第17話 『陰謀に塗れた帝国再建者』アレクシオス1世
(1)アンナ・コムネナと『アレクシアス』
アレクシオス1世コムネノス(在位1081~1118年)は,イサキオス1世コムネノスの甥にあたる人物である。アレクシオス1世からアンドロニコス1世まで,約100年間にわたりコムネノス家の皇帝が続いたことから,歴史上この王朝を「コムネノス朝」と呼ぶ。
コムネノス王朝の始祖であるアレクシオス1世の生涯については,彼の娘であるアンナ・コムネナが著した『アレクシアス』により,比較的詳しく知ることが出来る。この著書は,日本では『アレクシオス1世伝』の名称で紹介されることが多いが,同書はただの伝記ではない。アレクシオス1世を,ビザンツ人なら子供でも知っているホメロス著『オデュッセイア』の主人公,すなわち知謀に長けたオデュッセウスになぞらえた歴史書兼文学作品とすることを目指した大変野心的な作品であり,『アレクシアス』という題名はホメロスの『イーリアス』に拠ったものである。
イギリスの女性歴史家ジュディス・へリンは,その著書『ビザンツ 驚くべき中世帝国』の中で,それがビザンツ史研究家の通説的な見解でないことを百も承知の上で,「まともなビザンツ史の本なら必ず12世紀の皇女アンナ・コムネナに一章を割くであろう」と述べ,アンナ・コムネナの業績を称賛している。筆者は彼女のために一章を割くまでのことはしないが,アレクシオス1世の治世を述べるに先立って,その生涯を追うにあたり最も重要な史料でもある『アレクシアス』の概要と特徴について簡単に触れておくことにする。
『アレクシアス』は,ホメロスの物語ほど壮大ではなく,また韻文ではなく散文で書かれていたが,アレクシオス1世の権力掌握とその治世の諸局面を網羅することを目指し,胸躍らせる物語や興趣の尽きない細部描写に満ちた作品である。最初の3巻は,アレクシオス1世が帝位に就いた経緯を語っており,これはコムネノス家を帝位簒奪者とする非難に対する弁明を兼ねている。第4巻から第9巻までは,ノルマン人,スキタイ人,トルコ人,クマン人との戦争について,第10巻と第11巻では第1回十字軍及びボエモンド率いるノルマン軍との戦いについて書かれている。そして最後の二巻では,異端者である二元論のマニ教徒やボゴミール派への対応と,首都に孤児院を創設したことを扱っている。
なお,ボゴミール派とは10世紀前半にマケドニアのブルガリア人によって提唱され,その後ビザンツ帝国にも広まった宗派で,堕落した教会を批判して清貧の生活を説く「中世最大のピューリタン」などと称されている。彼らは武器を持って反乱を起こすわけではないが,彼らの教えは旧約聖書のほか秘蹟やイコン,十字架,ミサなどを拒絶し聖職者制度をも否定するなど,明らかにギリシア正教とは相容れない異端的な宗派であったため,アレクシオス1世はボゴミール派の指導者バシレイオスなる人物を火刑に処すなど,ボゴミール派の弾圧を行った。
中世の西欧では,異端者に対する火刑など当たり前のように行われていたが,ビザンツ帝国では異端に対する処罰は追放程度にとどまるのが通常であり,火刑に処すのは極めて異例であったため,アンナは父を擁護するため,そのような弾圧の必要性と正当性を主張する必要があった。もっとも,ボゴミール派はアレクシオス1世の弾圧によっても廃れることなく,特にブルガリアではビザンツ帝国への抵抗運動とも結びつき,一部の地域では正統派を凌ぐ勢いを持ち,オスマン帝国の征服を受けた14世紀末頃まで続いたようである。
総じて,『アレクシアス』の内容は彼女自身の父に対する賛美を含め,アレクシオス1世の英雄的な軍事行動などを中心としたものであり,内政の展開についてはほとんど語っていないので,内政面の業績については他の史料や研究に頼るしかない。それでも,アレクシオス1世が皇帝としての資質を発揮し帝国を再建した過程については,『アレクシアス』によってある程度知ることが出来る。また,アンナは自らが見ているはずのない戦闘中の描写などについては,目撃者の名を明らかにする,報告書など信頼できる公式文書を引用するなど歴史を記録する専門家に相応しい手法を用いており,全体としては歴史書として客観的な描写がなされているものと評価されている(もっとも,時折見られる大袈裟な表現にはつい笑ってしまうが)。
『アレクシアス』は,女性歴史家による完結した歴史書としては稀有の作品であり,アンナ・コムネナも女性歴史家としては稀有の存在である。アンナ・コムネナ自身を含め,アレクシオス1世の周囲には高い知性と教養を身に付けた親族の女性が目立つが,野心家であったアンナ・コムネナは自ら皇后となるため弟のヨハネスに代わり夫のブリュエンニオスを皇帝にすることを企み,その陰謀が失敗に終わり修道院生活を余儀なくされると,その野心と情熱を『アレクシアス』の執筆に捧げた。
『アレクシアス』は,一人称で歴史を叙述したミカエル・プセルロスの影響を受け,プセルロスが著した歴史書の続編として書かれたものであり,また『アレクシアス』が書かれた時期は,アレクシオス1世の孫マヌエル1世の治世下であったため,『アレクシアス』は西欧かぶれのマヌエル1世を暗に批判する意図もあったとされる。女性の活躍に焦点を当ててビザンツの歴史を語るのであれば,確かにアンナ・コムネナは一章を割くに値する存在である。
(2)アレクシオス1世の生い立ちと即位の経緯
アレクシオスは1056年(1048年説もある),皇帝となったイサキオス1世コムネノスの弟ヨハネス・コムネノスと,その妻アンナ・ダラセナの三男として生まれた。伯父であるイサキオス1世は短期間で帝位の座を追われたものの,コムネノス家は帝国の名門軍事貴族であり,アレクシオスはその当主となり,若い頃から優秀な軍人として頭角を現した。
彼はまだ21歳だった頃の1077年,反乱を起こしたニケフォロス・ブリュエンニオスの討伐に派遣される。アレクシオスは皇帝からわずかな兵力しか託されていなかったにもかかわらず,見事な戦略でブリュエンニオスの軍を破った。ブリュエンニオスは捕らえられて盲目にされたが,一族は本拠地のアドリアノポリスに籠って抵抗を続けたため,皇帝はブリュエンニオス家の名誉と財産を保障する金印文書と引き換えに武器をおかせることで満足せざるを得なかった。
アレクシオスは,老齢の皇帝ニケフォロス3世が,前述のとおりコンスタンティノスを後継者に指名したことに不満を持ち,反乱を企てた。彼はニケフォロス3世によって政権の座を追われ,領地に引き篭もっていたドゥーカス家の当主ヨハネス・ドゥーカスの許に手紙を送った。「素晴らしい料理をご用意しました。(中略)一刻も早くお越しになり,フルコースの晩餐をご一緒しませんか」との文面に,ヨハネスはどういう意味かと使者に尋ねた。謀反ですとの答えを聞いて,ヨハネスは一族郎党を連れてアレクシオスの許に馳せ参じた。
このヨハネスは,皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスの弟であり,当時既に60歳を過ぎていた。本来なら帝位をドゥーカス家の許に取り返したいところであったが,あのロマノス4世を裏切った息子のアンドロニコスは1077年に病死しており,もう一人の息子も亡くなっていた。
そのため,ヨハネスはおそらくドゥーカス家の血を引くコンスタンティノスの後継者指名に反対する立場ではなかったものの,憎きニケフォロス3世をいち早く帝位から引きずり降ろすため,自分の孫娘エイレーネーを妻に迎えているアレクシオスを皇帝に担ぎ,謀反を起こすことに同意したのである。アレクシオスは他の軍事貴族にも参加を呼び掛けているが,一番有力な味方はこのヨハネス・ドゥーカスであった。
1081年4月,アレクシオス率いる反乱軍は首都に迫ったが,反乱の大義名分は,武名の誉れ高い老皇帝ニケフォロス3世自身に問題があるというより,後継者が幼少のコンスタンティノスでは帝国の危機に対処できないという程度のものに過ぎなかったので,首都の民衆がアレクシオスに呼応して動くことはなかった。そのため,アレクシオスが反乱を成功させるには,首都の防衛軍を懐柔して寝返らせる必要があった。
アレクシオス率いる反乱軍にもかなりの数のラテン人が含まれていたが,首都の防衛軍も同様だった。首都を守る城壁のうち二つの区域は,ビザンツ人の不死部隊と,ヴァリャーグ親衛隊が受け持っていて,どちらも時の皇帝に対する忠誠で名高く,寝返りは期待できそうになかった。しかし,別の区域がネミツォイ人(ドイツ人)と呼ばれるラテン人の傭兵部隊に任されており,この部隊なら金で懐柔できそうだった。
結局アレクシオスはこの部隊のおかげで首都への入城に成功するが,その際ラテン人兵士もビザンツ人兵士も,丸一日にわたり教会や民間人の屋敷に押し入り,略奪行為を働いた。兵士たちの暴行を止められなかったアレクシオスは,皇帝となった直後の40日間を,教会から課された厳しい謹慎処分の下で過ごさなければならなかった。
彼は皇帝として即位しようとするとき,妻のエイレーネーを離婚して,ニケフォロス3世の皇后だったマリアと再婚しようかと迷った。グルジア王バグラト4世の娘であるマリアは当時30歳頃であったが評判の美人であり,アレクシオスとマリアは反乱を起こす前から相思相愛の関係にあったとの噂もあった。前皇帝の皇后マリアを妃にした方が,自分の皇帝としての正統性をより強く主張できる可能性もあった。
一方,アレクシオスの妻エイレーネーは当時12歳という子供であり,彼女を皇后にすることはアレクシオス自身がドゥーカス家の傀儡にされてしまう懸念もあった。アレクシオスの母アンナ・ダラセナは,亡き彼の夫ヨハネスが帝位に就けなかったのはドゥーカス家のせいだと思っており,将来皇帝にさせるべく手塩にかけて育ててきたアレクシオスの妻に憎きドゥーカス家出身であるエイレーネーを迎えること自体に最後まで反対していた。
結婚自体はドゥーカス家と縁戚になることの利を説いたアレクシオス自身の意向により成立したが,アンナ・ダラセナは相変わらずエイレーネーに好意を抱いておらず,アレクシオスの離婚・再婚はむしろ母の意向でもあった。
一方,妻の祖父ヨハネス・ドゥーカスは当然ながら離婚に猛反対した。彼にとって,アレクシオスは自分の孫婿だから反乱に参加したのに,皇帝になった途端孫娘エイレーネーを離縁するとは,ヨハネスにとって許せない裏切り行為であった。エイレーネーの妹アンナを妻に迎えてドゥーカス家の縁戚となり,その縁で反乱に加わっていたゲオルギオス・パレオロゴスも「我々はエイレーネーのために戦ったのだ」と叫んで,アレクシオスの離婚を食い止めようとした。
また,アンナは既にミカエル7世,次いでニケフォロス3世の妃となっているため,仮にアレクシオスと再婚するとすれば3度目の結婚となり,総主教から結婚の許可を得るのも難しそうだった。アレクシオスは,1週間迷った末に離婚を諦め,エイレーネーを皇后として宮廷に迎え入れた。
(3)治世当初の苦難
皇帝となったアレクシオス1世が手にしたビザンツ帝国は,見るも無惨な状態にあった。小アジアの領土はほとんどトルコ人に奪われ,帝国に残された領土はバルカン半島を中心とするわずかな地域に過ぎず,それすらも強力な敵国の脅威にさらされていた。軍隊にはビザンツ人の兵士もいたが,主流はラテン人と総称されていた西欧諸国出身のキリスト教徒たちであり,外国人傭兵部隊である彼らを制御するには細心の注意を払わなければならなかった。国庫も破産状態にあり,アンナ・コムネナがこの時期の帝国を「息を引き取ろうとしていた」と表現したのも,あながち誇張とは言えないほどの惨状だった。
アレクシオス1世の帝位も極めて脆いものだった。彼が即位して間もなく,アレクシオスと同様に皇帝を名乗っていたニケフォロス・メリセノス(彼は,アレクシオス1世の姉エウドキアの夫でもあった)率いる軍勢が首都に迫ってきた。アレクシオスはその者に優先する皇帝としての正統性を何も有しておらず,ただほんの少し早く首都に到着したというだけであった。アレクシオス1世は彼に武器を置かせるため,カイサルの爵位を与え,テッサロニケの総督に任命せざるを得なかった。
当時,カイサルという爵位は副皇帝を意味するものであり,メリセノスはこれによって暗に自分が将来の帝位後継者になるものと理解したためアレクシオス1世との和解に応じたのであろうが,そのすぐ後,アレクシオス1世はカイサルより上位の「セバストクラトール」という爵位を新設し,自身の兄イサキオスに与えた。イサキオスは,ドゥーカス家の支持を受けたのが同家の婿であるアレクシオス1世であったため帝位を弟に譲らざるを得なかったという事情があり,兄イサキオスに対する「セバストクラトール」爵位の授与は,こうした兄の不満を和らげるとともに,メリセノスに与えた「カイサル」の価値を相対的に低下させることを狙ったものであった。
また,アレクシオス1世にはメリセノスの妻となったエウドキアのほか,もう1人の姉マリアがおり,その夫であるミカエル・タロニテスには,カイサルとほぼ同格の「パンヒュベルセバストス」という爵位を新設して与え,メリセノスとの釣り合いを取ったのである。最大の支持者である妻の実家ドゥーカス家に対しては,皇帝ミカエル7世の息子コンスタンティノス・ドゥーカスを共同皇帝に任命し,自分はその後見人として統治するという立場を取った。その他,過去に皇帝を出した家柄であるディオゲネス家(ロマノス4世の遺児たち)やポタネイアテス家(ニケフォロス3世の一族)に対しても手厚い配慮をしている。
帝位簒奪者という汚名は簡単に消えるものではなく,その後もアレクシオスはその治世を通じて相次ぐ陰謀やクーデター未遂事件に直面され続けていた。これらのうち,首謀者の名が知られているものを列挙しただけでも,以下のとおり長いリストが出来る。
(1) ライクトール(1081年) 東方正教会の修道士で,彼はミカエル7世の名でロベール・ギスカールによるビザンツ攻撃を正当化した。
(2) コンスタンティノス・フンベルトプロス(1091年) ノルマン人の傭兵隊長で,アレクシオス1世の帝位奪取を支援した人物であったが,アルメニア人アリエベスと共謀してアレクシオス1世の打倒を図り追放された。
(3) スミルナの総督ツァチャス(1092年) トルコ語でチャカ・ベイと呼ばれるトルコ人。彼は1088年から1091年にかけてスミルナを中心とする一帯を支配下に置き,1092年にはビザンツ皇帝に名乗りを挙げてコンスタンティノポリスを征服しようとしたが,ヨハネス・ドゥーカス(アレクシオス1世の即位を支援したヨハネス・ドゥーカスと同名の孫)率いる海軍に大敗し,翌年義理の息子に殺された。
(4) ヨハネス・コムネノス(1092年) アレクシオス1世の甥(兄イサキオスの長男)であり,テマ・デュラキオンの総督を務めていたが,謀反を企てているとして告発された。この告発はアレクシオス1世とイサキオスの口論に発展し,最終的にアレクシオス1世はこの告発を却下している。
(5) カリケス(1093年) クレタ島の総督で,アレクシオス1世に対する反乱を起こしたが,帝国艦隊が迫ってくると反乱に反対する暴動が起きて殺害された。
(6) ラプソメイトス(1093年) キプロス島の総督で,(5)のカリケスと同時に反乱を起こしたが,失敗し捕らえられた。
(7) ミカエル・タロニテス(1094年) 前述したアレクシオス1世の姉マリアの夫。帝位簒奪を企てたとして有罪判決を受け,追放された。
(8) 偽コンスタンティノス・ディオゲネス(1094年) ロマノス4世ディオゲネスの死んだ息子コンスタンティノスの名を騙り,クマン族と同盟してトラキア地方を襲撃したが,敗れてアドリアノポリスで殺害された。
(9) ニケフォロス・ディオゲネス(1094年) ロマノス4世の息子でクレタの総督に任じられていたが,2度にわたりアレクシオス1世の殺害を企んで失敗し,アンナ・ダラセナの命令で盲目刑に処された。
(10) テオドロス・ガブラス(1096~1098年) 小アジア北東部のカルディアで半独立国を形成し,1099年に殺された。彼は十字軍と連動してトルコ人に対する遠征で活躍したため,東方正教会では聖人に叙せられている。
(11) グレゴリオス・タロニテス(1104年) (7)のミカエル・タロニテスの甥。カルディアの総督に任じられていたが,反乱を起こして捕らえられアネマスの塔に投獄されたが,後に恩赦により釈放された。
(12) アロン(1107年) ブルガリア王家の庶出の子孫とされる。彼はテッサロニケ付近の宿営地にいたアレクシオス1世の殺害を企て,追放された。
(13) 偽レオーン・ディオゲネス(1116年) ロマノス4世の死んだ息子レオーンの名を騙りブルガリアで反乱を起こしたが,鎮圧された。
もっとも,特にアレクシオスを恐れさせたのは上記のリストには無い,帝位をめぐる1084年の陰謀であった。この陰謀は事前に露見したため失敗に終わったが,陰謀への参加者があまりに多かったため,アレクシオスは陰謀の重大性を隠すため,参加者のうち最も裕福な貴族の財産を没収して追放するにとどめ,他の参加者に対する罪は不問とせざるを得なかったという。
アレクシオスは,こうした陰謀やクーデターから自分の身を護るため,絶えず強力な親衛隊を側に置かなければならなかった。そのこと自体も批判の対象となり,ある宮廷人は古典を引用して,絶えず親衛隊を側に置いているのは僭主(非合法な独裁者)のやることだと暗にアレクシオスを批判した。アレクシオスはその者をオフリド大主教に任命して,体よく首都から追い払った。
問題は内憂だけではなかった。アレクシオス1世が帝位に就いて間もなく,南イタリアを手中に収めていたノルマン人の王ロベール・ギスカールが,海を渡ってバルカン半島に侵入し,デュラキオンの港を包囲したのである。アレクシオス配下の兵士たちには相当数のノルマン人がいたが,ロベールとの戦いに彼らを動員するのは危険だった。アレクシオスはトルコ人とイングランド人の部隊を傭兵として雇い入れてロベールに挑んだが,結果はアレクシオスの惨敗で,敗走したアレクシオスは首都の城壁に逃げ込むしかなかった。
アレクシオスは外交戦に頼った。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に金を贈りロベールの背後を突かせるとともに,ヴェネツィア海軍にノルマン人の妨害を依頼したのである。ハインリヒの方はあまり頼りにならなかったが,ノルマン人にアドリア海の両側を支配されることを好まないヴェネツィア人はノルマン人の軍事行動を執拗に妨害し,1085年にはロベール・ギスカールが熱病で亡くなったこともあって,何とかノルマン人を撤退させることに成功した。ただし,このときヴェネツィアに関税特権など様々な特権を与えたことで,後に国内の商工業者の衰退,そして帝国とヴェネツィアとの対立を生む原因となってしまう。
その後のアレクシオスは,トラキア地方で起こるパウロ派やボゴミール派の異端による反乱と,トラキア地方を荒し回るペチェネグ人への対応に忙殺された。
1091年4月29日,アレクシオスは首都近郊を荒し回っていたペチェネグ人に攻撃を掛けた。このときのアレクシオスが率いたのは,フランドル伯から送られた500人の騎士,ローマから到着したラテン人部隊,及び新たな草原部族のクマン人部隊から成る混成軍である。アレクシオスはトラキア地方のレヴニオンで,数千人にのぼるペチェネグ人をほぼ殲滅することに成功した。首都の市民はこう歌って,この勝利を喜んだ。
「たった一日のために,ペチェネグ人はついに五月を見なかった。」
アレクシオス1世が皇帝になって初めて見せた,輝かしい軍事的成功であった。その後,この敗戦で勢いを失ったペチェネグ人は12世紀に入ると民族的解体に向かい,ブルガリア人,クマン人,マジャル人などに吸収されて,次第に歴史の表舞台から姿を消した。
その後もトラキアでは1094年にクマン人の侵入を受け,かつての皇帝ロマノス4世の息子を名乗る偽ディオゲネスの反乱も起きたが,アレクシオスはこれらの脅威も乗り切り,トルコ人によって占領されていた小アジアに目を向けることができるようになった。
(4)第1回十字軍
帝国西方の脅威はひとまず解消されたので,アレクシオス1世はトルコ人からの小アジア奪回に着手しようとした。アレクシオスは兵を集めるにあたり,トルコ人がイスラム教徒であることを利用し,これまでの金で兵を雇うだけのやり方ではなく,ローマ教皇ウルバヌス2世に対し,異教徒であるトルコ人への聖戦を呼び掛けたのである。
アレクシオスやその使節が正確に何と言ったのかは分からないが,帝国領から遠く離れた聖地エルサレムにも言及したらしい。1087年,エルサレムはセルジューク朝に占領されたが,前の統治者はファーティマ朝であり,要は支配者がイスラム教国から別のイスラム教国に代わっただけの話である。一見するとビザンツ帝国にも西欧諸国にも関係なさそうな出来事であった。
だが,ビザンツ人はローマ教皇の感情を掻き立てるため,この占領時に起きた虐殺などの出来事を誇大に言い立て,かなり嘘の多い宣伝もしたらしい。「らしい」というのは,その後十字軍への参加を呼び掛けるため教皇ウルバヌス2世によって広められたおぞましい発言の数々,要約すれば「呪われた民族にして卑劣で堕落した不信仰の徒たるトルコ人が,恐れ多くもキリストの聖地エルサレムを占領し,エルサレムの巡礼に訪れた敬虔なるキリスト教徒たちを迫害し,聖地を彼らの不信仰(イスラム教)によって冒涜している」といったかなり誇張や嘘の多い発言の数々が,ビザンツ人から聞いた情報によるものか,それともローマ教皇自らの着想によるものか判然としないからである。仮に,アレクシオス1世自身がエルサレムに言及するよう指示したのであれば,その後に起こった事件に関しては,彼自身にも責任の一端がある。
アレクシオス1世がこのとき期待していたのは,せいぜいローマ教皇が傭兵を送ってくれる程度のものであったろうが,実際には第1回十字軍という思いもよらない結果を生んだ。ローマ教皇ウルバヌス2世は,この聖戦をキリスト教会の権威を強化するため最大限に利用しようと考え,ヨーロッパ各地の諸侯に対し十字軍への参加を大々的に呼び掛け,1096年に第1回十字軍の遠征が始まった。
十字軍を名乗る大軍の接近に,アレクシオスとその側近たちは恐怖し当惑した。彼らは聖地エルサレムの奪回を旗印にしているので,とりあえず敵ではなさそうだったが,数万もの軍勢とそれを上回る数の巡礼者たちが領内を通過するだけでも兵站上の問題が生じるし,兵士たちによる領内の住民への略奪・暴行も心配であった。また,十字軍参加者の中にはロベール・ギスカールの息子であるタラントのボエモンドのような,過去にビザンツ帝国と敵対した人物も含まれており,彼らはいつ敵に回ってもおかしくなかった。
結局アレクシオスが出来たことは,この十字軍による被害を最小限にとどめ,かつ十字軍から最大限の利益を引き出すように仕向けることだった。アレクシオスは十字軍の司令官たちをブラケルネ宮殿に招き,贈り物や甘言でもてなす一方,ビザンツ皇帝である自分に忠誠を誓い,十字軍がビザンツ帝国領であった町を征服した場合は自分に返還するという誓約書に署名させたのである。一方,十字軍からエルサレムに同行するよう求められたときは,丁重に断った。
アレクシオスは十字軍に食料を提供し,彼らを船で小アジアに輸送した後,自らもその後に続いた。十字軍がニケーアを包囲したのを見て,ニケーアが彼らにより略奪・破壊されることを恐れたアレクシオスは,防衛側のトルコ人と交渉に入り,十字軍ではなく自分に町を引き渡すよう説得した。これによりニケーアは帝国領に戻った。首都を失ったルーム・セルジューク朝は,以後首都を小アジア中部のイコニオン(コンヤ)に移した。なお,イコニオンはギリシア語,コンヤはトルコ語の読み方であるが,この都市がビザンツ帝国の手に戻ることはなかったので,以後の表記はコンヤで統一する。
十字軍はその後東へ進み,ドリュライオンでトルコ軍を撃退した。アレクシオスはこれを陽動作戦として利用することにし,自らは軍を率いて南へ進み,数年間のうちにスミルナやエーゲ海沿岸部の奪回に成功した。アレクシオスは,おそらく聖地奪回など無謀な試みであり無惨な結果に終わるだろうと予想していたが,実際にはイスラム世界の覇者となっていたセルジューク朝が早くも内紛状態に入っており,イスラム勢力がまとまりを欠いていた上,イスラム諸勢力の軍が剣も矢も受け付けない重武装の西欧騎士に慣れていなかったことも幸いし,十字軍はアンティオキアを占領すると順調に南進し,1099年にはエルサレムの占領に成功し,多くの市民を虐殺した。
アレクシオスは,比喩的に言えば十字軍というライオンの後に付いて獲物の残りを狙うハイエナのようなやり方ではあったが,この第1回十字軍を利用して沿岸部を中心とする小アジアの領土を一部奪回することに成功した。しかし,ビザンツ帝国領だったアンティオキアは帝国に敵対的なボエモンドの支配下に置かれてしまい,帝国領には戻らなかった。しかも,この頃には東西教会の分裂が決定的になっており,アンティオキアやエルサレムの総主教は十字軍によって追い出されてしまい,ローマ教皇の任命した新たな大司教に取って代わられた(ただし,ビザンツ側が任命したアンティオキアやエルサレムの総主教も,コンスタンティノポリス在住のままでその地位を名乗り続けていたため,教会分裂が発生してしまった)。そのため,国内では十字軍に対するアレクシオスの対応能力を疑問視する向きもあった。
十字軍側も,ビザンツ人とは教義上の問題等で対立点がある上に,アンティオキア攻囲戦で食糧が欠乏した際,アレクシオス1世が一旦は救援依頼に応じたものの,トルコ人の大軍が迫っているとの報を受けたため途中で引き返してしまったという経緯もあって,アレクシオス1世のことを快く思っていなかった。
アレクシオスは,このように深刻な東西教会の分裂がなぜ生じたのか,その経緯を調査させたが,総主教の図書館には何の記録も見つからなかった。この時代においても,コンスタンティノポリスとローマは親交を保っており,多くの西欧人がギリシア正教の教会で礼拝を捧げ,逆もまた同様であった。しかし,東西教会の分裂は原因不明のまま徐々に深刻化し,アレクシオスやその後の歴代皇帝たちを悩ませることになる。
(5)アレクシオス1世の内政
アレクシオスは,このような対外政策に忙殺される一方,国内の基盤を固める仕事も忘れることは許されなかった。彼の治世初期に内政上重要な役割を果たしたのは母のアンナ・ダラセナであり,彼女は宮廷に修道院的な日課を定着させることによって,行政機構に厳格な規律を課したようである。アレクシオスが遠征に出掛けている間,首都の留守居役を務めたのもアンナ・ダラセナであった。アレクシオス1世の宮廷にはラテン人など外国人も多く,ビザンツ人であっても十全の信頼を置ける人物は少ないため,安心して留守を任せられるのは,結局のところ有能な実の母親しかいなかったのである。
もっとも,1094年にクレタ島総督のニケフォロス・ディオゲネス(皇帝ロマノス4世の次男)が帝位を狙う陰謀を企てたとして,アンナ・ダラセナの命により彼は逮捕されて盲目にされ,アラニアのマリアもこの陰謀への関与を疑われて修道院への隠棲を余儀なくされるが,この後からアレクシオス1世とアンナ・ダラセナは反目するようになり,既に老齢となっていたアンナ・ダラセナは息子と対立するより引退することを選んだようである。引退の正確な時期は明らかでないが,アンナ・ダラセナは1100年に死去し,その後アレクシオス1世の統治を補佐したのは,皇后エイレーネーや,娘婿ニケフォロス・ブリュエンニオスだったようである。
総じて,アレクシオス1世時代のビザンツ宮廷は,要職がコムネノス一族によりほぼ独占されており,アレクシオス1世を批判する同時代の歴史家ゾシモスは,アレクシオス1世がビザンツ帝国の宮廷を自分の私領のように扱ったと批判している。実際,アレクシオス1世の治世初期における政府首脳で,セバストス以上の爵位を与えられていたのは次の12名であり,大半がアレクシオス1世の身内である。
(1) イサキオス・コムネノス(セバストクラトール) アレクシオス1世の兄。
(2) ニケフォロス・メリセノス(カイサル) 姉エウドキアの夫。
(3) ミカエル・タロニテス(パンヒュベルセバストス) 姉マリアの夫。
(4) アドリアノス・コムネノス(プロートセバストス) アレクシオス1世の弟。
(5) ニケフォロス・コムネノス(セバストス) 同上。
(6) ミカエル・ドゥーカス(セバストス) 妻エイレーネーの兄弟。
(7) ヨハネス・ドゥーカス(セバストス) 同上。
(8) ゲオルギオス・パレオロゴス(セバストス) 義兄弟。
(9) ヨハネス・タロニテス(セバストス) 甥((3)の息子)。
(10) ミカエル(セバストス) 姪の夫。
(11) グレゴリオス・パクリアノス(セバストス) クーデターの協力者。
(12) コンスタンティノス・フンベルトプロス(セバストス) 同上。
アレクシオス1世の時代以降,首都の大宮殿はほとんど使われなくなり,ビザンツ帝国の宮廷兼皇帝一族の住居として主に使用されたのは,首都の金角湾沿い,大城壁の北端にあるブラケルネ宮殿であった。ブラケルネ宮殿は生活空間として快適であり,皇帝たちがトラキア地方へ狩りに出かけるのに便利であったいう理由もあるが,帝国の規模縮小に伴い壮大すぎる大宮殿は無用の長物となり,より小規模なブラケルネ宮殿への実質的移転は,経費削減策という意味もあったと考えられる。
アレクシオスの治世における顕著な内政的業績は,国内の有力な軍事貴族に対し,軍事力提供と引き換えに土地や徴税権を与えるプロノイア制を導入し,新設した高い官位を与えて優遇するとともに,政略結婚によって彼らとの関係を強化したことである。その結果,国内の有力な軍事貴族は,婚姻関係によって「コムネノス一門」に組み入れられることになった。
このような政策は,伯父のイサキオス1世がかつてのバシレイオス2世のような絶対君主制を目指し,軍事貴族たちの十分な支持を得られなかったことに対する反省を踏まえての事であるが,その一方で絶対君主というビザンツ皇帝の伝統を完全に放棄することは,帝国の存在意義を否定することに繋がりかねないため,改革はビザンツ皇帝の絶対的支配者という建前を崩すことのないよう,慎重に行わなければならなかった。日本語で「恩貸地制度」と訳されるプロノイア制も,建前上はあくまで皇帝が貴族たちへの恩賞として土地や徴税権を貸し出すものであって,プロノイアの相続権は認められないものとされていた。
皇帝と軍事貴族たちとの関係についても,アレクシオスは古代ギリシアの民主制になぞらえて,軍事貴族たちを「デーモス」(本来は民衆の意味)と呼び,自らは「デーモス」の権利を守ると宣言していた。アレクシオス1世はバシレイオス2世のような独裁者ではなく,「コムネノス一門」たる軍事貴族連合政権の長としてビザンツ帝国に君臨する新たな統治スタイルを確立したが,そんな中でも皇帝が絶対的支配者という建前だけは守らなければならなかった。軍事貴族たちを「デーモス」と呼んだのもそうした苦心の結果であり,おそらく実効性はないと分かっていながら十字軍の指導者たちに誓約書を書かせたのもその一環であった。
アレクシオス1世の姉妹や娘たちは,「コムネノス一門」の団結を強化するための政略結婚という重要な任務に駆り出された。母のアンナ・ダラセナも妻のエイレーネーも子沢山であり,アレクシオスの政略に大きく貢献した。『アレクシアス』を著した前述のアンナ・コムネナも,当初アレクシオスの養子となっていたコンスタンティノス(ミカエル7世の子)と結婚するが,1094年頃にコンスタンティノスが死ぬと実家に戻り,その後かつてアレクシオスと戦って盲目にされたニケフォロス・ブリュエンニオスの孫で,同名のニケフォロスと再婚している。かつて皇帝に反旗を翻したブリュエンニオス家は,アレクシオス治世下のビザンツ帝国において西の守りの要となり,ペチェネグ人との戦いで活躍した。
ただし,アレクシオスの娘の一人テオドラは,父の決めた政略結婚を拒否して,コンスタンティノス・アンゲロスという美男だけが取り柄の男と駆け落ちしてしまい,皇帝一家を困惑させることになる。政略結婚を拒否してコムネノス家の皇女たる責務を放棄したテオドラは,罰として追悼の費用を他の姉妹より減額された。
アレクシオスは,帝国の財政を再建するため,爵位という名の実質的な赤字国債を整理する仕事にも取り組む必要があった。その際,反発を避けるため従来の官位は残す一方,高い官位を次々と新設するという方法で相対的に古い官位の序列を下げ,古い爵位に付随していた特権をなし崩し的に剥奪した。
アレクシオス1世による改革以前,帝国最高の爵位は「カイサル」であり,これは副帝ないし皇位継承予定者に与えられる爵位であったが,アレクシオス1世は「カイサル」の上に「セバストクラトール」という爵位を新設し,これを臣下が受ける最上位の爵位とした。これとは別に,帝位継承者となる皇帝の嫡男などが受ける「デポステース」(「専制公」と訳されるが,本来は「主人」を意味する)という称号も新設し,以後「カイサル」の称号に副帝や帝位継承者という意味は無くなった。「カイサル」の下にも新しい称号が次々と創設され,9世紀にはカイサルに次ぐ爵位であったノーベリシモスという爵位は,アレクシオス1世の治世下では第8位に転落し,当然ながら爵位に伴う特権も失われた。
余談になるが,アレクシオス1世が創設した爵位の名前には奇妙なものが多い。「セバストクラトール」というのは,どちらも元は皇帝の称号であった「セバストス」と「アウトクラトール」を掛け合わせた造語で,強いて和訳すれば「尊厳なる絶対支配者」というような意味になる。また,第2位の爵位となった「カイサル」と第6位の「セバストス」の間に,上から順に「パンヒュペルセバストス」「セバストヒュペルタトス」「プロートセバストス」なる爵位が新設されているが,例えば「パンヒュペルセバストス」を強いて和訳すると「いとも至高なる尊厳者」というような意味になってしまう。アレクシオスは新しい爵位のネーミングにも苦心しなければならなかったのである。
なお,金の割合が低下し信用が落ちる一方だった帝国の金貨については,1092年に新金貨を発行してその品位を安定化することに成功し,官僚や軍人たちの給料はこの新しい通貨で支給されるようになった。20.5金の新しい金貨は平坦ではなく湾曲しており,旧来の金貨と全く同一の信用を得るには至らなかったが,少なくともミカエル7世時代の危機的状況に比べれば,帝国通貨の信用は大幅に改善した。
アレクシオスは,その際金含有量の異なる3種類のノミスマ金貨を併存させる通貨制度を定め,それらを巧みに使い分け換算率を操作することで,通貨の信用回復のみならず国庫の増収まで図ったという。
アレクシオスは,首都の東外れにオルファノトロフェイオン(孤児院)と呼ばれる複合施設も建設した。この施設では,何千人もの重度の身体障碍者に国家の費用で食事と宿を,孤児たちには学校を提供したという。この時代には小アジア失陥で首都に避難してくる難民が多かったと推測されるため,そうした難民への対策の一環であろう。
(6)ボエモンドとの対決
シリアにアンティオキア公国を建国したボエモンドは,やがて南イタリアと連絡を取り合ってビザンツ帝国を挟み撃ちにしようとした。アレクシオスはためらうことなくトルコ人と結んでボエモンドに対する攻勢を強め,苦境に立ったボエモンドは,アンティオキアを脱出してイタリアに戻った。『アレクシアス』によると,その際ボエモンドは死んだという風評を流した上で,遺体のような腐臭のする鶏の死骸とともに棺に横たわり,海路ローマへ運ばれたとのことであり,アンナは「一体どうやって彼は,鼻に対するこれほどの包囲攻撃に耐えられたのか不思議なことだ」と思いを巡らせている。
ボエモンドは「ギリシア人の裏切り」を宣伝して資金と軍勢を集め,父と同様に海を渡ってビザンツ帝国に攻め込んだ。ボエモンドはローマ教皇に対しても,ビザンツ人は分離宗派であるから,自分の攻撃は全く正当であると主張していた。
しかし,アレクシオス1世の様々な努力もあり,一世代のうちに帝国はかなり立ち直っていた。ロベール・ギスカールが攻め込んできたときと異なり,デュラキオンの町はボエモンドの攻撃を撥ねつけ,駆けつけてきたアレクシオス率いる本隊の前に,ボエモンドは降伏を余儀なくされた。1108年のディアボリス条約で,ボエモンドは帝国に忠誠を誓い,アンティオキアを封土として与えられた。こうしてアレクシオスは,一応にせよアンティオキアをビザンツ帝国の宗主権下に置くことに成功したのである。
その後,アレクシオスは小アジアの領土をトルコ人から守るための防衛戦争に忙殺されたが,1116年にはフィロメリオンの戦いでトルコ軍を破った。アレクシオスはこの戦いにおいて,弓騎兵の攻撃に頼るトルコ軍に対し有効に対処できる「パラタクシス」という新たな陣形を考案し活用しており,後のイングランド王リチャード1世も,アルスフの戦いでこれと同様の陣形を採用したという。この戦いの後,1117年にはセルジューク朝との間に講和が成立し,トルコ人を小アジア内陸部のアナトリア高原に追いやることに成功した。
アレクシオス1世は,対外関係で多くの難題に直面し,国内における様々な陰謀に直面しながらも,狡猾な手段で様々な危機を乗り越え,30年を超える長い治世を全うし,瀕死の状態にあった帝国に再建の道筋を付けることに成功した。即位当初は帝位簒奪者との汚名を免れなかったアレクシオスだったが,長い治世の間に貴族や民衆は,次第にアレクシオスを正統な皇帝として認めるようになっていた。
(7)帝位の継承
アレクシオス1世に残された最後の仕事は,帝位をコムネノス家の世襲により安定化することだった。彼には既に成人となっていた息子ヨハネスがおり,彼に後を継がせれば何も問題はないはずであったが,長女のアンナ・コムネナは自ら皇后になりたいとの野心を抱き,アレクシオスに対し散々ヨハネスの悪口を言い立て,自分の夫ブリュエンニオスを次の皇帝に指名するよう,懸命にアレクシオスを説得した。妻のエイレーネーもアンナに味方したので,晩年のアレクシオスはこの厄介な妻と娘を相手にしなければならなかった。
アレクシオス自身の心は決まっていた。多少気にくわない面があるとしても,実の息子を差し置いて娘婿に帝位を継がせる愚か者がどこにあろう。しかし,アレクシオスがそう言い聞かせたところで,2人とも知性と教養に優れた才女であり,そう簡単に諦める女ではない。
当の娘婿ブリュエンニオスは帝位に就く気など全く無かったにもかかわらず,アンナは執拗に父と夫を説得し続け,エイレーネーも夫を説得し続けた。アレクシオスは聞こえないふりをしていたと伝えられるが,内心この妻と娘をさぞかし「ウザい」と思っていたことだろう。彼は1118年に死の床に着いても,この難題から解放されることはなかった。
いよいよアレクシオスが死ぬというとき,息子のヨハネスがアレクシオスの許を訪れ,アレクシオスのはめていた,帝位を示す指輪を持って行った。ヨハネス本人は,その指輪は父から「後を頼む」と言われて譲り受けたものだと主張し,ヨハネスを批判する者は,ヨハネスが親不孝にも指輪を勝手に父の指から抜き取り持ち去っていったと主張した。
『アレクシアス』は,この件について何ら触れていない。筆者としてはアレクシオスの意志,そしてヨハネス2世として帝位に就いた彼の業績に照らし,ヨハネス自身の主張を信じてよいと思われるが,後世の歴史家ニケタスは後者の見解を採用した上で,更に脚色した物語を残している。
ニケタスによると,ヨハネスは皇帝アレクシオスがまだ生きているのに即位の手続きを始めようとし,エイレーネーとアンナがヨハネスの即位を何とか止めさせようと奔走しているのに,当のアレクシオスは妻の訴えを聞いても,神に召されようとしている者に向かってなんとつまらないことをいうのかとばかりに,かすかにほほ笑んだだけであった。ついに諦めた皇后エイレーネーは,夫に「陛下,貴方はいつもあやふやな事を言っては,うまく人を誑かせてこられましたね。いま,この世を去ろうというときになっても,少しも変わらないのですね。」と語ったという。この台詞は勿論ニケタスの創作であるが,アレクシオス1世の治世を象徴的に表現するものとして評価に値するだろう。
37年に及ぶ長い治世において,アレクシオス1世は数えきれない程の陰謀の標的となり,自らも数々の謀略をもってこれらに対抗してきたが,アレクシオスは1118年に死去することで,ようやく陰謀地獄のような人生から解放された。帝位は彼の息子ヨハネス2世に引き継がれたが,帝位が父から「緋産室の生まれ」たる息子に継承されたのは,ビザンツ帝国では959年に帝位がコンスタンティノス7世からロマノス2世に継承されて以来,実に159年ぶりのことであった。
<幕間24>ヴェネツィア人とヴェネツィア共和国
ヴェネツィアとは,アドリア海の北端にある潟(ラグーナ)の上に築かれた,多くの人工島に住む共同体の総称であり,ヴェネツィア人はこれらの島々に住む人々の総称である。
伝承の伝えるところでは,5世紀にアッティラが北部イタリアを蹂躙した際,避難民が神の啓示を受けて,アッティラの侵略から逃れるためこれらの島々を作りそこに移り住んだのが,ヴェネツィアの発祥とされている。取れる資産が魚と塩くらいしかないヴェネツィア人は,必然的に船を使った海上輸送や交易に活路を見出すしかなく,こうしたヴェネツィア人の存在は,イタリアを支配した東ゴート王テオドリックに仕えたボエティウスの文書からも確認することができる。
ユスティニアヌス1世によってイタリアが再征服されると,ヴェネツィアはローマ帝国領となり,マウリキウス帝によって北イタリアのラヴェンナに総督府が設置されると,ヴェネツィアはラヴェンナ総督府の管轄下に置かれた。6世紀の末にランゴバルド人のイタリア侵入が始まると,イタリア本土からの避難民がヴェネツィアに流れ,ヴェネツィアの人口は大幅に増加した。この時期をヴェネツィアの発祥とみなす歴史家もいるようである。
751年にラヴェンナがランゴバルド軍によって陥落すると,ビザンツ帝国はラヴェンナに代わる北イタリアの拠点としてヴェネツィアに注目するようになるが,ヴェネツィア人は表向きビザンツ帝国に従属しつつも,フランク王国に接近するなど西欧での同盟者を探すようになり,徐々にビザンツ帝国からの独立性を強めていく。
その困難な生活環境故に,ヴェネツィア人は強固な連帯意識をもって団結し,独自の共和政体を徐々に確立していった。最初の指導者として伝えられるのはオルソ・イパートという人物で,彼は726年にビザンツ皇帝レオーン3世からヒパトゥス(執政官)及びドゥークス(総督)という称号を授けられた。ただし,697年にパオルッチョ・アナフェストがドージェになったという伝承もあり,この伝承は11世紀の年代記が初出であるため信憑性に疑義もあるが,慣例的に697年がヴェネツィア共和国の成立年とされている。
彼らの指導者は,当初ビザンツ帝国の総督を意味する「ドゥークス」と名乗っていたが,やがて彼らの言葉で「ドゥージェ」と名乗るようになり,その実態もビザンツの総督というよりは独立国家の「元首」と呼ぶべき存在に変化していく。
なお,このように成立したヴェネツィア共和国の政体や歴史等については,塩野七海著『海の都の物語』で詳述されているが,塩野氏の描くヴェネツィア人の姿は史実より大幅に美化されていることに注意しなければならない。実際のヴェネツィア人は,少年を去勢して異国に売り飛ばす非人道的な奴隷貿易で大きな利益を上げ,後年ビザンツ帝国に認めさせた自らの貿易特権を維持するためなら露骨な海賊行為や暴虐行為も辞さない,ある意味憎まれて当然な人々であった。
ヴェネツィア商人は,造船用の木材のほか,小麦,塩,奴隷を交易していたことが知られており,ヴェネツィアには奴隷市場もあった。考古学的な検証によれば,ビザンツのガラス製品,葡萄酒や穀物,油輸送用のアンフォラのような陶器類が流布していたことも示唆されており,ヴェネツィア人は商売になりそうなものであれば何でも手を出したのだろう。
829年,ヴェネツィア人はエジプトのキリスト教徒がイスラム教徒からの迫害を懸念しているのに乗じて,聖マルコ教会の聖遺物を持ち去ることに成功し,それ以来聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となり,ヴェネツィアにはビザンツ様式の巨大な聖マルコ教会が建設された。
ヴェネツィア人は,ビザンツ人にはやや欠けている商業力と海運力を補う存在として徐々に重視されるようになり,992年,バシレイオス2世はダーダネルス海峡に入る船1隻につき本来なら30ソリドゥスが課せられる基本税を,ヴェネツィア人の船は17ソリドゥスに減額するという特権を認めた。この利権が認められた理由は,ビザンツ帝国が南イタリアで軍事行動を行う際,アドリア海におけるビザンツ軍の輸送を担うことで,ヴェネツィア人が帝国の国防を担う存在として認められたことにあるが,これでヴェネツィア商人は,ビザンツ人や他の外国人より有利な条件で,交易の中心地たるコンスタンティノポリスへ立ち入ることが出来るようになった。
西欧とイスラム諸国との交易が盛んになるにつれ,イタリアには海上交易を中核とする都市国家が成立した。その第一走者がアマルフィ,次いでジェノヴァとピサ,最後にヴェネツィアと説明されるのが一般的であるが,海上交易について6世紀頃からの長い歴史を有するヴェネツィアが最終走者とされる理由はよく分からない。ヴェネツィア人は海上交易の長い伝統を有するものの,ビザンツ帝国に形式上従属している期間が長かったので,独立した都市国家としては後発組と見做されたのかも知れない。
もっとも,992年にバシレイオス2世から交易特権を認める黄金印璽文書を勝ち取った元首ピエトロ・オルセオロの時代において,既にヴェネツィアはビザンツ帝国の属領ではなく独立した外国として扱われており,遅くともこの時期にはヴェネツィアが独立した海洋都市国家としての実態を十分に整えていたことは確かである。
こうした海洋都市国家に共通する特徴として,彼らはイスラムの海賊から自らを防衛するため,交易のみならず海上戦闘にも長けるようになり,また少ない人口を最大限に活用するため,船舶を商業用にも戦闘用にも使えるよう設計し,その技術革新に余念が無かったことが挙げられる。アマルフィは11世紀末にノルマン人の征服で急速に衰えるが,残るピサ,ジェノヴァ,そしてヴェネツィアは,商業力でも海軍力でも他の諸国を圧倒する存在となり,特に東地中海においてはヴェネツィアが確固たる優位を確立していた。
なお,東西教会が分裂するとヴェネツィアはカトリックに属したが,「第一にヴェネツィア人,第二にキリスト教徒」との信条を抱えるヴェネツィア人は,ビザンツ帝国の支配下に置かれ続けるのを嫌ったのと同様に,ローマ教皇の支配下に置かれることも嫌い,ローマ教皇の派遣した司教はヴェネツィア市の片隅に追いやられ,ヴェネツィア人の宗教的祭儀を執り行う下級の聖職者たちは,司教の任命ではなくヴェネツィア市民たちの選挙によって選ばれた。
そのため,ローマ教皇の強力な武器である破門や聖務禁止も,ヴェネツィア人にはほとんど効果が無く,奴隷貿易や異教徒との交易を禁ずるローマ教皇の禁令もヴェネツィア人はしばしば無視した。ある教皇は「自分はどこの国でも教皇だが,ヴェネツィアではそうではない」と嘆いたという。
そして,ヴェネツィアはアレクシオス1世の治世下で更なる転機を迎える。前述したとおり,ヴェネツィアはノルマン軍の侵略を海上から妨害するのと引き換えに,従来ビザンツ帝国内で交易をするすべての商人に課せられていた10%のコンメルキオン(取引税ないし関税)を全額免除されることになった。さらに,ヴェネツィア人はコンスタンティノポリスから金角湾を隔てた対岸にあるガラタ(ペラ)の地に,事実上の治外法権を持った自らの居留地を置くことも認められたのである。
これは,アレクシオス1世の即位直後で立場が極めて弱い時期に行われたやむを得ない措置とは言え,やはり行き過ぎであった。ビザンツ人の商人には相変わらず10%の関税が課されていたため,ビザンツ帝国内におけるヴェネツィア商人の優位はもはや決定的となり,ビザンツ人の商工業者は優勢なヴェネツィア商人に押されて衰退し,ヴェネツィア人はビザンツ人から激しい憎悪を買うことになった。
アレクシオス1世の後を継いだヨハネス2世は,こうした行き過ぎを是正するためヴェネツィア人に対する貿易特権の更新を一旦は拒否するが,既得権を手放す気など全くないヴェネツィア人は海賊と化してビザンツ領の港や島を徹底的に破壊し,武力をもって貿易特権の更新を認めさせた。
ビザンツ人の反ヴェネツィア感情はますます高まり,ビザンツの歴代皇帝は民衆の反感に乗じヴェネツィア人を追放しては,後になって彼らの経済的重要性を再認識させられ彼らを呼び戻すといった行動を繰り返した。ビザンツ帝国の度重なる政変に翻弄されたヴェネツィア人は,自ら行動を起こしてコンスタンティノポリスにおける自らの特権を確固たるものとしようと試み,謀略をもって第4回十字軍を操り,文明破壊行為として悪名高い1204年のコンスタンティノポリス劫略を主導した。
ヴェネツィア人はコンスタンティノポリスから略奪した聖遺物や貴重な美術品をヴェネツィアに持ち帰り,自分たちの都をさらに飾り立てた。同年に成立したラテン帝国は,実質的にはヴェネツィアの傀儡国家であり,ビザンツ帝国が1261年に首都を奪回した後も,ビザンツ人は結局ヴェネツィア人の経済侵略から逃れることが出来なかった。
1453年にビザンツ帝国が滅亡すると,新たなレパントの覇者となったオスマン帝国は当然ながらこのようなヴェネツィアの貿易特権を認めるはずもなく,ヴェネツィアはビザンツ帝国から奪取した拠点や島々を,徐々にオスマン帝国に奪われていく。オスマン帝国はビザンツ人の反ヴェネツィア感情を受け継いだらしく,同じカトリック教徒との戦いでも,例えばロードス島を拠点としていた病院騎士団には名誉ある撤退を許す一方,捕虜としたヴェネツィア人は容赦なく殺戮した。憎きヴェネツィア人がオスマン軍によって殺戮されたとの報を聞いて,既にオスマン帝国の支配下に入っていたギリシア人は快哉を叫んでいたかも知れない。