第3話 失われた西方,生き残った東方
(1)ローマ帝国は「分裂」したのか?
ローマ帝国に関する伝統的な歴史観では,395年のテオドシウス1世死去を契機にローマ帝国は東西に「分裂」し,西ローマ帝国は476年に「滅亡」したと説明されている。このような歴史観は,18世紀に文学的表現として生み出され,以後慣用的に使われるようになったものである。
しかし,長男アルカディウスを東方担当の皇帝,次男ホノリウスを西方担当の皇帝としたテオドシウス1世の意図がローマ帝国の分割ないし分裂ではなく,ディオクレティアヌス帝以後しばしば行われた共同統治体制であったことは明らかである上に,結果的に両者の連携があまり上手く行かなかったとはいえ,両者の関係は4世紀のローマ帝国でしばしば見られように,深刻な内戦を引き起こすほど険悪なものではなかったし,437年に東の皇帝テオドシウス2世によって発布された『テオドシウス法典』は,帝国西方でも直ちに発布され施行されている。
そして何より,テオドシウス1世以後の歴代ローマ皇帝も,同時代のローマ人たちも,ローマ帝国が東西に分裂したと認識していたわけではなく,「第2のローマ」たるコンスタンティノポリスに君臨する東方担当の皇帝こそがローマ帝国の主であり,西方担当の皇帝はせいぜいその弟分に過ぎないというのが概ねの共通認識であった。
帝国の西方がゲルマン諸民族を中心とする蛮族たちに次々と侵食され,西方におけるローマ帝国の領土としてほぼ唯一残ったイタリアでも,476年のロルムス・アウグストゥス退位を最後に,皇帝として帝国西方を実効統治する者はいなくなり,その後西方担当のローマ皇帝という称号は,時のローマ皇帝ゼノンによって正式に廃止されることになった。しかし,「皇帝」不在となったイタリアを実効支配したオドアケルやその後釜となった東ゴート王テオドリックもローマ皇帝の宗主権を認めており,476年に西ローマ帝国が「滅亡」したという歴史観は,あまりにも現実からかけ離れている。
したがって,筆者はローマ帝国が東西に「分裂」し,西ローマ帝国が476年に「滅亡」したとする伝統的な歴史観を採用せず,皇帝と宮廷についてはテオドシウス1世の定めた東西の分担統治制が固定化したものの,東方の圧倒的優位によりローマ帝国の統一性自体は5世紀においても概ね維持されており,ただ蛮族の侵入と内紛によりローマ帝国が徐々に西方世界の支配権を喪失していった,という歴史観に基づいてこの第3話を叙述することにする。
このような観点から,本稿においては「東方担当のローマ皇帝」を「東皇帝」,「西方担当のローマ皇帝」を「西皇帝」と呼ぶことにし,西皇帝の地位が廃止されたゼノン以後の皇帝は単に「ローマ皇帝」と呼ぶことにする。ただし,皇帝の有無にかかわらずローマ帝国の政府組織は,少なくともユスティニアヌス1世の時代に至るまで東西それぞれに存在し続けたので,これらに対しては「東ローマ宮廷」「西ローマ宮廷」など適宜の用語を用いるものとする。
(2)西方世界におけるローマ帝国の凋落
前章で述べたとおり,395年にテオドシウス1世が亡くなると,長男アルカディウスは東皇帝となり,次男ホノリウスは西皇帝となった。この兄弟は,特に賢愚の差があったわけではなく,両皇帝に対する歴史家の評価は,ともに無能であり政治に関心を示さない人物であったというものでほぼ一致している。
しかし,東皇帝となったアルカディウスは,有力者のアンテミウスらが実際の政務を取り仕切ったため,少なくとも彼の在位中に帝国の基礎が揺らぐような事態が起こることはなかったとされ,アルカディウスが408年に死ぬと,帝位は息子のテオドシウス2世へと平穏に受け継がれた。そのため,アルカディウスは単に歴史上影の薄い皇帝として記憶されるにとどまり,その愚帝ぶりが殊更に強調されることはなかった。
一方,西皇帝となったホノリウスは,423年死亡なので兄のアルカディウスよりは長生きしたが,その治世中に歴史上有名な第1次「ローマ劫略」を招き,西方世界におけるローマ帝国の支配権を大きく瓦解させたことから,ローマ帝国を崩壊に導いた愚帝として歴史に大きく名を遺すことになってしまった。このような結果は,ホノリウスが(少なくとも兄に比べて)極端に愚鈍ないし無能な人物だったからではなく,父から託された西皇帝という任務が,明らかに彼の能力を超える過酷なものであったことに起因するものであり,またその任務が過酷なものとなったのは,ホノリウスが西方世界に圧政と災厄をもたらしたテオドシウス1世の息子であったことに大きく起因するものである。
スティリコの奮闘と死
西皇帝ホノリウスの宮廷は,当初ミラノに置かれていた。テオドシウス1世が死んだ当時,ホノリウスはまだ10歳,東の皇帝アルカディウスも若年であったため,ローマ帝国の政務は東西ともに両者の後見人であるヴァンダル族の将軍スティリコが取り仕切ることとなった。スティリコはテオドシウス1世の許で軍歴を重ねた人物であり,皇帝からの信任も篤く,テオドシウス1世の姪セレーナは,皇帝の養女としてスティリコに嫁いでいる。
ところが,テオドシウス1世が死んで間もなく,ローマの同盟者であった西ゴート族の族長アラリックは,ローマとの同盟を破棄して西ゴート王アラリック1世を名乗り,トラキア地方で略奪を行った。
アラリックの離反は,先帝テオドシウス1世の治世にそもそもの原因があった。西ゴート族はテオドシウスによって簒奪帝エウゲニウスの討伐に駆り出され,フリギドゥスの戦いで西ゴート族は1万人もの犠牲者を出したにもかかわらず,西ゴート族にはわずかな報酬しか与えられなかった。当時のローマ帝国では,テオドシウスは西ゴート族の兵を矢面に立ててなるべく多く死なせることが,正面の敵とゴート族の両方を弱体化させる最良の策だと考えていると噂された。これを恨みに思ったアラリックは,テオドシウスの死をきっかけにローマ帝国への反乱を企てたと伝えられている(正確な真偽の程は断定できないが,おそらく大筋では間違っていないと思われる)。
これに対し,スティリコは東西のローマ軍を率いて,ミラノを包囲した西ゴート軍を撃退する。スティリコはさらに,テッサリアでアラリックの軍を叩こうとしたが,アルカディウス帝の側近で親衛隊長官であったルフィヌスの画策により,アルカディウスは決戦直前になって東ローマ軍の撤退を命じたため,スティリコも軍を引き揚げざるを得なかった。
397年,スティリコはマケドニアで再びアラリックを破るも,アラリックは周辺の山岳地帯に逃走し,捕らえることは出来なかった。同年,西方ではアフリカでギルドーの乱が勃発し,スティリコはこれを鎮圧する。続いて,ラエティアでヴァンダル族とも戦った。
しかし,スティリコの勢力伸長を嫌った東ローマ宮廷のエウトロピウスは,398年,アラリックを東西ローマの境界地域であるイリュリクムの総司令官に任命し,アラリックを西ローマの担当地域に侵入するよう仕向けた。東ローマにとっても脅威となるアラリックを西に向かわせることで,東ローマの被害を回避するとともに,邪魔なスティリコの勢力を削ぐことも出来るので,一石二鳥だというわけである。
テオドシウス1世の死後早々に,このような東西ローマ宮廷による足の引っ張り合いが発生し,本来は東西ローマ皇帝双方の後見役だったはずのスティリコが,実際にはほとんど西方の問題に対処するのに精一杯となってしまったことが「ローマ帝国は東西に分裂した」という歴史観を発生させた一因であろうが,この種の政争は後のビザンツ帝国時代を含め,どこの国でも頻繁に見られる類のものであり,この程度のことで国家が分裂したと考えるのでは,正直なところ国家がいくつあっても足りないであろう。
若干話が逸れたが,ローマ帝国に反旗を翻してスティリコに敗れたはずの西ゴート王アラリック1世は,このようにして事実上東ローマ宮廷の支援を得て,勢力を回復するどころかさらに拡大させることに成功した。アラリックは401年にイタリアへ侵攻し,北イタリアを恐怖のどん底に陥れた。その報を聞いたスティリコは,当時ラエティアでアレマンノ族と戦っていたのだが,彼らの降伏を受け容れると,ブリタニアやガリアに展開していた兵士たちをかき集めて急遽イタリアに引き返し,402年にポルレンツィアの戦いでアラリックの軍を大いに破った。敗れたアラリック1世はヴェローナに立て籠もったがそこでも敗れ,イタリアから撤退した。
もっとも,西皇帝ホノリウスは,自分の居所であるミラノがアラリック侵攻の度に包囲されるのに恐怖を覚え,402年に首都をラヴェンナに移している。ラヴェンナはイタリア半島の東側にあり都市としての規模も大きくないが,周囲を泥沢地と湿地に囲まれているので陸側からの攻撃で陥落させるのは困難であり,海に面しているので帝国東方との行き来も容易であったことから,少なくともホノリウスが引き篭もる場所としては最適であった。以後,ラヴェンナはローマ帝国による西方統治の拠点として整備され,8世紀にランゴバルド王国に征服されるまで発展を続けることになる。
なお,このようなホノリウスの引き篭もり姿勢は,彼自身の無能や消極性のみに帰すべき問題ではない。この時点でもホノリウスはまだ成年に達していなかった上に,彼の父テオドシウス1世は,長い伝統を誇るローマの宗教と文化を破壊した暴君として憎まれており,その息子であるホノリウスは,父と同様にイタリアの臣民から憎まれていた。仮にホノリウスが西皇帝として自ら帝国防衛に立ち上がったとしても,ホノリウス自身にそのような軍事的才能があったかという問題以前に,臣民たちが圧政者の息子たるホノリウスに従って戦うかどうかは大いに疑問視された。結局のところ,ホノリウスの西皇帝としての権力基盤は極めて脆弱であり,実際には安全な場所で引き篭もる以外に生きる術を持たない無力な存在に過ぎなかったのである。
一方,ホノリウスに代わって帝国西方の防衛を一手に引き受けざるを得なかったスティリコは,406年にはイタリアに侵入してきたゴート王ラダガイススを撃破するが,イタリアのみならず帝国の各地で蛮族が侵入し,さらに各地の軍団や貴族たちがホノリウスを差し置いて勝手に西ローマ皇帝を次々と擁立する事態に直面し,自分の手勢だけでは到底解決できないことを悟らざるを得なかった。
そこでスティリコは,アラリック1世を同盟者として活用することを決めた。しかし,これまでの宿敵たる蛮族であり,しかも異端のアリウス派を信仰するアラリックを同盟者として領内に引き入れ黄金を贈るというスティリコの決定は,多くのローマ人たちの反発を招き,スティリコの妻セレーナさえも反対に回った。
そして,408年に東皇帝のアルカディウスが亡くなり,スティリコが東ローマの宮廷へ使者として赴いている間に,ホノリウスは側近の書記長官オリンピウスの讒言を受け,戻ってきたスティリコを謀反人として処刑してしまう。さらに,ホノリウスとオリンピウスは,スティリコの妻セレーナや息子エウケリウス,スティリコに仕えた幹部将校,そして西ローマ帝国の同盟者(フォエデラティ)として戦っていたゴート族やヴァンダル族兵士の妻子をも見せしめとして殺害した。これに憤慨したスティリコの旧部下や同盟者たる蛮族兵たちは,アラリック1世の許へ赴いてその配下となり,卑劣な西ローマに戦いを挑むよう懇願した。
ホノリウスによるスティリコ父子の処刑とその一派の粛清は,スティリコによって自らの帝位が脅かされるとホノリウスが誤解したという前提に立てば,心情的に理解できないこともない。スティリコ自身は紛れもない蛮族出身者であるため自ら帝位に就くのは無理があり,テオドシウス1世がスティリコを摂政に指名したのも彼ならば帝位を脅かすことはないとの配慮があったと考えられるが,スティリコの息子エウケリウスは母セレーナを通じて帝室と血縁関係にあり,スティリコが東ローマ宮廷の了解を得てエウケリウスを西ローマの帝位に就けようと考えるならば,それは必ずしも不可能事ではなかった。
スティリコは,もはやホノリウスによって粛清されるのは確実な状況となってもホノリウスに反旗を翻すことなく,ホノリウスの出頭命令に単身出頭し処刑された忠臣であり,ホノリウスの帝位を脅かす意志がなかったことは自身の死によって証明されたが,臆病なホノリウスにとっては,スティリコに自らの帝位を脅かす力があるということ自体が恐怖の対象であった。要するにホノリウスは,歴史上多く見られる凡人以下の君主たちが有能な将軍を粛清してきた事例と同様,有能すぎる家臣に取って代わられる恐怖心に勝てなかっただけなのである。
それでも,もはや蛮族たちから西ローマを守る最後の砦という感のあったスティリコを自ら亡き者にし,その配下の蛮族兵を敵に回したホノリウスの行為は,自身にとっても西ローマにとっても政治的自殺行為に他ならなかった。この困難な時期に問題の極めて多い西皇帝を務めることは,若い上に凡庸以下の人物であるホノリウスには所詮無理だったのである。
第1次ローマ劫略
408年,自らの天敵だったスティリコが西ローマ自身の手で亡き者となり,しかもスティリコの旧部下を吸収した西ゴート王アラリック1世はこの機を逃さず,イタリアへ侵攻してローマを包囲した。唯一のまとまった軍事力だったスティリコと配下の軍団を敵に回してしまった西ローマには,もはやアラリック1世に対抗する力は残されていなかった。
もっとも,アラリック1世による最初のローマ包囲は,ローマを兵糧攻めにし,ローマから大量の金銀財宝と4万人のゴート人奴隷解放を勝ち取るだけで終わった。しかし,翌409年,アラリック1世は第二次のローマ包囲を行い,ホノリウスに対しイリュリクム属州の割譲と,自らを帝国の総司令官に任命することを求めた。
これに対しホノリウスは,属州ブリタニアの放棄を宣言し,駐留する第20軍団をイタリアに呼び戻すことでアラリック1世の軍勢に対抗しようとした。もっとも,ブリタニアでは2年前からコンスタンティヌス3世なる人物が勝手に皇帝を名乗っており,ガリアに進出するなどして事実上ホノリウスに反旗を翻し,スティリコの部下によってガリアで撃退されていたのだが,もはや他に採るべき手段のないホノリウスは彼の帝位を追認し,事実上既に行われていたブリタニアの放棄も追認して,コンスタンティヌス3世に自分を救援するよう依頼したというのが実情であった。
おそらくは,ブリタニア軍団が帰還するまでの時間稼ぎを意図していたのであろうが,ホノリウスはラヴェンナに引き篭もりつつ,アラリック1世の要求に対しては言を左右にして結局は拒んだ。アラリック1世は交渉相手をローマの元老院に替え,元老院の承認を受けて首都長官のプリスクス・アッタルスを西ローマの皇帝に擁立した。これによって,ホノリウスは,ローマの元老院から正統な帝位を否認されることになった。
しかし,アッタルスはアラリック1世の総司令官就任を承認したものの,それ以外の交渉は難航し,アラリック1世はアッタルスを廃立してホノリウスと再交渉を試みるが,これも決裂。平和的解決を断念したアラリック1世は,410年8月24日,サラリア門からローマ市内に軍を突入させ,3日間にわたってローマで略奪を働いた。これが第1次ローマ劫略であり,この事件によって西方におけるローマ帝国の権威失墜は決定的なものとなった。
前述のゾシモスは,この第1次ローマ劫略が起こった410年で『歴史』の筆を置いている。彼の著書がバチカンの図書館に所蔵されていたということは,おそらく彼もローマかその近辺に住んでいたと推測されるが,彼のような「異教徒」には,ローマ劫略は父祖の信仰を捨てたローマ皇帝に対する神の怒りに見えたことだろう。ローマ劫略を招いた第一の戦犯はスティリコを処刑したホノリウスのようにも見えるが,真の戦犯はその父テオドシウス1世であった。国内の敵を除くことには長けていたが蛮族に対する対応は疎かであったというゾシモスの批判は,コンスタンティヌス1世よりむしろテオドシウス1世に当てはまるようにと思われる。
ホノリウスの死と帝位継承
アラリック1世は,ローマ劫略後間もなく病死し,後を継いだ弟のアタウルフはガリアに軍を進め,ローマ攻囲中に西ゴート軍の捕虜となっていた,ホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアと結婚した。この結婚は411年または414年のこととされている。アタウルフとガッラとの間にはテオドシウスという名の息子が生まれたが早世し,アタウルフが415年に死去し,翌年西ゴート族と西ローマとの間に講和が成立すると,ガッラは和平の証としてホノリウスの許へ返還された。
一方,ホノリウスによって共同皇帝に任命されたコンスタンティヌス3世はその後ホノリウスと対立し,411年,ホノリウスの派遣した将軍コンスタンティウスの軍に敗れ戦死した。スティリコの信奉者であったとされるコンスタンティウスは,412年にオリンピウスを殺して西ローマの軍権を掌握すると,蛮族同士が相争う状況になったガリアやヒスパニアで積極的に軍事行動を起こして蛮族たちをけん制し,ローマ帝国に残された領土の維持に努めた。
417年,コンスタンティウスは西ゴート族から返還されたばかりのガッラ・プラキディアを妻に迎え,二人の間には一男一女が生まれる。コンスタンティウスは421年にホノリウスと同格の共同皇帝に即位しコンスタンティウス3世となるが,その年の秋に突然死去してしまう。自殺や謀殺ではなく,自然死であった。ホノリウスには子がいなかったため,ガッラとコンスタンティウス3世との間に生まれた男児(後のヴァレンティニアヌス3世)が西ローマの帝位継承者となった。
コンスタンティウス3世が死ぬと,ホノリウスは一体何を考えたのか,実の妹であるガッラに求婚する。ガッラはホノリウスの手から逃れるため,子供たちを連れてコンスタンティノポリスに逃れた。このような経緯から察するに,ホノリウスはコンスタンティウスを信頼していたから重用し共同皇帝の地位に就けたのではなく,単にコンスタンティウスの軍事力に逆らえなかったのであろう。
423年,ホノリウスは結局子のないまま死去。ローマの元老院は,ヨハンネスなる人物を西皇帝に擁立した。テオドシウス1世の血を引かない皇帝ヨハンネスは西方では支持されたが,東皇帝テオドシウス2世はヨハンネスの即位を認めず,ゲルマン人の将軍アスパル率いる軍勢をイタリアに送って,ヨハンネスと西ローマ高官の多くを殺害した。425年,テオドシウス2世は自らの傀儡として,ガッラ・プラキディアの幼い息子ヴァレンティニアヌス3世を西皇帝に即位させた。
北アフリカの失陥と「最後のローマ人」アエティウス
幼少のヴァレンティニアヌス3世を補佐したのは,その母ガッラ・プラキディアであったが,摂政となるまでの彼女の生涯は蛮族の捕虜となるなど苦難に満ちたものであったにもかかわらず,その経験は彼女の政治的才能を開花させるには至らなかったようである。ガッラの政権下において,ゲルマン系の諸蛮族はブリタニア,ガリア,ヒスパニアに進出するのみならず,ヒスパニアから海を隔てた北アフリカにまでゲルマン系のヴァンダル族が進出し,カルタゴを含む北アフリカは,440年頃までにヴァンダル族に征服された。
ヴァンダル族の北アフリカ進出には少々複雑な事情がある。ガッラが摂政となっていた当時,北アフリカはボニファティウスという将軍が統治しており,カトリックとこの地域独特の宗派であるドナートゥス派との宗教的対立を抱えるこの土地を,単に宗教的な問題は気にしないという態度によってではあったが,ボニファティウスはなかなか巧みに統治していた。ところが,ガッラはさしたる根拠もなく,このボニファティウスが謀反を企んでいるものと思い込み,再三にわたりボエティウス討伐の軍を送りつけた。
ボニファティウスはガッラの討伐軍を斥けるも,これ以上北アフリカを維持するには援軍が必要と判断し,ヒスパニアで覇権を競っていたヴァンダル族の王ゲンセリック(文献によってはガイセリック,ゲイセリックとも表記されるが,本稿ではゲンセリックで統一する)に援軍の派遣を要請した。ヴァンダル族は,ヒスパニアにおける覇権争いでは劣勢に立たされていたので,ゲンセリックはこの援軍要請を新天地進出の好機と判断し,単に一部隊をボニファティウスへの援軍として派遣するのではなく,女子供も含めたヴァンダル族の全員を引き連れて北アフリカへ移住するに至った。なお,海を渡る船は,少しでも蛮族の数が減ってくれるなら良いと考えたヒスパニア在住のローマ人が用意してくれたので,ヴァンダル族が渡航に困ることはなかった。
なかなかの政治力の持ち主であったゲンセリックは,自ら率いるヴァンダル族のみならず,カトリックに異端と断罪され抑圧されていたドナートゥス派,さらにローマ人から二級市民の扱いに甘んじていた現地のマウリタニア人,砂漠の民ベルベル人と,要するにローマ帝国の支配に不満を持っていた面々のほぼ全てを味方に付けて,東へ進みヒッポ・レジウスを攻略し,さらに北アフリカ最大の都市カルタゴへと進軍するに至った。
従来は,ヴァンダル族による北アフリカ支配は苛烈であり,多くのカトリック教徒は北アフリカからの避難を余儀なくされたと伝えられているが,これは後世のイメージによる誇張が大きい。近年になり,ヴァンダル族によって北アフリカに建国されたヴァンダル王国の歴史については再検討が進められ,実際にはヴァンダル族の信仰するアリウス派,ドナートゥス派,カトリックのいずれも信仰の自由を概ね認められていたことが分かっている。ただし,ゲンセリックは一般の庶民に対する税金を軽くする一方,カトリックの聖職者を含む富裕なローマ人には重税を課すという,現代的視点から見ればむしろ「正しい」政治を行ったため,当代の知識人であり歴史家でもあるローマ人やカトリックの聖職者から殊更に悪く書かれたというのが実情に近いようである。
ヴァンダル族の侵攻を前にして,もはや北アフリカの維持は不可能と悟ったボニファティウスは,早くも430年には北アフリカを放棄してイタリアへ逃げ帰るも,ガッラは謀反や北アフリカ喪失の罪を問うことなく,ボニファティウスに軍を与えてアエティウス討伐の任を与えた。
一方,391年頃ローマ帝国に仕える軍人の子として生まれたアエティウスは,若い頃西ゴート族やフン族の許へと人質に送られ彼らと親交を深めていた。ギボンやその他の歴史学者は,西ゴート族やフン族といった好戦的な部族の許で養育されたアエティウスは,蛮族の養育によって当時のローマ人に欠けていた軍事的活力を与えられたと指摘している。
成人して帰国すると皇帝ヨハンネスに仕え,彼の帝権を強化するため,当時最強の蛮族と名高かったフン族の許へ赴き,彼の個人的友誼も活用してフン族からの援軍を得て戻ってきたが,その時には既に彼の主君たるヨハンネスはこの世におらず,西ローマ宮廷を支配していたのはガッラであった。
アエティウスは,もはやこれまでとガッラに跪いて赦しを乞うのを潔しとせず,自ら率いてきたフン族の武力を背景に,自分を軍司令官の地位に就けよとガッラに要求した。アエティウス軍はヴァレンティニアヌス3世擁立のためにやってきたアスパルの軍と戦うが,結局アエティウスにガリア軍司令官の地位を与えることで和解が成立した。
その後,アエティウスは西ローマの将軍として着々と戦功を重ね,429年には軍司令官に昇格し,430年頃には西ローマの軍司令官としては最有力者となっていたが,憤懣やるかたないガッラは虎視眈々と復讐の機会を狙っており,ちょうど北アフリカから戻ってきたボニファティウスを使って,憎きアエティウスを討伐しようと考えたのである。自国の領土が蛮族によって次々と蹂躙されているというのに自ら内乱の種を撒き,両者のうちいずれが勝ったとしてもローマ帝国の軍事力をさらに削ぐ結果となるガッラの判断は,実に愚かであったと言わざるを得ない。
こうして432年に始まったボニファティウスとアエティウスの争いは,当初ボニファティウスの方が優勢であったが,最終的には両者の一騎討ちによりアエティウスに軍配が上がった。もっとも,アエティウスの個人的武勇が特に優れていたわけではなく,彼が一騎討ちに備えて通常より長い槍を用意していたのが奏功したに過ぎないのだが,勝者となったアエティウスはボエティウス配下の軍を全て吸収し,西ローマの最有力者となった。アエティウスは435年にパトリキの称号を受け,表向きはヴァレンティニアヌス3世とガッラ・プラキディアの「守護者」を名乗るに至ったが,実際には西ローマの全権を掌握し,ガッラは事実上政治の表舞台から遠ざけられた。
こうして権力の座に就いたアエティウスは,戦闘と諸蛮族相手の巧みな外交で存在感を示した。彼の権力を支えていたのは最強の同盟者であるフン族であったが,フン族の王アッティラがガリアに侵攻してくると,アエティウスは西ゴート族をはじめとする諸蛮族に呼び掛け対フン族の連合軍を結成し,451年にはカタラウヌムの戦いでフン族の王アッティラ率いる軍勢を破った。アエティウスの活躍ぶりを称えた後世の歴史家は,彼を「最後のローマ人」と呼んだ。
ただし,誰を「最後のローマ人」と呼ぶかは諸説あり,アエティウスのライバルだったボニファティウスを並べて「最後のローマ人」と称する者もいる。『ローマ人の物語』第15巻では,塩野氏は前述のスティリコを「最後のローマ人」と紹介し,アエティウスは最後のローマ人とは呼ばれないと説明されているが,筆者の調べた限りこれはかなり特異な見解であり,少なくとも欧米諸国で一般に支持されているものではないと思われる。
もっとも,以上のようなアエティウスの活躍は蛮族との同盟に支えられており,翌452年にアッティラがイタリアに侵攻してくると,アエティウスはアッティラに単独で対抗できる自前の軍事力を持たず,共にイタリアへ赴きアッティラと戦ってくれる酔狂な蛮族もいなかったので,結局アエティウスはアッティラの侵攻を拱手傍観するしかなかった。蛮族の中の蛮族と恐れられたフン族のひたすら暴虐な特質は北イタリアで遺憾なく発揮され,アクィレイアをはじめとする北イタリアの諸都市はアッティラにより容赦なく破壊され,ヴァレンティニアヌス3世はラヴェンナを捨ててローマへと逃れた。
アッティラはローマ教皇レオ1世と交渉し,おそらくは多額の財物と引き換えにイタリアから撤兵し,翌453年に急死した。キリスト教会の歴史では,聖ペテロと聖パウロの助けで勇気を奮い起こした教皇レオ1世が,アッティラに対しその暴虐を非難し慈悲の大切さを説き,その説得に感銘を受けたアッティラが自ら軍を引いたものとされ,この故事はローマ教皇の権威を示すエピソードとして語り継がれた。もっとも,実際には当時のフン族が飢餓と疫病に悩まされており,それがアッティラに撤兵を決断させた要因であると考えられている。
アッティラは,フン族の長としての活躍期間は10年にも満たず,しかもその「業績」はむやみに暴れまわったという程度のものに過ぎず,彼が行った唯一の大規模な会戦であるカタラウヌムの戦いでは敗者となっている。蛮族の長としてローマ帝国に深刻な脅威を与えたという「業績」なら,同時代人でありながら40年以上にわたってヴァンダル族の族長に君臨し,北アフリカを征服し海運力を手に入れると海賊に一変し,海上からローマ帝国を苦しめ続けたゲンセリックの方がはるかに上であろう。
然るに,アッティラは後世のキリスト教徒から「神の鞭」と恐れられ,歴史上の知名度はゲンセリックよりはるかに高い。これはおそらく,アッティラが教皇レオ1世の引き立て役としてキリスト教の聖職者によって喧伝されたからであろう。レオ1世も後のゲンセリックによる第2次ローマ劫略の際には殆ど何も出来なかったのだが,その事実はキリスト教会にとって不都合な忘れたい事実であるため,あまり語られることはなかった。
話を戻すが,アッティラという強力な指導者を失ったフン族は四分五裂し,その後ローマ帝国に対する脅威とはならなかったものの,西ローマが蛮族勢力に取り囲まれた極めて脆弱な存在であり,アエティウスのおかげで辛うじて存在感を発揮していることに変わりはなかった。そんな中,亡き母ガッラからアエティウスに対する恨みを聞かされ続けて育ったヴァレンティニアヌス3世は,454年,自らの手でアエティウスを斬殺した。
皇帝でありながら長らく政治の実権から遠ざけられ,身体は成長したが精神の方は全く成長しなかったと評されるヴァレンティニアヌス3世が生涯唯一自分の判断で行ったことは,このアエティウス斬殺であった。皇帝はアエティウスが帝位を狙っており,彼を誅殺した自らの行為は全く正当であるなどと主張したが,ある元老院議員は皇帝に,「陛下,あなた様の思いは私には分かりません。ただ私でも分かるのは,陛下は自分の左腕で自分の右腕を斬ってしまわれたということです。」と語ったという。
ホノリウスによるスティリコの処刑は政治的な自殺行為であったが,ヴァレンティニアヌス3世によるアエティウスの斬殺は政治的な自殺行為のみでは済まず,間もなく自らの肉体的な死をも招来する結果となった。翌455年,ヴァレンティニアヌス3世はアエティウスの友人らによって暗殺された。その場にいた兵士たちは皆アエティウスの旧部下であり,皇帝を助けようとする者は一人もいなかったという。
第2次ローマ劫略と西ローマの決定的衰退
アエティウスとヴァレンティニアヌス3世の死によって生じた政治空白の間,ローマは海からやってきたヴァンダル族による第2次ローマ劫略を受けた。西ゴート族による第1次ローマ劫略が3日間で終わったところ,ヴァンダル族による第2次劫略は2週間にわたって続き,ローマにあった金銀財貨の類は持ち去られ,東ローマから嫁いできたヴァレンティニアヌス3世の妃リキニアとその子供たちもヴァンダル族に拉致されたほか,無数のローマ人がヴァンダル族に身代金目当ての人質または奴隷として拉致されたという。
ヴァンダル族による略奪のひどさは,現在でも英語のヴァンダリズム(文化破壊)という用語で記憶されているが,当のゲンセリックにしてみれば,第2次ローマ劫略は正義の行いであった。ヴァンダル王国による重税を嫌がった富裕なローマ人やカトリック聖職者の多くは,課税を逃れるため北アフリカからローマに避難していた。ゲンセリックとしては,王国の財政基盤を安定させるためにも,国外に逃亡して不当な課税逃れをする富裕層には断固たる制裁を加える必要があり,それが慣例に反して2週間にもわたる徹底したローマ劫略を行う動機になったと考えられる。
これによって西方におけるローマ帝国の衰退は決定的なものとなり,その後西皇帝は短期間で次々と入れ替わるが,西ローマの宮廷で実権を握っていたのは,もはや皇帝ではなく蛮族出身のリキメルであった。
リキメルの要請に応える形で東ローマの宮廷から送り込まれたアンテミウス帝(在位467~472年)は,東ローマ宮廷の公認する最後の西皇帝となった。アンテミウスは東ローマとの共同作戦により北アフリカのヴァンダル族討伐を試みる(詳細は後述)が,老獪な王ゲンセリックの前に惨敗を喫する。ガリアの西ゴート族に対する攻勢も失敗。その後アンテミウスはリキメルとの権力争いに敗れ,処刑された。
歴史上,一般に最後の西ローマ皇帝とされるのはロルムス・アウグストゥス(在位475~476年)であるが,彼は即位当時14歳の少年に過ぎず,実権を握っていたのは彼の父親である蛮族出身の将軍オレステスであった。東ローマの宮廷はロルムスを皇帝として承認せず,ユリウス・ネポスを西ローマの皇帝に擁立したが,ネポスは西方での支持を得られずイタリア入りすることも叶わぬまま480年に暗殺されたため,歴史上正統な西皇帝とはみなされていない。
ロルムスを退位させた蛮族出身の将軍オドアケルは,西ローマの帝位を東皇帝ゼノンに返上し,唯一のローマ皇帝となったゼノンの代理としてイタリアを統治した。西ローマの領土であった地に定住したフランク族などの蛮族も,形式上はコンスタンティノポリスの皇帝に服属し爵位を受けた例があったため,コンスタンティノポリスの皇帝が唯一のローマ皇帝であるという建前は,その後も長きに渡って維持された。また,蛮族の支配下に置かれた地域の住民たちも,長きにわたって「自分たちはローマ人である」というアイデンティティを保持していたため,西皇帝がいなくなった後の西方世界においても,ローマ帝国やローマ皇帝の権威が全く無意味というわけではなかった。
それでも,かつては西皇帝が統治していたローマ帝国の西方世界は,5世紀の末には諸蛮族の割拠する世界となり,ローマ皇帝の支配力が及ばなくなったことに変わりはない。ローマ帝国は,5世紀末には西方世界を実質的に喪失したのである。
(3)東のテオドシウス王朝
ゲルマン諸民族により蹂躙されていった西方世界とは対照的に,ローマ帝国の東方世界は5世紀においても,全く問題なくとは行かなかったが,概ね平穏であった。
アルカディウス帝の治世
東皇帝となったアルカディウス帝(在位395~408年)は,前述のとおり愚かさでは弟のホノリウスと似たり寄ったりという程度の皇帝であったにもかかわらず,北方蛮族の侵攻による被害をモロに受けることはなく,東方のササン朝ペルシアとの関係もこの時期は平穏であり,穏健にその治世を全うする。もっとも,前述のマルナス神殿破壊に関するエピソードから分かるとおり,彼は穏健な性格であったが気が弱く,彼の治世下で主に実際の政治を動かしていたのは,フランク族の将軍の娘からアルカディウス帝の皇后となったアエリア・エウドクシア(エウドシア)であったとされる。
アルカディウス帝に関するエピソードとして知られているのは,404年にコンスタンティノポリス大主教ヨハネス・クリュソストモス(前章でも登場したが,火を噴くような演説で異教や異端の廃絶を唱える説教者及び神学者として知られ,カトリックでも東方正教会でも聖人に叙された人物である。日本では金口イオアンの名で知られている)を,皇后エウドシアの讒言による追放したことくらいである。ヨハネスは,金持ちの婦人の奢侈を戒める説教を行い,これが皇后を批判するものだと讒言する者があったため,ヨハネスは紆余曲折の末黒海沿岸に流刑の身となり,その地で死んだという。
「能書家」テオドシウス2世とプルケリア
アルカディウス帝の後を継いだ,息子のテオドシウス2世(在位408~450年)は,後世の歴史家から「カリグラフォス(能書家)」というあだ名が付けられている。あだ名の示す通り,書に優れていた教養人であったとされる。ただし,彼の関心は専ら神学をはじめとする学問分野に向けられており,政治にはほとんど関心を向けず,側近が差し出す書類に目も通さずに署名し,彼には姉のプルケリアがいたずらで作った妃エウドキアを売るという契約書にさえ目も通さずに署名したという馬鹿げた逸話も残されている。
テオドシウス2世の治世下では,姉のプルケリアが政治の実権を握っていたと説明されることが多いが,話はそう単純ではない。臆病で他人に流されやすい彼自身の性格もあって,彼の治世下では目まぐるしいほどの政変が起きていた。
テオドシオス2世は即位時7歳と幼少であり,即位当時政治の実権を握っていたのは,先帝アルカディウスの代からオリエントの親衛隊長(当時,この役職は実質的な宰相を意味していた)の地位にあったアンテミオスという人物であった。410年に西方でローマ劫略事件が発生すると首都の人々は恐怖に恐れおののいたが,アンテミオスは人々を励まし,コンスタンティノポリスを守る巨大な城壁を建造させた。この三重構造から成る難攻不落の大城壁は「テオドシウスの城壁」と呼ばれているが,実際に建設を指導したのはアンテミオスであった。
ところが,414年4月にアンテミオスとその一党は突然失脚し,歴史の表舞台から姿を消す。この政変を起こしたのは,当時まだ15歳であった皇帝の姉プルケリアであった。彼女はアンテミオスから意に添わぬ結婚を強制され政治利用されるのを防ぐため,「私は生涯結婚しません,この身をキリストに捧げます」という純潔の誓いをした。この誓いによって彼女は民衆から神聖視され,政変の立役者になることが出来たと考えられている。
414年7月,プルケリアは「アウグスタ」と名乗り,プルケリアの姿を刻んだ金貨も発行される。プルケリアの政権下では宮廷が修道院のようになったといわれ,国内政治ではキリスト教精神に基づく慈善事業を活発に行う一方,異教徒やユダヤ教徒に対しては厳しい弾圧が行われた。対外的にも異教徒ササン朝ペルシアに対する聖戦を唱え,420年に対ペルシア戦争を仕掛けた。
しかし,ペルシアとの戦争はうまく行かず,北方からフン族が侵入したこともあって戦況が悪化し,プルケリアへの批判は高まった。批判の先頭に立ったのは異教徒の歴史家エウナピオスであり,彼らは反プルケリアの党派を作った。党派に参加した者の中にはキリスト教徒もいたが,信仰の違いを超えて彼らを結びつけたのは古典文化への共通の関心であり,現代の歴史家はこの党派を「伝統派」と呼んでいる。
そんな中,421年にテオドシウス2世は妃を迎える。異教徒の哲学者を父に持つアテナイスという女性であり,もとは彼女も異教徒であったが,キリスト教国となったローマ帝国では皇妃もキリスト教徒でなければならないため,彼女は結婚にあたりキリスト教に改宗し名前もエウドキア(神の恵み)と改めた。姉のプルケリアが弟にエウドキアを紹介したとする伝承もあるが,敬虔なキリスト教徒であるプルケリアが,このような異教色の強い女性を弟の妃に選ぶはずがあるまい。エウドキアとの結婚は,明らかに伝統派の差し金であった。
この結婚に相前後して,宮廷では旧アンテミオス派の復活が見られ,オリエントの親衛隊長に就いたエウドキアの伯父アスクレピオドトスをはじめ,エウドキアの一族も高い地位に就いた。政策も一転して異教徒に対する寛大な法律が発布され,対ペルシア戦争も422年には現状維持という形で平和条約が締結された。宮廷の雰囲気も一転して古典文化のサロンのようになった。
エウドキアは結婚の翌年に長女リキニアを産み,423年1月にアウグスタの称号を得た。なお,この時期に西皇帝ホノリウスが亡くなり,前述のとおり西皇帝の帝位継承に対する軍事介入が行われているが,いかに伝統派でもテオドシウス1世の血を引かない西皇帝を容認することは出来なかったのだろう。
425年にはギリシアやラテンの古典を研究する帝国大学の設置を定める勅令が出され,この大学では法学も教えられた。同年には帝国内のユダヤ人を保護し,その家や礼拝堂を襲うことを禁じた特別法も発布された。しかし,エウドキアを筆頭とする伝統派の天下も長くは続かなかった。
当時,シリアで「柱頭行者」シュメオンという人物が民衆の声望を集めていた。彼は普通の修道生活に飽き足らず,高い石柱の上でひたすら祈りと瞑想を続けるという厳しい修行を積んでいた。民衆は彼を聖人と崇め,彼の身体や衣に触れると御利益があるとの噂が広がった。こうした民衆に煩わされたシュメオンは柱をどんどん高くし,とうとう16メートルもの高さになったという。
このシュメオンが,異教徒に対する寛容な法律に激しく怒り,テオドシウスに向かって「もはやあなたを皇帝とは呼ばない」と厳しい非難の手紙を書いた。信心深く気の弱いテオドシウスは聖人の非難に恐れをなし,直ちにその法律を取り消し,親衛隊長アスクレピオドトスを罷免した。これに伴って伝統派の面々は宮廷から姿を消し,キリスト教への信仰篤いプルケリアが政治の表舞台に復帰した。ただし,その際に取り消された法律の範囲は必ずしも明らかでなく,少なくともユダヤ人を保護する内容の特別法は,その後も効力を有するものとして存続し続けたようである。
428年,テオドシウス2世は総主教にネストリウスという人物を任命する。彼はアンティオキアの教会で活躍し,禁欲主義,学識,雄弁,風貌等々において評判の人物であったが,ネストリウスのあまりに厳格な姿勢に,市民はおろか聖職者の間でも反感を買った。
当時の帝国では,民衆の間に聖母マリア崇拝が広がっていたが,ネストリウスは女性がイヴに象徴される罪深い存在との立場を採り,聖母マリア信仰を批判した。自らを聖母マリアになぞらえているプルケリアは,ネストリウスに「私は神を産んだのではないですか」と抗議したところ,「いえ,あなたはサタンを産んだのです」という返事が返ってきたという。
聖母崇拝とともに,マリアを「テオトコス」(神の母)と呼ぶ習慣が広まっていたが,ネストリウスはこれにも原則論的な立場から異議を唱え,「クリストトコス」(キリストを産んだ女性)と呼ぶべきだと主張した。こうした考え方自体は,聖書や原初キリスト教時代の教父の教えに基づくものであり異端ではないものの,聖母崇拝を否定するような考え方は人々の受け容れるところとはならなかった。
431年,エフェソスで「テオトコス」問題を解決するための公会議が行われたが,会議はネストリウス派と反ネストリウス派がそれぞれに議決を行うという分裂会議となり,どちらを正式の決議とするかは皇帝の裁定に委ねられた。テオドシウスは,当初自分の任命したネストリウスを支持していたが,ここでも意志の弱さが祟って,結局姉プルケリアと民衆の聖母マリア信仰の強さに押され,ネストリウス派を異端とする裁定を下した。
余談になるが,聖母マリアを「テオトコス」として神聖視するのは東方正教会独自の発想であり,ローマ教皇を頂点とする西方教会では,聖母マリアは長らく単なる「聖人」として敬われるにとどまった。後代になり,スペインをはじめとするカトリック諸国でも聖母マリア信仰が盛んとなったことを受け,1854年になるとローマ教皇庁は聖母マリアを「無原罪の御宿り」として神聖視するようになるが,これはビザンツ帝国滅亡後の近代になってからの話である上に,東方教会の教義とも全く異なる考え方であったため,東西教会の更なる分裂要因となった。
皇后エウドキアが,ネストリウス論争にどういう態度を取ったかは分からない。ただ,エウドキアが2人目の女児を産んで以来,テオドシウスはプルケリアから自分と同じように情欲を慎むよう勧められてそれに従うようになり,エウドキアはそれ以来子供を産んでいない。おそらくテオドシウスはエウドキアを遠ざけ,エウドキアは夫と疎遠になって政治的影響力も失っていた可能性が高い。まだ後継者たる男児が生まれていないのに,プルケリアが皇帝に情欲を慎むよう勧めたのは,自分のライバルたるエウドキアの影響力を削ごうとする謀略の一環であろう。
この時期には,ローマ帝国における法典の編纂事業が進められ,437年に『テオドシウス法典』が発布されている。法整備の必要性は,伝統派とプルケリア派の区別なく認めるところであったようだが,プルケリア派の政権下で編纂が行われたことにより,法典の内容はキリスト教色の強いものになった。もし,『テオドシウス法典』が伝統派主導の下で進められていたら,ローマ帝国の法制や歴史も大きく異なるものになっていたかも知れない。
437年,皇女リキニアと西皇帝ヴァレンティニアヌス3世との縁談がまとまり,リキニアは西帝国に嫁いでいった。翌438年1月,聖人となったヨハネス・クリュソストモスの遺骨が首都に戻され,皇帝一族はこぞって遺骨の到来式に参列したが,このとき皇后エウドキアは参列していない。その理由については明らかにされず,民衆はエウドキアが「皇帝陛下の不興を買ったのではないか」などと噂していた。
その翌月,エウドキアは夫の許しを得て聖地エルサレムに巡礼した。キリストにまつわる聖地を訪れ,聖女メラニアといった高名な聖人と交流し,聖遺物を収集した聖地巡礼は彼女の聖性を高めるのに役立ったようで,翌年首都に戻ってきたエウドキアの宮廷における発言力は高まった。439年末に詩人のキュロスがオリエントの親衛隊長に任命されたが,これはエウドキアの肝煎りといわれている。
一方,プルケリアは同年首都郊外の屋敷に隠遁するが,これは当時皇帝に取り入っていた,成り上がり者の宦官キュサフィオスの陰謀であった。政治の実権掌握を目論んでいた彼はエウドキアとプルケリアの反目に目を付け,彼に入れ知恵されたエウドキアは,夫に「プルケリア様はその身を神様にお捧げになったのですから,俗事に煩わされませんよう,教会の輔祭に叙してあげてください」と進言した。自分が姉プルケリアの傀儡と見做されていることにコンプレックスを持っていたテオドシウス2世もその気になった。皇帝によって教会に閉じ込められてしまう事態を悟ったプルケリアは,後日を期して自ら隠遁を決めたのである。
宦官キュサフィオスの台頭と「林檎事件」
プルケリアの排除に成功したキュサフィオスは,次にキュロスを除こうと考えた。キュロスは首都の照明設備を整えるなどして,市民の間で絶大な人気を得ており,競馬場では「コンスタンティヌスがこの町を作り,キュロスが作り直した」と市民が歓呼するほどであった。これにはテオドシウス2世も危機感を持ったようだが,エウドキアの信任篤いキュロスを追い落とすことは容易ではなかった。
440年,おそらくキュサフィオスの陰謀により,皇后エウドキアとパウリヌス(皇帝の幼馴染と伝えられる)との不倫疑惑に関する噂が広められ,やがてテオドシウス2世もその噂を信じるに至った。なお,皇后エウドキアの不倫疑惑については,「林檎事件」と称される有名なエピソードが残っており,それは要旨次のようなものである。
440年1月6日の公現祭にあたり,皇帝テオドシウス2世は御供を連れて聖ソフィア教会に参詣した。その際,皇帝の側近であったパウリヌスは,当時足を怪我していたので同行しなかった。一方,皇帝の前に一人の乞食が進み出て,驚くほど大きな林檎を差し出した。皇帝はその男に大金を与えて下がらせ,林檎を妃のエウドキアに与えた。
ところがエウドキアはその林檎を自ら食することなく,怪我で臥せっていたパウリヌスにその林檎を与えた。林檎の由来を知らないパウリヌスは,彼もあまりに見事な林檎なので自ら食することはせず,皇帝に献上した。かくして,エウドキアに与えたはずの林檎が自分の許に戻ってきたことを不審に思った皇帝は,エウドキアを呼び「あの林檎はどうした」と尋ねた。妃は「頂きましたわ」と答えた。確かに食べたと確約させたところで,皇帝は件の林檎を持って来させた。申し開きのできなくなったエウドキアに皇帝の怒りは爆発し,林檎をやったのはパウリヌスを愛しているからだろうと決めつけた,というのである。
こうしたエピソードは,コンスタンティノス・マナセスの『年代記』などに記されているが,あまりに作り話めいているので,近代以降の歴史家でこれを事実だと考える者は見当たらない。もっとも,宦官キュサフィオスがエウドキアとパウリヌスの不倫を皇帝に信じさせるため,この時期に様々な奸計を巡らせたであろうことは間違いないが,皇妃エウドキアの不倫という重大な国家的不祥事が公表されることはなかったため,民衆たちはその原因についてあれこれと噂し,噂に尾ひれの付いたものがやがて定着して,年代記にも採用されるに至ったものと推測される。ちなみに,当時のローマ人にとって林檎は愛(エロス)の象徴であり,林檎を贈ることは愛情の表現であった。
話を戻すが,結局エウドキアとパウリヌスの不倫を事実と確信するに至ったテオドシウスは,440年中にパウリヌスを処刑した。無論,公然と不倫の罪でパウリヌスが断罪されたわけではないが,本来テオドシウス2世は殆ど死刑を行わない人物で,事件の直前に書かれた彼に対する皇帝賛辞文では,どうして死刑を行わないのかと尋ねられ,皇帝が「死んでしまった者を生き返らせることができるのならば」と答えた,というエピソードが書かれている程である。そのような彼が幼馴染のパウリヌスを処刑したのは余程の理由あってのことと考えられており,少なくともテオドシウス2世が不倫を事実と信じたことは間違いなさそうである。なお,歴史学者の中には不倫そのものが事実であり,エウドキアがアルカディウスという不義の息子を産んだと推測する者もいるが,どの程度の証拠があっての推測なのか不明であるため,その当否に関する判断は避ける。
翌441年初め,エウドキアはエルサレムへと旅立った。このときのエウドキアの随行者は先の聖地巡礼時より明らかに少なく,事実上の追放であった。キュロスも同年中には失脚し,成り上がり者の宦官キュサフィオスがついに政治の実権を握ることになった。なお,キュロスが実権を掌握していた時期にあたる440年にはササン朝ペルシアとの戦争が再開され,これは翌年に終結しているが,この戦争はササン朝の方から仕掛けてきたものであり,東ローマ宮廷内の政争とは特に無関係のようである。
フン族の脅威と単性論問題
しかし,キュサフィオスの政権下で大きな事件が起きる。北方の脅威であったフン族は,しばらく攻撃の対象をササン朝ペルシアの方に向けていたのでローマ帝国との関係は小康状態にあったが,アルメニアでササン朝ペルシアの軍に敗れると,フン族の目標は東ローマに向けられた。440年,マルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いて財宝を奪ったとして,フン族はこれを口実にドナウ川を渡って東ローマの領土を侵略した。
ちょうど,東ローマは北アフリカをヴァンダル族から奪還するためにバルカン半島の軍隊を駆り出していたこともあり,東ローマ軍はフン族の前に連戦連敗を重ね,フン族の軍はコンスタンティノポリスの城壁前にまで迫った。テオドシウス2世は敗北を認め,443年,貢納を従来の3倍に増やすなどの条件でようやく和平が成立した。一方,フン族との戦いのために北アフリカ奪還作戦も中断され,442年にローマ帝国は東西宮廷ともに,ヴァンダル族による北アフリカ支配を認めざるを得なくなった。歴史上は一般にこの承認をもって,ヴァンダル王国が成立したものとされている。
434年以降,フン族はブレダとアッティラの兄弟による共同統治が続いていたが,445年には兄のブレダが死亡し(ローマ側の史料では,弟が仕掛けた狩猟中の事故が原因とされている),弟のアッティラによる単独統治体制になった。
447年,アッティラ率いるフン族はパンノニアに本拠を置いてバルカン方面に進出し,略奪暴行の限りを尽くした。アジア系の民族であるフン族の暴虐ぶりは他の蛮族の比ではなく,フン族の通った後は犬の鳴き声も聞こえないと言われる程であった。
東ローマの宮廷はアッティラとの講和を乞うが,アッティラの提示した講和の条件は,多額の歳貢に加え,フン族から脱走したゲルマン人兵士の引き渡し,そしてアッティラはヨーロッパに大帝国を築く意志を持っていることから,自らを東皇帝と対等の地位と認め,以後フン族への使節にもそれに相応しい地位の高官を送ってくるようにというものであった。
ゲルマン人の兵士も多くなっていた東ローマの宮廷にとって,アッティラの要求は到底呑めるものではなく,フン族への討伐軍が派遣されたが,アッティラによって簡単に撃破されただけだった。当時コンスタンティノポリスの大城壁は地震により損傷しており,東ローマは大城壁の再建といくつかの防御線を維持することで手一杯だった。
結局,東ローマの宮廷はアッティラの要求をすべて受け容れるしかなかったが,この事態に皇帝テオドシウス2世はひたすら宮殿内で怯えるばかりであり,一介の宦官に過ぎないキュサフィオスがどうにか出来る問題でもなかった。和約に基づき,449年には東ローマ宮廷からアッティラへの使節が派遣され,この使節団に同行した歴史家プリスクスは,豪華な饗宴の中でアッティラの食器だけが非常に質素で,彼の振る舞いが清廉だったことを記録している。なお,短期間とはいえローマ帝国に対等の地位を認めさせたアッティラの威信は後世にも広く伝えられ,現代でも東欧諸国の歴史ではアッティラを自らの祖として語られることが多い。
さらに,この時期には新たな宗教問題も発生していた。この時期に問題となった教義問題はいわゆる「単性論」である。コンスタンティヌス1世の時代に登場した前述のアリウス派は,キリストは「人間であったから完全な神ではない」と主張して異端とされたが,この時期に登場した単性論は,逆にキリストの人性をほとんど否定し,キリストは完全な神であると主張したのである。
この単性論は,エウテゥケスという人物が提唱したものである。彼の主張によると,キリストの位格は1つしかないので,その中に人性と神性が混じり合った結果,キリストの人性は神性に吸収されて,キリストは人間としての特性をわずかに残しつつ,完全な神になったというのである。この理論はニケーア信条とは明らかに異なるものであったが,この考え方はキリストの神性をより強調し,神を産んだ処女マリアの聖性も問題なく説明できるという利点があった。なお,当時はネストリウス派の勢力も残っており,ネストリウスはこうした神学上の問題について,キリストの位格は1つではなく人格と神格に分かれていると主張していたが,これもニケーア信条とは異なる考え方であった。
単性論は,440年代の帝国東方で瞬く間に広まり,エルサレムにいた皇后エウドキア,政治の実権を握っていた宦官キュサフィオス,そして皇帝テオドシウス2世も単性論の考え方に共鳴していた。単性論は448年のコンスタンティノポリス地方公会で異端と判断されたが,エウテュケスの後援者であるアレクサンドリア総主教ディオスコロスは,449年に宦官キュサフィオスを動かして皇帝からエフェソスで公会議を開く許可を得て,その公会議では単性論が正式に採用された。
こうした動きに対し,ローマ教皇をはじめとする保守的な聖職者たちは猛反発し,単性論はもはや単なる教理論争では済まず,教会分裂に繋がりかねない問題となっていた。450年,こうした単性論に反対する人々の手でキュサフィオスは失脚し,プルケリアが宮廷に戻ってきた。その直後の7月,落馬事故がもとでテオドシウス2世は亡くなった。
「果断な軍人皇帝」マルキアヌス帝の治世
テオドシウス2世は男子を残さず,東ローマの宮廷に残された皇族はプルケリアのみであったため,後継者問題の処理はプルケリアに委ねられた。彼女は,こうした危機的状況の下では,優秀な軍人を自分の夫にして帝位を継がせ国事を委ねるしかないと考え,マルキアヌスを自分の夫に選んだ。長年貫いてきた純潔の誓いを破ったとの批判を避けるため,夫婦といえども寝所を共にすることはしないと確約させ,金貨にはキリストが間に立ったマルキアヌスとプルケリアの姿を刻ませた。
こうした措置によってプルケリアへの批判が全く収まったというわけではないが,こうしてマルキアヌス(在位450~457年)は,テオドシウス朝第4代の皇帝となった。マルキアヌス帝は直ちに帝国の改革に着手し,まずアッティラとの協定を全面破棄してフン族への貢納を打ち切り,人口の減少した土地を東ゴート族やルギ族などに与え同盟関係を結ぶことでアッティラに対抗した。アッティラはマルキアヌスとの正面対決を避けてガリア方面に転進し,カタラウヌムの戦いで西ローマ軍及び西ゴート族らの連合軍に敗れ,その後フン族は没落に転じた。さらに,マルキアヌスは見世物の費用を減らすといった経費削減策にも着手している。
宗教面では,451年にカルケドン公会議を開催している。同会議はカトリックの正統性を再確認することを主たる目的とするものであり,問題となっていた単性論及びネストリウス派の主張が全面的に否定され,キリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく,キリストは人性と神性という2つの本性を,混合することも分かれることもなく,唯一の位格の中に有すると結論付けられた。
この公会議において,単性論を採用した449年のエフェソス公会議の決定は覆され,単性論は改めて異端とされた。単性論を採用した同会議は,ローマ教皇レオ1世によって「エフェソス強盗会議」と呼ばれ,後世のキリスト教史ではこの名称が定着した。
この公会議では,総主教座の地位についても定められた。キリスト教がローマ帝国の国教となって以来,帝国の五大都市であるローマ,コンスタンティノポリス,アンティオキア,アレクサンドリア,カルタゴの主教が「大主教」または「総主教」と呼ばれ,他の主教より優位にあると考えられていたが,その地位に関する明確な定めはなく,またカルタゴの総主教座はヴァンダル族の征服で壊滅状態になっていた。これを受け,同会議ではカルタゴに代えてエルサレムを総主教座に据え,ローマとコンスタンティノポリスの総主教を同格の首位とし,アンティオキア,エルサレム,アレクサンドリアの総主教がそれに次ぐ地位にあるものと定められた。
カルケドン公会議による概ね以上のような決定は「カルケドン信条」と呼ばれるが,東方教会のすべてがカルケドン信条に納得したわけではなく,同信条によって次席に落とされたアンティオキアやアレクサンドリアではその後も単性論が有力となり,後年シリア正教会,アルメニア使徒教会,コプト正教会,エチオピア正教会などは,単性論を支持してカトリックから分派した。それでも,カルケドン信条によって東西教会の対立という事態はひとまず避けられた。
カルケドン信条で改めて異端とされたネストリウス派は,布教の場をササン朝ペルシアに移し,ネストリウス派のキリスト教は後にモンゴルや中国にも広まった。なお,ネストリウス派に限らず,歴代ローマ皇帝による迫害を受けた異端者や異教徒のうち,少なくない数が改宗よりササン朝ペルシアへの亡命を選んだようで,ササン朝ペルシアの最盛期であるホスロー1世の治世を文化面で彩ったのは,東ローマ帝国から亡命してきたギリシア人たちであった。ササン朝ペルシアも,一神教であるゾロアスター教を国教としてはいたが,少なくとも東ローマ帝国に比べれば,異教徒に対してもはるかに寛容な国だったのである。
マルキアヌス帝による政治的及び宗教的問題の解決を見届けた後,皇后プルケリアは453年に亡くなった。彼女は確かにアウグスタを名乗り宮廷の実力者ではあったが,以上に述べたとおり宮廷内における彼女の地位は必ずしも安泰ではなく,彼女自身も様々な政治的対立に翻弄されていたことに留意しなければならない(なお,『ローマ人の物語』第15巻では,プルケリアがテオドシウス2世の妃(エウドキア)を味方に付けていたと説明されているが,そのような事実は確認できない。プルケリアについては,自ら弟にエウドキアを紹介したなどの誤伝が伝えられており,塩野氏はその種の誤伝をそのまま取り入れてしまったのではないかと思われる)。
また,プルケリアと伝統派の対立に見られるように,テオドシウス1世によって強引に進められたキリスト教の国教化も,この時期にはまだ完全に定着していたわけではなかった。キリスト教徒となった者の中にも,「キリスト教徒たる者は聖書と偉大な教父たちの著書さえ読んでいればよい」などと主張する原理主義者もいれば,一方で「例え異教時代に書かれた者でも,優れたギリシア古典は教養として尊重すべきだ」と考える者もおり,必然的に異教徒や異端に対する対応も考え方が分かれた。その後もこうしたせめぎ合いは長く続き,西欧諸国と異なり異教徒の諸国とも外交的な交流を必要とした東ローマ帝国ないしビザンツ帝国では,キリスト教原理主義の勝利といった単純な決着には至らなかったのである。
なお,457年まで続いたマルキアヌス帝の治世に関しては,若干の補足事項がある。
第一に,マルキアヌス帝の即位については,前述のようにプルケリアの主導で決まったとする説もあるが,東ローマ宮廷の実力者であったゲルマン人将軍のアスパルが,自分の忠実な部下であったマルキアヌスをプルケリアと結婚させて帝位に就けたとする説もある。もし後者の説が正しいのであれば,プルケリアの政治的影響力はさほど高くなく,カルケドン公会議の実質的主導者がプルケリアであるという従来の見方にも疑義が生じてくることになる。
第二に,テオドシウス王朝の生き残りであった西皇帝のヴァレンティニアヌス3世は,自分に無断で行われたマルキアヌスの即位に異を唱え,452年までマルキアヌスの即位を承認しなかったとされる。その後,455年にヴァレンティニアヌス3世が殺された後,ペトロニウス・マクシムス(在位455年)とアウィトゥス(在位455~456年)に対しては,マルキアヌスは西皇帝としての即位を承認しなかった。これによって東西宮廷の関係は大きく悪化したとされている。
第三に,アッティラ率いるフン族に対しては対決姿勢を取ったマルキアヌスも,455年にヴァンダル族が行った第二次ローマ劫略に対しては報復も抗議もしなかった。当時のローマ人はこの行動を奇異に感じたらしく,マルキアヌスが帝位に就く前の431年に,カルタゴ付近の戦いでヴァンダル族の捕虜となり間もなく釈放されたことと関連付け,後世の歴史家プロコピオスは次のような逸話を伝えている。
ゲンセリックが王宮の庭に集めた捕虜を検分していたところ,他の捕虜が暑い真夏の陽射しに苦しみ地面に倒れ込んでいた中,マルキアヌスだけが暑さをものともせず眠り,さらに鷲が空中で静止し,翼でマルキアヌスに陽射しを遮っていた。ゲンセリックはこの光景を見て,マルキアヌスがいずれ皇帝となるという神の意思と考えたため,ゲンセリックはマルキアヌスに「ヴァンダルに対し攻撃を仕掛けない」とを誓わせ,間もなく釈放したという。
このような逸話は何者かの創作であろうが,やはり当時のローマ人にとってなおローマ帝国は一つの存在であり,第二次ローマ劫略に対し何の反応もしなかったマルキアヌス帝の行動は奇異なものであり,やはりローマ帝国は少なくとも完全には分裂していなかったことを示している。
(4)レオ王朝の皇帝たち
「総主教に戴冠された者」レオ1世の治世
東ローマ帝国の危機を救ったマルキアヌスは457年に死去した。マルキアヌスに男子はおらず,また彼が生前に後継者を指名することもなかったため,コンスタンティノポリスの政府は,合議により次の皇帝を選出しなければならなかった。
その結果,帝位を手中にしたのがレオ1世(在位457~474年)である。彼はテオドシウス王朝の血縁により帝位の正統性を主張できる立場ではなかったため,コンスタンティノポリス総主教による戴冠を受けた。前任者のマウリキウス帝も総主教の戴冠を受けたとする説もあるが,一般的にはレオ1世が総主教による戴冠を受けた初めての皇帝とされており,以後の歴代皇帝は総主教から戴冠を受けるのが通例となった。総主教による戴冠式を取り入れたことでキリスト教の権威拡大に貢献したとみられたのか,レオ1世を「大帝」の尊称付きで呼ぶ例もある。
トラキア出身の軍人である彼が帝位に就けたのは,世俗的には強力な軍事力を有するゲルマン人将軍のアスパルに支持された故であり,そのため即位当初は,アスパルとその息子アルダブリウスの傀儡皇帝でしかなかった。
しかし,レオはゲルマン人に対抗するため,イサウリア人(小アジア南東部に住んでいた勇猛果敢な山岳民族)を登用し,その族長タラシコデッサ(後にゼノンと改名)と協力して,471年になるとアスパル親子の打倒に成功し,皇帝の地位を確固たるものにした。このゼノンはこの功績により,レオ1世の娘アリアドネを妻としている。
レオ1世は,西ローマ帝国の皇位継承にも積極的に介入した。西ローマの宮廷で実権を握っていた蛮族出身の将軍リキメルにはパトリキ(貴族)の称号を贈っていたが,レオ1世と同年に即位した西皇帝マヨリアヌスに対しては帝位の承認を与えなかった。マヨリアヌスは,歴代西皇帝の中では珍しい意欲的な人物で,これまでほとんど押される一方だった蛮族に対し攻勢に出た。もっとも,ガリアのブルグント族とヒスパニアの西ゴート族を打ち破ったまでは良かったが,北アフリカを占拠するヴァンダル族の討伐を試みてヒスパニアで遠征艦隊の編成に着手したところ,ヴァンダル族の奇襲を受けて艦隊は出発する前に焼き払われてしまった。
これによって西ローマの国力を使い果たしたマヨリアヌスは,461年にリキメルによって殺されてしまう。蛮族出身であるリキメルは,自ら皇帝になることは無理であったため,リウィウス・セウェルスという人物を傀儡として帝位に就けたが,マヨリアヌスを支持していた一部の属州がセウェルスの即位を認めず,レオ1世もセウェルスの即位を承認しなかった。
そのため,即位当初から支持基盤が脆弱であり,故にさしたる活躍も出来なかったリウィウス・セウェルス帝は,4年後に謎の死を遂げる。西ローマの実権を握っていたリキメルは,もはや西ローマは自分たちでは何も出来ず,東ローマ宮廷の望む人物を帝位に付けて東ローマの支援を仰ぐしかないと考え,2年間にわたり西の皇帝を空位にして,レオ1世に新たな皇帝の指名を願った。
これに応じて,レオ1世が467年に新たな西皇帝として送り込んだのが,アンテミウスである。アンテミウスは東ローマ帝国における有力家門プロコピア家の出身であり,しかも先帝マルキアヌスの一人娘を妻にしていたため,順当に考えればレオ1世ではなくアンテミウスが東皇帝に選出されるのが自然であった。
そうならなかったのは,軍事力で東ローマ宮廷の実権を握っていたゲルマン人将軍のアスパルが,アンテミウスでは自分の傀儡とすることは難しいと考え,先帝の娘婿という正統性も持たず軍人としての階級も低いレオを敢えて皇帝に推挙したからである。
アスパルの策謀によって東ローマの帝位を逃したアンテミウスだったが,彼は文句も言わずレオ1世に仕え,将軍として東ゴート族やフン族との戦いで戦功を挙げていた。レオ1世としては,アンテミウスはいつ自分の帝位を脅かすか分からない不気味な存在であり,厄介払いも兼ねてアンテミウスを西ローマの帝位に就けたのである。
アンテミウスは東ローマと共同で,西ローマにとって最大の懸案事項であったヴァンダル族の征伐に着手する。東ローマ軍の総大将は,レオ1世の義弟(皇后ウェリーナの弟)バシリスクス。彼が10万の東ローマ軍を率い,千隻を超える船団に乗ってカルタゴに上陸する。別働隊として,東ローマのエジプト軍区督軍のヘラクリウスがトリポリタニアを制圧し,西ローマのマルケリヌス将軍がサルディニア島を確保するという,大規模な軍事作戦であった。
しかし,老練なヴァンダル族の王ゲンセリックは,カルタゴ付近のボン岬半島にまで進出してきたバシリスクスに,偽りの降伏を申し出る。これを信じたバシリスクスは休戦に応じてしまい,油断したところをヴァンダル軍の火船による奇襲攻撃で船団の半分を失う惨敗を喫してしまい(ボン岬の戦い),バシリスクスはコンスタンティノポリスまで逃げ帰る。
散々な結果にレオ1世は激怒するが,この敗戦による東ローマ側の被害が甚大であったため,アフリカ征伐を諦めヴァンダル族と単独講和を決めた。敗戦責任者であるバシリスクスは,姉である皇后の取りなしで助命された。
一方,東ローマ軍の離脱により,ヴァンダル族の征伐を諦めざるを得なくなったアンテミウスは,ガリアの西ゴート族征伐に方針転換するが,これも失敗に終わった。二度の敗戦で人望を失ったアンテミウスは,リキメルと不和になって両者は内戦に突入し,472年7月,アンテミウスはリキメルに敗れて斬首された。一方,勝ったリキメルも同年8月に急死し,リキメルから傀儡の西ローマ皇帝に擁立されていたオリブリオス帝も同年10月に短い治世を終えた。
474年,レオ1世は,アンテミウスに代わる西ローマ皇帝として,姪の夫であるユリウス・ネポスを送り出した。しかし,ネポスはイタリアの支配を確立する前に,蛮族出身の軍人であるオレステスに反乱を起こされ,イタリアを追われてしまった。ネポスは一族の領地であるダルマティアに帰って再起を期すが,その前後にレオ1世が亡くなり,その後東ローマでは帝位をめぐる混乱が生じたこともあって,ネポスは東ローマ宮廷の支援を受けることも出来なくなり,480年に暗殺された。
「惰弱なイサウリア人」ゼノンの治世
474年に死んだレオ1世には男子が無く,娘であるアリアドネとゼノンの息子が,レオ2世として即位した。しかし,7歳であったレオ2世は即位後間もなく病死し,レオ2世の後見人として共同皇帝の地位にあったゼノンが単独の皇帝となった。
ゼノンは,レオ1世の娘婿であり,その後継者となる資格は一応あったが,ローマ人にとっては明らかな蛮族であるイサウリア人という出自であり,普通に考えればローマ皇帝となれる器ではなかった。レオ1世も,だからこそゼノンを同盟者に選んだのであろうが,それがレオ2世の早世という偶然の結果,本来皇帝の器ではないゼノンに帝位が転がり込んできてしまったのである。
ゼノンは即位後間もなく,主要な商業海路を脅かす存在だったヴァンダル王国との問題を解決するため,ヴァンダル王国と恒久平和条約を締結し,身代金と引き換えにヴァンダル王国の捕虜となっていた人々を解放させ,またヴァンダル王国内におけるカトリック教徒の迫害を止めさせることに成功したが,このような外交の成果にもかかわらず,ゼノンはむしろ惰弱な人物であるという悪評を受けることになってしまった。
そのため,ゼノンを蹴落として帝位を狙おうとする者も少なくなかった。ゼノンが帝位に就いたのは474年11月であるが,翌475年1月,レオ1世の義弟にあたる例のバシリスクスが反乱を起こしてコンスタンティノポリスに攻め入ると,ゼノンは帝位を追われ,故郷のイサウリアに追放された。
しかし,ヴァンダル族との戦いの敗戦責任者であるバシリスクスには,ゼノン以上に能力も人望もなかった上,当時におけるローマ帝国の国庫は,レオ1世時代に行われた大規模なヴァンダル族討伐が失敗に終わった影響もありほとんど空であったため,バシリスクスは財政再建のため民に重税を課さざるを得なかった。これによって彼は首都の民心を失い,ゼノンに復位の機会を与えることになる。476年,ゼノンが再び帝位に就かんとしてコンスタンティノポリスに進軍してくると,首都の門はゼノン派の前に開かれ,バシリスクスは帝位を追われた上に捕縛され,ゼノンによってカッパドキアの要塞に幽閉された。
その後ゼノンは,479年にマルキアヌス(皇后アリアドネの姉レオンティアの夫)の反乱,484年から488年にかけて後述するレオンティウスの反乱,東ゴート王テオドリックとの不和,484年のサマリア人による反乱など様々な問題を抱えていたにもかかわらず,491年に死去するまで帝位を維持することに成功する。もっとも,民衆からの信望は薄く,その治世は人気取りのためのバラ撒き政策に終始したという。ゼノンはあまりに不人気であったため,彼は棺に収められた後に息を吹き返し,「許してくれ!」と三日間にわたり叫んだが,皇后アリアドネを含む皆がゼノンを憎んでいたため,無視してそのまま葬られたという逸話も伝えられている。この逸話は長い間ビザンツ人の間で事実と信じられており,後の皇帝ヘラクレイオスは,自分の棺には三日間封をしないようにとの遺言を残したとされている。
ただし,ゼノンは宗教問題についてやや単性論寄りであり,カルケドン公会議の後も東方属州では優勢であった単性論派と妥協するため,482年にコンスタンティノポリス総主教アカシオスの協力を得て,ヘノティコンと呼ばれる宗教的な勅令を発布している。このヘノティコンでは「イエス・キリストは神のただ一人の子であり,二人ではない」と説明される一方,その性質(神性と人性)については敢えて言及しないことで東方の単性論派との融和を図ったものであるが,ローマ教皇はこのヘノティコンを受理しなかったため,アカシオスの分離と呼ばれる東西教会の分裂状態が519年まで続いている。
ゼノンはこのような宗教的妥協を図ったため,その治世についてはカトリックの歴史家によって実際以上に悪く書かれている可能性があり,その惰弱ぶりや不人気ぶりについては,ある程度割り引いて考える必要があるかも知れない。
なお,ゼノンが帝位に就いていた時代,イタリアの実権者はオドアケルであった。東ローマ宮廷の送り込んだネポスを追い出したオレステスは,息子のロルムス・アウグストゥスに西ローマ皇帝と名乗らせたが,オレステスを倒してイタリアの実権を握ったオドアケルは,ロルムスを平穏に退位させた後,後継の西皇帝を立てなかった。
オドアケルは,ローマ元老院を通じて「もはや西ローマに皇帝は必要でない」との勅書をゼノンに送り,西皇帝の帝冠と紫衣を返上した。ゼノンは当初,オドアケルに対しネポスを西皇帝として正式に承認すべきだと主張していたが,ローマの元老院は西皇帝の完全な廃止を主張して譲らなかった。オドアケルは多少妥協して,ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させたが,政治の実権をネポスに引き渡すことはなかった。
480年にネポスが暗殺され,ネポスが支配していたダルマティアをオドアケルが制圧してしまうと,ゼノンは西皇帝位の正式な廃止を決め,オドアケルにパトリキの称号を贈ってイタリア領主に任命し,皇帝の代官としてイタリアを統治する権限を与えた。なお,東ローマ側の記録では,最後の西皇帝はアンテミウスとされている。ヴァレンティニアヌス3世の死後,東ローマ宮廷が西皇帝として承認した人物はアンテミウスとユリウス・ネポスのみであり,ネポスは西ローマを実際に支配できないまま死亡したからである。
その後,484年に帝国で内乱が発生すると,オドアケルは帝国東方のタルソスで皇帝を名乗ったレオンティウスに加担して,ゼノンと政治的に対立した。オドアケルが支持基盤の弱いレオンティウスを支持した理由は不明であるが,ゼノンはレオンティウスを倒して帝位を維持し,その結果オドアケルは東ローマ皇帝の「逆賊」となってしまったのである。
そして,ゼノンはレオンティウスを倒した488年,逆賊たるオドアケルを討伐しようと考えたが,ようやく内乱を制したばかりということもあり,自前の軍隊でイタリアを征服する余力はなかった。そこでゼノンが目を付けたのが,東ゴート族の族長テオドリックである。
東ゴート族はローマ帝国の同盟者で,テオドリックも族長となる前はコンスタンティノポリスに留学し教養を身に付け,軍司令官の地位にも就いていた人物であるが,東ゴート族はしばしば雇用条件に不満を募らせて反乱を起こし,近隣の都市を襲う厄介な存在であり,特に486年にはコンスタンティノポリスを包囲して水道を破壊し,このときゼノンは金を払って東ゴート族と講和せざるを得なかった。
そこでゼノンは,488年にテオドリックと協定を結び,東ゴート族はイタリアへ進軍してオドアケルを廃位した後,ゼノンの名においてイタリアを統治するという取り決めになった。ゼノンにとっては,イタリアにおけるローマ皇帝の宗主権を回復し,同時にテオドリックと東ゴート族を厄介払いするという一石二鳥の策であった。
この協定に基づいて,翌年テオドリックはイタリアに進軍し,野戦ではオドアケルの軍を二度にわたり撃破したが,オドアケルはかつてホノリウスが本拠としていた難攻不落のラヴェンナに立て籠もって抵抗を続けた。この包囲戦は3年間にわたって続き,ゼノンの死後である493年,テオドリックはラヴェンナ大主教の仲介で,オドアケルとイタリアを共同統治することに合意した。こうしてテオドリックはラヴェンナに入城し,合意の10日後,自分たちの友情を讃え合うためと称してオドアケルを宴席に呼び,宴たけなわのうちに刺殺した。最後は講和と見せかけての騙し討ちという卑怯な方法ではあったが,テオドリックは何とかオドアケルの討伐に成功し,新しいイタリアの統治者となった。
「評価されなかった名君」アナスタシウス1世の治世
ゼノンに男子はなく,死に臨んで後継者指名をすることもなかった。もっとも,ゼノンには兄弟にあたるロンギヌスという人物がおり,血縁を重視するならロンギヌスが皇帝に即位してもおかしくはなかったが,首都の民衆はローマ人である正統キリスト教徒の皇帝を強く望んだため,ゼノンの皇后であったアリアドネは,枢密院警護長であったアナスタシウスと再婚することで,彼を皇帝の地位に就けた。こうして即位したのがアナスタシウス1世(在位491~518年)である。レオ1世の娘であり,ゼノンの皇后でもあったアリアドネと結婚したことにより,アナスタシウス1世もレオ王朝の皇帝に数えられている。
もっとも,ロンギヌスは勇猛なイサウリア人を味方に付けており,首都で力を持っている青と緑のサーカス党派もロンギヌスの後援を受けて暴動を繰り返したため,アナスタシオス1世の治世はこうした反乱の鎮圧から始めなければならなかった。492年から497年まで続いたイサウリア人の反乱は,数で劣勢なイサウリア人が山岳地帯でゲリラ戦を繰り広げたため,鎮圧に約5年間を要することになった。降伏したイサウリア人は,再び反乱を起こさないよう,トラキア地方に強制移住させられることになった。
その後アナスタシウス1世は,ブルガール人とその傘下にあるスラヴ人の侵攻を受け,これらの侵攻から首都を守るため,首都の北方にマルマラ海から黒海まで続くアナスタシウスの城壁を建設した。また,502年から505年にかけてはササン朝ペルシアの侵攻を受け,帝国の都市テオドシオポリスとアミダが攻撃を受けたものの,この戦いではペルシア軍も甚大な被害を受けたため,506年には平和条約が締結されている。その後,アナスタシウス1世はペルシア軍の攻撃を防ぐため,ペルシアとの国境地帯にダラスの要塞を建設している。
アナスタシウス1世は行政の効率性と経済についても関心を示し,498年にはローマ帝国の通貨制度を整備し,租税の金納化を実現させた。これによって横領や盗難等のリスク,輸送や保管のコストが削減され,帝国に大幅な歳入増をもたらした。当時のローマ帝国は,先帝ゼノンによるばら撒き政策の影響などもあって破綻寸前にあったが,アナスタシウス1世は優れた経済政策によって財政再建を実現し,更に自前で装備を用意していたゲルマン人やイサウリア人の傭兵に頼ることをやめ,ローマ人の兵士に給料を支払って武装させる軍制改革の実現にも成功している。なお,アナスタシオス1世時代に発行された金貨は,ローマ帝国から遠く離れた中国でも発見されている。
一方,アナスタシウスは大規模な官位販売を行い,これによってローマ帝国では,民間人貴族と呼ばれる新しい貴族層が台頭することになったが,アナスタシウスは他の分野では政府の汚職や非効率性を最小限に抑えるよう努力しているため,この官位販売はアナスタシウス1世の治世を評価しようとする歴史家たちを困惑させている。
宗教政策に関しては,アナスタシウス1世も先帝ゼノンと同様単性論派との融和政策を採り,ゼノンの発布したヘノティコンを支持したため,アカシオスの分裂と呼ばれるローマ教会との分裂は彼の治世下でも継続した。そのため,アナスタシウス1世は皇帝としてはまず名君と呼んで良い人物であったにもかかわらず,カトリックである後世のキリスト教歴史家からの評価は極めて低い。
帝国西方との関係では,前述のテオドリックが526年に死去するまで,皇帝の代理としてイタリアを平穏に統治した。テオドリックはイタリア王を名乗り,497年にアナスタシウス1世はその称号を公認するが,テオドリックが東ローマ帝国に臣下の礼を取っていたことに変わりはない。
テオドリックはオドアケルの統治手法を踏襲して,西ローマの行政機構をそのまま温存し,ゴート人が信仰するアリウス派の信仰を強制することもなかった。ローマ人はテオドリックの統治に異を唱えることなく,『哲学の慰め』で知られる哲学者・政治家のボエティウスをはじめ,知識人たるローマ人もテオドリックの統治に協力した。
西ローマに「皇帝」が乱立していた時代に比べると,ローマ人にとっては蛮族であるオドアケルやテオドリックが統治していた頃のイタリアは極めて平穏であったため,両名が統治していた時代は「パクス・バルバリカ(蛮族による平和)」と呼ばれている。
一方,ガリアで勢力を拡大していたフランク族の王クローヴィス1世は,496年ないし497年,妻の一人であるクロティルドの勧めでカトリックに改宗した。ゲルマン諸民族の中でキリスト教に改宗した王はこれまでにもいたが,テオドリックも含めてその多くはアリウス派であり,カトリックに改宗したゲルマンの王はクローヴィス1世が初めてであった。ガリアの支配者ではあったが数では少数派のフランク人は,教会によって「青い血」の流れた貴族としてその優越的地位を認められ,クローヴィスの王位も教会の権威によって安泰となった。
こうしたクローヴィスのカトリック改宗は,支配者であるフランク族と住民との融和をもたらした。また,カトリックを国教としていたローマ帝国もクローヴィスのカトリック改宗を歓迎し,508年,アナスタシウス1世はフランク王クローヴィス1世に対し,ローマ帝国名誉執政官の称号を贈った。こうしたクローヴィスの統治手法は,後年他の蛮族国家にも模倣されることになった。
<幕間1> オドアケルとテオドリック
西ローマの皇帝位が廃止された後,イタリアに「パクス・バルバリカ」(蛮族による平和)と呼ばれる,約半世紀にわたる平和な時代をもたらしたオドアケルとテオドリックの治世について,もう少し詳しく触れておくことにする。
オドアケルは433年の生まれで,出自は諸説あってはっきりしないが,ゲルマン系の蛮族出身者であったことは概ね確かである。470年までにオドアケルはローマ軍の将軍となり,472年にはリキメルの下でアンテミウスの討伐にも参加している。
476年,オドアケルは西ローマ宮廷の実力者であったオレステスを殺して実権を掌握し,オレステスの息子である西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した(ただし,ロルムスは殺されることなく,年金をもらって平穏に余生を全うしている)。
オドアケルは,ローマの元老院を通じて「もはや西ローマに皇帝は必要ない」とする勅書を東ローマの皇帝ゼノンへ送り,西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上した。その後の一悶着はゼノンの項目で述べたので割愛するが,結局ゼノンはオドアケルにパトリキとイタリア領主の称号を与え,ローマ皇帝の代官としてイタリア本土を統治する権限を認めた(なお,オドアケルが「イタリア王」と名乗ったか否かは判然としない)。
オドアケルは,西ローマ皇帝位の廃止後も元老院など西ローマの政府機構はそのまま残し,古代ローマ式の統治方法を継続した。オドアケルはローマの法を厳格に実行して元老院と執政官の権威の復興に務めたため,イタリアの人々から大きな信頼を得た。また,オドアケル自身はイタリアの守護者として軍官の地位にとどまり,帝国の民政行政については元老院とローマ人の文官に委ねたので,それまでローマ皇帝によって押さえつけられていた元老院議員やローマの長官らもオドアケルの支配を歓迎した。
オドアケルの支配下で元老院と執政官は鋳造権を回復し,良質な銅貨幣が発行された。オドアケル時代のこうした政策は,後に皇帝アナスタシウス1世が行った財政改革の手本とされた。オドアケル自身は異教徒であったが,キリスト教会とも良好な関係を維持しており,ローマ教皇フェリクス3世は彼の治世を賞賛していた。
対外的には,ヴァンダル王国の王ゲンセリックと交渉してシチリア島の一部を帝国へ返還させ,491年までイタリアへの攻撃を停止させることに成功した。487年にはルギイ族の王ファワを降伏させ,連れ去られていた帝国の自由市民を取り戻した。オドアケルの治世下では,帝国西方で繰り広げられていた蛮族の王たちによる権力争いは急速に抑制され,イタリアは安全な地となった。オドアケルのもたらした平穏と繁栄によってローマの人口は増加し,皇帝のいなくなった西ローマは大いに復興することとなった。
しかし,ゼノンの項目で述べたとおり,オドアケルはレオンティウスの反乱に加担してゼノンと対立してしまい,テオドリックによる討伐を受けることになる。イゾンツォの戦いとヴェローナの戦いに相次いで敗れたオドアケルは首都ラヴェンナへと追い込まれ,493年にオドアケルは殺され,イタリアの支配は東ゴート王テオドリックに取って代わられた。
テオドリックは,東ゴート族純血主義を捨ててオドアケル配下の軍を自軍に取り込み,自軍の将兵であれば出自に関わらず「ゴート人」と呼んだ。497年,テオドリックはオドアケル討伐の功として,皇帝アナスタシウス1世からイタリア支配とイタリア王の地位を承認され,これによって東ゴート王国が成立した。
ただし,東ゴート王国はローマ帝国の軍隊駐屯法に従って認められた帝国内での一領地という位置づけであり,その領土や住民は依然としてローマ帝国のものとされた。また,ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ,民政は引き続きローマ人の元老院と文官たちに委ねられ,立法権はローマ皇帝が保持していた。テオドリックも自らの首都をラヴェンナに置き,ローマを訪問したのは一度だけだった。
オドアケルと異なり,テオドリックは東ゴート族長の息子として生まれ,若い頃にコンスタンティノポリスへ留学した経験もあり,イタリア遠征以前にパトリキウス(貴族)の地位を付与され,ローマ帝国の軍司令官や執政官に任命されたこともある。そのためテオドリックは教養もあり,ローマ宮廷の内情にも通じており,東ゴート族という自前の部下も持っていたため,彼の政治的基盤はオドアケルよりはるかに強固であった。
テオドリックには皇帝(アウグストゥス)になろうとする野心もあったらしく,ラヴェンナでは皇帝の首都に相応しい大規模な建設事業が行われ,司教座教会やアリウス派の洗礼堂,帝国スタイルで飾られた宮殿,要塞,水道,浴場その他の公共建造物が建設された。なお,ラヴェンナは751年にランゴバルド族の支配下に入った後,僻地として長年にわたり放置されていたため,この地では有名なユスティニアヌス1世と皇后テオドラのモザイクなどと共に,テオドリックによって建設された司教座教会(今日のサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会)や,テオドリックの霊廟も現存している。ただし,アナスタシウス1世もテオドリックの皇帝称号を認めることは無く,皇帝を名乗るテオドリックの野望は結局実現しないままに終わる。
テオドリックの支配に協力したローマ人としては,彼の統治に様々な助言を行い,彼の命を受けてゴート族の歴史をまとめた元老院議員カシオドルスや,彼に仕官して貨幣制度の改革などに関わり,510年には執政官となったボエティウスが特に有名である。彼は,自分の息子2人も執政官に任命されるなどテオドリック王の信任を得ていたが,かつての執政官アルビヌスの反逆に関与したという嫌疑でパヴィアに投獄され,524年ないし525年に処刑された。ボエティウスは獄中で『哲学の慰め』を著し,哲学者及び思想家としても後世にその名を残し,テオドリック王も後になるとボエティウスの処刑を後悔したという。
イタリア王となったテオドリックは隣国との友好を図るため,フランク王クローヴィスの妹アウドフレダを妻に迎え,娘を西ゴート王国のアラリック2世に,妹をヴァンダル王トラスムンドに嫁がせ,オドアケルによって創始された「蛮族による平和」はテオドリックの治世下でも継続された。
テオドリックとゴート族の多くはアリウス派であったが,カトリック教徒が多かったローマ人にアリウス派の教義を強要するようなことはしなかった。ローマ皇帝との関係も,単性論寄りでカトリック以外の教派にも理解のあったアナスタシウス帝の在位中は特に問題とならなかったが,アナスタシウスが518年に亡くなり,カトリック教徒であるユスティヌス1世が即位し,カトリック以外の宗教を迫害するようになると,ローマ皇帝との関係は次第に悪化した。
また,テオドリック王には男子がおらず,526年にテオドリックが亡くなると,彼の三女アマラスンタが産んだ孫アタラリックが10歳で後を継ぎ,アマラスンタがその摂政となった。アマラスンタの統治下においては,ローマ帝国や元老院との関係もまだ良好であったが,対ローマ帝国強硬派であるテオダハド(テオドリックの甥)などと対立し,反対派を次々と粛清しなければならなかった。
534年にアタラリックが放蕩の末に死去するとアマラスンタが自ら女王として即位するが,同年中にテオダハドがクーデターを起こしてアマラスンタは失脚し,翌535年には幽閉先のマルタナ島で,アマラスンタは反対派の生き残りによって暗殺されてしまう。間もなく,アマラスンタ殺害を口実に,皇帝ユスティニアヌス1世によるイタリア征服戦争が始まったため,これにより「パクス・バルバリカ」は終わってしまった。
なお,オドアケルやテオドリックによるイタリア統治に関し,J.B.ベリーらの研究者は西ローマに皇帝がいた時代からの連続性を指摘しており,476年ないし480年に西ローマ帝国が「滅亡」したと表現することに否定的である。彼らによれば,西ローマの政府機構は少なくとも6世紀中頃まで,オドアケルや東ゴート王らとは別々に存続しており,民政行政も西ローマ政府の任命した文官によって引き続き行われていた。軍事こそゲルマン人が掌握していたものの,そうした体制は既に帝政後期から始まっていたものであって,少なくとも法律・制度・行政機構の面においては,西ローマの皇帝位が廃された前後において,いかなる断絶も見出すことが出来ないという。
イタリアないし西ローマにおける帝国政府の崩壊は,オドアケルによってではなく,むしろユスティニアヌス1世によってもたらされたと考えるのが正しいようである。
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