第27話 ヨハネス8世と再度の教会合同

第27話 ヨハネス8世と再度の教会合同

(1)はじめに

 1392年にマヌエル2世と皇后ヘレネの長男として生まれ,その死後帝位を継いだヨハネス8世(在位1425~1449年)は,本人を前にして描かれた写実的な人物画が伝わっている唯一のビザンツ皇帝である。イタリアの画家ピサネッロの手で描かれた47歳のヨハネス8世は,細面の横顔に先の尖った髭と襟まで垂れ下がった長い巻き毛が特徴であり,神経質そうで悲しげな顔は,彼が生涯悩まされていた痛風のためと推測されている。ヨハネス8世については,とびきりの美男子とするイタリア人の評が残っており,少なくとも容貌に関しては,皇帝らしい威厳に満ちていると称賛された父のマヌエル2世に劣るものではなかったと考えて良い。
もっとも,ヨハネス8世の皇帝としての評価は総じて父より悪い。これは皇后ヘレネを生涯愛し続けた父と異なり,不美人な2番目の妻を邪険に扱ったなど彼の性格的な問題もあるが,最大の原因はおそらく,後述するとおり東西教会の合同を強行したことであろう。父のマヌエル2世がいみじくも見抜いたように,ヨハネスは野心的で気が強く,当時の帝国に必要な「管理人」にはなり切れない人物であった。
 父のライバルであったヨハネス7世とその息子アンドロニコスの死によって皇太子の地位が事実上確定したマヌエルは,成人すると父の不在時における摂政を任されるようになり,1421年には父の共同皇帝に任じられ,ビザンツ帝国における政治の実権を掌握した。
 ヨハネス8世の側近として重用された人物には,まずルーカス・ノタラスが挙げられる。彼は,マヌエル2世時代に首都の大富豪となったニコラオス・ノタラスの末子かつ相続人であり,1420年代に父が亡くなるとその莫大な遺産を相続した。ルーカスは皇帝一族の娘,おそらくはヨハネス7世の娘と結婚し,ビザンツ帝国でメサゾン,後にはメガス・ドゥークスの称号を得た。彼は,首都で首相と言ってよい地位に就いたのである。
 なお,ルーカスと同時代の宮廷人の歴史家ゲオルギオス・スフランゼスはルーカスの政敵であり,スフランゼスは自ら書いた歴史書の中でルーカスを「自分のこと以外どうでもいいと公言するほどの利己的な男」だと述べているが,このような悪評は相当程度割り引いて考えるべきであろう。他の史料によれば,ルーカスはヨハネス8世とその後継者コンスタンティノス11世に忠誠を尽くしたとされ,別の同時代人もルーカスを「感性の高潔さと鋭い知性,何物にも縛られない自由な精神で知られていた」と述べている。少なくとも,特に奸悪な人物というわけではなかったようである。
 ルーカス・ノタラスの次に挙げられるのが,デメトリオス・パレオロゴス=メトキテスである。彼も皇帝の姻族で,メガス・ストラトペダルケスとエパルコス(コンスタンティノポリス市長)の職務に任じられ,皇帝の変わらぬ盟友であり続けた。パレオロゴス=イアガリス家のマルコスとマヌエルも,皇帝の姻族で身近な助言者であった。ノタラス,メトキテス,イアガリス家は交易で財を成したとても豊かな家柄で,彼らが報酬なしでも忠実に仕えてくれたのは,皇帝にとって大きな助けになったであろう。
 これらの有力貴族に加えて,ヨハネス8世はそれほど恵まれていない階層からも,有能な若者を多数宮廷に招いた。ゲオルギオス・スコラリオス(1403年頃~1472年)とヨハネス・アルギュロプロス(1415年頃~1478年)の2人は,首都で教師を務めていたが,ヨハネス8世の即位後に頭角を現して判事になった。ヨハネス8世は若く有能な修道士ベッサリオン(1402~1472年)にも注目し,彼は1427年に生まれ故郷のトレビゾンドへ派遣され,ヨハネス8世とその3番目の妻となるトレビゾンド皇女マリアとの結婚をまとめている。その他,ヨハネス8世も父と同じくラテン人と積極的に交わり,宮廷に招き入れて,西方におけるビザンツの代弁者として用いた。シチリアのジョヴァンニ・アウリスパ,人文主義者であるアンコーナのチリアーコが,その代表的な人物である。
 ヨハネス8世は生涯に3度結婚しており,最初の妻は1414年に結婚したアンナ・パレオロギナで,彼女はモスクワ大公ヴァシーリー1世の娘であったが,1416年から1417年にかけて首都に流行したペストにより死去している。2番目の妻が,1421年に結婚したソフィアで,彼女はモンフェラート侯テオドーロ2世パレオロゴの娘であった。彼女との結婚式は共同皇帝の戴冠式と合わせて盛大に執り行われたが,ソフィアは容貌が優れなかったのでヨハネスは彼女を愛さず,彼女を放置して愛人と肉欲の楽しみにひどく耽り,ソフィアはブラケルネ宮殿の私室で寂しく暮らすことを余儀なくされた。もっとも,ソフィアとの結婚は父マヌエル2世が粘り強い外交的努力の末ようやく実現させた政略結婚であったため,父の存命中はヨハネスも事を荒立てることは無かったが,1425年に父が亡くなるとヨハネスはいよいよソフィアを邪険に扱うようになり,1426年8月,これ以上耐えられなくなったソフィアは故郷へ帰り,その後は修道女として余生を過ごした。
 3番目の妻マリア・コムネネ・パレオロギナは,トレビゾンドの皇帝アレクシオス4世メガス・コムネノスの娘で,1427年にヨハネスと結婚した。彼女は美貌で広く知られておりヨハネスに気に入られていたが,1439年に子のないまま死去した。ソフィアとの離婚とマリアとの再婚は,教会法上かなり問題のある行為であり,ソフィアへの扱いは人道的にもかなり問題があったので,ヨハネス8世の評判をかなり落とすことに繋がった。

(2)治世初期の政策

 前話で述べたとおり,1421年に共同皇帝に就任したヨハネス8世が最初に行ったことは,父の反対を押し切ってオスマン帝国の皇子ムスタファ(偽ムスタファ)をムラト2世の対立スルタンに擁立したことであり,この謀略は散々な失敗に終わった挙句ムラト2世の怒りを招き,1422年のコンスタンティノポリス包囲とテッサロニケ包囲,1423年のモレア懲罰遠征といった事態を経て,1424年の和約によりビザンツ帝国は再びオスマン帝国の臣下という立場に落とされることになった。また,その過程で帝国第二の都市テッサロニケは1423年にヴェネツィアに引き渡され,ビザンツ帝国の手から永久に失われた。
 ヨハネス8世は,対オスマン戦争の軍資金を調達するためワインに課税しようと試み,ヴェネツィア人からもワイン税の徴収を認めるようヴェネツィア政府に打診したが,回答は断固拒否であった。偽ムスタファの擁立が失敗した後も,ムラト2世の弟小ムスタファを対立スルタンに擁立しようとしたが,小ムスタファは1423年にムラト2世によって縛り首にされた。ヨハネス8世は西欧からの援軍を得ようと,ヴェネツィアからヴェローナ,パヴィア,ミラノ,そしてマジャル王国へと旅を続けたが,その成果はヴェネツィアから1500ドゥカートの貸付けを受けるにとどまった(ヨハネス自身は,この旅で4万ドゥカート集めたかったようである)。
 ここまで述べたヨハネス8世の政策は,いずれも失敗ないし空振りと表現するしかないものであったが,1424年にオスマン帝国との和約が成立すると,ヨハネスは直ちに首都の大城壁の修復に取り掛かった。ヨハネスによる修復事業は,既存の塔及び塔と塔の間の内外城壁の修復,城壁の外側にある堀の全面的な浚渫,3つの塔の新設を含んでいた。もっとも,帝国の国庫は相変わらず逼迫していたので,ヨハネスは事業の一部を豊かな臣下たちに委託した。もちろん,大城壁の修復や再建,拡張自体は歴代皇帝により何度も行われてきたことであるが,それらはいずれも国費で行われており,大城壁の修復を豊かな臣下に委託したのはヨハネス8世が初めてであると考えられている。
 城壁の修復を記録した碑文に出てくる臣下たちには,マヌエル・ブリュエンニオス=レオンタレス,ルーカス・ノタラス,マヌエル・イアガリスの名が挙げられる。1448年にはセルビアの君主ジュラジ・ブランコヴィッチによる城壁修復の支援も受け入れている。こうした政策をヨハネス8世の独創的なものとして好意的に評価するか,それとも臣下の手を借りなければ城壁の修復も満足に出来ない程ビザンツ帝国が凋落したと否定的に評価するかは,読者諸氏の考え方次第であろう。
首都の城壁修復に際してはムラト2世の反応が懸念されたが,ムラトが抗議したという史料は無い。ムラトが黙っているのを良いことに,ヨハネスはなおもオスマン帝国の対立スルタン候補を抱えており,ムラトに対する軍事援助を協議する使節も依然として西方に送り続けていた。その中でも最も大胆で,ムラト2世にも目に余る行為に映ったと考えられるのは,ペロポネソスにおける領土拡大政策であった。
 ヨハネスが領土拡大政策に乗り出したのは,オスマン帝国に対する独立を主張したいという欲求もあったが,それ以上にパレオロゴス家の一族が生きていくための領地を確保する必要に迫られたという事情があった。父マヌエル2世と母ヘレネの夫婦は子沢山で,成人した息子だけでも長男ヨハネス8世のほか,次男のミストラ専制公テオドロス2世,三男の元テッサロニケ専制公アンドロニコス,四男コンスタンティノス,五男デメトリオス,そして六男トマスがいた。まだ幼いトマスはまだ良いとして,領地を与えられていないコンスタンティノスとデメトリオスは共に野心的かつ精力的で,ビザンツの支配層内部で支持者を次々と獲得し党派を形成しつつあった。
 コンスタンティノスはトルコ人から伝わった騎射の技術に長じ,帝国を救う道は兄ヨハネス8世のようにスルタンに面従腹背するのではなく,西方のキリスト教徒と結んで軍事力を強化することにあると信じていたようである。コンスタンティノスは戦闘精神に溢れる者たちを周囲に集め,首都の競馬場で流鏑馬を披露するなど武芸を磨くことに熱中していた。逆にデメトリオスは,かつてのヨハネス7世とほぼ同様の考え方を採り,帝国の苦難に対する唯一の解決策は,オスマン帝国に抵抗を続けるのではなく,和解することだと考えていた。デメトリオスは,オスマン帝国との戦争を嫌う富裕層やローマ・カトリックとの教会合同を嫌う聖職者層による不満の受け皿となる可能性があり,しかも彼は父の存命中である1423年,独断でガラタを経てエディルネに行きムラト2世と交渉しようとした前歴があるため,コンスタンティノスに劣らず危険な弟であった。
 とりあえず,この2人に何の仕事も与えず野放しにしておくのは危険であったため,ヨハネス8世は欧州歴訪から帰国した後,コンスタンティノスにメッセンブリアの町を,デメトリオスにリムノス島を親王領として与えた。しかし,野心的なコンスタンティノスがメッセンブリアでは満足しないだろうことはヨハネスも承知していたため,彼はモレアで攻勢に出ることにしたのである。
 ヨハネス8世が狙ったのは,ケファレニア伯にしてレウカス公であるイタリア人カルロ1世トッコの領土である。トッコは1400から1420年にかけて,アルタやヨハニナといった町を含むエピロスの各地を占領し,1420年代には南のペロポネソスにも領土を広げ,モレアとイタリアを結ぶ主要港グラレンツァを含む,半島北西岸のエリス平原を支配下に置いていた。ヨハネス8世は,弟コンスタンティノスと共に,1427年12月にモレアへ到着し,翌1428年にはヨハネス8世とコンスタンティノス率いるビザンツ軍はグラレンツァへ進撃し,港を封鎖すべく艦隊も派遣された。トッコは精一杯抵抗したものの,辺境の飛び地を守り抜く見込みは無く,講和を強いられた。グラレンツァの町とその周辺地域,その地域に属する城がビザンツに割譲された。その中で最も重要だったのは,グラレンツァ付近の岬にある,巨大で難攻不落のクルムツィ砦であった。協定を確かなものにするため,1428年7月にコンスタンティノスはトッコの姪マッダレーナと結婚した。
 グラレンツァはコンスタンティノスに親王領として与えられ,ミストラ専制公テオドロス2世の領有していた土地の一部もコンスタンティノスの領地に加えられたが,これらの措置が全て友好的に行われたわけではない。スフランゼスの示唆するところでは,テオドロス2世は早い段階で,弟アンドロニコスに倣って修道士になりたいとの意向を表明していたので,これを受けたヨハネス8世はコンスタンティノスを後任のミストラ専制公に任命する準備を整えていたが,後になってテオドロス2世が翻意したため,ヨハネス8世は2人の調停に追われ,その結果コンスタンティノスは当初の予定より少ない領土で我慢させられることになった。明らかに彼は不満であった。
 ヨハネス8世は,弟コンスタンティノスの不満を宥めるため,また末弟トマスの親王領を確保するため,更なる領土拡大を試みた。次の目標はパトラスであり,1428年夏,ヨハネス8世とコンスタンティノスは末弟トマスを連れてパトラスへ進軍した。パトラスはグラレンツァと同じ港町であったが,聖アンデレの殉教地としても有名な場所であり,また1204年のビザンツ帝国分割の際,アカイア公国のためにローマ教皇がパトラス大司教座を創設していたことから,カトリックのパトラス大司教によって統治されていた地でもあった。
 もっとも,パトラスの防御は強固であり,ビザンツ側の戦果は守備隊の若者3人を捕らえただけであった。結局この戦争は,毎年500フローリンの貢納をコンスタンティノスに支払うという条件で和平が成立し,ヨハネス8世はこの戦いが終わると船でコンスタンティノポリスへ帰還した。末弟トマスにはミストラの北方にあるカラヴリュタの城が与えられ,その直後にトマスはアカイア公ケントゥリオーネ2世の軍を打ち破り,その娘カテリーナ・ザッカリーアと結婚して,トマスはケントゥリオーネが残した領地の相続人となった。
 以上によって,ヨハネス8世の弟たちに領地を与えるという遠征の目的は概ね達成されたのだが,モレアに残ったコンスタンティノスは,兄と違ってパトラス征服の夢を諦めていなかった。コンスタンティノスの側近でもあった歴史家ゲオルギオス・スフランゼスによると,コンスタンティノスとスフランゼスはパトラス攻撃計画について秘密裡に会談した際,パトラス征服に成功した場合と失敗した場合の両方を想定して一族間の領地配分を考えていたということであり,コンスタンティノスによる遠征も兄ヨハネス8世と同様,その主たる目的はパレオロゴス家の成員が生活していける土地を確保することにあった。
 1429年の春,コンスタンティノス率いるビザンツ軍はパトラスを攻撃し,パトラスから打って出た敵の騎兵隊と野戦になり,この戦いでスフランゼスが敵の捕虜になるという事故もあったが,続く包囲戦が40日ほど続いた末,パトラスの守備隊はコンスタンティノスに降伏し,これに伴いスフランゼスも解放された。パトラスの大司教パンドルフォ・マラテスタ(テオドロス2世の妻クレオペの兄)は包囲を前にしてパトラスの町を離れており,守備隊は大司教が教会軍の組織に奔走していると思い彼の帰還に望みを繋いでいたのだが,6月になっても大司教が戻らないのに絶望し,降伏を決意したのである。もっとも,守備隊の一部はパトラスの町を見下ろす丘の砦に立て籠もって抵抗を続け,彼らを降伏するよう説得するのに12か月の期間を要したが,パトラスの占領はビザンツ帝国にとって大きな勝利であり,1432年にアカイア公カントゥリオーネ2世が亡くなりトマスがその全領地を接収したこともあって,ペロポネソス半島のほぼ全土がビザンツ帝国の支配下に入ることになった。
 もっとも,このようなペロポネソス半島の征服事業は,様々な外交問題を引き起こすことになった。パトラスはローマ教皇の領土であり,この地を占領してその大司教を追い出したことは,当然ながらローマ教皇の怒りを招いた。またヴェネツィアも,テッサロニケと同じようにパトラスを接収しようと教皇と大司教相手に交渉していたところであったため,コンスタンティノスによるパトラス占領の報に当惑した。さらに深刻だったのは,エディルネにいるムラト2世の反応であり,彼はグラレンツァやパトラスの征服を,1424年の協定違反と見做したのである。
 コンスタンティノスがパトラスの引き渡しを受けている頃,オスマン帝国の使節が彼の陣にやってきた。使節の言うところでは,町の住民はスルタンの臣下になると申し出ていることから,これ以上攻撃を続けるなら,パトラスを救うためオスマン軍を派遣するというのである。コンスタンティノスはこの苦境を切り抜けるため,パトラスの包囲は解除されたと嘘をついて使節を納得させた。もっとも,このような嘘が単なる時間稼ぎにしかならないことはコンスタンティノスも承知しており,パトラスの支配を確実にするとする,コンスタンティノスはスフランゼスをエディルネに派遣して,スルタンの了解を得ようとした。 
 スフランゼスと,その共同使節となったマルコス・イアガリスは,コンスタンティノスのパトラスの占領に怒るスルタンとの困難な交渉に直面した。ムラト2世は明らかに不機嫌であり,大臣のイブラヒム・パシャから二人に提示されたスルタンの回答は,パトラスを直ちに放棄せよというそっけないものであった。スフランゼスは,このような厳しい回答を持ってコンスタンティノスの許に戻れないと抗弁して,スルタンの命令を直接伝えてもらうべく,オスマンの使節をパトラスに同行させるよう頼んだ。この交渉について,イアガリスはスフランゼスが任務に失敗したと非難しているが,実際にはこの策略は効果があって,スフランゼスはオスマン帝国の役人を伴ってエディルネを出発し,交渉はその後12か月間も意図的に引き延ばされ,コンスタンティノスがパトラスにおける立場を強化する時間的余裕を与えた。ムラトも1年後には,パトラス引き渡しの要求を実行に移す気を失くしていたようで,その後パトラスは帝国滅亡までビザンツ領に留まることになった。

(3)テッサロニケの陥落とその政治的影響

 ペロポネソス半島の征服は順調に行われ,ミストラ占領に伴いメッセンブリアはコンスタンティノスからヨハネス8世に返還されたが,ヨハネスはこの報を素直に喜べる状況にはなかった。1430年には,帝国第二の都市であったテッサロニケが,オスマン軍の前に陥落したのである。
 テッサロニケは,既に述べたとおり1423年にヴェネツィアへ引き渡されていたので,1424年に結ばれたビザンツ帝国とオスマン帝国の和約は適用されず,またムラト2世はヴェネツィアのテッサロニケ支配を断固として認めようとしなかったので,テッサロニケの封鎖は延々と続けられた。1426年には3万のオスマン軍による総攻撃も行われ,この攻撃はクレタ島からの援軍もあって何とか撃退したが,その後も包囲は続いた。
 ヴェネツィアは海から住民への補給をしようとあらゆる努力をしたが,海側にも不十分ながらオスマン海軍による封鎖が行われていたので包囲網を突破できない船もあり,テッサロニケは深刻な食料不足に陥っていた。市民の多くは,夜陰に紛れて縄で城壁を降りてオスマン軍に投降し,ヴェネツィア人守備隊の中にさえ脱出に加わる者がいた。テッサロニケのギリシア系市民は,1429年7月にヴェネツィア本国に代表団を派遣した。ヴェネツィア本国はこの代表団の訴えにより,テッサロニケの代官が食料配給の任務をきちんと実施していないことを知り,代表団に対し善処することを約束したが,状況はさほど変わらなかった。問題の根幹が,テッサロニケ代官の任務怠慢ではなく,オスマン軍の包囲を突破してテッサロニケの住民に食料を届けることの困難にあったからである。さらに当時のヴェネツィアは,好戦的な元首フランチェスコ・フォスカリ(在位1423~1457年)の許,ミラノ公国と長期の戦争状態にあったので,テッサロニケ救援のため大艦隊を派遣するなどの余裕はなかったのである。
 1430年春,ムラトはテッサロニケ包囲戦に決着をつけるべく,大軍を率いてエディルネを出発した。町に残るギリシア人は既に戦意を失っていたが,ヴェネツィア人は重要な交易拠点であるテッサロニケを手放す気はなく,ヴェネツィア人は農村地域から連れてきた荒々しい山賊集団を配置して,ギリシア人が裏切らないよう監視させた。実際,ギリシア人の一部が,おそらくオスマン軍に町を明け渡そうとして城壁の下にトンネルを掘る事件も発生していたので,こうした用心も見当はずれのものではなかった。
 ムラトは攻撃に先立ち,市内のギリシア人にヴェネツィアと手を切って城門を開くよう説得し,降伏すれば住民の生命・自由・財産を保証すると約束した。ギリシア人には,おそらくこの降伏勧告に応じたい意志はあったが,ヴェネツィア人の監視を恐れていたため勧告に応じることは出来なかった。ムラトは当初,防備の薄い海側の城壁からの攻撃を試みたが,脆弱なオスマン海軍はヴェネツィア人により簡単に撃退されたため,陸からの総攻撃を決断した。1430年3月29日に開始された総攻撃について,オスマン軍の兵力がどれほどの人数であったかは分からない。もっとも,同時代人の残した記録の内容に照らし,1426年の総攻撃時をはるかに上回る,圧倒的な規模の大軍であったことは間違いない。
 テッサロニケは堅城であったが,長引く包囲で防衛側の士気も著しく低下しており,また大軍による人海戦術に耐えるほどの防衛力は無かった。早くも午前中にはオスマン軍が城壁を突破し,敗北を悟ったヴェネツィア人の多くは,サマレイア塔の波止場から船で脱出した。一方ギリシア人の大半は取り残され,当時の戦争慣習に基づき3日間にわたり行われたオスマン軍による略奪の被害をもろに受けることになった。テッサロニケの財宝,貴金属,大理石などは略奪され,特に教会や修道院が大きな被害を受けた。住民たちは捕虜にされ奴隷として売られた。この戦闘に参加していたあるヴェネツィア人は,オスマン軍がギリシア人女性をかき集めるのに夢中であったため,その分多くのヴェネツィア人が船にたどり着き逃げ出すことが出来た,これがテッサロニケ陥落に伴う混乱の中で唯一の「救い」であったと述べている。
 テッサロニケの陥落は,ヴェネツィアに大きな衝撃を与えたが,いかにもヴェネツィア人らしく,その衝撃は金額で判断された。政府の公式発表によると,ヴェネツィアがテッサロニケの防衛に費やした金額は合計74万ドゥカートにのぼったという。また,テッサロニケの陥落に伴いオスマン軍の攻勢に弾みが付き,テッサロニケの近郊にあったアトス山もオスマン軍に征服され,アトス山は存続を許されたもののスルタンに毎年の貢納を課せられることになった。また,同年10月には,カルロ・トッコの甥カルロ2世が守るヨハニナの町がオスマン軍の前に陥落したが,ヨハニナの住民はオスマン軍の司令官シナン・パシャの降伏勧告に応じて城門を開いたので,テッサロニケで生じたような略奪の惨劇は起こらなかった。
 また,1431年春には,テッサロニケ攻略のため先延ばしにされていた,コンスタンティノスへの懲罰遠征も行われた。コンスタンティノスはヘキサミリオン城壁の再建に取り組んでいたが,トゥラハン将軍率いるオスマン軍はいとも簡単にヘキサミリオン城壁破壊の任務を達成した。1402年におけるアンカラの戦いとそれに続く内戦により,オスマン帝国の領土は一時ムラト1世時代の規模にまで縮小したが,メフメト1世とそれに続くムラト2世は,いずれも世界史上の知名度こそ低いが有能なスルタンであり,ティムールが復活させた小アジアの君侯国を撃破するなどして,この時期にはバヤジッド1世時代の勢力を取り戻しつつあった。1430年にムラト2世が大軍を率いてテッサロニケを陥落させたことは,オスマン帝国の復活を内外に印象付ける象徴的な事件であった。
 そして,1431年のヘキサミリオン城壁破壊でムラト2世の怒りを見せつけられたビザンツ人は,もしムラト2世が全軍を自分たちに向けることを決意したらどうなるのかを悟った。ビザンツ人が一連の惨事から得られた教訓は他にもあったが,問題はその教訓が何であるかについて,ビザンツ人の間で合意が成立しなかったことであった。

親ラテン派と親オスマン派対立の再燃

 同じ年にオスマン軍の手に落ちたテッサロニケとヨハニナの対照的な結果を見て,多くのビザンツ人は,オスマン帝国に抵抗し怒らせても無駄である,ラテン人に援助を求めることはむしろ事態を悪化させるだけらしい,という結論に達した。テッサロニケのギリシア人は,ヴェネツィア人に町の防衛を委ねたがために,オスマン軍に降伏しようと思っても降伏させてもらえず,しかも最後はヴェネツィア人によって見殺しにされ,オスマン軍による略奪の犠牲とされたのである。ヴェネツィア人を含むラテン人が実力的にも道義的にも信用できない存在であることをこれ以上雄弁に語る事実は他になかった。
 一方,テッサロニケの陥落から全く反対の教訓を引き出したビザンツ人もいた。彼らによれば,テッサロニケの陥落はオスマン帝国が1402年の惨敗から完全に立ち直り,もはや抗し難い勢力になったことを証明するものであり,最善の対応策はじっと待つことでなく,西方キリスト教会から大規模な軍事援助を引き出し,スルタンの力に対抗することだというのである。
 このような考えに傾いた理由は人によってまちまちであり,ゲオルギオス・スコラリオスは,かつてのデメトリオス・キュドネスと同様に,ラテン神学に対する学問的な親近感からそのような考え方に傾いた。第25話の最後に付け加えた「オスマン帝国による統治体制」の項で,親オスマン派の言い分になりそうなことは概ね述べたが,親ラテン派にも相応の言い分はあった。確かに,オスマン帝国は征服地の住民を強制的にイスラム教に改宗させることはほとんどしないし,無抵抗で開城すればイスラムの法に基づき住民の安全も保障される。
 しかし,イスラム勢力による支配が長く続き,生まれたときから支配者はイスラム勢力という世代になると,キリスト教徒の家に生まれた者でもイスラム教やイスラム勢力による支配に対する心理的抵抗が無くなり,むしろイスラム教徒になった方がジズヤも支払わなくて済むし,仕官して出世することも望めるなど利点が多いとして,自発的にイスラム教へ改宗する者が増加する。
 イスラム勢力に征服されても,征服者であるイスラム教徒が少数派であった時代には,多数派であるキリスト教徒たちはほぼ不自由なく暮らしていくことが出来たが,次第に改宗者が増えてキリスト教徒が少数派に転落していくと,次第にムスリムの統治者も少数派たるキリスト教徒に遠慮する必要を感じなくなる。キリスト教徒の二級市民たる扱いは一層鮮明となり,キリスト教徒は道を歩くにもイスラム教徒に道を譲らねばならないなど,有形無形の迫害を受けるようになり,残されたキリスト教徒の多くは諦めてイスラムに改宗するか,キリスト教国である他国に亡命する道を選ぶようになり,その地に残るキリスト教徒はますます少数になっていく。
 その結果,キリスト教の教会は次第に信者を失ってその力を失い,教会財産は隊商宿,学校,モスクといったイスラム的な制度に転用され,教会の建物はモスクなどに改造され,それらの施設はキリスト教からの改宗者によって管理されることになる。
 イスラム教のワクフと呼ばれる基金は様々な社会的機能を備えており,キリスト教の修道院といくつかの類似点を見出せるが,やはりキリスト教徒の目から見れば明らかにイスラム的なものであり,ワクフはキリスト教を犠牲にしつつイスラムを強化する役割を果たすものであった。
 こうして,オスマン帝国などイスラム勢力の支配下に入った地域は,時間をかけて徐々にイスラム化が進行し,キリスト教の信仰は静かに失われていくのである。小アジアの教会に任命された聖職者の多くは,もはや自分の教区に居場所を見つけることが出来ず,総主教の援助を頼って首都に避難していた。
 なお,ビザンツ帝国の滅亡後にあたる15世紀後半に作られた教会一覧によれば,小アジアには51の府主教区,19の大主教区,481の主教区があるが,在任しているのは大主教1人と主教3人だけであり,残りの教区の主教などはすべて空位とされている。未だビザンツ帝国が存続していた1430年代当時の状況も,現地に赴かずコンスタンティノポリスに滞在している主教などが多かったことを除けば,概ねこれと似たようなものであったろう。
 ただし,小アジアは12世紀末から多くのトルコ人が定住した結果住民構成自体が大きく変化しており,偉大な旅行家として知られるマルコ・ポーロやイブン・バットゥータも,小アジアをトルコ人の地とみなしている。小アジアのイスラム化はこうした住民構成の変化に大きく起因するものであり,イスラム勢力に征服された地のすべてが,小アジアのように比較的短期間でほぼ完全なイスラム化を遂げるわけではない。例えば,7世紀に早くもイスラムの勢力下に置かれたシリアやエジプトは,現代でこそ住民のほとんどがイスラム教徒になっているが,イスラム教徒の割合が50%に達したのは,近年の推計によればムハンマドの死から約330年後のことだという。
 自らカトリックに改宗しており,ヨハネス5世時代における親ラテン派の急先鋒であったデメトリオス・キュドネスは,オスマン帝国の支配下に入った教区のこのような現状を把握しており,オスマン帝国による支配を許しては純粋なキリスト教の信仰が失われてしまうと主張し,オスマン帝国に対抗するため教会合同の必要性を熱心に説いていた。
 ただし,これまで多くのキリスト教徒がそうしてきたように,このような「静かなイスラム化」の現実をありのままに話すのではなく,「トルコ人は都市を跡形もなく破壊し,教会を略奪し,墓を荒し,あらゆるものを血と死体で埋め尽くした。彼らは住民たちの魂を汚しさえもした。まことの神を拒み,自分たちの不浄な信仰に加わるよう強制したのである。」などと,イスラム教徒たちがあたかも暴力的,強制的な手段でイスラム化を実現したかのような,現地人なら明らかに嘘と分かる演説や宣伝を平気で行うのだった。以上に紹介したのは,ヨハネス8世の時代には既に亡くなっていたデメトリオス・キュドネスの主張であるが,キュドネスの後継者である1430年代の親ラテン派たちも,キュドネスと似たような主張を繰り返していたことは想像に難くない。
 このような考え方の他にも,ヴェネツィアやジェノヴァの商業ネットワークに深く関わっていて,経済的な利害から西欧との友好関係を支持する者もいた。確かに,ヴェネツィアやジェノヴァの経済特権を認めない強力なオスマン帝国が台頭することは,ヴェネツィアやジェノヴァの商業ネットワークを存続の危機に晒すことに繋がり,こうした商業ネットワークから大きな利益を得ているビザンツ人にとっては死活問題であった。
 最後に,戦略的に見て親ラテン主義が最も良い結果をもたらすと信じた人々もいた。もし西方からオスマン帝国に対し大規模な攻撃がなされれば,東方のカラマン侯イブラヒム・ベイ(在位1424~1464年)やその他小アジアのトルコ人小君侯が呼応して反オスマンに立ち上がるであろうことは広く知られていた。これによりムラト2世は二正面作戦を強いられて,1402年に祖父のバヤジッド1世が蒙ったような惨事に見舞われるだろうというのである。もっとも,既にティムールは亡く,1430年当時の東方はティムールの死後に勢力を盛り返した黒羊朝と弱体化したティムール朝が激しい争いを繰り広げており,東方からの勢力がオスマン帝国に大打撃を与えるという想定は現実の国際情勢から乖離したおめでたいものと言わざるを得ないが,ヨハネス8世やその弟コンスタンティノスが親ラテン派の考え方に傾いたのは,おそらくこのような想定に飛びついたものと考えられている。
 ビザンツ人全体の中では,ラテン神学に学問的な親近感を抱いていた者も,ヴェネツィアやジェノヴァの商業ネットワークに関与し大きな利益を得ていた者も,親ラテン主義政策によりアンカラの戦いの再現が起こると考えた者も多くはなかったので,親ラテン派はビザンツ人全体の中では少数派であったものの,親ラテン派は知識人や富裕層が多く,皇帝も加わったことで政策に強い影響力を持つことになった。
 もっとも,親ラテン政策を採るにあたっての最大かつ緊急の問題は,オスマン軍をバルカン半島から追い出せるほどの大規模な軍事介入を,どのようにして西欧から引き出すかという点にあった。父のマヌエル2世時代から続けられていたこれまでの外交努力は,同情と若干の金銭,首都防衛のためのわずかな援軍を引き出すにとどまっており,西方から本格的な援軍を引き出す最大の障害となっているのが東西教会の分裂であることは,これまでの交渉経過から経験済みであった。
父のマヌエル2世もそれは十分承知していたが,東西教会の合同が激しい国内反発を起こすことは必至であったため,教会合同はオスマン帝国に対する外交の武器としてちらつかせるに留め,実現してはならないという見解を持っていた。生前のマヌエル2世は,ヨハネス8世にこう語っていた。
「不信心な者たち(オスマン帝国)は,我々がフランク人(西欧人)と合意に達し,一丸となることを恐れている。もしそうなったら,西方のキリスト教徒から大きな不幸を蒙るだろうと信じているのだ。だから,合同のための公会議の開催に向けて検討を続けるように。とくに,不信心な者を恐れさせる必要がある時にはそうせよ。ただし公会議を実際に行ってはならない。」
 しかし,ヨハネス8世は,教会合同に関し父とは異なる見解を持っていたようである。確かに,パレオロゴス王朝の開祖ミカエル8世が行った教会合同,祖父ヨハネス5世が行った個人的なカトリック改宗は,いずれも国内の強い反発を受けて失敗に終わった。しかし,これらの失敗例は,どちらもカトリック側の主張を丸呑みする形で行われたために国内の強い反発を呼んだのであり,ヨハネス8世は教会合同にあたり公会議を開催し,正教側の主張を相当程度受け容れさせることが出来れば,教会合同はビザンツ国内でも受け容れられるだろう。その後におけるヨハネス8世の行動は,彼がこのように考えていたと理解しなければ説明不可能なものであった。
 だが,ローマ・カトリックの勢力圏と正教会の勢力圏は,既にミカエル8世の時代から前者の方が圧倒的な優勢を維持しており,ミカエル8世もヨハネス5世も,ローマ教皇から教義上の妥協を一切引き出すことが出来なかった。両帝の時代より帝国を取り巻く状況が更に悪化しているヨハネス8世の時代において,ローマ・カトリックに正教側の主張を相当程度受け容れさせる余地などあったのかという疑問は当然湧いてくるところだが,実はあったのである。

諸外国の情勢とフス戦争

 ここで,当時のビザンツ帝国を取り巻く国際情勢,とりわけビザンツの隣国で発生していたフス戦争について触れることにする。ヨハネス8世がかなり有利な条件で教会合同を実現できた政治的背景として,ビザンツ史上では説明を省略されがちであるが,実はフス戦争と密接な関係があったのである。
 当時,唯一勢いのある正教国であったロシアは,政治的にはバラバラであった中,モスクワ大公国が次第に最有力の勢力となっていたが,この国は1434年から大公位をめぐり約20年にもわたる内戦に突入しており,ビザンツ帝国に援軍を送れる状況ではなかった。一方,ビザンツ帝国の西方では,イタリアは相変わらず都市国家間の戦争に忙しく,この時代は「五大国」と呼ばれる教皇庁,ミラノ公国,フィレンツェ共和国,ヴェネツィア共和国,ナポリ王国が抗争を繰り広げていたため,やはり大規模な援軍は望めそうになかった。フランスとイギリスも百年戦争を再開しており,やはり援軍は絶望的であった。
 そんな中,先にニコポリス十字軍の総大将を務めたジギスムントがマジャル王のほか神聖ローマ皇帝とボヘミア王を兼任しており,ビザンツに大規模な援軍を送ることが出来そうな西欧の君主はこのジギスムントくらいしか見当たらなかった。しかし,彼はフス戦争の処理に忙殺されており,やはりビザンツに援軍を送れる状況ではなかった。
 フス戦争について説明するには,当時におけるカトリック教会の状況について説明しなければならない。西方カトリック教会では,高位聖職者の生活は奢侈に流れ,教会に金を払って免罪符なるものを購入すれば信仰上の罪が赦されるという,あからさまな金儲けが教皇の呼びかけで行われ,聖職売買や詐欺的な姦通も横行し,教会は道徳的に堕落していた。とりわけ,神聖ローマ皇帝カール4世の治世下で教会優遇策が採られたボヘミアでは,こうした堕落の傾向が顕著であった。
そのため,このような教会の在り方に異を唱える知識人もいた。14世紀のイングランドで活躍したジョン・ウィクリフはその思想的先駆者であるが,ボヘミア(現在のチェコ)のヤン・フスはウィクリフの哲学書に影響を受け,強烈な教会批判を始めた。彼はウィクリフと同様,単に教会の堕落を批判するにとどまらず,カトリックの教義や教皇制度自体を批判し,しかも彼の主張はボヘミアの大衆から広く支持されていた。
 1414年,ドイツのコンスタンツで公会議が開催された。この公会議はローマ王(ドイツ王の意味である)ジギスムントの主催で行われ,先の1409年に行われたピサ公会議による教皇並立解消の試みが失敗し,3人の教皇が並立する事態になっていた大シスマを終結させた公会議として歴史上広く知られているが,フス派への対応も同公会議の重要な議題であった。ジギスムントはフスを公会議に招くため,彼の身の安全を保証する通行許可証を交付していたが,フスはドミニコ派の修道院に監禁され,自説の撤回を要求されたがこれに応じず,1415年にフスは火刑に処されてしまった。ジギスムントも,フスに対する公会議参加者の反発があまりに強いため,結局公会議の主張を容れフスを見捨てるしかなかった。
 だが,キリスト教の歴史上,人望を集めている反逆者を処刑することは,その反逆者に殉教者ないし聖人としてのカリスマを与えることになり,多くの場合逆効果となる。フスもその例外ではなく,フスの死を聞かされたボヘミアの大衆は激怒し,ボヘミアの教会はほとんどがフス派の手中に帰した。大衆だけでなく,教会や大貴族の専横に苦しんでいた中小の貴族たちまでがフス派に同情し,こうしてボヘミアは異端であるフス派の国となった。
 そんな中,ジギスムントは1419年に兄からボヘミアの王位を継いだが,ボヘミアではフスを裏切った彼の即位に断固反対した。ジギスムントは対ボヘミア十字軍を組織してフス派を一掃しようと試みたが,ヤン・ジシュカという指導者に率いられたボヘミア軍はジギスムントの十字軍を粉砕した。ヤン・ジシュカは1424年に病没するが,その後も弟子のプロコブという人物が後を継ぎ,ローマ教皇とジギスムントの率いる十字軍を何度も粉砕した。
 ボヘミアは大国ではなかったが,フス処刑への復讐心に燃える当時のボヘミアは西欧史上最初の国民軍を形成したと言われており,ボヘミアと同様にカトリック教会から異端視されていたポーランド人もフス派に味方した。フス派は厳しい宗教的規律により制御され,兵士たちの士気も高く,マスケット銃や装甲馬車などの新兵器を活用し,ヤン・ジシュカをはじめとする優秀な司令官にも恵まれていた。
 十字軍とフス派との戦いは,毎年のように十字軍が送られてはその度に粉砕されるといった感じで,あまりにも敗戦続きであったため,1427年の敗戦以後は約4年間にわたり,十字軍の派兵自体が見送られた。そして1431年に最大規模の十字軍が派兵されたが,10万と伝えられる十字軍はフス派に恐れをなし,戦わずして逃走する有様であった。フス派はジギスムントの本国であるドイツにも逆侵攻を行い,同じくジギスムントの領国であるマジャル王国でも,フス戦争の余波で農民反乱などが頻発した。
 そして,対フス派十字軍の相次ぐ失敗によりローマ教皇と皇帝ジギスムントの権威は失墜し,それに伴って信仰の問題に関する最高の権威はローマ教皇のみではなく教会の公会議にもあるという「公会議運動」の勢いが増し,1431年にはスイスのバーゼルで,枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニを議長とする公会議が開催された。バーゼル公会議は,ローマ教皇に無断でフス派に対し交渉のテーブルを用意し,フス派はバーゼル公会議との妥協に応じる穏健派(ウトラキスト派)とこれに反対する急進派(ターボル派)との間で分裂が起こり,1434年にはリパニの戦いで穏健派と急進派が激突し,この戦いで急進派は壊滅し,プロコブも戦死した。
 フス派は,「プラハの4か条」,すなわち説教の自由,両形色による聖体拝領(パンと葡萄酒の両方による聖体拝領のこと。従来のカトリックでは,葡萄酒による聖体拝領は聖職者しか受けることが出来なかった),聖職者の世俗財産の没収,しかるべき権威者による大罪の処罰をその主張として掲げていた。1436年に行われたバーゼル公会議と穏健派との協約で,穏健派はやや曖昧な形であるがこの4か条を認められ,これを条件にジギスムントのボヘミア王位が認められ,フス戦争はこれにより概ね終結を見た。そして,ジギスムントは翌1437年,男子のいないまま病没した。
 なお,バーゼル公会議は,コンスタンス公会議で以後定期的に公会議を開催する旨の決定がなされたのを受けて,時の教皇マルティヌス5世が招集したものであるが,間もなくマルティヌス5世が没し,後継の教皇エウゲニウス4世はバーゼル公会議の解散を命令したが,バーゼル公会議は枢機卿21人のうち15人の支持を得て公会議を続行し,世論の多くが公会議派を支持したため,1433年には教皇も非を認めて解散命令の撤回を余儀なくされていた。
 ヨハネス8世が教会合同の交渉に乗り出したのは,まさにこのような時期であった。彼はローマ教皇のほかバーゼル公会議にも使節を送っており,両者を天秤にかけてより有利な条件で教会合同を成立させ,西欧からの援軍を引き出す機会を慎重に窺っていたのである。カトリック側も,フス戦争でその威信を大きく失墜させており,長年の懸案であった東西教会の分裂を終結させ,対オスマン帝国の大規模な十字軍を発動し成功させることは,教会の威信を回復させる絶好の機会であり,ビザンツ側に大幅な妥協をしてでも実施する価値があった。とりわけ,教皇派と公会議派に分裂していたカトリックにおいて,いずれの側も自らの主導で教会合同を成立させれば,カトリック世界における自派の優位を確立できるという大きなメリットがあり,この点にも大幅な譲歩を引き出す余地があった。
 とは言え,教会の腐敗が原因でこのような不安定要因を抱え,十字軍はボヘミアのフス派を相手に連戦連敗,しかもジギスムント亡き後の政治情勢も不安定という状況で,西欧からの十字軍が果たしてオスマン軍に勝てるのかという疑問も沸くが,「溺れる者は藁をも掴む」という諺が示すように,自国が滅亡の危機に晒されているヨハネス8世には,そこまで考える余裕は無かったのであろう。

(4)ヨハネス8世による教会合同

 このような時代背景の許で,ビザンツ側のローマに対する働きかけは,既に1430年の初め,すなわちテッサロニケの陥落前から始められていた。マルコス・イアガリス率いる使節団は,時のローマ教皇マルティヌス5世から,教会合同を実現するための教会会議の開催について合意を取り付けた。教会会議はイタリア東岸のどこかの町で開催されること,700人にのぼるビザンツ代表団の輸送と宿泊の費用は教皇庁が負担するものとされた。ローマ教皇は,コンスタンティノポリスを防衛するための援軍として,2隻のガレー船と300人の弩兵を提供することも約束した。
 イアガリスとその一行が戻ると,ヨハネス8世は教皇からの提案を検討するため,母の宮殿に側近会議を招集した。教皇の提案は妥当なものと考えられた。祖父のヨハネス5世時代には相手にもされなかった,教会統一にはキリスト教会の公会議が不可欠であるというビザンツ側の主張が受け入れられており,しかも限られているとは言え,そこそこ具体的な財政・軍事援助の提供についても申し出がなされていたからである。総主教ヨセフス2世(在位1416~1439年)は,教会会議の開催地が希望していたコンスタンティノポリスではなくラテン地域で行われることに難色を示したが,結局は受諾することになった。
 しかし,イアガリスの一行がビザンツ側の回答を携えてローマに戻ると,教皇はエウゲニウス4世(在位1431~1447年)に交替しており,彼の態度は前任者よりはるかに強硬であった。エウゲニウス4世はパトラス問題を持ち出し,教皇領であるパトラスを勝手に占領しておきながら,教会会議の開催を求めてのこのこやってくるとはどういうことかとイアガリスを詰問した。ビザンツ側にはせっかく手に入れたパトラスを手放す意志は毛頭なく,もしパトラスの引き渡しが教会会議開催の条件とされれば,東西教会の合同をめぐる交渉は早くも暗礁に乗り上げることになったであろう。
 ビザンツにとって幸運だったのは,エウゲニウス4世の政治的立場が盤石でなかったことであった。前述のようにエウゲニウス4世はバーゼル公会議との対立を抱えていた上に,就任直後に自ら起こしたミラノ公との戦争が原因で,ローマでは食料不足による暴動が起こり,エウゲニウスは托鉢修道士に身をやつしてピサ,次いでフィレンツェに亡命せざるを得なくなった。ローマの支配権を失った教皇エウゲニウスは,その後数年間にわたりサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院に亡命宮廷を置いていた。
 一方,バーゼル公会議は1433年初めに代表者をコンスタンティノポリスに送り,教会合同について議論した。この交渉では,厄介なパトラス問題が取り上げられることはなかったようである。ヨハネス8世はこれに応えて1433年末にバーゼルへ代表団を送り,今回の団長はデメトリオス・パレオロゴス=メトキテスが務め,聖デメトリオス修道院長のイシドロスも同行していた。このバーゼル行きは苦労の連続で,海路では二度にわたり暴風雨や嵐に遭って引き返さざるを得なくなり,やむなく陸路でマジャル王国を経由して向かったものの,途中で盗賊の待ち伏せに遭い有り金全てを奪われ,ブダの町で借金をする破目になったが,バーゼルに着いてからの交渉は順調に進み,公会議は教会合同のための会議をイタリアではなくバーゼルで開催するということ以外,かつて教皇マルティヌス5世が提示したものと同じ条件を申し出たのである。
 こうしてバーゼル公会議との間に合意が成立すると,それをもとに更に有利な条件を獲得すべくローマ教皇と交渉し,ビザンツ側は教皇と公会議を天秤にかけた。最終的にビザンツ側は公会議側ではなく,教皇エウゲニウスの条件を受け容れることとし,1437年夏の最終合意で,会議は翌年イタリアのフェラーラで開催されることが決まった。ビザンツの代表団は教皇の船団で会場まで運ばれ,その費用はローマ教皇が支払うとされた。ヨハネス8世はコンスタンティノポリスでの公会議開催を望んでいたが,さすがにそれを実現するほどの交渉能力はなかった。それでも,少なくともパトラス問題の揉み消しには完全に成功し,公会議でパトラス問題に言及されることはなかった。
 公会議の日程と開催地が確定すると,ヨハネス8世は代表団の人選に取り掛かった。国内事情を考慮すれば,ビザンツの立場を出来る限り強く訴え,会議がラテン側の主張に屈したように見えないようにすることが肝心であった。首都の留守は弟コンスタンティノスに任せ,ルーカス・ノタラスとゲオルギオス・スフランゼスに補佐させることにした。代表団のメンバーは聖職者が多数を占め,総主教ヨセフス2世も大勢の大主教・主教を伴って赴くことになった。その中にはエフェソス大主教マルコス・エウゲニコス,ニカイア大主教に叙任されたばかりの修道士ベッサリオンもいた。バーゼル公会議に赴いた聖ゲオルギオス修道院長イシドロスは,キエフ大主教に叙任され,この度の会議のロシア代表団を組織するため任地に赴くことになった。
 代表団の中には俗人も多く,公会議の開催に向けた議論に関わったという理由でマルコス・イアガリスやデメトリオス・メトキテスが選ばれたほか,テオドロス・カリュステノスやゲオルギオス・フィラントロペノスなどの人物は,経験豊富な外交官・政治家ということで選ばれた。ラテン神学に造詣の深いゲオルギオス・スコラリオス,ペロポネソスの地主でプラトン崇拝者のゲオルギオス・ゲミストス(プレトン)のような知識人の一団もいた。さらに判事で教師のヨハネス・アルギュロプロスも加わっていたらしい。
 その他,ヨハネス8世の弟デメトリオスも代表団に加わっていた。デメトリオスは親王領のリムノス島を大人しく統治しており,1436年3月にはゾエ・パラスポンデュリナという女性と結婚していたが,それでもデメトリオスが親オスマン派であることは周知の事実であり,彼を放置しておくのは危険だとの判断があったようである。スルタンのムラト2世に対しては,イアガリス家のアンドロニコスを使節として派遣し,今回の公会議は純粋に宗教的なものであり他意はないと釈明させた。これに対しムラトは次のように答えたという。
「そんなことに力を注ぎ,大金を使うのは,余には良い考えとは思えない。皇帝は何を勝ち取ろうとしているのか? 余がここにいるではないか。もし(皇帝が)支払いのために,あるいはその他何かの生活資金のために貨幣が必要だというなら,余には提供する用意がある。」
 ムラトは公会議に対する疑惑をあからさまに表明することはしなかったが,明らかに機嫌を損ねていた。オスマン帝国の宮廷では,ヨハネス8世の不在に乗じコンスタンティノポリスに先制攻撃を掛ける計画が本気で取り沙汰されていたが,ムラトが最近任命されたばかりの大宰相チャンダルル・ハリル・パシャに代表される穏健派がその動きを抑えた。ハリルは,1420年代にスミルナのジュネイドとの戦いに功績があり,ムラトが大きな信頼を寄せていた人物であるが,政治信条的には親ビザンツ派であった。その主な理由は,ハリルがコンスタンティノポリスを拠点とするイタリア商人との交易活動で大きな収入を得ていたことにあるが,彼の影響力を知っていたヨハネス8世が,彼に対し定期的に賄賂を贈っていたことも大きかった。おそらくは虚構であろうが,ハリル大宰相は,屋敷に配達される魚の腹に隠させた金貨を,ビザンツから顧問料として受け取っていたと言われている。
 ハリルは,もしコンスタンティノポリスを先制攻撃すれば,それによって皇帝はラテン人の言うことを何でも受け容れると表明し,かえって教会合同を推進する結果になりかねないとスルタンに助言した。結果としてはハリルの意見が通ったが,それでもムラトは不満で,代表団を乗せた船の乗組員による水の補給を妨害させたり,兵士たちにコンスタンティノポリスの城壁外で示威行動をさせたりするなどの嫌がらせをしたが,コンスタンティノポリスへの先制攻撃が行われることはなかった。
 ムラトからの嫌がらせを受けながらも,代表団を乗せた船は1437年11月にコンスタンティノポリスを出港し,ヴェネツィアを経由してフェラーラへ到着し,1438年4月9日に公会議の第1部会が開催される運びとなった。もっとも,総主教ヨセフス2世は,教皇エウゲニウス4世が代表団との会見に際し,自分がお辞儀をして教皇の足に口づけをするよう求めていると聞いて激怒し,我々は兄弟なのであるから互いに抱擁し口づけを交わす以外のやり方はしない,この問題が解決するまでは船を降りないと言い出し,この問題では教皇側もビザンツ側も容易には譲らなかったため,交渉は始まる前に決裂寸前となった。もっとも,自費で代表団を呼び寄せて開催した公会議が決裂して困るのはむしろ教皇側であり,結局は教皇側が代表団を自らが私的に招待したということにして,教皇の足に接吻するという儀式を免除することになった。なお,バーゼル公会議を開催していたジュリアーノ・チェザリーニをはじめとする枢機卿たちも,この公会議には出席していた。
公会議は,本題に入る前に要人の席次を決める議論だけで20日間を費やし,本題に入った後も結論の出ない議論が延々と繰り返され,ヨハネス8世は合同自体に反発するビザンツ人聖職者たちの説得に追われた。1439年1月には疫病と資金難のため公会議の場がフィレンツェに移動された。フィレンツェならメディチ家の支援で公会議を開催できるからである。
 問題は山積みであった。13世紀に活躍したトマス・アクィナスなどの自然科学的な発想に基づく独自の神学論を発展させてきた西欧の神学者たちは,ビザンツ人の知らない著作をしばしば引用し,独自の議論をもって東方教会の論理に反論してきたため,ラテン語を知らないビザンツ人の聖職者たちは,こうした議論について行けなかった。
 ヨハネス8世は,合意の方向に向けてビザンツの聖職者を精力的に説得する仕事もこなしていたが,それよりもはるかに多くの時間を,お気に入りの娯楽である狩りに費やしており,彼はローマ教皇の費用で,コンスタンティノポリスよりはるかに快適なイタリアでの暮らしを最大限に楽しんでいた。もっとも,当時のヨハネスは痛風のため健康を損なっており,足の痛みにも苦しんでいた。体調が悪い時には狩りを諦めて,双六で満足せざるを得なかった。もっとも,ヨハネスはこの機会に帝国の経済的利益を図ることも忘れておらず,1439年8月にはフィレンツェと通商条約を結び,これによってフィレンツェはわずかな関税を払うだけでビザンツ領と交易できるようになった。フィレンツェとの交易は,ささやかながらビザンツ帝国の増収に貢献し,ヴェネツィアとジェノヴァによる交易の独占体制に風穴を開けることにも繋がった。
 代表団のメンバーも,イタリア滞在を神学的議論ばかりに費やしていたわけではなく,特に俗人のメンバーは商売やイタリアでの人脈作りに取り組み,文化的交流も数多く行われた。代表団の一員であるアルギュロプロスは,代表団と共に帰国せず,パドヴァ大学で教え勝学び,人文学と医学の学位を取得する一方,アリストテレスの講義で報酬をたっぷりもらい,1444年にようやくコンスタンティノポリスへ帰ってきた。修道士ベッサリオンは,教皇エウゲニウスから枢機卿の地位を提供され,一旦はコンスタンティノポリスへ戻ったものの,1440年にはイタリアへ戻り,その後は教皇庁で経歴を重ねていった。
 もっとも,豊かなイタリアに惹かれなかったメンバーもいた。例えばプレトンは,プラトン哲学に関する公開講義などで名声を博したが,イタリアに留まろうとは考えなかった。ヨハネス8世の弟デメトリオスも,公会議の間ずっとここにはいたくないと言い続け,ヴェネツィアに戻る許可をしつこく求め続けた。ラテン神学を学び多くのラテン人を友人に持っていたスコラリオスも,教会合同については快く思っていなかったらしく,デメトリオスがようやくヴェネツィアへ去ることを許されると,プレトンと共にデメトリオスに同行している。
 そんな紆余曲折を経て,1439年7月に成立した教会合同決議の内容は,当時ビザンツ帝国の置かれた絶望的な状況を考えれば,かなりよく頑張ったと評価できるものであった。ローマ教皇を首位,コンスタンティノポリス総主教を第二位とするという西方教会側の主張は受け容れざるを得なかったものの,フィリオクエ問題については,「たとえラテン語とギリシア語で表現の違いが見られるとしても,彼らの信仰は本質的に同一である」という妥協的な結論に落ち着き,聖体拝領に使うパンの種類,正教会における下級聖職者の結婚,断食や跪拝例などその他の問題については,教義ではなく地域的慣行と認定されて受け容れられることになった。
 ただし,エフェソス府主教マルコス・エウゲニコスともう一人の府主教は合同への調印を拒み,後にエウゲニコスは合同反対派の代表的存在になった。署名は強要されたものだと主張し,後になって署名の取消しを宣言する聖職者も多かった。使節団に参加したものの途中でヴェネツィアへ去ったため署名しなかった専制公デメトリオスやゲオルギオス・スコラリオスも,合同反対派の中心的人物になった。
 教会合同を行った真の目的である対オスマン十字軍についても,1439年の夏にムラト2世がマジャル王国との国境近くにあるドナウ川の戦略拠点であるスメデレヴォの要塞を攻撃し,3か月にわたる包囲の末に奪取したとの報が届くと,教皇は『ポストクァム・アド・アピケム』という教書を発布し,十字軍を招集した。この教書では,過去数百年にわたり繰り返された十字軍招集の伝統に則って,オスマン軍の残虐さについてかなり誇張した叙述がなされていた。
「彼らがキリスト教徒の土地を襲撃する際に繰り広げる,前代未聞の残虐行為の数々のうちでもとりわけ酷いことがある。略奪品である人間や動物を積んで戻ってくる時,彼らは多数のキリスト教徒を,男も女も縄でひとつに縛り上げ,捕虜として連れてゆく。病気や老齢,その他の支障があって遅れてしまいそうな者を,彼らは戦場で,あるいはキリスト教徒の町の真ん中でさえ殺すのである。」
 確かに,このような光景は1430年のテッサロニケ陥落直後に見られたが,いくらかの誇張が含まれているのは間違いない。特に,迫りくる運命も知らずに,自分を殺す者たちを信頼して微笑んでいる無邪気な子供を手に掛けたなどというのは,明らかに演出効果を狙った作り話であろう(子供は奴隷として高く売れるので,イスラム教徒も無闇に殺すことは通常しない)。
 ローマ教皇による誇大宣伝の妥当性はともかくとして,目的を果たしたヨハネス8世は,代表団と共に1440年2月に帰国したが,まず彼を待っていたのは合同に対する猛反発であった。首都では,教会合同の条件についての報せが届いた段階から,たちまちのうちに合同は伝統的な信仰や教義に背くものであるとの非難が沸き起こった。不満派の先頭に立ったのは,教会合同の署名を拒否したマルコス・エウゲニコスである,彼はイタリアから戻るとすぐに,教会合同とそれに署名したビザンツ人聖職者を非難する内容の回状を書き,多くの聖職者から熱狂的な支持を受けた。
 こうした聖職者からの反発はまだ想定の範囲内であったが,首都の貧民たちも反教会合同の感情が深く浸透しており,教養人や宮廷人の間にも反対があった。合同賛成派は全体的に見れば少数派に過ぎなかった。ヨハネスの落胆に追い討ちをかけたのが,3番目の妻マリア・コムネネ・パレオロギナが前年12月に亡くなったとの報であった。ヨハネスは評判の美人であったマリアを愛しており,その死を悲しんだことは間違いないが,ギリシア正教会の教義では四度目の結婚は絶対に不可とされており,マリアが子のないまま亡くなったことは,ヨハネスが世継ぎを儲ける可能性は完全に絶たれたことも意味していたのである。
 ヨハネス8世としては,内戦だけは何とか避けたかったので,首都における教会合同の典礼を強行しようとはせず,反対派に対する弾圧もマルコス・エウゲニコスをリムノス島に追放した程度で,かつてミカエル8世が行ったような鞭打ちや投獄などの過激な弾圧は行わなかった。ヨハネス8世が全力を尽くしたのは,合同反対派である弟デメトリオスを宥めようとしたことであり,そのため彼にメッセンブリアを新たな親王領として与えたが,デメトリオスはむしろこの新たな拠点から,国内における反西欧勢力との同盟を固めていった。デメトリオスの妻ゾエはイタリアに行っている留守中に亡くなっていたので,彼は断固とした親オスマン,合同反対派であるパウロス・アサネスの娘テオドラと再婚した。
 続く数か月間,デメトリオスと他の皇帝一族との間に緊張が高まった。1441年,コンスタンティノスはデメトリオスに対し,モレアにより自分の領地とデメトリオスの領地との交換を提案したが,デメトリオスは経済的に見れば明らかに自分に有利な提案であったにもかかわらず,この提案をにべもなく拒絶した。デメトリオスは,モレアの豊かな領地よりも,ビザンツの帝位を奪取することに強い関心を持っていたのである。
 1442年4月には,教会合同反対を大義名分に掲げる弟デメトリオスが反旗を翻し,ムラト2世の軍事的支援も得てコンスタンティノポリスを包囲する挙に出た。この反乱に対抗するため,遠くモレアからコンスタンティノスが軍を率いて応援に駆け付けようとしたが,コンスタンティノスはオスマン軍の妨害に遭った。もっとも,当時はまだ西欧からの十字軍に対する望みがあったことから,首都ではデメトリオスに内応して城門を開く者はおらず,オスマン軍も撤退してこの反乱は失敗に終わり,デメトリオスは首都で自宅軟禁の身となった。
 もっとも,このような反乱が起こること自体,ヨハネス8世の威信低下を裏付けるものであり,自分の子に帝位を継がせる望みも絶たれた当時のヨハネスにとって,もはや十字軍の成功のみが生きる望みであったであろう。

(5)ヴァルナ十字軍

 教会合同の決議を受けたローマ教皇の呼び掛けによって,陸と海からオスマン帝国を攻撃する十字軍が編成された。海軍は枢機卿フランチェスコ・コンドゥルマーロの指揮下に置かれ,艦船の建造資金を捻出するため,教皇エウゲニウス4世は全西方キリスト教世界の聖職者に収入の10%を課税するよう命じた。この艦隊には,ヴェネツィア,ブルゴーニュ公,そして教皇庁自らも加わっていた。
 陸軍は,枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニの働きかけにより,1443年にはトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュ,その主君であるマジャル王兼ポーランド王ウラースロー1世(ポーランド王としてはヴワディスラフ3世),そしてムラトに領土を奪われ配下の兵と共にマジャルに亡命していたセルビア公ジュラジ・ブランコヴィッチによって,対オスマン十字軍(歴史上「ヴァルナ十字軍」と呼ばれる)が結成された。なお,ジギスムント亡き後のマジャル王国では王位継承をめぐる争いが起きていたが,十字軍を率いることのできる王が必要だということで,ウラースローは1440年チェザリーニの後援もあってマジャルの王位に就いていたのである。
 なお,フニャディ・ヤーノシュ(1387~1456年。なお,生年については1407年説と1409年もある)はワラキア貴族の家系に生まれた軍人で,フス派の傭兵を主力とする独自の軍隊を編成し,フス派の戦法も取り入れたので,軍事史的にはヤン=ジシュカの後継者と呼んでよい人物である。革新的な軍事技術により,トランシルヴァニアやマジャル王国の南部に侵入したムラト2世の軍を何度も撃退したことから,既に名将として知られていた。
 約2万5千(4万とする説もある)の十字軍はバルカン半島に進軍し,ニシュの戦いでオスマン軍を破った。マジャル軍はフス派の残党も軍に加えており防具の質も練度も高かった。正攻法では勝ち目が薄いと見たオスマン軍は,敗走する途中の町や村を焼く焦土作戦を実行し,補給が困難となった1443年の冬越しは厳しいものとなった。
 十字軍側は,オスマン軍は軍に対する給料支払いの関係で,翌年の秋までは本格的な反撃に出られないと想定しており,また十字軍に呼応して東方のカラマン侯イブラヒム・ベイも反オスマンの兵を挙げ,それまでムラト2世に仕えていたジュルジ・カストリオト・スカンデルベクも故郷のアルバニアに戻ってキリスト教に再改宗し,反オスマンの抵抗運動を始めていた。当時の十字軍首脳は,オスマン軍の準備が整う前にエディルネ占領を果たせるなどといった,極めて楽観的な見通しを抱いていたようである。
 しかし,オスマン軍はそうした予想に反し,年内にはムラト2世自ら本軍を率いて反撃に出た。十字軍は1443年12月,ムラト2世率いるオスマンの本軍とズラティツァで戦い,敗れた。しかし,撤退すると見せかけて夜襲を掛ける戦術により,1444年1月のクノヴィツァの戦いでは逆にオスマン軍を破った。オスマン軍は士気も低く,装備も当時の最新技術を備えていたマジャル軍には及ばなかった。ムラトは自軍の不甲斐なさに憤慨し,副官トゥラハン・ベイに敗戦の責任を負わせて投獄した。
 十字軍指導者のうちブランコヴィッチは,要塞都市プロプクリェで冬を越した後遠征を継続するよう主張したが,この案は却下され十字軍は撤退を始め,2月にはブダまで帰還した。フス戦争の余波で国力が低下していたマジャル軍は,冬越しをしてオスマン帝国との戦いを継続するより,戦勝を機に首都に戻って英雄として讃えられる方を選んだのである。
 十字軍とムラト2世の間には,和平の機運が生まれた。マジャル王国の軍民は長期の戦争継続を望まなかったし,ムラト2世も十字軍との戦いで捕虜となった妹婿マフムード・ベイを救出する必要があることなどから,和平を強く望んだ。こうして十字軍とムラト2世は,2月頃にスメデレヴォ要塞の返還などを内容とする仮の休戦協定を結び,同年8月15日,正式な10年間の休戦協定(セゲドの和約)を締結した。
 しかし,今次の十字軍は前述のとおり陸海からの共同作戦を前提としており,陸側の十字軍が休戦したらムラト2世は海側勢力への対応のみに専念できることになり,作戦全体が崩壊してしまう。そのため,ウラースロー1世の即位に尽力した枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニは,教皇特使として再度マジャル王国に赴き,ムラト2世との休戦協定を破棄して戦争を再開するよう,十字軍の指導者たちを熱心に説得して回った。
 もっとも,これだけではチェザリーニがなぜ休戦協定の締結自体に反対するのではなく,休戦協定の締結自体は黙認しておきながら,締結後直ちに休戦協定を破って再びオスマン軍と戦うようウラースロー1世を説得するという不可解な行動を取った理由を説明できない。以下は筆者の推測になるが,十字軍側は和平交渉の過程で,ムラト2世は休戦協定が成立したらスルタンの位を息子のメフメトに譲って隠退する意向であることを知っていたのではなかろうか。
 ムラト2世は将才も人望もあるスルタンであり強敵だが,休戦協定の締結に応じムラトが引退してしまえば,次のスルタンとなるメフメトはまだ当時12歳の少年でしかなく,メフメトが相手であればオスマン帝国の撃滅も容易くなるだろう。そう考えたとする以外に,休戦協定自体に反対するのではなく,敢えて休戦協定を締結した直後にそれを破って戦争を再開するという非常識な行動を取る理由が筆者には思い付かない。
 このような推測の当否はともかく,ムラト2世は十字軍との仮休戦が成立すると,十字軍に便乗して行動を起こしたカラマン侯国の軍を撃破し,コンヤを占領し略奪した。前述した十字軍との休戦協定及びカラマン侯国との休戦協定が成立するとスルタンの位を息子のメフメトに譲って隠退し,一方十字軍側は直ちに休戦協定を破って戦争を再開したこと自体は事実である。しかし,このような休戦協定の破棄は,十字軍の内部からも異論が出た。不信仰の徒たるイスラムの法でも,戦争に関する協定は守るべしと明確に定められているのに,善きキリスト教徒の十字軍が信義に反する休戦協定の破棄など許されるはずがない。
 若いウラースロー1世は,チェザリーニの説得に乗って休戦協定の破棄を決断したが,セルビア公はこの決定に納得せず十字軍から離脱し,マジャル王国のマグナート(貴族)たちの多くも戦争再開を支持しなかったため,これによって十字軍は大きく兵力を減じることになった。
 一方,十字軍に再び攻め込まれる事になったオスマン帝国側は,引退していたムラト2世に復位を求めた。メフメトが自ら父に懇願したとも,イェニ・チェリ軍団がムラトの復位を求めて反乱を起こしたとも伝えられる。ムラトは「自分はもうスルタンではない」と言って当初復位に難色を示したが,さすがに自国存亡の危機を座視するわけにも行かず,やむなくスルタンに復帰して軍の指揮を執った。
 ムラト2世が復位を決断した当時,彼とオスマン軍の主力は小アジア側におり,ボスフォラス海峡では十字軍海軍(ヴェネツィア,ブルゴーニュ,教皇庁のほか,マジャル海軍も参加していたらしい)が,ムラト率いるオスマン軍の渡航を阻止すべく,ボスフォラス海峡を警備していた。そこでムラトは,エディルネにいた大宰相ハリル・パシャに,ボスフォラス海峡へ進軍するよう命じた。ハリルは7000ないし8000のオスマン軍と多くの大砲を伴って到着し,バルカン側からボスフォラス海峡のキリスト教海軍を攻撃した。続いてムラト2世率いる本軍も到着し,アジア側から砲撃を浴びせた。この戦闘は大砲の撃ち合いとなったが,明らかにキリスト教海軍側に不利であった。キリスト教海軍は海峡の両側から挟撃されているという不利があった上に,陸側のオスマン軍は砲撃から隠れることが出来た一方,船は隠れることが出来なかったからである。
 オスマン軍の襲撃に驚いた海軍の司令官は,ヨハネス8世の伝令を送って救援を依頼したが,次のような回答を得たのみであった。
「朕はコンスタンティノポリスという,わずかしか住民のいないこの町のみ所持している。わずかな住民を戦闘に派遣するとしても,決して強力なものではないことを承知している。朕は自分自身と朕の都を全滅の危険に晒したくない。もしコンスタンティノポリスが失われたなら,オスマン人はローマ帝国の全土を容易に征服すると思われるからである。そちらで出来る限りのことをしてほしい。(スルタンが)来たなら,あなたを支援するガレー船を2隻派遣するつもりである。」
 ヨハネス8世の約束した2隻のガレー船は来たが,オスマン軍の砲撃で一番ひどい被害を受けてしまった。キリスト教海軍が砲撃で混乱しているうちに,ムラト率いる本軍は十字軍の支援に何の関心も無いジェノヴァ船でバルカン側に渡航し,裏切り者である陸軍の討伐に向かった。ムラト率いる本軍の渡航阻止に失敗し大きな損害を受けたキリスト教海軍は,コンスタンティノポリスに撤退した。
 1444年11月,十字軍はヴァルナでムラト2世率いるオスマン軍の攻撃を受け,オスマン軍は激闘の末に十字軍を撃破した。この戦いは数の上でも約3対1の割合でオスマン軍が優勢であり,十字軍の主力はヴァルナ湖の泥に足を取られてオスマン歩兵の餌食になった。この戦いで十字軍の総大将ウラースロー1世も戦死し,フニャディもやっとのことで逃げ延びる有様であったが,ウラースローの戦死については次のようなエピソードが知られている。
 当時20歳と若いウラースロー1世は,オスマンの本陣が思ったほど堅固でないのを見破ると,フニャディの上奏を無視して自らポーランド軍の精鋭騎兵を引き連れムラト2世の本陣へ突撃し,これによってムラト2世を守るイェニ・チェリ軍団は大混乱に陥ったが,ウラースロー1世はスルタンの目前に迫ったところで落馬してイェニ・チェリ軍団の餌食になり,これによって十字軍が総崩れになったというのである。このエピソードは,おそらく散々な結果に終わったヴァルナ十字軍を少しでも美化するための創作であろうが,オスマン軍もこの戦いで兵の約3分の1を失うなど大きな損害を出しており,相当な激戦だったことは確かである。
 なお,休戦協定の破棄を主唱したチェザリーニもこの戦いで戦死しており,カトリック教会で彼は殉教者として扱われているが,最大の敗戦責任者はこのチェザリーニであろう。退位したムラト2世が戻ってくる可能性も考えず,休戦協定を締結した後直ちにそれを破るという,人間として最低限の倫理も弁えない浅慮でヴァルナ十字軍に破滅的な結果をもたらした,15世紀の最も腐敗し堕落したカトリック高位聖職者の象徴というべきチェザリーニは,もし彼らの信じる神が存在するならば,死後も地獄の業火に焼かれたと思われる。
 一方,ヴァルナ十字軍壊滅の報を聞いたヨハネス8世はさぞかし落胆したであろうが,形式上彼はオスマン帝国の臣下であるため,ムラト2世にスルタンの勝利を祝福する使節を送るしかなかった。もっとも,オスマンの宮廷にビザンツ使節の言葉を真に受ける者などおらず,ヴァルナ十字軍を招き入れた責任はビザンツ皇帝にあると公然と言う者もいた。ビザンツ側は1422年に行われたような,ムラト2世からの厳しい報復措置を恐れた。
 しかし,もともと温厚な性格だったムラト2世は,ビザンツ帝国に残された数少ない領土をさらに奪ったり,ビザンツ帝国自体を滅ぼそうとしたりはしなかった。前述のとおり,十字軍との戦いのため仕方なくスルタンに復帰したムラト2世は,ヴァルナの戦いで勝利したあと,キリスト教徒の死体で溢れている戦場を見て,「何ということだ。若者ばかりではないか,白い髭の老人は一人もいない」と嘆いたと伝えられている。オスマン軍を率いて数々の戦いに勝利し名将との評判を得たムラト2世であったが,本来は戦争より学問や芸術を愛する文化人であり,今度こそスルタンの位を息子のメフメトに譲り,自らはマニサで引退生活を再開したのである。

(6)ヴァルナ十字軍壊滅後の状況

 フィレンツェの教会合同以後,ビザンツ帝国ではその是非をめぐる政治対立が続いていた。聖職者や修道士,そして貧民の大半が熱狂的に合同反対を唱える中,親ラテン派は教会合同を支持した。合同賛成者は皇帝ヨハネス8世と,デメトリオスを除く弟の専制公たち,皇帝や専制公の側近たちのほか,西欧の理性的な神学に共感を持つ知識人,個人的または経済的な関係で西方と結ばれている人々がいた。
 そのような対立の中で一番の風評被害を受けたのは,メガス・ドゥークスの位にあったルーカス・ノタラスであろう。彼は,本質的には反合同派であったが,皇帝の実質的な首相という立場と,自らが持つ西方との経済関係から,熱狂的に合同反対を訴えることはしなかった。その結果,ルーカスは合同賛成派と反対派の双方から敵とみなされ,賛成派は反合同派の極めつけの標語である「コンスタンティノポリスにスルタンのターバンを見る方が,ラテン人の司教冠を見るよりましだ」を彼の言葉であるとした。合同反対派も,ルーカスを合同派との付き合いが良すぎると批判した。ルーカスは財産の大半をジェノヴァの聖ジョルジョ銀行に預け,娘の一人をジェノヴァ人と結婚させ,1444年6月にはジェノヴァの市民権まで獲得していた。政治的にも内心の反対論を引っ込めて皇帝の政策に賛同し,合同反対派に対しもう少し柔軟な態度をとるよう熱心に説得していた。
 合同派には皇帝の支持があったものの,その大義名分を説く優れた宗教的指導者が首都にいないという弱みを持っていた。ヨハネス8世が期待を寄せていた修道士ベッサリオンは,1440年にイタリアへ戻り枢機卿になってしまい,キエフ大主教となったイシドロスは,任地(実際にはキエフではなくモスクワ)でコンスタンティノポリス以上に強硬な合同反対に直面し,モスクワ大公ヴァシーリー2世(在位1425~1462年)は,イシドロスが典礼の際にローマ教皇の名前を唱えたのに激怒し,イシドロスを投獄した。イシドロスはその後脱出に成功したが,むしろ脱出を黙認されたのかも知れない。いずれにせよ,モスクワ大公国はその後ビザンツに相談することなくロシア人のキエフ府主教を選任し,1448年以降ビザンツ帝国とモスクワ大公国は国交断絶状態になってしまった。イシドロス自身もコンスタンティノポリスではなくローマへ戻って,ベッサリオンと同様枢機卿に任命された。
 総主教ヨセフス2世の死後,ヨハネス8世はメトロファネスを後任の総主教に任命したが,1443年8月にメトロファネスが亡くなると,合同派に属する高位聖職者に適任者がいないという事態に陥った。そこでヨハネス8世は,自分の個人的な聴聞司祭であるグレゴリオス・メリセノスを総主教に任命したが,総主教就任前における教会内の地位も低く,合同派を主導できるほどの知識人でもなく,反合同派の人々からは自分たちの議論を覆すために汚い策略を用いたと不満を言われていた。
 翌1444年になると,事態はさらに悪化した。ゲオルギオス・スフランゼスは,帰国当初教会合同の問題について「我々の信仰もラテン人の信仰も正しい」という曖昧な見解を採り,反合同派のマルコス・エウゲニコスに反駁する神学書も著していたが,エウゴニコスはスフランゼスが内心では反合同派であることに気付いており,自身の死に臨みスコラリオスに「正統信仰」の擁護者の旗印を引き継ぐよう依頼し,スコラリオスは以後反合同派の代表的存在となった。
 ヨハネス8世は,このような宗教上の争いを何とか融和させようとして,1445年夏の終わりに,それぞれの代表をコンスタンティノポリスに招き,教皇特使コンドゥルマーロ枢機卿(彼はムラト2世に敗れた例の艦隊と共に,まだコンスタンティノポリスにいた)とスコラリオスを論争させたが,何の解決にもならなかった。当時のヨハネス8世は体調不良もあり,首都でほとんど腑抜け状態になっていたが,皇帝の弟コンスタンティノスはおそらくヨハネス8世にも無断で,オスマン帝国の窮状を最大限に利用すべく独自の軍事行動を行っていた。
 コンスタンティノスは,1444年春にヘキサミリオンの城壁を再建し,続いてペロポネソスから出撃し,アテネ公ネリオ2世アッチャイウォーリの領地に攻め込んだ。アテネ公はオスマン帝国の臣下であったが,コンスタンティノス率いる強力な軍を相手にする力は無く,当時はエディルネからの援軍も望める状況にはなかったので,降伏する他に選択肢はなかった。コンスタンティノスはネリオにアテネの領有は許したが,これまでオスマン帝国に支払っていた貢納を今後は自分に支払うよう命じた。
 前述したとおり,ヴァルナ十字軍は同年中に壊滅していたが,コンスタンティノスはオスマン側の反撃がないのを良いことに,翌1445年にはアテネからさらに進んでテッサリア地方に入り,ピンドス山脈まで進んだ。テッサリア地方はオスマン帝国の直轄領であり,オスマンとの更なる関係悪化は避けられなかったが,コンスタンティノスの進撃はオスマンだけでなくヴェネツィアとの関係も悪化させた。コンスタンティノスはアドリア海沿岸の都市ヴィトリニッツァを占領したが,この都市はヴェネツィアがムラト2世から領有を約束させていたからである。ヴェネツィア当局はコンスタンティノスに抗議したが彼は意に介せず,コンスタンティノスの名代としてヴォスティツァの町を統治していたコンスタンティノス・カンタクゼノスは,船でコリントス湾を渡ってテッサリア地方に騎兵と歩兵を送り込み,更に2つの町を占領した。
 こうしたコンスタンティノスの軍事行動は,明らかに1424年の協定違反であったが,まだ少年のメフメトは1445年にイェニ・チェリの反乱に直面したこともあり,素早い対応が取れなかったのである。しかし,自力では圧倒的に勝るオスマン帝国に対し,コンスタンティノスの快進撃がいつまでも続くはずもなかった。少年スルタンのメフメト2世は,何とか自力で事態を打開しようと頑張っていたようであるが,翌1446年には,ムラト2世が大宰相ハリル・パシャの要請により復位し,スルタンの位を明け渡したメフメトは,ムラトと入れ替わるようにマニサへ移された。
 スルタンとして権力を掌握したムラト2世は,オスマンの権威に対する挑戦に対抗すべく準備を整えたが,もっとも目に余るのがコンスタンティノスの行動であった。コンスタンティノスも,いずれオスマン軍の反撃が来ることは覚悟していたはずであるが,ムラトの報復がこれほど速く,かつ強烈なものになるとは想定していなかったようである。ムラトはコンスタンティノスに対し,テッサリア地方で占領した町を即刻返還せよという有無を言わさぬ要求を突き付けたが,コンスタンティノスがこの要求を拒否した頃には,既にムラトの軍は南へ向かって進軍中であった。
 コンスタンティノスは末弟トマスと共に,ヘキサミリオン城壁でムラトの軍を迎撃することとし,城壁を強化するためその前面に溝も掘らせていた。一方,ムラトの軍は1446年11月27日にヘキサミリオン城壁に到達し,コンスタンティノスはムラトに使節を送り和平を申し入れたが,使節は牢に放り込まれた。コンスタンティノスに対するムラトの返答は,ヘキサミリオン城壁を自ら破壊するか,それともこの後生じることに甘んじるかの二者択一を迫るものであった。
 ヘキサミリオン城壁をめぐる戦いは約2週間にわたり続いたが,ムラトの軍は十分な数の大砲と攻城器械を備えており,12月10日にムラトの軍はヘキサミリオン城壁の突破に成功した。コンスタンティノスが敗れた原因として裏切りがあったという暗い噂もあったが,彼の敗因を説明するのにそのような些事を持ち出す必要はない。ムラトの軍が強大でよく装備されていたというだけで充分である。一旦城壁に裂け目が出来てしまえば,ビザンツ側にはそれを塞げるほどの守備兵はいなかった。
 ヘキサミリオン城壁の防衛線を突破すると,ムラトは軍を二手に分け,トゥラハン将軍をミストラへ向けて南下させ,ムラト自身は残りの部隊を率いてパトラスへと向かった。オスマン軍は時間のかかること必至なミストラやパトラスの攻略は試みもしなかったが,モレアの農村部は徹底的に焼かれ略奪された。この略奪でオスマン軍の奴隷となったモレアの住民は6万人とも言われ,少なくとも万単位の人数であったことは間違いない。ムラトの懲罰遠征は,コンスタンティノスとトマスの両専制公がオスマンの臣下となり,貢納の支払いを約束したことでようやく終わり,オスマン軍はモレアから引き揚げていった。こうして,コンスタンティノスの大胆だが愚かな賭けは終わった。
 一方,アルバニアで1443年に反旗を翻したスカンデルベクの抵抗はまだ続いており,ウラースロー1世の死後,マジャル王にはハプスブルグ家のラディスラウス・ポストゥムス(神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の弟で,マジャル王としてはラースロー5世を名乗った)が就任し,その摂政となったフニャディは,スカンデルベクと同盟を結び反オスマンの軍事行動を起こした。しかし,ムラトはこの軍事行動に対し素早く対応し,1448年10月17日,オスマン軍とキリスト教連合軍(マジャル軍のほか,ポーランド,ワラキア,モルダヴィアの軍も参戦していた)はコソヴォで激突した。
 1389年の戦いと区別する為,歴史上「第2次コソヴォの戦い」と呼ばれるこの戦いでは,オスマン軍が4万ないし6万,対するマジャル軍は2万2千ないし3万と,数の上でもオスマン側が有利であった上に,フニャディはムラトがまだエディルネにいると思い込んでいたので,オスマン軍を迎撃するのに十分な防衛体制も整っておらず,スカンデルベグの援軍も間に合わなかった。3日間にわたって行われた戦いはオスマン軍の決定的勝利に終わり,オスマン軍の死者が約4千人にとどまったのに対し,オスマン軍に殺害ないし捕獲されたマジャル軍の兵士は6千人ないし1万7千人とされている。
 この戦いでフニャディは,セゲドの和約以後オスマン帝国に臣従していたジュラジ・ブランコヴィッチの軍に捕らえられ,多額の身代金等と引き換えにようやく釈放された。マジャルのマグナートたちも多くが戦死し,もはやマジャル王国には,オスマン帝国に対し軍事的攻勢を掛ける力は無くなった。なお,皇子の地位に戻ったメフメトもこの戦いに参加していたが,さしたる活躍は見られなかったようである。

(7)ヨハネス8世の最期

 既に老齢かつ病気で無気力となっていたヨハネス8世には子供がいなかったので,その後を継ぐのはすぐ下の弟テオドロスと見られていた。もっとも,解放されたデメトリオスも自らの領地メッセンブリアで帝位を窺っていたので,テオドロスは自分の帝位継承を確実なものとすべく,コンスタンティノスにモレアの領地を譲り渡して,コンスタンティノポリスに近いセリュンブリアに住んでいた。ところが,1448年6月,テオドロスはヨハネス8世に先立って急死してしまった。そして,ヨハネス8世はテオドロスに代わる後継者対策をする暇もなく,第2次コソヴォの戦いでキリスト教連合軍が敗れた直後,同年10月31日に56歳で亡くなった。ビザンツの帝位は3人の弟,とりわけコンスタンティノスとデメトリオスの間で争われることになる。
 ヨハネス8世は,首都のパントクラトール修道院に父や弟と並んで葬られ,不人気な教会合同を強行した人物であったにもかかわらず,彼の死は多くのビザンツ人に心から惜しまれた。合同派のヨハネス・アルギュロプロスは,葬儀に際してヨハネス8世を「ギリシア人にとっての栄光と理想」と称えた。反合同派のスコラリオスでさえも,ヨハネス8世が死んだら「私の運命もまた死ぬ」と決意していた。ヨハネス8世による教会合同の強制は緩やかなものにとどまっていたので,反合同派のスコラリオスも宮廷内で大目に見られ,1447年まで判事の職に留まっていたが,ヨハネス8世が亡くなり,より精力的な弟のコンスタンティノスが帝位に就けば,より積極的な親ラテン政策が行われることは間違いなく,スコラリオスに宮廷内の居場所は無くなると感じられたのである。
 ヨハネス8世の歴史的評価はあまり良くないが,狡猾と評するしかない教会合同をめぐる外交手腕などを見る限り,彼は決して無能な人物ではなく,ビザンツ帝国がまだ帝国と呼ぶに値する実力を備えていた時期に帝位に就いていれば,おそらく有能な皇帝として活躍できた可能性が高いであろう。ただし,彼は父のマヌエル2世がいみじくも見抜いたように,この時代の「皇帝」には相応しくない人物であった。彼に知力はあったが,野心的で自己制御力に欠けていた。
 不美人な2番目の妻ソフィアを追い出し,父が苦労して締結したモンフェラート侯との婚姻同盟を台無しにしてしまったのもその現れであるが,帝国の現状を把握し皇帝という名の「管理人」という屈辱的な立場を我慢することも出来ず,その結果偽ムスタファの擁立,教会合同の二度にわたり勝算の低い賭けに出て両方とも失敗し,帝国の状況を更に悪化させてしまった。彼の代でビザンツ帝国が滅亡に至らなかったのは,彼の「主君」であったムラト2世が比較的温厚な性格で,ヨハネス8世や弟コンスタンティノスによる数々の不誠実な行動も大目に見てくれたからであった。
 ヨハネス8世が亡くなり,オスマン帝国のスルタンもムラト2世から攻撃的な性格のメフメト2世に代わることで,ビザンツ帝国の滅亡へと向かう坂道が整うことになった。

<幕間31>オスマン帝国の皇妃マーラ

 この時代の歴史を語るにあたって,意外と忘れられがちだが重要な役割を果たした女性がいる。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世の妃マーラ・ブランコヴィッチである。
 マーラは,セルビア公ジュラジ・ブランコヴィッチの娘であり,ムラト2世の宮廷で大きな勢力をふるったことで知られる。1444年にムラト2世とヴァルナ十字軍との間で休戦協定が締結される際,父と夫の間に立って尽力したのがこのマーラであった。後にヴァルナ十字軍はムラト2世との休戦協定を一方的に破棄するが,マーラの父であるセルビア公ジュラジ・ブランコヴィッチは,休戦協定の破棄に同意しなかった。これが,滅亡寸前のセルビアを一時的にではあるが救ったことになる(セルビアは,1459年に滅亡している)。
 ムラト2世の死後,マーラはメフメト2世の義母として大きな影響力を振るい,誰の言うことも聞かぬ独裁的な専制君主の感があるメフメト2世も,彼女には大きな敬意を払っていた。コンスタンティノポリス陥落後,捕虜になっていたゲオルギオス・スコラリオス(修道士ゲンナディオス)がコンスタンティノポリス総主教に任命されるにあたっては,彼女の意向が決定的な役割を果たしていたとされ,またギリシア正教の聖地アトス山が破壊を免れたのは,マーラがアトス山を破壊しないようメフメトに懇請したことも大きく影響していたとされる。
 マーラは,マケドニアに領地を得て隠棲した後も,バルカンの政治状況に積極的に介入しており,1470年代に入りヴェネツィア共和国がオスマン帝国と何とか講和を成立させようと尽力した際,仲介役を依頼したのもこのマーラであった。
 イスラム教を奉じるオスマン帝国の下では,女性は政治から全く遠ざけられていたと考えがちになるが,実際は必ずしもそうではなく,特にスルタンの母親となった女性が絶大な政治的影響力を振るうこともあった。マーラはその典型例である。

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