第29話 ビザンツ人の最期

第29話 ビザンツ人の最期

(1)コンスタンティノポリス陥落の余波

 歴史上,1453年のコンスタンティノポリス陥落をもってビザンツ帝国は滅亡したと説明されるのが一般的であるが,モレアにはコンスタンティノス11世の弟デメトリオスとトマスの専制公領が残っており,トレビゾンドの大コムネノス家も健在であった。ただし,いずれもオスマン帝国の従属下にあり,コンスタンティノス11世の死後も「ローマ人の皇帝」を名乗ることはなかった。
 コンスタンティノポリス陥落とコンスタンティノス11世戦死の報は,当然ながらモレアの人々を恐怖に陥れたが,専制公であるデメトリオスとトマスは,それぞれの領地を統治するために,オスマン帝国の力を借りなければならなかった。モレアには多くのアルバニア人が移住しており,専制公たちは人的資源が増えて余裕ができると考え彼らを歓迎していたが,1453年9月にはモレアのアルバニア系住民が,マヌエル・カンタクゼノスという人物を自分たちの支配者に担いで反乱を起こし,デメトリオスとトマスは,それぞれ自分の居城であるミストラとパトラスに閉じ込められてしまった。
 この兄弟は,周辺地域に対する支配権を自力で奪回する見込みが無かったので,自分の「主君」であるオスマン帝国のスルタンに訴え出た。メフメトはこれに素早く対応し,同年12月には将軍トゥラハンの息子ウムル・パシャが少数の先遣隊を率いてアルバニア人の動きを牽制し,翌年10月にトゥラハン自身が大軍を率いてアルバニア人を撃破し,マヌエル・カンタクゼノスは命からがら逃げだした。これによって専制公たちは支配権を回復したが,スルタンへの従属は強化され,毎年の貢納も従前の1万ドゥカートから1万2千ドゥカートに増額された。デメトリオスとトマスのモレア支配は,スルタンの許容によって成り立っていることがいまや明白となった。
 しかしながら,デメトリオスとトマスはこの期に及んでも,スルタンに内緒で西欧勢力と折衝し,また互いを追い落とす陰謀を企む従来どおりの生き方を止めようとはしなかった。デメトリオスは一貫して教会合同に反対であり,また宗教問題について保守的な妻テオドラの強い影響下にあったが,その政治行動はこれまでと同様必ずしも一貫しておらず,風向きによっては親西欧的な路線を採ることもあった。トマスは親西欧路線を採っていたが,彼の政治行動も一貫しておらず,既に述べたとおり自分の支配が危うくなると,恥ずかしげもなくスルタンに援助を求めた。

西欧諸国における反応

 コンスタンティノポリス陥落の報は,西方でも大きな衝撃をもって迎えられた。ヴェネツィアでは,6月29日にヴェネツィア領ネグロポンテの代官から陥落の第一報が届き,その手紙は急いで元首の宮殿に運ばれたが,その内容は隠しきれなかった。程なく,大群衆がサン・マルコ広場に集まり,コンスタンティノポリスに近親者や財産を持っていた人々の泣き叫ぶ声が起こった。ヴェネツィア人たちは,このような大惨事を防ぐ手立てを講じなかった理由を知りたいと,宮殿に迫って怒りに満ちた叫びを上げた。ヴェネツィア政府も,既に述べたとおりコンスタンティノポリスの危機に対して対処を講じていなかったわけではないが,かつてムラト2世がテッサロニケの陥落まで約7年を要したように,当時の軍事的常識では大都市の攻略には上手く行っても数年を要するのが通常であり,おそらく当時では世界一と言ってよい難攻不落の城塞都市コンスタンティノポリスが,それまで凡庸な君主だと思われていたオスマン帝国のスルタン・メフメト2世によって,しかもわずか2か月足らずで陥落するとは誰も予想できなかったのである。
この報せはヴェネツィアから南はローマへ,北はアルプスを越えて広がった。キリスト教徒の誰もがコンスタンティノポリスの陥落を嘆き悲しみ,特に聖職者たちはメフメトとトルコ人に対する怒りの声を上げた。オスマンの脅威から遠く離れたイングランドでさえも,「気高きコンスタンティンの町がキリスト教徒から失われ,マフメットという名のトルコの君主に奪われた」と伝えられると,教会や聖堂では厳かな行列が出来,人々はトルコの敗北を祈ったのである。コンスタンティノポリスの陥落,そしてこれを陥落させたメフメト2世の台頭は,全キリスト教世界の危機であると深刻に受け止められ,緊急に対処しなければならないと誰もが考えた。
 ローマ教皇ニコラウス5世は,コンスタンティノポリス陥落の報を聞くと,コンスタンティノス11世の救援依頼にお茶を濁していた態度を速やかに改め,1453年9月に『されどキリストの教会』という十字軍教書を発布し,コンスタンティノポリス奪回の十字軍を呼び掛けた。その教書の中で,教皇はメフメトのことを「サタン・地獄・死の息子」と呼んでいる。これを受けて,ヨーロッパ各地で教会人や聖職者が十字軍を促すために筆を執り,彼らは誇張を厭わず事件の重大さを強調した。
 その結果,1454年2月,ブルゴーニュのフィリップ3世善良公とその主だった貴族たちが,十字軍に参加すると公式に誓いを立てた。互いに争いを続けていたイタリアの五大国も,同年中にローディの和を結び,イタリアの覇権をめぐる長い争いに終止符を打った。1455年11月には,アラゴン王アルフォンソ5世が要請に応じて,オスマン帝国に対し400隻の船と5万の兵を率いて向かうと約束した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1440~1493年,皇帝即位は1452年)は,フランクフルトに諸侯会議を招集し,その席上で4万の兵をマジャル王国に派遣するという提案がなされた。この時期,ローマ教皇はニコラオス5世からカリストゥス3世(在位1455~1458年)に代わっていたが,新教皇は十字軍教書の文言を実行に移し,艦隊建設費用に充てるため教皇庁の貴金属を溶かし始めた。
 このような状況下で,1456年にはキリスト教世界に朗報が届いた。1456年7月,メフメト2世率いるオスマン軍は,ベオグラード郊外でフニャディ率いるマジャル軍に手痛い敗北を喫したのである。マジャル軍を完全に侮っていたオスマン軍は2万4千もの戦死者を出したと言われた。この勝利を活かして,マジャル・ブルゴーニュ・アラゴン・神聖ローマ帝国の連合軍がこの時点で派遣されていれば,間違いなくメフメト2世は深刻な危機に陥ったであろう。
 トマス専制公は,教会合同の支持者として有名だったヨハネス・アルギュロプロスを特使として西方諸国に派遣し,アラゴンやヴェネツィアにも使節を送り,対オスマン作戦について協議した。もっとも,協議の内容はそれだけではなく,トマスはオスマン軍がモレアに侵入してきた場合,自分と家族がヴェネツィア領に避難させてもらえるか明らかにしてほしいと求め,一方ヴェネツィア側はトマスの臣下であるアルバニア人軍団がヴェネツィア領で行った略奪行為について協議の対象とすることを求めた。
 デメトリオス専制公も,この状況を見て反ラテン人という自らの立場を引っ込め,アラゴン王アルフォンソ5世との接触を再開し,自身の娘ヘレネとアルフォンソの孫との結婚を提案した。1455年12月にはトマスに対抗して,独自の使節をローマに送っていた。デメトリオスの選んだ使節はフランクリオス・セルボプロスで,やはり教会合同の支持者であった。デメトリオスとトマスの送った使節はほぼ同じ頃ローマに到着し,その後別々にフランスとイングランドへと旅をした。同じ地域から,ほとんど同じメッセージを持って相次いでやってきた2人の使節について,彼らを迎えた宮廷がどう思ったのかを伝える史料は発見されていないが,以前から互いに争っていたこの兄弟は,西方諸国との外交でも互いに協力しようとは全く考えず,むしろ互いに相手を出し抜こうと試みていたのである。
 もっとも,これらの外交的努力はすべて無駄であった。ヨーロッパに広がっていた十字軍をめぐる美辞麗句の大半は,間もなく言葉だけのものに過ぎないことが判明したからである。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は,後年「神聖ローマ帝国の大愚図」という有難くないあだ名を頂戴した,臆病で決断力に欠ける人物で,御しやすいという理由から選帝侯にローマ王(ドイツ王)に選出された人物であった。ハプスブルク家出身の彼は,帝国内における自家の地位を確固たるものにすること以外ほとんど国政に関心を持たず,キリスト教世界を震撼させたコンスタンティノポリス陥落にも関心を示さなかった。しかもドイツでは戦費調達のため教皇が課した臨時税に対する不満が高まっており,諸侯たちの間でも十字軍結成の機運は高まらなかった。
 最初に十字軍参加を表明したブルゴーニュ公フィリップ3世も,コンスタンティノポリス陥落当時56歳と老齢で指導力が次第に衰えていた上に,ルクセンブルクの領有をめぐる争いや内紛の処理などに忙しく,遠いオスマン帝国へ遠征軍を送る余裕はなかった。アラゴン王アルフォンソ5世も,自分が擁立した教皇カリストゥス3世と,イタリアをめぐる権益をめぐって争っていた。その他のカトリック君主も,軍を率いてメフメト2世に立ち向かうことはついに無かった。デメトリオスとトマスが互いに協力しようとしなかったのと同様に,西方世界の君主たちも複雑な政治的対立要素を抱えており,オスマン帝国打倒のため互いに協力しようとはしなかったのである。また,口を極めてメフメトを非難した聖職者たちと異なり,現実的な西欧諸国の君主や有力者たちはメフメトを極めて有能な恐るべき君主と見るようになり,その多くがメフメトとの直接対決を可能な限り避けようとしたという要因も大きかった。

(2)メフメト2世の第1次モレア遠征

 デメトリオスとトマスの両専制公は,西方からの大援軍が間もなくやってくると信じ込んでいたので,愚かにも1456年以降,2人ともスルタンに対する貢納の支払いを止めてしまっていた。メフメトは再三にわたり貢納の支払いを要求したが,2人ともこれに応じず貢納の未払いが3年分に及んだところで,メフメトも堪忍袋の緒が切れた。彼は両専制公の不遜な態度に怒ると同時に,アラゴン王アルフォンソ5世など西欧の有力な君主が,モレアを拠点にしてバルカン半島のオスマン領を攻撃するのではないかと恐れたのである。
 西欧の君主たちとは違って,メフメトは口先だけの人物では無かった。1458年春,メフメトは軍を率いてエディルネを出発したが,軍隊をちらつかせば両専制公も貢納を持ってくるだろうと考えていたので,行軍を急がなかった。誰も来ないと分かると,オスマン軍はコリントス地峡へ向かい,そこでようやくトマスの使節が貢納の一部を差し出し,メフメトはその金を受け取ったが,和平は自分がモレアに入ってからだとそっけなく回答した。
 同年5月,メフメト率いるオスマン軍はコリントス地峡を越え,ビザンツ側の防衛最前線であるアクロコリントスの砦を攻撃したが,天然の要害であるこの砦が大砲攻撃もほとんど効果なく容易には落ちないと分かると,メフメトは封鎖のための部隊を残し,自らモレア内部へと進んだ。メフメトの軍はほとんど抵抗を受けることなく,モレアで好き放題に町々を焼き略奪して,要塞都市を次々と占領していった。アクロコリントスとミストラの間にあるムークリの町は,メフメトの前に戦わずして降伏した。トマス専制公の拠点であるパトラスも,住民の大半がヴェネツィア領へ逃げ込んでしまったこともあって,ほとんど抵抗なくメフメトの手に落ちた。最も攻略に苦労すると思われていたアクロコリントスの砦は,専制公デメトリオスの義兄弟であるマタイオス・アサネスが70名の兵士と共に,わずかな者しか知らない絶壁の道を通って食糧を持参し救援に駆け付けていたが,アサネスは専制公からこの砦を絶対に明け渡さないよう指令を受けていたにもかかわらず,半ば飢えかけている守備兵の姿に衝撃を受け,8月6日には砦をスルタンに明け渡した。
 おそらくアクロコリントスを自ら明け渡したことが,メフメトの示した降伏条件を比較的寛大なものにした原因と思われる。メフメトはモレア地方の約3分の1を自分の支配下に置き,ウムル・パシャをその統治者に任命した。専制公たちは半島の残り3分の2の領有を許され,スルタンへの貢納を課された。しかし,コンスタンティノポリス陥落後に奴隷となったがある親切な人に身請けされ,その後専制公トマスに仕えていたスフランゼスは,アクロコリントスの割譲はモレアという身体から頭を取り除くことだと述べている。もはや,ビザンツ領モレアにはオスマン軍の進軍を止められる要害の地は無く,スルタンがその気になればオスマン軍によるモレア全土の制圧を止められるものは何もなかった。なお,メフメトはこの遠征の帰途,セルビア公国の内紛に乗じてベオグラードを除くセルビア領を制圧し,これによってセルビアは1459年に滅亡した。

両専制公による内戦とマントヴァ公会議

 専制公デメトリオスは,この敗戦により西欧との浮気をやめ,本来の親オスマン路線へと戻った。メフメトも,わざわざ自らデメトリオスの娘ヘレネと結婚すると宣言したが,これはデメトリオスとアラゴン王国との婚姻同盟を阻止する目的もあった。一方トマスは,メフメトの侵入とその後締結された条約によって,首都のパトラスを失うなどデメトリオス以上に打撃を受けたので,親ラテン路線を一層鮮明にし,兄デメトリオスに対する敵意を隠そうともしなかった。1459年1月,トマスはアルバニア人領主たちと組んで,デメトリオス及びオスマンの占領軍に対し反乱を起こし,ここに兄弟間の内戦が始まった。
この内戦は,トマスがローマ教皇からの増援(ミラノの傭兵隊長ジャノーネ・ダ・クレモナ率いる300人のイタリア人部隊)を得たこともあって一時優勢となり,デメトリオスは唯一安全な場所となったモネンヴェシアに撤退を余儀なくされ,アサネスをエディルネに使節として送り,スルタンの救援を依頼した。一方,ローマ教皇ピウス2世(在位1458~1464年)は,こうした兄弟の内戦が続いている最中の1459年,マントヴァ公会議で改めてコンスタンティノポリス奪回の十字軍を結成するよう勧告した。
この勧告により約8万人の十字軍が結成されるはずであったが,やはり世俗の諸侯は誰一人この約束を守ろうとはしなかった。神聖ローマ帝国の事情は既に述べたとおりであり,皇帝フリードリヒ3世はローマ教皇の脅迫に近い十字軍の参戦要請を受けても,動こうとはしなかった。アラゴン王アルフォンソ5世は1458年に亡くなり,その死後領土は分割され,しかも長期にわたる内乱に悩まされていたため,もはや十字軍どころではなかった。百年戦争でイングランドに勝利したフランスでは,無気力となった国王シャルル7世(在位1422~1461年)とその息子ルイ11世(在位1461~1483年)が対立しており,父の死後王位に就いたルイは「遍在する蜘蛛」という奇妙なあだ名を付けられた人物で,権謀術数の限りを尽くして近隣大諸侯の権力を減殺することに余念がなく,対オスマン十字軍には全く関心がなかった。百年戦争でフランスに敗れたイングランドは,薔薇戦争と呼ばれる王位をめぐる長期の内乱に突入しており,対オスマン十字軍に参戦する余裕はなかった。結局のところ,当時の西欧には,大軍を率いて対オスマン十字軍の指導者になれそうな君主は誰もいなかったのである。
また,対オスマン十字軍を呼び掛けたピウス2世自身も,二正面作戦という誤りを犯していた。ボヘミア王には,穏健なフス派(ウトラキスト)に属するイジー・ス・ポジェブラト(在位1458~1471年)が王に選ばれており,イジーは公会議派によりフス派の教義をやや曖昧な形で認めていた「プラハ協定」をローマ教皇にも認めてもらおうとして使節を送ったが,ピウス2世はこれを断固として拒否し,かえって「プラハ協定」の無効を宣言した。1463年に亡くなったピウス2世の後を継いだ教皇パウルス2世(在位1464~1471年)は,イジーを破門し対ボヘミア十字軍を主唱して,マジャル王マーチャーシュ1世(在位1458~1490年)にボヘミアを攻撃させた。パウルス2世以後の歴代ローマ教皇は,対オスマン十字軍の提唱もほとんど口先だけで,西欧諸国間の紛争や教皇庁内部における問題の解決,そして自分の親族を教会の要職に登用すること(ネポティズム)に強い関心を持った。
 マーチャーシュは対オスマン戦争で名を上げたフニャディ・ヤーノシュの息子であり,ラースロー5世死後の内紛の末マジャルの国王に選ばれていたが,彼は父と異なり祖国マジャルの利益を重視してオスマン帝国との正面戦争を極力回避し,国際的に孤立したボヘミアや,惰弱な皇帝フリードリヒ3世に治められたオーストリアなどを攻撃することで,ヨーロッパにおける自らの勢力拡大に治世の大半を費やした。メフメト2世も1456年のベオグラード攻囲に失敗した後はマジャル王国との戦いを避けたので,メフメトはマジャル王国にほとんど邪魔されることなく,順調に勢力を拡大することができた。
 驚くべきことに,この時代におけるヨーロッパの世俗王侯で対オスマン連合を呼び掛けたのは,異端の咎でローマ教皇に破門されたボヘミア王イジーのみであり,メフメトの挑戦を受け否応なくオスマン帝国と戦うことになったヴェネツィア共和国でさえも,ヨーロッパにおける対オスマン連合には期待しておらず,むしろイスラム教国である白羊朝のウズン・ハサンなどとの同盟に頼った。こうして,オスマン帝国はその後数十年にわたり,ヨーロッパの連合軍に脅かされることなくその勢力を広げることができたのである。

(3)メフメト2世の第2次モレア遠征とビザンツ系諸勢力の滅亡

 もっとも,マントヴァ公会議が開催された1459年の時点では,メフメト2世がこの公会議決定に基づきやがて西欧から大規模な援軍が送られて来るのではないか,ジャノーネの部隊はその先発隊に過ぎないのではないかとの懸念を抱くのももっともな事であった。そのため,当時のオスマン帝国は他にも多くの問題を抱えていたにもかかわらず,1460年4月,メフメトは自ら軍を率いて再度のモレア遠征に向かった。
 ただし,メフメトはマフムト・パシャに少数の兵を与えて先発させ,専制公トマスとその軍隊ではなく,デメトリオスの支配地域に進軍させた。マフムトはデメトリオスがミストラにいるのを発見し,実質的には捕虜としたうえでメフメトの到来を待った。5月末にメフメトがミストラにやってくると,デメトリオスはミストラの鍵を引き渡した。これは事実上,専制公の退位であった。こうして後顧の憂いを除くと,メフメト率いるオスマン軍はトマスとの戦いに向かったが,トマスはメフメトと戦おうともしなかった。トマスは当初,家族や従者と共にマンティネイアの城に立て籠もったが,オスマン軍接近の報を聞くと海岸の漁村へと逃れ,そこからヴェネツィア領のコルフ島へ渡った。メフメトは1461年までに,モレアのほぼ全域を支配下に置き,トマス専制公もその領土を完全に失った。ヴェネツィア領であるモドンとコロンを別にすれば,ペロポネソス半島では難攻不落の地モネンヴェシアのみが,ローマ教皇の保護下に入って1540年までキリスト教徒の町として存続した。
 他方,東方のビザンツ系残存勢力である大コムネノス家のトレビゾンド皇帝ダヴィドは,1460年に同盟国である白羊朝の勢力を頼みにしてオスマンへの貢納金免除を申し出た。メフメトはこの要求に怒り,1461年にトレビゾンドを包囲してダヴィドを降伏させ,トレビゾンドを併合した。ダヴィドは数年後に白羊朝との内通嫌疑を掛けられ,イスラム教に改宗していたダヴィドの息子1人を除き,ダヴィドとその一族を処刑した。以上により,ビザンツ系諸勢力は1461年までにメフメト2世によってすべて滅ぼされ,以後ビザンツ帝国が蘇ることは無かったのである。

パレオロゴス一族のその後

 ところで,コルフ島に亡命していたトマスは,オスマン帝国との争いを恐れた島の長官からあまり歓迎されず,自分の受け入れ先としてラグーザに探りを入れてみたが拒否された。その後,スルタンから友好条約を締結するなら領土を与えるとの親書が届いたので,トマスは二股をかけて廷臣の一人をメフメトの許へ送る一方,もう一人をローマ教皇の許へ派遣して自分の苦境を説明させた。もっとも,メフメトに送った使節は数日間投獄され,トマス自らスルタンの許へ出頭するか子供たちを何人か送るようにとの厳しい指令を受けたので,最終的にトマスはローマ教皇の情にすがることにし,1461年3月にトマスはローマに到着して,ローマ教皇ピウス2世から,毎月300ドゥカートの年金と,カトリック信仰のために熱意を示した君主に与えられる「黄金の薔薇」という爵位を贈られた。
一方,デメトリオスはエディルネで妻子と共に暮らし,スルタンから多くの贈り物と家計への援助として幾らかの税収を与えられたが,その後塩田からの収入を不正に処理したと告発されて収入を止められ,彼が街角で立って物乞いをしている側をメフメトが通りかかったとき,ようやく何とか生きて行けるだけのわずかな年金を与えられた。デメトリオスは,1470年頃エディルネで修道士として死んだと推測されているが,娘のヘレネは結局誰との縁談も実現しないまま,その少し前に亡くなっている。
 他方,ローマへ亡命したトマス一家の運命も安泰とは言えなかった。トマスは1465年に亡くなり,彼の死後数週間して,父から呼び出されていた年下の3人の子供,アンドレアス,マヌエル,ゾエがコルフ島からローマに到着し,教皇は当時12歳のアンドレアスに,トマスの後継者としてモレア専制公と名乗ることを認め,父と同額の年金を彼に与えた(なお,トマスの長女ヘレネは,1458年に夫のセルビア専制公ラザルに死なれ,1459年にセルビアがオスマン帝国に滅ぼされるとギリシアのロイカス島へ逃れ,そこでカトリックに改宗して修道女となり,1473年に亡くなっている)。子供たちの教育と扶養はギリシア出身のベッサリオン枢機卿に委ねられ,ベッサリオンは1472年にゾエをモスクワ大公イヴァン3世(在位1462~1505年)と結婚させた。
 もっとも,ベッサリオン枢機卿はその年の11月,フランスへの特使としての任務の帰途で死去し,彼の庇護を受けていたビザンツからの亡命者たちは路頭に迷うことになった。パレオロゴス朝の生き残りであるアンドレアスとマヌエルの兄弟もその例外ではなく,イタリア戦争に巻き込まれた教皇庁は,ただでさえ十分な額でなかった年金をさらに減額していった。トマスの長男アンドレアスは,ひどい借金と「度が過ぎた恋愛や遊蕩」で数々の不祥事を起こし,彼の行動は「皇帝とは思えない」と非難された。彼は1480年にカテリーナという女性と結婚したが,彼女の氏素性は明らかでなく,「ローマの街の女」(娼婦)と結婚したと噂され,これも非難の対象となった。
 貧乏に耐えかねたアンドレアスは1490年にローマを去り,ヨーロッパの君主たちに金を無心するための旅に出た。彼はまず,妹のゾエ(ソフィヤと改名していた)が嫁いでいるモスクワへ行き,翌年にはフランスへ行き,更にイングランドへと旅した。アンドレアスはもはやモレア専制公と呼ばれることに満足せず,自ら「コンスタンティノポリスの皇帝」と称し,双頭の鷲の紋章で手紙に封印をしていた。その一方で,自称皇帝とその従者たちは絶望的なその日暮らしをしており,カモになりそうな成り上がり者に何の値打ちも無い称号を売ったり,妹の宝石を「借り」たりして糊口を凌いでいた。アンドレアス一行はどこでもさほど歓迎されず,イングランドでは適当な金額と引き換えに体よく追い払われた。1494年には,「コンスタンティノポリスの皇帝」という称号すらも,4300ドゥカートの年金の約束と引き換えに,フランス王シャルル8世に売ってしまった。
 アンドレアスから皇帝の称号を買ったフランス王は,フランソワ2世の時代まで一応この称号を使い続けたが,この称号を積極的に活用しようとはしなかった。シャルル9世は1566年,「コンスタンティノポリスの皇帝」という称号はフランス王より権威ある称号では無いとして,この称号を使うことも止めてしまった。オスマン帝国の支配下にあるギリシア人の中には,フランス王が皇帝の称号を買ったと聞き,フランスがオスマン帝国打倒の兵を挙げるのではないかと期待するものも若干いたが,そのような期待は間もなく裏切られることになった。
 皇帝の称号を売っても,アンドレアスの生活はさほど改善しなかったようである。彼は1502年にローマで死んだが,ローマ教皇が善意で葬儀費用を出してくれなければ,彼は危うく貧民墓地に葬られるところであった。彼はサン・ピエトロ教会で父トマスの隣に葬られたが,その墓碑らしきものは残っていない。仮に造られていたとしても,1530年代ないし1540年代のサン・ピエトロ教会の取り壊しと再建の際に無くなってしまったのだろう。
 アンドレアスの行動はビザンツ皇帝の孫とは思えないみっともないものであり,当時においても後世になっても彼に同情する者はほとんどいなかったが,そのすべてが彼の責任というわけではなく,また彼の行動は,同情を求めて西欧諸国を歴訪した祖父のマヌエル2世,自分のものでもないコンスタンティノポリスの領有権をフランス王に売ろうとしたヨハネス7世といった,末期のビザンツ皇帝たちが取った行動と本質的には変わらないものであった。
 トマスの次男マヌエル(1455年生まれ)は,少年時代の大半をコルフ島とローマで暮らしていたが,成人すると貧しさから逃れようとして,兄のアンドレアスより早くローマを離れ,ミラノ公やブルゴーニュ公に兵士として仕えたいと申し出たが,満足のいく地位が与えられなかったためローマへ戻った。しかし戻ってみると,彼がローマを離れたことを理由に,年金は更に半額に減らされていた。絶望したマヌエルは,1476年春にオスマン帝国の首都となっていたコンスタンティニエ(旧コンスタンティノポリス)へと向かったが,スルタンのメフメト2世からは歓迎を受け,収入源としていくらかの領地と1日100アスペルの軍務給料,そして2人の女奴隷を与えられた。彼は余生をコンスタンティニエで幸せに暮らし,女奴隷との間には2人の息子が生まれ,1512年に亡くなるまでキリスト教徒であった。
 なお,ビザンツ帝国最後の王朝であるパレオロゴス家の正統な末裔とされる家系は,現在では存続していない。

ヴェネツィアとジェノヴァの運命

 メフメト2世は,コンスタンティノポリス陥落に伴い捕虜となり奴隷となっていた修道士ゲンナディオスを,コンスタンティノポリス総主教に任命し,彼は総主教ゲンナディオス2世を名乗った。メフメトは,ゲンナディオス2世即位の儀式において,従来ビザンツ皇帝が行っていた役割を果たしさえした。ゲンナディオス2世はその返礼として,メフメト2世にカイセリ・ルーム(ローマ皇帝)の称号を贈った。なお,メフメトがゲンナディオス2世を総主教に任命したのは,彼が熱心な教会合同反対派であることを知っており,オスマン帝国がキリスト教徒のギリシア人を支配し続けるには,東方正教とローマ・カトリックの教会分裂が継続し,両者の対立が続いていた方が好都合だと判断したためである。
 カイセリ・ルームの称号を贈られたメフメト2世は,ビザンツ帝国の正統な後継者を自認し,ビザンツ帝国の旧領を支配していたヴェネツィアに対し,旧ビザンツ領の「返還」を要求し,ヴェネツィア領やジェノヴァ領の島や土地を軍事力で「奪還」した。長年ビザンツ帝国の許でレパントの商業を牛耳ってきたヴェネツィアとジェノヴァは,コンスタンティノポリス陥落に伴い貿易上の特権を失ったほか,1475年にメフメト2世がクリミア半島に艦隊を派遣しクリミア・ハン国を臣従させた際,クリミア半島における貿易拠点も一掃され,エーゲ海方面における多くの拠点もオスマン帝国に奪われた。
 ヴェネツィアは1479年にオスマン帝国と講和し,地中海における実力をなお保持したが,ジェノヴァは内紛の影響もあって15世紀後半には国家自体の独立性が事実上失われ,ジェノヴァ人たちは新天地を求めて他国へ出ざるを得なくなり,彼らの優れた航海技術は大航海時代の大きな原動力となった。ジェノヴァ人クリストフォロ・コロンボ(コロンブス)は,1492年にスペイン王家の援助を得て大西洋横断を実現している。

<幕間32>ビザンツ人はなぜ蘇らなかったのか?

 以上のとおり,ビザンツ人は1453年に「滅亡」を経験したが,ギリシアないしビザンツ人を越えて世界最長の文明を誇る中国人も,一度明らかな「滅亡」を経験している。
 13世紀後半,中国系の王朝である南宋はモンゴル帝国に滅ぼされ,これにより中華帝国は明らかな外国勢力による滅亡を迎えたが,約1世紀の後に中華帝国は早くも蘇った。宋国は後期のビザンツ帝国と多くの点で類似しており,共に軍事的には弱体であり,その経済的繁栄と伝統的な自国の学術文化を誇りとしていたが,民衆に重税を課し知識人たちの唱えていた愛国心は民衆に伝わらず,最後は自滅的な内紛の末に滅亡している。
 しかし,モンゴル帝国に征服された中国の知識人たちは,モンゴル帝国から徹底的なまでに冷遇されたこともあり,『十八史略』に代表される一般大衆にも理解できる内容の歴史書を著し,中国史を彩る数々の登場人物を題材にした大衆向けの芝居や読物の類を書き,民衆の中華帝国に対する愛国心を熱心に育んだ。
 そして,モンゴル帝国の政情が不安定となり弱体化すると,民衆はモンゴル帝国の支配に異を唱えて反乱を起こし,ついにはモンゴル人を北方に追い返して中国系の明王朝が成立した。そして,モンゴル帝国が中国人に配慮して「大元大モンゴル帝国」と自称していたのを良いことに,南宋はモンゴル帝国ではなく元に滅ぼされたという,あたかも単なる王朝交代であるかのような説明が好まれ,中国は現在に至るまで四千年の歴史を有すると自称しているが,実際の歴史にはこのような「中断期」が存在し,この中断期を挟んで中華帝国の性格も相当に変化しているのである。
 パレオロゴス朝ビザンツ帝国が「なぜ」滅んだかを説明するのは容易だが,長い歴史を有するビザンツ帝国が「なぜ」滅んだかを説明するには,1453年までの経過を説明するだけでは不十分であり,中華帝国のような復活がなぜ出来なかったかを併せて説明しなければなるまい。
 理由の第一は,南宋を征服したモンゴル帝国が,モンゴル人至上主義を唱え被征服者を蔑視するあからさまな圧政者であり,しかも後継者争いで早期に弱体化したのに対し,ビザンツ帝国を征服したオスマン帝国は,被征服者に対し寛容に接し従来の信仰を保障したのみならず,メフメト2世の後もセリム1世,スレイマン1世といった世界史に名を残す名君を輩出して最盛期を迎え,そうした名君の系譜が途絶えた後も約1世紀にわたる「安定期」が続き,なかなか弱体化しなかったことである。
 理由の第二は,旧南宋の知識人が野に下って民衆向けの教育啓発活動を続けていたのに対し,旧ビザンツ帝国の知識人は祖国に残って民衆向けの作品を書くのではなく,その多くが豊かなイタリアへ渡って職を探す道を選んだことである。コンスタンティノポリス陥落の悲劇を伝える作品も,ギリシアではなくイタリアで書かれた。そのため,19世紀になって顕在化した自分たちの文明的祖国ギリシアを復活させようという動きは,ギリシア人よりむしろイタリア・ルネッサンスの影響を受けた西欧人の間で活発化するという奇妙な現象が起きた。そのため19世紀にオスマン帝国から独立して成立したギリシア王国も,ギリシア人の意向よりは欧州列強諸国の意向が重視され,ビザンツの継承国家とは言い難い存在になってしまった。
 理由の第三は,ビザンツ人(ギリシア人)の多くが自らの拠り所を国家ではなく宗教に求め,ビザンツ帝国が滅んでも,自らの純粋な信仰が維持されればそれで良しとしたことである。ビザンツ帝国と,自らはローマ人であるという奇妙なアイデンティティを失ったギリシア人は,もちろんイスラム教に改宗し抜けていった者も少なからずいるであろうが,オスマン帝国の許で存続を許されたコンスタンティノポリス総主教やアトス山に象徴される正教を守り続け,これは現在でも存続している。中華帝国には,このギリシア正教に相当するような要素は無かった。
 以上のような理由により,ビザンツ帝国は1453年に滅亡したことが自明の理とされ,中華帝国のように,ビザンツ帝国が形を変えてなお存続しているとの強弁は試みられることも無かったのである。

<『ビザンツ人の物語』終幕>


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