第7話後編 アイン・ジャールートの戦い

第7話後編 アイン・ジャールートの戦い

第9章 スルタン・クトゥズ

 事態は、風雲急を告げていた。
 ヤッファで、僕がアル=ブンドクダーリーとの面会を果たした直後、ケド・ブカ率いるモンゴル軍が、シリア地方の中心都市ダマスカスを陥落させたとの報が入った。
「ダマスカスが、せいぜい5万人程度のモンゴル軍を相手に、どうしてこうも簡単に陥落するのだ?」
「殿下。モンゴル軍は、東方の地で開発された高度な攻城兵器を数多く持参しており、彼らにとって城攻めは、さほど苦になりません。また、イスラム世界の諸侯たちは、イスラム世界を守るよりは自分の身を守ることに汲々としており、モンゴル軍を相手に、戦う前から降伏するかどうか迷っているような状態なのです。
 我々のニザール派も似たような状況であり、そのため一致団結して、モンゴル軍に対し徹底抗戦することができませんでした」
 スィナーンが、僕にそう解説してくれた。

「だが、ダマスカスが陥落したとなると、モンゴル軍がこの地まで迫ってくるまで、そう時間は無いな」
「殿、我々はモンゴル軍を相手に、断固戦うのでしょうか? それとも逃げるのでしょうか?」
 三浦雅村が、僕にそんな問いを発してきた。
「五郎。誇り高き鎌倉武士ともあろう者が、そんなに怯えてどうする。我々は、モンゴル軍相手に屈しはしない。ただし、戦うべき時は断固戦い、逃げるべき時には逃げる。そなたたちは、余の下知に従い、全力を持って戦えばよい。無益にそなたたちを死なせたりはせぬ。
 我々の人数は少ないが、そなたも知っている余の妻テオドラは、火炎や爆発の術で多くの敵を葬る術を心得ており、そしてイレーネは、兵士たちの傷を癒す術を心得ている。余は、これまで多くの戦いで、この2人の力を借り、また様々な策略を用いて、多くの戦いで味方の死者ゼロ、取り逃がした敵もゼロという、奇跡的な勝利を何度も収めてきた。
 モンゴル軍との戦いでは、我らは数が少ないゆえ、スルタン・クトゥズの率いるマムルーク軍に合流して戦うことになるが、この戦いでは臆することなく、この榊原雅史、こちらの国ではミカエル・パレオロゴスと呼ばれているが、余の真骨頂を見せてやる。皆の者、臆することなく、余に付いてくるがよい。そして、鎌倉武士の力を、世界に見せつけてやるのだ!」
「殿、心得ました! 殿のお考え、他の者にもしかと伝えて参ります!」

「皆の者、殿を信じて、モンゴル人相手に断固戦うのだ!」
「「「おう!」」」
 三浦雅村と千葉雅秀に率いられた武士隊は、しきりに気勢を上げていた。彼らも、恐怖に打ち勝つのに必死なのだろう。
「スィナーン、そなたの率いるアサシン部隊は、大丈夫か?」
「我らは、モンゴル軍との戦いで善き死に場所を求めるため、殿下に仕えた身。今さら、死ぬことを恐れたりはいたしませぬ」
「そうか。だが、このミカエル・パレオロゴスに仕えるからには、そのような考え方ではならぬぞ。そなたたちは、死を恐れず勇敢に敵と戦い、そして生きて戻って来るのだ。少なくとも、無駄に命を散らせることは、余が許さん」
「どういうことでございますか?」

「余は、ローマ帝国再興の任を帯びて、この世界に降臨したときより、なるべく味方の犠牲者を出さず、敵を逃がすことなく戦うことに務めてきた。そして、テオドラやイレーネなどの力を借りてではあるが、多くの戦いでそれを達成してきた。
 だからこそ、このミカエル・パレオロゴスは、民と兵士たちの心を掴み、短期間でローマ帝国を、滅亡寸前の状態から、地中海世界で存在感を示す強国に引き上げることが出来たのだ。余の、そうした努力を無にするようなことは、この余が許さん。戦って死ぬのは簡単だが、戦って全員生きて帰ってくるのは、決して容易なことではない。
 だが、その容易ならざることを敢えて達成できる者が、余の求めている兵士たちなのだ。死を恐れないのは良いが、無駄に死のうとするな。ニザール派の当主の許ではなく、余の許で戦うということは、そういうものであると心得よ」
「・・・分かりました。殿下のお考え、配下の者にもよく伝えておきます」


「殿! アル=ブンドクダーリー殿から急使があり、スルタン・クトゥズの率いるマムルーク軍が、間もなくヤッファに入城するそうです! 我々も、直ちに出陣し、スルタン・クトゥズの軍に合流されたしとのことでございます!」
「・・・平次郎、そなたには聞き慣れないであろう言葉を、ずいぶんと流暢に喋れるようになったのう。テオドラでさえ、アル=ブンドクダーリーの名前を、正確には覚えておらぬぞ」
「俺だって、殿の足を引っ張らぬよう、この国の言葉を熱心に学んでいる。五郎には、負けておられぬ」
 ちなみに、五郎というのは三浦雅村の、平次郎というのは千葉雅秀の通称である。共に名門武家の生き残りで、武士隊の将を務めている2人は、互いにライバル意識が強いのだ。
「なるほど。では総員、出陣の支度を整えよ! 我らはこれより、スルタン・クトゥズの率いるマムルーク軍に加勢し、モンゴル軍と一戦を交え、我らの力を世界に知らしめるのだ!」


 こんなやり取りを経て、僕はカエサリアから軍を出陣させ、既にヤッファを立ち北上していた、マムルーク軍に合流することとなった。

「カエサリアの領主ミカエル・パレオロゴス、ささやかながら手勢を率いてスルタンの軍に加勢すべく、参陣致しました。スルタンにお目通りをお願いしたい」
 僕は、そう待たされることもなく、スルタンの天幕に通された。

「朕が、スルタン・クトゥズである。そちが、カエサリアの僭主ミカエル・パレオロゴスであるか」
「私は、確かにミカエル・パレオロゴスでありますが、失礼ながら、私が僭主と呼ばれる筋合いはございませぬ」
 ちなみに、僭主というのは,「非合法な独裁者」というような意味であり、要するにクトゥズは、僕がカエサリアの正当な領主ではないと言ってきたのである。
「朕は、全ミスルとシリアの地を治めるスルタンである。この朕が認めてもいないのに、勝手に朕の土地を切り取ったローマ人を、僭主と呼ばずして何と呼ぶのだ。
 今回は、モンゴル軍の来襲という非常事態ゆえに共闘を許すが、モンゴル軍を撃退した後は、そちにカエサリアの領有権など認める気は無い。さっさとロマーニアの地にでも戻るがよい」
「・・・スルタンのお言葉として、承っておきます」
 僕は、表向きは穏やかに答えたが、内心ではクトゥズに対する不快感が拭えなかった。
 それが、これから共闘するという味方相手に言う台詞なのか。しかも、シリアはおろか、本拠地のミスル、すなわちエジプトさえも十分に実効支配できていない分際で。


 それでも、僕は一応軍を率いて参陣してきた将の一人なので、作戦会議への列席を許された。
「アル=ブンドクダーリー。今回は非常事態ゆえに参陣を許すが、朕がスルタンであることを忘れるな。モンゴル軍相手に見事な働きを見せたら、アレッポの総督にしてやっても良いが、総司令官はあくまで朕である。決して驕るでないぞ」
「心得ております。陛下、我々はミカエル・パレオロゴスの軍と共に、先遣隊として進み、アッコンにいるキリスト教勢力の動向を確かめた後、アイン=ジャールートの地にて、モンゴル軍を迎え撃ちたいと考えております。陛下はその後をお進みになり、その地にてモンゴル軍との戦いに合流頂けないでしょうか」
「よかろう。先遣隊となることを許す」

 しかし、別の将軍たちから、作戦に異を唱える声が複数挙がった。
「陛下、敵はあのモンゴル軍、しかも数は我が軍を上回っております。うかつに前進するよりも、この地に留まって敵を迎え撃つべきではないでしょうか」
「私も同様に考えます。モンゴル軍を相手にうかつに打って出て、一度大敗してしまえば、イスラム世界の運命はそれで終わりです。ここは、決戦を急ぐより、持久戦に持ち込むべきではないでしょうか」

 スルタン・クトゥズは、こうした声を一喝した。
「者ども、我らは誇り高きイスラームの民である。モンゴル軍などを相手に怖れをなし、前進を拒むのはイスラームの民がやるべきことではない。この戦いは、イスラームの家を守るための聖戦である! 聖戦のために死ぬことを恐れる者は、敬虔なるムスリムを名乗る資格はないものと知れ! 断固として前進し、モンゴル軍を我らの力で粉砕するのだ!」


 こうして、アル=ブンドクダーリーと共に、僕は先遣隊に加わることになったのだが、いまいちスルタン・クトゥズの態度には、釈然としないものがあった。
「ダーリー殿。スルタン・クトゥズには、私も初めて会いましたが、以前からあのような人物だったのですか?」
「ミカエル殿。あのクトゥズは、妃のシャジャルによって擁立されたという負い目がある。弱い犬ほどよく吠えるというが、奴はスルタンとしての権威に自信がないために、ああやって誰に対しても高飛車に出ようとするのだ。モンゴル軍との戦いに積極的なのも、自ら大功を立てて、スルタンとしての権威を確かなものにしたいという思惑があるからだ。
 内心では、あのクトゥズを快く思っていない将軍たちも少なくない」
「・・・正直、僕もあのスルタンの態度には、イラっとさせられましたからね」

「実は俺もそうだ。だから、俺は自ら先遣隊を志願し、クトゥズとは別行動を取ることにした。もともと、俺はクトゥズをスルタンとして認めていたわけではない。この戦いのため、敢えて奴と協力することにしたまでのことだ。
 俺たちの部隊が先遣隊になることをあっさりと認めたのも、どうせ俺たちがモンゴル軍と戦って戦死でもしてくれれば、モンゴル軍も自分のライバルもいなくなり、一石二鳥などと考えているのだろう。そして、モンゴル軍との戦いが終われば、今度はスルタンの位をめぐる争いが始まるだろう。俺は、その戦いに勝つために、モンゴル軍との戦いで出来る限り俺たちの兵力を温存し、そして大きな手柄を立てる必要がある」
「・・・ただでさえ兵力で劣っているのに、戦後には味方同士の戦いが待っているのか。本当に大丈夫なのか、この国」
「俺は、そうした状態を終わらせるために、自らスルタンになることを目指しているのだ。そこで、ミカエル殿に力を貸してもらいたい。ミカエル殿は率いる兵こそ少数であるが、戦いの流れを変える常人離れした力を持っておられる。俺に力を貸してくれれば、カエサリアの地は、完全にローマ帝国の領土と認めることまでは難しいかも知れぬが、ローマ人の居住地として特権を与えることを約束しよう」
「分かった。出来る限りの協力はする」

 僕と、アル=ブンドクダーリーがそんな会話をしているところへ、テオドラが割って入ってきた。
「みかっちと、そこのアルなんとか」
「何? テオドラ、彼のことはせめてダーリーと呼んであげてよ」
「問題は、その名前よ。アルなんとかというのは、長すぎて覚えにくいし呼びにくいし、ダーリーというのも何か変だわ。エジプトのスルタンになるというのなら、もっと呼びやすくて、格好いい名前を名乗るべきよ」
「テオドラ、他人様の名前に文句を付けるのも、いかがなものかと思うけど・・・」
「いや、テオドラ殿。俺の、アル=ブンドクダーリーというのは、弓兵という意味で、俺を雇ってくれた最初の主人から与えられた名前だ。俺がスルタンになるときは、もっと立派な名前を名乗ろうと考えていた。俺に相応しい名前の候補があるなら、有難く頂戴するぞ」
「いい心構えね、ダーリー。あんたにぴったりの名前を、このあたしが考えておいてあげるわ!」
 そう言って胸を張るテオドラ。そういえば、かつてアレスやダフネの名前を付けたのも、このテオドラだった。単なるアホの子のようにも見えるけど、自分で小説を書くだけあって、ネーミングセンスは結構ある方なのだ。・・・少なくとも、トンヌラなんて名前を付けることはないだろう。


 なお、若干余談になるが、ここで地理用語に関する説明の整理をしておく。
 ミスルというのは、エジプトとほぼ同義で、現代のエジプトとほぼ同じ地域を指すものと考えて頂いて差し支えない。エジプトという呼び名は、古代ローマ人が付けた『エジプトゥス』という呼び名に由来するものであり、僕自身はエジプトという名前の方が馴染みがあるので普段そう呼んでいるが、現地の人々は、基本的にエジプトではなくミスルと呼んでいる。
 ただし、この世界にはエジプトないしミスルという国家が存在するわけではなく、いずれも単なる地域の名称に過ぎない。この地域はナイル川近辺を中心に人口が多く、独自の文化や風習が多く残っており、ミスル人という概念も一応存在するにもかかわらず、一千年以上の長きにわたり、一貫して外国人に支配されてきたという奇妙な歴史がある。
 スルタン・クトゥズのマムルーク王朝は、キプチャク人などの別名で呼ばれることも多いが、要するにクマン人出身の軍人奴隷によって成り立っている王朝であり、ミスル人の王朝とはいえない。今だ勢力が残っている前王朝のアイユーブ朝も、クルド人出身のサラディンにより創始された王朝である。ミスル人は、軍事的に強力であり自分たちを守ってくれる王朝であれば、外国人の支配でもためらいなく受け容れるが、軍事的に弱体化すれば見捨てるのも早い。
 これは、史実でも概ね同様であり、エジプトはなんと20世紀に至るまで、2千年以上の長きにわたり外国人に支配され続け、自国民による国家を持ったことが無かった。現代エジプトの政局がなかなか安定しないのも、背景にはこうした歴史的事情が挙げられる。

 そして、シリアというのも地域名に過ぎず、シリアという国が存在するわけでは無い。地域名としてもシリアというのは曖昧な概念で、概ね現代のシリア、レバノン、イスラエル、パレスティナ及びヨルダンに相当する地域が、この世界ではシリアと呼ばれているようである。シリア地域は、エジプトと同様に、外国人に支配される歴史が長く続いてきたが、この地域が独自の国家を持ったこと自体あまりなく、民族も宗教も多種多様であるため、シリア人という概念はほぼ無い。
 僕が実効支配下に置いているカエサリア・マリティマは、史実では13世紀半ばに放棄され、イスラエル北部に廃墟として残っている都市であるが、この世界ではシリアの一部とみなされている。

 なお、アル=ブンドクダーリーが、総督として領地を与えても良いと言われたアレッポは、この世界でも現代でも、シリア北部の中心都市とされているが、この世界のアレッポは、最近モンゴル軍により徹底的に略奪・破壊されたばかりの町であり、また当然ながら、現時点ではマムルーク朝の支配下には入っていない。
 要するに、スルタン・クトゥズは、アル=ブンドクダーリーに対し、今だモンゴル軍の支配下にあり、しかもモンゴル軍によって徹底的に略奪・破壊され、荒廃した地域を与えても良いと言ってきたのである。僕のみならず、アル=ブンドクダーリーもひどく冷遇されており、彼がスルタン・クトゥズに忠誠を誓う気になれないのも、このあたりの事情を考慮すれば、より良くご理解いただけるだろう。

第10章 決戦前夜

 話が大幅に脱線したが、一緒に行軍を続けるようになって、僕とアル=ブンドクダーリーは、次第に打ち解けた仲になり、やがて話し方も、身内に対するものと変わらなくなった。
「ダーリー、なぜモンゴル軍と戦う前に、アッコンへ向かう必要があるわけ?」
「キリスト教勢力のうち、アンティオキアとトリポリ、アルメニアは、既にモンゴル軍の側に付いた。アッコンも、同じくモンゴル帝国の側に付くとなれば、俺たちはアッコンの連中に、背後から攻撃される可能性がある」
「なるほど、そういうことか。だけど、その心配は、たぶん必要ないと思うよ」
「なぜだ、ミカエル?」

「アッコンは、現在エルサレム王国の領土になっているが、当のエルサレムはイスラム勢力に奪われており、エルサレム王国の領土として残っているのは、このアッコンしかない。そして、かつてのエルサレム王は、西ローマの皇帝でもあるフリードリヒ2世だったけど、その死後王位は息子のコンラドに移り、コンラドはイタリアを統治するのに精で、遠く離れた飛び地であるアッコンの統治まで手が回らない。
 そして、コンラドもつい最近病死したらしく、エルサレムの王位を継ぐのはドイツにいる、コンラドの息子コンラディンらしいんだけど、コンラディンはまだ幼少で、コンラディンを補佐する摂政たちも、遠いアッコンのことなんか構っていられない。
 つまり、エルサレム王国というのは、もはや実質名ばかりの存在で、アッコンは事実上、統治者不在の状態なんだ」

「・・・統治者不在なのに、アッコンはどうしてあんなに繁栄しているのだ?」
「統治者不在だから、逆に関税などを取られることもなく、好き勝手なことが出来るからだよ。アッコンの町には、ヴェネツィア人の居留区、ジェノヴァ人の居留区、またそれより規模は小さいけど、ピサ人の居留区やローマ人の居留区もあり、それぞれ互いに干渉しあうことなく、イスラムの商人たちと商売を行って繁栄している。一言で表現すれば、支配者のいない商人たちの自由都市になっているからこそ、あんなに栄えているんだ。
 そして、アッコンの軍事力といえるものは、ルイ9世が防衛のために送っている100人の騎士たち、いずれも数百騎程度に過ぎないテンプル騎士団や病院騎士団の騎士たちだけど、彼らもそれぞれ独立した存在で、全体のまとめ役はいない。

 したがって、アッコン自体に敵が攻めてくるという事態であればともかく、そうでない場合には、そもそもアッコンの総意として、モンゴル軍に味方するとか、あるいは逆に我々の側に付いてモンゴル軍と戦うとか、そういう意思決定が出来る状態にはない。同じキリスト教国でも、一人の君主が治めているアンティオキアやトリポリ、アルメニアなんかとは、事情が違うんだよ。
 僕も、アッコンに初めてやってきたとき、一応アッコンの領主に挨拶へ行こうと思い、ローマ人商人のヨハネス・プロモドロスに、アッコンの領主はどこに住んでいるかと尋ねたところ、そんな人はいないと言われて、びっくりしたことがあるよ。僕が今話したアッコンの事情も、大体はプロモドロスから聞いた話なんだけどね」

「・・・では、アッコンから中立の約束を取り付けるには、どうすればいいのだ?」
「その役割は、アッコンに滞在していたことのある、僕の方が適任だと思う。プロモドロスにも協力してもらって、アッコンの有力者たちから中立の約束を取り付け、我が軍の領内通過と、軍需物資の補給を認めてもらえば、特に問題は起こらないと思うよ」

 こうして、僕はプロモドロスの協力も得て、コミュニティ別に分かれているアッコンの有力者たちを訪問し、次々に中立の約束を取り付けて行った。ローマ人居留区、同盟国であるピサ人、ジェノヴァ人の居留区との話し合いは簡単に終わり、ヴェネツィア人居留区も、戦争に巻き込まれたくはないので、比較的簡単に、中立の約束を取り付けることが出来た。
 若干苦戦するかと思われた、フランス王の騎士たちや、テンプル騎士団、病院騎士団の騎士たちも、ほとんどは現地の事情を心得ており、モンゴル軍とマムルーク軍の戦争に巻き込まれるのは得策でないと判断していた。遠くフランスから来たばかりという若い騎士の間には、異教徒との協定に反対するものも若干いたが、彼らは僕が出るまでもなく、ベテランの騎士たちが説得してくれた。

「ミカエルのおかげで、アッコンの問題は予想以上に早く片が付いた。早速決戦の地、アイン・ジャールートへ向かおう」
 こうして、僕たちはアッコンで食料や軍需物資の補給を済ませ、友軍より一足早く、アイン・ジャールートへ到着することが出来た。


「みかっち、ティムと一緒に何を歌ってるの?」
「この歌は『浅い眠り』。サビの部分が、高音と低音に分かれている歌だから、知っている人が2人いないと、上手く歌えないんだよ。誰の歌かは、言わなくても分かるでしょ。例の『偉大なる人』だよ」

 どうやら、この世界には現代歌手の実名を出すとまずい大人の事情があるようなので、これからは『偉大なる人』と呼ぶことにした。
 他にも候補はあったんだけど、『Mさん』だと、なんとか原発の賄賂事件に関わった元助役さんみたいでイメージが悪いし、『例のあの人』だと、某有名小説や映画に出てくる悪役みたいでやはりイメージが悪いので、ティムとも話し合った結果、『偉大なる人』の通り名で統一することにした。
 現代日本で、1970年代の『わかれうた』、1980年代の『悪女』、1990年代の『空と君のあいだに』と『旅人のうた』、そして2000年代の『地上の星』と、4つの年代でオリコン1位を達成するという息の長い活躍を見せ、他にも数々の名曲を残し、紫綬褒章まで受賞した『偉大なる人』。この人に匹敵する業績を残したのは、今のところ、南十字なんとかというグループくらいしかいない。

「・・・みかっち、偉大なる人でも何でもいいけど、戦争の前なのに、そんな呑気に歌なんて歌っていいの?」
「戦争の前だからこそ、平常心を保つのが重要なんだよ。それに、戦闘の準備だって、着々と進めているよ」
 アル=ブンドクダーリーの立てた作戦は、騎兵が活躍しにくいアイン・ジャールートの森にモンゴル軍を誘い込み、森の中に伏兵を置いて奇襲をかけ、モンゴル軍を半包囲するというもの。友軍より一足早く戦場に来た僕たちは、アル=ブンドクダーリーの率いる部隊が陣のほぼ真ん中に、副将カラーウーンの率いる部隊が右翼寄りに陣取り、僕たちの部隊はその中間に陣取っている。
 モンゴル軍がこの地にやってくるのは、現在地と行軍速度から考えて、早くても7日後。その間に、スルタン・クトゥズの率いる本軍も到着する。左翼や右翼の先端だと、一歩間違えればモンゴル軍の集中攻撃を受ける可能性があるので、生き残るのに一番有利な場所を確保したのだ。

 そして僕は、貴重な戦闘前の時間も無駄にしなかった。
「五郎、平次郎、スィナーン。少しでも戦闘を有利に進めるため、この設計図どおりに、防御陣と罠を配置してくれ」
「承知致しました。手分けして順次配置致します」 

 防御陣は、土塁と柵を設置するといった感じの、いわゆる野戦築城のことで、罠はモンゴル弓騎兵の機動力をさらに削ぐための、馬防柵や落とし穴などを可能な限り作ることにしている。
 防御陣や罠の配置には、兵士たちの他、従軍している女たちも加わっている。さすがに、子供や妊娠している女性などはカエサリアに残してきたが、兵士たちの妻などについては、その大半を連れてきた。少年武士たちに宛がったお嫁さんは皆働き者で、炊事や武具の修理、罠の配置なども手伝ってくれる。スィナーン率いるアサシン部隊の妻なども同様で、この時代の女性は結構逞しいのだ。
 ・・・それに、僕自身が毎晩、主にイレーネと子作りしまくっているのに、他の兵士たちが妻を連れてくるのが駄目だとは、さすがに言える立場では無かった。文句なしの戦闘要員であるテオドラやイレーネは別として、他の女たちは、戦闘が始まったら陣の中で待機し、敗色が濃くなった場合には、イレーネが陣中に作った臨時の移動拠点を使い、カエサリアに撤退するよう指示してある。
 今回の戦いは、お世辞にも勝算が高いとは言えないため、負けることも考慮に入れて作戦を考えなければいけないのだ。もし負けたら、兵士やその妻たちをカエサリアに避難させるのみならず、カエサリアも危険になるので、カエサリアも放棄してどこかに撤退しなければならない。
 ・・・そこまで考えると憂鬱になるので、とりあえず今は、何とか戦いに勝つことを考えよう。


 僕が、そんなことを考えている途中、アル=ブンドクダーリーが、書記官のアブド=アッザーヒルを連れて、僕の陣を視察にやってきた。
「ミカエルの部隊は、ずいぶんと凝った陣や仕掛けを用意しているのだな」
「ダーリー。我々の部隊は人数が少ないので、数の差を少しでも補う必要があるんだよ。これがうちの設計図だけど、君の部隊でもやってみる?」
「ミカエル。俺は奴隷出身の成り上がり者で、戦争のことは教わっているが字は読めない。ミカエルとは不思議と難なく話が通じるが、実はアラビア語も、難しい言葉は分からない。だから、戦時でも書記官のアッザーヒルが必要になる。とりあえず、読むものはアッザーヒルに渡してくれ」

 僕は、設計図をアッザーヒルに渡したものの、設計図には日本語とギリシア語を使っていたこともあり、アッザーヒルにも読めない様子だった。ちなみにスィナーンは、日本語はさすがに分からないが、ギリシア語はある程度分かるというので、設計図には武士隊向けの日本語と、スィナーン向けのギリシア語を併用している。

「まあいい。俺たちは、俺たちのやりかたで準備させてもらう。ミカエルの部隊は、見慣れぬ格好をした弓騎兵隊と、ニザール派の暗殺者たちだ。俺たちとは、風習も戦い方も全く違う。各々、自分に合ったやり方で戦った方がいい」
「それもそうか。しかし、ダーリーは文字も読めないのに、スルタンの仕事が務まるの?」
「政治のことは、それが得意な連中に任せるさ。俺がスルタンになったら、戦争で国をまとめることに専念する。勝てる大将には、兵士達も付いてくる。勝てる軍隊には、民衆も付いてくる。今のミスルに必要なのは、戦争に勝てるスルタンだ」
「まあ、文字が読めなくても、それだけの見識があれば、スルタンも何とか務まると思うよ。僕も最初の頃は、ギリシア語の文字が読めなくて苦労したし」
「そうか。俺は文字こそ読めないが、歴史の話を聞くのは好きだ。時間があれば、ミカエルの苦労話もたっぷりと聞かせてもらいたいところだが、俺たちには俺たちの準備がある。またな」


 そのうち、スルタン・クトゥズの率いる本隊も到着し、モンゴル軍を半包囲する形で布陣が行われた。スルタンのクトゥズ自ら率いる本隊は、予備部隊として後方に陣取っているけど、総大将が殺されたら戦争はお終いだから、まあこれは当然のこととして受け容れるしかない。

 そして、モンゴル軍が接近し、いよいよ明日には戦闘になるという日の夕方。
「我が軍とモンゴル軍の距離から考えて、モンゴル軍が夜襲を仕掛けて来るとは考えにくいが、おそらく明日にはモンゴル軍との全面衝突になる。皆の者、明日の戦闘に備えて、今夜はゆっくり休むように。あと、明日の戦闘に差し障りが出ないよう、今夜は妻や女たちとの子作りは控えるように」
 僕の言葉に、兵士たちの一部からは笑いが起こったが、戦いの前夜は、むしろこのくらいの雰囲気の方が丁度良いのだ。

 そして、僕は自分の天幕へ戻ったが、そこでは川の水で身体を浄めたらしいイレーネが、既にビブリオケーテーを外し、一糸まとわぬ姿で待機していた。言うまでもなく、これは子作りしましょうというサインである。いつもなら、妖精のようなイレーネの姿に誘われるまま、子作りモードに突入してしまうところだけど、今晩ばかりはそうもいかない。

「ちょっと、イレーネ。さすがに今日は大事な戦闘の前日だから、そういうことは控えないと・・・」
「あなたは、通常の男性より、かなり体力の回復が早くなっているから、明日の戦闘に差し支える心配はない。あなたの身体も、私を欲しているはず。それに、今日は私があなたを独占できる日。私が我慢する必要は無いはず」
 イレーネは、テオドラと違って素直で大人しいけど、子作りに関しては極めて貪欲で、時間さえあれば一日中でも僕と子作りを続けたいと言って憚らない、とてもエッチな女の子なのだ。そんなイレーネが僕を担当する日になって、明日は大事な戦闘だから子作りは控えようと言ったところで、イレーネが納得するはずもなかった。

「いや、全くしないとまでは言わないから、せめて今夜は、例の一晩中眠ったまま子作りをするというチャレンジは、さすがに止めてほしいんだけど」
 もともと、イレーネは僕と結ばれる前から、裸になって僕の傍で甘えて眠るのが好きだったのだが、僕との子作りを覚えるとそれだけでは満足できなくなり、僕と子作りをする態勢で繋がったまま眠りたいと言い出すようになった。
 僕も、さすがにそんなことは不可能だろうと思っていたが、変なところでチャレンジ精神旺盛なイレーネは、諦めることなく術などを使って実験に取り組み、最近は僕がイレーネと繋がったままで、子作りに疲れて眠るというパターンが常態化してしまった。
 僕がイレーネではなくテオドラの相手をする日でも、満足したテオドラが僕を用済みにすると、僕はすぐさまイレーネに引っ張り込まれ、子作りの続きをさせられる。そのため、テオドラが僕の独占を諦めた日からは、まさしく1日も欠くことなく、そのような夜の生活が続いてしまっている。

 もっとも、現状では眠っている間に僕のものが萎えて、朝起きるときにはどうしても外れてしまうので、朝起きるまでずっとそのままという状態を望むイレーネにとっては、まだ満足できる結果ではないらしい。そして僕にとっては、イレーネと子作りをすること自体は気持ちいいけど、一晩中イレーネに絞り取られ続けるのは体力の消耗が激しいので、せめて今晩くらいは止めて欲しい。

「・・・今晩も、当然する」
 でも、イレーネは僕の言うことを聞いてくれそうにない。こうなっては仕方ない。

「じゃあ、イレーネ。僕の攻撃に最後まで耐えられたら、いつも通りしてあげるよ」

 そのまま、僕はイレーネに襲い掛かった。
 ・・・と言っても、そのまま押し倒して子作りをするのではなく、最初は挿入無しで、イレーネの敏感なところを攻めまくる、いわゆる焦らしプレイである。イレーネが嫌がるので普段はほとんどやらないけど、僕が本当にやりたいのは、むしろ焦らしプレイの方である。こっちの方が体力の消耗は少なくて済むし、焦らされて悶えているイレーネは、本当に可愛いのだ。
 そして、充分焦らした上でようやく子作りを始めると、イレーネは普段と比較にならないくらい、激しく感じまくってしまう。それでも僕は追撃の手を緩めることなく、感じまくっているイレーネを休むことなく責め立てる。焦らしプレイへの耐性がないイレーネは、僕の攻撃に最後まで耐えられず、7回目で気絶してしまった。ちなみに最近の僕は、イレーネ相手なら途中で抜かずに10回は続けられる。
 感じすぎて気絶するくらいだから、イレーネにとってもこっちの方が気持ち良いはずなのに、どうして嫌がるんだろう。僕は内心そんな疑問を抱きつつも、気絶したイレーネを優しく抱きかかえながら、久しぶりに程よく満足した状態で眠りに就いた。

第11章 湯川さん襲来

 ・・・何となく身体が重い。
 僕の身体をふみふみする感触は、イレーネでは無くて、猫のウランか。
 今日は、現代日本で生活する日か。よりによって、モンゴル軍との決戦前日に、現代日本へ戻ってしまうということは、明日の戦闘に備えて、遺言書でも書いておけという趣旨か。
 それにしても、日本とビザンティン世界を行き来する生活には、以前よりは慣れてきたものの、いまいち調節が効かない。イレーネにとことん絞りつくされた翌日であれば、日本でもスッキリした状態で学校生活を送れるのに、そういった日に日本へ戻って来ることはほぼ無く、むしろ相手がテオドラだけだったり、あるいは相手がイレーネでも、昨夜みたいに回数を少なめにして性欲が残っている状態の日に限って日本へ戻ってきてしまうのだ。

 えーと、前日の現代日本では、一体何があったっけ? 僕は日記を読み返したところ、
「・・・そうだった。今日は湯川さんが、うちに来る日だった」
 ある意味、モンゴル軍との決戦以上に、僕にとって重要な1日だった。

 今日は、雨こそ降っていないけど、湯川さんを連れて帰ってくるのであれば、自転車は使えない。自転車の二人乗りは危ないし。そうなると、準備する時間もタイトだ。

「・・・うう、うちと高校の前に移動拠点を作って、パッシブジャンプで移動できるようになればいいのに」
 僕は、思わずそんな独り言を呟いてしまった。ビザンティン世界とこの日本は、完全に別の世界だ。もちろん、僕も現代日本では、神聖術など使えない。術を発動するのに必要な腕輪を持っていないのだから、試すだけ無駄なのだが、もし何らかの方法で、神具を現代日本に持ち込んだら、現代日本でも神聖術を使えるようになるのだろうか。
 まあ、どこかのネトゲ中毒者じゃあるまいし、そんなことを考えてもしょうがない。僕は手早く朝食と準備を済ませ、時間ギリギリながら、何とか遅刻せずに登校できた。

「おはようございます、湯川さん」
「おはようございます、なのです。榊原くん」
 そう答えてくれる湯川さんも、今日は元気そうだ。僕の家に来るのを、楽しみにしてくれたのかな。

 相変わらず、下半身の激しい疼きには悩まされるけど、それでも湯川さんと一緒の時間は楽しい。マリアが、僕とは縁のない女の子になってしまった分、僕が心の癒しを求められる女の子は、湯川さんだけになってしまった。それだけに、湯川さんとの時間は大切にしないと。

「湯川さん、今日もお弁当ありがとう。・・・すごく美味しい!」
「そんなに美味しい、なのですか?」
「うん。まるで、天国にいるみたい」
 これは、決してお世辞を言っているわけでも、誇張でもない。なにしろ、中世イスラム世界にいる僕の食生活は、一般の兵士たちと同じ兵糧に過ぎず、味など気にしていたら食べていられない。それに比べたら、安価な材料ながら、味付けに工夫を凝らしている湯川さんのお弁当は、食べるだけで天国へ昇ったような心地にさせられる。
 向こうの世界で日本より充実しているものは、夜の性生活くらいで、それ以外は現代日本の方が断然充実している。リアルの戦争をする必要もないし、統治に気を遣う必要もないから、気分的にも楽だ。
 ・・・その代わり、下半身はとても苦しいけれど。

 そして、お弁当を食べ終わった後、僕は湯川さんに、例のライトノベルを朗読してあげた。
「・・・その猫姫って、あの猫姫さんなのですか?」
「そうだけど」
「その猫姫さんが、どうしてリアルおっさんとか言っているのですか?」
「だから、主人公からの求婚を断るために、嘘をついてるわけ」
「・・・でも、漫画の方には、そんなセリフ、確か載っていなかったのです」
「漫画の方は、話を分かりやすくするために、原作の台詞や説明のうち、かなりの部分を省略しちゃってるから。これは、この作品に限った話じゃないけど、漫画だけじゃなくて原作も読まないと、その作品の本当の面白さって、理解できないものなんだよ」
「そうだったのですね!」

 僕は、周囲からどう思われようと、何を言われようと意に介さず、昼休みの間中、湯川さんと2人きりの世界を作って、湯川さんとの会話を楽しんだ。その途中、いつもの体調不良がないことに若干違和感を覚えたが、とりあえず気にしないことにした。

 そして放課後。普段なら、ここで湯川さんにお別れの挨拶をするところだが、今日は湯川さんを自宅にお招きする日なので、さよならの挨拶はしない。その時、湯川さんが普段とは違う、もう1つのバッグを持っていることに気付いた。
「湯川さん、そのバッグは何?」
「これは、榊原くんのおうちに行くための、準備なのです」
「・・・そうなんだ」
 たかが、僕の家に来るだけのために、なんでそんなに大きな荷物が必要なのか気になったが、敢えて追及はしなかった。

「その荷物、重そうだから僕が持ってあげるよ」
「あ、ありがとうございます・・・なのです」
「ねえ、榊原くんと美沙ちゃんって、ついに結婚するの? 今日結ばれちゃうの?」
「・・・さっきからうるさいよ、佐々木さん」
 昼休みの間も、佐々木さんからはこうした冷やかしの言葉を浴びせ続けられていたのだが、今日の僕はほぼ完全に、佐々木さんを無視していた。野次馬を相手にしている暇はない。


 佐々木さんから散々文句を言われながらも、僕は完全にスルーして、湯川さんと一緒に学校を出た。
「榊原くん、・・・麻衣ちゃんを、あんな風に無視しちゃって、いいのですか?」
「あまり良くは無いけど、僕にとっては、湯川さんの方がはるかに大事だから」
「そ、そうなのですか・・・」
 僕の言葉に、湯川さんが顔を真っ赤にした。・・・可愛い。

 一応、僕なりに今日の作戦は立てている。
 以前、恋愛上手のアレスに、女の子に愛の告白をする方法を尋ねたところ、出来る限り女の子をほめちぎって、いい雰囲気を作ってからにした方が良いと教わったことがある。今日の目標は、僕の家で湯川さんと良い雰囲気を作って、湯川さんに愛の告白をして、正式な交際を始めることだ。
 もちろん、出来ればそれ以上のことも当然したいけど、あまり欲張ってはいけない。そこから先は、時間を掛けてゆっくりと事を進めないと、単なる身体目当てだと思われてしまう。

 僕が、内心で自分にそう言い聞かせていると、湯川さんの方から声を掛けてきた。
「・・・榊原くん」
「なあに? 湯川さん」
「これからは、わたしのこと、湯川さんじゃなくって、名前の方で呼んでほしいのです」
「名前の方っていうと、美沙ちゃんって感じでいい?」
「はい、なのです!」
 湯川さんは、向日葵のような笑みを浮かべていた。
「じゃあ、僕の呼び方も、榊原くんじゃなくて、名前にしてもらおうかな。僕の名前は、まさひとだから・・・」
 僕は、そこで言葉に詰まった。これまで、友達なんてほとんどいなかったので、自分のニックネームなんて考えたこともない。「みかっち」は向こうの言葉だから、明らかに別次元の問題である。

「・・・まさくんって、呼んでもいいですか?」
「うん。それでお願い」
 お互いに、まさくん、美沙ちゃんって呼び合う関係。それは、僕が今まで経験したことの無い、甘美な世界だった。マリアとの関係は、ご主人様とメイドの主従関係だから、対等な恋人関係では無かったし、おそらくそのために、結ばれることも無く終わってしまったし。

「まさくん、今日は、まさくんのお父様とお母様は、・・・いらっしゃいます、なのですか?」
「お父さんは、たぶんいるけど、お母さんはいない。家族は、僕とお父さんと、飼い猫のウランだけ」
「お母様は、どうされたのですか?」
「僕のお母さんはね、僕が小学生のときに、交通事故で亡くなってしまって」
「・・・そうなのですか。そんな悲しいことを聞いてしまって、ごめんなさいなのです」
「いいよ、美沙ちゃんが僕の家に来るような関係になるのであれば、いずれは話さなきゃいけないことだったから」

「わたしも、お母さんはいますけど、お父さんはいないのです」
「・・・お父さんがどうなったのか、聞いても大丈夫?」
「はい、なのです。わたしのお父さんは、浮気が原因でお母さんと離婚して、わたしはお母さんと二人で暮らしているのです」
「母子家庭なんだ。大変だね」
「結構大変なのです。それでも、お母さんは頑張って、わたしを高校まで入れてくれたのに、高校のお勉強に全然ついて行けなくて、最近はお勉強も手に付かないのです。・・・わたしは、駄目な子なのです」
「・・・結構深刻だね。僕で良ければ、いつでも相談に乗るよ」
「まさくん、よろしくお願いします、なのです」

 湯川さんとそんな話をしているうちに、僕たちは榊原家に着いた。
「まさくんのおうち、結構立派なのです」
「それほどでもないよ。中はあんまり綺麗じゃないし、空き部屋だらけだし」
 僕が、鍵を開けて家の扉を開くと、僕を出迎えに来た猫のウランは、湯川さんを見るなりUターンして、台所に隠れてしまった。

「いま、大きな猫ちゃんがいたのです」
「あの猫はウランって言うんだけど、すごく人見知りで。最近、うちではお手伝いさんを頼むようになったんだけど、そのお手伝いさんに慣れるのも結構大変だったんだ」
 湯川さんは、ウランに興味を持ったようで、台所へ入って行った。
「ウランちゃん、はじめまして、なのです」
 湯川さんの声に、ウランは尻尾を太くして、「シャーーーー!」と、威嚇の声を挙げた。

「・・・まさくん、ウランちゃんが怒っているのです」
「あれはね、怒ってるんじゃなくて、知らない人が入って来たから警戒しているんだ。そのうち落ち着くよ」
「おや、雅史。もう帰って来たのか」
「うん。お父さん、ただいま」 
 そうだった。ウランより先に、まず湯川さんとお父さんとの顔合わせを済ませないと。

 僕は、急いで来客用のお茶菓子を用意した。
「美沙ちゃん、飲み物はお茶で大丈夫? 紅茶とか、ジュースとかもあるけど」
「お茶で大丈夫なのです」
「分かった。今用意するね」

 僕たちは、リビングのソファーに座り、湯川さんをお父さんに紹介した。
「お父さん、この子が僕のクラスメイトの、湯川美沙ちゃんです」
「湯川美沙、なのです。不束者ですが、よろしくお願いします、なのです」
 そう言って、湯川さんは丁寧に頭を下げた。
 ・・・見た目や喋り方だけじゃなくって、初対面のときの挨拶まで、湯川さんってマリアにそっくりだなあ・・・。
「いや、そんなに畏まらなくても。私は榊原康史、雅史の父だ。しがない不動産業などをやっている。湯川君には大したおもてなしも出来ないが、ゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます、なのです」
 湯川さんが緊張しているのは仕方ないにしても、お父さんも初対面の湯川さんを見て、何か動揺している風だった。

「ところで、湯川美沙君、で良かったかな。ちょっと、立ち入った話を聞いても良いか?」
「はい、なのです。何のお話なのですか?」
「私は、何となく君の姿に見覚えがあるのだが、君のお母さんの名前を聞いてもいいかな?」
「わたしのお母さんの名前は、湯川美穂、なのです」
 その名前を聞いたお父さんは、なぜか冷や汗を流し始めた。
「・・・そのお母さんは、私と同じ、江南高校のご出身かな?」
「はい、なのです」

「そうか。・・・おそらく、その美穂さんは、高校時代、私の同級生だった。美沙君の姿を見たとき、若い頃の美穂さんと、生き写しと言って良い程良く似ていて、姓も同じ湯川なので、思わず動揺してしまったんだよ」
「・・・そうだったのですか?」
「でも、美穂さんが結婚してお子さんがいるとなると、普通、名字は変わるはずだが?」
「はい。わたしは、生まれたときは、金城という名字だったのです。でも、お父さんが愛人を作って、お父さんとお母さんが離婚して、わたしはお母さんに引き取られたので、お母さんと一緒に、湯川の名字に戻ったのです」
「・・・そうか。立ち入ったことを聞いて、済まなかった。それにしても、あの美穂さんを捨てるとは、ずいぶん怪しからん男もいたものだな」
「何のことですか?」
「いや、何でもない、今の話は忘れてくれ。今回美沙君がうちに来たのは、私ではなく、雅史と話したいからだろう? あとは雅史の部屋で、若い者同士、ゆっくり過ごすといい」
 僕と湯川さんは、お父さんのお言葉に甘えて、僕の部屋に移動することになった。ただ、お父さんのあの態度をみる限り、お父さんと湯川さんのお母さんは、ただのクラスメイトでは無くて、何か事情があったのかも知れない。今度、時間があったら聞いてみよう。


「ここが、僕の部屋。ちょっと汚いけど、よかったらゆっくりして行ってね。今、お茶とお菓子持ってくるから」
「はい、なのです」
 しかし、僕が湯川さんを僕の部屋に残し、お茶とお菓子をリビングから僕の部屋へ運んでいる間、湯川さんは大人しく待っていてくれなかった。僕が部屋に戻ってみると、湯川さんは僕の部屋にある恥ずかしいものを、次々と引き出しては物色していた。

「まさくんも、やっぱり男の子なのですね。ちょっと探しただけで、エッチな本とかお人形さんとかがいっぱい出てくるのです」
「み、美沙ちゃん。恥ずかしいから、あんまり見ないで・・・」
 僕のそんな声も空しく、湯川さんによる捜索は容赦なく続けられた。

「この、エッチな写真集の女優さん、何となくわたしに似ているのです」
「あ、まあ確かに似てるけど、それは偶然で・・・」
 まさか、顔が湯川さんに似てるからという理由で最近購入し、1人でするときのオカズに使ってますなんて、本人の前ではとても言えない。
「しゅーちゃんが、こんなエッチなことをしてるのです。・・・まさくんは、しゅーちゃんを、こんなエッチな目で見ていたのですね? まさくんはいけない子なのです」
「うう、ごめんなさい・・・」
 湯川さんが言っているのは、エッチな同人誌のことである。
「ここにも、エッチなフィギュアが飾ってあるのです」
「・・・・・・」
「まさくん、このピンク色の、ぷにぷにしたものって、何に使うのですか?」
「み、美沙ちゃん、それだけは勘弁して! 女の子に話せるものじゃないから!」
 ・・・しかし、湯川さんは許してくれず、僕はとうとう、『ピンク色のぷにぷにしたもの』の使い方を白状させられてしまった。使い方というのは、要するに『T●NGA』なんかと同じです。
 僕が、恥ずかしさのあまり、精神的にグロッキー状態になっているのに対し、当の湯川さんは、妙に満足そうだった。

「・・・まさくんは、とってもエッチな男の子なのですね」
「美沙ちゃん、それは自分でも気にしてるから、どうか改めて言わないで」
「そして、まさくんは、わたしとエッチなことがしたいのですね?」
「い、いや、美沙ちゃんを相手に、そんなやましいことを考えては・・・」
「まさくん。わたしだって、子供じゃないのです。まさくんのズボンが、とんでもないことになっている理由くらい、わたしにも分かるのです」
「・・・・・・」
 今日は、時間不足で朝のオナニーが出来なかった上に、自分の部屋で湯川さんと二人っきりになっていることもあって、確かに僕の股間は確かに大変な状態になっている。今この場でも、湯川さんを押し倒したい衝動を堪えるのに必死なのだ。しかも、当の湯川さんに、それを気付かれているとは。
 ・・・思春期の男の子なら、誰だってそれなりの性欲はあると思うけど、僕をここまで酷い性欲の塊にしてしまったのは、主にお父さんとイレーネのせいだ。

「まさくん。わたしと何がしたいのか、正直に言ってください、なのです。正直に言ってくれたら、わたしから、プレゼントをあげるのです」
「・・・本当に、正直に言っていいの?」
「言ってください、なのです」
「・・・僕は、美沙ちゃんのことが、好きです。だから、ゆくゆくは、美沙ちゃんとエッチなことも、したいです」
「良く言えました、なのです♪」
 ・・・なぜだ。どうしてこうなった。どうして僕は湯川さんに、こんな恥ずかしいシチュエーションで愛の告白をする破目になってしまったのだ。
 しかし、湯川さんの攻撃は、これで終わらなかった。

「ちょっと待って、美沙ちゃん! どうして、ここで服を脱ごうとしているの!?」
「・・・まさくんの、お願いを叶えるため、なのです」
「それって、僕とエッチなことを、してもいいってこと?」
「はい、なのです。まさくんのお家に行ったら、たぶんこういうことになるって、覚悟は出来ていたのです。今日はそのために、お泊まりできるように準備もしてきたのです」

 どうしよう。あのおとなしそうな美沙ちゃんが、ここまで積極的な子だとは、想像もしていなかった。
 こうなったら、お言葉に甘えて、美沙ちゃんをこの場で抱いてしまおうか。でも、ビザンティン世界では、僕はいろんな女の子から子作りをせがまれる身分だけど、この世界ではまだ高校生だから、子作りをしていい身分じゃない。美沙ちゃんと一線を越えるのであれば、最低限避妊はしないと・・・。


 避妊の問題を思い出したことで、僕の理性はぎりぎりで踏みとどまった。こんな展開になるとは予想していなかったので、避妊具などは当然用意していない。
 ビザンティン世界では、避妊具など当然無しで、結構な回数の子作りをしてしまっているにもかかわらず、まだ僕の子供を身籠った女の子はいないけど、だから大丈夫だと楽観的に考えてはいけない。湯川さんの合意が取れたとはいえ、さすがに湯川さんを妊娠させるのはまずい。
「美沙ちゃん、気持ちはうれしいけど、そういうことは、まださすがに早すぎると思うよ。何というか、もう少しお互いを知り合って、ちゃんと準備してからでないと・・・」
「別に、早すぎるとは思わないのです。それにもう、私はまさくんと、エッチなことをしている仲だと、みんなに思われているのです」
「確かに、そう誤解されている節はあるけど、僕たちはまだ知り合って、せいぜい1か月くらいの仲に過ぎないし、正式に交際しているのかもよく分からない関係だし」

「・・・そんなことは、ないのです」
「へ?」
「まさくんは、・・・わたしのことが、わたしだって、本当に気付いていないのですか?」
「美沙ちゃん、言っていることの意味が、全く理解できないんだけど」
「・・・わたしにも、上手く説明できないのです。でも、わたしとまさくんは、夢の中で何度も会っていて、まさくんは私に、結婚したいとまで言ってくれたのです。覚えていないのですか?」
 ・・・マリアにそんなことを言った覚えはあるけど、美沙ちゃんとマリアは、あくまで別人だ。夢の中で湯川さんと会って、湯川さんに結婚したいと言った記憶はない。

「ごめん、美沙ちゃん。僕は、そういう夢を見たことは無い」
「・・・まさくんは、わたしのこと、なかなか分かってくれないのです」
 そう言いながら、湯川さんはため息をついた。
「なんだか良く分からないけど、分かってあげられなくてごめんなさい」
 非常に理不尽ではあるけど、ここは僕が謝らなければならない場面だと、僕の勘が告げていた。
「仕方ないのです。それで、まさくんは、今日わたしと、エッチなことをする気はないのですか?」
「・・・する気がないとまでは言わないけど、さすがに今日しちゃうのはまずいよ。その、心の準備とか、最低限必要なものの準備とかも出来ていないし」
「あと、どのくらいしたら、準備できるのですか?」
「えーと、僕としては、順調に交際を重ねて、早くて夏休みくらいになったら、あるいはそういうことをしてもいいのかなって、思っていたんだけど」

「・・・そんなに待てないのです」
「え?」
「まさくんの近くにいると、まさくんがわたしとエッチしたいな、って気持ちが伝わってきて、エッチな匂いがしてくるのです。この部屋も、まさくんの匂いでいっぱいなのです」
「僕って、そんなに変な匂いがする!? ちゃんと毎日、最低限シャワーは浴びてるけど。この部屋も、窓を開けて換気しようか?」
「・・・そういう意味では無いのです。わたしと、エッチなことがしたいのであれば、早く決断してほしいのです。これ以上焦らされるのはて嫌なのです」
「普通、女の子って、初めてエッチなことをするまでには、時間をかけたがるものじゃないの?」
 確か、マニュアル本にはそう書いてあったはず。

「・・・わたしは、まさくんだったらいいのです。それに、わたしとまさくんは、もう初めての関係ではないのです」
「それって、どういうこと?」
「これだけ言っても、まさくんは、わたしのこと分かってくれないのですか?」
「何というか、聞けば聞くほど分からなくなるんだけど。僕と美沙ちゃんは、どこかで既に結ばれた仲だっていうこと?」
「まさくんが分からないなら、仕方ないのです。・・・今日は帰るのです」
「なんか、失望させちゃったみたいで、ごめん。家まで送って行こうか?」
「大丈夫なのです。一人で帰れるのです」

「まだ明るいし、美沙ちゃんが一人で帰りたいというなら止めないけど、せっかく家まで来てくれたんだから、一応携帯かスマホの番号交換くらいはしておかない?」
「そのくらいは、してもいいのです」
 二人ともスマホは持っていたので、電話と某アプリを使ったメッセージ交換はできるようになった。

「美沙ちゃん、一人で本当に大丈夫?」
「大丈夫なのです」
 湯川さんは、少し怒っている様子だった。これ以上引き留めても逆効果か。
「分かった。美沙ちゃん、また明日ね」
「まさくん、また明日、なのです」
 僕は玄関先から、湯川さんが一人寂しそうに帰って行くのを、見送るしかなかった。


 僕は、一体何がいけなかったんだろうと考えた挙句、再び良い雰囲気になってしまった場合に備え、とりあえずコンドームは買っておこうという結論になり、近くの薬局で、とりあえず一番大きいサイズのコンドームを購入した。店員さんには、お父さんから頼まれた買い物だと言って、上手く誤魔化した。


 その帰り道。僕のスマホに、電話が掛かってきた。
「まさくん、助けてくださいなのです。迷子になってしまったのです」
「美沙ちゃん、今どこにいるの?」
「・・・よく分からないところなのです」
「それだけじゃさすがに分からないから、何か近くに見える、手掛かりになりそうなものを探して、見つけたら僕に教えて!」
「・・・でも、このへんは普通のおうちばかりなのです」
「近くの電柱に、地名とか番地とか書いてない? それでも分かるから!」

 僕は、電話で湯川さんから情報を聞き出しながら、湯川さんが本来帰る道の周辺を重点的に探して回ったところ、ようやくのことで、泣きじゃくっている湯川さんを発見した。呆れたことに、その場所は距離的には、湯川さんの家からすぐ近くの場所だった。
「まさくん、助けてくれて、ありがとうなのです・・・」
「美沙ちゃん、この辺って美沙ちゃんの家のすぐ近くだけど、来たことないの?」
「・・・そうなのですか?」
 僕は、湯川さんを連れて、湯川さんの家の前まで送って行った。2か所くらい角を曲がる必要があるけど、移動には3分もかからない。

「ほらね。すぐ近くでしょう?」
「・・・わたしは、駄目な子なのです。だから、まさくんは、私を受け容れてくれないのです」
「それは関係ないから。・・・今日は断っちゃったけど、その、美沙ちゃんが、僕との関係を早く進めたいというのであれば、明日までにはどうするか、僕も心の準備をしておくから」
「分かりました、なのです。まさくん、わたしを探してくれて、ありがとうなのです」


 こんな感じで、僕の1日はほとんど終わってしまった。例によって日記は付けたものの、謎が多すぎて、上手くまとめられない。湯川さんとマリアが同一人物だというなら一応の説明は付くけど、そんなに都合の良い話があるはずもないし、湯川さんがあの世界に呼ばれる理由があるとも思えない。それに、あの世界のマリアは、僕とは無関係の女の子になったはずだ。
 そうすると、僕も覚えていない別の世界で、僕と湯川さんは結ばれていたってこと? それに、女の子の方からエッチしてもいいって言われた時は、断っちゃいけないの? そもそも、湯川さんはなんで、突然あんなに大胆なことを言ってきたの?

 精神的に疲れ果てた僕は、それ以上何もする気になれず、さっさと眠りに就いてしまった。

第12章 アイン・ジャールートの戦い

 翌朝。目が覚めると、僕の上にはイレーネがいた。むろん、単に乗っかっているだけではなく、子作り中である。もはやいつものことだし、僕も気持ち良いのでそのまま身を委ねていたものの、不意に今日はモンゴル軍との決戦だということを思い出した。
「イレーネ! 今日は決戦当日だから、今日の朝はこのくらいで自粛しようよ!」
「でも、あなたはまだ満足していないはず」
「満足させなくていいから! 戦争のときは、溜まってるくらいの方が丁度良いから! もう終わりにしよう!」

 イレーネが渋々ながら僕から離れてくれて、僕は軍装に着替えた。天幕から出ると、僕以外の兵士たちは、既に出揃っていた。当のイレーネは、眼鏡もどきを付けてローブを着るだけなので、僕より先に天幕から出て、まるで今朝は何事も無かったかのような顔をして待機していたが、今更そんな擬態をしたところで、イレーネが僕と激しい子作りを毎日繰り返していることは、もはや軍の誰もが知っている。

「・・・皆の者、待たせたな」
「殿、配下の者には子作りを自粛せよとか言っておいて、殿自身は昨晩どころか、朝まで子作りかよ」
「平次郎、殿は我々とは別格なのです。あの見事な太刀をご覧あれ。疲れを見せるどころか、我々以上に元気一杯ではありませぬか」
 千葉雅秀と、三浦雅村がそんなことを言い合っている。自分たちの運命が決まる決戦の日だというのに、僕のせいでずいぶんと締まりのない始まりになってしまった。
 なお、キリスト教徒と違って、ムスリムにとっては、精力絶倫はむしろ美徳と考えられているらしく、スィナーンなど根っからのイスラム勢は、もはやいつものことという感じで、彼らからは文句どころか、突っ込みすらもない。

「とにかく、本日はモンゴル軍との戦争となる。
 我々の作戦では、アル=ブンドクダーリーが自ら囮となってモンゴル軍を引き付け、この地にやってきたモンゴル軍に、我々が伏兵攻撃を仕掛けて、モンゴル軍を半包囲する手筈になっている。いつでも戦闘を開始できるよう、各々定められた配置に付くように。
 武士隊は、当面は馬に乗らず、弓の一斉射撃で敵を迎え撃つが、戦況次第では騎乗して敵に攻めかかる。弓矢の他、馬の準備も怠らぬように。スィナーンの部隊は功を焦らず、各自協力して敵を着実に倒すように。余からの注意は以上である。皆の健闘を期待しているぞ」

 僕は、あくまで冷静に指示を伝えた。

 ・・・アイン=ジャールートの戦いは、僕が知っている史実でも存在した戦いであり、戦場もおそらく一緒である。ただし、僕が知っている史実におけるアイン=ジャールートの戦いは、バイバルスと呼ばれる名将が活躍し、せいぜい1万人くらいであったモンゴル軍の先遣隊を、数的優勢にあったマムルーク軍が撃破したという戦いである。
 しかし、今日の戦いはモンゴル軍の先遣隊が約5万、こちらが約3万5千と数的にも劣勢である上、バイバルスと呼ばれる武将もいない。正直言って、勝てる保証は全くないのだが、戦いの前にそんなことを口に出すわけには行かない。
 本来は、僕にとって死も覚悟した悲壮な戦いのはずなのだが、主にイレーネのせいで、そのような戦いとは思えない、なんとも締まりのない始まりになってしまった。
 あと、昨日は色々なことがあり過ぎたせいで、遺言書を書く機会も逃してしまった。・・・今さら気付いても遅いか。死なないように頑張るしかない。


 そして、僕の陣には、ただでさえ締まりのない始まりに、更に締まりのない要素を付け加えてしまう人間がいた。例のテオドラである。
「みかっち、モンゴル軍をおびき出す役なら、このあたしに任せなさい!」
 例のアホの子が、またアホなことを言い出した。
「そんなこと言っても、僕はこの戦いの総司令官では無いし、勝手には決められないんだけど」
「あたしは、マムルークなんかに忠誠を誓ったことはないから、誰の指図も受けないわよ。姑息な伏兵攻撃なんか用意している間に、あたしの術だけでドカーンってモンゴル軍を粉砕して、みんなをあっと言わせてやるんだから!」
「まさかとは思うけど、テオドラ1人で行く積もり? さすがにそれは危険だよ」
「念のため、このレオーネも連れて行くから大丈夫よ。世界一強く美しい、太陽の皇女テオドラ・アンゲリナ・コムネナ様の名前を世界に広める、またとない機会だわ。それじゃあ、行ってくるわね」
 テオドラは、僕が止める暇もなく、本当に一騎だけでモンゴル軍に向かって走り去ってしまった。

「いくらテオドラでも、一騎だけでモンゴル軍に向かって行ったら、さすがに死ぬんじゃないの?」
「その心配はない。もはや神でも、彼女を倒すのは至難の業。あなたと同様に、高い防御力を有するネックレスも装着している。戦死する可能性は低い」
「まあ、それだったら良いけどね・・・」


 テオドラは、前面に展開しているモンゴル軍に向かって、拡声の術を使って堂々と名乗った。
「あたしこそは、世界で最も強く美しい、ローマ帝国の皇女テオドラ・アンゲリナ・コムネナ! 野蛮なだけな取り柄のモンゴル人なんて、あたしの敵じゃないわ! あたしの必殺技、メテオストライクを喰らいなさい!」

 テオドラは、そう名乗りを挙げた上で、モンゴル軍に向かって得意のメテオストライクをぶちかました。相手が並みの軍隊であれば、これだけで混乱に陥ってもおかしくないところであるが、そもそも敵軍を混乱させることに意味があるのは、混乱に乗じて敵軍を切り崩すことのできる味方の軍隊がいるときである。
 そのことを、テオドラはおそらく理解していない。しかも相手は並みの軍隊ではなく、おそらくこの時代では最強クラスの統制を誇る、精強のモンゴル軍である。

「「「あの小娘をひっ捕らえろ~!!」」」

 そんな、モンゴル軍兵士たちの叫び声が聞こえる中、テオドラがわんわん泣きながら、僕の本陣に逃げ帰ってきた。モンゴル軍の精鋭弓騎兵隊は、突然落ちてきた隕石の大群にもさほど動じることなく、テオドラに向けて矢の雨を浴びせつつ、テオドラに迫っている。
 いくら,防御力の高いネックレスを付けていても、大軍に囲まれて捕らえられては一巻の終わりだし、ダメージを受けないと分かってはいても、弓の一斉攻撃をまともに受けるのは、僕であってもさすがに遠慮したい。そんなわけで、テオドラもモンゴル軍に向かって二発目の攻撃を放つ余裕は無く、防御結界の術を使って敵の攻撃を防ぐだけで精一杯となり、やがて敵に囲まれそうになったので、捕らえられないよう逃げ帰るしかなくなった・・・ということのようである。

「みかっち、あのモンゴル人たちが、あたしをいじめるわ~!」
「テオドラ、これは戦争だぞ! 1人で勝手に出て行って、生きて帰れただけでもマシだと思え! テオドラは、一体モンゴル軍を何だと思ってたんだ!?」
「・・・正直、名前だけで、神聖術を使うわけでもないから、大したことない連中だと思っていたのよ」
「そういう驕った連中が、これまでモンゴル軍に叩きのめされて来たんだよ。テオドラは、気分が落ち着いたら戦闘に参加して。君も重要な戦力だからね」
 実際、モンゴル軍に滅ぼされたホラズム王国は、モンゴル軍がこんな遠くまで攻めてくることはないだろうと侮っていた。同じく、モンゴル軍によって滅亡の憂き目にあったクマン族も、ロシアの諸公国も、モンゴル軍の侵攻に対し危機意識に欠け、一致団結してモンゴル軍に対抗することができなかった。
 モンゴル軍に蹂躙されたポーランドやマジャル王国も概ね同様であったと聞いている。テオドラにもこれまで散々言い聞かせて来たのに、実際に戦ってみるまでモンゴル軍の恐ろしさを理解していなかったとは、なんてことだ。


 テオドラの放ったメテオストライクは、大量の隕石が落ちてくる見かけの派手さとは裏腹に、散開しながら進軍していたモンゴル軍に対し、それほどの打撃は与えられなかったらしい。それでも、モンゴル軍はテオドラを追ってアイン・ジャールートの森に向かって突進してきたので、本来アル=ブンドクダーリーが務める予定だった囮としての役割は一応果たし、実際にはほぼこちらの作戦通りに戦闘が始まることになった。
 僕は、陣の手前でモンゴル弓騎兵隊が罠にはまり、動きが取れなくなっているのを見て、弓を持って待機している武士隊に攻撃を命じた。
「武士隊、一斉射撃用意! 撃て!」

 武士隊特有の、射程距離が長い和弓の攻撃に、僕が使う『射撃強化』の術の効果を加えると、その射程と威力はかなりのものになり、敵を貫通することもある。もちろん、命中すれば即死は免れない。
 この術は、弓隊の部隊長であるアンドロニコス・ギドスが考案した術であり、その後ダフネなどにも伝えられて改良が重ねられ、僕が率いる直轄軍の弓攻撃では、広く使われるようになった。僕も、イレーネを通じてこの術を習得している。
 推奨適性70くらいの術なので、三浦雅村や千葉雅秀もやがては習得し使いこなせるようになるだろうが、武士隊はこの世界での生活に慣れるだけで手一杯で、神聖術の習得はほとんど進んでおらず、皆正式には学士号すらも取得していない。
 イレーネには味方の治療や防御などの支援に回ってもらう必要があり、攻撃馬鹿のテオドラはこんな術の習得に興味を示さないので、少なくとも今回の戦いでは、僕がこの術を使うしかない。ちなみに、武士隊にばらばらの射撃ではなく一斉射撃を命じているのは、一斉射撃でないと『射撃強化』によるエンチャントが上手く掛けられない、というのが最大の理由である。

 陣に築かれた土塁の上から、武士隊が僕の命令で一斉射撃を繰り返すたびに、モンゴル軍の弓騎兵隊は着実にその数を減らしていった。モンゴル軍からの弓による反撃は散発的にしか来ないし、それもイレーネが確実に防いでくれている。

 しかし、予め仕掛けていた罠を使い切ってしまい、弓騎兵隊に続いてやってきたモンゴル軍の歩兵が、味方の屍を越えて大量に押し寄せてくると、武士隊の弓攻撃だけでは支え切れなくなった。
 僕は、草薙の剣を振るい、攻め寄せてくる敵にまとめて『麻痺』の術をかけ、併せてスィナーンのアサシン部隊に出撃を命じた。
 スィナーンの部隊は、麻痺して動きの取れなくなった敵兵に、容赦なくとどめを刺していった。その間にも、僕は武士隊に一斉射撃を命じ、遠くの敵を倒し続ける。武士隊の使う矢は大量に用意してあり、女たちがどんどん追加を運んでくるので、矢玉が尽きる心配はない。

「みかっち、相変わらず、せこい戦い方をしてるのね」
「効率的な戦い方と言ってもらいたいね。この草薙の剣は、範囲攻撃の神聖術を掛けるのに便利なんだ」
 テオドラと喋っている間にも、僕は武士隊による一斉射撃の指揮を続けている。
「範囲攻撃なら、麻痺なんか使わないで、一撃で敵を倒す術を使えばいいじゃない」
「そういうのは、消費魔力が大きいから、あまりやりたくないんだけど、一応こんなのもあるよ」

 僕が草薙の剣を一閃すると、唐突に多くの敵がバタバタと倒れて行った。その間にも、僕はもう1回武士隊の一斉射撃を命じ、彼らの放つ矢に『射撃強化』の術を掛けていた。
「・・・今の術は何?」
「今のは『熱風』の術。以前、テオドラに教えてもらった『暖房』の術をアレンジして、70度くらいの熱風を敵に叩きこむ。これだけでも、普通の人間を殺すには十分だ。大量の人間を効率よく始末するには、火炎や爆発より、こちらの方が効率が良い」
 ちなみに,『暖房』の術は細かい温度調整などを行う必要があるので、推奨適性が80くらい必要になるが、単に敵を殺すだけの『熱風』にそのような配慮は必要ないため、正確な推奨適性値を計算したことはまだないが、おそらく適性70くらいでも十分使える。それでも、推奨適性60の『麻痺』に比べると消費魔力が大きいので、何回使うことになるか分からない今回の戦いでは、あまり連発したくないのだ。
「効率だけでものを考えるのはどうかと思うわ。やっぱり見た目の格好良さも大事よ」

 僕はまた武士隊に一斉射撃を命じた後、テオドラにこう返した。
「僕は忙しいんだから、喋ってる暇があったらテオドラも戦闘に参加して。この辺は僕で十分だから、テオドラは左のアル=ブンドクダーリー隊と、右のカラーウーン隊を支援してあげて。味方を巻き込まなければ、使う術は何でも構わないから」
「はーい」

 術の使用は概ね他の術士たちに任せ、僕自身は総司令官としての仕事に徹することのできた摂政時代と異なり、今回の戦いでは手持ちの兵士数が少ないこともあり、僕自身も術を使いまくらないと、戦線が持たない。テオドラと雑談をしている余裕もなければ、全体の戦況を把握する余裕も無いのだ。
 なお、イレーネは僕に指示されるまでもなく、出撃しているスィナーン隊や、隣接するアル=ブンドクダーリー部隊、カラーウーン部隊の治療や支援をしてくれている。性欲過剰な点以外は本当にいい子で、戦力としての使い勝手も、テオドラよりはずっと良いのだ。


 僕は、『射撃強化』の術で武士隊による一斉射撃の射程や威力を強化し、その間に草薙の剣で敵軍に麻痺の術をかけまくった。草薙の剣は、それ自体強力な武器であると同時に、本来単体攻撃の術である『麻痺』の術を、比較的低い魔力で範囲攻撃に変化させることができる便利な神具である。テオドラが余計なことをしたせいで偶然手に入れた武器だけど、今回は持っていて助かった。
 遠くの敵には武士隊の一斉射撃で攻撃し、陣の近くに来た敵は、スィナーンのアサシン部隊が確実に始末する。負傷者が出たらイレーネが即座に治療する。イレーネのスペックであれば、このくらいの規模の戦いで味方の死者を出すことはまずなく、隣のアル=ブンドクダーリー隊やカラーウーン隊を支援する余裕もある。
 そしてテオドラも、さすがにメテオストライクはあまり効果がないことを悟ったのか、エクスプロージョンでモンゴル軍を吹き飛ばしてまわり、友軍を援護した。
 そして、1時間ほどが過ぎると、不意にモンゴル軍の攻撃が止んだ。隣のアル=ブンドクダーリー部隊や、カラーウーン部隊への攻撃も、ほぼ同様に止んだようだ。

「みかっち、この辺には敵がいなくなったわよ」
「分かった。武士隊、撃ち方やめ! スィナーン隊も、一旦陣に撤収!」
 こうして、僕の部隊はようやく一息つくことができた。

「殿、モンゴル軍は、攻撃を諦めて撤退していったのでしょうか?」
 三浦雅村がそう尋ねてくるも、
「余にも分からん。戦場が森なので、いまいち全体の戦況が掴めない。特に伝令とかも来ないし」
 僕は、ひとまずそのように答えるしかなかった。

 とは言え、僕も全体の戦況は気になる。こういうときに頼れるのは、独自の高度な検索能力で、頼めば何でも調べられるイレーネしかいない。
「イレーネ、今の戦況を君の術で調べてくれる?」
「・・・現在、モンゴル軍の死者11,238名。我が軍の死者12,698名」
「明らかにこちらの劣勢じゃないか! うちの部隊はイレーネのおかげで死者ゼロだし、隣接するアル=ブンドクダーリーやカラーウーンの部隊もさほどの被害を受けたようには見えないけど」
「こちらの軍は、左翼がほぼ壊滅状態にある」
「・・・なるほど、そういう事か」
 イレーネの答えを聞いて、僕はようやくモンゴル軍の意図を察することが出来た。

「殿、何か分かったのですか?」
「モンゴル軍は、我が軍への攻撃を諦めて撤退していったのではない。おそらく、こちら側の守りが堅いのを見て、ここから離れた我が軍の左翼に、攻撃を集中させているんだ。
 もともと、左翼を守っている将軍たちは、モンゴル軍を恐れて出撃自体に反対していた連中で、士気も低い上に、ここから遠いこともあって、テオドラやイレーネが支援する余裕もない。それで、左翼だけが壊滅状態になっているのだと思う」
「そうなると、我々はどうすれば?」
「左翼が崩壊すれば、我々はやがてモンゴル軍に包囲殲滅されてしまう。かくなる上は、出撃して左翼の救援に向かうしかない。武士隊は全員馬に乗り、持てる限りの矢玉を持ち、出撃の準備をして下知を待て」
「畏まりました!」
 僕の命令を聞いた三浦雅村の指揮で、武士隊は出撃準備を整えていった。

「殿下、我々はどうすれば?」
「スィナーン隊も、出撃の準備をしつつ、ひとまず待機。左翼の救援に向かうのであれば、アル=ブンドクダーリーや、カラーウーンの部隊とも連携する必要がある」
 僕は、この戦いでは千人あまりの軍を率いる小部隊の長に過ぎず、自分の持ち場を守るだけならともかく、出撃するのであれば、他の部隊と連携しなければ身動きが取れない。わずか千人規模の部隊だけでモンゴルの大軍に突撃するのは、さすがに自殺行為である。

 ・・・ややこしい。僕が全軍の指揮を執れる、僕の鍛え上げた直轄軍であれば、こんな連中に負けはしないのに。
 テオドラではないけど、実際のモンゴル軍と称する連中のうち、最精鋭のモンゴル出身弓騎兵はそんなにおらず、しかも戦場に森を選んだことで、モンゴル弓騎兵の実力は削がれた。
 それ以外の兵士たちは、モンゴル帝国に従属した諸国の兵士たちに過ぎず、僕の直轄軍に比べても特に精鋭というわけではなく、神聖術などを使う様子もない。ただ、数が多いのと、兵士の使い方が若干上手いだけだ。今の戦闘が劣勢になっているのは、モンゴル軍が強いからというよりは、むしろ味方が弱いからである。
 実際に戦ってみて、モンゴル軍の実力が思ったほどではないことに気付いただけに、僕にとっては尚更、今の戦況がもどかしかった。


 間もなく、隣のアル=ブンドクダーリー部隊から、伝令がやってきた。
「アッザーヒルではないか。どうした?」
「はい。我が軍の左翼が壊滅状態にあり、スルタンのクトゥズは自ら、兜を脱いで味方を鼓舞し、自らの部隊を率いて左翼に救援に向かいましたが、それでも苦戦しているようです。我が主人のアル=ブンドクダーリーは、出撃して左翼の救援に向かうため、ミカエル様の部隊もご協力をお願いしたく存じます」
「分かった。出撃の準備は、ほぼ整っている」
「では、私はカラーウーン様の部隊にも、知らせて参りますので、これで失礼いたします」

 武士隊と、スィナーンのアサシン部隊は既に出撃可能。テオドラも、馬に乗れるのでOK。非戦闘員の女たちはここに残ってもらうとして、問題はイレーネだな。イレーネは馬に乗れないけど、能力的には、ここで留守番をさせるにはあまりにも惜しい。
「イレーネ、やっぱり馬に乗るのは、どうしても無理?」
「あなたに抱っこしてもらえば、乗ることも可能」
「・・・抱っこって、そんなことをしたら、僕の両手が塞がって、戦うどころではなくなるんだけど」
「この抱っこひもを使えば、問題ない」
「そんなもの、どこで用意していたの?」
「こんなこともあろうかと思い、他の女たちに作ってもらった」
 ・・・変なところで用意周到だな。

 それでも、迷っている暇はないので、僕は仕方なく、イレーネを抱っこしながら馬に乗り、抱っこひもでイレーネの身体を、僕の身体に縛り付けた。
「みかっち、何よその格好。戦闘中なのに、イレーネといちゃつくつもり?」
「イレーネが、自分一人だと馬に乗れないから、仕方ないんだよ」
 僕だって、出来れば戦場でこんな格好をしたくはない。見栄えは悪いし、イレーネと密着していると、女の子の匂いで子作りがしたくなるし。それでも出撃にあたり、高度な治癒や防御の術を使える貴重な術士である、イレーネを欠くわけには行かなかった。

「出撃!」
 僕は、配下の兵士たちと共に、馬に乗って出撃した。僕とテオドラ、約500人の馬に乗った武士隊が先行し、スィナーン率いる歩兵のアサシン部隊がこれに続く。アル=ブンドクダーリーとカラーウーンの部隊は、僕の部隊より数は多いけど歩兵が中心なので、僕と武士隊が最も先行することになる。

 そして間もなく、我が軍の左翼を攻撃している、モンゴル軍の大軍に遭遇した。
「テオドラは、敵に向かってエクスプロージョンを連打して。僕は、『熱風』と武士隊の一斉射撃で、モンゴル軍を側面攻撃する」
「分かったわ」
 僕たちの攻撃で、モンゴル軍の攻勢は確実に鈍り、その間にアル=ブンドクダーリーや他の歩兵隊も追いついてきたのだが、ここで凶報が入った。

「スルタン・クトゥズが、モンゴル軍に討ち取られました!」
 伝令らしき兵士が、そんな知らせを僕たちに告げてきた。

「・・・遅かったか」
 総司令官が討ち取られては、マムルーク軍は総崩れになるしかない。ここまで前進してしまった後では、安全にカエサリアまで撤退するのも難しい。僕が2度目の敗北、そして死をも覚悟したそのとき、アル=ブンドクダーリーが、凄まじいほどの大音声で、全軍に向かってこう叫んだ。

「イスラームの民よ! スルタンの犠牲を無駄にするな! このアル=ブンドクダーリーに続け!」

 その一声で、少なくともアル=ブンドクダーリーの部隊とカラーウーンの部隊は戦意を取り戻し、虎のような勢いで敵軍に突撃していった。しかし、彼らの部隊は合計1万にも満たない。他の部隊も頼りにできない状況下では、この劣勢を跳ね返してモンゴル軍に勝つには、彼らの奮戦だけでは到底足りない。

「テオドラ、こうなったら最後の切り札だ。レオーネにも働いてもらおう」
「レオーネに何をさせる気よ?」
「元のサイクロプスの姿に戻して、モンゴル軍に突撃して暴れてもらう。突然あのサイクロプスが現れれば、モンゴル軍は確実に混乱するだろう。その混乱に乗じて勝機を探る。僕らがこの戦場で生き残るには、もはやそれしか策はない」
「・・・分かったわ」

 テオドラは、変化の術でレオーネを巨人サイクロプスの姿に戻し、元の姿に戻ったレオーネは、意気揚々と敵に向かって突進し、僕の思惑どおり、勝ち誇っていたモンゴル軍を大混乱に陥れた。
 そこまでは良かったのだが、

「我こそは、音に聞こえた魔人テオドラである。我の力、とくと見るがいい」

 レオーネは、そんな大声を上げながら、火炎や雷撃を発して暴れ回っていた。

「なんで、レオーネが勝手に、あたしの名前を名乗ってるのよ!?」
「・・・たぶん、日頃自分を虐待しているテオドラに対する、せめてもの仕返しのつもりじゃない?」
 レオーネだって一応下級神であり、もちろん馬鹿ではないから、この地方の人々がテオドラを一つ目の巨大な魔人と勘違いしていることは認識しているはずである。そこへ自分の出番がやってきたので、その噂をさらに広め、自分を邪険に扱うテオドラを困らせてやろうという魂胆だろう。

「・・・レオーネの奴、この戦いが終わったら折檻してやるんだから」
 自業自得という言葉を知らないらしいテオドラは、一方的にレオーネに向かって腹を立てている。折檻するといっても、レオーネに対していつもやっていること自体がほぼ折檻だから、これ以上折檻のしようがないだろうに。
 テオドラが、最近僕に暴力を振るわないのは、イレーネにもらったネックレスのせいで攻撃が弾き返されてしまうからに過ぎず、テオドラはレオーネに対してもティムに対しても、普段から暴力的に接している。そんなんだから、『テオドラ被害者の会』の会員が増えて行くのだ。


「まあ、その話は後でするとして、あとはこの混乱に乗じ、モンゴル軍の総大将ケド・ブカを討ち取ることだ。そうすれば、さすがのモンゴル軍も総崩れになるはず」
「・・・ケド・ブカは、この前方2キロメートル先にいる」
 僕に抱っこされているイレーネが、僕にそう教えてくれた。
 僕とテオドラは、術などで混乱しているモンゴル軍を蹴散らしつつ、イレーネの指差した方向に進軍し、やがて目立たないところで、兵士たちに指示を与えている人の姿を見掛けた。

「あれがケド・ブカ? あんまり、総大将って感じには見えないけど」
「モンゴル軍では、総大将は先頭に立って戦うのではなく、ああやって目立たないところで指揮を執るのが常なんだ。だから、総大将を探すのが難しいんだよ」
 逆に、こちらのスルタン・クトゥズは、いかにも総大将らしい格好で、しかも自ら兜を脱いで敵に突撃するという、敵軍にとって分かりやすいことをしてしまったから、モンゴル軍に集中攻撃されて命を落としてしまったのではないかと思う。

「居場所さえわかれば、あとは討ち取るのみ! 喰らえ!」
 僕は、敵将ケド・ブカに向かって、サイドスローで『風魔』を投げ込んだ。今回の『風魔』は、軌道に変化こそ付けないが、周囲にかまいたちを発生させる効果を付与している。『風魔』は超高速で敵に向かって飛んでいき、敵将ケド・ブカらしき者と、その周囲にいた兵士たちをなぎ倒し、僕の許へ戻ってきた。
 僕はすかさず、『拡声』の術を使ってこう叫んだ。

「敵将ケド・ブカ、このアル=ブンドクダーリーが討ち取った!」

「・・・討ち取ったのは、みかっちじゃないの? それに、あれが本当のケド・ブカかどうか、まだ分からないじゃない」
「いいんだよ。たとえ嘘でも、司令官が死んだとの噂が流れれば、敵は総崩れになる。それに、この戦いは、ダーリーをエジプトのスルタンにしてやるための戦いだ。僕が出しゃばるところじゃない」
 僕の目的は、有能かつ僕に友好的な人物をエジプトのスルタンに据え、シリアとエジプトをモンゴル軍に対する防波堤として機能させることだ。そのためには、スルタン候補であるアル=ブンドクダーリーに花を持たせてやらねばならない。全く国情の異なる、ビザンティン帝国とシリア、エジプトを僕1人で治めるのは無理があるし、僕にはシリアやエジプトを征服する意思は無い。


 そんな僕の思惑をよそに、間もなくモンゴル軍は一挙に戦意を失い、撤退を始めた。この様子をみる限り、僕が討ち取ったのは、おそらく本物のケド・ブカだったのだろう。
「追撃だ! モンゴル軍を、一兵たりとも生かして帰すな!」
 その後の僕は、テオドラや武士隊と共に、逃げるモンゴル兵を追撃し、片っ端から殺して回った。

 実はこれにも、僕の計算に基づく理由がある。モンゴル軍の残兵がどれほど残っているかは分からないが、モンゴル軍の多くを生かして帰せば、彼らはまた体制を立て直し、攻め込んでくる可能性がある。
 しかも、今回戦っているモンゴル軍は先遣隊に過ぎず、その後ろにはフラグ率いる20万以上の本軍が控えている。フラグの本軍が、同じモンゴル系である北方のジョチ・ウルスや東方のチャガタイ・ウルスと反目し、現在のところは身動きが取れない状態であるとしても、状況次第ではフラグ率いる本軍がシリアやエジプトに進出してくる可能性もゼロではない。
 一方、マムルークの軍はスルタンのクトゥズが戦死し、他にもかなりの犠牲者を出しているので、アル=ブンドクダーリーがスルタンに即位したとしても、態勢を立て直すには時間がかかるはず。これらの事情を考慮すると、今回の戦いでは単にモンゴル軍を敗退させるだけでは足りず、モンゴル軍の先遣隊を出来れば全滅させて、少なくともモンゴル軍が当分の間、シリアやエジプトに手を出せないよう時間稼ぎをする必要があるのだ。

 そんなわけで、僕は逃げようとするモンゴル兵たちを追撃し、何としても殲滅する必要があった。歩兵であるスィナーンの部隊には特に指示を出していないが、おそらく彼ならばいちいち命令されずとも、逃げ遅れたモンゴル兵たちを始末して回っていることだろう。追撃に最も役立つのは、やはり機動力に優る騎兵であり、マムルーク軍には騎兵があまりいないので、僕たちが頑張るしかないのだ。
 そんなわけで、僕は主に草薙の剣を使った『熱風』で、テオドラは主にエクスプロージョンで、武士隊たちは当初弓矢で、矢玉が尽きると刀で、それぞれ逃げる敵を追い回し、容赦なく殺して回った。もはや、他のことを考える余裕は無かった。


 やがて夕刻になり、モンゴル軍の姿もほとんど見えなくなった。
「術の使い過ぎで、そろそろやばい。ひとまず、陣に戻ろう」
「・・・あたしも、そろそろ限界ね」
 僕たちは、唯一余力を残しているイレーネの術で、レオーネを猫の姿に戻し、配下の武士隊とスィナーンのアサシン隊が全員無事であることを確認すると、そのまま自分たちの陣へ戻った。


 世界暦6754年9月3日。僕の知っている史実の戦いよりおそらく6年早い、この世界におけるアイン・ジャールートの戦いは、こうした形で幕を閉じた。
 おそらく、戦いには勝ったのだろうけど、この時の僕には勝ったというより、何だかよく分からないが、一応助かったらしいという感覚しかなかった。
「・・・皆の者。おそらく我々の勝ちだから、今夜と明日はゆっくり休んでよい。子作りをする余力のある者は、好きなだけして構わない。では解散」
 僕だけでなく、武士隊やアサシンの面々も丸一日の激闘でかなり疲労しており、勝鬨を挙げる気力すらも残っていないようであった。

第13章 英雄バイバルスの誕生

 戦いが終わった夜と、その翌日を、僕はイレーネと一緒に過ごした。
「・・・今夜って、テオドラの日じゃなかったっけ?」
「彼女は、疲労のため今日の相手を私に譲ると言ってきた。問題はない」
「・・・僕も疲れているんだけど」
「あなたが、適切に疲労を回復するには、子作りにより性欲を満たすことも必要。あなたが、以前サイクロプスとの戦いで疲労したときにも、療養中はずっと私が付き添っていた」
「・・・そうだったっけ?」
 昔のことなので、あんまりよく覚えていない。

「そう。あなたが気付いていなくても、あなたが他の女性に夢中になっていても、私はあなたの性奴隷として、あなたの性的欲求を満たし続ける。それが私の役割。あなたは寝ているだけでいい」
 イレーネって、そんなにしてまで、どうして僕に尽くしてくれるんだろうと一瞬思ったが、このときの僕は疲れすぎで、深く考える余裕は無かった。
「・・・分かった。任せる」
 確かに、僕は疲れまくっているけど、下半身だけは物凄く滾っていて、子作りはものすごくしたい。そんな今の僕にとって、寝ているだけで勝手に気持ち良くしてくれるイレーネは、むしろ有難い存在だった。
 僕は、イレーネと繋がったままで、いつの間にか眠りに就いていた。


 その翌日。僕は、まだ頭がボーっとしている。
 そんな僕に、イレーネがもはや見慣れた感のある、銀色に光るクリスタルのようなものを差し出してきた。ただし、今回は結構数が多い。
「あなたに、神聖結晶が8個届いている」
「ずいぶん多いね。それに、この戦いは、星3つではなかったと思うけど」
「この戦い全体では、私たちの側が死者18,492人、モンゴル軍側の死者が48,311人。味方の犠牲者も多く、逃走に成功した敵兵も2,146人いるため、もちろん完全勝利ではない。
 しかし、この戦いでは、あなただけでも10,428人,部隊全体では26,538人もの敵兵を殺し、戦いの勝利に決定的な役割を果たし、しかもあなたの部隊からは1人の死者も出さなかった。あなたの戦いぶりは、充分奇跡と認定するに値する。

 もっとも、殺した敵兵の数だけから判定すれば、結晶4個程度が相当だが、あなたは戦いの中で、アル=ブンドクダーリーを次のスルタンに就けるよう配慮し、イスラム世界を滅亡から救うのに大きな役割を果たした。そうした歴史的業績は、奇跡として特別な評価に値するものと判断された」
「神様も、結構色々考えてくれているんだね。これで、僕の適性は・・・98になるのか。そういえば、テオドラには結晶の授与は無いの?」
「彼女は、あなたの部隊の一員として合計5,856人の敵を殺したが、無意味な独断先行や魔力の無駄遣いが多く、彼女の能力に照らし、奇跡を起こしたとまではいえないと判断された」
「・・・テオドラは、今確か適性100だから、僕の適性は、もう少しでテオドラを越えてしまうことになるのか。あの子、適性が一番高いことを自慢の種にしていたから、もし真実を知ったら、さぞ傷つくことになるだろうね」
「私も、そうした事情を考慮した上で、彼女には真実を知らせないようにしている」

「そうか。でも、今回は結果的に勝ったとはいえ、最後の切り札であるレオーネまで投入して、僕やテオドラも倒れる寸前くらいまで術を使いまくって、本当に危ない戦いだった。スルタンのクトゥズをはじめ、味方の犠牲者も多かったし、出来れば、こんな危ない戦いは、二度とやりたくないよ。相手がケド・ブカの先遣隊ではなく、フラグ率いる本軍だったら、僕も確実に死んでたと思う」
「・・・このような戦いを避けられるかどうかは、あなたの努力と運次第」

 普段なら、『精力回復』の術などを使って、1日中となれば30回は子作りをせがむイレーネも、この日ばかりは自重してくれて、僕は程よくイレーネとイチャイチャしながら、心地よい1日を送ることが出来た。いつもこのくらいなら、僕にとっては丁度良いんだけど、イレーネは時々僕の前でオナニーしたりしているので、本当はもっとしたいのを我慢してくれているんだろう。
 そして、眠るときは、再びイレーネと繋がったまま眠りに就いた。


 決戦の終わった翌々日。ようやく体力と気力が全快した僕の陣営に、アル=ブンドクダーリーやカラーウーンをはじめとする、他の軍幹部たちが挨拶にやってきた。
「これは皆様方、揃って何の御用ですか?」
「我々は協議の結果、我が主人アル=ブンドクダーリーを、次期スルタンに擁立することと致しました。そこで、最大の功労者であるミカエル殿に、こうして挨拶に参った次第です。ただ勝利に貢献しただけでなく、敵将ケド・ブカを討ち取った功績まで我が主人に譲ってくれたミカエル殿に挨拶も無しでは、あまりにも礼を欠きますからな」とカラーウーン。
「分かっていたのか」
「そのくらい、我々にも分かりますとも。実は、昨日も参ったところ、ティムという少年が応対してくれまして、ミカエル殿やその兵士たちは皆疲れ切っていたご様子で、その多くが女と戯れながら休息中とのことでしたので、邪魔をしてはいけないと思い、日を改めて参上した次第でございます」
「・・・それはどうも」
 なんか、顔から火が出るくらい恥ずかしいんだけど。
 ちなみにティムは、戦闘自体には参加していなかったが、矢の補給といった後方支援で活躍し、『ファイト!』を歌いながら兵士たちを励ましてくれていた。昨日ティムがカラーウーンたちに応対したのは、おそらく応対できる者が他にいなかったためだろう。

「ミカエル。戦場では豪快に敵を倒し、勝った後でたっぷり女を抱くとは、むしろ誇るべきイスラムの戦士だ。何も恥じることは無い」
 アル=ブンドクダーリーにそう励まされて、僕はようやく気を取り直した。
「アル=ブンドクダーリー。僕も、君の死を恐れない勇敢な戦いぶりに励まされ、何とかこの戦いを勝利に導くことが出来た。クトゥズ亡き今、ミスルのスルタンが務まる者は、おそらく君をおいて他にいないと思う。僕も、君のスルタン即位を祝福するよ」
「ミカエル。俺も、ルームの皇帝が務まる者は、お前以外にいないと思う。俺は、これからカイロに凱旋し、正式にスルタンに即位するつもりが、即位を果たした暁には、ミカエルの帝国とも協力関係を築いていきたい。
 この戦いの褒賞として、カエサリアをミカエルの領土とすることについても、少なくとも我々の間では異存はない。むしろ、それだけでは足りないくらいだ。ミカエルが、将来ルームの皇帝になったら、ルームとわが国は同盟し協力関係を築いていきたい。今後ともよろしく頼む」
「ダーリー。それは僕も同じ思いだ」
 僕と、アル=ブンドクダーリーは、がっしりと握手して、将来の協力関係を誓い合った。

「ちょっと待ちなさい!」
「どうした、テオドラ」
「アル=ブンドクダーリー! あんたがスルタンに即位するなら、弓兵なんかじゃなくて、もっと格好良い名前を名乗るべきだわ。このあたしが、あんたにとっておきの名前を考えてあげたのよ。感謝しなさい!」
「ああ、テオドラの考えていた名前を、ここで発表してくれるわけね」
 あとテオドラ、やっとアル=ブンドクダーリーの名前を覚えたのか。えらいえらい。
 ・・・新しい名前が採用されたら、もう要らなくなってしまう名前だけど。

「あんたの戦いぶりは、イレーネを抱っこしながら戦っているみかっちと違って、まるで虎のように格好良かったわ。その戦いぶりにちなんで、これからは虎の首領、バイバルスと名乗りなさい!」
「バイバルスですか。まさしくスルタンに相応しい、良い名前ですな」とカラーウーン。
「テオドラ殿、その名前、有難くもらっておくぜ。今日から俺は、ミスルのスルタン、バイバルスだ!」

 僕は、この会話を聞いて、初めて気付いた。エジプトをモンゴル軍から救った英雄にして、マムルーク王朝第5代スルタンになったバイバルスとは、他ならぬアル=ブンドクダーリーのことだったのだ。そうであれば、バイバルスの側近で、その死後第8代のスルタンになった、カラーウーンという名前の武将が副将として仕えているのも、ある意味当然のことである。
 今までの僕は、なぜバイバルスはいないのにカラーウーンはいるのか、というところで引っ掛かっていたのだ。史実でどうだったのかは詳しく知らないけど、この世界ではバイバルスがモンゴル軍を破ったのではなく、アル=ブンドクダーリーがモンゴル軍を打ち破ったことによって、イスラムの英雄バイバルスとなったのだ。

「バイバルス、僕はこれからカエサリアに戻るが、君の健闘を期待している。君であれば、ミスルとシリアを、モンゴル軍に負けない、強力な国にすることができるだろう」
 僕は、確信をもってそう言えた。史実におけるバイバルスは、アイン=ジャールートの戦い以後も連戦連勝を重ね、マムルーク王朝の基礎を築き、同王朝の実質的な初代スルタンとまで言われている人物である。彼こそがあのバイバルスだというのであれば、この世界でも立派なスルタンとして、ミスルやシリアを統治できるだろう。

「ありがとう、ミカエル。ところで、テオドラ殿は、俺のことを虎のようだと評していたが、俺に言わせれば、ミカエルの戦いぶりは、むしろ魔王のような凄さだった。女の子を抱っこしながら戦っているなんて、全然気にならなかったぞ」
「私も、ミカエル殿の戦いぶりを見て、この人だけは決して敵に回してはならない男だと、自覚致しました」とカラーウーン。
 気が付けば、他の将軍たちも何となく、僕を恐れるような目で見ていた。

「バイバルスも、カラーウーンも、他の将軍たちも、僕の戦い方って、そんなに凄かった?」
「それはもう、はっきり言って人間技じゃなかったぜ。ミカエルが不可解な術を使って、『ぬわははは、敵を野末の土に変えてくれるわ、者ども続け!』とか高笑いを上げながら、逃げるモンゴル軍を容赦なく殺しまくる姿を見て、俺はむしろ、無惨に殺されていくモンゴル軍の連中が気の毒に思えてきた」
「普段はそのようなお姿なのに、ミカエル殿がなぜ第六天魔王などと呼ばれ、広く恐れられているのか、よく分かりました」とカラーウーンも同調する。
 そう言われれば、調子に乗ってモンゴル軍を追い回している最中に、ノリでそんなことも口走ったかも知れない。それと、第六天魔王っていう僕のあだ名、この辺でも伝わっているのか。発祥は仏教用語で、イスラム世界では意味もよく分からないだろうに。

「そうだった? 僕は夢中になって戦っていただけだから、あんまり自覚はなかったけど」
 敢えて思い当たる節を挙げると、僕は性欲を我慢した状態だと、好戦的で凶暴になる性質がある。以前、マリアとの子作りを2日に1度だけに自制したところ、僕は欲求不満が昂じて凶暴な性格になり、マジャル王国にまで戦争をふっかけてしまい、後から考えるとあれはやりすぎだったなと反省したことがある。先日の戦いも、かなり欲求不満気味で、抱きかかえているイレーネと子作りしたいのを我慢しながら戦ったから、容赦なく凶暴になれたのかも知れない。
 ・・・まあ、理由はどうあれ、今後のことを考えると、恐れられていた方が僕にとっては得か。そう思い直した僕は、この問題についてこれ以上追及しないことにした。


「ところで、危ないところで俺たちを助けてくれた、魔人テオドラはどこへ行ったんだ?」
「ああ、それならここにいるよ」
 バイバルスの問いに、僕はテオドラの肩に乗っかっているレオーネを指差し、そう答えた。当のレオーネは、テオドラに相当激しく折檻されたらしく、ぐったりとしている。
「やっぱり、テオドラ殿が変身して、あの魔人テオドラになるのか?」
「違うわよ、バイバルス! 勝手な風評被害を広めるんじゃないわよ!」
 テオドラが文句を言いながら、レオーネの頭をぐりぐりする。さらなる折檻を受けたレオーネが、悲鳴じみた鳴き声を上げた。何はともあれ、レオーネのおかげで助かったんだから、もうそのくらいで許してやればいいのに。

 一応、僕は誤解を解くため、バイバルスたちに説明した。
「そうじゃなくて。その、テオドラの肩に乗っかっている猫が変身したんだよ。正体は下級神のサイクロプスで、普段はその姿でテオドラに飼われて、レオーネという名前を付けられているけど、いざという時には、先日のように正体を現して、自ら戦うこともできる。魔人テオドラとか名乗っていたのは、単なるレオーネの冗談だよ」
「・・・どうして、テオドラ殿はそんなものを飼われているのか?」
「それはあたしが、圧倒的な力でこいつを屈服させて、あたしのペットにしたからよ」
 テオドラが、自身満々でそう言い放ったところ、バイバルスたちは一様に冷や汗を浮かべた。

「・・・やはり、魔人テオドラ伝説は、本当の話だったようですな」とカラーウーン。
「・・・俺も、テオドラ殿の姿が、あの魔人に見えて来たぜ」とバイバルス。
「なんでよー!!」
 テオドラが抗議したものの、バイバルスたちは僕の説明を正しく理解できなかったのか、どちらにせよ同じことだと考えたのか、結局テオドラのことを「凶暴な魔人」と認識してしまったようである。どうやら、テオドラのレオーネに対する折檻は、残念ながらもうしばらく続くことになりそうだ。

 その一方で、バイバルスはレオーネを見ながら、こんなことも呟いていた。
「だが、その猫のようにも、小さなライオンのようにも見える奴が、俺を助けてくれたのか。俺がスルタンになったら、そいつの姿を俺の紋章にしようかな」
 そう言われれば、レオーネは先代レオーネと同じ、小さなライオンのように見える品種の猫に変身させられているからね。正確に何という品種かは知らないけど。
「まあ、その辺はご自由にどうぞ」
 その結果、バイバルスが本当にレオーネの姿らしきものを自らの紋章として採用してしまい、そのことを知った僕は驚かされることになるのだが、これはしばらく後の話である。


 バイバルスたちとの話はそのくらいで終わったが、僕やテオドラのことを恐れていたのは、僕の部下たちも同じだった。
「私は、殿やテオドラ様が、まさかあそこまで、恐ろしいお人だとは思っておりませんでした。殿に付き従って戦っていた時も、冷や汗が出ておりました」と語ったのは、三浦雅村。
「俺も、殿を敵に回さなくて、本当に良かったと思ってるぜ」と千葉雅秀。
「今では、本当に恐ろしいものは、モンゴル人よりむしろ殿下だと思います」とスィナーン。
「・・・そういえば、君たちに僕の戦いぶりを見せるのは、今回が初めてだったね」
 以後、彼らは僕を本気で畏れるようになり、僕をからかうようなことは無くなった。もっとも、以前は僕と兄弟のように接していた武士たちに、やや精神的な距離を置かれるようになってしまったのは、少し寂しい気もする。

「ともあれ、戦いが終わった以上、これ以上ここにいる理由はない。カエサリアに撤収しよう」
 僕は、バイバルスたちに別れを告げた後、イレーネに作ってもらっていた臨時の移動拠点で、配下の兵や女たち共々、即日カエサリアに帰還した。

第14章 偽りの使者

 カエサリアに帰還した僕たちは、そこでようやく自分たちは戦いに勝って、しかも全員生きて戻ってこれたのだと自覚することができ、今更のように勝鬨を上げた。
「我々は勝ったのですね! あのモンゴル軍に勝ったのですね!」と三浦雅村。
「一時はどうなるかと思ったけど、気が付いたら勝ってたって感じだよな」と千葉雅秀。
「・・・8割9割方は、我々というより殿下のおかげですがな」とスィナーン。
「それほどのことはあるまい。そなたたちと、テオドラやイレーネがいなければ、余だけの力でモンゴル軍を撃退できたとは思えんよ」

「いえ、殿下。兵士たちは、優れた将がいてこそ、力を発揮できるのです。私とその配下の兵は、併せて2000人以上のモンゴル兵を倒しましたが、かつて私が仕えていた、ヌクルッディーンのように臆病な将の下では、我々はモンゴル兵を倒すどころか、ろくに戦うことすら出来ませんでした。兵士たちの功績は、優れた将あってのものでございます」とスィナーン。
「そう言えば、私の父である三浦泰村も、武術には秀でていたものの、将としての才覚や政治感覚にはあまり優れておらず、結果として三浦家を滅ぼしてしまわれたと、盛時様から窺っております。私も殿下を見習って、少しでも優れた将にならねばなりません」と三浦雅村。

「五郎、そんなことを盛時殿から言われたことがあるのか?」
「はい。私の父は、いまいち優柔不断なところがあり、三浦一族を上手くまとめることができず、それゆえ盛時様は、宝治初年の戦いの折、父の側に参戦せず、自ら北条方に付くことで三浦家を残すことにしたと仰っておりました」
「俺の親父は、五郎の親父よりはまともだな。俺の親父は、五郎の親父ほど有名な武士では無かったが、北条勢が攻めてくると、それまで不仲だった兄貴の許に駆け付けて、共に戦って自害して果てた。少なくとも、優柔不断では無かったはずだよ」と千葉雅秀。
「そういえば、そなたは千葉秀胤殿の甥とは聞いていたが、そなたの父のことは聞いていなかった。父上は何という名前であったのか?」
「死んだ俺の親父の名前は、通り名を下総次郎、正しくは千葉時常といった。秀胤公の弟にあたる」
「そうか。初めて聞く名前だが、さぞ勇敢な武者であったのだろうな」
 ・・・千葉時常か。今度現代日本へ帰ることがあったら、ググっておこう。

 一方、雅村の方は反論できず落ち込んでいたので、僕が励ますことにした。
「五郎。余とて、生まれたときから迅速果断であったわけではない。そのような国へ連れて来られ、生き残っていくには、そうなるしかなかったのだ。余も、つい2、3年ほど前は、皇帝になどなりたくないと思い、逃げることしか考えていなかった。そのために、多くの者たちを無為に死なせてしまった」
「左様でございますか? 私は、才覚に優れ、鬼神のように剛毅果断な殿しか、拝見したことがございませんが」
「余とて、もとよりそのような男ではない。今でも苦労して、そのように見せ掛けているだけだ。人は、最初のうちは心が弱くとも、努力すればそれなりに成長して行けるものなのだよ。少なくとも、父に出来なかったことが自分には出来ないと、最初から諦める必要は無い」
 本当に、現代日本では、クラスメイトの女の子を口説くことさえ苦戦しているような僕が、この国では何て偉そうなことをほざいているんだろう。僕が雅村に語った言葉は、そんな自分を励ましているようでもあり、自嘲しているようでもあった。


 その数日後、僕は留守を任せていたアル=マンスールという代官と、今後の方針について協議した。なお、アル=マンスールは、今まで名前こそ出さなかったが、カエサリアを治めていた前太守の部下の1人で、これまで一貫して、僕のカエサリア統治に協力してきた人物である。年齢は30代くらい、諸学問に優れ、部下を統率する力もあり、なかなかに有能な人物だ。
 アル=マンスールは、前太守のもとではあまり重用されていなかったようだが、僕がその才能を見込んで抜擢し、今回カエサリアの留守役も任せてみたが、見事にその務めも果たしていた。僕に対する忠誠とこれまでの実績に照らし、彼にならば、安心してカエサリアの統治を任せることができそうだ。

「アル=マンスール。そなたを、カエサリアの総督に任命する。今後は、余に代わってこのカエサリアを治めてもらいたい。それと、この町には民間向けの移動拠点を設置し、アッコンに対抗できるローマ帝国の東方貿易拠点として、本格的に整備するつもりだ。ニュンフェイオンにいるアクロポリテスやゲルマノスと協議の上、商人たちをこのカエサリアに誘致し、整備事業に取り組んでもらいたい」
「殿下、スルタンのクトゥズは戦死し、その後はアル=ブンドクダーリー将軍がバイバルスと名乗って次のスルタンに就任するということですが、新スルタンの正式な許諾は頂けたのですか?」

「今のところは口約束だが、あの者は、余との約束を破るような男ではあるまい。それに、彼がスルタンとして、ミスルとシリアの全土を掌握するには、おそらく相当の時間がかかる。戦いに敗れたモンゴル軍も、おそらく態勢を立て直すには時間がかかる。その間に既成事実を作ってしまえば、おそらく文句の付けようはあるまい。
 今までは、ローマ帝国における東方貿易の拠点は、キプロス島にあるファマグスタであったが、このカエサリアを交易拠点として整備し、民間用の移動拠点を設ければ、ローマ帝国とミスルやその他東方の地とは、もはや船に頼ることなく交易が可能になる。また、船を使う場合でも、このカエサリアは拠点として便利だ。
 このカエサリアも、現在とは比べ物にならない、アッコンに匹敵するほどの大都市となるであろうし、またローマ帝国がこのカエサリアを確保すれば、ローマ帝国の商人が、東方貿易でライバルのヴェネツィアを出し抜き、その優位を確立することができ、帝国の税収も大きく増えるはずだ。
 余とて、何の打算も無く、バイバルスのスルタン即位に協力し奮戦したわけではない。この程度の報酬は、しっかりもらっておかねばな。そなたは、実際に見ておらぬので信じられぬかも知れないが、アイン=ジャールートの戦いでは、余とその部隊だけで、実にモンゴル軍の約半数を殺したのだぞ」

「殿下、私はもちろん、殿下のお言葉を信じますとも。殿下のご活躍ぶりは、スィナーン殿や、サムライたちからも聞いております。本当に、神か悪魔の化身と見紛うような戦いぶりだったとか。殿下のご命令はしかと承りましたが、殿下はこれから、どうなさるお積もりでございますか?」

「留守を任せているアクロポリテスと相談する必要もあるが、そろそろニュンフェイオンに戻ってもよいのではないかと思っている。今では、余が自らローマ皇帝となる覚悟も出来たし、十分休養も取れた。やはり余は、他人の下で戦うのではなく、自ら軍を指揮して戦う方が向いているようだ。
 アイン=ジャールートの戦いでは、将を失って敗北寸前になっていたマムルーク軍の尻拭いをさせられることになって、こんな目に遭うのは二度と御免だ、そのくらいなら自分が皇帝になった方がましだと実感させられたよ」

「あの戦いは、我が軍の大勝利であったと窺っておりますが、そんなに危険な戦いだったのでございますか?」
「それはもう。戦う前から、スルタンのクトゥズには邪険に扱われ、戦場ではそのクトゥズが勝手に突撃して勝手に死んでしまうし、そこから余とバイバルスが必死になって巻き返したのだ。
 一時は、余も敗北と死を覚悟したほどであった。考えられるすべての策を使って、ようやく九死に一生を得て、何とか勝ちを拾ったのだ。余の部下に死者は出なかったが、全体では味方の約半数が、あの戦いで亡くなったのだ。バイバルスが軍を再建するにも、苦労するであろうな」


 アル=マンスールとそんな話をしていたとき、テオドラがやってきた。
「みかっち! ニュンフェイオンから、お迎えの使者が来たわよ!」
「ニュンフェイオンからの使者か。一体、誰が来た?」
「名前は聞いたことないけど、あたしたちを豪華な客船で、スミルナまで乗せてくれるって言っているわよ!」
「・・・とりあえず、会ってみよう」

 僕は、いまいち腑に落ちないと思いつつ、その使者に会ってみることにした。

「ミカエル・パレオロゴス殿下には、お初にお目にかかります。私は、海軍提督ネアルコスの配下で、名をリカリオと申します」
 リカリオと名乗った男は、年の頃30代ないし40代くらいで、立派な髭を生やしていた。
「リカリオか。初めて聞く名前だが、ローマ人の生まれではないようだな」
「いかにも。私は、ヴェネツィア人の父と、ローマ人の母を持つ生まれであり、ローマ帝国に仕え、ネアルコス提督によって船長に抜擢されたのは、つい2年ほど前のことでございます。殿下が私の事をご存じないのも、無理からぬことでございましょう」
「まあよい。リカリオ、そなたは我々を迎えに来たと言うが、帝国で何が起こったのだ?」

「はい。帝国ではラスカリス将軍の率いる殿下の支持派が、エルルイオス・ムザロンの軍勢を撃破し、ニケーアに入城して、イサキオス帝に殿下の摂政復帰を認めさせました。そこで、私が殿下をニュンフェイオンにお迎えするべく、客船を用意して馳せ参じた次第でございます」
「カエサリアからは、移動拠点を使えばすぐに戻れるのに、なぜ客船など用意してきたのだ?」
「いまや殿下は、あのモンゴル軍をも破った、ローマ帝国の英雄でございます。そのようなお方が帝国摂政として戻られるのであれば、急いでお帰りになられるよりも、客船で帝国の各地を巡幸し、その雄姿を多くの臣民へお見せになりながらゆっくりお戻りになり、スミルナの港で大歓迎を受けながら凱旋した方が、殿下の威容を高められるであろうとの、アクロポリテス様のご判断がございました」

「そういうものなのか?」
 アクロポリテス先生なら、僕がそういう儀式めいたことを好まない性格であることは、よく知っているはずなのに。
「みかっち、ローマ帝国の皇帝はそういうものよ。皇帝に必要なのは、何よりも荘厳な儀式で、威信を高めることなのよ」
「テオドラがそう言うなら、そんなものなのかなあ・・・」
 テオドラは乗り気だし、この場にいるイレーネも、特に何も言わない。
 実際のところ、僕は聖なる都が陥落する前のビザンティン帝国を自分の目で見たことがなく、主に書物からの知識により、異様なまでに儀式を重んじる劇場国家だという程度のことしか知らないので、結局リカリオの説明に納得してしまった。

「とりあえず、明日にでも出航することにして、まずは一杯、殿下とテオドラ様、イレーネ様も、おひとついかがでございますか?」
「極上のワインじゃないの。気が利くわね」
 ワイン好きのテオドラは、早速乗り気になった。
「いや、僕はワインを飲まないから・・・」
 ローマ帝国では、ワインは水のようなものであり、年齢制限などは特にないのだが、僕は日本ではまだ未成年者なので、ワインは飲まないことにしている。
 ・・・いや、子作りはたくさんしちゃってるけど、あれはオナニー禁止が原則のこの世界では、仕方のないことだから。
「存じております。殿下には、お好きな林檎ジュースをご用意しております」
「林檎ジュースか。飲むの久しぶりだな」
 ニュンフェイオンにいたとき、マリアがよく作ってくれたっけ。ビザンティンでは林檎もあるけど、エジプトではほとんどないから、林檎ジュースを飲む機会も無かったんだよね。林檎ジュースなんて、現代日本ではごくありふれた飲み物だけど、この世界ではあまり普及しておらず、特別に注文しないと出て来ない飲み物なのだ。
 僕たちは、何ら疑うこともなく、リカリオの用意したワインや林檎ジュースをたっぷり飲んだ。その後、僕は何となく眠くなり、やがて意識が飛んでしまった。


 次に目が覚めた時、僕は見覚えのない場所にいた。気が付くと、『風魔』も草薙の剣も神具も、その他の武器も全部取り上げられ、船内の一室らしきところに閉じ込められていた。
「・・・一体どうなってるんだ、ここはどこだ?」
「みかっち、あたしの腕輪がないわ! これじゃあ、術が使えないわよ!」
「・・・私の杖もない」
 テオドラとイレーネも無事ではあるが、僕を含めた3人とも、武器や術を使うための神具を取り上げられてしまったようだ。スィナーンや武士隊など、他のメンバーの姿は見当たらない。

 やがて、僕の前に例のリカリオが現れた。
「お目覚めですかな? ミカエル・パレオロゴス殿下」
「リカリオ! 一体これは、どういうつもりだ!?」
「まだ、お気付きにならないようですな。リカリオというのは、殿下を騙すための偽名。俺の名は、アル=ハイレッディーン。いわゆる、イスラムの海賊って奴だ」
「何だと!?」
「俺たちは、ローマ帝国の客船を装って、殿下とその連れの女を薬で眠らせて拉致し、俺たちのアジトへ連れて行く途中ってわけさ。お間抜けな殿下は、まんまと俺たちの罠に引っ掛かったというわけだ」


 事ここに至って、僕はようやく事態を悟った。
 ・・・要するに、僕たちはイスラムの海賊に騙され、誘拐されてしまったのだった。


<あとがき>

「本編の主人公、榊原雅史こと、ミカエル・パレオロゴスです。
 ・・・ううう、何とかモンゴル軍に勝ったと思ったら、今度は海賊に拉致されるなんて。もう受難はこりごりだよう・・・」
「ほら、みかっち、泣くんじゃないの。男の子なんだから、気を強く持ちなさい」
「テオドラ、波乱万丈にも、限度というものがあるよ。いい加減泣きたくもなるよ」
「それにしても、今回は真面目な戦いだったのか、それともお遊びだったのか、いまいちよく分からない回だったわね」
「本当は、死ぬ気で戦っていたんだよ! それが、何となく格好悪い戦いになっちゃったのは、主に君とイレーネのせいだから!」
「この物語は、もともとシリアスな戦記物じゃないから。格好つけるのは諦めなさい。それにしても、今回のモンゴル軍って、思ったほど強くなかったわね」
「まあね。モンゴル軍といっても、大陸全体を席巻するほどに領土が拡大すると、軍の中に生粋のモンゴル人はそれほどいなくなって、それほどの精鋭でもなくなって、敵もモンゴル軍への対処の仕方を覚えて、やがて勢力拡大が止まるっていうのが、実際に起きた歴史の流れだから」
「じゃあ、次第にモンゴル軍は、大した相手じゃなくなるの?」
「それはまだ分からない。モンゴル帝国は、早くも分裂の様相を呈しているから、このまま行けばうまく弱体化してくれそうだけど、何らかのきっかけで、神聖術の技術がモンゴル軍に渡ってしまったり、誰かの手によってモンゴル帝国が再統一されてしまったりしたら、それはもう大変なことになると思うから」
「何となく、そういう展開はあり得るような気がするわね。このままだと、みかっちの楽勝物語になちゃいそうだから」
「テオドラ、怖い事言わないでよう! これはゲームじゃないんだから、僕が死んでビザンティン帝国が滅んだら、もうやり直しは効かないんだから! この物語も、バッドエンドで終わっちゃんだから!」
「分かんないわよ。この物語、必ずしも作者が考えた当初の展開どおりに進んでいるわけじゃないから、どこかでみかっちが亡くなって、みかっちの遺した子供がその遺志を継ぐなんて展開になるかも知れないし」
「・・・さすがに、そこまでは脱線しないと思うけど。終わりは、僕が亡くなる西暦1291年までにする、そこまで書き上げたら完走だっていう目標はあるみたいだし」
「でも、読者さんから、みかっちが途中で死ぬ展開の方が面白いっていう意見が多数寄せられたら、作者も気が変わるかも知れないわよ? うちの作者って、結構読者さんの意見を気にするタイプだから」
「テオドラ、そんなこと言ってると、自分に跳ね返って来るよ? このヒロイン傲慢で気に食わないから、早く殺してほしいってご意見が来るかもしれないし。そうでなくても、第2部以降では個性の強い女性キャラが多数登場する予定だから、メインヒロインが他の誰かに代わっちゃう可能性は大いにあるし」
「・・・やめときましょう。これ以上続けると、不毛な泥仕合になるだけだわ」

「そうだね。あと、作者からのお知らせとして、この物語は次の第8話で一応の区切りがついて、第9話以降が第2部という構成になるそうです。あと、作者個人の都合により、11月以降は小説の執筆に割ける時間が大幅に減るため、今までのようなペースで投稿を続けるのは難しくなるかも知れないとのことです」
「何があったの?」
「要するに、今までは病気療養中だったけど、そろそろお仕事を再開するみたい。その予定が来年からだと思っていたところ、若干前倒しになっちゃって。作者としてはその前に、何とか第8話までは書いておきたいってことらしいけど」
「そうなると、いよいよ先行きが不透明になって来たわね」
「そんなわけで、次回以降の投稿ペースは、どのくらいになるか作者にも全く予想が付きません。ただし、途中で打ち切りにはしないよう頑張るつもりですので、ご意見、ご感想などお待ちしております。でも、途中で僕を殺してほしいというご意見だけは、どうか勘弁してください!」

 

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