第25話 ビザンツ帝国の内紛と凋落

第25話 ビザンツ帝国の内紛と凋落

(1)「祖父を追放した放蕩者」アンドロニコス3世

 祖父を追い落として帝位に就いたアンドロニコス3世(在位1328~1341年)は,カンタクゼノスを首席大臣兼顧問に任命し,新体制を発足させた。若い新皇帝は,人気取りのため将来のことを考えない減税を約束するなどいい加減なところもあったが,帝国防衛という皇帝の任務には真面目に取り組み,ここ数十年にわたる退潮を挽回する準備に取り組んだ。
 1329年,アンドロニコス3世とカンタクゼノスは,オスマン朝の軍勢に包囲されていたニコメディアを救援するため小アジアに軍を進めたが,ペレカノン村付近の戦いで惨敗し,アンドロニコス3世自身も足を負傷し何とか逃げ帰る有様であった。祖父の在世中には,小アジアへの救援軍派遣を許可しない祖父の態度を弱腰と非難していたアンドロニコス3世であったが,即位後わずか1年にして,彼はオスマン軍と戦っても勝ち目がないという祖父の判断が正しかったことを,皮肉にも自身の敗戦によって実証することになった。1331年にはニケーアがオスマン朝の軍門に降りイズニクと改名され,1337年にはニコメディアも陥落しイズミットと改名された。
 この失敗で小アジアの奪回を断念したアンドロニコス3世は,1338年にオスマン朝の2代目当主オルハンと協定を結び,皇帝はオルハンに毎年の貢納を約束し,オルハンは見返りとして小アジアに残るビザンツの要塞を攻撃しないことを約束した。1340年には,スミルナとその周辺を支配下に収めていたアイドゥン侯ウムルとも,傭兵の提供に関する協定を締結した。祖父のアンドロニコス2世が試みて頓挫していた海軍の再建にも取り組み,新しいビザンツ海軍は10隻という小規模なものであったが,緊急時には100隻の商船を動員できる態勢を整えた。
 アンドロニコス3世は,ブルガリア領となっていたトラキア地方の併合も試みており,祖父との共治時代には当時のブルガリア王ミハイル3世シシュマンと戦ったが,十分な兵力を集められなかったためトラキア北東部に進出したブルガリア軍を迎撃できず,1324年の条約ではトラキア北部やザゴリアなどを失った。1332年には雪辱を期して,ブルガリア領となっていたトラキア北東部に進軍するが,ブルガリア王イヴァン・アレクサンダル率いる軍にルソカストロの戦いで敗れた。もっとも,当時のブルガリアが内乱に悩まされていたこともあり,ブルガリアとの戦争はアンドロニコス3世の娘マリアをイヴァンの長男ミハイルに嫁がせることで和平が成立し,領土は現状維持にとどまった。
 小アジアとブルガリアでは失敗したアンドロニコス3世だが,西方ではいくつかの軍事的成功を収めた。1329年には,ジェノヴァ人がビザンツ領だったキオス島を不法に占拠するが,キオス島の住民がジェノヴァ人の支配に対し反乱を起こすと,アンドロニコスはこれに乗じ,自ら艦隊を率いてこの島を占領した。1333年にはミカエル8世も奪還できなかったテッサリア地方がビザンツ帝国に戻り,1334年にはジェノヴァ領だった小アジアのフォカエアを奪取した。1336年にはレスボス島もジェノヴァ人の手から離れた。
 そして1338年,アンドロニコス3世はウルムの派遣した援軍とともに西方に向かい,アルバニア人の反乱を鎮圧すると,その余勢を駆って1340年には,当主がまだ10代の若年で弱体化していたエピロス専制公国を滅ぼし,帝国に再統合した。しかし,アンドロニコス3世の勢いもここまでで,は翌1341年に44歳で病死してしまった。
 アンドロニコス3世に対する歴史家の評価は分かれており,怠惰で無能な君主だったとの評価もあれば,逆に有能で高い知性を備えていたとの評価もある。彼の治世については,小アジアへの救援失敗で意気消沈することなく目を西方に向け一定の軍事的成果を挙げたこと,内政面でも4人の裁判官から成る「ローマ人の普遍的正義」と名付けられた最高裁判所を設置し,汚職の摘発に一定の成果を挙げたことは確かに評価できるが,幼い息子を残して死んだアンドロニコス3世のささやかな軍事的業績は,死後の内紛により早くも水泡に帰することとなった。

(2)「中途半端な歴史家皇帝」ヨハネス6世カンタクゼノス

 アンドロニコス3世の息子で,彼の死後帝位に就いたヨハネス5世(在位1341~1391年)は,即位当時わずか9歳の子供であった。彼の母サヴォワのアンナと総主教を長とする摂政会議が実権を掌握したが,このような危機的状況では,最も優れた軍人が帝国の舵取りをすべきものと誰もが思っていた。その筆頭候補に挙げられたのはヨハネス・カンタクゼノスであり,カンタクゼノス派の面々は首都で騒々しい示威行為を行い,彼をもっと高い地位に就けるよう要求した。
 当のカンタクゼノスはこの事態にひどく当惑し,帝位を狙う野心は全く無かった(と彼自身は述懐している)が,総主教ヨハネス・カラカスは自らが政治の実権を握るためカンタクゼノスの排除を企て,カンタクゼノスが軍の指揮を執るため首都を離れると,カンタクゼノスの一族は投獄され,彼の財産は差し押さえられた。カンタクゼノスもやむなく反乱を起こし,彼はディデュモテイコンで軍隊によって皇帝と宣言された(ただし,この時点でカンタクゼノスはヨハネス5世の廃位を主張しておらず,皇帝ヨハネス6世として,幼い皇帝ヨハネス5世の統治を助けると主張していた)。「両ヨハネスの内乱」と呼ばれる,長い内乱の幕開けであった。

両ヨハネスの第1次内乱

 カンタクゼノスによるこの反乱はなかなか決着が付かず,膠着状態は6年間にも及んだ。長い帝国史上も前例のない長期間の反乱となった原因は,帝位継承の問題が社会的な階級対立と結びついたからである。この時期の帝国は,課税対象の住民が少なくなると,軍隊の動員や首都の維持に充てる経費をますます厳しく取り立てるようになり,多くの民衆は貧困と重税に喘いでいたが,カンタクゼノス一族をはじめとするトラキアやマケドニアの地主たちは広大な所領を支配しているにもかかわらず,彼らは「プロノイア」と称する世襲の権利を主張し,ほんのわずかしか租税を納めておらず,かつての軍事貴族たちのように自らの私領で軍を編成し皇帝の軍役に奉仕することもなかった。こうした貧富の格差拡大と実質的な逆累進課税に対する民衆の不満が,この反乱を契機に爆発したのである。
 アドリアノポリスでは,カンタクゼノスの即位は富裕層の市民からは歓喜をもって迎えられたが,それほど豊かでない市民は暴動を起こし,カンタクゼノス派に属する富裕市民の邸宅を略奪したため,家主は命からがらカンタクゼノスの陣営に逃げ込むしかなかった。同じような暴動が帝国の各地で起こり,テッサロニケでは熱心党(ゼーロータイ)と呼ばれる職人や農民の集団が支配権を掌握し,12人の執政官から成る合議制の政体を樹立した。熱心党は首都の摂政政府への忠誠を宣言して,カンタクゼノスの入城を拒否した。帝国軍もすべてがカンタクゼノスの側に付いたわけではなく,海軍長官兼首都長官のアレクシオス・アポカウコスは,カンタクゼノスによって取り立てられた人物であったにもかかわらず,政治的打算から摂政政府側に付いた。
 熱心党が掲げた政策については,収穫の3分の1は帝国に,3分の1は土地の所有者に,残る3分の1は土地の耕作者に分配されるべしと主張したことは分かっているが,記録を残したのが彼らと敵対する富裕層ばかりであったため,それ以外のことは残念ながらよく分からない。それでも熱心党の存在が,11世紀以降から続いていた貴族層による帝国の支配体制を根本から揺るがすものであったことは間違いない。
 本来,ビザンツ帝国の貴族が富裕であるにもかかわらず租税を免除されてきたのは,彼らが国防という重要な責務の担い手であったからであり,貴族層が無能ないし怠慢により国防の責務を全く放擲し,そのツケが貧民にますます重くのしかかる状況では,貴族政治に対する国民の不満が頂点に達し,不満の矛先が貴族層の代表者たるカンタクゼノスに向かうのも無理はなかった。
 これに加えて,国内では宗教的な対立も存在していた。当時のギリシア正教会では,神に近づくために単純な祈りの反復を基本とし,集中力を高め修道士の霊的感性をより高い次元へと引き上げることを目指した呼吸法を組み合わせた静寂主義の理論が発達しており,当時における静寂主義の代表的存在は,アトス山のエスフィグメヌ修道院長を務めていたグレゴリオス・パラマス(1296~1359年)であった。
 これに対し,南イタリア出身の正教徒修道士で,コンスタンティノポリスのアカタレプトス修道院長だったバルラームは,こうした静寂主義の主張を激しく論難し,他の多くの人々も,静寂主義を実践する者たちを「臍をにらむ奴ら」と嘲笑していた。バルラームは,先帝アンドロニコス3世から1339年に外交使節として西欧に派遣され,西方教会で普及していたトマス・アクィナスの神学(静寂主義と異なり,アリストテレスの影響を受けた論理的な神学である)にも触れていたことで,静寂主義に対する疑念を一層強めるに至った。バルラームは,パラマスを標的にした著作の中で静寂主義の実践法について強烈な批判を表明したため,彼は1341年の教会会議で有罪宣告を受け,バルラームは翌年にカトリックに転向し,ローマ教皇によって南イタリアのゲラチェ司教に任命された。
 このような状況の中,皇帝を名乗っていたカンタクゼノスは,1341年にパラマスをテッサロニケの府主教に任命し,静寂主義の神学を確立させるよう支援したのだが,都市の市民たちは修道士たちの静寂主義に批判的であり,パラマスもテッサロニケでは受け容れられず,着任できない状態になってしまったのである。
 このように,国民の広範な支持を取り付けるのに失敗し,一時劣勢に陥っていたカンタクゼノスは,この時点で反乱を諦めることもできたはずであり,そうすればビザンツ帝国のためにもなったであろう。しかし彼は諦めず,ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン王(以下「ドゥシャン」で統一)の治めるセルビア王国へ亡命し,支援を求めた。
 セルビアはバルカン西北部の小国であったが,14世紀には商業や鉱業の発展,アドリア海沿岸における対ヴェネツィア貿易に支えられて急速に国力を増しており,1331年に即位したドゥシャンの許で最盛期を迎えていた。カンタクゼノスはドゥシャンの援助を受けて再びビザンツ国内に戻り,マケドニアとテッサリアにおける支配権を回復した。
 また,カンタクゼノスは個人的な友誼で結ばれていたアイドゥン侯ウムルからも援軍を得ることに成功し,ウムルからの援軍はセルビア軍以上の大軍であったが,残念ながらウムルからの援軍は途中で自国を守るため引き揚げてしまった。
 ウムルの拠点であるスミルナから出撃する海賊たちが自分たちの船を襲うことに不安を感じていたヴェネツィアは,対ウムルの十字軍を呼び掛けるようローマ教皇を説得し,1344年に十字軍はスミルナを占拠,1348年にはウムル自身も十字軍との戦いに倒れた。カンタクゼノスは,皮肉にも同じキリスト教徒の十字軍によって貴重な同盟者を失ったのである。
 セルビア王ドゥシャンも,やがてカンタクゼノスの敵に回った。カンタクゼノスはドゥシャンに援助を求めるにあたり,従前の歴代皇帝たちがやってきたように,その報酬として多額の金貨を提供することが出来なかった。そのため,ドゥシャンは協力の報酬として,旧エピロス領であるマケドニアやテッサリア地方を要求したが,カンタクゼノスはドゥシャンの援助を受ける際,この要求に対し明確な返答を与えなかったようである。
 その後,マケドニアやテッサリアの支配権を回復したカンタクゼノスはドゥシャンの要求を拒絶したが,これに怒ったドゥシャンはヨハネス5世を支持すると称して,これらの地方をさしたる抵抗も無く併呑してしまい,これによってアンドロニコス3世時代に奪回された旧エピロス領はすべて失われることになった。しかもドゥシャンは,1346年にスコピエで自ら「セルビア人とローマ人の皇帝」を名乗り,その野心を明らかにした。
 もっとも,ドゥシャンはコンスタンティノポリス征服に海軍が必要であることを認識しており,ヴェネツィアに同盟を申し入れたが,ヴェネツィアはこの申し出をあっさりと拒否した。ヴェネツィアは,コンスタンティノポリスをはじめとするビザンツ帝国の重要な交易拠点で自分たちが有利な関税特権を享受できるのは,自分たちの経済力と海軍力に対抗できない弱小国である故であることをよく承知しており,ドゥシャンがビザンツ帝国を統合してバルカン地方に強力な統一国家を建設すれば,次には自分たちの貿易特権を否定しようとすることはまず間違いなく,ヴェネツィアにとってドゥシャンの征服事業に協力するメリットは無かったからである。
 一方,ビザンツ帝国に残されたトラキア地方では,摂政政府派とカンタクゼノス派の両軍が町や村を占領しては奪い返されるという状況が続き,やがて摂政派の軍人アポカウコスが暗殺され,1345年にはカンタクゼノスがアドリアノポリスの占領に成功することで優勢に立ったが,摂政政府にとどめを刺すには力不足であった。そこでカンタクゼノスは,1346年に自身の娘テオドラを,以前からの知己であったオルハンに嫁がせ,オスマン朝から援軍を得た。1347年には,隠れカンタクゼノス派の者が首都の大城壁に内側から穴を開けて反乱軍を入城させ,長きにわたる内乱はようやく終結を迎えた。

ヨハネス6世カンタクゼノスの治世

 こうして,カンタクゼノスがヨハネス6世(在位1347~1354年)として皇帝に即位したが,長引く内乱により帝国は事実上破産していた。帝冠をはじめ帝位を象徴する品々は,摂政政府が借金の担保としてヴェネツィアに引き渡してしまったため,帝冠を飾る宝石はガラス製の模造品に代わっていた。宮廷で使われていた金銀の食器セットも宝石と同様の運命を辿っていた。もちろん国庫は空であり,カンタクゼノスは財政再建のため葡萄酒などの贅沢品に課税したが,焼け石に水であった。しかも首都では1年間にわたって黒死病が猛威を振るい,カンタクゼノスの末子を含む何千人もの犠牲者を出した。
 カンタクゼノスも内乱による打撃の深刻さを理解しており,「外征は夏の外部的な暑気に過ぎず,常に我慢できるし時には有益でさえあるのに対し,内乱は体内の臓器を手の施す術もないほど消耗させる熱病による死の熱気である」との言葉を残している(ただし,この言葉を書き残しているのは彼に批判的だったグレゴラスであり,カンタクゼノス自身の回想録では言及されていない)。反対派の粛清は行われず,若いヨハネス5世はカンタクゼノスの娘ヘレネと結婚し,共同皇帝として統治することになった。両者間で交わされた協定は,今後10年間はカンタクゼノスが正帝として統治するが,その後は二人の皇帝が対等な地位となり,ヨハネス5世は帝位継承者として義父の死後後を継ぐという,若干変則的なものであった。
 もっとも,「セルビア人とローマ人の皇帝」を名乗ったドゥシャンの勢力はいまやビザンツを凌ぐものになっており,また両帝間に和解が成立し,反乱の大義名分が失われてもテッサロニケの熱心党は降伏に応じることなく,カンタクゼノスが任命したテッサロニケ府主教パラマスも着任できないままであった。
 一方,アンドロニコス3世時代に奪回したキオス島は,内乱に付け込んでジェノヴァに再奪回されており,ジェノヴァとは戦争状態が続いていた。1348年夏,カンタクゼノスがガラタの対岸にある造船所で戦艦を建造しているのを知ったジェノヴァ人は,これを自分たちに対する攻撃準備かと恐れ,先制攻撃を仕掛けて建造中のガレー船に火を放った。翌年の春にカンタクゼノスは反撃を命じたが,この戦いは屈辱的な敗北に終わった。突風でビザンツ船の操縦が効かなくなり,乗組員の多くが我を忘れて海へ飛び込み,その後ジェノヴア船が出動し,放棄されたビザンツ船を曳航していった。翌日,大宮殿の沖をジェノヴァ船が挑発するかのように行き来し,奪い取ったビザンツ軍旗を海上でこれ見よがしに引きずり回した。
 カンタクゼノスは,こうしたジェノヴァ人への対処は後回しにして,オスマン朝の援軍を得て,まずはテッサロニケの奪回に取り組んだ。窮地に陥ったテッサロニケの熱心党は,ちょうど周辺地域が概ねセルビアに占領されていたこともあり,1349年秋に最後の賭けとして,ドゥシャンに町を明け渡そうとした。しかし,テッサロニケではこれに反対する反動クーデターが発生して熱心党政権が打倒されたため,7年にわたって続いた熱心党の支配はようやく終わりを告げた。
 カンタクゼノスは,熱心党について「大半は無産の彼らが,持てる者の財産を略奪しようとしただけのことである」と切り捨て,最後まで彼らの政治的主張に耳を貸すことはなかった。もともと自らの保身のため皇帝に名乗りを挙げたカンタクゼノスは,皇帝となっても帝国のため自らの私財を擲つようなことはせず,富裕なカンタクゼノス家の私財はあくまで彼個人のものとして引き続き保持された。カンタクゼノスの支持者たちは,摂政政府側に資産を奪われた者も多かったため,カンタクゼノスのみが富裕な資産を保有し続け,自分たちにはろくな恩賞もないことに不満を募らせることになった。
 熱心党を鎮圧した後のテッサロニケにはヨハネス5世とその母サヴォワのアンナが入り,府主教パラマスもようやく着任することができた。熱心党はもともとヨハネス5世を支持していたということもあって,この町の統治は概ね順調に行われたが,セルビアに奪われた領土はほとんど回復することができず,ビザンツ帝国はテッサロニケと周辺地域を辛うじて確保するにとどまった。
 なお,静寂主義をめぐる論争は,1341年の教会会議でバルラームが有罪宣告を受けた後も収まらず,1347年と1351年にも教会会議が行われ,最終的にカンタクゼノスが主催した後者の教会会議において,パラマスの唱える静寂主義は正教会の正統教義として認められ,バルラームなどが唱えた西欧的な理知的神学は斥けられることになった。このようなギリシア正教の静寂主義は,西欧のキリスト教諸国では類例が見られず,むしろイスラム教のスーフィズムなど東方宗教の多くと近似しているという。13世紀初頭のビザンツに静寂主義を伝えたのは,エジプトのシナイ山で修業した経験を持つグレゴリオス・シナイテスであると伝えられており,当時のビザンツは文化面でも宗教面でもイスラムの影響を受けていたことが窺われる。
 他方,ジェノヴァとの関係に決着をつける機会をカンタクゼノスに恵んだのは,1350年から始まっていた第3次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争であった。黒海の覇権をめぐりジェノヴァと対立していたヴェネツィアは,サルディーニャ島を領有してジェノヴァと政治的・経済的に対立していたアラゴン王ペドロ4世と同盟を結び,アラゴンは1351年にヴェネツィア側で参戦した。
 この戦いではカンタクゼノスもヴェネツィア側に加担して,ヴェネツィアのガラタ攻撃を支援した。その後,ニコロ・ピサーニ率いるヴェネツィア・アラゴン連合艦隊がビザンツ艦隊に合流し,1352年2月にジェノヴァ艦隊と衝突した。このボスフォラス海峡の海戦では双方が大きな損害を被ったが,アラゴン艦隊の被害は特に大きく,ピサーニは戦闘結果を引き分け以上にすることが出来なかった。
 ジェノヴァ艦隊の司令官パガニーノ・ドーリアは,ビザンツ帝国と和平交渉を行い,ビザンツをヴェネツィアから引き離すことにした。交渉の結果,ジェノヴァの本国政府はガラタ居留地のジェノヴァ人が行った無責任な行為についてビザンツ側に損害賠償を行うとともに,ガラタはビザンツ帝国の許可の下にジェノヴァ人が保有しているという建前を維持することになった。
 ポデスタと呼ばれたガラタの執政官は,ジェノヴァ本国で任命された後,任地に付くと皇帝にお目見えして,あたかも帝国の官僚であるかのように誓約をするものとされた。ガラタの城壁にはジェノヴァの紋章にビザンツ皇帝の紋章を組み入れた図柄が掲げられ,ビザンツ側の体面は何とか保たれた。もっとも,ジェノヴァ人がガラタの居留地を拠点に,コンスタンティノポリスの商業活動を左右する存在となり,かつ彼らは免税特権を認められているため,首都の商業活動が繁栄している割には帝国に税収が入ってこないという実情は相変わらずであり,またキオス島はビザンツ帝国から最終的に失われることになった。
 なお,第3次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争は,劣勢に立たされていたジェノヴァが一時的にミラノの支配を受け入れることで勢力を挽回し,1354年にサピエンツァの戦いでパガニーノ・ドーリア率いるジェノヴァ艦隊がヴェネツィア艦隊を不意打ちして大勝利を収め,1355年に和平が成立した。これによって危機を脱したジェノヴァは,1356年にミラノから再独立した。

両ヨハネスの第2次内乱

 外からセルビアの危機に晒されているビザンツ帝国は,またも内紛に悩まされていた。カンタクゼノスが1349年に次男マヌエルをミストラの専制公に任命し,更に長男のマタイオスを自らの共同皇帝にしようと画策していることが知れ渡ると,カンタクゼノスが即位時の協定に反し,カンタクゼノス家によるビザンツ帝国支配を確立しようとしていることは誰の眼にも明らかとなってきた。
 1352年,成年に達したヨハネス5世は自らの立場に納得せず,セルビアやブルガリアと同盟を結んでカンタクゼノスに反旗を翻した。一方,カンタクゼノスは娘を嫁がせていたオスマン朝に頼り,オルハン侯の息子スレイマンはカンタクゼノスを支援するため軍団とともに派遣された。スレイマンは騎兵隊を率いてバルカンに渡ると,マリツァ河畔でヨハネス5世陣営の連合軍に完勝した。ヨハネス5世はテッサロニケに退き,一旦はテネドス島のラテン人勢力の許に身を寄せざるを得なくなった。
 こうしてパレオロゴス家を帝権から排除したヨハネス6世は,本格的にカンタクゼノス王朝の創設に向けた一歩を踏み出し,長男マタイオスを正式に共同皇帝・後継者に擁立しようとした。しかし,当時の総主教カリストス1世はマタイオスへの戴冠を拒否して罷免され,後任のフィロテオス1世コキノスによって,マタイオスは1353年4月に共同皇帝として戴冠を受けた。
 しかし,カンタクゼノス家の勝利は自力によるものではなくオスマン朝の軍事力に頼ったものであり,戦勝後も一部のトルコ兵が祖国へ戻らず,帝国に残された数少ない領土トラキアを荒らし回り,民衆を恐怖に陥れた。カンタクゼノスは,何とか自力でこれらのトルコ兵に武器を置かせることに成功したが,オスマン朝も,既にカンタクゼノスの忠実な同盟者ではなくなっていた。
 既に1352年の段階で,スレイマンはマルマラ海のヨーロッパ側にあるジュンベの町を勝手に占拠しており,さらに1354年3月には,地震によって城壁が崩壊したダーダネルス海峡沿いの都市ガリポリを占拠し,スレイマン率いるオスマン軍は城壁を修復してこの要塞に立て籠もった。
 カンタクゼノスは,ジュンベとガリポリの返還について協議するための会談を申し入れたが,オルハン侯は体調不良を理由に会見を先延ばしにした。一方,首都の市民たちの間では正統な「緋産室の生まれ」たるパレオロゴス家に対する忠誠心が未だに強く,ヨハネス5世を排除したカンタクゼノスの行為は簒奪と専横であるとして非難を浴び,その地位は揺らいだ。ヨハネス5世はこうした状況を利用し,同年ジェノヴァ人貴族フランチェスコ・ガッティルシオの支援を受け,コンスタンティノポリスに乗り込んだ。
 コンスタンティノポリスでは,アウグステイオン広場を占拠したヨハネス5世の軍と,おそらく当時は廃墟に近い建物になっていたであろう大宮殿に立て籠もったカンタクゼノス軍との睨み合いになった。終わりの見えない権力争いの煩わしさに嫌気が差したのか,12月9日,カンタクゼノスは自ら退位を宣言し,統治をヨハネス5世に譲り渡し,妻エイレーネーと共に隠退し修道院に入った。ヨハネス5世の復位に貢献したガッティルシオは,この功績によりレスボス島を領地として与えられた。
 なお,セルビア王のドゥシャンは,自らの野望を実現するためコンスタンティノポリスへの遠征を進めていたが,その途上1355年12月5日,テッサロニケで急死した(近年の検視により,死因は毒殺だったことが判明している)。その後,セルビアの王位はドゥシャンの子ステファン・ウロシュ5世が継いだが,彼は父王が築いたセルビア王国を維持する力量を持たず,セルビアの諸侯は各地で自立し内紛により弱体化したので,セルビアによる危機は辛くも回避された。
 もっとも,カンタクゼノスの長男マタイオスはなおもヨハネス5世と対立を続けており,調停のため既に修道士ヨセフと名乗っていたカンタクゼノスが呼び出された。彼は1357年,息子に帝位への要求を取り下げペロポネソスへ退くよう説得することに成功し,これで内乱はようやく終結したが,もはやビザンツ帝国にはオスマン朝の進出を防ぐ力はなく,カンタクゼノスの退場後,バルカン半島には急速にオスマン朝の勢力が浸透し,ビザンツ帝国に残された領土はコンスタンティノポリス,テッサロニケ,及びカンタクゼノスによって要塞化されていたセリュンブリアを含むいくつかの都市と,ペロポネソス半島にあるモレア地方の領土を残すのみとなってしまった。
 ビザンツ帝国をここまで絶望的な状況に追いやったのは,当時からヨハネス6世カンタクゼノスこと修道士ヨセフの責任だと広く言われていたので,彼は約40年間にわたる彼の半生を記した回想録を執筆し,何としても自らの容疑を晴らそうと試みた。
 彼の回想録は歴史家にとって重要な史料となったが,その内容は自らとその友人たちに対する空虚な賛辞と自らの行為に対する弁解に満ちていた。彼は政治家及び将軍として無能な人物ではなく,アンドロニコス3世の許では有能な首席大臣及び顧問として活躍したが,皇帝となるにはあまりにも中途半端な人物であった。
 自ら皇帝として帝国を再建しようという壮大な野望からではなく,単に自分と一族の保身という消極的な目的から帝位に名乗りを挙げ,それ故に皇帝として必要な帝国統治のビジョンも統治への強い熱意も持ち合わせておらず,無定見に外国の軍隊を招き入れて帝国が領土の大半を失う原因を作ったのみならず,国内で十分な支持も得ていないのに,ヨハネス5世との協定を破って自らの王朝を樹立せんとの中途半端な野心を抱いて更なる内乱の原因を作った行為については,もはや弁護する余地もない。

(3)「落胆と屈辱の星に生まれた者」ヨハネス5世

 ヨハネス5世の在位期間は,日本では1341年から1391年までと表記するのが通例であり,この数字だけを見ればあのバシレイオス2世をも超える,ビザンツ皇帝としては最長の50年間在位していたということになる。しかし,彼が両ヨハネスの内乱を制して実権を回復したのは1357年であり,その頃の帝国にはオスマン朝による征服を防ぐ力は無くなっていた。
 ヨハネス5世の治世下で行われたオスマン朝のバルカン進出に関しては,ビザンツ側の史料が乏しいため,主にオスマン朝側の史料に基づいて述べることにする。オスマン朝では,第2代君主オルハン侯の後を継ぐのはスレイマン皇子と目されていたが,彼は1357年に不慮の落馬事故で亡くなり,オルハン侯も1359年頃に亡くなった。後継者争いを制して第3代君主となったのはオルハンの次男ムラト1世であり,ムラトは即位後最初の2年間を,アナトリアで起きた反乱鎮圧に費やした(ただし,オルハン死去の時期については史料によって1359~1362年と幅があり,はっきりしない)。
 この間,オスマン帝国のバルカン進出は止まっていたことになるが,相次ぐ内乱で国庫が破産状態にあり,領土の大半をセルビアに奪われていたヨハネス5世には,この好機を生かして形勢挽回を図る力は残されていなかった。

バルカン半島におけるオスマン朝の台頭

 一方,アナトリアの内乱を制したムラトは,ガリポリを拠点として本格的なバルカン半島進出に乗り出してきた。ムラトの家庭教師(ララ)を務め,彼に最も信頼されていた将軍ララ・シャヒーン・パシャ率いるオスマン軍は,1362年7月にバルカン半島に派遣され,サズルデレの戦いでビザンツ軍を破ると,1363年にアドリアノポリスを占領し,この都市はエディルネと改称された。トラキア地方における北方への守りの拠点であるフィリッポポリス(トルコ語でフィリベ)を含め,トラキア地方の大半はオスマン朝の手中に帰し,トラキアでビザンツ帝国に残された領土は,首都コンスタンティノポリスと,カンタクゼノスによって要塞化されていたセリュンブリアなどごく一部を残すのみとなった。
 オスマン朝のバルカン進出に危機感を抱いた教皇ウルバヌス5世は対オスマン十字軍を主唱し,これに応じたマジャル,ブルガリア,セルビア,ワラキア,ボスニアから成る連合軍がエディルネに進軍した。十字軍は数では圧倒的に優勢であったが,オスマン朝の将軍イジ・イル・ベイが十字軍の偵察に向かったところ,兵力の優勢に驕った十字軍は宴会を始め完全に防備を怠っていたので,イジ・イル・ベイは援軍を要請することなく,夜間に酔っぱらって眠っていた十字軍を奇襲し,この襲撃を受けた十字軍は大混乱に陥り,逃げようとした者の多くがマリツァ川で溺死した。1364年におけるこの戦いは「マリツァの戦い」「マリツァ河畔の戦い」などとも呼ばれるが,後の1371年に行われた戦いと区別するため,トルコ側では「セルビア総崩れ」を意味する「スルプ・スンドゥワ」の戦いと呼ばれている。
 ムラトはバルカン半島におけるオスマン朝の勢力を維持するため,1366年にエディルネをヨーロッパ側の都と定め,その後のオスマン朝(オスマン帝国)は,1453年にメフメト2世がコンスタンティノポリスを征服するまでの間,ヨーロッパ側の都エディルネ,アジア側の都ブルサという二都体制が続くことになる。
 オスマン軍と十字軍が戦っている間,ヨハネス5世に出来たことは1366年にガリポリを奪回したことくらいであり,しかもガリポリ奪回はビザンツ軍が自力で行ったものではなく,同年にサヴォイア伯アメデーオ率いる遠征軍がオスマン朝からガリポリを奪取し,これをビザンツ皇帝に献上したことにより実現したのである。
 もはやビザンツ帝国には,オスマン朝の進出による危機的状況を自力で打開する力は残されていなかった。ヨハネス5世は1365年,強力な隣国であるマジャル王国の首都ブダへ自ら赴き援軍を依頼したが,彼はマジャル王ラヨシュ1世を前にして下馬しなかったためラヨシュを怒らせ,援軍が欲しいならカトリックに改宗し,ローマ教皇の宗主権を認めるべきだと言い渡されるだけの結果に終わった。しかも,その帰途ではブルガリアに入国を拒否され,ヴィディンの町で数か月間足止めされ,ようやく船でドナウ川を下り帰国することができた(もっとも,マジャルやブルガリアのこうした冷たい反応は,両国とも1364年の敗戦で大きな打撃を受けたばかりであったことも考慮に入れる必要があり,ヨハネス5世の訪問は時機が悪かったとも言える)。
 この時点で,ビザンツ帝国は深刻なジレンマに直面した。マジャル王国を含むカトリック諸国から援軍を送ってもらうには,まずビザンツ帝国がカトリックに改宗するしかないのは,これまでの交渉経過から証明済みであった。皇帝のみならず,小アジアで唯一ビザンツ側に留まりトルコ人に抗戦していたフィラデルフィアの町も,皇帝からの援軍が全く来ないためローマ教皇に使節を送り救援を依頼したが,教皇から戻ってきたのは,諸君はカトリックに改宗しなければならぬ,援軍が送られるのはそれからだという手紙だけであった。
 しかし,ラテン人の主張に沿って教会分裂に終止符を打つというやり方は,ビザンツ人の激しい怒りを買って失敗に終わるだろうということも,ミカエル8世の前例から証明済みであった。リヨン公会議が行われた時代から100年近くが経過しても,ビザンツ人の反ラテン人感情は,衰えるどころかますます増幅していた。ガラタに住む当時のドミニコ会修道士によると,この頃のビザンツ人はラテン人の使ったカップを,まるで汚染されたかのように割ってしまうことさえあったという。
 ヨハネス5世は窮余の策として,少なくとも交渉の用意はあるという態度を見せることで西欧の援軍を引き出そうとした。1367年6月にローマ教皇の代表団がコンスタンティノポリスに招かれ,ビザンツ側は既に修道士ヨセフとなっていたかつての皇帝ヨハネス・カンタクゼノスが呼び出され,彼はその後数週間にわたって続く討論において主導的役割を果たすことになった。
 もっとも,ビザンツ側が教会分裂の解決のため公会議を招集すべきと主張したのに対し,ローマ教皇庁側は公会議を必要とする理由が理解できなかった。こうして明確な結論が出ないまま交渉が手詰まり状態になると,ヨハネス5世は新たな解決策に打って出た。
 ビザンツ帝国では,前述のとおり反ラテン感情が更に高まっていたが,オスマン朝の脅威が明らかとなるにつれて,宮廷内では親ラテン派が台頭してきた。その代表であったデメトリオス・キュドネスは,毎日のように詰めかける西欧の外交官,商人,傭兵にうまく応対するためラテン語を学び,その過程でトマス・アクィナスの「対異教徒大全」をギリシア語に翻訳するなどの取り組みを行っているうちに,ラテン文学や神学の崇拝者となり,ついにカトリックに改宗してしまった人物である。彼は,ラテン人を不倶戴天の異端ではなく,同盟者,仲間のキリスト教徒とみなすべきだと熱心に説き,共通の敵イスラムに対する援軍を送るようラテン人に訴えるべきであると主張していた。
 ヨハネス5世はこうした声に動かされ,キュドネス以下親ラテン派の廷臣たちを伴って,1369年にローマへ赴きカトリックに改宗した。この改宗はヨハネス5世の個人的なものであって,ビザンツ帝国の代表としてなされたものでないことは教皇も承知していたが,それでも教皇はカトリックの諸勢力に向けて,皇帝を助けてオスマン朝と戦うよう声明を出してくれた。
 しかし,ヨハネス5世はローマ行きの費用としてヴェネツィアから借りた金を返済できなかったため,ローマから帰ろうとする途中,借金の担保としてヴェネツィア当局に身柄を拘束されてしまった。次男のマヌエルが船団を組んでヴェネツィアに到着し,債務の返済に充てる幾ばくかの現金を届けたことで,ようやくヨハネス5世は首都に帰ることが出来た。その際,ビザンツ領であったテネドス島は,借金のかたとしてヴェネツィアへ引き渡されている(ただし,テネドス島はこの時期に引き渡されたのではなく,1376年にヴェネツィアへ売却されたとする史書もある)。
 もっとも,ローマ教皇の呼び掛けに応じてオスマン朝と戦ってくれるカトリックの西欧勢力はなく,実際にオスマン朝と戦ったのは,1364年の戦いの雪辱を期し,これまでの対立を棚上げにして連合した正教国セルビアの諸侯たちであった。セルビア王ステファン・ウロシュ5世,プリレプの専制公ヴカシン,セラエの専制公ウグリェシャといった指導者に率いられた連合軍は,ムラト1世が小アジア方面に出向いている隙を突いてエディルネを急襲しようとしたが,オスマン朝の将軍ララ・シャヒーン・パシャ率いる少数の軍勢による夜襲を受けて壊滅的敗北を喫し,ヴカシンとウグリェシャはこの戦いで戦死,逃げ延びたウロシュ5世も,同年12月に子のないまま死去した。
 一般的にマリツァ川の戦いとして知られているのは,この1371年の戦いであるが,セルビア人はオスマン朝を上回る兵力を動員する力を持ちながら,オスマン朝の前に二度までも,ほぼ同じ場所において,しかも似たような経過で大敗したことになる。このような結果となったのは,おそらくセルビア王国にドゥシャンのような強力な指導者がおらず,軍の統率が取れていなかったのが最大の原因であろうが,いずれにせよこの戦いによってセルビアは領土の大半を失い,以後のセルビア君主は王号を放棄して隣国のボスニアやマジャルに援助を求めるしかなくなった一方,オスマン朝の勢力はテッサリア,マケドニア方面に広がり,オスマン朝がヨーロッパ側における地位は確固としたものになった。
 マリツァ川の戦いに参加しなかったコンスタンティン・ドラガシュなど一部のセルビア人領主は,領地の安堵と引き換えにオスマン朝への従属を余儀なくされ,続いてブルガリアもムラトに従属した。翌1372年には,ビザンツ帝国もムラトの宗主権を認めざるを得なくなった。
 この頃の首都コンスタンティノポリスは,修復されず放置された大宮殿はもちろんのこと,ブラケルネ宮殿も財政難で修復できず徐々に崩れ落ちつつあり,皇帝一族はなお居住可能な,狭苦しい一角だけを使っていた。一方,臣下の中にはヴェネツィアやジェノヴァとの合弁事業で富を築き,皇帝よりはるかに裕福な者もいたし,1380年まで専制公マヌエル・カンタクゼノスの支配下にあったミストラの宮廷は,未だオスマン朝の脅威が及んでいないビザンツ領ペロポネソスを支配し,周辺の農村部からかなりの収入を得て繁栄していたが,皇帝に忠実であるとは言い難かった。

親ラテン派と親オスマン派の対立構造

 オスマン朝の属国とされ,もはや滅亡寸前の末期症状を呈していたコンスタンティノポリスの宮廷は,以後滅亡に至るまで皇族同士が争う内紛に苦しむことになるが,これは単なる皇族同士の権力争いにとどまるものではなく,その背景にはビザンツ帝国の外交政策をめぐる大きな考え方の対立があった。
 一つの考え方は,オスマン朝の脅威から帝国を救うには,もはや西欧のカトリック諸国から援軍を乞う以外に方法はなく,そのためには国民に不人気な東西教会の合同を受け容れるのもやむを得ないというもの(親ラテン派)であり,もう一つの考え方は,ビザンツ帝国が生き残るにはもはやオスマン朝の慈悲にすがるしかなく,できる限りオスマン朝と事を荒立てないようにすべきというもの(親オスマン派)である。
 親ラテン派から見れば,親オスマン派は要するに「ローマ教皇の三重冠よりトルコ人のターバンの方がましだ」などと主張する,キリスト教徒にあるまじき不信心者だということになり,逆に親オスマン派から見れば,親ラテン派は自らの権益を守るために正しい信仰(ギリシア正教)を捨てようとする不信心者だということになり,両者の対立は信仰の在り方と絡む感情的な対立にしばしば発展した。両者の中間に立って調停らしきことを試みる者もいたが,そのような者は親ラテン派と親オスマン派の双方から激しい非難を浴びることになった。
 このような路線対立に加え,内紛にはオスマン朝やヴェネツィア,ジェノヴァといった外国勢力も引き入れられ,これらの勢力の思惑にも影響されたため,ビザンツ帝国末期の政局は非常に複雑なものとなったのである。
 ただし,ビザンツ帝国だけがこのような醜い内紛を繰り返していたわけではなく,オスマン帝国の脅威に晒されたセルビアやワラキアといった東欧の小国でも,この時期には親オスマン派と反オスマン派で国論が二分され,君主の位も不安定なものであったことを忘れてはならない。オスマン朝に屈して自治権と信仰の自由を認めてもらうか,それともオスマン朝に徹底抗戦するかは,ビザンツ帝国を含む弱小の東欧諸国にとって非常に悩ましい問題だったのである。
 もっとも,ヨハネス5世時代における親ラテン派は,十字軍の要請が失敗に終わったこともあって求心力を失い,教会当局もラテン神学の受容は異端に匹敵する罪だとして取り締まりを行い,デメトリオス・キュドネスの弟で聖職者のプロコロス・キュドネスは異端の罪で聖職を剥奪され破門の身となった。その他キュドネスに共鳴する親ラテン派はガラタへ逃げてカトリックに改宗することを余儀なくされ,デメトリオス・キュドネス自身も圧力を感じて晩年はイタリアで暮らすことが多くなり,1397ないし1398年にキュドネスが亡くなると,ビザンツ帝国内の親ラテン派は指導者不在の状態になった。親ラテン派と親オスマン派の対立が深刻な問題になるのは,ヨハネス5世の時代ではなく,その後を継いだマヌエル2世の晩年以降である。

パレオロゴス王朝の内紛

 新たな内紛は1373年に起こった。ヨハネス5世の長男アンドロニコス4世は,もともとヨハネス5世に対し不満を持つ人々を周りに集めており,ヨハネス5世との仲も良くなかった。ヨハネス5世が借金の質としてヴェネツィア当局に拘束されたときは,ヴェネツィア当局の要求する金額を「国庫の金の適切な使い道ではない」としてその支払いを拒絶し,父を見殺しにしようとしたと言われている(ただし,アンドロニコスにも支払いの意思はあり弟マヌエルに先を越されただけとする見解もある)。
 その後,ヨハネス5世の個人的なカトリック改宗,そこまでして強行した十字軍要請の失敗,そしてオスマン帝国への従属によってヨハネス5世の求心力が著しく低下すると,1373年にアンドロニコスはオスマン朝のムラト1世の長男・サヴジ皇子と密かに結託し,互いの父に対する反逆に踏み切った。反乱軍は一時コンスタンティノポリスとエディルネ近辺を確保するが,当時小アジアに赴いていたムラト1世が帰還するとこの反乱はあっけなく鎮圧され,サヴジ皇子は目を潰されて廃嫡され,間もなく殺された。ムラトはヨハネス5世にも同じ処置を求め,彼は息子アンドロニコス4世とまだ幼い孫ヨハネス7世を盲目刑に処した。この盲目刑は,沸騰した酢を目に注ぐという方法でなされたが,この措置は不完全なものであったため,後に両名とも視力を回復した。ただし,ヨハネス7世の方は生涯斜視に悩まされることになった。アンドロニコス4世の廃嫡に伴い,次男マヌエルが後継者に指名され,父の共同皇帝として戴冠された。
 一方,ビザンツ帝国からヴェネツィアの手に渡っていたテネドス島は,ダーダネルス海峡のすぐ外にあるエーゲ海の要衝であり,この地をヴェネツィアが手に入れたことは,ライバルのジェノヴァにとっては由々しき事態であった。1376年,ジェノヴァ人は廃嫡されたアンドロニコス4世を幽閉先であるアネマスの塔から脱出させ(ヨハネス5世自身が息子を憐れんで釈放したとする見解もある),アンドロニコス4世はムラト1世の支持も取り付け,首都でクーデターを起こし帝位を奪取することに成功した。ヨハネス5世は首都の南西にある金門の要塞に立て籠もったが,援軍も望めないため数週間後には降伏を余儀なくされた。アンドロニコスは父のヨハネス5世,弟のマヌエルとテオドロスを,かつて自分が幽閉されていたアネマスの塔に投獄した。
 しかし,アンドロニコス4世はムラト1世の支持を取り付けるにあたり,1366年にビザンツ側が奪回していたガリポリの割譲と歳費の支払いを約束しており,その履行を余儀なくされると急速に国民の支持を失った。彼の支持基盤であるジェノヴァ人には,改めてテネドス島を与えようとしたが,ヴェネツィア側が引き渡しを拒否し,1377年にはジェノヴァによるテネドス島奪取作戦も失敗に終わった。
 テネドス島の奪取に失敗したジェノヴァは,マジャル王国,パドヴァ,アクィレイア大司教及びオーストリア公と同盟を結んで反ヴェネツィア包囲網を形成し,一方ヴェネツィアはジェノヴァ本国を狙っていたミラノ,ジェノヴァに従属を強いられていたキプロス王国と同盟を結んでこれに対抗し,こうして1378年から1381年まで続く第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(キオッジア戦争)が始まった。
 この戦争において,ヴェネツィア艦隊とジェノヴァ艦隊は各地で戦ったが,最大の山場はジェノヴァ艦隊とマジャル・パドヴァの連合軍がヴェネツィアを包囲し,ヴェネツィア本島に連なるラグーンの南端にあたるキオッジアを1379年8月に連合軍が一時占領したキオッジアの戦いであった。この戦いはヴェネツィアにとって過去最大の危機であったが,ヴェネツィア人は一致団結して包囲を耐え抜き,翌1380年1月にカルロ・ゼン率いるエーゲ海のヴェネツィア艦隊が本国に戻ってくると形勢は逆転し,キオッジアに立て籠もったジェノヴァ軍は逆包囲される形になり,ジェノヴァ本国から送られた援軍もキオッジア島の友軍を救出することが出来ず,キオッジア島のジェノヴァ軍は同年6月にヴェネツィアに降伏した。
 この戦いは,1381年にサヴォイア公アメデーオ6世の仲介でトリノの和約が締結され,ようやく終結した。ヴェネツィアはキオッジアの戦いには勝利したものの経済的に追い詰められており,講和の内容はヴェネツィア側に相当不利なものとなった。紛争の火種となったテネドス島は仲介者であるサヴォイア公国に割譲され,トレヴィーゾはオーストリア公に割譲され,マジャルには毎年の貢納が義務付けられ,キプロス島におけるジェノヴァの特権は従来どおりとなった。
 もっとも,この戦争によりジェノヴァもアンドロニコス4世を支援する余裕がなくなり,1379年に支持者たちの支援を得て脱獄に成功したヨハネス5世らは,ヴェネツィアの支援を得てアンドロニコス4世の追い落としに成功し,アンドロニコス4世はガラタ(セリュンブリアとする説もある)に逃れた。その後,キオッジア戦争が終結した1381年には,アンドロニコス4世はジェノヴァ人とオスマン朝の支援を受け,共同皇帝の地位と帝位継承権の回復をヨハネス5世に認めさせることに成功した。後援者であるヴェネツィアが弱体化していた当時のヨハネス5世には,この要求を拒む力はなかった。
 他方,長年ミストラを統治してきたミストラ専制公マヌエル・カンタクゼノスが1380年に没したことから,ヨハネス5世は1382年,その後任として自らの三男テオドロスを送り込み,ミストラをパレオロゴス家の許に取り戻そうとした。しかし,ミストラではマタイオスの次男デメトリオス・カンタクゼノスが反乱を起こし,1384年にデメトリオスが急死したことで,テオドロスはミストラ専制公テオドロス1世としてようやく実権を掌握し,これによってミストラとモレア地方はパレオロゴス家の下に戻った。
 1381年のアンドロニコス4世復権に伴い帝位継承権を剥奪されていた次男のマヌエルは,テッサロニケの専制公に任命されていたが,マヌエルはオスマン朝への服属を拒否したため,1383年からテッサロニケはオスマン朝に包囲され,1387年にはついにテッサロニケが開城し,マヌエルはテッサロニケを脱出した。
 もっとも,既に帝位継承権を確実なものにしていたはずのアンドロニコス4世は,父が死ぬのを待ちきれなかったのか,1385年に再度帝位簒奪を企んで失敗し,間もなく亡くなった。マヌエルは父の方針に逆らってオスマン朝に反抗し父の怒りを買っていたが,自らの領地であるテッサロニケが陥落するとムラト1世の許しを受け父と和解したが,この時点における帝位継承者が次男マヌエルなのか,それとも長男アンドロニコス4世の遺児ヨハネス7世なのかは,必ずしも明確では無かった。

オスマン朝の勢力拡大とコソヴォの戦い

 ビザンツ帝国がこのような内紛を繰り返している間に,オスマン朝はヨーロッパ側,アジア側の双方で着実に勢力を伸ばしており,小アジアのゲルミヤン侯国とハミド侯国はオスマン朝に領地を割譲し,事実上オスマン朝の傘下に入っていた。ルーム・セルジューク朝の古都コンヤを押さえ,小アジア最大の君侯国であったカラマン侯国はオスマン朝の台頭を警戒し,小アジアのオスマン領を攻撃したが,ムラトはカラマン平野の戦いでカラマン侯国の軍を撃破し,この戦いには同盟国であるセルビアやブルガリアのほか,ビザンツの兵士も加わっていた(時期的に考えて,このビザンツ軍はヨハネス5世自ら率いていたと推測される)。オスマン朝とカラマン侯国との間では1387年に和平が成立し,カラマン侯国はオスマン朝から奪った土地を返還した。
 このようなオスマン朝の台頭に対し,ビザンツ帝国はほぼ全くの無力だったが,ギリシア正教を奉じる他の東欧諸国は,連合してムラト1世に対抗する気概を未だ失っていなかった。1386年頃,バルカン半島ではセルビア,ボスニア,クロアチア,アルバニアが反オスマンの同盟を結び,オスマン朝に臣従していたブルガリアも密かにこの同盟に加担していた。これを知ったムラトは,1386年に大宰相アリー・パシャをブルガリアに派遣し,ニコポリスの戦いでオスマン朝に敗れたブルガリアは,領土の大部分をオスマン朝に奪われ,改めてオスマン朝への服属を誓約した。
 もっとも,1386年ないし1387年には,ボスニアに侵入したオスマン朝の非正規騎兵が,プロシェニクの戦いでセルビア・ボスニア連合軍に大敗するという事件が起こり,反オスマン同盟のリーダーであったセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチの許には,ブルガリア,ワラキア,アルバニア,マジャルから多くの援軍が集まり,連合軍の兵力は急速に増加していった。
 1389年春,ムラト1世は連合軍と決着をつけるべく自ら遠征し,コソヴォ平原の戦いでこの連合軍を粉砕したが,戦場で死んだふりをしていたセルビア人貴族の一人ミロシュ・コビロヴィッチがムラトに襲い掛かり,自分の命と引き換えにムラトを暗殺することに成功した(このミロシュは後年セルビア人の英雄とされ,ムラトの暗殺も死んだふりではなくムラトとの謁見中に行ったものとされた)。
 しかし,ムラトが暗殺されると直ちに息子のバヤジッド1世がオスマン朝の当主となり,直ちに弟達を殺してその地位を確かなものにした。なお,これがオスマン帝国の伝統となる「兄弟殺し」の始まりであり,イスラム法学者たちは後のメフメト2世時代に,内戦によって多くの者が殺されるよりは害が少ないという理由で,こうした行為を合法としている。セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチをはじめとする連合軍の指導者たちは捕虜となっていたが,彼らはムラト殺害の報復としてバヤジッドにより処刑された。なお,ビザンツ帝国はこの連合軍に参加していなかったが,オスマン側で参戦したか否かは不明である。
 コソヴォの戦いについては,オスマン朝の君主であるムラト1世が死亡したことからセルビア側の勝利であると主張する歴史家もいるが,現実には明らかなオスマン朝の勝利であり,バルカン半島におけるオスマン朝の覇権はこの戦いにより確固たるものとなった。
 ムラト1世の死も,セルビア人にとってはオスマン朝に一矢報いたつもりであったろうが,すぐさま息子のバヤジッド1世が後を継ぎ,オスマン朝による征服事業は間断なく続けられたほか,オスマン朝の君主を比較的温和な性格だったムラト1世から,「雷帝」ないし「稲妻」のあだ名を持つ危険で攻撃的なバヤジッド1世に交代させたことは,ビザンツ帝国と東欧諸国にさらなる危険と災厄をもたらすことになった。
 1388年にはオスマン朝によるペロポネソス半島への侵攻が始まり,ビザンツ帝国にまとまった領土として唯一残されていたモレア地方も,オスマン朝の危機に晒されることになり,この危機もバヤジッド1世への代替わりによって途切れることはなかった。

スルタン・バヤジッド1世による危機

 オスマン朝の当主となったバヤジッド1世は,先代のムラト1世が控えめに名乗っていたアミール(総督)という称号をやめ,イスラム世界最強の君主であることを示すためにスルタン(王)と名乗った(ただし,ムラト1世やその父オルハンも一時スルタンを名乗っていたとする見解もある)。ムラト1世時代までの国家を何と呼ぶべきかは諸説あり,ここまでは便宜上「オスマン朝」と表記してきたが,ここからは「オスマン帝国」と呼ぶのが適当であろう。
ビザンツ帝国は既にオスマン帝国に臣従を誓っていたが,バヤジッドはテッサロニケで5年間にわたり抵抗していたマヌエルの忠誠心に疑問を抱き,父の死後もセリュンブリアで勢力を維持していたアンドロニコス4世の息子・ヨハネス7世は,1390年,バヤジッド1世とジェノヴァ人の協力を得てクーデターを起こし,ヨハネス5世から帝位を奪取した。ヨハネス5世とマヌエルは1376年と同様,首都の端にある金門の要塞に立て籠もったが,ヨハネス7世は祖父やマヌエルを降伏に追い込むことまではできなかった。
 しかし,あまりにも外国人の力に依存していたヨハネス7世に対する市民の支持は極めて低く,やがてヨハネス5世とマヌエルがヴェネツィアの支援を得て反撃に転じると,オスマン帝国もヨハネス7世の支持から手を引いて為す術がなくなり,彼の治世はわずか5か月で終焉を迎えた。ヨハネス5世は帝位を回復し,ヨハネス7世はオスマン帝国の保護を受けてセリュンブリアに定着した。
 もっとも,バヤジッド1世はヨハネス5世復位の支援に代償を要求し,その要求は小アジアで唯一ビザンツ側に残っていたフィラデルフィアの割譲,コンスタンティノポリスにおけるカーディー(裁判官)の設置,首都に付属する金門要塞の取り壊しなど多岐にわたる過酷なものであった。
 ヨハネス5世はこうした要求を全て呑まざるを得ず,この協定に基づき1390年,オスマン帝国はフィラデルフィアを接収した。なおも抵抗するフィラデルフィアを陥落させる戦いにマヌエル皇子率いるビザンツ軍(100人程度)も従軍し,ビザンツ軍の兵士は城壁を突破する勲功を立てた。ある年代記は,「ギリシア人の皇帝がギリシア人の町の征服において一番乗りの手柄を立てた」とこの出来事を嘆いている。
 バヤジッド1世は,フィラデルフィアの接収後も小アジアの征服行を継続し,この遠征によってサルハン,アイドゥン,メンテシェ,ハミドといった侯国はオスマン帝国に併合され,ゲルミヤン侯国も支配下に置かれた。1391年にはカラマン侯国の首都コンヤを包囲し,領土の一部を割譲させて有利な和約を結んだ。
 オスマン帝国がいよいよ勢力を拡大し,どん底に落ちた帝国に更なる危機が迫る中,心労が重なったヨハネス5世は1391年に亡くなり,次男のマヌエル2世が後を継いだ。もっとも,当時のマヌエル2世は,オスマン帝国の人質としてブルサに滞在させられていた。
 ヨハネス5世に対する歴史家の評価は厳しく,ある年代記の作者は「見目麗しい女性に関すること以外,どんな問題にも対処できなかった」と評している。しかし,相次ぐ内紛の末にヨハネス5世が単独皇帝として実権を掌握した頃には,ビザンツ帝国は既にぼろぼろになってオスマン朝に食われる直前の状態になっていた。仮にヨハネス5世がもう少し有能だったとしても,いやかなり有能だったとしても,彼の帝国に迫りくる運命を変えることはかなり困難だったと思われる。
 冒頭でも述べたとおり,彼の在位期間は便宜上1341年から1391年までの50年とされており,この数字だけを見ればヨハネス5世の在位期間は,かのバシレイオス2世をも超えるビザンツ皇帝歴代首位ということになる。もっとも,その期間には母であるサヴォアのアンナを長とする摂政会議が実権を掌握していた時期,ヨハネス6世カンタクゼノスの傀儡とされていた時期,借金の質としてヴェネツィア当局に拘束されていた時期,息子アンドロニコス4世によって約3年間にわたりアマネスの塔に幽閉されていた時期,孫のヨハネス7世によって5か月にわたり帝位を追われていた時期も含まれており,特にアマネスの塔に幽閉されていた期間については,ヨハネス5世は明らかに実権を失っていたので在位期間に含めるべきでないとする見解もある。
 また,ヨハネス5世による治世の後半は,皇帝でありながらオスマン帝国の属国となることを余儀なくされた時期であり,バシレイオス2世時代の栄光ある治世とは比べようもないものであった。ビザンツの味方となり得る正教諸国がオスマン帝国の寡兵に相次いで敗れるという不運も重なったヨハネス5世の治世は悲惨極まりなく,結局のところ彼は落胆と屈辱の生涯を運命づけられていたと評するしかない。

(4)オスマン帝国による統治体制

 1299年頃にルーム・セルジューク朝から自立したといわれるオスマン朝(オスマン帝国)は,チンギス・ハーンによって征服されたホラズム王国から逃走して小アジアへ移住した一族の末裔とされている。もっとも,成立当時のオスマン朝は,当時の小アジアで数多く成立した君侯国の一つに過ぎず,しかもその中でも特に有力な存在というわけではなかった。当時最も有力だったのは,おそらくルーム・セルジューク朝の首都コンヤを引き継いだカラマン朝であったろうし,スミルナとその周辺地域を支配下に置いたアイドゥン侯国も有力であった。
 そのような中,オスマン朝が次第に多数の競争相手を凌駕し,やがてビザンツ帝国をはじめとする東欧諸国をも属国化して強力な帝国となった原因を2つ挙げるとすれば,第1にオスマン朝の拠点が小アジアの北西部にあり,弱体化したビザンツ帝国の内紛に乗じてその領土を最も容易に奪える地理的優位にあったこと,第2に始祖オスマン,2代目のオルハン,3代目のムラト1世,4代目のバヤジッド1世と有能な当主が続き,領土を拡大する機会を逃さなかったことにある。強いて第3の原因を付け加えるとすれば,オスマン朝があまり有力な君侯国ではなかったため,逆にアンドロニコス3世やヨハネス6世といったビザンツ皇帝が警戒を怠り,精強なオスマン朝の軍隊に頼り過ぎてしまった点も挙げられるだろう。
 オスマン帝国の行政機構については,領土の拡大に伴い何度も改編されているのでここでは詳述しないが,オスマン帝国が多くのビザンツ人を容易にその支配下に組み込むことが出来た要因は,その被征服者に対する極めて寛容な政策にある。
 もともと,イスラム教徒は異教徒の土地を征服しても,征服地の住民にイスラム教への改宗を強要したりはせず,ジズヤ(不信仰税)と呼ばれる少額の税を支払いさえすれば従来どおりの信仰を認めるという姿勢を発足以来採り続けており,イスラム教国であるオスマン帝国もその伝統を引き継いでいた。
 オスマン帝国はそれに加えて,少なくとも戦わずして降伏した者に対してはその土地を奪うこともせず,住民の民族及び宗教別にユダヤ人居住区,アルメニア人居住区,ギリシア人居住区といった具合に区分し,各居住区には高度の自治権を与え,ユダヤ教,アルメニア正教,ギリシア正教といった各自の信仰を維持することも当然許容し,中央政府は租税さえ入ってこればそれで満足する,といった地方自治政策を採った。このような地方に対する統治姿勢は,古代ローマ帝国の統治姿勢と相当程度類似している。
 オスマン帝国史の研究者は,こうした同帝国の統治姿勢を「柔らかな専制」と呼んでいる。一方,西欧人はこれをオスマン帝国が創始した制度と理解し「ミッレト制」と命名したが,オスマン帝国自身はそのような制度を作ったつもりはなく,単にイスラムの伝統的な統治方法を踏襲し発展させただけのことである。
 ビザンツ帝国のようなキリスト教国では,異教徒の土地を征服して最初にやろうと考えるのはキリスト教の布教であり,オスマン帝国のようなやり方を模倣することはほぼ不可能であったろう。ほぼ唯一の例外はノルマン人やフリードリヒ2世統治下におけるシチリア島統治だが,彼らの統治はローマ教皇によって異端と断罪され,フリードリヒ2世の後継者は滅亡に追いやられた。多民族・多宗教の民衆が混在する大帝国の国教には,独善的・排他的なキリスト教より,寛容で柔軟なイスラム教の方が適していたと言わざるを得ない。
 オスマン帝国の中央政府も,キリスト教徒の家臣や兵士たちを少なからず抱えており,国教はイスラム教でも家臣や住民にはむしろキリスト教徒が多いという実情に鑑み,イスラム法の学派は4つある中で最も柔軟なハナフィー派を採用しており,過激なイスラム原理主義的な考え方とは無縁であった。
 ビザンツ帝国の恩貸地制度(プロノイア制)は,形を変えてオスマン帝国のティマール制に継承された。ただし,ビザンツ帝国の皇帝権力が弱かったため,プロノイア制が建前上は皇帝が貴族たちへの友情として土地を貸し出しているものであり,世襲の領有権を認めたものではないとされていたにもかかわらず,そのような建前は完全に形骸化し,帝国末期には軍役奉仕の義務すら伴わない,単なる貴族たちによる世襲の既得権と化していた。
 これに対し,オスマン帝国は領主たちの割拠を防止するため頻繁に転封を行ったため,ティマールの領主たちはスルタンに仕えるサラリーマンのような存在となり,自分の領地に対するこだわりは全く無く,豊かな土地への転封はむしろ喜んだ。日本で言えば,江戸時代初期の幕府による諸藩の統制と似たような政策であり,これによってオスマン帝国は,ビザンツ帝国で起きたような地方貴族の台頭を避けることが出来た。
 ビザンツ帝国が作成していた徴税簿は,オスマン帝国に仕えたビザンツ人の役人によってそのままの方式で維持され,オスマン帝国は労することなく統治に有用な徴税機構を手に入れた。
 そしてオスマン帝国は,帝国を支える強力な中央軍団及び優秀な官僚機構を養成する独自の制度を,ムラト1世の時代に発足させる。いわゆるデヴシルメ制度によってキリスト教徒の家庭から強制的に徴用した身体強健な男子を,子供のうちに親元から引き離してイスラム教に改宗させ,スルタン一人に忠誠を誓う強力な戦士に育てあげた。ムラト1世は,こうして育てた兵士を「イェニ・チェリ」(新しき兵士)と名付けた。
 元キリスト教徒であるイェニ・チェリは,遊牧民の騎馬弓兵を主体としていたトルコ人の古き慣習にとらわれることなく,銃火器をはじめとする最新の装備で武装し,厳しい訓練とスルタンへの忠誠心により軍事的成功に不可欠な高等戦術の担い手ともなり,オスマン帝国をイスラム世界最強の軍事先進国に押し上げた。
 イェニ・チェリの中でも特に聡明と認められた若者は,オスマン帝国の幹部候補となるべく特別な高等教育が施され,帝国の高官へと抜擢されていった。イスラム教徒であるトルコ人を奴隷とすることは禁じられていたため,この制度が定着するにつれてオスマン帝国の宮廷はトルコ人ではない元キリスト教徒が多数を占めるようになった。歴代スルタンも,その母親は大抵ハレムの奴隷女であったことから,代が替わるごとにトルコ人の血は薄くなる一方であった。
 比較的古い文献では,オスマン帝国のことを「オスマン・トルコ」と表記しているものが散見される。これは西欧人たちがこの帝国の住民たちを「トルコ人」と呼んでいたこと,及びオスマン帝国の滅亡に成立したトルコ共和国がオスマン朝の継承国家を自認し,オスマン帝国の国旗も継承したことに由来する呼び方である。
 しかし,この帝国に関する歴史研究が進むにつれ,この帝国を統治していたのはトルコ人ではないという実態が次第に明らかとなり,21世紀に入った頃にはもはや「オスマン・トルコ」なる名称は適切でないとの見解が支配的となり,少なくとも日本では,トルコの名を除いて「オスマン朝」「オスマン帝国」といった呼び方が定着し,高校の歴史教科書等でも「オスマン帝国」の国名が採用されるに至ったのである。欧米諸国の著書では未だにトルコの名称を使用しているものもあるが,本稿では上記のような事情に鑑み,オスマン朝ないしオスマン帝国に関しては,「トルコ」の名称を極力用いないようにしている。
 大著『ローマ人の物語』を執筆された作家の塩野七生氏は,ローマ人が巨大な地中海帝国を築き長期にわたる繁栄を享受できた要因が巧みな「敗者の同化」路線にあると指摘されているが,オスマン帝国もローマ人と手法こそ異なるものの,巧みな「敗者の同化」路線で被征服者を自らの帝国に取り込んだことで,最盛期にはかつての東ローマ帝国を包含し,かつそれを上回るほどの規模にわたる巨大帝国を築き上げ,かつ長期にわたって存続することに成功したのである。
 また,ビザンツ帝国との比較でいえば,一般の民衆に対するオスマン帝国の租税はビザンツ帝国よりはるかに軽く,かつ公平であった。末期のビザンツ帝国が,次第に領土を縮小させていく中で軍隊と首都を維持するため貧民に重税を課しながら,富裕な貴族層からはほとんど租税を取らず,貿易特権を認めてしまったヴェネツィアやジェノヴァの商人に対しては全くと言ってよいほど課税できず,これが「熱心党」に代表される民衆の不満と蜂起につながってしまったことは前述した。
 これに対し,小アジアにおけるオスマン帝国の農民に対する課税は収穫物の3分の1程度にとどまり,3分の1は耕作民の取り分,残る3分の1は翌年の耕作のための種もみとされた。農民の負担はこれに若干のジズヤ(不信仰税)を加えたとしても,少なくともビザンツ帝国の租税よりは相当軽かった。また,オスマン帝国では大地主による中間搾取の排除も注意深く行われていたので,オスマン帝国の支配下に入ったギリシア人は,なんと熱心党や後述するプレトンが主張していた以上の善政を享受していたことになる。少なくとも一般の農民層にとって,ビザンツ帝国よりオスマン帝国の支配下に入った方が経済的には相当楽であったであろうことは間違いない。
 これに加えて,ビザンツ人は自らのギリシア正教信仰を維持するという面においても,ビザンツ帝国よりオスマン帝国の支配下にあった方が有利であった。末期のビザンツ帝国は,何とか西欧諸国から援軍を引き出したいとの一心から,国民感情を無視してしばしば忌まわしき東西教会の合同を実行したが,オスマン帝国は支配下のギリシア人にギリシア正教を信仰する自由を認め,イェニ・チェリに選抜された者など一部の例外を除いてはイスラム教への改宗を強要することはなく,ましてやカトリックへの改宗を求めることは全く無かったからである。
 もちろん,オスマン帝国に兵士として徴兵されれば,イスラム教国であるオスマン帝国のために,時には同じキリスト教徒と戦わなければならない等の難点もあったが,それでも好条件がこれだけ揃っていれば,ビザンツ人の間に「ローマ教皇の三重冠を見るくらいなら,トルコ人のターバンを見るほうがましだ」という意見が出てくるのは,むしろ当然のことであった。
 もっとも,宮廷では皇帝とその一族,富裕な大貴族といった,オスマン帝国の支配下に入ればその特権を失うことになりそうな人々が大半を占めており,貴族層の中にはカトリックに改宗する者までいたが,カトリックを拒否する多くの貧しい民衆たちに発言権はなかったものの,伝統的なギリシア正教にこだわる聖職者や修道士たちが民衆の意見を代弁する形となり,一部の皇族にも自らの政治的野心から民衆たちに迎合する者が現れたため,激しい政治的対立になったのである。
7世紀にシリアやエジプトがイスラム帝国の傘下に入った際には,イスラムの支配に対するビザンツ人の抵抗運動も若干ながら見られ,やむなくイスラムの支配下に置かれながら密かにビザンツ帝国に心を寄せるビザンツ人もいたが,14世紀後半から15世紀に至る帝国の末期には,ギリシア正教を信仰するビザンツ人であっても,一度オスマン帝国の支配下に入って安定した暮らしを獲得した者は,後述するとおりバヤジット1世が亡くなりオスマン帝国が内紛状態に陥った時期においても,自ら行動を起こしビザンツ帝国の支配下に戻ろうとはしなかった。ビザンツ帝国の支配下にとどまっていた民衆も帝国に対する忠誠心は低く,1453年のコンスタンティノポリス攻囲時においても,民衆の多くは防衛に協力しようとしなかった。
 これは,7世紀のシリアとエジプト征服,12世紀の小アジア征服などで培われたイスラム式統治のノウハウ,及びチンギス=ハーンのヤサ法に象徴される東方遊牧民伝統の統治ノウハウをオスマン帝国が継承しさらに発展させていた一方,ビザンツ帝国の統治能力が衰退して絶望的なまでの格差拡大と異常なまでの逆累進課税を放置し,「熱心党」の蜂起といった事態に直面しても,貧しい民衆の声に耳を傾けることを頑なに拒み,さらに西欧諸国からの援軍を望むあまり,父祖以来のビザンツ人の信仰であるギリシア正教にもしばしば背を向けたことに起因する。
 ビザンツ帝国が7世紀の暗黒時代を乗り切ったのは,前述したとおりビザンツ人のキリスト教信仰の力によるところが大きかったが,末期のビザンツ帝国は西欧からの援軍を得たい一心で,教会合同を強行して父祖からのキリスト教信仰に背を向け,信仰の力をむしろ敵に回していた。政治面でも宗教面でも完全に民心を失っていたビザンツ帝国には,やがて滅亡する以外の道は残されていなかったのである。

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