第1話 『ビザンツ帝国の開祖』コンスタンティヌス1世
(1)コンスタンティヌス1世の生い立ち
一般に,ローマ帝国の初代皇帝といえばアウグストゥス,その実質的な創始者といえばカエサルになるが,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の始祖とされるのは,後年「大帝」の称号を贈られた4世紀初めのコンスタンティヌス1世である。
コンスタンティヌスは,272年または273年の2月27日,モエシア属州のナイッスス(現在のニシュ)で生まれた。父はローマ帝国の軍人コンスタンティウス(後の皇帝コンスタンティウス1世)であり,彼は後世の歴史家からはクロルス(青白いという意味のギリシア語)というあだ名を付けられ,一般にコンスタンティウス・クロルスと呼ばれている。
コンスタンティウス・クロルスは,250年3月31日生まれとされているので,コンスタンティヌスが産まれた当時は21歳ないし22歳ということになる。この時代を扱った歴史書『ヒストリア・アウグスタ』によれば,彼はエウトロピウスという貴族と,皇帝クラウディウス・ゴティクス(クラウディウス2世)及び皇帝クインティルスの姪・クラウディアとの間に生まれた子とされているが,歴史家の多くはこの記述を,後に皇帝となったコンスタンティヌス1世またはコンスタンティウス2世による捏造と判断しており,実際は単なる農民の子であったという見解が大勢である。
母はコンスタンティウスの最初の妻・ヘレナ。ヘレナは宿屋ないし居酒屋の娘で,コンスタンティヌスを出産した当時はまだ16歳であったという。
当時のローマ帝国は,歴代皇帝が短期間で次々と殺され,あるいは不慮の死を遂げるといった事件の続く迷走期にあり,しかも各地の国境では,サクソン,フランク,ロンゴバルド,サラセンといった蛮族が侵入しては略奪を繰り返し,東方ではササン朝ペルシアという強敵を抱えるなど,極めて重大な危機に直面していた。
この混乱期に一応の終止符を打ったのが,284年に即位したディオクレティアヌス帝である。この人物は,広大なローマ帝国の安全保障を一人で行うのは無理と判断して,即位後間もなく,友人であるマクシミアヌスを,西方担当の共同皇帝に任命した。
この両皇帝が奮戦することで,蛮族対策は相当程度成果を挙げていたのだが,ディオクレティアヌス帝は広大な帝国を維持していくにはこれでも不十分と考え,293年,ローマ帝国の東西に正帝1名,副帝1名を置く,いわゆる四頭政(テトラルキア)を実施した。
その際,西方担当のマクシミアヌス帝を補佐する副帝に任命されたのが,他ならぬコンスタンティウス・クロルスである。ただし,任命の条件は西の正帝マクシミアヌスの義理の娘フラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚し,同帝の婿養子となること。コンスタンティウスはその条件を呑み,ヘレナとは離婚することになった。
305年,老齢になっていたディオクレティアヌス帝及びマクシミアヌス帝は引退を表明し,東の副帝ガレリウスと西の副帝コンスタンティウスが正帝に昇格。新しい東の副帝にはマクシミヌス・ダイア,西の副帝にはセヴェルスが任命された。
一方,父・コンスタンティウス・クロルスに捨てられた形となっていたコンスタンティヌスは,四頭制のトップである東の正帝・ディオクレティアヌスに仕えてオリエントで軍務の経験を積み,父・コンスタンティウスが正帝に昇格すると,父の許へ赴きその配下の武将となった。
翌306年,コンスタンティウス・クロルスが,遠征先のヨークで死んだ。死因は必ずしも明らかでないが,50代後半になった皇帝を突如襲った,脳か心臓の障害による急死と考えられている。優れた将才の持ち主であり容姿にも恵まれていたコンスタンティヌスは,父の配下に入って1年ほどの間で,既に兵士たちの人望を掴んでいたらしい。コンスタンティヌスは,兵士たちによって西の正帝(アウグストゥス)に擁立された。
この擁立劇に,ディオクレティアヌス帝に代わって四頭政のトップに立っていた東の正帝・ガレリウスは困惑した。ディオクレティアヌス帝の考案した「四頭政」は,軍事的能力と実績のある将軍に帝位を順次バトンタッチしていくのが基本方針であり,帝位の世襲はそもそも予定していない。
しかし,コンスタンティヌスは既に,西の正帝だったコンスタンティウス・クロルス配下の兵士たちを味方に付けてしまっている。その兵力は5万を下らない精鋭部隊であり,兵士たちによる皇帝擁立を無効などと宣言すれば,即反乱となるのは目に見えていた。
結局ガレリウスは,コンスタンティヌスに正帝ではなく「西の副帝」への就任なら認めるとの妥協策を提案し,コンスタンティヌスはこれを受け容れる。こうして31歳のコンスタンティヌスは,ガリア,ブリタニア,ヒスパニアといった帝国の西方地域と,当該地域を防衛する強力な軍隊を保持する,西の副帝の地位を手に入れたのである。
(2)皇帝たちの割拠
コンスタンティヌスが西の副帝に就任した約3か月後,西の前正帝・マクシミアヌスの息子マクセンティウスがローマで皇帝就任を宣言し,さらにディオクレティアヌスに説得されて嫌々ながら引退していたマクシミアヌスも,マクセンティウスに味方する。
帝国の首都ローマは,西への正帝となったばかりのセヴェルスの担当地域であるため,セヴェルスがマクセンティウス討伐に向かった。しかし,セヴェルス配下の兵士たちは,約20年にわたりマクシミアヌスと共に戦ってきた兵士たちであり,昨年の副帝就任以前はコンスタンティウス・クロルス配下の武将であったセヴェルスは,配下の兵士たちの人望をまだ十分に集めていなかった。
セヴェルスは,四頭政そのものに敵意を抱くイタリア諸都市の非協力的な態度に苦しめられ,しかも配下の兵士たちは,かつての上司であるマクシミアヌスの姿を見ただけで戦意を喪失してしまったため,ろくに戦うこともできず,配下の将兵たちに見捨てられラヴェンナの地で捕虜となった。ラヴェンナからローマへ護送されたセヴェルスは,自死を強いられるという形で殺された。307年2月のことである。
セヴェルスの破滅を知った東の正帝・ガレリウスは,子飼いの軍団を引き連れて自らマクセンティウス討伐に乗り出すが,セヴェルスに非協力的だったイタリアの諸都市を次々と略奪・破壊したことから,ガレリウスはイタリア全域を敵に回してしまった。兵站を確保できず行軍の続行が不可能となったガレリウスは,結局目的を達しないまま本拠地のバルカンに撤退するしかなかった。
マクシミアヌスは,セヴェルス及びガレリウスの両帝と戦うにあたり,コンスタンティヌスを味方に付けるべく,自らコンスタンティヌスの許を訪れ,コンスタンティヌスと自らの娘ファウスタとの婚姻を提案した。コンスタンティヌスは快諾する。
コンスタンティヌスには既にミネルヴィーナという妻がおり,息子も一人いたが,父が母を離婚したのと同様に,コンスタンティヌスは自らの政治的野心を実現するため,妻と息子を捨てたのである。コンスタンティヌスとファウスタの結婚式は,南仏のアラーテ(現在のアルル)で盛大に執り行われた。
そして,コンスタンティヌスはマクシミアヌスによって西の正帝に公認されるが,結局コンスタンティヌスがセヴェルス帝及びガレリウス帝との戦いに加勢することはなかった。両帝とも短期間のうちに戦わずして自滅したので,加勢するまでもなかったというのが妥当な表現であろう。
自力での事態打開を断念したガレリウスは,308年秋,カルヌントゥム(現在のペトロネル)の軍団基地に前正帝のディオクレティアヌスとマクシミアヌスを招待し,帝国の現状を打開するための「首脳会談」を催した。
その結果,帝位復帰を宣言したマクシミアヌスは,ディオクレティアヌスに強く説得されて再び引退。セヴェルスの死で空位となっていた西の正帝には,ガレリウスの親友であるリキニウスが就任し,それ以外は現状維持とすることが決まった(マクシミアヌスの名で公認されたコンスタンティヌスの正帝就任は認められず,副帝の地位が再確認されるにとどまった)。
しかし,この決定にはかなりの無理があった。まず,マクシミアヌスの息子であり,イタリアと北アフリカを実効支配下に置いていたマクセンティウスは,その地位を公認されず帝位簒奪者という扱いになってしまった。
いわゆる「カルヌントゥム会談」の場では,父のマクシミアヌスが息子を説得して平和裡に引退させるつもりであったのかも知れないが,父と息子は激しい言い争いになってしまい,結局マクセンティウスは帝位簒奪者という曖昧な地位のまま,イタリアと北アフリカの実効支配を続けた。
そして,これまでの慣例に従えば副帝から昇格するのが自然であった「西の正帝」の地位に,副帝を経験したこともないリキニウスが抜擢されたことで,東の副帝であったマクシミヌス・ダイアも不満を抱き,やがて勝手に東の正帝を自称するようになった。コンスタンティヌスも同様に西の正帝を自称した。
ディオクレティアヌス帝の考案した「四頭政」は表向きかろうじて存続していたが,その内実は4人の皇帝が協力して帝国を防衛するシステムではなく,マクセンティウスを入れると実質5人の皇帝が単に割拠する,という状態になってしまったのである。
ところで,カルヌントゥム会談の結果再び退位したマクシミアヌスは,息子・マクセンティウスの説得に失敗した後,娘婿であるコンスタンティヌスの許を訪れていた。表向きは単なる旅行だったが,309年になり,コンスタンティヌスが侵入してきたフランク族を制圧するための遠征に赴いた隙を狙って,権力奪取のクーデターを企てた。
素早く事態を察知したコンスタンティヌスは,対陣していたフランク族の族長たちと,彼らの要求をすべて受け容れる形にせよ休戦協定を結ぶことに成功し,本拠地のトリアー(ローマ時代の名称はアウグスタ・トレヴェロールム)に引き返した。予想以上の速さで戻ってきたコンスタンティヌスに,自前の軍勢を手許に持たないマクシミアヌスは為す術もなく,結局マクシミアヌスは逃走先のマッシリア(現在のマルセーユ)で死んだ。コンスタンティヌスの発表では,死因は自殺とされた。
このような政局の中,311年,東の正帝ガレリウスが死んだ。不治の難病による死であったと言われている。ガレリウスの占めていた地位は,西の正帝であったリキニウスが横滑りの形で埋めたが,これによってローマ帝国は「正帝」リニキウス,「自称正帝」コンスタンティヌスとマクシミヌス・ダイア,「帝位簒奪者」マクセンティウスの四帝が並立することになる。リキニウスはコンスタンティヌスと同盟を結び,マクシミヌス・ダイアは,マクセンティウスと同盟を結んでこれに対抗した。
(3)帝国再統一への戦い
コンスタンティヌスは,自らの手によるローマ帝国の再統一という野望を達成すべく,まず帝位簒奪者・マクセンティウスとの決戦に挑む。
312年の春頃,コンスタンティヌスは4万の兵を率いてアルプスを越えた。対するマクセンティウスが迎撃のために準備した兵力は,一説には歩兵17万に騎兵1万8千にのぼったという。
しかし,コンスタンティヌスが率いた軍勢は,長年にわたりガリアやブリタニアの防衛に尽力してきた帝国正規軍(皇帝親衛隊)の精鋭部隊であり,コンスタンティヌス自身も優れた武将であった一方,マクセンティウスの軍勢はろくな戦闘経験もない烏合の衆であり,マクセンティウス自身も司令官としての実戦経験はなかった。生きていればマクセンティウスの経験不足を埋めることが出来たであろう父のマクシミアヌスは,前述のとおり既に帰らぬ人となっていた。
実際の戦闘になると,こうした経験の差がモロに出た。コンスタンティヌスは,スーザ,トリノでマクセンティウスの迎撃軍を撃破し,抵抗せず城門を開けば無事は保障されると知らしめることで,北イタリア諸都市のほとんどを戦わずに降した。
そして,コンスタンティヌスは312年の10月末,ローマ郊外のミルウィウス橋付近で,マクセンティウスの本隊と対決した。マクセンティウスは敵軍を大幅に上回る兵力を率いていながら,これを有効に活用することができず,マクセンティウス軍は開戦早々,練度で勝るコンスタンティヌス軍によってテヴェレ河の方角に追い込まれ,混乱の末に敗走を始めてしまった。
歴史上「ミルヴィウス橋の戦い」と呼ばれるこの戦いは1日で決着が付き,コンスタンティヌスの圧勝に終わった。敗れたマクセンティウスは逃走のためテヴェレ河に飛び込んで溺死し,その死体は翌日になって発見され引き揚げられた。
なお,後世のキリスト教側の史料では,ミルヴィウス橋の戦いに先立ちコンスタンティヌス軍に奇跡が起きたとか,マクセンティヌスが暴君であったなどといったことが色々書かれているが,これらはすべて単なる脚色であり,実態は純粋に軍人としての力量が勝敗を分けたものと解すべきである。
コンスタンティヌスは,征服したローマの元老院によって西の正帝に公認され,ローマにはコンスタンティヌスの凱旋門が建てられた。そして,翌313年には,コンスタンティヌスとリキニウスの同盟の証として,コンスタンティヌスの異母妹にあたるコンスタンティアとリキニウスの結婚式が,ミラノ(古代ローマ帝国時代はメディオラニウムなどの名で呼ばれていたが,本稿では便宜上ミラノで統一する)で行われた。その際コンスタンティヌスとリキニウスの連名で出されたのが,キリスト教を公認したことで知られる通称『ミラノ勅令』である。
この事態に焦ったマクシミヌス・ダイアは,リニキウスの勢力圏であった小アジアに軍を進めた。リキニウスはコンスタンティヌスとの会談を打ち切り,結婚したばかりのコンスタンティアを連れて,マクシミヌス・ダイアとの戦いに赴いた。両者の戦いはリキニウスの勝利に終わり,マクシミヌス・ダイアは313年8月,逃走先のタルソスで死んだ。
同盟とはいっても,コンスタンティヌスとリキニウスとの間に友情関係などはなく,単なる打算によって結ばれたものである。そのため,マクシミヌス・ダイアという共通の敵が死ぬと,両者の関係が冷え込むのに時間はかからなかった。
315年,両者はパンノニア地方のキバラエで激突した。攻め込んだコンスタンティヌスの兵力は2万,守るリキニウスの兵力は3万5千程度であったが,激戦の末に勝利を手にしたのはコンスタンティヌスであった。この戦いは,戦闘経験豊富な正規軍同士の戦いであり,コンスタンティヌスの勝利は,兵士の質ではなく司令官の力量によってもたらされたものと考えるべきだろう。
続く第二戦は,トラキアとマケドニアを分けている山岳地帯で行われたが,先の戦勝で勢いづいているコンスタンティヌスの軍勢を阻止することは,リニキウスには不可能だった。この戦いも,当然のようにコンスタンティヌスの勝利で終わる。
その後,コンスタンティアが兄と夫の和解に動き出し,両者の間には一旦講和が成立した。この講和によって,敗れたリキニウスは小アジアから東に引き払うことになり,コンスタンティヌスはライン川防衛軍とドナウ川同盟軍という,ローマ帝国の最強軍勢を手にすることになった。この時点で,リキニウスはもはやコンスタンティヌスにとって危険なライバルではなくなったのである。
一方,リキニウスとの講和を成立させたコンスタンティヌスには,フランク族,アレマンノ族,ゴート族といった北方蛮族との戦いが待っていた。これらの蛮族がローマ帝国の内紛に乗じて侵入してきたからであるが,リキニウスを破ってローマ帝国の大半を手中にしたコンスタンティヌスとしては,これらの蛮族を放置しておくことは出来なかった。帝国の安全を保障するのは最高司令官(インペラトール)たる皇帝の使命であり,その使命を放棄して国内の政敵排除を優先するなど,皇帝として到底許される所業ではなかったのである。
コンスタンティヌスは,ドナウ川を越えて侵入してきたゴート族の迎撃は自らが担当し,ライン川を越えたフランク族などの迎撃は息子のクリスプスに担当させた。クリスプスは,コンスタンティヌスとその最初の妻ミネルヴィーナとの間に生まれた息子であり,317年にコンスタンティヌスから副帝(カエサル)に任命された当時はまだ17歳であったという。クリスプスは,若年ながら軍人としては父に劣らぬ才能を発揮し,フランク族もアレマンノ族もクリスプスの軍に攻め立てられてたちまち追い詰められたので,コンスタンティヌスはゴート族との戦いに専念することができた。
クリスプスの活躍もあって,322年には北方蛮族との戦いもひとまず終結する。そして324年,コンスタンティヌスはリキニウスとの最後の決戦に挑む。コンスタンティヌス率いる軍勢は12万,対するリキニウスは歩兵15万に騎兵1万5千の兵力で迎撃したが,陸上はコンスタンティヌス,海上はクリスプスという勇将に率いられ,つい先頃まで北方蛮族相手に戦っていたコンスタンティヌス軍に対し,リキニウス軍は将兵共に練度が大きく劣っていた。コンスタンティヌス軍は,ハドリアノポリス,ビザンティウム,クリュソポリスの戦いで相次いでリキニウス軍を破り,リキニウスは妻コンスタンティアの仲介で引退を条件に一旦は助命されたものの,翌年にはゴート族と通じて反乱を企んだとの罪状により処刑された。こうして,コンスタンティヌスはローマ帝国の再統一に成功した。
(4)新都建設
324年,コンスタンティヌスはビザンティウムの地に,ローマ帝国の新しい首都となる新都市の建設に着手する。新首都の候補地には,ビザンティウムの他にシルニウム,セルディカ(現在のソフィア),トロイアの古戦場跡なども検討されたようであるが,最終的にビザンティウムが選ばれたのは,3つの理由が考えられる。
理由の第1は,新征服地に睨みを効かせることである。コンスタンティヌスの本拠地は,父の跡を継いで西の副帝に就任した当時はアウグスタ・トレヴェロールム(トリアー)であったが,政敵を破って自らの勢力圏を拡大するのに伴って,ミラノ,シルニウム(現在のミトロヴィカ)へと,本拠地を徐々に東遷させている。
新しい征服地を円滑に統治する最良の方法は,征服者自らがその地に移り住むことであるが,リキニウスを破って帝国の東方を手中にしたコンスタンティヌスは,東方の支配を確かなものにするため本拠地をさらに東遷させる必要があった一方,蛮族の侵入が絶えないライン川やドナウ川の防衛線,ブリタニアなどの動きにも警戒を怠ることは許されなかった。これらの事情を総合的に判断すると,帝国の東方,西方いずれにも睨みを効かせられるビザンティウムの地は,コンスタンティヌスの新しい本拠地としては理想的であったと考えられる。
理由の第2は,ビザンティウムの地勢である。ビザンティウムは三角形の一辺がマルマラ海に面し,もう一辺は後に金角湾と呼ばれる湾に面し,残る一辺だけが陸続きになっているという,天然の要害の地である。この時代,大軍勢による海からの攻撃は困難であり,防衛の際には陸続きになっている一辺のみに兵力を集中できる利点は大きかった。しかも,闇に紛れて小舟で行き来できる距離に小アジアの地があるので,陸側から攻撃を受けても海側から補給路を維持することができ,いよいよ危うくなったときは海を渡って小アジアの地に逃走することもできた。
実際,この地に首都を置くことになったビザンツ帝国は,数え方にもよるが都合29回にわたり首都を攻撃されながら,陥落したのは2度だけという強靭さを誇ったとされる。周囲を強国に囲まれた厳しい状況に晒され続けながら,ビザンツ帝国が約1千年もの長きにわたり存続できた要因の1つとして,こうした要害の地に首都を置いていたことを挙げないわけには行かない。
その上,戦争が終わって平時となれば,北に北海沿岸,西にトラキア地方,東に小アジア,南にエーゲ海諸島を経てエジプトに通じる海港都市という利点がフルに活きてくる。ビザンティウムは,東西南北の物産と通商の一大集結地となる可能性を秘めた地であり,またビザンツ帝国の時代には,事実そのとおりになったのである。
そして理由の第3は,これまでビザンティウムがローマ世界の主要な都市ではなかったために,何でもコンスタンティヌスの思い通りに都市建設が可能であった,という点が挙げられる。
コンスタンティヌスは,ローマの古き神々に代えて,キリスト教を新たな精神的支柱とする帝国の建設を目論んでいたが,主要都市として長い伝統のある都市では,その都市に根差した古き神々の神殿が至る所に立っており,そうした神々を信仰する住民の強い抵抗も予想されることから,新たなキリスト教の都市としては理想的ではない。その点,ビザンティウムはほとんど何もない小都市なので,教会を建設しキリスト教の都市に作り替えても住民の反発を心配する必要はなかった。
新都の建設は,コンスタンティヌスの厳命により突貫工事で行われ,早くも330年には完成の祝典が開かれている。完成した新都は,建設を命じた皇帝コンスタンティヌスの名を取って,コンスタンティノポリスと名付けられた。なお,コンスタンティノポリスはラテン語の表記であり,古代ギリシア語表記ではコンスタンティヌーポリス(またはコンスタンティヌーボリ),英語表記ではコンスタンティノープルとなるが,本稿では便宜上,最後までコンスタンティノポリスで統一する。
(5)キリスト教の公認と振興
なぜ「キリスト教」が選ばれたか?
コンスタンティヌスは,キリスト教を公認した皇帝として,死後に「大帝」の尊重を贈られることになった皇帝であるが,彼自身は別にキリスト教に深く帰依していたわけではない。副帝時代のコンスタンティヌスは,権威づけのために自らの祖先をクラウディウス・ゴティクス帝であると公言したり,当時の兵士たちに信仰されていた不敗の太陽神(ソル・インウィクトゥス)への信仰を公言したりしている。
そのコンスタンティヌスが,マクセンティウスを破った翌年の313年には,ミラノ勅令によってキリスト教を公認する。ここでいう「公認」とは,単に他の宗教と同様にキリスト教を信仰する自由を認めたというにとどまらず,ディオクレティアヌス帝の弾圧により没収された教会資産の返還命令と,返還に応じた者に対する国家による補償も含まれていた。
ミラノ勅令の文面は,キリスト教への信仰も他の神々への信仰も完全に認められるというものであったが,コンスタンティヌスが実際に取った政策はキリスト教を他の宗教と平等に遇するものでは全く無く,皇帝財産のキリスト教会への寄贈,キリスト教の聖職にある者に対する公務の免除など,あからさまなキリスト教への優遇策であった。
キリスト教への強い信仰心があったわけでもなく,自身がキリスト教の洗礼を受けたのは死の直前であったというコンスタンティヌスが,このようなキリスト教振興策に大きく舵を切った理由は必ずしも明らかでない。
もっとも,マクセンティウスを擁立したローマの元老院をはじめ,古き神々を信じる多くの有力者が,ディオクレティアヌス帝の政策に反抗的だったことは,コンスタンティヌスの登位に至る経緯で実証済みであった。
彼らがディオクレティアヌスの政策に反発したのは,既得権益の剥奪,過酷な徴税と兵役をはじめとする重い公務負担,職業選択や転居の制限などが原因であるが,これらは国防上の重大な危機に直面しているローマ帝国を維持するのに必要な政策であり,もはや撤回することはできない。
一方,これまでのローマ帝国はユピテル神を主神とする伝統的な宗教(多神教)を否定するキリスト教を弾圧の対象としており,特にディオクレティアヌス帝はキリスト教に対する熱心かつ組織的な弾圧を行ったが,それでもキリスト教の組織は揺らぐことなく,むしろ弾圧によって殺された者が殉教者として崇拝され,さらに勢いを強めている感があった。
そこでコンスタンティヌスが考えたのは,これまで弾圧の対象であったキリスト教徒と聖職者を懐柔して味方に付け,ローマ帝国をキリスト教の帝国に改造することで,帝国内の不満を和らげ統治の円滑化を図ることではなかったかと思われる。一言で言ってしまえば,ローマ帝国をまとめる新たな「支配の道具」として,キリスト教に目を付けたのではないかということである。
また,キリスト教の「支配の道具」としての効用は,単に帝国内の不満を和らげるのみでなく,ローマ皇帝を一神教たるキリスト教に基づく「神の代理人」と位置付けることにより,血縁による帝位継承の円滑化ひいては政局の安定化をもたらすという点も見逃せない。
歴史上「3世紀の混迷」と称される,ディオクレティアヌス帝即位以前におけるローマ帝国の混迷ぶりについては,本稿の範囲外であるため詳細は『ローマ人の物語』第12巻ないしその他の文献に譲るが,この時代は皇帝がごく短期間で次々と入れ替わり,無能な皇帝たちは勿論のこと,帝国三分裂の危機を克服し「世界再建者」と称えられた極めて有能なアウレリアヌス帝でさえも,実につまらない理由で暗殺され非業の死を遂げてしまう時代であった。皇帝が短期間で次々と入れ替わることは政局の不安定につながり,政局の不安定は当時盛んとなっていたゲルマン諸民族など蛮族の侵入と略奪に対しても効果的に対処できず,帝国自体の衰亡につながってしまうことを意味していた。
この状況を打開しようとしたディオクレティアヌス帝考案の「四頭政」も,効果的に機能していたのは彼自身が第一の皇帝として影響力を保持していた期間だけで,彼が退位し影響力を失うと帝国は複数の皇帝による群雄割拠の状態になってしまい,コンスタンティヌス1世はローマ帝国の継承者というより,前述のように自ら武力をもって対立皇帝たちを次々と蹴散らし,むしろ新しい帝国の建国者であるかのような振る舞いを余儀なくされた。
このような状況を打開してローマ帝国を生き残らせるには,キリスト教に基づきローマ皇帝の権威を神格化することで,皇帝謀殺や帝位簒奪といった政治危機を出来る限り防止する必要がある,などとコンスンタンティヌスは考えたのかも知れない。ただし,コンスタンティヌス1世の意図と,現実にそうなったかは別の問題であり,これから述べるとおり,キリスト教が導入された後もローマ帝国にはこうした政治危機が次々と起こるのだが。
アリウス派とニケーア公会議
キリスト教をローマ帝国の新たな精神的支柱と位置づけその振興を図ったコンスタンティヌスであるが,その過程でキリスト教の教理問題に介入することを余儀なくされた。おそらく,キリスト教の振興策を採った時点ではコンスタンティヌスも気づいていなかったであろうが,キリスト教は自らの教えを唯一絶対のものと信じる厳格な一神教の宗教であるが故に,何が正統の教義であるかを巡っての論争が絶えず,正統と認められなかった教義は異端として排斥された。
キリスト教の初期から3世紀までの間に,現代まで名前の伝わっているものだけで,仮現説,グノーシス主義,エビオン派,マルキオン派,モンタノス派,モナルキア主義,サベリウス主義,天父受難説,キリスト養子論といった異端思想が発生しており,むしろキリスト教は,こうした異端をめぐる教義論争を通じて自己の教義を確立してきたという歴史がある。
こうした教義論争は,キリスト教が民間宗教にとどまっている間は純粋にキリスト教団内部の問題であり,ローマ帝国という国家が介入すべき問題ではなかったが,キリスト教の振興策を採ったコンスタンティヌスの立場としては,教義論争によるキリスト教団の分裂は国の政策を揺るがす由々しき事態であり,皇帝が自ら介入して問題の解決にあたる必要があった。コンスタンティヌス自らが介入する事態となった教理問題とは,簡単に説明すれば概ね次のようなものである。
伝統的なキリスト教の教義では,父なる神とその子たるイエス・キリスト,そして聖霊は三位一体の存在とされている。この教義に従えば,父なる神と子たるイエス・キリストは同位であり,イエスは完全なる人間であると同時に完全なる神でもある,という結論になる。
この教義に,アレクサンドリアの司祭であったアリウスが疑義を唱えた。キリスト教を含む一神教における神は,人間にとって知ることのできない(不可知の)存在であるはずだが,不可知の存在ではないイエス・キリストは,神に限りなく近い存在ではあっても,完全な神ではあり得ないのではないか,というのだ。
論理的には鋭い指摘であるが,このような指摘を認めてしまっては,キリスト教の根幹自体が大きく揺らぐことになる。アリウスは,上司であり三位一体派であるアタナシウス司教によって異端者と断じられ,破門され司教区から追い出されてしまった。
しかし,論理的に鋭い指摘であるが故に,アリウスは行く先々で共鳴者を獲得していった。特に,帝国東方においてはアレクサンドリア,アンティオキアと並んで重要な司教区であるニコメディアの司教エウセビウスがアリウス説に共鳴したことで,事態は単なる教理論争では済まず,キリスト教会分裂の危機に発展してしまった。
キリスト教をローマ帝国の新たな精神的支柱と位置づけその振興に努めてきたコンスタンティヌスにとって,キリスト教の分裂は自らの政策を揺るがす深刻な事態であり,自ら公会議を開催し対立の解消に努めることが必要になった。キリスト教を国教としたローマ帝国ないしビザンツ帝国では,その後も様々な教理論争が勃発し皇帝などがその収拾に追われることになるが,コンスタンティヌスの開催したニケーア公会議はその最初の例になる。
帝国の各地から318人の司教たちを招待して,コンスタンティヌス自らが議長となって開催されたニケーア公会議だったが,その大半は哲学的議論を大いに好むギリシア人である。皇帝の面前であることにも構わず,議論は紛糾に紛糾を重ね,なかなか収拾には持っていけなかった。
それでも,議長であるコンスタンティヌスの主導により,三位一体説の正当性を再確認する「共同声明」の発表には何とか漕ぎつけ,最後まで共同声明への署名を拒み続けたアリウスと2名の司教は,コンスタンティヌスによりオリエントから遠く離れたライン川のほとりへ追放された。
もっとも,ニケーア公会議によってキリスト教会が再び三位一体説でまとまったわけではなく,この教義論争は以後数世紀にわたって紆余曲折を繰り返すことになる。アリウスがライン川のほとりへ追放されたのが契機になったか否かは不明だが,アリウス派はその後北方蛮族への布教に成功し,後にローマ帝国へと侵入してきたゲルマン系諸民族の多くは,アリウス派のキリスト教を信仰していた。
コンスタンティヌス自身も,ニケーア公会議での議論を通じて,三位一体説が全面的に正しいとの心証を得たわけではなかったらしく,当面の安定を重視してひとまずは三位一体説を支持したものの,彼自身の考え方はむしろアリウス派に傾倒していき,彼が死の直前に洗礼を受けたのも,アリウス派のニコメディア司教エウセビオスからであった。
歴史家ゾシモスの批判
本稿は『ビザンツ帝国の物語』ではなく,あくまで『ビザンツ人の物語』であることから,皇帝目線のみで歴史を語るのではなく,これと異なる見方も出来る限り提示しようと考えている。以上に述べたコンスタンティヌス大帝の政策に批判的な人物は,当時のローマ帝国内にも少なからず存在していた。
ローマのバチカン図書館に所蔵されている,ゾシモスという人物が書いた410年までのローマ帝国史を記した『歴史』は,「自分が記すのは衰退と解体の歴史であり,今日の帝国はかつての帝国ではない」と表明している。このゾシモスは,官僚だったこと以外何も判っていない人物であるが,明らかに反体制的な考えの持ち主であり,彼の主張に目を向けることで,当時の反体制派がコンスタンティヌス1世の政策をどのように考えていたかをある程度窺い知ることができる。
ゾシモスは,帝国を衰退に導いた責任者としてコンスタンティヌス1世を名指しで批判しており,その批判の要旨を抜粋すると,概ね次のようになる。
批判の第一は,キリスト教の優遇である。ゾシモスによると,コンスタンティヌス1世は後述するように長男のクリスプスと妻のファウスタを殺害したが,神官や賢者などの誰に相談してもこのような恐ろしい罪が消えることは無いと冷たく宣告されていたところ,宮廷にいたエジプト人のキリスト教徒は,我々キリストの神は最も忌むべき行いでさえ赦してくださると皇帝に保証したため,コンスタンティヌスは父祖の信仰を捨てキリスト教という餌に食いついたというのである。ゾシモスはこうしたキリスト教の優遇によって,ローマ人から尚武の精神が失われ帝国の没落を招いたとも主張している。
批判の第二は,コンスタンティノポリスの建設である。ゾシモスは,皇帝がカピトリヌスの丘で行われる伝統的な宗教の儀式を禁止しようとしたところ,これがローマ市民の間でひどく悪評だったので,全く必要のない町を新たに建てて,帝国の住民と資産を大きく消耗させたと厳しく非難している。
批判の第三は,コンスタンティヌスは国内の敵を除くことには長けていたが,帝国の国境に殺到する蛮族への対応はまずく,ディオクレティアヌス帝は国境沿いの要塞に兵士を駐屯させて防衛に配慮していたのに,コンスタンティヌスは軍団を都市内部に駐屯させることを決め,この措置は国境を無防備にしたのみならず,軍団兵が怠惰になり軍国精神を掘り崩してしまった,加えて敬虔さと現世の放棄を説くキリスト教を優遇したことがこの傾向に拍車を掛けたとする。
このうち,第二の批判はかなり的外れである。「新都建設」の項目で述べたとおり,コンスタンティノポリスの地勢は帝国の統治に最適であり,しかも防御面での有利さはゾシモスでさえ認めざるを得なかった。新都建設に多額の費用と人的資源が費やされたことは確かであろうが,それは決して無駄な出費ではなく,むしろこの新都こそが帝国に千年の余命を与えたのである。
一方,第一の批判と第三の批判の当否を判断するのは難しい。コンスタンティヌス1世自身は,内戦のために蛮族への対応を後回しにするほど無責任な男ではなかったが,ゾシモスの指摘したような防衛体制の変更が,長期的に見て軍団兵の質を低下させた可能性を完全に否定することは出来ない。もっとも,内戦による兵力減少で,国境の要塞に兵士を駐屯させるディオクレティアヌス帝の防衛体制が維持不可能になっていたのであれば,防衛体制の変更はやむを得ない措置であったと考える余地もある。
そして,最も悩ましいのがキリスト教優遇策の当否である。筆者はこの政策を導入したコンスタンティヌス1世の意図を,帝国内の不満を和らげ統治を円滑化すること,血統による帝位継承の円滑化を図ることの二点にあると推測したが,少なくともゾシモスが筆を置いた410年の時点では,どちらの意図も達成されたとは言い難い。優遇された側のキリスト教徒はコンスタンティヌス1世に大帝の称号を贈り彼を絶賛したが,冷遇された異教徒側のゾシモスは,コンスタンティヌスが行ったキリスト教優遇策の意図を全く理解できず,結局その動機を彼の個人的悪行に求めたようである。
ゾシモスは,キリスト教の優遇策によって尚武の精神が失われたと主張しているところ,その当否についても判断するのは難しい。確かに,キリスト教は基本的に平和的な宗教であり,キリスト教が国教化される以前は,キリスト教徒の間でもローマ人として兵役に就くことの是非について見解が分かれ,キリスト教の信仰を理由に兵役を拒否し処刑された殉教者も見られたが,キリスト教の国教化に伴い,キリスト教徒がローマ帝国の兵士として戦うことは正しいと結論付けられ,以後キリスト教徒であることを理由とする兵役拒否は見られなくなった。
ビザンツ帝国の歴史において,正しい信仰を捨てるくらいなら死を選ぶという敬虔なキリスト教徒の兵士たちが戦場で活躍し,兵士たちの戦意高揚のためにキリスト教が利用されたことがあるのも事実であるが,一方で以後の歴史上度々見られる,この町は聖母マリアないし聖人某に守護されているから大丈夫であるなどと主張して,敵軍に町を包囲された聖職者や民衆が町の防衛にも参加せずひたすら神に祈りを捧げるといった現象が発生したのは,明らかにキリスト教の悪影響である。またゾシモスは指摘していないが,際限のない教理論争と異端に対する迫害がローマ帝国の衰退と縮小を招いた点は,キリスト教の国教化によってもたらされた大きな悪影響である。
果たして,コンスタンティヌス大帝が行ったキリスト教優遇策は正しかったのか。それは本書全体を貫くテーマの一つであり,ビザンツ帝国にキリスト教が与えた影響は善悪双方ともに数多く,簡潔に語り尽すことはできない。これから語る1453年の帝国滅亡に至るまでの経過を踏まえて,読者諸氏の判断を仰ぐしかない問題である。
(6)コンスタンティヌスの後継者たち
コンスタンティヌスによるキリスト教優遇策の当否を考えるには,まず彼の後継者がどのような運命を辿ったかを見て行かなければならない。既に名前の出てきたコンスタンティヌスの長男であるクリスプスは,少なくともその軍事的才能に限れば,コンスタンティヌスの後継者となる資質を十分に有していた。ところが,コンスタンティヌスはこの長男を,皇后ファウスタとの不義密通があったとして逮捕し,ポーラの獄中で殺してしまう。326年のことであった。同じ年,皇后のファウスタも殺されている。
クリスプスに代わり,コンスタンティヌスが後継者に任命したのは,自身とファウスタの子であるコンスタンティヌス2世,コンスタンティウス2世,コンスタンスの三兄弟であった。
もっとも,まだ10歳前後の子供である彼らにコンスタンティヌスやクリスプスの代わりが務まるはずもなく,クリスプスを殺した以後の外征は,コンスタンティヌス自らが行わなければならなかった。328年にはライン川でアレマンノ族を破り,332年にはドナウ川でゴート族を破り,334年にはサルマティア族を破った。
そして337年,コンスタンティヌスはササン朝ペルシアの討伐に向かうが,その途上で病に倒れ,ニコメディアで亡くなった。生年272年説を前提とするならば,65歳の生涯であった。
ディオクレティアヌス帝の「四頭政」を破ってローマ帝国の単独統治者に上り詰めたコンスタンティヌスであったが,広大なローマ帝国を一人で統治するのは困難とする点では,彼もディオクレティアヌス帝と同意見であったらしい。
彼の死後,帝国は長男のコンスタンティヌス2世が西方のブリタニア,ガリア,ヒスパニアを担当し,次男のコンスタンティウス2世が東方の小アジア,シリア,エジプトといった地方を担当し,三男のコンスタンスがイタリア,ギリシア,北アフリカといった地方を担当したほか,コンスタンティヌスの甥にあたるダルマティウスとハンニバリアヌスにも担当地域と副帝の地位が割り当てられた。
しかし,ダルマティウスとハンニバリアヌスはコンスタンティウス2世の支持者によって早々に殺害され,実際の分割統治は3名で始まったものの,領土の配分に不満を持った長男コンスタンティヌス2世が内戦を始めた。コンスタンティヌスの構想した,キリスト教に基づく権威を基礎とした皇帝一族による分割統治政策は早々に破綻し,結局次男のコンスタンティウス2世によって帝国が再統一されるまで,帝国は15年間に及ぶ内戦に晒されることとなった。
コンスタンティウス2世が帝国を再統一したのは353年であったが,彼は父ほどの軍事的力量はなく,また猜疑心の強さから粛清を度々行った。コンスタンティウス2世には男子がなく,従兄弟にあたるガルスを副帝に任命するが,謀反の疑いをかけて殺害してしまう。
次いでコンスタンティウスは,ガルスの弟にあたるユリアヌスを副帝に任命しガリアに派遣した。ユリアヌスはそれまでの軍事経験が皆無であったにもかかわらず,ガリアではなかなかの戦果を挙げ統治面でも実力を発揮したが,コンスタンティウスに無理な兵士の供出命令を受け,命令に抵抗する兵士たちとの板挟みとなった結果反乱を起こし,その鎮圧に向かう途上でコンスタンティウス2世は病に倒れた。361年,死に臨んだコンスタンティウス2世は,生き残った唯一の肉親であるユリアヌスを後継者に指名した。
コンスタンティウス2世の後を継いで皇帝となったユリアヌスは,コンスタンティヌス大帝の始めたキリスト教優遇策に疑問を抱き,伝統的な多神教への回帰政策を採る。しかし,ユリアヌスの改革は様々な抵抗に遭ってうまく行かず,363年にはユリアヌス自身もペルシア戦役の途上で戦死したため,ユリアヌスの改革はその死と共に水泡に帰し,後世のキリスト教徒がユリアヌスに浴びせた「背教者」という悪名だけが遺った。
そして,ユリアヌスの死によりコンスタンティヌス大帝の血を引く男系子孫は断絶し,後継のローマ皇帝には,コンスタンティヌス大帝とは血縁関係のないヨウィアヌスが選出される。その後も皇帝は次々と交替し,ローマ帝国の混迷は深まるばかりであった。