第20話 転落する帝国

第20話 転落する帝国

(1)「暴君と化した改革者」アンドロニコス1世

 マヌエル1世が死去すると,当時わずか12歳であったアレクシオス2世(在位1180~1183年)が即位し,政務は摂政となった母のマリアが代行した。
 一方,亡きマヌエル1世には厄介な従弟,アンドロニコスがいた。1120年頃の生まれとされるアンドロニコスは,美男の偉丈夫で軍人としての才能にも恵まれていたが,事あるたびにマヌエル1世と対立し,帝位を狙っていると疑われて投獄されたり,遠いロシアやエルサレム王国への亡命を余儀なくされたりした。
 女たらしでもあったアンドロニコスは,エルサレムでは国王未亡人テオドラと恋愛事件を起こして追放処分を受け,テオドラを拉致して流浪の旅を続けていた。死期を悟ったマヌエル1世はテオドラを捕らえ,テオドラを返して欲しくば挨拶に来いとアンドロニコスに迫った。久方ぶりに現れたアンドロニコスは首に長い鎖を巻き付け,マヌエル1世に対し「私は陛下の奴隷でございます」と神妙に挨拶した。マヌエル1世はアンドロニコスを赦し,黒海沿岸の領地に隠棲させた。野心家のアンドロニコスも既に60代の老齢であり,そのまま余生を全うするだろうと思われた。
 しかし,マヌエル1世の親ラテン政策を継承した摂政マリアに対する国民の不満が高まっているのを知ると,アンドロニコスは黒海沿岸のポントスで摂政マリアの排除を掲げて反乱を起こした。マリアは首都にいる西欧人の力を借りて対抗しようとしたが,アンドロニコスの密使に唆された首都のビザンツ人たちは西欧人の居住地区を急襲して暴虐の限りを尽くし,アンドロニコスは市民の歓呼の中,コンスタンティノポリスに入城した。
 マリアは1182年に処刑され,アンドロニコスは翌1183年に共同皇帝となるが,自らもコムネノス朝の一族であり民衆の人気も獲得していたアンドロニコスは,もはや遠慮する必要はないと考えたのか,共同皇帝となってわずか2か月後,密かにアレクシオス2世を亡き者として,幼い皇后アニェス(アンナ)を自らの妻に迎え,皇帝アンドロニコス1世(在位1183~1185年)として即位した。
 こうして皇帝となったアンドロニコスは,帝国が抱える諸問題の原因を貴族や官僚の跋扈にあると考え,官僚に対する統制の強化に取り組んだ。給料の増額と引き換えに不正行為への処罰を厳格化し,「不正をやめるか,生きることをやめるか」と迫った。こうしたアンドロニコス1世の断固たる措置は相応の効果を挙げ,帝国の財政もある程度改善された。
 しかし,アンドロニコスが首都を掌握して間もなく,小アジアのヴァタツェス家が反乱を起こし,小アジアの大半の都市が反乱軍に与するという事件が起こった。この反乱は1184年の春に鎮圧されたが,これをきっかけにアンドロニコスは猜疑心が強くなり,富と土地を持っている者は誰もが陰謀を企んでいると思い込むようになった。
 アンドロニコスは首都にある教会の外壁に,農夫の格好をして鎌を持つ自身の巨大な肖像画を描かせ,自分は貧民の側に立って有力者と戦うと主張し,「余の子孫の害にならない商人や職人などを残して、全て殺してしまおう」などとうそぶいた。アンドロニコスの治世は恐怖政治と化し,貴族たちは気心の知れた支持者でさえ無事では済まなかった。難を逃れた貴族たちは外国に亡命した。主な亡命先はノルマンのシチリア王,あるいはアイユーブ朝のサラディンであった。
 また,アンドロニコスの近親者で元キリキア長官のイサキオス・コムネノスはキプロス島で自ら皇帝と名乗り,独立政権を樹立した。この政権は1191年にイングランド王リチャード1世獅子心王によって征服され,その後は西欧人による政権が続いたため,その後キプロス島がビザンツ帝国の支配下に戻ることはなかった。
 一方,アンドロニコスは前述のとおり反西欧人の旗を掲げて政権奪取に成功したが,もはやイタリア商人を抜きにしてビザンツ経済は正常に機能しない状態になっていたため,マヌエル1世時代に追放されていたヴェネツィア人を呼び戻し,その損害を補填した。この政策が市民の反発を招くことはアンドロニコスも理解しており,1184年夏に競馬場の観覧席が崩れ多数の死者が出るという事故が起こったとき,皇帝はこの事故をきっかけに市民の不満が爆発するのを恐れ,宮殿に逃げ戻った。
 貴族の反乱や弾圧により国防力が低下していたビザンツ帝国は,シチリア王グリエルモ2世の侵攻を受け,西の玄関であるデュラキオン,帝国第二の都市であるテッサロニケが相次いで陥落した。さらにはマジャル王ベーラ3世やセルビア王ステファン・ネマニャもビザンツ帝国に侵攻し,帝国はバルカン半島の領土を失っていった。
 このような中,アンドロニコス1世は両シチリア王国のノルマン人を撃退するため主力軍を派遣する一方,首都で敵軍に呼応するかもしれない貴族を除こうとした。占いで見てもらったところ,自分の跡を継ぐ人物はI(イ)で始まる名前だと言われたので,アンドロニコスはイサキオス・アンゲロスという若い貴族を逮捕しようとした。追い詰められたイサキオス・アンゲロスは聖ソフィア教会に逃げ込んだ。相次ぐ内憂外患でパニック状態に陥っていた首都の市民や貴族たちはイサキオスを支持して大暴動を起こし,アンドロニコス1世はロシアへの亡命を図るも捕らえられ,市民たちによってなぶり殺しにされてしまった。
 このアンドロニコス1世について,同時代人は「彼の中には二つの瓶がある。ひとつは善に満ちており,もう一つは悪に満ちている」と評した。現代研究者の評価もまちまちで,改革者,愛国者,暴君,民主主義者など様々な枕詞が与えられている。皇帝としての力量はそれなりにあったが,マヌエル1世時代から負の遺産を受け継ぎ,また改革の手法があまりにも性急であり強権的な弾圧と化したことが,改革の失敗と破滅を招いたといえよう。
 なお,アンドロニコス1世の妃であったアニェス(アンナ)は,ラテン人に対する外交的配慮のため助命され,後にテオドロス・ブラナスと再婚し,彼はこの結婚が縁となりラテン帝国に仕えることになる。アンドロニコス1世の孫アレクシオスも助命され,彼は後にトレビゾンド帝国を建国した。

<幕間26>数奇な運命を生きたフランス王女アニェス

 長いビザンツ帝国の歴史には数えきれない数の皇后や皇女などの女性が登場するが,その中でも遠くフランスから輿入れし,ビザンツ皇帝アレクシオス2世及びアンドロニコス1世の皇后となったアニェス(アンナ)の数奇な運命は,特筆に値すると思われる。
 フランス王ルイ7世の末娘であるアニェスは,ビザンツ帝国とフランスとの婚姻同盟のため,まだ7歳の頃にジェノヴァのガレー船でコンスタンティノポリスへと赴き,1180年3月にビザンツ帝国の皇位継承者たるアレクシオス皇子(後の皇帝アレクシオス2世)と結婚した。結婚にあたり,アニェスはギリシア風にアンナと改名されたが,これは彼女がバシレイオス2世の妹でキエフ公ウラジーミルに嫁いだアンナの末裔であることが意識されたのかも知れない(ウラジーミルとアンナの孫娘にあたるキエフ公女アンナは,フランス王アンリ1世の妃となっており,その後の歴代フランス王家はキエフ公女アンナを通じてマケドニア王朝の血統を引き継いでいた)。
 1180年3月に行われたアレクシオス皇子とアンナの結婚式は極めて華麗なものとなり,競馬場では連日のように競技が行われ,市内の随所でも見世物が繰り広げられ,その少し前に皇帝マヌエル1世の娘マリアとモンフェラート侯の息子レネリウス(イタリア語ではラニエリ2世)との結婚式が行われたこともあり,当時のコンスタンティノポリスはまさしくお祭り気分に包まれていた。当時この地に滞在していた歴史家のギヨーム・ド・ティルは,年代記の叙述を中断してこの華やかな結婚式に触れ,その華やかさを描き出すためにはもう一冊本を書いても足りないと述べている。
 ビザンツ皇帝マヌエル1世は,この結婚式の半年後に亡くなり,まだ11歳のアレクシオス2世が皇帝に即位し,8歳のアンナが皇后となったが,このように幼い皇帝夫婦に帝国の統治など出来ようはずもない。慣例に従ってアレクシオス2世の母マリアが摂政会議の長に就任し,マヌエル1世の甥アレクシオスが宰相となって彼女を支える新たな体制が発足した。
 ところが,この体制に異を唱えたのが,皇帝夫婦に少し先立って結婚した,アレクシオス2世の異母姉マリアであった(混乱を避けるため,以後この姉を皇女マリア,皇帝の母を摂政マリアと呼ぶ)。自分の継母である摂政マリアと折り合いの悪かった皇女マリアは,夫レネリウスを誘って摂政マリアを排し,自分が国政を牛耳ろうと画策した。
 皇女マリアは,摂政マリアと宰相アレクシオスが不倫関係にあるとの噂を流したが,陰謀が発覚すると夫と共に聖ソフィア教会へ逃げ込み,総主教の保護のもと市民に反乱を呼び掛けた。当時首都では復活祭の儀式が行われるはずであったが,皇女マリアに加担する総主教は,いまこの儀式を行うことはユダがイエスにした裏切りの接吻に他ならないと主張して,復活祭への参列を拒否した。
 これに対する首都の民衆は反応が分かれ,皇女マリア派の市民と摂政マリア派の市民が市街戦を繰り広げる事態になったが,総じて皇女マリア側が優勢であった。摂政マリアはマヌエル1世の親ラテン政策を継承していたため,民衆の不満を買っていたのである。劣勢に立たされた摂政マリアは,当時首都で6万人いたとされるラテン人の力を借りた。皇女マリアもラテン人を味方に付けようとしたが,ラテン人たちはフランス王女たる皇后アンナを擁している摂政マリアの側に付き,皇女マリア派の民衆は屈強なラテン人兵士によって蹴散らされた。結局,総主教の取り成しで和睦が成立し,皇女マリアと夫レネリウスは宮殿に戻った。
 皇女マリアの陰謀が収拾したのも束の間,今度は皇帝一族のアンドロニコスがアンドロニコス2世の保護を名目に反乱を起こし,1182年春には反乱軍が首都に迫ってきた。摂政マリアはまたもラテン人を頼りにしてアンドロニコスを撃退しようとしたが,アンドロニコスは先手を打って首都の民衆を扇動し,民衆は憎きラテン人の居住区に奇襲を掛けて略奪暴行の限りを尽くし,ラテン人居住区は消滅してアンドロニコスとその軍が首都に迎え入れられた。
 反ラテン人政策を看板に掲げたアンドロニコスは摂政の座に就くと,まず皇女マリアとその夫レネリウスを排除した。宦官を買収して二人を毒殺したと伝えられている。続いて前摂政マリアを修道院に押し込めたがそれだけでは安心できず,彼女がマジャル王に宛てた手紙を差し押さえ,その文面を口実に彼女が謀反を企んでいると告発した。こうして前摂政マリアは死罪となり,幼い皇帝アレクシオス2世は自分の母の死刑執行を命じる勅令に署名させられた。
 1183年,アンドロニコスは共同皇帝に就任したが,その直後になって一つの帝国に二人の皇帝は要らないと言い出した。総主教も市民たちもアンドロニコスに味方し,孤立した皇帝アレクシオス2世は,無惨にも弓の弦で絞殺された。こうして皇帝となったアンドロニコス1世は,帝位の正統性を確固たるものにするため,当時わずか11~12歳であった未亡人アンナを,自らの息子と結婚させようとした。しかし息子はアンドロニコス1世の阿漕な簒奪に反対しておりアンナとの結婚も断ったため,アンドロニコス1世は仕方なく,未亡人アンナを自らの妃として迎えることにした。
 既に60歳を過ぎていたアンドロニコス1世と幼いアンナとの結婚は,ビザンツ人に忌み嫌われた。歴史家ニケタスはこの結婚を,嫌悪を込めて次のように記している。
「恥ずかしげもなくアンドロニコスは,自分の甥の妻,薔薇色の頬をした華奢な少女と寝たのである。彼女はまだ11歳にもならないのに。老いぼれた男がまだ蕾の少女を奪い取ったのだ」
 幼くして老皇帝の妃とさせられたアンナについては,この結婚をひどく嫌がり,今は亡き夫のアレクシオスを夢に見てベッドの中で泣いたとの逸話も残されているが,実際のアンドロニコス1世は元エルサレム王妃テオドラをはじめとする多くの愛人がおり,皇后アンナは娘か孫のように扱っていたらしく,歴史家ニケタスが非難したように幼いアンナを手籠めにするようなことも無かったようである。
 もっとも,アンナの数奇な運命はこれだけでは終わらない。1185年にはイサキオス・アンゲロスの反乱でアンドロニコス1世は帝位を追われ,変装してロシアへの逃亡しようとするも,途中で役人に捕らえられた。アンドロニコスは自らの不遇を朗々と歌い上げ,役人の憐れみを誘って放免してもらおうと試みる。アンナも夫の意図を汲んで,その歌に合わせて即興で歌い始めた。このあたりの事情を見る限り,祖父と孫ほどに年齢の離れたこの夫婦は仲が良く,アンナも子供ながらに相当賢い女性であったことが窺われる。
 しかし,こうした嘆きの合唱も効果はなく,アンドロニコスは首都に護送されて,市民たちの手によってなぶり殺しにされた。一方,フランス王女であったアンナは助命され,新皇帝イサキオス2世によって,アンドロニコスの遺産の一部を与えられて首都で暮らすことを許された。
 わずか13~14歳の身でまたも未亡人となったアンナは,その後ノルマン人との戦いで軍功を挙げながら,追い詰められて反乱を起こし無念の戦死を遂げた将軍アレクシオス・ブラナスの息子,テオドロス・ブラナスの許で養われるようになり,二人の間には女の子が生まれたが,正式には結婚できなかった。元皇后であるアンナと結婚した者が帝位請求権者となることを防ぐため,アンナに与えられた寡婦財産は彼女が結婚した場合には没収されることになっていたし,そもそもビザンツ帝国の法律では三度目の結婚は禁止されていた。
 アンナがテオドロス・ブラナスと知り合ったのは,彼が1195年にイサキオス2世の兄アレクシオス3世を擁してクーデターを起こし,新皇帝の片腕となった時期と推定されている。既にアンナは20代に達していた。皇后だった昔には及ばないが,高級軍人の愛人としてそれなりの暮らしを手に入れたアンナの人生に,更なる転機が訪れる。
 1203年,ヴェネツィアに操られた第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻撃し,逃亡したアレクシオス3世に代わってイサキオス2世の息子アレクシオス4世が帝位に就くと,フランス人である十字軍諸侯たちはアンナの許へ挨拶に来た。フランス人にとって,アンナは自分の主君であるフランス王フィリップ2世の妹君だからである。
 しかし,すっかりビザンツ人になっていたアンナは,野蛮な十字軍士たちとの面会を嫌がり,通訳を通して「フランス語は忘れてしまいました」と答えたという。ただ一人,ブロワ伯ルイだけはアンナとの面会を許され,自分はルイ7世の孫,あなた様の甥ですと名乗ることが出来た。もっとも,言葉も通じない自分の親族が現れたからといって,アンナにどれほどの感激があったかは疑わしい。
 1204年,アレクシオス4世が殺され,第4回十字軍によるコンスタンティノポリス劫略が行われた。その際,亡きイサキオス2世の妃マルギトを含む貴族たちの女性は首都のブーコレオン宮殿に逃げ込み,アンナもその中にいた。十字軍の総大将モンフェラート侯ボニファチオ(殺されたレネリウスの兄にあたる)は彼女らを丁重に扱い,マルギトはボニファチオの妻となった。フランス王の妹であるアンナも丁重に扱われたようである。
 ボニファチオは自分が新しい帝国の皇帝になる野望を抱いており,元皇后のマルギトと結婚したのもその布石であったが,新しい帝国を自らの傀儡としたいヴェネツィア人の意向により,ラテン帝国と呼ばれた新帝国の皇帝はボニファチオではなくフランドル伯ボードワンと決まり,ボニファチオはテッサロニケ王に封じられるにとどまった。
 アンナにとって,新皇帝ボードワン1世は姪の夫にあたり,皇帝によってニケーア公に封じられた元ブロワ伯ルイは甥であったが,この2人は1205年のアドリアノポリスの戦いで,ブルガリア王カロヤンに敗れて戦死してしまう。発足直後のラテン帝国はビザンツ人を蔑視し彼らを召し抱えることはなかったが,カロヤンに敗れて早くも窮地に陥ったラテン帝国の運命を担うことになったボードワン1世の弟アンリは方針を転換し,自らに友好的なビザンツ人を重用するようになった。アンナの夫テオドロス・ブラナスもその一人であった。
 テオドロス・ブラナスは十字軍に徹底抗戦していた軍事貴族の一人であり,コンスタンティノポリス劫略後は首都を脱出して自分の領地に籠っていたものと推測されるが,おそらくアンナの取り成しにより,1205年頃アンリに仕えることになった。そしてアンナは,テオドロス・ブラナスと正式な結婚を果たした。ビザンツ帝国と異なり,西方教会のカトリックを奉ずるラテン帝国の法では再婚回数の制限がなく,またフランス王の妹であるアンナの財産を没収するなど,西欧出身のアンリは考えもしなかったであろう。
 こうしてラテン帝国に仕えたテオドロス・ブラナスは,ブルガリア人との戦いで戦功を挙げ,1206年には新皇帝となったアンリにより,妻アンナと共にアドリアノポリスの町を授けられた。なお,アドリアノポリスは前年ブルガリア王カロヤンに呼応してラテン帝国に反旗を翻した町であり,この町の統治者にはビザンツ人でなければ務まらないという判断もあったと考えられる。ラテン帝国ではアンナに特別の敬意が払われ,その夫テオドロス・ブラナスも「我らに味方する唯一のギリシア人」と称された(勿論,ラテン帝国に仕えたビザンツ人自体は相当数いたはずであるが,ビザンツ帝国に高官として仕え,かつラテン帝国でも重用された貴族として知られている人物は,このテオドロス・ブラナスのみである)。
 もっとも,ビザンツ人はこの夫婦を忌み嫌い,テオドロス・ブラナスは裏切り者呼ばわりされ,アンナはおそらく侮蔑を込めて「フランク人に戻った」とビザンツ人の歴史家に評された。ラテン帝国では彼女の呼び名も,あるいはアンナからアニェスに戻ったかも知れない。
 その後のアンナないしアニェスに関する記録は残っておらず,彼女の没年も知られていないので,彼女がどのような余生を送ったかは判然としない。彼女はビザンツ人として生き内心ラテン人を嫌悪しながらも,もはや祖国が滅びてしまった以上,自分の血筋を含め利用できるものは何でも利用するしかないと腹を括っていたのか,それともフランス王の妹として礼遇されているうちに次第にラテン人に馴染み,積極的にラテン人とビザンツ人の融和に努めようとして生きたのか,それは想像に委ねるしかない。
 ブラナスとアニェスの一人娘は,結婚して二人の子を産んだ。そのうち一人はフィリップ・ド・トゥーシで,彼は後にラテン帝国の摂政となり,第7回十字軍を率いてシリアにやってきたフランス王ルイ9世に目通りし,「私は陛下の従弟(正確には又従兄弟)でございます。フィリップ王の妹君でコンスタンティノポリスに嫁がれた方の孫です」と名乗り出たという。もう一人は祖母の名をもらったアニェスという娘で,アカイア公国の第4代公爵ギヨーム2世に嫁いだ。
 1204年のコンスタンティノポリス劫略により,ラテン人とビザンツ人の関係は険悪となったが,一方でこのような生き方をした「ビザンツ人」もいたのである。

(2)「盲目刑に処された愚帝」イサキオス2世

 クーデターでアンドロニコス1世を排除したイサキオスは,皇帝イサキオス2世アンゲロス(在位1185~1195年,1203年)を名乗った。このイサキオス2世からアレクシオス5世に至るまでアンゲロス家の血縁による帝位継承が行われたため,歴史上この王朝を「アンゲロス朝」と呼ぶ。
 イサキオスは1156年生まれで,政略結婚を拒否して駆け落ちしたアレクシオス1世の娘テオドラ・コムネナと,その夫コンスタンティノス・アンゲロスの孫にあたる人物であり,祖母を通じてコムネノス家と血縁関係にあった。もっとも,彼が皇帝となったのは偶然の要素が強く,彼にはそもそも傾きかけた帝国を改革する能力も意志も無かった。
 イサキオス2世と彼の兄アレクシオス3世は,ビザンツ歴代皇帝のうちでも非常に評判が悪い。ビザンツ人からの評判が悪かった皇帝は少なくないが,この2名の皇帝は後世のビザンツ人からも現代人からも,ほぼ一致して愚帝ないし悪帝と評価されている。その最大の原因は,2人の帝位争いが十字軍によるコンスタンティノポリス劫略という大惨事のきっかけになったことであろう。両帝に対する悪名は,帝国の国力が傾きかけた困難な時期に帝位に就いたという事情を考慮すると若干割り引いて考えるべきかも知れないが,そのような時期に無能な人物が皇帝になってしまったというのは,まさしく帝国にとって最悪の組み合わせであった。
 先帝の時代に脅威となっていたシチリア王国のノルマン人による侵攻は,アレクシオス・ブラナスという極めて有能な将軍の活躍により撃退されたが,イサキオス2世は彼の謀反を疑い,追い詰められたブラナスは1187年に反乱を起こした。ブラナスの反乱からイサキオスを救ったのは,コンラートというラテン人であった。
 イタリアのモンフェラート侯の息子であるコンラート(コンラドとも呼ばれる)は,イサキオスの姉テオドラと結婚するためにコンスタンティノポリスを訪問していたが,当時首都の城壁外にはブラナス率いる反乱軍が迫っており,イサキオスは首都で籠城策を採っていた。コンラートは食事中のイサキオスに対し,自分の義兄弟となる者なら食事より戦いの準備に専念すべきであると一喝しイサキオスを赤面させると,自ら騎兵部隊を率いてブラナス軍の中央に突撃し,反乱将軍ブラナスを馬から突き落として殺した。
 もっとも,既に帝国は財政破綻状態にあったためコンラートに与えられる報酬がなく,結局コンラートとその部下のラテン人部隊に与えられた「報酬」は,首都近郊の村や農地に対する略奪許可であった。それでもコンラートは,自らの仕事に対するイサキオスの報酬が少ないと腹を立て,結婚したばかりのテオドラを放置してコンスタンティノポリスを去っていった。その後,コンラートは第3回十字軍に参加して活躍し,エルサレム王国の継承者イザベル1世と結婚してエルサレム王に選ばれるも,即位する直前の1192年,ニザール派の暗殺教団によって殺されている。
 1186年には,ブルガリアで反乱が起きた。もっとも,この反乱の指導者はブルガリア人ではなくワラキア人であり,テオドロスとアセンという兄弟であった。彼らは当初,イサキオス2世に対しビザンツ軍に仕えるから褒賞をくれと申し出たがすげなく断られ,その後の押し問答でアセンが皇族の一人に殴られるなどして腹を立てた。ちょうどその頃,イサキオス2世がマジャル王ベーラ3世の娘マルギトを妃に迎えることになり,その結婚費用を賄うため新税が課されていたことから,この新税に対するワラキア人の不満を掻き立て,テオドロスは昔のブルガリア王に因んでペタルと改名し,ブルガリア王国の再興を旗印に反乱を起こし,旧ブルガリア王国の首都プレスラフを占拠したのである。
 1187年,皇帝イサキオス2世自ら率いるビザンツ軍は,ペタル率いる反乱軍を一度は撃退し,イサキオスはこれで反乱が終わったと判断して首都に戻ったが,彼らはクマン人と同盟して再度ブルガリアに侵攻し,ビザンツ軍を撃破して旧ブルガリア王国の主要部を支配下に収めた。ビザンツ軍はブルガリア軍がこもるロヴェチの要塞を落とすことが出来ず,1188年に和平を結んで,ブルガリアの独立を事実上承認した。
 イサキオス2世は,第3回十字軍を率いた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の領内通過に怯え,牽制のためにアイユーブ朝のサラディンに攻守同盟を提案したとされている。しかし,彼に成立したとしてもこの同盟が役に立つかは甚だ疑問であり,聖地エルサレムを奪回するためサラディンと戦おうとしている西欧諸国のさらなる不信感を買っただけであった。
 ブルガリア側はフリードリヒ1世と接触し,彼と同盟を結んでビザンツ帝国との戦いに彼の軍勢を利用しようと企んだが,当のフリードリヒ1世はサラディンと戦う事以外に興味は無かったので,イサキオス2世は十字軍の領内通過を何とか無事にやり過ごすことが出来た。
 もっとも,フリードリヒ1世はキリキアのサレフ河を渡航中に溺死し,そのため彼の軍はサラディンと戦うことなく自領に引き返していった。フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世は,海路で中東地域に向かったため,ビザンツ帝国の領内を通過することは無かったが,反乱勢力に占拠されていたキプロス島はリチャード1世によって西欧系のリュジニャンという人物に与えられ,以後キプロス島がビザンツ帝国に戻ってくることは無かった。
 十字軍の問題がひとまず解決すると,イサキオス2世は1190年夏に自ら軍を率いてブルガリアの首都となったタルノヴォに遠征するが,クマン人の援軍が来るとの噂を聞いたイサキオス2世は軍を引き返し,追撃してきたブルガリア軍にトリャヴナの戦いで大敗。イサキオス2世は辛うじて戦場から逃れたものの,ビザンツ皇帝の象徴たる帝冠,笏,衣装をブルガリア人に奪われるという不名誉を晒すことになった。
 問題はブルガリアだけでは無かった。マケドニアではこれまでビザンツ軍に属してブルガリアと戦っていたドプロミル・クリュソスという名のワラキア人傭兵隊長が,ストルムニツァの要塞を占拠し,周辺の農村部へと支配を広げた。1188年には,小アジアの南西部フィラデルフィアでテオドロス・マンカファースという貴族が自ら皇帝を名乗って反乱を起こし,ギリシアではレオン・スグーロスという人物が反乱を起こし,アルゴスとコリントスを押さえ,アクロコリントスに城砦を築いて自らの拠点とした。その他,名前の伝わっていないある反乱者が,モドンの町を支配下に置いている。マンカファースの反乱は1193年に一応鎮圧されたというが,マンカファースやスグーロスは1204年以後にも名前が見られ,鎮圧といっても領地安堵と引き換えに,一応武器を置かせることに成功した程度に過ぎなかったものと考えられる。
 これらの地方における反乱自体は決して目新しいものではなく,帝国の中央政府に対する地方の不満,すなわち中央政府は税を搾り取るだけで効果的な防衛が出来ず,自分たちにとって何の役にも立っていないという不満に基づく反乱はコムネノス朝時代ないしそれ以前にも起こっていたが,イサキオス2世時代の反乱は,その規模と頻度が大きく違っていた。
 こうした地方の不満が高まっていたことは,次に掲げるアテネ府主教ミカエル・コニアテス(在位1180~1205年)の訴えからも窺える。
「あなた方に何か不足はあるのか? マケドニア,トラキア,テッサリアの小麦の採れる平原ではあるまい,それは我々によって耕されたものである。エウボイア,キオス,ロードス産のワインでもあるまい,それも我々の手で絞られたものである。テーベやコリントスの織り子が紡いだ美しい織物でもなく,我々のすべての富でもないだろう。多くの川がただひとつの海に注ぐように,我々の富はすべて「都市の女王」に流れ込んでいる。」
 イサキオス2世時代における反乱者は,名前が伝わっている者だけで10人近くにものぼる。彼がこれほど多くの反乱に悩まされた原因は,彼がコムネノス王朝の直系ではなく「緋産室の生まれ」としての正統性を主張できなかったという点にもあるが,彼自身の統治にも原因があった。イサキオスは帝国が危機的状況にあるにもかかわらず,自らは奢侈に耽り,国民に重税を課したという。もっとも,ギボンは一時宮廷の宦官や召使いが2万人を超えたなどと書いているが,さすがにこれは誇張であろう。
 アンドロニコス1世を斬殺してイサキオス2世を擁立した首都の民衆は,やがてアンドロニコス1世の治世を懐かしむようになった。アンドロニコス1世は善と悪の顔を持っていたが,イサキオス2世には臆病な悪の顔しかなかった。イサキオス2世は国家の重大行事たる自らとマルギトの結婚をブラケルネ宮殿で私的に執り行うと決定し,民衆を憤慨させた。自分が民衆に支持されていないことを悟らざるを得なかったイサキオス2世は,自らの地位保全をますますラテン人の軍隊に依存するようになり,民衆との溝は深まるばかりであった。
 また,イサキオスはノルマン人の侵入や相次ぐ反乱によって陥った深刻な財政危機に対し,大規模な官位売買という安易な手段で対応した。これによって優秀な帝国の官僚機構は崩壊し,統治能力の低下が更なる反乱を招くという悪循環に陥ったのである。
 1195年,イサキオス2世が3度目のブルガリア遠征を計画すると,これに反対する兄のアレクシオスがクーデターを起こした。アレクシオスの支持者には,イサキオス2世によって非業の死を遂げたアレクシオス・ブラナスの息子テオドロス・ブラナスがおり,イサキオスの無能ぶりに嫌気がさしていた帝国の軍部は,揃ってアレクシオスを支持した。
 こうしてイサキオス2世は実の兄によって廃位され,盲目にされて首都北方の港町に蟄居させられることになり,アレクシオス3世(在位1195~1203年)が即位した。

<幕間27>サラディンとアイユーブ朝

 イサキオス2世の項目でサラディンの名前が出てきたが,サラディンはこの時代におけるイスラム世界ないし国際情勢を知る上で不可欠の人物である。この機会に,サラディンと彼によって創始されたアイユーブ朝について概説する。
 サラディンの本名は,ユースフ・イブン・アイユーブ(アイユーブの息子ユースフ)と言う。イスラム世界では彼を「信仰の救い」を意味する「サラーフ=アッディーン」(ただし,これと若干異なる表記法も多々ある)という尊称で呼ぶのが一般的であり,これが欧米では略されてサラディンと呼ばれ,日本でもサラディンと呼ばれることが多い。
 サラディンはクルド人の父を持ち,成人に達するとダマスカスでセルジューク朝に仕えていた父の許を離れ,シリアを支配下に置き勢いのあったアレッポの君主ヌレディン(ヌールッデイーン・マフムード)に仕えた。サラディンはヌレディンに重用されたが,学問に秀でたサラディンは戦闘よりむしろ行政の仕事を得意としていたようである。
 ヌレディンがエジプトのファーティマ朝の内紛に乗じ軍事介入すると,サラディンも軍に随行してエジプトに入り,ファーティマ朝の宰相となった。1171年に最後のカリフ・アーディドが世継ぎのないまま病没しファーティマ朝が断絶すると,サラディンがエジプトの支配者となり,マリク(王)を名乗って自らの支配権を確立した。一般にこれがアイユーブ朝の創始とされる。ファーティマ朝の支配下でも,エジプトでは国教たるイスマーイール派の信者はさほど多くなかったので,カリフが断絶すればスンニ派の国家に戻すのはそう難しくなかった。
 サラディンと主君ヌレディンとの関係は悪化し,ヌレディンはサラディンを謀反人とみなし自らエジプト遠征を企てるも,その準備中1174年に病没した。ヌレディンの後を継いだのは幼い息子サーリフであり,サラディンはサーリフの保護を名目にシリア方面へも進出し,1176年にはヌレディンの未亡人と結婚してシリアの支配権を概ね手中にした。
サラディンは,「癩王」の異名で知られるエルサレム王ボードワン4世との戦いでは苦戦したが,彼が死去し惰弱なリュジニャンがエルサレムの王位に就くと,サラディンは彼に仕えていた「強盗騎士」シャティヨンの略奪行為に対する報復を大義名分に,エルサレム王国に対する聖戦(ジハード)を仕掛け,1187年にヒッティーンの戦いでキリスト教徒連合軍に大勝し,同年中に聖地エルサレムを奪還した。
 しかし,聖地エルサレムを奪われたことに反応した西欧諸国は第3回十字軍を発動し,この十字軍はイングランド王リチャード1世のほか,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世も参加する大規模なものとなった。この三者と同時に戦ったならばサラディンに勝ち目は薄かったが,幸いフリードリヒ1世は河を渡航中に溺死し,フィリップ2世もリチャード1世と反目し帰国したため,サラディンは残るリチャード1世と激闘を繰り広げることになった。
 無類の戦闘好きで「獅子心王」のあだ名を持つリチャード1世の軍は強力で,サラディンは港町アッコンを奪われるなど苦戦したが,帰国したフィリップ2世がイングランドの領地を侵略し始めたためリチャードも戦争継続を断念し,サラディンとは1192年にキリスト教徒のエルサレム巡礼を認めることなどを条件に休戦し帰国した。
 サラディンは翌1193年に病没し,その領地は一族6名により分割されたが,サラディンの息子たちの不和に乗じて,サラディンの弟アル=アーディルが1198年に兄の領土を再統一し,兄が使用していなかったスルタンの称号を名乗った。このように,アイユーブ朝は分割相続制を採っていたため,代替わりの度に領地分割と一族間の不和が発生し弱体化した。
 アル=アーディルが1218年に病没するのに前後して,第5回十字軍がエジプトに侵攻しダミエッタを占領した。この十字軍は妥協を知らぬカトリックの聖職者に主導され,最後はナイル川の氾濫に巻き込まれて自滅したので事なきを得たが,父の後を継いだアル=カーミルは2人の弟と領地を分割統治しており,その基盤は父の時代より脆弱であった。
 1225年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がローマ教皇から十字軍の実施を迫られると,カーミルは再度の十字軍襲来を防ぐためフリードリヒ2世と交渉し,1229年には双方の宗教的寛容などを条件に,岩のドームなど一部を残したエルサレムをフリードリヒ2世に返還する協定を締結した。歴史上これを第6回十字軍と呼ぶが,過去の十字軍と異なり戦闘は一度も行われていない。戦わずにエルサレムを明け渡したカーミルも弱腰と非難されたが,フリードリヒ2世も異教徒と戦わずに交渉するとは怪しからんなどとローマ教皇や教会人から猛烈な非難を浴びた。
 1238年にカーミルが没すると,内紛によってアイユーブ朝は弱体化し統制が取れなくなった。1244年にイスラム勢力がエルサレムを奪還し,これを受けて1249年にフランス王ルイ9世が第7回十字軍を起こし,ダミエッタを占領した。この年,十字軍の迎撃にあたっていたカーミルの息子アッ=サーリフが病死し,サーリフの未亡人シャジャル・アッ=ドゥールが代理で指揮を執った。この戦争はサーリフが雇っていたマムルーク軍団(この軍団は,ナイル川のローダ島に兵舎を与えられていたため,「川のマムルーク」を意味するバフリー・マムルークの名で知られる)の将軍バイバルスが,翌1250年2月にマンスーラの戦いで十字軍に大勝し,追い詰められた十字軍が同年4月に降伏することで決着した。
 スルタンに即位したサーリフの子トゥーラーン・シャーは,自己の権力基盤を強化するため,戦功あるマムルークを投獄・免職して直属の部下を要職に登用するが,彼は反発したマムルークによって暗殺され,マムルークたちはシャジャルを君主とする新政権を樹立した。これによりアイユーブ朝は滅亡し,マムルークたちが政治の実権を握るマムルーク朝が成立した。
 マムルーク朝は成立後しばらく内紛やアイユーブ朝の残党等との戦いに苦しむが,1260年にバイバルスがアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃破し,マムルーク朝の第5代スルタンに即位するとマムルーク朝の優位は決定的となり,アイユーブ家は一部の分家が地方領主としてその名を残すに留まった。

(3)「忘恩の暗君」アレクシオス3世

 筆者は,歴代皇帝の性格や治世を分かりやすく表現するため,多くの歴代皇帝に独自のあだ名を付けてきたが,アレクシオス3世は「無能」「怠惰」「嫉妬」といった弟と同様の悪徳に加え,「忘恩」「暴君」「臆病」「悪あがき」といったあまりに多くの悪徳を持ち合わせており,彼の人格を的確に表現する用語が思い付かなかったため,結局上記のように表現せざるを得なかった。
 アレクシオス3世はイサキオス2世と同じ1156年の生まれとされており,本稿では便宜上イサキオス2世の兄とする表記で統一するが,弟とする説もある。アレクシオスはアンドロニコス1世の時代,皇帝によって暗殺されかけたためアンティオキアへ逃亡するが,その地でイスラム勢力の攻撃を受けて捕虜になってしまう。やがて弟のイサキオスが皇帝になると,莫大な身代金と引き換えに釈放された。
 その後は帝国の宰相・元帥として重用されるが,次第に弟と対立するようになり,1195年にはブルガリア遠征をめぐる対立がきっかけでクーデターを起こし,前述のとおり弟を廃位して皇帝に即位することになった。アレクシオス3世は,弟が計画していたブルガリア遠征を中止し,ブルガリアの独立を正式に承認した。しかし,兄の時代から対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の圧力に屈して膨大な額の献納金を支払うことになり,財源に窮したアレクシオス3世は,あろうことか歴代皇帝の墓所を暴いて装飾品をことごとく処分した。
 アレクシオスは,アンゲロスの家名では帝国を守れないと考えたのか,自らが母系でコムネノス家と血縁関係にあることを強調するため,アレクシオス3世アンゲロス・コムネノスと名乗った。しかし,名乗りを変えただけで問題が解決されるはずもなく,アレクシオス3世も無能ぶりでは弟と大差ない人物であったため,彼の治世下でも帝位をめぐる陰謀は後を絶たなかった。
 アレクシオス3世時代に起きた反乱も,反乱者の名前が伝わっているものだけで二桁にのぼるが,その中で最も深刻だった事件は,1200年には皇帝ヨハネス2世の曽孫ヨハネス・コムネノス・アクーコスが支持者の一団と共に大宮殿へ押し入って玉座に座るというものであった。もっとも,この謀反はラテン人の親衛隊が到着し,アクーコスを捕らえその首を刎ねたことで何とか収束した。
 アレクシオスは,1199年にローマ教皇へ使節を送り,トルコ人を攻撃するための援軍を要請したが,既にエジプト攻撃のための第4回十字軍を呼び掛けていた教皇インノケンティウス3世の返答は,アレクシオスは第4回十字軍に協力すること,またギリシア正教会はローマの権威のもとに戻らなければならないというものであった。
 一方,アレクシオスは,弟の治世下では優遇されていたヴェネツィア人を冷遇し,これまで敵対していたピサやジェノヴァの商人を優遇した。この方針転換が何を意図したものかは不明であるが,マヌエル1世時代に行われたヴェネツィア人排斥による損害の補償がまだ終わっていない段階での方針転換はヴェネツィアを怒らせたのみならず,結果的にこの方針転換は,アレクシオス3世のみならず帝国にとっても重大な命取りとなった。

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