第14話 バシレイオス2世の栄光

第14話 バシレイオス2世の栄光

(1)「飾り物」から「独裁者」へ

 バシレイオス2世は,ビザンツ帝国の最盛期を現出した人物であり,その長い治世中に第1次ブルガリア王国の完全併合に成功したことから,ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)のあだ名が付けられている。ただし,このあだ名が付けられたのは,200年近く後に第2次ブルガリア王国の建国を許したイサキオス2世の時代になってからである。
 バシレイオス2世は,958年,ロマノス2世とテオファノの間に長男として生まれた。960年には早くも父の共同皇帝に任じられている。963年に父のロマノス2世が亡くなると,父の後を継いで即位するはずだったが,実際には間もなくニケフォロス2世が母テオファノと結婚して皇帝となったため,バシレイオス2世は飾り物の共同皇帝として幼少年期を過ごした。
 976年にヨハネス1世が亡くなると,バシレイオス2世は晴れて正帝として即位したが,この時点における政治の実権は宦官バシレイオス・ノソスに握られていた。ヨハネス1世を支持していた東方の軍人たちは,亡きヨハネス1世の義兄であるバルダス・スクレロスを皇帝に擁立し,スクレロスの反乱軍は首都へ進撃を開始した。
 スクレロスは輝かしい軍歴を持っていた。キエフ公スヴャトスラフに対する遠征にも加わって手柄を立てており,スクレロスは一騎打ちでロシア兵を真二つにしたと伝えられている。ヨハネス1世の治世下である970年に,ニケフォロス1世の甥(あのサイコロ遊びに夢中になって人生を棒に振ったレオーンの息子である)バルダス・フォカスの帝位簒奪計画を防止したのもスクレロスであった。スコライ軍団司令長官職が東西に分割された後,彼は東部司令長官の地位にあって,軍人皇帝としてヨハネス1世の後釜に座るべき実力者としての要件をすべて備えていた。
 しかし,マケドニア王朝への忠誠心が強い首都の市民たちは,軍人皇帝の再来を望んでいなかった。市民はニケフォロス2世を憎んでいたし,ヨハネス1世もマケドニア王朝の娘を妻に迎え,ようやく受け容れられたのである。廷臣の多くはこうした市民たちの思いに同調し,軍人皇帝による支配を終わらせる時が来たと感じていた。
 ニケフォロス2世やヨハネス1世に取り入って宮廷の最高実力者となっていたバシレイオス・ノソスも,ヨハネス1世によって粛清される危機に遭ったこともあり,自分の権力を維持するには軍人皇帝による支配を終わらせる必要があると考えていた。そこで彼は,スクレロスを司令長官職から解任し,東方国境で少数の軍団を指揮する職に就けることで厄介払いしていたのだが,小アジアで強い支持を得ていたスクレロスは親族全員が無事に首都を脱出したことを確認すると,カルペテの城で従者たちに皇帝と宣言されて反乱を起こした。
 バシレイオス・ノソスは,明らかにスクレロスへの支持の強さを大きく見誤っていた。スクレロスの旗の下には志願兵が続々と馳せ参じ,彼は現地の徴税役人を全員集め,徴収していた税を没収して軍資金をたっぷりと確保した。スクレロスの東部方面に持っていた人脈は,ビザンツ帝国内の軍事貴族たちだけではなく,国境を越えたイスラム地方君主たちとの友好関係も含まれており,スクレロスにはイスラム勢力からも兵士たちが提供された。
 スクレロスは帝国から送られた討伐軍を激闘の末に打ち破り,首都から200キロ足らずのニケーアまで進軍してきた。
 窮地に陥ったバシレイオス・ノソスは,このままでは何もかも失ってしまうため,スクレロスに対抗できる有能な軍人を探す必要に迫られた。有力な候補者が一人いた。スクレロスによって帝位簒奪計画を阻止され,キオス島の流刑地で惨めな暮らしをしていたバルダス・フォカスであるが,彼もスクレロスに劣らず危険な存在であった。
 バルダス・フォカスは高名な伯父ニケフォロス2世と似て,気難しく陰険な性格で人間的な魅力には著しく欠けていたが,歴戦の勇士であり,見る者を圧倒するような体躯をしていた。彼の叫びは全軍を震え上がらせた,素手の一撃で人を殺すことが出来たなどと伝えられている。だが背に腹は代えられない。ノソスはこのバルダス・フォカスを呼び戻し,中央軍団司令長官に任命してスクレロスと対決させた。
 バルダス・フォカスとスクレロスの両者は小アジアの平原で1年にわたって戦い続け,総じてスクレロスの方が優勢であったが,惨めな敗北より名誉ある戦死を良しとしたフォカスは,馬に乗ってまっしぐらにスクレロス本人めがけて突撃した。両者の一騎打ちは,スクレロスがフォカスの馬の耳を切り落としただけだったのに対し,フォカスは矛で相手の頭に一撃を加えて走り去り,スクレロスは脳震盪を起こして落馬し,一目で彼のものと分かる空馬が血まみれで軍勢の間を走り去った。
 スクレロス本人は従者たちに手当てを施され一命をとりとめたが,反乱軍の将兵たちはスクレロスが倒されたものと思い込み,戦場を離脱した。意識を取り戻したスクレロスはバグダードへ亡命し,こうして979年にスクレロスの反乱は鎮圧された。
 こうして,首都では宦官バシレイオス・ノソスが君臨し,東方国境では戦功により東方軍団司令長官となったバルダス・フォカスがすべてを牛耳るという体制が生まれた。父祖の伝統に従って,フォカスは国境を越えてイスラム勢力の都市をたびたび襲撃し,無防備な都市から金を巻き上げて,自分や兵士たちを富ませていた。
 このような両者の微妙な均衡に割って入ったのが,それまで飾り物の皇帝としての地位に甘んじていたバシレイオス2世である。彼はノソスにそそのかされて,父のロマノス2世と同様に気ままで享楽的な生活を送っていたところ,スクレロスが失脚した頃から国政に関心を持つようになり,自分に皇帝本来の役割を果たさせるよう要求し始めた。980年にスクレロスの措置について交渉するためバグダードから使節が到着したとき,バシレイオスは自分が使節の相手をすると言って聞かず,ノソスは交渉に何度か口を挟むのがやっとであったという。
 後世の歴史家たちは,バシレイオス2世のこのような性格的変化を「バシレイオスの改心」と呼び慣わしている。享楽の日々を送っていた青年皇帝が,突然改心して皇帝の責務に目覚めたというのである。もっとも,キリスト教徒は「改心」の物語が大好きであり,この種の変化は何でも「改心」の一言で片付けようとするが,本当に改心したのであれば何か重要なきっかけがあったはずであるところ,そのきっかけを示すようなエピソードは特に伝えられていない。
 筆者の想像するに,バシレイオス2世は本当に享楽的な生活をしていた父と異なり,自らを享楽的な生活に耽る愚鈍で無害な人物であるかに装いつつ,秘かに実権を回復する機会を窺っていたのではなかろうか。アッバース朝の最盛期を築いたハールーン・アル=ラシードも,権臣を排除するため若い頃は信仰に耽る無害な人物を装っており,バシレイオス2世もその同類だったと思われる。
 985年,バシレイオス2世は突如としてバシレイオス・ノソスを解任し,広大な所領の没収と身柄の追放を申し渡した。彼の権勢を偲ばせるものが残らないようにと,ノソスが設立した修道院を取り壊すべしという勅令まで出している。長年にわたって帝国政治の中枢にあったノソスはわずか1日ですべてを失ったことになるが,このような追放劇が成功したのは,事前にバシレイオスが秘密裏に用意周到な根回しをしていた結果であろう。
バシレイオスは,ノソスを罷免した直後に勅令を出し,「これまで朕の名で出された勅令は宦官が勝手に出したものである。それらは,朕の『検閲済み』の記入がなければ有効ではない」と宣言した。

(2)最大の危機

 こうして政治の実権を握ったバシレイオス2世であったが,ヨハネス1世の死後ビザンツ帝国に反旗を翻したサムイル(ブルガリアにおけるマケドニア伯の息子であり,シメオンの後継者を称していた)は西部ブルガリアを拠点とし,ビザンツ領やブルガリア旧領へ攻撃を繰り返していた。980年以降,サムイルはテッサリアに攻め込み,ラリッサを占領することに成功した。
 バシレイオス2世はラリッサ陥落に衝撃を受け,986年にブルガリアへの親征を行ったが,トラヤヌスの門と呼ばれる峠を進行中にブルガリア軍の待ち伏せ攻撃を受けて大敗し,バシレイオスも命からがら首都に逃げ戻るしかなかった。
 ヨハネス・スキュリツェスの年代記によると,バシレイオス2世はレオン・メリセノスを後方に残し,トリアディツア(かつてのサルディカ)を出た所にある峠と谷を抜け,ストポニオンに要塞を急造し,四方八方に伏兵を配置していた。しかし,夜間に西方スコライ軍団長官でレオン・メリセノスと対立していた「小男のステファノス」が,バシレイオス2世にメリセノスが皇帝を名乗り首都に進軍しているという虚偽の報告をし,首都に帰還しメリセノスを討伐するよう進言した。
 バシレイオス2世はこの進言を容れ,メリセノス討伐のため軍に後退を指示したが,これによるビザンツ軍後退に気づいたサムイルのブルガリア軍が全軍でビザンツ軍を攻撃し,ビザンツ軍は皇帝の天幕や印も残して慌てて逃走し,ブルガリア軍に陣地を占領されてしまった(トラヤヌスの門の戦い)。バシレイオス2世は無事峠を抜けてフィリッポポリスに戻るが,実際にはメリセノスが謀反など起こしておらず,任務を守りきちんと後方で守備をしていることを知ると,虚報をもたらした上に開き直った「小男のステファノス」に対し激怒し,ステファノスを投げ飛ばしたという(このエピソードの真偽は定かでないが,事実であれば「小男のステファノス」が投げ飛ばされるだけでは済むとは思えず,少なくとも舌を切られて追放されるくらいの処分は免れないだろう)。
 この戦勝で勢いに乗ったサムイルは,翌987年にはブルガリアの旧首都プレスラフやプリスカを奪取し,ブルガリア王を名乗ってブルガリアの独立を回復させた。一方,東方ではバシレイオス2世の失敗に乗じ,同年に東方の実力者であったバルダス・フォカスが皇帝を名乗り,反乱を起こした。小アジアの軍事貴族とその郎党の大半が敵に回り,バグダードに亡命していたスクレロスでさえも,首都を抑えたら司令長官にするというフォカスの約束を得ると,亡命先から戻って反乱軍に参加した。もっとも,フォカスはスクレロスを野放しにしておくのは危険だと考えたため,迎え入れたスクレロスを城に閉じ込めた。
 バシレイオス2世は西方では復活したブルガリアを,東方ではフォカスに率いられた小アジアの軍人の大半を敵に回し,生涯最大の危機に陥ったが,彼には「緋産室の生まれ」たる正統性と,防御完璧で資金も豊富な首都を支配しているという切り札があった。彼は金を払えば援軍を送ってくれそうな同盟者を探した結果,キエフ公ウラジーミル(スヴァトスラフの息子)に接近し,多額の貢納と妹アンナの降嫁と引き換えに軍事援助を勝ち取り,6千人の屈強なロシア兵を得たことで形勢を逆転させた。
 バシレイオス2世は,988年にクリュソポリスでフォカスの弟が率いる軍勢を撃破し,翌989年には帝位僭称者フォカスと,アビュドスで直接対決した。この戦いも,勝敗は武勇や戦略ではなく,思いがけない幸運によって決した。かつてスクレロスとの不利な戦いを一騎打ちで制した経験のあるフォカスは,今回もバシレイオスとその弟コンスタンティノスを殺すか捕らえることで一気に決着を付けようとし,自ら最強の軍団を率いてバシレイオスが本陣を張っていた斜面に突撃した。
 ところが,敵を蹴散らしつつ本陣に迫っていたフォカスは,突然手綱を抑えて馬を横に向け,覚束ない足取りで馬から降り,ゆっくりと地面に横になった。兵士たちが駆けつけてきた時には完全にこと切れていた。死因は誰にも分らなかった。何かが飛んできてフォカスに当たったのだと言うものもいたし,フォカスの従者が買収されて彼に毒を盛ったという噂もあった。バシレイオス2世が戦いの間ずっと胸に抱いていた処女マリアのイコンの働きだと言う者もいた。皇帝の弟コンスタンティノスはぬけぬけと,自分がやったと言い張った。原因は何であれ,司令官を失って反乱は脆くも潰えた。皇帝軍,反乱軍ともわずかな死者を出しただけであった。
 バシレイオス2世は,軍を率いて小アジアを凱旋し,989年11月にアンティオキアに到着すると,フォカスの弟レオーンの降伏を受け容れた。スクレロスも牢を抜け出して帝位を狙う動きを再開していたが,程なくバシレイオスの手に落ちた。バシレイオスは既に年老いていたスクレロスにも寛大な態度を示し,クーロパラテースという高位の爵位を与え,小アジアの所領に名誉ある引退を許した。
 バシレイオスは皇帝の陣屋でスクレロスと会見し,二人は和解の証しとして葡萄酒を酌み交わした。バシレイオスは悪意がないことを示すため,必ず自分で一口すすってから,その盃をスクレロスに渡した。然る後青年皇帝は老将軍のほうに向きなおり,帝国の統治について助言を求めた。976年以降ずっと帝国を悩ませてきた一連の内紛から解放されるにはどうすれば良いだろうか。スクレロスは極めて率直に,自分たち軍事貴族層の力を削ぐことを皇帝に勧めた。
「うぬぼれている統治官を馘首せよ,遠征に行く将軍に余分な資金を持たすな,自分自身のことで精一杯であるよう,不当な課税で消耗させよ。」
 会見は終わった。その後スクレロスが皇帝に会うことは二度と無かったが,その後スクレロスの助言は長く皇帝の心に残り,バシレイオス2世の統治方針を決定づけたと伝えられている。

(3)ロシアのキリスト教改宗

 バシレイオス2世の業績はブルガリアの併合など軍事的なものが多く目立つが,前述したアンナの降嫁に伴い,ロシアにキリスト教(ギリシア正教)を受け容れさせたという外交的・文化的業績も忘れてはならない。もっとも,これはバシレイオス2世の一代による功績ではなく,860年代にフォティオスがロシア人を含む北方諸民族のキリスト教改宗政策を発案して以来,歴代ビザンツ政府による外交努力の成果であった。
 ロシア人に対するキリスト教布教の試みは,ミカエル3世時代の874年に行われた大主教のキエフ派遣に始まり,少しずつではあるが改宗者が増え,944年にはキエフでキリスト教の聖堂が機能するようになったが,やはりロシア人にキリスト教を受容させるには,君主であるキエフ公自身の改宗が不可欠であった。
 コンスタンティノス7世時代の955年,キエフ公スヴャトスラフの母でその摂政となっていたオリガがコンスタンティノポリスを訪問すると,ビザンツ側は彼女を盛大に歓待して黄金や絹を贈り,彼女をキリスト教に改宗させることに成功するが,ロシア全体のキリスト教化には繋がらなかった。オリガはコンスタンティノポリスからのキリスト教受容は自国の独立を失いかねないと危惧したようで,ドイツからも数名の宣教師を招いているし,息子のスヴャトスラフは公然とキリスト教を軽蔑する人物であり,彼の治世下で改宗が進む見込みはなくなった。
 スヴャトスラフの息子で後継者となったウラジーミルも,当初は熱心な異教徒で,4人の妻と800人の妾のいる後宮を自慢しており,6つの神々に捧げられた巨大な新しい神殿をキエフに建てていた。しかし,『過ぎし年月の物語』に記されている伝承によると,987年頃,ウラジーミルは自分自身と民のために,これまでの異教に代えてもっと立派な宗教を採用しようと考えるに至ったという。
 この話を聞きつけて,各地の宣教師集団が次々と,自分たちの信仰に改宗させようとしてやって来た。ウラジーミルはどの宗教にも大した感銘は受けなかった。ユダヤ教は,信者が国を失い,世界中に散らばってしまったことを考えれば論外である。ローマ教皇が送った使節は退屈であった。イスラム教は一夫多妻制なのでなかなか魅力的であったが,酒が禁止というのはロシア人には受け入れ難いものであった。これに対して,コンスタンティノポリスから送られてきた聖職者とは長い会話が弾んだ。
 なお迷っていたウラジーミルは,主要な世界宗教を調査するため10人の信頼できる使節を各国に派遣し,その報告に基づいて新しい宗教を選ぶことにした。トルコやドイツなど他の各地を訪問した使節は何の感銘も受けなかったが,コンスタンティノポリスを訪問した使節団は皇帝の歓迎を受け,聖ソフィア教会のモザイク,フレスコ画,イコンを背景として行われた儀式の美しさと壮観さに呆然とした。使節はこう報告した。
「私たちは天国にいるのか,地上にいるのか分かりませんでした。地上にはこのような壮麗さ,このような美しさはないからです。私たちはその美しさを物語ることができません。かの地では神が人々のあいだにおられることを知っただけです。」
 このエピソード自体は,正教の修道士が自らの宗教の優越性を強調する意図で書いた明らかな創作であるが,それでも多くの史書に取り上げられるのは,当時のロシアを取り巻く宗教的事情をある程度的確に反映しているからである。キエフ公国の周辺には,イスラム教を受け容れたヴォルガ・ブルガール人,ユダヤ教を国教としたハザール人(ハザール族はトルコ系の民族であるが,ササン朝ペルシアから逃れてきたユダヤ人が多く住み着き影響力を高めており,9世紀初めにユダヤ教を国教に定めていた)がおり,またフランク王国のカトリック聖職者も東欧で布教活動をしていたため,イスラム教,ユダヤ教またはカトリックが国教とされる可能性もゼロではなかった。
 もっとも,上記のエピソードはビザンツ宗教の豊かな図像表現がロシアの正教受容に大きな役割を果たしたことを示唆しているが,実際にはビザンツ帝国との経済的結びつきの強さがより大きな決め手になったと考えられる。ロシア人は,コンスタンティノポリスとの交易で発展していたのみならず,職にあぶれたロシア人の戦士たちはビザンツ帝国に働き口を見つけており,もともとロシアとビザンツ帝国は経済的な結びつきが強くなっていたし,富と権力の中心であるビザンツ帝国と結びつくことは,キエフの支配者に周辺諸国から抜きん出た権威をもたらすメリットがあり,実際にはそのあたりが改宗の強い動機となった可能性が高い。
 また,ビザンツ帝国は北方スラヴ民族への布教活動にあたり,ブルガリアで布教活動をしていたクレメントというビザンツ人修道士が,スラヴ語を簡便に表記できるキリル文字を考案しており,このキリル文字を用いたスラヴ語での布教活動を熱心に行っていた。一方,ローマ教会はスラヴ語での典礼を認めていなかったので,この点でもビザンツ側は有利であった。
 987年に実際起こったのは,バシレイオス2世が前述のバルダス・フォカスと戦うためウラジーミルに援助を要請し,その際通常の報酬支払いに加え,ウラジーミル及びその臣民がキリスト教に改宗することを条件に,皇帝の妹アンナをウラジーミルに嫁がせると提案したことだった。
 アンナの降嫁は,「緋産室の生まれ」たる皇女を外国の君主に嫁がせることを禁じたコンスタンティノス7世の法に抵触するものであり,バシレイオス2世としては苦渋の選択であったが,ウラジーミルにとってはビザンツ皇女との結婚は自らの威光を高める絶好の機会であった。最終的にこれが決め手となり,ウラジーミルは速やかにキリスト教の洗礼を受けて988年にアンナと結婚し,それ以外の妻妾を去らせた。ただし,ウラジーミルの死後その後を継いだのは,アンナの子ではなくウラジーミルがアンナとの結婚前にもうけた子供たちであるため,その後の歴代キエフ大公はアンナの血を引いているわけでは無い。わざわざ,事実に反する上記のようなエピソードが作られたのも,どうやら歴代キエフ大公がアンナの子孫ではないため,ロシア史上ではアンナの降嫁自体に触れたくないという事情があったようである。
 キエフのような専制社会においては,支配者が一旦キリスト教を受け容れれば後は簡単で,ウラジーミルの命令によりロシアのキリスト教化は急速に進んだ。もちろん,ロシアでもキリスト教化に対する抵抗はあり,ロシアにキリスト教が完全に根付いたと言えるのは14世紀頃であるが,その過程はもはやロシアの国内問題に過ぎず,ビザンツ帝国が干渉する必要はなかった。
 以降,キエフ公はバシレイオス2世の有力な同盟者となり,キリスト教を受け容れたロシア人はヴァリャーグと呼ばれ,バシレイオス2世の軍で大きな役割を果たした。後に勇猛さと時の皇帝に対する忠誠で有名となったヴァリャーグ親衛隊も,当初はロシア人の傭兵であったと考えられている。もっとも,11世紀後半になりキエフ公国が内紛で衰退しロシアからの傭兵供給が途絶えると,次第にイングランド人やデンマーク人といったラテン人が主力となるが,ヴァリャーグ親衛隊の名前はそのままで続いた。
 その後,1043年にロシア人商人が喧嘩で殺されたことを発端とする軍事的衝突はあったが,概ねビザンツ帝国とキエフ公国は平和的な共存状態が続いた。キエフには1037年,コンスタンティポリスの聖ソフィア教会を模倣した「聖なる知恵(ハギア・ソフィア)」に捧げられた聖堂が建てられ,ロシアにはキリル文字とともにビザンツ的なキリスト教文化が根付くことになった。
 なお,本稿では通説的見解に従いキエフ公国の民を「ロシア人」と呼んでいるが,現在キエフを首都としているウクライナ人は,独立する以前からこのキエフ公国をウクライナ人の祖とみなし,ロシア人の起源はこのキエフ公国ではなく,14世紀頃に成立したモスクワ公国であると主張している。筆者はこうしたウクライナ人の主張に特段肩入れするわけではないが,一応そういう見解もあるとだけ述べておく。

(4)バシレイオス2世の統治

 バシレイオス2世は,首都に留まり戦争を配下の将軍に任せるといった手法を採らず,ニケフォロス2世やヨハネス1世といった軍人皇帝たちのお株を奪い,自ら軍を率いて帝国の敵と戦った。マケドニア王朝の皇帝が自ら軍を率いて戦ったのは,高祖父バシレイオス1世以来のことであった。
バシレイオスは,軍人皇帝たちの好戦的な外交姿勢や,首都の宮廷や儀式に対する軽蔑的な姿勢すら踏襲した。彼は謁見に際しても,わずかな宝石を付けただけの簡素な緋紫の衣で現れた。彼の治世下においてはかつてのフォティオスのような知識人が重用されることはなく,帝国の内部文書は古典の引用や美辞麗句の類を一切省いた,簡明で率直な言葉で記すよう皇帝に要求された。
 ただし,バシレイオス2世の文化的功績が皆無というわけではなく,彼は『スーダ』の名で知られるビザンツ帝国最初の通俗的な辞書を編集した無名の学者集団を援助しており,これは世界中の知識を集めて百科事典を編纂した祖父コンスタンティノス7世の事業を引き継いだものである。『スーダ』は独創的な辞書ではなかったが,珍しいギリシア語の名称や用語を完全に収録していたため,この時点は16世紀に至るまで大いに活用され,筆写されることになった。
 また,バシレイオス2世の援助を受けたシュメオン・メタフラステス(翻訳者)なる知識人は,『メノロギオン』と呼ばれる150人の聖人伝の標準版を完成されている。これは,レオーン6世とコンスタンティノス7世が未完のまま残していた調査を引き継ぎ,完全かつ詳細な伝記集としてまとめたものであり,それ以後に追加された聖人はごくわずかだった。
 バシレイオス2世の長い治世や偉大な軍事的功績に比べると,文化面での功績はやや地味であり,彼が文化事業を重要視していたとまでは言い難いが,しばらく中断されていた祖父の事業を引き継ぎ,世界の情報を集め百科事典ないし辞書の形で編纂する文化事業を進めていた点を軽視すべきではない。
 他方,バシレイオスは「緋産室の生まれ」としての正統性に関しては断固として譲らず,先代のマケドニア王朝皇帝たちと同様に飽くことなく主張した。バシレイオスは,「緋産室の生まれ」たる正統性と,軍事指揮権の掌握という二つの強力な武器を背景に,軍事貴族たちの権限や特権に対し真っ向から対決し,これらを強力に押さえつけたのである。
 バシレイオスは,自分の帝位がしっかり安定したのを見計らって,スクレロスの助言を文字通り実行することに取り掛かった。995年の夏,シリア遠征を終えたバシレイオスは,小アジアを通って首都に戻る途中,小さな村からの陳情団を迎えた。訴えはフィロカレスという男に関するもので,この男は金に飽かして村内や近隣の土地をそっくり買い集め,自分の所領に変えているというのである。
 バシレイオスは土地を返還させるよう役人に指示したが,役人では埒が明かないので,皇帝自らその村に乗り込み,フィロカレスの土地を没収して村人に返す一方で,フィロカレスの立派な邸宅を徹底的に破壊させた。
 さらにその後,皇帝の一行はカエサレイアにおいて,小アジア豪族の中でも最も豊かな人物の一人,エウスタティオス・マレイノスの屋敷で歓待を受けた。バシレイオスはこのもてなしに応じたが,まさにこの屋敷で9年前にバルダス・フォカスが皇帝と宣言されたことはしっかりと憶えていた。出発に際し皇帝は,マレイノスに自分と一緒に都へ戻ってはどうかと告げた。断ることが出来ないような提案であった。マレイノスは首都で快適とはいえ,事実上の自宅軟禁というべき余生を送り,マレイノスが死去すると彼の所領はたちまち没収された。
 バシレイオスは,こうした個々人に攻撃を向けるだけではなく,新法を定めて自らの考えを国の政策とすることも忘れなかった。その冬に首都へ戻った皇帝は,996年1月1日付けで,「敬虔なる皇帝小バシレイオスの新法。貧民を犠牲にして富を集積する有力者はこの法によって弾劾される」という大仰な表題をもつ新法を制定した。
 この新法は,922年以降に不法に取得された土地は,無償で元の持ち主に戻されるべしという内容のものである。貴族や裕福な者が農民の土地を規制する法は,かつてロマノス1世レカペノスやコンスタンティノス7世の時代にも発布されていたが,バシレイオス2世の新法はこの政策をさらに推し進めるものであった。
 この新法は文面も無味乾燥なものでは全く無く,自ら行ったフィロカレスやマレイノスに対する措置にもわざわざ言及し,貧民を犠牲にして富を蓄えている有力貴族を名指しで批判するなど,まさしく専制君主による生の声が聞こえてくるような文章である。祖父などが行った生温い内容の規制ではなく,貴族層の勢力を削ぎ中小農民を保護する政策を断固として実行する,抵抗する者には皇帝自ら乗り込んで制裁を加えることも辞さないという,バシレイオスの並々ならぬ決意が窺われる。
 続く1004年の法は,農民が納める基本税の納税連帯責任制度に変更を加え,個人の納税滞納分はその者が属する村落共同体の構成員ではなく,その地域の有力者に連帯責任を負わせるというものであった。この法の目的は極めて明白であり,大土地所有者に経済的な打撃を与えつつ,皇帝の側は確実に税収を手にすることができる上に,農民の税負担を軽くすることで,貧困のために有力者の庇護下に入らざるを得ないという事態も少なくなる,というものである。
 もっとも,国内の最も有力な階層に属する人々に対する,このように攻撃的な政策が何の抵抗も無く遂行できるはずもなく,このような法の施行を支えたのは,バシレイオスの「緋産室の生まれ」たる正統性と,皇帝自ら率いる強力な軍事力であった。このような皇帝に反乱を起こしても逆効果となるのは明白なので,貴族たちはビザンツ帝国で最も強い影響力を持つ聖職者たちの力に頼った。
 こうして,コンスタンティノポリス総主教を先頭に,聖職者や修道士の代表団が規制緩和を皇帝に願い出たが,聞き入れられることは無かった。かつてないほど強力な支配権を手中にしていたバシレイオス2世は,かつてのユスティニアヌス1世などのように聖職者たちの機嫌を取る必要性を認めなかったのである。また,貧民の生活を保護すること自体はむしろキリスト教の教えに沿ったものであるため,聖職者や修道士たちもバシレイオスを非難するわけには行かなかった。
 愛されるより恐れられることを好んだ感のあるバシレイオス2世は,官僚の助言もしばしば無視するという評判があり,忠誠を疑わしいと思えば容赦なく罰したという。真偽の程は定かでないが,自らの手で役人の首を刎ねたとか,自分に毒を盛ろうとした皇帝寝室係を,宮廷で飼っていた獅子の餌にしたという話も伝わっている。
 後世の知識人であるプセルロスは,バシレイオス2世の統治手法について「書かれた法に従うことも無く,何もかも一人で決めた」と評している。「緋産室の生まれ」という神秘性と軍事力のおかげで,バシレイオス2世は思うままに振る舞うことができ,同時代のビザンツ人たちは,彼の統治にほとんど批判の声を挙げることはなかった。ディオクレティアヌス帝によって始められたローマ帝国ないしビザンツ帝国の皇帝による専制支配体制は,バシレイオス2世の時代にその絶頂期を迎えたと評されている。
 ただし,バシレイオス2世も国内の軍事貴族を撲滅しようなどと考えていたわけでは無く,軍事貴族の行き過ぎた抬頭と貧民への搾取を防止しただけである。バシレイオスから露骨に敵視されたフォカス家のような軍事貴族もいる一方,彼の治世下で功績を挙げ,後に皇帝候補として名前の挙がったコンスタンティノス・ダラセノスのような軍事貴族もいる。また,バシレイオス2世は戦争で父親を亡くした将軍たちの子供の保護や養育に努め,彼の許で育てられた将校たちは,バシレイオスを実の父親のように尊敬するようになった。軍事貴族の家系に生まれ,後に皇帝となったイサキオス・コムネノスも,バシレイオス2世を親代わりとして育った人物の一人である。
 一方,この時代には既に独立の都市国家となっていたヴェネツィアとは,992年に同盟を締結し,海軍支援と引き換えに首都へ入港するヴェネツィア船への基本税を減額する黄金印璽文書を発給している。この同盟は,南イタリアにおける軍事行動への支援獲得と,シチリア島のイスラム勢力への対抗が主な目的だったようである。その他,南イタリアにあるベネディクト派のモンテ・カッシーノ修道院や,当時海洋都市国家として頭角を現していたアマルフィとも良好な関係を築いている。
 バシレイオス2世はイスラムやスラヴ系の海賊へ対処するにあたり,自前の海軍を育成するのではなく,海軍力のあるヴェネツィアやアマルフィとの同盟を選んだようである。彼の治世下,ビザンツ海軍を増強した形跡は見られない。そしてバシレイオス2世の治世以後,ビザンツ海軍は緩やかな衰退に向かうことになる。

(5)バシレイオス2世の軍事的成功

東方での戦争と領土拡大

 バシレイオス2世には,先の軍人皇帝ニケフォロス2世やヨハネス1世と異なり,異教徒に対する戦争熱の面影はなかった。ビザンツ帝国の二度にわたる内戦期の間に,ニケフォロス2世やヨハネス1世がイスラム勢力から奪った領土はエジプトのファーティマ朝によってほとんど奪われており,987年ないし988年に,ビザンツ帝国とファーティマ朝との間には7年間の休戦協定が締結された。
 しかし,995年にファーティマ朝の軍勢がアレッポに迫っているとの報を聞くと,バシレイオスは当時ブルガリアと交戦中であったにもかかわらず,1万7千の兵を率いて稲妻のような速さで東方に向かい,突然のバシレイオス2世接近の報に驚いたファーティマ朝の軍は大混乱に陥り,戦わずに野営地を焼き払ってダマスカスに後退したという。
 その後,バシレイオス2世はタルソスを占領したほか,タイヤの反ファーティマ朝蜂起を扇動するなどの手段も駆使してファーティマ朝との戦いを続け,1001年にファーティマ朝のカリフ,アル・ハキームとの間で和睦を成立させた。その後,アル・ハキームは侵略戦争より内政に重点を置くようになり,1009年には彼の命令でエルサレムの聖墳墓教会が破壊されると両国の関係は緊張状態になるが,それでも戦争が再開されることはなかった。
 このように,バシレイオスはイスラム勢力に対し積極的な侵略戦争を行うことはなく,イスラムとの戦いは支配地域における既得権益を守ること,とりわけ北シリアからビザンツ帝国の勢力を排除しようとするファーティマ朝への応戦が主眼となった。ファーティマ朝との和睦によりその目的が達成されると,ファーティマ朝やその他のイスラム勢力との間では比較的平和な状態が続いたのである。
 バシレイオス2世の時代にも東方における領土拡大はあったが,どちらかと言うとイスラム勢力よりキリスト教勢力から奪ったものが多く,しかもその大部分は征服ではなく条約によって達成されている。
 アルメニアは7世紀中にイスラム帝国の支配下に置かれていたが,イスラムの勢力が衰退すると独立に向かい,884年にはアショト1世によって,バグラトゥニ朝アルメニア王国が成立していた。この王国は10世紀後半になるとアニを首都とし,アニは経済的・文化的な中心地として栄えたが,ガギク1世(在位989~1020年)の時代になると,アルメニアは内乱と東方からのトルコ人侵入によって分裂と混迷を深めており,ビザンツ帝国に隣接するアルメニア諸王国は,内乱と東方からのトルコ人侵入によって分裂と混迷を深めており,ビザンツ帝国の保護と支援を求めていた。
 アルメニアとグルジアとの間にあった黒海岸の君主国タオの統治者であったダヴィドは,バルダス・スクレロスの反乱の際にはバシレイオス2世側に付いたが,バルダス・フォカスの反乱の際には反乱軍側に与したため,バシレイオス2世から強力な懲罰遠征軍を送られることになった。ダヴィドはビザンツ帝国と和解し,自身がビザンツ帝国からクーロパラテースの爵位を受けるのと引き換えに,自分の死後は国をバシレイオスに譲るとの遺言書を作成した。1000年ないし1001年にダヴィドが死ぬと,バシレイオスはタオを帝国のテマ・イベリアとした。他の君主国もこれに倣い,アルメニアの領土をバシレイオスに引き渡すのと引き換えに,小アジアの領土やビザンツの高位宮廷称号を受け取る者が多かったので,ガギク1世が没する頃には,アルメニア王国の南西部は概ねビザンツ帝国に併合された。
 一方,アルメニアの北方にある黒海東岸のグルジアでは,1008年にバグラト3世がグルジア連合王国を成立させていたが,1014年にバグラトの後を継いだジョルジ1世(在位1014~1027年)は,ビザンツ帝国によるタオの併合に異を唱え,1015年から1016年にかけてビザンツ帝国に対する遠征を行い,既にビザンツ領となっていたタオを占領した。
 ジョルジ1世は,ファーティマ朝のアル・ハキームと同盟してビザンツを挟撃することを試みていたが,アル・ハキームは1021年に死去し,西方のブルガリア征服を完了したバシレイオス2世は,1021年から1023年にかけてグルジアへ遠征を行った。この戦争はビザンツ帝国側の決定的勝利に終わり,ジョルジはタオを含むグルジア南西部の領有権に関する主張を放棄させられ,彼の息子バグラト(後のバグラト4世)は人質としてコンスタンティノポリスに送られることになった。
 そして,ガギク1世の後を継いだアルメニア王ホヴァネス・スムバト(在位1020~1040年)は,1022年に自分の死後はビザンツ帝国に王国を譲ることを約束した。もっとも,1041年にホヴァネス・スムバトが死去すると,後継者のガギク2世(在位1042~1045年)はアニの引き渡しを拒否し抵抗したため,ビザンツ軍によるアニの併合は,コンスタンティノス9世時代の1045年に行われた。こうした外交と征服の成功により,ビザンツ帝国の領土はこれまでなかったほど東へ広がり,ヴァン湖の東側にまで達したのである。

ブルガリア王国の併合

 外征面におけるバシレイオス2世最大の功績は,やはりブルガリアの完全征服を成し遂げたことにある。ブルガリア王を名乗った前述のサムイルは,バシレイオス2世がフォカスの反乱で反撃に出られないのを良いことに,最盛期には黒海からアドリア海に達するバルカン地方の一帯を支配し,ビザンツ帝国には南部の沿岸部が残されるのみとなった。
 バシレイオス2世は,先帝ヨハネス1世により首都で軟禁生活を送っていたブルガリア王ペタルの息子,ボリス2世とロマン1世の兄弟を977年に解放してサムイルに対抗させようとしたが,ボリス2世は殺され,ロマン1世はサムイルの傀儡としてブルガリアの共同王位に祭り上げられ,バシレイオスの企図は失敗に終わっていた。
 しかし,フォカスの反乱を鎮圧し態勢を立て直したバシレイオス2世は,990年頃から態勢を立て直して反撃を開始した。親政を始めたバシレイオス2世の初戦がこのブルガリアに対する手痛い敗北であったことは既に述べたが,バシレイオス2世はこの失敗を教訓とし,バシレイオスはテッサロニケ総督のもとにこの地域の行政機構を再編し,991年から995年まで,毎年のようにブルガリアへ遠征を行った。なお,サムイルの傀儡としてブルガリアの共同王位にあったロマンは991年にビザンツ軍に捕らえられ,虜囚の身のまま997年に亡くなっている。
 もっとも,995年にはファーティマ朝の軍勢がアレッポに迫ったため,バシレイオス2世自身は東方戦線に向かわざるを得なかったが,997年には配下の将軍ニケフォロス・ウラノスが,スペルキオス川の戦いでサムイルの軍勢を撃破した。この戦いで,サムイルとその息子ガヴリルは,辛くも戦場から逃げおおせたという。やがて東方の情勢が安定すると,バシレイオス2世はブルガリアとの戦いに専念できるようになり,1000年頃からビザンツ帝国はプレスラフやプリスコヴァを奪回し,翌1001年にはエデッサ,ベレア及びセルビアの支配を回復するなど,次第に東部の領土を奪回して行った。
 1002年にはフィリッポポリスを拠点とした軍事作戦を展開し,ブルガリアの中心地であるマケドニアとモエシアの連絡を遮断した。1003年にはヴィディンの町を包囲し,8か月にわたる包囲戦の末に降伏させた。これに対し,サムイルはビザンツ帝国のトラキア地方に進軍し,アドリアノポリスを急襲している。1004年,バシレイオスはスコピエの戦いでブルガリア軍を破り,スコピエはこの戦いの直後に降伏したが,バシレイオスはその知事ロマン・シメオンにパトリキオスの爵位を与えるなどして厚遇した。翌1005年にはデュラキオンの知事アショット・タロナイツもビザンツに投降し,彼もバシレイオスによってビザンツ帝国の爵位を与えられ,手厚く処遇された。
 デュラキオンの投降はサムイルによって大きな打撃となり,以後サムイルは守勢に立たされることになる。サムイルはマジャル王国との同盟などで対抗するが,建国しキリスト教を受け容れたばかりで国内の統一事業に忙しいマジャルにブルガリアを救援する余力はなかった。一方,ビザンツ軍もその後数年間は目立った成果を挙げていないが,この間も毎年のようにブルガリアの奥深くへ進軍して略奪や放火を繰り返し,ブルガリアの国力を削いでいったようである。1009年にはテッサロニケ東方のクレタ村でブルガリア軍を破っている。
 対ブルガリア戦における最も有名な戦いは,1014年に行われたクレディオン峠の戦いである。この戦いはブルガリアのクリュチ村付近,ベラシツァ山脈とオグラジュデン山との谷間で起こったとされる。7月29日,ブルガリア軍の後部を,将軍ニケフォロス・クシフィアス率いるビザンツ軍が攻撃し,これによってブルガリア軍は大敗を喫した。もっとも,バシレイオス2世はテッサロニケ総督のテオフィラクトス・ボタネイアテスにブルガリア軍を追撃させたが,彼はブルガリア軍の待ち伏せ作戦にはまって戦死し,クレディオン峠における勝利を帳消しにしてしまっている。
 この戦いに関する有名なエピソードとして,勝者となったバシレイオス2世が1万4千人(または1万5千人)のブルガリア兵を捕虜とした際,兵士100人のうち1人についてはその片目を潰し,残りの兵士たちについてはその両目を潰して故郷に送り返し,この光景を見たブルガリア王サムイルは驚きのあまり卒倒して死去したというものがある。
 同時代人がこの事実に言及していないこと,1万5千人という捕虜の数が戦いの規模に比較し明らかに多すぎることなどから,このエピソード自体は後世の創作だとする見解が有力である。ただし,バシレイオスは995年にもベドヴィン族の捕虜に右腕の切断刑を科し,1021~1022年にもグルジア人捕虜の目を潰したと伝えられており,戦争捕虜に対するこの種の肉体刑は,当時の戦争ではごく普通に行われていた。また,バシレイオスは相手がキリスト教徒であれ,イスラム教徒であれ,敵に対しては断固たる懲罰を加える人物であった。
 そうであれば,1万4千人ないし1万5千人という数字は大幅な誇張だとしても,エピソードの基となるような事実があった可能性を完全に否定することはできまい。また,この戦いに敗北したブルガリア王サムイルが,1014年10月6日に死去したのも事実である。
 ブルガリアは死去したサムイル王に代えてその息子ガヴリル・ラドミール(在位1014~1015年)を擁立したが,バシレイオスは彼の従兄弟にあたるイヴァン・ウラディスラフを扇動し,ガヴリルを殺害させた。ガヴリルを殺してブルガリア王に即位したイヴァン・ウラディスラフ(在位1015~1018年)は,デュラキオンを与えられる代わりにビザンツの宗主権を認めると約束したが,イヴァンは自分の王位を安定させると間もなくこの約束を破り,ブルガリア軍はいくつかの城や町を取り返し,ビザンツ軍は1015年9月のビトラの戦い,1016年夏のペルニクの包囲戦で相次いで敗れている。
 バシレイオス2世は,1017年にエデッサ付近のセティナでブルガリア軍を破ったが,この戦いはブルガリア軍の待ち伏せ作戦にはまったコンスタンティノス・ディオゲネスをバシレイオス自らが救助してブルガリア軍を後退させたというものに過ぎなかったので決定打にはならず,バシレイオスは首都に引き返した。もっとも,1018年にイヴァン・ウラディスラフ王がデュラキオンの攻囲戦で,守備隊の反撃により戦死すると,ついにブルガリアは抵抗を諦め,ビザンツ帝国への降伏を決めた。
 局面の決定的な転換を知ったバシレイオス2世は,ブルガリア人の降伏を確実なものとするため,コンスタンティノポリスから出立した。皇帝がアドリアノポリスから西に進軍すると,ブルガリア人の指導者たちはその権威を承認した。ストルミツァでは,イヴァン・ウラディスラフの寡婦マリアから,3人の息子と6人の娘,及び多くの若い王族たちの降伏を約束した書簡を受け取った。バシレイオスはオフリドに軍を進め,サムイルの宮殿から金銀財宝を奪取し軍隊に分配し,この宮殿でマリアと彼女の大家族を迎え入れた。マリアは,後にゾースデー・パトリキアの称号を授けられるという異例の栄誉に浴した。
 オフリドから,バシレイオスはプレスバ湖とカストリア方面へと帰途につき,至るところでブルガリア人の指導者が出頭して恭順の意を示し,帝国の爵位と栄誉を与えられて首都に送られた。その後皇帝は,配下の軍隊をラリッサ経由でスペルキオス川へ行軍させ,そこで約20年前に戦死したブルガリア兵の遺骨を目にして驚嘆し,さらにテルモピュレーを通過する際には要塞施設に感嘆するなどしつつ,アテネに至った。
 パルテノン神殿内の聖母教会で,バシレイオス2世は勝利に対する感謝を捧げ,すばらしく豪華な供物を贈った。この訪問を終えると,首都に戻り凱旋式を挙行したが,その際にはオフリドのサムイル宮殿で得られた戦利品や,ブルガリア王家の面々が人々の前を行進した。最後に皇帝は聖ソフィア教会に入り,勝利を授けてくれた神に感謝の意を表した。
 ブルガリア征服は成功に終わったが,長期にわたる戦争の結果,双方の陣営に多数の死者が出たことは間違いない。バシレイオスは将来にわたりビザンツとブルガリアの良好な関係を確保するために,既に述べたとおりブルガリアの王族や貴族たちに爵位を与え寛容な姿勢を示すのみならず,ブルガリア人貴族とビザンツ人の結婚を奨励した。また,当時のブルガリアで貨幣経済が発達していなかったことに配慮して,帝国の他地域と異なり租税の物納を認め,その他現地の慣行を続けることも容認した。
 このようなバシレイオス2世の被征服者ブルガリア人に対する寛容な姿勢は,別段特異なものではなく,偉大な征服事業を成し遂げた将軍が被征服地の住民に対する最も寛大な理解者となるのは歴史上珍しいことではない。かつてのユスティニアヌス1世が戦争のほとんどを配下の将軍たちに任せ,一方で戦後処理は宦官を中心とする文官たちに委ねたため,同帝による征服地の統治が遠征費用を取り戻すための圧政と化したのに対し,バシレイオス2世は自ら軍を率いてブルガリアを征服したため,被征服者ブルガリア人の善き理解者となったのである。
 もっとも,バシレイオス2世のこのようなブルガリア統治政策は後継帝たちに受け継がれず,総じて圧政と化したためにブルガリアは常に反乱の火種となる不穏な地と化し,200年近く後になり第2次ブルガリア王国の建国を許す事態となった時期にバシレイオス2世の偉業が追想され,その時代の歴史家ニケタス・コニアテスにより「ブルガリア人殺し」のあだ名が付けられたのだが,このあだ名は彼の業績を矮小化するのみならず,彼がひたすらブルガリア人を殺戮することばかり考えていたかのような誤解を与えかねないので,本来適切なあだ名とは言えない。
 その他,バシレイオス2世は1016年,ハザール汗国の壊滅で勢力の空白地帯になっていたクリミア半島に出兵し,クリミア南部を支配下に組み入れたほか,南イタリアにおけるランゴバルド人との戦いにも勝利し,彼の治世下におけるビザンツ帝国の版図は,北はドナウ川,南はクレタ島,東はシリア・アルメニア,西は南イタリアに及び,ユスティニアヌス1世時代に次ぐ大帝国となった。ミカエル・プセルロスは,バシレイオス2世の治世について「帝国はかつてないほど強力で豊かになった」と評している。

バシレイオス2世による成功の要因と背景

 後代の史家プセルロスは,バシレイオス2世がこのように大きな軍事的成功を収めた要因として,彼が他の皇帝たちのように春に出陣して秋には戻るといった戦い方をせず,作戦が成功するまで首都に帰還しなかった点を挙げている。
 軍事に関しては全くの素人であるプセルロスの見解を鵜呑みにするのは危険であるが,バシレイオス2世の戦歴を見ると,目を見張るような軍事的才能により短期間で大勝利を挙げたわけではないが,半世紀近くにもわたる長期間の在位に加え,目標を達成するまで戦いを止めず,かつ目的達成のためなら,様々な調略を含め手段を選ばないというのが,彼の戦い方の特徴であった。
 特に,バシレイオス2世がビザンツ帝国にとって長きにわたる天敵であったブルガリアの併合という伝説的な偉業を達成できたのは,長きにわたる戦いの中ではビザンツ軍が敗れることもあるなど両国の軍事力は拮抗していたところ,毎年のように自ら軍を率いてブルガリア領の奥深くへ遠征し,放火や略奪を行って執拗にブルガリアの国力を削ぎ,一方でビザンツ帝国の権威と豊富な資金力を活かしてブルガリアの高官を寝返らせ,最後には降伏を表明したブルガリアの王族や貴族たちを寛大に処遇することで彼らの降伏を確かなものにするという,硬軟両面の作戦が功を奏したものと評することができる。
 これに加えて,バシレイオス2世による軍事的成功の背景には,ビザンツ帝国の周辺諸国が揃って弱体化していたという事情もある。バグダードのアッバース朝はもはや破産状態で国家の体を成しておらず,後にアッバース朝カリフからスルタンの称号を授けられ勢力を広げるセルジューク・トルコも,バシレイオス2世の時代にはまださしたる勢力ではなかった。
 カイロのファーティマ朝も10世紀末には早くもスンニ派地方勢力の自立が始まり,その勢いは衰えていた。北方のキエフ公国は同盟国であり特に脅威はなく,西方でドイツとイタリアを統治していた神聖ローマ帝国(当時はローマ帝国と称していたが,以下便宜上「神聖ローマ帝国」で統一する)や新興のマジャル王国もさほど強力な国ではなく,西欧にビザンツ帝国の脅威となるような勢力は無かった。
 世界的に見ても,バシレイオス2世の在世中に隆盛を極めていた他の大国家は見当たらず,まさにバシレイオス2世率いるビザンツ帝国の一人勝ち,という時代であった。だからこそ,バシレイオスは東方の情勢を安定させると,ビザンツ帝国にとって長年の宿敵であったブルガリア王国との戦いに専念することができ,その長い治世にも恵まれて,ブルガリアの完全併合という伝説的な業績を挙げるに至ったのである。
 また,バシレイオス2世の性格については,敵や自分に忠実でない臣下たちには容赦のない独裁者というイメージばかりが強調されがちであるが,東方ではアルメニアやグルジアの諸君主と条約を結び平和裡にそれらの領土を併合し,ブルガリアでも敵の司令官を懐柔して寝返らせ,自分に降伏してきた者には手厚く処遇し,また大貴族の横暴を抑え貧民の生活を守るという慈悲深い君主という側面があったことも見逃してはならない。先代のヨハネス1世と同様,バシレイオス2世もブルガリアを,最終的には武器ではなく恩恵によって打ち破ったのである。

(6)バシレイオス2世の倹約

 ユスティニアヌス1世が相次ぐ遠征で国力を疲弊させ国庫を借金の山にしたのと異なり,バシレイオス2世の時代には財政面でも余裕があった。彼はマケドニア王朝の正統な後継者であり,さらに相次ぐ戦勝によってその権威を不動のものとしていたので,前後の皇帝たちが行ったような人気取りのためのばら撒き政策はせず,またその必要もなかった。
 バシレイオス2世は敬虔なキリスト教徒であったが,ユスティニアヌス1世などと異なり,教会や修道院の建設や財産の寄進などによって,殊更に有徳のキリスト教皇帝という像を作り上げようとはしなかった。彼が建設したと伝えられる教会は,自らの墓所となった首都郊外にあるヘブドモン村の聖ヨハネ教会くらいである。大宮殿の行政官たちの機嫌を取ろうともせず,皇帝の権威を見せつけるための豪奢な生活とも無縁であった。彼は自ら軍を率いて戦うことが多く,兵士たちと食事を共にしていた。
 そのため,相次ぐ遠征にもかかわらず宮殿の倉庫は財宝で満ち,皇帝の命令で倉庫が拡張されるほどであった。もっとも,緊縮財政が長く続いたので帝国の経済発展は抑制され,首都の民衆は不況に喘いでいたとされるが,後の諸帝が首都の建築事業などに熱中し属州の反感を高めたことを考慮すれば,バシレイオスは首都と属州の格差を縮めるよう試みたともいえるかも知れない。
 そんな中,バシレイオス2世が唯一惜しみなく金を注ぎ込んだのは,彼の手足となって戦う外国人傭兵部隊であった。彼が好んだのはビザンツの文化的影響下にある,アルメニア人やロシア人といったキリスト教徒の兵士たちであり,彼の軍隊にはそのような外国人の割合が多かった。ヴァリャーグ親衛隊などと呼ばれる,独特の大きな戦闘斧で武装した皇帝親衛隊を発足させたのもバシレイオス2世とされている。

(7)軍事貴族の不満と後継者対策の欠如

 不動の盤石さを誇るかに見えたバシレイオス2世の治世だったが,彼によって抑圧されていた軍事貴族たちの不満はくすぶっていた。1021年,バシレイオスがアルメニアへ遠征している間に,かつて反乱を起こしたバルダス・フォカスの息子ニケフォロス・フォカスが,同じ小アジアの豪族であり,クレディオン峠の戦いをはじめ対ブルガリア戦争で大きな功績を挙げた将軍ニケフォロス・クシフィアスと手を組んで反乱を起こした。 
 この反乱は小アジアで広範な支持を集め大規模なものになりかけたが,首謀者であるフォカスとクシフィアスとの間で仲間割れが起きフォカスが殺害されたため,反乱は短期間であっけなく潰え,関係者全員の所領を没収する口実をバシレイオスに与えるだけの結果に終わった。
 もっとも,こうした反乱が起こった背景には,バシレイオス2世が996年の法でフォカス家を「富や土地を集積する最悪の輩」とわざわざ名指ししていたことに象徴される,軍事貴族たちに対する極めて抑圧的な政策だけでなく,バシレイオス2世がその極めて長い治世を享受しながら自らの後継者対策を全く怠っており,晩年には彼のマケドニア王朝自体が断絶の危機に直面していたことを挙げる見解もある。
 バシレイオス2世は生涯を通じて結婚しなかったため,子供はいなかった。彼がなぜ結婚しなかったのかは後世のビザンツ人も奇異に感じたらしく,前述のスクレロスから「女を宮廷に入れるな」と助言されたという伝承もある。
 彼には弟コンスタンティノスがおり,コンスタンティノスはヘレネ・アリュピアという女性と結婚してエウドキア,ゾエ,テオドラという3人の娘をもうけていたが,バシレイオス2世はこの弟を一貫して政治から遠ざけていたほか,自分の姪たちを適当な人物と結婚させて自分の後継者候補とすることもなく,バシレイオス2世が死ぬ頃には,姪たちは未婚のまま中年期ないし老年期に入っていた。
 つまり,反乱を起こした軍事貴族たちは,このようなマケドニア王朝断絶の危機にバシレイオス2世が何らの対策も講じようとしないのに絶望し,自分たちで何とかしようと反乱を起こしたのではないかという見解もあるということだが,当のバシレイオス2世にしてみれば,自身の後継者となる姪の結婚相手を選ぶとすれば,彼の最も恐れていた軍事貴族の誰かということになりかねず,そのような者がマケドニア王朝の娘婿として帝位継承権を手中にすれば,たちまちバシレイオス2世の有力な政敵になりかねなかった。
 彼が生涯にわたって結婚しなかったのも,その禁欲的志向というだけでなく,幼い頃に自分の母テオファノが皇帝ニケフォロス2世の殺害に関与したのを目の当たりにしていることから,皇后やその一族が自分の政敵になることを恐れた結果かも知れない。
 1025年,バシレイオス2世は首都で新しい総主教を任命し,シチリアへの遠征を準備している途中で病に倒れ,間もなく死去した。享年67歳,その在位期間は50年近くもの長きに及び,当時のビザンツ人には即位以前の時代を知っている者がほとんどいないほどの長い在位であった。
 彼は最後まで謎めいた皇帝として,多くの歴代皇帝たちと同様に首都の聖使徒教会に葬られるのではなく,彼自身の命令により,首都の郊外にあるヘブドモン村に埋葬された。彼がなぜこの地を自らの墓所としたのかは明らかでない。自分の嫌いな宮廷人や貴族たちと距離を置きたかったのかも知れないし,敢えて首都の郊外に自らの墓所を置くことにより,もはやビザンツ帝国は首都の大城壁に頼らなくとも存続していける強力な国家になったことをアピールしたかったのかも知れない。
 バシレイオス2世が自ら書いたのかも知れない彼の墓碑銘は,「朕は生涯を通じて警戒を怠ることなく,新しいローマの子供たちを守ってきた。西方においても,東方の前哨基地においても,勇敢に戦った。おお,朕の墓をここで目にする者よ,汝の祈りでもって朕の軍征に報いてくれ」と,自らの軍事遠征に対する成果を強調している。
 歴代ビザンツ皇帝の中で,最も強力な皇帝がバシレイオス2世であったことに疑いの余地はない。彼は教会を特に優遇しなかったので「大帝」の尊称こそ贈られなかったが,後のビザンツ人から偉大な皇帝として尊敬され,現代のギリシア人も諸都市に「ヴルガノトロクス(ブルガリア人殺し)通り」を設けて彼の偉業を称えている。しかし,彼がビザンツ帝国最高の名君であったかと問われると,そのように言い切るのはやや難しい。
 確かに,彼の治世下でビザンツ帝国は輝かしい軍事的成功を収め,征服地の統治にも意を用いていたし,不正の撲滅に取り組み,大土地所有者の勢力拡大を強力に抑圧し,貧富の差の拡大を防止した内政的業績も極めて高い評価に値する。
 彼が文化事業にあまり熱心でなく,首都の繁栄に関心を示さなかったことは事実であるが,彼の治世下で平和を享受した地方は経済的に繁栄し,帝国の財政は破綻するどころかむしろ余裕があった。だがそれだけに,彼が後継者対策を全く怠り,自ら築き上げたビザンツ帝国の栄光を持続させようという努力を全くしなかったことは理解に苦しむ。
 もっとも,歴代ローマ皇帝ないしビザンツ皇帝の中で,後継者を指名せずに亡くなった者自体は少なからずいた。その大半は在位期間が短く後継者対策を考える余裕がなかったか,即位時既に老齢であった者であるが,テオドシウス2世のように若くして即位し,長期間在位しながら後継者なく没した例もあり,それでも後継者の不在によりローマ帝国ないしビザンツ帝国が急速に没落したことは今まで無かったので,バシレイオス2世は自分が後継者対策を行わなくても,ビザンツ帝国は今までどおり存続していけるだろうと考えたのかも知れない。
 仮にそうであれば,バシレイオス2世はビザンツ帝国における自分の存在価値を明らかに過小評価していた。権勢欲の強い宮廷人と軍事貴族の双方を抑えつけるバシレイオス2世の統治手法は,ほとんど彼にしか出来ないものであり,彼がいなければ維持できないものであった。自ら生涯を掛けて築き上げたビザンツ帝国の栄光がその死後脆くも崩れ去って行く過程を,黄泉の人となった彼が仮に見ていたとすれば,なぜこうなったのかと頭を抱えたのではなかろうか。
 いずれにせよ,バシレイオス2世の築き上げたビザンツ帝国の栄光は,有効な後継者対策によりその政策の継続性を担保する措置が取られなかったことにより,彼一代限りのものになることを運命づけられていた。彼の死後は無能な弟コンスタンティノス8世が後を継ぎ,ビザンツ帝国は混乱と衰退の時代を迎えるが,それも歴代皇帝の無能や怠慢というよりは,バシレイオス2世の後継者対策に関する驚くべき怠慢にあったことは認めざるを得ない。この点が,バシレイオス2世に対する歴史的評価を難しくしている最大の原因である。

<幕間18>ビザンツ帝国の軍事貴族

 ビザンツ帝国史上最強の専制君主である「ブルガリア人殺し」バシレイオス2世すら恐れさせた,ビザンツ帝国の軍事貴族とは一体どのような存在であったのだろうか。
 我々日本人が中世ヨーロッパの貴族というと,真っ先に思い浮かぶのはおそらく西欧の騎士,すなわち馬に乗って頑丈な鎧を身に付け,長い槍を持って突撃する騎士たちの姿であろう。しかし,ビザンツ帝国の軍事貴族は,こうした騎士に象徴される中世西欧型の貴族とは大きく異なる。
 西欧諸国の貴族は,フランク族をはじめとするゲルマン諸民族がローマ帝国の領土に侵入して定着し,彼らがキリスト教の力を借りて,自らを尊く青い血を持った「貴族」と称したことに由来する。彼らは蛮族であった時代から,自らの使命は専ら戦う事と心得ており,貴族として生まれた者は幼少の頃より狩猟や軍事鍛錬に明け暮れ,ろくに文字の読み書きすら出来ないものも稀ではなかった。
 もっとも,西欧の貴族も14世紀前後になり,軍事技術の発達に伴い騎士の突撃戦術が役に立たなくなると次第に官僚化していくが,それ以前の時代では西欧の貴族は「戦う人」であるのが当然とされており,わざわざ「軍事貴族」などと呼ぶ必要は無かった。
 これに対し,ビザンツ帝国ではまず「貴族」の概念自体が曖昧である。そのイメージに合いそうなのは高級官僚や高級軍人の一族であるが,ビザンツ帝国の高級官僚は権勢を振るいながらも自らを「皇帝の奴隷」と謙遜しており,皇帝の一存次第でその地位を追われ没落してしまう危険を常に抱えていた。軍人も基本的には同様であったが,軍事的才能に恵まれ軍功を立てた高級軍人は,兵士たちからも慕われているので,反乱でも起こさない限り皇帝も簡単には解任できず,代々有能な軍人を輩出する家系は,富を蓄え「軍事貴族」となりやすい土壌にあった。
 ビザンツ帝国では,当初「皇帝の奴隷」たる者は姓を名乗るべきではないという風潮があったらしく,自分たちの姓を名乗る名門家系がビザンツの歴史上本格的に登場するのは10世紀に入った頃である。この時期からみられる最も古い軍事貴族の家系とされているのは,ニケフォロス2世の項目で触れたフォカス家,クルクアス家,ドゥーカス家などである。
 彼らは小アジアの地主で,何世紀も前から国境地域でイスラム軍を相手に戦ってきた一族とされているが,詳しい史料がないのでその詳細は分からない。ただ,10世紀に入ると,小アジアの有力家門が現地の農民から土地を買い占めるなどの方法で所領を拡大しつつあることが帝国政府でも問題視されるようになり,これらの家系もそうやって急速に勢力を拡大するようになったものと推測される。
 922年,ロマノス1世レカペノスは,小アジアの貧農が何らかの理由で土地を売却する場合,近親者や隣人に優先的な購入権を与え,それらの者に購入する能力や意志がない場合のみ,第三者に土地を購入する権利を認めるという法を制定し,こうした所領拡大を防ごうとした。
 しかし,この法はあまり効果が無く,927~928年の冬は寒さが厳しく飢饉が生じたため,これに乗じて多くの貴族が困窮した農民の土地を買い叩いた。その後もロマノス1世やその政策を継承したコンスタンティノス7世は,様々な法規制で有力家門の勢力拡大を防ごうとするも,うまく行かなかった。
 この時期には,有力家門の構成員がテマ長官の地位を独占するようになっていたため,おそらくコンスタンティノス7世の時代に,テマ長官は軍の指揮だけを行うものとされ,行政問題は別人に委ねられるようになり,これも有力家門の勢力拡大を防ぐ方策の一つであった。
 こうした軍事貴族は,コンスタンティノス7世の項目で言及した『ディゲニス・アクリタス』に象徴される素朴で好戦的な精神を持っており,精神的にもギリシア古典,手の込んだ儀式,豪華な装飾などに飾られる首都の宮廷とは一線を画していた。軍事貴族たちは,コンスタンティノポリスはまるで伝染病のように避けるべきものであると考えており,ある貴族は自分の息子に対し,次のように助言している。
「お前が土地・要塞・領地を所有し,その支配者であるなら,金や名誉称号,はたまた皇帝の気前のよい約束などに誘惑されないように。お前はもちろん,子供・孫たちが土地,そして権力を持っている限り,皇帝以下すべての者の眼に,お前たちはひとかどの人物,名誉ある,尊敬に値する,高貴な存在と映るからだ。」
 もっとも,軍事貴族は所領を拡大して帝国を困らせる存在であると同時に,国境の防衛や帝位の確保に欠かせない役割を果たす存在にもなっていた。904年には,アンドロニコス・ドゥーカスという人物が,小部隊を率いてゲルマニケイアの地でイスラム軍を撃退するという勲功を立て,一躍英雄視された。彼の姓は,祖先の一人が総督(ドゥークス)の職にあった有名人であり,その人の子孫であるという誇りを示すために名乗ったものと推測されている。もっとも,アンドロニコスはその後政治的対立によってバグダードへの亡命を余儀なくされ,その息子コンスタンティノスは帰参を許されるも,913年に帝位簒奪を企てて失敗し殺されたことは,コンスタンティノス7世の項目で述べたとおりである。
 ロマノス1世レカペノスの即位を支援したヨハネス・クルクアスは,919年にその恩賞としてスコライ軍団司令長官に任命され,920年代に長らくイスラム勢力の勢力拠点となっていたメリテネの町とその周辺地域を奪還するなど,東方戦線で大きな軍功を立てた。
 コンスタンティノス7世が復位を果たすと,復位に貢献したバルダス・フォカスがスコライ軍団司令長官に任命され,その息子は皇帝ニケフォロス2世となった。有力な軍事貴族が帝位に就くことによって,ビザンツ帝国は首都の雰囲気も政策も一変することになった。
 ニケフォロス2世が暗殺された後もフォカス家は生き残り,その一族は皇帝バシレイオス2世に対し2度も反乱を起こした。バシレイオス2世は本文で述べたように,かなりの強硬手段により軍事貴族による大土地所有を抑制したが,軍事貴族の存在自体を抹殺しようとまではしなかったし,そのようなことは不可能であった。
 貧者の土地を取り上げることは禁圧されても,軍事貴族たちは休耕地だった土地を新たに耕作したり,水車のような新たな技術を導入したり,オリーブのように生育に何年もかかる作物に投資したりすることで,自らの所領を成長させていった。また,バシレイオス2世の治世晩年に反乱を起こしたニケフォロス・クシフィアスが,クレディオン峠の戦いの功労者でもあったことからも分かるように,バシレイオス2世も軍事貴族たちの将才や兵力を活用し,戦功を挙げた者には褒賞として土地や財産を与えたので,彼の治世下でも軍事貴族たちが力を付けることは十分可能であった。
 このような経緯で台頭してきたビザンツの軍事貴族は,困窮した農民の土地を買い叩くなどして自らの勢力圏を築いてきたため,国王からまとまった範囲の土地に封じられた西欧の貴族とは異なり,所領となる農地は各地に分散している場合が多かった。そのため農地は小作人に貸し出される場合が多く,家長による直接経営は困難であった。家長によって直接扶養される従者や奴隷もいたが,その数も限られていた。
 このような不安定要因を抱えながらも,軍事貴族は地域社会の指導者として,住民間の紛争の調停や税金の割り振りなどの場面で活躍した。軍事貴族はその経済力に加え,いざとなれば従者たちを武装させることも出来たので,その力を背景にすることができたのである。
 軍事貴族は,バシレイオス2世が亡くなり帝国が再び不安定になると,ロマノス3世の時代に大土地所有抑制政策が放棄されたこともあって更に勢力を拡大させた。また,この時代の軍事貴族は,しばしば無為無策な帝国政府に代わって敵軍に立ち向かい,彼らの反乱を心配する政府の思惑に関係なく,民衆からは危機に立ち向かう英雄とみなされるようになった。1048年,ビザンツ帝国軍はアルメニアの町アルゼを防衛するためセルジューク・トルコ軍と戦うが,皇帝の任命した司令官のグルジア王子リパリトが捕虜となったのに対し,右翼軍を率いたアニの統治官ケカウメノス・カタカロンはトルコ軍を蹴散らし,日没まで追撃の手を緩めなかった。
 その数年後,撤退するビザンツ軍がバルカン山脈でペチェネグ人の待ち伏せを受けて軍の大半が四散したが,その中でニケフォロス・ポタネイテアス(後の皇帝ニケフォロス3世)という将校は,自分の部隊をしっかりまとめて,ペチェネグ人の攻撃を撃退し,整然とアドリアノポリスに帰還した。
 もっとも,ビザンツ帝国において,軍事貴族というのは相対的な概念に過ぎなかった。貴族といえば「戦う人」といった固定観念がないため,軍事貴族といえども通常以上の教育は受けていたし,軍事貴族の家系に生まれながら軍人ではなく官僚になる者もいた。後述するコンスタンティノス10世がその最たる例で,彼は最も古い軍事貴族の家系たるドゥーカス家の出身でありながら,あからさまな文治政策を採り,軍事貴族たちを失望させた。
 1070年代に,前述のカタカロンを輩出した有力な軍事貴族であるケカウメノス家の誰かが書いた『ストラテギコン』という書物は,自分の息子に対し官僚として皇帝に仕える場合,将軍として皇帝に仕える場合の心得について記した後,官職に就かないならば領地経営に専念すべし旨を書き残している。ここでも,官僚になるか将軍になるかは個人の選択に委ねられており,軍事貴族という概念が相対的なものであるという現実が示されている上に,軍事貴族の勢力増大と帝国政府の権威失墜が相俟って,もはや軍事貴族の一族が帝国の官職に就かないことも有力な選択肢としてあり得るものとなったことが窺われる。
 軍事貴族たちの支持を受けて皇帝となったアレクシオス1世は,ビザンツ帝国を軍事貴族の連合政権に再編しその立て直しに成功した。有力な軍事貴族たちは,アレクシオス1世に始まるコムネノス朝の皇帝と縁戚関係を結び,皇帝からプロノイア(恩貸地)の名目で自らの所領に関する権利を保障され,または新たな所領や権利を受けるのと引き換えに,軍役をもって皇帝に奉仕したが,それでも軍事貴族たちは帝国の利益よりも自分の利益を優先することがしばしばあった。ヴェネツィア共和国がビザンツ帝国に対し長期にわたり関税免除の特権を受け続けることが出来たのは,優勢なヴェネツィア海軍に帝国が対抗できなかったという理由もあるが,軍事貴族たちが自領で収穫する穀物などの売り手としてヴェネツィアを必要としており,無関税の方が自分たちの商売にとっても有利になるためヴェネツィアの特権を支持したという理由も大きかった。
 コムネノス王朝時代の軍事貴族には,聖テオドロスや聖ゲオルギオスといった戦う聖人を守護聖人として崇め,「戦う人」という西欧の貴族を模範とする尚武の精神が芽生えたが,本家の「戦う人」である西欧貴族に比べると所詮付け焼刃の感は否めず,ビザンツ軍事貴族の武力は西欧貴族のそれに遠く及ばなかった。もっともその理由は,六大学野球で東京大学の野球部が他大学の野球部にほとんど勝てない理由と同じで,将来官僚になる可能性も考えて相当程度の教育を受けながら武術の鍛錬もしているビザンツの軍事貴族と,小さい頃からひたすら戦う事だけを考えて自らを鍛えている西欧の貴族がまともに戦っても勝負にならないということであり,決してビザンツの軍事貴族が西欧の貴族に人間として劣っているという意味ではない。
 コムネノス王朝によって確立されたビザンツ帝国の貴族連合政権という性質は,ニケーア帝国やパレオロゴス王朝にも受け継がれたが,パレオロゴス朝時代になると,軍事貴族たちは帝国が弱体なのをよいことに,プロノイアを自分たちの世襲の権利とみなし,皇帝に対する軍役の奉仕もしなくなり,当然ながらオスマン朝という新興勢力に対する防波堤としても機能しなかった。この時代の彼らを「軍事貴族」と称するのはもはや適当でなく,単に「貴族」または「金持ちの穀潰し」たる呼称が当てはまる存在となった。
 帝国の小アジア喪失に伴い税負担がますます重くなったビザンツ人の民衆は,プロノイアの名目で世襲の免税特権のみを享受し国家に何らの貢献もしない「金持ちの穀潰し」たちに強い不満を抱き,その首領格であるヨハネス6世カンタクゼノスが皇帝に名乗りを挙げるに至って,民衆の不満はついに爆発した。民衆たちはカンタクゼノスに反抗して暴動を起こし,内乱が長期化する原因となった。
 民衆の反乱はカンタクゼノスによって無慈悲にも鎮圧されたが,軍事力と民衆の支持を失ったビザンツ帝国はオスマン朝の前に無力となり,長年ビザンツ帝国の支配層となってきた貴族たちは,帝国の衰亡とともに歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

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