第22話 『新しいコンスタンティノス』を目指して

第22話 『新しいコンスタンティノス』を目指して

(1)ラテン帝国の成立と凋落

 1204年のコンスタンティノポリス劫略により,ビザンツ帝国はその首都を失い,一旦は滅亡した。問題とされたのは,誰がコンスタンティノポリスを含むビザンツ帝国の旧領,すなわちロマーニアと呼ばれていた地域を支配下に置き新しい国家体制の樹立に成功するか,換言すれば誰が『新しいコンスタンティノス』(コンスタンティヌス大帝のギリシア語読み)になるかである。
 1204年5月,荒れ果てたコンスタンティノポリスの聖ソフィア教会で,ボードワンなる人物の戴冠式が行われた。この男は十字軍の将の一人で,十字軍に参加する前はフランドル伯兼エノー伯であった。十字軍の総大将は前述したモンフェラート侯ボニファチオであり,当然ボニファチオが皇帝に選出されるかと思われたが,十字軍側6票,ヴェネツィア側6票で行われた新皇帝の選挙は,新しい帝国を自らの傀儡にしたかったヴェネツィア人が最有力候補のボニファチオに敢えて投票せず,ボニファチオに対抗して帝位候補者に名乗りを挙げていた泡沫候補のボードワンに6票を投じ,ボードワンも自らに投票したことで彼の皇帝即位が実現したのである。ヴェネツィア人はボードワンに恩を売ることで,新しい帝国を自分の意のままに操ろうと企んだのである。
 亡きイサキオス2世の皇后だったマルギトを妻に迎えて皇帝になる気満々だったボニファチオは,テッサロニケの地を与えられてテッサロニケ王を名乗るにとどまった。ビザンツ帝国の支配下にあった土地の8分の3はヴェネツィア共和国の領有権が認められ,ヴェネツィアはクレタ島をはじめとする島々や,ヴェネツィアの海軍や商船の拠点に適した土地を取得し,アンゲロス朝以前の時代には認められていなかった黒海沿岸への進出も果たした。首都コンスタンティノポリスの8分の3もヴェネツィアの領有となり,ヴェネツィア共和国の元首は「ロマーニャの4分の1と8分の1の元首」という肩書も名乗ることになった。
 それ以外の土地については,4分の1が皇帝ボードワンの直轄地とされ,残りはニケーアがブロワ伯ルイに,フィラデルフィアがペルシュ伯の息子エティエンヌにという具合で,ボードワンに仕える十字軍の将たちに分け与えられた。これらの諸侯は地位に応じて領地を受け取り,その見返りとして求められれば従者たちを率いて皇帝軍に馳せ参じるものとされた。コンスタンティノポリス総主教にはヴェネツィア人のトマソ・モロシーニが就任した。
 こうした新体制によって発足した国家は,歴史上「ラテン帝国」と呼ばれるが,これは明らかにギリシア側からの呼び名であり,彼ら自身はロマーニア帝国などと自称していたようである。相当数のビザンツ人も,発足当時はラテン人の新政権を歓迎した。彼らはフランス人,イタリア人といった外国人であったが,彼らが無能なアンゲロス朝の皇帝たちに代わり帝国防衛の任をきちんと果たしてくれるのであれば,彼らの代表であるボードワンを「ローマ人の皇帝」として認めるにやぶさかではなかった。
 しかし,発足したばかりのラテン帝国は,こうしたビザンツ人たちの期待を見事なまでに裏切った。彼らは軟弱な「ギリシア人」を軽蔑し,軍事面はおろか行政面でもビザンツ人の登用を拒否し,彼らを新政権から排除した。宗教面でもビザンツ人たちの宗教的伝統に全く配慮することなく,総主教トマソ・モロシーニへの服従を強制した。
 ラテン人とビザンツ人の宗教的差異は多岐にわたっており,ラテン人の聖職者は騎士たちと同様に戦う者が多いのに対し,ビザンツ人の聖職者が武器を持って戦うことは教会法で明確に禁じられており,戦う聖職者などあり得ないものだった。東方教会では,聖職者でも司祭以下の役職にある者は結婚が認められているのに対し,西方教会では原則すべての聖職者が妻帯不可であった。ラテン人たちは妻帯しているビザンツ人聖職者を非難する一方,ビザンツ人はラテン人聖職者の多くが妾を囲っており,彼らの規律は全く意味が無いと反論した。
 「フィリオクエ」問題に加え,聖体拝領の際に使用するパンに酵母を入れるか入れないかという問題もあった。西方教会では酵母を入れず,パンというよりは焼いた餅というべき食べ物を使用したが,東方教会では酵母を入れた普通のパンを使用しており,双方とも古くからの神学的根拠を主張していたため,これも相容れない問題だった。
 正確に何時から始まったかは不明だが,東方教会では自らのキリスト教をカトリックではなく「オルトドクス」(正統)と称するようになり,西方教会との関係が悪化するにつれて,むしろカトリックとの違いを積極的に鮮明化するようになっていた。もはやカトリックではなくギリシア正教と呼ぶべき東方世界のキリスト教とカトリックとの違いは,礼拝の作法といった細かいものも含めると枚挙に暇がないほどであり,いずれもラテン人による強制は,ビザンツ人の反発と憎悪を引き起こすものだった。
 新皇帝となったボードワン1世(在位1204~1205年)は,こうした反抗的なビザンツ人を統治していかなければならないという問題の他,テッサロニケ王ボニファチオとの反目といった内部的問題も抱えていた。そんなラテン帝国唯一の強みは,勇敢な元十字軍士たちに支えられた強い軍事力であったが,彼らの不敗神話は,ラテン帝国発足後わずか1年で崩れ去ることになる。
 1205年,アドリアノポリスのビザンツ人がラテン帝国に反旗を翻し,ラテン人の守備隊を殺戮した。ブルガリア王カロヤン(第2次ブルガリア王国を建国したペタルとアセン,すなわちペタル4世とイヴァン・アセン1世の弟にあたる人物)が彼らに味方し,クマン人の弓騎兵を率いてやってきた。反乱軍の鎮圧にやってきたボードワン1世率いるラテン帝国軍とカロヤン率いるブルガリア軍はアドリアノポリスの郊外で激突したが,ラテン人たちは羊の皮で出来た粗末な衣に小さな弓しか持たないクマン人をなめてかかっており,攻撃するなという命令が出ていたにもかかわらず,ラテン人の騎士たちはまっしぐらに突撃した。その結果,見せかけの退却の後突如反転して,追撃してくる敵に矢の雨を降らせるというクマン人得意の戦術にはめられてしまったのである。
 この戦いでブロワ伯ルイと,ペルシュ伯エティエンヌは戦死。皇帝ボードワンは捕らえられてブルガリアの首都タルノヴォへ連行され,それきり消息を絶った。おそらく,戦闘での傷がもとで獄死したものと推定されているが,彼に恨みを抱いていたビザンツ人の歴史家たちは,彼の最期について創作ないし大幅な脚色を加えて様々に書き残している。
 一例を挙げると,捕らえられたボードワン1世は,ブルガリア人の好色な女王(誰のことかは不明)に誘惑されたが,貞潔な彼はその誘いを拒絶して女王の妬みと敵意を買い,その結果彼は両手両足を切断され,血だらけになった彼の胴体は犬や馬の死骸とともに投げ棄てられた挙句,猛禽の餌食になって食い尽くされるまで3日間呼吸をしていたという。無論明らかな作り話であるが,ラテン人に対する恨みが骨髄に達している当時のビザンツ人は,憎きラテン人皇帝ボードワン1世の最期を念入りに悪く書くことで,せめてもの憂さ晴らしをしていたのであろう。
 ともあれ,この大敗によってラテン帝国の威信は早くも地に落ち,各地ではビザンツ人の亡命政権が次々と樹立され,ラテン帝国の支配は首都コンスタンティノポリスといくつかの主要都市程度にしか及ばなくなった。ラテン帝国の皇帝が『新しいコンスタンティノス』になる可能性は早くも絶たれた。
 もっとも,ボードワン1世はおそらく死んだということで,1206年にその弟アンリ・ド・エノー(在位1206~1216年)が皇帝に即位すると,状況は一時好転した。アンリは有能な人物であり,兄の政策から一転してビザンツ人に寛容な姿勢を示し,カトリックへの改宗も強要しなかった。一方,ビザンツ人がこの頃「ブルガリア人殺し」と呼んでいたかつての皇帝バシレイオス2世に対抗して,「ローマ人殺し」を自称していたブルガリア王カロヤンのビザンツ人に対する暴虐ぶりがあまりに酷かったので,カロヤンに対抗するためアンリに従うビザンツ人が増えたのである。
 皇帝アンリは,テッサロニケ王ボニファチオ1世とはその娘を娶ることで和解し,ビザンツ帝国に反旗を翻していたテオドロス・マンカファースは1206年にアドラミュティオンの戦いでアンリに撃破され,レオン・スグーロスの軍はテッサロニケ王ボニファチオの軍によってアクロコリントスの要塞に封じ込められ,5年後にスグーロスは絶望のあまり,断崖から馬ごと飛び降りて自害した。アンリは,ビザンツ人の亡命政権であるエピロスやニケーアとも有利な条件で講和を結ぶことに成功した。
 ただし,テッサロニケ王ボニファチオ1世は,1207年にカロヤンとの戦いで戦死してしまう。彼の死に方も要するにボードワンと大差ないもので,逃走するブルガリア軍を自ら深追いして退路を断たれ,敵の罠にはまってしまったのである。ラテン帝国の建国に貢献した十字軍の将たちは,勇敢だが猪突猛進的な輩が多く,冷静で有能と目される人材は,アンリの他にはラテン帝国の家令兼アカイア公爵となったヴィラルドワンくらいしかいなかった。
 ボニファチオ死後のテッサロニケ王国は彼の幼い息子が後を継ぎ,王国は急速に弱体化する。アンリも自らの国の防衛で精一杯であり,テッサロニケ王国の救援までは手が回らなかった。アンリは1216年に死去し,死因はギリシア人による暗殺とも伝えられるが,彼はカトリックを奉ずるラテン人とギリシア正教を奉ずるギリシア人との板挟みとなり,外政面ならず内政面でも相当に苦労したのだろう。
 アンリが亡くなると,強力な指導者を失ったラテン帝国は急速に衰退へと向かう。アンリの後継者に指名された妹婿のピエール・ド・クルトネは,コンスタンティノポリスへ向かう途中でエピロスの軍勢に捕らえられ,その長男フィリップは火中の栗を拾うようなラテン皇帝就任を拒否したため,ピエールの後を継いだのは次男ロベールであったが,彼はラテン帝国の弱体化に為す術なく,家臣たちからも軽んじられる皇帝の仕事が嫌になってローマへ脱出し教皇に泣きついたが,教皇からは元の地位へ戻るよう冷ややかに勧説されただけで,結局失意のうちにローマで死去した。
 帝位を継いだのはロベールの末弟,ラテン帝国最後の皇帝となったボードワン2世(在位1228~1261年)である。彼はその治世の大半を西欧諸国への援助要請に費やし,ラテン帝国はヴェネツィアの援助で辛うじて生き延びている状態であった。1261年,コンスタンティノポリスはミカエル8世により奪回され,ラテン帝国は滅亡した。
 ただし,ラテン帝国の封臣テッサロニケ王の傘下で,オトン・ド・ラ・ロッシュによって創始されたアテネ公国は,アッティカ地方などを支配する十字軍国家として,アラゴン,フィレンツェ,ヴェネツィア,ビザンツ帝国傘下のモレア専制公など次々に支配者が代わりつつも,1456年にオスマン帝国に併合されるまで存続した。
 また,ジョフロワ1世・ド・ヴィラルドワンらによって建国され,南ギリシアのペロポネソス半島を統治した十字軍国家であるアカイア公国も,1278年にシャルル・ダンジューの支配下に入り,その後様々な冒険家や戦闘集団が入り込んでいくつかの勢力に分割され,最終的にはジェノヴァ人貴族ザッカリア家に支配されるなど幾度か支配者を代えつつ,1432年にビザンツ帝国によって併合されるまで存続した。
 一方,ビザンツ帝国を自らの傀儡国家ラテン帝国に取って代えたヴェネツィア人は,これによって大きな利益を得た。クレタ島をはじめとするビザンツ帝国の旧領は,東地中海におけるヴェネツィアの制海権を確固たるものとするのに大きく役立ったし,コンスタンティノポリスとその対岸ガラタを自分たちの確固たる拠点とした上で,ビザンツ帝国時代には認められていなかった黒海方面への進出も果たした。
 黒海方面への進出の効用は,単にロシアなど黒海沿岸の国々と直接交易できるというものにとどまらなかった。やがてモンゴル帝国がロシアを制圧し,西洋と東洋にまたがる大帝国を築き上げると,各国の商人たちはモンゴル帝国の許可証さえもらえば,広大な帝国の領内をかつてないほど自由かつ安全に通行し,自由に商売し富を築くことが出来た。その恩恵に最も大きく与ったのはウイグル商人であったが,黒海進出を果たしていたヴェネツィア商人もその恩恵に与り,かくしてヴェネツィア人の活動範囲は遠く中国にまで及び,かの有名なヴェネツィア人旅行家マルコ・ポーロを輩出するに至ったのである。

(2)ビザンツ人による亡命政権(トレビゾンドとエピロス)

 コンスタンティノポリス劫略後,ビザンツの帝位継承権を主張できる立場にある者が各地で亡命政権を立てた。その主なものはニケーア,エピロス,トレビゾンドであるが,後にコンスタンティノポリス奪回に成功したことで正統性を獲得したニケーア亡命政権については第4項で語るものとし,ここでは残るトレビゾンドとエピロスの亡命政権について触れておくことにする。
 黒海沿岸のトレビゾンドでは,1204年,コンスタンティノポリスから脱出してきたアレクシオス・コムネノス(アンドロニコス1世の孫)が亡命政権を樹立し,コムネノス王朝の本流を継ぐものとして,「メガス・コムネノス」(大コムネノス家)と称した。
トレビゾンドの専制公を名乗ったアレクシオス1世は,妻の実家であるグルジア女王タマルの援助を受けて,亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いを見せたが,ニケーアの亡命政権と対立して西上を阻止される。1214年にはルーム・セルジューク朝と戦って皇帝自身が捕虜になるという大敗を喫してしまい,スルタンに臣従するという条件で存続は許されたものの,シノーペを失って黒海沿岸の一地方政権に転落し,『新しいコンスタンティノス』をめぐる競争からは早期に脱落した。
 君主の称号も,一時期皇帝を名乗ったものの,1282年にはミカエル8世の要請により「ローマ人の皇帝」という称号を放棄して再び専制公を名乗るようになる。国家としては小国であり,概ねルーム・セルジューク朝やその他のイスラム国家の属国として細々を生き残ることを余儀なくされたが,トレビゾンドは東西交易路の中継地として栄え,商業による税収があったとか,ポントス・アルプスの銀鉱山からもかなりの収入を得ていた。トレビゾンドは次第に「トルコ人の土地」と呼ばれるようになった小アジアの中でビザンツ人に残された飛び地として,ギリシア正教やギリシア語などのギリシア文化を保持し続けた。
 トレビゾンドの歴代君主たちは,コンスタンティノポリスを模倣してトレビゾンドの地に宮殿や教会,修道院を建設しており,『トレビゾンドの塔』というローズ・マコーリーの小説は,絵のような美しさを誇るトレビゾンドのロマンチックな眺望から着想を得た作品である。13世紀半ばのマヌエル1世によって建設された聖ソフィア教会は,後に建て増しされ,今日でも見事なフレスコ画や外壁に掘られた装飾を見ることができる。
 トレビゾンド帝国は1461年,オスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされるが,住民のギリシア文化はオスマン帝国の統治下でも保持され,後に彼らは「ポントス人」と呼ばれることになる。
 一方,ギリシア西岸の町アルタでは,イサキオス2世の従兄弟にあたるミカエル1世コムネノス・ドゥーカスが,1205年に亡命政権を樹立していた。建国当初はテッサロニケ王国に臣従しながら地歩を固めていたが,1210年夏には反旗を翻してギリシア北西部のエピロス地方を占領し,東方のニケーア帝国と並ぶ一大勢力に成長した。歴史上,この国は「エピロス専制公国」と呼ばれている。
 1215年にミカエルの跡を継いだ弟のテオドロスは,ラテン帝国の皇帝となったピエール・ド・クルトネをアルバニアの山中で捕らえるなど軍事的に活躍し,1224年にはテッサロニケ王国を滅ぼし,テッサロニケで皇帝を称した。テオドロスは1225年にアドリアノポリスも占領するが,コンスタンティノポリスを奪還するため背後を固めようとしてブルガリアに遠征し,1230年にクロコトニツァの戦いで壊滅的な敗北を喫し,テオドロス自身も捕虜となってしまう。
 この敗戦で領土の大半を失い権威を失墜したエピロスは,テオドロスの弟マヌエルと息子ヨハネスとの権力争いで分裂するなどしてさらに勢いを失い,1242年にはヨハネスが「ローマ人の皇帝」の称号を放棄して,ニケーア帝国の皇帝ヨハネス3世から専制公(デスポテース)の称号を授かり,ニケーア帝国の宗主権を認めることになった。こうして,エピロスも『新しいコンスタンティノス』への挑戦権を失ったのである。
 1259年,エピロスは十字軍勢力と同盟を結んでニケーア帝国と戦ったが惨敗し,1264年にはミカエル8世が再建したビザンツ帝国の影響下に置かれる。その後はテッサリアとエピロスに分裂するなど内紛を重ねて衰亡の一途を辿り,ビザンツ帝国に対する抵抗も,せいぜい陰謀を企むくらいのことしかできなかった。アンゲロス家の家系は14世紀前半に断絶し,エピロスは女系でアンゲロス家に連なるケファロニア伯オルシーニ家の支配するところとなるが,1340年にはビザンツ帝国に併合されて一旦滅亡した。
 その後,旧エピロスの領土がセルビア王のステファン・ドゥシャンに占領されると,エピロス最後の支配者だったニケフォロス2世はビザンツ帝国を離れて一時エピロスを再興するも,1359年にニケフォロスがアルバニア人と戦って敗死すると,この地はギリシア人とセルビア人,アルバニア人の係争地域となって混乱が続き,テッサリアは1393年,オスマン帝国に征服された。
 一方,エピロス北部のヨアニナ地方は,オルシーニ家の血縁でケファロニア伯家を継いだトッコ家により獲得・統一されるが,1449年にオスマン帝国によって征服された。一般的には,この1449年をもってエピロス専制公国は最終的に滅亡したとされている。
 エピロス専制公国の都となったアルタは,コンスタンティノポリスを模倣した宮廷や行政組織が供えられ,歴代専制公の支援により修道院や教会も建てられ,芸術家や学者たちも集められ,ビザンツ的な文化都市として栄えた。アルタにおけるビザンツ文明の最も美しい記念碑的な存在とされるは,1290年頃に建設されたパナギア・パレゴレティッサ(安らぎの聖処女)教会であり,5つのドームを持ち高くそびえるこの建築物は,列柱によって支えられた三層構造の上に,パントクラトール(全能)のキリストのモザイクが描かれた中央ドームがあり,壁面は中二階まで大理石で覆われている。いくつかの浮彫画は西欧風ないしロマネスク様式を示しているが,教会の内部は紛れもないビザンツ様式である。

(3)第2次ブルガリア王国

 ビザンツ人ではないが,この時期に『新しいコンスタンティノス』をめぐる争いに加わっていた勢力として,第2次ブルガリア王国の存在も忘れてはならない。
 第2次ブルガリア王国の開祖となったペタル4世とイヴァン・アセン1世の兄弟が,ブルガリア人ではなくワラキア人であったことはイサキオス2世の項目で述べたが,ワラキアはモルダヴィア,トランシルヴァニアと共に現代のルーマニア(「ローマ人の国」を意味する)を構成する地域であり,その発祥は古代ローマ帝国が属州ダキアを置いていた時代にローマ化したダキア人の末裔とする説と,バルカン方面からローマ人が北上して移住したとする説に分かれているが,いずれにせよ彼らの言語はラテン語系列に属し,自分たちはローマ人の末裔だという意識を持っている民族であった。そのためか,第2次ブルガリア王国の歴代諸王は,ローマ人の都であるコンスタンティノポリスに対する憧れが強かった。
 建国成ったばかりのブルガリア王国を共同で統治していたペタル4世とイヴァン・アセン1世が相次いで亡くなると,彼らの弟カロヤン(在位1197~1207年)が王位に就いた。カロヤンは十字軍の指導者であった初代ラテン皇帝ボードワン1世,初代テッサロニケ王ボニファチオを相次いで敗死させるなどかなりの戦闘巧者であったが,ビザンツ人に対しても暴虐行為を働いた。
 かのバシレイオス2世が「ブルガリア人殺し」と呼ばれるようになったのに対抗して,カロヤンは「ローマ人殺し」と自称したとも伝えられている。カロヤンのこのような姿勢が,かえってボードワン1世の後を継いだラテン皇帝アンリの許に多くのビザンツ人を集める結果になったことは前述のとおりである。
 カロヤンの死後,第2次ブルガリア王国はイヴァン・アセン2世(在位1218~1241年)の許で最盛期を迎えた。彼はカロヤンと違って温和な性格であり,ニケーアのビザンツ人歴史家は彼のことを「自国民に剣をふりあげず,ビザンツ人の血で自身を汚さなかった」と称賛している。
 イヴァン・アセン2世は,1230年に皇帝を称していたエピロスのテオドロス・コムネノスを捕らえ,エピロスから多くの領土を奪うと,1235年にはニケーアのヨハネス3世と同盟して,コンスタンティノポリスの攻略を図る。結果的にこの攻略は失敗に終わったものの,当時「第2のコンスタンティヌス」に一番近い存在であったのは,このイヴァン・アセン2世であった。
 しかし,イヴァン・アセンの死後,ブルガリア王国は急速に衰え始める。バトゥ率いるモンゴル軍は,ロシアのキエフ公国を滅ぼし,ポーランドとマジャルを席巻し,オゴタイ・ハーン死去の報を聞いて引き返す途中,ついでとばかりにセルビアを荒し,ブルガリアをも席巻したのである。このときブルガリアは貢納を課され,ロシア方面に定着したジョチ・ウルスの支配下に置かれた。
 なお,ジョチ・ウルスとはチンギス・ハーンの長男ジュチの子孫たちがロシア方面に定住して成立した国家で,キプチャク・ハン国または黄金のオルドとも呼ばれている。東方のモンゴル高原を本拠地にしていたモンゴル帝国本家の宗主権は一応認めていたが,本拠地がはるか遠方ということもあり,成立当初より本家からは半独立状態にあり,13世紀後半にハイドゥの乱でモンゴル帝国の分裂が決定的になると,ジョチ・ウルスも完全な独立国となった。ジョチ・ウルスは分割相続制であったため一族間の勢力争いが次第に激しくなり,早くも14世紀には弱体化が始まった。
 モンゴルへの従属を余儀なくされて国力が衰退し,コンスタンティノポリスもミカエル8世に奪回されビザンツ帝国が再興されても,ブルガリア王国の政治的野望と理念自体は無くならなかった。ブルガリア王イヴァン・アレクサンドル(在位1331~1371年)は,さすがにコンスタンティノポリスの奪取は無理であると悟っていたが,自らの首都タルノヴォを「新しいコンスタンティノポリス」と位置付けて,自らの支配を理念的に高めようとしたのである。後世のロシア人がモスクワを「第三のローマ」と位置付けたのと似たような発想である。
 もっとも,既に相当弱体化していたブルガリアは,バルカン半島に進出してきたオスマン朝の前に無力であった。1371年にキリスト教連合軍がマリツァ川の戦いで敗れると,ブルガリアはオスマン朝の属国となり,さらに1393年にはバヤジッド1世によって首都のタルノヴォが陥落し,これにより第2次ブルガリア王国は歴史から姿を消した。
 第二次ブルガリア王国の旧都タルノヴォは,現在でも観光地として知られており,町の旧市街にあるツァレヴェッツの丘はブルガリアの王族や大主教が住んだ宮殿の跡で,現在は土台のみ残る城壁跡が広がっている。緑に囲まれた丘の頂上には大主教区教会が建っており,教会内の壁一面に描かれた暗い色調と硬い筆遣いのフレスコ画が,歴史的な緊張感を現在でも伝えている。

(4)ニケーア帝国

「帝国奪還を誓った聖戦士」テオドロス1世ラスカリス

 後にコンスタンティノポリスの奪還に成功し,ビザンツ帝国の正統な後継者と認められることになったニケーア帝国の建国者となったのは,テオドロス1世ラスカリス(在位1206~1222年)である。
 ラスカリス家はビザンツ帝国の大貴族であり,コンスタンティノポリスの攻防戦で奮戦し名を挙げた。テオドロスは,1199年にアレクシオス3世の娘アンナ・アンゲリナと結婚し,アンゲロス家の娘婿になっている。
 テオドロスの兄コンスタンティノスは,コンスタンティノポリス劫略直前になって皇帝に擁立される(彼は在位期間の短さから「一夜皇帝」と称され,皇帝として正式に戴冠されたわけでもないことから,歴代ビザンツ皇帝には通常数えられていない)も,首都陥落に際し小アジアへ逃亡し,ニケーアで亡命政権を樹立した。テオドロスは,ニケーアへ亡命した当初は皇帝を名乗っておらず,1205年にはトレビゾンドから西進してきた大コムネノス家のダヴィド(アレクシオスの兄弟)を退け,フリギアで独立政権の樹立を図っていたマヌエル・モウロゾメスを破り,武名を高めた。
 テオドロスは,皇帝の称号を辞退した兄コンスタンティノスに代わって,1206年に皇帝を名乗り,1208年には前コンスタンティノポリス総主教を招こうとするも不首尾に終わったため,宗教会議を開いて新たな総主教を選出させ,その新総主教ミカエル4世の手によってニケーアで戴冠された。なお,コンスタンティノスが帝位を辞退した理由は明らかでないが,ヴィラルドワンの記録によると彼は1205年頃にアンリと戦って敗れており,その影響である可能性が高い。コンスタンティノスは,1211年頃に死亡したとされる。
 テオドロス1世の戴冠式では,ビザンツ帝国の伝統的な儀式に加え,塗油という新たな儀式も行われた。テオドロスは塗油によって自らを旧約聖書のダヴィデになぞらえ,自らの地位は神に由来するものであると宣言し,コンスタンティノポリス奪還を誓ったのである。
 また,彼の即位時に行われたか否かは不明であるものの,ニケーア帝国では新皇帝を楯に乗せて臣下たちの歓呼を受ける風習も復活しており,後述するテオドロス2世の即位時には,この風習に基づく儀式が行われたと年代記は記している。楯に乗って歓呼を受ける即位の儀式が行われたのは,4世紀の背教者ユリアヌスが最初の例であり,602年の簒奪者フォカスを最後に途絶えていたが,有力貴族たちが担いだ楯に皇帝が乗って歓呼を受けるというニケーア帝国の儀式は,貴族たちの代表者たる皇帝と貴族たちとの関係を深めるという意味合いが込められていたものと推測される。
 建国したばかりのニケーア帝国は,1206年に即位したラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーの打倒運動をしぶとく続け,1209年にはブルガリア王カロヤンと同盟した。1210年には,帝位奪還を狙う義父アレクシオス3世に唆されたルーム・セルジューク朝のスルタン,カイホスロー1世をマイアンドロス河畔の戦いで戦死させ,アレクシオス3世を捕虜にすることで,テオドロスはその威信を高め帝位を確定させた。もっとも,その後に続いたラテン帝国との戦いは決着が付かず,1214年にはラテン帝国と和睦を結び,国境を確定させた。
 彼の治世には,ビテュニアから小アジアに領土を広げた。テオドロス1世の治世は戦争続きであったため,彼の政治家としての資質は必ずしも明らかではないが,彼の度胸と武勲によって,ニケーア帝国は生き延びることが出来ただけでなく,ラテン帝国の侵入に反撃することもできるようになったのである。ギボンの記すところによると,テオドロス1世は挙兵当時わずか3つの都市と2000の兵士を指揮するだけであったが,勝利は勿論敗北からも彼の名声は高まり,彼の許には多くの兵が集まってニケーアを一帝国と呼べる規模にまで拡大させたという。
 テオドロスは,最初の妻であるアンナ・アンゲリナとの間に二人の娘をもうけ,長女イレーネはヨハネス・ドゥーカス・ヴァタツェスと結婚し,次女マリアはマジャル王ベーラ4世に嫁いだ。1212年にアンナが亡くなると,アルメニア王ルーベン3世の娘フィリッパと再婚し息子コンスタンティノスをもうけるが,この結婚は宗教上の理由から無効とされ,コンスタンティノスは廃嫡された。1219年にはラテン帝国の皇女マリー(ボードワン1世の妹婿で第3代皇帝となったピエール・ド・クルトネの娘)を妃に迎えるが子宝には恵まれず,結局テオドロスが1222年に死去すると,帝位は娘婿のヨハネス・ドゥーカス・ヴァタツェスに受け継がれた。

「帝国を再興に導いた聖人」ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス

 テオドロス1世の跡を継いでニケーア帝国の皇帝となったヨハネス3世(在位1222~1254年)は,1193年に生まれ,優秀な軍人として名を馳せていたことから,テオドロス1世の娘イレーネの婿に選ばれ,ニケーア帝国の後継者となった。
 ヨハネス3世は軍事のみならず内政面でも傑出した能力を発揮し,ビザンツ帝国時代の名残が残っていた行政組織を再編したほか,小アジアの地勢を考慮して農耕と牧畜,養鶏を組み合わせた農業振興策を成功させ,福祉施設の建設などにも力を入れる善政を敷いた。
 もっとも,コムネノス王朝時代に導入されたプロノイア制はニケーア帝国でも存続・発展しており,ニケーア帝国に仕えた貴族たちは軍役奉仕と引き換えに免税特権を与えられており,河川の漁業権もプロノイアとして与えられ,皇帝の直轄領は当初わずかなものに過ぎなかった。
 ヨハネス3世はこのような現状を認めつつ,相次ぐ戦乱で住民のいなくなっていた土地の多くを皇帝の直轄領としてその経営に尽力することで,ニケーア帝国の経済発展を成し遂げたのである。ヨハネス3世は国内産業を保護するため外国製品の輸入抑制政策を採っており,皇后にダイヤモンドと真珠の散りばめられた宝冠を渡す際には,この貴重な装飾は無数の鶏の卵を販売して得られたものだ,と微笑しながら言い添えたというエピソードもある。
 外政面では,東方のルーム・セルジューク朝とは生涯にわたり友好的な関係を維持して東部の前線を防衛し,実質的な首都を小アジア西部のスミルナに近いニュンフェイオンに移し,ヨーロッパ側への領土拡大に乗り出していった(ただし,総主教座は引き続きニケーアに置かれた)。海ではラテン帝国を脅かして領土をロードス島にまで広げ,陸ではフランス人の傭兵を投入してラテン帝国軍を敗走させた。
 1235年,ヨハネス3世は同じくコンスタンティノポリス奪回を狙っていたブルガリア王イヴァン・アセン2世と同盟して,コンスタンティノポリスを攻囲したが,ラテン帝国は窮地を脱するため,元エルサレム王で老齢ながら武名の誉れ高いジャン・ド・ブリエンヌを一代限りの共同皇帝(ジャン1世,在位1231~1237年)に迎えており,ブリエンヌやその配下の騎士たちの奮戦もあって,攻囲は失敗に終わった。
 しかし,エピロスなどの諸侯に宗主権を認めさせることには成功し,1246年にはテッサロニケを奪取するなど,コンスタンティノポリス周辺の大部分を支配下に収めた。一方のラテン帝国は,ジャンが亡くなった後はヴェネツィアの援助によって辛うじて首都を維持している状態であった。1254年に彼が亡くなったときには,まさにコンスタンティノポリス奪回まであと一歩のところまで迫っていたのである。
 このように,ニケーア帝国はヨハネス3世の治世下で,レパントで最も豊かな強国としての地位を確立したが,その背景には様々な外部的要因も絡んでいた。ラテン帝国が実質的にはヴェネツィアの傀儡国家であったことは既に述べてきたとおりであるが,地中海商業におけるヴェネツィア最大のライバルであったジェノヴァは,ヴェネツィアに対抗するためニケーア帝国に接近した。もっとも,ニケーア帝国はヴェネツィアとも通商条約を締結しており,外交関係はそう単純なものではなかった。
 モンゴル帝国の侵攻もニケーア帝国には追い風となった。1230年代には,チンギス・ハーンの孫バトゥを総大将とするモンゴル軍がロシアと東欧諸国を席巻した。ニケーア帝国にとって最大のライバルであったブルガリア王国は,前述のとおりイヴァン・アセン2世(在位1218~1241年)の治世下で最盛期を迎えたが,彼の死後ブルガリアはモンゴル帝国の攻撃を受けて衰退し,ジョチ・ウルスの従属国となった。
 ブルガリアの衰退によって,ニケーア帝国はブルガリアから領土を奪うなど大きな利益を受けたほか,1237年にモンゴル軍から逃れてきたクマン人の一団がブルガリア王国の領土を通過してマケドニアまで逃れてきた(ブルガリア王国は彼らによっても大きな打撃を受けた)とき,ヨハネス3世は彼らを招き入れて小アジアのマイアンドロス渓谷に住まわせ,ニケーア帝国軍の重要な構成要素とした。
 クマン族以外にも,ヨハネス3世の軍には多くの外国人兵士がいた。ノルマンディーやロンバルディア出身のラテン人たちは,フランドル出身のラテン皇帝やヴェネツィア人などとは一線を画しており,きちんと給料を支払えばニケーア帝国にも充実に仕えてくれることをビザンツ人は承知しており,その期待は裏切られなかった。
 さらに,東方のルーム・セルジューク朝に対しては,モンゴル帝国の将軍バイジュ・ノヤン(チンギス・ハーンに仕えた名将ジェベの同族と伝えられている)が攻撃を掛け,1243年にキョセ・タグの戦いでカイホスロー2世の軍を破り,以後ルーム・セルジューク朝はモンゴル帝国への従属を余儀なくされた。ルーム・セルジューク朝はモンゴルの侵入で国力が衰退したのみならず,農業が壊滅的被害を受けたため食料を輸入に頼らざるを得なくなり,ニケーア帝国は東方にも商圏を広げることが出来たのである。
 ヨハネス3世の時代には,東西教会分裂の解消に向けた議論も進められた。西欧の托鉢修道士たちの率いる使節がニケーアとコンスタンティノポリスを行き来し,議論を重ねた。ビザンツ人から見ると,托鉢修道士は他のラテン人と異なるように思われた。清貧や敬虔さといったキリスト教の理想に満ちており,十字軍に参加した聖職者たちと異なり,武器を取って戦いに加わることもなかった。ギリシア正教の神学を言下に否定することも無く,何とか東西教会の融和を試みているようであった。
 ローマ教皇は新たな公会議を認めはしなかったものの,予備的な対話は支援しており,ヨハネス3世はこうした交渉を指導し,その議長として大きな役割を果たした(こうした交渉はテオドロス2世の時代にも行われている)。こうした議論は,後年試みられる教会合同のお膳立てとなっている。
 ヨハネス3世は,イレーネとの間に長男テオドロス(1221年生)をもうけるも,イレーネは落馬事故がきっかけでそれ以上子を産むことができなくなったので,修道院に入って余生を送った。ヨハネス3世は後妻として,神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子コンスタンツェ(結婚に伴いアンナと改名)と再婚するが,彼女との間には子宝に恵まれなかった。
 ヨハネス3世の死後は,息子のテオドロス2世が継いだ。ヨハネス3世は死後50年経って,東方正教会から聖人に列せられている。そんなヨハネス3世が犯した唯一の悪徳とされている行為は,再婚相手のアンナがまだ年頃になっていなかったため侍女のイタリア人女性を空閨に入れ,愛人となった彼女に栄誉ある地位を与えたため,修道士たちからこれを大それた堕地獄の罪と指弾されたというものであるが,マヌエル1世も多くの愛人を作り庶子をもうけていたと伝えられているし,相手を自由に選ぶのが当たり前だった中世の君主としては,むしろましな方であろう。
 ヨハネス3世は,自らの治世下でコンスタンティノポリス奪還を果たすことは出来なかったが,後にミカエル8世によって達成されたビザンツ帝国再興の少なくとも半ば以上が,名君ヨハネス3世の功績あってのことである旨の評価は概ね一致している。

「文人の顔を持つ暴君」テオドロス2世ラスカリス

 1221年に生まれ,1254年に父の後を継いで皇帝となったテオドロス2世(在位1254~1258年)は,正統性を強く主張するためか,父の姓ではなく母の姓であるラスカリスを名乗った。彼はブルガリア王イヴァン・アセン2世の娘エレナと結婚し,息子ヨハネス(後のヨハネス4世)をもうけている。
 テオドロス2世の治世はわずか4年間程度という短いものであったが,彼は優れた文人として多くの著作を残しており,ギリシア古典に強い関心を示したほか,彼の治世に関する史料も比較的多く残っていることから,歴史家の彼に対する注目度は意外と高く,彼を皇帝として優れた才能の持ち主であったと評価する者もいる。
 たしかに,テオドロス2世は,父から受け継いだ悲願であるコンスタンティノポリス奪回を果たすため,日夜政務に取り組んだ(と彼自ら記している)が,彼の言動や政策には驕りや時代錯誤的な風潮がみられ,筆者としては彼を文人としてはともかく,皇帝として優れた才能の持ち主と評価する気にはなれない。
 テオドロス2世は1255年頃,軍事に関する計画を記した書簡を認めており,その中で外国人傭兵は信頼できない,外国人ではなく「ヘレネス」からなる軍隊を編成するつもりである,「ヘレネス」のみが頼れる存在である,などと書いている。キリスト教がローマ帝国・ビザンツ帝国の国教となって以来,かつてギリシア人の自称として使われていた「ヘレネス」という用語は異教徒を示す侮蔑的用語に変わっていたが,1204年のコンスタンティノポリス劫略を契機に反ラテン人感情が高まると,ビザンツ人たちは自らを「ヘレネス」と呼ぶようになり,この事件をビザンツ側から記した歴史家のニケタス・コニアテスもこの点を端的に述べている。
 しかし,彼の治世下においても軍の主力は相変わらずラテン人の傭兵部隊であり,テオドロス2世の手紙は全くの夢想であった。彼の父ヨハネス3世もラテン帝国に対抗するため自らを「ヘレネス」の子孫であると称してはいたが,皇帝がここまで非現実的かつ極端な「ヘレネス」至上主義を唱えるようでは,彼に仕えるラテン人の兵士たちはどのような思いを抱いたであろうか。
 帝国を支える貴族たちとの関係についても,テオドロス2世は大きな過ちを犯した。祖父のテオドロス1世や父のヨハネス3世は,コムネノス王朝時代にはじまった貴族連合政権の長という体質を受け継いでおり,貴族たちは皇帝に「忠誠」を誓い,皇帝は「友情」をもって彼らに報いることになっていた。日本で言えば,「御恩」と「奉公」の関係で結ばれていた鎌倉時代の将軍と御家人の関係に似ていると言えよう。
 しかし,父とは異なり正真正銘の「緋産室の生まれ」で,生まれたときから皇帝となることを運命づけられていたテオドロス2世は,貴族たちとの間のこのような関係に満足せず,皇帝による専制支配を強化しようとした。彼は貴族たちに忠誠を強く求める一方,「友情」は皇帝の単なる恩恵であって,義務ではないと理解していたようである。さらに彼は,貴族の力を弱めようと図り,少年時代からの友人であるゲオルギオス・ムザロンを側近として重用し,有力貴族たちの反感を買った。
 また,テオドロス2世は癇癪持ちで自制心がいささか欠けており,彼が時に癇癪を起し徹底的に無慈悲な暴君に変貌したと印象付けられるエピソードもいくつか残っている。
 彼は,父の時代から仕えていた内大臣であり,自分の師匠でもあったゲオルギオス・アクロポリテスの直言に腹を立て,彼の身分も考慮せず衣服を脱がせ地面に横たわらせ,二人の近衛兵ないし刑吏に命じて棍棒で何度も殴りつけさせた。皇帝が中止を命じたときには,アクロポリテスはもはや起き上がる力すら残っていなかったという(このエピソードは,当時を代表する歴史家でもあったアクロポリテス自身が書き残している)。
 また彼は,帝国の名門貴族であるパレオゴロス家の貴婦人(ミカエル8世の妹)の娘に対し,自身が気まぐれで推奨した卑俗な平民の男と結婚させようとし,この結婚を娘の母たる貴婦人が拒絶すると,怒った皇帝は彼女の身体を首の高さまで何匹かの猫が一緒に詰まった袋に詰め込ませ,この哀れな貴婦人は暴れ回った猫たちに思い切り爪を立てられる苦痛と恥辱に見舞われたという。
 その他,テオドロス2世は自分の娘とエピロス専制公の息子との結婚を取り決めておきながら,結婚式のために花婿とその母親がテッサロニケに到着すると両名を投獄し,港町デュラキオンの譲渡に応じるまで釈放しなかったとも伝えられている。
 彼の治世下では,ヨハネス3世の死に乗じてブルガリア王のミハイル2世が攻勢を掛けてきたため,テオドロス2世は3度にわたりブルガリアへの遠征を敢行しているが,その結果は概ね現状を維持するにとどまった。
 1258年,テオドロス2世は38歳で病死した。彼は死に臨み,まだ8歳と幼いヨハネス4世の摂政にムザロンを指名するが,この人事が間もなくヨハネス4世に災いをもたらすことになる。

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