第5話 ヘラクレイオス帝の栄光と挫折

第5話 ヘラクレイオス帝の栄光と挫折

(1)ギリシア語の公用語化

 簒奪帝フォカスを打倒して帝位に就いたヘラクレイオス(在位610~641年)の治世では,620年に帝国の公用語がラテン語からギリシア語に代わっており,皇帝の名前もヘラクレイオス以降はギリシア語読みで表記するのが慣例となっている。
 古代ローマ帝国ではラテン語が帝国全体の公用語となっていたが,その時代でも帝国の東方ではラテン語とギリシア語が公用語として併用されており,実際にはギリシア語を話す者の方が相当に多かったと推測される。ラテン語が使われていた西方世界がローマ帝国の支配下から離れた後も帝国の公用語はラテン語が使われていたが,例えばユスティニアヌス大帝の『ローマ法大全』もラテン語で書かれていたものの,ギリシア語による翻訳版も直ちに作られており,その後に発布された法はギリシア語が使用されていた。
 つまり,ヘラクレイオスが即位する以前においても,帝国の公用語がラテン語であるという建前は既に形骸化していたことになるが,実際にはほとんどの者が使用しないラテン語を公用語として使い続けることは,様々なところで人的資源の無駄遣いに繋がる。ヘラクレイオスはこうした建前を捨ててギリシア語の公用語化を決断し,後世のビザンツ人から「父祖の言葉を捨てた者」などと非難されることになるが,筆者としては批判を覚悟で現実的な決断が出来る人物であったと評価したい。
 ギリシア語の公用語化により,ローマ帝国の「ビザンツ帝国」への変容は概ね完成を見たことから,本稿ではヘラクレイオス帝以後の帝国を「ビザンツ帝国」と呼ぶことにする。ただし,首都コンスタンティノポリスのギリシア語読みは,「コンスタンティヌーポリス」「コンスタンティヌーポリ」など諸説あり語呂も悪いので,本稿では便宜上,コンスタンティノポリスの名称を引き続き使用する。実際のビザンツ人は,首都を旧名の「ビザンティオン」と呼ぶこともあり,聖母マリアに守護された町ということで「テオトクーポリス」と呼ぶこともあり,更には単に「ポリ」(都市)と呼ぶだけで首都を指す用語として通用していた例もあり,呼び方は様々だったようである。

(2)治世当初の苦難

 先の簒奪帝フォカスについては,処刑される直前にヘラクレイオスから「この8年間の帝国の舵取りをどう弁明するつもりか」と問われ,「貴殿ならさぞかし立派に統治されるでしょうな」と言い返したというエピソードが伝えられている。この会話自体はおそらく後世の歴史家による創作であるが,この会話が示唆するとおり,ヘラクレイオスの治世は余程の手腕の持ち主でなければ到底打開できないと思われるほどの,大変な苦難から始まった。
 アヴァール族やスラヴ族の侵入は相変わらず続いている上に,ホスロー2世による侵攻は,皇帝がヘラクレイオスに代わっても止むことはなく, 614年にはエルサレムが陥落し,聖なる十字架(イエス・キリストの磔刑に使用されたとする十字架)もペルシアに奪われた。
 五賢帝の一人ハドリアヌスによってエルサレムから追放され,その後もローマ帝国から迫害を受け続けてきたユダヤ人たちは,この時期にエルサレムへの帰還を果たしている。さらに,619年にはアレクサンドリアが陥落し,最も豊かな属州であったエジプトもペルシアの手に落ちた。ペルシア軍は,首都コンスタンティノポリスの対岸にまで迫った。
 ヘラクレイオスによる治世のうち最初の10年間は,押し寄せるペルシア軍に対してほとんど防戦一方であり,目立った活躍は見られない。ビザンツ帝国の穀倉であるエジプトを失っても,これを理由に首都における穀物の配給を停止しただけで,しばらくは奪回の動きさえも見せていない。
 後世の歴史家はこの10年間を「謎の無気力」と呼び,その原因について「ヘラクレイオスは612年に妻のエウドキアを亡くしたので,落ち込んでいたではないか」などとあれこれ推測していたが,近年の研究では,この時期のヘラクレイオスも単に無気力だったのではなく,二正面作戦を避けるために進めていたペルシア及びアヴァール族との和平交渉と,戦うために必要な軍隊の編成と訓練に時間を費やしていたということが分かっている。
 このうちホスロー2世は,この機会にビザンツ帝国を完全に滅ぼすつもりであり勝利を確信していたので,ペルシアとの和睦は絶望的だった。そこで,ヘラクレイオスはアヴァール族との和平を,莫大な額の貢納金とアヴァール族による征服地の割譲という屈辱的な条件付きで,ようやく618年にまとめた。もっとも,当時のヘラクレイオスが相当自信を失っていたことも事実であり,アヴァール族に対する和平の申し入れも皇帝ではなく首都の元老院名義で行われているし,同年頃には首都を故郷のカルタゴに移す計画も一時行われている。
 そんな時期,ヘラクレイオスは2番目の妃マルティナと結婚している。マルティナはヘラクレイオスの姪にあたる女性であり,父を亡くし母が再婚した後は,皇帝となった伯父ヘラクレイオスの宮殿で育てられていたようであるが,やがてこの妻を亡くした伯父と父を亡くした姪との間には禁断の愛が芽生えてしまう。
 現代日本と同様,ローマ法でも三親等以内の血族との結婚は禁止されていたが,ヘラクレイオスは全ての責任は自分が取ると言ってマルティナとの結婚を決意し,渋る総主教セルギオスを説き伏せて,とうとうマルティナと結婚式を挙げた。結婚の時期については,『テオファネス年代記』によれば613~614年頃ということになるが,ニケフォロスの『簡約歴史』の記述を根拠に,620年代の初め頃とする説もある。
 総主教セルギオスが,なぜこのような禁断の結婚を認めたのかは分からない。単に皇帝には逆らえなかったのかも知れないし,帝国が危急存亡の秋にある中,皇帝と教会が対立するには避けるべきという政治的判断があったのかも知れない。
 いずれにせよ総主教は結婚を認めたが,忌むべき近親結婚に市民たちは非難の声を挙げた。マルティナはヘラクレイオスの間に少なくとも10人の子供を産んだが,その大半は障害児や早世児で,626年になってようやく障害のない男児(父と同じヘラクレイオスと名付けられたが,父と区別するため一般的に「ヘラクロナス」の名で呼ばれる)が生まれたという。おそらく障害児が生まれる度に,ヘラクレイオスは忌むべき近親結婚の呪いだと非難を浴び続けたことだろう。
 市民たちにもマルティナとの結婚を認めてもらうためにも,ヘラクレイオスには大規模な軍事的勝利を挙げ,帝国の危機を克服する必要があった。ヘラクレイオスが徴募した新兵の訓練は,壮大な模擬戦闘まで行う本格的なものとなり,帝国再建に向けた戦いの準備は入念に整えられた。

(3)ササン朝ペルシアへの遠征

 ヘラクレイオスは,ササン朝ペルシアとの戦いにあたり,わが軍は真の神のために不信心者(ゾロアスター教徒)と戦っている,エルサレムのキリスト教徒に対してなされた残虐行為を罰することは宗教的な義務であると宣言し,敬虔な義務を引き受ける者は,天国において永遠の命に与るだろうと約束した。
 ヘラクレイオスは,このような宗教的演説で兵士たちの戦意をかき立て,また教会当局の全面的な同意に基づくものではあるが,戦費調達のために教会から「借り入れ」の名目で資金を得て,聖体拝領に使う金銀の器や教会の燭台が集められ,溶かされて貨幣にされた。このような行為のため,ヘラクレイオスは最初の十字軍士と呼ばれることもあるが,ビザンツ人が異教徒に対して戦争を行う方法と,後に西欧で発展することになる十字軍理念との間には大きな違いがあった。
 西欧の十字軍は,ローマ教皇が提唱し聖職者が信徒に対し参加を呼び掛けたが,ビザンツの聖職者はそのようなことをほとんど行わず,戦場での努力に神が霊的な報酬を与えると約束するのは皇帝であった。また,ビザンツ人は戦闘で死ぬこと自体を栄光とは考えておらず,正面戦争ではなく戦略や策略によって敵を破ることはむしろ推奨された。
 さらに,ビザンツの聖戦観念ではイコンが重要な役割を果たしており,ヘラクレイオスは戦場でもイコンを用いていた。フォカス打倒のためカルタゴを出港したときにも,ヘラクレイオスは船の舳先に処女マリアのイコンを掲げており,今回ササン朝ペルシアとの決戦に臨む際にも,人の手で作られたものではない奇蹟の像と伝えられるキリストのイコン(574年に首都へ運ばれてきたカムリアナの聖像と推定される)を戦場に伴っていた。イコンの利用という点では教会も歩調を合わせており,留守を任された総主教セルギオスも,首都に危機が迫ってくると,腕に幼子キリストを抱えた聖母マリアの像を,首都の陸城壁にあるすべての門に描くよう命じている。

ペルシア本国への急襲作戦

 準備が完了したところで,ヘラクレイオスは624年の春に東方へ向けて出発した。迎え撃つ側のホスロー2世は,ヘラクレイオスが奪われたシリアの奪還に来るだろうと予想しシリアで待ち構えていたが,ヘラクレイオスはその逆を突いた。奪われたシリアの奪還に動くのではなく,両国間の係争地であったアルメニアを経て,北からペルシアの本拠地であるメソポタミア地方へ侵入し,ペルシアの都市を次々と占領,破壊していったのである。
 ペルシアでは,ヘラクレイオス到来の報せに衝撃が広がり,ホスローは本国を守るため必死になって軍を呼び戻した。ペルシア軍が戻るまでの間,ヘラクレイオスは思うがままペルシアの都市を次々と占領,破壊していった。ビザンツ軍がゾロアスター教の聖なる町シズに近づいたとき,ホスローは大軍とともにその付近にいたものの,彼はビザンツ軍に怖れをなしたのか,戦わずに撤退した。ビザンツ軍は抵抗を受けずに町に入り,聖なる炎が護持されていた神殿を破壊し,これをエルサレムにおける教会破壊への報復だとして溜飲を下げたようである。
 ペルシア本国への急襲作戦が非常な成功を収めたので,ヘラクレイオスは戦闘に適さない冬が近づいても小アジアへ戻ることはせず,軍隊とともにアルメニアで越冬した。翌年の春にビザンツ軍が攻撃を再開すると,この頃にはさすがにペルシア軍も準備を整えており,ヘラクレイオスを迎え撃つために二個大隊を派遣してきた。ヘラクレイオスは,追撃してくる敵軍を,起伏の激しい荒涼地で長々と引き回した後,ここぞという場所で戦いを挑み,ペルシアの二個軍団を各個撃破した。その際,司令官が慌てて逃亡する際に投げ棄てた金の楯と鎧を手に入れた。こうして,ビザンツ軍は破壊作戦を再開できるようになった。
 この敗戦に絶望したホスローとペルシア軍司令官は,もはやヘラクレイオス率いるビザンツ軍と正面から戦っても勝算は薄いため,ヘラクレイオスの作戦を真似て,直接コンスタンティノポリスを攻撃することで,彼が首都を守るため撤退せざるを得なくなるよう仕向けることにした。アヴァール人に使節が送られ,ビザンツとの和平条約を破棄し,ペルシア軍と相呼応してコンスタンティノポリスを攻撃するよう促した。可汗の説得は容易であった。弱体化したビザンツ帝国はアヴァール人によって格好の標的であり,既に何度も条約を破っていたので,自分たちにとって有利と見れば,再度ビザンツとの条約を破ることに何ら躊躇する理由はなかったのである。
 こうして626年の春,ホスローはシャフルバラズ将軍率いる大軍を小アジアへ派遣し,アヴァール人及びその傘下にあるスラヴ人も作戦を開始した。同年6月初めにはペルシア軍がボスフォラス海峡に達し,ほどなく海峡の対岸でも,アヴァールの先遣隊が陸の城壁に到着した。首都ではこれに先立つ5月,食料品価格の高騰に抗議して,街路や聖ソフィア教会で繰り返し暴動や示威行為が展開されており,首都に迫る危険をヘラクレイオスに報せるため,緊急の伝令が派遣された。
しかし,ヘラクレイオスは首都の守りが鉄壁だと信頼していたので,伝令の報せを聞いてもペルシア攻撃を止めることはなく,ボノス将軍率いる3分の1の兵を首都の救援に送っただけで,ヘラクレイオスは残りの部隊とともに東方に残った。そしてヘラクレイオスは,現地のトルコ系民族ハザール人と同盟し,二方面からペルシア侵入を進めた。

コンスタンティノポリス包囲戦

 一方,コンスタンティノポリスを包囲したペルシア,アヴァール,スラヴの連合軍は,7月末に12台の攻城櫓と多数の投石器を陸の城壁に向けて並べ,2日間にわたり激しい戦いを繰り広げた。アヴァール軍の戦果はほとんど無く,投石器から放たれる石は,陸の城壁という巨大な石灰岩の塊には何の効果も無かった。兵士の数では防衛側を圧倒的に上回っていたものの,攻城櫓を使った歩兵攻撃を成功させるのは,城壁の配置からみて極めて困難であった。
 テオドシウス2世の時代に強化された城壁は三重の構造を持ち,接近も突破もできないよう巧みに配置されていた。主要な内城壁は12メートルほどの高さがあり,96の塔が点在し,塔の上からビザンツ軍は投石器や石弓を使ってアヴァール軍に反撃した。内城壁の前に,さらに92の塔を備えた少し低い外城壁があり,やはり塔からアヴァール人に矢や石礫を浴びせることが出来た。外城壁の外側には,煉瓦張りで幅の広い堀があり,堀の幅は15~20メートル,深さは5~7メートルもあり,内側には煉瓦と木で作られた防御柵があった。攻撃側はまず,内外の城壁からの激しい攻撃に晒されつつ,堀と防御柵を越えなければならなかった。仮にそこを突破して何とか外城壁に取り付いたとしても,今度は外城壁と内城壁の間にある5メートル幅の通路に閉じ込められる破目になる。
 アヴァール人は堀の一部を埋めて,数台の攻城櫓を少し低い外城壁に近づけることに何とか成功したが,防衛に加わるため上陸していた水夫たちが,塔の胸壁に帆柱をしっかり固定させて,その先に可燃性の物質を詰めた小舟を結び付けた。彼らは小舟に火を付け,帆柱を回転させてアヴァール人の攻城櫓にぶつけたので,櫓は燃え上がった。
 作戦に失敗したアヴァールの可汗は,ビザンツ側に使節を送り,生命と財産が惜しければ町を明け渡せ,さもなくばカルケドンで待機しているペルシア軍を差し向けると恫喝したが,ビザンツ側が全面降伏の要求を受諾することはあり得なかったため,交渉は決裂し包囲は続いた。
 こうしてアヴァールの可汗は,海峡の向こう側で待機しているペルシア軍を戦列に加えるという脅しを実行に移すことになったが,ペルシア兵を渡航させる艦隊はどちらの側にも無かった。ただ,アヴァール人は木の幹を刳りぬいて作った粗末な丸太舟を多数持参しており,この丸太舟で2~3人をアジア側から渡すことは可能なように思われた。そこで,8月のある朝早く,アヴァール人の丸太舟がカルケドンへ渡るべく海に乗り出したが,金角湾から出撃してきた70隻のビザンツ艦隊によって,丸太舟はいとも簡単に沈められてしまった。小舟を操っていたスラヴ人の船乗りは矢で射られるか,海に飛び込んで溺れた。何とか岸に泳ぎ着いた者も,大失敗に激怒した可汗の命令で殺された。
 丸太舟作戦失敗の矢面に立たされて,こんな遠征はもう御免だと最初に決心したのはスラヴ人たちであり,彼らはアヴァール人の君主に対する無言の反乱として,勝手に撤退を開始した。これにより兵力が減少したので,アヴァールの可汗もその後を追うしかなく,せめてもの腹いせに,アヴァールの騎兵隊が帰り道の教会をいくつか略奪し焼き払った。こうなっては,残っているペルシア人だけではコンスタンティノポリスを攻撃すること自体不可能なので,彼らも東へと撤退を開始し,8月半ばには包囲が解かれた。
 ビザンツ側でこの防衛戦を指揮していたのはボノス将軍であり,総主教セルギオスは全市民を組織し,城壁の周りでキリストのイコンを持って,アカティストスの賛美歌を歌いながら行進させたという。これは神の助けを求めて「神の母」マリアに懇請する祈りであった。非キリスト教徒である筆者から見ると,市民を防衛に協力させなくてよいのかという疑問も沸くが,少なくとも敵の攻撃に狼狽する市民たちを落ち着かせる意味はあったと考えてよかろう。ただ,こうした神頼みが結果的に功を奏したことで,626年の攻囲戦は,コンスタンティノポリスが「神の母」マリアに守護されているという迷信をビザンツ人に植え付ける最初の大きな契機となった。

ニネヴェの戦いと対ペルシア戦争の勝利

 大きな賭けに勝ったヘラクレイオスは,627年9月になると,またもやホスローの不意を突いて,再び軍をペルシアへと進めた。夏の遠征期間は終わっていたので,ホスローはもう大丈夫だと思い込んでいたのである。そのためヘラクレイオスは敵に出会うことなく進撃を続け,旧都ニネヴェの跡地まで進んだところで,はじめてペルシアの大軍と相まみえることになった。627年12月12日の朝,両軍は広大な平原で会戦に突入し,戦いは丸一日続いた。ヘラクレイオスも戦いの真っ只中にあり,槍で唇を突かれる場面もあった。血みどろの混戦となったが,夕刻にはペルシア軍の司令官が戦死し,ビザンツ軍が28本の軍旗を奪って戦場を抑えた(ニネヴェの戦い)。
 ペルシア軍が敗走する中,ヘラクレイオスは近くのダスタゲルトへ進撃し,そこにあったホスローの宮殿を略奪し焼き払うことを軍団に許した。ビザンツ軍が来る9日前までその宮殿にいたホスローは夜陰に紛れて逃亡し,遠く離れた農家に逃げ込んだ。数日後,追撃するビザンツ軍がその地に到着した。ホスローはすでに逃げ去っていたが,ヘラクレイオスは農家の狭い扉を見てびっくりしたと伝えられている。ホスローは胴回りの太い男と聞いていたので,どうして中に入れたのかと驚いたのである。
 ニネヴェの勝利は必ずしも決定的なものではなく,ペルシア軍は蹴散らされたもののまだ健在であり,ホスローは3千の兵で軍を増強していた。しかしその後の戦闘でも,王であるホスローが一目散に逃げ出すなど,ホスローの戦争への対処が拙劣であることが明らかになってくると,ペルシアの宮廷内に反ホスロー派が抬頭してきた。ホスローの長男シロイを戴いた陰謀者の集団が628年2月23日にホスローを捕らえて間もなく殺害し,シロイはカワード2世として王位に就くと直ちに,ヘラクレイオスと連絡を取り講和を求めた。
 講和の条件は,ペルシア側が602年以降に占領したすべての地域を返還するとともに,ソグディアナをビザンツに割譲し,長期にわたる戦争で捕虜になった人々をすべて釈放し,エルサレムで略奪した真の十字架などの聖遺物も引き渡すというものであった。ヘラクレイオスはこれらの条件を受け容れ,ペルシアから撤退した。翌年,ペルシア軍も約束どおりシリア・パレスティナ・エジプトから撤退した。
 なお,ビザンツとの講和が成立したササン朝ペルシアでは,貴族たちが独立傾向を強め国力がさらに低下したほか,ビザンツとの戦争でダムと運河が荒れ果て,イラン西部で起きた猛烈な疫病の影響もあって人口の半分が失われ,カワード2世も死去し,後を継いだ彼の息子アルダシール3世はわずか7歳だった。
 かつてコンスタンティノポリスを攻撃したササン朝ペルシアの将軍シャフルバラズがクテシフォンの宮廷と不仲になっているのを知っていたヘラクレイオスは,シャフルバラズに手紙を送って王位簒奪を唆し,シャフルバラズは630年にアルダシール3世を殺して自らペルシアの王位に就いた。シャフルバラズは即位後わずか40日で暗殺され,ペルシアは王が次々と入れ替わる内戦状態となったが,少なくともビザンツ帝国にとっての脅威となることは当面なさそうであった。ヘラクレイオスによる遠征の目的は,十分すぎるほどに達成されたのである。
 コンスタンティノポリスに戻ってきたヘラクレイオスは,お祭り騒ぎで迎えられた。彼はボスフォラス海峡のアジア側にあるヒエレイアで,息子のコンスタンティノスと総主教セルギオスを先頭に,オリーブの枝と蝋燭を手にした市民の大群衆による歓迎を受けた。海峡を渡って首都入りしたヘラクレイオスは,競馬場で戦利品である4頭の白象を先頭にした凱旋行列を披露し,さらに感動的な戦勝式典が630年の春に行われた。ペルシアから取り戻した真の十字架は,ヘラクレイオス自身によって聖なる町エルサレムに返還された。

新たな皇帝称号「バシレウス」

 ヘラクレイオスはこの戦勝を記念して,ササン朝の王が称していた『諸王の王』(バシレウス)という称号を新たな皇帝の称号として採用し,自ら「キリスト信者のバシレウス」と名乗った。これに伴い,以後の皇帝も「バシレウス」という称号を用いるようになる。
 なお,「バシレウス」は古代ギリシアの時代から「王」を意味する用語として使われており,ローマ帝国ないしビザンツ帝国の皇帝も,その実態からみれば「王」と呼ばれても何ら不自然ではない存在であった。しかし,ローマ帝国の帝政は初代皇帝アウグストゥスの「共和制への回帰」宣言によって発足したという特殊な経緯があり,日本語では単に「皇帝」と訳される称号も,軍の最高司令官である「インペラトール」(ギリシア語ではアウトクラトール),尊厳なる者を意味する「アウグストゥス」(ギリシア語ではセバストス)などを含む数多くの称号によって構成されており,例えばユスティニアヌス1世の正式な名乗りは,「インペラトール・カエサル・フラヴィウス・ユスティニアヌス・アウグストゥス」という非常に長いものであった。
 共和制の建前など遠い過去の話となったヘラクレイオスの時代において,こうした皇帝の地位を示す長々とした称号が「複雑で分かりにくい」と考えられていたことは想像に難くない。ヘラクレイオスは,ササン朝ペルシアに対する歴史的な戦勝を契機に,皇帝としての名誉を損なわない形で,その称号を単純明快な「バシレウス」(王)に切り替えた,と見ることもできる。こうした皇帝称号の変容も,ローマ帝国とビザンツ帝国の違いとして挙げることが出来よう。
 なお,カイサル(カエサルのギリシア語読み)の称号は副帝ないし皇位継承者を示すものとしてその後も使用されたが,セバストスの称号は,後に臣下に与えられる爵位の一種となった。かつては皇帝の称号として使われていたものにもかかわらず,総じてカイサルよりは低い爵位とされている。

(4)単性論問題との苦闘

 ササン朝ペルシアを相手に偉大な戦勝を遂げたヘラクレイオスは,ユダヤ人の中にペルシアに協力した者がいたため,エルサレムからユダヤ人を追放し,町から3マイル以内に住むことを禁止した。ペルシアの占領下で優遇されていたネストリウス派のキリスト教徒は,市内の教会から立ち退かされ,彼らの教会はカトリック教徒に与えられた。
 ヘラクレイオスの措置は確かに報復であったが,利敵行為を働いた者に対する措置としては寛大な方であった。いや,寛大にせざるを得なかったとも言える。勝者となったヘラクレイオスにとって喫緊の課題は,簡単にペルシア軍に降伏してしまった東方属州との融和であり,これにあたって最大の障害となったのは,マルキアヌス帝の時代から続いているキリスト教の教理論争であった。
 既に何度が述べたとおり,キリスト教におけるイエス・キリストの神性と人性について,キリストが完全なる神であると同時に完全なる人間であると説明するのがカトリックの教義であるが,これに対し単性論者は,キリストの神性と人性は一つの位格の中で混ざり合い,結果としてキリストは神になったと主張した。
 これも前述したカルケドン公会議により,ローマ帝国(ビザンツ帝国)の公式見解としてはカトリックの正統性が再確認されたのであるが,この種の神学論争においては古くから先進地域であったシリア,パレスティナ,エジプトといった地方では,むしろ単性論派が優勢となっており,この問題はユスティニアヌス1世の不寛容な政策により更に悪化し,帝国内に大きな亀裂を発生させていた。
 ビザンツ帝国の完全征服を目指したホスロー2世は,こうした宗教的内情を最大限に利用していた。すなわち,ビザンツ帝国が異端視していた単性論者には寛容な姿勢を示し,その結果単性論者が多数を占めていた都市は,大した抵抗もせずペルシアの軍門に降った。異教徒として迫害されていたユダヤ人もペルシアに味方し,彼らはペルシアの支配下で聖都エルサレムへの復帰を果たした。その一方で,エルサレムなどカトリックが多数派を占めていた都市はペルシアの攻撃に対し頑強に抵抗し,陥落時には多くのカトリック教徒が虐殺された。
 ササン朝ペルシアからシリアやエジプトを奪還したヘラクレイオスとしては,少なくともカトリックと単性論の融和はもはや先送りできない喫緊の課題であり,この問題を解決できなければ,せっかく奪還した東方属州も,何かのきっかけがあれば再び帝国から離反してしまいかねなかった。
 ヘラクレイオスは両派の妥協を模索し,633年にはアレクサンドリアの教会会議で,単働論という新しい教義が正統教義と宣言された。単働論は,キリストの神と人間というふたつの性質は,ひとつの働き(エネルゲイア)を持つという考え方である。もっとも,単働論は単性論派には受け入れる用意がありそうだったが,そもそも単性論を異端と信じて疑わないローマやコンスタンティノポリスの聖職者たちは妥協の必要性を全く認めておらず,単働論という新しい妥協的教義の受け入れにも強く反対の声を上げたため,ヘラクレイオスも単働論の採用は断念せざるを得なかった。
 638年,今度は単意論という妥協的教義が導入された。キリストは神と人間というふたつの性質を持つが,意志はひとつという考え方である。しかし,単意論は単働論よりさらに支持者が少なく,カトリック側のみならず単性論側でもあまり受け入れられなかった。ヘラクレイオスが強引に押し通そうとして武力に訴えた結果,単性論の聖職者たちは再び地下に潜ることを余儀なくされた。

(5)イスラム勢力の台頭

 ヘラクレイオスがそのような教義問題に苦闘している間に,ビザンツ帝国は新たな侵入者の波に飲み込まれようとしていた。預言者ムハンマドによって創始されたイスラム教を奉じるアラブ人たちである。
 アラビア半島に居住していたアラブ人は,古くから戦争で生計を立てている好戦的な民族であったが,部族間で果てしない抗争を続けていたために,隣接するビザンツ帝国やササン朝ペルシアにとって,これまで大きな軍事的脅威とはみなされておらず,ビザンツ帝国の傭兵となって戦うアラブ人も相当数存在した。
 ところが,卓越した政治的才能の持ち主であったムハンマドは,メディナの攻防戦で勝利したことをきっかけに頭角を現し,アラブの各部族と和解し自らの説く新たな宗教を受け容れさせることに成功し,アラビア半島にはムハンマド率いるイスラム教団により,かつてない政治的・宗教的統一が生まれていた。
 ムハンマドは633年に死去するが,イスラム教団はアブー=バクルという人物をカリフ,つまりムハンマドの後継者に選出し,ムハンマド死後の混乱期を乗り切り,政治的・宗教的統一を維持することに成功した。アブー=バクルのカリフ在位期間はわずか2年であり,その治世はアラビア半島の再統一に費やされたが,その後を継いだウマルの下で好戦的なアラブ人をまとめ上げたイスラム教団が次なる目標としたのは大規模な対外遠征であり,アラビア半島に隣接する二つの大国,すなわちビザンツ帝国とササン朝ペルシアがその標的とされた。
 ヘラクレイオスとその側近たちは,この新たな軍事的脅威の出現に,しばらくの間気付くことができなかった。ビザンツ帝国の当局はペルシア相手の戦勝で安心していたのか,これまで砂漠の周辺を防衛し,いわば早期警戒システムの役割を果たしていたアラブ系諸部族への貢納を止めてしまっており,これも新たな敵の察知を遅らせる一因となった。
 アラブ人による最初の侵攻は633年末に始まり,アラブ軍を迎撃したセルギオスという現地の司令官が戦死した。ヘラクレイオスは事態に対処するため弟のテオドロスを派遣したが,テオドロスもカビタの戦いでアラブ人に惨敗したため,ヴァハンという人物が司令官に任命された。司令官の交代で風向きが変わり,アラブ軍は大きな損害を出して撤退した。ヘラクレイオスはこれによって脅威は去ったと判断したのか,ほどなくシリアのエデッサを去ってコンスタンティノポリスに戻った。
 ヘラクレイオスの判断は時期尚早であった。前述のとおり,有能な軍事司令官である第2代カリフ・ウマルのもとで再統一を果たしたイスラム教団は,総力を挙げて対外遠征に取り掛かったからである。かくして636年,ビザンツ帝国はこれまで見たこともないようなアラブ人の大軍が,国境を越えて来る事態に直面させられることになった。ヴァハンは,これは単なる襲撃ではなく侵略であると直感し,緊急の援軍を要請した。皇帝の弟テオドロス率いる帝国軍が派遣されてヴァハンの軍と合流し,実質的にはヴァハンの率いるビザンツ軍と,アラブ軍はヤムルーク川の付近で対峙した。
 歴史上「ヤムルークの戦い」として知られるこの戦争の勝敗を分けたのは,アラブ軍の司令官による巧みな作戦であった。アラブ軍の指揮を執ったのは,「アッラーの剣」の異名で知られる名将,ハーリド・イブン・アル=ワリードという人物である。騎兵戦術を得意とするハーリドは,ビザンツ軍の4日間にわたる猛攻撃を何とか持ちこたえると,積極性を失ったビザンツ軍に対し反撃に出た。ハーリドは自軍の騎兵を結集してビザンツ軍の騎兵を戦場から追い払い,ビザンツ軍にとっては唯一の退路となる橋も占拠して,騎兵の支援を失ったビザンツ軍を包囲殲滅した。テオドロスはこの戦いで戦死し,実質的な総大将であったヴァハンも敗走中にアラブ軍の追撃を受けて討ち取られた。ビザンツ軍大敗の報を聞いたダマスカスは,アラブ軍を前に戦うことなく門を開いた。
 ヘラクレイオス自身はヤムルークの戦いに参戦せずアンティオキアに滞在していたが,長年の戦いで疲弊したビザンツ帝国には,勢いづいたアラブ軍に再度の決戦を挑む力は残されていなかった。ササン朝ペルシアに対する輝かしい戦勝でようやく認められたと思っていたマルティナとの結婚も,アラブ人に対する敗北は皇帝の忌まわしき近親結婚に対する神の怒りだという声が挙がったことで問題が蒸し返された。
 ヘラクレイオスは「シリアよさらば,何と素晴らしい甘美な土地であろう,敵にとっては」と嘆きの言葉を残し,ペルシアから奪還した真の十字架を携えて西へと立ち去って行ったという。この言葉は後世の創作とする説もあり,言葉自体にも若干の異説が存在するが,当時のヘラクレイオスが置かれた状況を考えれば,実に意味深な内容である。
 シリアをはじめとする東方属州は,当時のビザンツ帝国の3分の2を占める軍事的にも経済的にも重要な土地であったが,宗教的には異端の単性論者が多数を占める難治の地であり,帝国に対する属州民の忠誠も低く,前述のとおりササン朝ペルシアの前にあっさり降伏してしまった。ヘラクレイオスは何とか宗教問題を解決しようと尽力したが,その問題が一向に解決しないまま,今度はアラブ人の侵入を招いてしまった。
 ヘラクレイオスは,既にシリアの中心都市ダマスカスが戦わずして開城してしまったように,忠誠心の低いシリア,パレスティナ,エジプトの属州が,アラブ人の前にあっさり降伏してしまう未来を予測できたに違いない。これらの属州は自分にとっては難治の地であったが,人口も多く経済力の高いこれらの属州は,アラブ人にとっては素晴らしい甘美な土地になり,もはや再奪還は相当に難しいだろう・・・。ヘラクレイオスの言葉には,彼の深い徒労感と絶望感が窺われる。
 即位当初と異なり,このときのヘラクレイオスは本当の無気力であった。敗戦の衝撃からか,ヘラクレイオスは極度の恐水症になってしまい,首都へ帰還しようにもボスフォラス海峡を渡ることができなかった。何とか皇帝を都に迎え入れようとした側近たちは,大艦隊を集めて船橋を造らせ,植物の葉で海が見えないように工夫した。ヘラクレイオスは馬で船橋を渡り,何とかコンスタンティノポリスに帰還した。
 ヘラクレイオスが都への帰還に苦労している間に,シリアとエジプトはアラブ軍によってたちまち征服された。皇帝から援軍が送られないことに絶望した諸都市は,キリスト教徒の身柄と教会の保全を条件に,アラブ軍に対し次々と無血開城していった。胃袋が腫れあがり,膀胱に鋭い痛みを引き起こすというある種の水腫に罹っていたヘラクレイオスには,この事態を巻き返す気力は残っていなかった。
 641年,ヘラクレイオスは66歳で死去した。彼が亡くなった頃には,シリアのほぼ全域がイスラムの手に落ち,翌642年には帝国第二の都市アレクサンドリアもイスラムの手に落ちた。単性論者を異端視していた首都の聖職者たちは,単性論者の巣窟であるアレクサンドリアがイスラムの手に落ちたとの報を聞いて,嘆くどころか歓声を上げたという。

(6)イスラムによる征服地の統治

 イスラム教団の手に落ちたシリアとエジプトの住民たちも,最初のうちはイスラム教を奉じるアラブ人という未知の征服者に怯えていたが,間もなく彼らを新たな支配者として受け容れるようになった。ササン朝ペルシアは,ビザンツ帝国内の宗教的内紛を利用し,帝国から異端視されていた単性論者や迫害されていたユダヤ人に寛容な姿勢を見せ彼らを味方に付けたが,イスラムの統治手法はササン朝ペルシア以上に進んでいた。
 イスラム教徒(ムスリム)は,ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」と呼び,これらの教徒には寛容な姿勢を見せた。ユダヤ教徒でもカトリックでも単性論者でも,ジズヤ(不信仰税)と呼ばれる少額の税さえ納めれば従来の信仰を維持することが認められ,税負担もビザンツ帝国時代に比べれば格段に安かった。しかも,アラブ人は当初,被征服者であるビザンツ人の土地を奪うことも無かった。
 ビザンツの政府当局から迫害されていた単性論者たちは,自分たちの信仰が認められることを確認すると,喜んでイスラムの支配を受け容れた。ユダヤ人も概ねイスラムの支配を受け容れた。カトリック教徒はイスラムの支配に抵抗したかったであろうが,彼らは東方属州では少数派であったため,イスラムの支配を受け容れるしかなかった。
 帝国の再建に尽くしたヘラクレイオスの戦勝と努力の成果は,イスラム勢力の台頭によって,まさしく彼が生きている間に水泡と帰した。ヘラクレイオスほど偉大な軍事的成功を挙げながら,しかも一代のうちにその全てを水泡に帰してしまった歴史上の人物として彼に比肩する者は,4世紀末の中国において天下統一を目前にしながら,淝水の戦いで大敗し国自体を事実上滅亡させてしまった前秦の苻堅くらいしか思い浮かばない。
 帝国の危機を一旦は克服し様々な改革を成し遂げたヘラクレイオスが有能な皇帝であったことは疑いないが,イスラムに敗れ多くの領土を失ったことで,英雄ないし名君として揺るぎない名声を獲得するには至らなかった。彼の治世下における大規模な領土失陥は,主にユスティニアヌス1世時代から積み重なった国家財政の破綻とそれを補うための重税,異教や異端に対する迫害的政策が主な原因であり,必ずしもヘラクレイオス自身の責任であるとは言えないが,後世のビザンツ人によるヘラクレイオスの評価は,「父祖の言葉を捨てた者」「近親相姦皇帝」など辛辣なものが多い。

<幕間4>イスラム教の起源

 ヘラクレイオス1世の時代になって突如歴史の表舞台に現れたような感のあるイスラム教とアラブ人であるが,実のところアラブ人勃興の種は6世紀頃から撒かれていた。
 オリエントの大国であるローマ帝国とササン朝ペルシアは,古くから続いていた東西貿易の中継地でもあり,両国の関係が概ね平和であった頃は,多くの商人たちが両国の間を行き来していた。ところが,6世紀に入りローマ帝国とササン朝ペルシアが慢性的な戦争状態に入ると,商人たちは両国の間を行き来できなくなり,両国の戦場を回避する迂回ルートが必要となった。紅海を経由する迂回ルートも試みられたが,この地域を支配する強力な政府が存在しないため海賊が跋扈しており,紅海ルートも危険であった。
 このような事情に目を付けたのがアラブ人である。アラビア半島の砂漠地帯に居住しこの地を行き来するのに慣れていたアラブ人は,東西貿易の仲介者としての役割を果たすようになり巨万の富を築いたが,一方でこうした新しいビジネスで成功した者とこれにありつけなかった者との間では貧富の差が広がり,深刻な社会問題となっていた。
 そのような情勢下で現れたのが,預言者ムハンマドである。彼は大富豪の未亡人と結婚し不自由のない生活を送れるようになったものの,こうした貧富の差が社会問題となっている現実に悩み,瞑想生活を続けるようになった。そして,ある日神の啓示を受けたムハンマドが創始したのが,今日でも伝わっているイスラム教である。
 ムハンマドは,当時アラブ人の間に普及していた偶像崇拝の異教を否定し,アラーの他に神はいないと主張したが,一方で彼は現実的な政治家及び軍人でもあり,富裕層に喜捨(ザカート)と呼ばれる慈善事業を勧めたほか,利息を取る取引を禁止するなどして貧富の差の解消に努めたほか,主にアブラハムの預言を起源とする公正な法の在り方を唱え,相争っていたアラブ諸部族の調停と融和に努めた。
 ムハンマドを祖とするイスラム共同体(ウンマ)として,歴史上初めて政治的統一を達成したアラブ人は,ムハンマドが遺した神の啓示(ムハンマドは,神がビザンツ帝国とササン朝ペルシアを我々にお与えになったという趣旨の預言を残していたとされる)に従って,当時度重なる戦争で弱体化が進んでいたビザンツ帝国とササン朝ペルシアに侵攻し,急速に勢力を拡大させることになった。
 なお,イスラム教の有名な特徴として「妻を4人まで持って良い」という教えがあるが,もともとアラブ人の社会は一夫多妻制であり,貧富の差の拡大により富める者はとんでもない数の妻を抱えるようになっていた。ムハンマドはこうした傾向に歯止めをかけるため,妻は多くても4人まで,それ以外は右手の女(奴隷女)で我慢しておきなさい,複数の妻を持った者は妻を平等に愛しなさいという教えを説いたのである。
 もっとも,ムハンマド自身はこうした教えを単なる努力目標と考えていたようで,彼自身は生涯20人前後もの妻を娶り,数多くの妻を平等に愛したわけでもなく,彼が最も愛した妻アイーシャは,わずか9歳でムハンマドの妻とされ彼に抱かれた。ムハンマドは概ね公正な統治者であったが,晩年における彼の無節操な女性漁りはさすがに欠点とするしかなく,後のイスラム教徒は,ムハンマドのこうした行為の正当性を説明するのに苦労させられることになる。
 ムハンマドの死後,その教えを記したイスラム教の聖典『クルアーン』(日本でよく知られる『コーラン』は英語読み)が編纂されたが,そのクルアーンには,「天国に行けばつぶらな瞳の処女とヤりたい放題」とする趣旨のことが繰り返し書かれており,イスラム教の説く天国観はあまりに淫らで非道徳的だと非難されることもあるが,もともとアラブ人は好色な民族であり,その好色ぶりは現代でも特に変わっていない。好色なアラブ人の男たちにとって,「天国」とは自分の旺盛な色欲を存分に満たしてくれるところでなければならず,そうでない「天国」にアラブ人は何の魅力も感じなかったのであろう。
 余談になるが,預言者ムハンマドとイスラム教を生んだアラビア半島の交易ルートは,その後イスラム教団がビザンツ帝国からシリア,パレスティナ,エジプトの属州を奪い,ササン朝ペルシアを滅亡させて大帝国を築くと不要になって廃れ,アラビア半島は人口も大幅に減少し,元の荒涼たる砂漠の地に戻った。

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