第6話後編 流浪する『神の遣い』

第6話後編 流浪する『神の遣い』

第10章 逃避行

 僕がガリポリに着くと、アクロポリテス先生、パキュメレス、イレーネ、そしてなぜか、幽閉されているはずのテオドラがいた。

「・・・何で、ここにテオドラがいるの!?」
「あたしは、帝国最強の術士にして、太陽の皇女テオドラよ! 脱走なんて、このあたしにかかれば朝飯前に決まってるじゃないの!」
「でも、神具を取り上げられた上に、オフェリアの術で身体能力も弱体化されて、動きが取れなかったんじゃなかったの?」

「あたしだって、密かに脱出の機会を窺ってたのよ! そうしたら、たまたま術の効果が解けて、動けるようになったのよ。そして、あたしの神具もたまたまほったらかしにされていて、そこには、たまたまエジプト行きの旅券と、路銀になりそうな宝石がたくさん置いてあったのよ!
 だから、あたしはその隙を突いて、見事脱出に成功したってわけ。 ちゃんと、レオーネも連れて来たわよ。さすがあたしね! 凄いでしょう、みかっち?」
「・・・その脱出の経緯を聞く限り、おそらくオフェリアさんが、君にわざと脱出させるよう手引きしたとしか思えないんだけど」
「というわけで、みかっち。早速、一緒にエジプトへ行きましょ!」

「ちょっと待って、テオドラ。僕には僕の事情があるんだ。ニュンフェイオンで何が起こったのか、まだ事情を聞いてない!」
「・・・その事情については、私から説明する」
「なら、イレーネに頼む」

「あなたの留守中を狙って、ゲオルギオス・ムザロンの手勢が、移動拠点を使ってニュンフェイオンに乗り込み、宮殿を制圧した。多くの者は、あなたの家臣では無いが、あなたに好意的な総督の統治しているこのガリポリに逃げ延びたが、あなたのメイドであるマリアは、ムザロンの手勢に捕らえられた」
「マリアが!?」
「・・・そしてマリアは、あなたと夫婦同然の仲であるためにムザロンに疑われ、ニケーアで死んだムザロン派の貴族を殺害したとの嫌疑で裁判にかけられ、処刑されてしまった」

「ええっ!!?」


「そ、そんな・・・。一体僕は、何のために・・・」
 僕は、その場で泣き崩れてしまった。
 マリアとの愛を貫こうとするあまり、多くの元部下たちを死なせてしまった上に、結局愛するマリアさえ、守ることが出来なかったなんて。
 僕は、一番大事な人すら守ることのできない、愚か者だったのか。

 僕は衝撃のあまり、しばらく泣き叫んでばかりいたが、
「そういうときは、あなたの好きな歌を歌えばいい」
 イレーネにそう諭された。

 思い直した僕は、悲しみを紛らわせるための歌を、涙を浮かべながら次々と歌い始めた。
 その歌は、『荒野より』『氷中花』『ほうせんか』『歌をあなたに』『わかれうた』『後悔』『泣きたい夜に』『囁く雨』『夜行』と続き、最後に『泣いてもいいんだよ』を歌い終わった頃には、僕の精神状態は、いくらか落ち着きを取り戻していた。

 その間、テオドラが「一体誰の歌なのよ。聞いたこともないわ」などとボヤいていたが、僕はスルーした。これらが誰の歌かなんて、いちいち説明するまでもないだろう。

「・・・殿下が歌っていた最後の曲は、伝説の歌姫アナスタシアさんが、舞台で歌っていた曲と、何となく似ていますね」
 パキュメレスが、そんな感想を口にしたので、僕はこう答えた。
「僕の歌っていた、こっちの方が本家だよ」
 そういえば、ソーマちゃんは舞台で、アナスタシアという偽名を使って、『泣いてもいいんだよ』のギリシア語版を歌い、テオドラがそれに合わせて踊っていたことがあった。なお、この曲を歌っているのは主にももクロちゃんですが、作詞作曲は、もちろん中島みゆき様です。

 それはともかく、ソーマちゃんことアナスタシアには、早くも『伝説の歌姫』なんてあだ名が付けられてるのか。ちなみに、テオドラも身に覚えはあるはずだが、ここで口に出すと『伝説の踊り子テオドラちゃん』の正体がバレるとでも思ったのか、あくまで知らない風を装っていた。


 そんなやり取りを経て、僕が立ち直ってきた頃を見計らって、イレーネが説明を再開した。
「まだ、あなたの家臣たちは、多く生き残っており、あなたの側に残っている所領も多い。だが、気力を失い傷ついたあなたに、ムザロンへの抵抗を指揮するのは難しい。
 あなたは、しばらく安全な外国に亡命するとともに、しばらく統治者の責務から解放され、気力を取り戻す必要がある。まだ、あなたの果たすべき役割は終わっていない」

 気付くと、僕の周りにはソフィアのほか、僕に続いてガリポリに到着した、オスマン、ジャラール、メンテシェといった将たちも集まっていた。

「・・・それで、用意されているジェノヴァ船で、僕にエジプトへ亡命しろというわけか。誰を連れて行くべきだろうか・・・」
「みかっち! そんなの、あたしとイレーネだけで十分じゃない。この2人がいれば無敵よ!」
「・・・分かった。僕も、もういろんなことがあり過ぎて、指揮なんか取れる状態じゃない。
 それでは、僕の留守は、アクロポリテス先生にお願いします。パキュメレスとソフィアは、先生を補佐してあげてください」
「心得ました、殿下。このアクロポリテス、全力を挙げて殿下の領土を守って見せましょう」

「・・・ただ、先生は文官だから、先生を補佐する、軍の司令官も決めておく必要があるな。この場にいない、ティエリやヴィラルドワン、ジュアンたちは無事?」
「はい。彼らはそれぞれ、別の場所に潜伏し、反撃の機会を窺っております」
「ラスカリス将軍が配下にいれば、将軍を代理にしておけば問題なかったんだけど、ラスカリス将軍はムザロンに返還してしまったから、今回は人選が難しいな・・・」
 僕は、暫し迷った末、オスマンを代理に指名することにした。

「オスマン。僕がいない間、軍司令官代理として、アクロポリテス先生を補佐し、僕の軍をまとめてほしい」
「・・・俺がやるのか?」
「オスマンは、将としての格はジャラールたちとほぼ同格だが、かつてトルコ人の国へ援軍を差し向けたとき、他の将たちをうまくまとめていた。今回は、ラテン人のティエリやジュアンなどもいるので、難しい仕事になるとは思うが、他に軍のまとめ役として、適当な人物が思い当たらない」
「分かった。殿下が戻って来るまでの間、何とか頑張って見せる」
「ジャラール、メンテシェ。同格のオスマンに指揮されるのは不服かも知れないが、指揮官は1人に統一しなければ、軍はまとまらない。君たちは、オスマンを補佐してやってくれ」

「オスマンなら、俺の友人だから、その傘下で戦うのに不服はねえよ」とジャラール。
「私も同様です」とメンテシェ。

「・・・とりあえず、君たちで大丈夫そうだな。後を頼む」
「話は終わったみたいね。とりあえず行きましょ、みかっち!」
「ちょっとテオドラ、行くから手を引っ張らないで!」


 こうして、僕は気持ちの整理をする時間も与えられないまま、テオドラやイレーネと共に、ジェノヴァの大きな帆船に乗り込むことになった。旅に必要な荷物一式は、パキュメレスが用意してくれていた。

 間もなく船が出航し、僕はようやく、船内にある自分用の部屋のベッドで腰を落ち着かせたのだが、こうして1人になってみると、急に身体が疼いてきた。
 そういえば、敗戦とその後始末に追われ、僕はここ3日ほど、マリアと子作りをしてしなかった。気が付いたら、もう限界というくらいに溜まっている。・・・でも、マリアはもういない。もはや緊急事態レベルなので、久しぶりに1人でしようかと思っていたところ、

「みかっち、入るわよ」
 テオドラが、ノックもせずに僕の部屋へ入ってきた。・・・危ない。まだ始めてなくて良かった。

 もっとも、僕が安堵したのも一瞬の間だけで、テオドラの姿はほとんど裸同然の、『伝説の踊り子テオドラちゃん』を演じるときに着用する、踊り子衣装だった。こんな状態のときに、そんな際どい姿を見せられたら、僕の理性が危険水域に達してしまう。

「テオドラ・・・何? その衣装」
「わざわざ、みかっちのために着てあげたのよ。あたしに感謝しなさい。・・・あたしだって、男の人と2人きりのときに、この衣装を着るのは初めてなんだからね」
 ちょっと頬を赤らめながら、そんなことを言うテオドラの様子は、いつもと少し違っていた。どうしよう、テオドラが可愛く見える。危険水域に達している僕の理性が、さらに削られていく。

「その衣装を着て、一体何をしようとするつもり? 僕のために、踊りでもやってくれるの?」
「みかっち。あたしとあなたは、駆け落ちしたのよ。 駆け落ちした男と女が、2人きりになってまずやることって言ったら、1つしかないでしょ。言わなくても分かるわよね?」
「ちょっと待って、いつ僕とテオドラが、駆け落ちしたっていうの!?」

「かつて、婚約者だった男女が、揃って外国へ行くと言うんだから、誰がどう見たって駆け落ちじゃないの。安心しなさい、みかっち。あたしはニケーアの宮殿を脱走するとき、わざわざ父上宛に『あたしは、父上の決めた結婚には従いません。ミカエル・パレオロゴスと駆け落ちします』って書いた置き手紙を残してきたのよ。抜かりはないわ」
「僕がいつ、テオドラとの駆け落ちに同意したって言うんだよ!?」

「嘘を言わなくても分かるわよ。あたしは、もう子供じゃないんだから、みかっちの身体が激しく同意していることくらい、あたしにも分かるわよ。みかっち、あたしが欲しいんでしょう? あたしが、みかっちの心と身体を、慰めてあげるわ」
 テオドラが、柄にもなく色っぽい表情で、そんなことを言ってきた。僕の理性は、もはやこれ以上耐えられないと、悲鳴を上げ始めた。

「でも、そんなことしたら、この場で僕は、テオドラと結婚することになっちゃうんじゃ・・・」
「そうよ。いまこそ結婚しましょう、みかっち」
 ・・・もう駄目だ。僕1人では、テオドラの誘惑に抵抗できない。イレーネか誰か、別の人が部屋に今すぐ乱入してきて、このエッチな雰囲気をぶち壊してくれないと、僕はこの場で、テオドラと結婚することになってしまう。

 ・・・しかし、そんな助けが現れることはなく、ついに僕の理性は、テオドラの魅力と誘惑の前に、屈服してしまった。

第11章 テオドラ対イレーネ

 テオドラの誘惑に屈してしまった僕は、その翌日、甘えてくるテオドラを膝枕しながら、テオドラの髪を撫でていた。イレーネも、その光景を何となく冷たい目で見ていた。

「みかっち、やっぱりあたしのことが好きだったのね。昨日は凄かったわ」
「・・・・・・」
 僕が言い返せないでいると、テオドラは話を続けた。

「皆まで言わなくても分かるわよ、みかっち。最初は躊躇してたけど、2回目からは自分で何度も求めて来たわよね。そんなに、あたしと子作りしたかったのね」
 僕に膝枕されて、そんなことを言うテオドラは、まるで、交尾を済ませたばかりのバーネットや旧レオーネのように、満足そうな笑みを浮かべていた。こういう事態だけは避けようと必死に耐えていたはずなのに、その忍耐は一夜で崩れてしまった。僕は、自分の身体の無節操振りが恨めしくなってしまった。

 僕は気分を変えようと、そういえば猫の数が増えすぎて把握できなくなってしまったけど、僕がかつてバーネットと名付けた雌猫は、今頃どうしているだろうなどと、埒もないことを考え始めた。
 そうしているうちに、
「ゴロゴロゴロゴロ・・・」
 テオドラの身体から、膝の上に乗った猫が甘えてくるときのような音が聞こえてきた。

「猫!?」
「みかっち。あたし、猫の真似をするのも得意なのよ♪」
「相変わらず、テオドラは妙な特技を持ってるなあ・・・」
 僕は苦笑しながら、テオドラとの結婚という、つい先日までは必死に嫌がっていたことも、意外と悪くないのかと思うようになっていた。
 ・・・この時の僕は、このような関係を快く思うはずがない女の子が眼の前にいることを、完全に失念していた。


 僕が、そのことを思い出したのは、その日の夕食後、イレーネに話し掛けられた時である。
「・・・あなたに、話したいことがある」
「・・・どうしたの、イレーネ?」
 僕は、この時点で既に、物凄く嫌な予感がしていた。

「あなたが、昨晩彼女にしていたことを、私にもしてほしい」
 イレーネの発言に、それを聞いていたテオドラが噛みついた。

「イレーネ! よりによってあたしの前で、みかっちを略奪するつもりなの!?」
「あなたは、昨日私に、『みかっちのことは、お互い抜け駆けは禁止にしましょうね』と提案し、あなたと私は、その内容で協定を結んだ。昨晩におけるあなたの行為は、明らかな協定違反」
「ふん、恋愛にルールなんてないのよ。先に事を済ませた方が勝ちなんだからね」
「あなたに、協定を守る意思がないのであれば、もはや私も、あなたに遠慮する必要性を認めない」
「イレーネ! 適性91の分際で、このあたしに喧嘩を売る気!? なら買ってやろうじゃないの! イレーネ、甲板に出なさいよ。この場で、あんたと決着を付けてやろうじゃないの!」
「望むところ。私が勝ったら、彼は私が貰い受ける」


 こうして、テオドラとイレーネは、僕の意向を完全に無視して、船の甲板で決闘を始めることになってしまった。テオドラが怒るのはいつものことだが、普段は物静かなイレーネがあんなに怒っているのを見たのは、僕も初めてだった。
 僕は、事情を眺めていた船員さんの1人に、こう声を掛けられた。
「お前さん、あの2人の娘は、明らかにお前さんを巡って争っているが、お前さんが何も声を掛けなくていいのか?」
「知りません! 仮にそうだとしても、僕にはどうすることも出来ません!」


 以前、マイアンドロス河畔の戦いで、テオドラとプルケリアが一騎討ちをしたときには、激しい暴風雨が発生して、戦場は大変なことになった。あの頃に比べれば僕も成長しているが、僕に出来たことは、非常事態が発生したときに備え、この船を守るために防御結界を張ることだけだった。
 幸い、当時のゲルマノスと異なり、僕は現時点で適性93なので、呪文を唱えなくても結界を張ることは十分に可能だった。後は、2人の戦いを見守ることしか出来なかった。


「喰らいなさい、イレーネ!」
 テオドラが、この戦いで使っている術は、『火炎球』の強化バージョンとでも言うべきもので、攻撃範囲は狭いが、敵に物凄い高熱の火炎球を放つという、以前のサイクロプス戦でも使っていた術である。
 テオドラは、この術の名前を特に付けていないようだが、要するに某シリーズのゲームに登場する、メラゾーマのような術を連発していると思って頂ければ、イメージとしては大体合っている。この術は、便宜上『灼熱球』と名付けておく。

 攻撃範囲の広い、件のエクスクロージョンに比ると、『灼熱球』は明らかに一騎討ち向けの術であり、魔力の無駄遣いが多かった対プルケリア戦の頃に比べれば、テオドラも確実に術士として成長している。
 しかし、イレーネは無言のまま、防御結界でテオドラの攻撃を、ことごとく無力化する一方、『上級魔力吸収』の術でテオドラの魔力を奪い、着実にテオドラの魔力を奪いにかかる。

 『上級魔力吸収』の術は、緑学派の修士課程で習うことが出来る普通の『魔力吸収』と異なり、推奨適性が85以上と高い代わり、一般的に防御術として使われている青学派の『防御結界』がほとんど効かないという特性があり、青学派の術にあまり詳しくないテオドラがこの攻撃を避けるには、自分で身をかわすしかない。
 しかも、『上級魔力吸収』の術には、かなりの高速で放たれる上に、自動的に逃げる敵を追尾するという凶悪な機能も付いており、この攻撃をかわすのは、かなり身体能力の高いテオドラでも、かなり困難である。

「卑怯よ、イレーネ!」
「・・・戦いは、勝った者が正義」

 時々、そんな言葉のやり取りを交わしつつ、イレーネは執拗に『上級魔力吸収』の術を連発する。テオドラは必死にこれをかわそうとするが、大体2回に1回くらいの割合で、この攻撃を受けてしまう。
 『上級魔力吸収』が成功すれば、当然テオドラの魔力は削られ、イレーネの魔力は回復する。緑学派の術は学士課程で習得した『治療』と『育成』しか知らないというテオドラには、『上級魔力吸収』どころか、『魔力吸収』の術すら使えない。
 ましてや、緑学派の修士課程にも入っていない、特殊な追尾モード付きの『上級魔力吸収』を使えるのは、おそらくイレーネと、イレーネからその術を教わった僕だけである。緑学派の術士自体は、博士号取得者だけでも結構いるが、そのうち適性が85を超えているのは、今のところ僕とイレーネしかいないはずである。

 僕が把握している限り、現在テオドラの適性は97、イレーネの適性は92のはずであるが、僕の適性は93であるにもかかわらず、僕は今でも、イレーネ相手に勝てる気がしない。イレーネが、どこかの猫姫さんを思わせるような、戦場における常人離れしたスピードの治療は、僕にも真似できない。実際、聖なる都からの撤退戦で、僕がイレーネのやり方を真似しようとしたものの、全然上手く行かなかった。

 そして、計算上テオドラは、イレーネの32倍もの最大魔力を持っているはずだが、イレーネの戦いぶりは、『魔力吸収』で劣勢を補うという感じではなく、明らかに余裕である。2人の戦いは、30分くらいすると、テオドラが明らかに疲れの色を見せる一方、イレーネの方は平然としていた。
 ・・・イレーネって、絶対何らかの方法で、自分の適性値を過小申告してるだろ。実際には適性が100を超えていたとしても、僕は驚かない。


 これはもう、絶対イレーネの勝ちだな、僕は勝者であるイレーネの賞品にされるんだな・・・と覚悟を決めたそのとき、テオドラがこんなことを言い出した。

「・・・イレーネ、この勝負引き分けにしない? 既に、あたしとみかっちの間には結婚が成立しているから、正妻の座は譲れないけど、あたしとイレーネが、1日ずつ交代でみかっちの相手をするって条件なら、呑んでもいいわ」
 明らかにイレーネの方が優勢なのに、イレーネがそんな条件を呑むはずがないだろと僕は思ったが、イレーネの反応は違った。

「では、昨晩はあなたが彼の相手をしたので、今晩はわたしが彼の相手をする。その後は、毎朝6時を基準に、1日交替であなたと私が、彼の相手をする。その条件であれば受け容れてもいい」
「・・・まあ、それでいいわ」
 何か、唐突に細かいルールが決められてしまった。


 こうして、その晩僕は、初めてイレーネを抱くことになったのだが、僕の疑問は当然残った。
「イレーネ、あのまま戦っていれば、完全にテオドラに勝つことも出来たのに、どうしてあんな条件を呑んだの?」
「・・・私は、あなたの妻になりたいのではなく、あなたの性奴隷としての役割を果たしたいだけ。そのためには、あの条件だけで十分」
「まだ、そんなことを言ってるんだ・・・」
「そんなことより、早く私を、あなたの女にしてほしい」
 そう催促するイレーネの身体は、明らかに僕を求めていた。イレーネは、テオドラとの戦いに勝つことより、一刻も早く僕に抱かれることを望んているようだった。
 いずれにせよ、僕にはイレーネの望みに応える以外の、選択肢は残っていなかった。


 こうして、僕はテオドラとイレーネの取り決めに従い、1日交替で2人に相手をしてもらうようになったのだが、2人の間には、しばらく細かい口喧嘩が絶えなかった。

「イレーネ、みかっちにベタベタ引っ付き過ぎじゃないの!?」
 テオドラの指摘するとおり、イレーネは昼間も、僕にひっついて離れようとしない。
「今は、私の時間。私は、ずっとこうしていたい。私は、あなたとの協定に基づく権利を行使しているだけ。あなたに干渉される筋合いはない」
「だからって、物には限度っていうものがあるでしょ!?」
「文句があるなら、あなたの持ち時間中は、私と同じようにしていればいい」

 イレーネは、自分の持ち時間である午前6時から翌朝午前6時までを、要するに僕を独占できる時間と解釈しているらしく、その時間中はずっと僕に引っ付き、僕と2人きりになったら当然のように子作りをねだるようになった。
 しかもイレーネは、僕のものを受け容れる訓練とやらをしているうちに、自分の処女膜を自分で破ってしまったらしく、初体験のときにイレーネの処女膜はなかった。そんなイレーネのことだから、つい最近処女を喪失したばかりの女の子とは思えない程に、1日何度も僕との子作りをねだった。
 一方、テオドラにはそこまで僕とひっつく趣味はなく、子作りもそんなに求めてくる方ではないが、やたらと僕に引っ付きたがるイレーネのことを嫌悪し、侮蔑していた。


 僕は、イレーネと2人きりでいるとき、こんなことを呟いた。
「テオドラとイレーネって、仲が良いと思っていたのに、今ではすっかり仲が悪くなっちゃったね。やっぱり、僕のせいなのかな・・・」
「別に、私は彼女と、仲が良かったわけではない。あなたの責任ではない」
「そうなの?」

「そう。彼女は、表向きは私と友達だと言っておきながら、都合の良いときに私を利用するだけ。そもそも、私は『神の遣い』に、あなたではなくイークリバを推していた」
「・・・イークリバって誰?」
「あなたの前に、『神の遣い』候補者として私が選んだ人材」
「あの、宇宙人みたいな顔をした人のこと?」
「そう。あの者であれば、意思疎通の呪法も必要なく、政治・軍事共に優れた力を発揮し、あなたのように迷うことなく、ローマ帝国を繁栄に導くことが出来た」

「でも、あの宇宙人もどきとテオドラを結婚させるというのは、ちょっと・・・」
「別に、結婚する必要など無かった。イークリバであれば、誰とも結婚することなく、永遠にローマ帝国を統治していくことが出来た。私が補佐するまでもなかった」
「あれって、イークリバだったのか・・・」
 一応SLGネタなんだけど、出典は1992年発売というかなりのレトロゲームであり、知っている人は珍しいだろう。お父さんが結構好きなので僕もプレイしたことがある、遠い未来の宇宙戦争を舞台にしたシナリオシミュレーションゲーム、工画堂の『シュヴァルツシルトⅢ』。イークリバとは、その物語後半に敵国の宇宙人国家から亡命してくる、最強の能力を持った艦隊司令官の名前である。
 ちなみに、今まで使ってきた『アクティブジャンプ』や『パッシブジャンプ』といった術の名前も、そのゲームで使われていた用語を流用している。
 まあ、確かにあのイークリバであれば、その有能さは僕なんかとは比較にならない。

「・・・じゃあ、僕はやっぱり、『神の遣い』としては欠陥があるんだね。イレーネも、本音では僕ではなく、イークリバにこの帝国を治めて欲しいと思っているの?」

「そうは言っていない。彼女が、自らの性的嗜好であなたを選んだ結果、私も、いまやあなたを、愛情や性的欲求の対象として見るようになってしまった。今の私は、あなた無しでの生活など考えられない」
「・・・そうなんだ、ありがとう」
 口調は冷静だが、イレーネの熱烈な愛の言葉に、僕はそれ以外返す言葉が思い付かなかった。

「私があなたに望むことは、私と共にローマ帝国を滅亡ではなく、存続への道に導くこと。そのために必要なことであれば、どんな手段を用いても構わない」
「・・・僕に、エグザス・グラフトのようになれと?」
 エグザス・グラフトとは、『シュヴァルツシルトⅢ』の主人公で、当初はパーシオン共和国の首相として真面目に国を治めようとしていたものの、次第に諸外国との戦争へ次々と巻き込まれ、その過程で次第に悪者扱いされるようになり、ついには『パーシオン帝国皇帝エグザジオ・グラフツゥラー』を名乗り、力に物を言わせて銀河を統一しようとする。以後、グラフツゥラーは『シュヴァルツシルト』シリーズを通じての、代表的な悪役として扱われることになった。

「・・・概ね、そのような理解で差し支えない」
「まあ、そもそも僕に、この世界で名付けられた名前は、世界史上の悪役として名高いミカエル・パレオロゴスだから、似たようなものか。それでイレーネは、僕に真の悪役として覚醒して欲しいと?」
「そう。滅亡に瀕したローマ帝国に、新たな命を吹き込む仕事は、綺麗事だけでは務まらない。私も、帝国の滅亡を阻止するために、あなたを呼び出すという悪事に手を染めた。あなたが迷いを捨て、真の悪役として覚醒すれば、イークリバ以上の業績を残すことも可能。他の者が、あなたをどんなに悪人呼ばわりしようと、私はどこまでも、あなたに付き従う」

「・・・ははは。ありがとうと言って良いものやら」
 僕は、思わず乾いた笑いを上げてしまった。どうやら、僕には散々悪人呼ばわりされた上に、物凄い苦難を乗り越える運命が待っているようだ。最後には、クラーリンでも攻めてくるというのか。


「あと、あなたに言っておきたいことがある」
「何?」
「私があなたに望むことは、ローマ帝国を再興に導くことであって、彼女の人格を矯正することではない。あなたが、彼女を少しでもまともな皇女にしようとして、彼女にいろいろ教えたりしていたが、そのほとんどは、既に私もやっていたこと。でも、彼女が私の忠告に耳を貸すことはなかった。
 今後、彼女がどのような運命を辿ったとしても、それは彼女の自業自得に過ぎない。あなたが、彼女の運命を気にする必要は全く無い」
「・・・イレーネって、結構テオドラに冷たいんだね」
「特に、私が冷たくしているのではない。私と彼女は、最初からその程度の関係に過ぎなかった」
 そういえば、イレーネも『テオドラ被害者の会』の会員になっていた。イレーネにも、小さい頃からテオドラを何とかしようとして努力しても、どうにもならずついには匙を投げてしまった、うんざりするような過去があるんだろうな。

第12章 難破船

 僕と結婚して、ローマ帝国の皇后になろうとするテオドラ。
 皇后の地位にもテオドラにも興味は無いが、僕に真の悪人として覚醒してほしいと願うイレーネ。
 そんな思惑の違う2人の反目に悩まされながらも、僕たちを乗せたジェノヴァ船は、そんなことは知らんと言わんばかりに、順調に航海を進めて行く。
 僕の乗った船は、念のためビザンティン帝国領の港を避けて、ガリポリからヴェネツィア領のクレタ島に寄港し、そこから一気にエジプトへ向かうことになった。
 摂政をやっていた時期であれば、仮にエジプトへ向かうとすれば、時間がもったいないのでイレーネのアクティブジャンプに頼っただろうが、今回は僕の精神療養も兼ねた亡命生活だ。ゆっくり船旅を楽しむのも悪くない。

 そして、僕はある日、言い争いを続けるテオドラとイレーネの喧騒から逃れようとして、1人で甲板の上から、自分の領地である小アジア南部の土地を眺めていた。愛するマリアをはじめとして、様々な思い出があるあの土地も、だんだん僕の視界から離れて行く。
 でも、マリアはもうこの世にはいない。僕を助けようとして死んでいった、バルダスやベッコス、ジョフロワやギヨームといった隊長たちが、今更戻って来ることもない。

 ・・・思い出なんか、邪魔な荷物に過ぎない。急いで捨ててしまおう、この傾いた船べりから。

 しかし、僕たちを乗せた船は、その日の夕方くらいになると、大きな嵐に見舞われた。船が激しく揺れる中、船員たちがこんな声を上げる。
「この嵐は、女たちを船に乗せている俺たちに対する、神の祟りだ! 神の怒りを鎮めるため、女たちを殺せ!」
 船員たちが恐怖に駆られて叫び回り、女たちは悲鳴を上げながら逃げ回ったり、必死に身を隠したりしている。


「みかっち、一体何なのよ、この騒ぎは!?」
「・・・この世界の船乗りたちには、女たちを船員の娼婦として船に乗せる一方、嵐に巻き込まれるとそれに対する神の怒りだとして、その娼婦たちを殺すという悪習がある。これもその一環だ」
 そういう風習は、この世界ではなく史実でも、近世くらいまでのヨーロッパでは本当にあった。そうした風習を激しく非難した、16世紀スペインのファナ王女が狂女呼ばわりされたというエピソードも残っている。

「何よそれ! そんなの、男たちの勝手な言い掛かりじゃないの!」
「そう。僕も、その風習を知ったとき、ローマ帝国の船に関してはは直ちにそのような風習を禁止し、そのような行為を行った船の乗組員は、全員絞首刑に処すという勅令を出したけど、この船はジェノヴァ船だから、勅令の適用対象外。だから、未だにそういった風習が残っているんだ」
「冗談じゃないわ! あのふざけた船員たち、あたしがぶっ飛ばしてやるわ!」
「・・・それは止めないけど、神聖術で船を焼き払うことと、船員たちを殺すことはしないでね。この先船を動かせる人がいなくなっちゃうから」
「オーケー、あたしに任せなさい!」

 こうしてテオドラは、嵐で船が揺れに揺れている中、船に乗っている娼婦たちを殺そうとするジェノヴァ人の船乗りたちを、片っ端から殴り倒していった。
 その結果、実際に殺された娼婦はいなかったが、テオドラが船員たちを全員ノックアウトした後も、嵐が止む気配はない。このままでは転覆もあり得る。


「イレーネ、この嵐は君の力で何とかならないの?」
「・・・この嵐は、何者かの強大な魔力によるもの。その者でなければ、嵐を鎮めることは出来ない」
「一体誰だ、そんな嵐を起こしたのは!? 僕を殺そうとしているのか?」

 そのとき、僕たちの話を聞いていたテオドラが、僕に質問してきた。
「・・・そういえばみかっち、昼間になんか1人で甲板に立って、聞き慣れない歌を歌っていたけど、あの歌って何よ?」
「中島みゆき様の『難破船』だけど」
「全部みかっちのせいじゃないの! そんな、縁起の悪い歌を歌うからよ!」
「そんなバカな! 僕が歌を歌ったくらいで嵐が起きるなんて、言い掛かりにもほどがあるよ!」

「・・・彼女の言うことは、あり得ない話ではない」
「イレーネまで!?」
「あなたの魔力は、既に相当高いレベルに達している。そして、あなたの歌には、尋常ならざる強い想いが込められている。あなたの歌により、神聖術が発動してしまった可能性は十分あり得る」
「・・・仮にそうだとしたら、僕はどうすればいいの!?」
「あなたが、海の怒りを鎮める歌を歌えば、嵐が止む可能性がある」

 僕は、いまいち理不尽な思いに囚われながらも、海の怒りを鎮められそうな歌を、必死に頭の中で検索した。・・・とりあえず、これでやってみよう。

 ・・・海よ。お前が泣いている夜は、遠い故郷の唄を歌おう。お前が呼んでいる夜は、遠い船乗りの唄を歌おう。・・・

 僕が、海に向かって中島みゆき様の『海よ』を、繰り返し歌い続けたところ、次第に嵐が静まり、やがて本当に嵐は止んでしまった。あまりの事態に、僕は頭を抱えた。
「う、嘘だろ、こんなの・・・」
「ほら、みかっち! やっぱり、あんたのせいだったじゃないの!」

 翌朝。僕は、ジェノヴァの船員たちに向かって、平謝りに謝る一方、テオドラは命を助けられた娼婦たちから、しきりに感謝されていた。特に、アレクシアという名前の若い娼婦は、テオドラにいたく感激したらしく、自分が娘を産んだらテオドラと名付けるとまで言っていた。
 また、テオドラにぶちのめされたジェノヴァ人の船乗りたちは、今まで自分たちのやってきたことが迷信だったと自覚し、もう二度とこんなことはしませんとテオドラに約束していた。まあ、テオドラにしては良いことをやったというべきだろうか。


 それは良いとしても、僕は別の問題で頭を抱えることになった。
「・・・なんてことだ。これでは、何が起こるか怖くて、中島みゆき様の曲を歌えなくなってしまう」
「問題ない。歌詞の内容に照らし、何か問題が起こりそうなときは、腕輪を外して歌えば良い。あなたの覚えている歌は、あなたにしか使えない、極めて強力で有効な術ともなり得る。悲観することは無い」
 イレーネにそう励まされたものの、僕は複雑な心境だった。
 ・・・もはや、何でもありなのか。この世界は。

第13章 ミスルの地にて

 そんな、しょうもない出来事を経た後、僕たちを乗せた船は、エジプトのアレクサンドリアにたどり着いた。十字軍の影響で、まだジェノヴァ船は出入り禁止になっていたが、僕はアレクサンドリアの役人を説得して、彼らの出入り禁止を解除してもらった。

 僕は、別れにあたり、ジェノヴァ船の船長から挨拶を受けた。
「殿下、ありがとうございました。これで、我々も再び、エジプトで商売できます!」
「まあ、君たちには迷惑をかけてしまったから、そのくらいは良いけど、船賃は本当に要らないの?」
「はい。エジプトでも名を知られている殿下であれば、きっと我々の出禁を解いてくれるだろうというのが、そもそもこの仕事を引き受けた理由ですから」
「・・・そういうことだったのか」
 僕は苦笑しつつ、テオドラやイレーネと一緒に、初めてやってきたアレクサンドリアの町を散策することにした。

 エジプトは、イスラム教の総本山みたいな場所で、住民もイスラム教徒ばかりだと思っていたけど、国際商業都市であるこのアレクサンドリアには、結構いろんな国の人たちが集まっている。ヴェネツィアの商人もいれば、ローマ人の商人もいる。黒人も白人もいる。こうして、行き交う人たちを見ているだけでも飽きない。
「・・・でも、ここにしばらく逗留するのであれば、宿を探す必要があるね。ローマ人の商人に頼んでみるか」
「みかっち、このあたしが泊まるんだから、ちゃんと豪華な建物を用意するのよ! もちろん、大きなお風呂は必須よ!」
「亡命先なんだから、あんまり贅沢は言わないで」

 テオドラとそんな話をしているうちに、僕は道行く人から話を聞きつつ、この町に住むローマ人の商人では一番の大富豪だという、ある商人の屋敷にたどり着いた。
「どなた様でしょうか?」
「ローマ帝国の前摂政、ミカエル・パレオゴロスだ。この屋敷の主人と話がしたい」
 僕が、屋敷の使用人にそう告げると、使用人は慌てた様子で中に入って行き、間もなく僕たちの一行は、丁重に屋敷の中に通された。

「私は、ロマーニアの地で生まれた商人、ヨハネス・プロモドロスと申します。この地では、商売上の都合でイスラム教に改宗し、イスラム教徒を相手にするときには、ムスタファと名乗ることもございます。ご高名なミカエル・パレオゴロス殿下を、このお屋敷にお迎えすること出来るとは、身に余る光栄にございます。どうぞ、お好きなだけ、我が屋敷に御逗留下さいませ」
 僕は、見た目40歳近くと思われる、主人のプロモドロスから丁重に挨拶を受けた。ちなみに、テオドラとイレーネは別室に通され、テオドラは結構豪華な屋敷にはしゃいでいるようだ。

「良いのか? 僕はもう摂政ではなく、亡命中の素浪人のような存在なのに」
「滅相もございません。私が、こうしてミスルの地で商売に成功したのも、殿下の政策あってのことでございます」
「そうか、そなたが僕の進めていた、ローマ人による東方貿易の先駆者というわけか。ところで、ミスルというのは?」
「この国の名前でございます。我々ローマ人の間では、エジプトと呼ぶのが一般的でございましたが、現地人の間では、この地はミスルと呼ばれております。また、私もミスルの地に来る前は、この地はイスラム教徒ばかりだと思っておりましたが、長くこの地に住んでいるキリスト教徒などもおりますし、古来の神々を信じる者なども結構おりますぞ」

「そうなのか。ところで、商売の方は上手く行っているか?」
「それはもう。ただ、懸念点が2つほどございまして」
「どんな?」
「まず、西方との貿易に関しては、我々ローマ人が徐々にシェアを広げているものの、まだまだヴェネツィア人には及びません。今のところ、ヴェネツィア人が8割弱、我々ローマ人が2割強といったところでございましょうか」
「そうか。プロモドロス、わが国の交易政策には、あと何が足りないと思う?」
「我々ローマ人は、交易に関しては新参組でございます。ヴェネツィア人とは価格面で優位に立つことができましたが、交易ネットワークの伝統は、ヴェネツィア人の方がはるかに長いため、その牙城を突き崩すには、まだ時間がかかりそうです。
 その他、わが国に足りないものは、銀行と保険、組合でございますかな」

「ヴェネツィア人は、そのようなものを作っているのか?」
「はい。ヴェネツィア人は銀行業も発達させており、ヴェネツィアで金を預けて小切手を受け取れば、このアレクサンドリアで、自分の金を受け取ることが出来ます。そして、航海には必然的にリスクも伴いますので、リスクを分散するための保険、多くの者から出資を受け付けて交易を行う組合といった仕組みも発達しております。
 私は、このアレクサンドリアで銀行業も行っているのですが、ローマ帝国内で決済を行える仕組みがないために、ヴェネツィアの銀行に比べ遅れを取っております。
 また、組合は、才能はあっても十分な資力がない者が、交易の場で実力を発揮するために重要な役割を果たしています。このような仕組みは、ロマーニアではまだ発達しておらず、そのため才能がある者の多くは商人ではなく、軍人や官僚を目指してしまうようです。この点も、我々が遅れを取っている一因になっていると思われます」

「そうか。それはわが国でも、今後の大きな課題だな。それで、もう1つの懸念とは?」
「東方からタタール人が、物凄い数の大軍で、バグダードへと向かっているとの噂がございます。少なからぬ者がタタール人の動向を懸念しており、もしかしたら、やがてタタール人の大軍がこのミスルにやって来るのではないかと思うと、私も気が気ではございません」
「それか。・・・確かに、それは大きな心配だな」
 史実では、バイバルスという英雄が現れて、モンゴル軍を撃退しこの国を守ることに成功したのだけど、この世界では史実どおりに行くとは限らない。今のところ、この国にバイバルスという人物が現れた様子もないし。


 プロモドロスとそんな話をした翌日、僕はプロモドロスからアレクサンドリアの地図をもらい、まずはこの地に古くからある教会を訪ねてみることにした。

「・・・どなた様ですかな?」
「ロマーニアからやってきた、ミカエル・パレオロゴスというものです。この教会を、少し見学させて頂いてもよろしいですか?」
「別に構いませんが、我々は、現在のローマ人から見れば、異端と呼ばれる存在でございますぞ。それでも宜しいのですかな?」
「構わない。むしろ、同じキリスト教なのに、なぜこの教会が異端とされてしまったのか、興味がある」
「・・・そういうことであれば、お通ししましょう」
 こうして、僕は司祭さんの許可を得て、教会に入れてもらうことが出来た。


「ずいぶん質素な教会ね。聖なる都の教会とは大違いだわ」
 そんなテオドラの感想に、司祭はこう答えてくれた。
「ロマーニアの教会と異なり、我々はムスリムの支配する国の中で、自らの信仰を守ることが許されているだけです。そんなに裕福ではなく、信者の数も次第に減っております」
「そう言えば、ロマーニアの教会とこの教会とは、具体的に何が違うんですか?」
「そうですな。ロマーニアの教会は、我々の新しい考え方を受け容れず、我々の考え方を異端と断罪したのです」
「新しい考え方とは?」

「そうですな。分かりやすくご説明しますと、ここに2つのグラスがございます。その1つにはワインが注がれており、もう1つには水が注がれております」
 司祭は、そう説明した後、一方のグラスに注がれたワインを、もう一方のグラスに注いだ。
「このグラスに注がれているものは、何でございますかな?」
「何って、水でちょっと薄められた、ワインに決まってるじゃない!」
 傍で話を聞いていたテオドラが、そう口を挟んだ。

「まさに、そのとおりでございます。我々の遠い先祖たちは、ワインの方をキリストの神性、水の方をキリストの人性であると考えました。そして、イエス・キリストには、ちょうど私がワインと水を混ぜ合わせたように、一つの位格の中に、神性と人性がまじりあっているのだから、イエス・キリストが『完全な神であり、同時に完全な人間である』などということはあり得ず、キリストは人間としての性格をわずかに残しているものの、何よりも神であると結論付けました。このような考え方は、神学上『単性論』と呼ばれるようになりました」
「ああ、単性論なら聞いたことがある。確か、カルケドン公会議で異端にされちゃったんだよね」

「左様でございます。しかし、このミスルや、シリアの地に住むキリスト教徒の多くは、カルケドン公会議の決定に納得しませんでした。そして、忌まわしきローマ皇帝ユスティニアヌスは、我々を異端者とみなし、法廷で我々の証言できる内容を制限する法を定めるなど、陰険な迫害を加えたのでございます。しかし、そのような中から我々をお助け頂いたのは、テオドラ皇后様でいらっしゃいました」
「テオドラ皇后が?」
「テオドラ皇后様は、我々の教義に賛同して下さり、ユスティニアヌス帝によって迫害された多くの同志たちも、密かに助けて頂きました。そのため、今でも我々の教会では、テオドラ皇后様を聖人として崇めております」

「みかっち、聞いた? このあたし、聖人として尊敬されているのよ!」
「違うよ、テオドラ。名前は君と同じテオドラでも、今話をしているテオドラ皇后様というのは、今から700年くらいも前の、皇帝ユスティニアヌス1世の皇后テオドラのことなんだから」
「そんなこと知ってるわよ! このあたしはね、そのテオドラ皇后様にあやかって、立派な皇后様になれますようにって願いを込めて、母上からテオドラって名前を付けられたのよ。そして、そのテオドラ皇后様は、踊り子の身分から皇后様に登り詰めたって聞いているから、あたしも立派な皇后様になれるよう、踊り子としての腕も上げてきたのよ。
 だから、テオドラ皇后様が聖人として崇められているということは、このあたしが崇められているのと同じことなのよ!」
 ・・・何という強引な理屈だ。

 僕はそんなテオドラに呆れ返っていたが、司祭さんの方は別の感想を抱いたようだった。
「あなたは、名前も皇后様と同じテオドラで、テオドラ皇后様を見習っておられるのですか。それならば、きっと皇后様の恩恵を受けられることでありましょう」
「・・・まあ、その話はともかくとして、この教会は、聖王ルイ9世の十字軍に、協力しようとはしなかったのですか?」

「冗談ではありません。この国には、我々と同じ単性論派の教会が数多くありますが、我々の教会は、昔我々の教義を異端視するローマ帝国に支配されるよりは、ムスリムの支配を受け容れた方が良いと考え、彼らを積極的に歓迎したのです。
 そして、ルイ9世に征服されたダミエッタにも、我々と同じ単性論派の教会はありましたが、彼らは我々の教会を異端と見做し、容赦なく略奪、破壊致しました。そして我々は、あのような瀆神の輩とは違うと熱心に説いて回り、ムスリムから敵視されるのを防がなければなりませんでした。
 この地にやって来るフランク人たちの十字軍は、我々にとってはむしろ迷惑な存在であり、敵と言っても過言ではありません!」

「そうだったのですか。ムスリムだけでなく、同じキリスト教徒まで敵に回していたのでは、ルイ9世の従軍が散々な失敗に終わったのも、ある意味当然のことですね」
「全くです。あの、神を冒涜する悪魔のような王には、神罰が下されたのです」
 ・・・ルイ9世は、ヨーロッパ世界では『聖王』と呼ばれているけど、この国のキリスト教徒には、逆に神を冒涜する悪魔のような存在だと思われているらしい。

 あと、ローマ帝国で単性論が問題になったのは、600年以上も昔の話だから、単性論の教会なんてとっくに無くなっていると思っていたけど、実際にはまだかなり残っていた。イスラム世界は、独善的なキリスト教世界と違って、宗教的にはむしろ寛容な世界なのだ。


 単性論派の教会を去った後、僕たちはイスラム教のモスクを見て回ったり、町の片隅に残っている土着信仰の神殿を見て回ったりした。
「このミスルにも、結構いろんな神様がいるんだね。太陽神ラーとか、冥界の王オシリスとか、農耕の神イシスとか」

「ねえみかっち、このミンって神様、みかっちにそっくりじゃない!」
「・・・テオドラ、何が言いたいの?」
「こんなに、大きなプリアポスを見せつけてるところ、まさにみかっちじゃないの。それに、一体イレーネと、1日何回子作りしてるのよ」
 ・・・うう、そういう下ネタの話は、できればしたくなかったのに。

「イレーネが相手の日は、1日20回以上させられてる」
「20回も!? そんなにしないと、みかっちは満足できないの!?」
「いや、僕じゃなくて、イレーネの方が満足してくれなくて。もう10回くらい子作りを続けて、さすがに僕もこれ以上は出来ないって言うと、イレーネが僕を回復させて、もう10回子作りを続けさせようとするんだよ」
「緑学派って、そんな回復術があるの?」
「イレーネが独自に開発した術で、出し尽くして空っぽになった子種を、あっという間に満タンまで回復させるという、恐ろしい術」
「なんで、それが恐ろしいのよ?」
「だって、おしっこを済ませてスッキリしたと思ったら、すぐに漏れそうなくらいおしっこが満タンになるような術なんて、気持ち悪いだけでしょ? しかも、男の子種の場合、おしっこと違って、出すまでに結構体力を使うんだから、毎回あんな術使われたら、僕そのうち死んじゃうよ・・・」

「大丈夫。その点について抜かりはない」
 今まで、黙って話を聞いていた、イレーネが口を出してきた。
「このミスルの地では、多くの妻や妾を持つ、身分の高い男たちのために、数多く子作りをこなせるよう、滋養強壮効果のある様々な食物、薬物の類が売られており、そのための研究もなされている。私は、自らの術にそうした研究成果も利用し、あなたが健康を行うことなく数多くの子作りをこなせるよう、あなたの身体を強化している。
 今は疲れるかも知れないが、あと2~3年もすれば、1日20回くらいの子作りは平気でこなせるようになる」

「いくら何でも、強化のし過ぎだよ! 1日20回なんて聞いたことないよ!」
「・・・あなたは、ローマ帝国に戻ったら、数多くの女性と子作りをすることになる。あなたは、強い精力だけでなく、優れた子作りのテクニックも習得しているので、功績を立てた女性たちは、きっとご褒美として、あなたとの子作りを希望するはず。子作り出来る回数は、多ければ多いに越したことは無い」
「・・・単に、イレーネが子作りしたいだけじゃないの?」

 イレーネが、朝の6時から翌朝6時までという奇妙な決め方をしていたのは、イレーネと子作りをするようになってから、間もなく分かった。イレーネは、1人で訓練をしていたというだけあって、僕との子作りにもすぐに慣れてしまい、1日何度でも、僕との子作りを求めてくる。
 今日はイレーネの日となると、イレーネは朝の6時になるとすぐ僕と朝の子作りを何回かして、お昼にもちょっと子作りをして、夜になると目一杯子作りをして、そして翌朝には僕が少し出来るようになっているからと言って、翌朝6時の時間制限いっぱいまで子作りをするといった具合に、僕からとことん絞り尽くしてしまう。はじめから、そういう魂胆だったのだ。
 そして、テオドラの日になると、イレーネはテオドラとの約束を守り、僕に子作りをねだって来ることは無いものの、イレーネが1人で部屋にいるときは、ほぼ間違いなくオナニーしている。前日激しい子作りを繰り返したはずなのに、イレーネの性欲に限界というものはないらしい。
 イレーネは、その未発達な少女みたいな外見とは裏腹に、たぶんエッチな女の子だろうというのは分かっていたけど、まさかここまでとは思っていなかった。テオドラの方は逆に淡白で、1日3回くらいで止めにされてしまい、そんなのではとても満足できないけど、イレーネが絶倫すぎるために、今のところトータルでは釣り合いがとれている感じなのだ。


 僕がイレーネと、適切な子作りの回数に関する不毛な議論を続けていたところ、
「あっ、みかっち! あそこに、変な像が建ってるわよ!」
 テオドラが指さした先には、確かに「奇妙」としか表現しようのない、像らしきものが建っていた。
 像といっても、凶悪な毒持ちスライムのようにその姿はぐにゃぐにゃして絶えず動いており、かと思ったら何か人間らしき姿に変わったり、かと思えば元のスライムに戻ったりと、その姿は名状しがたい。
 そして、その像の説明文らしきものには、『這い寄る混沌 ニャルラトホテプ神』と書かれていた。

 ・・・なんか、物凄く嫌な予感がしてきた。
「テオドラ、この像には近づかない方が良さそうだよ。早く立ち去ろう」
「でも、みかっち、この像ってなんか面白そうじゃない」
 僕は、一刻も早くこの場から立ち去ろうとしたが、テオドラがその像に興味津々となってしまい、何を言っても手を引っ張っても、なかなか立ち去ろうとしない。そのうち、僕は背後から、見知らぬ人物に声を掛けられた。

「こんにちは! いつもニコニコ、あなたの傍に這い寄る混沌、ニャルラトホテプです♪」

第14章 ニャルラトホテプとピラミッド


 後ろから声を掛けられた僕が振り返ると、そこには赤い服を着た、銀髪でちょっとアホ毛の立っている少女がいた。
「君は、一体だれ?」
「だから、這い寄る混沌、ニャルラトホテプですってば」
 ・・・どことなく、某アニメに出て来た同名の人物に似ているが、服装が違うから一応セーフか。
「それで、そのニャルラトホテプさんが、僕たちに何の用?」
「・・・あなた、この国ではミカエル・パレオロゴスさんと名乗っているようですが、実際には私の真尋さんと同じ、日本人ですね?」
 いきなり図星を指され、僕は怖くなった。

「・・・まだ、名乗ってすらいないのに、なぜそこまで分かるの?」
「雰囲気で分かりますとも。どうですか、私の整った顔立ちとナイスバディ! ずばり、あなたの好みでしょう? 思春期の男子で性欲旺盛そうなあなたなら、思わず私にしゃぶり付きたくなるでしょう?」
「・・・別に」
「なんですとおおっ!? あの真尋さんをも口説き落とした、この私のナイスバディが、よりによってお気に召さないですと!? あなたは、ひょっとして同性愛者か幼児性愛者ですか!?」
「どうしてそういう話になるんだよ!?」
「ニャルちゃん。みかっちはね、そういうタイプより、ここにいるイレーネみたいな、小さいつるペタの女の子が好みなのよ。いわゆるロリコンね」
「テオドラ、僕のどこがロリコンだと・・・」
 僕が、話に割り込んできたテオドラに食って掛かろうとしたところで、ニャルラトホテプは一旦姿を崩し、一瞬異形のスライムみたいな形になった後、赤いランドセルを背負った、可愛い小学校高学年くらいの女の子の姿に変身した。

「お兄ちゃん、美夏だよ。・・・ずっと会いたかったよ」
 両手を合わせながら、すがるような眼で僕をみつめてくる美夏、いやニャルラトホテプの姿に、僕はいよいよ怖くなった。どうしてこいつは、僕とお父さんしか知らないはずの、生まれてくる前に死んでしまった僕の妹、美夏の存在まで知っているのだ。
 正体は怪しい邪神の類だと分かっているのに、その可愛らしい姿に、僕は思わず魅入られそうになる。
「そ、その格好は止めて! 元の姿に戻って!」

 すると、ニャルラトホテプは、例のスライム上の姿を経た後、元の姿に戻った。
「・・・まあ、私は真尋さん一筋で、あなたを口説き落とす気はありませんから、別にいいですけどね」
「それで、一体君は何しに、ここへ現れた」
「それはもう、エジプト発祥の邪神といったら、この私を欠くわけには行かないでしょう!? つい先日も、私は暗黒のファラオの姿になって、十字軍戦士たちから崇拝の対象になったばかりですからね。もっとも、私を崇拝していた連中は、マンスーラの戦いで全員討ち死にしちゃいましたけど」
「だったら、君の信者って、実質的にまだいないじゃん」

「私は、只今絶賛売り出し中の邪神なんです! これから、このニャルラトホテプは、世界各地で名前を売って、そのうち私をモチーフにした、クトゥルフ神話という新しい神話が描かれることになるんです! そして私は、やがてはこの地球だけでなく、広く銀河系全域に進出して、銀河系第一の邪神として広く崇められることになるんです!」
「ニャルちゃん! その気持ち、私にもよく分かるわ! あたしは、これからローマ帝国の皇后様になって、世界で最も強く美しい、かつてのユスティニアヌス大帝の皇后テオドラをも超える、伝説上の美女として歴史に名を残す予定なのよ! あたしたちは同士よ!」
 そんなことを言い出したテオドラとニャルラトホテプは、変なところで意気投合してしまったらしく、2人でがっしりと握手を交わしている。


「ところでミカエルさん、テオドラさん、私のことは『ニャル子』と呼んでください」
「別に、ニャルラトホテプで良いよ」
「なぜですか? ニャルラトホテプでは、呼びにくくありませんか?」

(作者注:無理に全文読まなくていいです)
「普通の日本人ならそう思うだろうけど、あいにく僕はこの世界で、やたら長ったらしい名前には慣れっこになっているんだよ。例えば、マヌエル帝の治世前期に活躍したという名将アレクシオス・アクスークはまだ良いとして、そのアクスークが失脚した後、治世後期に名将として讃えられたアンドロニコス・コントステファノスとか、マヌエル帝の死後に帝位を簒奪したアンドロニコス帝の宰相となったステファノス・ハギオクリストフォリテスとか、イサキオス2世の第1次治世に、事実上の副皇帝となって国政を壟断したテオドロス・カストモナイテスとか、歴史上だけでもうんざりするほど長い名前の人物がやたらと出てくるんだ。しかも、長いだけではなく同姓同名の人物が多いのも特徴で、例えばかつてイサキオス2世に仕えたコンスタンティノス・アスパイテスという将軍は反乱を企てて盲目刑に処され、その息子であるバルダス・アルパイテスは父の教訓から謀反の怖さを身に染みてわかっているので、どんな理不尽な目に遭っても、まだイサキオス2世の許でニケーア総督として頑張っているけど、その息子で祖父と同名のコンスタンティノス・アスパイテスは、そんな父の奴隷根性的な生き方に反発し、現在イサキオス2世とその摂政ゲオルギオス・ムザロンに反旗を翻し、民兵組織を率いて各地でゲリラ戦を繰り広げているとか、そんなややこしい事情を読者さんにどうやって分かりやすく説明しようかと、日々思い悩んだりする今日この頃なんだよ。さらに、イスラム圏の登場人物ともなると、ジャラールディーン・イブン・メングベルディーなどはまだ序の口で、シハーブッディーン・ムハンマド・アン=ナサウィーとか、シャムス・アッディーン・ムハンマド・イスファハーニーとか、それこそ嫌がらせみたいに長い名前の人物がワサワサ出てきて、それこそ名前を覚えるだけでうんざりするくらいなんだ。

 だから、『ニャルラトホテプ』くらいの名前なら、別に何ということもない」


 僕がそう早口でまくしたてると、テオドラとニャルラトホテプは、一緒になって蒼ざめた。
「・・・みかっち、そんな改行もなしで、長ったらしい説明をよくもまくし立てられるわね。あたしだって、途中で聞くの諦めちゃったわ。読者さんに不親切よ」
「・・・ミカエルさん、この私は宇宙MARCH大学を首席で卒業したエリートですが、今のミカエルさんのお話について行ける自信はありません」

「ニャルラトホテプ。その宇宙MARCH大学というのは、どこかで聞いたことあるような無いような名前だけど、大体どのくらいのレベルの大学なの?」
「あなたがご存じの、現代日本でMARCHと一括りにされている大学と、概ね同レベルだと思って頂ければ結構です」
「そう。じゃあ、大学としては大したことないところなんだね」
「何ですとお!? 多くの日本人高校生が、第一志望として目指す名門大学MARCHを、大したことないとはいかなる暴言ですとお!?」

「確かに、そのレベルの大学は、一般入試だと学部や学科にもよるけど、大体偏差値60前後ないしそれ以上が必要になるところが多くて、それなりの難関大学とは言われている。でも、実際にはAO入試とか、お金さえあれば高校時代のボランティア活動だけで入学できる裏口ルートなんかがいっぱいあるから、卒業生のレベルはそんなに高く評価されていない。むしろ、就職活動の場面ではそのレベルでぎりぎり、まともな大学生として扱われるって感じかな。
 それに、他の家庭がどうかは知らないけど、うちのお父さんは東京大学法学部の出身で、赤門以外は大学じゃないって平然と口走るような人だから、志望校はMARCHのどこかですなんて言おうものなら、お父さんに散々説教された挙句、そんなレジャーランドに行くなら学費は出してやらん、自分の金で行けって言われかねないから」

「・・・・・・」
 わざとらしく気落ちして涙を流しているニャルラトホテプに、テオドラが慰めの声を掛けた。
「ニャルちゃん。みかっちはね、顔こそ可愛いけど、性格は物凄く攻撃的だから気を付けなさい。今はまだ、可愛らしさの片鱗も若干残っているけど、そのうち完全な悪の道に目覚めて、全銀河系を暴力でねじ伏せる真の魔王、パーシオン帝国皇帝エグザジオ・グラフツゥラーとして覚醒する日も近いのよ。銀河系随一の邪神を目指すニャルちゃんにとっては、将来強敵になるわよ」
「・・・テオドラ、どさくさに紛れて、何をいい加減な事言ってるの!?」
「でも、みかっちはイレーネと、船の中でそんな話をしてたじゃない? あたし聞いてたのよ」
「それは、単なるゲームの話だから、気にしないで! それとニャルラトホテプ、君が出てきてから、話が脱線しまくってるから、そろそろ本題に戻ってよ! 僕たちに何の用があって現れたの?」

「いえミカエルさん、せっかくだからもう少し、楽しいお話をしてもいいんじゃないかと・・・」
「ニャルラトホテプ。良いことを教えてあげようか。フォーク発祥の地は、僕が治めていたビザンティン帝国なんだよ。ちょうど今フォーク持ってるから、これ以上君がグダグダ抜かすなら、君の身体をフォークでめった刺しにしてあげようか?」
「いや分かりましたミカエルさん! 今すぐ本題に入りましょう! だから、フォークだけは勘弁してください!」
「分かればよろしい」
 ・・・このニャルラトホテプも、フォークが大の苦手なのか。なんか、著作権的にものすごく微妙な存在だなあ。
 時々出てくる真尋さんとかいう人については、怖いから突っ込まないことにしよう。見た目は似ているけど基本設定はかなり違うし、単に真尋だけであれば、そんなのどこにでもいる名前だから偶然の一致だってことにしておけば、追及されても一応逃げられる。
 あと、僕は手裏剣の『風魔』なら持って来ているけど、フォークなんていちいち持っていない。実際にフォークを見せたわけでもないのに、フォークと口にしただけで怖がるニャルラトホテプには、余程フォークに対する強いトラウマがあるようだ。


「それで本題なんですが、この国にはたくさんのピラミッドがあります。それはご存じですね?」
「当たり前よ。エジプトと言えばピラミッドじゃない」
「そのピラミッドは、ファラオの墓として建設されたものであり、中には多くの財宝が眠っています。そして、このエジプトには、古代に信仰されていた神々が、アラーの他に神はいないとするムスリムの迫害を逃れて、ピラミッドの中や、その他辺境の場所に身を潜めています。あなたがたの腕を見込んで、私と一緒にその神々を討伐して屈服させ、ピラミッドのお宝も手に入れませんか、というお話です」
「あ、何か面白そう! やってみたい!」
 ニャルラトホテプの提案に対し、テオドラは乗り気のようだ。

「そして、全部で35体残っているエジプトの神々を全部討伐した暁には、このニャルラトホテプから、素敵なプレゼントを差し上げます! どうですか、エジプト名物のピラミッドを思う存分観光して、お宝もざっくり頂いて、この私から素敵なプレゼントももらえて、こんな美味しい話は他にありません! 英語で表現すれば、ワン・ストーン・スリー・バーズ!」
「・・・英語でそういう表現が一般的かは知らないけど、一石三鳥を敢えて英語で表現するなら、" Hunt three birds with one stone"かな。所詮宇宙MARCHの出身だね」
 ニャルラトホテプに僕が突っ込みを入れると、ニャルラトホテプはハラハラと涙を流した。
「うう、ミカエルさんが私をいじめます・・・。あの真尋さんでさえ、そのように無粋な突っ込みは入れませんでしたのに」
「みかっち、駄目じゃないの! こんなに可憐な女の子をいじめちゃ!」
「女の子なのは今の見た目だけで、正体は明らかな邪神だろ。しかも、それを隠しもしないし」
「ニャルちゃん、あんな無粋なみかっちは放置して、一緒に討伐の旅に行きましょ! そんなわけでみかっち、イレーネ、あたしたちに付いてきなさい!」

「なんで、放置される僕が、一緒について行かなきゃいけないんだよ!? それに、そのニャルラトホテプの提案、物凄く嫌な予感しかしないんだけど!?」
 僕がそう反論するも、イレーネが僕の服の裾を引っ張って、僕にこう耳打ちした。
「こういう状態の彼女は、もはや誰の言うことも聞かない。それに、後から黙ってついて行くだけであれば、害を蒙るのは彼女だけで、少なくとも私たちが害を蒙ることは無い」
「・・・それだったら、そうしておいた方が無難か」

「みかっち、イレーネと何をこそこそ話してるのよ!? さっさと行くわよ」
「はいはい、さっさと行きましょう、テオドラ皇女様」


 こうして始まった、エジプトの神々討伐の旅は、いつかのサイクロプス討伐戦よりは楽だった。ピラミッドの中には、当然数々の罠が仕掛けられていたけど、それに引っ掛かるのは、ニャルラトホテプと競争するかのように先行したテオドラのみ。
 そして、エジプトの神々の強さは、たぶんサイクロプスと同じか少し強いくらいで、前衛はテオドラ、ニャルラトホテプ、そしてサイクロプスのレオーネ。僕とイレーネは後方から術などで支援するのみ。この5人パーティーなら、倒せない相手では無かった。

 やがて、一番有名なクフ王のピラミッドに棲みついていた太陽神ラーは、力尽きて僕たちの前に屈服した。なお、今回は屈服させるだけで、完全に滅ぼすわけでも、仲間やペットにするわけでもない。

「なによ、せっかくラーを倒してピラミッドの奥まで来たのに、お宝が無いじゃないの!」
「建設されてから、もう何千年も経って王朝も変わっているんだから、ピラミッド内の目ぼしいお宝は、たぶんこれまでの盗掘者に全部持って行かれてるよ」
「ミカエルさん、テオドラさん。そう悲観的になってはいけません。あいにく、このピラミッドははずれでしたが、他のピラミッドには、まだお宝が残っているかもしれません。わたしの素敵なプレゼントまであと34体です。頑張りましょう!」

 最初からやる気のない僕と、期待を裏切られてやる気を失くし始めているテオドラを、ニャルラトホテプは熱心に励まし、結局旅は続いた。各ピラミッドへの移動には、基本的にイレーネのアクティブジャンプを使い、終わったらプロモドロスの邸宅に置かせてもらった臨時の移動拠点へ戻り、一泊する。
 そんなわけで、1日1体のペースで討伐は順調に進んでいったが、最初から何も期待しておらず、力をセーブして後方支援に徹していた僕やイレーネは平然としていたのに対し、お宝を期待しまくって罠に引っ掛かりまくり、神々との戦いでも先頭に立って全力で戦い続けていたテオドラには、次第に疲れの色が見え始めていた。

「うう・・・今まで何もお宝は見つからなかったけど、あと5体、あと5体倒せば、ニャルちゃんから素敵なプレゼントがもらえるのよね・・・。もう、それだけが生きる望みだわ・・・」
 僕としては、素敵なプレゼントとやらにも最初から期待はしていなかったが、優しい僕は、敢えてそのことには言及しないことにした。


 そして35体目、もはやピラミッドですらない、エジプトの奥地に隠れていた永遠神ヘフを屈服させたことで、ようやく討伐の旅は終了した。
「・・・ニャルちゃん、これで終わりよね・・・。これでニャルちゃんから、素敵なプレゼントがもらえるのよね・・・」
 もはや、疲れのあまり目が死んだ魚のようになっているテオドラに対し、ニャルラトホテプはあくまで楽しそうな表情で、テオドラに1つの箱を差し出した。
「テオドラさん、エジプトの神々討伐の旅、お疲れさまでした! 私からの素敵なプレゼントは、くじ引きでその内容が決まります! さあ、テオドラさん、運命のくじ引きの瞬間です! この中から、1枚くじを引いてください!」
「・・・分かったわ、ニャルちゃん」

 テオドラが、言われるがままに、箱の中から1枚のくじを取り出し、そのくじを開いてみたところ、そのくじには『3等賞 黒い結晶体』と書かれていた。
「テオドラさん、大当たりです! この黒い結晶体は、大事な私のペット、シャンタッ君のエネルギーを回復させることが出来る、とてもレアな代物なんですよ!」
「ニャルラトホテプ、僕たちはそんなペット飼っていないんだけど、それ以外の使い道ってあるの?」
「特にありません」

「じゃあいらない」
 僕は、迷わず黒い結晶体とやらを、ニャルラトホテプに返した。
「いいんですか? せっかくのプレゼントなのに。せめて記念品としてもらっておきませんか?」
「断固としていらない。僕たちにとって、役に立たないものをもらっても意味は無いから」
「・・・そうですか。それじゃあ私はこれで失礼します。あしたまにあーなー」
 ニャルラトホテプは、少し残念そうな表情を浮かべた後、それだけ言い残して姿を消した。

「・・・一体何なのよ、あのニャルラトホテプっていうのは」
 あまりのことに言葉を失っていたテオドラが、ようやく声を絞り出した。
「ニャルラトホテプっていうのは、物凄く悪戯好きな邪神で、一見役に立ちそうな呪文や機械を与えては結局その人を破滅させたりする、たちの悪い趣味があるんだ。
 今回は、何の意味もないただ働きをさせられるだけで済んだけど、あのニャルラトホテプから何か役に立ちそうなものをもらったら、その結果は、おそらくそんなものでは済まず、大体は社会的に抹殺され、自分の命まで奪われるか、自分の手で世界を滅ぼしてしまうことさえあり得る。テオドラも、悪い詐欺師や邪神に引っ掛からないよう、今回を教訓にもう少し知恵を身に付けるべきだと思うよ」
「そんな・・・あたしの努力は一体なんだったのよ・・・」
 僕の答えに絶望したテオドラは、その場で気絶してしまった。たぶん魔力切れだから、全快するまで3日はかかる。僕がテオドラをおぶって帰らなきゃいけないのか。

「イレーネ、たぶんこうなるとは思っていたけど、結局僕たちは、ニャルラトホテプの悪趣味と、テオドラの暴走に付き合わされただけで、結局何の意味も無かったわけだね」
「・・・そうでもない。この付近では、ポルフュロという紫色の貴重な石が採掘できる。この場所に隠し移動拠点を設けておけば、将来聖なるを取り戻した時、宮殿の緋産室を再建する際に便利」
 なお、『隠し移動拠点』とは、普通の移動拠点と異なり、術士以外の者には何も見えず、また術士以外の者がその拠点に近づいても、何となく「そんな場所に行っても意味ないよ」と思わせる心理操作の術が働くので、拠点管理官を置かなくても安全を確保できるという、イレーネが最近開発した新技術である。
 頻繁に使われる移動拠点には向かないが、こういう後日に備えて念のために置いておく移動拠点としては、『隠し移動拠点』が最適である。

「じゃあ、この辺の目立たない場所に、隠し移動拠点作っておいて。結果はそれだけ?」
「まだある。今、私たち3人に、それぞれ神聖結晶が8個ずつ届いた」
「・・・それは、何となく奇跡というよりは、意味のないただ働きをさせられた僕たちに対する、せめてものお情けって感じでくれた感じがするけど」
「人間が、エジプトの神35体を屈服させたことは、充分奇跡との評価に値する」
 こうして、テオドラの適性は97から99に、イレーネの適性は公称92から94に、僕の適性は93から95に上昇した。・・・一応、経験値を稼いでレベルアップできたと思えばいいか。


「ところでイレーネ、この世界の神様って、実はそんなに強くないの?」
「少なくとも、通常の人間に比べれば、とてつもなく強い。ただし、その力は必ずしも絶対的なものではなく、適性90を超える術士が複数集まれば、神の力に対抗することも不可能ではない。換言すれば、適性90を超える術士の潜在的能力は、もはや通常の人間という範疇を超えており、ヘラクレスのような英雄、半神ともなり得る。
 そのような人間と神との本質的な違いは、戦闘能力の違いではなく、寿命によって死ぬ運命にあるか、寿命の制約を受けないかにある。戦闘によって神を屈服させることはできるが、完全に滅ぼすことは極めて困難」
「・・・神と人間が戦うことって、よくあるの?」
「滅多にない。神は、みだりに人間を殺そうとはしない。よほどのことが無い限り、人間の前に現れようともしない。そんな神に挑戦しようとする人間もたまにいるが、ドラゴンと同様、大抵は返り討ちに遭うだけ。単なる興味本位で神に喧嘩を売り、しかも次々と勝ってしまう彼女のような存在は、過去に例がない」
「テオドラとニャルラトホテプって、要するに似た者同士なのか。二人とも、戦う気のない神様たちに向かって、一緒になって容赦なく殴る蹴るの暴行を加え、屈服させて満足そうな顔をしていたし」
「・・・そうとも言える」

第15章 シャジャル=アッ・ドゥッル

「うーん、良く寝たわ。これで、あたしも完全復活ね。何となく、更に強くなったような気がするわ」
 3日間の安静療養を終えたテオドラは、そんなことを言いながら、大きく伸びをしていた。
「テオドラ、体調はもう良くなった?」
「万全よ! ところで、みかっちはあんまり元気ないわね。子作りのやり過ぎ?」
「・・・いつもなら、そんなわけあるかって突っ込むところだけど、残念ながら今回は大体合ってる」
「みかっち、子作りが気持ち良いのは分かるけど、体調が悪くなるくらいなら、さすがに過剰な子作りは自粛した方がいいと思うわよ」
「それは、僕よりイレーネに言ってくれ! テオドラが休んでいる間、テオドラが療養中なら自分が僕の相手をすると言って、この3日間、僕はまるでレモンのように、イレーネに絞り取られ続けて来たんだから。イレーネは、僕の性奴隷だとか言っているけど、実態はむしろ逆で、僕がイレーネの性奴隷にされているんだよ」
「子作りが嫌なら、断ればいいじゃない」
「それが出来れば苦労はしないよ。今のイレーネは、僕と子作りするためなら、僕を強制的に発情させるといった、教会から使用禁止にされた魔術でも平気で使うし、出すものが無くなったら回復させられちゃうし、僕が眠っている間に勝手に子作りを始めることもしょっちゅうだし、一体どうやったら、際限のないイレーネの肉欲を満足させることができるのか・・・」
「まあ、あの子は小さい頃から淫乱の素質があったから、そのイレーネとくっついたことで、みかっちもそれに巻き込まれちゃったのよ。もうどうしようもないわ」


「その話はこのくらいにして、そろそろ、僕たちはこの街から離れて、カイロに行こうと思うんだけど」
「カイロへ?」
「そう。これまで、ずっとプロモドロス邸でお世話になってきたけど、あんまり長逗留すると迷惑になるから。とりあえず、エジプトのスルタンに会って、客将として雇ってもらおうかなと思ってる」
「まあ、いいんじゃない?」

 ところが、プロモドロスにその話をしたところ、彼からこう注意された。
「殿下、カイロはこのアレクサンドリアと違って、住民の大半がムスリムですから、ムスリムらしい格好をした方がよいかと存じます。具体的には、男は同性愛者と間違えられないように髭を付け、女はヴェールで顔を隠す必要がございます」
「そうなのか。じゃあ、僕は髭を付ける必要があるわけだね」
「冗談じゃないわ! あんなヴェールを付けたら、あたしの美しさが台無しになるじゃない! 断固として、この姿のままでカイロまで行ってやるわよ!」
「私も、このままで良い。仮に、男の同性愛者と勘違いされたとしても、特に支障はない」

 テオドラとイレーネは、理由こそ違えど、このようにどちらもヴェールなど被りたくないという意向だったものの、僕は同性愛者と勘違いされたくないので、プロモドロスの助言どおり、付け髭をもらってそれを装着することにした。ところが、

「ぎゃはははははは、なにみかっち、その髭超似合わないんだけど! ぎゃははははは、ああ笑い過ぎてお腹痛いwww」
 テオドラに、物凄い勢いで大爆笑され、プロモドロスからもこう言われた。
「・・・殿下は、何というか中性的な童顔でございますから、髭はあまりにも無理がございますな」
 プロモドロスのみならず、あのイレーネまで笑いを堪えている様子なので、僕も髭を付けるのは諦めざるを得ず、結局僕たちは全員、従来どおりの格好でカイロへ行くことになった。


 カイロへは、最初馬に乗って行こうと思っていたが、イレーネは馬に乗れないというので、結局アクティブジャンプでカイロに直行した。
 カイロでは、案の定周囲から変な目で見られたり、ムスリムの風習を完全に無視したテオドラの格好を兵士たちに見咎められ、それに反発したテオドラが喧嘩騒ぎを起こし、僕とイレーネで必死にそれを止めたりする一幕もあったけど、僕の名前はこの地でも結構知られているらしく、僕の名前を告げると一転して僕たちは賓客として迎えられ、このエジプト、地元の言葉で言えばミスルの地で政治の実権を握っているという、スルタンの妃シャジャル=アッ・ドゥッルとの謁見が許された。


「ミカエル・パレオロゴスでございます。王妃様へのご謁見が叶い、恐悦至極でございます」
「あなたが、あのミカエル・パレオロゴス? ローマ人の軍を率いてトルコ人たちを何度も破り、とてつもない武勇の持ち主であるとの噂を聞いていたけど、むしろ可愛い顔をしているわね」
「・・・王妃様、それは私も気にしておりますので、あまり言われたくないところでございます」
「そうなの。でも、私はあなたのような男も好みよ。そんなあなたに、今日は私から、良い話を用意してあるのよ」
「良い話? どのようなものでございましょうか?」

「この私と結婚して、ミスルのスルタンにならない?」

「はあ?」
 僕は、思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「・・・失礼いたしました、王妃様。しかし、王妃様には、既に夫となられているスルタン、アイバク様がおられるはずですが」
「アイバクは、あたしに反抗しようとするから、もう暗殺したわ。今の夫はクトゥズって言うのよ。でも、クトゥズも大した男ではないから、あなたがその気になれば、クトゥズも殺して、あなたをあたしの夫に迎えても良いって言っているのよ。あなたは、戦争に強いだけでなく、男としてもあたしを、相当に楽しませてくれそうだからね」
 ・・・なんて恐ろしい女だ。だからこそ、女性の身でありながら、このエジプトで政治の実権を握ることが出来ているのか。
「王妃様には、お褒めにあずかり恐縮ではございますが、そこまで畏れ多いことは私も身が引けますし、既に私の結婚相手は決まっておりますし」

「そんなの問題ないわ。ローマ人の国と違って、わが国の男は、4人まで妻を持てるのよ。私をあなたの第一夫人にして、そこの2人をそれぞれ第二夫人、第三夫人にして、もう一人妻を持つこともできるわ。それ以外の女は、妻では無くて妾という形になるけど、ちゃんと私を満足させてくれるなら、他に妻や妾を何人持っても構わないわ」
 ・・・シャジャルは、どうやらイレーネのことを正しく女性だと認識しているらしい。妙なところで僕が感心していると、僕と違って通訳からシャジャルの言葉の意味を聞かされたテオドラが、シャジャルに猛反発した。

「シャジャル! このあたしを差し置いて、みかっちの第一夫人になるですって!? 残念でした! みかっちは、あんたみたいなオバさん、絶対相手にしないわよ」
「何ですって!? このあたしがオバさんですって!?」
 ・・・使う言葉は違っても、なぜか罵声は意味が分かってしまうようだ。
「そうよ! 顔にそんなヴェールを付けているのも、どうせ顔が不細工で、他人様に見せられないからなんでしょ?」
「テオドラ、王妃様になんてことを! 女性が顔をヴェールで隠すのは、イスラム教の決まりだから」
 僕はそう言ってテオドラを宥めようとしたが、

「私のこの顔が、不細工で見せられないですって!? だったら見せてあげるわよ!」

 テオドラの暴言に怒ったシャジャルは、自分からヴェールを脱いでしまった。シャジャルは見た目20代くらいで、僕が思っていたよりは美人だった。

「ふん。思っていたよりはマシだけど、大したことないわね。このあたしの方がよっぽど美人だわ」
「おのれ小娘、言わせておけば・・・」
「すみません王妃様、見てのとおりうちのテオドラは言う事聞かない子なので、このお話は聞かなかったことにしておきます! それでは失礼致します!」

 このままでは、テオドラとシャジャルとの喧嘩が始まってしまいそうだったので、僕はイレーネに手伝ってもらってテオドラを取り押さえ、急ぎ話を切りあげて、シャジャルの許を退出した。


「こうなってしまっては、この街にはちょっと居づらい。シリアへ向かおう」
「何でシリアなの?」
「このカイロ、現地の言葉ではカーヒラ、勝利の町を意味する名前なんだけど、この町はまさしくイスラムの都で、イスラム教徒以外の人間には住みにくい。エジプト名物のピラミッドも、沢山行き過ぎてもう見飽きた」
「確かに、あたしもピラミッドなんか、二度と見たくないわ。あのニャルラトホテプも」

「・・・だろうね。でもシリア方面であればピラミッドは無いし、キリスト教徒の十字軍国家とイスラム勢力が入り混じって、ローマ人のほかヴェネツィア人、ジェノヴァ人の商人なども多数訪れているので、そこまでイスラム一色ではないと聞いている。
 モンゴルの大軍が、ニザール派のアラムート城塞を攻略し、バグダードへ向かっているという噂も流れているから、傭兵の需要もありそうだ。
 それと、マンスーラの戦いで十字軍を破った、アル=ブンドクダーリーという、噂によるとかなり有能な将軍がいて、彼はカイロで権勢を振るっているシャジャルと距離を置き、シリアで放浪生活を送っているという。出来れば、そのアル=ブンドクダーリーとも会ってみたい」
「まあ、それでいいわ。行きましょう」

 こうして僕たちは、カイロで馬と馬車を調達し、僕とテオドラは馬に乗って、イレーネは1人で2頭立ての馬車を操って、ゆっくりとシリア方面へ旅立つことにした。必要な荷物は、イレーネが操っている馬車に積んである。
 ちなみに、砂漠を旅するなら馬より駱駝の方が便利だとも言われたが、テオドラが「駱駝なんて臭い、嫌だわ」と言い出して聞かなかったで、駱駝は却下となった。

「みかっち、何でイレーネのアクティブジャンプを使わないの?」
「今回は、特にシリアのどこへ行きたいって、特定できる場所が無いんだよ。どうせ急ぐ旅でもないから、いろんな町なんかを回って情報を集めたい」
「まあいいけど。ところでみかっち、イレーネがなんで馬車に乗れないのか知ってる?」
「・・・知らない。テオドラと違って、馬に乗る練習をしたことがないのかな?」
「そうじゃなくて、そもそも馬に乗る練習すらできないのよ。その理由はね・・・」

 僕は、テオドラに『イレーネが馬に乗れない本当の理由』を耳打ちで教えられて、思わず顔が赤くなった。それは、ちょっと他人様に言える理由ではないし、解決することもできない。
 詳細に書くと18禁指定されるおそれがあるので、慎重に言葉を選びつつ簡単に説明すると、要するにイレーネはオナニーのやり過ぎで、女の子の敏感な部分がかなり大きくなってしまい、馬に跨るとその敏感な部分が擦れて刺激されてしまい、馬を操るどころではなくなってしまうのだという。
「・・・まあ、それは何と言うか、コメントしずらい理由だね・・・」


 僕とテオドラがそんな話をしていると、いかにも私は盗賊ですって感じの、悪役面した一団が現れた。
「ぐふふ、命が惜しければ、有り金全部とその女置いて行き・・・グフっ!?」
 僕は、盗賊の台詞を全部聞き終える前に、『風魔』でそいつの首を刎ねた。
「テオドラ、手始めにこの盗賊団を皆殺しにして、有り金と金目の物を全部巻き上げよう。普通の市民相手に略奪するのはまずいが、相手が盗賊団なら、何をしても僕らの方が正義だ」
「そうね。この3人に喧嘩を売ったこと、地獄で後悔させてあげるべきよね」

 こうして、僕たちを襲撃しようとした盗賊団は、僕とテオドラの術で壊滅した。僕は盗賊団の最後の生き残りに、こう尋問した。
「吐け。お前たちのアジトはどこにある。言わなければこの場で瞬殺するぞ」
 盗賊の生き残りは、アジトの場所を正直に白状した。僕は必要な情報を聞き終えると、その場で盗賊の首を刎ねた。
「みかっち、正直に白状したのに、殺しちゃうの?」
「僕は、言わなければ殺すと言っただけで、白状すれば命を助けるなんて、一言も言ってないぞ」

 そして、僕とテオドラは、イレーネに馬車の留守を任せて、その盗賊団のアジトへ乗り込み、盗賊団を殲滅した。
「ど、どうか、命だけはお助けください・・・」
「無駄だ。お前はもう、死んでいる」
 僕がそう言った瞬間、盗賊の頭は爆発し、粉々に砕け散った。

「・・・みかっち、その術は何?」
「緑学派の術は、人の生命活動に影響を及ぼす術だから、その術を応用することによって体内の血流を逆流させ、今のように一撃で人を殺すことも出来る。これって、一度やって見たかったんだ」
「その術って、何て名前?」
「うーん、元ネタにあまり忠実過ぎると、クレームが来そうだから、とりあえず『百裂』の術とでも名付けておくかな。僕が開発した術だけど、単体攻撃だから推奨適性は65くらいで済むと思う。テオドラにも教えてあげようか?」
「・・・あたし、そんなグロい術、いらないわ」
「そう? これはネタとしては結構古いけど、日本でも有名な、格好いいエンタメだから、むしろ気に入ると思ったのに」

 僕は、イレーネに臨時の移動拠点を作ってもらい、アレクサンドリアでお世話になったプロモドロスの部下たちを呼んで、盗賊団から巻き上げた戦利品の処分を委ねた。処分費用とプロモドロスへの報酬を差し引いた残りは、プロモドロスが開設している銀行の、僕名義の口座へ預けられることになった。

 こんな感じで、放浪を続けても当面の生活費は賄えるかなと思っていたのだが、不満要素もあった。
「みかっち、食べ物まずーい! もっと美味しいもの出してよー!」
「放浪生活で、そんな良い物食べられるわけないよ。それに、料理のできる人が他にいないから、僕が料理を作らなきゃいけないんだし。それに、イレーネでさえ、分からないなりに料理を手伝おうとしてくれるのに、テオドラは料理に使う火を起こす程度のこともしてくれないし」
「だって、あたし火の起こし方なんて知らないわよ」
「・・・テオドラ、君って赤学派の術士だよね? 火を起こす術は得意中の得意なはずだよね?」
「みかっち、前にも言ったでしょ。攻撃以外の目的に術を使うのは邪道だって」


 僕は頭を抱えた。ほとんど不可抗力だったとはいえ、僕はなんて我儘な女を妻にしてしまったのか。
 今となっては叶わぬ願いだけど、せめて人生にもう一度だけでもいいから、マリアの美味しい手料理が食べたい。我儘で手に負えない皇女様と、性欲が強すぎる預言者様の2人を事実上の嫁にしている今よりも、マリア1人を愛していればよかった時期の方が、よっぽど幸せだった。
 ・・・出来ることならば、あの頃に戻りたい・・・。

第16章 湯川さんのお弁当

 その次の日。僕は久しぶりに、イレーネの無断子作りで目が覚めるのではなく、猫のウランに身体をふみふみされることで目が覚めた。つまり、ここはあの世界ではなく、僕の生まれ故郷である現代日本だ。
「日本に戻って来たのか。一体何年ぶりのことかな・・・? 勉強とエレクトーン検定の対策だけはしっかりやっていたけど、あまりにも時間が空いたんで、『昨日』の日本で一体何が起きたのか、思い出せないよ」

 僕は、こういうときのために書いていた日記を読んで、『昨日』の出来事をようやく思い出した。湯川さんにラノベの解説をしようとして、それを佐々木さんにからかわれて、帰り際に湯川さんを自宅まで送り届けたのか。
 そして、今日も雨が降っている。早く出発しないと・・・。


「お、おはようございます、湯川さん」
「さ、榊原くん、・・・おはようございます、なのです」
 朝からぎこちない挨拶になってしまったのは、相変わらず僕の頭の中で、湯川さんとマリアを混同してしまっているためである。

 そして、『昨日』より事態を大きく悪化させてしまっている要因が、いくつかある。
 1つは、僕はあの世界で、マリアなどを相手にたくさん子作りを経験してしまったせいで、子作りのやり方と快感をたっぷり身体で覚えてしまい、僕の身体は、もはや湯川さんを、子作りの相手だと見做してしまっていること。
 2つ目は、当の湯川さんが、僕の前で可愛らしく顔を真っ赤に染めている上に、以前より何となく色っぽくなり、まるで亡くなったマリアがそのまま湯川さんになったように見えてしまうこと。
 そして3つ目は、日本での日課であった朝のオナニーをやり忘れてしまったこと。おかげで僕の身体は、今だ童貞であった『昨日』とは大きく異なり、機会さえあれば湯川さんを犯してしまおうと考えてしまう、凶悪な兵器と化してしまっている。
 僕も表向きは、そんな気持ちを必死で隠し、なるべく平静を装っているが、内心では湯川さんを、この場で押し倒し子作りしてしまいたい、という気持ちを抑えるのに必死である。
 ・・・こんなんで、今日1日耐えられるのだろうか。


 とりあえず、僕は授業中出来る限り湯川さんの方を見ず、授業に専念することにした。これで午前中は辛うじて乗り切ったが、お昼休みという大事なイベントがある。僕と湯川さんは、一緒にお昼のお弁当を食べる約束になっているのだ。
 そして、問題の昼休みになると、
「・・・榊原くん、これ、作って来たのです」
 湯川さんはそう言って、僕に弁当箱らしきものを差し出してきた。
「これ、僕用のお弁当?」
「はい、なのです。・・・榊原くんに、食べてほしいと思って、作って来たのです」
「あ、ありがとう。頂きます」

 僕は、自分で作ってきた手抜き弁当を食べるのを後回しにして、湯川さんからもらったお弁当を食べることにした。そのお弁当を食べて、僕は感動のあまり、思わず涙を流した。
「榊原くん? どうして泣いているのですか? わたしのお弁当に、何かおかしなものでも、入っていたのですか?」
「そういうわけじゃないけど、・・・湯川さんのお弁当が、あまりにも美味しくて・・・」
 僕の湯川さんへの返答は、半分くらいは本当である。だが、僕が涙を流した理由の半分は、湯川さんの作ってくれたお弁当の味付けが、かつてマリアが僕に作ってくれた料理とそっくりだったため、死んでしまったというマリアのことを思い出してしまったからである。
 おかげで、僕の身体も、お弁当より湯川さんを食べたいという気持ちが一時的に消え、湯川さんの美味しいお弁当を味わうことに意識が向くようになった。そして僕は、こうなったら頑張って湯川さんを自分の彼女にするしかない、ゆくゆくは自分のお嫁さんにするしかない、と考えるようになった。

 そして、食事中僕は例の佐々木さんから、また声を掛けられた。
「榊原くーん、やっぱり美沙ちゃんと付き合ってるんじゃない。もう認めちゃえば?」
 そのとき、僕は例の、日本で時々聞こえてくる謎の声に励まされた。
(お兄ちゃん、ここで負けちゃダメだよ! 男らしく、ガツンって跳ね返さなきゃ!)
(分かってる)
 僕は、佐々木さんにこう切り返した。
「佐々木さん、悪いけど今は、湯川さんと2人でゆっくり話がしたいんだ。佐々木さんの話は後で聞くから、今は黙っててくれないかな?」
 今の僕は、言葉遣いこそ丁寧だけど、その眼光は、盗賊団を容赦なく殺すときのそれと同じである。これにはさすがの佐々木さんもビビったようで、
「・・・じゃあ、あたしの話はまた後にするね」
 割とあっさり引き下がってくれた。

 僕は、食べ盛りの年頃で、戦闘やイレーネとの激しい子作りに耐えるための体力も必要なので、実質2人分のお弁当も、あっさり完食してしまう。湯川さんのお弁当はじっくり味わったが、自分で作ったお弁当は、まるで事務作業のようにさっさと食べてしまう。湯川さんを狙うと決めた以上、湯川さんと会話をする時間を、1分1秒でも逃がしたくない。

「湯川さん、お弁当作って来てくれて、ありがとう。とても美味しかったよ」
「あ、ありがとう、なのです。・・・良かったら、明日からも、作ってきていい、なのですか?」
「そ、それは僕としては大歓迎だけど、そんなことお願いしたら、湯川さんに迷惑かけちゃうんじゃないの?」
「それは、大丈夫なのです! 私は毎日、私の分と、お仕事に行く私のお母さんの分のお弁当を作っていますので、榊原くんの分を入れて3人分になっても、手間はあんまり変わらないのです!」
 そう元気に答える湯川さんの表情は、本当にマリアそのものといった感じだった。
「そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えて、明日からもお願いします・・・」
「はい、任せてください、なのです!」
 湯川さんが、また元気よく答えてくれた。
 湯川さんが、わざわざ僕のためにお弁当を作ってくれるということは、湯川さんを僕の彼女に出来る脈ありと、考えても良いのだろうか・・・。

 しかし、お弁当を食べ終えた僕が、例のライトノベルの解説を始めようとしたところ、
「さ、榊原くん、・・・ちょっと失礼します、なのです」
「うん? 湯川さん、どうしたの?」
「あの、ちょっと、・・・お花を摘みに、行ってきます、なのです」
「・・・分かった。行ってらっしゃい」
 僕は、席を外す湯川さんに、そう答えるしかなかった。イレーネは例外として、大体女の子というものは、程度の差こそあれ、トイレに行くことを恥ずかしがるものなのだ。

 まあ、トイレだったら仕方ないねと僕が諦めていると、
「じゃあ、美沙ちゃんが行っちゃったので、あたしから榊原君への質問ターイム!」
 近くの席で他の女の子たちと食事をしていた佐々木さんが、僕に寄ってきた。
「・・・一体、僕に何を聞くつもり?」
「榊原くんと美沙ちゃんって、もう付き合ってるどころか、エッチまでしちゃってるんじゃない?」
「ど、どうしてそんな発想が出てくるの!?」
 確かに、湯川さんとエッチしたいとは思っているが、実際にしたことはない。明らかに冤罪だ。

「榊原君、隠しても無駄だよ。この名探偵、佐々木麻衣ちゃんの手に掛かれば、そんな隠し事ははっきりお見通しなんだからね」
「・・・佐々木さんは、一体どういう推理をしたの?」
 僕がそう尋ねると、佐々木さんはいかにも自慢げに、彼女の『推理』なるものを挙げていった。

「ひとーつ! 昨日の榊原君については、美沙ちゃんと、なんとあいあい傘をしながら、一緒に美沙ちゃんの家の方向へ帰って行ったとの目撃証言があります。しかも、その証言によると、美沙ちゃんは自分の傘を持っているのに、わざわざそれを使わず、榊原君とくっついて歩いていたというのです。これは、もはや2人がラブラブな関係にあるという、明らかな証拠であります!」
「うっ・・・」
 僕は答えに詰まった。誰かに見られていたのか、あの光景を。

「ふたーつ! 今日美沙ちゃんは、わざわざ榊原君のために、お弁当を作ってきました! これも、2人が既に相当ラブラブな関係にあるという、動かぬ証拠であります!」
「・・・確かに、そう見られても仕方ない面はあるけど、僕はどうして、湯川さんが僕のためのお弁当を作って来たのか、その理由も知らないんだけど」

「しらばっくれても、まだまだ証拠はあるよ!
 みーっつ! 美沙ちゃんは、昨日まではか弱くてオロオロしている子だったのに、今日はずいぶん元気になって、しかも急に色っぽくなりました。先程の目撃証言と併せて考えると、これは明らかに、榊原君と美沙ちゃんは、2人揃ってラブラブな状態で美沙ちゃんの家に帰り、昨日美沙ちゃんの家で最後の一線を越えて、結ばれてしまったと考えるしかありません!」
「それは、断固として冤罪だよ! 僕は、湯川さんを家まで送っただけで、湯川さんの家には入ったことがないし、当然それ以上のこともしてないよ! それに、湯川さんの態度を見ただけで、一線を越えたかどうかなんて、分かるはずないじゃない!」

 僕がそう反論すると、佐々木さんは可哀そうなものを見るような視線で、こう答えてきた。
「・・・榊原君。女の子の勘は、結構鋭いんだよ。クラスメイトが処女か、それとも処女を捨てたかくらい、態度を見れば大体分かるんだよ。特に美沙ちゃんは分かりやすい子だから、明らかに榊原君とエッチしてます、って顔をしてるもの」
「僕には全然分からないけど」

 佐々木さんは、僕の反論を完全にスルーして、『推理』の披露を続けた。
「そしてよーっつ! 今日、榊原君と美沙ちゃんは、午前中から妙にモジモジしてまーす! 榊原君は、もう服の上からでも分かるくらい、おっきなものをビクンビクンさせているし、美沙ちゃんもお股をこすりあわせたりしていまーす! これは明らかに、2人とも早く昨日の続きがしたいと考えている、非常に分かりやすい証拠です!」
「・・・僕って、佐々木さんの目から見ても、そんな風に見えるの?」
「見えるよ! ・・・さすがに、今まではちょっと恥ずかしいから指摘してこなかったけど、女子の間では噂になってたんだから。いまさっきも、今日の榊原君は特に大きいね、放課後になったら美沙ちゃんとすぐエッチするつもりなんじゃないって、話してたくらいなんだから」 

「・・・それは、最近の僕が単に性欲過剰なだけで、別に今日、美沙ちゃんとエッチなことができる見込みがあるわけじゃありません」
「認めた! 榊原君が、美沙ちゃんとエッチしたいって認めたよ!」

 ・・・反論すればするほどドツボにはまっていく、佐々木さんの連続尋問。明らかに真実とは異なるのに、言われてみればそう誤解されても仕方ないという状況証拠が、なぜか揃ってしまっている。


 そして、湯川さんは、なぜか昼休みが終わっても教室に戻ってくることなく、僕は昼休みが終わるまで佐々木さんからの質問攻めを受けることになった。僕は、佐々木さんからの容赦ない質問に辟易する一方、湯川さんのことが心配になってきた。

 その湯川さんは、午後の最初の授業が終わった頃に、ようやく戻ってきた。
「お帰りなさい、湯川さん。・・・もしかして、体調が悪いの?」
「・・・そ、そんなに大したことではないんですけど、ちょっと保健室で休ませてもらって、少し体調が良くなってきたから、戻ってきたのです」
「授業を休んで保健室で休むほどとなると、結構重症なんじゃない? 身体には気を付けてね。僕へのお弁当も、無理してまで作る必要は無いから」
「ほ、本当に大したことではないのです。榊原君へのお弁当も、本当に是非作らせてください、なのです」
「作ってくれるのは嬉しいけど、どうしてまた急に、僕のお弁当を作りたいっていう気になったの?」
「そ、それは、・・・昨日のお礼と言うか、・・・とにかく、榊原君に何か尽くしたい、そんな気持ちからなのです」
 やたらと焦った表情で、そう答えてくる湯川さんの表情を見て、僕はこれ以上追及するのを止めにした。僕の頭の中に、湯川さんに関するはてなマークはたくさん浮かんでいるけど、今後の事を考えると、あまり湯川さんを問い詰めるのも良くない。

 そして、放課後のホームルームが終わると、
「美沙ちゃん、私たちとお話ししよう?」
 僕が話し掛けるより先に、佐々木さんが湯川さんに声を掛けた。
「は、はい、なのです・・・」

 僕は、話が終わるまで待っていようかとも思ったが、佐々木さんのことだから結構長話になりそうだし、わざわざ話が終わるまで僕が待っていたら、もう付き合ってます証拠だとあらぬ誤解を受けるだろうし、これ以上湯川さんと一緒に居たら僕の理性も限界を超えそうなので、今日は諦めて、1人で帰宅することにした。
 仮に、僕の判断が間違っていたら、あの謎の声が止めてくれるはず。でも、今回は何も聞こえてこないから、この判断はおそらく、間違っていないのだろう。


 榊原家へ帰宅し、猫のウランに出迎えられた後。お父さんが、僕に重大ニュースを知らせてくれた。
「雅史、中島みゆき様の新曲が出たぞ。CDもアマゾンの予約注文で届いた」
「本当!?」
 僕は、日本における残り時間の大半を、中島みゆき様の新曲『離郷の歌』と『進化樹』の練習に費やした。曲をCDで聴いて歌詞を覚え、エレクトーンでも弾いて歌えるようにする、そんな作業に没頭した。

 なお、僕の股間が大変なことになるのは、主に学校で湯川さんの隣にいるときである。湯川さんから離れて家に帰り、他のことに没頭していれば、若干性欲は収まる。それでもかなり溜まってはいるけど、どうせ明日になればイレーネと好きなだけ子作りできるのだから、オナニーするのはもったいないという気分になってしまう。そのため、結局僕はこの1日、久しぶりの禁欲生活を送ることになった。
 ・・・ただし、日本における今日の出来事を書いた日記の最後には、赤色で『朝のオナニーを忘れないように!』と書いておいた。今日は、もし湯川さんと2人きりになったら、その場で性犯罪者になって刑務所行きになってしまいそうなくらい、本当にやばい状況だったのだ。


 翌朝。僕は、股間が妙に気持ち良いので目を覚ましたところ、案の定イレーネが、僕の上にまたがって勝手に子作りを始めていた。普段ならうんざりするところだけど、こういう時は有難い。
「・・・みかっち、いつまでイレーネと子作り続けてる気なの? もう朝の6時過ぎてるから、時間オーバーよ!」
「ごめん、テオドラ、できるだけ早く終わらせるから、もうちょっと待ってて!」

 子作りの相手には不自由しないけど、飯はまずく、湯川さんにも会えない、湯川さんのお弁当も食べられない、中島みゆき様の歌も聴けない、ヤクルトの応援も出来ないビザンティン世界。
 エッチできる相手はいないけど、平日は湯川さんに会えて、美味しいお弁当も食べられて、中島みゆき様とかヤクルトとか、その他の娯楽には不自由しない日本。・・・どちらの方が良い生活なのか、微妙なところだ。

第17章 ミラージュ・ホテル

 エジプトからシリアに向かう途中、僕たちは行く先々で盗賊狩りをして路銀を稼いでいたが、そのうちこの地方では「盗賊殺し」として僕たちの名が知れ渡るようになり、獲物の盗賊たちが現れなくなってしまった。そこで僕は、新たな商売を始めることにした。
 この地方は、ちょうどサラディンのアイユーブ朝から、シャジャルの創始したマムルーク朝への移行期にあたるらしく、領主間の紛争が絶えない。僕たちは、そうした紛争に乗じ、傭兵稼業を始めることにしたのだ。

「みかっち、今度は何をする気なの?」
「傭兵の仕事。面倒なので依頼主や相手の個人名は省略するけど、今回の依頼主Aは、近隣の領主Bと対立している。そこで、僕がAに、僕たちであれば3人で兵士1万人以上の働きが出来ると売り込み、その結果、僕たちが領主Bを殺して彼の勢力を無力化すれば、兵士2千人に1年間支払う給料分の報酬を支払うと、Aに約束させて契約書も作った。
 この依頼に基づき、領主Bを殺しに行くわけ」
「じゃあ、あたしの術で、領主Bの町を全部吹っ飛ばしちゃえばいいわけね?」
「いや、それは止めて。テオドラは城壁を吹っ飛ばし、邪魔をする兵士たちを殺すだけにして。抵抗しない一般市民まで殺すのでは、領主Bの土地を我が物にしたいという、Aさんの依頼の趣旨が達成できないから」

 仕事は、極めて簡単だった。目的地は分かっているので、馬車を領主Aの領地内に置かせてもらい、イレーネのアクティブジャンプで領主Bの治める町に向かった。僕たちに歯向かってきた領主Bの兵士たちは、テオドラのエクスプロージョンで容赦無く吹っ飛ばされ、僕は逃げようとした領主Bを捕らえ、例の『百裂』の術で領主Bを抹殺した。兵士数2千くらいしかいない領主Bでは、僕たちに対抗できるはずもない。
 領主Bの凄まじい死に様を見たBの部下たちは、それ上僕たちに抵抗しようとせず、僕は事のついでとばかり、領主Bが蓄えていた金銀財宝の類を持ち去り、盗賊狩りのときと同様、財産の処分はプロモドロスの部下たちに任せ、売却手数料と報酬を弾いた残りの金額は、僕の口座に預けさせた。

「ねえ、みかっち。殺し方は他にも色々あるのに、なんでわざわざ、『お前はもう死んでいる』って前振りして、『百裂』の術を使うの? そういう趣味でもあるの?」
「それは、無駄な死者を出さないという目的もある。摂政をやっていたときに『五刑』を実行させたときと同じ理屈だけど、当然のように戦争が行われているこの世界の人々は、人間の死を見ること自体には慣れており、普通に殺しただけでは見せしめにはならない。
 でも、僕が使っている『百裂』の術のように、明らかに不可解でグロテスクな死に方を見せられれば、生き残った人々は恐れて、僕にそれ以上抵抗しようとはしない。敵と言えども、人間を殺す数は最小限に抑えて目的を達成できるよう、僕なりに考えて行動しているんだよ」


 ところが、仕事を終えた僕たちが依頼主Aの町へ戻ってみたところ、僕たちはAの部下である兵士たちに取り囲まれた。
「・・・お前たち、何のつもりだ?」
「済まぬな。領主様のご命令により、そなたたちのお命頂戴いたす」
「・・・契約違反か。テオドラ、もう好きなようにやっちゃっていいよ。その代わり、Aの屋敷だけは残しておいてね」
「よーし、世界で一番強い、太陽の皇女様の力を見せてやるわよ!」

 こうして、領主Aの町は、テオドラとそのペットである、サイクロプスのレオーネによって、徹底的に破壊された。屋敷内に残っていた領主Aは、僕が『百裂』の術であっさり頭を吹き飛ばし、報酬及び違約金との名目で、Aが蓄えていた金銀財宝もごっそり没収した。契約違反に対する制裁の場面では、僕も容赦することはなく、町の人間をほとんど皆殺しにするようなことも平気でやる。
 こうした『仕事』を3件ほど続けた結果、僕の預金口座に貯まった金額は、あまり贅沢しなければ、それだけで一生遊んで暮らせるくらいの額になった。


「やっぱり、摂政と違って、冒険者稼業って気楽だね。たくさんの家臣たちを使いこなしたり、征服した町を統治したり、そういう面倒なことを考えなくて済むから」
「・・・みかっち、あたしたちのやってることって、冒険者というよりは、単なる追い剥ぎのような気がするんだけど」
「何を言っているんだい、テオドラ。盗賊を倒すことは立派な正義だし、傭兵になって敵と戦うことも違法ではない。そして、契約に違反した雇い主に制裁を加えることも、悪いのは契約違反を犯した側であって、僕たちが非難される筋合いはない。テオドラだって、レオーネまで動員して、むしろ喜んで町を破壊していたじゃない」
「そう言われればそうだけど、正義のヒーローとは何か違うような気がするのよね・・・」
「それは、僕たちの戦闘能力が高くなり過ぎて、チートキャラになっちゃったからだよ。やり方自体に問題があるわけじゃない」

 そもそも、僕はこんな冒険をするために、この世界に呼び出されたわけではない。この冒険は僕にとって、充電期間として与えられた単なる余暇に過ぎないのだ。いずれは、僕もローマ帝国の皇帝に祭り上げられ、人々から散々悪口を言われながら、国の統治という難しい仕事に戻らなければならないことになるだろう。
 ならば、この間に僕がやるべきことは、せいぜい好き放題なことをやって、ストレスを発散させることだ。ただの余暇で危険な強敵とぶつかったり、生命の危険に晒されたりするのは御免蒙りたい。


「ところでみかっち、最近いつも口ずさんでいる、その歌はなに? なんか、屋根を打つ雨よりも、胸を打つあの歌は、二度と戻らないとか繰り返してるやつ」
「これは、中島みゆき様の新曲『離郷の歌』。離れざるを得ず、故郷を離れた僕にとっては、本当に胸を打つ良い歌だよね。今のところ、神具の腕輪を付けたままでも、特殊な効果は特に発生しないし」
「・・・あんまり、あたしの趣味じゃないわね。なんか地味だし」
「まあ、BGM無しで、1人アカペラで歌っているだけだからね。この歌の良さが、テオドラにいまいち伝わらないのも、無理はないかも知れない」
「ふうん。みかっちの変な歌の趣味には慣れて来たけど、この馬車生活何とかならない? 食事はまずいし、夜はみかっちとイレーネの子作りがうるさくて眠れないし、もっと快適なホテルとかに泊まりたいんだけど」
「ホテルは、まだしばらく先にあるガザの町まで行けば、ひょっとしたらあるかも知れないけど、あまり期待しない方がいいんじゃないかなあ?」
「じゃあ、みかっち。あんたの歌で、ここにホテルを呼び出してよ! とてもリッチなやつをお願いね」
「・・・中島みゆき様の歌で、ホテルを呼び出せと!?」
「ソーマちゃんから聞いたけど、その人の歌って、500曲以上はあるんでしょ? だったら、ホテルを呼び出せる歌もあるんじゃないの?」
「そんなのあるかなあ・・・」

 そこまで言い掛けたところで、僕はある歌を思い出した。
「一応、それっぽい歌が1曲ある」
「じゃあみかっち、それさっさと歌いなさい! それで豪華なホテルを呼び出しなさい!」
 テオドラからのリクエストなので、僕はその場で『ミラージュ・ホテル』を、出来る限り心を込めて歌い始めた。


 やがて、僕たちは不思議な蜃気楼に包まれ、その中に1つの無人駅と、列車が現れた。
「何よこれ?」
「たぶん、僕たちをホテルへ案内してくれる、列車だと思うよ。とりあえず、これに乗ればいい」
「みかっち、列車って一体何なのよ!?」
「僕たちの国には、ごく普通にある乗り物だよ。どんなものかは、乗ってみれば分かる」

 僕たちが列車の席に座ると、その列車は動き出した。音から察するに、どうやら汽車のようだ。
「何これ、動くの!? それに、やたら速いし揺れるし、風景がどんどん変わっていくんだけど! みかっち、この列車ってなんか怖いわ!」
 生まれて初めて乗る列車に、テオドラがあれこれ騒いでいるが、イレーネは黙って大人しく、列車に乗っている。そして、僕は服のポケットの中に、いつの間にか1本のルームキーが入っていることに気付いた。
 そのルームキーは、ガラスのそうな素材で出来ており、そこにはちょっと変な書体で、

『980tiM』

と書かれていた。何となく空気を読んだ僕は、そのルームキーを握りしめながら、『ティムを探して』を歌い始めた。
 やがて、テオドラもそのルームキーに気が付き、僕からルームキーを取り上げて、物珍しそうに眺め始めた。
「980っていうのは、新ローマ数字よね。あとの3文字は、ラテン語かしら」
「それは英語。TIMで、とりあえず『ティム』って読めばいい」
「ふうん」
 興味がなくなったのか、テオドラは僕にルームキーを返した。

 そのうち、僕たちの乗っている列車が、とりわけ大きく揺れた。
「みかっち、いま大きく揺れたわよ! 列車が壊れたんじゃないの!?」
「いや、たぶん分岐のポイントを通過したんじゃない? 列車ではよくあることだから」

 その後、その列車はさっきとは別の駅に止まった。
「ここで降りろっていうことみたいだね」
 テオドラとイレーネも、僕に従って列車を降りた。そして、気が付くと列車はもういなくなっており、僕たちの前には、奇妙な立て札が建っていた。
「みかっち、なんか文字が書いてあるわよ。・・・これは古代ギリシア語ね。読んでみるわ」
「よろしく」
 古代ギリシア語であれば、無理して僕が読むより、テオドラに任せた方が無難である。
 そして、テオドラは立て札に書かれた文字を読み始めた。

「えーと、長年にわたり、皆様からご利用頂いておりました本線は、この度突然に廃線が決まりましたので、当駅はそれに伴い、本日をもって廃止ということになりました。
 何かとご不便をおかけいたしますが、ご了承をお願いします。
 理由は分かりません。なーにも! この先は分かりません。なーにも! 長年のご愛顧に、感謝申し上げます。お客様各位って、一体何なのよこれ~!」

 テオドラが叫び声をあげたタイミングで、僕は『廃線のお知らせ』を歌い始めた。テオドラが読み上げた立札の内容は、本物と意味はほぼ同じだけど、原文は日本語じゃないし訳文も微妙に違っているから、著作権的にはたぶんぎりぎりセーフだろう。

「みかっちも、なんで立札の内容に合わせて、おかしな歌を歌ってるのよ!?」
「いや、これはお約束というやつだから・・・」

 僕とテオドラがそんなやり取りをしていると、やがて一人の少年が現れた。駅員のような帽子を被ったその少年の顔は、初めて会った頃のパキュメレスのようでもあり、僕が小学生のときに、女の子にひどい振られ方をして不登校になってしまった、あのときの同級生のようにも見えた。

「お客様、お待ち申し上げておりました。お出掛けは、いかがでございましたか?」
「誰あんた。別にあたし、あんたの客になった覚えなんかないわよ」
 怪訝な顔をするテオドラに、少年は笑顔でこう答えた。
「しかし、お客様は既に、当ホテルのルームキーを、お持ちではございませんか」
「テオドラ、これのことだよ」
 僕はそう言って、先程のルームキーをテオドラに見せた。

「こちらは、当ホテルの、遺失物取扱所でございます。こちら遺失物取扱所では、どなた様のものか不確かなままで、何もかもそのままお預かりします」
 そのまま、僕はその少年と一緒に、『遺失物預り所』を歌い始めた。

「一体何なのよ、この世界は・・・」
「ほら、テオドラとイレーネは、余計な荷物をこの子に預けて」
「でも、この遺失物預り所って、何となく雰囲気が怪しいんだけど」
「大丈夫だよ。ここは信頼していいから」

 そして、僕はテオドラとイレーネを連れて、広いホテルの中庭を進み始めた。
「みかっち、何なの、この灯りは・・・。水がまるで火のように光ってる・・・。ひょっとして、これは水の灯りなの?」
「そうだよ。そしてこの火を汲むと、服なんかの汚れが取れる」
「・・・あり得ないわ。こんな世界、あり得ないわ・・・」
「ここは、普通の世界ではなく、偉大なる中島みゆき様が創造された、何もかもがあべこべになっている幻の世界。この世界では、これが普通なんだ」
「一体、みかっちの言う『中島みゆき様』って、何者なの? 神様か何かなの?」
「・・・僕の生まれた日本で、最も偉大なシンガーソングライターだよ」
 僕はテオドラにそう説明すると、『水を灯して火を汲んで』を歌い始めた。余談だけど、作者の『灯水汲火』という変なペンネームは、この歌に由来している。

「・・・みかっち、事あるごとに変な歌を歌っているのは、なぜ?」
「イスラム教徒は、モスクで歌でも歌うように、アラビア語でクルアーンを詠みあげているでしょう? それと同じように、中島みゆき様が創造された『夜会』の世界では、場面に合わせて中島みゆき様の歌を歌うものなんだ」
「みかっち、『夜会』って何よ?」
「一言で説明するのは難しいけど、ストーリーがあって、曲と曲の合間に台詞が入ったりする、中島みゆき様独自の『変なコンサート』だよ。夜会を知らずして、中島みゆき様の世界は語れないよ」
「・・・もう、何が何だか、分からなくなってきたわ」


 テオドラが突っ込みを諦めた頃、僕たちはホテルのフロントに着いた。そのフロントには、また例の少年がいたが、服装はホテルのフロントらしきものに変わっている。少年は、黙ってテオドラに人数分のルームキーを渡した。
「何よ、このルームキー、みんな部屋番号が同じじゃない。980号室?」
 テオドラの問いに、少年は優しく答えた。
「お客様、このホテルに、980号室というお部屋はございません。そのルームキーに書かれているのは、このホテルの名前でございます」
「・・・この980というのも、ホテルの名前なの? そうなると、このホテルの名前は、980ティムホテル? おかしな名前ね」
「テオドラ、このホテルの名前は、こう読むんだよ」

 僕はそう言って、ルームキーの1つを、広く真っ暗なホテルのエントランスへ向けて、高くかざした。
 すると、ルームキーに刻まれた文字は、暗闇の中で逆さまに淡く光り、そこには『Mirage』と書かれていた。
 僕は、少年と一緒にちょっとした小芝居をした後、厳かに台詞を詠みあげた。
「・・・その鏡の中に刻まれた文字は、M、i、r、a、g、e、ミラージュ。
 幻という名の、あなたの、いどころ~!!」

 僕の台詞に合わせて、どこからか壮大なBGMが流れ始めた。僕はそれに合わせて、当然のように『ミラージュ・ホテル』を熱唱した。


「・・・みかっち、ホテルの名前を最初から知ってるのであれば、最初からそう教えてくれればいいじゃない。それを、やたらと勿体ぶって、小芝居までやって」
「テオドラは、エンタメというものが分かってないね。最初からネタ晴らししたら、エンタメとして成立しないでしょ?」
「よりによって、エンタメというものをまるで分かってないみかっちに、エンタメが分かってないって言われた! 理不尽極まりないわ!」
「僕は、少なくともその100倍くらい、テオドラのせいで理不尽な目に遭わされてるよ!」

 そんなことを言い合いながらも、僕たちは、少年から教えられた部屋へ向かおうとしたが、ホテルの中は迷路のようになっていて、なかなか部屋にたどり着けない。
「みかっち、あの上にある部屋が、あたしたちの部屋なんでしょ? 一体どうやったら、あそこへたどり着くのよ?」
「テオドラ、このホテルでは、上に昇ろうとするときは、階段を降りる。下に降りようとするときは、階段を上る。その原則を、しっかりと頭に入れて!」
 僕はそう言った後、『メビウスの帯はねじれる』を歌い始めた。そして、歌を歌い終わった頃、ようやく目的の部屋にたどり着いたものの、

「みかっち! この部屋の扉、鍵穴が見つからないわよ!」
「ああ、それはもともとないんだよ。はじめから、鍵が付いてないから」
「じゃあ、一体このルームキーは、何のためにあるのよ!?」
「・・・とりあえず、鏡にでも使えばいいよ」
「何よそれ・・・。とにかく、入るわよ」
 テオドラがそう言って扉を開けたところ、中から急に人が出て来た。

「きゃああああ!! あたしたちの部屋、誰か人がいるわ!」
「テオドラ、あの人たちをよく見て。あれは、僕たちの影なんだよ」
 実際、部屋から出て来たのは3人で、その姿は僕とテオドラ、イレーネにそっくりだった。そうだと分かってはいても、自分たちと同じ姿の人間が歩いているというのは、何となく気味が悪い。


 そんなこんなを経て、僕たちはようやく、ホテル内の自室でくつろぐことが出来た。
「ものすごく変なホテルだけど、ベッドはなかなか良いわね。さっきボーイさんが持ってきた食事もまずますだったし」
 そんなことを言っているテオドラは、とりあえずこのホテルに満足しているようだった。しかし僕は、さっきから別のことが心配になっていた。
「・・・イレーネ、あの少年って、一体何者なの?」
「ちょっと待ちなさいみかっち! あれだけ、あの子と意気投合して、一緒に歌や小芝居までやったりしてるのに、正体が分からないってどういう事よ!?」
「テオドラ、僕だって一体、何が起きているかよく分からないんだよ! まさか『ミラージュ・ホテル』を歌っただけで、こんな『夜会』の世界を実体験することになるとは思っていなかったし、あの少年も、夜会に出て来た人とは違うんだよ!
 ・・・名前は、たぶんティムでいいと思うんだけど、夜会に出て来たティムは、あんな少年では無くてたしかおじさんだったし、僕もどうして良いかわからないから、とりあえず僕が知っている『夜会』の進行どおりに振る舞ってきただけで!」

 僕がテオドラとそんな問答をしていると、イレーネが静かに、僕の問いに答えた。
「あれは、ニュンペーの一種」
 ニュンペーとは、以前にもイレーネが言っていた、ギリシア神話に登場する精霊のようなもので、通常は美少女の姿で現れると伝えられている。
「ギリシア神話に、ティムなんていう、少年の姿をしたニュンペーなんていたっけ?」
「ニュンペーは、古いギリシア神話で知られているものばかりではない。あのニュンペーはおそらく、あなたの思念に反応して現れた新種」
「・・・だとすると、僕はこれから、どうすればいいの?」
「この世界について、一番詳しいのはあなた。あなたの知っているとおりに振る舞えば、やがて行き着くべきところに、辿り着くはず」
「・・・そうか。とりあえず、今日はこの部屋で休もう」

 僕たちは、不安を抱えながらも、これまでに色々あって疲れたこともあり、どうするかは明日考えることにして、この部屋で眠ることにした。・・・もっとも、今日はイレーネの日なので、こんな状況でも夜の子作りは免除してくれなかったが。

第18章 水の線路

 気が付くと、僕はニケーアの法廷に立っていた。
 そこでは、マリアが被告人席に座らされていて、法廷では次々と証人たちが現れ、まるで全員が証言の内容を暗記しているかのように、全く同じ言葉でマリアが、ある貴族を殺したと証言していた。
 しかし、問題となった事件が起きたという日の夜には、僕とマリアはニュンフェイオンで一緒に過ごしていた。そのマリアが突然ニケーアへ行き、ましてや人を殺すなんて、絶対にあり得ない。

 そして、僕に証言の機会が回って来たので、僕は力の限り、マリアの無実を訴えた。
「マリアはその夜、確かにニュンフェイオンで、僕と一緒に過ごしていました。僕とマリアは互いに睦みあって、片時も離れたことなどありませんでした。そのマリアが、わざわざニケーアへ行き、貴族を殺すなんていうことはあり得ません!
 他の証言者は、明らかにあらかじめ用意された台詞を、丸暗記して喋っているだけです。普通の裁判では、目撃者の証言が、ここまで完璧に一致することはあり得ません!」

 しかし、僕の前に座っていた判事は、良く見るとゲオルギオス・ムザロンその人だった。
「ミカエル・パレオロゴス殿、貴殿がマリアと懇ろな関係にあることは、よく存じておりますぞ。被告人と、そのような関係にある者の証言など、信用できるはずがありませぬ。法廷では、情夫の証言など、無いのに等しいものでございますな」
 ムザロンはそう言うと、その場でマリアに判決を言い渡した。

「この者には、殺人の罪により、絞首刑に処す」

 その判決を聞いた僕は、思わずムザロンに怒鳴りつけた。
「ムザロン! お前の目は節穴か!? この馬鹿野郎!」
 ムザロンは僕の罵声を聞くと、むしろ笑みを浮かべて、僕にこう言い渡した。
「ミカエル・パレオロゴス。法廷侮辱の罪により、国外追放の刑に処す! これで邪魔な貴様を、永遠に追い出す口実が出来た。これで、このローマ帝国は、晴れてこの、ゲオルギオス・ムザロンのものじゃ。わはははははは・・・」
 衛兵たちによって法廷から引きずり出されてしまった僕は、ムザロンが高笑いを上げ、マリアが絞首台にに運ばれていくのを、なす術もなく聞いていることしか出来なかった・・・。


「・・・夢か」
 僕は、身体の上にイレーネが乗っかっているのに気づいて、ようやくあの法廷での出来事が、単なる僕の夢だと気づいた。
「イレーネ、僕はとても悪い夢を見たばかりで、子作りなんてする気になれないから、できれば今朝くらいは、子作りは勘弁してほしいんだけど・・・」
「あなたの身体は、そう言っていない。悪夢によるストレスは、むしろ子作りの快感によって忘れるのが一番」
 イレーネは、僕の懇願を聞き入れてくれなかった。
 ・・・確かに、イレーネと繋がったままでこんなことを言っても、説得力がまるでないのは分かっているけれど、愛するマリアを守れなかった僕の悲しみは、イレーネと子作りを続けたところで、消えるものではない。

 イレーネによる朝の強制子作りからようやく解放され、テオドラも起きて来た。そして、僕たちの部屋の扉がノックされ、例の少年が入ってきた。
「お客様方、朝食をお持ちしました」
 何気ない顔で、僕たちに朝食を配る少年に向かって、テオドラが話し掛けた。
「あんた、名前は?」
「ティムと申します」
「ここは、一体どういう場所なの?」
「お食事がお済みになりましたら、部屋の外をご覧ください。その際、ご説明いたします」

 僕たちは、とりあえずティムに言われたとおり、朝食を済ませた後で、部屋のバルコニーから外を眺めることにした。
 部屋の外には、綺麗な三日月の湖が広がっていた。このホテルには僕たち以外にも、たくさんの人が以前から泊まっており、時折この湖で舟に乗ったりしているようだった。僕は、その光景を見ながら、『三日月の湖』と『月夜同舟』を続けて歌った。


「あれは、・・・死んだはずのバルダスとベッコス!? ジョフロワとギヨームもいる!」
 僕は、慌てて部屋を出て、苦労しながらも階段を昇って地階にたどり着き、彼らが談笑しているところに駆け寄った。
「君たち、生きていたのか!?」
「・・・大将じゃねえか。ここは、大将みたいに、まだ生きている人間の来るところじゃねえよ」
「バルダス、どういうこと?」
「俺たちのように死んだ人間は、この水の線路を遡り、生まれたところへ帰り着くはずだった。ところが、その線路の中に見覚えのない駅がそびえていて、これ以上先へ進めねえ。だから、俺たちのような迷える魂は、ここで彷徨っているわけさ」
「まあ、俺たちは、大将のためにいつでも死ぬ覚悟が出来ていたし、妻も子もいないから、死んだことに心残りはねえよ。ただ、俺たちの中でベッコスだけは、結婚していなかったものの女がいて、その女との間に小さな子供がいて、その息子のことだけが気がかりだって話をしてたところさ」
「ジョフロワ・・・」

 彼らは、また談笑に入ってしまい、僕の相手をするつもりはなさそうだったので、僕は『水の線路』を歌いながら、他の人を見て回った。僕にとって見覚えのある人は、彼ら以外にもいた。
「テオドロス・ブラナス。君もここにいたのか・・・」
「お久しぶりですね。私はこの地で、父のアレクシオス・ブラナスと再会できました。しかし、この場所で足止めされていては、私は祖国の土に帰ることができず、あなたのために死ぬという約束を、まだ果たせそうにありません」
 テオドロス・ブラナスは、僕にそれだけ言って、父のアレクシオスと思しき人と、再び談笑を始めた。
 僕は、『我が祖国は風の彼方』を歌いながら、更に知っている人を捜し求めた。

「お母さん!?」
 僕が見掛けた女性は、確かに僕の母親、美雪だった。
「雅史、ここは、あなたのように生きている人が、来るような場所ではありませんよ。帰れない者たちが、ここで月を見て暮らすのです」
 お母さんは、僕にそれだけ言って、『帰れない者たちへ』を歌い始め、僕もそれに唱和した。
 ・・・確かにこの曲は、お母さんが生前よく歌っていた。田舎から上京してきたお母さんは、地元の父親から、そんなに田舎が嫌いなら戻って来るなと手紙で絶交を告げられてしまい、それで自分と同じ境遇を歌ったこの曲が気に入っていたんだと、以前お父さんに説明されたことがある。


 僕が、こんな風にこのホテルで見覚えのある人を探しているうち、テオドラとイレーネも、僕の姿を見つけると、僕の許へ駆け寄って来た。
「みかっち、この世界ってどうなってるの!? カタリナ・・・って言ってもみかっちには分からないか、とうの昔に亡くなったはずの、私のお母さんまでいたわよ!」
「・・・私の母の、パメラもいた」

 僕たちが、集まってそんな話をしていたところ、例の少年ティムが姿を現した。
「お客様をお呼びしたのは、実は、私たちでございます」
「ティム、どうして僕たちを呼び出したの?」
「・・・お客様も、ご自分の川を、お探しでございますから」

 ティムはそう前置きして、この世界の説明を始めた。
「ここから見える三日月の湖は、昔は湖ではなく、蛇行する川でありました。この川に住む魚たちは、蛇行する川、すなわち水の線路を遡り、自分の生まれた場所へ帰り、そこで卵を産み、新たな命へと繋ぐのを習いとしておりました。そして、命の尽きた人間も、この水の線路を遡って故郷の地へ戻り、転生するのを習いとしておりました」

 僕は『命のリレー』を歌った後、続きを訊ねた。
「その流れが、どうしてこんな風に変わってしまったの? 地震で土砂崩れが起き、川が埋まってしまったとか?」
「いえ、これは人間たちの仕業でございます。数百年も前のこと、人間たちは、この蛇行する川を直線に切り替え、この周辺一帯の土地で大規模な開発を行おうとし、数えきれない数の人間たちが、この工事に動員されました。
 しかし、その工事が途中まで進み、川の流れが切り替えられた後、突然その工事は中止となり、人間たちは去っていってしまいました。これによって、水の線路は行き止まりになってしまい、後には風が通るだけの、岩の城が遺されました。このホテルは、そのときに遺された廃墟が基になって、出来たものでございます」

 僕は、『リゾート・ラッシュ』を歌った後、ティムとの話を続けようとしたところで、テオドラから無粋な横槍が入った。
「みかっち、事あるごとに歌を歌うの、やめて欲しいんだけど。話が先に進まないじゃない!」
「何を言っているんだい、テオドラ。『夜会』はむしろ、中島みゆき様の歌がメインなんだから、むしろ歌わなきゃ駄目でしょ。それに曲の内容も、大体話の流れに合ってるでしょ? どれも『夜会』のために作詞作曲されたものなんだから」
「みかっちは、中島みゆきのファンというより、もはや信者なのね。もうどうしようもないわ」
「とんでもない。上には上がいるんだから。僕だって、中島みゆき様の曲を全部知っているわけじゃないし、世の中には僕やお父さん以上に、中島みゆき様に詳しいコアなファンだっているし、中島みゆき様が作った古い曲の舞台となった場所へ、聖地巡礼に行く人だっているくらいなんだから」
「・・・もういいわ。みかっちの好きにしなさい」

 テオドラが無粋な突っ込みをようやく諦めたところで、僕は話の続きに戻った。
「ティム、一体誰が、そんな工事をやらせたの?」
「私には、よく分かりません。ただ、工事が行われた年代は、現在からおよそ700年前のことになります。おそらく、その当時の権力者が行わせたのではないでしょうか」
「今から700年前というと、・・・今は西暦換算で大体1250年過ぎだから、700を引くと西暦550年前後。すると、犯人はユスティニアヌス1世か」
「ちょっと待ってよ、みかっち。ユスティニアヌスって言えば、『大帝』の尊称を贈られている皇帝じゃないの。そんな皇帝が、そんな馬鹿なことをするはずないじゃないの!」

「いや、むしろ可能性は大いにあるよ。ユスティニアヌス1世は、その治世の大半を、金のかかる戦争と建築事業に費やした人で、ローマ帝国の領土は表向き拡大したけど、領民からは戦争や建築事業の資金に充てるために容赦なく重税を課し、領民からの怨嗟の声を、力づくで抑えつけていた人なんだから。
 ユスティニアヌス1世は、『建築狂』と評するしかないほど、帝国の各地で建築事業に没頭し、聖なる都だけで合計35もの豪華な教会を建て、彼の行った建築事業の数々を列挙しただけで、一冊の歴史書が出来てしまうほどだった。その建築物には役に立ったものもあったけど、まるで役に立たなかったものも多かった。彼が『大帝』の尊重を贈られたのは、彼が教会の発展に寄与したから、それに感謝した聖職者によって贈られたというだけで、聖職者や皇帝に優遇された人以外の人間にとっては、皇帝ユスティニアヌス1世は、むしろ生ける災厄以外の何者でも無かった。
 そして、ユスティニアヌス1世の晩年には、戦争と建築事業にお金を使い過ぎて国庫が空になり、その死後にローマ帝国が領土の大半を失う原因の1つになった。そんな人のやることだから、建築事業を始めたものの、予算が足りなくて途中で工事がストップしてしまったり、ユスティニアヌス1世の死に伴い工事が中止された建築事業がたくさんあったとしても、全く不思議ではない」


「そんな・・・。皇帝ユスティニアヌス1世といえば、ローマ帝国を復興させた偉大な皇帝だとしか教わらなかったわ」
「テオドラは、聖職者によって作られた『表の歴史』しか学んでいなかったんだろうね。まあ、犯人捜しの話はそのくらいにして、ティム、その工事によって捻じ曲げられた水の線路を元通りにすれば、問題は解決するんじゃないの?」
「水の線路を元通りにするとすれば、下流にある分水嶺の水門を開くことが考えられますが・・・」
「じゃあ、その水門を開く方法を探そう」

「待ってください! 水の線路は、お客様が乗ってきた鉄道と連動していますから、おそらく鉄道の転轍機を切り替えれば、自動的に水門も開く仕組みになっていると思いますが、転轍機を切り替える方法は誰にも分かりません! それに、仮に水門を開いたところで、その先に水の線路が、もしも開いていなければ、ここにある無数の魂は、水を失ってその場で朽ち果ててしまいます!」
「いや、必ず線路は開いている。それに、このまま放置したところで、数千年も過ぎればいずれこの湖にも水が無くなり、みんな朽ち果ててしまう! みんな、転轍機を切り替える装置になりそうな、梃子のような形をしたものを探してくれ!」

 僕の声に従って、その場にいた多くの者が、それらしき物を一斉に探し始めた。僕も、『サーモン・ダンス』を歌いながら、梃子の形をしたものを探し続けたが、それらしきものは、なかなか見つけられなかった。
「・・・ねえ、みかっち」
「どうしたの、テオドラ! ボーっとしてないで、君も探してよ!」
「あの、ホテルのフロントにある大時計、何となく梃子の形に似てない?」
「それだ!」
 僕は、すぐさまその大時計に近寄ったが、大時計のガラスには鍵がかかっていて、開かない。
「・・・ホテルの部屋には鍵が無いのに、どうしてこんなところにだけ、鍵が掛かっているんだよ」
「ねえ、みかっち! ひょっとしてホテルのルームキーって、ここにある大時計の鍵を開けるためのものなんじゃない? それでなきゃ意味がないもの」

「じゃあ、このキーを使ってみよう・・・駄目だ、このルームキーは偽物だ。大時計に近づいただけで砂のように消え去ってしまった。何とかして、本物のルームキーを探さないと!」
「・・・本物のルームキーは、おそらくこれ」
「イレーネ、ありがとう! 確かにこれは本物だ。これで鍵は開いたが・・・」

「待ってください! その、12時寸前を指した大時計は、昔から動かないんです!」
 ティムの声に、テオドラが自分で時計の針を動かそうとするが、どうやっても動かない。
「こうなったら、あたしの術でこの大時計を爆破するしかないわね!」
「ちょっと待ってテオドラ、それだけは止めて! その時計の針には、きっと正しい動かし方があるんだ! 僕がやる!」
 僕は、『サーモン・ダンス』の歌詞に従い、時計の針を前に進めるのではなく、分を表す長針を反対側に回したところ、針は動いた。そして、時計の針が11時ちょうどを指したところで、針を逆に回したところ、時計の針は12時ちょうどのところまで回った。すると、

「水門が開いたぞ~!!」

 賭けは、どうやら成功だったようだ。僕は、『二隻の舟』を歌いながら、多くの魂たちと一緒に波にのまれ、そのまま意識を失った。


 次に気が付いたとき、僕はまた、ニケーアの法廷に立っていた。どうやら、昨日の夢に出て来た、マリアの裁判が再び行われているらしい。ただし、裁判長はムザロンではなく別の人物で、マリアには少年の弁護人が付いていた。。
 例のインチキ証言が一通り終わった後、その弁護人は、裁判長に異議を備えた。
「裁判長! 彼らの証言内容を、証拠として採用することには、異議があります。私の調査したところによると、遺産相続人となる被害者の妻には別の情夫がおり、彼らは皆、被害者の妻やその情夫により、金で雇われたものであることが判明いたしました。これらが、その事実を証明する証拠であります!」
 その弁護人が出した証拠書類、そして金銭の授受を目撃した証言などにより、犯人がマリアだという証言の信憑性は、次々と崩れていった。

「そして、弁護人は、被告人マリアの無実を証明する、唯一の信用性ある証拠として、被告人マリアとは全く無関係の旅人である、ミカエル・パレオロゴスの証言を提出いたします!」
 ・・・なんということか。あの水門が開いた結果、僕とマリアは結婚を誓った恋人同士ではなく、赤の他人ということになってしまったのか。
 いや、それでもいい。あのマリアが、生きていてさえくれるなら・・・。

「ミカエル・パレオロゴス、証人として宣誓の上、証言いたします。僕は、犯行が行われた当時、たまたま、ニュンフェイオンの町にやってきた旅人であり、その町で偶然マリアと会い、初対面のマリアと会話を交わしていました。僕とマリアには、それ以外の関係はありません! 赤の他人です!」

 僕の証言が終わった後、裁判長が判決を言い渡した。
「被告人マリアは、無罪」

 自分の無罪判決に、被告人席に座らされていたマリアは、涙を流して喜んでいた。
「あ、あなたが、私の無実を証言してくれた、証人さんなのですね? 本当に、ありがとうございます、なのです!」
 僕に向かって、そう感謝の弁を述べるマリアは、本当に僕のことを何一つ覚えていないようだった。
「無罪おめでとうございます、マリアさん。これからも、強く生きてくださいね」

 僕が、マリアに言う事のできた台詞は、それだけだった。
 本当のことなんて、実は無限大にある。全てを失くしても、またそこから全てが始まる。僕とマリアが7年間にわたり、一緒に暮らし愛し合った事実が消えてしまっても、マリアが生きてさえいてくれれば、いつか再びマリアと会って、友達からやり直せる可能性もあるんだ。
 ・・・これで、良かったんだよね。

 あとそうだ。マリアを助けてくれた、弁護人さんにも挨拶しないと。
「弁護人さん、マリア・・・いや、無実のマリアさんを助けて頂いて、ありがとうございます。できれば、お名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
「はい。私の名前は、ティムと申します」
 ティム・・・?


「みかっち、いつまで寝てるのよ。さっさと起きなさい」
 テオドラに頬を叩かれて、僕は唐突に目を覚ました。あの裁判も夢だったのか。
「・・・ここは?」
「ホテルの部屋よ。他のお客さんは、みんな旅立ってしまったわ。みかっちがいきなり気絶しちゃったから、あたしとイレーネで、この部屋まで運んであげたのよ。感謝しなさい!」
「そうだったんだ。テオドラ、イレーネ、2人ともありがとう! ・・・そうだイレーネ、僕のメイドだったマリアの生死って、確認できる?」
「・・・彼女は生きている。ニュンフェイオンで、無事に過ごしている」
「そうなんだ。良かった・・・」
 僕は、思わず涙した。僕とマリアが他人同士になってしまっても、あの時計の針を元に戻した結果、マリアが無事に生きていてくれるのであれば、僕にとってこれ以上の喜びはない。

「もう、このホテルはいいわ。あたしたちも、さっさと旅立ちましょ」
 テオドラにせっつかれて、僕たちは『ミラージュ・ホテル』を旅立つことになった。

「お客様、ミラージュ・ホテルのご利用、有難うございました。またのご利用を、お待ちしております」
 ティムが、僕たちに向かって丁寧にお別れの挨拶をする。ティムに預けた手荷物はもちろん、僕たちが利用していた馬や馬車の類まで、しっかりと預かってくれていた。
「ティム、水門が開いて、他のお客さんはいなくなっちゃったみたいだけど、それでもこのホテルを続けるの?」
「はい。この私は、たとえお客様がいなくなったとしても、このホテルを守るのが自分の使命と心得ております。また、ご自分の川をお探しになりたいときは、このミラージュ・ホテルへお越しくださいませ。私はいつでも、お客様をお待ちしております」

 僕は、これほど有能で自分とも気の合うニュンペーを、一人で置いて行くのはちょっと勿体ないなあと思ったものの、あのホテルを守るのが彼の使命だというのなら、仕方がない。
「わかった。またね、ティム」
 僕がティムに、さよならの挨拶を告げたところ、
「ティム、そうは行かないわよ。みかっちと一緒になって、散々このあたしをおちょくっておいて、逃げられると思ったら大間違いよ。それに、こんなレアもののニュンペーを逃がす手はないわ」
「い、いえ、お客様、別にわたしは、お客様をおちょくっていたわけでは・・・」
「ティム、喜びなさい。これから、あんたはこのあたし、太陽の皇女テオドラ様の下僕となって、あたしのために働くのよ!」
「そ、そんな、お客様、ご無体な!」
「待ちなさい、ティム! 逃げたって無駄よ!」

 ・・・僕が唖然としている間に、ティムはテオドラに追い掛け回され、間もなく捕らえられて散々暴力を振るわれた挙句、テオドラの下僕になることを承諾させられてしまった。

「彼は、一介のニュンペーに過ぎない。寿命は私たちよりはるかに長いが、戦闘能力は下級神よりさらに低い。彼女に対抗できるほどの戦闘力は、初めから持ち合わせていない」
 イレーネが、あくまで冷静に解説する。
「でも、あのニュンペーって、あのホテルを守るためにいるんでしょ? あんなことをやったら、色々とまずいんじゃない?」
「あのミラージュ・ホテルは、水の線路が本来の軌道に戻ったことにより、その役割を終えた。あのホテルが無くなったとしても、特に問題は発生しない」
「そういうものなの・・・?」

 イレーネが何ら問題視しないため、僕1人でテオドラを止めることは出来ず、結局ティムはテオドラの下僕として、僕たちと旅を共にすることになってしまった。
 こうして、僕たちの奇妙な『夜会』体験は、本来のエンディングテーマである『サーモン・ダンス』や『命のリレー』ではなく、テオドラに捕らえられたティムが泣きながら歌う『世情』で幕を閉じることになってしまった。
 このティムが、その後間もなく、僕の主催する『テオドラ被害者の会』の会員に加わったことは、もはや言うまでもないだろう。


「ところでみかっち、次はどこへ行くの?」
「とりあえず、ガザを経由して、エルサレム王国の支配する港町アッコンへ向かう」
「その後は?」
「それから先は、まだ決めていないけど」
「だったらあたし、行きたいところがあるんだけど」
「どこへ? 聖地エルサレムの巡礼にでも行くの?」
「そんなところはどうでもいいわ。あたしは、日本に行ってみたいのよ」

「日本!?」


<あとがき>

「今回は、しょうもないお話を最後まで読んで頂き、有難うございました! 本編の主人公、榊原雅史こと、ミカエル・パレオロゴスです!」
「太陽の皇女テオドラよ。・・・みかっち、今回はずいぶん元気ねえ」
「それはもう、息苦しい統治者の仕事はしなくて良くなったし、北斗の拳ごっこをやったり、ゴルゴ13ごっこをやったり、中島みゆき様の歌を存分に歌ったりして、思う存分ストレスを発散できたからね」
「あたしの方は、あんまり活躍出来てなかったような気がするんだけど。みかっち、どうしてあたしがエジプトの神たちを次々となぎ倒す活躍を、もっと格好良く描写しないのよ!?」
「だって、この小説はあくまで歴史SLGファンタジーであって、アクションものではないし、そもそも君の戦い方自体、神聖術で身体能力を強化して、ニャルラトホテプと組んで戦意のない神様たちを一方的にどつき回すような戦い方だったから、格好良く描きようがないし」
「もう、ニャルラトホテプの話はしないで! 他の話題にして!」

「それじゃあ、話題を変えるね。第5話までは、ミカエル・パレオロゴスといっても名前だけで、実際の皇帝ミカエル8世とは何の関係も無いお話ばかりだったけど、この第6話では、史実のミカエル8世に絡むエピソードが、ようやく出せるようになりました」
「一体どのあたりが、史実を反映してるの?」
「まず、僕に代わって帝国摂政になったゲオルギオス・ムザロンは、史実と設定こそ大きく違うものの、史実でミカエル8世の政敵になった人物であり、しかも人民から蛇蝎のように嫌われていました。名前だけ出て来た総主教アルセニオスも、ミカエル8世と政治的に対立した人物です。
 次に第3章、ライト版なら6-3で、僕が神明裁判に掛けられるエピソードがありますが、あれは実際にミカエル8世が神明裁判を受けさせられることになって、策略で上手く逃げ切ったという史実のエピソードを基にしています。もっとも、その後僕が平然と灼熱の鉄球を運んでみせたなどというのは、もちろん創作ですけどね。
 そして、史実のミカエル8世は皇帝になる前、時の皇帝から謀反を疑われ、一時外国に亡命したことがあります。もっとも、史実のミカエル8世が亡命したのは、隣国のルーム・セルジューク朝、いわゆるトルコ人の国で、そこでモンゴル軍と戦って手柄を立てたりしているんだけど、この物語ではそんなところに亡命しても面白くないので、亡命先をエジプトやシリアに代えてあります。
 そんなわけで、主人公がミカエル8世という基本設定が、今回でようやく生きてくるようになったわけです」
「基本設定と言えば、しばらくなかった日本パートも、久しぶりに復活してたわね。あっちはどうなるの?」
「詳しいことはまだ言えませんが、日本パートも次第に活性化し、ビザンティン世界との繋がりも、次第に深くなっていく予定です。今後の展開によっては、むしろ日本パートの方がメインになる時期も出て来るかも知れない、とのことです」

「あと、今回は中島みゆき様パートとでも言うしかないような展開が出て来たけど、あれって今後も続くの?」
「・・・あの、夜会『24時着 0時発』をモチーフにしたお話は、当初のプロットにはなかったところ、作者がノリで入れちゃっただけなので、今後似たような話を入れる予定は、今のところないそうです。ただし、ティム君が仲間に入ったこともあり、中島みゆき様関係のネタは、今後も多くなるだろうと作者が言ってました」
「でも、今回の『夜会』ネタって、実際に夜会を観た人にしか理解できないんじゃないの?」
「それは、著作権の問題があるから仕方ないよ。実際に夜会の『24時着 0時発』か、『24時着 00時発』を観れば、この物語で元ネタをどういう風に活用しているかがわかります。ただし、DVDは結構高くて、レンタルも難しいみたいなので、ファンでない人にはハードルが高いのが難点だけど。・・・ヤマハは著作権にうるさいからねえ」
「その『24時着 0時発』と、『24時着 00時発』は、どこが違うのよ?」
「基本的なストーリーは一緒だけど、曲の歌詞や構成が違ったり、出演している役者さんが一部代わっていたりします。基本的に、後者の方がストーリーは分かりやすくなっています」

「もう良いわ。次の第7話は?」
「第6話の投稿が済んだら書き始めるそうですが、テオドラの思い付きで、突如鎌倉時代の日本に行くことになってしまったのと、アル=ブンドクダーリーとの絡みを具体的にどうするのかまだ決めていないので、そのあたりを上手く処理できるかどうかで、進捗状況は大きく変わるそうです」
「しょうがいないわね。相変わらずいい加減な作者だけど、頑張って完走する気はあるみたいなので、興味のある人は応援してあげてね。あと、ご意見やご感想も随時お待ちしていますって言ってるので、遠慮なく言ってあげて頂戴ね。それでは、ファッセ・ドッサッナ!」

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