第28話 コンスタンティノス11世とコンスタンティノポリス陥落

第28話 コンスタンティノス11世とコンスタンティノポリス陥落

(1)コンスタンティノス11世の生い立ち

 ビザンツ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世は,1405年,父マヌエル2世と母ヘレネの四男として生まれた。彼はれっきとしたパレオロゴス王朝の生まれであるが,彼は皇帝即位にあたり,パレオロゴスの姓に続けて,母方の姓であるドラガセス(セルビアの地方領主ドラガシュのギリシア語形)を名乗った。
 コンスタンティノスが,敢えてドラガセスの姓を用いた理由は不明である。ヘレネの母コンスタンティノス・ドラガセスは,かのドゥシャン王の甥にあたる人物で数あるセルビア人君侯の一人であったが,オスマン朝と争わなかったため領地を安堵され,マヌエル2世と同様にオスマンに従軍して各地を転戦し,最後は1395年にワラキア公ミルチャとの戦いで戦死した人物である。セルビア公国の代表者と呼べる人物ではないし,対オスマン戦の英雄というわけでもない。コンスタンティノス亡き後におけるドラガシュ家の動向も不明であり,おそらく滅亡した可能性が高い。また,コンスタンティノス・ドラガシュは,「ローマ人とセルビア人の皇帝」を僭称したドゥシャン王の甥にあたる人物であり,その娘と皇帝との結婚にはビザンツ人の反発も予想された。そのためか,母ヘレネは慣例に反して結婚後も実家の姓を名乗らず,ヘレネ・パレオロギナと名乗っていた。
 つまり,皇帝コンスタンティノス11世がドラガセスの姓を用いることにより期待できる政治的効果は皆無であり,むしろ負の影響が懸念されるほどであった。このような状況下で敢えてドラガセスの姓を用いたコンスタンティノスの意志は推測するしかないが,母親に対する愛情が強く,皇帝即位にあたっても母の支援を受けた彼は,母親の実家ドラガシュの家名が歴史から消えてしまうことを憂慮し,母への感謝を込めてドラガセスの姓を用いることにしたのかも知れない。

専制公時代のコンスタンティノス

 そんなコンスタンティノスが成人に達した頃,1425年に父のマヌエル2世が亡くなり,帝位は長兄のヨハネス8世に移った。当時ミストラの専制公は次兄のテオドロス2世であったが,彼は知性には欠けていなかったものの精神的に不安定であり,1427年になると突然引退して修道士になりたいと兄のヨハネス8世に申し出た。
 そのため,コンスタンティノスはテオドロス2世の後任としてミストラを統治すべく,翌1428年に兄ヨハネス8世に伴われミストラに赴くが,その頃にはテオドロス2世は統治への意欲を回復していた。これにより兄弟間の関係は緊張状態となるが,結局ヨハネス8世の説得により,ミストラはテオドロス2世,コンスタンティノス,及びテオドロス2世の共治者候補として以前からミストラで育てられていた末弟トマスの3人で統治権を分担することに決められた。
 コンスタンティノスは,トルコ人から伝わった騎射の技術に長じるなど武勇に優れており,兄ヨハネス8世と共にグラレンツァとその一帯を征服したほか,兄ヨハネスが首都に戻った後の1429年には,独断で大司教領のパトラスを攻撃してこれを併合した。これはビザンツ帝国にとって久方ぶりの輝かしい軍事的勝利であったが,オスマン帝国やローマ教皇などの反発を招いたことはヨハネス8世の章で述べたとおりである。更に,コンスタンティノスと兄テオドロス2世との関係も悪化して,1436年に両者の争いは武力による睨み合いにまで発展し,兄ヨハネス8世の仲裁でようやく停戦に漕ぎつける有様であった。
 兄テオドロス2世との争いは,1443年にテオドロスがモレアの統治権をコンスタンティノスに譲り,自らはセリュンブリアの専制公に収まったことで収束した。これは病気の兄ヨハネス8世が亡くなった後,テオドロスが帝位に就くための布石であった。そして,マジャル軍を中心とするヴァルナ十字軍が発動すると,コンスタンティノスはヘキサミリオン城壁を再建した上でコリントス地峡から出撃し,1444年にはアテネを支配していたフィレンツェ人ネリオ2世を降伏させ,その後もギリシア各地で征服活動を続けた。その活躍ぶりは,ギリシア人勢力最後の希望の星となり,ある文人から対ペルシア戦争の英雄テミストクレスに例えられ称賛されるほどであった。
 しかし,1444年11月にヴァルナ十字軍が壊滅し,1446年には一時引退していたオスマン帝国のムラト2世が復位すると,ムラトは大軍を率いて反撃に出た。コンスタンティノスはテッサリアから撤退し,ヘキサミリオン城壁でムラトの軍勢を迎え撃つが,約2週間にわたる勇敢な抵抗も空しく,ヘキサミリオン城壁はオスマン軍によって突破されてしまい,モレアの各地は略奪された。冬が近づいたことも幸いして,ムラトの軍はミストラまで進撃することなく引き返したが,それでも6万人が捕虜として連れ去られ,コンスタンティノスも弟トマスと共にオスマン帝国への貢納を余儀なくされ,コンスタンティノスもオスマン帝国に武力で対抗するのは無謀だと悟らざるを得なかった。
 兄ヨハネス8世の後継者については,コンスタンティノスは次兄テオドロスの即位を支持する積もりであったが,テオドロスはヨハネスに先立って亡くなり,ヨハネスもフニャディ率いるキリスト教連合軍がオスマン軍に敗れた直後,1448年10月31日に亡くなった。

(2)異例づくめの帝位継承

 1448年にヨハネス8世が亡くなったとき,後継者候補となる皇子は年齢順に,コンスタンティノス,デメトリオス,トマスの3人がいた。最年長であるコンスタンティノスが帝位を継ぐのが順当な路線であったが,当時コンスタンティノスは首都から遠いモレアにおり,より首都に近いメッセンブリアでは弟のデメトリオスが帝位を窺っていた。首都でも,ヴァルナの戦いと第2次コソヴォの戦いでキリスト教連合軍が相次いで敗れたこともあり,首都では反合同派を中心に親オスマン派であるデメトリオスを支持する動きもあった。
 しかし,亡きマヌエル2世の妃であり皇子たちの母でもあるヘレネは,あくまで年長のコンスタンティノスが帝位を継ぐべきだと主張し,コンスタンティノスが首都に戻ってくるまでの間は,自らが摂政として統治すると宣言した。ルーカス・ノタラスを含む宮廷の有力者も,大部分はコンスタンティノスを支持していた。ヨハネス8世が亡くなったとき,船でモレアから首都に向かう途中であったトマスも,首都に到着するとコンスタンティノス支持を表明した。
なお,ヨハネス8世以上に野心的で「管理人」には到底不向きであったコンスタンティノスを,なぜヘレネが強く支持したのかはよく分からない。ヘレネは教会合同反対派であったが熱心なキリスト教徒でもあり,デメトリオスの親オスマン路線も受け入れ難いものと考えていたのかも知れない。あるいはもっと単純に,実の兄を差し置いて帝位を狙うデメトリオスの態度が気に入らなかったのかも知れない。ヘレネが政治の表舞台に登場したのはこの時期のみであり,彼女自身は何も書き残さなかったため,その性格や信条を推し量るのは極めて困難である。
 なお,最初のビザンツ皇帝たるコンスタンティヌス1世大帝の母親もヘレナという名前だったが,こうして最後のビザンツ皇帝もヘレネを母親とする皇帝コンスタンティノス11世となった。信心深いキリスト教徒はこれを単なる偶然のことと考えず,コンスタンティヌス1世の母ヘレナが聖人の列に加えられたようにヘレネも神聖視され,後年最後の皇帝コンスタンティノス11世とその母ヘレネを描いた肖像画などが作成されるようになった。
母から帝位継承者に指名されたことを知ったコンスタンティノス11世(在位1449~1453年)は,1449年1月にミストラで即位式を挙げた。弟のデメトリオスも帝位を狙っていることは明らかだったため,いち早く即位式を行う必要があったのである。即位式を済ませた後,コンスタンティノスは同年3月に首都へ入った。母ヘレネの仲介もあり,弟のデメトリオスはミストラとペロポネソスの南部・東部にあるコンスタンティノスの親王領を引き継ぎ,トマスは引き続きパトラス,グラレンツァ,ペロポネソス半島の北西部を領有することが決まった。3人は母ヘレネの前で互いに助け合うことを誓った。しかし,デメトリオスとトマスは,モレアに到着するとすぐに争い始め,後にコンスタンティノス11世に軍事援助を求められても,これに応じようとはしなかった。
 コンスタンティノス11世は,様々な意味で異例づくめの皇帝だった。ビザンツ皇帝は首都以外の場所で即位式を行った場合,コンスタンティノポリスに入った後首都で改めて即位式や戴冠式を行うのが通例であったが,コンスタンティノスは首都で皇帝としての即位式や戴冠式を挙げることができなかった。当時の総主教グレゴリオス3世メリセノスは教会合同を受け容れていたが,元は兄ヨハネス8世の聴罪司祭に過ぎず,ビザンツの聖職界をまとめるには力不足であった。しかも彼は,教会合同に断固反対する民衆や聖職者たちからごうごうたる非難を受けており,このような人物から戴冠を受けることは,かえって自分の帝位を危うくするように感じられたのである。
 1450年夏になると,メリセノスは国内の猛反発にいたたまれなくなったのか,首都を去ってローマに亡命してしまった。もっとも,メリセノスは正式に辞任したわけでは無く,ローマで引き続きコンスタンティノポリス総主教を名乗り続けていたこと,メリセノスの後任に適した合同賛成派の聖職者も見当たらなかったことから,後任の総主教は任命されず,コンスタンティノポリス総主教は事実上の空位となった。そのため,コンスタンティノス11世はその最期まで皇帝としての戴冠式を挙げることが出来ず,そのため歴史家の中には彼を皇帝として認めない者もいる。
 ビザンツ帝国の威信はいよいよ傾いており,長い間ギリシア正教会に忠実だったロシアのモスクワ大公国も,主に教会合同への反発から,1448年以降ビザンツへの使節派遣を止めてしまっていた。コンスタンティノスは独身で子供もいなかった。彼は1428年7月,エピロス専制公国君主カルロ1世トッコの姪,マッダレーナ・トッコ(テオドラと改名)と結婚したが,彼女は1429年11月に亡くなってしまった。その後,コンスタンティノスはレスボス島のジェノヴァ人君主の娘カテリーナ・ガッティルシオと再婚したが,彼女もまた結婚後間もなく1442年に亡くなった。どちらの結婚でも子供は生まれなかった。1450年に母のヘレネが亡くなると,コンスタンティノス11世に家族と言える存在はいなくなってしまった。弟のデメトリオスとトマスは,コンスタンティノスと政治的に反目する関係になってしまったのである。
 国内における反合同派の反発も激しかった。反合同派の指導者であるスコラリオスは,1449年7月に修道士になる意向を表明し,翌1450年の初めにパントクラトール修道院に入ってゲンナディオスという新しい修道名を受けた(彼の呼び名は,以後ゲンナディオスで統一する)が,彼は修道院の独房から反合同派の指導者として活動を続け,教会合同を攻撃する小冊子を書き続けた。反合同派の攻撃にいたたまれなくなった総主教メリセノスは前述のとおり,1450年夏にローマへ亡命してしまい,合同派は自分たちの精神的指導者として活動する高位聖職者を持たなくなってしまった。

(3)コンスタンティノス11世と弟たちの政策

 こうした数々の逆境にもかかわらず,皇帝コンスタンティノスはその短い治世の間,信じられない程精力的に,時には弟達と共同で,時には単独で外交活動を行った(そのため,コンスタンティノス11世の短い治世を語るだけで1章を設ける必要が生じてしまうのである)。もっとも優先すべきは,オスマン帝国のスルタンとの友好,ないし少なくともビザンツへの無関心を確保しておくことであった。コンスタンティノスは即位後間もなく,ムラトを宥めるための贈り物を持たせた使節をエディルネに派遣した。この目的はひとまず成功した。ムラトは,かつて自分にしつこく立ち向かってきたコンスタンティノスの即位を異議なく承認し,かつてコンスタンティノス自身が破っていた1424年の条約も再確認してくれた。エディルネで半隠遁生活を送っていたムラトは,ビザンツの関係などよりもっと高尚なことに心を奪われており,またアルバニアで抵抗を続けるスカンデルベクに対する遠征にも気を取られていたのである。なお,ハリル大宰相に対する賄賂がコンスタンティノスの治世下でも続けられていたことは言うまでもない。
 もっとも,マニサでは若いメフメト皇子が時を待っていた。1444年から1446年にかけて短期間ながら権力の座を味わったメフメトは,それをすっかり手放そうとはせず,マニサでは独立した君主のように振る舞い,自分の名前で通貨を発行し,地元の海賊にヴェネツィア船などエーゲ海のキリスト教徒船を襲撃させていた。メフメトはマニサで歴史や軍事,地理などを学び,父の遠征にも随行しつつ,かつて自分を侮辱したハリル・パシャやコンスタンティノスに対する復讐の刃を密かに研いでいたが,マニサはコンスタンティノポリスから遠く,若いメフメトの危険性に気付いているビザンツ人はごくわずかであった。
 オスマン帝国による攻撃の心配はとりあえず無くなったので,コンスタンティノスは一族間の対立に注意を向けることが出来るようになった。相争う兄弟が3人に減り,それぞれの勢力圏がはっきり区別されたことにより緊張は緩和されたが,それでも帝位継承の問題は残っていた。マヌエル2世は皇后ヘレネとの間に多くの息子をもうけたが,その息子たちには後継ぎがほとんどいなかったのである。コンスタンティノスの即位当時,6人兄弟のいずれも男児はおらず,亡き次兄テオドロス,弟デメトリオスとトマスにはそれぞれ娘が1人いて,ややこしいことに3人ともヘレネという同じ名前であった。おそらく皇太后ヘレネの名前をもらったのであろう。
 このうちテオドロスの娘ヘレネはキプロス王と結婚しており,トマスの娘は後にセルビア専制公となるラザルと1446年に結婚していた。デメトリオスの娘ヘレネは,最近結婚したテオドラ・アサニナとの間に生まれた子で,1449年当時まだ7歳であった。その後1453年1月になり,末弟トマスの息子アンドレアスが誕生するが,それまでパレオロゴス家には男子の後継ぎが一人もいなかったのである。この状況で仮にコンスタンティノスが死去した場合,帝位は反合同派である弟のデメトリオスに渡ることになり,これは教会合同派としては何としても避けたい事態であった。
 そのため,急いでコンスタンティノスに3人目の妻を見つけるべく活動が開始され,使節がアラゴン王,グルジア王,トレビゾンドの皇帝,セルビアの専制公に送られ,検討の結果相手はグルジア王の娘に決まりかけたが,ビザンツの教会法では3度目の結婚は原則として禁止されており,結婚には総主教の特別な許可が必要であった。しかし,メリセノスはローマへ逃亡してしまい,後任の総主教も任命されないままだったので,首都にはコンスタンティノスの再婚を許可できる人物がいなかった。結局コンスタンティノスの結婚話は,この問題を解決できないまま事態の急変により無に帰したが,これも帝国の問題に立ち向かおうとするコンスタンティノスの試みの一環であった。
 コンスタンティノスは,西方世界にも探りを入れていた。楽天家の彼は,ヴァルナ十字軍が当初戦果を挙げオスマン帝国に打撃を与えていたのを知っていたため,ヴァルナ十字軍以上の大軍を西方から援軍として引き出せば,オスマン帝国に更なる打撃を与えその勢力拡大を食い止められると考えていたのである。しかし,西方の支援を取り付けるには重大な障害があった。ビザンツでは教会合同に対する反対が激しく,兄のヨハネス8世は首都で予定されていた教会合同の典礼を見送りにせざるを得なかったが,反対はヨハネス8世の死によってむしろ激しくなっていた。多くの反合同派が,コンスタンティノスではなくデメトリオスが皇帝になるべきだと公然と唱えていたのである。
 それでも,コンスタンティノスは何とか西欧から援助を引き出そうと決意し,1451年4月にアンドロニコス・ブリュエンニオス=レオンタレスを特使としてローマに派遣した。彼の任務はビザンツの皇帝が苦労しながらもフィレンツェの合意をしっかり守っていると伝えて教皇を安心させ,西欧諸国へオスマン帝国に対する軍事援助を促すよう求めることであった。
 コンスタンティノスの西方外交は以上にとどまらなかった。1451年夏,コンスタンティノスは新興の商業都市ラグーザと通商条約を結び,ラグーザの商人はコンスタンティノポリスに居留地を設け,そこに自分たちの利益を図る領事を置くことを許された。ラグーザ商人に対する関税は2%と定められ,ラグーザ商人の活動はビザンツの国庫に貴重な収入をもたらした。その少し後に,専制公トマスも自分の領内で活動するラグーザ商人に同様の特権を与えている。もっとも,その翌月にラグーザと条約を結んだ専制公デメトリオスは,自領内で活動するラグーザ商人に完全な免税を与えた。デメトリオスはその前年にもフィレンツェとも同内容の通商条約を締結しており,彼は弟のトマスを出し抜いて,自分の港に商人を引き寄せようとしたようである。
 フィレンツェ人やラグーザ人のような比較的新参の商人は,モレアやコンスタンティノポリスにおける交易の足掛かりを得るため,少額の関税支払いなら喜んで応じてくれたため扱いやすい存在であった。これに対し,長年にわたってほとんど関税を支払っていないヴェネツィア人の扱いが難しいことは過去の経験から証明済みだったが,コンスタンティノスは国庫収入を確保するため,1450年夏にヴェネツィア船でコンスタンティノポリスに運び込まれる商品に一連の新税を課した。ヴェネツィア政府からはすぐに抗議の特使が来て,ヴェネツィア共和国に対する莫大な借金を皇帝に思い出させ,もし関税が撤廃されなければ小アジアの黒海沿岸都市ヘラクレイアの港に活動を移すべくムラト2世と交渉に入るつもりであると脅してきた。もっとも,コンスタンティノスは譲らず,自分が導入した税はヴェネツィアに対する現行の条約に違反するものではないと主張し,撤回を拒否した。
 このように,コンスタンティノスがヴェネツィアに対し強硬な態度を取ったのは,ヴェネツィアがイタリアで戦争を続けておりコンスタンティノポリスに大艦隊を派遣する余裕はないと見られたほか,ムラト2世がヴェネツィアに有利な交易特権を認めるはずがなく,ヘラクレイアに活動の拠点を移すというヴェネツィアの脅しが実行に移されることはないと考えていたためであろうが,弟のデメトリオスとトマスは更に強硬な態度を取り,彼らの役人はヴェネツィア領であるモドンとコロンの商人から厳しく金を取り立てたため,これらの町のヴェネツィア人はその報復として,町に住むギリシア人の財産を奪う許可を本国に願い出た。その上,デメトリオスとトマスは,ヴェネツィア領になっていた地域をたびたび占領し,これに悩まされたヴェネツィア政府は,皇帝に対し正式に抗議を申し入れた。コンスタンティノスは善処すると約束したが,実際には大したことは出来なかったようである。ヴェネツィアとの紛争は,結局明確な解決を見ないまま,コンスタンティノポリスの陥落で立ち消えになってしまった。
 コンスタンティノスとその弟たちは,1442年6月にナポリ王国の支配権を最終的に獲得した,アラゴン王アルフォンソ5世寛大王にも接近した。ナポリ王国の征服により,アラゴン王国は発祥の地アラゴンとカタルーニャ,ヴァレンシア(現スペイン北東部)のみでなく,マジョルカ・サルディニア・コルシカ・シチリアの島々と,ナポリを中心とするイタリア南部をも手中に収め,地中海世界の最も強力な支配者の一人になっていた。そのため,対オスマン戦争が再開された際には,西欧諸国の中でアラゴン王国こそが軍事的に最も頼れる同盟者になり得る存在であり,アラゴン王国との関係強化が喫緊の課題となったのである。
 既に,ヨハネス8世時代の1443年,テオドロス・カリュステノスがアラゴン王の許に派遣され,対オスマン十字軍に加わるよう説得を試みており,また同じ頃,アルフォンソの支配下にある地域からやってくる商人に便宜を図るため,コンスタンティノポリスにカタルーニャ領事を置くという協定が結ばれた。コンスタンティノスはこうした活動を引き継ぎ,即位後すぐに何度かアルフォンソに働きかけ,デメトリオスの娘とアルフォンソの甥の結婚を提案した。これが成立すれば,対オスマンの強力な軍事同盟となるはずであった。
 しかし,アラゴン王アルフォンソ5世は,その「寛大王」というあだ名とは裏腹に,厄介で物騒な男であり,落ち着きがなく野心的であった(寛大王というあだ名は,どうやら彼が人文主義者などの文人や芸術家たちを優遇し,イタリア・ルネッサンス文化の後援者となったことに由来するものらしく,別に外交面では寛大な性格ではなかったようである)。彼は,アルフォンソ5世の支配下にあったか否かは不明だが,カタルーニャ人の軍団が1430年頃にグラレンツァの港を占領したことがあったことなどを理由に,グラレンツァとパトラスに関する自らの領有権を主張して,1444年11月に両都市の引き渡しを要求していた。このようなアルフォンソの性格を考えると,仮にアルフォンソから対オスマンの軍事援助を得られたとしても,それは残されたビザンツ領の大半と引き換えということになりそうであった。
 デメトリオスは,コンスタンティノスより一足先に実情を理解していたようである。彼は1451年2月にアルフォンソと秘密条約を結び,その条約ではアルフォンソは軍を率いてイタリアから海を渡り,デメトリオスの軍を合流してオスマン軍を追い払った後,アルフォンソが自らコンスタンティノポリスの皇帝になるか,またはデメトリオスが皇帝になり,アルフォンソの臣下として帝国を統治することになっていた。いずれにせよ,デメトリオスはアアルフォンソと組んで兄コンスタンティノスの追い落としを目論んでいたことになるが,デメトリオスの親オスマン,反教会合同という態度は自らの政治的野望を達成するための手段に過ぎず,その政治的信条は先のヨハネス7世と同様に,かなりいい加減なものであった。彼はオスマン帝国に限らず,自分の野望を支援してくれそうな相手であれば,カトリックの君主にも喜んで話を持ち掛けたのである。
 以上に述べたような一連の外交政策は,どう見ても最期の日が近いと思っている者が取る行動では無かった。仮にコンスタンティノスやその弟たちがビザンツ帝国の滅亡を予期していたのであれば,近い将来その軍事援助を必要とするヴェネツィアとの関係にもっと配慮したはずである。皇帝一族に限らず,当時のビザンツ人は帝国の余命があと4年もないと考えた者はいなかったようである。確かに,ビザンツ帝国の領土は縮小し滅亡の危機と言ってよい状況にあったが,そのような状況下でもビザンツ帝国はヨハネス5世の治世後期から数十年にわたって存続しており,数十年前と比べて状況が特に悪化しているというわけでもなかった。コンスタンティノス11世の精力的で活発な外交活動は,むしろ帝国の未来が明るいものであるかのように錯覚させた。
 そのため,ビザンツ人はある意味危機的状況に慣れてしまっており,コンスタンティノポリスではいつも通りの生活が続けられた。長くコンスタンティノスの側近を務めていたゲオルギオス・スフランゼスは,長年のパトロンが皇帝になったのだからと,呑気に小細工を弄して自分と一族の昇進を図っており,ルーカス・ノタラスも自分の息子たちの昇進を皇帝に求めたりして権力争いを繰り広げていた。ミストラでは年老いたプレトンが,アリストテレス哲学に関する学術論文に最後の仕上げをする一方で,専制公デメトリオスを称える讃美演説を書いていた。事態が急変するとは誰も予測できなかったのである。

(4)ムラトからメフメトへ

 ビザンツ人が呑気な態度でいられたのは,一言で言えばオスマン帝国と友好的な関係が続いていたからであり,それはムラト2世の性格に因るところが大きかった。スルタン・ムラト2世は1450年,アルバニアのスカンデルベクを討伐すべく遠征を行ったが,アルバニアの複雑な地形を利用したゲリラ戦術に翻弄されて遠征は失敗に終わり,これがスルタン・ムラト2世にとって最後の戦いとなった。ムラトはおそらく遠征の失敗による国威低下を誤魔化す目的も兼ねて,メフメト皇子とアナトリアのドゥルカディル侯国の王女シット・ハトゥンとの婚姻を成立させ,1450年の冬から翌年にかけて,エディルネで3か月にわたる盛大な結婚式を行った。
 その後1451年2月,ムラトは島の隠遁所から宮殿に戻り身体の不調を訴え,3日後には原因不明の発作を起こして亡くなった。オスマン帝国の慣例に従い,スルタンの死はマニサのメフメトに伝えられるまで,ハリル・パシャと大臣たちによって伏せられていた。メフメトが無事に海峡を渡りガリポリに到着したとの知らせを受けて,ハリルはムラトの死を公表することを許した。ムラトの遺体はブルサに運ばれ,彼が生前に建てさせていた霊廟に葬られた。この霊廟は吹き抜けの構造になっており,「墓に太陽と月の光,雨と天からの露が注ぐことで,アラーの恵みが自分に届くように」という彼の願いが込められていた。
 1451年2月に,19歳で父の後を継いで即位した青年時代のメフメト2世が,どのような性格であったのかはいまいちはっきりしない。彼については,晩年の痛風に悩まされた偏執狂的な暴君のイメージが強いため,特にキリスト教徒側の史料は彼に対する敵意に満ちたものが多く,世界史上におけるメフメト2世の知名度は極めて高いにもかかわらず,その即位以前におけるメフメトの人物像を知る手掛かりは,散在するわずかな史料しかないのである。少年期のメフメトはおそらく孤独で自己陶酔的であり,また彼の発行した貨幣はイスラムの慣例に反してバシリスク(とかげ)やライオンといった動物の像が刻まれており,慣習にとらわれない性格であったことが窺われる。
 メフメトは,陽気な性格だった父ムラトとは異なり,内向的で自分の感情や考えを隠すことに長けていた。メフメトは内心,父の大宰相であったハリルを憎んでいたが,即位後も引き続きハリルを大宰相として仕えさせた。もっとも,ある日メフメトは杭に縛られた狐を見て,「心配しなくてもよい,ハリルに賄賂を贈りさえすれば放してもらえるぞ」と助言したと伝えられている。即位に際し,メフメトもオスマン帝国の伝統である兄弟殺しを行っており,自分の異母弟である生後8か月の幼児を絞殺しているが,メフメトは兄弟殺しの是非についてウラマー(イスラム法学者)の見解を求め,ウラマーは1402年から1413年にかけて行われたオスマン帝国の内戦を持ち出し,内戦を招くよりは兄弟殺しの方が良いという論法で兄弟殺しの法的正当性を認めるファトワーを出している。
 メフメトは,一旦決意した計画にひたすら没頭する性格の持ち主であり,驚くべき速さと信じ難いほどの注意深さ,賢明さをもって,自分の計画を細部に至るまで夢中になって練り上げ,自分の考えた計画に没頭するあまり眠れないこともしばしばあったと言われる。世界の地理と戦争の技術を熱心に学び,支配欲に燃える一方で,やろうと思うことについては慎重に調査する人物であった。
 メフメトのこのような性格を考えると,彼が即位前からコンスタンティノポリス征服を考えていたとしても不思議ではない。また,幼少期のメフメトは,自分の義母にあたるムラト2世の妃マーラを尊敬しており,マーラからコンスタンティノポリスを描いた絵を見せられるなどして,コンスタンティノポリスに対する強い憧れを抱いていたとも伝えられている。しかし,仮にメフメトが内心そのような計画を温めていたとしても,即位直後のメフメトにはこれを実行に移す余裕はなかった。父のムラト2世は,テッサロニケの征服者であり,ヴァルナとコソヴォの勝利者であったが,即位直後のメフメトには父のような人望は無かった。むしろ,少年の頃に短期間スルタンとして権力を行使して挫折した未熟な若者というイメージが強く,メフメト2世の即位を知ると,これを好機と見たカラマン侯イブラヒム・ベイはオスマン領に侵入してきた。
 1451年夏,メフメトはカラマン侯討伐のため小アジア遠征に赴いたが,このような状況では彼も敵を出来るだけ少なくしようと努めるしかなく,二正面作戦を避けるためビザンツ,ヴェネツィア,ジェノヴァなどと条約を結び,マジャル王国とも3年間の休戦協定を結んだ。当時の西欧人は,和平を求めるメフメト2世の消極的な姿勢を見て安心し,オスマン帝国はいずれ内訌で衰退するだろうと楽観的に考えていたようである。メフメトの小アジア遠征は成功に終わり,カラマン侯と和平を結んだメフメトはブルサに戻ったが,このときメフメトはイェニ・チェリの不満に直面した。メフメトと対面したイェニ・チェリの代表団は怒りを露わにして,メフメトの即位を支援した報酬を要求した。若いスルタンはこれに応じざるを得ず,不満分子に配るための金貨を10袋持って来させた。
 この事件によってメフメトは,自分の地位がいかに脆弱なものか,厳しい現実を思い知らされることになった一方,少年時代における最初の統治にまつわる屈辱的なイメージを払拭し,自分が父ムラト2世のように文句の付けようのない指導力を発揮するためには,大きな軍事的成功が不可欠であることを実感するに至ったと思われる。さらにこの時期,メフメトに同様の実感を抱かせるもう一つの事件が起きた。それは,コンスタンティノス11世からの使節到来である。
 コンスタンティノス11世は,兄のヨハネス8世と同様,オスマン帝国の内部対立を利用する方法を探っており,また自身が専制公であった時代,一時期スルタンとなっていたメフメトが自分のテッサリア進出に対し有効に対処できなかった前例があることから,若いメフメトを侮っていた。また,この時期のビザンツは,オスマン帝国の皇族であるオルハン皇子という有効なカードを持っていた。オルハンはバヤジッド1世の曾孫で,メフメト1世の長兄スレイマンの孫にあたる人物であり,マヌエル2世の治世末期から従者たちと共にコンスタンティノポリスで暮らしていた。ムラト2世は,このオルハンにコンスタンティノポリスで快適な幽閉生活を送らせるのと引き換えに,トラキア地方におけるいくつかの町の税収をビザンツ皇帝に渡していたようである。
 ブルサに到着したコンスタンティノスの使節は,オルハン皇子が成人に達したことを理由に,オルハンの扶養料を従来の2倍にしてほしいと要求し,もしメフメトがこれに応じないなら,オルハンを釈放し,スルタンの地位を要求させるだろうと脅した。慣習に従ってビザンツ側の要求を最初に知らされたハリルは激怒した。
「何と愚かなローマ人よ! 私はずっと昔から君たちのずるいやり方を知っている。今のままにしておきなさい。亡くなられたスルタンは優しく,誰に対しても誠意ある友人であり,まっすぐな良心をもった御方でした。しかし今のスルタン,メフメトはそのような性格の方ではありません。」
 ハリルの言葉は,長い間大宰相としてスルタンとコンスタンティノポリスの間の平和に尽力してきた者としての苛立ちがよく分かるものである。ムラト2世の時代でさえも,オスマン帝国の宮廷にはヨハネス8世がイタリアに行っている間にコンスタンティノポリスを攻撃すべしという強硬派がおり,ハリルは苦労してそうした強硬派の意見を抑え込んで来たのだった。しかもハリルは,ムラト2世の命によりメフメトの家庭教師や補佐役を務めており,彼の性格をよく知っていた。メフメトがこのような侮辱に黙って耐え続けることは期待できず,いずれ報復に出るだろうということは,ハリルには容易に予想できたのである。
 メフメト2世にこのような要求を突き付けたコンスタンティノスとその側近たちの行動は,メフメトが弱い立場にあるので,イェニ・チェリたちの要求に屈したように,自分たちの要求も受け容れざるを得ないだろうと判断してのことと考えるしかない。もっとも,すべてのビザンツ人がコンスタンティノスと同様にメフメトを侮っていたわけではなく,メフメトの危険性に気付いているビザンツ人もいた。皇帝の側近ゲオルギオス・スフランゼスは,ムラト2世死去の報をトレビゾンドで聞いたが,トレビゾンドの皇帝ヨハネス4世コムネノスがムラト2世死すとの報を喜ぶと思ってスフランゼスに伝えたところ,スフランゼスは喜ぶどころかむしろ一番親しい人の死を告げられたかのように悲しみに打ちひしがれ,ようやくのことでヨハネス4世にこう返答した。
「陛下,この報せは私を喜ばせません。むしろ悲しみの原因です。(中略)亡くなったスルタンは老人で,私たちの都を征服することを諦めていました。二度とそのようなことをしようとは考えなかったのです。彼はただ友好と平和を望むだけでした。このたびスルタンとなった人物は若く,子供の頃からキリスト教徒の敵でした。実際,ムラトではなくこの息子が死んでくれたら,神の喜ばしい恵みだったでしょうに。」
 しかし,スフランゼスのような考え方の持ち主は,残念ながらビザンツ宮廷の多数派ではなかったようである。この外交行動は,コンスタンティノス11世が犯した最後にして最大の外交的失策であり,わずか2年後にはビザンツ帝国の滅亡という最悪の結果を招くことになるが,メフメトの慎重な性格のために,ビザンツ側がこの誤りに気付くのはしばらく先のことになる。この要求を聞いたメフメトは,ハリルが見せたような怒りは示さず,エディルネに戻ってから問題を処理すると慇懃無礼に答えただけであった。
 メフメト2世は,ビザンツ側の使節に対し怒りを露わにすることはしなかったが,おそらくブルサでビザンツ側の要求を受けたときまでには,コンスタンティノポリス攻略を決意していたであろう。ある日,メフメトは大宰相のハリル・パシャを呼び出した。ハリルは慣例に従い,多額の銀貨を持って若きスルタンの許へ現れた。しかし,メフメトは銀貨など要らない,むしろ富ならいくらでも与えることが出来る,私が望むものはただ一つだとハリルに答えた。
「あの街をください。」
 メフメトの言う「あの街」が,コンスタンティノポリスを指すことは言うまでもない。ハリルはコンスタンティノポリス攻撃にあくまで反対しようとしたが,メフメトの側近であるザガノス・パシャらは,逆にメフメトの計画を支持した。コンスタンティノポリス攻撃の大義名分も,当のビザンツが自らメフメトに与えてしまっていた。こうなってはハリルも,ビザンツとの友好関係を維持しようとした自身の努力が水泡に帰したことを内心嘆きつつも,主君の命令に従うしかなかった。
 こうして,若きメフメト2世の歴史的挑戦が始まった。

(5)メフメトによる攻撃準備とビザンツ側の対応

 1452年1月にエディルネへ帰還したメフメトは,昼も夜もコンスタンティノポリスの攻略計画に没頭するようになった。後世「ファーティフ(征服者)」の異名を残すことになったメフメト2世を名将ならしめた要因の一つは,その用意周到さにあった。メフメトは起きているときはずっと,自分の事業に関する計画をとことんまで検討した。様々な戦略について果てしなく考慮し,予備軍団,税収,食料,武器のリストにじっくり目を通し,ペンで紙にコンスタンティノポリスの城壁の線を描いてみた。どんな細かい点でも彼は見逃さなかった。メフメトは,曽祖父バヤジッド1世が1394年から1402年にかけて行った包囲,父ムラト2世が1422年に行った包囲が成功しなかった原因を細かく検討したようである。両者のいずれも,強力な陸軍で町を封鎖したものの,それに呼応して海から封鎖できる大規模な海軍がなかったことが第一の問題であった。そこでメフメトは,主要な海軍基地であるガリポリで強力な艦隊の建設に取り掛かり,こうして350隻ともいわれる戦艦,多数の輸送船から成る艦隊が,ガリポリ長官バルトグルの指揮下で編成されたのである。
 メフメトは,バヤジッド1世による包囲の際には火器が全く使われなかったこと,ムラト2世による包囲の際に使われた大砲は,陸の大城壁にほとんど被害を与えることができなかったことも知っていたに違いない。こうした,陸の大城壁を破壊できる大型の大砲を欠くことが第二の問題であった。そこでメフメトは,城壁について注意深く検討した後,手持ちの大砲を増強すべく巨大な大砲を発注した。
 ちょうどその頃,マジャル人のウルバヌス(ウルバンとも呼ばれる)という人物が,コンスタンティノポリスの宮廷を訪れ,自分が開発した新式の大砲を売り込みに来た。しかし,ビザンツ帝国には新しい大砲を作るどころか,彼を雇い入れる金もなかった。次いでウルバヌスは,エディルネにいるメフメト2世の許を訪れた。メフメトは彼を抱きかかえるように迎えると,お前の大砲はコンスタンティノポリスの城壁を破れるかと尋ねた。ウルバヌスは,バビロンの城壁さえも破壊するでしょうと答えた。
 メフメト2世はウルバヌスを雇い入れ,さっそく実用化に踏み切らせたという。オスマン帝国に巨大な大砲を作る技術をもたらしたのは,ウルバヌスではなくドイツ人技術者であるとする史料もあるが,いずれにせよこの時期のオスマン帝国は,小型の大砲しか作れなかったムラト2世の時代とは違って,発射したときに大砲を損なうことなく,石造物に十分な衝撃を与えられる大型砲を鋳造する秘訣を学んでいた。答えは大砲に用いられる合金である,青銅と錫の正確な配合割合にあった。
 ウルバヌスが作り上げたという大砲は,砲身の長さ約8メートル,砲弾の重さが約600キロもあり,「ばけもの」と呼ばれた(「皇帝」と呼ばれたとする異説もある)。この大砲はエディルネで発射実験に成功すると,コンスタンティノポリス攻防戦では60頭の牛に曳かれて運ばれ,大城壁の攻撃で活躍することになった。
 更にメフメトは,バヤジッドやムラトの失敗から第三の問題があることに気付いていた。バヤジッド1世による包囲の際,ヴェネツィア人やジェノヴァ人が植民地と交易拠点を確保している黒海方面からコンスタンティノポリスへの海上補給が行われ,バヤジッドはこれを阻止しようとしてボスフォラス海峡のアジア側にアナドール・ヒサーリという要塞を築いたものの,これだけでは海上補給を止めるには不十分であったということである。そこでメフメトは1452年3月,オスマン軍と3000人ほどの作業員を,ボスフォラス海峡のヨーロッパ側に派遣した。続く数か月間,メフメトの技術者たちは,3つの巨大な塔とそれを繋ぐ7メートルの幅を持つ幕壁から成る城塞を建設した。メフメトはここでも狡猾ぶりを発揮し,それぞれの塔の建設を3人の大臣に委ねて互いに競争させ,わずか5か月という記録的な速さで工事を完成させることに成功したのである。ルメーリ・ヒサーリと呼ばれるこの新しい要塞にはイェニ・チェリ軍団が駐屯し,黒海方面から来る船や食料の通過を止めるために,塔の上に大砲が設置された。
 この大砲の威力は,数か月後には劇的に示されることになった。メフメトは,ボスフォラス海峡を通過するすべての船に対し,今後要塞の沖で帆を降ろし,要塞の司令官に関税を支払うべしという通達を出した。ほとんどの船がこの命令に従ったが,アントニオ・リッツォ率いる1隻のヴェネツィア船は,食料を積んで黒海からコンスタンティノポリスへ向かう途中,スルタンの命令を無視して強引に通過しようとした。リッツォは自船の操船技術に自信があったのかも知れないが,彼の船はボスフォラス海峡の速い逆流に阻まれてほとんど身動きが取れなかった。そのうち,要塞から放たれた一発の砲弾が船を直撃し,船はたちまち浸水して沈没した。なんとか岸に泳ぎ着いた者も,捕らえられて首を切られた。リッツォ船長は杭で磔にされ,その死体は海峡を見下ろす丘に残された。ルメーリ・ヒサーリで停戦しなければどういう運命になるのか,他の船乗りたちに対する見せしめであった。
 こうしたオスマン側の大規模な準備が,ビザンツ側に知られないはずもなかった。コンスタンティノポリスの住民たちは,1451年9月にスルタンがボスフォラス海峡に城を建てるつもりだという噂が広まり始めた段階で,メフメトの意図に気付いていた。噂は当初信じられなかったようである。というのも,過去2回の包囲では,これに先立って両国の関係が目に見えて緊迫していたのに,今回はコンスタンティノス11世がメフメト2世と条約を批准したばかりであったからである。コンスタンティノスが亡命皇子オルハンの解放をちらつかせてメフメトを脅したことは,市民たちの間ではほとんど知られていなかった。
 しかし,1452年になりルメーリ・ヒサーリの建設が始まると,メフメトの意図はもはや疑いようがなかった。首都の街角では様々な噂や推測が飛び交い,この町は野蛮人に攻撃され占領されると確信していた者もいれば,メフメトはコンスタンティノポリス攻略に失敗した曽祖父バヤジッド1世や父ムラト2世と同じ轍を踏むだろうと確信している者もいた。しかし,事態の深刻さについては疑いの余地がなく,ガラタに住んでいたあるジェノヴァ人は,メフメトの攻撃による最悪の事態に備えて遺言状を作成した。
 メフメトの準備活動に対して,コンスタンティノスはエディルネに使節を送り,ルメーリ・ヒサーリの建設がビザンツ領内で行われていることを理由に,建設工事の中止を要求した。これに対しメフメトは,皇帝は城壁の外には事実上領土を持っていないと答えた。メフメトは更に,1444年にムラト2世がボスフォラス海峡を渡る際キリスト教海軍の妨害を受けた件についても言及し,自分はあのような不便を蒙りたくないと言った。ビザンツの使節がスルタンからここまで敵意に満ちた回答を受けて追い返されるのは,バヤジッド1世の時代以来久しく無かったことであった。コンスタンティノスはこの段階になってようやく,昨年行った自らの要求がスルタンの怒りを招いていることに気付き,メフメトに使節を送って和平を乞うたが,怒りと野望に燃えたスルタンの前にもはや交渉は無意味であった。
 スルタンの回答は皇帝とその側近たちに,脅威の深刻さを痛感させることになった。ビザンツ側の考えられる方策は,外部に援助を求めることしかなかった。まずコンスタンティノスは,兄ヨハネス8世の足跡を辿って自ら西方に出掛け援軍を訴えることを考えたが,いまやオスマン軍による攻撃の危機は目前に迫っており,父マヌエル2世や兄ヨハネス8世の時と異なり,自分が留守の間に首都を任せられる適当な皇族がいないという問題もあった。結局,彼は使節をヴェネツィア,次いでローマに送って危機の重大さを告げたが,当時のローマ教皇ニコラウス5世(在位1447~1455年)は,皇帝が期待したほど親身にはなってくれなかった。当時のローマには,コンスタンティノポリス総主教グレゴリオス3世メリセノスが,教会合同に対する反発に耐えかねて亡命し住んでいたので,コンスタンティノポリスで教会合同が受け入れられていないことを教皇は知っていたのである。教皇はこれを,皇帝がフィレンツェの合意をきちんと実行していないものと考えていたので,コンスタンティノポリスの聖ソフィア教会で教会合同が公に宣言されてはじめて,十字軍を公認することが出来るであろうと回答した。
 亡きヨハネス8世は,教会合同に対する国内の反発を恐れて首都における合同の典礼を見送っていたが,事ここに至っては,コンスタンティノスはローマ教皇の求めるとおり,教会合同の典礼を行う以外の選択肢は無かった。1452年10月,ギリシア人の枢機卿イシドロスとミュティレネ大司教であるキオスのレオナルドが,合同の典礼を行うためコンスタンティノポリスにやってきた。首都では当然のように,教会合同の典礼に対する猛反発の声が沸き起こった。首都で最も強硬に合同反対を唱えていたのは修道女たちであり,彼女たちは反合同派の指導者であるゲンナディオスに合同を阻止するよう懇願し,その声に応えたゲンナディオスは,合同に反対する論説を著して修道院の扉に釘で打ち付けた。彼の論説には,次のような文言が含まれていた。
「哀れなローマ人よ。どうしてあなた方は欺かれてしまったのか・・・。まもなく破壊されようとしているこの町とともに,あなた方は敬神の心も失ってしまった」
「ああ,愚かな者たちよ,お前たちはすべてを失っただけでなく,いまや,忌まわしく不実にも,最も聖なるものに背を向けているのである。それはこの邪悪な時代において,神の慰めを見つける代わりに,求める神から離れることではないのか?(中略)お前たちがいうところのこの教会合同は悪であると,私は神の前で証言する。」
 このように,ゲンナディオスが教会合同に抵抗していると触れて回ると,首都の民衆はイコンを通じて聖母マリアに呼び掛け,かつてホスロー2世とアヴァール人,さらにアラブ人の侵略からお守りくださったように,このたびもトルコ人からお守りくださいと願った。その一方で,彼らは聖母マリアに「私たちからアジュミタイ人(種なしパンを食する人,つまり西欧人)の礼拝を遠ざけてください」とも懇願したのである。
 ビザンツ人の多くは,もはやビザンツ帝国などより自らの正しい信仰こそが大切だと思っており,正しい信仰を穢すラテン人との教会合同を,おそらくトルコ人以上に毛嫌いしていた。かつてミカエル8世の妹エウロギアは,「兄の帝国が滅びる方が,正統信仰の純粋さが失われるよりましです」と言明して兄に反抗したが,おそらくビザンツ人の大半はかつてのエウロギアと同意見であったろう。
 ビザンツ人の大半は,ラテン人の信仰を感情的に毛嫌いしており,カトリックと正教会の合同は自らの魂が汚されると本気で思っていたようである。その背景には,当時もその爪痕が残る1204年のコンスタンティノポリス劫略だけでなく,その後も続いたヴェネツィアやジェノヴァによる経済侵略,そして異端のフス派を生み出すに至ったカトリック教会の目に余る腐敗ぶりも影響していたであろう。また,1444年におけるヴァルナ十字軍の惨敗,1448年における第2次コソヴォの戦いの敗北も,ビザンツ人の多くには教会合同という瀆神行為に対する神の怒りだと理解され,合同反対派の勢いに拍車をかけることになったことは想像に難くない。
 しかし,教会合同の典礼に対する国内の反発がどれほど強かったとしても,ビザンツ政府の政策として,今更教会合同の典礼を中止することはあり得なかった。内心では反合同派でありながらも現実派であるルーカス・ノタラスは,ゲンナディオスの反対論に幾分かの同情を持ちつつも,次のように警告した。
「尊師よ,あなたは無駄な努力をしている。なぜなら,教皇に祝福が与えられるべきなのは明白となっており,いまさらどうこうすることは出来ないからである。ならば,それを止めるために何も出来ないとしても,もしあなたに来る気があれば,我々がそれを行うのに協力されよ。」
 ノタラスが予告したように,教会合同の典礼は12月12日,聖ソフィア教会で皇帝や元老院議員,多数の会衆の前で行われた。教会合同の教書が読み上げられ,ローマ教皇と不在の総主教グレゴリオスが祝福され,祈りが捧げられた。もっとも,ゲンナディオスやその他シュナクシス(宗教集会)の人々はその場にいなかった。この式典によって教会合同が首都の人々に広く受け容れられたとは言い難い状況であったが,カトリックに改宗し枢機卿になったとはいえ本来はギリシア人であるイシドロスは,ローマ教皇が納得しなければ十字軍の呼びかけがなされないであろうことを知っていたので,敢えて教会合同の典礼は大成功であったとローマ教皇に報告の手紙を書いている。
 なお,この教会合同の典礼において,反合同派であるルーカス・ノタラスが「枢機卿の四角帽を見るくらいなら,スルタンのターバンを見たほうがましだ」と公言したとする文献もあるが,実質的なビザンツの首相たる彼の立場を考えれば,これがノタラス自身の言葉であるとは考えにくい。彼が内心では反合同派に同情していることに気付いた合同派の生き残りが,おそらくノタラスを非難する意図で彼が上記のように公言したという作り話を書き残したのであろう。
 皇帝やノタラスの企図としては,教会合同が実行されたので,いまや西方からの援軍を期待できるはずであった。実際,イシドロスは霊的な助言者だけを伴ってコンスタンティノポリスに来たわけではなく,50人(200人とする説もある)の傭兵部隊も引き連れてきたのである。この部隊は町の防衛に幾分かの寄与をした。また,イシドロスは城壁の修復に充てる資金も持ってきてくれた。
 一方でコンスタンティノス11世は,西方のキリスト教徒が純粋に十字軍の熱意だけで救援に馳せ参じてくれるという甘い期待はしていなかった。そこで教会合同の典礼と並行して,カトリックの君主に対し個別の救援要請を行うとともに,救援の報奨を提供した。アラゴン王アルフォンソ5世にはリムノス島が割り当てられ,当時摂政としてマジャル王国を統治していたフニャディ・ヤーノシュにはセリュンブリアとメッセンブリアが提示された。
 もっとも,リムノス島だけでは,野心的で強欲なアルフォンソ5世を動かすには明らかに不十分であり,アルフォンソがコンスタンティノポリス救援に動いた形跡は見られない。一方,フニャディにはオスマン帝国と戦う意志はあったものの,マジャル軍はヴァルナの敗戦とコソヴォの敗戦から完全には立ち直っていなかった上に,ラースロー5世のマジャル行きに兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が反対したことが契機となって西の神聖ローマ帝国とも敵対関係に入っていたため,当時のマジャル王国には大軍を動員してオスマン領に攻め入る余力はなかった。
 実際に得られた最も貴重な軍事援助は,これらの有力な君主からではなく,ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴというジェノヴァ人の冒険家によってもたらされた。彼は1453年1月に,2隻の船と数百の兵士からなる軍を伴ってコンスタンティノポリスに到着した。彼は皇帝たちから大歓迎で迎えられ,リムノス島は結局彼に約束された。その他アンコーナ,プロヴァンス,カスティーリャからやってきた若干名のラテン人も守備隊に加わったが,ビザンツ人の猛反対を押し切って教会合同の典礼を強行したコンスタンティノスが西方から得られた軍事的援助は,結局この程度のものに過ぎなかった。
 なお,モレアにいるデメトリオスやトマスにも援軍要請の使節は送られたが,彼らがコンスタンティノポリスに援軍を送ってくることはなかった。ただし,これはデメトリオスやトマスが薄情だったからではなく,先手を打ったメフメトが1452年の秋にモレアへ軍を侵入させており,両者とも援軍を送る余裕がなかったためである。

(6)コンスタンティノポリス攻防戦

はじめに

 これから語るコンスタンティノポリスの攻防戦については,皇帝コンスタンティノス11世が最後の演説を行い,これに兵士たちが感動して涙ながらの抱擁を交わし,祖国と信仰のために死ぬ覚悟であると表明し,絶望的な状況の中でビザンツ人はオスマン軍に対し英雄的に戦って死んだなどとする話が,何世紀にもわたって繰り返し語られてきたが,ビザンツ史に関する近年の研究により,そうした話が事実でないことはほぼ確実であることが明らかとなっている。
 コンスタンティノポリスの陥落に関するこうした英雄的な物語を伝えているのは,コンスタンティノス11世の側近ゲオルギオス・スフランゼスの名前で書かれた年代記であり,彼による包囲の目撃記録とされていたためその内容が広く信じられていたのだが,実はこの年代記はスフランゼスによって書かれたのではなく,ビザンツ帝国の滅亡後1世紀も後になって,ナポリに住むギリシア人大主教によって書かれたものであった(そのため,この年代記は「偽スフランゼス年代記」と呼ばれるようになっている)。著者である大主教は,当時の神聖ローマ皇帝がほどなくスルタンに戦いを挑み,コンスタンティノポリスをキリスト教徒の支配下に戻してくれるだろうという希望のもと,ギリシア人の同胞を共通の敵イスラムに対する戦いへと駆り立てようと考え,話に真実味を持たせるためスフランゼスの名を騙って,祖先であるビザンツ人の英雄的行為を飾り立て,誇張して書いたのである。
 比較的最近になって書かれた作品でも,1453年の包囲とその後日談を語ったスティーブン・ランシマン卿(1903~2000年)は,ビザンツに同情的な立場から,『偽スフランゼス年代記』の物語を無批判に繰り返している。日本の塩野七生氏も『コンスタンティノープルの陥落』を著すにあたって,偽スフランゼス年代記の物語が真実ではないことを半ば認識しつつも,概ねこれに依拠されたようである。
 本稿において,滅亡寸前のビザンツ帝国,とりわけマヌエル2世,ヨハネス8世,そしてコンスタンティノス11世の治世について詳しく述べてきた大きな目的の一つは,偽スフランゼス年代記に記された物語が実話ではあり得ないことを説明するためである。コンスタンティノス11世は,偽スフランゼス年代記の影響で後世の人々からは英雄的な皇帝のように書かれているが,実際にはビザンツ人による彼の支持率は大変に低く,彼を皇帝として認めないビザンツ人もいるほどであった。また,ビザンツ人の大半は,西欧からの援軍を期待してコンスタンティノス11世の推進する教会合同に大反対であり,彼らの本音は,「ローマ教皇の三重冠よりトルコ人のターバンの方がましだ」という標語に代表されるように,ラテン人による支配よりオスマン帝国による支配の方がまだ良いというものであった。
 ビザンツ人にとって,自分たちの宗教(ギリシア正教)とラテン人たちの宗教(ローマ・カトリック)は全く異なるものであり,教会合同を受け容れてオスマン軍と戦うことは,自分たちの信仰を守るための戦いでは全く無かった。自分たちの信仰を守るには,戦わずしてオスマン帝国に降伏した方がはるかに有益であった。オスマン帝国がキリスト教徒に寛容であり,デヴシルメ制度などを除き,基本的に征服地のキリスト教徒に対しイスラム教への改宗を強制しないことはビザンツ人の間でも広く知られていたからである。
 またビザンツ人にとって,オスマン帝国との戦いは自分たちの国家を守るための戦いでもなかった。ビザンツ帝国は領土縮小に伴い,少なくなった課税対象の住民からますます厳しく税を取り立てるようになり,その一方で豊かなヴェネツィア人やジェノヴァ人,彼らとの経済的関係で富裕になっていた貴族たちにはほとんど課税することが出来なかった。しかも末期ビザンツの皇帝たちは西方からの援軍を得るためにビザンツ人の信仰を捨て,ビザンツ人の大半による猛反対を押し切ってカトリックとの教会合同を強行したのである。このような皇帝の治めるビザンツ帝国が,多くのビザンツ人に「自分たちの国家」と認められるはずも無かった。しかも皇帝たちがその必要性を熱心に説く西方世界からの援軍も,これまで役に立った例はなく,1430年のテッサロニケ陥落においてはむしろギリシア人に有害な結果をもたらしていた。1444年のヴァルナ十字軍も,キリスト教徒・イスラム教徒の区別なく,行く先々の住民に対し略奪,暴行を働いていた。
 1453年の包囲について記す正真正銘の同時代人による記録の多くは,ビザンツ人は断固命を賭けて戦おうとはしておらず,防衛に最も熱心だったのはヴェネツィア人やジェノヴァ人の部隊であったと述べており,金持ちのビザンツ人は,財産を防衛に差し出すどころかむしろ隠そうとし,貧しいビザンツ人は給料を払ってくれれば従軍すると言ったという。偽スフランゼス年代記の伝える感動的な話を書いている同時代人の記録は皆無である。それも理由のないことではなく,キリスト教徒とイスラム教徒は,現代人の多くが誤解しているような不倶戴天の敵では必ずしも無かったし,西欧人と異なりイスラム教徒と平和的な文化交流を長く続けていたビザンツ人にとっては,オスマン人よりむしろ自らの信仰を冒瀆するラテン人の方が不倶戴天の敵であった。
 このような末期のビザンツ人は,現代の私たちに2つの教訓を与えてくれる。1つは既に述べてきたとおり,キリスト教徒とイスラム教徒を不倶戴天の敵と見做すことは,歴史的に見ても誤りだということであり,もう1つは,深刻な貧困問題を解決できない国家は人心を失いやがて滅びる運命にあり,貧困にあえぐ者たちに国民意識を高揚させるための宗教やイデオロギーは,仮にそれらが理論的にどんな素晴らしいものであったとしても,国を守るためには何ら役に立たないということである。現代でも貧困問題に関する論者の中には,貧民たちの貧困は彼らの自業自得によるものであるから,救済ないし解決の必要はないなどと説く者がいるが,そうした主張は国家の自殺を招くものであるということを,我々は強く認識しなければならない。
 前置きが若干長くなったが,以下偽スフランゼス年代記の物語とこれに対する批判を織り交ぜつつ,コンスタンティノポリスの陥落に関する「真実」の歴史を追っていくことにしたい。ただし,以下に述べることは,現代の研究者によって真実と考えられているものの一例に過ぎず,今後の研究等によって「真実」がさらに変わる可能性もあることは,予めお断りしておく。

攻防戦開始前の状況

 メフメト2世によるコンスタンティノポリス攻略の準備は,1453年3月までに完了し,オスマン軍はエディルネから東進した。カラジャ・ベイ率いる先発部隊がまず派遣され,マルマラ海や黒海の沿岸に残るビザンツ領の町や要塞を始末した。彼の軍団は,ビザンツ側の要塞化された塔をいくつか急襲して守備兵を虐殺し,農村部を略奪しつつ,かつてデメトリオスの親王領であったメッセンブリアに到着した。メッセンブリアは自然の要害で守られていたが,住民たちは抵抗を望まず,直ちにカラジャ・ベイに降伏した。一方,南部ではビザンツ側の激しい抵抗があり,セリュンブリアの町はメッセンブリアほど守りが固くなかったものの,オスマン軍への降伏を拒否した。そこでオスマン軍は,コンスタンティノポリスへの援軍派遣を阻止するため,セリュンブリアの城壁周辺を封鎖した。
 こうしてコンスタンティノポリス周辺のビザンツ領を無力化させた上で,メフメト2世自ら率いるオスマン軍の主力軍団がエディルネから進撃を開始した。同時代人が記すオスマン軍の規模については16万から20万とまちまちであるが,オスマン軍は遠征にあたり多くの非戦闘員を随行させるのが常であり,現代の研究者による推定では,オスマン軍の戦闘員は10万人程度とする見解が有力である。そうだとしても,ビザンツ側にとって恐るべき大軍であったことは間違いない。また,オスマン軍には例の「ばけもの」をはじめとする多くの大砲も加わっており,特に「ばけもの」は大きさだけなら20世紀の日露戦争で日本軍が用いていた大砲をも上回るという超大型で,運ぶのに60頭ないし150頭の雄牛による隊列が必要と言われるほどであった。コンスタンティノポリスは過去20回以上にわたり敵の攻撃や包囲を受け,1204年の陥落を除いてはその全てに耐え続けてきたが,これほどの大軍による攻撃を受けたことはかつて無かった。
 1453年4月初め,オスマン軍は順次コンスタンティノポリスの城壁前に到着し,大城壁の端から端まで展開すると,塹壕を掘ってビザンツ軍に対峙した。その数日後,バルトグル率いるオスマン艦隊がガリポリから航行して,海の城壁を尻目に,金角湾北方のボスフォラス海峡に面した小さな港ディプロキオニオンへと向かった。こうしてコンスタンティノポリス包囲の網は絞られた。
 一方,これを迎え撃つビザンツ側であるが,結局のところ西方からの大規模な援軍は実現せず,コンスタンティノポリスはまことに不十分な数の守備兵のみで,メフメトの攻撃に立ち向かうことになった。ビザンツ側の兵力については,コンスタンティノス11世は攻防戦を間近に控えた1453年3月末,忠実な臣下かつ友人であった大臣のスフランゼスに,首都の市内にどれほどの人員・武器があるか調査させたという逸話が残っている。計算を終えたスフランゼスは蒼ざめた。武器を取りうるビザンツ人はたったの4773人(ないし4973人)しかいなかったのである。報告を受けた皇帝も衝撃を受け,この数字を公表してはならぬと命じたという。
 ただし,スフランゼスは救援に来たラテン人たちを過少に見積もっていたらしく,大司教キオスのレオナルドは約9000人と数えていた。この攻防戦におけるビザンツ側の兵力は,現代の研究者の間では,ビザンツ人が約5千人弱,これにヴェネツィアやジェノヴァなど西方からの援軍を加えて合計7000人程度であったとする見解が有力である。いずれにしても,ビザンツ側が惨めなほどの少数であったことに変わりはなく,スフランゼスはコンスタンティノポリスがローマ教皇から得られた援助は,エジプトの(マムルーク朝)スルタンから得た程度でしかないと苦々しく述べている。ローマ教皇はビザンツに教会合同の典礼を強制しておきながらこの程度の援助しか送らなかったのだから,20世紀の教皇ヨハネ・パウロ2世が東方教会との融和にあたり,1204年のコンスタンティノープル劫略に加え,1453年にコンスタンティノポリスを見殺しにしたことも謝罪しなければならなかったのは首肯できるところである。
 メフメト2世がコンスタンティノポリス攻略に踏み切った目的は,次の3つであったと考えられている。1つ目は,ムハンマドによって予言されながら,ムアーウィヤをはじめとするイスラム帝国の歴代カリフ,そして曽祖父バヤジッド1世や父ムラト2世も果たせなかったコンスタンティノポリス征服を実現することにより,自分のスルタンとしての立場と威信を不動のものにすることである。2つ目は,自らのスルタンとしての立場を不動のものとした上で,かつて自分の意向を無視して父ムラト2世の復位を要請した憎き大宰相ハリル・パシャを除くことである。そして3つ目は,長い栄光の歴史を残しながら今は無力な存在となったローマ帝国を自らの手で滅ぼし,かつ自らの手でローマ帝国をイスラムの帝国として再建することである。
 こうした目的のいずれから考えても,コンスタンティノポリスを武力攻撃によって陥落させるべき必然性はなく,むしろコンスタンティノポリスが無血で入手できるならそれに越したことはなかった。そこでメフメトは,城壁の外に陣を敷くとすぐに,ビザンツ側との和平交渉を行った。メフメトの提示した条件は,町を引き渡せば住民はオスマン帝国の支配下で財産と生命を保障する,コンスタンティノス11世については残された帝国領であるモレアの支配権を保障するというものであった。同時代の歴史家ドゥーカスによれば,これに対するコンスタンティノスの回答は次のようなものであった。「あなたに町を引き渡す権限は,私にも,この町に住む誰にも無い。命が助かるよりも,喜んで死ぬことが我々の一致した決意である。」
 確かに感動的な言葉ではあるが,果たしてコンスタンティノポリスの市内にいた人々のどれほどが,皇帝のこのような感情を共有していたであろうか。1430年のテッサロニケ総攻撃を前にして,ムラト2世が行った同様の降伏勧告はヴェネツィア人により拒絶されたが,町の中にいたギリシア人の多くはむしろ降伏を望んでおり,ヴェネツィア人はギリシア人の裏切りを恐れて監視を付けなければならなかったのは,第27話で述べたとおりである。これと同様に,コンスタンティノポリス市内にいたビザンツ人の多くは,内心では降伏を望んでいた可能性が高い。
 コンスタンティノス11世も,オスマン軍との兵力差のみならず,防衛に協力してくれるカトリックのラテン人と,ギリシア正教にこだわるビザンツ人の双方に配慮しなければならず,その心労は並々ならぬものがあったと思われる。ギリシア人歴史家のドゥーカスは,「教会や修道院の大部分,修道院長,修道士,修道女・・・・・・彼らの中で一人として合同を受け入れる者はいなかった。皇帝さえも合同に同意するふりをしているだけである」と伝えている。コンスタンティノスの悲壮な決意とは裏腹に,防衛側は宗教的にも一枚岩にはほど遠い状態であった。
 なお,当時のコンスタンティノポリスには約5万人の市民が居住していたと推定されているが,間もなくオスマン軍の封鎖は効果を現し始め,食糧が不足してきた。包囲開始から1か月後の5月初めには物資,特にパンやワイン,その他生活必需品の不足が目立ち始めた。かつての包囲戦でも行われたように,今回の包囲戦でも値上がりで儲けようとする者が食糧を貯め込んだので物価が高騰し,市民の中でも貧しい人々がまず苦しむことになった。コンスタンティノス11世は,こうした事態を改善するために全力を尽くし,ナポリに特使を派遣して穀物の搬送を手配した。こうした努力のほか,そもそも包囲戦自体が2か月足らずで終了したという事情もあり,今回の戦いでは城壁を降りてオスマン側に逃げ込む人々がいたとする記録はない。
 しかし,それでも不満の兆候はあり,貧しいビザンツ人の多くは,城壁の修理への動員に際して給料を前払いせよと要求し始めた。中には防衛に従事するより,城壁内にある自分の葡萄畑や野菜園で働くことを優先させる者もいた。キオスのレオナルドは彼らの行動を見咎め,キリスト教世界全体を危機に陥れていると非難したが,それに対するビザンツ人の答えは「私の家族が困っている時に,どうして軍隊のことを考えられましょう」というにべもないものであった。もし包囲が長期化していれば,おそらく1394年から1402年までの包囲戦で起きたように,オスマン軍の陣営へ逃亡する市民が現れることは避けられなかったであろう。
 これに対し,ビザンツ人の中でも豊かな者たちは,食べるものなら充分に持っていたであろうが,メフメトの封鎖により貿易収入は途絶えてしまった。起こり得る最悪のシナリオは2つあり,1つはバヤジッド1世による包囲時のように,包囲が長期化して商業の息の根を完全に止められてしまうことであり,もう1つは1430年のテッサロニケ陥落時のように,オスマン軍が武力でコンスタンティノポリスを陥落させ,町がオスマン軍の容赦ない略奪にさらされることであった。こうした最悪の結果を回避するには,メフメトの包囲が打ち切られて1452年以前の状態に戻る方法を見つけられればそれが最上の方策であったが,それが不可能であれば,スルタンに町を明け渡すのが次善の策であった。この包囲戦において,ビザンツ帝国の首脳陣に公然と降伏を主張する者がいたとする証拠はないが,これは包囲戦が短期間であったためその機会がほとんどなかったためであろう。
 ビザンツ人の富裕者の中には,分散投資をするのが賢明だと考えた者もいたようである。市内では,町の防衛に資金を拠出するよう皇帝から直々に頼まれても,有力市民は個人の財産を提供するのをひどく嫌がったという噂が広がっていた。それどころか,彼らは金を隠していると思われていた。ある人物は,壺の中に7万フローリン貯め込んでいたと言われている。その噂を聞いたキオスのレオナルドは,「ギリシア人の中になんという裏切り者がいるものか!」「祖国を裏切るなんと強欲な者たちよ!」などと独善的な発言をしている。
 大司教レオナルドによる,豊かなビザンツ人は自分自身の身柄と財産を救うことしか考えていないとする主張は,偏った見方である。多くのビザンツ人有力者は,自分の富の基礎がコンスタンティノポリスにあることを認識しており,町の防衛にある程度の貢献をする一方,万一この町が陥落した場合に備えて自らの資産をある程度保全するという「分散投資」を行っていたのである。ルーカス・ノタラスがその良い例であり,彼は自分の財産の大半を安全なジェノヴァの聖ジョルジョ銀行に預ける一方,メガス・ドゥークスとしてビザンツ帝国の防衛に貢献する義務も忘れていなかった。1451年から1452年にかけて,メフメトによる攻撃の危機が目前に迫り,町の防衛体制を整備するにあたって金が必要になっても,皇帝はイタリアの銀行から金を借りることが難しかった。歴代皇帝が借金の返済を繰り返し怠ってきたためである。しかし,ノタラスが個人財産を担保として提供したおかげで,最終的に貸金は届いた。このように,ノタラスのようなビザンツ人の金持ちは,愛国心と自分の経済的な利害とのジレンマに陥りつつも,それぞれのやり方でうまく折り合いを付けたのである。
 こうしたジレンマに陥ったのは,ビザンツ人の金持ちだけではなく,コンスタンティノポリスの貿易から利益を得ている外国人も同様であった。1453年の包囲当時,ジェノヴァ領ガラタ(ペラ)の執政官はアンジェロ・ロメッリーノという人物であったが,彼はメフメトが軍を率いて到着したときに,ガラタまでが攻撃を受ける謂われはないと考えた。そこで使節をスルタンに送り,この戦いにおいてガラタは中立を守ると誓った。中立を表明したジェノヴァ人の評判は悪く,実際にはジェノヴァ人は中立どころか,防衛側の作戦に関する死活的な情報をメフメトに提供し,大砲が破裂するのを防ぐのに必要な油など,重要な戦略物資をオスマン軍に売っているとの噂も流れたが,そうした噂の真偽ははっきりしない。その一方で,ジェノヴァ人は異教徒の攻撃に晒されている同じ信仰の人々による求めを拒絶することも出来なかった。ロメッリーノはメフメトとの協定にもかかわらず,城壁の防衛に参加する軍団をガラタからこっそり送り,その中には彼の甥もいた。もっとも,こうした防衛に参加したジェノヴァ人も商人としての本能が前面に出て,ジェノヴァ軍の一部は商売のために夜オスマン軍の前線へと船で渡っていると噂されたりもした。
 包囲の体験を記録に残したヴェネツィア人の外科医ニコロ・バルバロは,こうしたジェノヴァ人の行動をひどい裏切りであるとし,ガラタのジェノヴァ人を「キリスト教信仰の敵」と非難している。金角湾に停泊していたヴェネツィア船の船長たちは,メフメトの軍が迫っても逃げることなく,コンスタンティノポリスの防衛に参加する決意をした。確かに,ヴェネツィア人はビザンツとの外交問題を抱えていたにもかかわらず,ジェノヴァ人のように曖昧な中立を表明したりはしなかったが,全てのヴェネツィア人が生命や生活を賭けてオスマン軍と戦おうとしたわけではない。ピエロ・ダヴァンツォという船長は,メフメトの包囲に先立つ2月26日の夜,こっそり錨を上げて金角湾を抜け出し,クレタ島へ去ってしまった。コンスタンティノポリスに残った船の乗組員も,積み荷を陸揚げすることに激しく反対した。乗組員の多くは積み荷に出資していたからである。5月8日に陸揚げが提案されると,水夫たちは刀を抜いてそうはさせまいと激しく脅したので,船長は折れざるを得なかった。
 防衛線に参加していたヴェネツィア人も,コンスタンティノポリスと運命を共にすることまでは考えておらず,急いで退去しなければならない事態になったらすぐに持ち出せるよう,自分たちの財産である物資を船に積んだままにしておいたのである。さらに言えば,ヴェネツィア人の船長たちがコンスタンティノポリスに留まったのは,キリスト教信仰のためだけではなく,自分たちが金角湾に留まっている限り,皇帝コンスタンティノスから食糧の提供と毎月400ドゥカートの支払いを受けることに合意していたのである。
 ヴェネツィアの本国政府は,密かにコンスタンティノポリスを支援する一方で,オスマン帝国とも平和を保つよう全力を尽くしていた。救援依頼のため1452年11月にヴェネツィアを訪れたビザンツの使節は,ヴェネツィアはコンスタンティノポリス防衛のためある程度の海軍を出すが,他のキリスト教勢力の支援をとりまとめる件についてはローマ教皇に依頼するようにとの回答を受けた。翌年の春,ヴェネツィアの評議会はようやくコンスタンティノポリス救援の艦隊派遣を決定したが,その際にメフメト宛の使節バルトロメオ・マルチェッロも同行させて,マルチェッロはこの艦隊がヴェネツィアの利害を守るためだけのもので,オスマン人と戦うものではないとスルタンを納得させるよう命じられていた。もっとも,このヴェネツィア艦隊がどの程度の規模で,いつ頃ヴェネツィアを出港し,いつ頃コンスタンティノポリスに到着する予定であったのかは分かっていない。分かっているのは,艦隊も使節も,コンスタンティノポリスの陥落に間に合わなかったことだけである。
 他方,オスマン帝国側も,スルタンとその臣下との間に大きな考え方の落差があった。メフメトはコンスタンティノポリス攻撃を決意すると,この作戦を異教徒に対するジハード(聖戦)に仕立て上げ,コンスタンティノポリスがイスラムの地に囲まれているのに,キリスト教君主のもとに存続しているのは許せないと主張した。確かに,宗教的にはメフメトの主張に理はあった。預言者ムハンマドのものとされているハディース(格言集)では,「確かにあなた方はコンスタンティノポリスを征服することになる。この町を手にする指導者はなんと素晴らしい指導者であろう,その軍隊はなんと素晴らしい軍隊であろう」などと,コンスタンティノポリスの征服について何度か予言されていた。この予言を実現させようとして,674年から678年にかけて,そして717年から718年にかけてアラブ人(イスラム帝国)による包囲が行われ,この戦いで多くのイスラム教徒が倒れたが,その中には予言者の旗差であったアイユーブ(エユブ)も含まれており,アイユーブの墓は陸の城壁のすぐそばに当時も見ることが出来た。彼らの衣鉢を継ぐことは,全てのイスラム教徒にとって神聖な義務とされていた。
 そうは言っても,長年にわたりビザンツ人と平和的に暮らしてきた多くのオスマン人(トルコ人のほか,多くのギリシア人なども含む)にとって,メフメトによる戦争への招集は災難であった。カラジャ・ベイが城壁の外部を略奪すると,コンスタンティノス11世は報復として船を出し,マルマラ海沿岸の無防備なオスマン側の村落を襲撃させ,多くの者が殺されたか,コンスタンティノポリスに連行され奴隷として売られた。包囲に備えて都の城門が閉じられたとき,市内に閉じ込められて皇帝の命令により逮捕されたオスマン人も多数おり,彼らの大半は商人であったが,メフメトの宮殿で仕えていた宦官の集団もいた。こちらの方は,3日後にコンスタンティノスが危害を加えることなく退去させたので円満な解決を見た。オルハン皇子とその従者たちは,オスマン軍に降ってもメフメトにより殺される可能性が高かったので,ビザンツ側に立って戦うことを選んだ。オルハンたちは海の城壁の一角を防衛担当として割り当てられた。
 メフメト2世が自ら率いるオスマン軍の中にも,征服や殉教を求める狂信的な人々はほとんどいなかった。軍の一部はキリスト教徒であり,オスマン帝国の臣下であるキリスト教国の主君からオスマン軍に派遣された兵士たちであった。イスラム教徒の間でさえ,聖戦という美辞麗句を本気にした者は多くなかった。メフメトの霊的な助言者であったシェイフ・アクシェムセッティンは,スルタンに宛てた手紙の中で,軍隊の中で神に対する愛ゆえに命を犠牲にする用意が出来ている者はほとんどいないことを認め,それに代わるものとして,略奪の約束で兵士たちを動機づけるようスルタンに助言している。
 聖戦に乗り気でなかった人々の中で最も高い地位にいたのは,大宰相のハリル・パシャである。彼はその立場上戦いに参加しないわけには行かず,彼はルメーリ・ヒサーリ建設の一部分を担当し,陸の城壁に立ち向かう包囲軍の重要な部隊を指揮したが,彼がオスマン軍の全面勝利から得られるものは何もなく,むしろ失うものが多かったため,包囲における自らの任務は果たしつつもその作戦に繰り返し反対し,征服を断念するようスルタンに説き続けた。またビザンツ皇帝とも接触を保ち,スルタンの最新の計画を知らせた。これらに加えて,彼は自分の影響力を駆使し,メフメトが好きなだけ大砲を造るのをやめさせようとしたという噂もあった。
 メフメト2世率いるオスマン軍の進撃は速かったが,ビザンツ側も全力で防衛体制を整えていた。武器が貯蔵され,城壁が修復されて堀も浚渫された。ヴェネツィア人は,ブラケルネ地区の城壁が北へ湾曲している部分に新たな堀を造り,重い鉄の鎖が金角湾の入口に張り渡され,オスマン艦隊が湾に入るのを阻止した。動員できる限りの軍が,長い陸と海の城壁に沿って最も有効に活用できるよう配置された。大城壁の内最も弱い部分は,アドリアノープル門と聖ロマノス門の間,いわゆるメソテイキオン(中央城壁)地区であり,ここは大城壁がリュコス川の谷へ向かって低くなっているところで,そのため堀の向こうの高みに設置された大砲は,城壁に向けてより効果的な砲撃を行うことが出来た。メフメトが大砲でこの地区を攻撃することは容易に予想されたので,皇帝とジュスティニアーニは,選り抜きの兵士と共に自らここに陣取った。
 ブラケルネ宮殿を囲む部分も,陸の城壁が張り出しておりオスマン軍が城壁を火薬で爆破すべくトンネルを掘るには絶好の標的となるおそれがあったので,ここはヴェネツィアの代官であるジロラモ・ミノットらの持ち場となり,約1000人のヴェネツィア人はこの持ち場にヴェネツィアの国旗であるサン・マルコの旗を掲げた。このように,コンスタンティノスが防衛上最も重要な地区を,ビザンツ人の兵士たちではなくジェノヴァ人やヴェネツィア人に託したのは,偽スフランゼス年代記の脚色された記述とは裏腹に,ビザンツ人の戦意が総じて低く,コンスタンティノスも自国民の将兵よりジェノヴァ人やヴェネツィア人を信頼していたことを示唆するものである。

攻防戦の展開

 オスマン軍による砲撃は4月12日に開始された。ビザンツ側の読み通り,メフメトは攻撃に有利なメソテイキオンを活用できる聖ロマノス門に向けて4門の大砲を配置し,その中には例の「ばけもの」も含まれていた。その他,ペーゲー門に向けて3門,ブラケルネに3門,アドリアノープル門に2門といった具合で大砲が配置された。数日のうちに今回の大砲は,1422年にムラト2世が用いた効果のない大砲とは大違いであることが証明され,石の砲弾が城壁に命中するとその部分は崩れていった。4月21日には,聖ロマノス門に向かって丸一日にわたる砲撃が行われ,ひとつの塔がそっくり,両側数メートルの城壁もろとも崩れ落ちてしまった。
 ただし,大砲は決して扱いやすい武器ではなく,砲弾を装填するのが非常に難しく,しかも一発撃つと砲身が割れないよう注意深く油で冷やす必要があったため,一発撃った後次弾を撃つまでに約3時間もの時間がかかり,1日に7発撃つのがやっとであった。このような注意を払っても,大砲は危険で計算しにくい武器であり,実際に大型砲の一つが爆発し,周囲で多数の死傷者を出す事故も起きている。命中精度も悪く,「大城壁のどこか」という大雑把な目標に対しても,しばしば狙いが外れることがあった。そのため,大砲による城壁の被害は散発的なものに留まり,ジュスティニアーニは城壁の裂け目に土を入れた樽を並べて土塁とした。この土塁は城壁の塔に比べると見た目は良くなかったが,砲弾の効き目を逸らすという点ではむしろ効果的であった。土塁を大砲で攻撃しても,砲弾は柔らかい土にめり込むだけで,大した打撃は与えられないからである。
 城壁の崩壊部分に目を付けて攻撃を仕掛けたオスマン軍は,見た目こそ良くないがそれまでと同じような防御効果を持つ強力な防塁に直面し,大きな損害を出して撃退された。防衛側が城壁に設置した小型砲も大いに効果を挙げた。オスマン軍の大砲と違ってくるみ程度の大きさの弾丸しか発射できなかったが,その弾はとても速く,また攻撃してくるオスマン軍が密集していたので,一発の弾で3人のオスマン兵を殺すことが出来た。
 大砲が直ちに勝利をもたらさないことが分かったので,メフメトは艦隊の活動に期待を掛けていたようである。しかし,オスマン艦隊は数こそ多いものの急造の艦隊であったため,司令官バルトグルは金角湾の向こう側に停泊しているヴェネツィア船との戦いをためらっていた。4月20日,食糧を積んだ5隻のジェノヴァ船が,キオス島からマルマラ海を通って北上し,コンスタンティノポリスの封鎖を突破しようとした。オスマン艦隊のほぼ全軍がこのジェノヴァ船を阻止すべくディプロキオニオンから出航したが,ジェノヴァ船は大型で喫水線の上に高くそびえていたので,ジェノヴァ船の乗組員は金角湾近くで遭遇したオスマン艦隊に上から矢や銃弾を浴びせてオスマン船を寄せ付けず,そうこうするうちに風向きが変わって,ジェノヴァ船は追い風を受けて,鉄鎖に設けられた入り口から金角湾の安全地帯へと入った。
 自分の艦隊が,数でははるかに劣るジェノヴァ船にあっけなく敗北し,ジェノヴァ船を1隻すら沈めることなく金角湾への入港を許す事態に,メフメトは呆然とした。彼はこの戦いを岸から見守っていたが,自軍の不甲斐なさにひどく腹を立て,提督のバルトグルを懲戒免職とし,ハムザを後任にすることで憂さ晴らしをした。このときはオスマン軍の誰もが落胆し,シェイフ・アクシェムセッティンは,スルタンに宛てて作戦を諦めないよう促す手紙を書いている。メフメトが諦めることを本気で考えたという証拠はないものの,この段階ではオスマン軍の作戦は順調とは言えなかった。攻撃開始の前に,メフメトはフニャディからコンスタンティノポリス攻撃を止めなければマジャル軍を率いてオスマン領に侵攻するとの脅しを受けており,メフメトは当時のマジャル王国にそのような力はないと知っていたので脅しを一蹴したが,この時期にはフニャディがマジャル軍を率いてドナウ川を渡った,ヴェネツィアから艦隊がやってくる途中だなどとする噂がオスマン軍の陣営に広がっていた。
 間もなく,これらの噂は根も葉もないものであることが判明したが,戦いが長期戦の様相を呈してくると,オスマン軍が10万を超える大軍であること自体も災いとなる危険があった。春から初夏になり暖かくなると,多くの人間が集まっている場所では赤痢が発生するおそれがあり,大流行となれば包囲を解かざるを得ない事態にもなりかねなかった。オスマン軍はなお有利な立場にあったとはいえ,メフメトの成功は決して自明のことでは無かったのである。
 メフメトは事態を打開すべく,新しい作戦を考案した。大軍という自軍の利点を活かすには,陸の大城壁だけではなく,金角湾に面した海側の城壁からも攻撃を掛けるのが有効であった(残るマルマラ海側の城壁は,潮の流れが速いため攻撃には明らかに不向きであった)。1204年にコンスタンティノポリス攻略に成功した第4回十字軍は,ヴェネツィア海軍が金角湾の鎖を切って侵入し,防備の手薄な海側の城壁からの攻撃が功を奏したが,この時金角湾の鎖を切れたのは,コンスタンティノポリスの対岸にあるガラタがヴェネツィアの居留地だったからである。しかし,今回の戦いでガラタを領有するジェノヴァは中立を表明しており,しかもガラタは堅固な城壁で守られているため,金角湾の鎖を切るためにジェノヴァとの中立条約を破棄してガラタを攻撃するというのは,賢明な作戦とは言えなかった。何とかして,金角湾の鎖を切る以外の方法で,オスマンの軍船を金角湾内に入れる方法はないものだろうか…。
 こうして,メフメトは史上有名な「艦隊の陸越え」作戦を実行に移すことになった。オスマン艦隊を基地のディプロキオニオンに戻したうえで,メフメトは数千人を動員して,ディプロキオニオン港と金角湾の間にある土地を整地する作業を行わせた。続いて作業員たちは伐採した木の幹に油を塗って転として用い,最も高いところで60メートルもある整地した道を通って,合計72隻の船を人力により陸上で運んで,ガラタの城壁を迂回しつつ金角湾の奥にある海岸に滑り下ろさせた。こうした突拍子もない方法により,オスマン艦隊は金角湾の入口を封鎖する鉄鎖とヴェネツィア艦隊を出し抜いて,金角湾に進水したのである。ただでさえ人数の不足している防衛側は,こうしたオスマン軍の作戦を妨害することなど考えることも出来ず,メフメトが一体何をやろうとしているのか見守っているだけであった。そして何が起こったのか分かったとき,ヴェネツィアの水兵たちは怖れおののいた。彼らはこのガレー船が,ディプロキオニオンに残っている艦隊と一緒になってヴェネツィア船を襲うのではないかと恐れたのである。
 もっとも,こうしたヴェネツィア兵の心配自体は杞憂に終わった。コンスタンティノス11世は,金角湾にオスマン艦隊が存在する以上,金角湾沿いにある海の城壁にも守備兵を配置しなければならなくなり,既に手一杯であった防衛線はさらに伸びていよいよ手薄となり,いまや1人の兵士が2~3の胸壁を守っているという有様となった。これと対照的に,メフメトは艦隊の移動に軍団のかなりの部分を割いたものの,その間も陸の大城壁に対する圧力をほとんど緩めることはなかった。
 メフメトは数の優位を最大限に活かし,防御側を疲弊させる様々な戦術を採った。大砲が陸の城壁を打ち壊している間に,メフメトは鉱夫たちに,ブラケルネ城壁の突出部分に向けてトンネルを掘らせた。城壁の下に坑道を掘り,完成したら坑道を支えている木の杭を火薬で爆破し,坑道と共に城壁を崩そうというのである。もっともこの作戦自体は失敗に終わり,防衛側はトンネルに気付き,ルーカス・ノタラスの指揮下,トンネルの入り口に火のついた樹脂を投げ落として,中にいた鉱夫を焼き殺したのである。それでも,トンネル作戦は十分メフメトの役に立った。防衛線をさらに広げてその強さを確かめ,防衛側に休息を与えないことがメフメトの基本戦略であり,艦隊の陸越えもトンネル作戦も,メフメトによる戦略の一環として機能したからである。
 メフメトは大砲も同じ目的に用いた。包囲の間ずっと,最大の大砲で聖ロマノス門とその周辺地区を攻撃させる一方,他の大砲はあちこちに動かされた。5月5日にはガラタを見下ろす丘の上に大砲が置かれ,砲弾はガラタを飛び越えて,金角湾の鉄鎖付近に集まっていたヴェネツィア船に命中した。この作戦も目覚ましい戦果を挙げたわけでは無く,唯一沈んだ船は中立を唱えていたジェノヴァの商船だったようであり,1週間後に大砲はブラケルネに戻された。大砲は目覚ましい戦果を挙げたわけでは無いが,大砲による攻撃もまた陸の城壁を守る兵士たちを絶えず緊張させ,疲弊させた。
 さらにメフメトは,城壁の前に陣取る軍団に,声を揃えてイェニ・チェリの軍歌を歌うよう命じた。陸の城壁に立った兵士たちは,オスマン軍の天幕や装備が広がり,夜には何万もの焚火が赤く輝く光景を目の当たりにし,さらにオスマン軍の轟きわたる喚声を聞かされることになった。バルバロは,当時の状況を次のように書き残している。
「同じ夜,我々は船上で,彼ら呪われた異教徒たちがこのみじめな町の城壁のまわりで野蛮な叫びを上げているのを聞いた。トルコ軍の陣営から20キロ近くも離れたアナトリアの岸にまで届く叫びであった。(中略)カスタネットやタンバリンの音も加わって,聞いた者でなければ,信じられないような喚声であった。」
 5月に入ると,防衛側に対する圧力が効果を現してきた。ビザンツ側で内輪もめが始まったのである。ジュスティニアーニがノタラスに,何門かの大砲を城壁に運び上げるよう伝えたとき,ノタラスは理由を挙げてこれを拒否した。おそらく,いま配置されている場所の方が有効だと考えたのであろう。これに怒ったジュスティニアーニは「私が剣であなたを突きさすのを誰が止められよう?」と発言し,これにノタラスもひどく腹を立て,この揉め事は以後二人の協力関係に水を差すことになった。防衛に参加したガラタのジェノヴァ人とヴェネツィア人の間にも緊迫した睨み合いがあり,両者は互いに,相手がこの町を見捨てて船を出そうとしていると非難した。
 すべては運命だという雰囲気が,防衛側の兵士たちの間にゆっくりと広がり始めた。5月3日,ヴェネツィアの小型ガレー船が金角湾を出てダーダネルス海峡へ向かい,コンスタンティノポリス救援に向かっているはずのヴェネツィア艦隊と出会えるかどうか調べた。18日後にこの船は戻ってきたが,そのもたらした報告は,ヴェネツィア艦隊は影も形も見えないという,がっかりするような内容であった。援軍の見込みもないまま,士気の低下と疲労がひどくなった防衛側は,いまやあらゆるところに悪い予兆,不吉な前兆を見るようになった。
 5月24日の夜,コンスタンティノポリスの上空では月蝕が起こり,満月の時期であるにもかかわらず,月は三日月のような形で昇ってきた。こうした現象が単なる月蝕に過ぎないことは,コンスタンティノポリスにいた多くの人々が知っていたはずであるが,バルバロたちはそれを「コンスタンティノポリスの偉大な皇帝コンスタンティノスに,あなたの誇るべき帝国が滅亡しようとしていると伝える」警告だと考えた。この危機に直面して,ビザンツ人は導きの処女マリアのイコンを城壁に持ち込んだ。このイコンは,福音記者聖ルカがマリアを前にして描いたものと信じられており,コンスタンティノポリスが「神の母」マリアに護られていることを象徴するイコンであった。イコンは防塁に沿って厳かに行進したが,ふとしたはずみで落とされ,顔から地面に突っ込んでしまった。事態は改善されるどころか,バルバロたちが主張する運命の予言をむしろ裏付ける結果となった。
 他方,メフメトには予兆やイコンは必要では無かった。防衛側が弱体化して手薄になっており,士気も落ちていることを彼は知っていた。総攻撃に先立ち,メフメトはもう一度前回と同じ条件で町を明け渡すよう交渉を試みたが,コンスタンティノスの返答は前回と同様であった。コンスタンティノスは家臣たちからも亡命を勧められ,彼を受け容れる用意があると表明する国もあったが,彼はこうした提案も斥け,ローマ皇帝として最後まで戦うと表明したのである。かのユスティニアヌス1世の皇后テオドラが引用した『帝衣は最高の死装束である』という古の言葉に,コンスタンティノスも同意していたようである。
 メフメトは総攻撃を決意し,5月28日にオスマン軍の陣営全体でラッパを鳴らすよう命じた。その後メフメトは,数千騎の護衛兵と共に白馬で現れ,陸の城壁に沿って全軍を検分し,さらに艦隊を視察するためディプロキオニオンまで馬を走らせた。オスマン軍の陣営では真夜中まで篝火が焚かれ,音楽が奏でられて,歓びに包まれていた。真夜中になるとすべては静まり返った。翌日の夜明け前に攻撃をかけるつもりで,メフメトが兵士たちに休息を命じたのである。
 なお,偽スフランゼス年代記に記されている,この時にメフメトが行ったとされる演説の内容も一応紹介しておこう。同時代人の史料による根拠はないが,当時の状況に照らし,おそらく当たらずとも遠からずと評し得るものである。
「この町には莫大な富がある。宮殿はもちろん,貴族の館,庶民の家にも財宝が満ちている。教会にはさらに素晴らしい金銀・宝石のあらゆる宝物が納められている。それらはすべて諸君のものである。(中略)高貴な生まれの見目麗しい娘たち,汚れなき乙女たちがたくさんいる。(中略)望みとあれば彼女たちを妻とすればよい。召使にしてもよいし,売り飛ばすこともできよう。諸君は歓びも奉仕も富も得ることが出来るのだ。」
 スルタンは続けた。たとえこの戦いに倒れたとしても,諸君には天国が待っている。天国では美しい少年や少女にかしずかれて,預言者ムハンマドと宴の席を囲むのである。演説を終えたスルタンは将軍たちに持ち場を指示すると,総攻撃に備えて明日はゆっくり休むよう全軍に指示した。
 偽スフランゼス年代記によって流布されているメフメト2世の行動は以上のとおりであり,彼が略奪の利益によって兵士たちの士気を鼓舞する必要性を認識していたことを考えれば,細部の正確性はともかく,メフメトが総攻撃を前にしてこのような内容の演説を行ったとしても,特段不思議ではない。また,若いスルタンの演説が力強く猛々しいものだったとする表現も,一応首肯してよかろう。
 これに対し,防衛側もオスマン軍の動きが嵐の前触れであることは予期していたに違いないが,防衛側が総攻撃の前日である5月28日をどのように過ごしたかはよく分かっていない。仕方ないので偽スフランゼス年代記に書かれている内容を一応紹介するが,これは攻撃側と違って,明らかに真実とはかけ離れたかなり胡散臭いものである。
 同年代記によると,同日防衛側では奇蹟を求めて,処女マリアのイコンを掲げた行列が市内を進み,皇帝コンスタンティノス11世は,メフメトとは違い穏やかに語りかけるような様子で,兵士たちに向かってこう演説したという。
「いよいよ時は来た。・・・兄弟諸君,君たちはよく知っているだろう。命より大切にしなければならないものが四つある。第一に我らの信仰,第二に故郷,そして神に塗油された皇帝,最後に肉親や友人である。それらのうちひとつのためでさえ我々は命を賭けて戦う。このたびの戦いには四つすべてがかかっている。・・・もし神が我らの罪ゆえに不信心なる者どもに勝利をお与えになるなら,・・・我々は最愛の妻や子供たち,肉親とも別れなければならなくなるのである。」
一千年にわたる,いや共和制時代のローマも含めれば二千年もの長きにわたる帝国への弔辞とも言える長い演説を終えると,皇帝は涙ながらに神に感謝を捧げ,その場にいた者はすすり泣きながら「キリストへの信仰のため,故郷のために死ぬのだ!」と,声を合わせて応えたというのである。
 以上のようなエピソードがなぜ胡散臭いかを改めて説明する必要はないと思われるが,仮に黄泉の人となったコンスタンティノス11世に対しこのエピソードに対する感想を求めることが出来たとすれば,彼は「本当にこんな状況であれば,朕の苦労も余程少なくて済んだであろうし,朕の帝国もおそらくは滅亡を免れたであろう」などと苦笑するかも知れない。

5月29日の総攻撃とコンスタンティノポリス陥落

 5月29日,ついにオスマン軍の総攻撃は始まった。攻撃の計画は単純であり,数を頼みに波状攻撃を掛け,メソテイキオンで防衛側を圧倒しようというものである。オスマン軍は包囲中,大城壁の堀に土や石などを手当たり次第に投げ入れ続けていたため,総攻撃が行われる頃には,ロマノス門に面したあたりの堀は大部分が埋まっていた。この地区では度重なる大砲の砲撃によって,内城壁,外城壁ともに大きく破損しており,城壁の損壊部にはジュスティニアーニの命令で急遽柵が設けられていた。オスマン軍はこの柵を乗り越えるため,縄梯子と鉤付縄を用意していた。ただし,オスマン軍による総攻撃は,聖ロマノス門に近いメソテイキオンだけではなく,ブラケルネ地区を含む大城壁のほぼ全面で行われた。
 オスマン軍の第一陣は,従属国から集められたキリスト教徒の兵士たちであり,高い士気も忠誠心も期待できない彼らは,メフメトにとっても単なる捨て石であった。夜明け前の三刻頃にこの第一陣が攻め込んでくると,市内の至る所で鐘が鳴り響き,人々は攻撃を撃退するため城壁に急いだ。攻撃側は埋められた堀を渡り,柵をよじ登ったり城壁に取り付いたりしたが,そこで石やその他飛び道具の雨にさらされた。後ろに続いた兵士たちは,仲間の多くが死んだり負傷して倒れていたりするのを見て,怖気づき後退しようとしたが,三日月刀を抜いたオスマン兵によって,もう一度前へと押し出されただけであった。大混戦のさなか,メフメトは大砲の発射を命じ,砲弾は敵味方の区別なく多くの者を殺した。これらの補助軍団が大きな損害を出し,城壁を突破できなかったのはある意味当然であるが,それでも防衛側の抵抗を弱らせるというスルタンの目的は達成された。
 第一陣がようやく撤退を許され,続く第二陣はアナトリアのトルコ軍団から成っていた。彼らはキリスト教徒の補助軍団よりは戦闘意欲が高く,きわめて勇敢に攻撃したが,彼らもまた防衛側によって跳ね返された。数時間の戦闘が続いたこの時点で,ようやくメフメトは第三陣,オスマン軍の最精鋭部隊であり,白く高いターバンが輝くイェニ・チェリ軍団を送り出した。子供の頃から選ばれ,訓練されてきたこれらの兵士たちは,スルタンのために死ぬ覚悟が出来ていた。メフメトは彼らを率いて自ら堀の前まで進んだが,彼自身はそこで引き返し,キリスト教側の史料に依ればイェニ・チェリ軍団が「野獣のように現れて」柵に突撃し,ジュスティニアーニの兵士たちと死闘を繰り広げた。
 オスマン軍が数では圧倒的に勝っていたにもかかわらず,ここに至っても防衛側はよく持ちこたえていた。それが最終的に崩れたのは,同時代人の記録によると,極めて不運な2つの出来事によるとされる。1つは,大混戦の中で防衛側の司令官ジュスティニアーニは,胸当てを貫いた矢ないし鉛の銃弾を脇腹に受けて負傷し,彼は治療を受けるべく後方へと運ばれたが,防衛側は戦いの混乱の中で,彼に代わる司令官を任命することを誰も思いつかなかった。司令官の不在に気付いた防衛側の兵士たちは持ち場を離れて退去し始め,それに気づいた攻撃側は再結集し,柵に向かって更に激しく迫った。
 もう1つの不運は,ブラケルネ地区にある内城壁のケルコポルタという小さな出入口をオスマン軍に抑えられたことであった。コンスタンティノスは,兵士たちがより早く,かつオスマン軍に見られずに柵まで辿り着けるよう,ケルコポルタを開けるよう命じていたが,乱戦の中オスマン軍によって外城壁が突破された時点で,最後の防衛線である内城壁を守るためこのケルコポルタを閉めるという大事な仕事を,コンスタンティノスも兵士たちも忘れていたようである。
 外城壁を突破した50人ほどのオスマン兵がこの入口を見つけ,急いで通り抜けるとブラケルネ城壁の南の部分によじ登り,そこから彼らは下の柵を守っている兵士たちに銃弾や矢を浴びせ始めた。防衛線はまさに崩壊しつつあり,ますます多くの兵士たちが柵から離れだした。防衛側の兵士たちは我先にと逃げ出し,内城壁の門を通って市内に戻ろうと互いに争った。大部分の者は聖ロマノス門へと群がったが,狭い通路に多くの者が集まったので,大混乱の中で多くの者が踏まれて死んだ。更に背後からイェニ・チェリ兵がやって来て三日月刀で斬りつけると混乱に拍車がかかり,イェニ・チェリ兵はこの数週間にわたる鬱屈を今こそ晴らさんとばかり,逃げ惑う敵を手当たり次第に殺した。
 聖ロマノス門でこのような事態が生じていた一方,城壁の他の地区ではなお戦いが続いていたが,オスマン軍の侵入は,前だけではなく後ろにも敵がいることに気付いたことで初めて知らされることになった。もはやこれまでと,多くの者は持ち場を捨てて逃げ出した。クレタ島から来た水兵の一団はなお数時間にわたり戦いを続けたが,もはやオスマン軍がコンスタンティノポリスになだれ込むのを止めることは誰にも出来なかった。
 5月29日の戦闘における防衛側の死者は,戦闘員・非戦闘員合わせて約4000人と推定されており,その約半数はオスマン軍の突入に引き続く城壁での殺戮によるものであった。最も注目される犠牲者は皇帝コンスタンティノス11世であり,夕方には彼の首とされるものがスルタンの許へ届けられてその死が確認された。皇帝が死んだこと自体は間違いないが,その最期がどのようなものであったかははっきりしない。伝わっている話は,数千のイェニ・チェリ兵に最後まで立ち向かい,何度も切られて倒れたという英雄的な話もあれば,皇帝は絶望のあまり首を吊ったと言う者もおり,一目散に逃げ出そうとしたところを切り倒されたというみっともない話もあり,諸説あってどれも決め手に欠けている。
 なお,偽スフランゼス年代記の記すところでは,城壁が突破され敗戦を悟ったコンスタンティノスは大剣を抜き払い,皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると,「神よ,帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに,われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」と演説した後,親衛隊とともに自ら死に場所を求めて,押し寄せてくる敵の中へ姿を消したとされている。ここまで芝居がかった最期であったとはさすがに考えにくいが,絶望的な状況の中で2度にわたる降伏勧告を拒絶し最後までローマ皇帝として戦うことを選んだコンスタンティノスの生き様から考えると,個人的には最期まで英雄的に戦って死んだと信じて良いのではないかという気がする。
 皇帝と共に彼の廷臣や側近たちも多数死んだが,その代表的な人物はテオドロス・カリュステノスやデメトリオス・パレオロゴス・メトキテス,テオフィロス・パレオロゴスといった人物である。彼らは,「自分たちの国が奴隷状態になるのを見たくなかった」のである。特に教会合同の熱心な支持者でもあったテオフィロスは,この町が陥落した後も生きているのはまっぴらだと叫んで,前進してくるオスマン軍の中に身を投じて勇敢に戦い,最期は斧で真二つに斬られたと伝えられている。
 オルハン皇子は,町が陥落するとギリシア語が巧みに使えるのを隠れ蓑に,身をやつして逃亡しようと試みたが,残念ながら彼の顔はよく知られており,通りを走っていたオスマン兵の何人かに見咎められ,絶望して逃げ出したオルハンは,海の城壁から下の岩に身を投げて死に,もし生きて捕らえられれば待ち受けていたであろう酷い運命から逃れた。死者はビザンツ人だけではなく,バルバロは日記の中でヴェネツィア人死者の名を注意深く書き留めているが,その数はビザンツ人ほど多くなかった。
 オスマン軍による殺戮は,そう長くは続かなかった。最初に陸の城壁を越えて侵入したオスマン軍は,市内からもっと多くのビザンツ人やイタリア人の軍団が現れて反撃してくることを恐れていたので,出会う者を片端から殺しつつ注意深く進んでいたが,実際には新たな軍団は現れず,ここに至ってオスマン軍は,自分たちを長期にわたって跳ね返してきた防衛軍がいかに少数であったのかを知ることになった。城壁地区における抵抗が終わり,敵が総崩れになったことを知ると,勝利者であるオスマン軍は殺戮を止めて,まずは城壁近くの家屋敷を略奪した。
 教会や修道院も襲われた。真っ先に略奪されたのは,1403年にマヌエル2世を訪問したスペイン使節も参詣したペトラの聖ヨハネ修道院と,そのすぐ近くにあるコーラの救世主修道院である。オスマン軍は聖遺物などに関心はなく,値打ちのありそうな物を手当たり次第に奪い取った。「導きの」処女マリアのイコンは4つに叩き割られ,イコンを納めていた貴重な金の額縁が剥ぎ取られて分配された。オスマン軍のイスラム教徒たちは,どうやら聖遺物がキリスト教徒の有力者相手に極めて高く売れるものであることを知らなかったようである。略奪に参加した兵士たちの目的は金儲けであり,仮に聖遺物が金になることを知っていれば,貴重な聖遺物を無意味に叩き壊すことはしなかったであろう。
 広大な都市であるコンスタンティノポリスでは,情報の伝達に時間がかかり,城壁での戦闘に参加した者の間でも,聖ロマノス門でオスマン軍の突破を許したことが他の戦線に伝わるのに時間を要したが,戦線が崩壊すると兵士たちは自分たちが逃げることに必死になり,市民たちに対し城壁が突破されたことを知らせようとする者はいなかったようである。また,戦闘に参加しなかったコンスタンティノポリスの市民たちは,自分たちの運命が懸っているかずの攻防戦の行方に,信じられない程無関心であった。何度も強敵を撃退してきた大城壁と,この町が「神の母」マリアに護られているという伝承を過信していたのだろう。そのような伝承を信じず,賢明にもコンスタンティノポリスの陥落を予想していた者の多くは,おそらく攻防戦が始まる前にこの町から逃げ出していた。
 そんなわけで,聖テオドシア教会にオスマン軍がなだれ込んで来た時には,同教会ではまだ早朝礼拝の途中で,オスマン軍がなだれ込んで来た時,会衆派寝耳に水の状態であった。しかし,オスマン軍が略奪に夢中となって進撃の速度が鈍り,その間に敵兵接近の報せが町に広まっていった。もっとも,オスマン軍侵入の報せをコンスタンティヌス広場で最初に伝えた者は,当初自分の話を信じてもらえなかった。特別な異変の兆候も無い,いつもと同じ朝にしか見えなかったからである。しかし,さらに多くの者たちがやってきて,中には血を浴びている者もいたので,ようやく恐ろしい真実が明らかとなった。人々は慌てふためき,子供を腕に抱えて家から逃げ出した。
 三方のうち二方を海に囲まれているコンスタンティノポリスの地勢に加え,オスマン軍が陸路を塞いでいたので,市民たちが逃れる術はわずかしか無かった。聖ソフィア教会に逃げ込む者もいた。たとえ敵がこの町に侵入しても,空から天使ミカエルが降りてきて奇蹟を起こし,教会の手前で敵を撃退するという古い予言が信じられていたためであるが,もちろん奇蹟など起きず,聖ソフィア教会に逃げ込んだ者たちは間もなくオスマン軍の捕虜となった。天使よりも船を信じて,金角湾沿いにある海の城壁の門に駆け付け,波止場までたどり着いた人々もいたが,波止場に停泊している船は1隻もなかった。15隻のヴェネツィア船とジェノヴァ船は,あまり岸に近づくと危険だとの理由で,金角湾の沖に錨を降ろしており,船に乗るためには小舟でこぎ出す必要があった。小舟を持っていたのはイタリア人で,沖の船にたどり着けたのも多くはイタリア人であった。船に乗せてもらえたビザンツ人もいたが,主に名門家系の裕福な者たちであり,彼らが船に乗せてもらうために大金を支払ったことは間違いない。
 ヴェネツィアやジェノヴァの船が,自国民の救出を優先したのはある意味当然のことであるが,船で脱出に成功したのは兵士たちや裕福な者たちであり,ヴェネツィア人やジェノヴァ人でも金の無い者たちは,波止場に取り残された。ヴェネツィア船やジェノヴァ船の船長たちは,出来る限り多くの人を救出しようと正午まで金角湾で待っていたが,これ以上ぐずぐず出来ないと分かると湾の入口へ船を進め,ガラタに短時間立ち寄った後,鉄鎖を斧で断ち切って通り抜け脱出した。オスマン艦隊の追撃は無かった。防衛側の壊滅が明らかになった以上,艦隊の乗組員たちにもはや戦う意味はなく,船を海の城壁の前浜に付け,分捕り合戦に後れを取らないよう市内へ急いでいたのである。波止場に取り残された人々は,小舟に乗って何とか沖の船までたどり着こうとしたが,あまりに多くの者が小舟に乗ろうとしたので,舟は沈没し,舟に乗ろうとした人々は溺れた。対岸のガラタにたどり着いて難を逃れた者もいたが,大部分の者は為す術もなくオスマン軍の捕虜となった。
 オスマン軍の略奪は,金目の物をひととおり奪った後は,奴隷市場で高く売れる捕虜や,多額の身代金が取れそうな有力者の探索が中心となり,いわば大規模な人間狩りとなった。女性に対する強姦や性的虐待は見境なく行われた。ただ,オスマン軍の兵士たちの中には,防衛側の人間をたくさん殺してしまったことを残念がる者もいた。捕らえて売っていれば高い値段がついただろうからである。そんなわけで,3日間にわたる略奪の中でも,無意味な殺戮はほとんど行われず,逃げられなかった市民たちの大半はオスマン軍の捕虜となった。

(7)メフメト2世の戦後処理

 メフメト2世は混乱を避けて城壁外の陣営に留まっていたが,正午過ぎになって大臣や司令官たちを伴い,護衛の弓兵に囲まれながら馬に乗って聖ロマノス門から入城した。メフメトはビザンツの歴代皇帝たちと同様に,中央大路を進みアウグステイオン広場と聖ソフィア教会に向かったが,その両側には死体の山と荒らされた家や教会が続いており,さすがにメフメトも,自分の軍団が行った破壊のひどさを目の当たりにして,驚きを禁じ得なかった。彼は「何という町を略奪と破壊に委ねてしまったことか」と悲しげに叫び,涙を流したと伝えられている。とは言え,彼は敬虔なイスラム教徒としての役割を演じることを忘れなかった。メフメトは聖ソフィア教会に到着すると,馬から降り地面に顔を伏せて,一握りの砂をターバンに振りかけた。真の勝利者であるアラーに対する謙遜の所作である。その後彼は聖堂に入り,祈祷係を説教壇に登らせて,アラーの他に神はいない,ムハンマドは神の予言者であると宣言させた。
 一連の宗教的儀式を済ませると,メフメトは戦後処理に取り掛かった。彼は皇帝と亡命皇子オルハンの行方に気を揉んでいたが,2人の首が届けられ死んだと分かり安心した。主な捕虜のうち,ヴェネツィアの代官ジロラモ・ミノットと,カタルーニャ領事ペラ・ジュリアーノには,その息子たち共々死刑を言い渡した。ミノットはブラケルネ地区でヴェネツィア人守備隊を指揮しており,ジュリアーノは競馬場近くの監視塔からアウグステイオン地区を守っていたが,メフメトはオスマン帝国がヴェネツィアやアラゴン王国と正式な交戦状態になかったことから,彼らの参戦を信義にもとる行為と見做したのである。
 一方,自宅に立て籠もっていたルーカス・ノタラスとその一族に対しては,スルタンは当初極めて寛大に接し,自らノタラスの屋敷を訪問し,彼をコンスタンティノポリスの長官に任命するつもりだと明言した。スルタンは自らの支配において,反合同派であるビザンツの有力者を積極的に活用する積もりであったらしい。しかし,この計画に対して側近たちから反対の声が挙がると,まだ若いスルタンは動揺して考えを改めてしまい,数時間後には一転してノタラスとその息子たちを斬首刑に処し,他のビザンツ貴族も多くが処刑された。ノタラスの処刑が行われたのは5月30日の夕方であり,ノタラスは死に臨んで極めて毅然と振る舞い,彼は若い者が自分の死を見なくて済むよう,息子たちを先に殺してくれと頼んだと伝えられている。征服されたコンスタンティノポリスの長官に任命されたのは,ビザンツ人ではなくオスマン人のスレイマン・ベイであった。後にメフメトは再度考えを改め,地位を追われたビザンツ人支配層の取り込みを図ることになる。
 ガラタのジェノヴァ人との間では,6月1日にスルタンの側近サガノス・パシャの主導で条約を締結し,中立の見返りとしてガラタに住むジェノヴァ人の権利が保障されたが,メフメトはジェノヴァ人が中立条約を破って防衛戦に参戦したことを承知しており,執政官ロメッリーノの甥もオスマン軍の捕虜となっていた。そのため,メフメトはジェノヴァ人との条約を守る義務があるとは考えず,6月3日には早くも条約を反故にして,ガラタの防衛施設の取り壊し,ガラタから逃げ出したジェノヴァ人資産の没収などを命じた。中立政策によってガラタのジェノヴァ人が守られると信じていた執政官ロメッリーノはひどく落胆し,6月23日にはジェノヴァの本国政府に執政官の辞任を宣言する手紙を送っている。オスマン帝国の保護を得られなかったガラタのジェノヴァ人居留区は,その後自然消滅することになった。
 そしてメフメトは,コンスタンティノポリス征服でオスマン帝国のスルタンに相応しい威信を獲得することによって,ようやく憎き大宰相ハリル・パシャをお払い箱にすることができるようになった。ハリルは逮捕され,鎖に繋がれて荷車でエディルネへ運ばれた後,夏の終わりに処刑された。客観的に見て,彼が処罰される理由はビザンツ帝国への利敵行為などいくつかあったが,そもそもオスマン帝国では大宰相といえどもスルタンの奴隷に過ぎず,奴隷を処刑するのに理由付けなど必要なかった。彼の金貨12万枚にも及ぶ財産は差し押さえられ,メフメトの金庫に入った。メフメトの強い恨みを買っていたハリルの家族や友人は,喪に服することすら許されなかった。後任の大宰相には,メフメトの側近であったザガノス・パシャが任命された。
 コンスタンティノポリスの陥落に伴い,ビザンツ領であったリムノス・タソス・インブロスの島々は戦わずしてスルタンに降伏し,これらの島の人々はメフメトの怒りを買うようなことを何ら行っていなかったので,概ね従前どおりの生活を保障された。セリュンブリアもコンスタンティノポリス陥落の報を聞くと直ちに降伏し,オスマン軍による破壊や略奪は行われなかった。

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