第16話 『11世紀の危機』後半・プセルロスの時代

第16話 『11世紀の危機』後半・プセルロスの時代

(1)プセルロスの生い立ち

 ゾエの死後,彼女に代わってビザンツ宮廷の中心人物となったのは,ミカエル・プセルロスという官僚である。1018年頃に生まれたというプセルロスは宦官ではなく,哲学や修辞学を学んだ学究肌の人物である。彼自ら記した『母への追悼文』によると,プセルロスはあまり裕福な家の出身ではなかったらしく,父親や周囲の人々は初等教育を終えたプセルロスを働かせようとしたが,母親が夢のお告げで「この子は学問で身を立てる」と反対したおかげで,学問を続けることが出来たのだという。彼の母親も相当教養のある女性だったようで,子供の頃は母親に勉強を見てもらったという。
 ニケフォロス2世からバシレイオス2世に至る長い軍人皇帝の治世下で,プセルロスによれば「哲学は学ぶ者もなく,まさに息を引き取ろうとしていた」ところ,彼は「たった一人で哲学を死の床から呼び戻した」という。もっとも,プセルロスはかつてのフォティオスのように独学で哲学を学んだわけではなく,実の母親のほか,後のエウカイタ府主教ヨハネス・マウロプースという高名な知識人に師事しており,このようなプセルロスの主張は明らかな誇張である。
 首都で私学校を開いていたプセルロスは,高い教養に裏打ちされた巧みな弁舌で時の皇帝コンスタンティノス9世に気に入られ,宮廷における発言を急速に高めていき,1047年には哲学執政官の肩書を得た上に,皇帝が設立した哲学大学の学長に任命された。
ところが,コンスタンティノス9世の治世晩年になると,プセルロスは皇帝の寵愛を失い,学長職を退いて修道院に入ることを余儀なくされてしまった。彼はこの頃について,次のように回顧している。
「皇帝がすべての人々を戦車に乗せ,支配という競馬場を走り,そして多くの人々を戦車から振り落としている。我々自身もこの戦車に乗っていたが,皇帝が車を激しく揺さぶって振り落とすのではないかと,大いに恐れていた。我々は戦車にしっかりと座っていなかったからである。」
 その後,プセルロスは女帝テオドラによって宮廷に呼び戻されたが,その後のプセルロスは学問だけでは宮廷で生きていけないことを悟り,勉学時代からの人脈と,身に付けた学問のうち特に雄弁術を武器に,美辞麗句で皇帝を称え,次々と替わる皇帝に巧みに渡りをつける,といった処世術で動乱の時代を生き抜いた。プセルロスは,女帝テオドラの死後に繰り返された一連の皇帝交代劇の中で決定的な役割を果たし,一種のキングメーカー的な地位を保ったことから,本稿では「11世紀の危機」の後半を「プセルロスの時代」と呼ぶことにする。
 ただし,プセルロスは「口ごもる人」を意味するあだ名であり,弁舌の徒と言っても演説自体は下手で,彼が得意としていたのは演説の草稿を書くことだったようである。また,彼が暗躍していた時代の帝国は衰退の一途を辿っており,政治家としての彼に対する評価は,およそ帝国の舵取りには向かない単なる弁舌の徒,などとするものが一般的である。
 そのような人物がビザンツ帝国の歴史上有名となった要因は,彼が自らの『回想録』をはじめとする多くの著作を残し,ビザンツ帝国史の研究家たちにとって重要な史料を数多く提供したことであるが,彼は現在仕えている皇帝を手放しで称賛し,その皇帝が死ぬと手のひらを返したように非難するという典型的なビザンツ人官僚であり,彼の著作は政治的偏向が強いことに注意して読む必要がある。

(2)「軍人を侮蔑した老人」ミカエル6世ストラティオティコス

 プセルロスを呼び戻した女帝テオドラは,死に臨んで元老院議員ミカエル・ストラティオティコスを自らの養子とし,彼は皇帝ミカエル6世(在位1056~1057年)として即位する。このミカエル6世については,ブリンガス家の一族であったことは知られているが,在位期間が短いため単に「老人」としか知られていない。
 宮殿の官僚たちに支持されて帝位に就いたミカエルは,慣例に従って1057年の受難週に高官たちの年俸を渡す際,文官たちには例年よりかなり多い金額を支給し,彼らには贈り物が山のように積まれた。一方,軍人たちの昇進や昇給,贈り物の類は一切なく,しかもミカエルは戦争における司令官たちの任務怠慢をなじり,司令官の地位を個人的な栄達に利用しているとさえ非難した。
 将軍たちは唖然として,屈辱的な思いで宮殿を出た後,皇帝第一の側近であるレオーン・パラスポンデュラスを探して,皇帝に考えを改めさせるよう要求したが,やはり色よい返事は得られなかった。
 バシレイオス2世の死後,宮廷人たちによってロマノス3世,コンスタンティノス9世,そしてミカエル6世といった「文官出身で男子のいない老人」が好んで擁立されたのは,自分たちの手で新しい皇帝を擁立する度に文官たちがこうした恩賞に与れるからであったが,もはやマケドニア王朝は断絶し,テオドラの遺志というよりは文官たちの意志で帝位に就いたこと明らかな新皇帝ミカエル6世のあからさまな侮蔑的態度に対し,もはや将軍たちは我慢する必要性を認めなかった。
 俸給を受け取るため首都に集まっていた将軍たちは,かくなる上は自分たちの手で新たな皇帝を擁立するしかないとの結論に達し反乱の計画を練ったが,唯一意見がまとまらなかったのは総大将を誰にするかであった。誰の目にも適任と思われたカタカロンは総大将の任を固辞し,結局総大将はイサキオス・コムネノスに落ち着き,彼は小アジアで皇帝と歓呼された。
 イサキオス率いる反乱軍は西上してニケーアに進み,鎮圧のため派遣された帝国軍を撃破すると,ニコメディアにまで進んだ。ミカエル6世は交渉を試み,プセルロスを長とする使節団を派遣して,自分の死後はイサキオスを皇帝にすることで話をまとめようとしたが,この養子縁組によって自分たちの影響力が低下することを恐れた他の軍人貴族たちの策謀もあり,首都でも総主教によってミカエル6世への反乱軍が組織された。
 もはや側近の間ですら支持されていないことを悟ったミカエル6世は,結局イサキオスを養子にすることなく退位し,イサキオス1世コムネノスが皇帝に即位した。

(3)「挫折した軍人皇帝」イサキオス1世コムネノス

 バシレイオス2世を親代わりとして育ったという新皇帝イサキオス1世(在位1057~1059年)は,民衆の熱狂的な歓迎を受けた。文官出身の老皇帝が帝国防衛の任務を果たせないことは明らかである上に,もはやマケドニア王朝の血を引く者はいなかったので,民衆も属州出身の軍人に皇帝をやらせてみることにやぶさかではなかった。
 首都を掌握したイサキオス1世は,かつてニケフォロス2世が招いたような非難を避けるため,兵士たちに給料を支払うと早々に小アジアへ戻らせ,首都で略奪行為が行われる危険を未然に防止した。前政権の支持者に対する魔女狩りのような粛清行為も無く,逮捕を覚悟していたプセルロスも,新皇帝によって従来の地位を保証された。もっとも,その政策が文官出身の皇帝たちと同じであるはずは無かった。
 イサキオス1世は,当然ながらバシレイオス2世を統治の模範とし,金貨には剣を持った自らの像を刻ませ,帝国防衛の任務を果たす軍人皇帝の姿勢を強くアピールした。財政再建のために徹底した歳出削減政策を打ち出し,官僚や軍人たちの給料は等しく削減された。徴税も強化した上に,歴代皇帝が教会や貴族層に対し行った土地の譲渡や贈与をすべて無効とした。しかし,このような施策は当然ながら教会や貴族層からの反発を招いた。
 イサキオスは,自らの政策に反発する総主教のミカエル1世を逮捕したが,これで教会や国民,貴族たちからの反発は一層強くなり,改革は早くも行き詰った。長年野党の座に甘んじていた者がいきなり政権を掌握してもうまく行かない例は多いが,イサキオスもその例外にはなり得なかった。
 それでも,イサキオスが軍人出身の皇帝らしく,目を見張るような軍事的成果を挙げることができれば支持を集めることが出来たかも知れないが,1059年にセルジューク朝がメリテネの町を襲撃したときには,ビザンツ軍が到着する前にトルコ軍はメリテネの町を略奪して残っていた住民を虐殺し,遅まきながら到着したビザンツ軍はトルコ軍を追撃するも,追いつけずにトルコ軍を無傷で戻らせてしまった。
 また,同年にペチェネグ人がブルガリアに侵入してきた際には,イサキオス1世自ら軍を率いて出陣するも,ペチェネグ人は戦わずに撤退してしまい,ほとんど何の成果もないまま首都に帰還した。しかも,ビザンツ軍はその帰途で集中豪雨に見舞われ,増水した川を渡ろうとして多くの兵士を失った。
 落胆したイサキオスは熱病に倒れてしまい,一時は命が危ぶまれるほど病状が悪化したため,退位を決意した。イサキオスにはヨハネスという弟がいたが,既にコムネノス家の声望は地に落ちていたためヨハネスは帝位を辞退し,結局イサキオスはプセルロスを含む重臣たちの説得を受け,自ら帝位に就いた際の反乱の参加者で元老院議員でもあったコンスタンティノス・ドゥーカスに帝位を譲って修道院に入り,1061年に死去した。
 久方ぶりの軍人皇帝イサキオス1世の治世は短期間で挫折したが,その教訓は後年,彼の甥(弟ヨハネスの息子)アレクシオス1世によって活かされることになる。

(4)「軍事家門らしからぬ者」コンスタンティノス10世ドゥーカス

 コンスタンティノス10世から後述するニケフォロス3世までの皇帝は,一応にせよドゥーカス家の血縁に基づく帝位継承が行われたため,歴史上「ドゥーカス朝」と呼ばれている。
 イサキオス1世から譲られて帝位に就いたコンスタンティノス10世ドゥーカス(在位1059~1067年)は,ドゥーカス家という最も古い軍事家門の子孫であり,イサキオス1世を擁立した反乱にも参加していた人物でもあった。
 即位の経緯に関し謎が多いコンスタンティノス10世の即位は,プセルロスの暗躍によるところが大きいと考えられている。イサキオス1世は,ドゥーカス家という有名な軍事家門出身の彼ならば自分の政策を継承してくれるだろうと期待して後継者指名に同意したのかも知れないが,そうした期待は完全に裏切られることになった。
 コンスタンティノス10世には,軍人皇帝らしいところは全く無かった。財政再建よりも宮廷内での評判を重視し,イサキオス1世が実施した財政再建を目的とした改革の多くを撤回したばかりか,新たな爵位や年金も創設した。一方で軍事を軽視し,東方からのセルジューク朝,北からのペチェネグ人,西からのノルマン人の侵攻に対しては,戦争より外交で解決しようとした。在位中,自ら戦場に赴いたことは一度も無かった。
 コンスタンティノス10世の治世下,1060年にはセルジューク朝の侵略部隊が,全く抵抗を受けずに8日間セバステイアの町を略奪した。その4年後にはセルジューク・トルコのスルタン,アルプ・アルスラーンがビザンツ領アルメニアに侵入し,アニを略奪した。この町は,20年ほど前にビザンツ帝国に併合されたばかりの町である。
 全く信じ難いことに,コンスタンティノス10世の対策は,わざと軍隊を資金不足にしておくことであった。セバステイアには守備隊がいなかったのであっけなく陥落したが,当初トルコ人は,遠くから町を見ると教会の丸屋根が駐屯軍の天幕のように見えたので,攻撃をためらっていた。慎重に近づいてみると町は完全に無防備だとわかり,トルコ軍はもはやためらうことなく突入した。
 コンスタンティノス10世は,軍事家門の出身ではあるが,皇帝になったことで従来とは違うものの見方をするようになっていた。マケドニア王朝の断絶により,誰もが認める正統な王朝はもはや存在しないので,かつてミカエル6世を追放したような軍事反乱を防ぐものは何もない。軍人たちに金と任務を与え遠征に送り出し彼らが功績を挙げれば,次に犠牲になるのは自分たちの一族かも知れない。
 だからと言って,前任者イサキオス1世のように自ら軍を率いて遠征した場合,それで勝てれば良いが,負ければその時点で自分の帝位もお終いである。結局そのように危険な賭けに出る度胸の無かったコンスタンティノス10世は,文官出身の皇帝たちと同様首都に篭って,あからさまな文治政策を採った。
 彼は,司法に多大な関心があると表明して民事訴訟の審理に多くの時間を割いたが,一方で財政難を補うために大規模な官職売買制度を導入して官制を乱し,地方に対する行政能力はかえって低下した。おそらく誇張ではあろうが,彼の治世下では元老院議員の数が1万人を超えたとも伝えられている。
 敵に攻められるよりも軍功を挙げた将軍が自分に反旗を翻すことを恐れたコンスタンティノス10世の政策のお陰か,彼の治世下で記録されている反乱は,1066年のニクリツァス・デルフィナスという人物が起こした1件にとどまった。しかし,ビザンツ軍は資金不足でろくに戦えず,多くの領土を失っていった。
 このような皇帝の態度は,帝国支配下の各地方に「帝国は首都さえ無事ならそれでいいと思っているのか」という類の不信感を抱かせ,以前から存在している宮廷の文官と軍事貴族の対立に加えて,中央と地方の対立という新たな対立構図を作ってしまった。この新たな対立構図はその後の帝国に大きな禍根を残し,後のイサキオス2世の時代になると帝国自体の破滅をもたらすことになる。
 コンスタンティノス10世は1067年に死去するまで帝位を維持することに成功したが,その頃にはドゥーカス家の威信は大きく傾いており,彼による負の遺産は彼の若い息子ミカエルが背負わされることになる。

<幕間22>イタリアのノルマン王朝とセルジューク・トルコ

 この時代にビザンツ帝国の敵となった勢力のうち,以前から登場するペチェネグ人は単なる蛮族国家に終始しており語ることはあまり無いので,残るノルマン人とセルジューク族についてこの機会に触れておく。
 ヴァイキングとしても知られるノルマン人は,その勇猛さでヨーロッパの各地を席巻したが,南イタリアに現れたノルマン人は,フランスのノルマンディー公爵領からやってきた人々である。オートヴィル家と呼ばれる彼らの首領はフランス語でロベール・ギスカール,イタリア語でロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラと言うが,本稿では便宜上フランス語表記で統一する。なお,イタリア語の「イル・グイスカルド」というのは「狡猾な」という意味のあだ名であり,ロベール・ギスカールという名は要するに「狡猾なロベール」を意味する。
 オートヴィル一族は,イタリアでしばらく傭兵や山賊などをやっていたが,1042年にイタリアでプーリア伯の地位を手に入れた。ロベールがイタリアにやってきたのはその後であり,彼は兄の後を継いで1057年にプーリア伯となった。時のローマ教皇ニコラウス2世は,神聖ローマ皇帝との争いに備えてノルマン騎士を手懐けようとし,1059年にはロベールをプーリア,カラブリア及びシチリアの領主に任命し,ロベールにこれらの地域を征服する大義名分を与えた。
 ロベールは弟ルッジェーロ(後のシチリア伯ルッジェーロ1世)と共にこれらの地域を征服したが,ノルマン人自体は極めて少数であり,実際には混在し対立するキリスト教系,イスラム系諸勢力の調停者となって次第に味方を増やしたのが成功の要因であり,「狡猾なロベール」と呼ばれたのもこのあたりの事情に由来するらしい。ロベールは1071年にバーリを落とし,シチリアと南イタリアを概ね平定した。1072年にはシチリアを弟ルッジェーロに譲り,自らは南イタリアを支配して,アドリア海の対岸にあるビザンツ帝国の領土を狙うことになる。
 ロベールとその息子ボエモンドによるビザンツ征服の試みが失敗した後,シチリアと南イタリアはルッジェーロ1世の息子で,1130年に初代シチリア王を名乗ったルッジェーロ2世の領有するところとなった。このシチリア王国はイタリア人,ギリシア人,アラブ人,ノルマン人,ユダヤ人が民族的,宗教的寛容により融和した多民族国家となり,この国は1194年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によって征服されたが,その融和的伝統はハインリヒ6世とその妻でシチリア王家の血を引くコンスタンツェとの間に生まれた,神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に継承されることになる。
 他方,セルジューク族はトルコ人とも呼ばれるテュルク系遊牧民族の一つであり,10世紀後半頃にアラル海東岸のジェンドに居を構え,イスラム教を受容したという。セルジューク族の名称は,王朝の遠祖とされる人物の名前に由来するものである。
 族長トゥグリル・ベクに率いられたセルジューク族は,1038年にニシャプールの支配者に迎えられると急速に勢力を拡大し,ダンダナカンの戦いでガズニ朝の軍勢に勝利し,中央アジアとペルシアの広大な地域を支配下に収めた。当時のアッバース朝カリフは,シーア派のブワイフ朝という王朝に支配されていたが,トゥグリル・ベクはカリフに書簡を送って忠誠を誓い,スルタンの称号を名乗った。その後,カリフの救出を大義名分として1055年にバグダードへ入城し,トゥグリル・ベクはカリフからスルタンの位を公認され,セルジューク朝はイスラム世界の覇者となった。
 1063年にトゥグリル・ベクが亡くなると,甥のアルプ・アルスラーンがスルタンの位を継承し,彼はペルシア人官僚ニザーム・アル・ムルクを宰相として重用し,有力な将軍にイクター(徴税権)を付与し,マムルーク(軍人奴隷)を基にした君主直属軍事力の拡大を図り,更に自ら積極的に外征を行って支配領域を広げた。
 セルジューク朝は1072年に亡くなったアルプ・アルスラーンの子マリク・シャーの許で最大領域に広がったが,マリク・シャーは狩猟に明け暮れて政治を大宰相ニザーム・アル・ムルクにほぼ丸投げしており,セルジューク一族は各地に地方政権を樹立した。1092年にニザーム・アル・ムルクが暗殺され,その翌月にマリク・シャーが亡くなるとセルジューク朝は弱体化し,スルタンを称した本家は1157年に断絶するが,ビザンツ帝国から奪った小アジアに本拠を構えた地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで存続し,11世紀末から13世紀のビザンツ帝国にとって強力なライバルとなる。

(4)「捕らわれた軍人皇帝」ロマノス4世ディオゲネス

 1067年にコンスタンティノス10世が亡くなったとき,後継ぎのミカエル7世は16歳前後であり,年齢的には親政を行うことも不可能ではなかったが,知的で野心的な女性であった母親のエウドキア・マクレンポリティサが「アウグスタ」すなわち女帝を名乗り,コンスタンティノス10世の弟でカイサル(副帝)となっていたヨハネス・ドゥーカスと共に,ミカエル7世の後見という名目で帝国の実権を掌握することとなった。なお,エウドキアより約1世紀後の歴史家ニケフォロス・グレゴラスは,女帝エウドキアを「第二のヒュパティア」と呼んでいる(ヒュパティアは,第1部第2話で言及したとおり,キリスト教徒によって415年に惨殺された異教徒の女性知識人である)。
 女帝エウドキアは,カッパドキアでペチェネグ人の軍勢を何度も撃退し武名を高めていた,ロマノス・ディオゲネスという将軍が帝位を狙っているとして,彼を投獄し追放していたが,セルジューク朝などの侵攻に悩む国民や貴族層は強力な軍事政権を望んでおり,国民の意向を無視することも出来なかった。
 女帝エウドキアは,ヨハネス・ドゥーカスとプセルロスを宮廷に呼び,二人にこう語った。「分かっていますね,我々の威信は失われています。我が帝国の運命は傾いています。」これは政権の幹部である両名にも否定できない事実であった。しかし,女帝が考えている提案は彼らにとって受け入れ難いものであったため,プセルロスはその件についてはじっくり検討しましょうと言葉を濁した。彼の曖昧な返答は笑いを誘っただけであった。
 女帝は続けた。「決定は既になされています,自分が再婚する人物を皇帝として実権を委ねるつもりです。」彼女が夫に選んだのは,自らの手で追放していた将軍ロマノス・ディオゲネスであった。エウドキアはコンスタンティノス10世の死に臨み,再婚はしない旨の誓約書を書いていたが,時の総主教ヨハネス8世にこの誓約書を引き渡し,帝国のためこの再婚に賛成するよう説得した。
 こうしてエウドキアは,副帝ヨハネスや息子ミカエル7世の了解も得ないまま,元老院の承認を得て1068年1月1日にロマノスと再婚し,新しい夫をロマノス4世(在位1068~1071年)として即位させた。ヨハネスとプセルロスはこの決定に不満であったが,ひとまずは受け容れるしかなかった。
 ロマノス4世は,侵攻してきたペチェネグ人やロシア人,ノルマン人と和睦して彼らを傭兵として取り込み,敵をセルジューク朝に絞って軍事的成果を挙げようとした。これまで防戦一方だった流れは彼の即位によって大きく変わったが,敵はロマノスが姿を現すとすぐに撤退してしまうため,大きな軍事的成果を挙げることはできなかった。1069年には,ロマノス率いる軍はシリアに侵入したが,目ぼしい戦果を挙げることができなかっただけでなく,その隙を突いてトルコ軍がビザンツ領に侵入してイコニオンの町を略奪し,ロマノスはこれを防ぐことが出来なかった。
 ロマノス4世は,自らの政治生命が軍事的成功の有無に関わっており,軍人皇帝として目ぼしい成果を挙げられなければ,首都にいるヨハネスやプセルロスらの手によって簡単に廃位されてしまう立場であることを十二分に承知しており,輝かしい軍事的勝利を焦っていた。
 そして1071年,ロマノス4世は自ら6万の軍を率いて小アジア東部に進軍し,アルメニアの町マンズィケルトを奪回した。その後,アルプ・アルスラーン自ら率いるトルコ軍がいるとの報告を斥候から受け,自軍の方が数で勝っていると自信を持ったロマノスは,スルタンからの和平申し入れを拒絶し,トルコ軍への攻撃を命じた。
 こうして始まったマンズィケルトの戦いは,当初こそ数に勝るビザンツ軍が優勢であり,トルコ軍はビザンツ軍の攻撃に浮足立って一目散に退却したが,功を焦るロマノス4世は自ら先頭に立って敵を追撃しているうちに本隊とはぐれてしまい,皇帝の周りにいるのはわずかな親衛隊だけという状況で敵軍に囲まれるという重大な失策を犯した。ロマノス4世は必死に抵抗するも,ついに捕虜となってしまった。
 ビザンツ側の司令官の一人アンドロニコス・ドゥーカス,あの憤懣やるかたないヨハネス・ドゥーカスの息子は,皇帝に無断で退却命令を出していた。このアンドロニコスの行為は裏切りと非難されるが,彼の判断でビザンツ軍が早期に撤退したため,この戦いにおける死傷者の数は両軍ともに大した数ではなかった。それでも,ローマ皇帝が生きたまま敵の捕虜となったのは3世紀のヴァレリアヌス帝以来となる不祥事であった。
 捕虜となったロマノス4世と勝者アルプ・アルスラーンとのやり取りについては,若干ドラマチックな伝承が残っている。アルプ・アルスラーンはロマノスに,そなたは今後どのような処遇を覚悟しているかと訊ねた。ロマノスは答えた。「もしも貴殿が冷酷ならば私の生命を奪うだろうし,もしも自己の体面を考えるならば私を貴殿の戦車の車輪に縛って引き回すだろう。もしも利益を考えるならば身代金と引き換えに私の身柄を故国に送り返すだろう。」
 スルタンは続けて訊ねた。「ならば,仮にそなたが勝利して私を捕虜にしたならば,私をどのように処遇する積もりであったか?」この問いにロマノスは激昂して叫んだ。「もしも私が勝利したならば,貴様の身体を鞭で滅多打ちにしたであろう!」
 アルプ・アルスラーンは,この捕虜の傲慢さに苦笑しつつ,キリストの法は敵を愛し侮辱を許すように教えているはずである,それ故に自分は貴殿の宣言した刑罰を見習おうとは思わない,と宣言したという。そして,和平の条件として多額の身代金と毎年の貢納,王族の子供たちとの通婚,そして現在ビザンツ軍に捕らえられているすべてのムスリムの釈放を約束する条約に署名させ,ロマノス自身には何ら危害を加えることなく8日後には釈放している。
 会話内容の正確性はともかく,ロマノスが上記のような条約に署名させられただけで,危害を加えられることなく釈放されたことは事実である。釈放されたロマノスは,当然ながら捕虜の身で強要された条約は無効だと主張した。皇帝の身も無事であり,前述のとおりビザンツ軍の損害自体も大きなものではなかったので,ビザンツ帝国がこの敗戦から再起を期すことは十分に出来そうだった。にもかかわらず,マンズィケルトの戦いがビザンツ帝国にとって歴史的な大惨事になってしまったのは,戦いそのものではなくビザンツ側の戦後処理が主な原因である。
 マンズィケルトにおける敗戦の報を聞いた,副帝ヨハネスやプセルロスをはじめとする首都の宮廷首脳たちは,ロマノス4世の消息を十分に確かめることもせず,ミカエル7世が既に20歳を過ぎ皇帝としての権限を行使できる年齢に達していることを理由に,ロマノス4世を廃位し,エウドキアを修道院に押し込めてミカエル7世を皇帝として即位させた。その勇猛さで後世に名を遺すヴァリャーグ親衛隊も,この政変に一役買っていた。
 自分の知らないうちに退位させられたロマノスは,ミカエル7世の皇帝即位を認めなかったため内戦となるが,既に反逆者扱いされていたロマノスは自分の味方となる勢力を糾合する十分な時間的余裕も無く,アダナでアンドロニコス・ドゥーカスの軍に敗れ,ロマノスは身柄の安全の約束と引き換えに投降した。しかし,首都の宮廷はこの約束を反故にし,ロマノスの目を潰させた(なお,アンドロニコス自身はこの措置に反対したという)。この措置はかなり乱暴な方法で行われたらしく,ロマノスはその数か月後に死んだ。
 ロマノス4世の治世は結果論としては失敗と評するしかないが,これは彼自身の無能や失策というよりは,雇われ皇帝とでも言うべき彼の権力基盤の弱さに由来するものであり,忠誠心の疑わしい軍隊を率いて早急に軍事的成果を挙げる使命を負わされた彼の不運には同情を禁じ得ない。しかも,アルプ・アルスラーンはマンズィケルトの戦いの翌年に病死しており,もう少し我慢していればロマノスにも成功の機会があったというのは,もはや歴史の皮肉と称するしかない。

(5)「4分の1を失った者」ミカエル7世

 前述のような経緯で即位したミカエル7世(在位1071~1078年)の支持者たちは,ロマノスの死によって自分たちの勝利が確立したものと信じたが,ロマノス4世に忠実だった者の多くはミカエル7世を皇帝と認めず,小アジアの各地で独立政権を樹立した。ルーセル・ド・バイユールというフランス人傭兵隊長は,テマ・アルメニアコンのアマセイア周辺で独立政権を築き,周辺住民は遠くて頼りにならないビザンツ帝国ではなく,ルーセルに租税を支払うようになった。アルメニア人のフィラトレスも,エデッサとキリキア地方の各地を占領した。このような帝国の混乱に乗じ,西方ではノルマン人が南イタリアにおける帝国最後の拠点パーリを1071年に陥落させ,これによってビザンツ帝国の南イタリア支配は終わった。
 相次ぐ反乱により国境の防衛体制が崩壊すると,セルジューク朝の軍勢は小アジアへ侵攻していった。このときの侵攻はセルジューク朝のスルタンの命によるものではなく,その臣下たちの手によって勝手に行われたものであった。スルタンのアルプ・アルスラーンは1072年に亡くなっており,若いマリク・シャーには勝手に領土を広げていく臣下たちを統制する能力も意志もなかった。トルコ人たちはビザンツ側の抵抗がないのを良いことに,小アジアの各地を次々と占領して定住するようになった。
 相次ぐ反乱と急激な領土の失陥によりミカエル7世の権威は失墜し,1078年には将軍ニケフォロス・ポタネイテアスがニケーアで皇帝を名乗って首都へ進軍し,首都でも彼に呼応して反乱が起こったため,ミカエル7世は退位して修道院に入った。ミカエル7世には「パラピナケス」(4分の1を失った)というあだ名が付けられているが,これは彼の治世中に悪性インフレが起こり,同じ金額で買える小麦の量が従来の4分の3になってしまったことを意味している。
 ミカエル7世の為人については,彼は政治に関心がなく,彼の家庭教師を務めたプセルロスの影響で政治よりも学術研究に興味を持ち,内政面では財務大臣である宦官ニケフォリッツェスに頼っていたという。ニケフォリッツェスの本名はニケフォロス(勝利をもたらす者)と言うが,財政再建のため苛酷な徴税を行い,トウモロコシや穀物の専売政策を導入して民衆や貴族の恨みを買ったほか,小アジアの失陥という非常事態に何ら有効な対処が出来なかったことから,ニケフォリッツェス(ちっとも勝利をもたらさない者)のあだ名で呼ばれ,彼の政策に対する不満もミカエル7世廃位の一因になったという。ミカエル7世の廃位に伴い,彼もマルマラ海の島へ追放された。
 なお,ビザンツの宮廷で長年にわたり暗躍してきたプセルロスに関する記録は,ミカエル7世の治世途中で途絶えている。プセルロスの正確な没年は不明だが,研究者の多くはプセルロスがミカエル7世の治世途中で引退し修道院に隠棲したか,ミカエル7世の没後間もなく没したと見ており,キングメーカーたるプセルロスの役割は,ミカエル7世を即位させたことで終わったと見るべきだろう。
 本章ではプセルロスのことを相当悪く書いてきたが,一方で彼は哲学のみならず数学系科目を含む自由七科すべてを修めた,当代一流の教養人であったことは確かである。彼はコンスタンティノス10世について,次のような精彩ある記述を残している。
「コンスタンティノスは高位の官職を心から軽蔑しており,隠遁生活のほうを好んでいた。服装や着こなしには無頓着で,田舎者のように歩き回った。確かに,魅力的な女性は,質素な衣装をまとうことでその美しさが際立つものである。美しさを隠すためにまとうヴェールは,むしろその輝くばかりの栄誉をいっそう明らかにするためのものとなり,無頓着にまとわれた装束も,彼女が着れば細心の注意を払った化粧と同じくらい効果的だった。同じことがコンスタンティノスについても言えた。彼が無造作に羽織った衣装は,彼のひそかな美質を隠すどころか,いっそう明白なものにしたのである。」
 実際のコンスタンティノス10世が,このような賛辞に値する皇帝であったとは到底思えないが,プセルロスのこうしたひらめきのある叙述は,単なる追従というより一種の芸術の域に達しており,成程このような賞賛の仕方もあるのかと感心させられる。
 ただし,コンスタンティノス7世やその後援を受けた文化人たちが広く世界のあらゆる事象に関心を向けていたのに対し,プセルロスの関心は主に首都と宮廷にあった。短期間で皇帝が次々と入れ替わるプセルロスの生きた時代では,生き残るためには宮廷内の政変や陰謀に注意を向けざるを得ず,世界に目を向ける余裕など無かったのかも知れないが,こうしたビザンツ文人の視野狭窄化は社会的地位の低下をもたらした。
 バシレイオス2世亡き後,いわゆるゾエの時代やプセルロスの時代には軍事貴族が冷や飯を喰わされてきたが,ちょうどプセルロスが退場した後になると,ビザンツ帝国は一転して軍事貴族たちの時代になり,帝国の文官職にも外国人が多く登用され,ビザンツの文人は長らく冷や飯を喰わされることになった。

<幕間23>いわゆる『11世紀の危機』における通貨品位の低下

 ミカエル7世のあだ名「パラピケナス」が示すように,「11世紀の危機」と称されるバシレイオス2世亡き後の時代には,これまで概ね維持されてきたビザンツ帝国の通貨品位が大幅に低下し,いわゆる悪性インフレが発生した。通貨品位の低下を記す同時代の文献史料はないが,現代の古銭学者や貨幣の専門家により,この時代における通貨品位の低下がどのように進んでいったか明らかにされている。
 長らくほぼ純金を保ってきたビザンツ帝国のノミスマ金貨は,コンスタンティノス8世の時代から少量の銀を加えられ,ミカエル4世の時代には95%以下に低下した。コンスタンティノス9世は首都における浪費と軍事費の増大に苦しめられ,品位低下がさらに進められたほか,テタルテロンという新たな軽量金貨を発行し,これが従来のノミスマと同等の価値を有するものとして,兵士たちへの給料の支払いに充てられた。同帝の治世下では4種類のノミスマ金貨が発行されたがその度に品位が落ち,金の含有率が81%にまで落ちた。テタルテロン金貨はもっと酷く,金含有率が73%にまで落ちた。
 それ以降の歴代皇帝も銀貨を溶かして金貨に混入させる貨幣改悪を行い,1080年代に至ると,ノミスマ金貨の金含有率はわずか10%にまで低下し,バシレイオス2世時代の金貨からの品位低下は,もはや誰が見ても分かるほどひどいものになっていた。
 ミカエル7世の治世下では,財政難のためますます多くの金貨が発行されたが,将兵や奇妙な見かけのテタルテロンやノミスマ金貨による俸給の支払いを拒み,イスラム圏のディナール金貨や,ヨーロッパ諸都市の少額銀貨さえ好まれるようになった。
 通貨価値の切り下げは,財政危機に悩む衰退期の国家において,増税といった民衆の反感を買うこと確実な政策を伴うことなく資金を調達できる安易な手段として,平凡ないし暗愚な為政者によりしばしば行われる。最初のうちは大した弊害が起きることなく財政状況は一時的に好転するが,一旦貨幣改悪という麻薬的な手段に手を染めてしまうとそれが止められなくなり,貨幣自体の信用が無くなるという深刻な弊害に気付いた頃には既に手遅れとなってしまう。「11世紀の危機」におけるビザンツ帝国も,残念ながらその例外にはなり得なかった。
 現代では金本位制ではなく紙幣などの信用通貨制が採用されているが,主に発展途上国において紙幣の安易な増刷により深刻な悪性インフレが発生し,自国通貨が信用性を失い実質的な「ドル化」が進むといった現象が散見される。これも形を変えた貨幣改悪であり,為政者の安易な考えにより自国通貨の信用を切り売りした結果である。現在の日本においても,大量の国債を市場経由で日本銀行に引き受けさせるという,近い将来破綻すること明らかな財政ファイナンスが行われており,その悲惨な将来はおそらく先に財政破綻した発展途上国と似たようなものになろう。
 もっとも,ビザンツ帝国はこうした「11世紀の危機」を経ても直ちに滅亡へと至ることなく,通貨危機も克服した。後述のアレクシオス1世は,1092年に20.5金のノミスマ貨を発行し,無価値な貨幣に代わって流通させた。この新しい通貨は平坦な作りでなく湾曲しており,旧来の金貨と全く同一の信用を得るには至らなかったものの,ビザンツ帝国は自国金貨の信頼を回復し,貨幣品位の引き下げという弊害から立ち直ったのである。
 その後,14世紀のアンドロニコス2世の時代になると,深刻な財政難のため再び貨幣改悪が行われ金の含有率が低下し,ビザンツ帝国も2度目の通貨危機からは立ち直れず,そのまま滅亡へと至ることになった。

(6)「国家破産を宣言した老将」ニケフォロス3世ポタネイテアス

 ミカエル7世の後に即位したニケフォロス3世(在位1078~1081年)は,第15話の末尾に付した『ビザンツ帝国の軍事貴族』の項目で取りあげた,ペチェネグ人との戦いで健闘し軍人としての名声を高めていたニケフォロス・ボタネイアテスその人であり,名将として評判の高い彼なら帝国を救えるだろうと期待され,軍隊と民衆の支持を得て帝位に就いたものと推測される。
 しかし,彼でも国内をまとめ上げることはできなかった。1077年末にはニケフォロス・ブリュエンニオスもアドリアノポリスで皇帝に名乗りを挙げた。彼の反乱は帝国の穀物専売政策に対する不満が原因と伝えられているが,その政策が正確にいつ頃出されたものかは判然としない。ニケフォロス3世はアレクシオス・コムネノスに命じてこの反乱を鎮圧させたが,ブリュエンニオス家を完全に取り潰すことは出来なかった。
 小アジア北部の要地ニケーアも,ニケフォロス3世が皇帝となるため首都へ進軍するにあたり,町の統治をアルプ・アルスラーンの従弟スレイマンに委ね,トルコ人がその地に定住することも許したことから,事実上トルコ人の手に渡っていた。スレイマンはニケーアを拠点とし,小アジアを地盤とするルーム・セルジューク朝を創設した。
 「ルーム」の名称はローマを意味しており,トルコ人を含むイスラム勢力はビザンツ人のことを「ローマ人」と呼んでいたため,ローマ人の地を支配する王朝としてこの名が付けられたのである。1080年には,ビザンツ帝国は沿岸部のわずかな飛び地を除く,小アジアのほぼ全域で支配権を失ってしまい,キリキア地方ではルーベンというアルメニア人貴族がキリキア・アルメニア侯国(1199年に王国へと昇格)という小国を建国したが,それ以外の小アジアは概ねトルコ人の手に渡ってしまった。
 当時のビザンツ帝国は,歴代皇帝の相次ぐ売官行為の影響で,官位保有者に支払うべき年金の額が歳入の何倍かにもなってしまい,ニケフォロス3世は年金の支払いを中止せざるを得ず,事実上の国家破産状態に陥っていた。さすがにこのような状況下では,ニケフォロスも小アジア喪失という事態に対し打てる手段がなかった。まさに,ビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕していたのである。
 ニケフォロス3世は,未だ宮廷内で勢力の強いドゥーカス家の派閥と上手く行かず,内政及び外政のいずれにおいてもさしたる成果を出せず,アルメニアの諸公国はビザンツからの独立を宣言し,トラキアではパウロ派の反乱も起きたため,多くの支持を獲得することができなかった。彼は権威付けのため,ミカエル7世の皇后であったマリア・アラニアと結婚していたが,既に80歳近くの老齢であり,マリアとの間に子供ができる見込みは無かった。
 当初ニケフォロス3世は,同名の甥を自分の後継者にする予定であったが,ドゥーカス派と妥協するため,ミカエル7世とマリアとの間に生まれたコンスタンティノスを自身の後継者に指名した。それでもドゥーカス派は納得せず,ニケフォロス3世の即位に伴い野に下っていたヨハネス・ドゥーカス(コンスタンティノス10世の弟)率いるドゥーカス一門は,1081年にはアレクシオス・コムネノスを総大将として反乱を起こした。敗れたニケフォロス3世は退位して修道院に隠棲し,アレクシオス1世が皇帝に即位した。
 なお,前述したミカエル7世とニケフォロス3世の治世下で,ビザンツ帝国は小アジアのほぼ全土を含む,領土の大半を失うことになった。短期間でこれほどの領土失陥が起こると,その責任をめぐる非難や中傷合戦は避けられなかった。軍事貴族たちは,勇敢な軍人皇帝ロマノス4世を裏切りで失脚させたドゥーカス家や,プセルロスをはじめとする首都の宮廷人たちを責めた。逆にドゥーカス家の人々や官僚たちは,ロマノス4世の性急さと無能を責めた。時代をさかのぼって,ゾエの3人目の夫コンスタンティノス9世が,イベリア地方のテマ軍団を解散し,その金を首都の豪華な新修道院に使ったことを思い出す者もいた。
 確かに,これらの名前が挙がった人々は,それぞれ帝国の衰退に一役買っていた。しかし,こうした状況を回避できる力があったかも知れない人物は,やはり帝国の最盛期を現出したバシレイオス2世しかいなかった。彼は,「緋産室の生まれ」たる正統性と自らの才能を武器に,彼にしか出来ない統治方法で宮廷人と軍事貴族の双方を押さえつけ,自ら軍を率いて帝国に偉大な軍事的成功をもたらしたが,領土の膨張は必然的にその防衛を困難なものとし,しかも彼は後継者対策を全く怠っていた。
 バシレイオス2世亡き後のビザンツ帝国は,彼によって押さえつけられていた宮廷人と軍事貴族による係争で急速に弱体化し,次の第17話で述べるアレクシオス1世が現れるまで,誰もその混乱を収拾できなかった。バシレイオス2世を思い出す者は,その輝かしい軍事的栄光を称える一方,せめて彼が件のダラセノスあたりを姪の婿に迎えるなりして後継者対策を講じていれば,ここまで酷いことにはならなかったのではないか,などと色々考えてしまうのである。

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