第19話 『世界帝国を目指した者』マヌエル1世

第19話 『世界帝国を目指した者』マヌエル1世

(1)はじめに

 1118年,皇帝ヨハネス2世の四男とした生まれたマヌエルは,父の死に伴い前述のような経緯で帝位を継ぎ,マヌエル1世(在位1143~1180年)となった。マヌエル1世はコムネノス王朝の最盛期を築き,臣下たちから絶大な忠誠と称賛を受けたことから,「メガス」(偉大なる)のあだ名で呼ばれた。
 質素・倹約に努めた父ヨハネス2世と異なり,派手好みで享楽的であったマヌエルは,宮殿や教会などの建築事業を起こし,ブラケルネ宮殿を大幅に増改築して,玉座の置かれた大広間と長い柱廊を付け加えた。広間や柱廊の壁には,マヌエルが戦いに勝つ度に,その戦勝を描いたモザイクで埋め尽くされることになった。
 マヌエル1世の治世については,ビザンツ人による記録としてはニケタス・コニアテスやヨハネス・キンナモスの史書で詳しく,日本では根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』で詳しく紹介されており,彼については無謀な膨張政策でビザンツ帝国の国庫を破綻させ,後述する1204年に起きたコンスタンティノポリス劫略の遠因を作ったとの評価もある一方,一方で実際のマヌエル1世は巧みな外交で東地中海にビザンツ帝国史上最後の覇権を築いたかなり有能な人物であり,帝国の財政も彼の治世下では破綻には至っていないとする指摘もある。

(2)「コムネノス一門」の拡大と一族間の暗闘

 マヌエル1世の時代には,「コムネノス一門」に属する皇族もかなりの数にのぼり,国内の有力家門は皆コムネノス一門に取り込まれていたため,もはやビザンツ国内には「コムネノス一門」の支配権に挑戦できる力を持った一門外の勢力は存在しなかった。もっとも,同族だからといって絶対的な信頼を置けるわけではなく,王朝の実質的な開祖であるアレクシオス1世とその兄イサキオスは微妙な緊張関係にあったし,その息子ヨハネス2世は即位にあたり姉アンナ・コムネナの抵抗を排除しなければならず,その後は弟イサキオスの反抗に悩まされた。マヌエル1世も,即位するとその兄イサキオスの身柄を一時拘束し,その後イサキオスの身柄を解放して関係も表面的には修復されたが,マヌエルは兄イサキオスが自分の暗殺を企てるのではないかと恐れ,狩猟の際には常に胸甲を身に付けていたという。
また,マヌエルの従兄弟アンドロニコス(アレクシオス1世の三男イサキオスの次男で,後の皇帝アンドロニコス1世)はマヌエルと同年代であるため一緒に育てられ,互いに足の速さを競い合ったり格闘技をしたりする良きライバルであり,かつ親友同士だった。アンドロニコスがヨハネス2世の家で少年期を過ごしたのは,彼の父イサキオスがヨハネス2世と対立し,長く異国での亡命生活を送っていたためと推測されている。2人の友情はマヌエルが帝位に就いた後も続いたが,マヌエルの甥ヨハネス(マヌエルの早世した次兄アンドロニコスの長男)が軍事演習中に片目を潰す重傷を負い,マヌエルがこの甥を憐れんで侍従長職に叙任するなどして厚遇するようになると,マヌエルとアンドロニコスの関係は急速に悪化し,アンドロニコスは2度にわたりマヌエル暗殺を企てて投獄され,1164年に脱獄すると生涯の大半を外国で亡命者として過ごすことになった。
皇帝の兄弟やその子孫のみでなく,婚姻によってコムネノス一門に迎えられた人々も,重要な皇帝の支持基盤ではあったが,油断ならない存在でもあった。父ヨハネス2世時代に活躍したトルコ人ヨハネス・アクスークの息子アレクシオス・アクスークは,マヌエル1世の姪(早世した兄アレクシオスの娘)と結婚してコムネノス一門に迎えられていた。彼はマヌエル1世の治世下,プロートストラトールという軍内でトップクラスの要職にあり,有能な将軍として将兵の人気も高く,その令名は皇帝でさえも脅威を感じるほどであったという(なお,アレクシオス・アクスークは,後にマヌエルから謀反を疑われ失脚している)。
 その他,コムネノス一門に加えられた外国系の人物としては,いずれもセバストスの爵位を帯びた近衛将校であるアレクシオス・ペトラリファス,アレクシオス・ロゲリオス,そしてアンドロニコス・ランバルタスが挙げられる。この3人はいずれもラテン系帰化人の末裔で,ペトラリファス家とロゲリオス家は,アレクシオス1世時代にビザンツに帰順した南イタリアのノルマン系亡命貴族の家系であり,ランバルタスは「ロンバルディア人」を意味することから,北イタリア出身の家系と考えられている。このうちロゲリオス家は,既にヨハネス2世の時代,同家出身のヨハネス・ロゲリオスが皇帝の長女マリアと結婚してカイサルの称号を与えられており,この結婚から生まれた娘が上記のアレクシオス・ペトラリファスと結婚した。アンドロニコス・ランバルタスもマヌエル1世の姪テオドラを妻に迎えていた。
 その一方,皇帝はコムネノス一門の高貴な血が,皇帝一族に相応しくない格下の社会層に属する人間との通婚で「穢される」ことに神経を尖らせ,そうした行為に厳しい姿勢で臨んだ。セバストス位にあるブリュエンニオス一族の娘と書記官テオドロス・メサリテスとの結婚は,皇帝の命令により強制的に解消させられ,同じくコムネノス一門に連なる名家の娘との結婚を望んだ徴税官吏の息子ステファノス・ハギオクリストフォリテスは,罰として鼻を削ぎ落されている。勇猛な外国人の貴族を皇帝一族に迎えるのは良いが,国内の下級文官がコムネノス一門に加わることは,例えその者が有能であっても断固として認めない,というのがマヌエル1世の判断基準だったようである。
さらに,マヌエル1世は1143年と1155年の2度にわたり,皇帝から下賜された土地を元老院議員や軍人以外に譲渡してはならないという内容の法令を発布している。高級官僚や軍の要職はコムネノス一門で概ね占められていたことから,こうした政策は自らの支持基盤である「コムネノス一門」の外部に富が流出するのを防ぐ目的によるものと解釈されている。

(3)マヌエルの「西欧かぶれ」

 マヌエルは,昔の文人皇帝たちに倣ったのか,豪華な祭礼や外交使節への歓迎レセプションなどを行って首都を飾り立てた。その反面,彼は西欧人を優遇し,西欧風の生活習慣を好む,あまりビザンツ皇帝らしくない皇帝でもあった。彼の祖父や父が,ラテン人の有用性を認めつつも彼らを「野蛮人」とみなしていたのに対し,マヌエルはむしろラテン人の文化を称賛し,その文化を積極的に取り入れようとした。
 マヌエルは西欧の騎士に憧れており,兵士たちに西欧の騎士たちと同様,長槍と大型の楯で武装して馬上で戦う訓練をさせた。ヨハネス・キンナモスによると,従来のビザンツ軍は円楯を構え,弓矢で戦闘を決するのが一般的だったが,マヌエルは足許に達する凧型の楯で身を守り,馬上で長槍を振るう技術を伝え,馬術と武器の操り方に習熟させる一方で,配下の軍を二手に分けて,互いに戦闘陣形を組んで対決させたという。その訓練は熾烈であり,軍事演習のさなかに前述した皇帝の甥ヨハネス・コムネノスが木槍の一撃を顔面に受けて片目を潰したというエピソードも伝えられている。
 もっとも,如何に熾烈な軍事訓練を施したところで,首都の快適な暮らしに慣れ文武両道を心掛けているビザンツ人貴族が,子供の頃からほぼ戦うことだけを考えて育てられている西欧の貴族に戦闘力で敵うはずもない。そんなわけで,皇帝親衛隊にも西欧出身の人物が増え,自らも騎士のトーナメント競技を好み,進んで参加した。マヌエルは生涯に2度結婚しているが,最初の妻ベルタ(結婚に伴いエイレーネーに改名)は,神聖ローマ皇帝コンラート3世の皇后ゲルトルートの妹にあたる女性であり,彼女が1159年に亡くなると,1161年にアンティオキア公国の公女マリア(エレオノール・ダキテーヌの従妹にあたる女性)を後妻に迎えており,要するに二人とも西欧家系の出身者であった。マヌエルの治世下では,つばの広い帽子や半ズボンといった西欧風の服装も流行した。そんなマヌエル1世の治世下では,西欧諸国との外交が重要性を増したこともあって,文官についても西欧人の割合がかなり多くなり,伝統的なギリシア古典を学んだビザンツの知識人は,自分たちは西欧人たちとの不当な競争に晒されているとの不満を隠さなかった。
 祖父アレクシオス1世によって創始されたプロノイア制は,地方有力者に軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えることで,彼らの協力のもとに帝国の防備を磐石なものにする目的のものであったが,マヌエルはそのような目的を越えて,家臣たちに大量のプロノイアを下賜した。西欧かぶれであったマヌエルは,西欧風の封建制度こそが社会のあるべき姿だとでも考えたのかも知れない。彼はイングランド王ヘンリー2世に対し,そちらの国と民について教えてくれるよう手紙を書いたとも伝えられている。
 これによってマヌエルは「気前のよい皇帝」として家臣たちから称賛を受けたが,長期的には地方貴族たちの行き過ぎた権力強化と,それに伴う皇帝権力の弱体化につながってしまった。後に,イサキオス・ドゥーカス・コムネノス(コムネノス朝の皇族)やテオドロス・マンカファース(帝国の有力貴族)らが帝国から独立してしまったのは,このようなマヌエルの政策に起因すると言われている。
 しかしながら,マヌエル1世の政策は必ずしも親ラテンで一貫しているわけではなく,彼も聖地エルサレムの維持を目的とする西欧の十字軍に全面協力するほどお人好しではなかった。彼の治世下では,1147年に聖地へと向かう第2回十字軍がビザンツ帝国の領地を通過したが,十字軍に対するマヌエルの態度は祖父のものと大差なかった。
 十字軍に食料や船を提供するのと引き換えに,十字軍の首脳である神聖ローマ皇帝コンラート3世やフランス王ルイ7世に対し,祖父の代と同内容の誓約書に署名するよう要求した。両名とも渋々ながら同意した。ビザンツ帝国に船を提供してもらわなければ海峡を渡れないし,この種の誓約書には何の効力もないことも承知していたからである。
 なお,この第2回十字軍は,ビザンツ領である小アジアの沿岸部を通過した方が良いというマヌエルの助言を無視して小アジアの内陸部に侵攻したものの,ルーム・セルジューク朝の軍に大敗し,それでも何とか中東にたどり着きダマスカスの攻略を目指すも,あっけなく敗れて失敗に終わった。当時のイスラム諸勢力は,重武装故に動きが遅く,棍棒などの打撃攻撃にも弱いという西欧騎士の弱点を既に見破っていたのである。医術を得意としたマヌエルは,自ら負傷したコンラート3世(前述のとおり,マヌエルの妃はコンラートの妃の妹なので,両者は義兄弟の関係にある)の診察にあたるなど個人的友誼の確立には尽力したが,十字軍とビザンツ帝国の根本的な利害対立を解消するには至らなかった。

(4)「ローマ帝国再興」を目指したマヌエルの野望

 1154年,宿敵であるノルマン人のシチリア王ルッジェーロ2世が亡くなり,これによってシチリア王国が一時混乱すると,マヌエルは1155年,イタリア上陸作戦を命じた。ビザンツ軍は瞬く間に,アンコーナからタラントに至るイタリア半島東岸部を占領した。
 この成功に気を良くしたマヌエルは,次は全イタリアを支配下に収めようとの野心を抱くに至った。しかし,これに先立つ1152年,神聖ローマ皇帝はコンラート3世からその甥,有能で野心的なフリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王)に代わっており,彼が中心となって反ビザンツの大同盟が結成された。シチリア王国は勿論,ヴェネツィアもこの同盟に加わった。ビザンツ帝国がアドリア海の両岸を抑えて地中海への出口を塞がれることは,ヴェネツィアにとっても好ましくない事態だったからである。
 翌1156年,ビザンツ軍はイタリアのブリンディシで,シチリア王グリエルモ1世の軍に完敗し,マヌエルの野望はたった1年で挫折した。フリードリヒ1世は自ら正統なローマ皇帝であると称しており,かつマヌエルと同様にイタリア征服の野心を抱いていたので,以後フリードリヒ1世はマヌエルの仇敵となった。
 もっとも,イタリア政策(歴代の神聖ローマ皇帝による,イタリアの支配権強化を目指す政策の総称)を取るフリードリヒ1世は,これに反対するローマ教皇と対立していたので,マヌエルはローマ教皇との関係改善に努めた。マヌエルはキリスト教会の東西分裂をとても残念なことであると表明し,亀裂の修復に向けた対話を推進するためできる限りのことをした。
 アンティオキアに対するビザンツの宗主権を断固として守るという態度は父のヨハネス2世と変わらなかったが,マヌエルは父と異なり,その軍事行動がローマ教皇の反発を招かないように注意した。1153年,その横暴さから「強盗騎士」の異名を取るルノー・ド・シャティヨンという人物がアンティオキア公となり,シャティヨンは些細な口実からビザンツ領のキプロス島を攻撃し,農村のみならず教会や修道院まで容赦なく略奪し住民を虐殺した。
 これにより,ローマ教皇を含め誰もが納得する口実が出来たので,ようやく1159年にマヌエルは軍を率いてシリアに向かい,アンティオキア公を屈服させた。マヌエルはアンティオキアで凱旋式を行い,翌年シャティヨンはアレッポ北部を略奪しようとしてイスラムの君主ヌレディンに捕らえられ,アンティオキア公はボエモンド3世に代わった。
 彼はビザンツ帝国の宗主権を認め,マヌエルの姪を妻に迎え,ギリシア正教の総主教をアンティオキアに迎えた。アンティオキアへ行く途中にあるキリキア・アルメニア侯国も1158年にビザンツ帝国の宗主権を認めていたので,これによってビザンツ帝国のアンティオキア支配は概ね満足できるものとなった(なお,公位を追われた強盗騎士シャティヨンは,15年間も幽閉された後,多額の身代金と引き換えにようやく釈放され,その後はエルサレム王国に仕えている)。
 マヌエルは,ベツレヘムの生誕教会の復興にも資金を出して称賛され,西欧におけるマヌエルの評判はとても高くなり,一時はフリードリヒ1世と敵対していたローマ教皇から西方の皇帝として戴冠するとの申し出があったほどであった。
 余談になるが,歴代ビザンツ皇帝がアンティオキアに固執したのは,アンティオキアが五大総主教座の一つだからである。西方のカトリック教会が第一の聖地をエルサレム,第二の聖地をイベリア半島の西北端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラとしたのに対し,東方教会はあくまでも五大総主教制という教義に依拠しており,第一の聖地はコンスタンティノポリス,それに次ぐものがアンティオキア,エルサレム,そしてアレクサンドリアであった。
 このうち,エルサレムとアレクサンドリアを奪回するのはもはや現実的ではなかったので,ビザンツ帝国は残るアンティオキアの支配に固執したのである。西方教会と異なり,東方教会にとってのエルサレムはアンティオキアと同等の価値しか無かったので,マヌエルを含むビザンツ皇帝はエルサレムにさほど固執しなかったのである。
 一方,マヌエルはラテン人に対してのみ親和的だったわけではなく,帝国に友好的で有益と思われる外国人には誰にでも門戸を開いた。マヌエルの母エイレーネーはマジャル王の娘であり,元の名をピロシュカといった。その影響もあってかマヌエルはマジャル王に(戦争を仕掛けたこともあるが)概ね友好的で,1169年にアレクシオス2世が誕生するまで男子に恵まれなかったマヌエルは,一時期娘婿であるマジャル王子ベーラ(後のベーラ3世)を後継者に指名して,ビザンツ帝国とマジャル王国の統合を目論んだこともあった。もっとも,ビザンツ人は外国の王を帝位継承者とすることに猛反対した。ビザンツ人がアレクシオス2世の誕生をとても喜んだのは,これでビザンツの帝位が外国の王に渡る事態を回避できると考えたのも大きな要因である。
 また,マヌエルはルーム・セルジューク朝のスルタン,クルチ・アルスラーン2世を首都で歓待した。スルタンはコンスタンティノポリスに80日間も滞在し,聖ソフィア教会での礼拝行進にさえ参加した。マヌエルはかつてのロシア人と同様に,トルコ人をキリスト教に改宗させて帝国の同盟者にしようとの思惑を持っていたらしく,イスラム教からの改宗を容易にするため,改宗者にムハンマドの神を捨てなくてもいいようにしたいという提案もしている。
 もっとも,マヌエルのこのような親外国人政策は国内の不満を生む原因にもなり,マヌエルの治世下で冷遇されていたビザンツの文人たちは「西欧人は教養がない,粗暴で戦いを好む」と非難していたし,イタリア商人の優遇政策でビザンツ人の商工業者は大きな経済的打撃を受け,首都の住民たちはラテン人に大きな反感を持っていた。スルタンの首都訪問についても,異教徒が典礼に与るのは不適切だとの陰口が叩かれ,スルタンの滞在中に首都を襲った地震は,神の不興のしるしだとも言われた。
 野心家であったマヌエルは,ローマ帝国の再興を目指していた。前述したイタリア遠征はわずか1年で失敗したが,キリキアやマジャルへの遠征はそれなりの成功を収め,前述したアンティオキア公国のほか,エルサレム王国やマジャル王国にもビザンツの宗主権を認めさせることに成功した。もっとも,これらの支配は,マヌエルが戦争に強いとの評判に基づく脆いものでしかなく,マヌエルが一度大敗すれば簡単に崩れ去ってしまう運命にあった。
 なお,マヌエルは皇位を争った兄イサキオスの娘マリア・コムネナをマジャル王妃に,テオドラ・コムネナをエルサレム王妃に,エウドキア・コムネナをモンペリエ伯夫人としたが,これらの婚姻もローマ帝国再興のための外交的布石であった。

(5)ヴェネツィアとの関係悪化と世界戦略の破綻

 一方,同盟関係にあったヴェネツィア共和国とは次第に関係が悪化した。1149年には,ビザンツ帝国とヴェネツィアはノルマン人からコルフ島を奪回するため同盟を結んでいたが,ある日,町の市場でビザンツ人とヴェネツィア人の間で喧嘩が起こり,負けて自分の船に戻ったヴェネツィア人は,腹いせに皇帝のガレー船を曳航し,甲板の下に緋紫の衣と王冠を見つけると,一人のアフリカ人にこれらを身に付けさせ,嘲って「皇帝」と歓呼した。この馬鹿騒ぎは,岸にいたビザンツ人とマヌエルの面前で行われており,マヌエルはこの行為を,自分の地位のみならず黒い顔色に対する侮辱だと理解した。
 これに加え,前述のとおりヴェネツィアは反ビザンツ大同盟にも加担しており,ビザンツ人たちの反ヴェネツィア感情も次第に高まっていたので,次第にマヌエルはヴェネツィアから交易上の有利な地位を剥奪すべきだとの主張に耳を傾けるようになった。そしてマヌエルは1171年,帝国全域でヴェネツィア人の逮捕と財産の没収を命じた。
 父のヨハネス2世が行ったヴェネツィア人追放と異なり,マヌエル1世によるヴェネツィア人の逮捕は極めて用意周到になされており,逮捕を免れることが出来たヴェネツィア人はごくわずかであった。さらに,マヌエルはヴェネツィアとの決戦に備えて少なくとも150隻の軍船を用意し,ヴェネツィアとのライバルであるジェノヴァとも同盟を結んでいた。
 ヴェネツィア艦隊は反撃に出るも,マヌエルはヴェネツィア艦隊との正面決戦は避け,エーゲ海へ誘い込んでヴェネツィア側と和平交渉を続けつつ,ヴェネツィア艦隊が疫病で消耗するのを待った後,アンドロニコス・コントステファノス率いるビザンツ艦隊が,退却しようとするヴェネツィア艦隊を追撃して大打撃を与え,ヴェネツィアとの戦いはビザンツ側の完勝に終わった。
 もっとも,この追放劇によりヴェネツィア人との関係は大きく悪化し,この関係は後のアンドロニコス1世の時代に修復され損害も補償されるが,後の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス劫略という惨禍の遠因にもなってしまった。
 マヌエル1世の治世晩年になると,ルーム・セルジューク朝との関係も急速に悪化した。フリードリヒ1世に唆された前述のクルチ・アルスラーン2世は,ビザンツ領を侵蝕し始めた。マヌエルはこれに対抗するため,大軍を率いて小アジアに侵攻し,ルーム・セルジューク朝の首都コンヤの攻略を目指すが,1176年,ミュリオケファロンの戦いで大敗を喫してしまう。トルコ軍は兵力で劣っていたが,ミュリオケファロンの峠は道が狭い上に緑が深く大軍に不利な地勢であり,谷の各所に拠点を築いたトルコ軍が執拗に補給線への攻撃を行ったためビザンツ軍は消耗を強いられ,最後は待ち伏せていたトルコ軍の総攻撃により撤退を余儀なくされたのである。
 もっとも,この戦いで多くの兵を失ったのは同盟国であるアンティオキア公国の軍勢であり,ビザンツ軍自体の被害はそれほど大きくなかったが,戦争に強いとの評判により周辺諸国を従え兵力を提供させていたマヌエル1世にとっては,その威信を大きく失墜させ,周辺諸国への宗主権喪失につながる痛い敗戦であった。
歴史家のニケタス・コニアテスが記すところでは,多くの人々がマヌエルは「法外な野望を抱き,世界の端に眼を向けている」と嘲っていたという。確かにマヌエルの対外政策は野心的であり,南イタリアとエジプトを征服し,東方に加えて西方の皇帝として認められるという野望も抱いていたらしいが,その野望達成は戦争に勝ち続けることが不可欠の前提であり,ミュリオケファロンの敗戦はこうしたマヌエルの野望を最終的に挫折させることになった。陽気な性格だったマヌエルはこの敗戦以来塞ぎ込みがちになり,この敗戦をマンズィケルトの戦いになぞらえた。以後のビザンツ軍は専ら国境の維持に腐心するようになる。
 自らの世界戦略が破綻したマヌエルは,その後も神聖ローマ帝国に対抗するためフランス王女アニェスを息子アレクシオス2世の妃に迎えるなど外交戦略を諦めなかったが,1180年,ついに61歳で死去した。彼の外国人優遇政策が数々の反発を招いたにもかかわらず,ビザンツ人たちは彼の死を深く悼み,マヌエル1世は名君として後世のビザンツ人たちに記憶された。
 マヌエル1世は古代ローマ帝国の栄光を再現しようとしたが,対外進出の成功は部分的・一時的なものにとどまり,相次ぐ遠征や建設事業で財政事情は悪化した。コムネノス朝下で東方の大国の座を取り戻しつつあったビザンツ帝国の威信はマヌエル1世の時代に絶頂期を迎えたが,これを次世代に繋げることは出来なかったのである。
 なお,古代ローマ帝国の後継者であることを強く意識し,その復興を志していたマヌエル1世は,ユスティニアヌス1世以来久方ぶりに古代ローマ風の征服称号を名乗った皇帝である。彼の名乗った征服称号は次のようなものであるが,征服した民族として挙げられているのはバルカン半島や小アジアの民族が殆どであり,スケールの小ささは否めない。
「マヌエル,キリストにおける神に信厚き皇帝(バシレウス),ポルフュロゲネトス,ローマ人のアウトクラトール,もっとも敬虔な,永遠に尊厳なるアウグストゥス,イサウリア人,キリキア人,アルメニア人,ダルマティア人,マジャル人,ボスニア人,クロアチア人,ラジ人,イベリア人,ブルガリア人,セルビア人,ジキア人,ハザール人,ゴート人の征服者,偉大なるコンスタンティヌスの栄冠の神の定めたる相続人,彼の全ての権利を聖霊により受け継ぎし者」

<幕間25>マジャル(ハンガリー)王国の概要

 ビザンツ帝国の歴史に大きく関与し,マヌエル1世が一時ビザンツ帝国との統合を試みたマジャル王国とは,一体どのような国であったのか。ここでは,マジャル王国の起源と歴史の概要について触れることにする。
 マジャル族は,ウラル語族のフィン・ウゴル派に属する遊牧民族であり,その原郷はヴォルガ川からウラル山脈にかけての地域と推定されている。彼らはフン族,アヴァール族,オノグール・ブルガール族などと接触し,さらにユダヤ教を奉ずるトルコ系のハザール族の支配下に服することになるが,やがてその支配を脱し,9世紀末にドナウ川の下流に姿を現した。
 ビザンツ皇帝レオーン6世がブルガリアを挟撃するため彼らと同盟したところ,ブルガリアはマジャル族の東に居住するペチェネグ人と手を組み逆にマジャル族を挟撃したことは同帝の項目で述べたが,その後マジャル族はペチェネグ人の攻撃を振り切って西進し,アールパードなどの族長に率いられて,東欧ないし中欧の諸国や諸民族を攻撃して更に西進する勢いを見せ,ヨーロッパの人々を恐怖のどん底に陥れた。しかし,955年にレヒフェルトの戦いでオットー1世率いるドイツ諸侯軍に大敗を喫すると,パンノニア平原に退いてその地に定住し,自らの国を建国するに至った。
 このマジャル人の国については謎が多い。当のマジャル人は現在に至るまで自らをマジャル人と呼び,憲法で定められた現在の国名はマジャロルサーグ(マジャル人の国)であるが,この国は英語名でハンガリーと呼ばれ,日本でもそのように呼び慣わされるのが通常となっており,外務省の定める正式国名も「ハンガリー共和国」である。
このハンガリーという名称は,マジャル人がはるか昔にヨーロッパを恐怖のどん底に陥れたフン族と同様に東洋系の言語と独自の風習を持ち,しかも昔フン族が定住地としたところと同じパンノニアに定住したためフン族と半ば同一視され,「フン族のガリア」という意味でハンガリーと呼ばれるようになったとするのが従来の通説であったが,現在この説は俗説として否定され,ハンガリーの名称は7世紀に存在したテュルク系の「オノグル」に由来するものと説明されている。
 「オノグル」は十本の矢,つまり十部族を意味し,初期のマジャル人はマジャル7部族とハザール3部族の連合体として活動していたことに由来しており,この語がドイツ語の「ウンガーン」やギリシア語の「ウンガリア」に変化し,英語では「ハンガリー」と呼ばれるようになったのだという。ただし,筆者個人としてはドイツ語やギリシア語の語源はそれで説明できるとしても,マジャル人と直接の接触が無かったイングランド人の呼び方が,マジャルの隣国であったドイツ人やギリシア人と同じ語源によるものとは限らず,従来の俗説もなお捨て難いように思われるので,念のため両説を併記することにした。
 現在のハンガリー共和国は多民族国家であり,住民のすべてがマジャル人というわけではないが,それでも人口の8割以上がマジャル人であり公用語もマジャル語である。いずれにせよ,「ハンガリー」の名称を用いることはマジャル族が建国にあたり全く別の民族に変化したかのような誤解を招く恐れがあり適切でないので,本稿では敢えてマジャルで統一している。
 また,マジャル族に先立ってヨーロッパを蹂躙した同じ遊牧民族のフン族やアヴァール族が,その勢いを失うと地元のスラヴ系民族と同化し自然消滅してしまったのに対し,マジャル族が現在に至るまで独自の言語や民族性(例えば,マジャル人の氏名はヨーロッパの主流と異なり,東洋人と同様に姓を先にしている)を維持し,地元のスラヴ人に同化されなかったのも不思議な現象であり,その理由についても定説を見ない。
 最初にキリスト教を受け容れたマジャル人の王はゲーザであり,彼の時代には東方正教会的な要素もあったが,その子イシュトヴァーン1世(在位997~1038年)は1000年にローマ教皇シルヴェステル2世から王冠を贈られて戴冠し,西方教会に属する方向性を明確にするとともに,キリスト教を全国規模で普及させた。イシュトヴァーンは国内を統一し全土を地方長官の下に服す王城県を置くなど国政の基礎を築いた。
 イシュトヴァーン1世の死後は王権をめぐる争いが絶えず国内はしばしば混乱したが,周囲にあまり強大な国が無かったこともあって国土は拡大し,北方はカルパチア山脈方面へ,南方はクロアチアやダルマティアへ,東方はトランシルヴァニアへと版図を広げた。人口も自然増とドイツ人の流入などで着実に増え,12世紀末には200万人に達したと推定されている。
 コムネノス王朝時代のビザンツ帝国はこの強力な隣人との外交関係を重視し,マジャル王家との婚姻同盟も複数回にわたり行われ,マジャル王国はビザンツ帝国の文化的影響も強く受けるようになった。この時期に出現した英主ベーラ3世(在位1172~1196年)は,若い頃コンスタンティノポリスに留学し,マヌエル1世の娘婿となって一時期ビザンツ帝国の帝位後継者に指名された人物であるが,マヌエル1世の死に伴いビザンツ帝国が混乱期に突入した時期に即位したベーラ3世は,一時ビザンツに奪われていたクロアチアとダルマティアを再征服し,東はロシアのガーリチ地方を征服し,大貴族らの抵抗を力でねじ伏せ,彼の許でマジャル王国は大いに栄えた。マヌエル1世が国内の反対を押し切って彼を一時ビザンツ帝国の後継者にしようとした理由も理解できなくはない。
 しかし,その後王位に就いたアンドラーシュ2世(在位1205~1235年)は,何の利益にもならなかった第5回十字軍などの外征で国庫を空にし,財政難を埋め合わせるためのせっかちな財政政策で貴族層の反発を買い,1222年には貴族や司教たちの権利を保障する「金印勅書」の発布を余儀なくされた。その子ベーラ4世(在位1235~1270年)の時代には,モンゴル軍の侵入で国土が蹂躙され,国王自らもアドリア海上の島に避難する有様であった。モンゴル軍の撤退後は王権の回復より荒れ果てた国土の再興に専念せざるを得なくなり,また彼が防衛力強化のため呼び込んだクマン人はマジャル人の反発を買った。
 ベーラ4世の孫ラースロー4世(在位1272~1290年)は,母親がクマン人であり「クマン人の王」とも呼ばれる。彼はクマン人の異教的な傾向をあまりに強く見せたため,教皇から破門され彼に対する十字軍が結成されるに至ったが,その実行直前に暗殺された。彼に子が無かったため,アンドラーシュ2世の孫にあたるアンドラーシュ3世が国王として選出され,彼は有能な国王で中小貴族らが多数を占める議会に基礎を置く君主制の実現に努力したが,1301年に世継ぎのないまま亡くなり,これによって建国以来のアールパード朝は断絶した。
 その後は,母方の血でアールパード朝に繋がるアンジュー家のカーロイ・ロベルト(かのシャルル・ダンジューの子孫である)が,教皇庁の後押しやイタリア人銀行家からの融資などを得て王位争いに勝利した。カーロイ・ロベルト(在位1308~1342年)は,大貴族の勢力を武力で抑えて王権を確立し,またオーストリア・ハプスブルク家の膨張政策に対抗するため,1335年にボヘミア・ポーランドとの三国同盟を締結し,この同盟は王家の婚姻によってさらに強化され,マジャル王国の黄金時代を築き上げた。
 その後を継いだラヨシュ1世(在位1342~1382年)は,積極的に遠征を繰り返し「大王」と称されたが,戦いに勝っても帰還するとまた元に戻るといった具合で,領土拡大には結びつかなかった。ただ,1370年に彼がポーランドの王位を兼任するに至り,その威光は頂点に達した。
 ラヨシュ1世没後のマジャル王国については,周辺諸国の状況も俯瞰しながら語る必要がある。14世紀に黄金時代を迎えたマジャル・ボヘミア・ポーランド・リトアニアといった東欧諸国は,貴族たちの選挙で王を選ぶ選挙王制の時代に入り,1人の人物が複数の国王を兼任し,その者が亡くなると元に戻るといった動きが頻繁に起きたからである。
 ラヨシュ2世の後を継いだのは,ボヘミアの王家であったルクセンブルク家出身のジグモンド(在位1387~1437年)であり,彼は対オスマンのニコポリス十字軍に参加したほか,後にボヘミア王と神聖ローマ皇帝を兼任したので,皇帝ジギスムントの名で知られる。もっとも,彼はニコポリスでオスマン軍に大敗し自らも捕虜になると,オスマン帝国との戦争を避けて対フス派戦争に取り組んだため,ティムールとの戦いに敗れ一時弱体化していたオスマン帝国の再興を許すことになった。
 ジギスムントの死後はボヘミア王を兼任したハプスブルク家出身のアルプレヒトを経て,ポーランド王を兼任したヤギェウォ家(リトアニアを支配していた王家)のウラースロー1世(在位1440~1444年。ポーランド王としてはヴワディスラフ3世)がマジャルの王位に就いた。彼は対オスマン遠征に取り組み,1442年には彼の総指揮官フニャディ・ヤーノシュがトランシルヴァニアでオスマン軍を破ったが,ウラースロー1世らが指導者となったヴァルナ十字軍は1444年にオスマン軍に大敗し国王自身も戦死,フニャディもやっとのことで逃れるという有様であった。
 その後は再びハプスブルク家のラースロー5世と続くが,1453年にビザンツ帝国が滅亡してオスマン帝国の攻勢がますます強くなり,頼みの名将フニャディも1456年にペストで亡くなり,その中でラースロー5世も1457年に亡くなった。外国人の支配に倦み疲れたマジャルの貴族は,フニャディ・ヤーノシュの息子マーチャーシュ(在位1458~1490年)を王位に就けた。彼は「黒軍」と呼ばれる強力な軍隊を率いて活躍したのみならず,自身高い教養を誇る学芸の保護者でもあったが,対オスマン戦争で名を挙げた父と異なりオスマン帝国との戦いには消極的で,むしろオーストリアやボヘミアに支配権を及ぼそうとしてこれらの国と戦った。
 マーチャーシュの死後王位に就いたヤギェウォ家出身のウラースロー2世(ボヘミア王を兼任)は,すべて大貴族の言いなりという弱体な王で,「ドブジェ・ウラースロー」(「よきにはからえ」のウラースロー)と呼ばれた。まさに自分たちの意のままになるという理由で大貴族たちから王に選ばれたウラースローは,大貴族にとって脅威になる「黒軍」を解散してしまい,彼の治世下でマジャル王国は急速に弱体化した。ウラースロー2世の子ラヨシュ2世は,1526年のモハーチの戦いでオスマン帝国に決定的な敗北を喫し,国王自らも敗死することになった。
 その後,マジャルの王位はハプルブルク家のフェルディナント1世(在位1526~1564年)に渡り,その後はハプスブルク家の世襲となるが,マジャル王国の領土は,そのほとんどがオスマン帝国に奪われることになった。

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