第18話 『知られざる名君』ヨハネス2世

第18話 『知られざる名君』ヨハネス2世

(1)ヨハネス2世の即位

 ヨハネス2世(在位1118~1143年)は,1087年にアレクシオス1世と皇后エイレーネー・ドゥーカイナとの間に生まれ,アレクシオス1世が死去するとその跡を継いだ。ヨハネス2世は「カロヨハネス」(心美しきヨハネス)と呼ばれ,民衆から尊敬された。父のアレクシオス1世と息子のマヌエル1世との間に挟まれて知名度こそ低いが,現代の研究者はヨハネス2世をビザンツ帝国史上屈指の名君とみなしている。
 アレクシオス1世が死の床にあった頃,ヨハネス2世の姉アンナ・コムネナは自ら皇后になるという野望を抱いており,自分の夫ニケフォロス・ブリュエンニオスを次の帝位に就けようと画策していたが,当の夫が乗り気でなかったため簒奪は失敗に終わった。
ヨハネス2世はこの陰謀を無害なものと判断し,関係者を処罰することは無かった。母のエイレーネーはさすがに諦めたものの,姉のアンナは後日なおも陰謀を企てたため,修道院に押し込められた。皇后になるという野望を挫かれたアンナは,残りの人生を前述の『アレクシアス』執筆に捧げることになる。

(2)ヨハネス2世の内政的業績

 ヨハネスは,帝国再興のため倹約に努めて無駄な支出を抑制する一方,トルコ人出身のヨハネス・アクスークという人物を取り立て,彼はヨハネス2世の治世下で宰相と言ってよい地位にあった。アクスークは子供の頃ニケーア奪回の際に捕らえられ,アレクシオスの意向で皇子たちと共に宮廷で育てられた人物で,ヨハネス2世にとって最も親しい友人であった。アクスークもヨハネスの期待に応えて内政面及び軍事面で活躍し,事実上の宰相と言ってよい地位まで昇進している。
 ヨハネスはアレクシオス1世時代に顕著だったコムネノス一族による縁故主義から若干の脱却を図り,アクスークのように身分が低くても有能な人物を取り立て,皇帝を支える官僚勢力と貴族勢力の均衡を図った。税金を安くしたことで民衆からも慕われた。有力な軍事貴族との婚姻政策も引き続き行われ,ヨハネス2世時代にコムネノス一門に加わった人物としてはマヌエル・アネマスやテオドロス・ヴァタツェスを挙げることができる。ヨハネス2世は,このような新興の貴族を取り立てて一門に加える一方,過去に皇帝を出したことのあるドゥーカス家,ディオゲネス家など著名な貴族の影響力を減らすことに努めた。
 アレクシオス1世の時代には,血縁と爵位との関係は政治的事情もあり一貫性に欠けていたが,アレクシオス1世の治世後期からヨハネス2世の時代にかけて「コムネノス一門」の制度化が進んだ。すなわち,後継ぎとなる皇帝の嫡男には別格としてデスポテース(専制公と訳されるが,元は「主人」の意味)の称号が与えられ,それ以外の皇帝の息子にはセバストクラトールの爵位が与えられ,皇帝の長女の夫にはカイサルの爵位が与えられ,それ以外の皇女の夫にはパンヒュベルセバストスまたはセバストヒュベルタトスの爵位が与えられ,セバストクラトールからセバストヒュベルタトスまでに該当する上位皇族の息子たちにはプロートセバストスの爵位が与えられ,それ以外の皇帝親族にはセバストスの爵位が与えられることになった。
 ビザンツ帝国の爵位は世襲ではないため,例えば父親が皇帝の子弟としてセバストクラトールの爵位にあったとしても,その息子は皇帝の従兄弟に過ぎないのでプロートセバストスの爵位が相当となり,孫の世代以下になるとセバストスの爵位が相当ということになる。それでも,皇族の一員であればセバストスより下の爵位に落ちることはなかった。
 一方,現職皇帝により取り立てられその娘と結婚した人物は,カイサルやパンヒュベルセバストスなどの爵位を授けられ,皇帝の甥や従兄弟,古くからコムネノス家を血縁関係にある一族より上位の席を占めることになるので,このシステムの許では,アレクシオス1世時代からの親族であるドゥーカス家,ディオゲネス家,メリセノス家などの影響力は自然に低下することになったのである。
 なお,婚姻によりコムネノス一門に加わった一族は,父方の姓より母方のコムネノス姓ないしドゥーカス姓を名乗ることを好んだ。例えば,アレクシオス1世の長女アンナとニケフォロス・ブリュエンニオス(カイサル)との間には2人の息子が生まれたが,この兄弟はいずれも父方であるブリュエンニオスの姓を名乗らず,長男はアレクシオス・コムネノス,次男はヨハネス・ドゥーカスを名乗っている(そのため,コムネノス王朝時代のビザンツ貴族には同姓同名の別人が必然的に多くなり,研究者たちを困惑させることになった)。
 また,ヨハネス2世の治世下では,1136年,首都にパンクラトール修道院が設立されている。この修道院はアレクシオス1世をはじめとするコムネノス一族の墓所となったほか,優れた医学教育の設備を持った病院機能も備えており,この病院では首都の貧しい住民が無償で治療を受けられるようになっていた。
 同修道院の規定書によれば,この病院は骨折・眼病・胃病を専門とし,一部の病床は女性用に割り当てられて,女医が治療にあたるものとされていた。この病院において,少なくとも皇帝一族や高齢の修道士には極めて先進的な医療が提供されており,ハンセン氏病患者のためのレプロサリオンと呼ばれる施設もあった。この修道院の建物は,現在のイスタンブールでも観光名所になっている。
 一方,父がヴェネツィア人に与えていた関税免除などの特権があまりに行き過ぎたものであった(ビザンツ人や他の外国人商人は10%の関税を支払っているのに,ヴェネツィア人だけは関税ゼロであった)ため,ヨハネスは即位すると特権を認めた条約の更新を拒絶したが,ヴェネツィア艦隊がビザンツ領の港や島を襲い徹底的に破壊したため,結局条約の更新に応じるしかなかった。
 ヨハネス2世の時代には,小アジア沿岸部の多くがビザンツ領に戻り,トルコ人の支配から逃れた小アジア内陸部のキリスト教徒たちがビザンツ領の沿岸部に移住したため,小アジアのビザンツ領は繁栄し,小アジア内陸部の領土失陥をある程度埋め合わせることに成功した。ただし,騎兵の産地である小アジアの内陸部が失われたため,ビザンツ帝国は以後自国民の騎兵を養成することが難しくなり,またビザンツ人の騎兵は馬の質も練度も外国人騎兵に劣っていたこともあって,重装騎兵についてはイタリアなどのラテン人騎士,軽装騎兵についてはクマン人などの遊牧民騎兵に頼ることになる。

(3)ヨハネス2世による戦争と領土拡大

 ヴェネツィアへの挑戦こそ失敗したが,ヨハネス2世は軍人としても有能な人物であり,彼の治世の大半は戦争に費やされた。ヨハネスは1119年から1121年にかけてトルコ人を破り,小アジア南西部を支配下に置いた。翌1122年には,ドナウ川を越えて侵入してきたペチェネグ人をベロイアの戦いで破り,捕虜となったペチェネグ人の多くを国境地帯の兵士兼農民として定住させた。この戦いを最後に,独立した民族としてのペチェネグ人は,歴史上からその姿を消すことになった。
 続く1124年から1126年にかけてのヴェネツィア人との衝突は,前述のとおり望ましくない結果に終わったが,1127年から1129年頃にかけて行われたマジャル王国及びセルビアとの戦争は,ビザンツ帝国の勝利に終わった。この戦争は,ヨハネス2世がマジャル王カールマーン1世(在位1095~1116年)の娘ピロシュカ(エイレーネーと改名)を妃に迎え,カールマーンの弟で王位継承争いに敗れ盲目にされていたアールモシュ公の亡命を受け入れていたところ,カールマーン1世の息子で王位を継いでいたイシュトヴァーン2世(在位1105年~1131年)率いるマジャル軍が侵入してきたことにより始まったが,ヨハネス2世は1128年,ハラムの戦いでマジャル軍に大勝し,ビザンツ側に有利な条件で平和条約を締結し領土を拡大したほか,マジャル側に与したセルビア人をビザンツ帝国の支配下に置き,捕虜にしたセルビア人を兵士兼農民としてニコメディアに移住させた(ただし,この戦争は1125年頃に行われたとする史料もある)。その後,1129年にアールモシュ公が死去したことにより,ビザンツ帝国とマジャル王国との紛争の主な原因は取り除かれた。
 1130年から1135年の間,ヨハネス2世は小アジアの北東部で勢力を伸ばしていたダニシュメンド朝に対する遠征を行い,コムネノス家にとって父祖の地であるカスタモヌをはじめ,多くの小アジア領を奪回した。1136年にはキリキア・アルメニア侯国を併合し,1137年にはアンティオキア公国にビザンツの宗主権を認めさせ,これらの戦いによりビザンツ帝国は,マンズィケルトの戦い以後に失っていた領土の多くを奪還し,ビザンツ帝国は東地中海の強国として蘇ることに成功したのである。
 ただし,ヨハネス2世が1139年に行った黒海方面への遠征は主に悪天候が原因で失敗に終わり,一旦併合したキリキア・アルメニア侯国は,王族の生き残りであるトロスが1141年にキリキアを脱出して侯国を再興しており,またアンティオキア公国は表向き服属を表明しつつ,協定の履行を拒むといった形で反抗を続け,1137年の遠征ではシチリアのノルマン人の脅威に備えるため,一旦撤退を余儀なくされていた。そのため,ビザンツ帝国がキリキア・アルメニア侯国やアンティオキア公国に対する完全な宗主権を獲得するのは,次のマヌエル1世時代のことになる。

(4)ヨハネス2世の外交政策及びローマ教皇との確執

 外交面では,前述のとおりマジャル王ラースロー1世の娘ピロシュカ(結婚に伴いエイレーネーと改名)を妃に迎え,東欧で勢力を拡大していたマジャル王国との関係改善を図っているほか,シチリア王国のルッジェーロ2世をけん制するため,神聖ローマ帝国との関係改善にも尽力しており,息子マヌエルの妃に神聖ローマ皇帝コンラート3世の縁者を迎えるよう尽力している。
 一方,東西教会の分裂傾向はヨハネス2世の時代にも深刻な問題を起こしていた。彼はアンティオキア公国への遠征にあたり,アンティオキア周辺の諸都市からラテン人の司教を追放し,代わりにビザンツ人を任命した。これを知ったローマ教皇は,ビザンツ軍に仕えるすべてのラテン人に宛てて怒りに満ちた回状を発布し,ビザンツ軍を去るか,それとも永遠の罪に落ちるかと迫ったのである。
 ヨハネス2世も父と同様,軍事力に関してはラテン人にほぼ全面的に依存していた。彼が無事即位できたのは,宮殿のヴァリャーグ親衛隊が自分を正統な後継者と認めてくれたからであり,彼が1122年にペチェネグ人と戦ったときにも,皇帝の周りを固めていたのはラテン人の親衛隊であり,1128年にマジャル軍を破ったのも,イタリア人騎兵部隊の助けを借りてのことであった。幸い,ローマ教皇の回状にもかかわらず,ラテン人部隊の集団脱走といった事態は歴史上記録に残っていないが,ローマ教皇との確執はビザンツ帝国にとっての懸念材料であり続けた。
 1143年,ヨハネス2世は言を左右にしてなかなか屈服しないアンティオキア公国への遠征中,狩猟に出た際に誤って毒矢を自分に刺してしまい,56歳で死去した。ヨハネスには4人の息子がいたが,長男のアレクシオスと次男のアンドロニコスは父に先立って早世しており,三男イサキオスは暗愚な人物であった(とされている)ため,四男のマヌエルが後継者に指名され,マヌエル1世として即位した。ただし,ヨハネス2世の死去及びマヌエルの後継者指名には不審な点も多く,マヌエルによる陰謀とする説もある。

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