第24話 『皇帝に向かなかった文人』アンドロニコス2世

第24話 『皇帝に向かなかった文人』アンドロニコス2世

(1)治世当初の治績

 父の跡を継いだアンドロニコス2世(在位1282~1328年)が帝位に就いて最初に行ったことは,父の行為を否定することだった。彼はもはや不要となった教会合同の取消しを宣言し,正統信仰を捨てたミカエル8世の国葬は行わず,慣例となっていた年忌供養も行わないとする教会会議の決定に同意した。ミカエル8世の遺体は,アンドロニコス2世の命令でバシレイオス2世の遺骨が納められていたセリュンブリアの修道院に移された。
 ミカエル8世自身は,自ら修復・改装した聖デメトリオス修道院に葬られるつもりだったらしいが,考えようによっては,ビザンツ史上最も偉大な皇帝バシレイオス2世に並んで葬られることは,ビザンツ史上最も狡猾な皇帝ミカエル8世に対する最大級の栄誉と言えないこともない。
 アンドロニコス2世は,リヨンの教会合同へ反対したために投獄・追放されていた人々に大赦を与える一方,ミカエル8世が教会合同を実現するために任命した総主教ヨハネス11世を罷免し,合同を支持した主教たちも全員解任された。
 さらに1290年には,父によって盲目にされたヨハネス4世の許を訪れて父の罪を詫び,自分を正統の皇帝と認めてもらった。こうしてアンドロニコス2世はアルセニオス派の取り込みにも成功し,民衆の支持を得てパレオロゴス王朝の存続を揺るぎないものにした。
 その他,アンドロニコスは帝国にとって長年の課題であった中央と地方の対立を和らげるため,皇帝一族を地方の要地に置くことで,地方の人々に対し絶えず皇帝の姿を示す政策を実施した。これは父ミカエル8世も考えていた政策であるが,最初に実行したのはアンドロニコスである。
 彼は,最初の妃であるアンナ(マジャル王イシュトヴァーン5世の娘)が1281年に亡くなると,彼は2番目の妻に,モンフェラート侯グリエルモ7世の娘ヴィオランテ(結婚に伴いエイレーネーに改名)を迎え,その際モンフェラート侯のテッサロニケ王位請求権を放棄させた。そして,エイレーネーとの仲がうまく行かなくなると,1303年にエイレーネーを帝国第二の都市テッサロニケに住まわせた。以後テッサロニケには宮廷が設けられ,ほぼ恒常的に皇帝一族の者が住み,専制公と称して町を支配するようになった。
 その他,アンドロニコスは父に倣い,庶子のマリアをジョチ・ウルスの第9代ハーン・トクタに嫁がせており,アンドロニコスの治世下でもモンゴルのジョチ・ウルスやイル・ハン国からある程度の軍事援助を受けることが出来たようである。
 ビザンツ帝国は,これまで3度にわたり,深刻な滅亡の危機から不死鳥のごとく蘇ってきた。最初はレオーン3世から始まる暗黒時代からの脱却であり,2回目はアレクシオス1世から始まる「11世紀の危機」からの脱却であり,3回目はミカエル8世によるコンスタンティノポリス奪回である。
 もっとも,こうしたビザンツ帝国の復活に大きな役割を果たしたのは,有能な第二走者の存在であり,最初の復活はレオーン3世の子コンスタンティノス5世の活躍によって確かなものとなったし,2回目の復活はアレクシオス1世の子ヨハネス2世の活躍によって確かなものとなった。ミカエル8世による3回目の復活も,これが確かなものとなるか否かは第二走者たるアンドロニコス2世の手腕に掛かっていた。
 アンドロニコス2世は,前述のように不評だった父の政策を否定して民衆の支持を獲得し,専制公による地方統治の先例を作った点においては現実的な考え方を持った人物であり,即位当初は有能な第二走者になるものと期待されたが,彼は長い治世の間で多くの失策を重ね,やがてそうした期待は大きく裏切られることになった。

(2)第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争に関する失策

 まず,アンドロニコス2世は,財政難のため先帝ミカエル8世が創設した80隻の海軍を解散し,先代からの同盟者であるジェノヴァ海軍に全面的に依存して,軍事的に優勢なヴェネツィアを敵に回し,これによりビザンツ帝国は大きな被害を受けた。1291年,十字軍最後の拠点アッコンがマムルーク朝の攻撃を受け陥落したことで,この地に多くの居留民を置き東方貿易の拠点としていたヴェネツィアは重大な打撃を受けたため,調子に乗ったジェノヴァ人はエーゲ海のヴェネツィア船やヴェネツィア領クレタを頻繁に襲撃するようになった。
 1296年にはコンスタンティノポリスのヴェネツィア人居留地をジェノヴァ人が襲撃し,略奪や虐殺を行った。その際,アンドロニコス2世は全面的にジェノヴァ支持を表明し,生き残ったヴェネツィア大使マルコ・ベンボらを拘束した。ヴェネツィアは報復のため,同年のうちにジェノヴァとビザンツ帝国に対し宣戦を布告した。
 この戦争は,第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争またはクルツォラ戦争と呼ばれるが,ヴェネツィアは直ちに40隻のガレー艦隊を編成し,この艦隊はルッジェーロ・モロシーニに率いられてコンスタンティノポリスへ向かった。この艦隊によってたちまち金角湾が占領され,ジェノヴァ船やビザンツ船が捕獲されたほか,ポカイアやガラタなどのジェノヴァ人居留地が占領され,コンスタンティノポリスの金角湾沿いも焼き払われた。アンドロニコス2世はヴェネツィアによって再びコンスタンティノポリスを失う事態になることを恐れ,ヴェネツィア人捕虜と没収財産を返還し和平を結ぶことにしたが,ヴェネツィアとの戦争は1302年まで続き,ビザンツ帝国はヴェネツィアへの損害賠償のほか,エーゲ海にあるケア,サントリーニ,セリフォス,アモルゴスの各島をヴェネツィアに割譲することになった。
 一方,ヴェネツィアはジョヴァンニ・ソランツォ率いる新たな艦隊を編成し,ジェノヴァのボスフォラス海峡封鎖を突破し,黒海に進出してジェノヴァの一大拠点カッファを占領した。一方ジェノヴァは,まだエーゲ海で保持していた優位を足掛かりにアドリア海沿岸のヴェネツィア領を略奪し,ヴェネツィア艦隊の補給を断った。
 そして1298年,95隻のヴェネツィア艦隊と約70隻のジェノヴァ艦隊がダルマティアのクルツォラ島(現コルチュラ島)沿岸で激突した。このクルツォラの海戦でヴェネツィアは65隻のガレー船と9000人の兵を失い,さらに5000人が捕虜となった。旅行家マルコ・ポーロもこの戦いで捕虜となり,ジェノヴァの牢獄で東方見聞録を著すことになる(ただし,マルコ・ポーロはクルツォラの海戦ではなく,それ以前の小規模な戦いで捕虜になった可能性もある)。
 この戦いはヴェネツィアにとって痛い敗戦であったが,ジェノヴァの被害も甚大であり,ヴェネツィアはまだ新たな艦隊を編成する余力を残していたので,翌1299年にヴェネツィアとジェノヴァは和平を結んだ。アンドロニコス2世は,明らかにヴェネツィアの底力を侮っており,この戦いで全面的なジェノヴァ支持を表明したために大きな被害を受けただけでなく,ジェノヴァとの関係においても将来に禍根を残すことになった。
 すなわち,この戦いではヴェネツィア艦隊によりガラタ(時代が降るにつれペラと呼ばれることが多くなるが,本稿ではガラタで統一する)のジェノヴァ人居留区も焼き払われたことから,アンドロニコスはヴェネツィアに対する防衛のため,同居留区に城壁その他の防衛施設を建設することを認めざるを得なくなった。その後調子に乗ったジェノヴァ人は,ガラタ周辺の土地を買い足して治外法権の居留地を勝手に拡大し,商人たちもコンスタンティノポリスではなくガラタで取引する者が多くなり,ジェノヴァ領ガラタは,ますますビザンツ帝国にとって手の付けられない存在となってしまった。

(3)トルコ人の脅威とカタルーニャ人問題

 彼の治世下では西方からの脅威は無くなっていたが,代わりに東方からの脅威が静かに迫っていた。東方といっても,新たな帝国の敵となったのはルーム・セルジューク朝ではない。この王朝は,13世紀末にはモンゴルの従属下でもがき苦しんだ挙句に統治能力を失い,1308年に直系男子が死に絶えたことで最終的に消滅したが,同王朝によってビザンツ帝国と境を接する西方に領地を与えられたトルコ系の諸部族が,しばしば国境を越えて侵入するようになったのである。
 こうした侵入は,最初は羊や牛の略奪といった程度のものにとどまっていたが,当時のビザンツ帝国は西方の脅威に備えるため東方の備えが手薄になっていた。ビザンツ側の抵抗がないのに乗じて,トルコ人の攻撃は次第に本格的なものとなり,1280年にはメンテシェ率いるトルコ軍がトラレスの町を略奪し破壊した。当時,共同皇帝だったアンドロニコスは軍隊とともに北のニュンフェイオンにおり,その年の春にトラレスにやって来てこの町を大幅に拡大し改造するつもりだと宣言していたが,実際には守ることも出来なかった。なお,メンテシェは自ら君侯国の開祖となり,彼の国はあまり有力とはならなかったが,ミラスを中心に小アジア南西部を支配するようになった。
 小アジアの住民たちは,もはや首都の政府は自分たちを守る力もないのを目の当たりにして,中にはビザンツ帝国に対する忠誠心を完全に失い,トルコ人に味方して略奪に加わったり,農村部の各地で攻撃に最適の場所をトルコ人に教えたりしている者もいるという報告もあった。
 父のミカエル8世は,その治世末期に起きたこのような事件に遅ればせながら対処しようと考えており,もし彼がもう少し長生きしていたら,おそらく得意の謀略をもって東方の形勢挽回を試みたであろう。当時の小アジアは小規模な君侯ないしそれ以下の勢力が乱立していたので,外交によってトルコ人同士を争わせるといった権謀術数を巡らせる余地はあったと考えられる。
 しかし,父の死に伴い帝位と共にトルコ人問題への対処を受け継いだアンドロニコス2世は,優れた文人としての才能を示し,学問を奨励して後にパレオロゴス朝ルネッサンスと呼ばれる文化を花開かせたものの,ビザンツの文人皇帝に不可欠な権謀術数の才能を父から受け継ぐことは無かったようである。彼は素早く現れては領地を略奪して去っていく厄介で強力なトルコ人に対し,ほとんど有効に対処する術を持たなかった。
 ミカエル8世の治世下では,コムネノス朝時代と同様にラテン人の傭兵を中心とするニケーア帝国の軍団が引き続き使われていたが,アンドロニコス2世は経費削減のために金のかかる傭兵軍を解散し,代わりに現地人による民兵を使用した。これにより小アジアの軍備は弱体化し,トルコ人による侵略を容易にしてしまったのである。
 もっとも,アンドロニコス2世の治世下でも,トルコ人の侵入を抑える試みが全く為されていなかったわけではない。アンドロニコス2世は1293年頃,自分の従兄弟にあたる貴族アレクシオス・ドゥーカス・フィラントロペノスという人物を小アジア防衛の司令官に任命しており,この人物はメンテシェ侯国の進出を抑えるなどトルコ人相手になかなかの戦果を挙げていたが,1295年秋,フィラントロペノスはアンドロニコスに反旗を翻した。この反乱の理由ははっきりしていないが,高課税に対する小アジア民衆の不満に加え,アンドロニコスが小アジアの防衛をほとんど無視していると小アジアの住民たちに思われていたことが,彼の反乱を後押ししたようである。
 もっとも,フィラントロペノスの反乱は1295年中に鎮圧され,彼は逮捕されて盲目にされてしまう。その後,1298年に小アジアに派遣されたヨハネス・ターチャネイテオスという人物は,同じくアンドロニコス2世の従兄弟ではあるが,ミカエル8世を破門したアルセニオスを支持してアンドロニコス2世の帝位も認めず,首都で投獄されていた人物であった。それでもヨハネスは,地方行政の改革で小アジアの軍備を増強させることに一時成功したが,彼の改革はプロノイアの既得権を奪われた貴族たちの敵意を買い,1300年頃にはヨハネス自身がテッサロニケへの逃亡を余儀なくされた。
 ルーム・セルジューク朝の支配体制が壊滅的な状況になると,トルコの地方君主たちは相次いで正式に自立を表明し,小アジアにあるビザンツ帝国の領地を略奪し去っていくのではなく,次第にビザンツの領地を奪って定住するようになった。1299年頃に自立を表明し,後にオスマン帝国の祖となるオスマン侯もその一人であった。
 事態を重く見たアンドロニコスは,1302年になると息子の共同皇帝ミカエル9世と共に,小アジアでの形勢挽回を図るべく軍事行動を開始した。しかし,ビザンツ軍はバフェウスでオスマンの軍と戦い,壊滅的敗北を喫した。この戦いに動員されたビザンツ軍は約2千人で,そのうち半数はアラン人の傭兵であったが,オスマンはビザンツ軍の侵攻を恐れた他のトルコ人君侯国からも援軍を得て5千の兵力を動員することができ,トルコ騎兵隊の突撃によりビザンツ軍の戦線は崩壊し,ニコメディアへの撤退を余儀なくされたという。ビザンツ軍は,他のトルコ人君侯たちの侵攻も自力で食い止めることが出来ず,マグネシアでは屈辱的な撤退を余儀なくされた。
 その後アンドロニコスは,カタルーニャ人をはじめとする外国人傭兵の力を借りてこの事態を打開しようとした。カタルーニャ人はバルセロナを中心とするイベリア半島東北部に住む民族で,この地方を治めるアラゴン王国の中核を成していたところ,前述の「シチリアの晩鐘」事件がきっかけでアラゴン王国がシチリア島を領有するようになったので,カタルーニャ人の冒険家たちはシチリア島を拠点に東地中海へも進出するようになっており,その勇猛果敢ぶりは早くも有名になっていた。
 そんなカタルーニャ人の中で最も有名な人物は,8000人の冒険者たちを率いてやってきたロジェール・ド・フロルであり,彼はアンドロニコスによって宮殿に迎えられ,皇帝の姪を妻に与えられてビザンツ軍の司令官となり,早速トルコ人相手の大胆な作戦を展開した。
 1304年,ロジェールはトルコ人によって包囲されていたフィラデルフィアの解放に成功するが,彼とその部下のカタルーニャ人たちは解放した土地を自分たちの所有物とみなし,彼らによる略奪と暴行の凄まじさはトルコ人よりはるかに酷く,後世の一史家はこの有様を「住民は煙を逃れて焔に巻かれた」と評した。ラテン人はトルコ人以上に野蛮で残虐であるとの評判は,ちょうど百年前のコンスタンティノポリス劫略時に確立していたが,その評判の正しさはカタルーニャ人の暴虐ぶりによって再確認された。
 帝国が財政難に陥っている中,窮地に陥っているアンドロニコスの足許を見た彼らは,ビザンツの正規軍よりはるかに高額の給料を受け取っており,しかも好き放題にビザンツ帝国の領地を荒し回り,もはや収奪できるものが無くなるに及んで,ようやく彼らは皇帝の命により小アジアから帰還した。しかし,ロジェールは小アジア方面の総督に任命する代わりに,自分の軍団の規模を害の少ない3000人程度に縮小するという皇帝の提案を頑として拒否した。
 アンドロニコス2世は,財政難の中で彼らカタルーニャ人傭兵を雇うため,自らの直属軍を近衛兵など最小限の人数を残して解任してしまっており,帝国の運命をカタルーニャ人に委ねてしまっていた。ビザンツ皇帝たる者,本来外国人を用いて他の外国人と戦わせるにあたっては,その外国人が裏切った場合の対策も当然考えておくべきであるが,アンドロニコスはそうした対策を全く怠っていたため,横暴なカタルーニャ人たちは皇帝にも手の付けられない存在と化してしまった。
アンドロニコス2世は最後の手段として,1305年にこのロジェールを暗殺するが,この暗殺すらもアンドロニコス自らの決断で行われたわけではなく,息子の共同皇帝ミカエル9世が主導したものであった。しかし,カタルーニャ人問題はロジェールの暗殺だけでは解決を見なかった。
 彼の部下たちは地中海の各地に散らばって,首領の仇討ちと称して各地で略奪・暴行を働いた。最も厄介だったのはガリポリの要塞に立て籠もった一団で,彼らはミカエル9世率いる討伐軍を退け,自ら「カタルーニャ大軍団」を名乗った。彼らは首都周辺の交易船団を襲撃して積み荷を横取りし,周辺の地域を略奪した。彼らの「活躍」ぶりに,キリスト教に改宗しビザンツ軍に加わっていたトルコ人兵士が,帝国の軍務を放棄して「カタルーニャ大軍団」に加わってしまう例も少なくなかった。
 彼らを力で抑えることが出来なかったビザンツ帝国は,和平交渉も4度にわたり失敗し,その結果彼らの進出を予防するための焦土作戦を余儀なくされ,農民たちは農地を放棄して都市部に逃げ込み,何万頭もの家畜が無益に殺された。これによって帝国は更に国力を衰退させることになった。やがてこのカタルーニャ人は糧食の欠乏と首領間の不和が原因で,ようやく首都近辺を離れマケドニア方面に去っていった。
 一方,アンドロニコス2世はブルガリアの王位継承問題にも介入し,ブルガリア王テオドル・スヴェトスラフ(在位1300~1322年)を追放しようとする派閥を支持したが,この行動は有能なテオドル王によるトラキア侵入を招き,テオドル王はミカエル9世率いるビザンツ軍を破って,トラキア北東部の大部分を占領した。
 この戦争は,ミカエル9世の娘テオドラが妃を失くしていたテオドルの後妻となったことで1307年に終結したが,その間にもトルコ人による小アジア進出はますます進み,1310年には小アジア西岸の商業都市スミルナがアイドゥン侯国の手に落ちたほか,1320年頃までには小アジア農村部の大部分がトルコ人によって建国された様々な君侯国の支配するところとなり,小アジアにおけるビザンツ帝国の支配は都市部に限られるようになってしまった。
 ただでさえ小さかったビザンツ帝国の領土はさらに縮小し,深刻な財政難の中,今更のようにアンドロニコス2世は自国海軍の重要性を再認識するようになり,1320年には20隻のガレー船を建造して海軍を再建しようとするが,この試みは財政難及び後述する内乱の発生により頓挫した。アンドロニコス2世は,トルコ人などの外敵に対抗するのに必要な陸軍を再建するため民衆に重税を課し,既に老人となっていたこの皇帝に対する民衆の不満は高まっていた。アンドロニコス2世の治世下では貨幣の改悪も行われ,ビザンツ帝国の発行するヒュベルピュロン金貨の価値は,彼の治世下で約7分の1にまで下落したという。

(4)狂信者アタナシオスへの傾倒

 アンドロニコス2世の失政は,ヴェネツィアに対する対応の誤りや,トルコ人による小アジア喪失やカタルーニャ人問題などを引き起こしただけではなかった。信仰心の深さで知られていたアンドロニコスは,「第二のクリュソストモス」(テオドシウス1世時代に活躍し,火を噴くような説教で異教や異端の排斥を唱えたことで知られる人物。彼は死後聖人に叙せられていたため,その死後900年を経た当時でもその業績は語り継がれていた)と呼ばれていた,野心的かつ狂信的なアタナシオスという聖職者に心酔しており,1289年には彼を総主教に任命した。
 こうして総主教となったアタナシオスであるが,もともと高度な政治的配慮の必要な総主教の任に彼のような狂信者は不向きであった。アタナシオスは禁欲主義的な道徳を唱え,修道士のみならず都市の主教たちに対しても厳しい規則を設けようとし,当時進んでいたカトリックとの融和路線にも断固反対を唱え,たちまち民衆や聖職者たちの憎悪を買った。過激な戒律を唱えたアタナシオスは,罪人は悔悛の盃の最後の一滴まで飲み干さなければならないと公言した,僧院内の菜園のレタスを食べた驢馬を聖物冒涜の罪で処罰したなどと噂され,わずか4年で総主教の座を追われた。
 しかし,アタナシオスは退位にあたり,自らを失脚に追い込んだ者に対する強力な呪詛の文書を密かに残し,退位の4年後にその文書は発見された。自分も呪詛の対象になるものと理解したアンドロニコスは恐怖し,アタナシオスを総主教に復帰させて呪詛を解いてもらうことを強く要望した(呪詛は総主教の権限によってなされたものであるため,呪詛を解くにはアタナシオス自身が総主教に復帰して行うしかないと考えられていた)。
 その後,1303年には首都で大きな地震が起き,これを敬虔な総主教アタナシオス追放に対する神の怒りだと理解したアンドロニコスは,アタナシオスを総主教の座に復帰させ,アナタシオスによる呪詛は解かれた。しかし,二度目の総主教就任となったアタナシオスは過去の失敗に懲りるどころか,孤独でかえって頑迷になり,社会政策にも介入するようになって,彼の狂信と繰り返される悔い改めの呼び掛けにうんざりした民衆や聖職者は,アタナシオスを憎悪するようになった。
この時期のアタナシオスは,ビザンツ帝国をあたかも自分の修道院であるかのように扱ったと噂された。ある夜,総主教座の敷物が何者かによって密かに盗み出され,代わりに皇帝と総主教を風刺する図柄の敷物が置かれた。その図柄では,皇帝アンドロニコス2世が,口に轡を噛まされた大人しい駄獣の姿で描かれ,総主教アナタシオスがその皇帝をキリストの足許へ引っ張っていく様が描かれていたという。
 このような名誉棄損ないし不敬罪にあたる行為の犯人は摘発され処罰されたが,アタナシオスは犯人が処刑されなかったことを根に持ち,1310年には自ら総主教を辞任したが,このような総主教の人事により,皇帝アンドロニコス2世自身がかなり評判を落としたことは想像に難くない。

(5)両アンドロニコスの内乱と退位

 アンドロニコス2世はこのような失政を重ね,「緋産室の生まれ」として1282年から長きにわたり在位していたにもかかわらず,彼の皇帝としての威信は高まるどころかむしろ年々低下していた。小アジアから逃げ出してきた難民たちは,首都のゴミ捨て場で惨めな暮らしをしており,アタナシオスの後に就任した総主教ニフォン1世は,そうした貧民を救うため炊き出しを組織したが,炊き出しのために教会財産を使ったため,冒涜的であると非難されることになった。
 ビザンツの支配下に残った民衆も,カタルーニャ人などによる被害を受けたこともあって貧しい暮らしを強いられていることに変わりはなく,一方アンドロニコス2世は,課税対象となる住民が少なくなった中で陸軍を再建するため,残された住民にますます厳しく課税するようになる一方,プロノイアなる世襲の権利を主張するようになった貴族たちにはほとんど課税できず,首都や対岸のガラタで交易活動に従事しているヴェネツィア人やジェノヴァ人には全くと言ってよいほど課税できなかった。貴族と貧民たちの生活レベルの違いは,目を覆いたくなるような状態になっていたに違いない。
 晩年のアンドロニコス2世は,息子ミカエル9世に加え孫のアンドロニコス3世を共同皇帝に任命し,これによって帝位継承を盤石なものにしようとしていたが,孫のアンドロニコス3世は国境の危機などお構いなしに,取り巻きの連中たちと放埓な生活を送り,豪奢な生活に要する費用のうち祖父からの支給分で足りない分は,ジェノヴァからの借金で賄っていた。
 そして1320年秋,アンドロニコス3世は自分の恋敵たる色男を痛い目に遭わせてやろうとして無頼漢の一団を送ったところ,無頼漢たちは人違いと不運でアンドロニコス3世の実弟マヌエルを殺してしまった。アンドロニコス3世の父であるミカエル9世は,この事件に衝撃を受けて病を悪化させ,間もなく死んだ(この事件に関し,カンタクゼノスの回想録は何も触れていないが,彼に批判的なグレゴラスによると,カンタクゼノスはこの犯行を目撃したのみならず,加担者の一人でもあったという)。
 この不祥事に怒ったアンドロニコス2世は不肖の孫を叱責するも,この孫は父と弟の死を自分の責任と感じて反省するどころか,逆に自らが権力を掌握する好機と捉えて密かにその死を喜んでいるような有様であった。堪忍袋の緒が切れたアンドロニコス2世は,ついにアンドロニコス3世を共同皇帝から解任して帝位継承権を剥奪し,ミカエル9世の弟とその非嫡出子である別の孫を後継者に指名した。
 たちまち,廃嫡となった孫の権利を守ろうとする徒党が組まれ,名門貴族の生まれで帝室の姻戚,かつアンドロニコス3世の友人であったヨハネス・カンタクゼノスがその中心人物となり,カンタクゼノスはアンドロニコス3世の廃嫡を,悪魔に唆された仕業だと非難した。1321年にアンドロニコス3世は首都を脱出し,アドリアノポリス付近で支持者の一団と合流して反乱を起こした。両アンドロニコスによる長い内乱の幕開けであった。
 アンドロニコス3世は,前述のとおりかなりいい加減な放蕩者であり,民衆には減税を公約し,軍隊には給料の増額を公約するという,どう考えても相容れないような政策を掲げていたにもかかわらず,この反乱はトラキア地方で多くの支持を集め,ブルガリア王の支援も受けて強力になり,反乱軍は首都に迫った。
 アンドロニコス3世の反乱軍がこのように強力となった背景には,前述のとおりアンドロニコス2世が民に重税を課して不満を買っていたほか,彼自身が失政を重ね晩年は無気力となっており,貴族や民衆も無能な老帝の許で小アジアの完全失陥を座視するよりは,問題はあっても若いエネルギッシュな皇帝に帝国の将来を委ねたほうがまだ良いと考えた,という一面も否定できない。
 しかし,反乱軍側は首都入城を果たす手段が無く,皇帝側も反乱軍の農村部支配を切り崩す手段が無かったため,この反乱は6か月にわたり膠着状態の睨み合いが続いた。最後は老帝アンドロニコス2世が譲歩することで決着が付き,アンドロニコス3世は共同皇帝に復帰して後継者の地位を回復し,功労者のカンタクゼノスは帝国軍最高司令長官(メガス・ドメスティコス)の地位を得た。
 両者の和解は成立したものの,小アジアにおける絶望的な状況は改善しなかった。1322年に小アジア南部のフィラデルフィアが再びトルコ人に包囲され,1326年には北部の都市プルサがオスマンの息子・オルハンの手に落ち,この年はブルサと名を変えてオスマン朝の首都となった。
 アンドロニコス3世は,軍を率いてプルサ救援に向かわせてほしいと祖父に願い出ていたが許されず,トラキアのディデュモコイオンに置かれたアンドロニコス3世の宮廷では苛立ちの色が濃くなった。小アジアにおける領土の失陥に動揺していた彼らは,東方の領土が完全に失われる前に状況を挽回するには若い皇帝が必要だと考えており,もはや老帝が自然死するのを待っていては時機を失するとの結論に至ったのである。
 1327年夏,アンドロニコス3世は再び祖父に反旗を翻し,この反乱は再び多くの支持を集めた。1328年5月,大城壁の守備隊の一部を説得することに成功した反乱軍は首都に入城した。勝者となったアンドロニコス3世は,涙ながらに聖母マリアのイコンにすがっている祖父の姿に心打たれて,彼に危害を加えることはせず,退位させて修道院に隠棲させるにとどめた。こうしてアンドロニコス2世の長い治世は終わり,彼は退位の4年後に亡くなった。
 アンドロニコス2世は学問を好み,敬虔で善意で満ちた人物ではあったが,その適性は皇帝よりむしろ神学者の類に向いていた。彼は政治的には無能であり,無慈悲とはいえ才気に溢れていたミカエル8世の後継ぎに相応しくない人物であったとの評価が多い。 
 彼は父と異なり,「緋産室の生まれ」として46年間,ビザンツ皇帝としては歴代3位の長きにわたる治世に恵まれながら,最後まで皇帝に相応しい威信と民衆からの敬慕を獲得することが出来ず,最後は放蕩者たる同名の孫に帝位を追われることになった。その原因は彼の治世における失政がかなり多く,しかもその中には強力なトルコ人の侵入といった外的要因のみでは説明できないものも見られることから,筆者としてはアンドロニコス2世の治世を弁護する気にはなれない。

<幕間29>パレオロゴス朝ルネッサンス

 アンドロニコス2世の項目では,彼の失政について長々と述べてきたが,彼の治世における最大の業績は後に「パレオロゴス朝ルネッサンス」と称される文化的発展であり,この業績について一切触れないのは公平に反するだろう。
 アンドロニコス2世の首席大臣であり最後まで彼に付き従ったテオドロス・メトキテスは,十字軍の占領以来荒れ果てていた首都のコーラ修道院を14世紀の初めころに修復した。修道院の内玄関の上部には,キリストに修道院を捧げるメトキテスの姿が描かれているが,彼はトルコ風の装束をまとった姿で描かれており,当時のビザンツ人がトルコ人の文化的影響を受けていたことが窺われる。それ以外にも,コーラ修道院に描かれたモザイク画やフレスコ画は,一定の宗教的な様式美にこだわり進歩を否定してきたこれまでのビザンツ芸術とは一線を画しており,ビザンツ美術を代表する名作と評価されている。
 これらの作品は,同時代に活躍したイタリアの画家ジョット(ルネッサンス絵画フィレンツェ派の祖とされている)の作品とよく似ているため,かつてはイタリア人の作品だと考えられていたが,今日ではビザンツ人の手による作品であることが確認されている。パレオロゴス王朝時代に発達したビザンツ絵画は,イタリアのルネッサンスに影響を及ぼしたと考えることもできよう。なお,コーラ修道院の建物は,現在イスタンブールのカーリエ博物館として残っており,これらの作品は今でも同博物館で見ることができる。
 文芸面では,相変わらず古典の収集と編纂が熱心に行われ,学問の中心は古典の研究と注釈であった。この時期にはアリストファネス,エウリピデスなどの作品が編纂され,今でも古典研究の基礎として活用されている。前述のメトキテスも古典の収集に努め,彼の修復したコーラ修道院は膨大な量の古典作品が収められた図書館としての機能を備え,さらに彼自身も「生きた図書館」と呼ばれるほどの碩学であったが,彼の弟子であるニケフォロス・グレゴラスは『治世について』という古典模倣作品を著している。この作品はプラトンの対話形式を模倣し言葉遣いもそっくり真似ていたため,長らくプラトン自身の作品と誤解されていた。
 一方で文芸の裾野も広がっており,皇妃選定コンテストをモチーフとした『ペルタンドロスとクリュサンツァ』をはじめとする俗語文学も普及した。ただし,神学や哲学,歴史などは依然として古典ギリシア語で書かれており,ダンテの『神曲』などを生み出したイタリアと異なり,これらの学問分野が俗語しか理解できない一般庶民に開かれることはなかった。
 コンスタンティノポリス劫略後に生じた,自らを「ヘレネス」と呼ぶビザンツ人の民族意識はパレオロゴス朝時代に更なる高まりを見せており,メトキテスは積極的に「ギリシア人たれ」と呼びかける内容の作品を著しているが,これも俗語で書かれたものではないため,知識人の説く民族意識が庶民の間まで深く浸透していたか否かは不明である。
 自然科学の分野においては,イスラム世界も古代ギリシアの作品を受け継いでこれを独自に発展させており,その発展速度はビザンツ人より速かった。そのため,この時代にはアラビア語やペルシア語で書かれた天文学書が次々とギリシア語に翻訳され,ビザンツ天文学の発展に寄与した。
 当時のビザンツ帝国では,ガイウス・ユリウス・カエサルの定めたユリウス暦が使われていたものの,この時期には325年のニケーア公会議で3月21日と定められた春分の日が10日以上もずれていたため,天文学も研究していた前述のグレゴラスは,1年を365日と400分の97とする暦の改革案を提示している。この改革案は同時代人であるロジャー・ベーコンの改革案より優れており,二世紀後に採用されたグレゴリウス暦の内容を先取りしたものであった。
 しかし,グレゴラスの提案は彼らの保護者であったアンドロニコス2世の退位によって日の目を見ることはなく,正教会では未だにユリウス暦が伝統として尊重され,カトリックの採用したグレゴリウス暦を認めるか否かは未だに論争の対象とされている。もしグレゴラスの提案がビザンツ帝国で日の目を見ていたら,歴史は大きく変わったかもしれない。
 前述のメトキテスは,昼は大臣として政務に従事し,夜は学問にいそしんだと言われているが,ビザンツ帝国における政治家の多くは,古典の知識を備えた文人でもあった。このあたりの事情は,特に宋代の中国と似ている。皇帝も例外ではなく,ミカエル8世も自伝を著しているほか,アンドロニコス2世や後のマヌエル2世も学問好きな皇帝として知られ,多くの著作を残している。
 アンナ・コムネナの生きた時代と同様,女性も文化の担い手であった。ミカエル8世の姪にあたるテオドラ・ラウーライナは,2世紀の修辞家アリスティデスの演説の写本を自ら著したほか,自ら隠棲した修道院に写字生や挿絵画家を集めて,見事な挿絵の入った見事な写本を数多く完成させた。テオドラの修道院で作成された写本は,アトス山の修道院の他,西欧の各地に伝わっている。

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