第23話 『最も狡猾なギリシア人』ミカエル8世
(1)生い立ち
後にビザンツ皇帝となりパレオロゴス王朝の祖となるミカエル・パレオロゴスは,1225年,ニケーア帝国有数の大貴族であった父アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴス(1247年没)と,母テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナ(アレクシオス3世の孫娘)との間に生まれた。
パレオロゴス家は,11世紀中頃からビザンツ帝国史に名前が現れる帝国屈指の名門貴族であり,祖先にはアレクシオス1世の時代に活躍し『アレクセイア』にもその名を遺すゲオルギオス・パレオロゴスもいた。当然ながら皇帝一族であるコムネノス家とも血縁関係にあり,母方を通じてアンゲロス王朝の血筋も受け継いでいたことから,ミカエルは血統を根拠に帝位を要求し得る立場にあった。
ミカエルは皇帝ヨハネス3世により実の息子のように宮殿で育てられ,帝王に相応しい風貌を持ち,また20代の頃には有能な行政官及び司令官として頭角を現し,ラテン人傭兵を含む兵士たちにも人気があった。しかし,このように高貴な生まれで,しかも有能で兵士たちにも人気があるということは,ミカエルが帝位簒奪者となり得るあらゆる特徴を備えているということも意味しており,若い頃から彼は宮廷筋の嫉妬による危難に何度も巻き込まれた。
ヨハネス3世の治世下,二人の士官の間で論争が起こり,その中の一人が,相手をミカエルの帝位請求権を主張しているとして告発した。この争いはラテン人の法慣習に基づき果し合いで決着したが,この告発はミカエル本人にも及び,ミカエルは告発者との対決を要求したが容れられず,ミカエルは陰険な廷臣フィラデルフィア大主教により神明裁判を受けるよう命じられた。この裁判は,灼熱の鉄球を3度神域内の祭壇から手摺りまで,小細工を弄せず火傷せずに運ぶことが出来れば無罪というものであり,これもラテン人世界からもたらされた野蛮な法慣習の一つであった。
これに対しミカエルは,「私は一兵卒であり,進んで告発者との果し合いに応じるつもりです。しかし,私のような在俗の罪人は,奇蹟の能力を備えません。我が最も尊い高僧よ,猊下の敬神は天なる神の介入を呼ぶ力をお持ちですから,私は猊下の手から私の無罪の証であるこの熱い鉄球を受け取りたく思います。」と切り返した。
ミカエルの機転により,一転して灼熱の鉄球を持たされる立場になってしまった総主教は仰天し,自ら言い出したにもかかわらず「このような慣習はローマ人のものではない」と力説するに至り,結局皇帝ヨハネス3世によりミカエルは無罪とされ,新しい任務が与えられたという。
ヨハネス3世が亡くなる直前の1254年にも,征服したばかりのセレスとメルニクの総督に任命されていたミカエルが,ブルガリア王やエピロスの君主とこっそり交渉しているとの情報が皇帝にもたらされた。ミカエルは逮捕されて皇帝の前に引き出され裁判にかけられるが,結局彼を告発する風評は証拠とは認められず,彼は釈放された。その際ヨハネス3世は悪意がなかったことを示すために,我が子のように育ててきた従兄弟の娘テオドラをミカエルに嫁がせ,さらにミカエルをラテン人傭兵部隊の司令官である馬丁長官に任命した。
ヨハネス3世が死去し息子のテオドロス2世が皇帝になると,ミカエルの立場はさらに危険になった。テオドロス2世は前話で述べたとおり,必要と感じれば徹底的なまでの無慈悲さを示す人物であり,ミカエルはいつ逮捕されて目を潰されるか,あるいは殺されるかといった恐怖に晒されることになった。
ミカエルは1256年秋,皇帝がバルカン地方へ出かけている間に,不在の皇帝がミカエルに猜疑心を抱き,彼を死刑または盲目刑にしようとしている旨の通報を受けた。ニケーア総督であった彼は難を逃れるため,国境を越えてルーム・セルジューク朝の首都コンヤに亡命し,スルタンの宮廷で庇護を受けた。ミカエルは亡命先でもモンゴル軍を破るなどの手柄を立て,その才能を惜しんだテオドロス2世は,自らミカエルに危害を加えないと誓い,ミカエルも帝位を狙うことはしないと誓ったため,翌年ミカエルの帰還は実現した。
さらに,皇帝テオドロス2世の死期が迫っていた頃,ミカエルはまたも宮廷の嫌疑を受けたが,エピロスに対する西部国境防衛の任にあたっていた彼は抵抗せず,ドゥラッツォからニケーアまで鎖につながれて護送される立場に甘んじた。死の床に就いていたテオドロス2世は,大人しく逮捕され護送されてきたミカエルを無実と判断し,幼い皇子ヨハネス4世の補佐を託した。
(2)摂政,そして共同皇帝へ
テオドロス2世が亡くなり,幼いヨハネス4世(在位1258~1261年)が即位すると,状況は一変した。ヨハネス4世の摂政に就任していたムザロンは,皇帝葬儀の3日後,皇帝が埋葬された修道院で追悼供養を行っている最中,様々な不満をもつ有力者からなる物騒な一団が剣を抜いて修道院に突入した。哀れなムザロンとその兄弟たちは,摂政となってからわずか10日後に,これらの一団によって惨殺されたのである。
ミカエルは極めて巧妙に振る舞っていたため,このムザロン惨殺事件に関し罪状や非難を受けることは無かったが,最大の受益者であるミカエルがこの事件に関与していなかったとは考えにくい。ミカエルが非難を受けなかったのも,この事件に関しビザンツ人たちが彼の無実を確信していたからではなく,ムザロンが貴族や民衆から怨嗟の的となっておりその死をむしろ歓迎したからではないかと思われる。
ミカエルとその兄弟は,ムザロン惨殺の報を聞くと直ちに幼帝ヨハネス4世を庇護下に置き,以前から取り入っていた総主教アルセニオスの同意も得て,貴族たちを集めミカエル自らが幼帝の摂政となることを承認させた。
しかし,ミカエルは摂政になって間もなく,総主教に対し今度は共同皇帝になりたいと言い出した。摂政は恨みを買いやすい,正式な地位ではないから不安だと言って摂政辞任をちらつかせ,「ムザロンのようにはなりたくない」とまで言ってのけた。当惑した総主教は,あくまでヨハネス4世が正帝であること,二人の皇帝は互いに忠実であると誓うことを条件に,ミカエルの共同皇帝就任を認めることにした。こうして,皇帝ミカエル8世(在位1261~1282年)が即位した。なお,1261年という即位年は,首都を回復したビザンツ皇帝としてのものである。
ミカエルが共同皇帝となって間もない1259年,エピロス専制公のミカエル2世はニケーア帝国によるコンスタンティノポリス奪還を阻止するため,シチリア王や周辺のラテン人君主たちと手を組んで立ち向かった。ミカエルの弟ヨハネス率いるニケーア帝国軍と連合軍は,1259年秋にペラゴニアで決戦に及んだ。ニケーア軍は数では劣っていたが,ヨハネスはエピロス専制公の許に手紙を送り,ラテン人の同盟軍が汝を裏切ろうとしていると警告した。この謀略を専制公は真に受けてしまい,多くの兵士を連れて逃亡したために連合軍の結束は破れ,ニケーア帝国軍に大勝利をもたらしたのである。
(3)コンスタンティノポリス奪回と帝位簒奪
ペラゴニアの戦いに勝利し,レパント地域におけるニケーア帝国の優位を揺るぎないものにしたミカエルは,1260年に最大の課題たるコンスタンティノポリスの奪回を試みるが,このときは内通工作が失敗したらしく,奪回は成功しなかった。ミカエルはヴェネツィアの支援を受けているラテン帝国に対抗するため,ジェノヴァ人を味方に引き入れ,首都奪回の機会を窺った。
しかし,ジェノヴァとの同盟は,結果的には首都奪回には必要なかった。翌1261年,ミカエル配下の将軍アレクシオス・ストラテゴプルスが800名ほどの兵を率いてコンスタンティノポリス周辺で情報収集の任にあたっていたところ,彼の許にラテン人守備隊とヴェネツィア艦隊はニケーア帝国の領土であるダフネシア島の攻撃に出払っており,首都はほとんど無防備である,城壁の小門が一つ,内部の支持者の手により開けたままであるという知らせも届いた。
この報を受けたストラテゴプルスは,主君から無謀な軍事行動を控えるよう厳命されていたので暫し迷ったが,結局はこの機を逃すべきではないとの結論に達し,彼の軍はほとんど抵抗を受けることなく,コンスタンティノポリス入城を果たした。ラテン帝国の皇帝ボードワン2世は,船に乗って逃亡した。
ミカエルはこの報を聞いたとき,配下の軍団とともにボスフォラス海峡のアジア側に滞在していた。まだ朝早くだったのでミカエルは天幕の下で眠っており,ミカエルの妹エウロギアは,羽毛で足をくすぐってミカエルを起こし,この報を知らせた。ミカエルは当初信じなかったが,間もなくボードワン2世の王冠と王笏を持った伝令が到着した。ミカエルは首都の守護者である処女マリア被昇天の祝日である8月15日を選んで,自らコンスタンティノポリスに入城し,盛大な凱旋式を行った。
早くからヨハネス4世を廃して単独皇帝になろうという野心を温めていたミカエルは,事あるごとに盛大な儀式を行い,自分こそが神に嘉された皇帝であるとアピールすることに努めていた。ミカエルが1260年にトラキア地方へ遠征に出掛けていたとき,首都郊外のヘブドモンにあった修道院の廃墟で,朽ち果てた骸骨と空の石棺が発見された。石棺には「生涯を通じて警戒を怠ることなく,新しいローマの子供たちを守ってきた。」という文言が刻まれていた。
兵士たちからこの話を聞いたミカエルは,かの「ブルガリア人殺し」バシレイオス2世のものと推定される遺骸をうやうやしく絹布でくるませ,装飾を施した納骨箱に収めさせ,これを近くのセリュンブリアへ運び,皇帝が皇帝に対してのみ示すことの許される最高の敬意をもって改葬した。
そんなミカエルが,偶然にも達成されたコンスタンティノポリス奪回という快挙を,自らの野望を実現するため最大限に活用するのは当然の流れであった。彼は民衆に対し厳かに演説した。「コンスタンティノポリスを失ったことは,我々の罪に対する神の罰であった。しかし今我々は,かつてのユダヤ人がそうであったように,約束の地に戻ってきた。」
続く演説で,ミカエルは神を讃える言葉の間に,「神はこの偉大な事業を,我々の祖先ではなく,朕に許されたのである」という文言を巧みに忍び込ませた。この文言には,ラスカリス家の皇帝たちではなく自分こそが神に嘉された皇帝であるという主張が含まれていた。
1261年9月,ミカエルは聖ソフィア教会で改めて戴冠式を行うが,その際ヨハネス4世の再戴冠は省いてしまった。人々の反応を窺ったうえで,ミカエルはその年のクリスマスに,ちょうど11歳の誕生日を迎えていたヨハネス4世の目を潰し,宮殿から追い出してマルマラ海の城郭に幽閉した。
(4)「新しいコンスタンティノス」の苦難
こうしてビザンツ帝国を再興したミカエル8世は「新しいコンスタンティヌス」を名乗り,公文書でもこの称号を使用したほか,より多くの人々に知らしめるため,聖使徒教会の脇に円柱が建てられ,柱の頂には大天使ミカエルの像と,その前に跪いて手にした都の模型を大天使に捧げる皇帝の像が置かれた。
ミカエル8世は首都奪還の余勢を駆って,さらに領土を拡大する。1262年には,ペラゴニアの戦いで捕虜にしていたアカイア侯から,身柄釈放と引き換えにモレアの領地を獲得。翌年にはブルガリアに勝利して黒海沿岸の領地を割譲させ,エピロスには1264年の停戦条約で自らの宗主権を認めさせている。
しかし,帝国の前途は多難であった。ミカエル8世によって再建された帝国は,主として小アジアの3分の1,エーゲ海のいくつかの島,バルカン半島沿岸部に延びる帯状の地域から構成されており,1204年以前に比べると明らかに縮小していた。クレタ島をはじめとするヴェネツィアが獲得した領土は概ねそのままであったし,ギリシアではペロポネソス半島の大部分が,ラテン人側のアカイア公国,アテネ公国にとどまっていた。トレビゾンドは独立政権のままであり,エピロスも完全に帝国の支配下に入ったわけではなかった。
このように領土自体も縮小していた上,地中海貿易の覇権を競っていた富裕なヴェネツィアやジェノヴァの商人には後述するとおり免税特権を認めてしまったため,皇帝ミカエル8世の許に入る税収は少なく,使える兵力も限られていた。しかも,これまでニケーア帝国を支えてきた軍事貴族たちの全てがミカエルの帝位を認めたわけではなく,軍役に応じない貴族が目立つようになっていた。
ミカエル8世は従前のビザンツ皇帝たちに比べると行動の幅を大きく制約され,エーゲ海の島々を奪還するなどの小規模な軍事作戦は彼の治世下でも行われたものの,大規模な軍事作戦を行うことは無理であった。例えば,1279年にミカエル8世はブルガリア王イヴァン・アセン3世を支援して反乱者イヴァイロを討伐しようとしたが,ブルガリアには小規模な遠征軍しか送れなかったため,ブルガリアの首都タルノヴォを一時占領したものの勝利を挙げるには至らず,イヴァン・アセンがコンスタンティノポリスに亡命するという結果になった。
ミカエル8世の政策自体も,かつてのビザンツ帝国を再建するということに主眼が置かれ,ビザンツ帝国の儀式や風習を復活させる,西欧諸国の例に倣ってビザンツ帝国の国旗(黄地に双頭の鷲)を制定する,ヴェネツィアやジェノヴァの海軍に対抗するためビザンツ海軍を再建するといった改革を行ってはいるものの,ビザンツ帝国政治の旧弊を改めるといった改革には関心を示さず,ヨハネス3世のような優れた経済政策の手腕を発揮することもなかった。
首都の再開発にも莫大な費用がかかり,ミカエルは海側の城壁を高くするなど防衛に実用的な補強を行ったほか,教会や修道院の多くは修復され,奪われたものに代わる新たな調度品が置かれた。ブラケルネ宮殿には,新たにミカエルの勝利の場面が描かれた。もっとも,あまりにも巨大であった大宮殿の修復は断念され,修復が追いつかない修道院などの建物も少なからずあった。
阿漕な簒奪に対する反発も根強かった。総主教アルセニオスはミカエル8世を破門に処し,聖ソフィア教会への立ち入りも禁止された。破門は1268年に総主教がニキフォロス2世に替わるまで解かれることはなく,破門は6年間もの長きにわたったが,これはミカエルに対する教会人の非難が強かったからというより,聖職者として権威ある存在であったアルセニオスに代わって皇帝の破門を解くには,それ相応の権威ある人物でなければならないと判断され,その任に適する総主教の人選に難航したからである。
狡猾なミカエル8世は,破門された後総主教に跪いて赦しを乞うたが,アルセニオスが具体的な赦しの条件を示さなかったことから,赦しが得られないなら代わりにローマ教皇から赦しを得ることを示唆して,逆にビザンツの聖職界を脅した。アルセニオスはミカエル8世との政治的妥協を一切拒否したために他の教会人から反発を受け,宗教会議で総主教の座を解任され追放処分を受けたが,頑迷な性格だったアルセニオスは,死ぬまでミカエル8世を許そうとはしなかった。
ビザンツの聖職者たちは,何とか新たな総主教を選任しミカエル8世を赦免したが,ビザンツではアルセニオスの死後も彼を支持する聖職者や修道士の間が少なくなかったため,こうしたアルセニオス派の取り込みが,次のアンドロニコス2世の時代に至るまで重要な国家的課題となった。
ヨハネス4世の名を騙る反乱も発生し,反乱を起こした兵士たちが帝国東方の防衛に重要な存在であったため,ミカエル8世はこの反乱を鎮圧するも,ヨハネス4世を騙る盲目の少年を追放しただけで,兵士たちへの処罰は断念せざるを得なかった。
なお,ミカエル8世の皇后となったのは前述のテオドラであるが,ミカエル8世は一時彼女と離婚し,ヨハネス3世の後妻アンナと再婚しようと企てたことがある。アンナが評判の美人だったということもあるが,アンナと結婚すればミカエル8世はラスカリス家の入り婿として帝位継承権を主張できる上に,アンナは両シチリア王マンフレディの同母妹でもあることから,両シチリア王国との関係改善も期待できるという政治的利点もあった。もっとも,この企みはテオドラに泣きつかれた総主教から猛反対を受けた上に,当のアンナもミカエルとの再婚を拒否して祖国へ帰ってしまったため,結局実現せずに終わる。
ラテン帝国の下で貿易特権を享受していたヴェネツィアの反撃は当然予想されたので,ミカエル8世は首都奪回自体には何ら必要なかったにもかかわらず,約束どおりジェノヴァ人に,従来ヴェネツィア人が享受していたものと同様の特権を与えた。関税免除と,首都の対岸にあるガラタにおける治外法権の居留地がその主なものであった。
ミカエル8世の意図は,ジェノヴァ海軍をもってヴェネツィア海軍に対抗させようとするものであったが,ジェノヴァ人は個々の船乗りとしての才能には優れていても,ヴェネツィア人のような団結力はなかった。ヴェネツィアとジェノヴァは,1256年からアッコンの利権をめぐって戦争を続けており(第一次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争),主だった3回の海戦ではいずれもヴェネツィアが勝利していた。ミカエル8世とジェノヴァ人との間に不和が生じたこともあり,ミカエル8世は1268年になると,ヴェネツィアとも通商条約を締結し,ビザンツ帝国における交易上の地位と特権を部分的に認め,ヴェネツィアとの戦争を回避した(なお,この戦争はフランス王ルイ9世の仲介により,1270年に休戦協定が結ばれ終結している)。
1265年には,ブルガリアと結んだジョチ・ウルスのノガイ(ジュチの七男ボアルの孫)がトラキア地方に侵入し,ビザンツ軍を撃破してトラキアの町を破壊した。ミカエル8世は,モンゴル人が女性の嫡出性にこだわらないことを知っていたらしく,ノガイには自分が愛人に産ませた娘エウフロシュネーを嫁がせ,ノガイ率いるモンゴル軍を自らの同盟軍とすることに成功した(なお,当時のジョチ・ウルスは有力者たちによる権力分立状態が続いており,ノガイは有力者の一人であったがハーンの位には就いていない)。
さらに,イラン地方で自らの政権(後世イル=ハン国と呼ばれている)を樹立していたフラグ(フビライ・ハーンの弟)に対しても,同じく愛人の娘マリアを嫁がせたが,フラグは既に死亡していたため,マリアは息子のアバカに嫁ぎ,嫁ぎ先ではデスピナ・ハトゥンと呼ばれて尊敬された。なお,デスピナとはギリシア語で「皇女」を意味し,ハトゥンはモンゴル語でハーンの妃に贈られる尊称である。
こうして,ミカエル8世はモンゴル系の勢力と良好な関係の構築に成功したほか,エジプトに成立したマムルーク朝とも友好条約を結んでおり,エルサレム総主教にはミカエル8世が任命した人物が送り込まれ,返礼としてミカエルは,マムルーク朝の軍に仕えるクマン人の傭兵部隊をクリミア半島からエジプトへ運ぶ手配をした。
(5)シャルル・ダンジューの脅威と教会合同
西方ではビザンツ帝国に対する更なる脅威が発生していた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後,南イタリアとシチリアを支配していたのはその庶子マンフレディであった。ビザンツ帝国とシチリア王マンフレディとの仲は必ずしも良好ではなかったが,マンフレディはローマ教皇などと敵対関係にあったため,マンフレディがビザンツ帝国の脅威になることは無さそうであった。
しかし,1266年にローマ教皇によって南イタリアとシチリアの王に叙任されていたアンジュー伯シャルル(フランス王ルイ9世の弟で,シャルル・ダンジューの名で知られる)の侵攻により,マンフレディは敗れて処刑された。代わってシャルル・ダンジューが南イタリアとシチリアの主になると,彼はビザンツ帝国にとって最大の脅威となった。
一方,ローマ教皇は第4次十字軍によるコンスタンティノポリス劫略を,ローマ教会主導による東西教会の合同が実現したものと肯定的に評価していた。だからこそ時の教皇インノケンティウス3世も,ラテン帝国のボードワンを正統な皇帝と認め,モロシーニを総主教として認めていたのである。
ミカエル8世のコンスタンティノポリス奪回は,ローマ教皇が愚かにも達成されていたと信じていた東西教会の統一を水泡に帰す行為であり,その報を聞いて時の教皇ウルバヌス4世は呆然とした。そこでウルバヌスはコンスタンティノポリス奪回のための十字軍を説き,参加者は聖地エルサレムに向かう十字軍士と同じ霊的な恩賞に与ると約束したが,当時の西欧世界には,滅びたラテン帝国のために戦うことに大義名分があると考える者はほとんどいなかったため,教皇の呼び掛けに反応はなかった。
しかし,シチリア王となったシャルル・ダンジューは,この十字軍を大義名分にビザンツ帝国を征服し,自らの地中海帝国を建設する野望を抱いた。彼は1267年に亡命中のラテン皇帝ボードワン2世とヴィテルボで会見し,遠征の詳細について話し合った(シャルルの娘ベアトリスがボードワン2世の息子フィリップに嫁ぎ,1273年にボードワン2世が亡くなると,シャルル・ダンジューはフィリップの保護者という名目でラテン皇帝の地位を継承している)。同年には男子後継者の見込みがないアカイア公国のギヨーム2世とも協定を結び,1278年にギヨーム2世が亡くなると,同協定に基づきシャルルがアカイア公の地位を獲得した。1277年にはエルサレム王国の継承権を手に入れエルサレム王を名乗った。
ミカエル8世は,こうしたシャルル・ダンジューの野望を食い止めるため,シャルルに対し唯一強い影響力を行使できるその兄,フランスの聖王ルイ9世の慈悲にすがりついた。ルイ9世は死ぬ前にもう一度十字軍を起こすことを望んでいたので,野心的な弟の牽制も兼ねて,チュニスを攻略目標とする十字軍を起こすことにした。十字軍の名目としては,チュニスを攻略しエジプト攻略の拠点にするというものである。シャルル・ダンジューも勢力拡大のためハフス朝チュニジアへの遠征を考えていたことから結果的に兄弟の思惑は一致し,1270年にルイ9世はチュニスを攻略目標とする第8回十字軍を起こし,シャルルもこれに従軍した。
こうして行われた第8回十字軍は,飲み水の劣悪さや暑さなどにより十字軍内に病気が流行り,ルイ9世自身も死去したため失敗に終わったが,シャルルはこの戦いの後始末で存在感を発揮し,ハフス朝のスルタンと和睦を成立させて帰国した。
もはやルイ9世を頼みに出来なくなったミカエル8世は,ローマ教皇と交渉して東西教会の合同を実現させ,シャルル・ダンジューが十字軍の総大将としてビザンツ帝国に侵攻してくる最悪の事態を防ごうとした。同じキリスト教とはいっても,前述したとおり教義や宗教的慣習は東西で大きく異なっており課題は山積みであったが,ミカエル8世は迫りくる十字軍の脅威を避けるために結論を急ぎ,結局ローマ教会側の主張をほぼ丸呑みする形で,1274年のリヨン公会議に自ら出席し,東西教会の合同を宣言した。ミカエル8世率いるビザンツの代表団は,「フィリオクエ」を含む信条を3度にわたり読み上げたという。
もっとも,このミカエル8世が強引に推し進めた教会合同に対し,ビザンツ帝国内の反発は相当なものであった。東西教会の合同に協力しようとする聖職者が国内にほとんどいなかったため,リヨン公会議でミカエル8世に随行したのはゲオルギオス・アクロポリテスをはじめとする俗人たちが主であった。
帰国してからも,ミカエル8世の妹エウロギアが「兄の帝国が滅びるほうが,正統信仰の純粋さが失われるよりましです」と主張したのを筆頭に,国内では教会合同に対する強い反対や非難の声が起こった。多くの聖職者,特にアトス山の修道士たちはミカエルを強く非難した。正教国であるエピロスやセルビア,ブルガリアも合同に反対した。リヨン公会議の随行員であったゲオルギオス・メトキテスは,聖書の文言や神学的な理由に基づく非難ではなく,「お前たちはフランク人になってしまった」という類の非難を絶えず聞かされる破目になった旨を書き残している。
ミカエル8世は,帝位簒奪劇と同様,教会合同も何とか乗り切れると楽観的に考えていたのかも知れないが,ビザンツ帝国はギリシア正教の信仰によって成り立っていた国であり,前述したエウロギアの発言に象徴されるように,宗教をめぐってビザンツ帝国の利害とビザンツ人の利害が衝突するという深刻な事態を招いてしまったのである。加えて,ギリシア正教がニケーア帝国時代から芽生えていたビザンツ人の偏狭な民族主義と結びつき,多くの外国人を受け容れていたビザンツ人のコスモポリタン的な特質が失われ始めたのもこの頃からであった。
ミカエル8世は何とか教会合同を受け容れさせようと努め,反対者に対しては投獄し舌を切るなど残酷な刑罰も辞さず,彼の刑罰により死に至った皇族もいたという。それでも,ビザンツ帝国の民衆は聖俗問わず,1204年に起きたコンスタンティノポリス劫略に始まるラテン人への強い憎悪を抱いており,ミカエル8世がいくら努力してもビザンツ人たちに教会合同を受け容れさせることはできなかった。なお,前述のエウロギアも投獄されたが,後にブルガリアへ亡命している。
(6)シチリアの晩鐘事件
ミカエル8世が進めた教会合同政策は,1281年にシャルル・ダンジューの軍事的圧力下で即位したローマ教皇マルティヌス4世が,合同を実行できなかったとしてミカエル8世を破門に処したことから,最終的に頓挫した。シャルル・ダンジューの脅威から帝国を救ったのは,教会合同と並行してミカエル8世が進めていた別の謀略であった。
シャルル・ダンジューの支配するところとなったシチリア島は,ロベール・ギスカール率いるノルマン人の支配下に入って以来,キリスト教国の支配下でありながらキリスト教徒とイスラム教徒が平和的に共存しているという,当時としては珍しい地域であった。
この地を支配したノルマン系の両シチリア王国は神聖ローマ帝国のハインリヒ6世によって征服されたが,シチリアで生まれ育ったフリードリヒ2世もこうした伝統を受け継ぎ,イスラム教徒のシチリア居住を平然と容認するのみならず,キリスト教国の皇帝であるにもかかわらずイスラム教徒の家臣や兵士たちを数多く抱えており,それは後継者のマンフレディも同様であったのだが,シャルル・ダンジューは強権的にこの地のキリスト教化を推進し,彼によって追放されたイスラム教徒たちは復讐のため海賊となってこの地を襲撃するようになった。
さらに,シャルル・ダンジューは地中海帝国建設という自らの野望を実現するため民に重税を課しており,特にシチリア島民のシャルルに対する不満は非常に高まっていた。こうした事情を察知していたミカエル8世は,工作員を派遣して島民の不満を煽り,1282年に「シチリアの晩鐘」事件を発生させた。
「シチリアの晩鐘」事件とは,シャルルの家臣たちが女性にちょっかいを出したのをきっかけに,夕べのミサの鐘が鳴りだした頃,民衆たちが「フランス人に死を!」と叫びを挙げて暴動を起こした事件であり,この暴動によりシャルルがシチリア島のメッシーナで準備していた遠征用の艦船も破壊された。
ローマ教皇は十字軍妨害のかどで全シチリア島民を破門に処し,シャルルも反撃に出ようとするが,これまたミカエル8世が多額の金を贈って動かしたアラゴン王ペドロ3世率いる艦隊が解放軍と称してシチリア島に到着し,シャルルの軍勢を撃破してペドロ3世自らがシチリア王を名乗ったのである。シャルルは南イタリアに撤退せざるを得なくなり,地中海帝国建設という彼の夢は潰えた。
なお,シチリア島民とペドロ3世はローマ教皇に破門されたが,明らかにシャルル・ダンジューの意向と分かる破門は全く効果が無かった。シャルルの甥にあたるフランス王フィリップ3世は報復のためアラゴン遠征を行ったが,赤痢の流行もあって遠征は失敗に終わった。シャルル・ダンジューとフィリップ3世,ペドロ3世,そしてローマ教皇マルティヌス4世は,奇しくも同じ1285年に亡くなっている。
(7)最期
こうして,謀略によりビザンツ帝国を救ったミカエル8世だったが,彼にも死期が迫っていた。1282年11月,ミカエル8世はエピロス専制公の息子がテッサリアで反乱を起こしたため,ノガイ率いるモンゴル軍と合流したところで腸の病により体調を崩し,同年12月に死去した。帝位は,既に共同皇帝となっていた息子アンドロニコスに受け継がれた。なお,ノガイが率いてきたモンゴルの援軍は,アンドロニコスによってセルビアへの遠征に転用されている。
このような生涯を送ったミカエル8世パレオロゴスは,西欧人から「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれ,猛烈な非難を浴びた。もともと中世の西欧人はギリシア人を狡猾な人種とみなし嫌悪していたが,そのような西欧人にとって,ミカエル8世はまさに「ギリシア人の中のギリシア人」であった。
そしてビザンツ人の間でも,ミカエル8世は阿漕な簒奪と教会合同の強行が原因でかなり評判が悪く,内政面での業績も特に優れたものはないため名君とまでは言い難いが,一方で彼の狡猾さが帝国を滅亡の危機から救ったのも事実であり,後世の史家は「このような人物が皇帝になっていなければ,帝国はシャルル・ダンジューの前に屈服することを余儀なくされたであろう」と評した。
狡猾な権謀術数をもって帝国を守ってきたビザンツ人の伝統を考えれば,「最も狡猾なギリシア人」という彼のあだ名は,ある意味彼に対する最大級の賛辞であろう。彼によって創始されたパレオロゴス王朝は,滅亡までの約200年間にわたってビザンツ帝国の統治者であり続け,ビザンツ帝国史上最も長く続いた王朝となった。