第4話 ユスティニアヌス1世の栄光と負の遺産

第4話 ユスティニアヌス1世の虚栄と負の遺産

(1)ユスティヌス王朝の成立

 518年,アナスタシウス1世が亡くなった。没年齢は86~87歳とされているから相当に長命であったのだが,彼には息子がいなかったことから,東ローマ帝国では再び後継者問題が浮上した。元老院は協議の末,皇室護衛隊長を務めていた68歳の将軍ユスティヌスを皇帝として擁立した。これが皇帝ユスティヌス1世(在位518~527年)である。もっとも,アナスタシオス1世には実の息子こそいなかったものの,3人の甥をはじめ多くの親族がおり,それらの親族を排してユスティヌス1世が即位した経緯には謎が多く,彼は即位直後に反対派の粛清を余儀なくされている。
 ユスティヌス1世は貧農の出身であり,字の読み書きが出来ず,勅令などには“LEGI”(「私は読んだ」というラテン語の略)とくり抜かれた板が用意され,それに沿ってペンを側近の手を借りて動かして署名していたという。このような人物が皇帝になれたのは,ユスティヌス1世の甥(姉の子)であるペトルス・サッバティウスの影響が大きい。
 ペトルス・サッパティウスは,ユスティヌス1世の養子となってユスティニアヌス(ユスティヌスの子)と名乗るが,ユスティニアヌスは義父と違って,十分な教育を受け法学や神学に造詣の深い人物であった。ユスティヌス1世の在位中,ユスティニアヌスは皇帝の腹心として実権を行使し,ユスティヌス1世が死ぬと,当然のようにその後継者として帝位に就いた。
 ユスティヌス1世の業績としては,カトリック教会との関係修復が挙げられる。先帝と異なりユスティヌス1世はカトリックであったため,関係修復はそう難しいことではなかった。もう1つ挙げられるのは,異なる階級間の結婚を認める法律を制定したことである。
 後者の法律について説明するには,ユスティニアヌス1世の皇后となったテオドラの生い立ちに触れなければならない。テオドラは,コンスタンティノポリス(キプロスという説もある)で馬車競技場の熊使いの娘として生まれ,初めは姉のアシスタントとして,次いで自ら踊り子として舞台に立つようになった。踊り子といっても,その実態はむしろ女芸人兼ポルノ女優に近く,売春業にも手を染めていたことも確実である。プロコピオスによると,彼女は「歩兵」と称される最下級の売春婦で,1日30人も客を取ったことがあるという。彼女は笛や踊りといった類の芸は苦手であったが,男芸人を相手に当意即妙のやり取りを見せ,観客を笑わせるのは得意であったらしい。
 テオドラは,一度は結婚して官僚である夫とともにリビアへ赴くが,その地で離婚され,怪しい「踊り子」稼業を続けながら,アレクサンドリアを経てコンスタンティノポリスへ戻り,その地でユスティニアヌスと出会った。卑賎な身分のテオドラと,次期皇帝たる高貴な身分のユスティニアヌスがどのように出会ったのかは明らかでない。テオドラはその若さと美貌だけでなく,男芸人を相手に当意即妙のやり取りをする,現代の日本で言えば漫才に近い芸を得意としており,そのような芸を好んでいたユスティニアヌスと気が合ったようである。
 ともあれ,ユスティニアヌスは美しいテオドラを大変気に入り,単なる愛人から貴族の地位に引き上げ,さらには彼女と結婚しようと決意するが,当時の帝国の法律では,元老院議員であり貴族と言ってよいユスティニアヌスのような人物と,テオドラのような卑しい踊り子(実質的には売春婦)との結婚は禁止されていた。また,ユスティヌスの皇后エウフェミアも,ユスティニアヌスとテオドラの結婚に強く反対した。
 それでも,ユスティニアヌスはテオドラとの結婚を諦めず,邪魔なエウフェミアが死んだ後の525年頃,義父のユスティヌス1世を動かして,(テオドラのような)劇場で売春をしていた卑しい女性でも,悔悛の儀式を経れば貴族との結婚も認められるという法律を制定したのである。まさしくテオドラのために作られた法律であり,これによってユスティニアヌスとテオドラの結婚は実現した。
 ユスティニアヌスとテオドラとの結婚は当然ながら醜聞となったが,ユスティニアヌス1世の皇后となったテオドラは,皇后らしからぬスキャンダルを起こすこともなく,皇帝の有能な後援者となった。ビザンツ帝国ではこれが先例となり,後の歴代皇帝も下層階級出身の娘を皇后にする例が多くなった。
 一方,東方のササン朝ペルシアとの関係では,当時の国王カワード1世の末子ホスロー(後のホスロー1世)をユスティヌス1世の養子に迎えるという交渉が行われたものの,ローマ帝国の帝位がペルシア人に渡ることになりかねないこの提案にはローマ帝国内で強い反対があり,この交渉は決裂した。その結果ササン朝との関係は悪化し,次のユスティニアヌス1世の時代には,ササン朝との全面戦争が始まることになる。

(2)「偉大なる出来損ない」ユスティニアヌス1世

 皇帝ユスティニアヌス1世(在位527~565年)は,前述したコンスタンティヌス1世,テオドシウス1世と並び,死後にキリスト教会から「大帝」の称号を贈られた皇帝である。
 ユスティニアヌス1世の治世下における主な業績として挙げられるものは,『ローマ法大全』の編纂,ハギア・ソフィアの建設をはじめとする各種の建築事業,そして5世紀に失われた西方世界の再征服であるが,ローマ法大全はともかく,それ以外の「業績」なるものは,先帝たちの遺産を浪費して積極的な対外遠征を行い,帝国の領土を最大限に膨張させ,さらに異様なまでの熱意で多額の費用をかけ数々の建築事業を行い,首都をはじめとする帝国の諸都市を豪奢に飾り立てたが,それらの事業によって国力を疲弊させ帝国の衰退を招いたというものである。
以下,そのようなユスティニアヌス1世の治世について概観するが,『ローマ法大全』については,後のレオーン6世の項目に付けた『ビザンツ帝国の法体系』で詳述するので,この項目における説明は割愛する。

ニカの乱

 叔父の後を継いで帝位に就いたユスティニアヌス1世は,即位後間もない532年,最大の危機に見舞われた。首都のコンスタンティノポリスでニカの乱と呼ばれる暴動が勃発したのである。
 暴動の原因は課税強化にあった。倹約家であったアナスタシウス帝の治世下で,国庫には32万ポンドの金が残っていたと伝えられているが,野心的でやりたいことが沢山あったユスティニアヌスはそれでも満足せず,有能な徴税官僚であるヨハネスを財務長官に任命した。ヨハネスは次々に新しい財源を見つけては課税したが,当然ながら新税は民衆からの反感を買う。特に不評だったのは「空中税」と呼ばれる税金で,実際には首都の高層住宅に住む者を対象とした新税だったと推定されているが,プロコピウスによると「まるで空から降ってくる」ように課されるからこの名が付いたのだという。
 増税への不満はついに爆発し,競馬場に集まった市民たちは「ニカ(勝利せよ)!」と叫んで暴動を起こし,暴動は瞬く間に首都の全市内に広がった。ユスティニアヌスは市民をなだめようとしてヨハネスの解任を発表したが,結果は火に油を注いだだけで,聖ソフィア教会は焼け落ちて宮殿にも攻撃が及び,元老院議員の多くも反乱に加わった。反乱者たちはコンスタンティヌス1世を打倒し,代わりにアナスタシオス1世の甥である元老院議員ヒュパティオスを帝位に就けようとした。
 この暴動にユスティニアヌス1世は震えあがってしまい,一度はコンスタンティノポリスからの逃亡も考えたが,これを断固として制止したのが前述の皇后テオドラである。プロコピオスの『戦史』が伝えるところによれば,彼女は夫である皇帝に向かってこう演説したという。
「もし今陛下が命を助かることをお望みなら,陛下よ,何の困難もありません。私たちはお金を持っていますし,目の前には海があり,船もあります。しかしながらお考え下さい。そこまでして生き延びたところで,果たして死ぬよりかは良かったといえるものなのでしょうか。私は『帝衣は最高の死装束である』という古の言葉が正しいと思います。」
 この演説に関しては,他の史書が言及していないことや,卑賎の生まれであるテオドラにしては古典の引用が見事過ぎることなどを理由に,歴史学者の間ではプロコピオスの創作とする説もある。しかし,プロコピオスが歴史書にあからさまな嘘を書く人物でないことは様々な研究により実証されているし,ビザンツ人の教育水準は意外と高く,庶民の間でも古人の有名な言葉くらいは口伝で教えられるのが普通であり,しかもテオドラが聡明で口達者な女性であったことを考慮すると,プロコピオスの創作とする見解は根拠に乏しい。細部の正確性はともかく,少なくともテオドラがこの種の演説で皇帝を強く説得し勇気づけたことは事実と考えて良かろう。
 この言葉に勇気づけられたユスティニアヌス1世は,反乱に断固とした姿勢で臨む。将軍ベリサリウスらに命じて暴動を武力で鎮圧させ,民衆に担がれたヒュパティオスも,ユスティニアヌス1世は当初助命しようとしたが,テオドラが強く処刑を主張したため,実際には処刑された。ニカの乱での対応に限らず,テオドラは帝国の政治に口出しすることが多く,後世の歴史家の中には彼女を「女帝」と呼んだ者もいるほどである。

北アフリカとイタリアの再征服

 ユスティニアヌスの行った数々の事業を,単なる時系列順に叙述しても混乱してしまうので,建築及び文化面での事業や宗教的事業は後でまとめて述べるものとし,まずは最も有名な事業である,西方世界の再征服をはじめとする軍事的事業から叙述するものとする。
 最大の危機であるニカの乱を乗り切ったユスティニアヌス1世は,偉大なるローマ帝国の再興という野望の実現に着手することになったが,そのためにはササン朝ペルシアとの戦争を終結させる必要があった。
 ローマ帝国とササン朝ペルシアは,アナスタシウス1世の時代にササン朝ペルシアの国王カワード1世が略奪のため東ローマ帝国に侵攻を始めて以来,慢性的な戦争状態が続いていた。ユスティニアヌス1世の時代には,530年に将軍ベリサリウスがダラの戦いでペルシア軍を撃破するも,翌531年にはカリニクムの戦いで逆にベリサリウスが敗れていた。
 531年9月にササン朝ペルシアの国王がカワード1世からホスロー1世に代わると,ユスティニアヌス1世はササン朝ペルシアに講和を打診し,翌532年,11,000ポンドの黄金と引き換えに「永久平和条約」が締結された。
 ユスティニアヌス1世は,ペルシアとの講和が成立すると,まずベリサリウスに北アフリカのヴァンダル族討伐を命じた。偉大な建国者であるゲンセリック王に率いられていた頃のヴァンダル族は,ローマ帝国の大軍を打ち破るほど強力であったが,477年にゲンセリックが死んだ後は,内紛により急速に弱体化していたのである。遠征の大義名分は,アリウス派のヴァンダル族によって迫害されているカトリック教徒の救済である。
 対ペルシア戦争の戦績を考えると,ベリサリウスの起用は若干不安のある人事であったが,彼は1千を超える私兵を抱える裕福な軍人であり,費用のかかる騎兵が主力となっていたこの時代,北アフリカ遠征を任せられる将軍はベリサリウス以外にいなかった。
 ヴァンダル族征伐のため,ベリサリウスが率いていった軍勢は1万5千プラス数部隊の蛮族兵に過ぎず,数としては敵であるヴァンダル族の方がかなり多かったが,ヴァンダル族は強力な指導者がおらず統制が取れていなかった。ヴァンダル軍はベリサリウス軍にアド・デキムムの戦い及びトリカマルムの戦いで相次いで敗れ,534年にあっけなく滅亡した。ベリサリウスの勝利により,ローマ帝国は北アフリカのほか,サルディーニャとコルシカ,バレアレス諸島及びセウタ要塞を回復した。もっとも,宮廷などではベリサリウス謀反の噂が流されたため,北アフリカの統治は宦官たちに任され,ベリサリウスは急いで帰国し,首都で凱旋式を行う栄誉に与った。
 北アフリカの征服が極めて短期間で,しかも完璧に成功したため,ユスティニアヌスは直ちに次の征服計画にとりかかった。ラヴェンナでイタリアを統治していたテオドリック大王は526年に亡くなっており,その後の東ゴート王国はしばらく政情不安定な状態が続いた後,534年には学者肌のテオダハドという人物が王位に就くが,535年には親ローマ派のアマラスンタ(テオドリックの娘)が殺され,これがイタリア征服の口実となった。
 ユスティニアヌスは,3方面から東ゴート王国を攻撃する準備を整えた。ベリサリウス率いる艦隊にはカルタゴへ向かうと見せかけてシチリア島を攻撃させ,将軍ムンドゥス率いる陸戦部隊にはダルマティア沿岸からイタリアへ進軍させ,それと並行して同盟国であるフランク族に,北からアルプスを越えてイタリアを攻撃させる,という作戦である。
 このうち,ムンドゥス率いる部隊はサロナ市の近くで東ゴート軍に敗れ殲滅され,フランク族も様子見を決め込んでしばらく動かなかったが,ベリサリウス軍は抵抗を受けることもなく,535年末までにシチリア島を占領した。東ゴート王テオダハドはユスティニアヌスに和平交渉を打診するが,国内の対ローマ強硬派に阻まれて交渉は行き詰まった。
 ユスティニアヌスは,536年夏になるとベリサリウスにさらなる進軍を命じ,ベリサリウスは南イタリアに入った。ベリサリウス軍はカトリックの住民に歓呼の声で迎えられ,抵抗はほとんど無かった。ナポリには東ゴート軍の守備隊がいたため初めて抵抗らしい抵抗を受けたが,ベリサリウスは使われていない水道を通って城内に入る方法を見つけて,ナポリは陥落した。ベリサリウス軍は更に進軍し,536年12月には何ら抵抗を受けることなくローマに入城した。
 しかし,ベリサリウスのイタリア征服がここまで順調だったのは,東ゴート王テオダハドが惰弱な人物であり戦意に乏しかったからに他ならない。537年,実績のある将軍ウィティギスが東ゴート王に選ばれテオダハドが処刑されると,東ゴート軍は早くも同年2月にはローマを包囲した。ローマを守るベリサリウスの手勢はわずか5000人ほどしかおらず,ベリサリウスは皇帝に援軍を要請した。東ゴート軍によるローマ包囲は1年ほど続き,ベリサリウスは住民の協力も得つつ,英雄的な努力で何とかローマを守り抜いた。
 一方,首都から援軍が来たのは良いが,ユスティニアヌスはその援軍の司令官として宦官のナルセスを派遣していた。しかもユスティニアヌスはナルセスに対し,「必要と判断したらベリサリウスの指揮下に入るように」と曖昧な指示を出していたため,ベリサリウスとナルセスの反目が生じ,その後の作戦がうまく行かなくなってしまった。ユスティニアヌスは,軍隊には指揮命令系統の統一が不可欠であるという軍事の常識を理解していなかったのである。
 もっとも,ユスティニアヌスは西方の戦況を聞いてようやく事態を理解したのか,539年にナルセスを召喚する。これによって指揮系統がベリサリウスの許に一本化し,ローマ軍はウィティギスが籠城するラヴェンナへと進軍した。さすがにラヴェンナの攻略には時間がかかると予想されたので,ユスティニアヌスは東ゴート族がポー川以南のイタリアを割譲することを条件に和平を提案し,東ゴート側もこの条件を受け容れるつもりであったが,現地にいるベリサリウスが批准を拒否した。全面的な勝利に手が届く段階に至って,いまさら妥協する意味がないと考えたからである。
 ラヴェンナ攻略戦は膠着状態が続いたが,これも偽計により決着が付いた。失政続きのウィティギスに苛立つ東ゴート族から,もしベリサリウスが西ローマ皇帝を名乗るならラヴェンナの城門を開くことを約束するとの報が届いた。ベリサリウスはこれを受け容れるふりをし,軍団を入城させると,うやうやしくユスティニアヌス帝の名のもとにこの町を占領すると宣言した。こうして,540年5月にラヴェンナが帝国に併合された。

ササン朝ペルシアの侵攻とイタリア戦線の状況悪化

 和平案を拒否して全面的な勝利を求めたベリサリウスの判断は,自分が東ゴート族の残党を制圧しイタリアを平定するまでその任に留まることを前提にしていたと考えられるが,実際にはそうはならなかった。
 ラヴェンナに籠城していたウィティギスは,窮余の策としてイタリア人の聖職者を使節として,クテシフォンにあったササン朝ペルシアの国王ホスロー1世の宮廷に赴かせた。この施設はウィティギスからの手紙を見せ,ユスティニアヌスの野望はきりがなく,東ゴート王国が征服されたら次はペルシアに向かってくると警告した。
 ホスローは,自分の帝国が脅かされるという説明を真に受けることは無かったが,それでも大手を振って無防備なローマ帝国領に侵入できる機会を逃すのは惜しいと考えたようである。540年春,ホスローは大軍を率いてシリアに侵入し,スラの町を焼いて住民をそっくり奴隷にした。さらに,ホスローは恒久平和条約を盾に交渉を試みた皇帝の使節を追い返すと,シリアの中心都市アンティオキアへと進軍した。
 ユスティニアヌスは,甥のゲルマノスをアンティオキアに派遣したが,彼に付けられた兵力はわずか300人であった。アンティオキアは城壁に隣接した大きな岩があり,攻撃側は城壁より高いこの岩から防衛側を攻撃できるという致命的な弱点があり,勝ち目がないのは明白だったので,アンティオキアの使節団は金貨10万枚と引き換えに攻撃をやめてほしいとホスローに交渉を申し入れたが,この条件はホスローではなくゲルマノスによって拒絶された。皇帝から「敵にはびた一文支払ってはならぬ」という厳しい命令を携えた使節が到着していたからである。
 ホスロー率いる軍勢はアンティオキアを攻囲した。防衛側は件の弱点を克服するため,城壁に点在する塔と塔の間に綱を張り渡し,木製の足場をこしらえた。ところが,この脆弱な足場へあまりに多くの兵が押し寄せたので轟音と共に足場が崩れ,防衛側は城壁本体が崩れたものと誤解して大混乱となり,持ち場を捨てて逃げ出す者も多かった。ペルシア軍はその隙を突いて城壁をあっさり突破したが,ホスローは帝国第三の都市アンティオキアがこんな簡単に落城するはずはない,これは何かの罠に違いないと考え,ローマ軍の兵士たちに対し,追撃はしないからアンティオキアを退去せよという合図を送らせた。こうして兵士たちはアンティオキアから退去したが,住民たちはペルシア軍に抵抗したため,アンティオキアでは住民が虐殺され,この大都市はペルシア軍によって焼かれた。
 アンティオキアの陥落を聞いて,さすがのユスティニアヌスも懐柔路線に転じ,莫大な量の金貨を引き換えに,ホスローにシリアから撤収するよう求めた。ホスローはローマ軍がいないのを良いことに,シリアで海水浴をしたり戦車競走を観戦したりと行幸のような数週間を過ごした後,大量の戦利品と捕虜を引き連れてようやく帰途についたが,ユスティニアヌスとの和睦が成立していたにもかかわらず,その帰途で通過するローマ領の町々からも金を取り立てた。妨げるものは何もなかったからである。
 間もなく,イタリアにいたベリサリウスは首都に召還された。横暴なホスローに対抗し国境を守らせるためという目的もあったが,ベリサリウスがラヴェンナ攻略の際に採った計略で彼の忠誠心が疑われたからでもあった。しかも,ユスティニアヌスはベリサリウスを召喚するにあたりイタリアに代わりの将軍を送ることはせず,その後の戦争はイタリアに残ったベリサリウスの部下たちに任せた。
 最高司令官がいなくなり,11人もの司令官が並立する状態となったイタリアのローマ軍は,何か問題が起きるたびに司令官たちの言い争いが起きて統制が取れなくなり,その間に東ゴート族は体制を立て直してローマ軍を駆逐した。ユスティニアヌスは何とか彼らをまとめようとして,上級司令官マクシミノスを派遣したが,彼はなぜかダルマティアのアドリア海岸までしか行けず,そのまま何週間もぐずぐずしていた。
 その間に,イタリアの戦況はさらに悪化していた。先の最高司令官ベリサリウスは,私兵を自前で養っていけるほど裕福なだけでなく,地域住民との友好関係に配慮して,軍に食料補給が必要な場合地元の産物を高値で買い付けていたが,後任の司令官たちはベリサリウスほど裕福でも高潔でもなく,軍事作戦を金儲けの機会とみなし,恥ずかしげもなく地域住民から食料や物資を収奪していた。
 イタリアの住民から富を収奪したのは軍隊だけではなかった。ユスティニアヌスはラヴェンナを手に入れると,極めて有能な徴税人である財務長官アレクサンドロスをイタリアに派遣した。彼は円形を歪めずに金貨の縁を削る特技があったらしく「やすり」というあだ名をつけられていたが,この「やすり」はイタリアで新たに苛酷な税査定を行う一方で,歳出の削減,特に兵士たちに支払う給料の削減を行った。これによって,地域住民の離反と軍紀の乱れを一度に招いたのである。
 しかも悪いことに,東ゴート族は新たな王トティラの許で体制を立て直していた。トティラは542年夏,ファエンツァの戦いで少数の騎兵を用いた陽動作戦に成功してローマ軍を破り,有能な軍司令官であることを実証した。そして,ローマ軍の司令官たちがラヴェンナの城壁に篭っている間に,トティラはイタリア各地に進撃して次々と都市を占領した。
 ナポリは543年に陥落し,ローマもトティラの軍勢に包囲され,イタリアのローマ帝国支配地域はほぼラヴェンナのみとなった。トティラは地元住民の好意を勝ち取ることにも努め,「やすり」の容赦ない徴税も大いに宣伝した。ローマ軍は確かにカトリック教徒であったが,トティラに言わせれば外国人の「ギリシア野郎」であり,軍の主力となっていたヘルリ族,ペルシア人,ムーア人は,ギリシア人以上にイタリア人との共通性がなく,しかも住民の食料や財産を容赦なく徴発していた。
 一方,ユスティニアヌスによって呼び戻されたベリサリウスは,541年頃東方戦線に派遣されいくつかの戦勝を収めたが,翌年には宮廷に呼び戻された。宮廷内で彼の背信行為の噂が伝えられたからである。対ペルシア戦争は,543年には疫病が流行したため自然休戦となった。翌544年にはホスロー1世自ら率いる軍勢がローマ軍を撃破したものの,主要都市エデッサの攻略には失敗した。
 慢性化したローマ帝国とササン朝ペルシアとの戦いは双方とも優勢を維持できず,545年には南部の国境地帯で和平が成立したが,その後も北部のラジカ戦争は続き,この対ペルシア戦争が最終的に終結したのは,562年に50年間の平和条約が締結され,ペルシアはラジカを放棄し,その見返りにローマ帝国は毎年400ないし500ポンドの金をペルシアに支払うことが決まったときであった。
 一方,ベリサリウスによって平定された北アフリカは,その後の統治体制がまずかったのか,内陸部のベルベル人がローマ帝国の支配に反抗を続け,ついに544年の反乱で総督のソロモンが殺され,反乱軍はアフリカ属州の大半を蹂躙し,ローマ軍は要塞化された拠点に閉じ込められた。ユスティニアヌスはこの反乱を鎮圧するために次々と将軍を派遣し,ようやく547年にヨハネス・トログリュタが反乱を鎮圧した。
 なお,その後のアフリカ属州は安定を取り戻し,新たに150の町が建設されるなどある程度の繁栄を享受したとされているが,最新の考古学的研究によれば,ローマ帝国の支配下に戻った後の北アフリカは,ヴァンダル族時代よりむしろ経済的衰退が進んだと指摘されている。

未曽有の自然災害

 ユスティニアヌス1世の治世後半を暗いものにしたのは,こうした軍事的な問題ばかりではない。この時期には未曽有の自然災害が続き,541年の夏には腺ペストらしき疫病がエジプトのナイル川デルタ地帯で発生し,この大疫病はエジプト,シリアを経てコンスタンティノポリスにも広まった。この疫病は,シリアで村人がこの疫病で全滅して,畑に穀物が刈り取られないまま残されるといった事態を招くほど伝染性の強いもので,543年にはこの疫病のため対ペルシア戦争が前述のとおり自然休戦となってしまうほどであった。なお,この疫病ではユスティニアヌスにも症状が出たが,すぐに回復している。疫病は1年ほどで収まったが,その後558年と573年にも新たな疫病の発生が記録されている。
 大規模な地震が相次いだこともこの時代の特徴である。アンティオキアはホスローの攻撃を受ける以前,526年と528年に地震に見舞われ,528年の地震では5千人ほどの死者が出た。ホスローの軍に劫略された後の551年にも地震に見舞われた。
 首都コンスタンティノポリスでも557年に大地震が発生し,聖ソフィア教会を含む多くの建物が損傷を受けたほか,崩れやすい家屋や共同住宅の多かった貧民街では多くの死者が出た。信心深いローマ人たちは,こうした自然災害を神の怒りだと考え,特にユスティニアヌスによって迫害されていた単性論者たちは,地震でカトリックの総主教やユスティニアヌスの重用していた高級税務官僚が死亡する事故が起きると,これはユスティニアヌスに対する神の怒りだと解釈した。
 なお,ユスティニアヌスはこうした自然災害の続発にもかかわらず,戦争や建築事業などには相変わらず熱心だったが,ペストや地震に対して行ったことは,被災地の税を免除するくらいであった。

イタリア戦争の終結

 話をイタリア戦線に戻す。ベリサリウスは544年に再びイタリア戦線に派遣されたが,彼には十分な兵力も軍資金も与えられず,そのため軍紀の乱れた司令官や兵士たちを統率することも出来なかった。ベリサリウスは,何度も皇帝に手紙を送って兵力や軍資金等の援助を陳情したが,当時のローマ帝国は東西で戦争を行い,皇帝の肝煎りによる建築事業も飽きることなく進められていたので,宮廷はさながら予算争奪の戦場を化しており,遠いイタリアから送られる陳情の手紙程度では何の効果も無かったようである。
 ベリサリウスは,トティラによって包囲されたローマを救援しようとしたが,ローマ守備隊の司令官は軍需物資たる食料の横流しで私腹を肥やすことしか考えておらず,ローマ守備隊との連携作戦もうまく行かなかった。結局飢餓状態に陥ったローマは,546年にはトティラに降伏した。
 その後,ローマは何とか奪回したものの,ベリサリウスに出来たことは,せいぜい状況がこれ以上悪化するのを防ぐ程度であった。秘書官だったプロコピオスによれば,この時期のベリサリウスは要塞化された沿岸都市を船で回るのに大半の時間を費やし,上陸することは滅多になかったという。
 549年の初め,ベリサリウスはまたも首都に召還されるが,彼に別の任務が与えられたわけではなく,事実上の更迭であった。今回も代わりの司令官が任命されたわけではなく,ベリサリウスが去った後ローマはまたもトティラの手に落ちた。度重なる戦争で疲弊の極みに達していたイタリア人たちは,ユスティニアヌスに使節を送り,これ以上イタリアで戦争をしないで頂きたいと懇願したが,皇帝の聞き入れるところとはならなかった。
 イタリア戦線の事態が改善されるのは,新たに宦官のナルセスが将軍に任命され,相当な軍勢と資金をもって,ラヴェンナに到着してからであった。ベリサリウスは将軍に任命されると直ちに任地へ赴き,皇帝に現地の窮状を訴えて援助を求めるというやり方を取っていたが,宮廷の内情を熟知していたナルセスは,任地に赴く前に十分な兵力と資金を確保しておかなければ,自分もベリサリウスと同じ運命になると判断したようである。
 ナルセスは,552年の夏にブスタ・ガッローウムの戦いでトティラとの決戦に挑む際,ランゴバルド族やヘルリ人といったゲルマン民族から成る部隊に加えて,2万5千の軍を動員することが出来た。この戦いでトティラは,撤退を装ってローマ軍が防御を緩めた隙に騎兵部隊で総攻撃を掛ける作戦に出たが,この作戦はナルセスに見破られており,攻勢に出た東ゴート軍は,ローマ軍の両翼に配置された騎兵部隊によって包囲攻撃を掛けられ,トティラは約6000人のゴート兵共々命を落とした。
 この戦いで大勝利を収めたナルセスはローマを奪回したが,536年以来5回も支配者が代わったローマは既にボロボロになっており,城壁もトティラの命によって随所で破壊されていた。ヴァンダル族による第2次ローマ劫略の際は財宝の略奪と人間の拉致があっただけでローマの街並みはまだ残っていたとされるが,ユスティニアヌス1世の征服事業で争奪の的となったローマは原型を留めないほどに破壊され,住民も500人程度しか残っていなかったという。
 少し後のことになるが,590年に即位したローマ教皇グレゴリウス1世は,「いま元老院はどこにいるのか,市民はどこにいるのか」と嘆いたという。ユスティニアヌス1世による征服時代のローマ教皇は,シルウェリウス(在位536~537年)が東ゴート軍に内応していたとして追放・暗殺され,その後のウィギリウス(在位537~555年),ペラギウス1世(在位556~561年),ヨハネス3世(在位561~574年)については,ほとんどその名前しか伝わっていない。ローマの元老院は当時壊滅的状況になっていたが,この時代のローマ教皇庁も,実質的にはほとんど機能していなかったと推測される。英語では文化破壊行為をヴァンダリズムと呼ぶが,むしろユスティニアリズムとでも呼んだ方が適切ではないかと思えてならない。
 イタリア戦役に話を戻すが,ナルセスがローマを奪回した後も東ゴート族はまだ降伏しておらず,新しい王テイアを立てて抵抗を続けた。ナルセスは翌553年,ラクタリウス山の戦いで東ゴート最後の王テイアを倒したが,東ゴート族の残党はなおも都市に篭って抵抗した。
 554年,イタリアの戦況がローマ軍有利となったのを見て,それまで日和見を決め込んでいたフランク族がイタリアに侵攻してきたが,ナルセスはウォルトゥルヌスの戦いでこれを撃退した。それでも,東ゴート族最後の拠点ヴェローナが開城し,イタリアが完全にローマ帝国の手に戻ったと言えるようになるのは,561年を待たなければならなかった。
 しかも,イタリア征服を達成しこの地方の代官に任命されたナルセスは,皇帝が戦役に費やした費用を取り戻したがっているのを知っており,征服されたばかりのイタリアに凄まじいまでの重税を掛けた。なお,ユスティニアヌスが565年に亡くなるとナルセスはその職を解かれ,573年にナポリ近郊で死んだ。彼は478年生まれと伝えられており,事実であれば95歳という稀なる長寿を全うしたことになる。
 なお,ナルセスが退場した後,イタリアの新たな支配者として乗り込んで来たランゴバルド族は,ナルセスによって武器の使い方と貨幣経済を教えられて一人前の兵士に鍛えられ,戦争が終わると用済みになってナルセスに解雇された人々であった。
 一方,ユスティニアヌス1世は552年,リベリウス率いる2千の軍をヒスパニアに派遣して,カルタヘナをはじめとするヒスパニアの南東部を回復し,ヒスパニア属州を設置している。イタリア戦役も対ペルシア戦争も決着が付いていない段階で,遠隔の地に少数の軍を送り新たな飛び地の領土を作るユスティニアヌスの行動は,全く理解に苦しむ。
 他方,帝国の北方では,ドナウ川の北に住むテュルク系及びスラヴ系民族の侵入をしばしば受けたが,ユスティニアヌスはこれらの敵に対して,外征ではなく主に外交と防衛体制の構築で対処しようとしていた。559年にはザベルガネス・ハーンに率いられたスクラヴィニ族とクトリグル族が侵入して首都を脅かした。この事態に,職を解かれて隠棲生活に入っていたベリサリウスが急遽呼び出され,彼の指揮によってローマ軍はこの敵を撃退したが,ユスティニアヌスは謁見に来たベリサリウスを無視したという。
 絶え間ない戦争と災害を経て,確かにローマ帝国の領土は北アフリカ,シチリア,イタリア,スペイン南部へと大きく広がったが,それは膨大な生命と資金を費やした結果であった。プロコピオスによると,首都では国庫は空なのか,それとも大宮殿の壁の向こうに莫大な金額が隠されているのか,様々な憶測が広がっていたという。
 晩年のユスティニアヌスはやる気を失くし,皇帝廃位の企みがあるとの被害妄想に取り憑かれ,周囲の者をむやみやたらに弾劾した。562年末には皇帝殺害計画が露見し,多数の逮捕者が出た。容疑者には帝国の要人が何人も含まれており,あのベリサリウスも嫌疑をかけられ,翌年に名誉が回復されるまで一時失脚した。
ユスティニアヌス1世は565年に亡くなり,彼には子供がいなかったので,甥のユスティヌス2世が後を継いだ。

建築及び文化面での「業績」

 ユスティニアヌス1世は数多くの建築事業を行っており,この面での業績はプロコピオスの『建築について』に詳述されている。ラヴェンナでは,ユスティニアヌスの後援のもと,有名なユスティニアヌスとテオドラのモザイクを持つサン・ヴィターレ聖堂が完成している。
 もっとも,ユスティニアヌスによる最も有名な建築事業と言えば,やはり首都コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂(聖ソフィア教会)であろう。聖ソフィア教会はコンスタンティヌス1世の時代に建設され,その後404年にヨハネス・クリュソストモスの支持者によって焼かれた後第二聖堂が再建されたが,前述したニカの乱でまたしても完全に焼け落ちた。
 ユスティニアヌスは,ニカの乱終結から1か月も経たないうちに焼け跡の整理に着手しており,聖ソフィア教会の再建計画も進めていた。ユスティニアヌスは単なる復旧では満足せず,新しい聖堂はローマ皇帝の超越的な力に対し畏敬の念を持たせる,魅力あるものでなければならないと考えた。彼はトラレスのアンテミオスという建築家が考案した,正方形でその上に巨大な円蓋を乗せるという革命的な設計案を採用した。
 この設計案に基づき再建される聖堂は,焼け落ちた第二聖堂よりかなり大規模なものとなることが決まったので,建設するには周辺の土地を買収する必要があった。この買収は難航した。なにしろ聖ソフィア教会の場所は首都の中心,現代的に表現すれば都心の一等地である。拡張予定地に家を持っていたある未亡人は,85ノミスマ(金貨85枚)という買収価格を提示されたが,彼女は金50ポンド(金貨3600枚)でも売らないと言い張った。ユスティニアヌスは,彼女に「貴方が亡くなったら,新しい大教会に貴方を葬ってあげよう」と約束することで,ようやく用地買収の同意を得ることが出来た。
 宦官のアンティオコスも,買収予定地に家屋を持っており,彼も買収に非協力的であった。買収担当の財務官は,彼が競馬好きなのを知って,競馬の開催日直前に彼を勾留した。競馬の当日になると,彼はついに「皇帝のいう通りにするから競馬を見させてくれ」と折れて出た。彼は皇帝観覧席に連れて行かれ,競馬を見ながら売却契約書に署名したという。
 こんな紆余曲折を経てようやく用地買収を済ませると,帝国の各地から技術者や職人たちが集められ,驚くべき速さで再建工事が進められた。再建工事は5000人ずつの2班編成で昼夜を分かたず行われ,聖域を飾るだけで4万ポンドの銀が使われるなど,莫大な金額が惜しみなく投じられた。
 537年に献堂式典が行われた新しい聖ソフィア教会は,まさに驚異の的となった。55メートルの高さを持つ円蓋は街並みの上にそびえ,はるか海上の船からも見えるほどの大きさであった。内部は更に壮麗で,教会に入った者は,大きさと空間の感覚に圧倒される思いであった。丸天井の全体を覆っているモザイク装飾や,中二階を支える様々な色(赤,赤紫,緑)の大理石の柱によって,演出効果は更に高められていた。
 円蓋の下にぐるりと並ぶ40の小さな窓からは,1日のそれぞれの時間に違った角度から太陽光線が注ぎ込み,上部の窓から差し込むまばゆい陽光が,金のモザイクや大理石の柱を照らしていた。完成した建物の中では世界有数の高価な建物となった新しい聖ソフィア教会の出来にユスティニアヌスは狂喜し,エルサレムの神殿を建てた旧約聖書の王ソロモンを意識して,「ソロモンよ,我は汝に勝てり!」と誇らしげに叫んだと伝えられている。
 一般にハギア・ソフィア聖堂として知られているのは,このユスティニアヌスが建設した第三聖堂であり,現在イスタンブールで我々が見ることのできるアヤ・ソフィア博物館も,この第三聖堂が基になっている。なお,この第三聖堂の建設にかかった費用は,レオ1世の時代に行われたヴァンダル王国討伐に要した戦費の総額に匹敵するとも伝えられている。
 ユスティニアヌスが再建した壮大なハギア・ソフィア聖堂は,彼の極めて野心的な建築計画のごく一部に過ぎなかった。コンスタンティウス2世によって建設された首都第二の教会である聖使徒教会は,コンスタンティヌス1世の墓所でもあったが,527年当時には満足に補修されないまま荒れ果てていた。ユスティニアヌスは聖使徒教会の全面的な建て替えを決意し,新しい聖使徒教会はずんぐりした正方形で,中央の大きな円蓋の四方に小さな円蓋が配置されていた。他にも首都全体で33の教会が新設ないし再建され,いずれも新しい円蓋様式が採用されていた。
 ユスティニアヌスは,このように首都だけで合計35の教会を新設ないし再建したことになるが,彼は帝国の各地で教会を新設ないし修復したと伝えられているので,教会関係だけでも彼の建築事業は膨大な数にのぼったであろう。彼の治世下で征服されたラヴェンナには,前述のとおりユスティニアヌスとテオドラのモザイクが飾られているが,このモザイクはユスティニアヌスによる支配の象徴であり,他の地方にある教会でも(現存していないだけで)同様のモザイクが飾られたと見るのがむしろ自然である。
 続いて,首都における教会関係以外の建築事業を見てみよう。彼の治世下では,首都の大宮殿入口にある青銅門も再建されて,ユスティニアヌスとテオドラの壮麗なモザイク像が飾られた。少し離れたアウグステイオン広場には円柱が建てられ,上部にユスティニアヌスの騎馬像が置かれた。大宮殿にも新たなモザイクを作らせたらしく,後に大宮殿の遺跡からはユスティニアヌス時代に作られた高品質のモザイクが発掘されている。
 こうした一連の建築事業により,コンスタンティノポリスは後に「ビザンティン方式」と呼ばれる円蓋の建物群と,その間に円柱が散在する特有の都市景観を持つようになり,皇帝の威厳を高める壮麗な都市となった。その他,首都では地下貯水槽(バシリカ・シスタン)を建設し,水の供給を確保している。
 残るは首都以外,教会以外の建築事業だが,これもかなり多い。ユスティニアヌスは要塞群を建設してアフリカから東方まで帝国の国境防衛を強化しようと試み,彼の建設した要塞の数は600以上にのぼるが,実際にはほとんど役に立たなかったという。おそらく十分な数の守備隊を配置できなかったためであろう。その他,ペルシアとの国境地帯にあり戦略的に重要なダラの町を洪水の被害から防ぐため前進型アーチダムを建設し,ビテュニアにはサンガリウス大橋を建設して東方への補給路を確保した。
 彼の治世下では地震や戦争で多くの都市が破壊されたが,ユスティニアヌスはそれらの諸都市の再建にも取り組み,また彼の出生地の近くにユスティニアナ・プリマという都市を建設した。これはテッサロニケに代えてイリュリクム属州の政治的宗教的な中心地とすることを意図していたが,この都市は7世紀初頭にアヴァール人の手で完全に破壊され,以後は忘れ去られた存在となったようである。その他,プロコピオスの『建築について』で言及されている建築事業は,既に述べた各地の教会や城塞のほか,浴場,道路,橋,帝国の駅逓制度を支える宿駅などが含まれている。
 ユスティニアヌスによるこうした建築事業の数々は,個々の作品を見れば文化的には大きな意味があり,実用性の高いものもあったが,大規模な戦争と並行してかくも多数の大規模な建築事業を次々と行えば,当然ながら国家財政の逼迫は免れず,これらの諸事業のため民衆に重税を課し怨嗟の的となることは免れない。ユスティニアヌスはただの「建築狂」であり,筆者としてはこれらの「業績」を称賛する気にはとてもなれない。
 なお,ユスティニアヌスの治世下では,一部は彼の保護のもとで,プロコピオスやアガティアスを含む著名な歴史家,黙祷者パウロや声楽家ロマヌスといった詩人たちを生みだした。一方,529年にはアテネのアカデミアが皇帝の命令によって事実上閉鎖され,ベイルートの有名な法学校もこの時期に失われている。ローマ帝国の伝統であった執政官の選挙も,541年以降行われなくなった。

ユスティニアヌス1世の宗教政策

 宗教政策としては,前述した聖ソフィア教会を含む数多くの教会を建設・再建しただけでなく,修道院や聖職者の権利を保護する多くの法令を制定し,教会の「育ての父」と呼ばれるほどカトリック教会の発展に寄与した。その上で,テオドシウス1世と異なり,教会は皇帝の意思と命令に反して如何なることも為さないとの同意を引き出し,教会に対する皇帝権力の優位を維持した。
 そんなユスティニアヌスは,異教徒や異端の撲滅にも熱心であった。彼の即位する数十年前は,古き神々を信仰する異教徒が帝国内で静かに暮らすこともまだ可能であり,高等教育の分野ではまだ異教徒が強い発言力を持っていたが,529年にユスティニアヌスは,アテネでの哲学教育を禁止する勅令を発布した。多くの異教徒知識人が生活の糧を奪われ,見かけだけでもキリスト教に改宗するか,それとも隣国のササン朝ペルシアへ亡命するかの選択を余儀なくされた。ササン朝ペルシアは,ホスロー1世の治世下で文化的にも最盛期を迎えたが,その中ではローマ帝国の迫害に耐えかねた亡命者たちが大きな役割を果たしていたと指摘されている。
 もっとも,『ローマ法大全』の編纂責任者であったトリボニアヌスは異教徒であり,ユスティニアヌスの時代にはなお異教徒知識人の活躍を若干見ることが出来るが,彼らはローマ帝国内で見られる異教徒知識人の最後の世代となった。
 ユダヤ人も迫害の対象となった。ユダヤ人の生命や財産を保護する勅令はなお有効とされたが,531年には今後ユダヤ人は法廷においてキリスト教徒に不利な証言ができないとする通達が出された。更にユスティニアヌスは,ユダヤ教による過越しの祭りが暦の上で復活祭より早く来ても,キリスト教の復活祭より先に祝ってはならないという法律まで発布した。この法律は,実際にはほとんど施行されなかったようであるが,古き神々を信じる異教徒と異なりユダヤ人が簡単に消えるはずもなく,ユスティニアヌスの政策はユダヤ人をローマ帝国の敵に回しただけであった。
 そんなユスティニアヌスを最も悩ませたのが,キリスト教の単性論者であった。シリアやパレスティナ,エジプトといった帝国の東方属州では,聖職者のみならず大多数の民衆が単性論を支持し,コンスタンティノポリスの皇帝と距離を置いていた。ゼノンやアナスタシウスといった皇帝は,単に自らの信条から単性論を支持したのではなく,こうした単性論者が多い東方属州との妥協ないし融和を図り,そのために単性論との妥協に不満を持っていたローマ教皇との関係が悪化していたのだが,ユスティニアヌスはこうした方向性を大転換した。
 518年,叔父のユスティヌス1世が帝位に就くや,ユスティニアヌスはローマ教皇と接触し,カルケドン公会議で定められた真の信仰を擁護すると約束した。自らが帝位に就いた後の528年になると,カトリックのキリスト教徒が当事者となる裁判で,「異端者」が証人となることを禁ずる法を導入したが,この「異端者」が主に単性論者を念頭に置いたものであることは言うまでもない。
 異端者は証人になれない,ユダヤ教徒の証言を制限するといった法は,専門的な法学を学んだ者でなければ通常思い付かない規制であり,ユスティニアヌスは自らの法的知識を悪用して異教徒や異端者に対する陰険な迫害を行ったわけであるが,これらの法により異教徒や異端者は公正な裁判を受けられないことになり,帝国の法に対する信頼は大きく揺らぐことになった。また,こうした法が試行された結果,カトリック教徒が結託すれば単性論者に対する犯罪行為を行っても事実上罰せられないということになり,単性論者に対する迫害も散発的に生じるようになった。
 カルケドン信条を受け容れない人々は暮らしにくくなり,単性論者の主教はその職から追放され,カトリックの聖職者がそれに取って代わった。単性論者の修道士や修道女は修道院から追放された。
 しかし,単性論者はユスティニアヌスが弾圧した同性愛者やユダヤ人,わずかに残っていた異教徒とは違ってかなりの多数派であり,高圧的な戦術は効果がなかった。追放された単性論者の主教は地下に潜り,信徒に対する役割を果たし続けた。カトリックの牙城であるはずのコンスタンティノポリスでさえ反対があった。皇后のテオドラは単性論者であり,彼女は夫によって追放された主教を何人も呼び戻した。535年にはテオドラの肝煎りで,単性論者の人物,トレビゾンドのアンテミオスがコンスタンティノポリス総主教に叙任された。もっとも,単性論信仰が露呈してアンテミオスはたちまちその職を追われたが,アンテミオスはその後12年間,テオドラの保護下に宮殿でひっそりと暮らしていた。
 さすがのユスティニアヌスも,弾圧によって単性論者を排除することの無理を悟り,やがてカルケドン信条を維持しつつ,何とか単性論者を味方に引き入れようと模索する道を探ったが,効果は無かった。
 古代ローマ帝国は,広大な領土における宗教の多様性を尊重し,例えばエジプトは地元の信仰に配慮して皇帝の私領とする(ローマ皇帝をエジプト人の神とする)などの配慮を示しており,そうした多様性に配慮せずしてローマ帝国ほどの大帝国を維持できるはずはないのだが,ユスティニアヌスはそうした多様性を認めず,公認の宗教に従わない者の迫害を続けた。彼のこうした政策は,後のヘラクレイオス時代にシリア,エジプト,パレスティナといった東方の属州を喪失する遠因となった。

ユスティニアヌス1世の人物及び総括

 プロコピオスによれば,ユスティニアヌス1世は中肉中背の丸顔で疲れを知らない健康的な男であり,自らの生活は質素で,臣下からは「眠らない皇帝」と呼ばれるほど日夜を通じて精力的に政務に励んだ。性格は怒りを面に出さず,親しみやすく穏やかであったが,その一方で何千人もの無実の人々を平然と殺害するよう命じる冷酷さを併せ持っていたという。
 ユスティニアヌスは北アフリカやイタリアなど西方の領土を再征服したが,自らは首都をほとんど離れることなく,遠征はベリサリウスをはじめとする配下の将軍たちに行わせている(ユスティニアヌスは,一度だけ自ら兵を率いて出陣したことがあるが,これは名目的なもので,一戦もせずに帰還している)。戦争の常識や現実を知らないユスティニアヌスの指令はしばしば現場の混乱を招き,戦争の長期化,泥沼化を招く原因となった。戦後処理については更に無頓着であり,戦費を取り返すことしか考えない官僚を使って重税を課し,征服地の心理的離反を招いた。
 ユスティニアヌスは戦争だけでなく多くの建築事業にも取り組み,「自らの国はローマ帝国という最も偉大な国家である」という後のビザンツ人の自尊心形成に大きく寄与したが,そうした政策は国家財政の破綻を招き,ユスティニアヌスによる征服という名の災厄に遭った西方世界の住民たちは,ローマ帝国に対する大いなる幻滅を抱くことになった。
 ユスティニアヌスは『ローマ法大全』に集約される大規模な法制改革事業を行い,これは近代法の理論的基礎となったが,一方で彼はその法的知識を悪用し,異教徒や異端者の証言能力を否定ないし制限する法を発布していたずらに裁判の公正を害し,更に同性愛行為を禁止する法律を発布して,今日まで続く同性愛差別の元凶となった。法律家の間では,ユスティニアヌスのように法的知識を悪用した陰険な行為を働く輩を「法匪」(法を武器とする賊徒)といい,法律家にとって「法匪」は最も忌むべき存在である。
 ユスティニアヌスは地震や戦争で破壊された都市の再建には熱心だったが,長引く戦争と重税による民衆の疲弊と民心の離反には最期まで目を向けることは無く,家臣たちによる不正や汚職の根絶にも無関心であり,広大な領土における住民の多様性にも無理解であった。彼は日夜積極的に政務に励んだが,それは臣下と民衆にとって,日夜積極的に新たな災厄をもたらすことを意味していた。
 ユスティニアヌスには,有能とみた人材を出自や評判に関係なく抜擢する才能はあったが,有能な人材の功績を称賛し活用し続ける才能は無かった。数々の戦争で功績を挙げたベリサリウスに対しては,やがてその才覚と名声に嫉妬し,次第に冷遇するようになった。
 歴史家プロコピオスは,『戦史』と『建築について』でユスティニアヌスの業績について称える一方,『秘史』という秘密のノートを残し,ユスティニアヌスと皇后テオドラ,更には自分の上司であるベリサリウス夫妻についても,散々な内容の批判を書き連ねている。余談になるが,ベリサリウスの妻はアントニナといい,彼女は夫の遠征にも随行し,しばしば一司令官のような仕事もやっていたという女傑であるが,私生活ではベリサリウスは妻アントニナの言いなりで,妻が占領地の政策にまで口を出す悪癖を抑えなかったことから,ベリサリウス自身が宮廷の立場を悪化させ窮地に陥ることもしばしばであったという。
 また,晩年のベリサリウスはユスティニアヌス1世が死んだとの誤報を聞くと,堰を切ったようにユスティニアヌス批判の発言を連発し,その舌禍によって一時失脚するに至った。
 この2人の態度に象徴されるように,ユスティニアヌスは強力な専制支配により見掛けだけは偉大な業績を挙げたが,臣下や民衆たちの内なる不満には全くの無理解であり,晩年になって自らの政治に対する怨嗟の声が高まっているのを感じると,彼は猜疑心の虜となり,周囲の者をむやみやたらと弾劾する暴君と化した。
プロコピオスは表向きの史書である『戦史』や『建築について』では,ユスティニアヌスの性格等についてごく稀にしか言及しない一方,『秘史』ではユスティニアヌスを,「出来損ないの皇帝で,臣下の幸福に無関心なだけでなく,公認の宗教に従わない者を迫害して,世界を混乱に陥れた」などと散々に批判している。筆者もプロコピオスによる批判の細部についてともかく,上記の評価には全面的に同意するものである。
 彼の専制支配は遠からず破綻する運命にあったが,その破綻が彼の在世中には辛うじて暴露されることなく,ユスティニアヌス自身は栄光に包まれた治世を全うし「大帝」の称号を贈られるに至ったのは,彼にとって非常に幸運だったと評するしかない。彼の治世中に貯め込まれた負の遺産は後の歴代皇帝を苦しめ,彼の死後50年もしないうちに,ローマ帝国は破滅的な危機を迎えることになる。

<幕間2>ローマ帝国・ビザンツ帝国の結婚制度

 皇后テオドラとの結婚も含め,ローマ帝国の結婚制度を大幅に買えたユスティニアヌス1世に因み,ここでローマ帝国とビザンツ帝国の結婚制度について簡単にまとめておく。
 帝政期のローマでは「自由結婚」と呼ばれる結婚制度が普及しており,結婚は両当事者の合意により成立し,合意の消滅により解消された。そのため結婚と内縁の区別も曖昧で,離婚や再婚も自由であった。「使者を送る」というラテン語には「離婚する」という意味があり,別居した相手に婚姻の解消を伝えるだけで離婚は成立した(『テルマエ・ロマエ』をお読みになった方は,主人公が妻から一方的に離婚を告げられるシーンもご覧になったかと思われるが,あのシーンは時代考証的には正確である)。
 婚姻禁止の範囲は3親等までで,従兄妹間などの結婚は許されていたが,4代皇帝クラウディウスとアグリッピナの結婚により,婚姻禁止範囲は若干緩められたほか,兄妹婚などが普通に行われていたエジプトなどでは,現地の慣習が尊重されていたようである。ただし,ローマ帝国には厳しい階級制度があり,例えば元老院議員と卑しい身分にある者との結婚は禁止されていた。
 ユスティニアヌスが叔父を動かして,元老院議員と卑しい身分にある者との結婚を認める法律を作らせたのはユスティヌス帝の項目で触れたが,ユスティニアヌスが編纂された『ローマ法大全』における結婚制度は,キリスト教の影響を受けて若干規制が厳しくなっており,離婚には正当な理由が必要とされたが,離婚が許される理由は多く,再婚回数にも制限は無かった。
 8世紀のレオーン3世時代に制定された『エクロゲー法典』では,結婚に関するキリスト教の考え方が取り入れられて,古代ローマ時代とは大きく異なるものとなった。結婚は教会の聖別によって成立し,教会の認めない男女の結合はすべて姦淫とされた。また,結婚は神によって結びつけられたものであるから,これを人間が解いてはならないとされ,離婚は原則として禁止された。
 離婚が許される事由は,①配偶者殺害の企て,②夫の不能,③妻の不倫,④ハンセン氏病のみとされ,婚姻禁止範囲も6親等までに拡大された。夫婦の合意により離婚する唯一の方法は,夫婦の一方が修道士となることであった。一方で婚姻の無効原因が多くなったため,離婚に関する法的紛争は,婚姻の無効を主張するという形で争われることが多くなった。
 9世紀末のレオーン6世時代になると,再婚にも厳しい制限が設けられた。再婚は死別の場合に限られ,かつ1回に限り可能とされたのである。もっとも,この法を定めたレオーン6世自身が,後継ぎを儲けるため4回も結婚したため宗教問題が発生し,結果的に3回目の結婚は皇帝に後継ぎがいないなどやむを得ない場合には認めることもあるが,4回目の結婚はいかなる理由があっても絶対に不可,というルールになった。
 ギリシア正教会の影響を受けたロシアでも同様のルールが設けられたが,暴君として知られるモスクワ大公(実質的なロシア初代皇帝)イヴァン4世は生涯に7回,一説には8回も結婚し,ロシア教会はイヴァンの死後,彼の5回目以降の結婚を私通とみなした(3回目の妻は結婚後わずか16日で急死したため,教会も結婚不成立とするイヴァンの主張を認めたようである)。
 なお,同じキリスト教世界でも,西方教会では再婚回数の制限は特に設けられなかったが,このような考え方の違いが生まれた原因は,正確にはよく分からない。ただ,8世紀のカール大帝でさえ,生まれは結婚前に生まれた私生児の可能性が高く,本人も生涯に5回結婚し離婚も2回,さらに4人の第二夫人やその他の妾がおり,これに加えて実の妹や娘たちとの近親相姦もあったとの説があるくらいなので,おそらく西方世界の教会は,未だに一夫多妻制だった異教時代の習俗が消えない王侯貴族たちに何とか一夫一婦制を守らせようとするだけで精一杯であり,それ以上の規制強化など考えることもできない状況だったのかも知れない。

(3)ユスティヌス朝の後継者たち

「帝国の危機を悪化させた大帝の甥」ユスティヌス2世

 ユスティニアヌス1世には子がいなかったため,帝位は甥(姉の子)のユスティヌス2世(在位565~578年)に引き継がれた。ユスティヌス2世は,先帝が廃止していた執政官制度を即位後間もなく復活し,自ら執政官職に就いた。
 彼の治世では,ほとんど破綻状態にある国家財政,重税に対する民衆の不満など,先帝による負の遺産を背負うことになり,対外的にはイベリア半島の領土が西ゴート族に,イタリアの領土がランゴバルド族に,そして首都に近いトラキアの領土がアヴァール人とスラヴ人の脅威に晒されることになったが,彼の行った政策を見る限り,どうやら即位当初の彼は帝国の現状を正しく認識しておらず,叔父が行ったひたすら皇帝の威信を高める政策を踏襲すればよいと考えていた節がある。
 ユスティヌス2世は,569年に中央アジアの遊牧民,突厥と同盟を結んだ。同盟の目的は2つあり,1つはササン朝ペルシアを東西から挟撃すること,もう1つはペルシアを経由せずに中国産の絹織物を入手するルートを開拓することである。こうして準備を整えたユスティヌスは572年,「戦争になら何百万でも使うが,貢納はびた一文支払わない」と宣言して,先帝時代から続いていたササン朝ペルシアへの貢納金支払いを停止した。
 帝国が内憂外患に喘ぐ中,ユスティヌス2世が敢えてこのような決断に至った理由は必ずしも明確でないが,おそらく彼は「偉大な」業績を挙げた叔父ユスティニアヌス1世を超えたいという思いが強すぎたのであろう。
 しかし,ササン朝ペルシアはその全盛期を築いた名君ホスロー1世が未だ健在であり,突厥との挟撃くらいではびくともしなかった。軍務経験のほとんどないユスティヌス2世はホスロー1世の前に敗北を喫し,573年には要塞都市ダラスを奪われてしまった。この敗戦は帝国の威信を大きく傷付けただけでなく,ササン朝ペルシアとの戦いも泥沼化してしまった。
 帝国の北方ではアヴァール人が猛威を奮い,アヴァール人に敗れてイタリアに逃げ込んできたランゴバルド族は,569年にミラノ,571年にパヴィアを占領し,北イタリアのビザンツ勢力はラヴェンナとアドリア海沿岸の都市に封じ込められてしまった。西方でも572年,西ゴート族によりコルドバの町が失われた。相次ぐ敗戦の報により精神に異常を来したユスティヌス2世は,幼少時からの友である将軍ティベリウスに実権を委譲して,事実上引退した。574年以降,ローマ帝国の統治は皇后ソフィアと,共同皇帝ティベリウスによって行われていたという。
 ユスティヌス2世は,西方失陥後最大の領土を獲得しながらも既に危機的状況に陥っていた帝国を叔父から受け継ぎ,おそらくは自尊心から帝国の危機を更に悪化させてしまった。彼の治世について弁護できることは何もない。

「責任感だけは強かった者」ティベリウス2世

 578年にユスティヌス2世が死ぬと,副帝でユスティヌス2世の養子となっていたティベリウスが皇帝に即位した(ティベリウス2世,在位578~582年)。
ティベリウス2世は,度重なるローマ元老院の懇願にもかかわらず,帝国西方の戦線には補助金を与えるだけで事実上放置し,ササン朝ペルシアとの戦いに力を注いだ。もっとも,北方では遊牧民のアヴァール族がスラヴ人たちを従えてビザンツ領への侵入を激化させており,581年にはシルミウムがアヴァール人の手に奪われた。彼の治世下では西方,北方,東方いずれの戦線でも戦争終結への道筋を付けることができなかった。ティベリウスはわずか在位4年で死去し,帝位はマウリキウスに引き継がれた。
 なお,ティベリウス2世からマウリキウスへの皇位継承の経緯は,かなり特異である。病に倒れ,医師から余命いくばくもないと宣告されたティベリウス2世は,ちょうどペルシアとの戦いで大功を挙げて戻ってきたマウリキウス将軍を呼び,その場で彼を自分の共同皇帝に任命するとともに,自分の娘コンスタンティナと結婚するよう申し付けたのである。
 そして,急遽マウリキウスの「共同皇帝戴冠式」兼「コンスタンティナとの結婚式」が行われ,その日にティベリウス2世が行った演説は,人々の長く記憶に残るものとなった。この困難な状況にあっては,危機を乗り切る優れた人物が必要であり,それが他ならぬマウリキウスであると聴衆に向かって断言したのである。その翌日,ティベリウス2世は腐った桑の実を食べて死んだという。このエピソードの真偽は断定できないが,皇帝としての力量はともかく,責任感だけは人一倍強い人物だったことが感じられるエピソードである。

「反乱に斃れた悲運の名君」マウリキウス

 こうして即位したマウリキウス(在位582~602年)は,奇妙な即位の経緯もあって下馬評は相当悪かったにもかかわらず,先帝の期待にかなりの程度応えることに成功した。
 まず,西方戦線の防備を固めるため,ラヴェンナとカルタゴに総督府を設置する。ディオクレティアヌス帝の改革以来,ローマ帝国では軍を率いるのは軍人の役割であり,徴税などの行政を司るのは官僚の役割とするのが当然のようになっていたが,首都から遠く離れたラヴェンナとカルタゴについてはこれを改め,ラヴェンナとカルタゴの統治官には「総督」という地位を与え,軍事及び行政の全権を委任したのである。
 これによって,総督は首都からの支援がなくても,外敵からの脅威に対し自力で効率的に対処できるというわけである。もっとも,この制度は総督がその気になれば簡単に反乱を起こせるというデメリットもあったが,マウリキウスはこの危機的状況ではそんなことは言っていられないと腹を括ったわけである。
カルタゴ総督の統括する北アフリカはほぼ安泰であり,ラヴェンナ総督の統括するイタリアも,ランゴバルド族との戦いは膠着状態になっていた。西方戦線は総督たちに任せることにし,マウリキウスは北方問題と東方問題に全力を注ぐことになった。
 一方,579年にホスロー1世が死んで内紛が始まったササン朝ペルシアに対しては,590年に講和の機会が訪れた。ペルシア王フルマズド4世が部下の名将軍バフラームに王位を奪われると,フルマズドの息子ホスロー2世から王位の奪回に協力して欲しいと手紙を送ってきた。マウリキウスは彼の亡命を受け入れて,彼に娘マルヤムを嫁がせてその復位を助けた。そして,591年にマウリキウスの援軍を得てホスロー2世が復位を果たすと,彼はマルテュロポリスの町をビザンツに返還し,恩人であるマウリキウスとの恒久平和条約を締結した。この講和によって,マウリキウスは当面の敵をバルカン方面のアヴァール族やスラヴ族に絞ることができ,その対外政策はほぼ成功というところまで行ったのである。
 しかし,マウリキウスの時代には,ユスティニアヌス1世の時代から続く戦争や連続して起こった自然災害の影響により国家財政が悪化の一途を辿っていた。アヴァール人との外交交渉は失敗に終わったので,マウリキウスは断固たる軍事的手段に訴えた。皇帝の派遣した将軍プリスクスは,アヴァール人やスラヴ人を相手に数々の大勝利を収めたが,スラヴ人は小さな集団で移動するため捕捉が難しく,軍隊が春に出陣し夏に戻ってくるというやり方では,何年同じことを繰り返しても敵に決定打を与える見通しは立たなかった。北方戦線が泥沼化するうちに,このままでは財源不足で軍隊を出動することすら断念せざるを得なくなるという窮状に追い込まれたのである。
 焦ったマウリキウス帝は,602年の秋,弟のペトロスが指揮していたバルカン軍団に対し,今年は遠征期間が終わっても帰還してはならない,ドナウ川の北へ渡り,冬の間も敵を攻撃せよと命じたのである。加えて,バルカン軍団は現地で食糧を調達し,国庫に負担をかけないようにとも求めた。皇帝の理不尽な命令に兵士たちは激怒し,演説に長けた百人隊長フォカスを担ぎ出して反乱を起こした。ペトロスは事態を収拾できず首都に逃げ戻り,フォカス率いる反乱軍はマウリキウスを打倒するため首都に進軍した。
 マウリキウスは,反乱軍が来る前にコンスタンティノポリスから逃走し,首都の民衆はこれをもってマウリキウス帝が退位したものとみなし,コンスタンティノポリス総主教はフォカスに帝冠を授けた。マウリキウスは,友人であるホスロー2世と連絡を取ろうと試みたが,フォカスの兵士たちによって捕らえられ,4人(6人とする説もある)の息子たちが殺されるのを見せられたうえで,自らも処刑された。これによってユスティヌス朝は断絶した。
 マウリキウスが,ユスティニアヌス1世の後を継いだユスティヌス朝の歴代皇帝の中で最も有能な人物であったことは,後世の歴史家がほぼ一致して認めるところである。ただ一つの失敗で帝位も家族も自らの命も失ってしまったマウリキウスは,まことに不運な皇帝であった。民衆もそのように感じたらしく,マウリキウスは殉教聖人とみなされ,英雄的に死と向き合ったという噂が瞬く間に広まった。例えば,末息子の乳母は一人でも皇帝一族を救おうと,自分の子供を身代わりに立てたが,取り換えに気付いたマウリキウスが我が子を処刑人に差し出すよう申し出た,というようなものである。ただし,マウリキウスの息子たちについては,処刑されたのではなく去勢され生き延びたとする文献もある。

(4)簒奪者フォカス

 マウリキウス帝を倒して帝位に就いたフォカス(在位602~610年)の治世は,長くは続かなかった。フォカスの支持者は実質的に軍隊と一部の支持者のみであり,支持基盤が脆弱であったため,フォカスは反対派を次々と粛清するしかなかった。さらに,マウリキウス帝の援助でササン朝ペルシアの帝位に就いたホスロー2世が,マウリキウス帝殺害の復讐を目的に,東ローマ帝国に侵入してきたのである。
 フォカスについては,簒奪帝であり最後は反乱によって倒されたことから,暴君とする評価が一般的であるが,ここまで不利な状況下で8年間も帝位に就いていられたのだから,少なくとも無能な人物ではなかったと思われる。帝国の各地では,フォカスに不満を持っていた市民(サーカス党)による暴動が発生したが,時と共にフォカスを受け容れる人々も現れ始めていた。
 ササン朝ペルシアとの戦争については,従前はろくな対応ができなかったと評価されていたが,実際にはフォカスの兄か弟にあたるコメンティオロスが軍司令官となり,609年頃までは一進一退の攻防が続いていた。ただし,ドナウ川の国境線はアヴァール人によって突破され,バルカン地方の帝国領ではビザンツ側の反撃がないのを良いことに,スラヴ人たちが定住するようになっていた。
 608年,カルタゴ総督のヘラクレイオスが反乱を起こした。彼は先帝マウリキウスに仕え対ペルシア戦争などで活躍した人物であり,フォカスへの忠誠心はほとんど無かったらしい。なお,彼は同名の息子で後に皇帝となったヘラクレイオスと区別するため,「大ヘラクレイオス」と通称される。大ヘラクレイオスは,同名の息子ヘラクレイオスに艦隊を率いさせてコンスタンティノポリスに向かわせる一方,甥のニケタス率いる別働隊をエジプトに侵攻させた。両者の間ではどちらか先に首都へ到着した者が,フォカスを退位させ皇帝に即位するという取り決めになっていた。
 フォカスはニケタス軍を迎え撃つため,対ペルシアの防衛線を守っていたシリアの軍隊がエジプトに急派したが,これによってがら空きになったシリアにペルシア軍が押し寄せることになり,東ローマ帝国の防衛線は総崩れとなった。
 各地で戦線が崩壊し絶体絶命となったフォカスはコンスタンティノポリスにいたが,サーカス党派や娘婿のプリスコスなどにも裏切られ,610年10月にコンスタンティノポリスがヘラクレイオスの前に開城。フォカスは教会に逃げ込んだものの引きずり出され,処刑された。

<幕間3>イコンの発祥とビザンツ芸術

 ユスティヌス朝の歴代皇帝や簒奪者フォカスが苦闘していた時代については,近年になって新たな考古学的発見があり,これらを踏まえてビザンツ宗教を代表するイコンや,その他のビザンツ芸術についても再検討が進められている。ここでは,イコンの発祥とビザンツ芸術に関する概要を述べることにする。

ビザンツの工芸品

 古代ローマ帝国の最も明白な遺産は皇帝芸術,すなわち支配者の肖像(彫刻やレリーフ,モザイクや貨幣に書かれた肖像),帝標(宝石をちりばめた帝冠や宝珠,結婚式の帯,皇帝用の紫色の衣,赤いブーツ)といったものであり,これらの技術は当然ビザンツにも受け継がれた。古代ローマで発達した円柱と柱頭のような建築関連の彫刻,墓や石棺を飾るレリーフなどの技術は,キリスト教の教会などに用いられ,やはりビザンツでも存続した。
 ビザンツの職人たちは,貴金属,琺瑯,象牙,水晶などの細工においても古代の技術を受け継いでおり,貨幣の鋳造,象牙の彫刻,異なった色の大理石を切って彩り豊かな舗道や壁面を作ること,絹で極彩色の複雑な模様を織り上げる技術などにも極めて長じていた。
 工芸の分野では,例えば伝統的なホモニア(調和)の女神像を刻んだ婚礼の帯や指輪に,結婚した二人を祝福するキリストの像が描かれているなど,古代ローマの異教とキリスト教のテーマがずっと併存していた。
 6世紀までは,ローマ帝国には絹糸を生産する技術が伝わっていなかったので,絹織物を生産するには織機に糸を供給するため,はるばる中国やペルシアから輸入された貴重な絹布をほどく必要があったが,伝えられるところでは,蚕の生態の秘密を知った修道士たちが中国からこっそり蚕を持ち出し,皇帝ユスティニアヌス1世に献上したことがきっかけで,蚕の主食となる桑の木も植樹され,7世紀ないし8世紀頃になると,ビザンツ国産の絹織物産業は劇的な発展を遂げた。
 ビザンツの絹織物産業は,その工程を国家独占のものとして注意深く保護された。絹織物には伝統的に自然や世俗のもの,皇帝に関係する図柄が描かれた。例えばつがいのライオン,鷲やグリフォン,狩人,女戦士アマゾン,あるいは戦車競走の御者といったものが鮮明な図柄で表現されていた。絹織物に関しては,キリストの生涯の一場面といったキリスト教的なテーマが描かれることは,あまり一般的でなかったようである。

ビザンツの絵画とイコン崇拝

 ビザンツにおける写本の生産では,羊皮紙を紫に染め,その上に銀のインクで書くという古代の慣習が残っており,『イーリアス』や『オデュッセイア』の挿絵入り写本は通常パピルスに書かれ,中世の画家による挿絵入りの聖書テキストの手本となった。これには,現代のコマ割り漫画の形式で,しばしば挿絵が施されていた。
 古代ローマでは,葬礼用の肖像画に用いる技法として,濃淡様々な色調の熱せられた蠟で肖像画などを描く,蠟画の技法が発達していた。キリスト教に関わる初期の芸術家たちは,パンや魚,十字架のしるしなどキリスト教の象徴となるものを描いていたが,後にはキリストや聖母マリア,殉教者の姿を蠟画で描くようになった。
 ビザンツ帝国においては,こうしたキリストや聖母マリア,聖人たちの姿を描いた肖像画や彫像の類が数多く作られ,これらはイコンと総称された。本来,ギリシア語でエイコーン(イコン)という用語は画像一般を指すものであったが,4世紀頃までにはキリスト教的な主題を描いた聖画像を指す用語に変化した。ビザンツ人はこうしたイコンを単に飾るのみならず,イコンの前で香を焚き灯明をともし,イコンを拝んだのである。
 こうしたイコン崇拝は,ビザンツ人のキリスト教,すなわちギリシア正教の大きな特徴となった。逆に述べると,同じキリスト教でもローマ・カトリックでは,こうしたイコン崇拝はあまり一般的ではなく,ビザンツ帝国の滅亡後に発生したプロテスタント諸派では,イコン崇拝を偶像崇拝とみなして禁圧するのがむしろ一般的であった。現在でもイコンを重視するのは,ギリシア正教やその影響を受けた正教系キリスト教に固有の特徴である。
 ビザンツ人の宗教において,なぜイコンがこのような支配的地位を占めるに至ったかについては活発な議論があり,近年では古代ローマにおける異教崇拝との連続性を指摘する見解が有力である。
 すなわち,画像の前で香を焚くことや灯明をともすことは,敬意を表する古くからの方法であり,すべての皇帝像にはこのようにして敬意を払わなければならず,3世紀や4世紀初頭にはそれをしなかったキリスト教徒が国家による迫害に晒された。公共の場に置かれた神々や皇帝の像の中には巨大なものもあり,都市の景観を威圧し,特別な式典の際には敬意を表された。異教の祝祭では,神々の像が洗い浄められて着飾り,街々を練り歩いた。神像は祭壇に祀られ,花冠によって飾られて崇拝された。アスクレピオス神殿では,患者たちは神像の側で眠り,治癒を求める祈りを捧げた。個人の邸宅でも家の神ラレースが崇められた。とりわけ女性は,家庭内の祭壇でこれらの神を拝み,神への供物を捧げた。
 一方,7世紀頃にトラキアのエウスタティオスが行った説教によると,大天使ミカエルの黄金の板イコンを作らせたある人物は,自分の死が間近に迫っているのを悟ると,妻の手を取って大天使の手の上に重ね,大天使ミカエルに対し妻を見守ってくださいますようにと祈りを捧げた。その妻は夫の死後,イコンに香を焚き続け,イコンの前の灯明を片時も切らさず,そして毎日三度イコンを拝んで,自分を助けて悪魔から守ってくれるよう大天使ミカエルに懇願したという。
 こうしたビザンツ人のイコン崇拝は,崇拝の対象が異教の神々からキリスト教的なものに代わっただけで,崇拝の方法は異教時代の古代ローマ人によるものと瓜二つである。最近トーマス・シューズが明らかにしたところでは,古代末期においては異教神のイコンもまた家庭内に飾られていたという。エジプトのファユムから出土したミイラには,死者の顔面に被せられた肖像画が残されており,老人も幼児も競技者も異教の神々も同様の肖像画によって追悼されていた。これらの肖像はそれぞれ魅力的な個性をもっており,生前の姿を彷彿とさせるものであった。こうした肖像は古代ローマ世界の至る所で作られていたが,ファユムのような乾燥した環境のもとでは多数残ったものの,他の場所では朽ち果ててしまったという。
 マシューズの研究によると,これらの異教的肖像は,同じ技法で描かれたキリスト教イコンの先駆であり,イシス像は聖母マリアのモデルを,ゼウスやセラピスといった神々の像はキリストの最初の画像のモデルを提供したという。イコンに関しては,キリストをゼウスのように描こうとした画家が,罰によって片手ないし両手が一時的に使えなくなったという物語が伝わっているほか,580年代にはアポロンを信奉している異教徒たちが,キリストを礼拝しているように見えるようなイコンを注文したのが発覚して死刑を宣告される事件が発生している。こうしたエピソードは,異教の神々の蠟画パネルとキリストのイコンとの区別が難しいことを物語っている。
 このような問題を抱えながらも,古代の神々への礼拝が彫像や絵画を通じて広まったのと同様に,イコンは聖人たちの物語を流布させる効果的な方法として認識され,イコンへの崇拝はビザンツ人聖職者によってむしろ推奨されるようになった。

ビザンツにおける異教絵画の伝統

 こうしたキリスト教の宗教芸術が発展する一方,ビザンツの職人たちは異教物語の登場人物たちを表現する能力を失うことは無く,彼らのパトロンも引き続き,自分たちが望む異教的な作品を注文していた。古代末期にシリア・パレスティナ・トランスヨルダン属州だった地域で最近発見された遺物は,古代の神話をモチーフにした作品,例えばファイドラとヒッポリュトスの宿命の恋,最初の人間を作ったプロメテウス,ディオニュシオスとヘラクレスの飲み比べ,エウロペーの強奪やゼウスの愛の画像といったものが描かれており,こうした異教的な作品にも依然として人気があったことが窺われる。イスラム統治下の8世紀に制作されたモザイクにも,こうした異教的な光景が描かれていたという。
 同様に,金銀の細工師たちは伝統的に,構成員を制限して品質を維持すべく同業組合に属して,ビザンツ帝国内でも古代の神話世界からのイメージで自分たちの作品を飾り続けていた。例えば,裸同然の巫女たちを従えたディオニュシオスとシレノス像といったものである。
 世俗の人物像に蠟画法を用いることも続けられており,多くの作品には次のような詩句が記されている(『ギリシア詞華集』5巻201頁)。
「私はローマ(コンスタンティノポリスの意)の売春婦,この町はあらゆるものの私の欲得ずくの趣向を許してくれる。私は多才なカリオエー。愛に突き動かされたトマスが私の絵を描いた。この絵は彼が魂に抱く欲望がいかに大きいかを示している。彼の蠟が溶けるとともに,私の心も溶けるのだから。」
 教会によって不適切そのものとされた主題で飾られた一連の芸術が今日なお残っていることは,ビザンツ人がキリスト教を受容した後になっても,キリスト教以前のイメージを愛好していたことを示している。こうした傾向は12世紀ないしそれ以降にも続いており,イタリア・ルネッサンスで古代の異教的な神々をテーマにした芸術作品(ミロのヴィーナスなどはその典型である)が次々と作られたのは,こうしたビザンツにおける異教的芸術の伝統がイタリアへ伝播したことに由来するものと考えられている。

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