第26話 『ビザンツ最後の文人皇帝』マヌエル2世
(1)即位以前のマヌエル
ヨハネス5世の死後帝位を継いだマヌエル2世(在位1391~1425年)は,学問を好み多くの著作を残したことで知られる優れた文人皇帝であると同時に,末期のビザンツ皇帝の中では随一の名君としても知られる。彼の手腕と幸運により,もはや滅亡寸前だったビザンツ帝国は,もうしばらく生き延びることになる。
1350年,ヨハネス5世とヘレネ・カンタクゼネ(ヨハネス6世カンタクゼノスの娘)の次男として生まれたマヌエルの前半生は,父と同じく苦難の連続であった。1370年頃には,借金の担保としてヴェネツィア当局に身柄を拘束されていた父ヨハネス5世の救出に赴き,1373年には兄アンドロニコス4世の廃嫡に伴い父の共同皇帝となって後継者に指名されるも,1376年には兄がクーデターを起こし,マヌエルは父ヨハネス5世と弟テオドロスと共に金門の要塞に立て籠もるも,この戦いでマヌエルは負傷し大した役割を果たすことが出来ず,数週間後には降伏を余儀なくされ,父や弟と共にアネマスの塔に幽閉され,1379年に父と共に脱獄し父は復位に成功するが,オスマン朝とジェノヴァ人の圧力により,帝位継承権は再び兄アンドロニコス4世の手に渡り,マヌエルはテッサロニケの専制公に落ち着いた。
マヌエルは,帝位継承権を兄に奪われたことへの不満か,それとも若さ故の虚勢か,テッサロニケでは父帝とムラト1世を向こうに回して,オスマンの支配に対する果敢な抵抗を指揮し,マケドニアとテッサリア地方におけるビザンツの支配権を回復しようとした。当初マヌエルは若干の成功を収め,その勇敢な姿勢に賛同する義勇軍がテッサロニケに流れ込んできた。
もっとも,ムラト1世がこのような侮辱を許すはずもなく,マヌエルの拠点であるテッサロニケはオスマン軍に包囲された。補給は海から続けられていたが,それでも陸からの封鎖は功を奏して食料が不足するようになり,テッサロニケ市民の間には,無駄な抵抗を続けるより降伏した方がよいと考える者が出てくるようになった。5年間にわたる包囲の末,テッサロニケ市民はマヌエルの懸命な説得にもかかわらず降伏派が大勢となり,1387年4月,マヌエルは失意のうちにテッサロニケを退去し,テッサロニケの市民はオスマン軍に城門を開いた。
1385年に兄のアンドロニコス4世が反乱を企てて死去していたが,この時点では父帝ヨハネス5世の後継者が誰になるのかは必ずしも明確では無かった。父の怒りを買っていたマヌエルはコンスタンティノポリスに戻ることも出来ず,レスボス島,次いでテネドス島へと逃れたが,結局はムラト1世と和解するためにブルサへ行かざるを得なかった。一説によると,ムラトはマヌエルを手厚く迎え入れる一方,友人として次のように警告したという。
「皇帝の息子よ,かつてはあなた方のものであったが,今は私のものである土地を占領するにあたって,あなたがとった行為にある種の正当性があることを私は承知している。あなたは正当な行為をなしたのだから,さしあたって私はあなたを許そう。しかし,私と私の権威に対して二度とこのように振る舞わないよう注意せよ。私と私を守ってくださる神アラーは,あなたの行為が愚かであったことを明らかにした。だから,物事がうまくゆくようにと願うなら,ヨーロッパを支配しているのは我々だという事実をしっかり見つめよ。」
この後,マムエルはムラトから,息子を許して迎え入れよというヨハネス5世宛の手紙をもらってコンスタンティノポリスに戻り,マヌエルは父に許され後継者に指名された。この出来事は,マヌエルにとって,オスマン朝に対する抵抗の空しさをこれほどないほどはっきり教えられたものであり,以後マヌエルは父の路線を受け継ぎ,オスマンの宗主権を認めつつビザンツ帝国の存続を図るようになる。
その後,1390年には甥のヨハネス7世が一時帝位を簒奪した。父ヨハネス5世は1376年当時と同様に金門の要塞に立て籠もったが,マヌエルは要塞がヨハネス7世の軍勢に包囲される前に首都を脱出し,リムノス島やロードス島で兵を集め,聖ヨハネ騎士団のほかヴェネツィアやオスマン帝国の支援を受けて首都を奪還し,既に老齢となっていた父の共治帝となるも,その後バヤジッド1世との協定によってオスマン帝国に引き渡すことになっていたフィラデルフィアの攻略戦に従軍させられることになった。1391年に父が没したときには,マヌエル2世はオスマン軍に従軍してブルサに滞在させられていた。
なお,帝位に就く以前のマヌエルについては,その表向きの経歴こそ父に忠実だったように見えるが,15世紀のコンスタンティノポリス陥落後にビザンツ最後の100年間に関する歴史書を書いたビザンツ側のドゥーカス,オスマン側のカルココンデュレスのいずれも,マヌエルを含む3兄弟が権力を握ろうとして自殺行為に近い抗争を繰り広げたことを強調している。
仮にマヌエルが巧みに父を操っていたと考えるならば,前述した父ヨハネス5世と兄アンドロニコス4世の抗争は,実質的にはアンドロニコス4世とマヌエルの抗争である。マヌエル2世はビザンツ帝国最後の名君として現代でも評価は高いが,ビザンツの文人皇帝らしく権謀術数にも長けていた彼のことである。ひょっとしたら現代の我々もマヌエル2世の権謀術数に乗せられているのかも知れない。
(2)バヤジッド1世の脅威とニコポリス十字軍
父の死を知ったマヌエル2世は,帝位継承を確実なものとするため,スルタンに無断でブルサを脱出し,コンスタンティノポリスに帰還して帝位に就いた。このマヌエルの行為に怒ったバヤジッド1世は,7か月にわたりコンスタンティノポリスを包囲するが,隣国のマジャル王国が軍事活動を始めているとの報があったことから,バヤジッドは包囲を解き,貢納と引き換えにマヌエル2世の即位を認めた。
しかし,バヤジッドはマヌエルの忠誠心に疑念を抱いており,その疑念は1393年末にマヌエルの弟・ミストラ専制公テオドロス1世がオスマン帝国の属国を撃破して領地を広げたことにより更に高まり,マヌエルもバヤジッドに恐怖を感じるようになった。
バヤジッドは,近隣のキリスト教国を属国とし軍役に奉仕させるだけで満足していたムラト1世の政策を改め,弱体化したキリスト教国を完全に滅ぼす方向に進んでいた。マヌエルは即位後もスルタンの臣下としてオスマン軍に従軍していたが,バヤジッドは1393年にブルガリア王国を滅ぼすと,支配下にあるキリスト教の君主たちをマケドニアのセライの町に集めた。マヌエルはこれを,攻撃的な性格のバヤジッドが自分たちを皆殺しにする計画の布石ではないかと恐れ,スルタンの許を脱出し急いで首都に逃げ戻った。
首都に戻ったマヌエルに対し,バヤジッドから再び従軍命令が来るが,マヌエルはもはやバヤジッドのような狂気の男とは付き合うまいと決心していており,従軍を拒否した。怒ったバヤジッドは,1394年に大軍を率いて,再びコンスタンティノポリスを包囲した。バヤジッドは,ボスフォラス海岸のアジア側に「アナドール・ヒサーリ」という要塞を築いて,黒海方面からの食料補給や海軍の増援部隊来援を阻止しており,コンスタンティノポリスの征服にかなりの本気で臨んだことが窺われる。
バヤジッドは,コンスタンティノポリスを兵糧攻めで屈服させる作戦を採っており,陸の城壁の周りに1万以上の兵を展開させ,海からも40隻ほどの小艦隊による封鎖を行った。もっとも,遊牧民の出自であるオスマン帝国に海軍のノウハウは乏しく,オスマン艦隊は小規模でしかも弱かったので,封鎖中もヴェネツィアやジェノヴァの船は金角湾に入港することが出来たが,それでもオスマン艦隊はコンスタンティノポリスに入港する艦船の数を確実に減少させた。その結果,首都の食料価格は高騰し,貧しい市民は飢餓の危険に直面したほか,夏には伝染病が起こり多くの死者が出た。市民の多くは,もはやこの町にとどまっても見込みは無いと考え,夜陰に紛れて陸の城壁から縄を伝って降りたり,小舟をこぎ出したりして脱出した。スルタンに町を明け渡すのが唯一の分別ある方法だと言い出す市民もいた。この状況は,マヌエルがかつてテッサロニケで経験したものと同様のものであった。
マヌエルは,1395年5月,フランス王シャルル6世のほか,ヴェネツィアとハンガリーにも救援を求める使節を派遣した。イスラム勢力によりコンスタンティノポリスが包囲されるのは,717~718年にレオーン3世の治世下で行われて以来の非常事態であった。これまでの救援要請には冷淡であった西欧諸国も,自分たちの祖先と信じるローマ人の象徴たるコンスタンティノポリスの危機にあたり,仮にコンスタンティノポリスがバヤジッドの前に陥落すれば,オスマン軍がハンガリーはおろかイタリアまで進撃するのを止められるものは何もないと考えたことから,かなり大規模な救援軍を送ってきた。当時のローマ教皇は,ローマにいるボニファティウス9世とアヴィニョンにいるベネティクトゥス13世が並立していたが,両者ともに対オスマン十字軍を呼び掛け,西欧の王侯たちに参加を促した。
後世「ニコポリス十字軍」と称される,対オスマン十字軍の指導者となったのは,マジャル王ジグモンド(後の神聖ローマ皇帝ジギスムント。以下「ジギスムント」で統一)とフランスのブシコー元帥である。その他,密かにフランス王位を狙っていたブルゴーニュ公の長男であるジャン無怖公が大軍を率いて参加しており,フランス軍のほとんどはジャンの指揮下にあった。既にバヤジッド1世と戦って何度か打撃を与え,対オスマン軍の戦いに精通していたワラキア公ミルチャ1世(ただし,当時の彼は親オスマン派によってワラキア公の座を追われており,一族郎党を引き連れマジャル王国に亡命していた)も,軍を率いて十字軍に参加した。バイエルンも兵を送ってきた。
十字軍はドナウ川沿いのニコポリスにあるオスマンの要塞に迫り,コンスタンティノポリスを包囲していたバヤジッド1世も,包囲を解いてニコポリスに向かい,十字軍との戦いに臨んだ。十字軍とオスマン軍は,1396年9月25日に衝突した(ニコポリスの戦い)。両者の兵士数については長きに渡って議論の対象となっており,当時の歴史家による明らかな誇張を排した近年の研究では,両軍とも1万人ないし2万人程度と分析されているが,兵力差についてはオスマン側が優勢だったとする見解,十字軍側とオスマン側が拮抗していたとする見解などがあって判然としない。いずれにせよ,オスマン軍と違って絶対的な総大将のいない多国籍軍であるという十字軍側の弱みが,結局両者の明暗を分けることになった。
十字軍首脳のうち,オスマン軍と何度も戦った経験を有する知将ミルチャは,まず自らの軽騎兵で敵陣を偵察して最適な戦術を決定すべきとの意見を具申し,ジギスムントもこの意見に賛同したが,遠くフランスからやってきたジャンやその他西欧の騎士たちは,伝統的な騎兵による突撃戦術に固執し,かつ先陣の功を譲らなかった。
かくしてジャン率いるフランスの騎士たちは,先頭を切ってオスマン軍の中央に突撃し,オスマン軍の前衛にいた未熟な徴募兵を蹴散らし,よく訓練された歩兵の戦線まで進んだ。しかしフランスの騎士たちは弓隊による矢の雨を受け,さらにオスマン軍が用意していた尖らせた杭や馬防柵に阻まれてそれ以上前進できなくなり,オスマンの中央軍は左右両翼のシパーヒー騎兵隊と連携してフランス人騎士たちを三方から包囲し,フランス人騎士たちの壊滅に伴い十字軍全体も総崩れとなり,オスマン帝国側で参戦していたセルビア公ステファン・ラザレヴィッチ率いる軍は同じキリスト教徒である十字軍の壊滅的敗北を傍観するに忍びず,戦闘の終盤になると十字軍側へ寝返ったが,大勢に影響はなかった。
十字軍兵士のうちオスマン軍の追撃を逃れて故国へ帰れた者はほとんど無く,ジギスムントやジャン,ブシコー元帥までも捕虜となった。捕虜のうち身代金の値打ちがあると判断された貴族は助命され,後に身代金と引き換えに釈放された。その他の者のうち20歳以下と判定された者は奴隷とされ,それ以外の者は処刑された。
キリスト教連合軍に対するバヤジッド1世快勝の報は,遠くエジプトまで伝わりイスラム世界を奮い立たせ,勝利を喜んだカイロにいるアッバース朝カリフの末裔は,バヤジッド1世をイスラム世界最強の戦士と称え,彼の「スルタン」称号を公認した。逆に,キリスト教世界がこの敗報に大きく落胆したのは言うまでもない。
(3)西欧への救援要請と『ペルシア人との対話』
ニコポリス十字軍による救援が失敗に終わり,オスマン軍のコンスタンティノポリス包囲は再開された。オスマン軍も首都の大城壁を突破することは出来なかったが,オスマン軍の別働隊は各地で征服活動を続け,弟のテオドロスが統治するミストラ専制公領もオスマン軍の侵略を受け,1397年にはラリッサ,パトラス,アテネなどペロポネソス半島の大部分がオスマン帝国の手に落ち,テオドロスも十字軍時代に建築されたミストラの城塞のおかげで何とか持ちこたえている状況であった。
当時のコンスタンティノポリスは,大城壁に守られているため強攻策で落城させることは極めて困難であったが,ニコポリス十字軍の失敗による士気の低下は覆いようがなく,このまま何年も包囲が続けば,かつてのテッサロニケのように市民がオスマン軍の前に城門を開いてしまう心配もあった。
そんな折,ニコポリスの戦いに参戦して捕虜となり,スルタンに身代金を払って釈放されたプシコー元帥が,フランスから6隻の小艦隊を率いて救援にやってきた。マヌエルは,プシコー元帥の勧めと支援もあって,1399年に首都の留守を甥のヨハネス7世に託し,自ら西欧諸国へ赴き援軍を要請するため,妻や子供たちを連れて首都を脱出した。
他に適任者がいないとはいえ,ヨハネス7世は前述のとおりヨハネス5世から帝位を簒奪した前歴のある人物であり,しかも親オスマン派であるため十全の信頼は置けなかったし,西欧からの再度の援軍が間に合う目算もなかった。マヌエル2世が妻子を連れて首都を脱出し,西欧諸国への旅にあたり妻子をミストラに置き弟テオドロスの保護下に委ねたのは,留守中に首都が陥落する可能性も考えての措置であろう。マヌエル2世はしばらくモレアに滞在してヴェネツィア政府と交渉し,万一のことがあった場合に備え,妻子の身の安全と生活の保証を確約してもらっていた。
当時のヨーロッパ情勢を概観するに,援軍を期待できる国はあまり多くなかった。イタリアは都市国家間の争いに忙しく,ニコポリス十字軍にも兵を送れなかった。マジャルはニコポリスの敗戦から立ち直っておらず,神聖ローマ帝国(ドイツ)は政情不安定で援軍どころではなさそうだった。援軍を送る余力がありそうな国は,百年戦争の戦間期にあるフランスとイングランドくらいしか見当たらなかった。
そのため,マヌエル2世の旅は,ヴェネツィアを経てパドヴァ,ジェノヴァなどイタリアの各地をめぐり,フランスやイングランドにも赴く長いものとなった。1400年6月に訪れたパリではフランス国王シャルル6世の歓迎を受け,サン・ドニ修道院の典礼にも参加したが,この措置は東西教会の対立が原因で批判を受けた。シャルル6世は,援助を得ようとするマヌエルの努力が実るかどうかは東西教会の合同にかかっていると説き,マヌエルもその現実を思い知らされた。
同年の冬に訪れたロンドンでは,マヌエル2世はイングランド王ヘンリー4世の親切なもてなしを受けた。イングランドでは,フランスやイタリアの聖職者が幅を利かせているカトリック教会の在り方に対する不満があったせいか,東西教会の対立は特に問題とされなかったようである。イングランドでマヌエル一行を目撃したウスクのアダムは,「はるか東方の偉大なキリスト教君主が,不信心な者たちに追われて,遠い西方の地まで助けを求めにやってくるとは,なんと嘆かわしいことであろうか」と書き残している。
マヌエルが残した書簡によると,ヘンリー4世は軍事援助にも乗り気だったようであるが,彼はイングランド王家の傍系にあたるランカスター朝の初代国王で,1399年にクーデターを起こして即位したばかりだった。国内では諸侯の反乱が相次いでおり,オスマン軍に対抗できるほどの大規模な援軍は望めそうになかった。
1401年初めになるとマヌエルはパリに戻り,そこからノルウェー,デンマーク,スウェーデン,アラゴン,カスティーリャ,ナバラの王たちに支援を呼び掛けた。マヌエルは総じて行く先々で大歓迎を受け,ローマの教皇ボニファティウス9世とアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世は共に対オスマンの十字軍を説き,マヌエルを助ける者に対する贖宥を約束した。教会の主導でコンスタンティノポリス防衛のための募金活動が行われ,イングランドでは3000マーク,シエナでは500ドゥカートが集まった。しかし,西欧諸国の内紛が十字軍発動の妨げになり,並立するローマとアヴィニョンの教皇には西欧諸国の一致団結を求めるような指導力は期待できなかった。とりわけ,マジャルではジギスムントと,ナポリ出身のウラースロー(ラディスラフ)が王位をめぐって争っており,西欧の政治情勢を熟知していたバヤジッドはウラースローにマジャル王位を要求するよう公然とけしかけていた。バヤジッドは,「キリスト教徒に教皇が二人いる間は,余は彼らと戦うことを恐れない。教皇が一人になったら,キリスト教徒と和平を結ばざるを得なくなるだろう」と皮肉たっぷりに述べたりしていた。
1401年夏頃になると,既にマヌエルは幻想から覚めて,パリのルーブル宮殿でフランス王の賓客として過ごし,聖霊の発出に関する神学論文を書いたりしている。この頃のマヌエルは,既にコンスタンティノポリスの防衛を諦めていた節があり,余生をパリで過ごす積もりだったのかも知れない。確かに,滅亡に瀕したビザンツの皇帝として,首都の崩れかけたブラケルネ宮殿で暮らすよりは,パリで暮らす方が余程快適であったであろう。
ところで,著名な文人皇帝でもあるマヌエル2世は,1390年代頃にイスラム教を批判する内容の『あるペルシア人との対話』という著書を著しており,その第7章では,「ムハンマドが新たにもたらしたものを私に見せてください。そこには,自分の教えを剣によって広めよという命令のような,邪悪で非人間的なものしか認めることができません。」という一文がある。
この一文は,2006年に時の教皇ベネディクトゥス16世が,彼の故郷レーゲンスブルクでの特別講義でわざわざ引用したことにより一躍有名になったものであるが,その題名からも分かるとおり,マヌエル2世のこの著書はイスラム法学者であるペルシア人(実際にはトルコ人と考えられている)との対話形式で書かれており,決して非理性的なイスラム教徒への非難や誹謗中傷に終始しているわけではない。実際、『あるペルシア人との対話』では上記の文に続き、「神は血を喜びませんし、理性に従うことなしに行動することは神の本性に反します。(中略)理性を備えた魂を説得するために、腕力も、いかなる武器も、死をもって人を脅すその他の手段も必要ではありません」などと続けられており、我が国におけるビザンツ史研究の第一人者である井上浩一教授は、皇帝マヌエル2世も、その書を引用したローマ教皇ベネディクトゥス16世も、真に強調したかったのはこの言葉ではないかではないかと指摘されている。
『あるペルシア人との対話』では,議論形式でイスラム教徒側の主張にもひととおり触れる一方,(イスラム教徒側が主張するように)聖霊が預言者ムハンマドたることはあり得ない,ムハンマドの説くイスラムの法はモーゼの律法であり特に目新しいものではない,またイスラムの天国観は極めて非道徳的な欺きの約束であると批判し,最後の数巻でマヌエル2世は,このイスラム法学者にキリスト教の優越性を納得させたので,彼らはキリスト教に改宗するだろうと示唆している。
このようにイスラム教に対する理論的批判を試みた彼の著書が,その一文だけ600年後のローマ教皇に引用され,あたかもイスラム教に対する非理性的な誹謗中傷の書であるかのように誤解されたのは,著者であるマヌエル2世にとってもさぞかし不本意であったろう。マヌエル2世の残した言葉は,狂信的なものやイスラム教徒を誹謗中傷するものではなく,彼らしくあくまでも理性的に,イスラム教徒のやり方を批判するものである。マヌエル2世の西欧諸国における援軍要請においても,おそらくは前掲の一文に矮小化されたような誹謗中傷ではなく,彼らしい理性的な説得が行われたのではないかと思われる。
話をマヌエル2世の治世に戻そう。西欧での援軍要請はうまく行かず,1402年,留守中の首都ではまさに町をオスマン帝国に明け渡す相談がまとまりつつあった頃,思いがけない援軍が東方から現れた。チンギス・ハーンの末裔を自称し,サマルカンドを中心に中央アジアや西アジアに一大帝国を築いていたティムール率いる大軍が,オスマン領の小アジアに侵入してきたのである。
バヤジッド1世は,コンスタンティノポリスの包囲を続行する一方で各地の征服行を進め,1397年にはカラマン侯国の首都コンヤを占領し,翌1398年には北のシヴァス侯国を併合したが,シヴァス侯国はティムールの保護下にあったことから両者の衝突が生じた。
バヤジッド1世は,ティムールを全力で迎え撃つため,コンスタンティノポリスの包囲を解いた。そしてティムール軍とアンカラで対戦したが,バヤジッド1世率いるオスマン軍では数でも劣っていた(一説にはティムール軍約20万に対し,オスマン軍約12万とされている)上に,相次ぐ戦いで疲労し士気も低く,またティムールがバヤジッドを迎え撃つにあたり戦場付近における川の流れを変えさせ,オスマン軍に水を与えないよう仕向けていたため,オスマン軍は水不足にも苦しんだ。
バヤジッド1世率いるオスマン軍は,このように不利な要素が重なった末,最後には配下のアナトリア騎兵が裏切ったことが決め手となって大敗し,バヤジッド自身も捕虜になってしまった。ティムール軍はオスマンの都ブルサを略奪し,聖ヨハネ騎士団領であったスミルナも占領,破壊した。モンゴル系であるティムール軍の略奪と虐殺,破壊はトルコ人の比ではなく,ティムールの軍団が出立する時には「犬の鳴き声も,雌鶏が卵を産む鳴き声も,子供の鳴く声ももはや聞こえなかった」と伝えられている。もっとも,ティムールは小アジアでこうした残虐行為ばかりを行っていたわけではなく,オスマン帝国の力を削ぐため,バヤジッドによって追放されたトルコ人君侯のすべてを復興させ,捕虜としたバヤジッド1世を連れて本拠地サマルカンドへ引き揚げていった。バヤジッド1世はその途中,1403年頃に失意の中で獄死した。
マヌエルは,コンスタンティノポリスの包囲が解かれ,かつバヤジッド1世がティムールに敗れて捕虜になったとの知らせをパリで受けると,急いで帰国の途につき,モレアに立ち寄ってその統治に奔走した後,1403年に首都へ帰還した。
(4)ビザンツ帝国の内情とオスマン内紛への対応
バヤジッド1世の死後,オスマン帝国は4人の皇子が割拠し,次期スルタンの位を争っていた。すなわち,長男のスレイマンはエディルネを本拠地としてバルカン半島の領土を支配しており,次男のイーサーはブルサを拠点とし,三男のメフメトが小アジアのアマスィアを拠点とし,四男のムーサーはキュタヒヤを拠点として互いに争った。
オスマン帝国を含め,イスラム諸国には正妻から生まれた長男が後を継ぐという習慣はなく,妻も4人まで持つことが許されている上に,奴隷女の妾が生んだ子にも相続権が認められていた。もっとも,通常は君主自らが生前に後継者を指名し,円滑に権力の継承が進むよう準備しておくのだが,バヤジッド1世はアンカラの戦いで自らが死ぬとは全く予想してしなかったためこうした対策を取っておらず,彼の死後は兄弟同士が争う内戦になってしまったのである。
なお,バヤジッド1世を破ったティムールは,西欧の諸王から「コンスタンティノポリスを救った」として祝辞の使節を受けたが,それ以上西方に関心を示すことはなく,中国の明を征服する準備の途中で1405年に死去し,ティムールの死後彼の帝国は内紛により弱体化したため,以後ティムールの帝国がオスマン帝国やヨーロッパに影響を及ぼすことはなかった。
1403年初め,スレイマンはコンスタンティノポリスの留守を任されていたヨハネス7世との間で,平和友好条約を結んだ。この条約ではスレイマンがビザンツ帝国に対し大幅に譲歩し,ビザンツ皇帝のスルタンに対する金貨での貢納義務は無くなり,包囲の際にバヤジッドが占領していたコンスタンティノポリスの近郊地域はビザンツに返還された。1387年にオスマン領となっていたテッサロニケも,その周辺地域ともども返還された。さらにスレイマンは条約の中でビザンツ皇帝を「父」と呼び,少なくとも形式的には,ビザンツとオスマンの主従関係は以前の逆になったのである。マヌエル2世が首都に戻って統治を再開したのは,この条約が締結された5か月後のことである。
1403年当時におけるビザンツ帝国の状況
オスマン帝国の内戦に対するマヌエル2世の対応について見る前に,若干長くなるが,マヌエルが首都に戻ってきた1403年当時のビザンツ帝国の領土やその内情について整理しておこう。マヌエル2世が用いていた称号は「ローマ人,全キリスト教徒のバシレウス(皇帝),アウトクラトール」であり,理論的には全キリスト教世界を包含する支配者であり,ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス及び最初のキリスト教皇帝コンスタンティヌス1世の正統なる後継者であり,キリスト教諸君主の中で特別な地位にあるとされていた。
そして,首都のコンスタンティノポリスも,中世世界における最大の都市の一つであり「諸都市の女王」として知られ,城壁に囲まれた市内は3万ヘクタールもの広さがあった。なお,当時の西欧で最も栄えたフィレンツェでさえも,その城壁内の広さは630ヘクタールに過ぎなかった。単に広いというだけでなく,曲がりくねった狭い道や密集した家屋の連なる他の都市と異なり,城壁から市の中心部にあるアウグステイオン広場まで広い中央大路が続き,テオドシウス広場やコンスタンティヌス広場など大きな広場がいくつもあるなど計画的な都市環境を有し(これはコンスタンティヌス1世時代からの遺産である),またキリスト教の都に相応しく,市内には聖ソフィア教会をはじめとする数百に及ぶ教会と修道院があり,大宮殿やブラケルネ宮殿,10万人が着席できる競馬場も造られていた。
その反面,1403年に皇帝マヌエル2世が実際に支配する領土は,その称号が主張する地位や都の規模に相応しいものとは到底言えなかった。コンスタンティノポリスの周辺における領土は,町の西からヴィジエを経て港町セリュンブリアまで約80kmの地域と,町の北から黒海岸に沿ってメッセンブリア,そしておそらくヴァルナまで続く細長い地域を保持していたのみであった。帝国第二の都市テッサロニケは,首都の西513kmにある飛び地であり,その間にはオスマン帝国の領土が広がっていた。テッサロニケの周辺についても,西側と南側に細い帯状の領土がテッサリアの沿岸にわずかに伸びているほか,東側はカルキディキと呼ばれる3つの半島を領有しており,一番遠い半島にそびえるアトス山には50~60程の修道院があり,聖山として修道士や隠修士たちによる完全な自治を認められていた。
当時におけるビザンツ帝国領の中で最もまとまった規模の領地は,ギリシアの南端にあるペロポネソス半島の3分の1ほどの領地であり,この地は中世にはモレアとも呼ばれていた(モレアの名は,ペロポネソス半島の形状が絹織物の生産に必要な蚕を飼育するための桑の葉に似ていることから,13世紀以降用いられるようになった口語表現である)。この地の中心都市はミストラであり,タイゲトス山の斜面にありスパルタの谷を広く見下ろせる位置にあった。その南の海岸にはモネンヴェシア,北には要塞都市ムークリがあった。
その他,ビザンツ皇帝は北エーゲ海にあるいくつかの島を支配しており,最も大きく重要な島が,コンスタンティノポリスとテッサロニケを結ぶ海路を抑える位置にあるリムノス島で,その近くのタソス島とインブロス島もビザンツ領であった。1403年時点におけるビザンツ帝国領は,以上に述べたものが全てであった。
しかも,こうしたわずかな領土に対してさえ,いくつかの地域ではマヌエル2世の権威も名目的なものに過ぎなかった。領土が分散していたため連絡が難しいというのがその主たる理由であり,タソス島はしばしば皇帝に対する忠誠義務を果たさず,近隣の島の支配者に服していたようである。コンスタンティノポリスから遠いモレア地方については,マヌエル2世の弟テオドロス1世がミストラないしモレアの専制公(デスポテース)として,半独立状態で統治を続けていた。例えば,1394年にテオドロス1世はヴェネツィアにアルゴスの町を譲渡しているが,この譲渡は専制公としての権限に基づき,皇帝に許可を得るどころか相談さえもせずになされている。
アトス山については,かなり以前から完全な自治権を皇帝から与えられ,一種の修道院共和国を形成していたが,帝国第二の都市テッサロニケにも,1403年秋にはマヌエルの甥ヨハネス7世が支配者に任じられていた。オスマン軍が撤退した後でビザンツ兵がその陣営を略奪したところ,ヨハネス7世に宛てたバヤジッド1世の手紙が発見され,これによってヨハネス7世はコンスタンティノポリスの引き渡しについてバヤジッドと交渉していたことが明らかとなったので,これを裏切り行為と考えたマヌエルはヨハネスを一時リムノス島へ追放したのだが,ヨハネスは妻エイレーネーの実家であるジェノヴァ人のレスボス島領主フランチェスコ2世ガッティルシオの力を借りて実力でテッサロニケを奪取しようとし,マヌエル2世にはこれを実力で阻止する余裕はなかったため,彼に対する妥協として,ヨハネス7世のテッサロニケ支配を認めたのである。さらにビザンツの帝位について,マヌエル2世の死後はヨハネス7世が,ヨハネス7世の死後はマヌエル2世の長男ヨハネス(8世)が,ヨハネス8世の死後はヨハネス7世の息子アンドロニコスが継ぐという取り決めがなされ,ヨハネス7世は専制公ではなくテッサリアの皇帝(バシレウス)と名乗っていた。
首都コンスタンティノポリスとその周辺にも,マヌエル2世の実質的な支配権が及ばない地域が存在した。1つはコンスタンティノポリスのヴェネツィア人居留区であり,海の城壁沿いにあるドゥルーンガリオス門からペラマ門まで金角湾沿いに伸びていた。ヴェネツィア人の居留区はアレクシオス1世時代の1082年から存在しており,1403年当時の居留区は,ミカエル8世時代の1277年に締結された条約に従って領域が定められていた。居留区のヴェネツィア系住民はビザンツ帝国の税を免除され,ビザンツの法廷に出廷する義務もなかった。居留区には商船から物資が陸揚げされる波止場と倉庫のほか,商店,居酒屋兼宿屋,製粉場などがあり,ギリシア語ではなくラテン語で礼拝が行われるローマ・カトリック系の教会が2つもあった。この地の住民を統治するのは,ヴェネツィア政府から任命された代官であり,皇帝はヴェネツィア人居留区内には事実上何らの権限も持っていなかった。
もう1つの地域は,首都から金角湾を挟んだ対岸にあるガラタのジェノヴァ人居留区である。この地は1267年以来ジェノヴァ人が領有しており,そこにもイタリア商人のためのカトリック教会,倉庫,商店があったが,この地域にはかなり多数のギリシア人やユダヤ人も住んでいた。免税特権と治外法権が認められていること,この地の住民はジェノヴァ本国から任命されたポデスタ(執政官)に統治されており,皇帝が事実上何らの権限も持っていなかったのはヴェネツィア人居留区と同様である。
なお,ジェノヴァ人のガラタ居留区は,建前としては皇帝からの恩恵として居住を認められたものであり,ガラタに赴任したポデスタはビザンツ皇帝に忠誠の誓いをしなければならず,皇帝の前に出る際には深々と例をする義務があり,また金角湾に入るジェノヴァ船も大宮殿の沖を通過するときに敬礼をするものとされていた。しかし,ミカエル8世時代に定められ,ヨハネス6世カンタクゼノスの時代に再確認されたこの種の表敬行為は,1403年の段階では完全に忘れ去られていたようで,ガラタはもはや完全にジェノヴァ人の町となって,皇帝の支配権は名目上も全く及ばなくなっていた。
聖ソフィア教会の前には,皇帝ユスティニアヌス1世が建設させた高い円柱の上にある巨大な皇帝の騎馬像があり(この像はオスマン帝国時代の16世紀に取り壊されたため現存していない),この像は東方を見つめて敵に警告するかのように右手を挙げ,左手には十字架が載った球(全キリスト教世界に対する支配権の象徴とされていた)を持っていたが,この時代には像の損傷がひどくなり,過去における帝国の栄光と悲惨な現状の落差を象徴するものとみなされるようになっていた。球が像から落ちて広場に砕け散ることもしばしばあり,球のない皇帝像を見た者は,これをビザンツ皇帝が支配権を失った象徴であるなどと考えていた。
皇帝マヌエル2世に対しても,彼に忠実な臣下は彼を「ローマ人の皇帝」と呼んだが,そうでない者は「コンスタンティノポリスの皇帝」ないし「ギリシア人の皇帝」と呼んでおり,マヌエルの支配権を表現する呼称としてはこちらの方がむしろ適当であった。同じ正教国でありながら,ビザンツ帝国よりはるかに広い領土を持ち,モンゴル系のジョチ・ウルス(キプチャク=ハン国)の支配から脱する機を窺っていたモスクワ大公は,コンスタンティノポリス救援や聖ソフィア教会の修復のためしばしば義援金を送ってきたが,わずかな領地しか持たないマヌエルをそもそも皇帝とは認めていなかった。当のマヌエルも,自分は皇帝というより管理人と呼ばれる方が相応しいと悲しげに認めていた。
首都のコンスタンティノポリスも,バヤジッド1世の包囲に伴って人口はわずか5万人ほどに減少し,荒廃が進んでいた。包囲の際に薪が不足したため,人の住まなくなった多くの家屋が壊され,屋根や梁が燃料にされた。1403年にこの地を訪れた人は,次のように述べている。
「町のいたるところに壮大な宮殿・教会・修道院があるが,その多くはいまや荒れ果てている。しかしながら,かつてコンスタンティノポリスがその本来の姿であった時には,ここが世界でもっとも優雅な都だったのは明らかである。」
首都における主要な建造物のうち,聖ソフィア教会だけはきちんと手入れがなされていたが,その他の教会や修道院には手入れが行き届かず,首都第二の教会で歴代皇帝の永眠の地であった聖使徒教会でさえも,この時代にはゆっくりと崩壊しつつあった。大宮殿の建物群はもちろんのこと,皇帝とその一族の住居であるブラケルネ宮殿でさえもほとんど手入れがなされず,宮殿の一角にある数部屋以外は閉鎖,放棄されてしまっていた。
テオドロス1世が支配していたミストラ専制公領も,バヤジッド1世時代にオスマン帝国の将軍エヴレノスやヤクブの率いる懲罰的な襲撃が繰り返され絶望的な状況となっており,アルゴスの町がヴェネツィアに売却されたのもそのためである。テオドロス1世は,自分の領地すべてを売って,もっと安全な地へ亡命することすら考えており,それが実現しなかったのは単に買い手がいなかったからに過ぎない。
テッサロニケは1387年から1403年にかけてオスマン領となっていたため,首都やミストラのように酷い目には遭っていなかったが,戦争によって交易が全面的に途絶していたため,1403年にビザンツ領に戻った時には,かつての繁栄の面影はどこにも無かった。ビザンツ人の多くは貧困に苦しみ,一般の住民はまともな服を着ておらず,貴族の多くや聖職者,そして皇帝マヌエル2世も貧困と無縁ではなかった。地金がなかったのでマヌエル2世は金貨を発行できず,半ヒュペルペロンないしスタウラトンと呼ばれる薄っぺらで質の悪い銀貨を発行するのが精一杯であった。
もっとも,残されたビザンツ領は総じて守りが堅いという大きな利点があった。首都コンスタンティノポリスの守りについては今更繰り返すまでもないが,テッサロニケも堅牢な長い城壁に守られており,黒海岸のメッセンブリアは海岸の岬に立地しており細い通路を通ってしか入れないという自然の防衛に守られており,セリュンブリアもヨハネス6世カンタクゼノスの時代に要塞化されていた(逆に言えば,こうした防衛上の利点に恵まれていない領地はほとんどオスマン帝国に奪われてしまった,ということでもある)。
オスマン帝国が分裂,弱体化し平和が回復すると,ビザンツ領の各地では経済復興が始まった。モレアの地は肥沃で生産性が高く,穀物やワイン,オリーブ油などを産し,農産物の余剰分はヴェネツィア商人を介して西方に輸出された。コンスタンティノポリスやテッサロニケは,商業拠点や巡礼の訪れる聖地としての地位を回復したほか,城壁内にある広大な空き地は穀物畑や果樹園に転用された。
ただし,コンスタンティノポリスは国際商業拠点として活気を取り戻したものの,商業活動がビザンツの国庫を潤すことはほとんど無かった。ヴェネツィア人やジェノヴァ人が完全な免税特権を得ていたのがその主な理由であるが,それ以外の国の商人も,ヴェネツィアやジェノヴァの船を使って商品を船積みするか,あるいはヴェネツィア・ジェノヴァの市民権を買うことにより,簡単にビザンツ帝国の関税を逃れることが出来たからである。
マヌエル2世は,このような事態をほとんどどうすることも出来なかった。ヴェネツィア人やジェノヴァ人の軍事的報復に抵抗する力がないことはアンドロニコス2世の時代に実証済みであり,しかもビザンツ帝国の軍事力・経済力は100年前よりはるかに低下していた。しかも両ヨハネスの内乱時代に皇太后サヴォワのアンナ(マヌエル2世の祖母)がヴェネツィアから借りた3万ドゥカートは返済どころか利息の支払いすらも出来ておらず,ヴェネツィア政府から度々返済の督促を受けていた。
なお,マヌエルはこうした状況を少しでも打開しようと,治世晩年の1418年,ヴェネツィア人居留区の居酒屋で売られるワインにわずかばかりの税を課し,ヴェネツィア当局から激しい抗議を受けながらも,厳しい折衝の末に何とか居酒屋で飲むワインに関する課税権を勝ち取った(逆に言うと,店舗外で消費されるワインには課税できなかった)が,その後ヴェネツィア人の居酒屋の多くはワインが「あまりにも高い」という理由で閉店してしまったため,財政上大した利益はなかった。息子のヨハネス8世時代にも,1434年頃に商人たちにガラタの港ではなく金角湾の港を利用し関税を支払うよう唆してジェノヴァ人と戦闘になったことがあり,戦闘自体はビザンツ側が勝ったものの,事態の改善にはほとんど繋がらなかった。
この時代のビザンツ帝国は,当時の経済大国であるヴェネツィアやジェノヴァの半植民地とでもいうべき状態に陥っており,国際貿易による繁栄や食料の供給など国家の存続に関わる重要な事項をヴェネツィア人やジェノヴァ人に多く依存する一方,彼らを衰退しつつある帝国の血を吸う強欲なヒルとみなす見方も根強く存在した。例えば,1383年から1387年まで続いたテッサロニケ攻囲戦,1394年から1402年まで続いたコンスタンティノポリス攻囲戦において,陸からオスマン軍に包囲された都市に食料を供給し飢餓から救ったのはヴェネツィアやジェノヴァの商人たちであったが,一方で彼らは食料価格の高騰に乗じて穀物を高値で売って暴利を貪り,ビザンツ人の富を収奪した者たちでもあった。
もっとも,ゲオルギオス・グデレスやニコラオス・ノタラスといったビザンツ人は,ヴェネツィア人やジェノヴァ人の貿易網から利益を得て目立った成功を収めてこの時代のビザンツ帝国における新興家系となり,ノタラスは包囲下にある首都に穀物を運んで高値で売りさばき,1403年当時には首都で最も裕福な商人となっていた。代々ビザンツ宮廷に職を持つ貴族も,商売で金を儲けることなどビザンツ貴族のやることではないという古い既成概念を捨て,ヴェネツィアやジェノヴァとの合弁事業で成功した者は,ビザンツ人の中でも例外的に裕福であった。こうした貴族の代表格に挙げられるのが,マヌエル・パレオロゴス=イアガリス,テオドロス・パレオロゴス=カンタクゼノスである。
当時のビザンツ社会では,オスマン帝国に領土の大半を奪われたことにより大規模農地に経済的基礎を置く従来型の貴族が没落し,従来における身分の貴賤にかかわらず,ヴェネツィア人やジェノヴァ人の経済システムに便乗し商売で成功したわずかな者がビザンツ社会の勝ち組となり,その流れに乗れなかった大多数の者が負け組となったのである。この枠組みの中では,マヌエル2世や皇族たちの多くも,負け組となることを余儀なくされた。
なお,ビザンツ人の中にはマヌエル2世ではなくヨハネス7世を支持する者も多かったが,これまでの経過から見たとおり,マヌエル2世は主にヴェネツィア人の支援を受けており,ヨハネス7世はジェノヴァ人の支援を受けていた。経済的な利害がジェノヴァ側にある新興家系のニコラオス・ノタラスやゲオルギオス・グデレスは,ヨハネス7世寄りの立場を採っていた。個人的な友誼でヨハネス7世を支持していたと目される有力者は,コムネノス=ブラナス,デメトリオス・クリュソロラスなどが挙げられる。一方でマヌエル2世を支持する有力者も多かったが,その中で最も有名なのは,マヌエルの友人で元家庭教師のデメトリオス・キュドネスであり,彼は1376年にアンドロニコス4世がクーデターを起こし帝位に就いた際,彼に仕えることを拒否している。
更に,ビザンツ帝国とオスマン帝国は宗教の違いを越えて経済的・文化的な交流を深めており,オスマン帝国との無用な敵対行為は商業関係の破綻を招く上に,オスマン軍が全面的な勝利を収めればビザンツ人の生命や財産に破滅的な損害を招くとして,オスマン帝国への抗戦に積極的なマヌエル2世ではなく,オスマン帝国に融和的なヨハネス7世を支持する者も少なくなかった(ただし,ニコラオス・ノタラスは,バヤジッドに挑むというマヌエル2世の政策を積極的に支持しているが,これは戦争を金儲けの機会と捉えたことが主因であろう)。
こうした,政治的・経済的な利害関係が複雑に絡み合ったマヌエル2世とヨハネス7世の政治抗争は1403年以降も続くかと思われたが,実際にはそうはならなかった。マヌエル2世は,2度にわたる戦いでオスマン帝国と敵対することの無益を悟り協調路線に転じたほか,ヨハネス7世はテッサロニケを与えられるとその統治と経済復興に専念し,テッサロニケでは敬虔で有徳な人物と称えられるまでになった。また,テッサロニケでヨハネス7世の首席顧問を務めたデメトリオス・クリュソロラスをはじめとするヨハネス7世支持者の多くも,マヌエル2世との関係を維持し両者の間を取り持った。そして,ヨハネス7世が1408年に急死すると,その息子アンドロニコスは父に先立って亡くなっていたので帝位争いの火種も消え,マヌエル2世の許でビザンツの政治的統一はひとまず成ったのである。
ヨハネス7世死後のテッサロニケには,マヌエル2世の三男アンドロニコスが専制公として派遣されたが,アンドロニコスはまだ年少だったため老練な軍人デメトリオス・ラスカリス=レオンタレスがその顧問役として随行し,実質的なテッサロニケの統治はレオンタレスの手に委ねられた。
なお,マヌエルの弟テオドロス(ミストラ専制公テオドロス1世)は子のないまま1407年に亡くなったため,マヌエルはその後任として次男のテオドロスをミストラに送り込み,ミストラ専制公テオドロス2世として着任させている。マヌエルは自らこれらの領地にも赴いて,統治の基礎を固めている。
マヌエルの対オスマン政策
対オスマン外交については,バヤジッド1世の長男スレイマンを支持するという,ヨハネス7世の敷いた路線をマヌエル2世も引き継いだ。その一方で,マヌエルは西欧諸国の宮廷に次々と使節を派遣して,対オスマンの軍事援助を求めた。マヌエルの使節は感情に訴えるだけでなく贈物も活用し,当時のビザンツ人が高く評価していたイングランドに対しては,コンスタンティヌス大帝が306年にブリテン島で皇帝宣言をしたことを殊更に強調した末,コンスタンティヌスがガリアへ渡る際に3万人のブリテン人を連れて行き,その子孫は今なおコンスタンティノポリスにいるとまで主張した。
巧みな外交作戦にもかかわらず,マヌエル2世の求めていた軍事援助を得ることは出来なかったが,少額とはいえ貴重な現金がコンスタンティノポリス防衛のため使節たちに寄付されたほか,マヌエル2世の長男ヨハネス(後のヨハネス8世)は,イタリアのモンフェラート侯テオドーロ2世の娘ソフィアと結婚し,次男のテオドロス(ミストラ専制公テオドロス2世)は,傭兵として名高いリミニ公カルロ・マラテスタの娘クレオペと結婚した。こうしたイタリア貴族との結婚は輝かしいものではなかったが,帝国とは名ばかりの小国家に落ちぶれたビザンツの皇子たちにとって悪い話ではなかった。
これと並行してマヌエルが行ったのが,残されたビザンツ領土の要塞化である。モレアの防衛に不可欠な戦略拠点である,ペロポネソスとギリシア本土を繋ぐ狭いコリントス地峡と,その南にある難攻不落の自然要塞であるアクロコリントスの砦は,1403年当時いずれもビザンツの支配下にはなく,マヌエルの弟テオドロス(ミストラ専制公テオドロス1世)が1400年にコリントスの町とアクロコリントスの砦を聖ヨハネ騎士団に売却したことから,いずれも同騎士団の支配下に入っていた。もっとも,聖ヨハネ騎士団は反ラテン感情の強い地元のギリシア人による抵抗に悩まされていたため,マヌエルとテオドロスによる買い戻し要請に快く応じ,マヌエル2世とテオドロスは1404年,コリントスの町と砦を46,500ドゥカートで買い戻した。その後コリントス地峡には,1415年から1417年にかけてヘキサミリオン(6マイル)の名で知られる城壁が建設された。
また,国内における反抗勢力の掃討もマヌエルの重要な仕事であった。首都の兵力は大城壁を守るだけで手一杯であり動員できる兵力はほとんど無かったが,モレアには1395年頃に1万人ほどのアルバニア人がオスマン軍の侵略を逃れてモレアのビザンツ領南部に定住したこともあり,1万人以上の兵力を動員することが出来た。マヌエルは主にモレアの兵力を動員して,1414年にはビザンツを離れジェノヴァ人の支配下に入ろうとしたタソス島の反乱を鎮圧し,翌1415年にはモレアのアルコンと呼ばれる貴族の反乱軍を徹底的に打ち破った。マヌエル2世はどちらかというと文人ないし神学者のイメージが強いが,いざという時には軍人として断固たる行動も取れる人物であった。
ただし,1415年にモレアで発生した反乱は,マヌエルがヘキサミリオン城壁を建設するために課した重税に対する民衆の不満が高まったことも発生の一因であった。マヌエル2世は「平和よりもお互い同士戦う方が良いとでもいうのか」と反乱者たちを非難したが,内心では「なにもかも原因はひとつだと言ってよい。彼らはこの城壁,コリントス地峡の城壁の内にいたくないのである」と認めざるを得なかった。
ビザンツ皇帝の臣下としての負担は重く,その経済的負担に耐えかねて,あるいは幻影の帝国に留まっても将来はないと考えて,国を去ろうとするビザンツ人は少なくなかった。同じ正教徒の国であるロシアへ行く者もいれば,オスマン帝国のスルタンに仕える者,西方のラテン人世界に活路を求めようとする者もいた。こうして国外へ去ったビザンツ人が必ずしも良い暮らしを得られたわけではないが,少なくとも異教徒であるオスマン帝国の支配下に入ったギリシア人の中に,オスマン帝国に反旗を翻してビザンツ帝国の支配下に戻ろうとする動きが全くと言ってよい程無かったことだけは確かである。いずれにせよマヌエルは,ビザンツ帝国やキリスト教世界を守るという大義名分だけでは,住民たちの忠誠心を維持することは出来ないと悟らざるを得なかったであろう。
若干話が逸れたが,マヌエルは西方世界との外交や国内の防衛強化に努める一方,オスマン帝国の帝位をめぐる内紛に介入し,そこから可能な限りの利益を引き出そうとした。バヤジッド1世の息子たちのうち,長男スレイマンがバルカン半島の領土を掌握し,マヌエルが彼を支持していたことは既に述べたが,小アジア方面では次男のイーサーがブルサを中心とする小アジア西部を抑え,アマスィヤを拠点とする三男メフメトと争っていた。なお,キュタヒヤを拠点としていた四男ムーサーは,まだ子供だったこともあり,早い段階からメフメトの捕囚とされていた。バヤジッド1世の残した皇子は他にもおり,ユースフとムスタファは慎重に機会を窺っていた。
オスマン帝国の内戦は,まだマヌエルが戻ってくる前の1403年春,メフメトとイーサーがウルバド湖の近くで戦ったことにより始まった。敗れたイーサーはコンスタンティノポリスに逃れ,当時留守を預かっていたヨハネス7世はイーサーの身柄を保護した。内戦を少しでも長引かせたいビザンツ帝国にとって,メフメトが完全に勝利することは望ましくなかったので,イーサーを匿って準備が出来たら反撃に向かわせようとしたのである。1404年,イーサーは兄スレイマンからも援助を受けて小アジアに戻り,再度メフメトに挑んだがまたも敗れ,今度は捕らえられ縛り首になり,イーサーの軍はメフメトに吸収された。ブルサを占領したメフメトは父の葬儀を正式に執り行い,これによって自分こそが偉大なるバヤジッド1世の後継者であることを内外に示そうとしたのである。
イーサーの退場により,オスマンの内戦は長男スレイマンと三男メフメトの一騎打ちという様相を呈した。1403年秋,スレイマンは小アジアへ侵攻しブルサとイズニクを占領したが,メフメトはカラマン侯国と同盟してアナトリア高原の支配を維持し,アンカラの砦に立て籠もった。スレイマンはメフメトを完全に攻略することは出来ず,争いは6年間にわたる膠着状態となった。内戦の長期化を望むビザンツ帝国にとってこれ以上の結果はあり得ず,この争いにビザンツが介入する余地は無かった。
膠着状態に変化が生じたのは,メフメトが兄スレイマンを打倒するため,1409年に軟禁していた弟ムーサーを釈放してヨーロッパ側へ渡らせ,スレイマンの本拠地を切り崩そうとしたときである。ムーサーはワラキア公やセルビアに兵を借りてスレイマンに戦いを挑んだ。マヌエルも,当時の状況ではスレイマンが内戦に勝ち抜く可能性が高いと思われていたので,ムーサーを支援した。マヌエルとしては,おそらくバルカン半島におけるスレイマンとムーサーの争いが,小アジアと同様に膠着状態に陥ることを狙っていたと推測される。
ムーサーがバルカン半島に侵入したことにより,スレイマンは小アジアの平定を断念せざるを得なくなり,急いでバルカンに戻った。スレイマンは自らコンスタンティノポリスに赴きマヌエルに謁見し,弟ムーサーより自分を支援するよう訴え,マヌエルは再びスレイマン指示に鞍替えした。この時における両者の合意内容は正確には分からないが,ダーダネルス海峡を抑える要衝の町ガリポリを割譲するとの申し出があったらしい。ビザンツの艦船はスレイマン軍の海峡渡航を支援し,1410年6月にスレイマンはコンスタンティノポリスの城壁からムーサーの軍を撃退し,翌月にはエディルネでムーサーの軍に大勝した。この時点におけるマヌエルは,おそらく勝ち馬に乗れたと思って安堵していただろう。
しかし,ムーサーは敗北から立ち直り,1411年2月には新たな軍をもって反撃に出た。それでも勝算はなおスレイマンの側にあったが,彼は衆目の一致する遊び人であり,宴会や大酒に耽って,ムーサーの進撃に対し素早く対応することが出来なかった。そのため,軍団の多くはスレイマンを見捨て,スレイマンはコンスタンティノポリスへ退却する途中で,おそらく従者の一人により暗殺された。こうしてエディルネとバルカン側のオスマン帝国領がムーサーのものになり,メフメトは両者が争っている間に小アジアの支配権を手中に収めていた。
ここに至って,ビザンツ帝国は深刻な苦境に立たされることになった。バルカンを手中に収めたムーサーは,小アジアを支配している兄メフメトに戦いを挑むのではなく,自分のライバルを支援した裏切り者ビザンツにその刃を向け,コンスタンティノポリス,テッサロニケ,セリュンブリアを一斉に攻撃したのである。ムーサーの攻撃は本気でこれらの都市を征服する目的で行われたものではなく,町の周辺を略奪して相手を城壁内に閉じ込める懲罰的な攻撃であったが,マヌエルはムーサーの攻撃に対し全力を挙げて軍事的対応をとるよう追い込まれた。もっとも,ビザンツ帝国に自力でムーサーを打ち破る力は無く,西欧からの軍事援助も得られる見込みはなかったので,マヌエルはオスマン帝国内にムーサーの対抗馬となる人物を担ぎ出すことにした。
選ばれたのは,亡きスレイマン皇子の息子オルハンであり,彼はマヌエルによってテッサロニケに派遣され,オルハンの旗の下にかなりの数のトルコ人志願兵が集まった。しかし,間もなくオルハンは騙されてムーサーに引き渡されてしまい,ムーサーによって絞首刑に処された。こうなると,マヌエルに残された可能な方策は一つだけとなったが,それはビザンツ帝国にとって望ましくない結果を生む可能性が高かったので,マヌエルも側近たちも他の方策がないか長い間必死で考えたに違いない。しかし名案は浮かばず,結局はその方策を取ることが決まった。
その方策とは,既に小アジアを征服したメフメトをバルカンに招聘しムーサーに対抗させることであったが,仮にメフメトが勝利すれば彼のもとにオスマン帝国の再統一を許してしまうことになる。逆にムーサーが勝てば,ビザンツ帝国に敵愾心を燃やすメフメト以上の危険人物がオスマン帝国を再統一することになり,ビザンツ帝国は更なる窮地に立たされてしまう。どちらもビザンツ帝国にとって望ましくない結果であったが,もはや他に方法は無かった。
ブルサにいるメフメトに親書が送られ,軍を率いてボスフォラス海峡まで来るよう依頼がなされた。メフメトの軍はヴェネツィアまたはジェノヴァの船で海峡を渡り,コンスタンティノポリスでマヌエルに暖かく迎えられた。しかし,1412年の春にメフメトが行った,首都を包囲するムーサーの軍に対する攻撃は失敗に終わり,メフメトはこの戦いで負傷して,彼とその兵士たちはコンスタンティノポリスへ逃げ帰ってきた。落胆したメフメトはブルサへ戻ってしまい,ムーサーによる包囲は続いた。
しかし,ムーサーはイスラム教徒の中でも異端視されるほどの過激なイスラム原理主義者を大法官に起用し,国内で人望を失っていただけでなく,彼と同盟を結んでいたセルビアやワラキアもムーサーを嫌うようになっていた。翌1413年,マヌエルは「賢明な言葉で」メフメトの戦意を掻き立て,メフメトは再びムーサーに立ち向かった。おそらく,マヌエルはメフメトとセルビアとの同盟を支援したものと思われる。今回の対決は現在のブルガリアにあるソフィアの南方で行われ,数で劣っていたムーサーの軍は圧倒され,ムーサーは逃走中に沼地に入り込んでしまい,追手によって討ち取られた。
(5)マヌエルとメフメト1世との関係
こうして,オスマン帝国の内戦はビザンツ帝国にとって最悪の結果こそ回避されたが,その次に悪い結果となった。内戦に勝利したメフメトは,正式にスルタン・メフメト1世(在位1413~1421年)を名乗り,彼の許にオスマン帝国は再統一を果たしたのである。ビザンツ帝国にとって唯一の救いは,メフメト1世がチェレビ(皇子ないし紳士)というあだ名の示すとおり温和な人物で,マヌエル2世を父と呼び,感謝の意を込めてマヌエルに仕える旨を表明するとともに,ムーサーによって占領されていた黒海とマルマラ海沿岸の地域をビザンツに返還したことである。
マヌエル2世自身を含め,メフメト1世の表明を額面どおりに受け取るおめでたいビザンツ人はほとんどいなかったが,その後メフメト1世が亡くなるまで,ビザンツ帝国とオスマン帝国との関係は小康状態が続いた。その主たる理由はメフメトがマヌエルに対する感謝の気持ちを忘れなかったからではなく,メフメト1世が小アジアなど各地の戦いに忙殺されていたからであった。メフメトがバルカンでムーサーと戦っている間に,カラマン侯はブルサを略奪し,メフメトが建てたバヤジッド1世の墓を暴いて気勢を上げており,メフメトは残る治世の大半を,小アジアにおける覇権回復のための戦争に費やし,バルカン半島のキリスト教徒を脅かす余裕はなかったのである。さらに,1416年にはシェイフ・ベドレッディンがブルガリアで反乱を起こし,メフメトのバルカン支配も揺らいだ。メフメトの艦隊はヴェネツィア艦隊と思いがけないことから海戦になり,ガリポリ沖で敗れた。メフメト1世自身も健康に恵まれず,てんかんの発作に繰り返し悩まされていた。
こうしたメフメト1世の苦境を見ながら,マヌエル2世は表向きメフメト1世との友好関係を維持しつつ,内戦時代に行っていた「3つの政策」を継続した。すなわち,西欧世界との接触を続け,要塞の建設など防衛体制の強化に努め,またオスマンの王朝政治から漁夫の利を得ることである。軍事援助を最終的な目的とした西欧諸国への外交攻勢は継続され,また前述したヘキサミリオン城壁の建設が始まったのはメフメト1世即位後のことであり,マヌエルは建設費用を工面するためヴェネツィアに使節を送った。
いざという時に,スルタンへの対抗馬となりそうなオスマン帝国の皇子たちも集められた。メフメト1世の弟ユースフ,スレイマン皇子の孫オルハンといった人物であったが,彼らは対抗馬としては使えそうになかった。オルハンはまだ子供だったので,将来何かの役に立つだろうと温存しておく他なく,ユースフは行動より学問の人であり,彼はギリシア古典文学に夢中になり,マヌエルの長男ヨハネスに付き従って古典を学ぶため学校に通い,ギリシア正教に改宗したいと願い出るまでになった。マヌエルとしては,ユースフがキリスト教に改宗すればオスマン帝国のスルタンになる可能性はほぼ絶たれてしまい,ユースフの利用価値が無くなってしまうのでこれを許したくは無かったが,1416年にコンスタンティノポリスで疫病が流行し,ユースフも感染した。彼は死の床で洗礼を受けたいと望み,マヌエルもその願いを認めた。こうしてユースフ皇子はデメトリオスという洗礼名を与えられ,その翌日に亡くなった。マヌエルは彼をストゥディオスの聖ヨハネ修道院に,キリスト教徒の皇子に相応しい名誉をもって葬った。
ユースフ(デメトリオス)は役に立たなかったが,程なく彼よりはるかに有用な手駒として,メフメト1世のもう一人の弟であるムスタファという人物が浮上してきた。1415年,彼はオスマンの宗主権から自立すべく戦っていたトルコ人小君侯の一人ジュネイドと共にバルカンへやってきた。ムスタファは,兄のメフメト1世に挑戦する気概には不足していなかったものの,支持者を集める試みは成功せず,メフメトがマケドニア軍団を率いて鎮圧にやってくると,ムスタファとジュネイドはビザンツ領であるテッサロニケへと逃れてきた。
メフメト1世はテッサロニケの城壁に攻撃をかけ,謀反人の引き渡しを要求したが,当時テッサロニケの支配を実質的に任されていたレオンタレスはマヌエル2世に対応を相談するための時間的猶予を求め,一連の交渉の結果,ビザンツ帝国はムスタファとジュネイドを引き渡さないが,その代わりに二人を確実に投獄しておくものとし,メフメトは2人の生活費として毎年ビザンツに多額の金を贈る,という合意が成立した。ムスタファはリムノス島へ送られ,ジュネイドはコンスタンティノポリスの修道院で暮らすことになった。
この合意によってメフメト1世との直接的な衝突は回避され,ビザンツ側は将来使える手駒を得たが,ムスタファをめぐるビザンツ側の対応はメフメトとの関係を悪化させた。メフメトはヘキサミリオン城壁の建設にも憤っており,出来ることなら止めさせたいと思っていたらしい。マヌエルは,1416年に書いた手紙の中で,メフメト1世を「敵意を剥き出しにした野獣」であると述べており,彼がコンスタンティノポリスやテッサロニケを襲ってくるのは時間の問題であると考えていた。メフメトを完全には信用していなかったからこそ,マヌエルはメフメトの歓心を買うことより,いつか来るオスマン帝国との再戦に備えた手駒を確保することを選んだのであろう。
1421年,メフメトは小アジア遠征にあたり,コンスタンティノポリスを通過すると通告してきたが,このときにはビザンツ宮廷に緊張が走った。メフメトが不意打ちでコンスタンティノポリスを占領しようとしているのではないかと恐れたのである。側近の中には,先手を打ってメフメトを誘拐させ計画を阻止するよう進言する者までいた。マヌエルはその提案を却下したが,通常行っていた息子の誰かを派遣してメフメトを表敬訪問させることを取りやめ,代わりに忠実なレオンタレス率いる貴族の一団をメフメトの許に派遣した。メフメトが内心何を考えていたのかは明らかでないが,少なくとも表向きはレオンタレスに対し愛想よく語り続け,メフメトの一行が無事海を渡ってイズミットへと去っていくと,マヌエルと側近たちはようやく安堵のため息をついた。メフメトはその数か月後に戻ってきて,エディルネへ戻る途中にてんかんの発作を起こして亡くなった。
以上のとおり,メフメト1世の在世中,ビザンツ帝国とオスマン帝国は微妙な緊張状態にあったが,少なくとも直接的な武力衝突は回避された。両国のこうした関係が破綻するのは,メフメトの息子ムラト2世が即位してからのことになる。
(6)親ラテン派勢力の再建
ムラト2世時代の話に移る前に,マヌエル2世の対ラテン政策について触れておくことにする。マヌエル2世自身は親ラテン派ではなく,宗教的には断固とした正教信仰の擁護者であり,ローマ・カトリックとの教会合同を実施する意思は全く無かった(そのため,彼が西欧諸国を歴訪した際にも,ローマやアヴィニョンの教皇との面会は避け,世俗の君主たちに直接援軍を求めたのである)が,教会合同の可能性自体はオスマン帝国を牽制するための切り札として残しておく必要があり,また西欧諸国との外交関係を構築ないし維持する都合上,宮廷内にもデメトリオス・キュドネスの後を継ぐ親ラテン派がある程度必要であると考えていた。
マヌエル2世は,キュドネスの弟子で後継者であったマヌエル・クリュソロラス(1415年没)と親しく交わり,またコンスタンティノポリスで古典ギリシア語を学んでいたイタリア知識人であるグァリーノ・ダ・ヴェローナ,フランチェスコ・フィレルツォとも交流を深めた。二人は一時期マヌエル2世の秘書官として活躍したほか,イタリアへ帰った後も,西方においてビザンツの利害を積極的に代弁してくれた。
ビザンツ人の親ラテン派は,マヌエル・クリュソロラスの甥ヨハネス・クリュソロラスや,ゲオルギオス・スコラリオスといった人物が育ち,グァリーノやフィレルツォと連絡を取り合っていた。若干余談になるが,マヌエル2世の推進したこのような文化交流は,西欧の歴史や文化に対するビザンツ人の関心を著しく高め,様々な分野でラテン文化の影響が及ぶようになった。それまでのビザンツ人は西欧について極めて無知かつ無関心であり,14世紀のビザンツにおける最高の知識人の一人であるニケフォロス・グレゴラス(1293年頃~1361年頃)でさえも,1346年に行われたクレシーの戦いでフランス軍が敗北した件について,「ブリテン人がケルト人の本土に渡り,大きな戦いがあった」という以外に書くべきことがなかった程であったが,マヌエル2世の時代以降は,にわかに北西ヨーロッパはコンスタンティノポリスの宮廷で流行となり,宮廷を訪れたラテン人たちは,故郷の最新情報についてビザンツ人から事細かに尋ねられることになった。特にビザンツ人の関心を惹いた事件は,1431年に行われたジャンヌ・ダルクの処刑であり,当時のビザンツ人には,ブルゴーニュ公がジャンヌを捕らえイギリスに引き渡したという事実は信じ難いものに映ったようである。
口語のギリシア語には既にイタリア語の語彙が多く入っていたが,この時代には礼拝詠唱にも西欧の多声音楽が取り入られたほか,この時期に建築された教会にも西欧風のゴシック建築が取り入れられた。もっとも,西欧からの文化的影響にもかかわらず,ビザンツ人の大半は反ラテン感情を鎮静化させるどころかむしろ増幅させており,14世紀から15世紀にビザンツを訪れた西欧人旅行者は,ビザンツ人から示される反感にしばしば衝撃を受けている。そうしたビザンツ人の敵意を最も生々しく記録したのは,1432年にビザンツを訪問したブルゴーニュの旅行家ベルトランドン・ド・ラ・ブロキエールであり,彼はビザンツ人の船に乗りスクタリからガラタへと渡る際,ビザンツ人は当初彼をトルコ人だと思っていたため大いに敬意を表してくれたが,彼がラテン人だと分かると急に態度を変えて運賃を釣り上げようとし,ベルトランドンが支払いを拒否したので相手はひどく喧嘩腰になり,事態に気付いたガラタの靴屋がベルトランドンを助けに来なければ争いになるところであったという。
こうした知識人階級の親ラテン趣味と,一般市民や聖職者の反ラテン感情というビザンツ社会の亀裂は,マヌエル2世の在位中にはまだ深刻な問題にはならなかったが,次の世代になってパレオロゴス王朝内部の争いが再開されると,この亀裂が帝位継承権争いに結びついて表面化することになる。
(7)長男ヨハネスとの対立と対オスマン戦争の再開
1421年,メフメト1世が亡くなり,その息子ムラト2世が新スルタンに即位した。ムラト2世は特に攻撃的な人物ではなく,むしろ学問や芸術に関心を寄せていた。彼は学者のパトロンであり,科学や文学の問題について討論する集まりを毎週開き,最も優秀と判断した人物に褒美を与えていた。建築事業にも熱心で,ブルサにある緑のモスクと霊廟はメフメト1世時代に着工され,ムラト2世が完成させた。他にもブルサに1つ,エディルネに2つのモスクを建築している。なお,モスクはキリスト教の修道院と同様,単に祈るための建物として建っているのではなく,周囲にワクフという,病院や貧民に食事を提供するための食堂といった慈善施設,そしてイスラムの学校であるマドラサなどが併設されていた。
マヌエルとしては,ムラト2世とも従来どおりの関係を維持しようと考えていたが,1421年に共同皇帝に任命されていた長男ヨハネスはそう考えず,今こそムスタファとジュネイドを釈放し,ムラト2世がブルサにいるうちにバルカン側の地域を占領させて,もう一度オスマン帝国を内乱に陥れるべきだと主張したのである。宮廷内の意見は割れ,マヌエル2世を支持する党派とヨハネスを支持する党派に分かれてしまった上に,当時17歳に過ぎなかった上に好戦的でもないムラト2世を侮っていたのか,ヨハネスの意見を支持する強硬派の方が優勢であった。
マヌエルは自身の失敗から,オスマン帝国の継承者争いに介入しても有害無益であり,オスマン帝国との融和こそが帝国の生きる道だと悟っていたため,ヨハネスにもそのように言い聞かせた。しかし,父の言葉を聞いたヨハネスは何も言わず部屋を出て行ってしまった。
マヌエルは傍らにいた大臣スフランゼスに語った。「私の息子は皇帝にふさわしい男だ。あの子は大きな野望を持っている。だが今の時代にはふさわしくない。今日の帝国に必要なのは,皇帝ではなく管理人なのだ。」
しかし,結局は老齢のマヌエルが議論に疲れてしまい,「息子よ,お前の好きなようにしなさい。私は老人だ,病気で,死も近い。帝国のことはお前に任せた。好きなようにやるがよい」と言ったと伝えられている。このときマヌエル2世は事実上退位して,ヨハネス8世の主導で対オスマン作戦が実行された。1421年9月,ムラト2世の叔父ムスタファとジュネイドは,ビザンツ皇帝への服従とガリポリの引き渡しを誓約した後,トラキア地方へと放たれた。当初,ムスタファはエディルネを占領し,鎮圧に来たムラト2世の大臣率いる軍を撃破するなど若干の成功を収めた。ムラト2世はコンスタンティノポリスに使いを送って,ムスタファに対抗するための援助を求めたが,その申し出をビザンツ側は無視した。
残念ながら,若いスルタン・ムラト2世は,文化人の気質があり温厚な性格ではあったが,ビザンツ宮廷の強硬派が期待したような凡庸な人物では全くなかった。加えて,ムスタファもビザンツ側との約束を守るような人物ではなかった。ムスタファはガリポリを占領したが,ビザンツ帝国に対するガリポリの引き渡しを拒否し,続いて1422年1月に海を渡ってムラト2世の軍を攻撃したが,この戦いはムスタファの屈辱的な敗北に終わり,彼はトラキアに逃げ戻った。ムラトが軍を率いてヨーロッパ側に現れると,ジュネイドを含めたムスタファ支持者の大部分は彼を見捨て,ムスタファは逃亡を試みたもののドナウ川付近で捕らえられ,一般の犯罪者として縛り首になった。ムラトは,ムスタファがバヤジッド1世の皇子であることすら認めようとはせず,オスマン帝国史におけるムスタファは「偽ムスタファ」,すなわち既に死んだムスタファ皇子の名を騙った偽者として断罪されている。
ビザンツ帝国の背信に怒ったムラト2世は,コンスタンティノポリスを包囲した。しかも,この包囲は1394年にバヤジッド1世が行った兵糧攻め作戦でも,1411年にムーサーが行った懲罰的封鎖でもなく,強攻策によりコンスタンティノポリスを陥落させることを目的とした作戦であった。大城壁の外側にはオスマン軍の前進基地とすべく土塁と溝が掘られ,その後ろには城壁を破砕する攻城器械が配置され,大城壁より高い木の塔も建設され,また「亀」と呼ばれる,分厚い皮で覆われた車付きの装置も準備させた。「亀」は,城壁の下にトンネルを掘る者たちを守るための装置であった。
これらの攻城兵器は,カエサルをはじめとするローマの将軍たちにもお馴染みのもので,特に目新しいものではなかったが,オスマン軍はその他にも「ファルクーニア(鷹)」と呼ばれる小型の大砲も持参していた。この時代,大砲は既に新兵器というわけではなく,1291年のマムルーク朝によるアッコン包囲戦では爆薬によって飛ばす弾丸が用いられているし,西欧でも1346年のカレー包囲戦でイングランド軍が大砲を用いたことは有名である。ビザンツ帝国でも,1390年にヨハネス7世が金門の要塞に立て籠もった祖父ヨハネス5世を砲撃するために大砲を用いており,1422年の攻囲戦でもビザンツ側は自らの大砲を持っており,土塁の向こうにいるオスマン軍に向かって城壁から発砲している。それでも,コンスタンティノポリスが大砲の攻撃に晒されるのは,この戦いが最初の例であった。
ムラト2世の軍が用いた大砲は大した武器ではなく,敵兵を驚かせ殺傷することは出来たが,石造物にはさほどの衝撃を与えなかった。オスマン軍はアドリアノポリス門と聖ロマノス門との間にある,見るからに手入れの行き届いていない塔に砲撃を集中し,その塔には70発以上の弾が命中したが,塔はびくともしなかった。
しかし,大砲は効果が無かったとは言え,1422年の包囲は極めて深刻な危機であった。この年の夏に行われた攻撃は激しく,8月24日には陸の城壁に対する全面攻撃が行われた。ヨハネスは騎乗して防衛戦を指揮し,ビザンツ軍は当初攻撃のあまりの激しさにたじろいでいたものの,聖処女マリアが城壁に現れたという報せに奮起して体勢を立て直し,決死の抵抗によってオスマン軍を外城壁から追い払い,堀の向こうへと押し戻したのである。もはやコンスタンティノポリスを落とせる見込みがないと判断したムラトは,9月6日に包囲を中止し軍を撤退させた。
こうしてコンスタンティノポリスは救われたが,ビザンツ人に対する懲罰をムラトが断念したわけではなかった。コンスタンティノポリス包囲と並行してテッサロニケの包囲も行われ,こちらではオスマン軍は撤退せず,テッサロニケを落とすためには長期にわたる封鎖も辞さない模様であった。モレアも1423年春,トゥラハン将軍率いるオスマン軍の攻撃を受け,オスマン軍はモレアの各地を焼き払い略奪した後に帰還した。マヌエルが建設させたヘキサミリオン城壁は,十分な数の守備隊を置く金が無かったため何の役にも立たず,守備兵の多くはオスマン軍接近の報を聞くと逃げ出してしまい,オスマン軍は何らの抵抗も受けることなく,城壁の一部を破壊しヘキサミリオンを通過していった。
こうした事態に直面し,ビザンツ帝国に出来ることは,もはやムラト2世に和平を乞うことだけであった。オスマン帝国との和平交渉にあたり,戦争の事態を招いた張本人である共同皇帝ヨハネスは自ら前面に立たない方が良いと考え,援軍要請を兼ねてヴェネツィアやマジャル王国を歴訪したが,援軍要請に関しては満足の行く結果は得られなかった。
一方,マヌエル2世は1422年10月に重い卒中で倒れ半身不随になってしまったので,オスマン帝国との和平交渉は,ヨハネスから留守を任されたマヌエル2世の四男コンスタンティノスや重臣たちの主導で行われた。交渉を少しでも有利に進めようとして,ムラト2世の弟である6歳のムスタファ(小ムスタファと呼ばれる)をブルサに対立スルタンとして擁立したが,この小ムスタファは1423年初めに従者に裏切られてムラトに引き渡され,ムラトによって即刻縛り首にされた。この対立スルタン擁立は,ムラトをさらに怒らせるだけの結果に終わった。
そんな中,オスマン軍の包囲に怯えたテッサロニケ専制公アンドロニコス(マヌエル2世の三男)はコンスタンティノポリスに援軍を要請してきたが,返答にかなりの時間がかかった上,結局首都の政府に出来たことは具体的な援助ではなく,テッサロニケの住民にもっと財産を寄付させて防衛資金を捻出せよと助言することだけであった。かなりの重病,記録によるとひどいてんかん,ハンセン氏病ないし象皮病に罹っていたとされるアンドロニコスとテッサロニケの市民たちは絶望し,市民たちは独自に,オスマン帝国に降伏するか町をヴェネツィアに明け渡すという外交活動を始めた。
アンドロニコスは,オスマン帝国に降伏するよりは町をヴェネツィアに引き渡し防衛を委ねたほうがましだと考え,1423年,ヴェネツィア共和国政府に対しテッサロニケの引き渡しを申し出た。ヴェネツィアは,テッサロニケがヴェネツィアにとって重要な商業港であり,これがオスマン帝国の手に落ちれば同市における交易条件はかなり厳しくなるとの見方から,ヴェネツィアの評会は賛成99対反対45の票数で専制公の申し出を受諾することを決めた。
ヴェネツィアは,テッサロニケの併合を可能な限り平和裡かつ合法的に行おうとし,テッサロニケの取得についてマヌエル2世及びヨハネスの同意を得ようとし,さらにムラト2世の同意も得ようと努めた。マヌエル2世とヨハネスは同意したが,ムラト2世はヴェネツィア政府当局の懸命な外交努力にもかかわらず,断固としてヴェネツィアのテッサロニケ取得を認めず,1423年9月にテッサロニケがヴェネツィアに引き渡された後も,オスマン軍によるテッサロニケの包囲は続けられることになった。テッサロニケをヴェネツィアに引き渡した元専制公のアンドロニコスは首都の修道院に隠棲し,1428年に亡くなった。
オスマン帝国との講和は1424年2月にようやく成立したが,平和の代償として,ビザンツ皇帝はオスマン帝国のスルタンに貢納する臣下の立場に落とされ,皇帝は以後毎年10万ドゥカートの貢納を支払うものとされた。1403年の条約でビザンツ側が取り戻したマルマラ海や黒海沿岸の領土についても,その一部を放棄させられた。ムラト1世やバヤジッド1世の時代と異なり,スルタンに対する軍役奉仕の要求はなされなかったようであるが,この1424年に締結された条約により,ビザンツ帝国とオスマン帝国の関係は,要するに概ね1394年以前の状態に戻ったのである。
1425年,おそらく帝国の将来を深く憂いながら,マヌエル2世は74歳で死んだ。彼の葬儀には,これまでのどの皇帝よりも多くの人々が参列し,深く嘆いたと伝えられている。
マヌエル2世は,深い学識教養に加え,政治家や軍人としての資質,権謀術数の能力にも欠けておらず,ビザンツ文人皇帝たる要素を全て備えていた最後の皇帝である。このような「管理人」たることを余儀なくされる苦難と絶望の時代でなく,もっと良い時代に生まれていれば,さぞかし名君として活躍できたことだろう。
<幕間30>異端の哲学者プレトン
古代ギリシア文化に強く憧れた歴代ビザンツ知識人の掉尾を飾る人物は,マヌエル2世及び次のヨハネス8世の時代に活躍した,異端の哲学者ゲオルギオス・ゲミストスである。彼はプラトンに深く傾倒しプレトンという筆名を名乗ったので,「プレトン」という名前の方が広く知られている。
ビザンツの知識人は,異教色の強い古代ギリシア人の作品を教養として高く評価しつつも,キリスト教の信仰はあくまで堅持するのが一般的であったが,プレトンはギリシア古典に傾倒するあまり,単なる教養としてではなくその根源まで追求しようとし,古代ギリシア人の信仰を復活させることまで企図したのである。
プレトンは,当然ながら異端の罪で告発され,1410年頃にはマヌエル2世によって,コンスタンティノポリスからミストラへ追放された。しかし,当時のミストラはビザンツ文化の活気にあふれた中心地となっており,専制公の宮廷には多くの学者や芸術家が招聘されていた。そんな中首都からやってきたプレトンはミストラで学問を伝え,専制公に裁判官として仕え土地を与えられる一方,自身が学んだ古代ギリシアの叡智を実用に役立てようと考え,行政や政治の改革に関する大胆な提案を繰り返し行った。
ビザンツ帝国では深刻な貧富の差が社会問題となっていたためか,古代ギリシア文明発祥の地に近いミストラでは,貧富の差を徹底的に排除した古代スパルタを理想の社会とみなす哲学的思想が芽生えており,スパルタの政体を創設した立法者リュクルゴスが尊敬されていた。プレトンもそのような思想を受け継いでいたようである。
プレトンは,すべての土地はそこに住むすべての住民の共有財産となるべきであり,各人の労働が生み出したものは三分され,労働者と農地所有者と国庫にそれぞれ振り分けられるべきであると説いた。これはかつての熱心党による主張を反映したものであった。彼はまた,兵士は税を免除され,国家及びヘイロータイ(古代スパルタの農奴)と呼ばれる納税義務を負う者1名(騎兵の場合は2名)によって養われるべきであると考えていた。
プレトンは,外国製の青銅貨を使うのは愚の骨頂であり,他人を儲けさせ我々が笑いものになるだけであると主張し,自給自足を促すための管理貿易も進言していた。プレトンが目論んでいたのは,古代のスパルタを模範とした平等な社会の実現,効率的な市民軍の創設と体系化された税源の確立であり,それによってより良い政府や軍事的成功が約束されると考えていたようである。
プレトンの著作『法律』は,全3巻100章に及ぶ理想の国家社会を実現するための提案書であり,現在ではそのうち16章及び若干の断片しか残されていないためその全容を知ることは出来ないが,プレトンはゼウスを頂点とする古代ギリシアの神々に対する信仰の復活を提言し,その宗教的儀式や聖職者の役割に至るまで論じていたと考えられている。彼は,キリスト教の聖職者たちを「真の不死を通じてより大きな幸せを約束して人々を惑わせるソフィストたち」と呼び,彼らの教えを退けている。
プレトンは明らかな異端者であるにもかかわらず,皇帝やミストラ専制公は彼の助言を熱心に求めた。プレトンはキリスト教神学にさほど関心はなかったにもかかわらず,1438年に教会合同のための交渉が始まるとその使節団にも加わり,西方教会が「フィリオクエ」を含む信条の根拠としていた,787年の第7回公会議で公布されていたと考えられていた同文言を含む信条を記録したあるラテン語の文書が,本物ではあり得ないことを見事に証明して見せた。プレトンは,この公会議による聖像破壊運動の終結を歓迎した当時のローマ教皇ハドリアヌス1世やレオ3世が,ともにフィリオクエの文言を含まない信条を読み上げていたことを指摘したのである。
プレトンはフィレンツェのイタリア人学者にプラトン哲学の講義を行い,同時代の人々に大きな感銘を与えた。プラトンの知識に乏しかったイタリア人は,プレトンの著作に大きな関心を寄せ,西欧におけるプラトン哲学研究を大きく推進させることになった。
プレトンは地理学の問題にも関心を寄せており,ストラボンの『地理誌』についての彼の考察は,1430年代にルネサンス知識人の間で行われた議論にも重要な役割を果たし,当時進められていた未知の地域への探検旅行,そして1492年にクリストファー・コロンブスがインドを目指して大西洋を横断した有名な試みに対しても,間接的に寄与することになった。
このように,文化面で多大な業績を残したプレトンであったが,彼の著書『法律』に示された改革案,すなわち中世のギリシアにあたかも約二千年も前の古代スパルタを再現させるかのような,ある意味斬新すぎる試みが実現されることは無かった。プレトンは1452年に亡くなり,ビザンツ帝国の滅亡後オスマン帝国のメフメト2世によって総主教に任命されたゲンナディオス・スコラリオスは,古代ギリシアの宗教に対するプレトンの傾倒を異端と断罪し,『法律』の写本はすべて燃やすよう命じた。
プレトンの墓は当初ミストラにあったが,彼の信奉者であったシジスモンド・マラテスタの手により,マラテスティアーノ廟の埋葬地に然るべき敬意をもって改葬された。その奉納献文では,プレトンは「当時の哲学者のなかで第一人者」と称賛されている。