第2話 『キリストの羊』テオドシウス1世
(1)はじめに
ローマ皇帝テオドシウス1世は,統一されたローマ帝国最後の皇帝であり,ローマ帝国のキリスト教化に大きな役割を果たしたことから,後世のキリスト教徒からコンスタンティヌス1世と同じく「大帝」の尊重付きで呼ばれている。
また,彼は半世紀以上にわたって東西ローマ皇帝の地位を占めたテオドシウス朝の開祖でもあり,ビザンツ帝国の歴史を語るにあたって欠かせない人物であることは確かであるが,同じ「大帝」ではあっても,コンスタンティヌス大帝がキリスト教を新たな「支配の道具」としてその振興を図ったのに対し,テオドシウス大帝はそのキリスト教に支配された結果,ローマ帝国のキリスト教化に大きく寄与した,という違いがある。
彼の「業績」を追っていくと,侵入する蛮族との戦いではたしかに一定の成果を挙げたものの,ローマ帝国のキリスト教化をあまりにも性急に推し進めて反対勢力を弾圧し,無用な内戦で帝国を疲弊させ,彼の死後に起こる内紛と帝国西方世界喪失の遠因を作った人物との感が否めない。筆者のようにキリスト教徒でない者から見れば,「大帝」どころか君主として合格点を付けることすらためらわれる人物である。
ちなみに,『ローマ人の物語』の著者である塩野七生氏は,同著の第14巻でテオドシウス1世の生きた時代を著述するにあたり,同時代の主人公を皇帝テオドシウス1世ではなく,精神面で彼を補佐しかつ支配した,ミラノの司教アンブロシウスとしている。筆者はそこまで極端な立場を採らないが,アンブロシウスがテオドシウス1世を含む同時代の皇帝たちに絶大な精神的影響力を行使したことは確かである。
皇帝テオドシウス1世の治世自体は,それのみで一章を割くに値するものではないが,テオドシウス1世など三位一体派の皇帝たち,あるいは皇帝たちを操ったアンブロシウスをはじめとする聖職者たちによって主導された,異教や異端に対する苛酷な迫害の歴史を併せて述べることで,はじめて1話を構成する内容となる。特に異教や異端に対する迫害の歴史については,これを分かりやすくまとめるため,本章においてテオドシウス1世の時代よりかなり前後にはみ出して言及するので,予めご了承願いたい。
(2)生い立ち
テオドシウスは347年,ヒスパニア地方のカウカ(現在のコカ)で生まれた。父はローマ帝国の上級将校であるテオドシウス。同名の息子であるテオドシウス1世と区別するため,父親の方は「大テオドシウス」の通称で呼ばれている。
ユリアヌスの跡を継いだ皇帝ヨヴィアヌスは,わずか7か月後に死体となって発見され,その跡を継いだのは蛮族出身の軍人皇帝ヴァレンティニアヌス1世であった。ヴァレンティアヌス1世は,広大な帝国の統治を弟のヴァレンスと二分し,比較的問題の少ない東方を弟のヴァレンスに任せ,自らは帝国西方を担当してその防衛戦争に奔走した。
10年間に及ぶ彼の治世は,一言で表現すればしばしば防衛線を越えて襲ってくる蛮族との戦いに東奔西走していたというものであったが,帝国防衛の任務はきちんと果たしていたと評価されている。近年では,テオドシウス1世の歴史的評価が低下したことに伴い,ヴァレンティニアヌス1世こそ統一ローマ最後の偉大な皇帝であり「大帝」の尊称に相応しい,という見解も出されているようである。
ヴァレンティニアヌスはキリスト教徒ではあったが,改宗の動機は単にキリスト教徒に改宗した方が得だからという理由だったらしく,その信仰心の薄さは同時代の聖職者を嘆かせるほどであった。彼はキリスト教の教理問題にも関心を示さず,異教や異端の撲滅にもほとんど関心を示さなかが,それ故に彼の統治下ではローマ帝国も比較的平穏であった。
大テオドシウスは,そんなヴァレンティニアヌス1世の許で軍功を重ね,軍隊内では皇帝に次ぐ地位にある騎兵長官の地位にまで登った人物であるが,376年に謀反の嫌疑をかけられて殺害されてしまう。父の許で軍功を重ねていたテオドシウスは,父に連座して殺されることはなかったが,生まれ故郷のカウカに戻るしかなかった。
大テオドシウスの処刑は,ヴァレンティニアヌス1世が死去し,その息子で若干16歳のグラディアヌスが即位した直後の時期に行われた。若いグラディアヌスは,即位後間もなくもたらされた騎兵長官謀反の報告に動転し,大して調べもせずに死刑の判断を下してしまったようである。
ところが,大テオドシウスが処刑された2年後,若い皇帝グラディアヌスに更なる凶報がもたらされる。父のヴァレンティニアヌスによって東方担当の共同皇帝に任命されていた叔父のヴァレンスが,ハドリアノポリスでゴート族相手に惨敗を喫し,ヴァレンス自身も戦死したというのである。この事件によって,テオドシウスの運命も大きく変わる。
ローマ帝国の皇帝であるグラディアヌスとしては,この事態を打開すべく何らかの手を打つ必要はあったが,自身は担当地域である帝国西方の防衛で手一杯であり,しかもこの時点で生存しているグラディアヌスの一族は,当時7歳の異母弟ヴァレンティニアヌス2世しかいなかった。
皇族の誰かを東方に送ることで事態の解決を図るという方策を断念せざるを得なかった若き皇帝グラディアヌスは,歴史上稀有と言ってよい思い切った行動に出た。自ら2年前に父を殺したという関係にあるテオドシウスを呼び出し,自分と対等の格を持つ東方担当の共同皇帝への就任を打診したのである。
当時31歳となっていたテオドシウスは,19歳の提案を受けた。テオドシウスの出した条件はただ1つ,無実の罪で処刑された父親の名誉回復であったが,グラディアヌスはこれも二つ返事で快諾する。こうして,一失業者であったテオドシウスは,東方担当のローマ皇帝に即位することになったのである。
(3)テオドシウス1世の治世
失うもののない状態で皇帝になったテオドシウスは,帝国再建のためにいかなる強権発動もためらわなかった。帝国全域に布告を出して,現役の兵士や退役兵の息子たちを強制的に軍隊に入隊させた。さらに,報奨金を出して兵役未経験者の入隊を募り,ゲルマン系の北方蛮族に対しても「自分の代わりを務める者を出せば,いつでも好きな時に除隊して帰ってよろしい」という条件で兵士を募集した。その上で従来の慣例を破り,帝国の東方で募集した兵士を西方へ,西方で募集した兵士を東方へ送るという,強引な兵士入れ替えまでやってのけた。
そんな兵士たちを率いながら,テオドシウスはゴート族相手の戦いで大活躍し,ゴート族をイリリア地方にまで追い込んだ。しかし,テオドシウスはゴート族を従来のようにドナウ川の北方に追いやることはせず,ゴート族にドナウ川南方の定住地を与え,与えられた地で農耕に専念することを条件に,ローマ帝国の「同盟者」の地位を与えたのである。ゴート族が経済的に自立できるようになるまでは,状況に応じた食糧などの経済的支援を行うことまで約束した。
テオドシウスとしては,ペルシア王シャープール2世の死後,ササン朝ペルシアに強力な王が就任しローマ帝国に侵攻してくることを恐れており,ゴート族との戦いを早く終わらせようと考えた末のやむを得ぬ措置であったが,相次ぐ戦乱で人口が減少したドナウ川南岸の地にゴート族を入植させたことで,どの程度経済的成果を挙げられたのかは,正確な統計もなく研究もなされていないのでよく分からない。分かっているのは,後述するようにテオドシウスが「同盟者」である西ゴート族を厄介者扱いしていたこと,西ゴート族がテオドシウスの死後直ちに反乱を起こしたことだけである。
おそらく,根っからの蛮族であるゴート族は,定住地を与えられてもその地で農耕に励むことはせず,ローマ軍の下で戦いつつ経済援助を受け続けることを選んだのであろう。ゴート族の大量入隊により帝国の軍事力はいくらか増強されたが,国庫負担は増すばかりになった。
なお,シャープール2世は,即位時の事情で生まれる前から王となることが決まっていた人物であり,その在位期間(生没年と同じ)は309年から379年までという異例の長期間に及んでいた。卓越した軍事的才能の持ち主ではなかったものの,成人して自らが政治の実権を握り国内を安定させると,おそらくディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世も改革も参考にしつつササン朝の中央集権化を推し進め,軍事的には先々代ナルセ1世の時代にローマに奪われたメソポタミア地方の奪回に執念を燃やし,26年にわたる戦いで多くの犠牲を出しながらも,ローマ皇帝ヨウィアヌスとの講和でようやくそれを実現したという業績の持ち主であり,ササン朝の歴史を飾る名君の名に十分値するだろう。
テオドシウスは,そのようなシャープール2世の死後,彼と同様ないしそれ以上に強力な人物がササン朝ペルシアの王位に就き,ローマ帝国に対し更なる軍事的攻勢を掛けてくることを恐れていたわけであるが,そのような心配は杞憂に終わった。シャープール2世が亡くなった後,ササン朝ペルシアは大貴族の台頭やフン族,次いでエフタルといった遊牧民族の侵入に苦しめられ,国王も短期間で次々と入れ替わり,ローマ帝国に対して大規模な軍事的構成を掛ける余裕はなくなっていた。
ササン朝ペルシアとローマ帝国との関係は,テオドシウス1世が即位した4世紀末から5世紀末にかけて,多少の小競り合いがあった程度で概ね平和な状態が長く続いた。ササン朝ペルシアが再びローマ帝国の軍事的脅威となるのは,カワード1世がローマ帝国への侵攻を始めた502年以降のことである。
もっとも,東方の心配をする必要はなかったと言っても,テオドシウスとローマ帝国に安寧の日々が訪れることはなかった。383年,西方担当の皇帝グラディアヌスが,兵士たちの反乱により殺された。西方担当の皇帝には,グラディアヌスの弟であるヴァレンティニアヌス2世が即位したが,この人物は実のところ何の役にも立たなかった。
当時,帝国西方の辺境であるブリタニアでは,マグヌス・マクシムスという人物が皇帝を僭称しており,グラディアヌスはこのマクシムスを討伐しようとして敗死したのだが,ヴァレンティニアヌス2世はこのマクシムスを共同皇帝として受け入れることで,マクシムスと講和した。テオドシウスも,一度はマクシムスの帝位を承認した。
しかし,マクシムスに足許を見られたのか,387年,マクシムスによってヴァレンティニアヌス2世は本拠地のイタリアを追われ,テオドシウス1世の許を頼ってきた。ヴァレンティニアヌス2世は支援の見返りとして,妻を亡くしていたテオドシウスに,自分の姉妹にあたるガッラを嫁がせた。
これを受けたテオドシウスは,388年にマクシムスを倒して帝国西方を回復したが,その後もテオドシウスは帝国西方の首都メディオラニウムに留まり,政治の実権をヴァレンティニアヌスに返そうとはしなかった。ヴァレンティニアヌス2世の住居はヴィエンヌへと移され,彼はその後も政治的実権を回復できないまま,392年にヴィエンヌの自宅で謎の死を遂げた。
ヴァレンティニアヌス2世は若年である上に皇帝としての器量も兄に大きく劣っており,母親により熱心なアリウス派に育てられていたことから,三位一体派のキリスト教を帝国の国教にしようとしていたテオドシウスにとっては邪魔な存在であったのだろう。
しかし,ヴァレンティニアヌス2世が死んだ後も,テオドシウスがすんなり東西ローマを統べる唯一の皇帝になれたわけではなかった。テオドシウスが西方を任せていたフランク人の将軍アルボガストは,ヴァレンティニアヌス2世の死後は自分が帝国西方の皇帝に任命されるものと期待したが,後継の西ローマ皇帝を誰にするかテオドシウスが明確な返答を与えなかったために,アルボガストは自分の友人である元老院議員のエウゲニウスを西ローマ帝国の皇帝に推挙し,ローマの元老院もエウゲニウスの皇帝即位を承認したのである。
エウゲニウスはキリスト教徒であったが,グラディアヌスやテオドシウスのように熱心かつ不寛容なキリスト教徒ではなく,伝統的宗教の復活を望むローマ市民たちの意見を容れて,グラディアヌスによって破壊・撤去されていた古代ローマの伝統的宗教の復活に私財と公費を投入したのである。こうした政策はローマ市民や元老院からの人気を集めたが,テオドシウスとの関係は悪化し,テオドシウスは自ら軍を率い,エウゲニウスを討伐することとなった。エウゲニウス側は,皇帝の擁立者である将軍アルボガストがテオドシウス軍を迎え撃った。
394年,両軍はフリギドゥス河畔で対陣した。会戦初日はアルボガスト軍が善戦したが,将校数人が身の安全と引き換えにテオドシウス側に寝返ったほか,会戦2日目には戦場に猛烈な突風が吹いてこれがテオドシウス側の有利に働き,戦闘はテオドシウスの大勝に終わった(フリギドゥスの戦い)。会戦に敗れたアスボガストは,数日間にわたる逃亡の末に自殺し,降伏して寛恕を願ったエウゲニウスは,テオドシウスによって国家反逆罪の罪で処刑された。
これによってローマ帝国は,ようやく東西ともにテオドシウスの手中に帰したが,テオドシウスは翌395年1月に冬営先のメディオラニウム(ミラノ)で亡くなったため,ローマ帝国唯一の皇帝でいられた期間は,わずか4か月ほどでしかなかった。
(4)キリスト教の国教化
コンスタンティヌス1世や,その次に統一ローマ帝国の皇帝となったコンスタンティウス2世は,キリスト教振興策を採ってはいたが,いずれも自身は死の間際になるまでキリスト教の洗礼を受けようとしなかった。しかしテオドシウスは,まだ皇帝になって間もない379年に大病を患い,自分はこの病気で死ぬかも知れないと思ったのか,滞在していたテッサロニケ司教の勧めで洗礼を受け,キリスト教徒になってしまったのである。
そして,テオドシウスが生死の境をさまよう程であった重病は,意外にも簡単に快癒し,翌年からテオドシウスは精力的に活躍を続けるのだが,テオドシウス自身はこれを,洗礼を受けたが故の神の恩寵だと信じ込んでしまい,「敬虔な」キリスト教徒になってしまった。そして,テオドシウスを帝位に就けたグラディアヌスも,幼いころからキリスト教徒としての教育を受け,敬虔なキリスト教徒である点では同じであり,しかも両名ともアリウス派ではなく三位一体派であった。
テオドシウスの即位以前,帝国の東方ではアリウス派がかなりの勢力を誇っており,アリウス派と三位一体派が激しく争っていた。ハドリアノポリスの戦いで戦死した東方担当の皇帝ヴァレンスはアリウス派であったため,帝国の重大な危機であるにもかかわらず,東方の三位一体派キリスト教聖職者たちは,ヴァレンスの戦死を聞いて歓声を挙げたという。
そんなヴァレンスの後を受けて東方担当の皇帝となった,敬虔な三位一体派の信者であるテオドシウスは,異端者を取り締まる勅令を連発して,アリウス派をはじめとする異端者を厳しく処罰した。
テオドシウスによる異教と異端の迫害
テオドシウスの勅令によって,異端の教えを説くことや聴くこと,聴くための場所を提供すること,さらには異端者が集まっていることを知りながら司法関係者がこれを告発しないことすらも犯罪とされ,これらの「犯罪」を犯した聖職者には優遇措置の剥奪と追放,一般信徒には資産没収などの刑が科された。さらに,聖職者と一般信徒の区別なく,幾度もこの種の「犯罪」を犯した者には,死刑を科されることも稀ではなかった。
こうして,ヴァレンス帝時代には帝国東方でかなり有力な宗派となっていたアリウス派は,テオドシウス帝の容赦ない弾圧によって壊滅的な打撃を受け,以後アリウス派が帝国の東方で支配的な宗教勢力になることはなくなった。そして三位一体派のキリスト教は,正統なキリスト教であるという趣旨を強調するために,この頃から西方ラテン語では普遍的なものを意味する「カトリック」,東方ギリシア語では正統なものを意味する「オルトドクス」の名称で呼ばれるようになった。両者は後年になると対立し別宗派を構成するようになるが,本来両者は対立する概念ではなく,少なくともこの時代には同一の宗教であった。本稿では東西教会を区別する必要が生じた場合を除き,この正統教義とされた三位一体派を「カトリック」と呼ぶことにする。
「異端」のキリスト教徒が弾圧される一方,未だキリスト教徒になっていない「異教徒」も迫害を免れられなかった。敬虔なキリスト教徒である皇帝の勅令により,まずキリスト教以外の公的な祭儀が禁止され,間もなく私的な祭儀も禁止された。そして,キリスト教以外の神殿は教会に改造するよう勅令が出され,キリスト教以外の神を祀った神像は破壊するよう命じられた。
そして,帝国の東方では392年に,西方では394年に,キリスト教はローマ帝国の正式な「国教」となり,キリスト教以外の宗教はすべて「邪教」と断じられてしまったのである。古代ギリシアのオリンピックも邪教の祭典とされ,393年に廃止された。
敬虔なキリスト教徒の皇帝を後ろ盾にして勢いづくキリスト教徒と,これに抵抗する異教徒との間には,帝国の各地で紛争が絶えなかった。しかし,キリスト教徒による暴力的な行為を皇帝に訴え出ても,皇帝の決定はほとんどがキリスト教徒に有利なものばかりであった。
ある日,シリアの北東部で,テオドシウスの政策に勢いづいたキリスト教徒が,ユダヤ教のシナゴーグを襲撃して焼き払うという事件が発生した。その報を受けたテオドシウス帝は,さすがにそのような暴力的行為は行き過ぎと考え,犯人を厳しく処罰するよう命じると同時に,その地の司教に,司教区の費用でシナゴーグを再建し,ユダヤ教徒に贈るよう命じた。
これに対し,ミラノの司教アンブロシウスは,異教の施設の建設にキリスト教会の資産を用いるのは,神に対する冒涜だとして厳重に抗議したが,自分の裁きが公正なものだと確信していたテオドシウスは,その抗議を無視した。しかし,テオドシウスがミラノを訪問し,アンブロシウスが信者に向かってユダヤ教徒を猛烈に非難する演説をしているのを聴いているうちに,テオドシウスは怖くなった。
「何人も神から受けた恩恵を忘れることは許されない」というアンブロシウスの言葉は,神の恩恵によって自分の病が回復したと信じているテオドシウスには,「自分も神の恩恵に背くような行為をすれば,帝位はおろか命さえも失うかも知れない。神の恩恵に逆らって命を失えば,死んでも永遠に地獄の業火で焼かれ続けるかもしれない」と聞こえてしまうのである。
結局,テオドシウスはアンブロシウスの「忠告」を聞き入れ,勅令によりキリスト教会の費用でシナゴーグを再建せよとの命令を撤回するとともに,今後ローマ帝国の法による保護は,キリスト教徒でない者に対しては制限される,とまで宣言したのだった。
また,390年にはギリシアのテッサロニケで,人気のある戦車競走の騎手が投獄されたことをきっかけに民衆の暴動が発生し,テッサロニケの長官をはじめとする多くの行政官が殺される事件が起きた。
テオドシウスは軍を派遣して暴動を鎮圧し,これによって多くの犠牲者が出たが,これに対しアンブロシウスは,軍による制圧が限度を超えて残酷であったために罪もない多くの人々が犠牲になったとして,それを命じた皇帝は責任を負うべきである,皇帝が公式に贖罪の意思を示すまでは,神の家である教会に入ることは許されないという厳重な抗議文を皇帝に送りつけた。テオドシウスは,それでも8か月間は抵抗したが,最終的には自ら教会に和解を申し入れ,大衆の面前で司教の前に跪き,罪の赦しを請うたのである。
司教アンブロシウス
ミラノの司教アンブロシウスなる人物が,仮にも皇帝たる存在に向かって,なぜかくも大きな影響力を行使できたのかという問いに応えるのは簡単ではない。一言で言えば,アンブロシウスが一介の聖職者という枠を大きく超えた,類まれな政治的才能の持ち主であったと表現するしかない。
アンブロシウスは330年生まれで,父はローマの首都長官も務めた帝国の高級官僚であった。ローマの名家の出に相応しい高度な教育を受け,父と同様にローマ帝国の高級官僚として順調な出世コースを歩んでいたのだが,43歳のとき,ミラノでアリウス派と三位一体派との間で勃発した武力抗争の収拾に務めていたところ,その頭脳明晰ぶりに感嘆した三位一体派からミラノの司教にスカウトされ,当初アンブロシウスはこれを辞退し逃走しようとしたが民衆によって捕らえられてしまい,急遽キリスト教に改宗して司教の座に収まったという経歴の持ち主である。もっとも,司教の座を利用して私財を蓄えることは全く考えていなかったようで,彼は司教就任後直ちに,全財産のキリスト教会への寄附を公表している。
ミラノは,ヴァレンティニアヌス1世の時代から帝国西方の首都に位置付けられており,当然ながら皇帝と接する機会が多かった。そして,彼の司教就任後間もない375年にヴァレンティニアヌス1世は急死し,敬虔なキリスト教徒として育てられたグラディアヌスが16歳の若さで帝位に就いた。「羊」であるキリスト教徒にとっては「羊飼い」の立場にあり,しかも行政官としてのキャリアが長く頭脳明晰な司教アンブロシウスを,若きグラディアヌスが一種の政治顧問として頼りにしたとしても不思議ではなかった。アンブロシウスも,しばしば皇帝のために外交使節を務めるなどして,その期待に応えた。
帝国東方の皇帝となったテオドシウスも,大病を機に敬虔なキリスト教徒となったことではグラディアヌスと同じであり,しかもグラディアヌスが死んだ後は,西方の動乱を鎮めるためしばしば帝国西方に出向いており,西方に出向く以上はその首都であるミラノを訪問せざるを得ないから,やはりアンブロシウスの影響力から逃れることはできなかったのであろう。
なお,392年にローマで皇帝を名乗ったエウゲニウスは,アンブロシウスにも帝位の承認を求めたが,アンブロシウスはエウゲニウスが異教復活政策を採っていることを理由に断固これを拒否し,エウゲニウスの破滅を予言している。
アンブロシウスは,宗教的熱狂とは無縁の人物であったが,ローマ帝国を三位一体派のキリスト教でまとめようとする,確固たる信念の持ち主であった。アンブロシウス自身は自叙伝のような著書を書き残していないので,彼が何を考えていたのかは想像するしかないが,行政官時代に帝国の各地で繰り広げられている宗教的混乱を目にした結果,三位一体派のキリスト教でローマ帝国をまとめることが帝国を救う唯一の道だ,などと考えていたのかも知れない。
その他,アンブロシウスは帝国高級官僚の常としてギリシア語にも精通していたことから,教義解釈では先進地域である帝国東方の教父たちの思想を学んで,西方教会における教義解釈のスタンダードを作り上げた。身近な信仰対象を求める信者の需要に応えるため,「守護聖人」制度を創設したのも彼である。
395年1月にテオドシウス1世がミラノで亡くなると,アンブロシウスはその功績を大いに讃える弔辞を読み,そのおかげでテオドシウス1世はキリスト教会から「大帝」の尊称を贈られることになる。アンブロシウスはその2年後に大往生を遂げ,その功績から「聖人」に叙せられた。
(5)キリスト教国教化の地域別影響
テオドシウス1世によるキリスト教の国教化,そして異教や異端を迫害する政策がどのような影響を与えたかは,地域ごとにまちまちであった。キリスト教の新しい首都として建設されたコンスタンティノポリスをはじめ,キリスト教徒がもともと多数を占めていた多くの地方では,異教の信仰は大した混乱もなく消えていった。
しかし,当時帝国第二の都市であった,エジプトの大港湾都市アレクサンドリアでは事情が大きく異なっていた。当時のアレクサンドリアは人口約30万に及び,異教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒の信仰施設が,合わせて400箇所ほどもあった。この都市でもキリスト教の勢力は強く,アレクサンドリアの大主教はローマ帝国に5人しかいない大主教の1人であった。
一方,アレクサンドリアには活動的で声高な,人口も多い異教徒の地域共同体も抱えており,また古典研究の中心として,アテネのアカデミアに次ぐ重要な哲学学校と,古代ギリシア文学のパピルス49万点を収める図書館の存在を誇りにしていた。壮麗な神殿も数多く,もっとも壮麗だったのはセラぺイオン(セラピス神殿)で,その列柱式講堂にはセラピス神の巨大な像がそびえていた。
以下,時系列的にはテオドシウス1世の治世から大きく前後にはみ出してしまうが,アレクサンドリアをはじめとする帝国各地において,異教勢力の迫害がどのような形で行われたのかを概説する。
帝国東方における影響
アレクサンドリアにおけるキリスト教勢力と異端勢力の争いは,テオドシウス1世が即位する以前から始まっており,その多くはキリスト教勢力が異教の神殿を教会に改造しようと企み,異教徒側がこれに反発するという形で行われていたが,テオドシウス1世の即位により,キリスト教側の優位は決定的になった。もっとも,391年にテオドシウス1世がセラピス神殿の取り壊しを許可すると,これに反対する異教徒たちは武器を持ってキリスト教徒に襲い掛かり,その後セラピス神殿に立て籠もった。
両者の睨み合いが続き,すみやかに神殿を引き渡せば暴動参加者に恩赦を与えるという皇帝の勅令が読み上げられて,ようやく事態は収拾された。ほとんどの異教徒がこの申し出を受け容れて神殿を去った後,この有名なセラピス神殿は完全に破壊されたが,アレクサンドリアにいる多数の異教徒を強制的に改宗させることまでは出来なかったのである。
その後,アレクサンドリアでは少数派となった異教徒の迫害が続いたが,その中でも最も衝撃的な事件とされるのが,415年のヒュパティア惨殺事件である。ヒュパティアはこの町の哲学学校の教師であり,彼女の教え子の中には,キリスト教徒・異教徒の別を問わず,当代の最も優れた知識人がいた。ヒュパティア本人はキリスト教に改宗せず,キリスト教の発想では女性に相応しいと考えられていた裏方の役割を拒否したこともあって,アレクサンドリア教会の一部から敵視されていた。ある日彼女は,馬車で街路を通っていくところをキリスト教徒の一団に襲われて馬車から引きずり出され,教会へ連れて行かれて衣服を剥ぎ取られ,祭壇で鞭打たれて死んだ。この凄惨な事件は,異教徒はもちろん,多くのキリスト教徒の目にもおぞましく映った。
この事件はキリスト教化の過程に極めて暗い影を投げかけ,前述のゾシモスが著書の中で訴えたように,コンスタンティヌス1世が極めて不道徳的な理由で始めたキリスト教の国家宗教化という愚かな政策によって,学問と徳のある哲学者が自らの信念ゆえに迫害されたという主張に説得力を持たせることになった。
パレスティナ属州のガザにおける異教の排斥は,アレクサンドリア以上に困難を極めた。ガザには農業と豊穣の神マルナスを祀るマルネイオンという巨大な神殿があり,この町の人口約2万人のうちキリスト教徒はごく少数しかいなかった。395年に強硬派の修道士ポルフュロスがこの町の主教に選ばれると,帝国当局に訴え出てマルナス神殿の閉鎖を命じる勅令を得たが,少数派であるこの町のキリスト教徒たちは異教徒たちに街路で襲われて鞭打たれ,ガザの役人たちも混乱を恐れてマルナス神殿の閉鎖を強行しようとはしなかった。
ポルフュロスは首都へ行き皇帝に直訴することを決意したが,当時既にテオドシウスは亡くなっており,帝位は長男のアルカディウスが継いでいた。ポルフュロスは皇后エウドクシアとの面会を果たし,皇后は訴えに同情的であったが,当の皇帝アルカディウスは皇后に詰め寄られても,ガザの豊かな異教徒たちからは多額の税金が入ってくる,敵に回したくないと反論した。それでもポルフュロスはくじけず,皇后が男児(後のテオドシウス2世)を産んでその洗礼が行われる日に,嘆願書を持って聖ソフィア教会の扉の外に立つと,皇后の黙認のもと,赤子を運ぶ従者に請願書を託すことに成功した。
かくして,皇帝は宮殿における祝宴に集まった人々の前で,請願を受け取らざるを得ない事態となった。アルカディウスはマルナス神殿の破壊命令に乗り気ではなかったが,既にキリスト教の国教化は父帝以来の国策となっており,衆人環視の前でその国策に則った請願を却下することは出来なかった。屈服したアルカディウスは神殿の破壊命令を出し,マルナス神殿の破壊は402年5月に執行された。
マルナス神殿の破壊に武力が必要であることは明白であったため,ガザにはキュネギウスという役人が兵士を伴って進軍したが,異教徒たちも戦わずに屈するつもりはなく,神殿の重い扉を守り固めた。そこで兵士と地元のキリスト教徒は,防衛されていない他の神殿を攻撃し,略奪して焼き尽くした。その10日後,マルナス神殿の扉には兵士やキリスト教徒たちの手で樹脂・硫黄・豚油が塗られ,焼夷剤に火がつけられると扉が燃え上がり,炎は瞬く間に建物全体へと広がり,マルナス神殿はおそらくその中に篭っていた異教徒たちもろとも,その日の夕方には燻る残骸となり果てた。マルナス神殿の跡地には,5年後に新しい教会が完成し,焼け残った大理石の敷石は市場通りに再利用された。
しかし,本来マルナス神殿の敷石は,誰も歩くことを許されない神聖な場所であり,この事件が起きた一世代後になってもなお,異教徒の多くは大理石の舗道を穢すことのないように市場を避けていたという。
一方,帝国東方ではユダヤ人の排斥も大きな問題となった。ローマ帝国では,70年と135年にパレスティナのユダヤ反乱が鎮圧された後,多数のユダヤ人がエルサレムやパレスティナを離れ,帝国の各地に離散するようになったが,特にエジプトとシリアでは大規模なユダヤ人居留区が存在し,しかもその多くは繁栄しており,ユダヤ人共同体は隣人と平和的に共存していた。
ところが,キリスト教がローマ帝国の主要な宗教となるにつれて,事態は変化していった。まだ改宗して間もないキリスト教徒の多くは,キリスト教とユダヤ教の区別が付かず,好き好んでキリスト教の教会とユダヤ教のシナゴーグ(礼拝堂)の両方に通うようになり,このような動きに地方の聖職者たちは神経を尖らせ,キリスト教とユダヤ教の違いについて熱心な説教活動を行うようになった。
こうした説教者の中で最も有名だったのが,後にコンスタンティノポリス総主教となるヨハネス・クリュソストモスであった。彼が386年から387年にかけてアンティオキアで行った8つの連続説教は,キリスト教徒に万雷の拍手をもって迎えられた。彼が「火の噴くような」勢いで行ったとされる説教は,キリスト教の死に責任があるのはユダヤ人である,それゆえにユダヤ人には贖いの機会,弁解の余地はないなどと,内容も極めて過激なユダヤ人非難に終始していた。彼が本心からそう思っていたのか,それとも向こう受けを狙う誘惑に負けて必要以上に過激な非難に走ってしまったのかは,今日では知る由もない。
このような見解が帝国内で広がると,キリスト教徒とユダヤ教徒の衝突は避けられなくなった。アレクサンドリアでは,413年にキリスト教徒とユダヤ教徒の大規模な武力衝突が発生し,双方に多数の死傷者が出た。その後数日のうちにアレクサンドリアのユダヤ人居留区は撤去を余儀なくされ,彼らの財産の大部分はキリスト教徒が接収した。
もっとも,アレクサンドリアの長官はこのユダヤ人追放に激怒した。これほど豊かな多数の住民を失えば税収入が激減するからである。ユダヤ人に対する帝国当局の態度は必ずしも一貫せず,テオドシウス1世はユダヤ人が帝国の官職に就くことを禁止し,388年にはキリスト教徒がユダヤ教徒と結婚することを禁止する法を発布したが,テオドシウス2世時代の425年にはユダヤ人を保護し,その家や礼拝堂を襲うことを禁じた特別法が発布された。ユスティニアヌス1世時代の531年になると,ユダヤ人は法廷においてキリスト教徒に不利な証言が出来ないとの通達が出された。その後もユダヤ人居留区はビザンツの都市に存続したが,公認の宗教に属しないため,多かれ少なかれ不利益を被った。
その他,キリスト教が国教となるに従って,古代のローマ帝国では放任されていた同性愛行為も規制の対象となった。342年には男性が他の男性と結婚することを禁じる,ただし明確な罰則は定めないという曖昧な内容の勅令が発布され,その約50年後には,同性愛の売春行為を禁じるという新法が発布された。ユスティニアヌス1世時代の533年になると男性間の性的関係を明確に禁止する法が発布され,この法によって多くの著名人が告発され拷問や追放の刑を受けたが,奇妙なことに,処罰されたのはすべてキリスト教の主教であった。
以上のように,キリスト教の国教化に伴う諸々の不寛容な政策は,一種の文明破壊行為であり,経済的にも豊かなユダヤ人や異教徒を迫害して帝国の税収を減少させ,また迫害の対象となった異教徒や異端者の少なくない数が隣国のササン朝ペルシアへ亡命し,これによってローマ帝国の国力は少なからず減衰したものと考えられるが,それでも帝国の東方においては,少なくとも6世紀頃までは,こうした不寛容なキリスト教国教化政策が帝国自体に破滅的な結果をもたらすことは無かった。
帝国西方における影響
一方,帝国西方においては,司教アンブロシウスのお膝元であるミラノのようにカトリック一色となっていた地域もあるが,全体として帝国東方ほどカトリックが広まっておらず,影響はより深刻なものとなっていた。
帝国五大都市の一つカルタゴを中心とする北アフリカでは,キリスト教自体は普及していたものの,ディオクレティアヌス帝による迫害から逃れるためやむなく異教に改宗し,その後キリスト教に戻ろうとする者に対しカトリックより厳しい態度を取る,ドナートゥス派という北アフリカ独自の宗派が多数派を占めていた。
ところが,キリスト教の国教化に伴いドナートゥス派は異端とされることになり,キリスト教史では今でも教父としてその名を知られるアウグスティヌスがドナートゥス派を徹底的に攻撃したこともあり,この地域におけるドナートゥス派は少数派に転落した。しかし,ドナートゥス派は貧しい下層民の間で根強く支持され,カトリックとドナートゥス派の争いは富める者と貧しい者の階級対立という様相を呈することになった。ドナートゥス派はカトリックを深く憎悪し,その解決はアウグスティヌスの力をもっても容易なことではなかった。
最も影響が深刻だったのは,帝国の旧首都ローマである。ローマは伝統的なユピテル信仰の総本山であったため住民も圧倒的に異教徒が多く,当然ながらひどい迫害を受け続けた。
ユピテルを最高神とする古代ローマ帝国では,伝統的に皇帝が最高神祇官を兼ねるものとされていたが,敬虔なキリスト教徒であるグラディアヌスは,皇帝即位にあたり最高神祇官への就任を拒否した。
グラディアヌスは続いて,ローマの建国当時から続いていた「ウェスタの巫女」制度を廃止し,これによって巫女たちが守ってきた「聖なる火」も消えてしまった。祭祀の財源となっていた土地も全て没収。さらには元老院会議場の正面に安置されてきた,勝利の女神ヴィクトリアの像も撤去させてしまった。
グラディアヌスが殺された後も迫害は止まらず,マクシムスの討伐を終えたテオドシウスはその足でローマを訪れ,元老院で議員たちに対し,「あなた方はローマ人の宗教としてユピテルを良しとするか,キリストを良しとするか」と問うたのである。元老院議員はこの問いに関して討議したが,結局はテオドシウスの求める「キリスト」を採択せざるを得ず,それまで最高神であったユピテルには有罪が宣告された。
しかし,このような措置は,テオドシウスの武力を背景にした脅迫によって行われたものであり,元老院はもとよりローマ市民の多くも,伝統的なローマの宗教に対するこのような措置を望んでいたわけでは全く無かった。
392年,ローマでエウゲニウスが皇帝に擁立された際,前述のとおり部下たちはローマの伝統的宗教の復活を強く進言し,これに応じたエウゲニウスは元老院やローマ市民から大きな支持を集めたものの,テオドシウスによってエウゲニウスとその一党は討伐され,ローマの元老院と市民たちは皇帝への服従とキリスト教への帰依を誓約させられた。
もっとも,武力による強制的な改宗要求が功を奏するはずもなく,相変わらずローマでは伝統的な異教が優勢であった上に,キリスト教を強制するテオドシウス1世を暴君と認識するようになり,もはやローマの地に皇帝など不要だと考えるようになった。更に,テオドシウスが対立皇帝マクシムスやエウゲニウスを武力で討伐するなど内戦を繰り返したことで,帝国西方の防衛力は著しく低下してしまい,帝国のはるか東方からやってきたフン族の勢いに押されたゲルマン諸民族の侵入を防ぐ力は,もはや帝国西方には無くなっていた。
テオドシウスの死後,その遺言によりローマ帝国の東方は長男のアルカディウス,西方は次男のホノリウスが統治するという分担統治体制が敷かれる。この体制は,概ねヴァレンティニアヌス1世による兄弟分割統治制を踏襲したものであり特に目新しいものではなかったが,比較的安泰だった帝国東方の統治を担当したアルカディウスと,内憂外患により破滅の寸前にあった帝国西方の統治を担当させられたホノリウスの運命は,はっきりと明暗を分けることになる。