったコンスタンティノスは,もっぱら読書や学術研究に没頭するようになった。
 ロマノス1世は,帝位をレカペノス家の世襲にするという自らの野望を達成すべく,巧みな婚姻策によって貴族との結びつきを強化するとともに,教会との関係も深め,その経緯から933年にはロマノス1世の末子・テオフュラクトスが総主教となっている。
 なお,ロマノス1世は西欧勢力との外交関係構築にも努めた。彼はイタリア王ウーゴ(在位926~947年)からの使節を迎えるにあたり,自らの孫の妃としてウーゴ王の娘を迎えたいと申し出た。使節が「残念ですが,ウーゴ王と王妃様の間に娘はおりません」と返答すると,ロマノス1世は「それなら妾の子でもよい」と返し,これを聞いた使節は呆気にとられたという。
 このようなロマノス1世の対応は,皇后の身分や家柄を問わないビザンツ人としてはごく自然なものであったが,血統を何よりも重視する西欧人からは理解し難いものに映ったのであろう。ロマノス1世の孫(コンスタンティノス7世とヘレネの子)であるロマノス2世には,ウーゴが妾に産ませたベルタ(結婚にあたりエウドキアと改名)が最初の妃として嫁いでおり,このエピソードは概ね事実であると考えて良さそうである。
 喫緊の課題であったブルガリアのシメオン1世との対決については,ロマノス1世はシメオンが企図したチュニジアのファーティマ朝との共闘を阻止するとともに,ブルガリアの背後の敵であるセルビア人とクロアチア人に金を贈って共闘し,924年にシメオン1世との講和を成立させた。
 ロマノスは,孫娘(長男クリストフォロスの娘マリア)をシメオン1世の息子ペタルと婚約させ,ビザンツ皇帝の称号たる「ローマ人のバシレウス」よりは劣る地位だと念を押した上で,シメオン1世を「ブルガリア人のバシレウス」として公認した。その後,927年にシメオン1世が心臓発作で急死し,父と異なり凡庸な人物であるペタルがブルガリアの王位に就いたことで,ブルガリア問題は一応の解決を見た。
 ペタルが王位に就いた後も,ビザンツ帝国はブルガリアとの友好関係を重視し,ブルガリア王を進んで「ツァー」と呼び,ブルガリアを数あるビザンツの同盟国の中でも特別の地位を占めるものとして礼遇した上,おとなしくしてもらうために毎年黄金を贈った。一方,ブルガリアもシメオン王の野望による長い戦争で疲弊し,豪奢な新首都プレスラフの建設にも相当な費用と労力がかかり,人口が激減し財政も破綻していたので,もはやビザンツ帝国に反旗を翻す力は無かった。両国はその後約40年にわたり平和な関係が続いたのである。
 ロマノス1世の治世下では,東方でも名将ヨハネス・クルクアス率いるビザンツ軍がイスラム勢力に攻勢を掛け,934年には長らく小アジアにおけるイスラム勢力の拠点となってきたメリテネを降伏させたほか,国境を越えてシリアを攻撃し,943年にはイスラム勢力の奥深くへ攻め入ってエデッサを包囲した。
 クルクアスは,和平の条件として住民から貴重な聖顔布を受け取り,944年8月に首都へ凱旋入城した。ビザンツ人はメリテネの奪還以上に聖顔布の獲得を喜び,この貴重な聖遺物はファロスの聖マリア礼拝堂に納められた。なお,聖顔布とは,キリストが自ら顔を当てて写した布であり,ビザンツ人の論理によれば,この聖顔布はキリスト自らが聖像をお造りになった証拠であり,自分たちのイコン崇拝を正当化する強力な理論的根拠であった。
 なお,このとき彼が率いたビザンツ軍はテマ軍団ではなく東方担当の常設軍であり,ロマノス1世の権力掌握を支援したヨハネスはその褒賞として,新設された「スコライ軍団司令長官」という東方担当常備軍を指揮する役職に任命され,東方戦線で大活躍したのである。テマ制自体はまだ存続していたが,ビザンツ帝国の経済力は,首都のみならず東方の国境にも精鋭の常設軍を置けるほどに回復していたのである。
 コンスタンティノス5世によって新設されて以来,徐々に規模を拡大していった常設軍には,ロシア人,アラブ人といった外国人も数多く加わっており,イスラム勢力がトルコ人を軍人として活用していたのと同様,ビザンツ人も金の力で好戦的な民族を活用する術を身に付けていた。
 941年には,キエフのイーゴリ公率いるロシア艦隊が南下し攻撃を掛けてきた。このとき首都の軍団や艦隊は出払っており,ビザンツ軍の防衛力として残っているのは腐りかけた廃船15隻のみという状況であったが,ビザンツ側は急いでこの廃船を修理して戦艦に仕立て,「ギリシアの火」で船を焼き払い,上陸していたロシア軍は戻ってきたビザンツ軍に蹴散らされた。この戦いでは,バルダス・フォカスという軍事貴族が,騎兵隊を率いロシア人を皆殺しにして名声を高めている。その後,ロシアとの和睦は944年に成立し,ロシアはこれまで享受してきた関税免除の特権を手放すことになった。

(3)コンスタンティノス7世の復位

 ロマノス1世は確かに有能な皇帝であったが,彼の目指したレカペノス家による帝位の世襲化は,931年にクリストフォロスが早世したことで挫折した。ロマノス1世には,他にも次男ステファノス,三男コンスタンティノスという実子がいたが,ロマノスはこの2人を無能とみなしていたので,帝位継承者候補から除外した。
 そして,共同皇帝として残していたコンスタンティノス7世に対する民衆の信望も衰えていなかったので,ロマノスは帝位をレカペノス家の世襲にするという野望を断念し,944年には帝位をコンスタンティノス7世に返還する意向を表明したのである。
 しかし,この継承にロマノスの息子2人は不満を抱き,クーデターを起こして父を追放し修道士にしてしまった。次いで彼らはコンスタンティノス7世をも廃位しようとするが,首都の民衆から強く支持され,密かに軍隊も味方に付けていたコンスタンティノス7世は,逆にステファノスとコンスタンティノスを逮捕して追放することに成功し,単独皇帝に復帰した。
 修道士となったロマノス1世は948年に死去し,彼の追悼文を読み上げたコンスタンティノス7世は外政面における彼の功績を認めつつも,「宮殿で育った一族ではなく,平凡で,無学な男であった」と評している。以後レカペノス家の名は歴史に登場しなくなるが,ロマノス1世の娘ヘレネが生んだ男子は後に皇帝ロマノス2世として即位しており,ロマノス1世レカペノスの血統はヘレネを通じてマケドニア王朝に継承されることになった。また,ロマノス1世の庶子で宦官にされたバシレイオス・ノソス(レカペノス)は,ロマノス2世の時代から宮廷で頭角を現し,バシレイオス2世によって追放されるまで,事実上の宰相として行政を司り権勢を誇っている。
 一方,40代になってようやく正帝の地位を回復したコンスタンティノス7世は,自らの復位に貢献した臣下を優遇することは忘れなかったものの,その後における実際の政治は概ね臣下に任せ,自らは引き続き学問研究に没頭する生活を送った。ただし,彼は自らの苦難に満ちた経験から,「緋産室の生まれ」をギリシアの火や皇帝の徽章に比すべき高貴なものと位置づけ,「緋産室の生まれ」たるビザンツ皇女を外国の王室に嫁がせることを禁止する法を定めている。
 なお,コンスタンティノス7世は「緋産室の生まれ」としての高貴さを熱心に説いているが,彼の主張する「高貴さ」の概念はかなり特異である。彼は,レオーン3世がハザール人の娘を息子(コンスタンティノス5世)の妃に迎えたことを「ローマ人の帝国に多大な恥辱をもたらした」と非難し,義父のロマノス1世についても孫娘のマリア・レカペナをブルガリア王ペタルと結婚させたかどで非難する一方,自らの息子ロマノス2世に嫁いだ前述のベルタについては,西欧の常識では到底高貴とは言えない妾の子であるにもかかわらず,彼女を偉大なるカール大帝の末裔であるとしてその「卓越した血筋」を強調している。
 彼の説く奇妙な「高貴さ」の概念はその後のビザンツ人にも継承されず,彼の孫バシレイオス2世は早くも「緋産室の生まれ」たる妹のアンナをキエフ公ウラジーミルに嫁がせており,その後の歴代ビザンツ皇帝も諸外国の王侯と政略結婚を繰り返している。

コンスタンティノポリスの文化と属州文化

 学問を好むコンスタンティノス7世の治世下では,学者が宮廷に集められて古代ギリシア文化の研究が進み,百科事典的な書物『抜粋』や農業書などが編纂された。この百科事典を編纂した理由について,コンスタンティノスは自ら次のように記述している。
「歴史を究明すると混乱してはっきりしない気分になってしまう。それは,役に立つ文献が乏しいか,あるいは書き残された史料の量に怖気づいて絶望するか,いずれかのせいである。それゆえ,かつて統治したすべての皇帝のなかで,もっとも正統かつもっとも敬虔なキリスト教皇帝,「緋産室の生まれ」のコンスタンティノスは,(中略)まず新たに調査を行って,世界の四方の果てから,あらゆる種類の多様な知識に満ちた書物を集めることが,最善の策であると考えた。」
 筆者も本稿を執筆するにあたり,時に矛盾を抱えた数々の文献や情報をどのように整理するか頭を抱えることが少なからずあったので,このような考え方には思わず納得してしまうが,このような発想に基づいて編纂されたのが,「歴史の大いなる教訓をすべて収めた」53巻の膨大な百科事典である。
 現存するのはこのうち3巻だけであるが,これは軍事的な戦略,狩猟,婚礼といった主題ごとに分類されていた。こうした事業は単なる皇帝の学究的趣味に基づくものではなく,世界各地の情報を集め帝国の外交戦略に活かすという意義があった。
 コンスタンティノスは建築・音楽・芸術といった分野にも興味を持ち,教育にも力を入れた。コンスタンティノス自身も『バシレイオス1世伝』『テマについて』,および息子ロマノス2世のために書いた『帝国統治論』『儀式の書』などの著作を残しているが,このうち『帝国統治論』と『テマについて』は,どちらも様々な土地,山脈,河川,そこに居住する人々の特徴といった大量の地理的情報が記されており,コンスタンティノス7世やその庇護を受けた学者たちが行っていた学術研究は,決して浮世離れしたものではなく,現実の政治に活かすことを主眼としていたことが分かる。
 こうして,帝国は後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンツ文化の黄金時代を迎えた。外交面でも,イベリア半島の後ウマイヤ朝,ドイツの神聖ローマ帝国,ロシアのキエフ公国などと外交団を交換して,これらの国と友好の維持に努めた。
 一方,帝国の東方では,有力な軍事貴族が貧民の土地を買収するなどしてますます勢力を広げ,軍事貴族の活躍をモチーフにした民謡が流行し,それらの結実として『ディゲニス・アクリタス』という叙事詩が成立している。この叙事詩は,イスラムの地方君主とキリスト教徒たるビザンツ将軍の娘との間に生まれた主人公ディゲニスが,素手で獅子をふたつに引き裂くという超人的な力と,皇帝に対する忠誠心,深い信仰心,友に対する変わらぬ誠実さを併せ持っており,彼はあらゆる不信仰の徒(イスラム教徒)を打ち破った後,ユーフラテス川のほとりに建てられた豪華な宮殿で余生を過ごすといった内容のものである。
 この『ディゲニス・アクリタス』は,同時期に首都で書かれた古典ギリシア語風の作品と異なり,日常使われる素朴なギリシア語で書かれており,内容も戦争を忌避する首都の作品と異なり好戦的である。この時期のビザンツ帝国では,首都と東方属州でかなり性質の異なる文化が発展していたことになる。
 コンスタンティノス7世の復位に伴い,ロマノス1世派と目された前述のヨハネス・クルクアスはスコライ軍団司令長官の任を解かれ,復位に協力したバルダス・フォカスが取って代わったほか,東方属州のテマ長官がフォカス家一族で占められるなど,軍事貴族の台頭はますます目立つようになっていた。バルダス・フォカスは954年にゲルマニケイア付近でイスラム軍に敗北し名声を落としたが,その息子ニケフォロス・フォカス(後の皇帝ニケフォロス2世)とその弟レオーン,ニケフォロスの甥ヨハネス・ツィミスケス(後の皇帝ヨハネス1世)などの活躍により,東方では引き続き軍事的優位に立っていた。
 コンスタンティノス7世も,こうした軍事貴族の台頭にある程度の警戒感を持っており,テマ長官の権限を軍事に関する事項に限定したほか,大土地所有貴族の勢力拡大を防ぐ法を発布した形跡もあるが,彼自身の復位に軍事貴族が貢献したこともあり,あまり有効な施策を講ずることは出来なかった。彼の死後はこうした軍事貴族の出身者が次々と帝位に就き,ビザンツ帝国自体の性格を大きく変えることになる。
 コンスタンティノス7世は,959年11月9日に病死した。首都では多くの市民がその死を悼んだといわれている。
 彼の治世は,おかしな表現ではあるが,ロマノス1世レカペノスという有能で賢明な簒奪者に恵まれたことで,危難を乗り越え帝国を繁栄に導くことが出来たと評することができる。復位後のコンスタンティノス7世は,義父のロマノス1世を散々にこきおろしているが,政策的には彼の路線をほぼ継承し,叔父のアレクサンドロスのように私怨で帝国の統治を歪めるような愚行を犯すことなく,ほぼ平穏に治世を全うした。そうした意味では,コンスタンティノス7世も賢明な皇帝であったといえる。

<幕間15>ビザンツ帝国の帝位継承

 「緋産室の生まれ」(ポルフュロゲネトス)概念の成立により,ビザンツ帝国の帝位継承に関するルールは概ね確立した。「緋産室の生まれ」という用語が初めて使われたのは,750年に生まれたレオーン4世に対するものであり,これは大宮殿の緋産室が彼の父,聖像破壊皇帝コンスタンティノス5世の命によって建設されたことに由来する。ボスフォラス海峡を見渡すこの部屋の壁は,古代ローマ時代以来皇帝の色とされていた濃い緋紫色に白い水晶の斑点がある,エジプトの奥地のみで採れるポルフェラ(緋紫)と呼ばれる大理石の化粧張りで造られており,この部屋は皇后が出産するための特別の場所とされた。以後,皇帝と皇后の間に生まれた子は,皆「緋産室の生まれ」と呼ばれることになる。
 「ビザンツ帝国」の開祖たるコンスタンティヌス大帝は,皇帝の地位を神に由来するものとして血縁による帝位継承を確かなものにしようと試みたが,帝位継承を円滑なものにするにはそれだけでは不十分であったため,これを補強するために「緋産室の生まれ」という概念が強調されるようになったのである。
 ビザンツ帝国における帝位継承ルールの概要をまとめると,以下のようになる。


① 皇帝に「緋産室の生まれ」たる男子がいる場合は,その男子が帝位継承者となる。
 ただし,該当する男子が複数いる場合の優先権に関する明確な定めはなく,長男が帝位継承者となるのが一般的ではあったが,コムネノス王朝時代のマヌエル1世など,そうでない場合もあった。そのため,末期のパレオロゴス王朝時代になると帝位をめぐって兄弟同士が争うことになり,帝国衰亡の一因となった。


② ①に該当する男子がいない場合において,皇帝に「緋産室の生まれ」たる女子がいる場合は,その女子と結婚した者が帝位継承者となる。
 君主の地位を血統により相続させる国家において,娘婿に継承権を認めるか否かは国において大きく異なり,認めない例は中国諸王朝,イスラム諸王朝,フランス,日本などが挙げられる。逆に認める国はビザンツ帝国とイギリスであり,スペインやオーストリアは当初認めていなかったものの,男子相続人が断絶すると容認に転じた。
 ローマ帝国で娘婿が帝位継承者となった例は5世紀のマルキアヌス帝をはじめ数多く,女系の帝位継承は当然のように容認された。ただし,この制度は皇帝の娘婿に帝位要求権を与えることに繋がるため,「緋産室の生まれ」たる皇女の嫁ぎ先は慎重に選ばれる必要があり,結局独身のまま婚期を失する皇女も少なくなかった。
 コンスタンティノス7世は,ビザンツ皇帝の地位が外国人に渡ることを防止するため,「緋産室の生まれ」たる女性を外国人の君主やその男子に嫁がせることを禁止する法を定め,自分の孫娘をブルガリア王ペタルに嫁がせた義父のロマノス1世を,この法に反する不適切な結婚をさせたとして非難した。
 もっとも,この法は彼の孫バシレイオス2世が妹アンナをキエフ公ウラジーミルに嫁がせたことで早くも破られ,その後も皇女が外国の君主やその子に嫁ぐ例は後を絶たなかったが,女系相続により王位が何度か外国人の手に渡ったイギリスと異なり,ビザンツ帝国ではその滅亡に至るまで,帝位が女系相続を通じて外国の王に渡る事態は辛くも回避された。

③ 「緋産室の生まれ」たる男子も女子もいない場合,前皇帝の皇后であった女性の再婚相手となった者は,帝位の正統な継承者として皇帝に即位することができる。
 このルールは,アナスタシウス帝が前帝ゼノンの皇后だったアリアドネと結婚して即位したのを先例とし,ビザンツ帝国ではしばしば適用されることになる。このルールに基づいて帝位に就いた者も歴史上王朝の正統な後継者として扱われているが,比較法的にこのような帝位継承ルールはかなり特異なものであり,筆者はビザンツ帝国以外でこのようなルールを持った国を知らない。
 皇帝の地位は神の意志に基づくとされたビザンツ帝国では,神の意志によって皇帝と結びつけられた皇后にも神意が宿り,前皇后と再婚した男性にも神意は継承され得ると考えられたのである。なお,このルールは前皇帝が反乱やクーデターで廃位された場合にも適用され,結果としてビザンツ帝国の帝位継承に実力主義的な要素を持ち込むことになった。

④ 「緋産室の生まれ」たる皇帝が幼少であり帝国防衛の任を果たせない場合には,有力な軍人が皇女や前皇后の婿となることによって,帝位に就くことができる。ただし,この方法によって即位した皇帝が死亡または退位した場合には,帝位は「緋産室の生まれ」たる皇帝に返還されるべきである。
 このルールもかなり特異である。四方を敵国ないし仮想敵国に囲まれていたビザンツ帝国では,幼帝を頂き帝国が防衛の任務を果たせない事態を許容する余地はなく,正統な帝位継承者が幼少である場合,幼帝の母親が摂政会議の議長となるのが慣例とされていたものの,多くの場合有力な軍人が幼帝の補佐を名目として自ら帝位に就き,そのような皇帝も歴史上正統な王朝の後継者に数えられた。
 このルールの適用例としては,ロマノス1世レカペノスのほか,後述するニケフォロス2世,ヨハネス1世,ロマノス4世,ヨハネス6世カンタクゼノスが挙げられる。「緋産室の生まれ」概念が最も有効に機能したのはこのルールに基づく皇帝が即位した場合であり,いずれのケースでも幼少故に帝位を譲ることになった者(コンスタンティノス7世,バシレイオス2世,ヨハネス5世)は,成人後に「緋産室の生まれ」の正統性を主張することにより帝位を奪還することが出来た。
 逆に,このルールを破って幼帝ヨハネス4世の目を潰し帝位を返還しなかったミカエル8世は,結果的に自らの王朝を築くことには成功したものの,帝位簒奪者として強く非難されることになった。

⑤ 皇帝が反乱者を前に首都コンスタンティノポリスを捨てて逃亡した場合は,その皇帝は退位したものとみなされる。
 これもビザンツ帝国独特のルールであり適用例も多く,有能な皇帝であったマウリキウス帝もこのルールに基づき,首都を捨てて逃亡した時点で退位したものと見做され処刑されてしまったし,コンスタンティノス5世も即位当初の反乱で首都から一時避難したところ,このルールに基づき「一時帝位を追われた」ことになってしまったのである。
 帝位は神の意志に基づくものであるが,聖母マリアによって護られた聖なる都であるコンスタンティノポリスを捨てた皇帝は,その時点で神意を失ったものと見做された。廷臣や兵士たちはこのルールに基づき,クーデターによって前皇帝を追い落として即位した新皇帝に概ねためらうことなく仕え,これによって皇帝が度々入れ替わる不安定な時代でも,帝国の行政は継続性を維持できたのである。
 「神意」概念と「緋産室の生まれ」概念により,結果的に血統主義と実力主義を融和させることになったビザンツ帝国独自の帝位継承概念は,おそらくコンスタンティヌス1世の企図とは大きく異なるものであろうが,結果として帝国の活力を維持し千年を超える長命国家ならしめることに大きく貢献したとみることが出来る。

→『ビザンツ人の物語』総目次へ戻る