第21話 第4回十字軍とコンスタンティノポリス劫略
(1)第4回十字軍とエンリコ・ダンドロの陰謀
アレクシオス3世の治世当時,ヴェネツィアの元首に就任していたのは,エンリコ・ダンドロという人物であったが,既に90歳を超え盲目となっていたこの元首は,自分たちへの待遇が皇帝の気分次第で安定しないビザンツ帝国に,自分たちの傀儡となる皇帝を据えようという壮大な陰謀を企てたのである。
西欧では,第3回十字軍でサラディンと激戦を重ねたリチャード1世が,聖地エルサレムを奪還するにはまず異教徒(アイユーブ朝)の本拠地であるエジプトを叩く必要があるとの見解を残したことから,これを受けてエジプトを攻略目標とする第4回十字軍の結成が呼び掛けられていた。フランス王やイングランド王はこの呼びかけに応じなかったが,一部の諸侯がこの呼びかけに応じ,モンフェラート侯ボニファチオ(イサキオス2世の時代に登場したコンラートの弟)を総大将とする第4回十字軍が結成された。
ところが,この十字軍はエジプトへの軍隊輸送をヴェネツィア人に依頼し,ヴェネツィア人の十字軍参加を取り付けたまでは良かったが,約3万人を予定していた十字軍への参加者が実際にはその3分の1程度しか集まらず,ヴェネツィア人に所定の船賃を支払えなくなってしまったことから,以後ヴェネツィア人の良いように操られることになってしまった。
第4回十字軍は,支払えなかった船賃の補填として,当時ヴェネツィアに敵対しマジャル王の保護下にあったザラ市を攻略した。キリスト教の都市を攻撃した十字軍に対し,時のローマ教皇インノケンティウス3世は破門に処したが,後に十字軍士からの弁明を聴いて,彼らに対する破門は解いた。ただし,ヴェネツィア人たちは破門されても平然としており,弁明すらしなかった。
一方,アレクシオス3世によって幽閉されていた廃帝イサキオス2世は,ラテン人の手を借りて政権を奪還するため,1201年,息子のアレクシオス(マルギトの息子ではなく,前妻エイレーネーの息子)を西方に送り出した。アレクシオスはコルフ島に滞在していた十字軍の許を訪れ,正統な帝位を回復するため協力して欲しいと申し出た。協力の報酬は20万マルクの支払い,ビザンツ帝国軍の十字軍参加,そして東西教会の合同であった。アレクシオスの亡命はイタリア船の援助を受けたものと伝えられており,これ自体もヴェネツィアの陰謀である可能性が極めて高い。
モンフェラート侯とヴェネツィア人はこの提案に賛成した。特にヴェネツィア人は,当時エジプトを支配していたアイユーブ朝のアル=アーディル(サラディンの弟)との間で,アレクサンドリアやダミエッタなどの貿易港におけるヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障する代わりに,エジプトに対するいかなる遠征も援助しないとする協定を締結しており,最初から十字軍をエジプトに向かわせるつもりなど無かった。一部の十字軍士は躊躇し別行動を取ったが,大部分の者は提案に同意した。
こうして,アレクシオス皇子を擁した十字軍の軍勢は海を渡り,寄港地で取るに足りないビザンツの守備隊を蹴散らして食料を調達し,ついに1203年6月にはコンスタンティノポリスに到着した。その間,海上におけるビザンツ側の迎撃は一切無かったが,当時のビザンツ海軍は財政難のため事実上解体状態にあり,軍船の艤装品すら競売にかけてしまっていたので,海上での迎撃は事実上不可能であった。十字軍の人数が少ないためか,アレクシオス3世が迎撃など真面目に考える気になれなかったようで,彼がやったことは,首都にいるヴェネツィア人の居留区を襲撃し焼き払ったくらいであった。
アレクシオス皇子は,自分を皇帝として迎え入れるよう首都の市民たちに呼びかけたが見向きもされなかったため,同年7月に攻撃が始まった。コンスタンティノポリスは,これまで敵の攻撃を何度も撃退してきた難攻不落の城塞都市であり,市民たちはこれを「神の母」たる聖母マリアの加護によるものと信じていたが,過去における多くの攻防戦では,「ギリシアの火」を装備したビザンツ海軍が大きな役割を果たしていたのに対し,今回の攻防戦では制海権をヴェネツィア海軍に握られており,首都対岸のガラタを制圧されていたためヴェネツィア艦隊に金角湾への侵入を許してしまい,海側と陸側双方からの攻撃が行われた。
とりわけ,ヴェネツィア艦隊は最初からコンスタンティノポリス攻略を念頭に置き,当時では最新鋭というべき攻城兵器の数々を備えていたほか,「ギリシアの火」に備えた艦船の防火対策も万全に行っており,かなりの強敵であった。
アレクシオス3世は,攻防の途中で早くも抗戦を断念してしまい,最愛の皇女1人だけを連れ,持てるだけの財宝を持って,闇に紛れて首都から逃亡してしまった。それ自体は概ね事実であるが,皇帝の逃亡に至るまでの戦いの経過については問題がある。
『コンスタンティノープル征服記』を著した十字軍士ヴィラルドワンの記述によると,数週間程度にわたる攻防の末,ダンドロ率いるヴェネツィア海軍は海側の城壁を一部占拠したものの,アレクシオス3世が陸側の十字軍に総攻撃を掛けるとの報を聞いて,ヴェネツィア軍は一旦城壁を放棄して,陸側への応援に駆け付けた。ところが,アレクシオス3世は十字軍側の10倍以上の兵を率いて出撃したにもかかわらず,わずかな小競り合いを繰り返しただけで早くも軍を引いてしまい,その日の夜に首都を捨てて逃亡してしまったのだという。
ヴィラルドワンのこうした記述は長年にわたり西欧では事実と信じられ,塩野七生著『海の都の物語』も概ねこの記述に依拠して攻防戦の様子を描いているが,近年におけるヨーロッパの歴史学会では,ヴィラルドワンの『コンスタンティノープル征服記』は十字軍精神を汚した歴史上悪名高い第4回十字軍を巧妙に弁護する目的の,偽善的かつ不誠実なプロパガンダであるといった指摘が有力になっており,その記述の信憑性について重大な疑義が示されている。
そうした指摘を踏まえた上で上記の記述を読むと,その信憑性を疑うべき理由はいくつかある。第一に,十字軍の10倍以上の兵力ということは,少なく考えてもアレクシオス3世は(にわか仕立てにせよ)10万人を超える兵力を動員したことになるが,反乱が相次ぎ財政も逼迫していた当時のビザンツ帝国にそのような大軍を動員する国力があったとは考えにくい。
第二に,上記のとおりアレクシオス3世が10万人以上の兵力を動員できたのであれば,いかに十字軍とヴェネツィア人が精強でビザンツ人が惰弱だったとしても,2万人にも満たない兵力で10万以上の兵が守る都市を落とすことは,常識的に考えれば到底不可能である。なお,近年の研究によれば,当時首都を守っていたビザンツ軍はヴァリャーグ親衛隊約5千を含む,合計1万人程度の兵力であったと推定されている。
最後に,いくらアレクシオス3世が臆病で惰弱な人物だったとしても,10倍以上の兵力を揃えながら,数の上では圧倒的に劣勢な十字軍を相手に,ろくに戦いもせず自ら軍を撤退させ,その日のうちに首都と帝位を捨てて逃亡するなどということは,まともな人間の行動心理としてあり得ない。戦うのが怖いのであれば大城壁の中に篭っていれば良いだけの話であり,わざわざ大軍を率いて出撃しておきながら,少し小競り合いをしただけで撤退するというのは,余程の理由がない限りあり得ないだろう。
ヴィラルドワンの記述には,他の場面でも例えば皇帝の近衛兵数千人が,たった一人の十字軍戦士を前に戦わずして逃げ出したなどという一見して信じ難いものもあり,これは明らかにラテン人である十字軍士の勇敢さとビザンツ人の臆病さを誇大に宣伝したものである。戦いの経過をヴィラルドワンの記述に依拠して語るのは明らかに危険であり,近年書かれたビザンツ史の概説書では,この戦いについてほとんど触れないものもある。
したがって,アレクシオス3世が逃亡に至った経緯については,当時の状況に照らして想像するしか無いのだが,ビザンツ軍の中で健闘したと言えるのは,相変わらずヴァリャーグ親衛隊と呼ばれたイングランド人とデンマーク人の傭兵軍団,そしてアレクシオス3世の娘婿であったテオドロス・ラスカリスとその一族をはじめとする一部の軍事貴族だけで,その他のビザンツ人は異様なまでに戦意が低かった。
ある意味,それも無理からぬことである。ビザンツ人にとってこの戦いは,ビザンツの歴史上幾度も繰り返された帝位要求者同士の争いに過ぎず,しかもアレクシオス3世という駄目な皇帝と,イサキオス2世という駄目な前皇帝の息子との争いであり,おそらく大半のビザンツ人は両アレクシオスのどちらも支持したくないというのが本音であったろう。
そのような両者の争いのために,わざわざ命を投げ出して戦う必要がどこにあろうか。アレクシオス3世は,首都のビザンツ人が防衛戦に極めて非協力的で,そのため戦況も思わしくないのに絶望し,帝位より自らの命が惜しくなって逃亡を決意したのではないかと考えられる。
(2)ビザンツ帝国の政局混迷
そのような想像の当否はともかく,突如皇帝に逃げられて困惑した帝国の宮廷は,事態打開のため廃位されていたイサキオス2世を復位させ,その息子アレクシオスと共に同格の皇帝として即位させることにした。こうして,アレクシオス4世(在位1203~1204年)の即位が実現した。
なお,このとき逃亡したアレクシオス3世は,モンフェラート侯ボニファチオの軍勢に捕らえられ囚人としてイタリアへ護送されたが,後にルーム・セルジューク朝のカイホスロー1世の許へ亡命し,カイホスローの後ろ盾を得てニケーア帝国のテオドロス1世に対し帝位を要求するが,1211年にマイアンドロス河畔の戦いでカイホスロー1世が戦死すると,テオドロス1世によって修道院に幽閉され,間もなく死去した。臆病者のくせに,最後まで往生際の悪い皇帝であった。
一方,皇帝となったアレクシオス4世は,即位に協力してくれた十字軍との約束を果たそうとするが,国庫の資産を全部拠出しても,約束した金額の数分の一しか支払えないことが分かった。アレクシオス4世は新税を課し,さらには教会財産の没収まで行うも,まだまだ足りなかった。十字軍は補給が底を尽き始めており,冬が近づいたこともあって,アレクシオス4世が約束を果たすのをしばらく待つことにしたが,十字軍への約束を果たそうとするあまり圧政者となったアレクシオス4世に対する市民の反発は強く,約束が果たされる見込みはほとんどなさそうだった。
翌1204年1月,市民や貴族はアレクシオス4世を見捨て,ニコラオス・カナボスという青年を皇帝に擁立しようとし,首都は大混乱となった。廷臣の一人であったアレクシオス3世の娘婿アレクシオス・ドゥーカス(ムルズフロス)は,この状況を陰で操り密かに帝位を狙っていた。ムルズフロスは,そんな事情を知らないアレクシオス4世から,自分が十字軍に対する支援要請の使者に任命されたのを契機に行動を起こし,同年2月にカナボスとアレクシオス4世を殺し,自ら皇帝アレクシオス5世(在位1204年)として即位した。イサキオス2世は,息子の死を聞いて間もなく死んだ。
アレクシオス5世はドゥーカス姓を名乗っていたが,その出自は不明であり,あだ名の「ムルズフロス」は,彼の密生した濃い眉毛に由来するものである。アレクシオス3世の娘エウドキアがセルビア王ステファン・ネマニャに嫁いだものの夫と死別し,アレクシオス5世がエウドキアの再婚相手になったことで,皇帝の娘婿として帝位請求権を主張できる立場になり,ついに自ら帝位に就いたのであった。
(3)コンスタンティノポリス劫略
アレクシオス5世は,十字軍に対する献納金の支払いを停止し,予想される攻撃に備えて首都の守りを固めた。十字軍側は激怒し,同年4月にはコンスタンティノポリスへの攻撃を再開した。十字軍士の中には,キリスト教徒の都市を攻撃するのは十字軍としての誓約に違反するのではないかと感じるものも多かったが,従軍聖職者たちはビザンツ人が十字軍の大義に反する教会分離派であり,攻撃は全く正当であると兵士たちを説得した。
ヴェネツィア海軍は既に金角湾内にあり,老齢の元首エンリコ・ダンドロの指揮の下,海の城壁のうち最も弱いところを攻撃した。ダンドロは,1171年にヴェネツィア人がコンスタンティノポリスから追放された当時この都市の駐在大使を務めており,この都市における防衛上の弱点を熟知していたのである。
対するビザンツ軍の主力は,相変わらずヴァリャーグ親衛隊とラスカリス家をはじめとする一部の軍事貴族たちであった。ヴィラルドワンでさえも新たに現れた帝位簒奪者の奮戦ぶりを評価していることから,アレクシオス5世は,少なくとも惰弱な義父に比べればはるかに善戦したようである。
アレクシオス5世が即位した後,十字軍との戦いは約3か月にわたる小競り合いが続き,その一方でダンドロが軍の撤収と引き換えに約黄金200万ポンドの支払いを要求するといった交渉も行われたようである。優勢なヴェネツィア海軍に対し,風に乗じて無人の火船を送り込み,ヴェネツィア船を焼き払う試みも行われたが,操舵能力に優れたヴェネツィア船は火船をかわし,作戦は失敗に終わった。それでも,ヴィラルドワンの記述を信じるならば当時40万人以上いたとされる首都の人口を考慮すれば,なおビザンツ人の戦意は低く,抵抗は散発的なものと評価するしかなかった。
十字軍に対する約束を果たそうとしたアレクシオス4世の圧政に加え,和平期間中に市内を訪れた十字軍士が,キリスト教徒の都市であるはずなのにイスラム教のモスクやユダヤ教のシナゴーグが平然と建てられているのに驚き,これらの施設を焼き払い異教徒の住民を殺害するなどの蛮行に及んでいたこともあり,前年の戦い当時に比べ住民の反ラテン人感情は相当に高まっていたはずであるが,それでも住民の多くは聖母マリアに守護されたこの首都が武力攻撃によって陥落するはずはないなどと楽観的に考えていたようである。
また,仮に十字軍側が首都に入城し略奪行為を働いたとしても,それは963年にニケフォロス2世配下の軍団が行ったものや,1081年にアレクシオス1世配下のラテン人傭兵部隊が行ったものとせいぜい同程度にとどまるだろうと,やはり楽観的に考えていた節がある。東西教会の対立はあったにせよ,十字軍士たちは自分たちと同じキリスト教徒であり,しかもキリスト教のために異教徒と戦うことを神に誓った者たちであるから,そこまで酷いことはしないだろうと考えるのも無理からぬことではあった。
一方,ダンドロは小競り合いや交渉が続いている間に,着々と総攻撃の準備を整えていたようである。1204年4月に交渉が決裂し,陸側と海側の双方から十字軍による総攻撃が行われた。ヴェネツィア船は2隻ずつ連結されてその攻撃力を増し,総攻撃の4日目にはついにヴェネツィア海軍が城壁の橋頭保を確保した。これを知ったアレクシオス5世は抗戦を断念し,夜闇に紛れて逃亡してしまった。コンスタンティノス・ラスカリスが次の皇帝として兵士たちに擁立されたが,翌日には十字軍による首都侵入が始まり,もはや防ぐ手立てもなかったので,彼もまた首都での抵抗を断念し逃亡した。
コンスタンティノポリスに侵入した十字軍は,ビザンツ人の予想に反し,コンスタンティノポリスの歴史上前例のない規模で,5日間にわたり略奪,破壊と暴行の限りを尽くした。十字軍による略奪の対象は,聖ソフィア教会やそこに立て籠もった聖職者たちさえその例外ではなく,教会の聖遺物や貴重な品々は持ち去られ,持ち帰れない物は容赦なく破壊された。男は聖職者・俗人の区別なく暴行・殺戮の対象となり,女は俗人でも修道女でも強姦の対象となった。競馬場などの歴史的建造物も破壊の対象となり,ビザンツ人が古代ギリシアの遺産として守り抜いてきた彫像の傑作も無惨に破壊された。
コンスタンティヌス1世の建都以来,コンスタンティノポリスは歴代皇帝によって多くの歴史的建造物が造られ,多くの美術品によって飾られていたが,その一部は現代でも西欧の宝物庫に保存されているものの,大半はこのとき失われてしまった。1204年のコンスタンティノポリス劫略については近年徹底的な再検討がなされているが,この劫略によって一体どのくらいのものが失われたのか,おそらく我々が正確に知ることはできないだろう。
ただし,1204年の劫略より,後世の敵がもたらした損害の方が大きかったのではないかなどとする疑問は的外れであり,明らかにこの時,歴史上屈指のとてつもない文明破壊行為が行われたのである。英語にはヴァンダル族の凄惨な第2次ローマ劫略に由来する「ヴァンダリズム」(文化破壊)という用語があるが,十字軍によるコンスタンティノポリス劫略は,まさしくヴァンダリズムの名に相応しいものであった。コンスタンティノポリス劫略を伝えるビザンツ側の史書も,加害者である十字軍側の史書も,大規模な略奪と破壊が行われたこと,火災が加わって被害がさらに増したことは一致して書き残している。そしてビザンツ側の歴史家は,異教徒であるトルコ人でさえもこんな蛮行はしないと,ラテン人たちを激しく非難している。
コンスタンティノポリスにおける十字軍とヴェネツィア人たちの容赦ない略奪・暴行は,彼らがビザンツ人のキリスト教信仰を「異端」と捉えていたことに起因する。ビザンツ帝国においても,バシレイオス1世時代に問題となったパウロ派やアレクシオス1世時代に登場したボゴミール派などは異端として武力討伐や火刑の対象となったが,西欧では異端の発生頻度がビザンツとは比較にならない程多く,異端に対する処罰も苛酷なものであった。
キリスト教徒にとって異端者は,自分たちの信仰がカトリック(普遍的)ないしオルトドクス(正統)なものであるという存在意義を脅かすという意味において,異教徒以上に憎むべき存在であり,異端者を排斥するためなら火刑などの極刑は勿論,残虐な暴行や殺戮行為さえ容認されたのである。
ラテン人によって自分たちの信仰を異端視され暴力的な方法で抑圧されたビザンツ人たちは,必然的にラテン人の信仰を異端として敵視するようになり,このようにして醸成されたビザンツ人のラテン人に対する敵意は,今日まで続く東西教会の分裂をもはや修復不能な状態にまで追いやることになった。
<幕間28>ローマ教皇インノケンティウス3世
コンスタンティノポリス劫略が行われた当時のローマ教皇は,教皇権力の絶頂期をもたらした人物として有名なインノケンティウス3世である。
インノケンティウス3世は,1161年にコンティ家という裕福な伯爵家に生まれ,神学と法学を学んだ秀才として若くして宗教界で頭角を現し,1190年に枢機卿に任命され,1198年に37歳でローマ教皇に選出された。老齢の枢機卿から選出され,在位期間はせいぜい数年程度にとどまることの多い歴代教皇の中で,37歳でローマ教皇に就任し17年間も在位したインノケンティウス3世は,それだけでも異例の存在であった。
卓越した政治力の持ち主であるインノケンティウス3世は,1201年のノイス条約によりイタリアの教皇領を確立したほか,西欧諸国に対し絶大な政治的影響力を発揮した。神聖ローマ帝国では,フリードリヒ1世の末子フィリップとヴェルフ家のオットー4世が帝位を争っており,フィリップが優勢となって事実上帝位を手中にしたが,インノケンティウス3世は彼の勢力伸長を嫌って1208年にフィリップを暗殺し,オットー4世の帝位を承認した。しかし,オットー4世が南イタリアに勢力を拡大すると,1210年にインノケンティウス3世はオットー4世を破門し,自ら後見人として保護していたフリードリヒ2世を皇帝に擁立し,1214年にはオットー4世を退位に追い込んだ。インノケンティウス3世は,なんと神聖ローマ皇帝を2回にわたり廃立したのである。
イングランドでは,国王ジョンとカンタベリー大司教の選任をめぐって対立すると,1209年にジョンを破門した。政治的窮地に追い込まれたジョンは,イングランドを教皇に献上してその封臣となり,教皇庁に年額1000マルクの貢納を約することでようやく赦された。
イベリア半島では,キリスト教の諸勢力が割拠しており,レコンキスタ(再征服)の進行が思わしくないことから,インノケンティウス3世はカスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して戦うよう命じた。これにより組織されたカトリック連合軍は,1212年にナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の軍勢に圧勝し,これによりイベリア半島のイスラム勢力は衰退し,レコンキスタを加速させる結果に繋がった。
フランスで初めて強力な王権を確立し「オーギュスト」の異名を取ったフィリップ2世でさえも,インノケンティウス3世には勝てなかった。フィリップ2世は,2度目の妻であるデンマーク王の娘インゲボルグが気に入らず,1196年に彼女と離婚してバイエルン貴族の娘アニェスと結婚した。前任者である教皇ケレスティヌス3世はインゲボルグの訴えを認めアニェスとの結婚無効を宣言したが,フィリップ2世がなおも抵抗したため,この問題を引き継いだインノケンティウス3世はフランスを聖務停止とした。
1201年になると,イングランドとの戦いでローマ教皇の支持を必要としたフィリップ2世は教皇の命令に屈してアニェスと別れ,失意のアニェスは間もなく死去した。1213年には教皇やデンマーク王の要求に屈してインゲボルグを呼び戻し,王妃として遇した。嫌いな王妃を呼び戻すことを余儀なくされたフィリップ2世は,「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいないサラディンがうらやましい」と愚痴ったという。
このように,破門や聖務停止といった武器を活用して絶大な政治的影響力を振るい,「教皇は太陽,皇帝は月」という有名な演説まで残したインノケンティウス3世であったが,ローマ教皇は自前の軍事力を持っておらず,破門や聖務禁止といった武器が通用しないヴェネツィア人に対しては,インノケンティウス3世も十分な影響力を発揮できなかった。
1198年に自ら行った呼び掛けをきっかけとして始まった第4回十字軍が,資金不足のためヴェネツィア人に操られキリスト教徒の町ザラを攻撃したとき,怒ったインノケンティウス3世は十字軍全員を破門に処したが,後に十字軍士からの弁明を聞き入れ破門を解除した。一方,ヴェネツィア人は破門されても平然としており,教皇への弁明すらしなかった。
その後1204年になり,第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領したとの知らせが届き,その後残虐な劫略の様子を含めた詳しい報告も届いたが,計算高いインノケンティウス3世は,十字軍の行動を非難して自分がその行動を統制できなかった実態を暴露するより,これによってローマ教皇庁の悲願であった東西教会の合同が成ったとして彼らの行為を祝福した方が得策であると考えた。
こうしてインノケンティウス3世は,コンスタンティノポリス劫略の際に行われた残虐行為の報告を敢えて無視して第4回十字軍の「功績」を称賛し,ボードワン1世を正統な皇帝,トマソ・モロシーニを総主教として承認するに至ったのである。
このように,絶大と評されたインノケンティウス3世の影響力にも限界があり,また彼が絶大な影響力を行使できたのは彼自身の類稀な政治感覚に依拠するところが大きく,ローマ教皇なら誰でも彼のような影響力を行使できるわけではなかった。
実際,インノケンティウス3世の後継者たちは,彼を真似て皇帝や王に対し高圧的な態度で臨んだが,神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は十字軍の実施を命じられるとエルサレムを無血で奪還して,エルサレム十字軍への動員という教皇の政治的武器を奪い,教皇グレゴリウス9世から2度にわたり破門され,討伐の十字軍まで送られても屈服せず,逆に教皇の方が追い詰められるに至った。
憎きフリードリヒ2世の息子マンフレディについては,1266年にシャルル・ダンジューの力を借りてようやく打倒することに成功したが,今度は教皇庁がシャルル・ダンジューの影響下に置かれ,その後はフランス王フィリップ4世の影響下に置かれることになった。ローマ教皇は現在でも存続しているが,インノケンティウス3世に匹敵するほどの政治的影響力を行使した教皇は未だ出現しておらず,今後も出現する可能性はほぼ皆無であろう。