第4話後編 アドリアヌーポリ陥落

第10章 新しい陣容

 世界暦6756年3月。僕がビザンティン世界に召喚されて,約3年半になる。
 僕は、ヨーロッパ側のトラキア地方で唯一ラテン人側に残っている、アドリアヌーポリを攻略するため,動員可能なほぼ全軍を集め,ガリポリを出発した。

 ここで、第2話段階から、帝国軍の陣容がどのように変化したのか、一応まとめておくことにする。

 戦闘斧と剣で戦う、勇猛なヴァリャーグ近衛隊については、新規の雇い入れもあって,人数は約4000人から約5000人に増えた。
 第1部隊は,近衛隊長のマヌエル・ラスカリス将軍自ら率いる、親衛隊の約1000人。
 第2部隊は、将軍の長男テオドロス・ラスカリスの率いる、約1000人。
 第3部隊は、将軍の次男イサキオス・ラスカリスの率いる、約1000人。
 その他の2千人は、これを500人ずつの小隊に分け、バルダス・ベッコスの兄弟と、イングランド人のジョフロワ、ノルマン人のギヨームがそれぞれ率いている。この点は従来から変化なし。

 主に長槍を用いて戦う、主にギリシア人で編成されるファランクス隊については、志願兵を受け容れたことによって、人数が約4400人から約5000人に増えた。
 司令官については、従来アレスとネアルコスが指揮を分担してきたが、ネアルコスが海軍提督に転任して抜けたため、アレスがファランクス隊の司令官を務める。
 ネアルコスの穴埋め役を務める副司令官には、ロシアからやってきたドミトリーという軍人を起用した。ドミトリーは、キエフがモンゴル軍の攻撃を受けた際、キエフ防衛の総司令官を務め、敗れはしたものの、総司令官のバトゥからその健闘を称えられて釈放されたという人物である。ドミトリーは、その際主君のダニール公がキエフに援軍を送らなかったこともあって主君と仲違いしたらしく、昨年ダニール公の許を離れ、部下を連れて仕官を求めてきた。
 ドミトリーは、年齢40歳ほどのベテラン軍人であり、若手の将校が多い僕の直属軍にとってはいい刺激にもなるだろう。 
 また、ファランクス隊は状況によって色んな戦い方が出来るよう訓練されているので、状況によっては分割する必要も生じるということになり、約1000人ずつの部隊に分け、アレス自ら率いる第1部隊、ドミトリー率いる第2部隊以外には、それぞれ千人隊長を置いている。

 同じく、主に長槍を用いて戦う部隊として、主にトルコ人で編成されるムハンマド常勝隊が新たに結成された。民族と宗教に配慮して名前を変えただけで、役割はファランクス隊と特に変わらず、訓練の内容も同じである。兵数は約3000人で、司令官はメンテシェ、副司令官はヒジール・ベイ。
 このムハンマド常勝隊も、約1000人ずつの部隊に分けてあり、第3部隊については千人隊長を置いている。

 アンドロニコス・ギドス率いる弓隊については、トルコ人などの弓隊を加えた結果、人数が約900人から約1500人に増えた。弓の扱い方に特化した訓練を行っているので、射撃の速度や精度は以前よりかなり上昇している。弓騎兵のような機動力は無いが、射撃速度は弓騎兵より速く、連射により敵の進撃を食い止めることが出来る。

 これに加えて、ジュアン・ムンタネーという人物が率いる、カタルーニャ人の傭兵隊約1000人も雇い入れた。彼らは、連射こそ効かないが騎士をも一撃で倒す重石弓の扱いに優れる一方、状況によっては投げ槍や短剣を用いて俊敏に戦うことも出来るという。ちょっと凶暴そうなのが気になるが、お試しのつもりで雇ってみることにした。彼らも、ギドスの弓隊と併用する方針。

 軽騎兵隊から再編成された、マヌエル・コーザスと副将のユダ・ガーロスの率いる特殊部隊は、約700人から約1000人に増えた。部隊名については色々考えてこじれた結果、どうせ闇の仕事を請け負うんだからということで、結局『暗黒騎士隊』に落ち着いてしまった。

 ティエリ・ド・ルース率いる騎士隊の約600騎、腹心のティボー率いる従士隊約1400人については、特に変化なし。

 最も人数が増えたのは、弓騎兵隊である。
 ダフネと副将シルギアネスの率いる、クマン人の弓騎兵隊については、新たに雇い入れたクマン人兵士を組み入れた結果、約2000騎から約3000騎に増えた。僕の直轄軍ではあるが、彼らは普段マイアンドロス河畔の領地で狩猟や遊牧をして暮らし、戦争になると移動拠点を使って馳せ参じて来る。
 ダフネの領地には、ダフネ村という小さな村が出来、移動拠点はこの村に作られている。

 オスマンの率いる、アナトリア北西部に住むトルコ人の弓騎兵隊が約2000騎。彼らも普段は遊牧生活を送っており、戦争になるとソユト村の移動拠点から馳せ参じて来る。なお、族長のエルトゥルルは、トルコ側の動きに備えるため、ソユトで留守居役を務めている。
 エルトゥルル自身の配下は数百騎に過ぎなかったが、エルトゥルルの呼びかけで寝返った他のトルコ人諸侯を含めると、かなりの数になったのだ。

 そして、かつて戦場となったアフロディスアスの砦を拠点とする、ジャラール率いるトルコ人の弓騎兵隊も約2000騎。アフロディスアスの戦いで捕虜になった兵や、その後トルコ人の国から亡命してきた兵士たちで構成されている。弓騎兵隊の中では寄せ集めの部隊だが、今のところジャラールは上手くまとめているようだ。

 これらの弓騎兵隊については、他の直轄軍のようにニュンフェイオンで常駐しているわけではなく、普段はそれぞれの領地で遊牧生活を送り、戦争になった時だけ招集するというシステムを取っているが、これは彼らの生活様式に配慮したものである。
 遊牧民の弓騎兵にとっては、毎日の生活が軍事教練みたいなものなので、戦争のない時は遊牧生活をさせていた方が、質の維持に役立つ。また、給料を払うのは基本的に戦時だけで済むので、維持費の節約にもなるというわけである。

 以上が、僕の直轄下にある軍の全容である。総兵力は約25,500人にまで増えた。


 これに加え、ヨハネス・ヴァタツェス将軍や、コンスタンティノス・パレオロゴスといった貴族たちの私兵、合計約5000人も加わっている。なお、マンカファースとその狂信者軍団については、連れてきても役に立たないので、トレビゾンドのアレクシオス・コムネノスと同様、動員の代わりに軍役免除税を支払わせることにした。

 総兵力は3万人余り。投石器などは意味が無いので持参しなかったものの、騎兵が多くなったことから馬の世話をする馬丁係なども必要になり、随行する非戦闘員の数も約8千人にのぼった。


「ちょっと待って、みかっち」
「何? BL小説の相手方になりそうな人はこの中にはいないよ?」
「何よBL小説って!? どうして急に訳の分からないことを言い出すのよ!?」
「・・・だって、君が話を振られた時は必ずボケろって言うから。それと、BL小説っていうのは、テオドラが書いている『聖なる愛の物語』のこと」
「今は、真面目な話をしようとしているのよ! ボケるのは時と場合をわきまえなさい!」
 ・・・ボケろと言ったりボケるなと言ったり、注文の多い皇女様だ。それでも、テオドラにしては珍しく、真面目な話をしようとすることは、少しは教育の成果が出て来たのかも知れない。
「真面目な話をしたいというのなら、どうぞ」

「確か、マヌエル帝の動員できた兵力が、同盟軍を合わせて2万5千人くらいだったでしょ。まだ、みかっちは帝国の半分くらいしか回復していないのに、どうして3万もの兵力を動員できるの?」
「・・・さあ。それは僕に聞かれても、マヌエル帝時代の状況をそこまで詳しく知っているわけじゃないから。少なくとも現状では、資金的に特に問題なく維持できる兵力なんだけど」


 僕も答えに詰まるテオドラの問いに答えてくれたのは、パキュメレスだった。
「あの・・・。私で宜しければ、皇女様のご質問にある程度はお答えできると思いますが・・・。ほとんどは、お師匠様から聞いた受け売りの話になってしまいますが」
「パキュメレス、それでいいから説明してあげて。あと、その話は僕も参考として聞きたい」

「殿下が、このローマ帝国を地中海世界の強国にしたマヌエル帝の時代より、多くの兵力を動員できている理由については、まず帝国の収入面に関する理由が挙げられます。確かに、皇女様が仰るとおり、現在殿下が手中に収められている領土は、マヌエル帝時代の半分程度に過ぎませんが、収入は既にマヌエル帝時代をやや上回っているのです」
「なんで収入がそんなに多いのよ」
「理由の1つは、ジェノヴァからの財政援助に加え、ヴェネツィアとも有利な条件で講和を結ぶことになったため、かなりの額の貢納金が国庫に入るようになりました。このような収入は、マヌエル帝の時代にはありませんでした」

「・・・つまり、あたしのおかげってことね!」
「・・・テオドラが1人でヴェネツィアの交易船団を殲滅したことが有利に働いたことは確かだから、一応否定はしないけど」

 そうしたテオドラや僕の反応をよそに、パキュメレスの説明は続く。
「理由の2つ目は、マヌエル帝の時代を含め従来のローマ帝国には、農業政策や商業政策で国庫収入を増やそうという発想自体がほとんど無く、特に交易で利益を挙げるなど、ローマ人の皇帝がすることではないと考えられていました。
 殿下はそうした方向性を改め、お師匠様の主導下で交易活動を積極的に推進されたほか、既に3つの定期交易船団を開設され、国家としても交易品の積み荷に投資したり、交易活動を行いたい商人に融資をしたりすることで、かなりの利益を挙げています。
 農業政策については、税収増という成果が出るまでにあと3~4年はかかると思いますが、殿下が農業における神聖術の使用を全面的に解禁されたこともあり、今のところ入植作業は極めて順調に進んでおり、数年後には直轄地からの税収が数倍程度に跳ね上がるだろうということです」
「・・・みかっちって、そんな商人みたいなことやってるの?」
「確かにやってるよ。海軍を増強し、聖なる都を早く奪還するためには、手段を選んでいる余裕はないからね」

 ちなみに、現在帝国が開設している定期交易船団は、次の3つである。
 第1は、スミルナからロードス島、通商条約を結んでいるキリキア・アルメニア王国の港町タルソス、キプロス島のファマグスタ、シリアにあるエルサレム王国の港町アッコン、エジプトのアレクサンドリアなどを回って、クレタ島を回ってスミルナに戻ってくる、通称エジプト船団。
 エジプト船団は、一番大きな利益が期待できるルートだけど、ヴェネツィアが開設している交易船団との競争が激しく、シェアはヴェネツィアが8割、ジェノヴァとビザンティン帝国を合わせてようやく2割といったところである。また、イスラムの海賊に攻撃される危険も高いため、海軍提督ネアルコス・エウロスの率いる帝国海軍が護衛に付いている。

 第2は、スミルナからアビュドス、聖なる都を経て、モンゴル帝国領である黒海北岸のターナまでを往復する、通称黒海船団。
 北方の地から入ってくる琥珀、毛皮などはイスラム圏で高く売れる上に、モンゴル帝国領となったことにより遠く東の中国からも商人が訪れるようになったので、今後高い成長性が期待できるルートである。
 黒海方面の貿易は、つい数年前までギリシア商人の独占状態にあったため、エジプト船団と異なり、今でもヴェネツィアやジェノヴァの商人より優位に立っており、シェアはビザンティン帝国が6割、ヴェネツィアが3割、ジェノヴァが1割といったところ。
 ただし、黒海船団で入ってくる一番の売れ筋商品が、モンゴル軍の捕虜になったブルガール人やクマン人の奴隷というのは、ちょっと悩ましいところではある。
 こちらも護衛艦隊は付いているけど、往復距離が短いこともあり、エジプト船団ほどの危険はない。黒海船団は他の方面と違って年2回航行しており、船団以外にも商船の行き来が結構あったりする。

 第3は、スミルナからクレタ島、モドーネやコローネなどヴェネツィアの領有を認めている港を経て、フリードリヒ2世の治めているメッシーナ、パレルモ、ナポリを経て、ピサ、そして同盟国のジェノヴァに至る、通称イタリア船団。
 イタリア船団は、ジェノヴァやピサとの共同事業であり、護衛の帝国艦隊も一応付いているものの、護衛の主力はジェノヴァ艦隊に委ねている。
 エジプト船団が運んでくる胡椒などは、イタリアでは飛ぶように売れる。また、イタリアの諸都市で作られた品質の高い武器や鎧、絹織物やガラス製品などの工芸品が輸入され、これらはエジプトやモンゴル人などに高く売れる。その他、ジェノヴァは西方世界に広い商圏を築いているジェノヴァ商人たちの拠点であり、西欧などの各地から様々な商品が入ってくるため、そうした品々との取引も行われる。
 なお、国産でもイタリア製に負けないものが作れるよう、帝国内ではイタリア製の商品を参考にして、手工業の技術革新も急速に進められている。


「そして、税収面以外に3つ目の理由として挙げられるのは、国家財政に関する考え方の違いです。マヌエル帝は、多くの家臣たちにプロノイアと呼ばれる免税特権付きの土地を与え、非常に気前の良い皇帝として讃えられることを好まれる一方、帝国の歳入を増やすことには、全くと言ってよいほど関心がありませんでした。
 それに対し殿下は、『最もケチなギリシア人』だの、『ミダス王の生まれ変わり』などと非難されることも厭わず、反抗的な貴族から容赦なく土地を没収したり、一方で民衆の生活を脅かすことなく、帝国の歳入を増やすことに専念して来られました」
「確かに、みかっちってドケチだからね。あたしのドレスでさえ簡単には買ってくれないし、教会に財産を寄付するくらいなら死んだ方がマシだとか言ってるし」
「まあ、それも自覚的にやっていることだから否定はしないけど」

「4つ目の理由は、神聖術を使った移動拠点の積極的な活用です。殿下は、帝国各地の要所に移動拠点を構築されており、これによって多くの軍を極めて短期間で招集することができます。
 また、移動拠点の設置されている地域に外敵侵入などの変事があれば、すぐさま大軍を率いて駆け付けることが出来ます。これにより、国境地域などの防衛隊は、治安維持や警戒などに必要な最小限の人数で済んでいます」

 今まで特に強調して来なかったが、確かに移動拠点の活用はかなり大きなメリットがある。
 以前、モンモランシーの旧部下だったジョフロワ小隊長から聞いた話によると、当時アビュドス伯だったマチウ・ド・モンモランシーは、ビザンティン帝国に移動拠点というものがあることを知らず、僕がスミルナで海戦を始めようとしているという報告を聞いてこれを好機と考え、その隙を突いて防衛が薄いと勘違いしたキジコス方面の領土を掠め取ろうとしたのだという。
 ジョフロワは僕に降伏した後、ビザンティン帝国に移動拠点というものがあることを知り、なぜモンモランシーらの予想に反し、僕の率いる帝国の本軍が降って沸いたようにキジコス方面から出撃してきたのか、そのとき謎がようやく解けたと語っていた。
 ちなみに、今年のエジプト船団にプルケリアは同乗していないが、各交易船団の旗艦には移動拠点が設置されているので、交易船団が海賊などの襲撃を受けたときは、直ちにプルケリアや他の術士を派遣して対応できるようになっている。


「マヌエル帝の時代には、移動拠点を使う神聖術は無かったの?」
「術自体は存在しましたが、移動拠点を帝国の各地に配置して、効果的に活用するという発想はありませんでした。ですから、マヌエル帝がイコニオンに攻め入る時も、帝国各地に相当程度の防衛部隊を残す必要があり、帝国軍のほぼ全軍を動員するといったことは出来ませんでした。移動拠点を戦略的に活用するという発想を初めて実行に移されたのは、マヌエル帝の死後に帝位に就かれ、ご自身も青学派の博士となられた、アンドロニコス帝です」

「でも、たしか聖職者の反対に遭って、移動拠点の活用は、アンドロニコス帝の死後は取りやめになっちゃったんだよね?」


「いえ、確かにアンドロニコス帝は、神聖術を乱用する者として激しい非難を浴びましたが、移動拠点については聖職者や修道士の多くも、その有用性を理解していたそうです。
 お師匠様の話によると、アンドロニコス帝時代の修道士が、

『これからは馬車や船などでなく、移動拠点を使って、労することなく世界を旅することのできる時代が来るだろう。父なる神の御業は偉大である』

などと書き残していた例もあるそうです。ですから、聖職者の反対が閉鎖の理由ではありません」


「じゃあ、なんで閉鎖になったの?」
「アンドロニコス帝が殺され、コムネノス王朝の傍系に過ぎないイサキオス帝が帝位に就かれると、帝国の各地で反乱が起こり、移動拠点は反乱軍に活用される危険性の高いものになりました。
 お師匠様が当時の記録を確認したところ、アレクシオス・ブラナス将軍が反乱を起こし、聖なる都に向かっているとの報を聞いたイサキオス帝は、ブラナスの軍が移動拠点を使って聖なる都の城壁内に攻め込んでくることを恐れ、直ちに帝国内における全移動拠点の閉鎖を命じたそうです。

 ブラナスの反乱が鎮圧された後も、帝国では反乱が相次いだため、その後も移動拠点の閉鎖が解かれることは無く、そのためアンドロニコス帝の20年以上にわたる統治により、移動拠点に多くを依存するようになっていた帝国の地方統治は一挙に機能不全となり、お師匠様は、それもイサキオス帝の統治が上手く行かなかった原因の1つだろうと仰られていました。
 聖職者たちの反対で移動拠点が閉鎖になったというのは、突然すべての移動拠点が閉鎖された理由の説明がなかったため、その後術士たちの間で広まった俗説だろうとも仰られていました」

 そうだったのか。かつて、僕に神聖術の基本講義をしてくれたプレミュデス先生も、移動拠点が閉鎖された本当の理由を知らず、そういう俗説を信じていたわけね。


「そして、最後の5つ目に支出面の問題があります。現在の支出は、殿下の直轄軍に対する給料などの軍事費が半分以上を占めていますが、マヌエル帝の時代には、むしろ軍事費より宮廷費の支出が多かったのです」

「宮廷費って何?」
「聖なる都には、『大宮殿』と総称される帝室用の豪華な建物群や、皇帝陛下やその一族が住まわれるブラケルナイ宮殿がございました。大宮殿の建物には、当時から使われなくなっていたものもありましたが、いずれも国家の威信を高めるための豪華な建物でしたので、その維持や修繕には莫大な費用がかかり、宮殿で働く使用人の数も、衛兵などを含めれば1万人を超えていたそうです」

「・・・そんな贅沢のために、軍事費以上のお金をつぎ込んでいたの?」
「外交使節を盛大にもてなし、帝国の威信を見せ付けて、帝国の味方となる勢力を増やす目的もありましたので、単なる贅沢とは言い切れないのですが、マヌエル帝は派手好みな方で、ちょうど帝国の税収が上向いていたこともあり、宮廷費にかなりの額を費やされていたそうです」
「みかっち、聖なる都の大宮殿は、ローマ帝国の象徴みたいなものだから、奪回してからも頑張って維持しないと、本物のローマ帝国とは認めてもらえないわよ。単なる贅沢じゃないわ。特に大浴場は、頑張って整備しなさいよね」

 この期に及んでも大浴場にこだわるテオドラをスルーして、僕はパキュメレスに尋ねた。
「・・・でも、聖なる都って、ラテン人の大劫略に遭って、大半の建物が廃墟になっちゃったんだよね? 聖なる都を奪回したら、莫大な費用を使ってそれを再建し、元通り機能するようにしなきゃ行けないの?」
「殿下、実際にどこまで出来るかという問題はありますが、ローマ帝国の再建を旗印に掲げる以上は、少なくともある程度のことはやらざるを得ないと、私も思います」


 パキュメレスの説明は以上で終わったが、それ以来僕は、お金のかかる聖なる都の奪回なんて、出来ればやりたくないと思うようになってしまった。
 一方、話を聞き終えたテオドラは、

「要するに、全部あたしのおかげってことよね!」
「どうしてそういう結論になるの!?」

 ・・・どうやら、基本アホの子であるテオドラは、「移動拠点の積極的な活用」あたりで、話に付いて行けなくなってしまったようだった。仕方ないので、4つ目の理由について、具体例を挙げてもう一度分かりやすくテオドラに説明しようと試みたが、それでも理解できなかったため、僕はテオドラへの説明を諦めた。

 なお、4つ目の理由について説明が分かりにくいという読者さんは、

『ビザンティン帝国における直近の全盛期であったマヌエル帝の時代には、全軍をかき集めれば同盟国を含め8万人を超える兵力を持っていたが、マヌエル帝には移動拠点を使うという発想がなかったので、トルコ人との戦争にはそのうち約2万5千人しか動員することが出来ず、トルコ人相手に大敗してしまったことがある。
 一方、今のビザンティン帝国は、全軍をかき集めても4万人をやや上回るくらいの兵力しか持っていないが、移動拠点を効果的に活用しているため、そのうち約3万人については、移動拠点さえ作ればどこにでも容易に集結させることができる』

という理解でも差し支えありません。
 ・・・実際には、移動拠点以外にも色々な理由があるので、必ずしも正確な説明では無いけど。

第11章 包囲戦

 軍を率いてアドリアヌーポリの近郊に到着した僕は、ジェノヴァ人のフルコーネ・ザッカリアに迎えられた。
「殿下、ご用命のあった食料の調達は済みました。こちらでお引渡しをさせて頂きます」
「ザッカリアさん、ご苦労様です」
 ザッカリアは、自分の用が済むと帰って行ったが、僕は軍の隊長たちに指示を出し、騎兵隊は敵の出撃に対する警戒を行いつつ、歩兵や非戦闘員のうち肉体労働の出来る者たちは、城壁の周囲に土塁や塔を築き始めた。

「みかっち、何をしようとしているの?」
「包囲戦の準備だよ。テオドラも、パルマの戦いで見たことあるでしょ?」
「なんで、そんなまどろっこしいことするのよ?」
「アドリアヌーポリは、例のクリスタルが置いてある都市だから、神聖術で城壁を破壊することはできないんだよね?」
「ちっちっち、甘いわね、みかっち。確かに、神聖術で城壁を破壊することは出来ないけど、この天才術士テオドラ様の手に掛かれば、神聖術で攻撃する方法がないわけじゃないのよ」
「どういう方法があるの?」


「あたしはね、博士号を取得する前、クリスタルで守られている聖なる都の城壁が、本当に神聖術の攻撃を一切受け付けないのかどうか実験してみたことがあるのよ」
「ああ、そういえばそんな話があったね。城壁に向かって例のエクスプロージョンを連発して住民に大迷惑を掛け、罰としてアネマスの塔に閉じ込められたとか」
「それはどうでもいいのよ! あたしはその時、大いなる発見をしちゃったのよ!」
「どんな発見?」

「クリスタルで守られている城壁は、確かに神聖術を連発しても傷一つ付かないけど、城壁の上を越える攻撃を防ぐ効果はないのよ。だから、世界最強の天才術士であるあたしの手にかかれば、あたしの必殺術メテオストライクで、城壁だけ残してアドリアヌーポリの町を完全に破壊して、にっくきブラナスとその手下を、住民ごとまとめて始末しちゃうことは、結構簡単にできるわけ。やってみる?」

「・・・テオドラ、アドリアヌーポリはこの地方の中心都市だから、できれば無傷で手に入れたいんだ。だから、そういう方法で町自体を破壊するのは、どうしても攻略できない場合の最終手段にする。基本的には、兵糧攻めで落とすことを目指す」
「何よ、みかっち。つまらないわねえ」


 とは言え、僕も好きで兵糧攻めの包囲戦などやっているわけではない。
 中世ヨーロッパの戦争では、多くの場合攻城戦にかなりの時間を要する。特に、城壁に囲まれた大都市の攻略ともなると、攻め落とすまでに数年かかるなんてこともざらにある。欧米発の歴史ゲームの中には,そういう要素が再現されているものもあって、都市の攻略に時間がかかり憂鬱な気分にさせられたこともざらにある。

 僕が、ビザンティン世界に召喚されてからわずか3年半ほどで、帝国の領土を大きく拡大させることが出来た大きな要因は、移動拠点の活用により行軍時間を大幅に短縮できたこと、そしてテオドラをはじめとする強力な神聖術士の存在により、時間のかかる包囲戦を行わずに済んだことが大きい。
 僕らの敵は、城壁で囲まれた都市や城塞に篭っても、テオドラのエクスプロージョンなどで容易に城壁を破壊されてしまうことを知っているので、多くの場合野戦で敗れるなどして勝ち目がないことを悟ると、抵抗を諦めて降伏するか、城や町を捨てて逃げ出してしまう。

 そのため、これまでの戦いでは、都市の攻城戦をする機会がほとんどなく、各都市は戦わずして僕の前に城門を開くというパターンばかりだったのだ。もちろん、テオドラの噂を積極的に広めて恐れさせ、城壁に篭って抵抗しても無駄だと敵や住民たちに理解させる謀略を行った上の結果ではあるが。

 もっとも、第1話で行った山賊退治は例外だが、あの頃は僕もこの世界に来たばかりで、テオドラの効果的な使い方をまだ理解していなかった。今、あのときと同じような場面に直面したら、おそらく商人に化けて潜入するなどというまどろっこしい手段は採らず、テオドラのエクスプロージョンで山賊の砦を爆破し、おそらくそれだけで決着は付いただろう。
 神聖術を使った戦争のやり方については、今のところ前例や定石がほとんどないので、いわば手探り状態でやって来たのだ。


 しかし、強力なクリスタルで守られたアドリアヌーポリの町については、これまでのようなやり方は通用しない。それでも、時間のかかる包囲戦はなるべくやりたくなかったので、僕はこれまでも包囲戦を回避するため、様々な謀略を考えたが、その多くは上手く行かなかった。

 その1。町の領主であるテオドロス・ブラナスを調略し、私領の保全などを条件に降伏させる方法。
 しかし、これについては内部から、強い反対が挙がった。

「テオドロス・ブラナスを降伏させて味方につけるですって!? 冗談じゃないわ! あの男は、クーデターで父上を帝位から引きずり下ろした張本人なのよ! 捕まえたら、ギタギタにしばき倒してやらなきゃ気が済まないわ!」
 僕が話を切り出しただけで、テオドラはこんな剣幕である。
「そうは言っても、例えばラスカリス将軍だってクーデターの参加者なわけだし、他にも今の帝国では元謀反人やその息子なんて珍しくもない状態だし、かつての罪は許すくらいの度量が無いと」

 しかし、テオドロス・ブラナスの調略に反対したのは、テオドラだけではなかった。
「テオドロス・ブラナスは、かつて帝位簒奪の首謀者になったというだけではございませぬ。ブラナスは、かつてアンドロニコス帝の妃だったフランス王の息女アンナを妻に迎え、ローマ帝国の主だった貴族の中ではほぼ唯一、一族郎党を率いてラテン人の皇帝アンリの忠実な味方となり、ローマ人の中では裏切り者と強く非難されている男です。他の者と同一視することはできませんぞ」とヴァタツェス将軍。

「それだけではない。テオドロス・ブラナスは、自らイサキオス帝の盲目刑を執行し、その際神聖術によって後日視力を回復されることがないように、視力を治療する神聖術を掛けると心臓の動きが止まるという強力な呪法を掛けた。そのため、盲目になったイサキオス帝の目を治療することは、私の力でも不可能になっている」とイレーネ。

「現在、帝国摂政として政治や軍事の実権を実際に行使しておられるのは殿下ですが、名目上とはいえローマ人の皇帝は、今でもイサキオス帝です。
 テオドロス・ブラナスが、父を殺したイサキオス帝を深く憎んでいることは周知の事実ですし、十字軍がやってきてアレクシオス3世が逃亡した際にも、彼はイサキオス帝の復位に反対し、その後イサキオス帝とその息子アレクシオス4世を排除し、アレクシオス5世を擁立するクーデターが起きたときにも、率先して参加しておりました。彼は、いわばイサキオス帝にとって宿敵のような男です。
 イサキオス帝も、さすがにこのような男の帰順はお認めにならないでしょうし、殿下がイサキオス帝に無断でテオドロス・ブラナスの帰順を認めたとあれば、強い不快感を示されることは間違いありません。お止めになった方がよろしいかと思われます」とラスカリス将軍。

「かつて皇帝アンリに仕えていたというのは私も同じですが、アンリと戦って敗れ仕方なく仕えていた私などと異なり、テオドロス・ブラナスは妻の勧めもあって自らアンリに帰順し、アンリにも重用されてラテン人の味方とみなされていました。彼がローマ帝国に受け容れられるのは、さすがに難しいかと思われます」と発言したのは、最近帰参したばかりのコンスタンティノス・パレオロゴス。


 もっとも、幹部の大多数がこのような意見というわけでもなかった。
「ダフネはそんなこと気にしないぞ! 誰でも暖かく迎え入れてやればいいのだ!」
「ダフネ様、この国には我々も知らない、深い事情があるのです。この問題については、我々は黙っていた方がよいかと思われます」とシルギアネス。
 元山賊のアレス、元ラテン人のティエリ、クマン人のダフネ一党、イスラム勢のジャラール、オスマン、メンテシェなどといった、かつてのローマ帝国の内情を知らない新参の将校たちは、シルギアネスと同様に深入りを避けた方が良いと判断したらしく、ダフネ以外は沈黙を守っていた。
 もっとも、彼らを個別に呼んで意見を求めたところ、彼らはいずれも、個人的にはテオドロス・ブラナスを受け容れても、特に問題ないのではないかと思っている、という答えだった。
 また、テオドラに次ぐ強力で有能な術士であるプルケリアは、テオドロス・ブラナスによって皇帝に擁立されたアレクシオス3世の娘ということもあって、できればブラナスを助けたいと言っていた。

 こうした事情もあって、僕は誘降策を諦めきれず、テオドロス・ブラナスの異母妹にあたるソフィアを通じて、ブラナスに対し密かに投降を打診してみたが、ブラナスの回答は断固拒否だった。ソフィアからの報告によると、またしてもイサキオス帝に仕えるなどまっぴら御免だし、自分がイサキオス帝に赦されるとは思えないというのが、その主な理由だという。

 そのため、領主のテオドロス・ブラナスを調略して帰順させるという方法については、最終的に断念せざるを得なかった。


 その2。テオドロス・ブラナス本人が駄目なら、その配下にある有力者を調略し、内側からアドリアノポリスの門を開けさせるという方法も考えたが、ブラナス一門の結束力は固く、調略できそうな有力者は見当たらなかった。

 その3。ブラナス一派の軍隊が駄目なら、アドリアヌーポリの市民たちに反乱を起こさせ、城門を開けさせるという方法も考えたが、これに応じる意志のある市民たちは多かったものの、城門はブラナス配下の精鋭部隊によって厳重に警備されており、市民たちも厳重な監視下に置かれているため、直ちに行動を起こすのは難しいとのことだった。

 その4。ならば包囲戦もやむを得ないということで、ジェノヴァ人のフルコーネ・ザッカリアに仕事を委託し、アドリアヌーポリにある小麦やその他の食料を、相場の2倍くらいの値段で買い占めさせ、既に帝国の支配下にある周辺の農村部には、アドリアヌーポリに対する食料の販売を禁止し、買い手がなくて困るという農民からは、ザッカリアに食料を買い取らせた。
 その結果、アドリアヌーポリでは備蓄用の食料までどんどん売りに出され、包囲戦が始まる前から食料の価格が急騰し、包囲戦が始まる前の段階から、兵士や住民は深刻な食料不足に陥っていた。

 なお、分かる人には言わなくても分かるだろうが、この謀略は攻城戦の天才として知られる、豊臣秀吉の三木城攻略作戦を真似たものである。
 相場の2倍もの値段で食料を買い占めるのはもったいないなどということはなく、むしろ包囲戦が長引けば食料調達のコストがもっとかさむので、こうした方法は経済的にもむしろ安上がりなのだ。


 その5。包囲戦に先立ち、マヌエル・コーザス率いる暗黒騎士隊を、商人や旅人などに変装させてアドリアヌーポリに潜入させ、夜陰に紛れて城壁内にある井戸や貯水池に毒を投げ込ませ、これらを使用不可能にした。アドリアヌーポリはマリツァ川の近くにあり、普段はその川から水を供給しているが、包囲戦となれば川から水を供給することも出来なくなる。
 この策略は成功し、暗黒騎士隊の面々は、見事に仕事をやり遂げただけでなく、全員が捕まったりすることなく逃げおおせた。これで、包囲戦が始まれば、兵士や住民は食料不足だけでなく水不足にも苦しめられることになる。なお、この地方では冬には雨が多くなるが、春以降は降水量が少なくなるので、飲み水を雨水に頼ることは困難である。


「ちょっと待ちなさい。みかっち、何をさらりと外道な作戦やってるのよ!?」
「外道な作戦とは人聞きの悪い。僕は、包囲戦を早く終わらせるための、効率的な作戦をやっているだけだよ」
「いくら戦争だからって、さすがにやっちゃいけないことがあると思うわよ。井戸や貯水池に毒なんて投げ込んだら、人の住めない町になっちゃうじゃない!」
「メテオストライクで、城壁だけ残して市内を壊滅させて、住民ごと皆殺しにしようとか言ってた皇女様が今更何を言うか。それに、毒の効果は半年もすれば消えるし、町が陥落すればイレーネの『浄化』の術で毒を消すことも出来るから、別に人の住めない町になるわけじゃない。
 『浄化』の術は推奨適性80だから、ブラナスには使えないし、ブラナスの軍に適性80以上の女性術士がいないことも調査済み。むしろ完璧な作戦でしょ?」
「・・・みかっちには、もう何を言っても無駄みたいね」

 余談になるが、水に関係する神聖術については、今のところ担当範囲に関する学派ごとの取り決めがない。
 そのため、例えば水中でも呼吸をすることが出来る、推奨適性70の『潜水』の術は赤学派に属し、汚れた水や毒の入った水を浄化することのできる、推奨適性80の『浄化』の術は緑学派に属し、大気中の水分から飲み水を作り出すことのできる、推奨適性60の『造水』の術は青学派に属するといった感じで、滅茶苦茶になってしまっている。
 いずれも、術の開発者がたまたまその学派に属していたというだけで、理論的な根拠はない。新たに術を学ぶ人が困るので調整しようという意見もあるが、どの学派も自分の勢力を縮小させたくないので、議論しても決着が付かない。学派同士の深刻な権限争議が起きてしまっている一例である。

 なお、テオドロス・ブラナスは、青学派の博士号を持つ神聖術適性78の術士であり、僕が来る前は男性で最も適性の高い術士とされていたので、彼も『造水』の術は使えるはずだが、『造水』の術を使うとその分空気が乾燥してしまうので、無限に水を生み出せるわけではない。自分用の飲み水を確保するくらいならともかく、都市や城塞の水不足を『造水』の術だけで解消することは、まず不可能である。


 テオドラの茶々や術の説明などで話が脱線してしまったので、ここから本題に戻る。

 その6。僕としても、できれば長期の攻囲戦は避けたかったので、ダフネに500騎ほどの弓騎兵隊で先発させて城内の軍をおびき出そうとしたが、ブラナスとその軍は挑発に乗って来なかった。
 包囲網の構築中も、包囲網が完成してしまったらブラナスの側に勝ち目はないので、たぶん出撃してくるだろうと予期して備えをしていたが、結局ブラナスの軍は一度も打って出ることなく、包囲網は完成してしまった。


「・・・テオドロス・ブラナスは、一体何をやりたいんだ? 援軍の見込みでもあるのか?」
 僕が首をかしげていると、ラスカリス将軍が疑問に答えてくれた。
テオドロス・ブラナスは、同じテオドロスという名前でも、私の愚息とは正反対と言ってよい性格の男で、つまり絶対に勝てる状況にならなければ動かない、慎重な性格なのです。かつて、イサキオス帝を追放するクーデターを起こしたときも、かの者は性急に動くことなく、イサキオス帝に対する軍部の不満が極限まで高まるのを、辛抱強く待っておりました。
 また、テオドラ皇女様との決闘を命じられた時も、皇女様の戦いぶりを見て自分に勝ち目がないと見るや、臆病者と非難されることも厭わず、戦わずして負けを認めました。こうした性格は、ある意味ではかの者の長所でもあるのですが、こうした勝算の薄い戦いになると、城に閉じこもったまま出て来ないという、消極的な戦い方になってしまうのです。いかにも、かの者らしい行動と言えます」

 ラスカリス将軍の言葉に、ちょうどブラナスとは正反対の性格と評された、将軍の息子であるビザンティオンの聖戦士ことテオドロス・ラスカリスが口を挟んだ。
「大将、要するにブラナスは臆病者なんだよ。親父はブラナスのことを結構持ち上げてるけど、慎重すぎて反乱を制圧するにも必要以上に時間がかかかるし、ムルズフルスが逃げて聖なる都が陥落したときは、俺達より早く逃げて、自分の領地に篭りやがった。あいつは、城から打って出て一か八かの勝負を挑むよりは、城に篭って飢え死にすることを選ぶような奴なんだよ」
 なお、ムルズフルスというのは、皇帝アレクシオス5世のことである。

「そうすると、ブラナスが飢え死にするまで包囲戦を続けなければならないの・・・?」

「いえ、仮にそうなるとしても、さほど時間はかかりますまい。私ヴァタツェスも、長年多くの戦いを経験して参りましたが、殿下ほど容赦のない包囲戦を仕掛けた将は、これまで見たことがございません。
 ブラナスは、おそらくアドリアヌーポリで籠城すれば数年は持ち堪えられると踏んでいたでしょうが、既に城内は食料不足のあまり、木の根や草はおろか、飢え死にした者の死体まで喰らう地獄絵図のような有様となっているようで、包囲網が完成する前から、夜陰に紛れて町を脱出してくる住民たちが後を絶ちませぬ。
 また、城内では疫病も流行しているようですので、これなら仮にブラナスが飢え死にするまで待ったとしても、半年はかからないでしょう」

 ヴァタツェス将軍がそう励ましてくれたが、少なくとも数か月間は、忍耐力の必要な包囲戦を続けなければならないことに変わりはない。また、包囲戦が長引けば、やることのない包囲戦で味方の士気も下がるだろうし、夏になれば味方側に疫病が流行する可能性も少なくないのだ。

第12章 陣中の娯楽

 包囲網が完成した後、僕の軍では味方を飽きさせないため、様々な娯楽が行われた。
 テオドラは、伝説の踊り子テオドラちゃんに扮して、兵士たちや市内から脱出してきた民衆たちを相手に、得意の踊りを披露した。
 観に行かないと後で怒られるので、僕もテオドラの踊りを見に行ったが、今回の踊りは以前山賊たちの砦で見せたものとは異なり、ひたすら明るくハイテンションで、観客たちを熱狂させていた。
 ・・・テオドラって、その気になればアイドルもやれそうだな。それも、観客たちには笑顔で媚びまくって、楽屋に入ると人格が変わったみたいに付き人をいじめまくるタイプの。

 舞台が終わった後、案の定テオドラは僕に感想を聞いてきた。
「どうどう、あたしの踊り、凄かったでしょ! みかっちも、あたしに惚れ直しちゃった?」
「確かに、踊りやパフォーマンスはかなり良かったと思うよ」
「何よ、その素っ気ない感想! 他の観客はあんなに熱狂してたのに、なんでみかっちだけそんなに冷めてるのよ!?」
「何でと言われても、僕は他の観客たちと違って、普段のテオドラを知っているから。他の将兵たちみたいに、普段のテオドラと踊り子のテオドラを別人だと信じ込んでいれば、まだ熱狂できるかも知れないけどねえ・・・」
 そもそも、僕は日本でもアイドルに熱狂するタイプではなく、むしろ中島みゆき様の歌に熱狂してしまうタイプなのである。

「本当に、みかっちにはエンタメの素質が無いわねえ。誰もが憧れるあたしの踊りの素晴らしさを、理解できないなんて」
「そう言われても、僕はもともと普通の人と感性がずれてるから。例えば、テオドラが中島みゆき様の『化粧』でも歌ってくれれば、僕もテオドラに感動すると思うけど」
「何よそれ。一体どんな歌よ?」

 せっかくのリクエストなので、僕はテオドラに『化粧』を歌って聴かせた。
 ・・・著作権の関係があるので歌詞自体は転載できないけど、どんな歌か気になる人は、「化粧 中島みゆき」で検索すれば、色々情報が出てきます。なお、作中で登場する他の歌についても同様です。

「・・・このあたしに、そんな男に振られて泣くような、不幸な女の歌を歌って欲しいの? それに、歌の中に出てくる『バス』って何よ?」
「バスは、僕の国にある乗り物。乗合馬車みたいなものだと思ってくれればいいよ。惚れた男の前で自分の泣き顔を見せたくないから、『流れるな涙、バスが出るまで』っていう思いが、聴く人の心を震わせるんだよ」
「・・・みかっちの感性って、本当に理解できないわ」


 別の日。僕は軍の幹部たちが演劇を開くという噂を聞いて、一兵卒の格好に変装して観に行くことにした。わざわざ変装したのは、パキュメレスから「殿下にお見せできるような代物ではありませんから・・・」などと変なことを言われ、かえって気になったからである。

「おお、そこの若いの、これから面白い劇が始まるぜ!」
「アレス様主演の劇、絶対見ないと損するぜ!」
 ヴァリャーグ近衛隊の小隊長を務めるバルダスとベッコスの兄弟が、僕を誘ってきた。どうやら、2人とも僕が総大将のミカエル・パレオロゴスだとは気づいていないようだ。

 一体どんな劇が始まるのだろうと、僕は固唾を呑んで見守っていたところ、どうやら司会役らしいマヌエル・コーザスが、挨拶を始めた。
「皆様、お集まり頂きありがとうございます。これから、アレクシオス・ストラテゴプルス将軍主演の秘密劇、『預言者様への愛』を上演させて頂きます。なお、この劇の存在及びその内容は、くれぐれも摂政殿下や、預言者イレーネ様にはご内密にお願い致します」

 そんな前置きで始まった劇は、僕が普段着ている緋色の軍服を着たアレスが、ある女性への想いを独白するシーンから始まった。もしかしなくても、これは明らかに僕を題材にした劇だ。
 アレスの演じる主人公『ミカエル』は、預言者イレニオスを一目見たその時から、イレニオスに対し叶わぬ恋心を抱いてしまっていた。そしてある日、イレニオスが自分の許を去って行ったという報せを聞くと、急いで馬に乗って、その後を追いかけて行った。
 やがて、僕に扮した『ミカエル』は、どうやらイレニオス役と思われる、黒いローブに眼鏡姿をした少年に追いつき、こんなやり取りが始まった。

「おお、麗しきイレニオス様、どうか行かないでくださいませ!」
「私は、実の父に逆らうことは出来ない。あなたは、なぜ私を追いかけてきたの?」
「イレニオス様、どうか、そのようなことを仰らないで下さいませ。このミカエル、イレニオス様を一目見たその日から、その美しいお姿に心を奪われてしまったのです」
 なぜか、この場で会場から笑いの声が起こった。劇はさらに続いたが、イレニオス役をやっているのは、姿と声色から判断するに、どうやらパキュメレスらしい。

「こんな色気のない私を、あなたは美しいというの?」
「イレニオス様、絶世の美女たるお方は、例え色気のない服装をしていても、その美しさを隠すことはできません。他の者どもが何と言おうとも、このミカエルにとって、イレニオス様はかのクレオパトラをも超える、絶世の美女であらせられます!」
 アレスの台詞に、会場から大爆笑の声が起こった。・・・なるほど、こういう劇か。 

「私は一応女とはいえ、男を喜ばせる胸などない。それでもあなたは、私を美しいというの?」
「イレニオス様、そのお美しさがあれば、胸がないことなど何事のことでありましょう。むしろ、このミカエルにとって、イレニオス様の貧乳はステータスです、希少価値です!」
 再び、会場から大爆笑の声が起こった。・・・そんなに面白い話なのか、これ?

 その後も、ミカエルのイレニオスに対する、歯の浮くような愛の告白が続き、やがて愛の言葉に打たれたイレニオスは、ミカエルと熱い抱擁を交わした。だがそのとき、観衆のほとんどが腹を抱えて笑っている中、一人冷静に劇を見ている僕の姿を見たイレニオス役のパキュメレスが、僕の視線に気づいた。

「えっと、そちらのお客様、ひょっとして・・・殿下ですか?」


 その一言で、一転して会場は大騒ぎとなり、劇は中断になった。主演のアレス、劇を盛り上げるための笛を吹いていたマヌエル・コーザス、イレニオス役のパキュメレス、そして他の役者や観衆の全員が、僕の前に平身低頭して赦しを乞うた。
「殿下、本当に申し訳ございません。これはほんのちょっとした、陣中の余興でありまして、決して殿下を貶めようとか、そういう意図は全くございませんので、どうか命だけはお許しを・・・」
 必死に赦しを乞うアレスに、僕は冷たく言い放った。

「別に良い。そなたたちが、普段余をどのような目で見ているのか、この劇を見て良く分かった。余は退席する故、好きなようにするがよい。いちいち処罰する気にもならん」


 その後、パキュメレスが改めて、僕に謝りに来た。
「・・・殿下、本当に申し訳ございません」
「その話は、もういいと言っているだろう?」
「はい。でも、私は別に、やりたくてあんな劇に参加したわけではありません。むしろ私は、女装役なんて嫌だと言ったのですが、テオドロス様とか、アレス様とかほかの将軍たちに、『イレニオス役が務まるのはお前しかいない』などと言われて、無理やりやらされたのです」
 どうやら、まだ子供のパキュメレスは、軍の中でおもちゃ扱いされているらしい。

「でも、あの格好は、別に女装というわけじゃないでしょ。数十年くらい前までは、あの黒いローブが術士の標準的な衣装で、当然男性の術士も着ていたみたいだし」
「それは私も知っていますが、女性の術士たちがあの黒いローブを嫌がって好き勝手な服を着るようになり、男性の術士もそれに影響されて次第に好き勝手な服を着るようになり、プレミュデス先生のような高齢の術士ならともかく、今どきの若い術士で黒いローブを着ているのは、イレーネ様くらいだということも殿下はご存知ですよね?」
「まあ、僕もそれは聞いてるけど」
 第2話では省略してしまったけど、プレミュデス先生が神聖術の歴史について講義していたとき、雑談として僕にもそんな話を聞かせてくれた。パキュメレスが神聖術を習い始めたときも、基本講義の講師はプレミュデス先生だったというから、たぶん同様の話を聞かされたのだろう。

「つまり、あの黒いローブは、過去にどのような存在であったかに関係なく、現在ではイレーネ様を表す象徴になっているのです。殿下も、私があの黒いローブを着れば、イレーネ様の真似をしているとお感じになるでしょう?」
「まあ、確かにそう感じはするけど」
「女装とは、それを見る人が女性の真似をしていると感じる衣装を着用することをいうのです。たとえ、大多数の女性が標準的に着用している衣装を着る場合でなくても、イレーネ様を表す象徴、つまり見る人の誰もが、あれは女性であるイレーネ様の真似をしていると感じる衣装を着るということは、女装に他ならないのです」
「・・・理屈としては分かったけど、パキュメレスはそんなかわいい顔して、言うことがやたら理屈っぽいから、格好のおもちゃにさせられるんだと思うよ」
 訂正。パキュメレスは僕に謝りに来たというより、僕に愚痴を聞いてもらいたかっただけらしい。


 また別の日。ビザンティオンの聖戦士ことテオドロス・ラスカリスが、僕にこんな相談を持ち掛けてきた。
「大将、プルケリア様って、誰かと結婚させる予定になってるのか?」
「・・・僕としては、まだ特に決めてないけど。ただ、プルケリアは帝国にとって欠かせない術士で頭も良さそうなので、外国に嫁がせるわけには行かない。結婚させるとしたら、国内の有力者になるだろうね」
「その、国内の有力者というのは、・・・俺じゃダメなのか?」
「テオドロスなら、特にダメと言うわけではないけれど・・・。プルケリア本人の承諾が取れるなら、僕としてはそれで構わないよ」

 こうして、テオドロスのプルケリアに対するプロポーズが始まったのだが、そのやり方は僕から見ても酷いものだった。
「プルケリア。このローマ帝国最強を誇る真の男、ビザンティオンの聖戦士テオドロス・ラスカリスと結婚する気は無いか?」
「何ですか、いきなり」
「俺は、前からプルケリアの大きなおっぱいに憧れていたんだ。この俺と結婚すれば、真の男というものを見せてやるぜ」
「・・・あなたの言う『真の男』とは、一体どういうものなのですか?」
「真の男は真の男だ。この俺様の肉体美、いかにも男らしくて格好良いと思わないか?」
「テオドロスさん、私はあなたのような筋肉男より、殿下のように頭脳明晰な方が好みなのです。申し訳ありませんが、あなたを私の夫に選ぶつもりはありません。お引き取りくださいませ」

「・・・大将.いきなり轟沈しちまったぜ」
「僕も、恋愛ごとに強いわけではないけど、あれはいくらなんでも、話がいきなり過ぎるし、口説き方も下品だと思うよ。アレスなんかに相談して、やり方を変えてみたら?」

 その後も、テオドロスのプルケリアに対するプロポーズは続いたが、その手法には、あまり改善の兆しは見られなかった。
「プルケリア、好きだ! 愛してる! この俺の愛を受け取ってくれ! 俺の熱いプリアポスも受け取ってくれ!」
「あなたもうるさい人ですね。何度来ても、私の答えは変わりませんよ」


 テオドロスは、プルケリアに何度断られても諦めることはなかったが、ついにはプルケリアの方から僕に苦情が入ってきた。

「殿下、あのテオドロス・ラスカリスという男、最近私に結婚したいなどと付きまとって、うるさくて仕方がありません。何とかならないでしょうか?」
「いや、本人はあれでも真剣に求愛しているつもりみたいだから、プルケリアには他に意中の人がいるというのであれば仕方ないけど、そうでなければ考えてあげてくれない?」
「・・・私にも、意中の殿方はおります。誰かは申し上げられませんが、少なくともあの者ではありません。ですから、止めさせて頂けないでしょうか?」

「僕もプルケリアの意志は尊重したいけど、テオドロスは諦めが悪いから、プルケリアには他に意中の人がいるけど誰かは分からないって感じだと、説得の仕様が無いんだ。
 プルケリアに意中の男性がいるなら、いっそのこと僕が間に入って、その男性との結婚を取りまとめようか? それなら、テオドロスもさすがに諦めるだろうとは思うけど」
「・・・殿下。お気持ちは有難いのですが、それは結構でございます」
 それだけ言い残して、プルケリアは自分の陣幕に帰ってしまった。


 ・・・恋愛って難しい。
 僕は、プルケリアが何を求めているのか理解に苦しんだ挙句、おそらく彼女は、既に妻のいる男性に恋をしてしまったのだろうと結論付けた。あの、家柄も良くて美しく頭も良いプルケリアであれば、相手が未婚の男性でさえあれば、ほぼ選び放題のはずである。この国には、プルケリアから求婚されて断る未婚の男性は、おそらく僕くらいしかいないと思う。

 え? なぜ僕が断るかって?
 あの規格外の巨乳は、いまいち僕の好みじゃないし、僕は無事帝国を復興し役目を終えたら日本に帰らせてもらう積もりなので、この世界で結婚するつもりはない。
 仮に、どうしてもこの世界で結婚せざるを得なくなったとしても、結婚相手を選ぶとしたら、今僕の前で裸になって甘えているイレーネか、ニュンフェイオンで僕の帰りを待っているマリアかの二択だ。
 どちらとも、子作りこそしていないけど結構深い関係になってしまっているし、イレーネもマリアも、タイプこそ違うが十分僕の好みに合っている。そのどちらも振って、別の女性と結婚しようという気にはとてもなれない。

 そう言えば、ガリポリに出陣して以来、夜はずっとイレーネのお世話になりっぱなしだけど、マリアは大丈夫かな・・・?
 僕は眠りに就く前、しばらく会っていないマリアのことが、少し気になってしまった。

第13章 七夕の記憶


 次の日。僕はイレーネではなく、猫のウランに起こされた。
 日本に戻ってきたとき、僕が最初にする日課は、日記を見て今日の予定を確認すること。・・・それから、湯川さんの隣で発情しないように、きちんと処理すること。
 ウランが午前6時に起こしてくれるとはいえ、朝はあまり時間がない。しかも今日は雨なので、高校へ行くにも自転車が使えない。おまけに、向こうの世界では毎日イレーネやマリアが気持ち良くしてくれるので、最近は1人でするのが辛くなってきた。でも、処理しないと湯川さんの隣で理性を維持できる自信がない。

「おはようございます、湯川さん」
「あ、おはようございます、なのです。・・・榊原くん」
 湯川さんとの朝の挨拶も、なんかぎこちない。
 湯川さんは照れ屋なのか、いつも朝会うときは、緊張した様子で顔を真っ赤にしているし、僕も湯川さんには精神的な負い目があるので、どうしても挙動不審になってしまう。

 ただ、最近は朝の挨拶が済めば、その先は結構楽だ。授業に関しては、ビザンティン世界で予習や復習をきっちりやっているので、苦にはならない。特に、数学と地学については、向こうでギリシア語訳の本を作っていることもあり、予習が進んでいる。
 江南高校は2学期制なので次の期末試験は秋になるが、たぶんその頃にはビザンティン世界で『数学の書』と『地学の書』を作り終わり、やや苦手だった理系科目も克服できるだろう。どちらも作り終わったら、『生物の書』『化学の書』『物理の書』も作ってしまおう。ビザンティン世界の科学技術も発展するし、僕も理系科目マスターになれるし、一石二鳥だ。

 そして昼休み。湯川さんと一緒にお弁当を食べながらお話しする時間だけど、今は話題作りに困ることは無い。同じ趣味を持っていることが分かったので、今日からは湯川さんにライトノベル版の話を読み聞かせながら、その解説をする約束になっている。

「湯川さん、今日はあの小説の1巻持ってきたから、食べ終わったら解説してあげるね」
「はい、よろしくお願いします、なのです」
 湯川さんも、楽しみにしているようだ。僕の方が早く食べ終えてしまったので、湯川さんには食べながら話を聞いてもらうことにしたのだが・・・。


「榊原くん、サブタイトルの『大後悔時代オンライン』って、一体何なのですか?」
「それは、ただのネタ。『大航海時代』っていうシミュレーションゲームのオンライン版があって、その『航海』を『後悔』に置き換えてるわけ」
「・・・オンライン版って、何なのですか?」
「インターネットに接続して遊ぶゲームのこと。最近は、インターネットで遊ぶオンラインゲームが大人気で、そういうゲームの方が儲かるっていうことで、昔はパソコンなんかを使って一人で遊ぶシリーズだったゲームについても、それと同じタイトルのオンラインゲームを作る場合が多いんだよ」
「・・・どうして、オンラインゲームの方が儲かるのですか?」
「それは、物語中に出てくるマスターさんみたいに、ゲームにのめり込んで、物凄い金額の課金をしてくれるプレイヤーさんがいるから」
「『課金』って何なのですか?」
 そこまでプリミティブな質問をしてくるか。

「・・・湯川さんは、オンラインゲームって全くやったことないの?」
「家にパソコンがないから、オンラインゲームは、やったことないのです。・・・スマホのゲームなら、ちょっとやったことはあるのです」
 どうやら、湯川さんはあの漫画の影響で、「オンラインゲームはパソコンでやるもの」という勘違いをしていたらしい。

「スマホのゲームも、大体はオンラインゲームだよ。ゲームをやってて、このアイテムを買うにはお金が必要ですって画面が出てくることはなかった?」
「ありましたのです。でも、お金は出せないので、実際に買ったことはないのです」
「そういうのを、実際にお金を出して買ってしまうのが課金。そういうゲームで、ときには何百万円とか、何千万円とか、とんでもないお金をつぎ込んでしまう人も結構いるわけ。
 オンラインじゃないゲームだと、1作が高くても1万円ちょっとくらいで、要するにユーザー1人あたり1万円くらいしかお金を取れないわけだから、ゲーム会社としては、上手く行けば1人のユーザーから何百万円、あるいはそれ以上ものお金を取れる、オンラインゲームの方が断然儲かるわけ」

「世の中には、マスターさんみたいなお金持ちの人が、そんなにたくさんいるのですか?」
「そういうお金持ちもいるけど、大半はお給料の大半をオンラインゲームに費やしてしまう人とか、家に閉じこもって親のお金をオンラインゲームに注ぎ込んじゃう人とか、オンラインゲームのために多額の借金をしてしまう人とかが多いらしくて、結構深刻な社会問題になってるんだよ」
「・・・オンラインゲームって、怖いものなのですね。あの漫画を読んでいたときは、良く分からないけど楽しいものだと思っていたのです」
「まあね。分かったなら、ライトノベルの方に話を戻していい?」


 こうして、やっと本編の説明に戻れるかと思ったら、
「ねえ、榊原君、美沙ちゃん。2人って、もう付き合ってるの?」

 とんでもない質問をしてきたのは、すぐ前の席にいる佐々木さんだった。例の、結構な美人でクラス内でも人気があるけど、僕としては過去のトラウマに引っ掛かるという女の子である。
 湯川さんの方はおろおろして、僕にすがるような目線を送ってきた。僕が答えるしかないか。

「いや、別に付き合ってるとかじゃなくて、たまたま隣同士になったから、仲良くしようとしているだけというか・・・」
「でも、2人とも、傍目から見たら恋人同士にしか見えないよ? いつも2人でお弁当食べてるし、顔を真っ赤にしたり、楽しそうに話したりしてるし。どう見ても怪しいなあ~♪」
「別に怪しくないから! 隣の席同士で親睦を深めてるだけだから!」
「でも榊原君、席替えの前は、隣にいた宮崎さんとかに声も掛けなかったでしょ? それに、この麻衣ちゃんは知ってるんだよ。2人とも、席替えのときお互いに『湯川さんの隣がいいです』『榊原君の隣がいいです』って書いてたんでしょ? 凜ちゃんから聞いてるよ」
「・・・・・・」

 僕は答えに窮した。ちなみに、佐々木さんのフルネームは佐々木麻衣。凜ちゃんというのは、クラス院長の中崎さんのフルネームがたしか中崎凛香なので、たぶん中崎さんのことだと思う。宮崎さんというのは、席替えの前に僕の隣に座っていた女子で、見た目は別に悪くないけど、何となく怖そうな雰囲気のある人だったので、確かに宮崎さんと会話をしたことは一度も無い。

「もうネタは上がってるんだよ、榊原君。このまま付き合ってるって白状しちゃえば、楽になるよ?」
 ふと周りを見渡すと、他にも結構な数のクラスメイトたちが、僕たちに注目している。これはまずい。

「そう言われても、本当に付き合っていると言えるほどの仲ではないし、湯川さんは他に好きな人がいるみたいだし・・・」
「ふーん。それじゃあ榊原君は、美沙ちゃんにそんな人あきらめて僕と付き合って欲しいって、一生懸命美沙ちゃんに粉かけてるんだ?」
「別に、粉なんて掛けてないし!」
「そう? この麻衣ちゃんには、美沙ちゃんに付き合って欲しいって粉掛けてるようにしか見えないよ? いっそのこと、この場で美沙ちゃんに告っちゃったらどう?」
「こんなところで、そんな恥ずかしいこと出来るわけないよ!」
「ふーん、じゃあ榊原君は、美沙ちゃんのことが好きだってことは認めてるわけね」
「いやだから、そういうわけじゃ・・・」 


 その後、僕は昼休みの間中、佐々木さんが次々と浴びせて来る尋問への対応に追われた。佐々木さんの質問は鋭く、僕は何か反論するたびに言質を取られ、次第に追い詰められていった。
 佐々木さんの尋問タイムは、昼休みの終了を告げる予鈴の音で、ようやく終了となった。その間、湯川さんは、ずっと顔を真っ赤にしたまま俯いていた。

 僕は、湯川さんに謝ろうかとも思ったが、問題の佐々木さんがすぐ前に座っている状況では、うかつに声も掛けられない。結局、湯川さんとはその後放課後の挨拶をするまで、一言も話せなかった。


 帰ろうとする時、僕はクラスメイトの岡林君からも声を掛けられた。
「榊原君、佐々木さんには気を付けた方がいいよ。あの人、もの凄い噂好きで、特に恋話には目がないから、下手なことを言ったら、クラス中どころか学校中に噂が広がっちゃうよ」
「岡林君、ありがとう。気を付ける」 
 岡林君は、クラスメイトの中では結構親切な人で、僕にも結構声を掛けてくれる。友達と言う程ではないが、僕としては気兼ねなく話の出来る、数少ないクラスメイトだ。


 今日は、湯川さんとのお話は、あんな気まずい雰囲気の中で終了か・・・と思いきや、湯川さんが下駄箱の近くでおろおろしていた。
「湯川さん、どうしたの?」
「榊原くん、どうしよう・・・なのです。私の傘が、どうしても、見つからないのです」
「それじゃあ、僕が家まで送って行くよ」
「いいのですか? 榊原君、ありがとう・・・なのです」

 こうして、僕と湯川さんは、いわゆる『あいあい傘』状態で、湯川さんの家に向かうことになった。
「湯川さん、今日は本当にごめんね。ライトノベルの説明もほとんど出来なかったし、本当に迷惑ばかり掛けちゃって」
「そ、そんなことないのです。今日は榊原君といろんなお話が出来て、楽しかったのです」
 湯川さんは、そう言いながらも顔を真っ赤にしていた。もし、こんな姿を佐々木さんに目撃されたら、また色々言われるんだろうなあ・・・。

 その後、湯川さんとの会話はしばらく途切れたが、今度は湯川さんの方から話し掛けてきた。
「・・・榊原くん」
「・・・どうしたの、湯川さん?」
「わたし、他に好きな人がいるわけじゃないのです。榊原くんは、何か誤解をしているのです」
「ああ、そうだったんだ。・・・ごめんね、湯川さん」

 でも、その先何と続ければ良いのか分からなくて、会話は再び途切れてしまった。
 湯川さんと至近距離で歩いている僕としては、それだけで胸が高鳴って緊張してしまうのはまだ仕方ないとしても、股間まで激しく疼いてしまうのは本当に困る。湯川さんはマリアじゃないんだから、エッチなことを期待しちゃダメだ。自分で自分にそう何度言い聞かせても、身体が言うことを聞いてくれない自分が恨めしい。

 僕は、内心のそんな葛藤を必死で押し殺しながらも、湯川さんの「次はあっちなのです」って感じの指示に従って、湯川さんの家近くまでやってきた。僕の家からは結構離れていて普段は来ない場所だけど、なぜかこの辺には見覚えがあった。
 ・・・一方、僕は別のことにも気付いてしまった。湯川さんは、傘を失くしてしまったのではなくて、傘を自分のカバンに掛けているのに、そのことに気付いていないだけだということを。

 今更、そのことを指摘する勇気も出ないまま、僕たちは湯川さんの家の前にまで到着した。初めて来る場所のはずなのに、不思議とそのアパートにも見覚えがあった。
「榊原くん、ここまで来れば大丈夫なのです。送ってくれて、ありがとう・・・なのです」
「いや、どういたしまして。じゃあ、また明日もよろしくね、湯川さん」

 こうして、僕は湯川さんと別れて家路に就いたが、なんでこの方面に既視感があるのか、僕はしばらく思い出せなかった。その謎が解けたのは、僕が家に帰って、ウランに出迎えられたときである。
 ・・・そうだ。僕はちょうどあの辺で、捨て猫だったウランを拾ってきたんだ。


 これがきっかけで、僕の脳裏には、忘れかけていた古い記憶が蘇ってきた。

 小学4年のとき。僕は1人で、この町の七夕祭りに出掛けていた。既にお母さんはこの世に亡く、お父さんも忙しい時期だったので、七夕祭りに1人で出掛けるのはこのときが初めてだった。
 その年の七夕は、あいにく雨が降っていた。そしてその途中、僕は1人で泣いている、僕と同年代くらいの可愛い女の子を見掛けた。
 かなり昔の話なので完全再現はできないけど、たしかその女の子とは、こんなやり取りがあったと思う。

「どうしたの?」
「うう、わたしの傘がなくなってしまったのです。雨も止んでくれませんから、このままだとお家に帰れないのです」
「だったら、僕が君の家まで送って行こうか?」
「・・・いいのですか?」
「うん。そのくらい、別に構わないよ。特に別の用事があるわけでもないし」

 それで、僕はその子を、家まで送ってあげることにした。その女の子はなかなか泣き止まなかったので、僕は歌を歌ったりして、何とかその子を励まそうとした。
 あのとき歌ったのは、たしか『アザミ嬢のララバイ』と、『SMILE,SMILE』だったと思う。後者は、平原綾香さんでは無くて、中島みゆき様の方。あの歌で、あの子はちょっとだけ元気を取り戻してくれたような記憶がある。

 一方でその途中、その女の子は傘を失くしたのではなく、ちょうど今日の湯川さんと似たような感じで、買い物袋の中に折り畳みの傘が紛れ込んでいて、そのことに気付いていないだけだったことに気付いたが、そのことを指摘する勇気は、当時の僕にも無かった。それを言った瞬間、その子との関係は終わってしまうと思ったからだ。

 その女の子とは、結局名前も聞かないまま、送ってあげるだけで別れた。でも、僕はもう一度あの子に会いたくなって、何度も別れた場所の近辺を回って、その女の子を必死に探したが、名前を聞いていなかったこともあって、その子に会うどころか手掛かりすら掴めなかった。
 そんな虚しい捜索が5回目くらいになり、もう無理かと諦めかけたとき、あのアパートの近くに小さな捨て猫がいた。その子猫は段ボール箱の中に入っていて、その段ボールには女の子らしい丸っこい文字で「誰か、この子拾ってください」と書かれていた。

 僕は、なぜかその時運命的なものを感じ、この子猫を拾って育てれば、いつかあの女の子に再び会えるような気がした。たしか、僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ謎の声は、このときにも聴いたような覚えがある。
 そして、僕は迷わずその子猫を拾って帰り、お父さんに直談判して、その子猫を榊原家の猫として育てることにした。それが、今僕の前でエサを食べているウランである。
 ・・・もう、あの時から5年以上も経っているのか。今のウランは子猫どころか、巨大猫になってしまったけど。


 なお、僕にとって結構大事な記憶がしばらく失われていたのは、その後『七夕の悲劇』が起こり、七夕と言えばむしろ、そちらの方を思い出すようになってしまったからだろう。

 『七夕の悲劇』というのは、おそらくヤクルトファンにしか分からない話だろうが、2017年の七夕に起こった悲劇のことである。当時のヤクルトは、投手陣に怪我人が続出し、クローザーを務めていた秋吉投手まで怪我で離脱してしまったので、まともに抑え役を務められる投手が1人もいなくなってしまった。
 そこで、当時の真中監督は、先発のエース的な存在で、ちょうど怪我から復帰してきたばかりの、ライアン小川こと小川泰弘投手を、臨時のクローザーに任命した。
 そして7月7日の広島戦。当時のヤクルトは5連敗中だったが、9回表が始まった段階で、得点は8対3の5点差でヤクルトがリード。そして、臨時クローザーの小川投手が登板。
 これなら勝てる、とりあえず連敗は脱出できると、テレビでこの試合を観戦していた僕もお父さんも、そしてほとんどのヤクルトファンも、そう信じて疑わなかった。

 しかし、実際にはそうならなかった。抑えの経験がない小川投手は大乱調で、2本のソロホームランを浴びるなどして2点差まで追い上げられ、さらに連打を浴びて、2アウトながら走者一・三塁というピンチを招いてしまった。
 そして、代打の新井選手にまさかの逆転3ランホームランを浴びてしまい、試合はそのまま敗戦。あまりの酷い負け方に、僕もお父さんもしばらく悄然となってしまい、榊原家はお母さんが交通事故で亡くなってしまったとき以来の、お通夜モードに入ってしまった。
 僕もかなり落胆したが、お父さんの落胆ぶりはもっと酷く、「雅史さえいなければ、お父さんは早くお母さんの所へ行きたいよ」とまで言い出すほどで、当時の僕は、落ち込んだお父さんを宥めるのに必死だった。

 なお、小川投手はその後間もなく二軍落ちとなり、その年のヤクルトはその後も良いところがなく、年間96敗という球団史上最悪の成績で最下位になってしまい、真中監督もその年に辞任した。
 我が榊原家でも、僕やお父さんは一時メンタル不調になってしまい、いっそのこと父子揃って心中しようかと、お父さんと真剣に話し合ったこともあった。
 あの頃、例の謎の声が「お兄ちゃん、生きていればきっと良いこともあるよ!」と必死に僕を励ましてくれなければ、そしてその年に発売された中島みゆき様の『慕情』がなかったら,榊原家はあの年で滅亡していたかも知れない。

 それ以来、七夕と言えばこちらの出来事を思い出すようになってしまったので、たぶんあの女の子の記憶も薄れてしまい、思い出すのに時間がかかってしまったのだ。


 話が脱線してしまったが、僕はひょっとして、あの時の女の子が湯川さん・・・という可能性も一瞬考えてみた。確かにキャラクターは何となく似ているが、まあ常識的に考えれば単なる偶然だろう。
 この世知辛い世の中に、あの時の女の子に高校で再会できるなんて、まるでおとぎ話みたいな出来事が起きるはずないじゃないか。そんな奇跡を信じるのは、頭の悪いキリスト教徒だけで十分だ。
 おとぎ話なんてものは、現実にはあり得ないからこそ、おとぎ話として成立するのである。おとぎ話を聞かせるなら、あり得ないことと付け足して欲しい。おとぎ話はみんなずるい。どこにも日付を書いていない。おとぎ話なんて、所詮そんなものなのだ。


 ・・・明日には、僕はまたビザンティンの世界に戻る。今度湯川さんに会えるのは、どのくらい先の話になるのだろう。
 そんなことが気になりだした僕は、今日の分の日記を書き終えた後、過去にどういう頻度で日本に戻ってきているのか、過去の日記を読み直して調べることにした。


 僕が、ビザンティン世界に強制召喚されたのは、高校入学後間もない4月。その後5月くらいまでは、割とコンスタントに、日本へ戻ってきていた。たしか、2週間に1回くらいは戻っていたような気がする。一応、この時期を第1期とする。

 その後、僕がビザンティン世界でマリアに『ごしごし』されてしまうようになってからは、急に戻ってくる頻度が減って、半年くらい日本に戻ってこないこともあった。この時期を第2期とする。

 そして、席替えにより湯川さんと僕が隣の席になると、日本に戻ってくる頻度は再び増えた。ただし、その頻度は平均すると1~2月に1回くらいだが、この時期には結構ばらつきがあり、3か月くらい戻ってこなかった日もある。この時期を第3期とする。

 この第3期を振り返ると、ビザンティンの世界でマリアと夜を一緒に過ごし、その次の日も日本で湯川さんと一緒に過ごす、というパターンは一度も無かった。
 日本からビザンティンの世界に戻り、そのとき裸のマリアに起こされたというパターンは、僕がモンゴル恐怖症でおかしくなったときの一度しかない。そのとき湯川さんは、まだ僕の隣の席にはいなかったので、第3期ではなく第2期の話である。
 日本からビザンティン世界に戻ってくる時、僕を起こすのは大抵イレーネで、詳しいことはとても書けない、エッチな起こされ方をするのがお決まりのパターンだ。確か1度か2度、イレーネではなくてマーヤのときもあったが、あの世界に戻ったときはマリアだった、というパターンは無かったと思う。

 そして、僕はビザンティン世界でマリアと一緒に過ごしている時期には、日本に戻ってくることはほとんど無く、遠征中や長期旅行中でマリアに長期間会えない時には、日本に戻ってくる頻度が高くなるということも分かった。

 イレーネの話だと、僕が日本に戻ってくる頻度は、僕の心理状態にかなり左右されるらしい。
 第1期の頃は、僕が日本に戻りたいと強く思っていたのは、性的な欲求不満が主な原因だったけど、第3期に属する今の段階では、それが原因ではない。エッチなテクニックに関しては、マリアよりむしろイレーネの方が上手なので、明らかに今の僕は、マリアないし湯川さんに会いたいという欲求が、日本に帰りたいと思う主な動機になっているのだ。
 イレーネも十分可愛いし、僕にとってはもはや手放せない存在になってしまったけれど、僕の心が求めているのは、イレーネではなくマリア、または湯川さんなのだ。手放してならぬ『何か』を間違えてはいけない。

 でも、そこまでは分かっても、その先の思考は整理できなかった。再び日本に戻って来たければ、マリアと会うのを我慢し続ければいい。でもそうすると、大好きなマリアに会えなくなってしまう。
 あの世界で自分のお嫁さんを作るなら、やっぱりイレーネでは無くてマリアだ。でも、マリアをお嫁さんにしてしまったら、たぶん僕はビザンティン世界での生活に満足してしまい、日本に戻れなくなってしまう。
 僕は眠りに就くまで、結論の出ない神学論争みたいな議論を、脳内で繰り返すことになった。


 次の朝、僕はビザンティン世界で目が覚めた。イレーネが起こしてくれたというよりは、イレーネのエッチなご奉仕による快感で目が覚めたというのが実情である。最近はそんなイレーネを当てにしてしまっているので、日本では夜眠るとき、どんなに欲求不満が溜まっていても1人ではしない。
 僕は、なんて罪深い人間だろう。性生活ではイレーネに深く依存してしまっているのに、本当に好きなのはイレーネではなくマリアなのだ。僕は、イレーネに気持ち良くしてもらいながら、彼女に申し訳ない気分で一杯になった。

第14章 第2回武闘大会

 話はビザンティン世界へ戻る。
 包囲戦の陣中では、暇つぶしを兼ねて第2回の武闘大会が開催されることになった。前回やったのは第2話の最後近く、ミラスへ侵攻したときなので、当時より将軍たちの顔ぶれもだいぶ増えている。第2回をやるなら、時期的にもちょうど良いだろう。

「武闘大会ね。前回見られなかった分、今回はこのあたしが盛り上げてあげるわ。見てなさい!」

 テオドラがやたら張り切っているので、僕は基本的なルールを決めただけで、大会の進行など細かいことはテオドラに任せることにした。


 そして大会当日。
「栄光あるローマ人のみなさーん、そして新たに加わったみなさーん、元気にしてますかー?」
 ルミーナの呼び掛けに、一部の観衆から「おう!」という声が挙がるが、
「みんな、声がまだまだ小さいよー! もっと大きな声で、皆さん元気にしてますかー?」
「「「おう!」」」
「盛り上がってきたところで、これから最強のローマ人が決まる、第2回武闘大会を始めまーす! 司会はこのわたし、『ビザンティオンのアイドル』こと、ルミーナ・ラスカリナが務めまーす! みんな、よろしくねー!」
 会場から、ルミーナに対し大きな拍手が起こった。ルミーナも結構な美少女ではあるが、自ら『ビザンティオンのアイドル』なんて言い出すところは、さすが『ビザンティオンの聖戦士』を自称するテオドロスの妹である。

「大会を始める前に、まずはこのルミーナから、簡単にルールの説明をしちゃいますね。今回は参加希望者が多かったので、厳正なる予選の結果、大会の出場者は8人に絞られていまーす!

 出場者の皆さんは、それぞれ1対1で、自分の好きな武器を使って対戦相手と戦ってもらいまーす! 使う武器は原則自由で、馬に乗って戦っても、徒歩でも構いません。ただし、弓矢などの飛び道具と、神聖術の使用は不可です。これらの反則行為があった場合は、その時点で失格になりますので、出場者の皆さんは注意してくださいねー!

 試合の勝敗は、相手を戦闘不能にするか、相手に負けを認めさせれば、その時点で勝利となりまーす。1試合あたりの制限時間は、原則として20分で、その間に勝敗が付かなかったときは、総大将のミカエル・パレオロゴス殿下が、観戦している皆さんの声を聞いて、勝敗を判定しまーす!
 そして、決勝戦の勝者には、殿下からコンスタンティノス勲章の銀賞と、副賞のジェノヴァ金貨10枚が贈られまーす! 以上が、今日の大まかな予定でーす!

 そして明日は、本日の戦いで優勝した参加者さんと、前回の優勝者であるテオドロス・ラスカリス、つまりこのルミーナのお兄ちゃんとで、『最強のローマ人』の名を掛けた勝負が行われまーす!
 この試合の勝者には、『最強のローマ人』たる証のチャンピョンベルトと、副賞としてコンスタンティノス勲章の銀賞が贈られまーす!
 つまり、今日の参加者さんが優勝して、明日のお兄ちゃんとの試合にも勝てば、なんと合計で金貨20枚がもらえちゃいまーす! すごいねー! 普通の兵士さんなら、これだけで一生遊んで暮らせちゃうねー!
 なお、本日の決勝戦と、明日の『最強のローマ人』決定戦には、20分の時間制限は適用されません。強者同士の熱いバトルを、是非お楽しみくださいねー!」
 ここまでは、概ね事前の打ち合わせどおり。でもルミーナって、結構司会が上手いな。


「それでは、ただいまから予選を勝ち抜いた、8人の皆さんをご紹介しま~す! 皆さんとも、熾烈な予選を勝ち抜いた勇士さんなので、盛大な拍手で迎えてあげてくださーい!」
「「「おう!」」」
 予選は非公開で行われたので、僕も誰が勝ち抜いたのかはまだ聞いていない。どんなメンバーが出てくるのか楽しみだ。

「それでは、エントリーナンバー1番! 参加希望者の中では最年少、しかも女の子ながら、並み居る強敵を打ち破って見事本選出場を決めた、クマン族の英雄バチュマンの娘にして、『クマン人希望の星』こと、ダフネちゃんでーす!」
「このまま、ダフネが優勝してやるのだ!」
 登場したダフネに、観衆から盛大な拍手が送られた。
 ・・・ダフネも参加を希望するとは聞いていたが、まさか本選まで勝ち上がるとは思わなかった。

「続いて、エントリーナンバー2番! 甘いマスクでローマの女性たちを魅了する、『ビザンティオンの女殺し』、そして『戦いの神アレス』こと、アレクシオス・ストラテゴプルスさんでーす!」
「アレスです。でも、初戦の相手は女の子ですか。ちょっとやりにくいですね」
 そんなアレスにも、盛大な拍手が送られた。
 ・・・まあ、アレスは出てくるだろうと思ったが、さすがのダフネも、初戦の相手があのアレスでは、さすがにきついかな?

「エントリーナンバー3番! なんと鎧も付けず、馬にも乗らずに、武器は短剣だけで予選を勝ち上がってきた、常人離れした俊敏さを誇る『奇跡のカタルーニャ人』こと、ジュアン・ムンタネーさんで~す!」
「・・・カタルーニャ人の底力、この場で見せてくれよう」
 ジュアンに対しては、拍手と共に驚きの声が挙がった。彼は本当に鎧を付けておらず、鋭い短剣と粗末な衣服だけで登場してきたのだ。どんな戦いぶりを見せてくれるのか楽しみだ。

「エントリーナンバー4番! ローマ軍団若手の有望株ながら、前回は惜しくも準決勝でティエリに敗れた、このルミーナの弟でもある、『ビザンティオンの若大将』こと、イサキオス・ラスカリスでーす! みなさーん、イサキオスを応援してあげてね~!」
「姉上、司会なんですから、もうちょっと中立に紹介しないと」
 イサキオスにも拍手が送られた。彼も頑張っているみたいだけど、どれだけ腕を上げているかな?

「そして、エントリーナンバー5番! ローマ帝国最強の術士にして、最強のローマ人の称号獲得までも目指す、皆さんご存知の『太陽の皇女様』こと、テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様でーす!」
「みかっち、見てなさい! あたしが世界最強だってことを見せてやるからね!」
 まさかのテオドラ登場に、僕を含め会場の皆は呆気に取られ、ワンテンポ遅れて拍手が起こった。
 ・・・テオドラって、元エリス派だけあって、神聖術を使わなくても結構強いのか。

「エントリーナンバー6番! あのタタール人を相手に最期まで戦い抜いた、ホラズムの英雄王ジャラールのご落胤にして、イスラム勢で唯一本選出場を果たした、『ホラズムの皇子様』こと、ジャラールッディーン・イブン・メングベルディーさんです!」
「ジャラールと呼んでくれ。・・・あと、親父のことは俺には関係ねえ」
 ジャラールには、主にイスラム勢の将兵から、盛大な拍手と歓声が沸き起こった。
 ・・・まあ順当なところだけど、イスラム勢の本選出場者がジャラールだけということは、オスマンもメンテシェも落ちたのか。かなりレベルの高い戦いになりそうだな。

「続いて、エントリーナンバー7番! テオドラ皇女様の指導により、真のエリス派術士として生まれ変わった、ダフネちゃんに次ぐ女性の年少出場者、『パレオロゴスの白い疾風』こと、エウロギア・パレオロギナちゃんでーす!」
「私の活躍を見てください、お兄ちゃん!」
 エウロギアにも盛大な拍手が送られた。
 ・・・まさか、エウロギアまで本選出場を果たすとは。これで出場者は女性3人、しかもそのうち2人はまだ子供だぞ。ローマ人の男たちは、一体何をやっているんだ。

「最後に、エントリーナンバー8番! 前回は決勝戦でテオドロス・ラスカリスと死闘を演じた、今回の優勝候補との呼び声も高い、ラテン人出身の騎士隊長、『ローマ帝国の重戦車』こと、ティエリ・ド・ルースさんでーす!」
「・・・今回こそは、優勝してみせる」
 ティエリにも拍手が送られた。
 ・・・まあ、アレスと同様、ティエリはまず間違いなく出てくるだろうと思ってたよ。

「それでは、主催者の帝国摂政ミカエル・パレオロゴス殿下、出場者の皆様に一言お願いしま~す!」
 え、僕が喋るの? ・・・まあ、主催者だから仕方ないか。

「出場者諸君、正直なところ意外な顔ぶれも多いが、並み居る強敵を打ち破り、見事本選まで勝ち残ってきたことはそれ自体称賛に値する。試合ではルールを守りつつ、各々全力を出し切って欲しい。あと、今回の出場者には女性の神聖術士が多いが、試合中に神聖術を使用した場合は、その種類にかかわらずその場で失格となるので、くれぐれも注意して欲しい。以上、皆の健闘を祈る」


「はい。殿下、ありがとうございました~! それでは、早速試合を始めまーす!
 第1試合は、ダフネちゃん対アレスさんでーす! お二人とも、準備は宜しいようですね。
 それでは、レディー、ゴー!」

 ダフネとアレスは、両方とも馬に乗り、武器は長剣を使って戦った。
 観客の中では、年少のダフネを応援する者の方が多かったが、僕の予想どおり、帝国屈指の剣客であるアレスが相手では分が悪い。ダフネもよく頑張ったが次第に押されがちになり、開始15分、ついにダフネは力負けし、アレスに剣を弾き飛ばされてしまった。

「皆さんご覧のとおり、第1試合は、アレスさんの勝利でした~!」
「うう、負けてしまったのだ・・・」
「ダフネさん、その年齢でここまでやるとは、むしろ見事なものです。5年くらい後には、私もうかうかしていられないかも知れませんね」 


「それでは、第2試合。ジュアンさん対イサキオスでーす! お二人とも準備万端のようですね。
 それでは、レディー・ゴー!」

 ジュアンは、短剣のほかはほぼ無装備という状態で試合に臨み、対するイサキオスも馬には乗らず、戦闘斧で試合に臨んだ。
 ジュアンの敏捷性は並大抵のものではなく、慣れない対戦相手にイサキオスは翻弄された。
 そして、開始5分頃には、イサキオスは背後に回り込んだジュアンに取り押さえられて短剣を突き付けられ、負けを認めざるを得なかった。

「第2試合は、なんとジュアンさんの勝利でしたー! 何やってるんだイサキオス、そんなんじゃ、いつまで経っても兄貴を越えられないぞー!」
「ううう、武器に戦闘斧を選んだのは失敗でした・・・」
「戦いは、力さえあれば勝てるというものではないぞ、小僧」

 負けた上に司会の姉からもディスられている哀れなイサキオスだが、やはりジュアンは只者じゃない。ひょっとしたら、新参のジュアンが優勝という番狂わせもあるかも知れない。


「続いて第3試合。テオドラ皇女様対ジャラールさんでーす! こちらも、準備は宜しいようですね。
 それでは、レディー・ゴー!」

 テオドラは、武器がミスリルの爪、衣装は宝石や装飾の付いた胸と腰回りの衣装だけという変形エリス派で、馬に乗って試合に臨んだ。対するジャラールは三日月刀を持ち、こちらも馬に乗って試合に臨んだ。
 この戦いは、テオドラにはやや分が悪かった。際どい衣装による色仕掛けも、既に結婚し女性には不自由していない上に、テオドラの性格を知っているジャラールにさしたる効果はなく、得意の神聖術も使えない。テオドラは、ジャラールの攻撃を爪で防ぎつつ、爪でジャラールの三日月刀を何とかもぎ取ろうとするが、ジャラールもその手には乗らない。テオドラの大きなロケットおっぱいも、色仕掛けの通じない戦いでは、むしろ邪魔になってしまう。
 開始10分を過ぎ、次第にテオドラは苛立ちの色が濃くなった。そして、イスラム勢の兵士たちが揃ってジャラールを応援しており、自分を応援する観客が少ないのに気づくと、ついにテオドラはぶち切れた。
「もうやってらんないわ。あたしの技を喰らいなさい!」
 テオドラは、強力な閃光の術、いわゆる『灯り』の強化バージョンと思われる術を使い、ジャラールの目が一時見えなくなると、その隙に爪でジャラールの刀をひったくり、ジャラールを落馬させた。

「やったわ! このあたしの勝利よ!」
「テオドラは、神聖術を使うという明らかな反則行為を行ったので、失格。したがって、試合はジャラールの勝利」
 勝ち誇るテオドラに、僕は冷たく言い放った。一方、落馬したジャラールには、イレーネが直ちに治療にあたったので、事なきを得た。

「どう見てもあたしが勝ったのに、なんで失格なのよ!?」
「だから、試合で神聖術を使うのは禁止だって、ちゃんと念を押したでしょ!?」
「なんで、そんなルールがあるのよ!?」
「神聖術ありの勝負だと安全が確保できないし、どうせ適性の高いテオドラが圧勝するんだろうから、やっても意味無いし」
 テオドラはなおも文句を言っていたが、ルミーナやソーマちゃん、テオファノといった取り巻きたちに宥められ、ようやく退場していった。
 まあ、実際にはテオドラとイレーネが本気で勝負したら、ひょっとしたらイレーネが勝つんじゃないかという気もするけど、イレーネがこういう勝負事に関心を示すとは思えないし。


「・・・皆さん、大変お待たせ致しました。第3試合は、テオドラ皇女様の反則負けにより、ジャラールさんの勝利となります。続いて、第4試合は、エウロギアさん対ティエリさんです。
 それでは、レディー・ゴー!」

 第4試合は、一瞬で決着が付いた。両者とも馬に乗っており、エウロギアは剣で、ティエリは馬上槍と剣で武装していたが、試合開始早々、得意の馬上槍で突撃を掛けてきたティエリの攻撃を、エウロギアは神聖術抜きではかわし切れず、馬から吹っ飛ばされてしまった。

「うう、あんな攻撃、神聖術抜きでは対処のしようがありません・・・」
「誇り高き騎士として、そなたのような小娘に負けるわけには行かぬ」

「第4試合は、ティエリさんが圧倒的な強さを見せつけての勝利です! ティエリさんは予選でも、得意の馬上槍突撃で、すべての相手を開始1分以内に倒すという強さを見せつけていました! エウロギアさんも、ティエリさんの馬上槍突撃を防ぐことは出来ませんでした!
 このまま、ティエリさんが圧勝してしまうのか!? それとも、必殺の馬上槍突撃に対抗できる猛者が現れるのか!? 今後の戦いに目が離せません!」
 何やら、興奮した様子のルミーナが解説を始めた。第2回の試合では、ティエリやジャラールなどの騎馬遊牧民組に配慮して、馬に乗って戦っても良いというルールにしたのだが、あるいはティエリ無双という結果になってしまうかも知れない。なにしろ、あのテオドロスでさえも、ティエリの馬上槍突撃には対応出来なかったのだから。


「では、準決勝第1試合に進みまーす! アレスさん対ジュアンさん、お二人とも準備万端のようです。
 それでは、レディー・ゴー!」

 ジュアンの戦い方は、第2試合と特に変わらなかったが、アレスは今回馬に乗らず、鎧も付けず剣もやや短く軽いものを選び、ジュアンと似たようなスタイルで試合に臨んだ。
 アレスは、もともとスピード勝負型の剣士であり、同じ土俵で勝負すれば、敏捷性もジュアンには負けない。そしてアレスの剣は、ジュアンの短剣よりはリーチが長い。両者の戦いは、競技場を動き回りながら剣を交わし合うスピード戦となったが、次第にアレスが優勢となり、攻め手を欠くジュアンは防戦一方となった。
 もっとも、アレスも素早いジュアンに決定的打撃を与えるまでには至らず、決着が付かないまま開始20分が経過し、2人の勝負は判定に委ねられることになった。

 僕は、観衆に向かって呼び掛けた。
「観衆諸君に問う。この試合、アレスの勝利と判断する者は拍手せよ」
 僕の問いに、ほとんどの観衆が拍手した。
「では、ジュアンの勝利と判断する者は拍手せよ」
 拍手の音は少なく、しかも拍手していたのは、ジュアンの配下であるカタルーニャ兵の一部だけだった。
「諸君の意志は分かった。この試合、アレスの勝利と判定する」

 勝負を終えた2人は、こう言葉を交わし合った。
「私の判定勝ちとはいえ、なかなかの腕前でしたよ、ジュアンさん」
「むむむ、我らカタルーニャ人の戦法を、こうも簡単に模倣されるとは・・・。アレス殿、我は未熟であったようだ」


「殿下の判定により、準決勝第1試合は、アレスさんの勝利となりましたー!
 続けて、準決勝第2試合、ジャラールさん対ティエリさんの勝負になりまーす!
 お二人とも、既に準備は宜しいようですね。では、レディー・ゴー!」

 この試合は、ジャラールがティエリの馬上槍突撃をかわせるかの勝負になった。ジャラールもそれは予期していたらしく、ジャラールは馬を巧みに操り、ティエリの最初の突撃を見事かわした。
 観衆からはどよめきの声が挙がったが、ティエリは態勢を立て直すと、すぐ2度目の突撃を敢行した。
 ジャラールはこの突撃も何とかかわしたが、ティエリはその行動を予期していたらしく、2度目の突撃は敢えて速度を落とし、すぐさま方向転換して、まだ態勢の整わないジャラールに向かって3度目の突撃を敢行した。ジャラールもこの攻撃はかわし切れず、ジャラールは馬から吹っ飛ばされてしまった。

「・・・駄目だ。野戦で戦うならともかく、一騎討ちでラテン人の騎士に勝てるはずがねえ」
「我が突撃をかわしたことは誉めてやろう。だが、馬上槍試合は騎士の最も得意とするところ。負けるわけには行かぬ」

「準決勝第2試合は、ティエリさんの勝利です! ティエリさんの突撃をかわしたのはジャラールさんが初めてですが、それでも2分かからずに勝負が付いてしまいました!
 1時間の休憩の後、午後からアレスさんとティエリさんの決勝戦に入りますが、このままティエリさんが圧勝してしまうのか!? それともアレスさんに策はあるのか!? 今後の戦いにも目が離せません!」


 昼休憩の間、僕を含む軍の幹部たちは、ティエリとアレスのどちらが勝つかという話題でもちきりになった。
「ティエリが勝つに決まってんだろ。あいつは化け物だ。俺、予選の1回戦であいつと当たっちまったんだぜ。運が悪かったと言うしかねえ」とユダ。
「俺も、2回戦でティエリに当たっちまったよ。おかげで本選には出られなかったが、ティエリが『最強のローマ人』になれば、俺も親父に負けた言い訳ができるよ」とオスマン。
「そうとは限りますまい。アレス殿は、相手に応じて戦い方を変えてきます。ティエリ殿の突撃にも、何か対応策を考えてあるに違いありません。ちなみに私は、予選1回戦でアレス殿に当たって敗れました」とシルギアネス。
「俺は予選2回戦でアレスに負けた。俺の予想だと、たぶんアレスは、敢えて馬には乗らず徒歩で戦うと思うな。あの突撃をかわすには、むしろ徒歩の方がやりやすい。俺じゃ無理だが、アレスならたぶんかわせるだろう」とメンテシェ。

「だが、ティエリは馬上突撃だけでなく、徒歩で剣を持って戦ってもかなりの強者です。しかも彼は、我が息子と剣で戦うことも想定して、かなり訓練を重ねておりましたから、馬上突撃をかわしてもアレスが勝てるとは限りませんぞ」とラスカリス将軍。
「戦いは力だけでなく、知恵も必要です。私は新参なのでティエリ殿の腕には詳しくありませんが、これまでの戦いぶりを見る限り、アレス殿の方が知恵では勝っていると見ました」とドミトリー。
「難しいところですな。まあ、試合観たさのあまり、アドリアヌーポリの市民たちはおろか、ブラナス一門に属する者や配下の兵士たちまで、我が軍に投降する者が現れ始めております。どちらが勝ったとしても、イベントとしては大成功でございますな」とヴァタツェス将軍。
 なお、この3人はベテラン勢なので、予選にも参加しなかったようである。

「他の人はどう思う?」
 僕が話を振ってみたが、なぜか他の将校は一様に沈黙を守っていた。
「コンスタンティノスはどう思う?」
「・・・予選で妹に負けた人間に、戦いを語る資格はないと思います」
「ああ、お前確か、予選1回戦でエウロギア相手に3分持たなかっただろ。情けねえなあ」とユダ。
「ユダ殿、女だからといって油断してはいけません。私も予選2回戦でテオドラ様に当たり、神聖術を使わない皇女様相手なら勝てるだろうと思っていたら、あっけなく負けてしまいました」とギドス。
「殿下、俺もダフネに負けた口だが、積極的に発言しない面子は、大体女かあのジュアンに負けてるんだよ。アレスやティエリに負けた連中ならまだ言い訳もできるが、俺たちは言い訳すらもできねえんだよ。そういう連中の傷口を広げないでやってくれよ」とベッコス。

「じゃあ、イサキオスに負けた人たちは?」
「イサキオスはクジ運が良かったな。あいつと予選で戦ったのは、武闘大会で殿下の目に留まり、出世しようと目論んだ身分の低い連中で、そんなに強い奴はいなかったな」とバルダス。
「そうでもありません。予選2回戦でイサキオスに負けたブルガリア人の若い男は、ファランクス隊に入隊したばかりの新入りですが、結構見どころがありましたぞ」とジョフロワ。
「でも、本選出場者に負けた奴はまだ良いよ。本人の名誉にかかわるから名前は出さねえけど、予選でルミーナやソーマちゃんに負けた奴だっているんだぜ」とギヨーム。

「予選では、ルミーナやソーマちゃんまで出てたの!?」
「ああ。2人とも、意外に強かったぜ。ルミーナは予選2回戦でエウロギアに負けて、ソーマちゃんは予選2回戦でジュアンに負けたが、司会に回ったルミーナはエウロギアが負けたのを見て、明らかに喜んでたな」と語るのは、ティエリの腹心ティボー。
「でも、ティボーさんも、なかなか良い線まで行ってたではないですか。予選の2回戦でダフネさんに負けはしましたけど、判定は僅差でしたし」とコンスタンティノス。
「まあ、パキュメレスよりはましな負け方だったけどな」
 そう語るティボーに僕は驚き、思わず問い掛けた。
「パキュメレスまで出場してたの!?」
「出場してたというより、『私には武闘大会なんて無理です』って嫌がってたのを、皇女様が無理やり出場させたって感じだったな。それで、パキュメレスは予選1回戦で皇女様に当たって、泣きながら散々皇女様にいじめ倒されてたな。あれは試合というより、ただのリンチだったな」とティボー。
 他の予選敗退組も、異口同音に「パキュメレスは、見ていて可哀そうだった」という趣旨のことを語っていた。
 ・・・何が「厳正なる予選」だ。やはりテオドラに予選の運営を任せたのは間違いだったようだ。

 その後も、僕が見られなかった予選に関する裏話が語られたが、ジョフロワの語ったブルガリア人の若い男以外に、予選敗退組で特に気になる人材の話は出て来なかった。


「さあ、それでは本日のメインイベント、決勝戦がいよいよ始まります!
 この決勝戦の勝者は、第2回武闘大会の優勝者となり、そして明日行われる、『最強のローマ人』への挑戦権を手にすることになります!

 決勝戦まで勝ち残ったのは、この2人!
 1人は、エントリーナンバー2番のアレスさん!
 アレスさんは、まさしく戦いの神に相応しく、天才少女ダフネちゃんを正攻法で打ち破り、そして短剣だけで勝負する奇策の使い手・ジュアンさんには同じ奇策で対抗し、見事決勝戦まで勝ち昇って参りました!
 決勝戦ではどんな戦いを見せてくれるのか、このルミーナも楽しみです!

 もう1人は、エントリーナンバー8番のティエリさん!
 ラテン人騎士のティエリさんは、まさしく『ローマ帝国の重戦車』の異名に相応しく、得意の馬上槍突撃で、これまですべての対戦相手を2分以内に打ち破るという、驚異的な強さを見せつけてきました!
 このままティエリさんが優勝するのか、それにアレスさんが待ったをかけるのか。熱い戦いがいよいよスタートです!

 この決勝戦では、時間制限はありません。基本的に、お二人には決着が付くまで戦って頂きます。ただし、本日夕方になっても決着が付かないという事態になった場合には、その後の対応については別途お知らせ致します。

 二人とも、準備は宜しいようですね。
 それでは、運命の一戦! レディー、ゴー!」

 いよいよ決勝戦が始まった。ティエリは、当然のようにいつもの騎士装備で臨み、一方アレスは馬に乗らず、対ジュアン戦と同じスタイルで臨んだ。メンテシェの予想どおり、突撃をかわしやすいよう、敏捷性重視のスタイルを選択したらしい。
 ティエリは、アレスに対しいつもの馬上槍突撃を仕掛けたが、アレスはいとも簡単に突撃をかわし、やがて高い敏捷性を活かしてティエリの馬に飛び乗り、ティエリの背後に取り付いた。ティエリは咄嗟に馬を降り、馬上槍を捨てて剣を抜き、アレスと徒歩での剣勝負となった。

 ここまでは、アレスの作戦勝ちかと思われたが、ティエリは馬上槍突撃だけでなく、剣でも滅法強い。重装備のパワーファイターであるティエリと、剣以外は無装備のスピードファイターであるアレスとの勝負は、次第にアレスの劣勢になってきた。アレスの攻撃は、重装備のティエリにはほとんど打撃を与えられず、ティエリの攻撃はなかなか当たらないものの、当たると結構なダメージになってしまう。
 2時間を超える戦いの末、アレスはとうとう力尽き、自ら負けを認めた。

「ついに決着が付きました! 奇策で勝負したアレスさん、無念の敗北です! 第2回武闘大会の優勝者は、ティエリ・ド・ルースさんに決まりました! 皆さん、熱い戦いを演じてくれたティエリさんとアレスさんに、拍手をお願いします!」
 決勝戦に相応しい戦いに、僕を含め観衆の誰もが、2人に惜しみない拍手を送った。


 優勝者のティエリには、第2回武闘大会の優勝を示す表彰状、そしてコンスタンティノス勲章の銀賞、副賞の金貨10枚を僕自ら手渡した。また、当初の予定にはなかった
が、決勝戦で敢闘したアレスにも、準優勝としてコンスタンティノス勲章の銅賞、副賞金貨3枚を贈ることにした。

「ところでティエリ、せっかく優勝したのに、あまり喜んでいる風じゃないね?」
「我が目的は、優勝することではない。テオドロス・ラスカリスと勝負して勝つことにある」


 翌日。予定どおり、前回の優勝者であるテオドロス・ラスカリスと、今回の優勝者ティエリ・ド・ルースとの試合が行われることになった。

「栄光あるローマ人のみなさーん、新たに加わったみなさーん、元気にしてますかー?」
「「「おおう!」」」
 昨日より大きな歓声が挙がる。兵士や観客の民衆たちも、古代ローマ方式をアレンジした、この新しいフレーズに馴染んできたようだ。

「いいですねえ。盛り上がってきたところで、いよいよ『最強のローマ人』を決める戦いを始めたいと思います!
 この戦いの挑戦者は、昨日の第2回武闘大会で見事優勝を決めた、『ローマ帝国の重戦車』こと、ティエリ・ド・ルースさん!
 準決勝までは得意の馬上槍突撃により余裕で勝ち抜き、決勝ではアレスさんに得意の馬上槍突撃を封じられながらも、2時間以上にわたる激闘の末、アレスさんを力でねじ伏せ、見事優勝を勝ち取りました!

 そして、その挑戦を受けるのは、私ルミーナの兄でもある、『ビザンティオンの聖戦士』こと、テオドロス・ラスカリス!
 前回の武闘大会では優勝を果たしたものの、ティエリさんの剣が折れるというハプニングに助けられ、しかも翌日に行われた馬上槍試合ではティエリさんに敗れるという醜態を見せてしまいました!
 因縁の相手であるティエリさんの挑戦を跳ね返し、王座を守り抜くことが出来るのか! それとも、ティエリさんに王座と『最強のローマ人』の称号を奪われてしまうのか!

 戦いの前に、今回の勝負に関する抱負を、お二人から一言ずつ伺いましょう!
 まずは、挑戦者のティエリさん、どうぞ!」

「・・・今回は、必ず勝って見せる」

「シンプルですが、非常に気迫のこもったコメント、ありがとうございました! ティエリさんのやる気は、半端なものではありません!
 それでは、防衛者のテオドロスさん、どうぞ!」

「俺の愛するプルケリア、この戦いに勝ったら、俺と結婚してくれ!」
「・・・お断りします」

「なんということでしょう! 防衛者のテオドロスさん、ここでまさかの愛の告白です! しかも、プルケリアさんには即答で断られてしまいました! 本当にやる気あるのかこの馬鹿兄貴!
 もう結果は見えているような気もしますが、『最強のローマ人』決定戦、いよいよスタートです!
 レディー、ゴー!」

 こうして、見ている方も呆れるような形で始まった戦いだが、テオドロスは他のことはともかく、戦いについてはプロである。アレスと同様馬には乗っていないが、武器には得意の戦闘斧を選び、結構な重装備で戦いに臨んでいる。テオドロスは不敵な笑みを浮かべており、どうやら自信があるようだ。
 ティエリは、昨日と同様に馬上槍で突撃を仕掛けるが、テオドロスは難なくこれをかわす。そうした空振りの突撃が5回ほど続き、どうやら突撃の効果が無いと分かると、ティエリは槍を捨てて剣を抜き、馬から降りて、テオドロスに剣での勝負を挑んだ。

 勝負は3時間ほど続いたが決着はつかず、休憩を挟んで続きは午後に持ち越された。


「今回は、どちらが勝つか分からないね」
「いや、今回はおそらく、我が愚息の方が勝つでしょう」とラスカリス将軍。
「どうして?」
「我が息子テオドロスは、勉強はラテン人以上に苦手ですが、パワーとスタミナは呆れるほどに高いのです。それに、テオドロスの使っている戦闘斧は、重装備の相手にも、その重さで打撃を与えることが出来、騎士相手には有効な武器です。これに対し、ティエリの使っている長剣は、重装備の相手にはそれほど大きな効果を発揮しません。
 今のところティエリは頑張っていますが、勝負が長引けば、次第にティエリも疲れを見せ始めるでしょう。テオドロスは、他のことはともかく、戦うことに関しては熱心で、しかも努力家なのです。昨日は姿を見せませんでしたが、どこかでティエリの戦いぶりを見て、その対策を考えていたのでしょう」


 午後になり、勝負再開の時間となった。
「では、時間になりましたので、お二人の勝負を再開します。午前中は、剣と斧で互角の戦いを繰り広げていたお二人、果たして勝つのはどちらでしょうか? このルミーナも分からなくなってきました!
 では、レディー、ゴー!」

 ルミーナの掛け声とともに勝負が再開された。最初は午前中と同様、2人の勝負は全くの互角と言って良いように思われたが、ラスカリス将軍の言っていたとおり、次第にティエリが疲れの色を見せるようになった。
 ティエリの動きが次第に鈍くなってくると、テオドロスによる斧の連撃をかわしきれなくなり、ティエリは次第に防戦一方に追い込まれた。それでもティエリはよく粘ったが、この劣勢を挽回する手段はもはやなく、試合再開後2時間が経った頃、ティエリはついに力尽きて、自ら負けを認めた。

「只今決着が付きました! 前回の優勝者テオドロス・ラスカリス、見事に王座を防衛しました! 大戦前のふざけた言動とは裏腹に、5時間にわたる激闘の末、挑戦者ティエリを見事に打ち負かしました!」

「プルケリア、見てくれたか!? これが俺の、真の男たる力だ! どうだ、この俺と結婚する気になってくれたか?」
「なりませんよ、もう」
 勝負を観戦していたプルケリアは、呆れ顔でそう答えたが、言葉とは裏腹に、そう満更でもない様子だった。

 勝者であるテオドロスには、僕から双頭の鷲をあしらった、『最強のローマ人』であることを示す金のチャンピョンベルトと、コンスタンティノス勲章の銀賞を授与した。

「テオドロス、見事な名誉挽回だね」
「まあな。昨日のアレスの戦いぶりが参考になったぜ」
「やっぱり、どこかで戦い方を研究してたんだ」
「そりゃあ俺だって、決して前回の王座にあぐらをかいていたわけじゃない。今回は徒歩で戦ったが、今なら馬上槍試合の勝負でも、ティエリに勝つ自信はあるぜ」


 予選をテオドラ任せにしたことで、パキュメレスがますますテオドラを怖がるようになったなどいくつかの問題もあったものの、全体としては民族や宗教の違いを越えて軍内の親睦も深まり、戦闘技術の向上にも繋がり、非常に盛り上がった大会にもなったので、イベントとしては大成功と言って良いだろう。

 そんな折、僕はブルガリアに使者として派遣していたヨハネス・ペトラリファスから、『通話』の術で緊急連絡を受けた。
「ペトラリファスです。殿下、今お時間大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だ。何かあったか?」

「只今、タルノヴォでイヴァン・アセンとの面会を済ませ、こちらからの提案は快く受け容れられたのですが、ブルガリアの内情は相当、大変なことになっているようなのです。緊急に対処しなければ、我々はモンゴル軍を敵に回してしまうかも知れません」
「何だと!?」

第15章 外交戦

 ペトラリファスからの連絡を受け、僕は緊急の作戦会議を招集した。外交問題にも関わる話なので、アクロポリテス内宰相とソフィアにも、物資補給用に作ってあった臨時の移動拠点を使って、陣中に駆け付けてもらっている。

「諸君。緊急に呼び出してしまって申し訳ない。本日、ブルガリア王イヴァン・アセンの本拠地タルノヴォに派遣していた、ペトラリファスから緊急の連絡が入った。・・・」


 僕が幹部たちに報告した事項は長くなるので、以下に要点だけをまとめる。

1 ブルガリア王イヴァン・アセンは、攻守同盟の提案を快く承諾した。

2 しかし、イヴァン・アセンは首都のタルノヴォを維持しているものの、対立王ボリルには軍事力で大きく後れを取っており、危機的状況にある。

3 ブルガリアの国内は、先王カロヤン・アセンの時代にモンゴル軍の侵入を受け、その属国となることを余儀なくされており、国内は荒れ果てて、経済的には非常に貧しい状態にある。
 それでも、先王カロヤンの時代には、ブルガリア王国はラテン人の軍を二度にわたって破るなど存在感を示していたが、経済的にはかなりの無理があり、それがカロヤン暗殺事件の起きた一因でもある。

4 イヴァン・アセンが、婚姻同盟を結び援軍の当てにしていたマジャル王国は、ブルガリアと同様にモンゴル軍の侵入を受けたこともあり、国内は荒廃し、とても援軍を出せる状況にない。

5 イヴァン・アセンは、宗主国であるモンゴル帝国のバトゥに、貢納を送り自分の国王即位を認めてもらおうと考えているが、あまりの財政難であるため貢納金を用意することもできない。

6 一方、対立王のボリルも、バトゥに貢納を送って自分の国王即位を認めてもらおうと画策しており、ボリルに先を越されれば、イヴァン・アセンとその同盟国であるわが国は、強大なモンゴル帝国を敵に回してしまうことになる。

7 このような状況から、イヴァン・アセンはわが国に対し、貢納金の肩代わりと、ボリル討伐のための援軍派遣を要請してきた。
 この要請に応じてくれれば、ブルガリアはビザンティン帝国の皇帝を兄と仰ぎ、ラテン派すなわちカトリックとの浮気をやめ、ブルガリアの正教会はニケーア総主教の管轄下に入ることを認める。また、先王カロヤンがラテン人から奪っていたフィリッポポリスやその一帯を、ビザンティン帝国に返還することを約束するという。

 なお、マジャル王国とは、日本ではハンガリーと呼ばれている国で、ビザンティン帝国ではパンノニアなどと呼ばれることが多いが、色々な別名があって紛らわしいので、以後は彼らの自称である「マジャル人」「マジャル王国」で統一する。


 こうした提案を受けて、様々な意見が挙がった。
「率直に申しまして、イヴァン・アセンの要請は、わが国にとってはいまいち実益の乏しいものでございますな。モンゴル軍を敵に回すことは避けなければなりませんが、それはイヴァン・アセンと手を切ることでも可能であり、むしろ応じない方が良いのではありませぬかな」とラスカリス将軍。
「いや、フィリッポポリスは、帝国の北方に対する守りの要であった場所であり、ブルガリアから取り戻す実益は、経済面ではともかく防衛面では十分にございますぞ」とヴァタツェス将軍。
「実益がないわけではございませんが、要請の内容と報酬が釣り合っておりません。わが国にこれほどの要求をするのであれば、むしろ進んでわが国の属国になるのが筋ではないかという気も致しますが」とソフィア。
「仮に要求に応じるとしても、既にボリルが、モンゴルへの使者を派遣しているのであれば、間に合わない可能性もございます。応じるにしても応じないにしても、外交的に早急な対策を打つ必要があることは明白でございます」とアクロポリテス先生。
「いずれにしても、実益の乏しいイヴァン・アセンとの同盟と援助をあくまで継続するか、それともかの者と手を切るか、殿下には早急にご決断頂かねばならないと思います。その方針が決まらないと、議論は先に進みません」とパキュメレス。


 その問題については、改めて選択肢を出すまでも無く、僕の心は既に決まっていた。

「イヴァン・アセンとの同盟は、あくまでも堅持する」
「何故でございますか?」とソフィアが尋ねて来たので、僕はこう答えた。

イヴァン・アセンと同盟すると決めたときから、実益の乏しい同盟となることは既に想定していた。もっとも、カロヤンを暗殺させて王位を簒奪しようと企む野心家のボリルは、モンゴル帝国に接触してブルガリアの王位を手に入れれば、まず間違いなく、モンゴル軍の力を借りてわが国の領土を侵略しようと企むだろう。
 いずれにせよ、ボリルがわが国の敵に回る可能性が高いのであれば、むしろボリルがブルガリアの王位を手中にする前にこれを叩き、我々の力でイヴァン・アセンを王位に就け、彼の王位をモンゴル帝国にも認めさせ、ブルガリアをモンゴル帝国とわが国との緩衝地帯とする。これが、モンゴル帝国を敵に回さない最善の策である。
 イヴァン・アセンは、形式上自国の独立を維持するため、イサキオス帝を自らの兄と仰ぐなどと曖昧なことを言っているが、王位を固めるにあたりこれだけわが国の力に依存すれば、実質的にはわが国の属国になるも同然であり、形式にこだわる必要は無い。
 また、ブルガリアはもともと貧しく、モンゴル帝国から課された貢納は、わずかジェノヴァ金貨20枚相当分でしかない。この程度の貢納をわが国が肩代わりしても、さほどの財政的負担にはならない」


「殿下が、そこまでお考えになって事を決められたのであれば、覆す余地はございますまい。では、まずボリルに先を越されないための対策を考えましょう」とアクロポリテス先生。
「じゃあイレーネ、ボリルが既にモンゴルへの使者を派遣しているかどうか分かる?」
 僕がイレーネに尋ねると、イレーネは軽く杖を振った後、こう答えた。

「ボリルは、既に使者をバトゥの拠点に向けて出発させている。使節団の人数は、護衛兵を含めて22人であり、現在は黒海北岸のターナへ向かっている」

「それであれば、我々も事を急がなければなりません。ちょうど、わが国の交易船団が現在ターナに停泊しておりますから、ターナの移動拠点を使って暗殺者を送り込み、ボリルの使節団を始末させ、その一方で我々も、モンゴル帝国に対する使節団の準備に取り掛かっては如何でございましょうか」とソフィア。

「それもやろう。もっとも、ペトラリファスの話から察するに、おそらくブルガリアからモンゴルへの貢納は滞っており、モンゴル側も怒っているだろう。普通に使節を送らせるだけでは、時機を失するおそれがある」
「では、どうなさるお積もりなのですか?」
「イレーネが使えるアクティブ・ジャンプの術で、僕が自らブルガリアの使節に同行し、バトゥの本拠地に赴こう。ちょうど、黒海貿易の関係もあり、出来ればモンゴルとは正式な国交関係を樹立したいと考えていた。これは、むしろ良い機会だ」

「それであれば、この際イサキオス帝の娘の1人を、同盟の証しとしてモンゴルに輿入れさせてはいかがでございますか?」
「そう出来ればいいけど、ソフィア、誰か適当な娘がいるの?」
「はい。正嫡の娘は残っておりませんが、庶出の娘であれば、テオドラ皇女様より年下の娘たちはまだ未婚でございます。適当な候補としては、ゾエ様などはいかがでございましょうか」
「ゾエって誰?」
「イサキオス帝がメイドに産ませた庶子で、テオドラ様式の数え方によれば、イサキオス帝の第19皇女にあたります。現在はニケーアの宮廷で暮らしておりますが、性格は穏やかで特に問題は無く、顔立ちもそれなりに良く、神聖術も習っておらず、趣味はお祈りと香水作りというお方です。
 モンゴル人の君主たちは、多くの女性を妻に迎える一方、妻が嫡出の娘であるかどうかは特に気にしないそうですので、ゾエ様でも一応正式な皇女にする手続きを取り、皇女に相応しい調度品や贈り物を持たせて嫁がせれば、問題にはならないかと存じます」
「分かった。その件も手配してくれ。ただ、婚姻については急ぎの案件ではないので、バトゥと話がまとまったら、1年後くらいに嫁がせるくらいの準備で問題ない。そのゾエという娘については、遠い異国の地でも、趣味の香水作りを続けられるように取り計らってやってくれ。わが国のために、わざわざ遠い異国に嫁がせるのだ。そのくらいの配慮はしてやろう」
「畏まりました」

「それより、大至急で進めてほしいのは、バトゥに贈るブルガリア分の貢納と、わが国分の贈り物を用意することだ。どのくらいで出来る?」
「1週間ほど時間を頂ければ、何とかなります」
「では、ソフィアはその準備にあたってくれ。あと、ボリルの派遣している使節団を始末する役目には、エウロギアを送ろう。彼女なら、1人で20人程度の使節団を始末することくらい容易いはずだ。任務が終わったら、パッシブジャンプで戻ってきてもらえばいい」
「ボリル討伐の軍については、いかがなさいますか?」とラスカリス将軍。
「僕が、外交任務を終えて戻ってきたら、直ちに出陣できるよう取り計らってくれ。アドリアヌーポリの包囲には最低限の人数を残し、残りの軍はボリル討伐に使いたいんだけど、ヴァタツェス将軍には包囲軍の指揮をお願いできますか?」
「その程度のことは、お安い御用でございます」
「包囲軍として、どのくらいの兵力を残す必要がありますか?」
「既に、アドリアヌーポリは守備隊の数も減っており、いつ陥落してもおかしくない状況ですので、5千人もいれば十分でございます」
「では、ちょうど約5千人いる諸侯たちの兵士は、ヴァタツェス将軍の指揮下で包囲を継続し、直轄軍は僕の指示があり次第すぐに出発できるように、準備させてくれ」


 こうして、僕とその周囲は、今まで暇だったのがまるで嘘であったかのように忙しくなった。
 僕は、タルノヴォにいるペトラリファスと連絡を取り、要請に応じる代わり、タルノヴォに臨時の移動拠点設置を認めるよう、イヴァン・アセンに交渉するよう命じた。設置許可はその3日後に何とか出たので、ペトラリファスが自ら移動拠点を設置し、ブルガリアの使節を陣中に連れてきた。使節たちは、突然見知らぬ場所に連れて来られて困惑していたが、彼らに構っている暇はない。
 一方、エウロギアには事情を説明して、すぐさまボリルが派遣している使節団の抹殺に向かってもらった。案の定、彼女は難なく任務をこなし、ちょうど1週間で戻ってきた。それと時を同じくして、ソフィアも貢納と贈り物を用意して陣中に戻って来た。バトゥの本拠地はかなり寒い場所にあるので、ソフィアは防寒着も用意してくれた。これで、バトゥの本拠地へ向かう準備は整った。
 テオドラに邪魔されないうちに、さっさとイレーネのアクティブジャンプでバトゥの本拠地へ行って、サクッと外交の用事を済ませ、サクッと戻ってこようと思ったのだが、


「みかっち! このあたしに無断で、何をコソコソやろうとしてるのよ!」
 ・・・間に合わなかった。
「何って、モンゴルのハーンに挨拶へ行ってくるだけだよ」
「なんで、いきなりそんな話になるのよ! それに、どう見ても戦争の支度もしてるじゃない!」
「確かに、挨拶が無事終わったら、戦争にも行くよ」
「だから、どうしてそういう流れになるのか、あたしにちゃんと説明しなさいよ!」
 そこで、僕がテオドラにこれまでの事情を説明したところ、

「全然訳が分からないわよ! 何で、いきなりブルガリアとか、イヴァンとかが出てくるのよ!?」
 ・・・だろうと思った。
 僕も、今回の件は事情が複雑すぎて、読者さんに分かりやすく説明できる自信が無いのだ。


「全部理解できないのであれば、今ブルガリアで王様になろうとしているボリルっていう人は、僕たちの敵になりそうなので、強力にならないうちに攻め滅ぼしに行く。もっとも、ブルガリアはモンゴルの属国なので、後でトラブルにならないよう、モンゴルのハーンへ挨拶に行く。それだけ覚えておけばいいよ」
「まあ、そのくらいなら理解できるわ。それで?」
「テオドラには、ボリルの討伐に行く際には活躍してもらうけど、モンゴルのハーンへ挨拶に行くのは、寒いだけで何もない、つまらない場所へ行って挨拶してくるだけの仕事だから、テオドラはここでお留守番してて。僕は、イレーネのアクティブジャンプでサクッと行って、すぐに戻ってくるから」
「冗談じゃないわ! そういう重要イベントには、ちゃんとあたしも連れて行きなさいよ!」
 うわあ。またこのパターンか。


 テオドラが、こうなると何を言っても聞かない子だということは分かっているので、僕は仕方なくテオドラも連れて、イレーネのアクティブジャンプを使い、バトゥの本拠地であるサライへと移動した。
 とてつもなく寒いところなのではないかと思っていたが、季節が6月と夏に入っていたこともあり、そこまで寒くはなかった。体感気温は20度くらいか。

「何が、寒いだけで何にもないところよ! 結構面白そうなところじゃない!」
 サライの町は、今まさに巨大都市を建設中といった趣で、多くの職人が集められ、至る所で石造りの建物が作られている。建物のほとんどは建設中なので、実際に人が暮らしているのは大小の天幕であるが、それもかなり豪華なものが多い。
 住民の数は、遊牧民と定住民を合わせて、おそらく数十万人くらいはいるだろう。僕が建設させているニュンフェイオンの比ではない。商業活動も盛んで、見慣れたギリシア人やヴェネツィア人の商人もいれば、イスラム系、あるいは東洋系と思われる商人もいる。確かにこれは、時間さえあればゆっくり見物する価値のある場所だ。
 ちなみに、サライという町の名前は、ペルシア語で館・宮殿・オアシス・故郷などを意味する「サラーイ」に由来する。日本で歌われている『サライ』と直接の関係は無いが、あの曲名も同じペルシア語の「サラーイ」に由来しているので、名称に関しては全く無関係というわけでもない。

 テオドラは、好奇心の赴くままに、勝手に町見物を始めてしまったので、僕たちはその間に外交交渉を済ませることにした。使節団の数は、イレーネのアクティブジャンプで連れて行けるのが今のところ10人までということだったので、僕とテオドラを含めて10人に絞ったが、多人種・多言語の人々が行き交うこの町の中で、現地の人々と支障なく話が出来るのは、『意思疎通』の呪法を掛けられている僕だけだったので、僕がいろんな人から話を聞きまくって、ようやくハーンの天幕らしきところにたどり着いた。

「私たちは、ローマ帝国及びブルガリア王国からやってきた使節団です。ハーンにお取次ぎをお願いしたいのですが」
「承りました。代表者のお名前をお伺いしても宜しいですかな?」
「ローマ帝国の代表が私で、帝国摂政のミカエル・パレオロゴスです。ブルガリア王国の代表が、王国宰相のペタルです」
「承りました。なお、ハーンのバトゥ様は現在、大ハーン・モンケ様の即位式に出席するため、カラコルムに向かわれており不在でございますので、貴殿方を謁見されるのは、留守を任されている弟のベルケ様となります。くれぐれも、失礼のないようにお願い致します」

 このサライには、僕たち以外にも様々な国から毎日多くの使節が来ているらしく、僕たちは謁見の順番待ちをさせられることになった。
「それにしても、テオドラが都合よく町見物に行ってくれて助かったね。テオドラがこの場にいてベルケ様に暴言でも吐かれた日には、すべてが台無しになるところだったよ」
「はい。私も、皇女様がまた何かしでかすのではないかと、それが一番心配でした」

 ちなみに、この場で僕の話し相手になるのは、パキュメレスくらいしかいない。テオドラを除くメンバー9人のうち、ブルガリアの宰相ペタルと従者2人は、おろおろしているだけで役に立たないし、ビザンティン帝国からのメンバーは、僕とパキュメレス、イレーネのほかは、ハーンへの献上品を運ぶ荷物持ちの兵士に過ぎない。
 通常は、こんな少人数で外交使節を務めることはなく、そのため僕とパキュメレスでほとんど何もかもこなさなければならない。イレーネのアクティブジャンプに頼るのは、こういう非常事態のときだけにした方が良いだろう。
 なお、取次役の役人には、さりげなく賄賂として金貨を渡している。他の国からの使節団を見ていると、役人に賄賂を渡している使節は優遇され早く謁見させてもらっているのに対し、渡していない使節は後回しにされていることが分かったからだ。僕の国であれば、こんな役人は即刻処刑するところだが、ここは他国である。モンゴル帝国の内部で政治腐敗が起きていたとしても、僕の知ったことではない。

 賄賂を他の使節より多めに渡したのが功を奏したのか、僕たちの順番は早めに回ってきた。
「お初にお目にかかります。私は、ローマ帝国の摂政ミカエル・パレオロゴスでございます。ここにおりますのは、ブルガリア王国の宰相ペタルにございます。ベルケ様には、お忙しいところ謁見をお許し頂き、恐悦至極に存じます」
「遠路ご苦労であった。本日は、どのような用向きで参られたのかな?」

「ローマ帝国と、ハーンの忠実な臣下であるブルガリア王国は、兄と弟の関係にある同盟国でございます。そして、ブルガリア王国では、国王のカロヤン・アセンが亡くなり、カロヤンの甥にあたるイヴァン・アセンがその跡を継ぐ運びとなりましたので、遅ればせながらハーンへの貢納を持参し、ブルガリア王イヴァン・アセンの即位をお認め頂きたく、ここに参上した次第でございます。
 そして、ブルガリア王国とは兄弟の関係にあります我がローマ帝国も、これを機会にハーンの忠実な僕としてお仕えし、ハーンの国における通商活動を正式にお認め頂きたく、ブルガリアの使節と共にまかり越した次第でございます。
 ここに、ブルガリアからの貢納と、ささやかながらローマ帝国からの献上品をお持ち致しました。お納め下さいませ」
「承知した。ブルガリアの貢納が遅れていたのは、王の代替わりが原因であったか。望みどおり、ハーンの代理として、イヴァン・アセンの即位を認めよう。これからは、貢納を怠ることのないようにあい努めよ。そして、ローマ帝国の摂政ミカエルよ、そなたに申しておきたいことがある」
「何でございましょう?」

「ハーンの忠実な僕として仕えるというのであれば、通商活動は望みのままに認めるが、忠誠の証しとして、皇族に連なる身分の娘を、ハーンに妃の1人として差し出すことが望ましい。ローマ帝国は、千年を超える歴史を持つ文明国と聞き及んでおる。ローマ帝国の皇族に連なる身分の娘が、ハーンの妃となるのであれば、ハーンもお喜びになるであろう」
「その件につきましても、現皇帝イサキオスの娘に妙齢の者がおりますので、お望みとあれば来年あたりにでも、ハーンの妃として輿入れさせる手筈を整えたく存じます」
「既にそこまで考えておるとは、誠に殊勝である。そなたらの忠節ぶりは、ハーンによく伝えておくことにしよう。他に用向きはあるか?」

「はい。ブルガリアでは、ハーンに服属することを不服とする、ボリルと申す不逞の輩が、イヴァン・アセンに対し謀反を起こしております。そこで、お忙しいハーンに成り代わり、ブルガリアの兄弟国である我がローマ帝国が、ブルガリアと協力してボリルを討伐したいと考えております。ベルケ様には、逆賊ボリル討伐の許可を頂きたく存じます」
「そのような者がおるのか。ならば討伐を許可しよう。必要があればわが国の兵も差し向ける故、遠慮なく申すがよい」
「有難いお言葉にございます。ですが、今のところはわが国とブルガリアの兵のみで、ボリルを討伐できる見込みでございますので、討伐の許可さえ頂ければ、おそらくハーンのお手を煩わせることはないかと存じます」

 こうして、ベルケとの謁見は終了し、間もなくイヴァン・アセンのブルアリア王即位を認める勅許状、ローマ人の自由な通商活動を認める勅許状、そして逆賊ボリルの討伐を認める勅許状が僕に手渡された。
 その他、モンゴルの皇族である、ノガイという5歳くらいの少年が僕に興味を持ち、いろいろ質問してきたので、可能な限り親切に対応した。これで外交任務は無事終了。役人への賄賂も奮発し、献上品も量が少ない分、絹織物、宝石、金銀の装飾品など貴重なものを用意してきたので、ハーン代理のベルケにも好印象を与えることが出来た。


「・・・殿下、外交が上手く行ったのは分かりますが、いくつか私にも腑に落ちない点がありましたので、質問させて頂いて宜しいでしょうか?」
「いいよ、パキュメレス。何が聞きたい?」
「ブルガリアに関しては、事実と異なる説明が多かったような気がするのですが。実際のブルガリアは、ボリルとイヴァン・アセンが王位を争っていて、しかもボリルの方が優勢で、またボリルもハーンに服属の意志を示すつもりだったはずなのですが、どうして殿下は、ベルケ様に嘘の多い説明をなされたのですか?」

「パキュメレス。外交というのは、真実をありのままに話せば良いというものじゃないんだよ。モンゴルは超大国だから、無数にある属国の詳しい動向なんていちいち把握していない。ただ、自分の権威に逆らう輩がいれば、軍を派遣して打ち滅ぼすというだけ。
 だから、先に使節を派遣して、ハーンにこちら側に都合の良いことを言って、ハーンに自分の側が正しいと認めてもらえば、外交的にはこっちの勝ち」
「・・・そういうものなのですか?」

「そう。それにボリルも、彼が水準以上の頭脳の持ち主であれば、使節にイヴァン・アセンはハーンに逆らう逆賊だ、ローマ帝国も同様だなどと言い立てさせ、イヴァン・アセンとローマ帝国討伐の許可状をもらおうとし、さらにはモンゴルの援軍を得ようとしただろう。
 今回は、あらゆる策を講じて大急ぎで対処したから、何とか上手く行ったけど、もしボリルに先を越されていたら、ローマ帝国とイヴァン・アセンは、共に強大なモンゴル帝国を敵に回し、危うく滅びるところだったんだよ」
「私も、訳の分からないまま殿下のやり方に従ってきましたが、ローマ帝国は、いつの間にかそんな危険な状態になっていたのですか!?」
「そうだよ。今回は何とかなったけど、ローマ帝国はモンゴル帝国に比べたら、吹けば飛ぶような弱小国に過ぎないんだから、モンゴルとの外交には絶えず細心の注意を払い続けなければならない。以前にも説明したけど、一度モンゴルを怒らせたら、僕もローマ帝国も一瞬で吹っ飛ぶ。パキュメレスも、そのことを良く肝に銘じておいてね」


「分かりました。あと、もう1つお伺いしたいのですが」
「何?」
「モンゴル帝国のハーンと、大ハーンというのは、一体何が違うのですか?」
「モンゴル帝国というのは、1人の皇帝が絶対的な権力を握っているような国では無くて、開祖であるチンギス=ハーンの一族が、それぞれ領地や領民を分与されて、協力して帝国を統治しているわけ。
 そうした一族による王家をウルスというんだけど、主要なウルスとしては、今のところチンギス=ハーンの長男ジュチを開祖とするジョチ・ウルス、次男チャガタイを開祖とするチャガタイ・ウルス、三男オゴタイを開祖とするオゴタイ・ウルス、四男トゥルイを開祖とするトゥルイ・ウルスがある。

 そして、各ウルスの王様にあたる人物をハーンといい、そしてモンゴル帝国の全体を取りまとめる人物を大ハーンという。大ハーンは、クリルタイと呼ばれる、モンゴル帝国の有力者たちが集まる会議で、ハーンの中から選出される。
 今回挨拶に行ったのは、各ウルスのうち、今のところローマ帝国に一番近い、ロシアやキプチャク草原を領地として与えられている、ジョチ・ウルスのハーン。現在のハーンは、ジュチの次男にあたるバトゥだけど、バトゥは遠いモンゴル本国に出掛けていて、バトゥのすぐ下の弟であるベルケが代理を務めていたから、ベルケに謁見したわけ」

「分かりました。でも、一番のトップである大ハーンには、挨拶に行かなくて良いのですか?」

「それは状況次第。最初の大ハーンであるチンギス=ハーンは、文句なしの絶対的権力者だったけど、2代目以降は必ずしもそうではない。2代目の大ハーンは、チンギス=ハーンの三男であるオゴタイだったけど、オゴタイ・ウルスは、モンゴル帝国の中でもそれほど強力なウルスではなく、むしろトゥルイ・ウルスの方が、肥沃な漢人の領地などを相続して、最も強力なウルスになっている。
 それでも、オゴタイが第2代の大ハーンに選ばれたのは、開祖のチンギス=ハーンが、モンゴル帝国全体を取りまとめて行くには、政治的調整力に優れたオゴタイが適任であると判断して、彼を自分の後継者に指名したから。

 オゴタイは、父の期待どおり、モンゴル帝国の全体を上手く取りまとめていたけど、そのオゴタイが亡くなると、次の大ハーンを誰にするかで、帝国内はかなり揉めた。約5年間にわたり大ハーンは空位になり、その後オゴタイの長男であるグユクが第3代の大ハーンに就任したけど、グユクは父と違って、帝国全体を上手くまとめることが出来ず、特にジョチ・ウルスのハーンであるバトゥとは仲が悪かった。

 今、サライで聞いた最新情報によると、どうやらグユクは亡くなったらしく、トゥルイ・ウルスのハーンで、トゥルイの長男であるモンケが、第4代の大ハーンに就任し、バトゥはモンケの大ハーン即位式に出席するために、サライを留守にしているみたい。

 新しい大ハーンのモンケと、バトゥとの仲がどれほど良いのかは分からないけど、仮に両者の仲があまり良くなかった場合、大ハーンのところまで挨拶に行くのは、かえってバトゥの機嫌を損ねるおそれがある。どちらにせよ、モンケの本拠地はかなり遠いから、今後ジョチ・ウルスとの交渉で、大ハーンの許にも挨拶するよう勧められたら行く。特に何も言われないようなら行かない」

「微妙な問題なのですね。ところで、チンギス=ハーンの子孫が増えて行くに従い、4つのウルスが更に分割されたりすることは無いのですか?」

「そうなる可能性は大いにある。実際、ジョチ・ウルス1つを取ってみても、ジュチには10人以上の子供がいて、そのうち一番の実力者である次男のバトゥが現在のハーンになっているけど、ハーンに選ばれなかった長男オルダの影響力も無視できなくて、既にジョチ・ウルスの内部は、バトゥ・ウルスとオルダ・ウルスの分割統治体制になっている。
 今後バトゥが亡くなった場合、ジョチ・ウルスの内部では、後継者をめぐる内部争いが発生する可能性がある。他のウルスについても、似たような問題が発生する可能性がある。

 また、僕の知っている歴史だと、モンケ以降はトゥルイ・ウルスの一族が大ハーンの位を独占するようになって、いわばトゥルイ・ウルスがモンゴル帝国の本家になってしまったので、トゥルイ・ウルスという言葉自体実際には使われていないんだけど、こうしてトゥルイ家が権力を独占したことに他のウルスが不満を持ち、各ウルス間の内戦も起こったりして、モンゴル帝国は次第に分裂し弱体化していった」

「将来弱体化すると分かっているのであれば、別にモンゴルをそれほど恐れる必要は、ないような気がするのですが?」

「そうは行かないんだよ。僕の知っているモンゴル帝国と、この世界にあるモンゴル帝国は、必ずしも同じ経過を辿っていない。僕の知っているモンゴル帝国は、第3代大ハーンのグユクが死亡した後、更に後継者問題で揉めて、第4代ハーンのモンケが即位するまで相当時間がかかっているんだけど、この世界では、大して揉めた様子も無く、モンケが早くも大ハーンに即位している。

 こうしたずれが何によって発生したのかは僕にも分からないけど、ここから先の流れについては、僕の歴史知識はもう通用しない。モンゴル帝国も、上手く分裂し弱体化してくれるとは限らない。
 それに、モンゴル帝国は分裂した状態でも結構強く、ジョチ・ウルスだけでも、現在のローマ帝国をはるかに上回る勢力を誇っている。僕の知っているモンゴル帝国でさえも、分裂と弱体化が進み、恐れる必要が無くなるのは、100年くらい後の話。だから、モンゴルについては常に最新情報を手に入れて、その動きを注視する必要がある」

「・・・あなたの指摘したずれは、私もこれまで認識していなかった。これから、その原因について調査を始めるが、原因の解明にはこの世界だけでなく、あなたの世界に関する情報の両方を比較調査する必要があるため、結論を出すまでに時間を要する。しばらく待って欲しい」とイレーネ。

「イレーネ、原因を解明できるのであれば、よろしく頼む。僕としても、ずれの原因が分からないよりは、分かっていた方が、この先の展開を読みやすい」

「・・・私には、まだ理解できていないところもありますが、少なくとも今のローマ帝国が、モンゴルを相手にした危険な綱渡り外交の上に成り立っていることは、殿下のご説明でよく分かりました。まだ浅学の身ですが、私も殿下をお助けできるように、しっかり勉強したいと思います」とパキュメレス。

「パキュメレスは、まだ理解が早い方だからいいんだよ。こういう繊細な問題を、まるで理解する能力のないアホの子が、何かアホなことをしでかしたら・・・」


「みかっち! これから、サイクロプスを狩りに行くわよ!」
 ・・・ちょうどアホの子が来て、アホな事を言い出した。
「いきなり何で!? それにサイクロプスって何!?」
 名前からして、一つ目の巨人である可能性が高いけど、この世界におけるサイクロプスがどのような存在で、どのくらい強いのかは全く解らない。
「この町の商人から噂を聞いたんだけど、町の北方にサイクロプスが現れたんですって! だから、捕まえてあたしの新しいペットにするのよ!」

「だから、何でそのサイクロプスとやらを捕まえて、ペットにする必要があるの!?」
「だって、あたしの猫のレオーネって、あんたの猫に種付けされてもう何匹も子猫産んじゃって、希少価値がなくなっちゃったのよ。そこであたしは考えたの。世界最強の術士であるあたしには、あたしに相応しい希少価値のあるペットが必要だってね!」

「・・・それで、そのサイクロプスってのは何者なの? どのくらいの強さなの?」
「そんなことも知らないの? みかっち、サイクロプスはね、一つ目の大きな巨人の姿をした神様で、強いだけじゃなくて、凄い鍛冶技術を持っているのよ! サイクロプスは、もういなくなったと思われてたんだけど、実はこの近くでひっそり生活してたのよ! サイクロプスは激レアよ! この世界に1体しかいないのよ!」

「神様を捕まえてペットにするなんて、やっていいの!? そもそも出来るの!?」
「神様と言っても、唯一の父なる神じゃなくて異教の神だから、捕まえてペットにすることは違法じゃないわ。それに、異教神の中では下級で弱い方だから、この天才術士であるあたしの力をもってすれば、ぎりぎりで倒せるくらいのレベルなのよ。このあたしとイレーネ、それに弱いけどネックレスを持ってるみかっちの3人掛かりなら、屈服させてあたしのペットにすることも不可能じゃないわ。
 そしたら、今飼ってるレオーネとその子猫たちは、テオファノが可愛がってるからあの子にあげて、あたしはサイクロプスを『変化』の術で普段は猫の姿にして、レオーネって名前を付けて、新しいあたしのペットにするの。というわけで、イレーネ、みかっち、あたしに協力しなさい!」
「嫌だよ! 何で僕が、そんな無意味に危険な挑戦に協力しなきゃいけないの!?」
「みかっち、今更そんなこと言っても、あたしが術でサイクロプスを挑発したら、怒ってこの町に向かって来たわよ。どっちみち、討伐しないとこの町潰されちゃうわよ」


 ・・・こうして、僕は理不尽極まりない理由により、丸一日を掛けてサイクロプスと死闘を演じることになった。僕に押し付けられた役割は、テオドラとイレーネが後方から術を放ってサイクロプスを弱らせている間、自ら盾になってサイクロプスの攻撃を防ぐというものだった。
 普通の攻撃では傷一つ付けられない、イレーネ特製のネックレスを装備してはいるが、さすがに神様であるサイクロプスが相手ともなると、強力な物理攻撃や雷撃に対し全くのノーダメージというわけには行かず、僕は自分の神聖術で適宜ダメージを回復させながら、強力で痛いサイクロプスの攻撃に耐え続けなければならなかった。

 終わりの見えない拷問のような戦いの末、ようやくサイクロプスは音を上げて降伏し、テオドラによって猫の姿に変身させられ、レオーネと名付けられて、テオドラの新しいペットとなった。テオドラはご満悦の様子だったが、僕は魔力をほとんど使い果たして気絶寸前の状態に陥った。


 その夜、イレーネと2人きりになった頃。
「・・・あなたに、神聖結晶が4個届いている」
「何で?」
「人間が、下級神を捕まえて自分のペットにしたことは、奇跡と認定された。主導者はあなたではないが、戦いの経緯を考慮し、神聖結晶は戦いに参加した3人に4個ずつ分配されることになった。したがって、結晶はあなただけでなく、私や彼女にも届いている」
「・・・さいですか」
「あのサイクロプスは、彼女も言っていたとおり、強力な戦闘力を有するだけでなく、優れた鍛冶の技術も持っている。かの者の技術を帝国の発展に役立てることも可能であり、危機的状況に陥ったときの戦力にも使える。あなたの努力は、決して無駄なものではない」

 確かに、この神聖結晶により、僕の適性は81と3分の2から83へ、テオドラの適性は96から97へ、イレーネの適性は91から92へ上昇したし、何か強力な戦力らしきものも手に入ったので、僕の苦しい戦いは無駄とは言えなかった。
 しかし、激しい戦いで気絶寸前に追い込まれた僕は、サライの宿屋で一晩過ごし、その後アドリアヌーポリの包囲陣へパッシブジャンプで帰還した後も、さらに2日間の安静療養が必要となった。また、戦いに巻き込まれた理由があまりにも理不尽過ぎるので、自分で自分を納得させるのにも時間がかかった。

 安静療養中、僕のことを心配して見舞いに来たパキュメレスに、サライで僕が巻き込まれたことの真相を説明したところ、パキュメレスもテオドラによって散々酷い目に遭わされてきた思い出を語ってくれた。変なところで意気投合した僕とパキュメレスは、『テオドラ被害者の会』を設立することに決めた。
 そして僕は、心の中で『世情』を歌い、自分を慰めた。
 ああ、シュプレヒコールの波が、通り過ぎて行く・・・。

第16章 ボリル討伐(省エネモード)

 何とか気を取り直した僕は、ボリル討伐を発令した。
「あい。ボリル討伐、行くよ」
「どうされたですか、殿下? ずいぶんやる気なさそうに見えますが?」
「ラスカリス将軍、僕はやる気がないんじゃなくて、省エネモードでやってるだけだよ」

 ペトラリファスからの報告によると、ボリルの手持ち兵力はおよそ2万。
 直轄軍だけでも、数でこちらが勝っている上に、ボリルの一党は、自分たちが急にモンゴル帝国から逆賊認定され、イヴァン・アセンが正統な王と認められたとの報を聞いて、かなり動揺している。ブルガリアに神聖術士はいないし、計略も掛け放題だし、もう負ける気がしない。

「まあ、総大将が殿下であれば大丈夫だとは思いますが、ブルガリア軍は険阻な地形を利用した、偽装退却や伏兵を得意としており、かつてブルガリアを征服されたバシレイオス2世も、相当苦しめられたと聞いております。それだけはご用心くださいませ」
「ヴァタツェス将軍、情報ありがとう。じゃあ行ってくる」

 ペトラリファスから、返還される領土が「フィリッポポリスとその一帯」と聞かされた時は、大した領土では無いと思っていたが、具体的に返還される領域を確認したところ、カロヤン王が支配していた領土の約3分の1が返還の対象となることが分かり、それなりに意味のある仕事だということが分かった。
 ・・・要するに、ペトラリファスの説明がちょっとおかしかったのだ。まあ、あいつにとっては初の大きな仕事だから、そのくらいは大目に見てやるか。

 そして、返還の対象となる領土は、現在ことごとくボリルの支配下にある地域で、フィリッポポリスはボリルが現在本拠地にしている都市だという。要するに、ボリルの領土は自由に切り取ってくださいということらしい。
 ただし、領土を広げられるのは良いが、実際にブルガリア領へ侵攻してみると、思っていた以上に貧しい。モンゴル軍の侵入で生活基盤を破壊され、食料を生産することも出来ない貧民が多いのだ。

 僕は、ブルガリア出身のヨルダン・イヴァノヴィッチという名前の兵士、例の新人一兵卒ながら予選でイサキオス・ラスカリス相手に善戦したという兵士を、ガイド兼現地住民の懐柔役に起用し、彼を中心とするブルガリア出身兵士たちの活躍で、ブルガリアの住民たちはビザンティン帝国の支配を受け容れ、僕の軍を解放軍として迎え入れるようになった。
 ただし、それは貧民たちに食料を恵んであげることと引き換えであり、これでは食料がいくらあっても足りない。復興支援はアクロポリテス先生に任せるにしても、ブルガリア遠征は領土が増えれば増えるほど大赤字である。10年くらいの長期スパンで考えれば、やがて復興した旧ブルガリア領からも税金が入るようになり、やがて帝国にとってもメリットになると思うが、そんな風に気持ちを切り替えないとやってられない。


「なんか、敵らしきものが来たね」
「クマン族の弓騎兵、2560騎」
「イレーネ、いつも正確な報告ありがとう」
 数からして、偽装退却でこちらを深追いさせようという策だろうけど、相手が悪かったね。

 敵兵は、こちらに向かって弓攻撃を掛けようとするが、イレーネの『風塵』の術で強い逆風に遭い、うまく射られない。逆に、ダフネの率いる弓騎兵隊が追い風に乗って放ってくる弓矢で一方的に被害を受け、逃げようとするも、プルケリアが出現させた氷の壁に阻まれて逃げ道を失い、生き残った敵兵は、ダフネの呼び掛けに応じて全員降伏した。これで結晶1個ゲット。


 しばらく進むと、イレーネが敵の伏兵を感知した。
「歩兵、2127人の潜伏を確認。あの林の中に隠れている」
「じゃあテオドラ、あそこに何か撃って敵兵あぶり出して」
「そんなの、あたしじゃなくてルミーナで充分よ」

 テオドラがやろうとしないので、ルミーナが一風変わった火炎の術を使う。
「殿下~、ルミーナちゃんのアートをご覧くださいね~!」

 ルミーナの術は、敢えて名前を付けるなら「ファイアー・アート」とでも名付けるしかない術で、要するに炎で花の絵とか、モザイク柄なんかを描き、その絵を描かれた場所が爆発するという、明らかに実用性より趣味にこだわった術である。
 こんな、特に意味のない術で赤学派の博士号を取ったというのだから、博士号を取る方も与える方も頭がどうかしている。というか、僕も博士号取得者の1人ということで、わざわざ審査員の1人に呼び出され、こんなんでも一応博士号取得の要件たる「新規性」は認められるので、渋々ながらも承認せざるを得なかったのだが、なんでいちいちそんなことに僕を呼ぶんだ、テオドラは。

 愚痴はともかく、ルミーナの術で林の中に隠れていた敵兵はいぶり出され、ジャラール率いる弓騎兵隊の餌食となった。別に、練度の低い歩兵隊など要らないので、降伏勧告などはせず皆殺し。一応、これで結晶1個ゲット。

 またしばらく進むと、イレーネが伏兵を感知した。
「歩兵、1819人の潜伏を確認。あの山の陰に隠れている」

「・・・何だよ、せめて2千人以上で来いよ」

 敵軍が2千人割れでは、星3つで殲滅しても結晶取れないじゃないか。こんな戦い、結晶稼ぎになるのが唯一のメリットなのに。
「殿下、2千人以上だと何か良い事でもあるのですか?」
 パキュメレスがそう聞いてくるも、結晶の話は他言禁止なので話せない。
「何でもない。2千人以上の敵をやっつけると報酬がもらえるゲームのことを思い出しただけ」

「じゃあ、誰かあぶり出しやりたい人」
「・・・殿下、私でもよろしいですか?」
「ソーマちゃん? ああ、どうぞ」
 ソーマちゃんも、赤学派の博士号を持っている。得意な術は、大量の炎の矢を放ち、対象範囲を火の海にするというもので、今回のように障害物があって直接攻撃が届き難い場所でも、炎の矢を空高く放つことにより攻撃できるので、ルミーナの術と違って実用性はある。

 ソーマちゃんの炎の矢でいぶり出された敵兵は、オスマン率いる弓騎兵隊の餌食となり、全滅した。
「さすが、ソーマちゃんの術はお見事ですなあ」とラスカリス将軍。
「ソーマちゃんの術は素晴らしいとお聞きしておりましたが、大したものでございます」とドミトリー。

 ・・・こうしたベテラン組の発言を聞いて、僕は違和感を覚えた。
「なんで、新参のドミトリーまで、ソーマちゃんのことをちゃん付けで呼んでるの?」
「いえ、私は仕官したばかりの頃、この国には『ソーマちゃんのことは、ちゃん付けで呼ばなければならないというルールがある』と注意されましたので、それに従っているだけですが」とドミトリー。
「私も、殿下自らそのように命令されたとお伺いしておりますので、そのようにしているのですが」とラスカリス将軍。
「・・・何で、僕が命令したみたいな話になってるの?」
「何言ってんの、みかっち。あんた自分でそう言ったじゃない。覚えてないの?」

 そうテオドラに言われて、確かテオドラの姿になったとき、そんなことを口走ったような・・・ということをようやく思い出した。
「何? 僕があのとき口走ったことが、この国のルールになっちゃってるの!?」
「殿下、帝国摂政として皇帝の職務を代行されている、殿下はいわば『生ける法』ですから、殿下のご命令は、例え口頭で仰られただけのものであっても、残らず記録され、帝国の法となります。むろん、殿下には法を廃止する権限もございますが」
 ・・・そうパキュメレスに言われ、僕は帝国摂政って結構恐ろしい仕事だ、と悟らざるを得なかった。


 僕が、「ソーマちゃんのことはちゃん付けで呼ばなければならない」という法を廃止すべきかどうか悩んでいると、敵軍の切り崩し工作を行っているマヌエル・コーザスから連絡が入った。
「殿下、マナスタルという者が率いるクマン人の一党が、わが国への帰参を願い出ているのですが、如何致しましょうか?」
「その一党、何か問題でもあるの? 食料が自給できないとか?」
「いえ。マナスタル率いるクマン人の一党は、兵力としては弓騎兵2000騎程で、軍を支える相当数の民衆と、十分な数の家畜を保有しており、食料不足にはなっておりません。ただ、マナスタルの経歴に問題がありまして」
「どういう経歴なの?」

「マナスタルは、まだ20代の若い将軍で、かつてブルガリア王カロヤン・アセンに仕え、王の許で相当の勲功を挙げていたのですが、ボリスに『カロヤンを暗殺すればもっと昇進させてやるぞ』と唆され、若気の至りでそれに乗ってしまい、自らカロヤンを暗殺してしまったそうです。
 その後、ボリスが自分を裏切り、自分を王殺しの犯人として処罰しようとしていることを聞くと、そんなことで殺されてたまるかと、自らの一党を率いてボリスに反旗を翻したのですが、王殺しの犯人になってしまった以上、新国王イヴァン・アセンに帰順するわけにも行かず、ブルガリアでは行き場がないから殿下に仕えさせてくれと申しているのですが、さすがにこのような者を信用してよいものかと思いまして、殿下にお伺いを立てた次第です」

「ああ、そのくらいだったら、全然問題ない。うちの国は、主だった将校の大半が裏切りの前科持ちだから、気にしないでいいよって伝えてあげて」
「・・・将校の大半が前科持ちとは、どういうご趣旨でしょうか?」
「コーザス。自分の胸に手をあてて考えてみろ。今でこそ古参面しているが、君だって4年近く前までは、親と一緒に帝国に反旗を翻していた人間だろう? 
 君以外にも、うちの幹部には敵から寝返ってかつての主君を殺しましたとか、かつては謀反人でしたとか、かつてはクーデターを起こして今の皇帝を逮捕したことがありますとか、そんな経歴の連中がゴロゴロいるから、気にするなってこと」
 僕の言葉を傍で聞いていたラスカリス将軍は、何か言いたいけど反論する言葉が見つからない、といった感じの表情を浮かべていた。


 そんなこんなを経て、フィリッポポリス近郊まで軍を進めると、ボリスが残る全軍を集結させて陣を張っていた。イレーネの報告だと、残存兵士数は6,861人。星3つで殲滅すれば結晶は取れそうだ。
「ボリスは、一体何であんなところに陣を張っているのでしょうか?」
 パキュメレスが首を傾げているので、僕が説明してあげた。
「もう、破れかぶれになってるんだよ。うちの軍にはテオドラがいるから、フィリッポポリスに籠城しても城ごと吹き飛ばされるだけだし、得意の偽装退却や待ち伏せ作戦も通用しないし、残る全軍をかき集めて僕の軍に最後の勝負を挑もうとしたはいいものの、コーザスとユダが率いる暗黒騎士隊の面々が、『あの将軍はボリスを裏切って殺そうとしている』とか噂を流し、馬鹿なボリスはその噂を信じて無実の将軍を何人も処刑してしまい、敵より味方の方が信用できないって状態になってるから」

「ねえみかっち、そんな戦い方じゃ、盛り上がりってものがないじゃない」
「しょうがないんだよ。この章の戦いは、いわば優勝が決まった後の消化試合みたいなもので、しかも客が来ないから試合をやるだけ赤字になるようなもの。この章は、はっきり言って

『謀反人扱いされたボリスとその一党は、僕が自ら成敗しました』

の1行で終わらせてもいいくらいなんだけど、さすがにそこまで端折るわけにも行かないから、一応経過を書いてるってだけで」

 しかも僕は、ある意味でブルガリア王イヴァン・アセンに嵌められたのである。彼から返還を約束された土地は、面積こそ広いものの、フィリッポポリスとその周辺一帯以外は、荒廃がひどくて征服する価値も無いような土地ばかりだった。イヴァン・アセンは領土を返還すると称して、使い物にならない土地の統治を僕に押し付けてきたのである。
 そして、ブルガリア方面の外交を担当させたペトラリファスの調査によると、イヴァン・アセンが自分のものとしてキープしている領土は、比較的まともで税収が取れる土地だという。まだ会ったことは無いが、イヴァン・アセンもお人好しではなく、結構な食わせ者のようだ。彼とは、表向き同盟を続けつつ、裏では騙し合いを続けるような関係になりそうだ。


「じゃあ、さっさと片付けちゃうわね」
「よろしく」

 こうして、ブルガリアの王位簒奪を目論んだボリスは、テオドラのエクスプロージョンで吹き飛ばされてその生涯を終え、その残存兵も容赦なく殲滅された。こんな戦いでも、一応神聖結晶は1個届けられて、僕の神聖術適性は83から84へと上昇した。

 そして、僕は接収したフィリッポポリスの総督に、これまでニコメディアの総督を務めていたバシレイオス・コーザスを入れ、関連する総督の人事異動などを決めて統治体制を固めた。
 その後、移動拠点で軍隊と一緒にアドリアヌーポリの包囲陣へ帰還しようとしたのだが、間もなくラスカリス将軍からこんな報告があった。

「殿下、移動拠点が機能しません! アドリアヌーポリ包囲陣への帰還が出来ませんぞ!」
 何だって!?

第17章 テオドロス・ブラナスの最期

 移動拠点が機能しないというラスカリス将軍の報告に、僕を含め軍幹部の誰もが慌てた。移動に関し、僕の軍は神聖術を用いた移動拠点に頼りまくっていたので、移動拠点が使えない事態になったら、日本で言えば突然インターネットが全て使えなくなるくらいのパニックになってしまう。

「イレーネ、移動拠点が故障するなんてことはあり得るの?」
「拠点管理官が仕事をしておらず、その結果維持されていないということはあり得る」

 とりあえず、アドリアヌーポリにいる術士の誰かに連絡して、事情を聞かなければ。ヴァタツェス将軍は神聖術を習得していないので、アドリアヌーポリに残っている術士というと・・・コンスタンティノスあたりか。

「帝国摂政ミカエル・パレオロゴスから、コンスタンティノス・パレオロゴスへ。通話取れる?」
「はい、殿下。いかがなさいましたでしょうか?」
「今、ボリス一派の殲滅が終わって、そちらの包囲陣に軍を帰還させようとしてるんだけど、そちら側の移動拠点が使えなくなっているらしくて、戻れないんだ。そっちで何があったの?」
「申し訳ございません、殿下! こちらも忙しくて、ご報告を忘れておりました。先週、テオドロス・ブラナスが、自分は如何なる罰でも受けるから、残った城兵の命だけは助けてくれと言う条件で降伏を申し出て参りましたので、ヴァタツェス将軍がその条件を受け容れてアドリアヌーポリは開城し、移動拠点は包囲陣からアドリアヌーポリの城内に移転しました関係で、名称も変更されております。
 こちらも後始末に忙しく、また殿下がこんなに早くボリス討伐を終えられるとは思っておりませんでしたので、ご報告を忘れておりました。本当に申し訳ございません!」
 そういう事だったのか。全く人騒がせな。


 とりあえず、僕は直轄軍とともに、アドリアヌーポリへ移動した。
 アドリアヌーポリでは、包囲陣の片付け、使えなくなっていた井戸や貯水池の修復など、様々な仕事が待っていた。毒を投げ込んだ井戸や貯水池については、『浄化』の術で毒の効果を消したのだが、まだ毒が残っているのではないかと町の住民が不安がるので、僕は自ら浄化済みの井戸や貯水池の水を、住民たちの目の前で飲んで見せた。統治者には、こういう面倒な仕事もあるのだ。
 また、空腹等で餓死寸前になっていた兵士たちについては、急に普段通りの食事に戻ると命の危険があるため、医師たちを集めて徐々に普段通りの食事に戻れるよう、指導を行わせた。せっかく、テオドロス・ブラナスが、自分の命を投げ出して救おうとした兵士たちだ。無駄死にはさせたくない。
 ちなみに、兵士たち以外の市民たちは、武闘大会が行われる前くらいには、全員がアドリアヌーポリを脱出しており、その頃にはブラナスや配下の兵士たちも、市民たちの脱走を黙認していたという。

 アドリアヌーポリの戦後処理において、僕を一番悩ませたのは、降伏してきたテオドロス・ブラナスの処遇である。彼は、少なくともそこそこ以上に有能な将軍であり、クーデターを主導するなどした経緯にも同情の余地はあるので、個人的には処刑したくなかったのだが、イサキオス帝の臣下であるという手前、簡単に彼を許すわけにも行かなかった。
 そこで、僕は彼の処遇を決める前に、本人に会って事情を聞くことにした。ブラナスも、降伏を決めたときには餓死寸前で、身体が弱ってベッドに横たわっていたが、話をすることは出来るようだった。


「帝国摂政ミカエル・パレオロゴスだ。テオドロス・ブラナスよ、そなたの名前は何度か耳にしていたが、こうして実際に会うのは初めてだな」
「奇遇ですな。私も、貴殿とお会いするのは初めてなのに、不思議とそのような気は致しません」
「そうか。余は、そなたの処遇を決めなければならない立場だが、その前に、そなたにいくつか尋ねたいことがある」
「・・・何でござりましょう」
「そなたが、イサキオス帝を廃位するクーデターを主導した経緯については、既に他の者から聞いているので、理由については聞かなくても察しは付く。だが、そなたはなぜ、ローマ人の裏切り者と呼ばれてまで、ラテン人の皇帝アンリに仕えたのだ?」

「私がアンリ陛下にお仕えしたのは、フランス王の娘である妻アンナの勧めもありましたが、一言で申し上げれば、アンリ陛下であればこのロマーニアを救って頂けると考えていたためでございます」
「なぜ、そう思ったのだ?」
「アンリ陛下は、他のラテン人と異なり、ローマ人の宗教や慣習にも理解を示され、有能な御方でございました。少なくとも、イサキオス・アンゲロスやアレクシオス・アンゲロスなどといった皇帝たちよりは、はるかにましな御方でございました」
「・・・それについては、余も理解できる」

「私にとって最大の誤算だったのは、貴殿のように有能で狡猾な御方が突如現れ、アンリ陛下の統治を徐々に苦しめ、ついには死に至らしめたことでした。しかも、貴殿ほどの御方であれば、無能なイサキオス帝など廃して、自ら皇帝を名乗ることすら十分に出来るのに、貴殿はなぜかイサキオス帝を擁護し続け、帝国摂政という曖昧な地位に甘んじておられました。このような事態が起きることは、私には全く予期できないことでありました。
 しかも、今のお言葉を聞く限り、貴殿はイサキオス・アンゲロスという男がどのような男か承知の上で、なおかの者に仕えているご様子。このテオドロス・ブラナスには、到底理解の及ばないところでございます」

「そうであるか。余は、確かにこれまで帝国摂政としてイサキオス帝を補佐してきたが、それはイサキオス帝のためではない。余は、何とかこのローマ帝国を救って欲しいという術士の願いによりこの国へ召喚され、帝国摂政などを務めているが、所詮は遠国から来た余所者だ。何とか、このローマ帝国を滅亡から救いたいとは思っているが、その任を終えたときは、潔くこの国を去り、元の生活へ戻るつもりだ。
 そなただけでなく、余が皇帝になれば良いと申す者は少なからずおるが、それは買い被りだ。余はローマ皇帝になる器では無いし、なる気もない」

「貴殿は、そのようなお考えの持ち主だったのですか。私は、もはや貴殿には到底敵わない人間だと思っておりましたが、貴殿にも意外と抜けているところがございますな」
「余のどこが、抜けているというのだ?」

「貴殿は、自らローマ皇帝になる器ではないと仰っておられましたが、それはご自分の器を過小評価されているのです。貴殿ほど才気のある御方は、よほどの器量の持ち主でなければ使いこなせませぬ。少なくとも、あのイサキオス・アンゲロスには到底無理でございます。むしろ貴殿には、自ら皇帝になってこのローマ帝国を統治するか、それとも殺されるかの運命しか残されておりませぬ。貴殿も、そう遠くないうちに、その現実を思い知らされることになるでしょう」
「なぜそう思う?」
「私の父アレクシオス・ブラナスは、有能過ぎてイサキオス帝には使いこなすことが出来ず、結局父は、皇帝になるか死かの二択を迫られ、死を選ぶことになってしまいました。このローマ帝国には、他にも同じような運命を辿った者が何人もおります。貴殿は、なぜそうなるかお分かりになりませんか?」

「それは分かる。平凡以下の君主では、極めて有能な人物を使いこなすことは出来ない。そのような人物が現れれば、自分の地位が脅かされることを恐れ、使いこなすより排除することを選ぶからだ。別にローマ帝国に限らず、そのような例は世界に少なからずある」
「そこまでのご見識をお持ちなのに、なぜ自分にはそのような事態が起こらないと考えておられるのですか? また、イサキオス帝が老齢で亡くなった時、貴殿を差し置いてローマ帝国の皇帝を務められる者が他にいるとお考えなのですが?」

「・・・確かに、余は抜けているところがあるな。そなたの問いに対し、余はまともな答えを持ち合わせておらぬ。いずれは、余も皇帝となるか死か、いずれかを選ばなければならぬ時が来るであろうことは察しが付いている。だが、余は皇帝になりたくないが故に、なんとかその現実から逃れようとしているだけなのかも知れぬ」
「なるほど、でもお気持ちは分かります。この私も、死にたくないが故に、自ら帝位を狙う決心までは出来ず、イサキオス帝を廃しはしたものの、かの者と大して変わらぬ輩を皇帝に祭り上げてしまった男でございます。なにしろこの国は、あのアンドロニコス帝でさえも、最後は非業の死を遂げてしまわれた国です。そんな国の皇帝は、確かに嫌でございますな」

 僕もブラナスも、思わず笑ってしまった。結局2人は、似た者同士だったのだ。
 このローマ帝国を救いたい、でも皇帝にはなりたくない。僕もブラナスも、結局はそんな行動原理で動いていただけなのだ。

「ミカエル・パレオロゴス殿。貴殿はもしかして、何とかこの私を生かしておきたいとお考えなのではありませぬかな?」
「そなたは鋭いな。どうして分かるのだ?」
「私と貴殿は、所詮似た者同士でございますから。でもそれは、貴殿の為にはなりませぬ。私は、ローマ人の間では裏切り者と呼ばれた男であり、イサキオス帝からも深い恨みを受けております。そのような男を、危険を承知で敢えて生かしておいても、貴殿には何の得にもなりません。でも、このテオドロス・ブラナスに情をかけて頂けるなら、私の願いを聞き届けて頂けないでしょうか」
「聞こう。どのような願いか?」

「裏切りは私個人の罪であり、ブラナス家の罪ではございませぬ。それ故、私以外のブラナス一門に属する者は、どうか命を助けて下さいませ。そして、このローマ帝国を、何とか見捨てないでくださいませ。それさえお約束して頂けるなら、私は貴殿のために、喜んで死にましょう」
「言われずとも、最初からそのつもりであった。その程度のことならいくらでも約束しよう。それに、そなたの敬愛する皇帝アンリを追い詰める策略を練ってくれたのは、そなたの異母妹にあたるソフィアという娘だ。余は、もとよりブラナス家を裏切り者の一族とは考えておらぬ」
「ありがとうございます」

 結局僕は、ブラナスに最後のワインを飲ませ、彼が眠っている間に、即死の術で彼の心臓を止めた。おそらく、死の苦痛を感じる時間はほとんど無かったはずだ。
 そして、テオドロス・ブラナスの死因は病死と発表し、彼の遺体は父と同じ墓地に埋葬した。彼に息子はいなかったので、フランス王の娘である妻とその娘は、聖なる都に送り届けた。その結果、ブラナス一族は、誰一人処罰されることはなかった。僕はブラナスを殺したが、彼は僕とたまたま生きる場所が違っただけで、彼を謀反人として裁く気にはなれなかったのだ。


「殿下のご温情、かたじけなく存じます」
 僕が軍を解散しニュンフェイオンに帰還した後、ソフィアにテオドロス・ブラナスの死因に関する真相を告げたところ、ソフィアの答えはそれだけだった。その件は止めに致しましょう。ソフィアの答えは、暗にそのように言っているように感じられた。確かに僕の措置は、主君であるイサキオス帝の意向を尊重したものとは言えない。うかつに口外するのは危険だった。
 そしてソフィアはいつもと変わらぬ調子で、僕に新しい報告を上げてきた。

「殿下。遠征帰りでお疲れではございますでしょうが、エピロス方面を担当していたニケフォロス・スグーロスより、悪い知らせが入っております。我々も、気を引き締めてかからねばなりませぬ」
「どのような報せか?」
「エピロスの地で独立政権を築いていたテオドロス・コムネノス・ドゥーカスは、殿下がアドリアヌーポリなどを攻略されている間に、長きにわたりローマ帝国第二の都市と呼ばれてきた西のテッサロニケを奪取し、かの地で自ら『ローマ人の皇帝』を自称致しました。
 かの者は、亡き皇帝アンリの妹婿で、ラテン人の皇帝として聖なる都へ向かう途中であったピエール・ド・クルトネを捕らえて幽閉し、気勢を上げております。わが国とも境を接することになり、次はこの皇帝テオドロスこそが、我々の新たな敵になることは間違いありません」

「テオドロスが去ったかと思えば、またテオドロスか。ややこしいね」

「殿下、冗談ごとではございません。皇帝テオドロスの発した檄文が先程届いたのですが、かの者はイサキオス帝のことを、およそ『皇帝の名に値しない盲目の老人』と切って捨てる一方、殿下のことを異様に敵視し、キリストの敵、世界に破滅をもたらす第六天魔王などと、散々に非難しております
 第六天魔王というのは、本来仏教用語なのだが、僕がノリで何度か自称した結果、いつの間にか僕を表す言葉として定着してしまったらしい。

「それだけではございません。皇帝テオドロスは、檄文の中で諸外国に、『ミカエル・パレオロゴス包囲網』の結成を呼び掛けております。この包囲網が実現すれば、わが国にとって重大な脅威となります」
「『ミカエル・パレオロゴス包囲網』!?」

(第5話に続く)

<後編後書き>

「長い話を最後までお読みいただき、ありがとうございます。本編の主人公、榊原雅史こと、ミカエル・パレオロゴスです」
「最強の神聖術士、テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様とはあたしのことよ。それにしても、今回は本当に文章が長かったわね」
「確かにね。作者も書き始める前は、この後編はアドリアヌーポリを落として、ブルガリアのボリルを討伐するだけだから、そんなに書くことはないと思っていたらしいんだけど、実際に書いてみたら、むしろ7万字の字数制限内に収めるのに苦労したみたい」
「もしかして、あたしがサイクロプス討伐で大活躍したシーンがろくに描写されてないのも、それが原因だって言うの?」
「それは違うよ! この物語は僕視点で書いてるから、僕がサイクロプスの攻撃を一手に引き受けて苦労している間に、君が安全な場所から好きなだけ術を撃ちまくってるところなんかいちいち見ていられないし! しかもテオドラ、途中で疲れたとか言って、勝手に休憩してご飯食べたりしてたよね!?」
「みかっち、『腹が減っては戦は出来ぬ』って言うじゃない」
「僕の方は、途中で休憩する余裕なんか無かったんだよ!
 ・・・まあ、その話はこのくらいにして、この作品に関しては、まだ多数とまでは言えませんが、読者様から様々なご意見やご指摘を頂きました。
 それらを踏まえまして、このあとがきではこの作品のコンセプトというか、作者がこの作品で一体何を目指しているのかという点について、若干ご説明したいと思います」
「みかっち、急に真面目ぶって、一体読者さんから何を言われたのよ?」
「最後まで聞けば分かるよ。そもそも、作者がこの作品を書くにあたり、2つの基本理念みたいなものがあります」

1 魔王対勇者といったありきたりなRPG型ファンタジーではなく、SLG型のファンタジー小説を書きたい。
2 中世まで実在した国、ビザンツ帝国をモチーフにした世界史小説を書きたい。

「別に、好きにすればいいじゃない。そのどこに問題があるの?」
「作者としては、最近のファンタジー小説って、勇者または冒険者、そして魔王って感じの作品ばかりで、こんな作品ばかりじゃ芸が無いし飽きられるっていう問題意識を持っていて、作者の好きな歴史SLG型のゲームをベースにした小説にチャレンジしたんだけど、この時点でかなりの無茶振りがあったんだよね」
「何が無茶振りなのよ」
「人気ライトノベルを書く場合の原則として、登場人物は最小限に絞る、話をシンプルにして分かりやすくするというのがあるんだけど、SLG型だとこのどちらも守れない。
 RPG型だと、せいぜい登場人物は、主人公と一緒に冒険する4人くらいのパーティーがメインで、各地でいろんな人や敵に出会うってくらいで済むけど、SLG型だと主人公が国を統治する立場だから、そんな少人数で国を治められるはずもない。
 自国以外にもいろんな国が登場し、外交関係なんかも絡んでくる。登場人物も必然的に多くなり、話も複雑になる。ここがSLG型小説を書く場合の、第1の難点になるんだよね」
「たしかに、ドラクエとかFFみたいな世界をモチーフにした作品は山のようにあるけど、歴史ゲームをモチーフにした作品って、比較的有名なのでも『織田信奈の野望』シリーズくらいしか見当たらないわね。理由はそこにあったのね」
「そして、ビザンツ帝国をベースにしたのも問題があってね。全くの架空戦記ものだと、設定に深みがなくてリアリティが出ないという問題が生じがちだけど、歴史の長いビザンツ帝国だと、逆に深みがあり過ぎて、話がさらに複雑になる」
「あーあ」

「そして、ここから派生して、次のような執筆方針が出来たわけ。」

3 主人公には、歴代皇帝のうち、ミカエル8世パレオロゴスを選ぶ。
「なんで?」
「衰亡に向かうビザンツ帝国を、何とかできる力がありそうだった最後の皇帝といえば、たぶんこの人だろうってのが一つ。あと、帝位に就くまで色々あった人なので、ナポレオンを主人公にした『ランペルール』みたいな、出世物語にもできるかなってのが一つ。
 そして、次の方針がこれに付け加わりました」

4 日本人の読者にも親しみやすい作品になるように、主人公は本物のビザンツ人ではなく、日本から強制的に連れて来られた男子高校生にする。
5 主人公は、完全に異世界に転生または転移するわけではなく、たまに日本へ戻る形にする。

「4はまだ分かるけど、5はなんで?」
「理由はいろいろあるけど、思春期の男の子が異世界に飛ばされて、もう日本に戻れないって言われたら、普通に考えたら諦めて、現地の女の子にどんどん手を出しちゃうでしょう? そうならないための仕掛けは作品によって違うけど、5はこの作品なりの仕掛け」
「ふーん。でも、この物語の日本パートって、あんまり意味なくない? みかっちが1人で愚痴ってるような話が多いし、盛り上がりも無いし」
「確かに、読者さんの意見の中には、そういう設定を生かせてないというものもあったんだけど、これはわざとやっている面もあって」
「何でよ?」

「物語全体の流れとしては、最初は高校でもぼっちだった僕が、ビザンティンの世界で精神的にも成長して、その結果日本パートも次第に賑やかになって行くっていう予定になってる。
 あと、ビザンティン世界だけでも登場人物が多すぎるのに、最初から日本パートも活発に動いてたら、話が最初から複雑になり過ぎて、読者さんが困るだろうっていう作者なりの配慮もある」
「でも、いずれは日本パートも複雑になって行くのよね。みかっちとは逆に、ビザンツから日本へキャラが乱入してくるっていう構想もあるみたいだし」
「まさかとは思うけど、テオドラが乱入してくるわけじゃないよね!?
 ・・・そして、ファンタジー要素に関する方針として、次の2つが付け加えられました」

6 神聖術という、魔法もどきの要素を付け加える。神聖術に関しては、女性の方が強いという設定にする。
7 神聖術を用いた魔法文明のようなものは、最初からあるのではなく、主人公の創意工夫で徐々に発展していく形にする。

「これは何で?」
「6については理由がいくつかあって、まずミカエル8世時代のビザンツ帝国だと、弱体化し過ぎて復興なんて普通にやったら出来ないんで、それを可能にするための救済要素というのが1つ。次に、普通の中世ものだと、登場人物が男性ばかりになってしまうので、女性キャラが活躍できる場を作るというのが1つ」
「つまり、あたしはみかっちの救済要素なのね! あたしにもっと感謝しなさい!」
「余計なトラブルさえ起こしてくれば蹴れば、もっと素直に感謝できるんだけどね。
 それで7については、普通のファンタジーものだと、舞台は一応中世ヨーロッパだけど、魔法文明のようなものが最初から出来ていて、結果的に生活水準は現代と大差ないっていう設定が多いけど、作者はここにもひねりを加えました。
 最初は宗教上の理由なんかもあって全然活用されていなかった神聖術が、徐々に活用されて、次第に魔法文明のようなものが出来上がって行く物語があってもいいんじゃないかって考えたわけです。
 あと、最初から魔法文明のようなものがあると、本物のビザンツ帝国からあまりにかけ離れた架空戦記ものにならざるを得ず、2の基本理念が潰れるという理由もあります」

「・・・話を聞いてると、盛りだくさん過ぎて、話がどんどんぐちゃぐちゃになって行くんじゃないか、っていう気がしてくるんだけど」
「そう。まさに読者様からもそういうご指摘があって、作者も失敗したなあとは思っているんだけど、今更打ち切りにするのも癪なんで、とりあえずはラストまで完走することを目標に書いてます。
 作者はこれまで小説を書いた経験もろくに無いし、どうせ失敗作になるのは最初から覚悟の上だから、誰かもっと腕の良い小説家さんがこの失敗作を部分的に参考にして、新ジャンルでも開拓してくれれば良い方かなって考えてます」

「なによ! それじゃあこのあたしは、失敗作のヒロインとしてごみ箱行きになる運命なの!?」
「そうは言ってないよ。ひとまず完走させた後、今回の反省を活かしてリメイクバージョンを作ることがあったら、当然テオドラも出てくるから。一応、君はこの小説を、くそ真面目過ぎてとっつきにくい作品になることを防ぐという、大事な役目があるわけだから」

「そうよね! あたしこそ、このどうしようもない作品を救う、救済要素なのよ! ところで、この作品って、SLGネタ以外にも中島みゆきネタとかヤクルトネタとかが結構出て来るけど、何の意味があるの?」
「それは単なる作者の趣味、お遊び要素です。中島みゆきファンの方は、本文の中に中島みゆきネタがどこに隠れているか、探してみるのも面白いかもね。ファンじゃない人には意味が分からないだろうけど」
「・・・しょうもない要素ね。じゃあみなさん、ペンネームまで中島みゆきの歌にちなんでおかしな名前を付ける作者が、最後までこの無茶振りな物語を完走されられるかどうか、興味のある人は成り行きを見守ってあげてくださいね~。ファッセ、ドッサッナ!」

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