第13話 軍人皇帝たちの時代

第13話 軍人皇帝たちの時代

(1)ロマノス2世の急死とニケフォロス2世の即位

 コンスタンティノス7世の死後,息子のロマノス2世(在位959~963年)が即位した。ロマノス2世は939年生まれであり,帝位を継ぐにあたり年齢面で不足はなく美男でもあったが,政治にも軍事にも関心が無く,宴会が大好きで狩りとポロに明け暮れていたため,自ら国事を司ることはなく,すべて臣下に任せきりであったという。彼は963年,狩猟中の事故で負傷し,在位わずか4年,24歳の若さで急死する。復活祭の最中だというのに道もない山奥へ出かけ,落馬して命を落としたと伝えられている。
 ロマノス2世は,前述のとおりイタリア王ウーゴの娘ベルタ(エウドキア)を妻に迎えていたが,彼女は早くに亡くなったため,テオファノが2番目の妻に迎えられた。テオファノは酒場の娘または葡萄酒商人の娘(ビザンツ人の記録には「酒を売っている親から生まれた」としか書かれていないため,解釈が分かれている)とされており,皇妃選定コンテストで選ばれた可能性もある。

ニケフォロス2世即位の経緯

 ロマノス2世はテオファノとの間にバシレイオス,コンスタンティノスという2人の皇子,アンナという1人の皇女を残していた。ロマノス2世の死去当時,年長の皇子バシレイオスもまだ5歳であったため,慣例に従えばバシレイオスが次の皇帝に即位し,国事はテオファノを長とする摂政会議に委ねられることになる。
しかし,ロマノス2世が死去して間もなく,首席大臣として帝国の行政権を掌握していた宦官ヨセフ・ブリンガスと,スコライ軍団の司令長官として軍事の実権を握っていた将軍ニケフォロス・フォカスとの間で,政治の主導権をめぐる争いが起きた。
 なお,ニケフォロス率いるフォカス家は,ドゥーカス家やクルクアス家と並ぶ小アジアの裕福な家門で,何世紀にもわたって国境地域でイスラム軍と戦ってきた,ビザンツ帝国における古い軍事貴族の家柄である。ニケフォロスの父バルダス・フォカスは,コンスタンティノス7世の復位を支援した功績によりスコライ軍団司令長官に任じられ,東方各テマの長官職もフォカス家の一族で占めるようになり,東方におけるビザンツ軍を事実上統括する,極めて有力な軍事家門となっていた。
 フォカス家の一族で当時勇名を馳せていたのはニケフォロスとその弟レオーンで,二人ともイスラム勢力との戦いで戦果を挙げたほか,ロマノス2世治世下の960年には,ニケフォロスは軍船に上陸用甲板を備え付けさせ,海岸に近づくとそれを降ろして,歩兵も騎兵も完全装備で上陸させるという画期的な方法により,ビザンツ軍がこれまで何度も失敗してきたクレタ島への上陸作戦を成功させ,961年にクレタ島全土をイスラム勢力から奪還するという画期的な軍事的成功を収めている(逆に言うと,これまでのクレタ島奪回作戦は,兵士たちが普通に船から降りようとするところをイスラム軍に狙われ,失敗に終わっていたのである)。
 ブリンガスはニケフォロスを排除しようとするが,首都の住民はクレタ島をイスラム勢力から奪回し東地中海の制海権を取り戻すという輝かしい功績を立てていたニケフォロスを支持し,宮廷でブリンガスと張り合っていた宦官バシレイオス・ノソス(前述したロマノス1世の庶子)も,一族郎党三千人を武装させてニケフォロスに味方し,ブリンガスやその支持者たちの屋敷を襲った。摂政のテオファノも,ブリンガスをひどく嫌っていたこともあり,勝ち馬に乗るべくニケフォロスに味方した。首都の市街戦を制したニケフォロスは市民の歓呼を受けて首都に入城し,ブリンガスは追放された。
 ニケフォロスは,絶世の美女と伝えられるテオファノを自身の妻に迎え,幼いバシレイオスとコンスタンティノスを共同皇帝とし,自ら幼帝たちの義父という立場で帝位に就いた。皇帝ニケフォロス2世(在位963~969年)の登場である。

(2)『サラセン人の蒼ざめた死』ニケフォロス2世の治世

 ニケフォロスは皇帝に即位すると,強力な重装騎兵軍団を編成してイスラム勢力を相手に戦い,アレッポ,タルソスを占領し,長らくイスラムとの共同統治となっていたキプロス島もビザンツ帝国の単独統治下に置いたほか,ヘラクレイオス1世の時代から約300年にわたり帝国の支配下から離れていた五大総主教座の一つである,アンティオキアの奪還にも成功した。アンティオキア奪還の報に首都の住民たちは狂喜し,凱旋するニケフォロスを喝采して次のように謳ったという。

「おお,明けの明星が昇りはじめた。朝の星が昇る。彼の瞳に太陽の光が輝く。その前では,サラセン人も恐怖に蒼ざめて死ぬ。」

 サラセン人とは,ビザンツ人を含む中世のヨーロッパ人が使用していたイスラム教徒(ムスリム)を指す言葉であり,この歌にちなむ「サラセン人の蒼ざめた死」は,イスラム勢力を相手に輝かしい軍功を残した皇帝ニケフォロス2世のあだ名となった。
 ニケフォロス2世は,精鋭の重装騎兵軍団を組織して東方のイスラム勢力と戦った。当時のイスラム勢力でビザンツ帝国と直接戦ったのは,主に当初モスル,後にアレッポを拠点とした独立地方勢力であるハムダーン朝であり,この王朝はそれなりに豊かで戦闘的でもあったが,皇帝となる前のニケフォロスに首都アレッポを略奪される有様で,帝権を手中にしたニケフォロス2世の敵ではなく,ハムダーン朝はビザンツ帝国の宗主権下に入ることを余儀なくされた。
 相次ぐ軍事的成功によって,皇帝ニケフォロス2世の軍隊における地位は不動のものとなり,彼は小アジアの住民たちからも尊敬されていたが,首都におけるニケフォロス2世に対する支持は次第に衰え,特に965年のシチリア遠征に失敗してからは,市民たちに嫌われるようになる。原因はニケフォロスのあからさまな軍事偏重政策であり,戦争に参加する兵士には手厚い保護を与え,特に主力となる重装騎兵団の兵士については最低土地保有額を4ポンド相当額から12ポンド相当額に引き上げた。当時における12ポンド相当額の土地の持ち主は,もはや単なる農民ではなく貴族と言ってよい存在である。
 また,ニケフォロス2世が皇帝即位のため首都へ入城した際,多くの兵士がこの機会を利用して,貧富を問わず市民の家を片端から略奪したが,ニケフォロスはそれを止めようとも罰しようともせず,「これほど多くの集団のなかで少数の者が不正を行ったとしても,たいして驚くべきではない」と事もなげに語ったという。
 即位後も,戦費調達のため市民や貴族,軍人たちに重税を課したほか,貨幣の改悪といった安易な金策に走った。具体的には,従来から使われていたノミスマ金貨に加えて,新たな軽量金貨テタルテロンを導入し,納税など国庫への支払いは従来通りノミスマ金貨で行わせる一方,自分の支出はテタルテロン金貨で行い,取引のたびに差益をくすねたのである。
 このようなニケフォロスの政策によって,当然ながらインフレが起こった。ある時,ニケフォロスは兵士として登録してもらいたいという白髪交じりの老人と会見した。皇帝はその老人に対し,兵役に就くには歳をとり過ぎているのではないかと尋ねたが,老人は「いえいえ,若い時よりも今の方が逞しいくらいです」と答え,それに続けて,「昔は1ノミスマの穀物を運ぶのに驢馬が必要でしたが,今では2ノミスマの穀物を肩に担いで運べます」と言ってみせた。この老人は,皇帝のインフレ政策による物価騰貴を巧みに当てこすったのだが,ニケフォロスはこの種の冗談がわかる,どこか親しみやすいところのある人物でもあった。
 市民の反感は,このような冗談だけでは済まなかった。ある時ニケフォロスが街に出て通りを馬で進むと,群衆から野次られ,泥と石を投げつけられた。ある母と娘は,自宅の屋根に登り,皇帝めがけて石を投げ落とした。ニケフォロスはまっすぐ前を見たまま,気にする風も無く馬を進め,夜が訪れる頃には混乱は収まっていたが,翌日この母と娘は逮捕され,市外に連れ出されて即座に火あぶりとなった。ニケフォロスも内心不安を感じていたのか,大宮殿の周囲に強固な城壁を建てるよう命令している。
 無骨な軍人であるニケフォロス2世は,他国からの使節に対する外交的配慮の必要性も理解しておらず,ブルガリア人やドイツ人の使節も公然と侮辱した。皇帝の尻拭いをさせられる宮廷人たちも,ニケフォロスに嫌気がさすようになっていた。
 当時,西欧ではドイツ及びイタリア王オットー1世は,962年にローマ教皇から帝冠を授けられ「ローマ人の皇帝」を自称していた。カール大帝死後のフランク王国は,その息子ルートヴィヒ1世の時代に分割され,ルートヴィヒ1世の長男ロタールの継承した中部フランク王国,三男ルートヴィヒに継承された東フランク王国,四男シャルルの継承した西フランク王国に分かれた(843年のヴェルダン条約)。その後,中部フランク王国は870年のメルセン条約で更に分割され,シャルル2世の統治する西フランク王国,ルートヴィヒ2世の統治する東フランク王国,ロドヴィコ2世の統治するイタリア王国に分かれた。このうち西フランク王国がフランスの原型となり,東フランク王国がドイツの原型となったわけであるが,東フランク王国ではカール大帝の王朝(カロリング朝)が断絶した後,ザクセン朝のオットー1世が東フランク王国とイタリア王国の領土を抑え,再び強大な王国を築いていたのである。そして,オットー1世はカール大帝と異なり,ビザンツ帝国に対し帝位の承認を求めることもなく,勝手に自分の国を「ローマ帝国」と称し,自ら「ローマ人の皇帝」を名乗ったのである。対するビザンツ側も無骨なニケフォロス2世が帝位に就いていたので,両国の関係は一気に悪化することになった。
 オットー1世は,自分のみが正統な「ローマ人の皇帝」であるという認識を前提に,外交文書の中でビザンツ皇帝を「ギリシア人の皇帝」と呼んだ。ニケフォロスはこの無礼に激昂し,オットーを皇帝ではなく単に王と呼んだだけでなく,オットー1世の使節に対し,お前の主君の軍隊は,胃袋を満たすことで忙しく,戦闘の仕方を学んでいないとまで言い放った。オットー1世の使節としてコンスタンティノポリスに派遣されたクレモナの司教リウトプランドは,コンスタンティノス7世の時代にもビザンツへの使節として訪問し大歓迎を受けたことがあったが,2度目となる今回の訪問では一転して散々な扱いを受けた。
 リウトプランドは,冷たい隙間風の入る館に宿泊させられて厳しく監視され,皇帝の弟と会見するために呼び出されたときも馬に乗ることを許されず,ときには水を買いに行くことすら許可されなかった。訪問の目的は,オットー1世の息子とビザンツ皇女マリアとの結婚同盟をまとめることであったが,この申し出は「緋産室の生まれ」たる皇女が外国の君主を結婚することを禁じた法を根拠に一蹴された。
 リウトプランドはポロネギ,ニンニク,魚醤がのさばる皇帝主催の饗宴にうんざりさせられ,一方でブルガリアから来た野蛮な使節が,皇帝により近い,きちんとしたテーブルクロスのある席に着いたのを見て激怒した。さらにリウトプランドが帝国を去る時,彼が合法的に購入したと考えていた絹製品を,これは輸出禁制品だと言われて税関の役人に没収された。こうして憤懣やるかたないリウトプランドは,その著書の中でビザンツ人を散々に罵倒することになる(なお,リウトプランドによる初回訪問の様子については,第15話中ロマノス3世の項目に付した「外国人を驚嘆させたコンスタンティノポリスの光景」の中で触れているので,興味のある方は比較参照されたい)。
リウトプランドよりは優遇されていたブルガリアの使節も,ニケフォロスから自分たちの王が「皮の胴着をまとい,皮をかじる支配者」であると言われて追い返された話を聞かされた。ニケフォロスは,ブルガリアが弱体化して北方の防波堤として役に立たなくなったので,ブルガリアに対する貢納を打ち切った。その後の顛末については,続くヨハネス1世の項目で改めて触れることにする。
 ニケフォロス2世は教会も敵に回した。ニケフォロス自身は敬虔なキリスト教徒であり,自身の夢は俗世を捨て修道士になることだと公言しており,アトス山の修道院共同体を後援して「大ラウラ」と呼ばれる修道院の発展に大きく寄与したのも彼であるが,その一方で教会が世俗世界に権力を伸ばそうとしているのを不快に思っており,教会人たちに清貧を説くだけでなく,教会や修道院に対する土地の寄進を禁止する勅令を出し,清貧の生活を強制しようとした。さらには,異教徒との戦いで戦死した者を聖人とみなしてほしいと教会に要請したこともあるが,これは教会側の反対で実現しなかった。
ニケフォロス2世は,貴族や軍人たちの中にも敵を作った。彼が重税を課した上に,フォカス家の親族や関係者を重用したためである。彼は強力な親衛隊で身辺を固め,これらの不満にも一切耳を貸さなかった。ただ,不穏な動きを見せた甥のヨハネス・ツィミスケスについては,宮廷への出入りを差し止めた。

ニケフォロス2世の暗殺

 だが,ニケフォロスにとって最も身近で危険な敵となったのは,皇后のテオファノであった。ニケフォロスは913年生まれであり,皇帝即位当時既に50歳。941年頃の生まれとされているテオファノとは親子程に年齢が離れており,しかも美男で知られた前夫のロマノス2世と異なり,ニケフォロスは小柄で猫背,しかも敵となった人物の一人から「暗がりでは出会いたくない男」と評されるほどに不気味で奇怪な容貌の持ち主であった。彼は敬虔で修道士となることを夢見ていたが,女性にとって修道士とは男性としての魅力が全くない男の代名詞でもある。
 ニケフォロス自身は彼なりに妻を愛していたとされるが,おそらくテオファノとの間に自身の子をもうける能力も意志も無く,テオファノがニケフォロスを好きになれなかったのは致し方のない事であろう。テオファノがニケフォロスと結婚しその即位に加功したのは自らの皇后としての地位を守るためであったが,彼女はもはや邪魔となった夫ニケフォロスを排除するため,夫によって追放されたヨハネス・ツィミスケスに接近し,密かにニケフォロス暗殺の陰謀を企てた。テオファノは,妻を亡くしたばかりのヨハネスに新しい妻を見つけてやる必要があるとの名目で,夫に頼みヨハネスを首都に呼び戻すことに成功するが,これはニケフォロスを暗殺するための布石であった。
 実のところ,内密であったはずの陰謀は宮廷内に噂となって広がっており,ツィミスケスの名を挙げてニケフォロスに警告する者もいたのだが,この陰謀に対するニケフォロスとその一党による警戒は極めて不十分であった。バシレイオス・ノソスも陰謀の存在を察知していたが,風向きを察し仮病を装っていた。
 969年12月のある夜,ツィミスケスとその一派は小舟で首都の波止場に到着し,内通者に運び上げられて窓から宮殿に入った。ニケフォロス本人もこの夜には何かが起こると疑っており,弟のレオーンに護衛兵たちを率いて宮殿に来るよう手紙を送っていたのだが,レオーンは友人とのサイコロ遊びに夢中でしかも勝ち続けていたため,兄からの伝言を読まずにクッションの下に押し込み,サイコロ遊びを続けていた。
 こうした事情により,ツィミスケスの意を受けた陰謀者たちは誰にも見咎められることなく,テオファノの従者に手引きされてニケフォロスの寝室に到達した。皇帝は今なお切望している修道生活の準備として,ベッドの上ではなく床で寝ていた。陰謀者たちは寝ている皇帝を蹴り上げて叩き起こし,剣で皇帝の頭を切り付けた。起きた皇帝が助けを呼ぼうとしたので,陰謀者たちはその首を切り落とし,ニケフォロスの支持者にもはや手遅れだと分かるよう,その首を窓の外へ突き出した。
 なお,ニケフォロス2世の死に様については,血塗れになった皇帝がツィミスケスの前に引きずり出され,ツィミスケスが自ら「恩知らずの,悪魔のような暴君め」と罵りながらとどめを刺し,皇帝はその間ずっと聖母マリアに祈りを捧げていたなどとする別伝もあるが,作り話としてもあまりに不自然であり採用し難い。ニケフォロス2世が多くの人に憎まれていたほか,彼が非常に敬虔な人物であったことは広く知られていたので,後年になってこのような話が創作されたのであろう。
 ニケフォロスが暗殺された翌日には,ツィミスケスがヨハネス1世として皇帝を名乗り,抜け目ないバシレイオス・ノソスは早くも新皇帝に謁見し,協力の恩賞として彼が前政権下で持っていた地位を保証された。
 哀れなニケフォロスの遺体は,ツィミスケスの命により翌日聖使徒教会へと運ばれて埋葬された。市内にいたフォカス一族の者は全員集められ,エーゲ海の島々へ追放された。サイコロ遊びにうつつを抜かしていたレオーンは,おそらくそのことを深く後悔しながら,レスボス島で死んだ。ニケフォロスの墓には,ずっと後になって「すべてを征服したが,イヴだけは征服できなかったニケフォロス」という墓碑銘が刻まれることになった。

<幕間16>文人皇帝と軍人皇帝

 ビザンツ帝国の歴代皇帝には当然様々な人物がいたが,暗黒時代を乗り越えて帝国の統治が安定してくると,キリスト教の皇帝は戦争を嫌う平和の皇帝であり,平和の皇帝は教養ある文人でもあるべしという理念が確立するようになった。マケドニア王朝におけるその代表格といえる皇帝がレオーン6世やコンスタンティノス7世であり,彼らは文化的活動のパトロンとなるだけでなく,自らも多くの著作を著し,マケドニア朝ルネッサンスの中心人物として活躍している。
 マケドニア朝ルネッサンスでは,一般には古典の収集や編纂が行われ,創造的な文化活動は行われなかったなどと批判されることもあるが,ビザンツ人がキリスト教一色の世界観から脱却し,キリスト教的価値観に染まっていない自由で活力に溢れていた古代ギリシア人による作品の素晴らしさに目覚めたこと,古すぎて容易には解読できなかった古代ギリシア人の作品を読みやすく改訂し,16世紀のイタリア・ルネッサンスを通じて今日にまで伝えたことの歴史的意義は大きい。
 ビザンツ人は,数あるギリシア古典のうち特にプラトンの哲学を愛好しており,プラトンの「哲人王」という考え方に共鳴していた。プラトンは哲人王,すなわち哲学に長じた君主によって統治される政体を理想の政体とみなしていた。
 このような考え方は,哲学を役に立たない学問の代表格とみなして軽視し片隅に追いやっている日本人には理解しがたい発想であるが,西洋では今でもリーダーに必要な素質として「知力」「説得力」「肉体上の耐久力」「自己制御力」「持続する意思」の5つを重視しており,哲学は特に知力や自己制御力を鍛える学問として,長く重視されていたのである。かくしてビザンツの文人皇帝たちは,プラトンの唱える理想の「哲人王」となるべく,日々哲学を含む学問に励むことになった。
 もっとも,平和を愛する文人皇帝といえども,帝国を防衛する現実的な対策は欠かせない。次々と押し寄せる民族の波に洗われるビザンツ帝国は,軍事力だけで安全を確保することはできない。むしろ敵を互いに争わせ,可能ならば帝国の国家精神や宗教に同化させるなど冷静な対応が必要である。戦争は忌むべき必要悪であり,最後の手段としてのみ用いるべきである。それが文人皇帝たちの基本的な戦略思想であった。
 「哲学者」レオーン6世の『戦術書』と称される著作は,戦争について次のように述べている。
「策略,不意打ち,飢えによって敵を苦しめたり,波状攻撃などの作戦によって,時間をかけて打撃を与えるのがよい。決して正面戦争に誘い込まれないようにすべきである。大抵の場合,勝利は勇敢さの証明ではなく,運に左右されることを我々は体験してきた。(中略)汝は,実際に戦うのではなく,金を使うことで,敵に対して多くの勝利を得るだろう。もしその敵をどこかで待ち受ける別の敵があるのなら,金を提供してその民族に汝の敵を襲わせるよう説得すべきである。」
 また,コンスタンティノス7世が不肖の息子ロマノスのために書いた『帝国統治論』では,国境地域に住んでいる諸民族を概観し,その侵入を阻止する最善の方法について息子に助言を与えている。敵がロシア人やブルガール人の場合,あらかじめペチェネグ人に年金を与えておき,必要が生じたなら彼らに敵を襲わせるべきである。万一ペチェネグ人が敵となった場合は,その隣人のウゼス人に攻撃させればよい。伝統的な同盟者であるハザール人がもし脅威となるならば,ウゼス人やアラン人をけしかけるべきである。
 こうした外交戦略で必要不可欠となるのは,周辺の諸勢力内部に友好勢力を育てることであり,そのためには首都で彼らを盛大にもてなすのが最善の方法であった。異国の使節は絹で飾られた大宮殿へ迎え入れられ,壮麗な歓迎式典でもてなしを受け,従者たちには銀貨の詰まった袋が配られた。コンスタンティノポリスの大宮殿が豪奢に飾り立てられ荘厳な儀式が執り行われたのも,コンスタンティノス7世が息子のために『帝国統治論』と併せて『儀式の書』を著したのも,これらはすべて周辺諸国を驚嘆させ帝国の友好勢力とするのに必要不可欠なものであり,これらにかかる費用は外交及び国防のための必要経費であるという考え方に基づいている。
 コンスタンティノス7世は,戦争となった場合においても,条約を結ぶ段階で贈り物として与えるため,戦場には必ず高価な絹織物を持参すべきであるとも助言している。ビザンツ帝国における文人皇帝は,机上の学問にかまけて平和ボケした皇帝などでは全く無く,平和を愛し学問を好む表の顔と,このように絶えず周辺勢力の情勢を探り,帝国の脅威となる敵が現れたらその敵となる民族を操って相争わせることを考える,現実的かつ狡猾な裏の顔を持っていた。こうした皇帝像は,まさしくビザンツ人の伝統に即したものであった。
 これに対し,ニケフォロス2世フォカス,これに続くヨハネス1世ツィミスケス,そしてバシレイオス2世といった軍人皇帝たちは,多くの意味で文人皇帝と対極的な存在であった。ニケフォロス2世が書いたと伝えられる『戦術書』は,題名こそレオーン6世が書いたものと同じだが,その内容は対極的なものであった。
「重装騎兵の楔形陣形は504名が12列を作る。すなわち最前列には20名の騎兵が並ぶ。2列目は24名,3列目は28名,(中略)12列目には64名が並び,計504名で一軍団を形成する。」
 この一節を読んだだけでも,レオーン6世の『戦術書』とは大きく異なることが分かるであろう。文人皇帝の書いた書物は,古典ギリシア式の教養に基づく修辞的表現を多用し古典を引用することも多かったのに対し,軍人皇帝の書いた書物は即物的な表現に終始し,修辞的表現はほとんど無く,古典の引用に至っては皆無であった。
 また,ニケフォロス2世の考える「戦術」なるものは,楔形に整列した重装騎兵の突撃によって正面戦争に勝利するためのものであり,そもそも正面戦争自体を嫌うレオーン6世の「戦術」とはこの意味でも対極を成すものであった。
 もっとも,軍人皇帝たちも,敵の数を絞るため外交の必要性自体は否定しなかったし,ニケフォロス2世は2冊目の戦術書でゲリラ戦について詳しく記しており,ビザンツ人の伝統であるゲリラ戦も否定していないが,特に軍人皇帝として半世紀近くの治世を全うしたバシレイオス2世が,上述のような文人皇帝たちの考え方に対し論理的に反論したとすれば,それは概ね次のとおりになるだろう。
「帝国の栄光は大宮殿を豪奢に飾り立て荘厳な儀式を行うことではなく,偉大な軍事的勝利によって示されるべきである。帝国の友好勢力は大宮殿で使節をもてなすことではなく,強大な軍事力で恐れさせることによって増やすべきである。帝国は正面戦争に勝利するための軍事力に総力を傾注すべきであり,華美な装飾や複雑な儀式の類は単なる国力の無駄遣いである。」
 ニケフォロス2世,ヨハネス1世,そしてバシレイオス2世と続く軍人皇帝たちの政治姿勢は,彼ら自身がそう書き残したわけではないが,概ねこのような思想に基づくものと想像するしかないものであった。彼らの治世下でビザンツ帝国は今までにない数々の軍事的勝利を挙げ,バシレイオス2世の時代には,帝国の版図はユスティニアヌス1世時代に次ぐ規模にまで拡大する。
 しかし,こうした軍人皇帝のやり方にも難点はあった。第一に,四方を数多くの勢力に囲まれたビザンツ帝国は,戦争に勝利して版図を拡大すると,新たな複数の敵と境を接することになり,必然的に国防がより難しくなること。比喩的に表現すると,一つの敵を軍事力で破れば,新たに三人の敵が現れてしまうのである。
 第二に,正面戦争は敵味方の双方がその気にならなければ成立しないこと。特に,バシレイオス2世亡き後に帝国の新たな敵となるセルジューク・トルコ人は,相手が弱ければ攻め込んで略奪したりするが,相手が強いと見れば臆面もなく退く遊牧民であり,正面戦争で決着をつけるのが難しい相手であった。軍人皇帝たちのやり方を真似ようとしたロマノス4世は,トルコ人との戦いで正面戦争による勝利を急ぐあまり,突出して自ら捕虜にされるという失態を犯した。
 文人皇帝と軍人皇帝,どちらが理想のビザンツ皇帝か。後の世代の皇帝たちは,こうしたせめぎ合いの中で苦しむことになる。

(3)「十字軍の先駆け」ヨハネス1世ツィミスケス

 前述のとおり,ニケフォロスの暗殺に成功したツィミスケスは直ちに皇帝に即位し,ヨハネス1世ツィミスケス(在位969~976年)となった。共犯者であるテオファノとの間では,暗殺成功の暁にはテオファノを皇后に迎える約束になっていたが,総主教ポリュエウクトスに先帝殺しの罪を咎められると,テオファノに罪をなすりつけて彼女を追放刑に処した。ヨハネス1世が先帝殺しの主犯であることは明らかだったが,教会側も内心ではニケフォロスを嫌っていたので,総主教は教会や修道院に対する土地の寄進を禁じた勅令を撤回することなどを条件にヨハネスの罪を赦し,両者の間には政治的妥協が成立したのである(ただし,ニケフォロス2世の新法が正式に取り消されたのは,バシレイオス2世時代の988年とする文献もある)。
 なお,ヨハネス1世に裏切られた元皇后テオファノは,ヨハネス1世の死後息子のバシレイオス2世によって呼び戻されたが,その後彼女に関する記録は途絶えており,間もなく死去したものと考えられている。テオファノはビザンツ帝国屈指の悪女として後世に記憶され,ニケフォロス2世のみならず義父のコンスタンティノス7世や夫のロマノス2世を毒殺し,裏切り者ヨハネス1世の殺害にも関与し,さらには実の息子バシレイオス2世やコンスタンティノス8世の殺害を企てたなどと書かれることになるが,ニケフォロス2世の殺害以外はすべて冤罪である。
 なお,ヨハネス1世によって追放されたフォカス一族は権力奪回の機会を窺っており,970年の夏にはバルダス・フォカス(レオーン・フォカスの息子)がテマ・アルメニアコンにあるアマセイア市の流刑地から脱走することに成功して,カエサレイアにある一族の拠点に向かい,軍によって皇帝と宣言された。当時首都を離れることの出来なかったヨハネスは,義兄のバルダス・スクレロスに東方軍の指揮権を与えた。ほどなくスクレロスはフォカスを要塞に追い詰めて降伏させ,バルダス・フォカスはキオス島のより厳重に監視された流刑地へ追放されることになった。

ロシア人の撃破と西方政策

 ヨハネス1世は,亡きコンスタンティノス7世の娘テオドラを自身の妃に迎え,幼いバシレイオスとコンスタンティノスの後見役という地位も引き継ぎ,正統なマケドニア王朝の擁護者という姿勢をアピールすることで,臣民たちの支持を獲得した。ヨハネス1世は当時における名門軍事貴族クルクアス家の出身であり,彼の先妻は軍事貴族スクレロス家の出身であった。ヨハネス1世の即位に伴いフォカス家の一族は権力の座から完全に追放されたが,その立場がクルクアス家とスクレロス家に取って代わられただけで,軍事拡大路線という基本的政策はニケフォロス2世時代と変わらなかった。
 ヨハネス1世が即位した頃,キエフ公スヴァトスラフがブルガリアを攻撃し,領土の大半を占領した。先帝ニケフォロス2世は,ブルガリアが弱体化したため966年に歳貢を停止し,ブルガリアとの間に戦端を開きいくつかの砦を占領したものの,かつて自分と同名のニケフォロス1世がブルガリアに深く進攻して敗死したのを思い出し縁起が悪いと感じたほか,東方での対イスラム遠征を指揮する必要もあったため,ブルガリアとの全面的な直接対決は避けていた。
 ニケフォロスは,キエフ公スヴャトスラフに1500ポンドの金を贈ってブルガリアを攻めさせ,両者を争わせて弱体化させる外交戦略を取っていたのだが,ブルガリアがあまりにも弱体であったためにこの外交戦略は破綻し,ロシア人はブルガリアの首都プレスラフを占領してブルガリアをほぼ滅亡させ,ヨハネス1世が帝位に就いた頃には,ビザンツ帝国はブルガリアに代わり新たな隣人となった,この異教徒ロシア人との直接対決を余儀なくされることになった。
 971年に行われたロシア人との戦争は,アドリアノポリスを前線基地として武器や食料を貯蔵し,優秀な軍人であるヨハネス1世が5千人の精鋭部隊を引き連れて先陣を進み,バシレイオス・ノソスに率いられた大部隊が皇帝の後を追って進撃し,黒海とドナウ川で陸軍を支援する艦隊を配備する形で進められた。前衛部隊の迅速な進軍に敵は不意を突かれ,ロシア軍がビザンツの遠征軍について最初に得た情報は,間もなく皇帝がプレスラフの城壁前に現れるというものであった。当時,8千人ほどのロシア兵が訓練のためプレスラフの城外にいたものの,彼らは恥も外聞も無く城塞に逃げ込み,間もなくビザンツ軍によるプレスラフの攻撃が始まった。
 4月13日にはビザンツ軍が町に突入したものの,ロシア軍のうち一個大隊が敗北を認めず,要塞化されたシメオンの王宮に立て籠もった。ヨハネス1世は一番簡単な攻略法として彼らを燻り出すことにし,王宮の周囲で火が焚かれ,火矢が窓から射込まれた。この戦法は確かに効果的であり,ロシア人は炎の中で死ぬか,王宮から走り出てくるしかなかったが,これによってシメオンの栄光を語るプレスラフの町は焼き尽くされ,黄金教会や美しい建物も破壊されてしまった。ヨハネス1世は,廃墟の中で復活祭を祝うことになった。
 プレスラフが陥落したとき,スヴャトスラフは現場に居合わせておらず,彼は遅ればせながら主力軍を率いてこの町に向かってきたが,ドリストラ市の近郊で行われた正面戦争の最終的な勝者となったのはビザンツ人であった。既に何千人ものロシア兵を失っており,スヴャトスラフはブルガリアから撤退するしかないと決断し,ヨハネス1世も遠征を長引かせたくないと思っていたので,両者の間ではロシア軍がドリストラを放棄しブルガリアから撤退すること,ロシア人は従来どおりコンスタンティノポリスに商品を持ち込んで交易が認められることなどを内容とする和平条約が締結された。もっとも,祖国に帰還しようとしたロシア軍は,ドニエプル川で待ち伏せしていたペチェネグ人による不意打ちを受け,その大半は帰国を果たせなかった。スヴャトスラフも命を落とした一人であった。
 ヨハネス1世は,このブルガリア遠征について,ロシア人からブルガリア人を解放するという大義名分を掲げており,プレスラフが陥落したとき,ビザンツ軍はブルガリア王ボリス2世とその家族を救い出したが,ブルガリアは本来ビザンツ帝国の領土だった土地であり,自力でロシア人から奪回した土地を元の君主に戻す意志はヨハネスにはなかった。
 プレスラフは皇帝ヨハネス1世の栄誉を称え,今後ヨハノポリスと呼ばれるという通告が出され,ビザンツの統治官が任命された。不運なボリス2世はコンスタンティノポリスに戻る皇帝に同行させられ,城壁の金門から聖ソフィア教会まで繰り広げられた凱旋行進に参加させられた。ボリスが帯びていた王冠と王標は公衆の面前で取り去られ,神への捧げ物として聖ソフィア教会の祭壇に置かれた。ボリスはこれと引き換えに名前だけの称号を与えられ,コンスタンティノポリスで快適な隠遁生活を送るものとされ,儀式や行列を飾る存在となった。
 こうして,ブルガリア王ボリス2世は退位させられ,ブルガリア教会もコンスタンティノポリス総主教の管轄下に置かれ,ヨハネス1世はブルガリア王国など存在しないかのように振る舞った。もっとも,ブルガリアは次のバシレイオス2世時代に再起するが,そのあたりの事情については次の第14話で改めて述べる。
 次いでヨハネス1世は,先代から続いていたフランク人との敵対関係を,フランク皇帝オットー2世(オットー1世の息子)に姪のテオファノ(先の皇后テオファノとは別人)を嫁がせて和約を結ぶことによって終結させた。テオファノは緋産室の生まれではないので,コンスタンティノポリス7世の定めた法には反しなかったが,それでも皇帝一族の娘として972年にオットー2世の許へ嫁ぐ際には,外交上の役目を果たせるよう立派な輿入れ財産を持たせてもらい,オットー2世の妃,後には息子オットー3世の摂政となったテオファノ(ドイツではテオファヌと呼ばれた)は,息子にギリシア語で立派な教育を受けさせるよう手配するなど,ドイツにビザンツ文化をもたらした。こうして北方及び西方を安定させると,ヨハネス1世の関心は帝国の東方へと向けられた。

ファーティマ朝の勃興と東方政策

 イスラム世界では,969年に北アフリカのファーティマ朝がエジプトを占領し,シーア派のカリフを立てて急速に勢力を伸ばしていた。シーア派というのは,ムハンマドの従兄弟でその娘ファーティマの夫となった第4代カリフのアリーとその子孫を正統なるムハンマドの後継者(イマーム)とする宗派で,その教義はペルシア人の宗教であるゾロアスター教などの影響を強く受けており,いわばペルシア人のための宗派であった。
 「シーア」は本来「派閥」を意味する用語であり,本来はアリー派と訳すのが正確であるが,イスラム教では正統のスンニ派以外の有力な宗派はアリー派しかおらず,単に「シーア」と呼べばアリー派を指すようになったので,日本では「シーア派」の訳語が定着したのである。本稿でも慣例に従い「シーア派」の用語を用いる。
 北アフリカで909年に成立したファーティマ朝は,シーア派のうちイスマーイール(第6代イマームの長男で父により廃嫡された)の子ムハンマドを隠れイマームとする,率直に言ってイスラム教の中ではかなりマイナーな宗派を奉じ,その始祖ウバイドゥッラーはイスマーイールの子孫にしてマフディー(救世主)であると自称する王朝であった。そのような宗派が北アフリカやエジプトで広く受け容れられることは無かったが,ファーティマ朝は次第に多数派であるスンニ派と融和する術を学び,既に弱体化していたアッバース朝カリフの対抗勢力となることで,イスラム世界における支持を獲得していった。
 ファーティマ朝の君主は建国当初からカリフを名乗っていたが,エジプトを占領するとその地にカーヒラ(勝利の都。日本や欧米諸国ではカイロの名で知られる)という新しい首都を建設し,第4代カリフのムイッズに率いられて急速に勢力を伸ばしていた。なお,ファーティマ朝の勃興に刺激され,イベリア半島の後ウマイヤ朝君主(750年に滅亡したウマイヤ朝勢力の生き残りで,アッバース朝カリフから総督の称号を認められ支配権を安堵されていた)もカリフを名乗るようになったので,当時のイスラム世界は3人のカリフが並立し,分裂が決定的になっていたのである。
 そんなファーティマ朝の軍団はシリアとパレスティナに進み,ビザンツ国境にまで迫る勢いであった。かつての文人皇帝たちがこのような局面に対処を迫られれば,巧みにアッバース朝とファーティマ朝を争わせ自国が戦争に巻き込まれることを回避しようと考えただろうが,自らの軍事能力に自信を持っていたヨハネス1世は,これをむしろ領土拡大の好機と捉えた。
 ヨハネス1世率いるビザンツ軍は,974年にはメソポタミア北部を占領した。翌975年にはシリア・パレスティナへ進軍し,ヘリオポリスの町を占領して略奪し,その勢いに恐れをなしたダマスカス,ベイルート,トリポリといった都市にビザンツ帝国の宗主権を認めさせ,ヨハネス1世の軍勢はエルサレムにまで迫った。ヨハネス1世による東方征服はイスラム勢力に対する聖戦の色彩が強く,領土の拡大だけでなくキリスト教聖遺物の収集にも努めるなど,後世の十字軍を彷彿とさせるものであった。
 ただし,後年行われた西欧諸国の十字軍と異なり,ヨハネス1世が「異教徒は殺せ」といった狂信的なスローガンを掲げていたわけではない。彼はむしろ「敵は武器ではなく恩恵で打ち破る」という言葉を残した人物であり,ヘリオポリスを略奪したのはむしろ最小限の流血で遠征の目的を達成するためであった。ヨハネス1世より100年余り後になって,第1回十字軍はエルサレムを占領し多くの異教徒たちを虐殺したが,仮にヨハネス1世がエルサレムを占領していたら,少なくとも第1回十字軍のような大虐殺は行われなかったであろう。
 ところが,実際にはヨハネス1世によるエルサレム攻略は行われなかった。彼はその頃,自らイスラム勢力から奪い取った土地の大部分が,いつの間にかバシレイオス・ノソスの領地となっていることに気付いて動揺し,侵略戦争より首都における自らの権力基盤強化を優先すべきだと気づいたのである。そこでヨハネス1世は975年秋に軍を引くが,その後首都への帰還中に病を発し,翌976年1月10日に首都で亡くなった。死因については,身の危険を感じたバシレイオス・ノソスが皇帝の酌人を味方に付けて密かに毒を盛らせたという説が当時から有力であったが,中世の軍隊に付きものであった赤痢に罹った可能性もある。
 ヨハネス1世の死によって,これまで共同皇帝の地位に甘んじていたバシレイオス2世(在位976~1025年)が政治の表舞台に立つことになる。

<幕間17>正教の聖地アトス山

 ヨハネス1世によって殺害されたニケフォロス2世は,自らアトス山の修道院に入ることを夢見ていた,極めて信心深い人物であった。その後を継いだヨハネス1世も,イスラム教徒との戦いを聖戦と位置付けた,ある意味信心深い人物であった。ここでは,彼らの信仰の拠り所でもあったギリシア正教の聖地アトス山について,その概略を紹介する。
 ギリシア正教の聖地であるアトス山は,カルキディケー半島の東側の支脈にあり,狭い地峡によってギリシア本土と繋がっている。45キロメートルにわたって北エーゲ海に突き出し,2000メートルを超える山は鋭く海上から突き出し,木々に覆われて近づき難く,普通に考えれば人が住もうと考えるような場所ではない。
しかし,俗世から遠く離れた無人の隠遁地を求めるキリスト教の聖者にとっては,アトス山は格好の隠遁地であり,この地には4~5世紀頃から隠修士たちが住み着いていたと考えられている。このアトス山に修道院が生まれたきっかけは,8世紀に聖像破壊運動が行われていた頃,聖像崇拝派の修道士が追放されてこの地に移り住んだことだったらしい。
 アトス山は,修道士の居住する有名な聖山になり,修道士たちはその孤絶した生活に一切の女性を,人間の女性のみならず動物の雌までも,立ち入らせなかった。キリスト教に基づく初期の修道活動の中心であったエジプト,パレスティナ,シリアで生まれた修道生活についての著作,霊性の獲得についての指針,禁欲的修行の記録,祈りや聖歌などの伝統が,アトス山をはじめとするビザンツ人の修道士たちに引き継がれ,世代を重ねるごとにこうした素材に注釈が加えられ,修道院の規律に関する新たなテキストや,修道院を組織するための新たな手法が発達した。
 修道生活の類型には,孤立して生活する聖者,ゆるやかな結びつきをもって暮らす隠修士集団(ラウラ),共同生活を営む集団(コイノス・ビオス)などが挙げられ,修道院(コイノビオン)は共同生活を営む集団の居住する建物である。中世のアトス山は修道院形態が支配的となり,修道院創建者の定めた規則に従って自足的な共同体を維持していた。
 なお,西欧の修道院は,本来単なる一修道会の規則に過ぎなかった『聖ベネディクトゥス会則』が規則のモデルケースとして普及したが,東欧の修道院は個々に独自の規則を定めており,アトス山も独自の規則を定め,独自の性格を持った聖山を形成した。
 843年の「正教の勝利」(摂政テオドラによる聖像崇拝の最終的復活)には,従前アトス山の修道士たちが大きな役割を果たしたと言われてきたが,具体的に誰のことかは不明であり,むしろ首都にあるストゥディオス修道院の構成員や他の集団の方が大きな役割を果たしていた。
 アトス山での修道生活が修道院方式になるのは,859年頃に初めてアトス山を訪れた小エウテュミオスのような創始者がこの方式を奨励したことに始まる。草創期におけるアトス山の歴史を飾る人物は,多くが伝説上の存在であるが,894年の文書に名を挙げられている修道士エウスタティオスは実在が確認されている。彼は,寡婦となった貴婦人グレゴリアの霊的な師父となり,婦人は子供たちの同意を得て,自分が死んだら解放することになっていた奴隷に約束していた土地だけを手許に残して,残りの資産をすべて寄進した。こうした取り決めの付帯条件として,修道士たちは彼女の魂のために祈りを唱えることになっていた。
 アトス山は穀物栽培には適していなかったので,修道士たちは彼らに食料を供給する近隣の土地の贈与や所領を必要としていた。そこから現地の俗人との緊密な関係が生まれ,前述したグレゴリアの例のように,俗人は霊的な指南や援助を受ける代わりに,贈与によって修道院を支援した。このように現地の人々と結びつくことが修道士たる人材獲得の原動力となり,ひいては修道院の名声を広め,さらに遠くから人々を引き付けることになった。
 富裕な大家門では,例えば息子の一人が修道生活を送り,一人が軍人の道に進み,一人を宦官にして娘と一緒に宮廷に送るといった方法で,世俗的な繁栄と宗教的な魂の救済を両立させるのが一般的であったが,アトス山はそうした富裕家門出身の修道士の受け皿として機能した。
 歴代ビザンツ皇帝の多くはアトス山の修道士たちを保護し,退位後にアトス山の修道士となった皇帝もいた。883年,バシレイオス1世は勅書を発給し,半島部で家畜を放牧しようとしていた羊飼いから修道士たちを保護した。ロマノス1世レカペノスは,941年ないし942年に,アトス山の修道士たちに年金を分配し,ヒエリッソスにおける境界を画定した。ニケフォロス2世は963年に即位するとすぐに,アトス山のラウラ修道院に大規模な贈与を行った。毎年金貨244枚が贈与され,小麦が支給されることになり,同修道院の急激な成長が保証されたのである。
 こうした皇帝による保護は,他の俗人たちと同じように自分も霊的な恩賞に与りたいとの意図のほか,修道士たちが無視できない政治的影響力を持っているため,聖職者や修道士の支持を得たいとの意図もあったと考えられ,どちらが主たる目的かは各々異なるであろう。
 アトス山における修道制の拡大は,皇帝の保護によって支えられる一方,修道院長たちは広大な所領に対する帝国税の免除を獲得しようと努めていたが,歴代皇帝は税収の減少につながる免税勅書を必ずしも喜んで交付したわけではなく,ヨハネス1世ツィミスケスのように,政治的な弱みを持っていた皇帝から巧みに獲得していったのである。
 また,俗人のパトロンたちは既存の修道院に寄進するよりも,自分たちの名前を冠し,自分たちの死を追悼してくれる新しい修道院を設立することを好み,その結果帝国の各地では古い修道院が荒廃状態のまま放置されて新たな修道院が設立されるという弊害もあり,アトス山もその例外ではなかった。ニケフォロス2世はこのような弊害を防止するため,神に身を捧げたい者は既存の修道院に入るように促す法令を964年に発布したが,効果は無かった。
 アトス山の発展に伴い,その統治機構も整備された。聖山で修道士ないし隠修士として登録されているすべての人々によって,外部に対する代表者たるプロートス(筆頭者)が選出されたほか,諸修道院の中央評議会が出現した。ただし,アトス山の数ある修道院の中でも権威の高いラウラ,ヴァトペディ,及びグルジア人修道士の共同体であるイヴァロンは独立を守り,これらの修道院長はプロートスより上席を占めた。カリエスと呼ばれる場所が聖山の行政上の中心になり,そこで年2回,全修道士の集会が開催された。
 宗教的な聖地であっても,多くの人が集まり富と権力を手に入れれば,少なからず腐敗が生じるのは人類社会の必然である。1045年,コンスタンティノス9世は聖山についての新しい綱領を発布し,宦官や年若い少年を加入させること,修道院が大きな船を所有して商業目的に使用することなどを禁じた。少年や宦官はしばしば同性愛の対象とされたので,こうした者の入山も禁じられたのである。党派間の陰謀騒ぎも問題とされており,綱領では「すべてのいとも敬虔なる長老たち」は総会に出席し,「神への畏怖と真実をもって,いっさいの情実や収賄,党派感情,贔屓,その他妬みや闘争心,報復心といった情念を捨てて決定に参与」するよう力説されている。
 アトス山の修道士となったのはビザンツ人だけではなかった。正教徒であるアルメニア人,スラヴ人,ブルガリア人,セルビア人やロシア人は勿論のこと,南イタリアから来た修道士もいた。東西教会の分裂にもかかわらず,西欧でもアトス山はキリスト教の聖地として尊重されていた。
 そのため,1204年にコンスタンティノポリスを劫略した十字軍士たちも,アトス山の独立性は尊重し,ビザンツ帝国が苦難の時代を迎えていた13世紀から14世紀においても,アトス山では引き続き新しい修道院が設立されるなど,その繁栄は続いた。ギリシア正教で静寂主義の神学が確立すると,アトス山はその中心地となった。
 しかし,14世紀初頭にカタルーニャ人がやってくると,アトス山の繁栄ぶりは彼らに狙われるようになり,その後にはオスマン朝に狙われるようになった。アトス山の所領はオスマン朝に奪われて次第に減少し,1430年には聖山自体がオスマン帝国によって最終的に制圧された。
 オスマン帝国の支配下では,アトス山の諸修道院は毎年の貢納と引き換えに存続を認められたものの,アトス山はギリシア正教徒共同体の構成員とみなされ,その指導者たるコンスタンティノポリス総主教による統制をビザンツ帝国時代より強く受けるようになった。
 オスマン帝国時代のアトス山は,写本を売り払い,生き残った数少ない正教国であるロシア人の後援者にますます依存する悲劇的な歴史を送った。しかし見方を変えれば,本来アトス山は修道士たちが俗世間から離れた清貧の生活を送る場所であり,富とも権力とも無縁な時代が長く続いたからこそ聖山としての価値を維持し続け,日本の比叡山延暦寺のような運命を免れたのかも知れない。
 オスマン帝国が滅亡すると,1924年のアトス山憲章によって,アトス山は聖山としての独立性が承認された。その後,宗教を敵視する共産主義国家ソ連によって正教は迫害の対象となるが,ソ連が崩壊した今日では,世界各地の正教徒がアトス山に集まるようになり,21世紀になってアトス山は復権の時代を迎えている。ビザンツ帝国は1453年に滅んだが,ビザンツ人が帝国より重要と考えていた正教の聖地アトス山は,今日なお輝きを放っているのである。

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