第15話 『11世紀の危機』前半・ゾエの時代
(1)「兄に似つかぬ遊興者」コンスタンティノス8世
コンスタンティノス8世の治世からニケフォロス3世の治世に至る期間を,ビザンツの歴史上「11世紀の危機」と呼ぶ。この時代は凡庸ないし無能な人物が次々と帝位に就き,バシレイオス2世の時代に絶頂期を迎えていたビザンツ帝国は,一転して滅亡の危機に瀕する状態にまで陥ってしまう。本稿ではこの「11世紀の危機」に属する時代を,この第15話と次の第16話に分けて取り扱う。
この「11世紀の危機」を引き起こした第一走者であるコンスタンティノス8世(在位1025~1028年)は,960年頃の生まれであり,即位当時は既に60代の半ばであった。彼はバシレイオス2世の弟であり,ニケフォロス2世,ヨハネス1世,バシレイオス2世の時代を通じて長く共同皇帝の地位にあったが,一貫して政治的な役割を一切与えられず,兄によって首都から離れたニケーアの宮廷で狩りや入浴,料理などの趣味に没頭するよう仕向けられていた。そのため,既に老年期に達していた即位当時においても,彼の政治経験は皆無であった。
そのような人物が突然皇帝に即位したところで,まともな政治手腕を発揮できるわけもない。政治は宦官たちに任せて,自らは宴会や戦車競走などの娯楽に耽るばかりで,外国からの使節が来た時でさえ,使節たちを待たせたまま盤上遊戯に熱中していることもあったという。
その他,彼については兄に劣らぬ勇敢さの持ち主であることを示すため,古代ローマの剣闘士競技を復活させて自ら野獣相手に戦ったというエピソードも残っているが,彼の経歴及び即位当時60代という年齢を考えると,剣闘士競技の復活はともかく,皇帝自ら野獣と戦ったというのはにわかに信じ難い。仮に事実だったとしても,皇帝は兵士たちによって既に瀕死状態とされた猛獣にとどめを刺す程度が精一杯だったのではなかろうか。
また,長年純金を保ってきたビザンツ帝国のノミスマ金貨について,少量の銀を混ぜ貨幣価値の改悪を始めたのもコンスタンティノス8世の時代からである。深刻な財政難に陥った後々の皇帝たちが貨幣改悪に手を出したのはまだ理解できるが,まだ先帝の遺産により財政的には余裕があったと推測されるこの時期に,早くも貨幣改悪が始まったのは理解に苦しむ。
ただし,軍事貴族に対する抑圧的な政策は彼の治世下でも継続されており,バルダス・フォカスの孫がでっち上げの罪で目を潰され,フォカス家が最終的に取り潰されたのはコンスタンティノス8世の時代である。
もっとも,即位当時既に老齢となっていたコンスタンティノス8世に期待された最大の任務は,兄のバシレイオス2世が怠っていた後継者の選定,すなわち自らの娘婿を決めることであったが,コンスタンティノスはそれすら自らの主導では決定できなかった。長女のエウドキアは天然痘を患い外見が見苦しくなってしまったらしく,自ら修道院に入ってしまったため,後継者は次女ゾエの夫ということになるが,1028年の秋にコンスタンティノス8世が病に倒れると,さすがに帝位継承問題はこれ以上先送りできなくなった。
バシレイオス2世の路線を引き継ぐことのできそうな候補者としては,テマ・アルメニアコンに広大な所領を持つ名将コンスタンティノス・ダラセノスがおり,一時は彼が後継者に決まりかけたが,皇帝の傍に仕える大宮殿の廷臣たちは,自分たちをないがしろにする軍人皇帝の再来を望まなかった。結局,ゾエの夫はマケドニア王朝の遠縁で,首都の行政長官職にあったロマノス・アルギュロスという男に落ち着いたのだが,これもドタバタ騒ぎの結果であった。
帝位継承者として宮殿に呼び出された野心家のアルギュロスは,妻を離縁して,当初は皇帝の次女ゾエではなく,三女テオドラと結婚するよう廷臣たちから告げられた。ゾエは978年頃の出生とされているので,当時既に50歳。今から子供を産むのは絶望的だったが,三女テオドラは995年生まれで,当時まだ33歳。彼女ならまだ子供を産める可能性があると判断されたのであろう。
アルギュロスの妻については,彼女が自発的に修道院に入るということで一応決着したが,その経緯に関してはアルギュロスが妻を騙した,皇帝が修道院に入らなければ夫の目を潰すと脅迫したなどの諸説があり,真相は判然としない。
そして,アルギュロスがしぶる総主教から何とか結婚の許可を取り付けるまではよかったが,当のテオドラが結婚を拒否。理由はアルギュロスが既婚者であるほか,アルギュロスとテオドラたち姉妹は従姉妹の関係にあることから,アルギュロスとの結婚は6親等内の血族との結婚を禁じているビザンツの法に反するというものだった。
テオドラが断固として結婚を拒否したため,アルギュロスと廷臣たちは,次女のゾエを説得するしかなかった。こうして,アルギュロスはゾエと結婚式を挙げ,その3日後にコンスタンティノス8世が亡くなったことから,アルギュロスは皇帝ロマノス3世(在位1028~1034年)として即位した。なお,ロマノス3世との結婚を拒否したテオドラは,帝位簒奪の陰謀を疑われ,後にミカエル5世が廃位されるまでの間,修道院における事実上の幽閉生活を余儀なくされた。
その後約30年間にわたり,帝国の中心人物はゾエとなるが,彼女自身は政治にほとんど関わることなく,趣味の香水作りに没頭していた。誰がゾエの夫ないし養子になって帝国を統治するかが,帝国政治における最大の争点になったのである。なお,ゾエは1002年,神聖ローマ皇帝オットー3世の結婚相手として送り出されたものの,彼女の到着時オットーは既に病死していたため帰国したとされているが,実際に送り出された女性がゾエであることを明確に示す史料はなく,研究者たちからそのように推定されているだけである。
(2)「虚しい栄光を追い求めた者」ロマノス3世アルギュロス
最初にゾエの夫となったロマノス3世は,宮廷主導で皇帝が選ばれる際にありがちな,「文官出身かつ高齢で男子がいない」という基準で選ばれた人物であり,間もなく帝国の統治者としては明らかに不適格であることが判明した。
彼はゾエとの間に何とか子供を作ろうとして空しい努力を重ねるも,60代の夫と50代の妻の懸命な子作りは失笑を買うだけの結果に終わり,それならば後世に自分の名前だけでも残そうと,莫大な費用をかけて多数の修道院を建設した。ロマノス3世の治世下で行われた最も大規模な事業は,聖母マリアに捧げる大教会の建設であった。ユスティニアヌス1世が建設した聖ソフィア教会を超える建物を造ろうとした皇帝の命令で,この教会はもっと壮大なものを,もっと華麗なものをと,何度も何度も設計が変更され,結局彼の暗殺に伴い未完成のまま放棄された。
こうした事業の数々によりバシレイオス2世時代の遺産は早くも使い果たされ,帝国の財政は破綻寸前に追い込まれた。こうした事業によって首都は空前の好景気に沸き,文化的には発展を遂げたとされているが,文化の発展のために国家と民を犠牲にすることが許される道理はなく,ましてや多額の国費をかけた挙句未完成に終わった建築事業を,ロマノス3世の「業績」として肯定的に評価する余地はあるまい。
また,不満を抱く軍事貴族たちを宥めるためではあろうが,バシレイオス2世の定めた納税連帯責任法を廃止し,税を支払えずに投獄されていた有力者たちを釈放したほか,彼が推進してきた大土地所有抑制政策も放棄してしまった。納税連帯責任法の廃止については,晩年のバシレイオス2世やコンスタンティノス8世も検討していたことであり,必ずしも不適切な政策とは言えないが,大土地所有抑制政策自体を放棄したのは明らかに行き過ぎであり,これらの政策によって,後のビザンツ帝国は力を付けた貴族たちによる内紛状態に突入することになる。その一方で,財政難を補うため地方に対し重税を課したが,税収を役人が横領するなど,支配階層の堕落・腐敗も進んだ。
ロマノス3世は,1021~1022年の反乱に連座したニケフォロス・クシフィアスを追放から呼び戻したが,一方で1029年にはテマ・トラケシオンの長官コンスタンティノス・ディオゲネスが謀反の容疑で逮捕され,塔の上から身を投げて自害するという事件も起こっている。
ロマノス3世は,古代ローマ時代の賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを理想化して新たな哲人王になることを目指し,一方でトライアヌスの軍事的威光を模倣しようとして,東方へ遠征を行った。バシレイオス2世ではなくわざわざ古代ローマ皇帝になぞらえたのは,バシレイオス2世のような軍人皇帝は嫌だという宮廷人の思いも影響しているのだろうが,前述した剣闘士競技の復活も含め,マケドニア朝ルネサンスの下では,かつてキリスト教の国教化により否定されてきた,異教時代の皇帝たちや文化を見直す動きが見られる点は興味深い。
もっとも,ロマノス3世が行った遠征は,新たな領土を獲得するためのものではなく,ビザンツ帝国の弱体化を見通したアレッポの地方君主が帝国への忠誠を放棄したことから,この反乱を鎮圧するための遠征であった。その上,文官出身の老人であるロマノス3世に軍事的才能など期待できるはずもなく,シリアでイスラム勢力に大敗して逃げ帰るという醜態を晒しただけだった。この敗戦によってビザンツ帝国の威信が大きく傷つき,更なる離反を招いたことは言うまでもない。ロマノス3世の外政面における唯一の功績は,ファーティマ朝と休戦し,戦争で破壊されたエルサレムの聖墳墓教会を再建し,エルサレム総主教の任命権を得たことくらいである。なお,帝位を逃したコンスタンティノス・ダラセノスは,ロマノス3世の治世下でアレッポ遠征に司令官として従軍しており,遠征の失敗はダラセノスらの陰謀によるものと非難する史書もある。
彼の治世下で宮廷政治を取り仕切っていたのは,宦官のヨハネス・オルファノトロフォス(孤児院局長官)と呼ばれる人物である。彼は小アジアの黒海沿岸にあるパフラゴニア地方の出身で,バシレイオス2世の時代から大宮殿に勤務していた。オルファノトロフォスという彼のあだ名は,首都の孤児院の管理を職務としていたことに由来する。彼はバシレイオス2世の死後も,有用な人材なので解任するには惜しいと引き続き重用され,行政上の細かい日常業務はそっくり彼に委託されたが,彼の職務に関する熱意と細部にまで払う注意力は伝説となっていた。
ただし,バシレイオス2世時代の宦官ヨハネスは,抜き打ちで宮殿から馬を出し,市内の思いがけないところに姿を見せたり,財務書類から担当役人の職務怠慢を見抜いて厳しく処罰したりと,皇帝の意向を受けて綱紀粛正に努める有能な官僚であったが,皇帝が綱紀粛正より官僚のご機嫌取りを重視するロマノス3世に代わると,その意向を受けた悪徳宦官へと変貌していったようである。彼もまた典型的なビザンツ人であった。
宦官ヨハネスにはミカエルという美男の弟がおり,皇后ゾエが夫ロマノス3世と不和になると,ゾエはミカエルを愛人にするようになった。そして,1034年にロマノス3世が入浴中に不可解な死を遂げると,その日のうちにゾエはミカエルと再婚し,ミカエルは皇帝ミカエル4世として即位した。
<幕間19>外国人たちを驚嘆させたコンスタンティノポリスの光景
倹約家であったバシレイオス2世の治世が終わると,その後継者たちは長らく途絶えていたコンスタンティノポリスの荘厳な儀式や豪奢な式典等の数々を復活させ,文人出身のロマノス3世や後のコンスタンティノス9世は,こうした伝統の復活にとりわけ熱心であったと伝えられる。
本稿ではこうした儀式等の数々を詳述するつもりはないが,多少は具体例を示さないと,これらがどのような政治的効果を発揮したかを理解することは難しい。ここでは外国人たちが見たコンスタンティノポリスの光景について,若干紹介することにする。
ハールーン・イブン・ヤフヤというアラブ人は,9世紀後半ないし10世紀初頭にビザンツ軍の捕虜となってコンスタンティノポリスに連行され,自らの体験を『コンスタンティノポリス案内記』と称される書籍にまとめている。残念ながらこの書籍自体は現存していないが,その記述はほぼ同時代のイブン・ルスタという人物が残した『貴重品』という書籍に引用されている。
ハールーンは,競馬場では金襴の装束を着た二人の男がそれぞれ四頭立ての馬車を操り,様々な偶像や彫像(競馬場の中央部分「スピナ」にあったモニュメント)の周囲を3周して競争した様子を詳しく書いている。古の戦車競走のようなスリルはないが,荘厳な儀式としてかなりの見応えがあったようである。
彼は,皇帝一行が大宮殿から聖ソフィア教会に参詣する様子も詳しく描いている。これによると,皇帝の命令により大宮殿の門から聖ソフィア教会までの道には織物が敷き詰められ,またその道に銀梅花と緑の葉が撒き散らされ,道の左右の壁は金襴の布で飾られた。
皇帝に先立って,赤い錦の衣を纏い,肩まで髪をなびかせ,頭には何も被っていない1万人の長老たちが先頭を進み,その後には白い錦の衣をまとった若者が1万人続いた。彼らは皆裸足であった。続いて,緑の錦を纏った1万人の小姓たち,淡い青色の錦を纏った1万人の従者たち,5千人の宦官たち,1万人のトルコ人とハザール人の小姓たち・・・。そんな行列の最後に,アラクシマと呼ばれる高価な衣を纏った皇帝が進んだ。アラクシマは宝石を縫い込んだ絹の衣である。皇帝は頭に帝冠を戴き,足には緋色の深靴を履いていた。
1万人,5千人といった人数は明らかに誇張であるが,沿道が織物や花で飾られたことはビザンツ側の記録とも一致している。ハールーンは,あまりに長く壮麗な行列に対する自らの感動を表現したかったのであろう。
しかし,最も印象深い儀式は大宮殿で行われた。大宮殿はコンスタンティヌス1世によって創建され,その後何度か拡張や修理が繰り返されており,特にユスティニアヌス1世とテオフィロスの治世下で大規模な修復や拡張が行われている。大宮殿は「聖なる宮殿」とも呼ばれ,総敷地面積は19000平方メートルを超え,複数の別館から構成されていた。
大宮殿の正門入口は,アウグステイオン広場のカルケ門である。アウグステイオン広場は聖ソフィア教会の南に接する場所にあり,首都の大通りの起点になっていた。広場の東に接するように元老院議事堂ないしマグナウラの宮殿があり,広場の西には帝国内の全てのマイルストーンの起点となる,ミリオンと呼ばれる記念碑があった。
カルケ門を入ってすぐの南側には近衛兵団の兵舎があり,その後ろに19脚の長椅子が置かれたレセプションホールがあり,皇帝の寝室があるダフネ宮殿へと続いている。ダフネ宮殿からは競馬場の皇帝専用席に直接繋がる通路もあった。
ユスティニアノス2世が造営した黄金の広間(クリュソトクリノス)は主謁見室であり,そのすぐ側に宮殿内の礼拝堂があった。その北には皇帝テオフィロスが建設させたトリコンコスと呼ばれる宮殿があり,シグマと呼ばれる半円形の控え室を通じて行き来できるようになっていた。トリコンコスの東には,バシレイオス1世が建設させた,金メッキと豪華な装飾で飾られた5つのドームがある新しい教会(ネア・エクレシア)があった。この教会と海岸の城壁の間にはポロの競技場もあった。さらに南には,主要な建物群から離れた海岸沿いにブーコレオン宮殿があり,これは海岸沿いの城壁の一部としてテオフィロスが建設したものである。海岸側の門を出ると,そこにブーコレオンの港があった。
このような大宮殿を訪れた者は皆,その目を見張るような光景について述べている。中には未来を予言するものもあるという,レセプションホールに並ぶ古代の彫像,黄金のモザイクと貴金属に飾られ,次々とより大きく,より贅沢なものが現れる建物群,様々な民族集団で構成され,それぞれ独自の武器を携えた宮殿衛兵隊といったものである。
黄金の広間で開催された歓迎宴では,皇帝は後陣を飾るパントクラトール(全能)のキリストのモザイクの真下に置かれた,壇上にある玉座に登場した。別の広間では,水力装置が人々を驚かせた。水圧で操作された古代のオルガンはビザンツ帝国にも受け継がれ,皇帝の歓迎宴や浴場で用いられ,噴水やさえずる鳥たちが皇帝たちを楽しませた。
マグナウラ宮殿では,皇帝は大きな黄金の玉座に座り,両脇には唸り声をあげる黄金のライオンや,宝石をちりばめた黄金の木々の枝にさえずる黄金の鳥が配されていた(例の数学者レオーンが発明したものである)。そして使節たちが,帝国の作法に則り跪拝(プロスキュネーシス。ユスティニアヌス1世が導入したペルシア風の慣習で,皇帝に対する敬意を示すため額を床に擦り付ける動作をいう)をしている間に,この玉座は突然,床面から天井まで上昇した。
949年に初めてコンスタンティノポリスに使節として訪問したクレモナ司教のリウトプランドは,このような儀式について父や義父から教えられていたため,この途方もない光景にも驚かなかったが,これらがどのような仕掛けなのかは分からないと述べている。
リウトプランドは,クリスマスを祝う宮廷晩餐会の様子についても詳しく記している。晩餐会の会場は,19の長椅子が置かれたレセプションホールであり,皇帝とその招待客は通常の宴会のように着席するのではなく,古代ローマ風の寝椅子に横たわる。
この晩餐会では,宴会の合間に天井が開き,果物を載せた重い黄金の皿が食卓に降りてきた。おびただしいコース料理の合間には,踊り子や歌手がオルガンなどの楽器を使って,余興の音楽を提供した。その他にも様々な演芸が披露されたが,リウトプラントはそのうち1つを詳しく紹介している。
彼によると,まず頭の上に24フィート(1フィートは約30cm)以上もある棒を載せた男が入ってきた。その棒の上から1フィート半くらいのところには3フィートの長さの横棒が付けられていた。そこへ2人の少年が現れ,棒に乗り,その上で芸を始めたという。
その光景にリウトプラントがあまりにも感心していたので,皇帝は通訳を呼び,リウトプラントに「そなたは棒が安定するよううまく動いている少年に感心しているのか,それとも少年の体重やその動作にも邪魔されず,頭の上にうまくバランスを取って棒を載せている男に感心しているのか」と尋ねた。リウトプラントは「どちらが素晴らしいのか,分からない程だ」と答えたという。
なお,リウトプラントは当然キリスト教徒であるが,ハールーンのようなイスラム教徒を饗応するにあたっては,ビザンツ人は「これらの料理には豚肉は一切使われていない」と保証するのを忘れなかった。現代の日本で近年ようやく行われるようになったハラール(食事の材料や調理法がイスラムの教義に反しないよう配慮すること)は,ビザンツ帝国では千年以上昔から行われていたのである。
以上は,レオーン6世やコンスタンティノス7世時代に関する記述であるが,11世紀にイスラムから訪れた外交官・歴史家のマルワジも,次のように報告している。
「ルームは偉大な国だ。広大な領土を有し,そこには物資が豊富にある。彼らは手工芸に才能があり,品物や職布,絨毯,器を作るのに巧みだ。」
ルームとはローマの意であり,自らローマ帝国と称していたビザンツ帝国を指す言葉であるが,マルワジは中国(宋)の宮廷を訪問した経験もあったので,実用的な美術の点でビザンツ人を凌ぐのはただ中国人のみであるとも考えていた。このように,コンスタンティノポリスの繁栄ぶりは11世紀においても変わることなく,ビザンツ帝国が明らかな衰勢に向かっていた13世紀初頭のハラウィ,14世紀のカズウィニやイブン・ハルドゥーンも,コンスタンティノポリスの偉大さを称えている。
もっとも,レオーン6世やコンスタンティノス7世時代のビザンツ帝国では,大宮殿でこのような贅を尽くした壮麗な儀式や豪華な宴会が行われるのを誰もが当然と思っており,かつ国内の統合や外交に必要なものだと考えられていたので,これらを贅沢や浪費などと非難する者はいなかった。
しかし,ニケフォロス2世,ヨハネス1世,そしてバシレイオス2世と続いた軍人皇帝たちによる長い中断期間を経て,ロマノス3世やその後の文官出身皇帝たちが復活させたこのような儀式や宴会は,かつてのように当然のものとは認識されなかった。レオーン6世やコンスタンティノス7世などが注意深く行っていた,外国勢力の動向に対する詳しい調査と念入りな外交的配慮が伴っていないので,外交ないし国防の役に立っているとは言い難かった。
また,バシレイオス2世を尊敬していた軍事貴族たちは,地方君主の離反や外敵の侵入が相次いでいるのに,軍事を軽視して大宮殿で皇帝が贅沢を尽くしているのはただの浪費だと言って憚らなかったため,国内統合に役立っているとも言えなかった。現代の歴史家でも,この時代の皇帝たちによる奢侈はただの無駄遣いであり国庫を破綻させたなどと非難する者が多い。
筆者も無駄遣いだという意見には同意するが,外見上は同じようなものでも,なぜ10世紀の皇帝たちが行っていたことは必要経費で,11世紀の皇帝たちが行っていたことは無駄遣いなのか,その違いを注意深く考察する必要があろう。
(3)「癲癇に苦しんだ美男子」ミカエル4世
出身地に因み「パフラゴン」のあだ名が付けられているミカエル4世(在位1034~1041年)は,1010年の生まれとされているから,即位時にはまだ20代の前半だったことになる。かつての皇帝候補だったダラセノスは,ミカエル4世の即位を聞いて「卑しい生まれの者が皇帝になった」と非難したと伝えられており,兄の宦官ヨハネス共々,ミカエル4世は田舎に生まれた平民からの成り上がり者であった。
年代記は彼を「均整のとれた姿をしており,紅顔可憐,美しい瞳のまさに花のような美青年であった」と記している。その美貌でゾエを虜にし,ゾエの愛人となったことで帝位まで手中にするも,彼は即位するとゾエへの関心を失い,さらに先帝のように暗殺されてはかなわぬと,ゾエを宮殿の奥深くに軟禁してしまう。
それでも,ミカエル4世はこの時期の皇帝としては比較的有能な人物で,イスラム勢力をはじめとする外敵への遠征では多くの成功を収め,前任者ロマノス3世の敗戦によるビザンツ勢力の衰退をある程度押し留めるのに成功したほか,彼の治世下ではシラクサを含むシチリア島東部の奪回に成功している。
また,1030年にデンマーク王クヌートにノルウェーを征服され,亡命していたハーラル王子(後のノルウェー王ハーラル3世苛烈王)を1034年に首都へ迎え入れ,ハーラル王子と彼の率いる500人のヴァイキング兵は,10年間にわたり南イタリアやシチリア戦線などで活躍した(その後,1046年にハーラルはノルウェー王即位を果たしている)。
ハーラルの成功を聞いて,その後もアイスランド,スカンジナビア,更には1066年のへースティングスの戦いでノルマン人に敗れたアングロ=サクソンのイングランド人などがビザンツに訪れ,皇帝の親衛隊などとして活躍することになる。
ただし,彼は即位する前からずっと持病の癲癇に悩まされており,若くして帝位に就いたにもかかわらず,長くは生きられない運命にあった。病身のミカエル4世は慈善事業にも熱心で,売春婦を収容する女子修道院を開設し,売春業に身をやつしていた女性たちが生活の心配なく暮らせるよう取り計らった。その他,首都郊外にあった殉教者コスマスの聖堂を建て替え,壮麗な黄金のモザイクで内部を飾っている。
もっとも,内政は基本的に兄の宦官ヨハネスに委ねていたところ,ヨハネスは国民や貴族に対し圧政を行い,シチリア島東部の奪回に功績のあったゲオルギオス・マニアケスも,ヨハネスが謀反の疑いをかけて彼の司令官職を解き,罪人として首都に連行してしまった。スラヴ人に対しても抑圧的な政策を採ったため,帝国の各地で反乱が勃発した。特にブルガリアでは,租税の物納を認めていたバシレイオス2世の政策を宦官ヨハネスが改め,租税の金納を強制したことからブルガリア人の不満が高まり,ブルガリア王家の血を引くペタル・デリャンという人物が,1040年にブルガリア王国の復活を宣言する大規模な反乱を起こした。
ミカエル4世は当時南イタリアで軍を率いていたハーラル王子を呼び戻し,大規模な鎮圧軍を編成して何とかこの反乱を鎮圧したが,持病の癲癇は年々悪化する一方であり,もはや長くは生きられないことを悟らざるを得なかった。彼は最後の反乱鎮圧後,病を押して首都で凱旋式を決行したが,その顔には明らかに死相が漂っていたという。ミカエル4世の治世は,宦官ヨハネスによる悪政の尻拭いをさせられていた感がある。
ミカエル4世と宦官ヨハネスの兄弟は,甥のミカエルを養子とするとすることに決め,軟禁し邪険に扱っていたゾエにも頼み込んで彼女の養子にもしてもらった。死期を悟ったミカエル4世は,1041年に自ら修道院に引退し,その日のうちに死んだ。こうして,甥のミカエル5世(在位1041~1042年)が即位した。
ミカエル5世は,先帝より5歳年下で,甥ではなく従兄弟とする説もある。即位前における彼の経歴は不明であるが,ミカエル4世にとって彼は貴重な皇帝一族なので,何らかの重要な役職に就けられていた可能性もある。ミカエル5世の在位期間が極めて短いにもかかわらず,彼を有能な人物と評している史書もあるので,ミカエル4世時代における軍事的業績の多くも,実はミカエル5世の力に拠っていたのかも知れない。いずれにせよ,ミカエル5世は即位当時,自分の統治能力にかなりの自信を持っていた。
ミカエル5世を皇帝に擁立した宦官ヨハネスは,甥の皇帝を自分の傀儡として操るつもりであったが,自ら親政を行うつもりであったミカエル5世は,逆に宦官ヨハネスを追放し修道院に入れてしまう。ミカエル5世は宦官ヨハネスの決定を覆し,彼によって投獄されていた将軍マニアケスを赦免して南イタリア戦線に復帰させた。次いでミカエル5世は,義母のゾエをも追放し自前の皇帝になろうとするが,この性急な行動が彼の落とし穴となった。
ミカエル5世の時代になっても,市民たちのマケドニア王朝に対する忠誠心はいささかも衰えておらず,「我らが母ゾエを返せ」と叫ぶ市民たちの暴動に怯えたミカエル5世は宮殿から逃げ出すも,逮捕されて盲目にされ,追放されてしまった。ミカエル5世は,そのあまりに短い在位期間から,カラファテス(繋ぎ,隙間の詰め物を意味する)のあだ名が付けられている。修道院に追放されていた宦官ヨハネスも,コンスタンティノス9世の命により目を潰され,間もなく死んだ。
<幕間20>ビザンツ帝国の宦官
皇帝ミカエル4世の兄でもあった宦官ヨハネス・オルファノトロフォスの退場により,ビザンツ帝国史上数多く登場する宦官たちのうち,歴史上避けて語れない重要人物は概ね出尽くした。ここでは総括として,ビザンツ帝国における宦官の役割とその特徴についてまとめておく。
偉大な支配者の護衛や奉仕などのために宦官を用いる制度をここでは「宦官制度」と呼ぶことにするが,古代から宦官制度が栄えたのは中国と,エジプトやペルシアといった中東地域である。ローマ帝国でも4世紀頃から宮廷に多くの宦官が雇用されるようになり,その伝統を引き継いだビザンツ帝国は,中世における世界有数の宦官大国となった。
宦官にも様々な種類があり,①刑罰その他の理由により宦官とされた者,②自ら去勢手術を受けて宦官とされた者,③生まれつき生殖機能を備えていない故に宦官とされた者にまず分けられる。③は,今日「LGBT」の呼称で総括される性的マイノリティたちのことであり,宦官制度が性的マイノリティの受け皿としても機能していた可能性については,今後の宦官史研究にあたり,もっと注目されてよいと思われる。
また,去勢手術を受け宦官となった者は,さらに第二次性徴期より前に去勢された者と,大人になってから去勢された者に大別される。前者は去勢手術により第二次性徴の発現が妨げられ,高く澄んだ声,子供のように柔らかな肌,体毛の乏しい身体,長くほっそりとした四肢といった特徴を備え,まさしく男でも女でもない「第三の性」の持ち主に育つ(ビザンツ人の間では,彼らは「髭のない男」と呼ばれていた)。これに対し後者は,去勢手術により生殖器が失われただけで,その他の外見は一般的な成人男性と同様の特徴を備えていた。
宦官は,王冠や玉座,豪奢な礼装などとともに,皇帝といった絶対権力者の権威を示すのに不可欠のものとされ,中国の歴代諸王朝や中国文化圏に属する諸国の諸王朝,古代の中東諸国やその伝統を引き継いだイスラム系諸王朝の君主には,数多くの宦官が側近として仕えていた。
ビザンツ帝国の皇帝にも多くの宦官たちが仕えていたが,ビザンツ帝国の宦官制度には,他の諸国と大きく異なる特徴がある。中国やイスラム諸王朝の君主たちは,自らの性的欲求を満たすほか帝国存続のため多くの子孫を残す必要があるとの大義名分に基づき,宮廷に数多くの妻妾たる女性たちを抱えており,宦官に期待された最大の役割は,そうした女性たちを管理することだった。
しかし,ローマ帝国の法慣習を継承したビザンツ帝国では,中国やイスラム諸国と異なり,帝位継承権は正式な結婚によって生まれた子供にしか認められず,いわゆる愛人との間に生まれた非嫡出子に帝位継承権は認められなかった。そのため,ビザンツ帝国にも愛人を持った皇帝はいたが,中国やイスラム諸国のように数多くの女性を妻妾として侍らせる風習は発達せず,そのような風習は国教たるキリスト教の教義からも正当化できなかった。
その代わり,「第三の性」たる宦官は,性を持たないものと理解されているキリスト教の天使たちに類する聖なる存在と理解され,ビザンツ帝国の教会は宦官を聖職者や修道士に喜んで迎え入れ,コンスタンティノポリス総主教や聖人になった宦官もいた。宦官はその高い声によって,カストラートの合唱隊で不可欠の役割を果たし,また一部の女子修道院では,聴罪司祭など何らかの役割を果たす男性聖職者は,宦官ではなければならないものとされた。
なお,一般に多くの人から誤解されているが,男性が去勢手術を受け宦官になったところで,性欲が無くなるわけではなく,ただ性欲を発散する手段が失われるだけである。行き場のない性欲に苦しみ,頭を壁に打ち付けるなどの自傷行為に走る宦官もいたという。宦官の去勢手術にも種類があり,睾丸のみを切除されたため性行為自体は可能という宦官もいれば,陰茎と睾丸の両方を切除する,いわゆる完全去勢を受けた宦官もいる。完全去勢を受けた宦官に唯一許された性行動は,彼らでも性的快感を得ることが可能な唯一の器官,すなわちお尻の穴によって男性の主人に奉仕することであった。
もちろん,そうした同性愛行動に走った宦官は全体から見ればごく一部であろうが,そうした役割は明らかに重宝されていた。男性から同性愛の相手方とみなされそうな若い宦官は,ギリシア語でカルジマシアと呼ばれ,しばしば皇帝に対する貴重な贈り物とされた。宦官は女子修道院では無害な存在とみなされたが,逆に男子修道院ではしばしば他の修道士に性的な堕落をもたらす危険な存在とみなされ,男子修道院の中でも特に厳格なことで知られるアトス山では,女性のみならず若く髭のない男や宦官の入山も禁じられた。
ビザンツ帝国を含む宦官制度を採用した諸国では,宦官は皇帝になることができず,自分の家族を持てないので主人に対し忠実に仕えるものと考えられてきたが,その背景には,宦官がしばしば同性愛で主人と深い関係にあったことも影響しているのかも知れない。
また,ビザンツでは皇帝の庶子として生まれた男児が,将来皇帝に名乗りを挙げる事態を予め防止するため幼いうちに宦官とされ,高貴な生まれの者として後に顕職に就いた例もあり,これは庶子にも君主への道が開かれている中国やイスラム諸国では考えられないことであった。その代表格としては,ロマノス1世レカペノスの庶子にして,軍人皇帝たちの時代に宮廷で権勢を振るい,最後はバシレイオス2世によって排除されたバシレイオス・レカペノス(ノソス)がいる。また,おそらく庶子ではないが,ミカエル1世の息子で宦官とされた総主教イグナティオスも,帝室出身の宦官として特筆に値する人物であろう。
ビザンツ帝国における宦官の活動分野は,実に多岐にわたっている。宮廷における主要な役職のほとんどは宦官にも開かれており,皇帝以外で宦官に開かれていない主要な役職を探すのは逆に難しいほどだった。宦官は宮廷に仕えて行政官や外交官の役割を果たし,聖職者や修道士となり,教師や文筆家,神学者として学問の発展に貢献し,大きな家産組織には大抵召使の宦官がいた。さらには将軍として活躍する者もいた。
ビザンツ帝国でも他国と同様,宦官は柔弱であり一般的には軍務に向かないと考えられていたが,それでも将軍として活躍した宦官は,14世紀以降の末期にはその頻度が低下するものの,概ねビザンツ史全体で言及されている。ユスティニアヌス1世に仕えたアルメニア人の宦官ナルセスは将軍としてイタリア征服を達成し,ニケフォロス2世に仕え主人の姓を帯びた宦官ペトロス・フォカスはロシア人との戦いで奮戦し名を挙げたほか,東方戦線の司令官にも任じられた。同時代に権勢を振るったバシレイオス・ノソス(レカペノス)もヨハネス1世の対ブルガリア戦争に従軍するなど,将軍としても活躍した。バシレイオス2世はパトリキウス位の宦官ニコラオスをアレッポ攻撃の司令官に任命し,彼によってアレッポは995年に征服された。以上は軍人として活躍した宦官のうち有名なごく一部に過ぎない。
また,他の宦官大国に見られるのと同様に,廷臣として専横を振るい歴史家に非難されたビザンツ帝国の宦官としては,テオドシウス2世に仕えたキュサフィオス,ユスティニアヌス1世と皇后テオドラに仕えたエウフラタス,女帝エイレーネーの寵愛を競い合ったスタウラキオスとアエティオス,9世紀のサモナス,そして前述した10世紀のバシレイオス・ノソス(レカペノス)と11世紀のヨハネス・オスファノトロフォスを挙げることができる。
ところで,同じキリスト教を奉じる国でありながら,西欧諸国では宦官制度は発達せず,宦官が使用されたのは教会のカストラートくらいであった。ローマ教皇傘下の西方教会では,東方教会と異なり325年のニケーア公会議で発布された法規が厳格に守られていた。その法規では,聖職に就こうとするキリスト教徒は,去勢ではなく禁欲主義的な鍛錬によって肉欲の誘惑に抗い,自らの欲望を制御すべきであるとし,キリスト教徒が自ら去勢することは固く禁じられていた。
西方教会では,完全な男性だけが司教などの職を果たすことが出来るものとされ,特に歴代ローマ教皇は就任に先立ち,完全な男性であることの確認を受けなければならなかった。西欧諸国にある女子修道院では,完全な男性が聴罪司祭など一定の役割を果たさざるを得なかったため,若い美男の司祭を避けるなど細心の注意が払われていたにもかかわらず,時に醜聞の原因となった。西欧諸国の宮廷で宦官が用いられることもなかった。
西欧人は,このような違いをキリスト教の影響に求めようとするが,それでは同じキリスト教徒であるビザンツ人が宦官を多用した原因を説明できない。おそらく,ローマ帝国に代わって西方世界の支配者となり,やがて王や貴族を名乗るようになった武辺者のゲルマン系諸民族は,軟弱そうな外見の持ち主である宦官を生理的に嫌悪し,そうした支配者の意向が西方キリスト教の教義にも影響を及ぼしたのであろう。
ビザンツ帝国でも,西欧人すなわちラテン人文化の影響が強くなった12世紀のコムネノス王朝以後になると,宦官の社会的役割は次第に低下していった。宮廷で高位の官職に就き権力を振るう宦官の姿は見られなくなり,宦官の仕事は下働きのようなものに限られ,皇帝の庶子が宦官とされる例も見当たらなくなった。
最後に,宦官の主な供給源についても触れておく。ローマ帝国では,去勢はローマ市民にそぐわない屈辱的な措置とみなされており,国内における去勢手術も禁止されていたため,初期における宦官の主な供給源は戦争で捕虜になった外国人であり,彼らは国境地帯で去勢手術を受け,「安全な」召使の需要に応えた。ユスティニアヌス1世時代の歴史家プロコピウスが注記するところでは,カフカース地方のアブハジアは宦官の供給源として知られ,彼の同時代人である悪名高い宦官エウフラタスもこの地方の出身だった。
後には,ビザンツ人が「スキタイ人」と呼んだ北方民族,アラブ人,バルカン系の捕虜も宦官とされ奴隷市場で売られたが,7世紀から台頭してきたイスラム諸国でも宦官が多用されたため宦官の需要は著しく増大し,宦官制度が無い西欧のローマやヴェネツィア,北フランスのヴェルダンなどでも奴隷市場で宦官が売買され,ローマ教皇による再三の禁令にもかかわらず,キリスト教徒の商人は若者を奴隷とし,去勢して売り払うという儲けの多い商売を止めようとはしなかった。
ビザンツ帝国内でも,黒海沿岸のパフラゴニア出身の宦官が増加し,国内での去勢手術を禁じる法令は次第に弛緩していた。孤児院も宦官の主要な供給源となった。ビザンツ人の宦官は奴隷ではなく自由身分の人間として扱われ,家族たちの尽力によって宮廷や教会に働き口を見つけた。パフラゴニアは宦官の供給源として知られ,皇帝ミカエル4世の兄ヨハネス・オスファノトロフォスをはじめ,ビザンツ史に名を遺す宦官の多くがこの地方の出身だった。中国でもそうだったが,一般に宦官の供給源として有名になるような地域は経済的に貧しく,一族の男子を宦官として宮廷などに送り出し栄達を図る以外に,生活の糧を得ることが難しかったのであろう。
皇帝レオーン6世は,900年頃宦官に関する二つの新法を公布しており,この法では宦官の結婚が禁止される一方,宦官が養子を取り遺産を相続させることは認められていた。この新法も,奴隷ではなく自由身分の宦官が増加してきたことを反映した措置といえる。
(4)「似非文人皇帝」コンスタンティノス9世モノマコス
ミカエル5世が廃位された後,市民たちに擁立されて凱旋将軍のように戻ってきたゾエは,妹テオドラとの共同統治という形で自ら帝位に就いた。この女帝姉妹は官職売買の抑制と公正な統治に重点を置いて帝国を管理したが,この共同統治体制は宮廷が分裂し,ゾエ派とテオドラ派の派閥が形成されて両者が対立したこともあって2か月程しか続かず,テオドラは自ら退位した。
ゾエは3人目の夫を迎えることを決意し,一旦は以前の夫候補だったコンスンタィノス・ダラセノスが再び候補として浮上するも,彼は傲慢な態度を取ったためゾエの不興を買い,候補者から外された(彼は間もなく毒殺されたとも伝えられている)。次の候補はロマノス3世時代におけるゾエの愛人と噂されていた,判事のコンスタンティノス・アトロクライノスが選ばれたが,彼は結婚式の数日前に謎の死を遂げた。
結局,1042年夏にゾエは3人目かつ最後の夫となるコンスタンティノス・モノマコスと結婚し,夫はコンスタンティノス9世(在位1042~1055年)として即位した。なお,「モノマコス」はあだ名ではなく彼の姓であり,彼はロマノス3世アルギュロスの縁戚にあたる,帝国の名門貴族であった。文官出身で高齢,男子もいないという点はロマノス3世と共通しており,おそらくはゾエより宮廷人たちの意向が反映された人選と思われる。
ゾエにとって,コンスタンティノス9世との結婚は帝国の法に抵触する三度目の結婚であったが,実はコンスタンティノス9世にとっても,ゾエとの結婚は三度目の結婚であった。彼にはマリア・スクレライナという愛人がおり,自分が皇帝になったら法律を改正して彼女と結婚しようと約束しており,皇帝になるためにゾエと結婚した後も,コンスタンティノス9世はスクレライナを宮廷に引き入れて皇后のように扱い,儀式にも参列させた。
ところが,これを知った首都の市民はまたもや暴動を起こし,聖ソフィア教会へ行く途中を襲われた皇帝は命からがら宮殿に逃げ戻る。これに懲りた皇帝は,その後はゾエを立てる態度を取り続けた。長く続いたマケドニア王朝の血を引くゾエの影響力は,なおも絶大であった。
学問の振興と帝国大学の設立
文官出身であったコンスタンティノス9世は,当時首都でも随一の有識者であった若きプセルロスを登用した。彼には皇帝書簡を作成し,皇帝の政策を公表し正当化する所信表明演説を書くといった名誉ある職務が委ねられた。プセルロスは度重なる皇帝の交替にもかかわらず,1075年頃までこのような役割をほぼ途切れることなく果たし続けた。
1047年,コンスタンティノス9世は首都に法科大学と哲学大学を設立した。哲学大学の学長にはプセルロスが,法科大学の学長には彼の友人であるクシフィリノスが就任した。大学の学則を定めた皇帝の勅令によると,これらの大学は家柄と財産にかかわらず能力のある者に開かれており,講義を受けに来た者を貧富で差別してはならない,学内での序列は成績によって定められ,授業料は無料であった。卒業生の進路については,法科大学の卒業生については公証人・弁護士といった法律職のほか,国家の行政官や裁判官に就く道を示唆している。
おそらくコンスタンティノス7世時代から,テマ長官は軍事のみを担当するようになり,地方における訴訟は法律の専門職である判事に委ねられていたが,コンスタンティノス9世の時代には属州の判事たちを統括する部局,現代の日本でいえば最高裁事務総局に相当するものが首都に設けられており,法律の専門家に対する需要が増していたのだろう。
皇帝は,法科大学や哲学大学で優秀な成績を修めた卒業生を,帝国の行政部局の長に任命すると述べている。彼の治世下では文官職が大幅に増加して官僚制が肥大しており,コンスタンティノス9世の意図は大学の設立によって官僚制を強化し,軍事貴族たちの力を抑えることを期待していたようである。しかし,この大学はプセルロスらが皇帝の寵愛を失うと,コンスタンティノス9世自身によって閉鎖されてしまった。
その他,コンスタンティノス9世は,これまで見下された存在であった商人たちにも,多額の献金を引き換えに爵位保有者のエリート集団に加わり,元老院議員になることを認めている。この政策は官僚制の支持基盤強化とも解釈できるが,おそらく財政難を補うための金策というのが主たる目的であろう。
伝統的な外交政策か,それとも浪費か?
バシレイオス2世が示した倹約や,儀式嫌い,見世物嫌いの方向性は,この時代には全く放棄されていた。ロマノス3世もそうだったが,コンスタンティノス9世も首都で聖ゲオルギオス修道院の改築をはじめとする大規模な建築事業を行い,大宮殿や教会等の内部装飾に国費を注ぎ込んだ。
これは一見すると,コンスタンティノス7世までの時代と同じように,富,芸術,美を通じて帝国の威信を高め,これによってビザンツ帝国に友好的な部族を増やすという伝統的な政策に回帰したように見える。1045年には,ケゲンという名のペチェネグ人族長が首都を訪問し,キリスト教の洗礼を受けた。彼にはパトリキウスの称号と,ドナウ国境沿いの3つの城が与えられた。帰国するケゲンに一人の修道士が同行し,ペチェネグ人の臣下2万人にドナウ川で洗礼を施すことになった。
しかし,併合したブルガリア王国に代わってビザンツの隣人となったペチェネグ人が,このような政策によりビザンツ帝国の心強い味方となることは無かった。伝統的なビザンツ帝国の文人皇帝は,壮大な大宮殿で外国の使節をもてなす一方,その外国が敵対的姿勢を見せれば直ちに他の部族をけしかけるといった権謀術数を絶えず巡らし,自ら戦わざるを得ない状況となった場合に備え軍備も怠ることは無かったが,コンスタンティノス9世は,こうした権謀術数も軍備も怠っていたのである。
1027年に始まり,1040年代になって激しくなったペチェネグ人の攻撃に対し,コンスタンティノス9世が採った政策は,彼らに軍役奉仕を代償として,かつてバシレイオス2世が奪取した旧ブルガリア領に定住することを許し,彼らの族長を首都でもてなしてキリスト教に改宗させるという,一見するとビザンツ帝国お馴染みの方法であった。しかし,ペチェネグ人は与えられた土地に満足せず,1048年に彼らは南に移動してバルカン山脈を越え,ビザンツ側が与えるつもりのない地域へと進軍した。
ビザンツ軍とペチェネグ族との戦いは数年に及び,ビザンツ軍はバルカン半島各地でペチェネグ人を追撃したが,逃げ足の速い遊牧民である彼らには何の効果も無かった。結局ビザンツ側に勝ち目は無かったので,1053年頃にはペチェネグ側に極めて有利な条件で30年間の和平協定を結び,バルカン山脈以南への定住を認めざるを得なかった。この講和によって,バシレイオス2世が征服した旧ブルガリア領の大部分が失われたのである。
かつてコンスタンティノス7世は,『帝国統治論』をペチェネグ人に関する議論から書き始めており,彼によればペチェネグ人は強欲で,自分たちの間では希少な品物を喉から手が出るほど欲しがり,気前よく贈り物をせよと厚顔無恥に要求するだけでなく,極めて危険な敵であった。同書では,ペチェネグ人に対する皇帝の使者は,先にペチェネグ人の土地に人をやって人質と随行者を求め,外交の任務が終わるまでペチェネグ人の人質を監視下に置き,自らは随行者を伴ってペチェネグ人との外交任務に赴くように,との助言も書かれている。ペチェネグ人はそこまでやらないと信用できない危険な相手だったのである。
更に,同書ではかつて書記官のガブリエルなる人物をトルコ人の許に派遣し,ペチェネグ人をその土地から追放するよう求めたところ,トルコ人の主だった者たちは皆口々に「我らはペチェネグ人の後を追うことはしない。なぜなら,彼らの国は広大で人口は膨大であり,彼らは悪魔の末裔であるゆえ,彼らと戦うことはできないからである」と叫んだ,という情報も載せられている。
このようなペチェネグ人が,族長を首都でもてなしキリスト教に改宗させる程度で簡単にビザンツの味方になるはずもなく,外交で対処するのであれば最低限,背後からペチェネグ人を脅かすことのできる他の勢力を探して同盟を結び,危険なペチェネグ人をけん制するくらいのことは併せて行うべきであった。コンスタンティノス9世は最新の情報収集に努めるどころか,『帝国統治論』も読んでいなかったと考えるしかない。
一方,皇帝自らが統括・命令できる外国人の傭兵部隊を求めたことはバシレイオス2世時代と変わらなかったが,この時期にはロシア人やアルメニア人に代わり,ノルマン人やスカンジナビア人が多く用いられるようになった。こうした皇帝の政策に,政策決定過程から長い間排除されていた小アジアの軍事貴族たちは強い不満を持っていた。ある貴族は,皇帝に対し次のように警告している。
「自国において高貴な身分でない外国人に,大きな名誉を与えたり高い官職を委ねたりしてはいけません。そんなことをしても陛下には何の得にもならず,生まれついてのローマ人である将校たちも喜ばないでしょう。」
もっとも,コンスタンティノス9世の政策が国防上それなりの成果を挙げていたのであれば,軍事貴族たちもここまで公然たる不満を表明することはなかったであろうが,対ペチェネグ人対策が全く役に立たなかったことは前述のとおりであり,また当時のビザンツ帝国が国防上抱えていた問題は,ペチェネグ人だけではなかった。
エジプトのファーティマ朝とは,1027年に公式な平和条約が締結され平穏な関係が続いており,北方のロシアとは1043年に首都でロシア商人が喧嘩で殺されたことがきっかけで海からロシアの攻撃を受けたものの,1045年の和約により,コンスタンティノス9世が即位前の結婚で儲けていた娘がヤロスラフ公の息子フセヴォロドと結婚すると,以後ロシア人による海からの攻撃は無くなった。概ね問題なかったと言えるのはこの二方面である。
他方,西方ではノルマン人の一族が南イタリア各地を勝手に占領するようになり,東方では新興勢力のセルジューク・トルコがイラン方面に勢力を広げ,ビザンツ領のアルメニアに侵入するようになった。コンスタンティノス9世はこれらの敵に対し,ろくに軍務経験のない自分の友人などを司令官に任命し,無惨な敗北を喫していた。1042年,皇帝から対ブルガリア遠征の司令官に任命されたデュラキオンの長官ミカエルは,7人の将軍と約4万もの兵士たちを無為に死なせてしまったという。
また,1048年にトルコ軍がアルメニアの町アルゼを略奪した後,救援に来たビザンツ軍と戦ったが,皇帝の任命した司令官,リバリトという名のグルシア王子は包囲されて捕らえられた。しかし,1045年にビザンツ領に併合されていたアニの統治官ケカウメノス・カタカロンは,右翼軍を指揮していたが善戦し,トルコ軍を蹴散らし日没まで追撃の手を緩めなかった。
その後行われたペチェネグ人との戦いにおいても,撤退するビザンツ軍がペチェネグ人に待ち伏せされ,軍の大半が四散し容易に敵の餌食となっていたが,ニケフォロス・ボタネイテアスという将校は,自分の部隊をしっかりまとめてペチェネグ人の攻撃を撥ね返し,伝えられるところでは11日間にわたり不眠不休で戦って,最終的にアドリアノポリスにたどりつき,整然とこの町に入城したという。
このような状況では,役に立たない外国人を雇うより,自分たちに指揮権を寄越せという軍事貴族たちの主張も理解できなくはない。しかし,国内の軍事貴族たちに軍権を与えて彼らが功績を挙げれば,ただでさえ正統性の弱いコンスタンティノス9世のような皇帝はそうした軍人に帝位を追われる恐れがあり,皇帝や首都の宮廷人にとって,そうした軍人皇帝の登場は敵の侵入以上の悪夢であった。
結局,コンスタンティノス9世は彼ら軍人貴族たちの主張を受け容れることはなく,治世の大半を首都市民たちの人気取り政策に費やした。彼は1043年,立て続けに3回も凱旋式を行っている。もっとも,対外戦争に勝利したためではなく,後述するマニアケスの反乱をはじめとする反乱や陰謀を抑えたことを理由とする凱旋式であった。この時期における凱旋式は,皇帝の威信を高めようとするほか,市民の歓心を買うための見世物という性格があった。先の皇帝ミカエル4世が病で重体の身でありながら凱旋式を強行したのも,そうした理由に基づく。
見世物は凱旋式だけではなかった。コンスタンティノス9世は,エジプトからキリンを運んでこさせて,競馬場で市民に披露した。珍しい動物に市民たちは熱狂したようで,彼の治世を記したある歴史書は,わざわざ一節を割いて,この「ラクダと豹の合いの子」について詳しく記している。
1050年にはついに皇后のゾエが亡くなるが,コンスタンティノス9世は「ゾエの墓の奇蹟」を演出して,ゾエへの尊崇を示そうとした。銀で作られた墓から花が咲き出でた,主はゾエの墓に奇蹟を起こし給うたと触れて回ったのであるが,実際のところは墓の木製部分に湿気がたまり,キノコが生えただけであった。なお,「ゾエの墓の奇蹟」の演出に寄与したのは先に名前の出てきた文人プセルロスであり,後年執筆した回想録で真相を暴露したのもプセルロスである。なお,コンスタンティノス9世は,ゾエが亡くなると前述のマリアとは別の愛人に高い爵位を与え,私的には彼女を皇后と呼んだが,さすがに4度目の結婚を強行するわけには行かなかった。
こうした人気取り政策で財源不足に陥ると,コンスタンティノス9世は大幅な貨幣改悪のほか,国境から離れたイベリアのテマ軍団を解散するなどの軍縮政策で対処した。要するに,地方における外敵の侵入に対してはほとんど役立たずで,首都における学問の振興や建築事業,市民たちの人気取りに力を入れ,皇帝の権威を示すという大義名分の許で奢侈に耽ったというのが,コンスタンティノス9世の治世であった。
皇帝や宮廷人たちに言わせれば,これらの政策は要するにコンスタンティノス7世以前の「古き良き時代」に戻したということであり,首都と皇帝を豪奢に飾り立てるのは国防のための必要経費であり浪費ではないということになるが,軍人皇帝バシレイオス2世の治世があまりに長く続いたため,宮廷人たちも昔の文人皇帝たちによる治世がどういうものであったかを正しく理解しておらず,奢侈に耽る表面的な部分だけを真似ていたのである。この意味において,コンスタンティノス9世は真のビザンツ文人皇帝ではなく,端的に表現すれば「似非文人皇帝」に過ぎなかった。
一方,バシレイオス2世の軍事的栄光に包まれた輝かしい治世しか知らない軍事貴族たちから見れば,首都における大規模な建築事業や皇帝一族の豪奢な生活は単なる浪費に過ぎず,外国勢力との条約は臆病な敗北主義に過ぎなかった。仮に学問で昔のビザンツ帝国を知っていた者がいたとしても,レオーン6世やコンスタンティノス7世の時代には正面戦争で敵を打ち破る軍事力がないから外交で対処していたのであって,わざわざ自国の軍事力を弱体化させて奢侈と人気取りに没頭するコンスタンティノス9世の政策は,やはり理解不能であった。
軍事貴族たちの反乱
このような事情が重なって,コンスタンティノス9世の時代には軍事貴族たちの反乱が相次いだ。
ゲオルギオス・マニアケスは,軍事貴族の生まれではなく一兵卒からのたたき上げであったが,正真正銘の武将らしい人物であった。彼は1030年,ロマノス3世の軍を破って凱旋しようとするイスラム軍を待ち伏せして急襲し,略奪品を取り戻すことで頭角を現し,ミカエル4世時代の1039年にはシチリア島東部の奪回に成功した。彼は軍事的成功を妬んだ宦官ヨハネスに謀反の疑いをかけられて投獄されるも,1042年になるとミカエル5世(ゾエとする説もある)によって釈放され,再びイタリアに派遣されて軍の指揮にあたっていた。
もっとも,この時点で不信の種は既に撒かれており,小アジアにあった彼の領地が隣の領主に侵害されたのに,隣人は宮廷に人脈があるため罰せられないと聞くと,1043年,マニアケスはついに皇帝を名乗り反乱を起こした。首都から反乱軍を鎮圧するための軍隊が派遣されたが,この鎮圧軍はマニアケスの名前を聞いただけで恐怖に陥り,大混乱の中我先にと退却を開始した。
勝利を確信したマニアケスは,退却する敵を先頭に立って追撃していたところ,運悪く彼の右脇腹に流れ矢が当たった。彼は落馬し,救護も間に合わず出血多量で死んだ。指導者を失った反乱軍はあっけなく雲散霧消した。コンスタンティノス9世がこの反乱を乗り切ったのは,彼の才覚ではなく全くの幸運によるものだった。
1047年にも,レオーン・トルニキオスという将軍が反乱を起こし首都の城壁まで迫るが,反乱軍を迎え入れようとする者が市内にいなかったため,反乱は失敗に終わった。
上記のほかにも,カフカース地方では不満を高じさせた現地の指導者たちが,イベリア,アブハジア,アニ周辺の国境地域で反乱を起こし,キプロスの総督は権力奪取を企て,ブルガリア人は再び反乱を起こした。
相次ぐ反乱に見舞われながらも,幸運と首都の大城壁によって,何とか死ぬまで帝位を維持したコンスタンティノス9世であったが,彼の治世末期には宗教面でもある事件が発生した。1054年には共に野心的であったローマ教皇レオ9世とコンスタンティノポリス総主教ミカエル1世との仲が決定的に悪化し,ローマ教皇の使節団が総主教とその支持者を破門し,総主教も対抗してその使節団を破門に処したのである。
これは,ローマ教皇の使節を務めたフンベルト枢機卿の暴走によるものであり,ローマ教皇と総主教がそれぞれ相手を破門したわけではなく,後に破門は個人的なものであるとして相互に撤回されたが,この事件をきっかけに東西教会の関係は急速に悪化し,この事件は後世「大シスマ」として歴史上記憶されることになった。コンスタンティノス9世は,南イタリアにおけるノルマン人の侵入に対抗するため両者の関係改善を望んでいたが,意志が弱いため何ら有効な対策を取れなかった。
コンスタンティノス9世は1055年に死去。その後はマケドニア王朝唯一の生き残りであるテオドラが再び帝位に就くが,テオドラは1056年に腸の病で亡くなり,ここにマケドニア王朝は断絶した。
コンスタンティノス9世によって取り立てられ,かつ彼によって失脚させられ修道院入りを余儀なくされたプセルロスは,「皇帝には臣下が幸福になるよう配慮する義務があり,常に国家をうまく運営しなければならないということをコンスタンティノスは理解していなかった」と,彼を手厳しく批判している。また,『年代記』の著者ヨハネス・スキュリツェスも,「ローマ人の国政が危険にさらされ始めるのはこの皇帝(コンスタンティノス9世)のときからであり,それは彼の乱費と,これ見よがしの華美好みのせいだった」と非難している。
ビザンツ帝国の危機は,別にコンスタンティノス9世から始まったわけではないが,彼の治世下では同時代人でも理解できる程度に危機が進行しており,また彼の乱費と気まぐれな政策が「11世紀の危機」を大きく進行させたことは間違いない。ただし,ロシア史ではコンスタンティノス9世の孫(キエフ大公フセヴォロド1世に嫁いだ娘の子)がウラジーミル2世モノマフと名乗り,キエフ大公国中興の主となっただけでなく,16世紀に至るまでロシアの諸侯は,コンスタンティノス9世モノマコス及びその孫ウラジーミル2世モノマフの血を引いていることを誇りとし,イヴァン4世が『全ロシアのツァーリ』を称したときにも,その帝冠は『モノマフの帽子』と名付けられた。世の中,何が実を結ぶことになるかは本当に分からないものである。
<幕間21>ビザンツ人の教育水準と教育内容
歴代ビザンツ皇帝には学問好きな人物が多いので,ビザンツ人たちが如何なる教育を受けたかを語る機会には不自由しないが,帝国が外敵と内乱の脅威に晒される混迷期にある中,敢えて首都の大学を再興し学問の振興に努めたコンスタンティノス9世に一応の敬意を示すということで,同帝の項目に付ける形でビザンツ人の教育について語ることにする。
中世の西欧では,高度な教育は聖職に就く人々に限られ,聖職者以外は聖書を読むことすら許されず,一般庶民はおろか王侯貴族でさえも文字の読み書きを苦手とする者が多かったが,ビザンツ帝国では村の学校や主教座学校,司祭,修道士,そして個々の教師たちによる読み書きの教育が行われ,平民でも基本的な読み書き程度はできる者が多く,識字率は相当に高かったものと推測されている。
血統によって身分や就ける役職が固定化されていた西欧と異なり,ビザンツ帝国ではあらゆる分野において,能力のある者に指導者としての地位が開かれており,教育は高い地位や社会的卓越の鍵だとみられていた。もちろん,一族の家柄や資産によって高等教育を受ける機会の多寡には差があったであろうが,皇帝でさえ家柄が必ずしも決定的な意味を持たなかったビザンツ帝国では,学問に疎い無能な人物がただ生まれの高貴さ故に国家ないし社会の要職を占めるといった悪弊とはほぼ無縁であった。
頭脳明晰な一族の若者に高度な教育を受けさせることは,親族全員の利益となる家産の増大をもたらし,学問によって豊かになった者は,ビザンツ社会における学者の地位を安定させ向上させる教育機関や知的活動に投資した。学問を尊重し称賛することは,ビザンツ人の伝統でありその重要な特徴であった。
ビザンツ帝国内における日常会話は,独自の語彙と発音を持つ庶民の日常語(現代では「中世ギリシア語」と呼ばれるもの)が使用され,庶民でも知っているホメロスの叙事詩は中世ギリシア語で書かれたものが広く流通したが,高等教育では古代のアッティカ方言に由来するギリシア語が支配的であった。学者たちの著作活動では古代のギリシア語が使用されており,知識人同士の会話でも古代ギリシア語が使用されたかも知れない。
ビザンツの教育体系は一貫して,古代の自由七科(文法,修辞学,論理学という三種類の言語的科目と,四種類の数学的科目である算術,幾何学,和声学,天文学)に基づく古典的なものであった。
ビザンツの子供たちが受ける初等教育は,基礎となる文字から始めて,蠟板や石板にアルファベットを書く練習をした(中国で発明された紙がヨーロッパで生産されるのは,13世紀に入ってからの事である)。続いてイソップ寓話を学んだ後,ディオニュシオス・トラクス(紀元前二世紀の文法学者)の『文法術』に基づく練習問題へと進んだ。ホメロスの叙事詩を暗記する教育も重要視され,1日で覚えて理解できるのは平均30行程度であり,良くできる子は1日50行暗記したという。ホメロスの『イーリアス』は1万5千行以上あるので,ホメロスに関する教育の進度はゆっくりであったろう。
詩と文法を学んだ後,十代の学生は修辞学に取り組んだ。彼らはアンティオキアのアフトニオスによる短い模範文例や後世の編纂物を使って弁論術を学び,説得力のある演説の仕方を身に付けたのである。デモステネスやリバニオスの演説を読み,皇帝の結婚といった特別な舞台に備えて,自作の演説を読み上げる練習をした。
これらの学習を終え,更に高度な学問を受けようとする者は,首都で数学系四学科と哲学を学んだ。プラトンやアリストテレスを原書で学ぶのはこうした上級段階に進んだ者だけであった。数学が上級段階の学問とされたのも大きな特徴で,イスラム世界で発明されたアラビア数字が伝わった後も,商売ないし取引の場面で必要不可欠となる基礎的な計算能力の学習が初等ないし中等教育に導入された形跡はない。商業を軽視するビザンツ人の伝統はこのようなところにも現れており,後年ヴェネツィアの台頭を許す一因になった可能性もある(商業を重視するヴェネツィア人が,アラビア数字を利用した計算教育をいち早く導入したことは言うまでもない)。
首都における高等教育は,ミカエル3世時代のバルダスやコンスタンティノス9世の尽力による帝国大学が機能していた時代にはそこで行われたが,機能していなかった時代には首都の高名な知識人に弟子入りするなどの形で行われたようである。帝国の役人として登用されるには,こうした首都で行われる高等教育を修了する必要があったが,ビザンツ帝国では中国の科挙のような試験制度は存在しておらず,登用資格の判定は知識人たる教師たちの成績評価に委ねられたようである。
試験制度に慣れ切った日本人からは「そんなやり方で大丈夫か」と疑問視する向きもあろうが,学問を重視するビザンツ帝国では,出来の悪い弟子に合格判定を出して官界に送り出せば教師自身の威信が傷つくので,概ね問題なく機能したものと考えて良さそうである。宮廷で高位の官職を与えられている知識人たちも,宮廷における自らの影響力を高めるため,優秀な弟子を進んで迎え入れた。こうした民間による高等教育システムが機能していたので,バルダスやコンスタンティノス9世が再興した国営の帝国大学も,特に必要な存在とはみなされなかったのである。
こうしたカリキュラムは,7~8世紀の暗黒時代における一時的な中断はあったかも知れないが,概ね5世紀から15世紀までほとんど変わることなく続き,こうした異教的な教育に,キリスト教的な教えや神学が加えられた。聖書は道徳的教訓であると同時に有益な物語の宝庫であると理解され,異教的な世俗教育とキリスト教信仰はしばしば緊張関係に立ったものの,概ね当然に両立し得るものと結論付けられ,良質の世俗教育は神学にも役立つものと理解されていた。
ビザンツ帝国では極めて整った記録保存が自明のこととされ,ビザンツ帝国の公会議では,キリスト教に関する諸史料の信憑性を確認するため,総主教の図書館に保管されている権威ある写本に対照するといった手続きが行われた。裁判上の決定は三通作成され,帝国文書保管局と判決を受ける両当事者が一通ずつ保管した。外交交渉も細部に至るまで記録された。租税台帳は,納税義務のある人物だけでなく,数世代も前の地主について詳細に記録していたし,公証人が作成した私的契約も同様の個人情報を提供している。
こうした業務の担い手として,帝国では高度な教育を受けた何千人もの役人や訓練された書記たちを常時必要としており需要は豊富にあったので,学問のできるビザンツ人は高位の官職に就くため競って学問に励んだのである。
これに加えてビザンツでは,貧しい人々や身分の低い者が文書によらずに契約することも認めており,高度な口述学習が奨励された。口頭での学習は,何世代にもわたって記憶され受け継がれた歌や物語,追想から始まり,この点は中世社会の他国で行われていたものと概ね同様であった。このような口承文化に関する史料は乏しいものの,両親や年長の親族は子供たちに,古代ギリシアの劇や詩から取られた格言,古代の神々や女神についての物語,そして道徳的な価値について教える責務を負っていた。
建築や農業,助産術といった専門的な技能は家族内で伝承されるのが一般的であり,てんかんやハンセン氏病患者の面倒を見る人々は,口承の形で伝えられた経験に頼っていた。ビザンツの医師たちは,ガレノスやそれ以前の専門家たちによる医学知識の写本伝承と並行して,病人の世話に関する口承での教育も受けていたのである。
なお,11世紀頃になると,それまで口承によって流布していた俗語が文学活動にも影響を及ぼすようになり,『ディオゲス・アクリタス』の韻文叙事詩が15音節の韻律で書き留められたほか,風刺詩,動物寓話,6世紀の将軍ベリサリウスに捧げられた韻文ロマンスが創作され,12世紀には『イーリアス』や『オデュッセイア』の民衆語版も作成され,現代では「中世ギリシア語」と呼ばれる俗語文学も一定の地位を占めるようになった。
古代ギリシアの科学や文学を基礎とする学問研究はイスラム帝国でも行われ,ギリシア古典のアラビア語への翻訳が行われた。ビザンツ帝国とイスラム帝国との関係が小康状態になると平和的な文化交流も盛んになり,科学の分野においてはイスラム世界でより速く発展したため,何世紀か後になると,アラビア語のテキストがギリシア語に翻訳されることも盛んに行われた。
ビザンツ帝国は,ローマ教皇から戴冠を受けたカール大帝や,その後継者たる神聖ローマ皇帝たちをビザンツ皇帝と同等の存在と認めることは頑なに拒んできたが,明らかな異教徒であるにもかかわらず,イスラム世界のカリフはビザンツ皇帝と同等の地位にあると認めていた。10世紀初頭の総主教ニコラオス1世は,カリフ宛に次のような内容の手紙を送っている。
「この世におけるすべての支配のうち,ふたつの支配,すなわちサラセン人の支配とローマ人の支配は(他の支配の)上に立ち,あたかも天空のふたつの大きなかがり火のように光っています。(中略)だから,生活,習慣,信仰が違うからとって,互いに知らぬ顔をしていてはならないのです。」
このような姿勢の背景には,学問を尊重するビザンツ人の伝統から,自分たちと同等ないしそれ以上の学問水準に達しているイスラム文化に,信仰の違いを超えた敬意を表していたことが挙げられよう。逆に,いくら軍事力が強大でも,野蛮で非文明的なフランク人の王を自分たちの皇帝と同等と認めることは,ビザンツ人には出来なかったのである。